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永遠の系図に残る礼拝する民と、消えていく礼拝しない民(1歴代誌1:1-27)
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- pastor 2017-7-13 7:05
永遠の系図に残る礼拝する民と、消えていく礼拝しない民(1歴代誌1:1-27)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
バビロン捕囚の後、イスラエルの信仰を復興したエズラが編纂したと言われるこの歴代誌は、系図で始まる。
系図は、イスラエル人にとって、どこに自分のアイデンティティがあるのかの拠り所であり、また系図には、主に依り頼んで栄えた人も、主を軽んじて呪われた人も記されている。
系図はツリー構造であるが、そのツリー(木)の幹にあたる部分と、枝葉にあたる部分があり、歴代誌における「幹」すなわち主人公は、主を礼拝する民、主につながり続けた人達である。それが結果的にユダ族であり、レビ族である。
主を敬い、礼拝を重んじる人々は祝福を受けて栄え、主を軽んじ礼拝を疎かにする民は衰退し、最終的には滅びる。
それこそ、歴代誌が教える重要な教訓である。
おそらく記者であるエズラは、その事を伝えるために、全人類の祖先であるアダムの系図から記し始めた。
1:1 アダム、セツ、エノス、
1:2 ケナン、マハラレル、ヤレド、
1:3 エノク、メトセラ、ラメク、
1:4 ノア、セム、ハム、ヤペテ。
1節から4節のヤペテまでは、接続詞も一切なく、名前だけがそのまま一気に記されている。
この、1−4節は最も根幹的な「幹」にあたり、また5節以降23節までの系図には、名前と次の名前の間に接続詞ワウが挿入され、また、その時代に何が起きたかという説明も所々に挿入されている。
聖書注解を見ると、おそらく「幹」と「枝葉」を区別するためだろう、と言われているが、この、接続詞ワウ無しの名前だけの列挙は、ヘブライ語がわかるユダヤ人には、名前を繋げた事によって浮かび上がって来る意味を読む事が出来る。
ヘブライ語の人名には、それぞれ意味があるのだが、このアダムからノアに至る系図の名前をそのまま列挙して行くと、一つの意味が浮かび上がって来る。
アダムは「人、土」という意味であり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、マハラルエルは「祝福の神」という意味である。
エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。
以上、これらの名前の意味をつなげると、次のようになる。
「人は、約束された(授けられた)。脆さ、致命的な悲惨が。祝福の神は、降りて来て、教え、捧げた。彼が死ぬ時、何かが起きる。嘆き悲しみは、慰められ、新しい希望となる。」
この浮かび上がった意味は、まさしく、イエス・キリストによる人類の救いを表しているではないか。
実は、ユダヤ人が、歴代誌のこのワウ無しの系図を朗読するたびに、そのような意味をも覚えつつ、暗唱しているのだが、イエスキリストを受け入れるユダヤ人がいないのが本当に歯がゆい所である。
続いて系図は、ノアの子ヤペテの子孫になる。
1:5 ヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。
1:6 ゴメルの子らはアシケナズ、デパテ、トガルマ。
1:7 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシ、キッテム、ロダニム。
ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、以下の預言はまさに実現した。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(創世記9:27)
しかし旧約においては、ヤペテの子孫は全く登場しないため、歴代誌の系図では、わずか3節で終わりとなっている。
たとえ旧約の系図から外されてしまっても、イエスキリストを信じるなら、再び接ぎ木されるのだ。
続いて系図は、ノアの子ハムの子孫となる。
1:8 ハムの子らはクシ、エジプト、プテ、カナン。
1:9 クシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシバとデダン。
1:10 クシはニムロデを生んだ。ニムロデは初めて世の権力ある者となった。
1:11 エジプトはルデびと、アナムびと、レハブびと、ナフトびと、
1:12 パテロスびと、カスルびと、カフトルびとを生んだ。カフトルびとからペリシテびとが出た。
1:13 カナンは長子シドンとヘテを生んだ。
1:14 またエブスびと、アモリびと、ギルガシびと、
1:15 ヒビびと、アルキびと、セニびと、
1:16 アルワデびと、ゼマリびと、ハマテびとを生んだ。
このハムの子孫たちは、主を敬わない者達、礼拝を阻害する者達として聖書には記されている。
特にニムロデは、歴代誌において重要な悪役の人物である。このニムロデの子孫によって神の民は散らされ、神殿は破壊され、バビロン捕囚に遭い、そうして歴代誌は閉じられるからだ。
主を敬う民に対し、主を蔑む民もいる。カナン人やペリシテ人もそうである。
主の民が、主を敬わない事を続けてしまうと、神は彼らを用いて主の民を懲らしめ、なおも主に従わない事を続けていると、最終的には約束の地から吐き出されてしまうのだ。
続いて、セムの子孫について記されている。歴代誌の系図の本流は、神の民・セムの子孫である。
1:17 セムの子らはエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラム、ウズ、ホル、ゲテル、メセクである。
1:18 アルパクサデはシラを生み、シラはエベルを生んだ。
1:19 エベルにふたりの子が生れた。ひとりの名はペレグ――彼の代に地の民が散り分れたからである――その弟の名はヨクタンといった。
1:20 ヨクタンはアルモダデ、シャレフ、ハザル・マウテ、エラ、
1:21 ハドラム、ウザル、デクラ、
1:22 エバル、アビマエル、シバ、
1:23 オフル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみなヨクタンの子である。
ここではエベルから枝分かれしたヨクタンの子孫が記されたが、24節以降27節までは、再び、接続詞ワウなしの名前の列挙となる。
すなわち、系図の本流である。
1:24 セム、アルパクサデ、シラ、
1:25 エベル、ペレグ、リウ、
1:26 セルグ、ナホル、テラ、
1:27 アブラムすなわちアブラハムである。
こうして、信仰の先祖、アブラハムまでの系図がつながった。
主を敬う信仰の人、礼拝する人こそ、人間のファミリーツリーの中で幹となって、栄えて行く者、永遠に残る者である。
私達は、主を敬い、礼拝する民、永遠に残る民として、歩むべきだ。
サルスベリならぬ「悪魔サタンすべり」になる方法(イザヤ59:12-21)
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- pastor 2017-7-12 15:10
サルスベリならぬ「悪魔サタンすべり」になる方法(イザヤ59:12-21)
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イザヤ書59章は主語が明確に分かれている。
