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主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
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- pastor 2016-9-14 19:40
主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
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イスラエルは本来、主から助けられるには全く値しないような、主に対して不誠実続きだったにもかかわらず、一方的に主からの恵みを受け、到底勝ち目の無いシリヤとの戦いは、勝利へと導かれた。
『時に、かの預言者がイスラエルの王のもとにきて言った、「行って、力を養い、なすべき事をよく考えなさい。来年の春にはスリヤの王が、あなたのところに攻め上ってくるからです」。』(1列王記20:22)
戦いは終わりではない、これからは主にあって何をなすべきか、主にあってどのような心構えでいるべきか、よく考えなさい、と、預言者は言う。
私達も、主に良くして頂いたなら、よく考えるべきである。
今後、自分は主に対しどのように在るべきか。主と共に、いかに歩んで行くべきかを。
いつも主の御前にどうあるべきかを、わきまえ知るために、知恵が必要である。
また、悪魔の攻撃は日々迫り来るものであり、誘惑との戦いも、ひっきりなしに来る。それに立ち向かうためにも、知恵が必要である。
知恵はいかにして見つけるべきだろうか。
知恵は、主を恐れる事から始まる。(箴言9:10)
私達には、主に対する「恐れ敬い」は、あるだろうか?
もし今、目の前に、総理大臣が来たとしたら、普段よりは身と心を引き締めるかもしれない。しかし主は、総理大臣よりもはるかに上に座しておられるお方である。
主を前にして礼拝する時、相応しい畏れ敬いは、あるだろうか?
もし、知恵を頂きたいのであれば、主に対する恐れ敬い、尊敬を、その態度で示すべきだ。
アハブは、「力を養い、なすべき事をよく考えなさい。」と言われたからには、一連の起きた出来事をよく思い返し、主は自分に何を望んでおられるのかを求めつつ、次の年の戦いに備えるべきだった。
主を待ち望む者こそ、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるからだ。(イザヤ40:31)
『スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。もしわれわれが平地で戦うならば、必ず彼らよりも強いでしょう。それでこうしなさい。王たちをおのおのその地位から退かせ、総督を置いてそれに代らせなさい。またあなたが失った軍勢に等しい軍勢を集め、馬は馬、戦車は戦車をもって補いなさい。こうしてわれわれが平地で戦うならば必ず彼らよりも強いでしょう」。彼はその言葉を聞きいれて、そのようにした。』(1列王記20:23-25)
シリヤは、自分たちが敗北した戦いを分析し、作戦を練りなおした。これは肉弾戦ではなく、背後にいる神が、勝敗の鍵を握っている、と。
しかし彼らは、イスラエルの神である主を、あたかも、数多ある神々のうちの一つであるかのように見た。
彼らの着眼点は非常に良いのだが、イスラエルの神に対する認識が誤っていた。
彼らは、思っていた。
地方地方には、固有の影響力を持つ神々がいて、それぞれ、得意分野・不得意分野がある、と。
現代日本人も、多くはそう思っているかもしれないが、あいにく、イスラエルの神である主は、「沢山ある神々のうちの一つ」ではない。
全地・全宇宙を創られた全能なる神であり、人の空想の産物である「神々」を、むなしいものとされるお方である。(詩篇97:9)
『春になって、ベネハダデはスリヤびとを集めて、イスラエルと戦うために、アペクに上ってきた。イスラエルの人々は召集され、糧食を受けて彼らを迎え撃つために出かけた。イスラエルの人々はやぎの二つの小さい群れのように彼らの前に陣取ったが、スリヤびとはその地に満ちていた。』(1列王記20:26-27)
再び戦いが起きるが、やはりイスラエルは、数では勝ち目はなさそうである。
しかし、主の言葉は、あらかじめあった。
アハブは、主をわきまえ知る時間が1年与えられていた。
その間、アハブはどんな心備えをしていたのかは書かれていない。もしかすると、全くしていなかったかもしれない。
しかし、この度の戦いも、ただ主ご自身が一方的に働かれる。
『その時神の人がきて、イスラエルの王に言った、「主はこう仰せられる、『スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう』」。』(1列王記20:28)
神の人からのこの情報は、イスラエルは別に知っていなくても、勝負の決定には関係無かったかもしれない。