1−4節の主語は「あなたがた」、5-8節は「彼ら」9-15節は「私たち」、16-21節は「主」である。
なぜ、人には悲惨な事が起きるのか。そして、どうして祈っても主に聞かれないのか。
なぜ祈っても、癒やされず、必要は満たされず、悪霊は離れて行かないのか。
それは次のように書いてある通りである。
59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
5-8節の「彼ら」はまさにサタンの申し子のような、邪悪な行いをしてなんの呵責も無いような者達であるが、そんな彼らによって被害に遭い、苦しみ、災いばかりを被っている人は、いかにして、主の救いを受けられるのか。
それはずばり、自分の罪を認める事である。
59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
この、12節の言葉が、57章から続く主の叱責が、60章以降の主の憐れみと祝福へと転換点するターニングポイントとなる。
主の叱責から、主の憐れみと祝福になるターニングポイントとなる鍵は、自分の罪を認める事である。
日本語の聖書に「ごめんなさい」という言葉が一切出てこない事をご存知だろうか。
こんなにも日本語としてはメジャーな言葉は、どうして、存在しないのか。
聖書で「ごめんなさい」に相当する言葉は、「わたしは**の罪を犯しました」である。
ごめんなさいの漢字は「御免なさい」、すなわち、非礼をしてしまった自分を「免じ」る事を求める言葉である。
つまり、ごめんなさい、という言葉には、自分が犯した非を言い表す所がないし、また、非を改める意思表示も、この言葉の中に含まれていない。
「申し訳ございません」も、「言い訳のしようがない」や「弁解の余地もない」という意味で、あり、「すみません」、も、相手に非礼をしてしまった自分の気持ちが、このままでは「済まない」の意味で、自分が罪を犯したというニュアンスが抜けている。
もしかすると、「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」という言葉が、日本に救いが中々もたらされない事に、大いに役立っているかもしれない。
59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
59:10 われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。
59:11 われわれは皆くまのようにほえ、はとのようにいたくうめき、公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。
この、9節から11節は、日本の文学では多々見られる。自己憐憫、悲しい悲しいの演歌の世界である。ここにとどまっている人は多く、そして12節に至る人は少ない。
それに対し、12節から15節は、自分の罪の告白であり、これこそが、主の助けが開かれるコツである。
59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。
ここでは、かなり具体的に、自分の罪を告白している。これこそ、16節以降の主の助けを得る手段であり、ひいては60章以降の祝福を得るコツである。
実に、悪霊や呪いが留まり続けてもらうためのコツは、自分の罪を言い表さない事である。
59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。
主が義の胸当てをまとい、救いのかぶとをかぶって、戦って下さる。
この武具はエペソ6章にも登場するが、エペソ6章は信仰において成熟し、悪しきものと戦う事の出来る人が、身につけて戦うものであるのに対し、ここでは、そのような「人」がいない故に、主みずからが、「自分の罪を告白した人」のために立ち上がり、戦ってくださる事がしるされている。
エペソ6章には登場しない「報復の衣」「熱心の(ねたみの)外套」は、ただ主が身に付けるものであって、人が主を差し置いてまとったりしてはならないものである。
59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。
主は彼らに報復をされるが、ここの「彼ら」とは、5-8節の「彼ら」である。
59:5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
59:6 その織る物は着物とならない。その造る物をもって身をおおうことができない。彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。
59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
59:8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。
主は、このような事を好き好んでする「彼ら」に、報復をされる。
それも、自分の罪を、告白した人達を救うためにである。自分の罪を告白しない人に対しては、いつまでも「彼ら」から好き放題に蹂躙されたままである。
59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。
まことに、日出る国に主の栄光があらわれるためには、「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ない」の領域を出て、自分の罪を言い表す必要がある。
その時、主のいぶきが吹き荒れて、たちまし主の栄光がこの東の国、日出る国を覆うだろう。
59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。
ここで、重要な事が示されている。
主が「あがなう者」として現れてくださるのは、「とがを離れる者に」対してである。
つまり、罪を言い表したなら、次に、自分の「とが」を「離れる(シュブ:返る、リターン、離れる)」事である。
それをするなら、主が暁のように現れてくださり、悪魔の申し子のような「彼ら」に報復し、60章以降のすばらしい祝福へと入って行けるのである。
自分の罪を言い表す事。そして、それを改める事。
これこそ、神と人との間の隔てとなっている壁を取り除く、唯一の方法である。
自分の中に住み着いている悪霊を追いだそうとする人が「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何度言っても出て行かない場合は、自分が習慣的に抱え持っている罪を主の御前に告白しているか、そしてそこから1ミリでも離れようという努力をしているかを今一度チェックする必要がある。
いつまでも自分の罪を手放さず、罪の自分と仲良くし、そこから離れないままでいるなら、悪魔サタンに握られてしまう「とっかかり」を与えてしまっているようなものである。
しかし、罪を言い表し、それを改めようと努力するなら、悪魔サタンがその人をつかむ「とっかかり」を失う。
ちょうど、サルスベリの木は猿がつかめるようなとっかかりが無くてすべり落ちてしまうのと同じように。
だから、「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何百回言うよりも、むしろ、自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をして、「悪魔サタンすべり」になるべきである。
自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をするなら、主が働いて、主が悪魔サタンに報復する機会を得るからだ。
歴代誌概要(1歴代誌1:1-4)
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講解説教は本日より歴代誌に入る。
歴代誌は、預言者の言行録や、王たちの書、また、諸々の注解など、多くの資料を基にしているが、誰がこれをまとめ、記したかを示す箇所は無い。
ユダヤ人の伝承では、著者をエズラとしている。
歴代誌の内容は、そのままエズラ記に続けるなら内容的に非常にマッチするし、そして、歴代誌の内容は、バビロン捕囚後の諸々の危機に際し、エズラがイスラエルの民を鼓舞した精神と、非常によく一致している。
バビロン捕囚後のイスラエルには、周辺諸国の圧迫という危機があったため、イスラエルのアイデンティティを鼓舞する必要があったし、長らくバビロンにいたために神殿礼拝が軽んじられてしまっている現状に対し、礼拝の復興を鼓舞する必要があったし、また、異邦人との結婚・血筋の混濁がはびこりつつあり、せっかく主がバビロンから開放して新しい歩みだしをして行こうとしていたというのに、またしても捕囚前の堕落した時代に逆戻りしようとしていたため、捕囚前の堕落した王達がいかなる道を辿ったかを示す必要があった。
歴代誌は、まさに捕囚後のイスラエルの民が生きるべきエッセンスが詰まっている。
第一歴代誌1章から9章までは、アダム以来の系図が記されており、イスラエルのアイデンティティはどこにあるのかをまさに示している。
10章から第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿こそがイスラエルのアイデンティティである事を強調している。
また、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。
系図はファミリーツリーであるが、歴代誌において幹となっている部族は、レビ族とユダ族である。
それは、バビロン捕囚から帰還しイスラエルに定住しに来た部族がそれだからだ。
10章から第二歴代誌に至るまでは、特にダビデとソロモンの、神殿建設に関わった事が記されている。
サムエル記におけるダビデは、サウルとの葛藤や苦悩、またバテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌におけるダビデはむしろ神殿建設のために努力したダビデが記されている。
彼がいかに神殿建設の準備をし、いかに礼拝組織や聖歌隊を編成したか、また、彼の子ソロモンがいかに神殿建設をしたか、列王記には無い詳細な内容が記されている。
そして第二歴代誌は、ソロモン以降の王達の歩みが記されているが、ここで繰り返し強調されている事は、神を畏れ神殿を重んじた王たちは祝福され、それを軽んじた王達は呪われている事である。
まさに、バビロン捕囚後の人々に必要な警告と養いが、歴代誌の中にある。
歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」の意味である。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
列王記はネビイーム(預言者)の中に入っており、ヨシュア記や士師記などの歴史と、イザヤやエレミヤなどの預言書と同じカテゴリにある。
それに対し、歴代誌は、ケトゥビーム(諸書)、すなわち詩篇や箴言、伝道書など、神様との関係の中で生まれた文学類と同じカテゴリの中にある。
歴代誌、それはユダヤ人の「日々の出来事」であり、私達にとっても「日々の出来事」である。
内容としては、ユダヤ人の系図や神殿、王達の歴史と、私達異邦人には全く関係のないものであるかのように見えがちだが、決してそんな事はない。
なぜなら系図は私達の先祖アダムに始まり、また信仰者の先祖・アブラハム以降の系図は、まさに私達の系図であるからだ。
そして私達が、現代のまことの神殿であるキリストを、いかなる態度で礼拝するべきか、彼を敬うものはいかに祝福され、また軽んじるものはいかに呪われるか、それはそのまま私達に当てはまる事だからである。
歴代誌は、私達と、神様との関係を根底に置きながら、読み進めて行くべきである。
読み進めるにつれて、私達が歩むべき日々の姿を学んでいきたい。
頑なで悔いない心がもたらしてしまう災いと滅び(2列王記25:22-30)
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- pastor 2017-7-11 7:31
頑なで悔いない心がもたらしてしまう災いと滅び(2列王記25:22-30)
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いよいよ第二列王記の最後である。
第二列王記は、主に従う良い王の時代もあったが、大部分は、主に従わない悪い王の時代だった。
主は何度も預言者を遣わし、主に立ち返るよう警告して来たのもかかわらず、それを軽んじ、主に聞き従わない事を続けた結果、バビロンが攻めてきて、なお改めなかった結果、エルサレムは城壁も神殿も徹底的に破壊され、ほとんどの主だった人々は足かせに繋がれてバビロンへ引かれて行ってしまった。
25:22 さてバビロンの王ネブカデネザルはユダの地に残してとどまらせた民の上に、シャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを立てて総督とした。
25:23 時に軍勢の長たちおよびその部下の人々は、バビロンの王がゲダリヤを総督としたことを聞いて、ミヅパにいるゲダリヤのもとにきた。すなわちネタニヤの子イシマエル、カレヤの子ヨハナン、ネトパびとタンホメテの子セラヤ、マアカびとの子ヤザニヤおよびその部下の人々がゲダリヤのもとにきた。
25:24 ゲダリヤは彼らとその部下の人々に誓って言った、「あなたがたはカルデヤびとのしもべとなることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすればあなたがたは幸福を得るでしょう」。
エルサレムには、取るに足りないと見られている貧しい人達が残ったが、バビロンの王が総督として立てたケダルヤの元、その残されたわずかな人々の間に、ささやかな平安な時が訪れた事が、エレミヤ40章から伺える。
ところが、それでもなお身勝手な夢を見る者達の手によって、その弱く力のない人達は蹂躙されてしまう。
25:25 ところが七月になって、王の血統のエリシャマの子であるネタニヤの子イシマエルは十人の者と共にきて、ゲダリヤを撃ち殺し、また彼と共にミヅパにいたユダヤ人と、カルデヤびとを殺した。
25:26 そのため、大小の民および軍勢の長たちは、みな立ってエジプトへ行った。彼らはカルデヤびとを恐れたからである。
この、王の血統であるイシュマエルは、身勝手な夢を見てバビロンが立てたケダルヤを撃ち殺した。
カレアハの子ヨハナンはイシュマエルと戦おうとして出てきて、イシュマエルはアモン人のところに逃れたが、ヨハナンは、このままではバビロンの怒りを買って滅ぼされてしまうと恐れ、イスラエルの民を連れてエジプトへ行く心づもりをもて預言者エレミヤに伺いに行く。(エレミヤ41-42章)
エレミヤ42:1 そのとき軍勢の長たち、およびカレヤの子ヨハナンと、ホシャヤの子アザリヤ、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者にいたるまで、