しかし、この情報は、主がどんなお方であり、人はどのように神と関係して行くべきかを知るためには非常に重要な事柄である。
すなわち、神は、山の神や海の神など、人間が限定できるようなお方ではなく、全地を治め、全ての神々を見下ろし無とされる主であり、敵が陣営の中で思い巡らすはかりごとさえ、全て知っておられるお方であるという事、そして、主を見くびる者には主は災いをもって報いられるお方である事だ。
申命記で、モーセは、似た事を言っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)
主はなぜ、勝ち目のない敵をイスラエルに渡され、勝利をもたらされるのか。
それは「敵が悪いため」である。
何度も繰り返して言われている事は「あの者達が悪いから」「あなたが正しいからではない」という事であり、もし、イスラエルが勝利した場合は、「自分が正しいから」「自分の知恵や力のおかげだ」などと、思ってもみてはならない。
主はむしろ、あなたがたは頑なだ、主の前に強情だ、と言われる。
ただ、この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前からあの者共を追い払われるのである、と。
モーセの時代も、アハブの時代も、主の御前にイスラエルは、何の益も見いだせなかった。
むしろイスラエルは頑なで、主を煩わせる者達であったが、主はそんな彼らさえ、主の御名を置き、彼らの手を用いて勝利をもたらされるのだ。
だから、もし勝利がもたらされるとしたら、自分には何の誇りも無く、ただ主に栄光を捧げ、これからは主にのみ聞き従いつつ、歩むだけである。
『彼らは七日の間、互にむかいあって陣取り、七日目になって戦いを交えたが、イスラエルの人々は一日にスリヤびとの歩兵十万人を殺した。そのほかの者はアペクの町に逃げこんだが、城壁がくずれて、その残った二万七千人の上に倒れた。ベネハダデは逃げて町に入り、奥の間にはいった。』(1列王記20:29-30)
こうして、やぎの群れのようだったイスラエルは、十万もの相手を打ち破った。
さらには、城壁が崩れて二万七千人を打ったのは、まさに主ご自身だ。
主はこの度も、大勝利を与えて下さった。
これで、イスラエルはわきまえ知るべきだった。
自分はただ、主により頼んでいれば良いのだ、と。
しかしアハブは、残念ながら、主を知ろうという意欲がなかった。
私達は、何にもまして、知恵を得ることを求めるべきである
『それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。』(箴言4:5-6)
『あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。』(ヤコブ1:5-8)
とがめる事なく豊かに知恵を与えて下さる主に、求め、豊かに与えられ、主の栄光と共に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
無謀・無策のイスラエルに助けの手を延べられた主(1列王記20:13-21)
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- pastor 2016-9-12 20:40
無謀・無策のイスラエルに助けの手を延べられた主(1列王記20:13-21)
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イスラエル最悪の王・アハブは、シリヤという敵に「いいえ」を言えず、部下にも「いいえ」を言えず、確固とした信念なしに、ただ全部にハイハイと答えて行った結果、その煮え切らない態度は、イスラエルという国を、無謀な戦争へと導いてしまった。
試験日を忘れていた生徒が、何の対策もしないまま突然試験に臨まれてしまったように、この圧倒的不利な戦争は、勝つ算段も知恵も何もないまま突然訪れてしまった。
しかし主は、一方的に彼らに助けの手を差し伸べられる。
『この時ひとりの預言者がイスラエルの王アハブのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう』」。』(1列王記20:13)
主は何故に、霊的怠慢と背信続きの彼らに、こんなにも憐れみをかけられるのか。
それは「あなたは、わたしが主であることを、知るようになる」ためである。
ただ、主こそ力強い神であり、憐れみ深く恵みに富んでおられる、という事を彼らにありありと示し、主に立ち返るためだ。
『アハブは言った、「だれにさせましょうか」。彼は言った、「主はこう仰せられる、『地方の代官の家来たちにさせよ』」。アハブは言った、「だれが戦いを始めましょうか」。彼は答えた、「あなたです」。そこでアハブは地方の代官の家来たちを調べたところ二百三十二人あった。次にすべての民、すなわちイスラエルのすべての人を調べたところ七千人あった。』(1列王記20:14-15)
主が示される勝利の鍵は、『地方の代官の家来たち』である。
それは、NKJVでは「By the young leaders of the provinces.」、リビングバイブルでは「外人部隊」と訳されている。
つまり、イスラエルの民の誰かではなく、外部の者達が、勝利の鍵となる。
神の声に久しく聞かず、あれだけ大きなしるしが示されてもなお立ち返らないようなイスラエル。
彼らによっては勝利はもたらされない。むしろ主は、そんなイスラエルの力は敢えて用いられず、外部の者達を用いて勝利がもたらされる。
これは、主は全ての事が可能であり、決してあなどってはならないお方である事を、彼らに示されるためかもしれない。
『地方の代官の家来たち』の数は、二百三十二人であった。それと共に、イスラエルの兵は七千人。
それに対し、相手は、十万以上はいたと推測できる。(29節)
人の目には到底勝ち目の無い、しかし、主からは勝利の約束のある戦いが、こうして始まる。
『彼らは昼ごろ出ていったが、ベネハダデは仮小屋で、味方の三十二人の王たちと共に酒を飲んで酔っていた。地方の代官の家来たちが先に出ていった。ベネハダデは斥候をつかわしたが、彼らは「サマリヤから人々が出てきた」と報告したので、彼は言った、「和解のために出てきたのであっても、生どりにせよ。また戦いのために出てきたのであっても、生どりにせよ」。』(1列王記20:16-18)
完全にイスラエルを見下げた態度である。
しかしイスラエルには、主の御言葉による後ろ盾がある。
『地方の代官の家来たちと、それに従う軍勢が町から出ていって、おのおのその相手を撃ち殺したので、スリヤびとは逃げた。イスラエルはこれを追ったが、スリヤの王ベネハダデは馬に乗り、騎兵を従えてのがれた。イスラエルの王は出ていって、馬と戦車をぶんどり、また大いにスリヤびとを撃ち殺した。』(1列王記20:19-21)
まさに、ギデオンの時のような奇跡が起きた。
なぜ、こんな最低な王・アハブの時代に、そんな奇跡が起きたのか?
いかに、アハブのような者であったとしても、主の言葉どおりに守り行うなら、主のお言葉どおり、なるのだ。
これは、誰でもそうである。
ただ、彼がこの時、主の御言葉通りに行なったのは、彼は主に悔い改めて立ち返ったからではなく、御声に聞き従おうと決心したからでもなく、今までどおり、誰にでもハイハイと言ってその場をくぐり抜けやり過ごして来た、彼の「行動パターンの一環」として、であったようだ。
なぜなら、後の彼の言動からは、この出来事から何かを学んだようなふしが見受けられず、敵に対し再び「ハイ」を言ってしまうからだ。
どういう時にハイを言うべきか、あるいはノーを言うべきか、その判別が分からない、という人がいるが、分からないなら、主に伺えば良いのである。
すなわち、聖書を開いて、御言葉には何と書いてあるのかを調べ、それが分からないなら、祈って主と相談し、祈り方も分からないなら、預言者のような、信仰の先輩に聞くのである。
あるいは、全て真実な事、尊ぶべき事、正しい事、純真な事、愛すべき事、誉れある事、また徳といわれるもの、称賛に値するものにこそ心を留め、それに即する方面を選択し、その通り行動するのが、聖書的である。
『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。』(ピリピ4:6-7)
もし私達が主の言葉どおりにして助かった時、祝福された時は、それをただ「ラッキー」で終わりにしてはならない。
その場合はしっかり主に感謝し、主に従順する事がどんなに幸いであり、従わない事がどんなにに呪いであるか、しっかりと心に留めて「学習」し、以後は主に従って歩む努力をすべきだ。
日本人は、場の空気を積極的に読んで、他人の心を害さないよう気を遣う事にかけては、世界一だが、それと同じ要領で、聖なる空気を積極的に読み、主の御心を害さないよう「聖なる気遣い」するよう心掛けるなら、誰よりも早く霊において長けた者となれるはずである。
今回、アハブは、預言者の言葉に従った故に、大勝利がもたらされた。
もし彼がそこから学び、その後は積極的に御声を求めて従って行けば、もっと良い王として歴史に名を残したであろう。
しかし彼は、そうではなかった。
アハブのようではなく、積極的に主の御声を求め、従い、祝福され、その祝福の法則をどんどん学んで体得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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- pastor 2016-9-7 10:30
イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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主は、それまで人々を主に立ち返らせるために、大いなる御業をイスラエルに示されたが、それにも関わらず、頑として主に立ち返らなかった。
そこで主は、立ち返らない者達を、これから「剣で殺す」事を宣言をされたが、主はすぐにはしない。