42:2 みな預言者エレミヤの所に来て言った、「どうかあなたの前にわれわれの求めが受けいれられますように。われわれのため、この残っている者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください、(今ごらんのとおり、われわれは多くのうち、わずかに残っている者です)
42:3 そうすれば、あなたの神、主は、われわれの行くべき道と、なすべき事をお示しになるでしょう」。
42:4 預言者エレミヤは彼らに言った、「よくわかりました。あなたがたの求めにしたがって、あなたがたの神、主に祈りましょう。主があなたがたに答えられることを、何事も隠さないであなたがたに言いましょう」。
42:5 彼らはエレミヤに言った、「もし、あなたの神、主があなたをつかわしてお告げになるすべての言葉を、われわれが行わないときは、どうか主がわれわれに対してまことの真実な証人となられるように。
42:6 われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう」。
このやり取りだけを聞くと、一見、主の預言者に伺い従順を見せる良き信仰者のように見える。
しかし、主は、この者達が主の御言葉に従うように見せかけて、実は自分のエジプトに行く心の決心を固く握りしめ、手放すつもりがない事をご存知であった。
42:7 十日の後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
42:8 エレミヤはカレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たち、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者までことごとく招いて、
42:9 彼らに言った、「あなたがたがわたしをつかわして、あなたの祈願をその前にのべさせたイスラエルの神、主はこう言われます、
42:10 もしあなたがたがこの地にとどまるならば、わたしはあなたがたを建てて倒すことなく、あなたがたを植えて抜くことはしない。わたしはあなたがたに災を下したことを悔いているからである。
42:11 主は言われる、あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなたがたを救い、彼の手から助け出すからである。
42:12 わたしはあなたがたをあわれみ、また彼にあなたがたをあわれませ、あなたがたを自分の地にとどまらせる。
主は既に、バビロン捕囚という災いに遭ったイスラエルを、すでにあわれみ、バビロンを恐れてはならない、主ご自身が共にいて、あなたがたを救い彼の手から助け出す、と言われた。
そして同時に主は彼らの心の中をご存知であり、警告を与えられる。
42:13 しかし、もしあなたがたが、『われわれはこの地にとどまらない』といって、あなたがたの神、主の声にしたがわず、
42:14 また、『いいえ、われわれはあの戦争を見ず、ラッパの声を聞かず、食物も乏しくないエジプトの地へ行って、あそこに住まおう』と言うならば、
42:15 あなたがた、ユダの残っている者たちよ、主の言葉を聞きなさい。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、もしあなたがたがむりにエジプトへ行ってそこに住むならば、
42:16 あなたがたの恐れているつるぎはエジプトの地であなたがたに追いつき、あなたがたの恐れているききんは、すぐあとを追ってエジプトまで行き、その所であなたがたは死ぬ。
42:17 すべてむりにエジプトへ行ってそこに住む者は、つるぎと、ききんと、疫病で死ぬ。わたしが彼らに下そうとしている災をのがれて残る者はそのうちにない。
エレミヤは、彼らがエジプトに行く心づもりである事を聞いていなかったはずなのに、主はエレミヤに教えられ、そうして、明確にエジプトに行ってはならない事を警告された。
43:2 ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢な人々はみなエレミヤに言った、「あなたは偽りを言っている。われわれの神、主が、『エジプトへ行ってそこに住むな』と言わせるためにあなたをつかわされたのではない。
彼らは自分の口で「sh油の御言葉に聞き従います」と言っておりながら、エレミヤを通して心が見透かされてしまうと、とたんに態度を翻し、エレミヤに「偽りを言っている」と言った。
結局、「高慢」が彼らの心を支配していたのだ。
43:5 そしてカレヤの子ヨハナンと軍勢の長たちは、ユダに残っている者すなわち追いやられた国々からユダの地に住むために帰ってきた者、――
43:6 男、女、子供、王の娘たち、およびすべて侍衛の長ネブザラダンがシャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤに渡しておいた者、ならびに預言者エレミヤとネリヤの子バルクをつれて、
43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。
なんと、エレミヤまでも無理矢理にエジプトへ連れて行かれてしまった。
列王記の記述は、私達に何を語って来たか。それは、主に従おうとしない「高慢」な者には災いが追いつき、主の御言葉を前にへりくだって自分の思い込みを捨て、主に従うなら豊かに祝福される、という事だった。
結局、主に従わずに、バビロンに徹底的に痛めつけられても、なお自分の考えを手放さない者達は、捕囚後も、多くの人々を災いの道へと道連れにしてしまった。
44:15 その時、自分の妻がほかの神々に香をたいたことを知っている人々、およびその所に立っている女たちの大いなる群衆、ならびにエジプトの地のパテロスに住んでいる民はエレミヤに答えて言った、
44:16 「あなたが主の名によってわたしたちに述べられた言葉は、わたしたちは聞くことができません。
44:17 わたしたちは誓ったことをみな行い、わたしたちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、わたしたちとわたしたちの先祖たちおよびわたしたちの王たちと、わたしたちのつかさたちが行ったようにいたします。その時には、わたしたちは糧食には飽き、しあわせで、災に会いませんでした。
44:18 ところが、わたしたちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました」。
頑なな人とは、結局、自分の望みが叶うのであれば、主であろうと、天后(天の女王)であろうと、かまわないのだ。
この「頑なさ」、それが2列王記を災いで満たしてしまった大元であった。
主の御前に自分を降ろさない事、御言葉に対し、預言者に対し、自分を降ろさず、自分の好むこと、自分の計画、自分の意志を、神よりも優先させ、それによって、災いをもたらし、ついには、国を滅ぼしてしまった。
2列王記25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。
列王記は、主が慰めを与えてくださる所で終わる。
確かに主は、悔い改めて自分を降ろし、主に立ち返る人に、憐れみ深い。
しかし、主に聞き従わない、頑なな、悔い改めない心を持ち続けるなら、そうする限りでは、災いがつきまとう。
この列王記を私達は、単に歴史書としてでなく、私達に実際に関わりのある真理であるとして戒めを受け、主に従う良い王が歩んだように、祝福の道を歩むものでありたい。
はるか昔からされていた警告を破り、はるか昔から定められていた捕囚に遭ったイスラエル(2列王記25:8-21)
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- pastor 2017-7-6 8:40
はるか昔からされていた警告を破り、はるか昔から定められていた捕囚に遭ったイスラエル(2列王記25:8-21)
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25:8 バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、
25:9 主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。
王宮のみならず、主の神殿さえ、異邦人の手に渡され、火で焼かれてしまった。
こうなってしまったのは、主が為されたからである。イスラエルの民が主に対し不遜な態度をとり続け、主を捨てたからであり、それで主がバビロンという器を立てて、エルサレムを徹底的に滅ぼされたのだ。
それは、神殿が建設され完成した当初から、既にソロモンに対して主は語られていた。
1列王記9:1 ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、
9:2 主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れて、
9:3 彼に言われた、
・・・
9:6 しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、
9:7 わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。
神殿が完成したての時、まだ新材の香りで満ちていた時、まさかこの、未だかつて無かった規模の贅沢な神殿が、異邦の民に破壊されるなど、思えなかったかもしれない。
ソロモン以降、代々の王もそう思っていたかもしれないが、しかし主は、このはじめから言われていた事を、ついに実行した。
それは、イスラエルの王が主からの恩を忘れ、主に逆らい続ける事が何代も続き、もはや、癒やしようがないまでになってしまったからだ。
それで主は、徹底的にひどい破壊を、バビロンにさせた。
1列王記9:8 かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。
9:9 その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。
その破壊のされる様が、あまりにひどく、また徹底的なため、人々はそれをみて驚く、と、主はあらかじめソロモンに警告しておられた。
しかし、ソロモンが早速主に逆らい、さらに逆らい続ける事が何代にもつづき、そして最後に、主は、予め警告しておられた事を実行された。
25:10 また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した。
25:11 そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した。
25:12 ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、ぶどうを作る者とし、農夫とした。
ここまで徹底してエルサレムを破壊し、しかもエルサレムの住人を大量にバビロンという何百キロも離れた地に捕らえ移すなどと、多くの労力と経費を伴う「破壊の事業」は、尋常ではない。
なぜバビロンはそこまでしたか。
それは、イスラエルの王が代々、バビロンに反逆を繰り返してきたからであり(エズラ記4:15)、このイスラエルという国は、徹底的に破壊し尽くさないとだめだ、と判断したからである。
預言者エレミヤは、最初から、バビロンに降るようにと主の言葉を伝えてきた。
それにもかかわらず、王達はそれをさげすみ、偽預言者や占い師の耳障りのよい言葉に従ってバビロンに逆らい続けた。
それで主も、バビロンも、徹底的にエルサレムを破壊し、さらには人々を散り散りばらばらにしてまでして、徹底的に破壊されたのだ。
2歴代誌36:11 ゼデキヤは王となった時二十一歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。
36:12 彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。
36:13 彼はまた、彼に神をさして誓わせたネブカデネザル王にもそむいた。彼は強情で、その心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。
主のことばを聞かず、バビロンに逆らったゼデキヤは、バビロンに3年包囲され、深刻な食糧難を経て、捕らえられ、目の前で彼の子達が虐殺された後、目がえぐり取られ、足かせをかけられてバビロンに引かれて行った。
主を軽んじ、預言者を軽んじ、身勝手な道に歩もうとしたからである。
25:18 侍衛の長は祭司長セラヤと次席の祭司ゼパニヤと三人の門を守る者を捕え、
25:19 また兵士をつかさどるひとりの役人と、王の前にはべる者のうち、町で見つかった者五人と、その地の民を募った軍勢の長の書記官と、町で見つかったその地の民六十人を町から捕え去った。
25:20 侍衛の長ネブザラダンは彼らを捕えて、リブラにいるバビロンの王のもとへ連れて行ったので、
25:21 バビロンの王はハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。このようにしてユダはその地から捕え移された。
エルサレムで主だった人達は、このようにして、虐殺された。
それは、彼らもまた主を敬わず、主を敬うべき神殿で主を敬わないばかりか、主の怒りを引き起こす事をし、また、特権的な権力を悪用して弱い人達から絞り取り、人々を苦しめて来たからである。
2歴代誌36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。
36:15 その先祖の神、主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされたが、
36:16 彼らが神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしったので、主の怒りがその民に向かって起り、ついに救うことができないようになった。
36:17 そこで主はカルデヤびとの王を彼らに攻めこさせられたので、彼はその聖所の家でつるぎをもって若者たちを殺し、若者をも、処女をも、老人をも、しらがの者をもあわれまなかった。主は彼らをことごとく彼の手に渡された。
36:18 彼は神の宮のもろもろの大小の器物、主の宮の貨財、王とそのつかさたちの貨財など、すべてこれをバビロンに携えて行き、
36:19 神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。
36:20 彼はまたつるぎをのがれた者どもを、バビロンに捕えて行って、彼とその子らの家来となし、ペルシャの国の興るまで、そうして置いた。
36:21 これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。
その土地は、彼らがいなくなって、安息を得た、と記されている。
ある人がそこからいなくなって、その場所が安息を得る、という事がある。
それは、その人が邪悪な人である場合だ。
主は、主が御心を示して注目しておられる場を守るために、そのような人が、最後まで改める余地が無いなら、その者を取り除く。