なお悔い改めて立ち返るチャンスを与えるために、主こそ力強い方、憐れみ深い方である事を、さらに示される。
この20章においては、主はエリヤ以外の預言者をアハブに遣わして取り扱われる。
アハブの預言者に対する態度は、エリヤに対してとは違い、一見好意的なもののように見える。
結局、彼は主に従いたいのか従いたくないのか、主の預言者を殺したいのかそうでないのか、はっきりしない立場を続けているが、この20章を見ると、もっと分かって来る。
アハブは誰に足してもNOを言わない、「どっちつかず」の性質であるかが。
何に対してもNOを言わない。それは一見、やさしくて平和的であるかのように、無害であるかのように見えるが、実をいうとそれは、熱いか冷たいかのどちらかより遥かに有害な性質だ。
事実、どっちつかずであった彼は、イスラエル史上最悪の王として数えられてしまっているし、また、どっちつかずだったポンテオ・ピラトも、イエス様を苦しめた者として数えられてしまっている。
誰にも反対しない、NOと言わない自分を「やさしい」「人格者だ」と自己評価している人は、実は、その煮え切らない態度が、自分の人生に多くの災いをもたらし、自分の家族や配下の人達から嫌われている原因であると、知るべきである。
シリヤの王ベン・ハダデは、大軍を率いてイスラエルを取り囲んだ時、イスラエルは干魃のため、無能な王の故に弱体化してしまっており、軍隊はほとんどいなかった。
そのような状況で、アハブ王は、シリヤの王から好き放題な事を言われる。
『スリヤの王ベネハダデはその軍勢をことごとく集めた。三十二人の王が彼と共におり、また馬と戦車もあった。彼は上ってサマリヤを囲み、これを攻めた。また彼は町に使者をつかわし、イスラエルの王アハブに言った、「ベネハダデはこう申します、『あなたの金銀はわたしのもの、またあなたの妻たちと子供たちの最も美しい者もわたしのものです』」。』(1列王記20:1-3)
神の民が、随分となめられたものであるが、アハブは、主にも、預言者にも、家来にさえも相談せずに即答してしまう。
『イスラエルの王は答えた、「王、わが主よ、仰せのとおり、わたしと、わたしの持ち物は皆あなたのものです」。』(1列王記20:4)
これは、脅して来る者に対しては最悪の答え方である。
脅して来る者、偽り者に対し、一番してはならないのは、「おおせのとおりです」と同意してしまう事だ。
悪しき者の脅しや偽り事に「同意」してしまうなら、相手はもっと図に乗って、さらに過酷な要求を突き付けて来るからだ。
自分は無理な要求を飲みました、頑張りました、そんな頑張ったわたしに免じて、優しく扱って下さい、などと考えるのは、妄想である。
脅しを仕掛けて来る者には、そんな思考パターンは、全く無い。
むしろ、もっと脅せばもっと搾り取れるだろう、と、さらに脅しの手を強めて来るのだ。
右の頬を打つ人には他の頬をも向けてやりなさい、という「主の御言葉に信仰をもって従う」事と、御言葉への信仰が全く捨て去られた人が「恐怖心から無抵抗になる」のとは、雲泥の差があるのだ。
『使者は再びきて言った、「ベネハダデはこう申します、『わたしはさきに人をつかわして、あなたの金銀、妻子を引きわたせと言いました。しかし、あすの今ごろ、しもべたちをあなたにつかわします。彼らはあなたの家と、あなたの家来の家を探って、すべて彼らの気にいる物を手に入れて奪い去るでしょう』」。』(1列王記20:5-6)
この通り、要求はもっと過酷になってしまった。
最初は、奪われるものはアハブの持ちものに限定されていたのに、今度は、アハブのみならず、家来の全部の家を自由に出入りして何でも奪い放題していい事になってしまった。
悪霊が人に入る時も、同じ原理である。
思いをガードせずに、空中に漂っているあの空想やこの空想を、両手放しで受け入れる事は、危険である。
空中は悪しき霊が座す所であり(エペソ2:2)、思いを開いて、漂っているあの霊この霊を受け入れてしまうなら、もっとたちの悪い者共に、ずかずか入り込まれてしまい、聞きたくもない霊の声が聞こえるようになり、ひどくなると、思いの中が悪霊どもの声々に圧殺され、突然笑い出したり、突然泣き出したり、意味不明な所作をいきなりし出したり、人の神経を逆撫でする絶妙なポイントをついて来たりして、どんどん人々から敬遠されてしまうのだ。
そのような人の性質は「無抵抗」「なんでも受け入れる」である。
だから、霊においても、実生活においても、ノーガードでいてはならない。
真理の帯で引き締め、正義の胸当で胸を守り、平和の福音を足に履き、信仰のたてを手に取って悪しき者の放つ火の矢を消し、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取って悪しき者を攻撃するのだ。(エペソ6:14-17)
そして、絶えず祈り、御霊によって祈り、霊において目覚めておくべきだ。(同18節)
何もかも悪霊に束縛され、奪われ、人々から疎外されてしまった人が唯一、救われる方法は、「その人自身の意志で」イエス様に助けを求めに行く事である。