心頑なにして主から取り除かれて、周囲が安息を得るような者ではなく、私たちはむしろ、主の御言葉を守り行う、祝福の子、安息の子として歩むべきだ。
何度祈っても願っても主に聞き届けられない場合(イザヤ59:1-12)
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- pastor 2017-7-5 15:10
目の前で子を虐殺され、目をえぐられ連行されたイスラエル最後の王(2列王記25:1-7)
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- pastor 2017-7-5 8:17
目の前で子を虐殺され、目をえぐられ連行されたイスラエル最後の王(2列王記25:1-7)
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ついに、第二列王記の最終章である。
元々、列王記は、サムエル記と共に一つの歴史書だったものが分割されたものであり、ギリシャ語聖書の70人訳聖書で第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」としたものであるが、その最後は、エルサレムの崩壊と、ダビデの子孫の王がバビロンへ捕囚される所で終わる。
25:1 そこでゼデキヤの治世の第九年の十月十日に、バビロンの王ネブカデネザルはもろもろの軍勢を率い、エルサレムにきて、これにむかって陣を張り、周囲にとりでを築いてこれを攻めた。
バビロン捕囚前の最後の王ゼデキヤは、バビロンの王に反逆したのが前章の最後であった。
徹底抗戦する、それは勇ましく見えるが、その動機は卑しいものだった。
預言者エレミヤは、エホヤキムの治世のはじめからおよそ11年の間、バビロンに首を差し出して憩うように言って来たが(エレミヤ27:1-11)、エホヤキムは聞かずに反逆した。
それは、真摯な主の預言に従わず、耳障りのよい、偽預言者や占い師、卜者、呪術者の言葉に聞き従ったからだ。
さらにゼデキヤに対しても、エレミヤは同様の助言をした。
エレミヤ27:12 わたしはユダの王ゼデキヤにも同じように言った、「あなたがたは、バビロンの王のくびきを自分の首に負って、彼とその民とに仕え、そして生きなさい。
27:13 どうしてあなたと、あなたの民とが、主がバビロンの王に仕えない国民について言われたように、つるぎと、ききんと、疫病に死んでよかろうか。
27:14 あなたがたはバビロンの王に仕えることはないとあなたがたに告げる預言者の言葉を聞いてはならない。彼らがあなたがたに預言していることは偽りであるからだ。
27:15 主は言われる、わたしが彼らをつかわしたのではないのに、彼らはわたしの名によって偽って預言している。そのために、わたしはあなたがたを追い払い、あなたがたと、あなたがたに預言する預言者たちを滅ぼすようになるのだ」。
27:16 わたしはまた祭司とこのすべての民とに語って言った、「主はこう仰せられる、『見よ、主の宮の器は今、すみやかに、バビロンから返されてくる』とあなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。それは、彼らがあなたがたに預言していることは偽りであるからだ。
27:17 彼らのいうことを聞いてはならない。バビロンの王に仕え、そして生きなさい。どうしてこの町が荒れ地となってよかろうか。
しかしあいにく、ゼデキヤも、虚しい偽預言に従ってしまった。
偽預言者と本物の預言者の見極めはいかにすればよいか。
その方法は、明確に書いてある。
エレミヤ28:9 平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
申命記18:20 ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
Deu 18:21 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。
Deu 18:22 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。
また、偽預言者に対して、主は次のように語っている。
申命記18:20 ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
黙示録19:20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
主の、偽預言者に対するさばきは、非常に厳しい。
なぜなら、主の御名を用いて、滅びなくてもよい人を欺いて滅びへと導いてしまうからだ。
イスラエルに対して口当たりの良い預言をし、エレミヤに対抗した偽預言者ハナヌヤは、その言葉が成就する事なく、その年の内に死んだ。(エレミヤ28章)
しかし、ゼデキヤはそれでもエレミヤに言葉に聞かず、耳当たりの良いハナヌヤの言葉の通りにしてしまった。
その結果、エレミヤの言葉の通りの事が起きてしまう。
25:2 こうして町は囲まれて、ゼデキヤ王の第十一年にまで及んだが、
25:3 その四月九日になって、町のうちにききんが激しくなり、その地の民に食物がなくなった。
3年に及ぶエルサレム包囲の結果、ききんがとてつもなくひどくなった様が、エレミヤ哀歌2章に記されている。
哀歌2:11 わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに/息も絶えようとしているからである。
2:12 彼らが、傷ついた者のように町のちまたで/息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、母にむかって、「パンとぶどう酒とは/どこにありますか」と叫ぶ。
なぜ、食糧難になってしまったのか、その理由が続く節に記されている。
哀歌2:13 エルサレムの娘よ、わたしは何をあなたに言い、何にあなたを比べることができようか。シオンの娘なるおとめよ、わたしは何をもってあなたになぞらえて、あなたを慰めることができようか。あなたの破れは海のように大きい、だれがあなたをいやすことができようか。
2:14 あなたの預言者たちはあなたのために/人を欺く偽りの幻を見た。彼らはあなたの不義をあらわして/捕われを免れさせようとはせず、あなたのために人を迷わす偽りの託宣を見た。
つまり、偽預言に従ったゆえである。
私達は偽預言をしっかり見極めなくてはならず、その者に対しては寛容になっては決してならない。
自分自身を滅ぼし、周りをも滅ぼす事になってしまうからだ。
2列王記25:4 町の一角がついに破れたので、王はすべての兵士とともに、王の園のかたわらにある二つの城壁のあいだの門の道から夜のうちに逃げ出して、カルデヤびとが町を囲んでいる間に、アラバの方へ落ち延びた。
25:5 しかしカルデヤびとの軍勢は王を追い、エリコの平地で彼に追いついた。彼の軍勢はみな彼を離れて散り去ったので、
25:6 カルデヤびとは王を捕え、彼をリブラにいるバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、
25:7 ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。
ついにエルサレム城壁が破られ、主だった人々は連行されてしまった。