レギオンという大勢の悪霊は、なぜ鎖を引きちぎる程の脚の力をもってイエス様から逃げる事をしないで、わざわざイエス様の所へと足を進め、自ら追い出されるために行ったのか。
悪霊どもとしては、追い出されたくはなかったであろう。しかし「本人自身が、意思をもってイエス様の所に行く」事の足だけは、どんなに強力な悪霊が、何千匹がかりで阻止しようとも、それを止める事は出来ないのだ。(マルコ5章)
『そこでイスラエルの王は国の長老をことごとく召して言った、「よく注意して、この人が無理な事を求めているのを知りなさい。彼は人をつかわして、わたしの妻子と金銀を求めたが、わたしはそれを拒まなかった」。』(1列王記20:7)
アハブは相手の要求が過酷になった時、イスラエルの神にではなく、家来に相談した。
あんなにも、ありありと、イスラエルの神・主のわざを見ておきながら、主に帰らず、国をこんなにも弱体化させたまま何も出来ないでいる、というのに。
『すべての長老および民は皆彼に言った、「聞いてはなりません。承諾してはなりません」。それで彼はベネハダデの使者に言った、「王、わが主に告げなさい。『あなたが初めに要求されたことは皆いたしましょう。しかし今度の事はできません』」。使者は去って復命した。』(1列王記20:8-9)
ここまでで、アハブは、シリヤの王に対しても、家来に対しても、全部「イエス」の回答しか返していない。
最初、シリヤに対して「イエス」で答えたが、家来と相談した時、シリヤに対して「ノー」をしなさいという勧めを、アハブは「イエス」し、結果、アハブはシリヤに「ノー」を突きつける事となった。
このように、複数の、相反する人達に対して全部「イエス」で返すなら、おのずと必ず誰かを裏切る事になり、激しい怒りを買って、相手からも身内からも信用されなくなって行く。
『ベネハダデは彼に人をつかわして言った、「もしサマリヤのちりが、わたしに従うすべての民の手を満たすに足りるならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記20:10)
つまり、自分の軍勢の人数は、サマリヤの砂粒の数よりも多いぞ、という脅しである。
『イスラエルの王は答えた、「『武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない』と告げなさい」。』(1列王記20:11)
武具を帯びる者とは、これから戦いをしようとする者、それを脱ぐ者は、戦いで勝敗が決まった者の事である。つまりアハブが言いたいのは、まだ戦ってもいないのに勝ち誇ったような事を言うな、という事である。
『ベネハダデは仮小屋で、王たちと酒を飲んでいたが、この事を聞いて、その家来たちに言った、「戦いの備えをせよ」。彼らは町にむかって戦いの備えをした。』(1列王記20:12)
こうして、戦いの火蓋が切って落とされるが、アラムの軍勢は「地に満ちていた」のに対し、イスラエルの軍勢は「二つの群れのやぎのよう」であった。(27節)
軍勢の数で比べるなら、イスラエルに勝ち目は無い。
このような状態で、策も根拠も無く、ただ流されるままに戦いの火蓋が切って落とされてしまったが、主は、そんな無策・無謀・流されるまま危機に陥って行ったイスラエルに救いの手を差し伸べられる。
なぜなら、主こそ力があり憐れみ深く頼りがいのある神である事を、人々に示されるためだ。
立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
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主に反逆する時代のイスラエルにおいて、3年半を通じた、目を見張るような主のしるしが、エリヤを通して行われ、人々は「主こそ神です」と叫び、信仰のリバイバルが起きた、かのように見えたが、たった一人の女・イゼベルによって、台無しにされてしまった。
エリヤは気落ちし、死を願うまでになってしまったが、主は彼を取り扱い、再び立てるようにしてくださる。
『エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:13-14)
主は、先にしたのと全く同じ質問をし、エリヤもまた、全く同じ答えを返した。
このやり取りは、一見ちぐはぐで、会話が成り立っていないように見えるが、はっきりしている事は、エリヤはこの時、主と「心の通う交わり」をしているという事である。
エリヤはこの交わりを続ける内に、着実に癒やされている。
交わりとは、必ずしも、言葉のつじつまの合うやり取りをしなければならない、というものではない。
エリヤは主との交わりの中、主の圧倒的な臨在と、力と、そして力強き御腕の守りにかくまわれている内に、彼のあらゆる鬱憤は吐き出され、癒やされて行った。
ちょうど小さな子供が、親の胸の中で激しく感情をぶつけ、自分で何を言っているかわからない事を叫びながらぶつかって行く内に、徐々に落ち着き、やがては、圧倒的に強く大きな親の胸の中で眠りに落ち込んで行くように。
ヨブも、同じ経験をした。
主は、ヨブの激しい問いかけには一切答えず、ただ主の圧倒的な臨在と御業とを見せた。
そうしてヨブは、全能の主を悟り、全ての事が可能である主を深く知るに至った。
それでヨブが悔い改め自分を低くした、その時、あらゆる問題は、問題ではなくなり、彼は以前にも増して二倍の祝福が与えられた。
主はエリヤの心を回復させ、そして、彼が為すべき事を教えられる。
『主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。』(1列王記19:15-17)
エリヤは決して一人ではない。
エリヤはこれから、彼の後継者であるエリシャを得、そしてエリヤは地上での役割が終えると、天に挙げられていく。
ダマスコのハザエルを王とするのは、エリヤではない。エリヤが天に挙げられた後、エリシャが王としたのだ。(2列王記8章)
また、さらにその後、エリシャの「預言者のともがら」の一人が、ニムシの子エフーに油を注ぐ。(2列王記9章)
「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは、「預言者学校の生徒」と訳されている。(2列王記2:3-5章)
エリヤが最初、絶望したように、預言者は殺され断たれてしまうのではない。
エリヤはこれから、エリシャという後継者を得、預言者学校を立ち上げ、多くの預言者達が育って行くのだ。
主の真実は、人に押しとどめられるものではなく、決して途絶える事は無い。
今後、エリヤを通して油注がれる人達に与えられる役割は、「つるぎで殺す」事である。
主は今まで、人が悔い改めて立ち返るようにと、目に見えて偉大なしるしを起こされたが、それでも人々は悔い改めなかった。
エリヤはそれで絶望したものだが、主は、頑固なまでに悔い改めなかった者達に対しては、今度は「殺す」ミニストリーを働き人に与えられる。
主は既に、「憐れみ」「立ち返り」のわざを、長らく人々に示された。
ありありとしたしるしを見、憐れみを体験しておきながら、それでもなお主を拒み、立ち返らないとなれば、もはや、憐れみのわざではなく、主は「殺しのわざ」に入ってしまう。
それは、全ての人に対して、そうである。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、贖いを成し遂げられた。
そして将来、主が再び来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いためにであり、決して、堕落と反逆の道を楽しむ事を止めない人々をもう一度赦すためではない。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)
『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。』(1列王記19:18)
主は確かに、主の民を残しておられる。どんなに不従順の背信の世代の中にあっても。
主の恵みの時間は、なお与えられている。
アハブもイゼベルも、すぐに殺されるわけではない。
こんなアハブやイゼベルにさえも、悔い改めて立ち返る期間が、まだまだ与えられているのだ。
主は、悪者が死ぬのを望まれない。
悪事を止めて、主に立ち返る事を望まれるけれども、人がどうしてもそれを止めないとするなら、もはや、その人には滅びしか残されていない。
こうしてエリヤは、主との交わりの内に立ち直って、早速主から命じれられた通り行うために出て行く。
『さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。
エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。』(1列王記19:19-21)
エリシャがエリヤから外套をかけられた時、彼は一瞬で、霊において、悟ったようである。
これは、主の働きへの召命である、と。
彼はエリヤからは一言も言われてはいなかったけれども、自分がそれまでしてきた仕事の道具を壊し、それを用いて父母に最後のもてなしをし、その後、エリヤに従って行った。
主の働きのために召しだされる時、言葉では言われなくても、霊において急き立てられるものがあり、それまでの仕事や家族は全て捨て置いてでも主に従って行かなくては、と思うものだ。
エリシャはそれまで、牛の一番後ろで働く勤勉な者であったが、その彼の勤勉さは、召し出された後もそうだった。
彼が、エリヤから離れまいとする気概は、どの預言者よりも強く、彼はエリヤが天にあげられたその瞬間まで、エリヤから離れなかった。
それで彼は将来、エリヤの2倍の霊が与えられる。
世の仕事という小さい事に忠実であるなら、主から、大きな事にも忠実であるとされ、主からさらに大きな役割が与えられるのだ。
エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(1列王記19:9-13)