モーセの時代から語られていた事は、主の御声に聞き従わない事を続けるなら、これらの事が起きてしまう事は言われ続けていたが、しかし少なくともゼデキヤがエレミヤの言葉に従っていたなら、それは成就しなかったはずである。(エレミヤ27章)
しかしそれに聞かなかった。それで、彼は、目の前で自分の子が虐殺され、その目はえぐり取られ、足かせにつながれて連行されて行ってしまった。
いかにダビデの子孫といえども、どんな血族であろうとも、主の御言葉軽んじ、逆らい続けるなら、これらの事が起きてしまう。
これは、現代生きる私達に対する警告である。
いかにクリスチャンであろうとも、主に忌み嫌われる事を続け、御言葉に沿った警告を聞いても改めないなら、御言葉に記されている通りの災いが追いついていしまうのだ。
裁きの中でも恵みを注がれる主(2列王記24:8-20)
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24:8 エホヤキンは王となった時十八歳で、エルサレムで三か月の間、世を治めた。母はエルサレムのエルナタンの娘で、名をネホシタといった。
24:9 エホヤキンはすべてその父がおこなったように主の目の前に悪を行った。
神の民の国であるイスラエルの王達は、歴代、主の目の前に悪を行って来た。
本来、神の民は、主の目にかなう事をおこなうべきであるのに、そこを外れ、悪を行いつづけるなら、やがては主の怒りが及び、災いがくだされ、それでもなお改めず、悪を行い続けるなら、ついには裁きが追いついていしまう。
24:10 そのころ、バビロンの王ネブカデネザルの家来たちはエルサレムに攻め上って、町を囲んだ。
24:11 その家来たちが町を囲んでいたとき、バビロンの王ネブカデネザルもまた町に攻めてきた。
24:12 ユダの王エホヤキンはその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。
ついにエルサレムが異邦人に入り込まれ、王とその家族が捕虜として連れてしまうという事になってしまった。
そればかりではない。
24:13 彼はまた主の宮のもろもろの宝物および王の家の宝物をことごとく持ち出し、イスラエルの王ソロモンが造って主の神殿に置いたもろもろの金の器を切りこわした。主が言われたとおりである。
24:14 彼はまたエルサレムのすべての市民、およびすべてのつかさとすべての勇士、ならびにすべての木工と鍛冶一万人を捕えて行った。残った者は国の民の貧しい者のみであった。
24:15 さらに彼はエホヤキンをバビロンに捕えて行き、また王の母、王の妻たち、および侍従と国のうちのおもな人々をも、エルサレムからバビロンへ捕えて行った。
24:16 またバビロンの王はすべて勇敢な者七千人、木工と鍛冶一千人ならびに強くて良く戦う者をみな捕えてバビロンへ連れて行った。
全能の神の宮のものが、異邦人によって奪われるという、イスラエルの民にとって、ありえない事が起きた。
しかし、神殿という建物が重要なのではない。神殿に礼拝を捧げに行く、神の民の質こそが重要なのだ。
当時、彼らのその高慢により、自分達には全能の神の神殿がある、決して揺るがされる事はない、という思い込みにより、罪を犯したい放題犯し、主の目に悪を行いつづけた故に、神はその神殿を破壊されたのだ。
神殿が破壊されたのは決して主が弱くネブカデネザルが強かったからではない。むしろ逆である。
それらの事は、全て、神の支配の中で行われた。
『”主は”ユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手に”わたされた(ויתן אדני)”ので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。 』(ダニエル1:2)
この”ויתן אדני :ヴァイテン アドナイ 「主が与えられた」”、これこそがダニエル書の重要なかなめであり、全世界を支配される主の支配権を如実に表す言葉である。バビロンの側からすると、イスラエルの神が何もできないから自分達はその聖なる器を奪う事が出来た、と思うかもしれないが、逆である。この、イスラエルの不従順な世代を、バビロンという懲らしめの地に移している間、神殿の聖なる器物が、当時の世界で最も安全なバビロンの宝物庫という所で保管されるために、主が敢えて、彼らに「与えられた(ヴァイテン)」のだ。
全世界の全主権を握っておられるお方は、主である。その主の主権を犯し、神殿の聖なる器物を軽んじ、汚れた事に用いたネブカデネザルの子、ベルシャツァルは、その事をしたその晩、殺され、その時バビロンは滅亡してしまった。(ダニエル5章)
神は、神の民に対する裁きの中においても、憐れみを忘れないお方である。
その憐れみの意図は、ダニエルと三人の友人の名前に隠されている。
ダニエル1:11 そこでダニエルは宦官の長がダニエル、ハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤの上に立てた家令に言った、
このダニエルの名の意味は「神は裁く」(ダンは審判、エルは神)であり、ダニエル書の内容そのものが、歴史を審判する神をあらわしている。
ハナニヤの名の意味は、「エホバは恵み深い」(ハナンは恵み、ヤはエホバ)であり、ダニエル+ハナニヤで、審判の中にも、エホバの恵みがある、という事を表してしている。
ミシャエルは、「神は誰だろう?」(ミは「?」、エルは神)である。ネブカデネザル王を立て、イスラエルを離散し集め、守るお方は誰か?全歴史を動かしているのは誰だろう?
そしてアザリヤは「エホバは助けた」(アザール(助け)+ヤ(神))すなわち、主エホバの助けが必要、という意味となる。
以上をつなげると、「神は裁く。主は恵み深い。神は誰だろう?主は助ける。」、すなわち、「神は裁きの中でも恵み深い。神は誰か?主は、助け主。」これがダニエル書全体の内容であり、同時に、歴史を通して働かれた神のご性質なのだ。(出典:Hear what the Spirit says to the CHURCHES(ἐκκλησία) by Yukie Kawai (DJY))
24:17 そしてバビロンの王はエホヤキンの父の兄弟マッタニヤを王としてエホヤキンに代え、名をゼデキヤと改めた。
24:18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年の間、世を治めた。母はリブナのエレミヤの娘で、名をハムタルといった。
24:19 ゼデキヤはすべてエホヤキムがおこなったように主の目の前に悪を行った。
24:20 エルサレムとユダにこのような事の起ったのは主の怒りによるので、主はついに彼らをみ前から払いすてられた。さてゼデキヤはバビロンの王にそむいた。
結局、バビロン捕囚により神殿の尊いものが奪われてしまったのは、子どもたちに御言葉を伝授しなかった事が原因だ。
ヒゼキヤも、ヨシヤも、次の世代へとしっかり御言葉を伝授せずにいたから、イスラエルは滅んでしまった。
エズラは、バビロンにいる間、どうしてこのように成ってしまったのだろう、と、徹底的に分析し、その結果、御言葉が無かったため、そして、次の世代の子どもたちに御言葉を伝授しなかった故、という結論に達し、そして生まれたのが、テフィリン教育だった。
すなわち、御言葉を暗唱する事、それによって、たとえ国が散らされたとしても、行った先々でも御言葉が生き残るようにするのである。
主は確かに、神の民の目を覚まさせるために災いを起こされる。
しかし、そのさばき中には憐れみがあり、後には神の民を、さらに優れて良い状態へと立ち直らせてくださるのだ。
主の言葉に逆らい、イスラエルと自分に災いをもたらしたエホヤキム(2列王記24:1-7)
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- pastor 2017-6-30 7:17
主の言葉に逆らい、イスラエルと自分に災いをもたらしたエホヤキム(2列王記24:1-7)
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エホヤキムの父ヨシヤ王がエジプトのパロ・ネコと戦ったために、ヨシヤ王は死に、エジプトの戦力も削ぎ落とされ、エジプトのバビロン討伐は失敗に終わり、バビロンが栄えるきっかけとなった。
24:1 エホヤキムの世にバビロンの王ネブカデネザルが上ってきたので、エホヤキムは彼に隷属して三年を経たが、ついに翻って彼にそむいた。
24:2 主はカルデヤびとの略奪隊、スリヤびとの略奪隊、モアブびとの略奪隊、アンモンびとの略奪隊をつかわしてエホヤキムを攻められた。すなわちユダを攻め、これを滅ぼすために彼らをつかわされた。主がそのしもべである預言者たちによって語られた言葉のとおりである。
いよいよ、イスラエルをバビロンへ捕囚したネブカデネザル王が登場する。
エホヤキムは最初、バビロンにつかえていたが、3年後に逆らった結果、バビロンからのみならず、シリヤ、モアブ、アンモンから、寄ってたかって略奪されてしまう。
なぜこのような災いに遭ったか。それは、主の預言者に聞き従わず、バビロンに背いたからである。
主は、預言者エレミヤを通して語っておられた。
エレミヤ27:1 ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤ(KJV:エホヤキム)が世を治め始めたころ、この言葉が主からエレミヤに臨んだ。
・・・
27:4 『万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、あなたがたは主君にこのように告げなければならない。
27:5 わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣とをつくった者である。そして心のままに地を人に与える。
27:6 いまわたしはこのすべての国を、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデネザルの手に与え、また野の獣をも彼に与えて彼に仕えさせた。
27:7 彼の地に時がくるまで、万国民は彼とその子とその孫に仕える。その時がくるならば、多くの国と大いなる王たちとが彼を自分の奴隷にする。
主はこの時代を、全て、バビロンのネブカデネザルに渡している。しかも6節では「わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデネザル」とさえ言っている。
27:8 バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、バビロンの王のくびきを自分の首に負わない民と国とは、わたしがつるぎと、ききんと、疫病をもって罰し、ついには彼の手によってことごとく滅ぼすと主は言われる。
27:9 それで、あなたがたの預言者、占い師、夢みる者、法術師、魔法使が、「あなたがたはバビロンの王に仕えることはない」と言っても、聞いてはならない。
27:10 彼らはあなたがたに偽りを預言して、あなたがたを自分の国から遠く離れさせ、わたしに、あなたがたを追い出してあなたがたを滅ぼさせるのである。
27:11 しかしバビロンの王のくびきを首に負って、彼に仕える国民を、わたしはその故国に残らせ、それを耕して、そこに住まわせると主は言われる』」。
主がここではっきり言っておられる事は、バビロンに降伏するなら、祖国は滅ぼされる事なく安全に住む事が出来るが、それをしないなら、つるぎと、ききんと、疫病をもって罰し、滅ぼす、という事だ。
しかし、エホヤキムの元には、主の預言者に逆らう預言をする偽預言者や占い師、夢みる者、法術師、魔法使がいたようである。
自分にとって都合の良い事を言ってくれる嘘つきを抱え込んでしまい、真理の御言葉を語る主の預言者を退けてしまう者には、災いが降されてしまう。
また、預言者エレミヤは、エホヤキム王のみならず、時のエルサレムの全ての人々に対しても警告の預言をしていた。
26:1 ユダの王ヨシヤの子エホヤキムが世を治めた初めのころ、主からこの言葉があった、
26:2 「主はこう仰せられる、主の宮の庭に立ち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない。
26:3 彼らが聞いて、おのおのその悪い道を離れることがあるかも知れない。そのとき、わたしは彼らの行いの悪いために、災を彼らに下そうとしたのを思いなおす。
主がエレミヤに預言の言葉を与えられた理由は、彼らに悪い道から離れさせるため、悔い改めて、その身に災いを負う事をまぬがれるためであった。
26:4 あなたは彼らに言いなさい、『主はこう仰せられる、もしあなたがたがわたしに聞き従わず、わたしがあなたがたの前に定めおいた律法を行わず、
26:5 わたしがあなたがたに、しきりにつかわすわたしのしもべである預言者の言葉に聞き従わないならば、(あなたがたは聞き従わなかったが、)
26:6 わたしはこの宮をシロのようにし、またこの町を地の万国にのろわれるものとする』」。
26:7 祭司と預言者およびすべての民は、エレミヤが主の宮でこれらの言葉を語るのを聞いた。
26:8 エレミヤが主に命じられたすべての言葉を民に告げ終った時、祭司と預言者および民はみな彼を捕えて言った、「あなたは死ななければならない。
26:9 なぜあなたは主の名によって預言し、この宮はシロのようになり、この町は荒されて住む人もなくなるであろうと言ったのか」と。民はみな主の宮に集まってエレミヤを取り囲んだ。
このように、当時のイスラエルの多くの人達には聞いた御言葉も無益であった。
かえって彼らは、自分にとって不愉快な言葉はたとえ真実であろうともそれを語った者には死刑判決を降し、自分にとって都合よく聞こえる言葉はたとえ嘘であろうとも快く受け入れてしまう。
そのような偽りを愛する者に用意されているのは、裁きである。
神がこのイスラエルを裁きに定められた決定的理由は、以下であった。
24:3 これは全く主の命によってユダに臨んだもので、ユダを主の目の前から払い除くためであった。すなわちマナセがすべておこなったその罪のため、
24:4 また彼が罪なき人の血を流し、罪なき人の血をエルサレムに満たしたためであって、主はその罪をゆるそうとはされなかった。
24:5 エホヤキムのその他の事績と、彼がおこなったすべての事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。
前回も見たように、人の血を流す事は、後々まで、人の心に傷を残し、その人達が主に訴え続けるなら、主は彼らの叫びを聞かれる。
マナセの次にヨシヤ王という良い王が統治したにもかかわらず、マナセの時代に残された神と人との悲しみと怒りは払拭される事はなかった。
24:6 エホヤキムは先祖たちとともに眠り、その子エホヤキンが代って王となった。
24:7 エジプトの王は再びその国から出てこなかった。バビロンの王がエジプトの川からユフラテ川まで、すべてエジプトの王に属するものを取ったからである。
エジプトはエホヤキムの統治の11年ですっかり衰えてしまい、バビロンはすっかり強くなった。
全て歴史を支配しておられるのは主であり、その主の御心にそぐわないなら、たちまち枯れ果ててしまうのだ。