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- pastor 2016-8-31 16:00
エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(1列王記19:9-13)
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傷心のエリヤは、個人的に主と向き合う必要があった。
彼の心は、あまりに落ち込み過ぎて、もはや、働く事どころか、主の前に行く事すらできなくなっていた。
そこで主は、彼に御使いを送り、焼いたパンと水を与えて元気づけて、彼を主の御前に進み出る事ができるようにさせて下さった。
『その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:9)
主は、エリヤが何をしているのかご存知であったが、敢えて聞かれた。
それは、その人自身の口から、今の自分の状態や考えを表明させ、主と交わりをさせるためである。
『彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:10)
「ただわたしだけが残りました」というのは、正しくはない。
オバデヤは主の預言者百人をかくまっていたし、イゼベルの言葉に習わず信仰を保ち続けている信仰者は、何人か残っていたはずだ。
エリヤはきっと、言葉どおりではなく、感じている「気持ち」を言ったのだろう。
確かにエリヤがして来た事、また負ってきた苦労を考えるに、そして、それら全てをイゼベルに覆えらされてしまった様を見るに、彼が絶望感を感じるのは無理もない。
イエス様もまた、ずっと一人ぼっちで絶望状態の人を訪ね、声をかけられた。
『そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。』(ヨハネ5:5-8)
彼は、イエス様から「よくなりたいか」と声をかけられた時、よくなりたい、と答えるのではなく、「わたしを***してくれる人がいません」と、さびしさを打ち明けた。
彼の周りにいた人々は、彼を差し置いてどんどん病気が治ってその場所を卒業して行く。
でも自分には、自分を助けてくれる人が誰もいないまま、38年もずっとこのまま。
イエス様は、彼の切々とした言葉に対し、「ああ、大変でしたね」といった、同情の言葉は、一切かけない。
その代わりにイエス様は、非常に単純明快な、彼の全てを癒やすために為すべき具体的な「御言葉」をかけられる。
『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。』(ヨハネ5:8-9)
この人の解決は、あっという間だった。
それは、御言葉の通りに行なった時だった。
御言葉の通り行う時、どんなに根強くしぶとい問題でも、解決するパワーが生まれる。
結局、主イエス様の言葉どおりに行う事こそ、全ての問題の解決の源なのだが、それを抜きにして感傷に浸り続けたり、イエス様でないものに解決や同情を求め続けても、解決は何年経っても見えない。
イエス様は、何を為すべきかを、御言葉をもって告げられる。
そして人は、その主から言われた事を、実行するのかどうか。そこが大事である。
『主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:11-13)
主が通り過ぎられた時、とても激しい出来事が起きた。岩や山をも砕く風は、どれほど激しいものだろう。
もし、か弱い人間がそこにいたなら、岩とともに砕かれていただろうし、火に焼かれてしまっていただろう。
しかしエリヤは、岩のほら穴の中に匿われ、守られていた。
主は元々、激しく力強いお方である。
主がそこを通られただけで、岩も山も砕かれてしまう風が起こるのだから、不信仰で頑なな者共をたちまちにして滅ぼす事は、いともたやすいはずである。
しかし主は、憐れみにより、すぐに滅ぼし尽くすという事は、されない。
むしろ主は、邪悪な時代の中で、人を害する滅びの風が吹きつけないよう、御使いを遣わして守っておられる。(黙示録7:1-3)
悪い時代は、あざける者達が、自分の欲望に従って好き勝手な事をしている。
しかし今の天と地は、主の「ことば」によって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている。(2ペテロ3:1-7)
なぜ、主はすぐにさばきをなされないか。それは、主は忍耐深くあられ、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからだ。(同9節)
『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。・・・しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。』(2ペテロ3:10-14)
人は、遅い、と思う。
なぜこんな邪悪な人々の、放埒なふるまいを、主は許しておられるのだろう、と。
もし主が号令をかけられるなら、たちまちにして悪者共を滅ぼし、全世界・全宇宙を刷新する事がお出来になる。
しかし主は、一人も滅びることを望まれず、一人でも立ち返る事を望まれ、忍耐して待っておられ、さばきを先延ばしにしておられるのだ。
そして主は、主に忠実な働き人をあらゆる攻撃や災いから守り、かくまい、折れてしまった心をやさしく包み、癒やし、立ち直らせて下さる。
エリヤが見た時、主は風の中におられず、地震の中にも、その後の火の中にも、主はおられなかった。
ただ、火の後、静かな、細い、主のことばを聞いた。
その時、彼は外套で顔を覆った。
主の働き人を建て上げるのも、癒やすのも、そして、新天新地を創るのも、結局全て「主のことば」によるのだ。
主は、声をかけられる。
エリヤよ、ここで何をしているのか、と。
主は、私達にも促しを与えられる。
今、どこにいるのか。
そこで、何をしているのか。
よくなりたいか。
私達は主の言葉を受け、そのことばを信じてその通りにするなら、天地を創られた主のことばが癒やし、立て直し、働きへ再び召し出されて行くのだ。
偉大な預言者エリヤをたった一言で萎えさせたイゼベル(1列王記19:1-8)
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- pastor 2016-8-29 11:10
偉大な預言者エリヤをたった一言で萎えさせたイゼベル(1列王記19:1-8)
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『アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記19:1-2)
いつも尻に敷いている夫・アハブ王の口から聞いたエリヤのわざ、すなわち、主の偉大な御業は、残念ながら彼女の心に響かなかった。
アハブがイゼベルに言ったのは「エリヤのしたすべての事」と、「彼がすべての預言者を刀で殺した事」の二点であったが、彼女は、エリヤを通して働かれた主の御業については一切、触れなかった。
彼女が抱え込んで来た、無能なバアルやアシェラの預言者が、この3年半、いかに「何の益ももたらさなかったのか」についても、また、バアルによっては何も起きず、ただ主の御名によって火が降り、再び恵みの雨が再び戻り、そして主の雨の恩恵に与れた事についても、一切触れず、ただ、彼女が抱えてきた預言者達が殺された事に怒り心頭し、エリヤを殺してやる、と、直情的・非論理的で、全く道理を外した行動に出た。
イゼベルは、兵隊をいきなりエリヤに送って捕らえ殺すような事は、しなかった。
エリヤは、もしも兵隊に囲まれても、うまく立ち回っただろう。実際、後にエリヤを囲もうとした兵士達には火が下され、全員焼け死んでしまった事が二度あった。(2列王記1章)
しかしイゼベルは、軍隊を送るよりも、はるかに効果的に、預言者の心を萎えさせる事に成功した。
エリヤは長年、主に熱心に仕え、忍耐をもって御言葉を伝え、悔い改めを促し、そしてようやく主のわざが人々の前に起こされ、人々は「主こそ神です」と叫び、ようやく雨が戻って来た、というのに、たった一人の女、それも、その場に参加せず、イスラエルのために努力する事も一切しなかった女、それも、感情的で、短絡的で、非論理的な一人の女の叫びによって、してきた事全部がひっくり返されてしまう。
御言葉を伝える主の働き人にとって、どれ程心萎えてしまう瞬間だろう。
努力せず、現場に参加せず、実際に働いて来た人々の長い間の努力を、直情的・非論理的に一瞬にしてひっくり返してしまうような権威者が一人でもいるなら、その集団には、前進は望めない。どんなミニストリーでも、会社でも。
主は、イゼベルを速やかに処罰する事をされない。なぜなら主は、あのイゼベルにさえ、悔い改めの機会を与えられるからだ。
しかし、それでもなお行いを改めないなら、その最後は、とても無残なものとなってしまう。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)
イゼベルのように、無残な最後へと至ってしまう者の特徴は、主の力ある御業が示されても、なお自分が欲する事を頑として曲げず、悔い改めず、ただ自分の思い通りに行かなかった事を怒り、逆に主の働き人を殺そうとするような者だ。
主は、イゼベルについては速やかには扱わない。
しかし主の民、主のしもべに対しては、倒れてしまわないように速やかに助けの手を延べられる。
『そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。』(1列王記19:3-4)
ベエル・シェバは、そこからおよそ130キロ南、ユダの領地である。
エリヤは国外へと逃亡し、死を願うまでになってしまった。
イゼベルの言葉は、なんと功を奏した事だろう。
ベエル・シェバはアブラハムゆかりの地であり、また、彼がこれから行こうとしているシナイ山は、モーセゆかりの地である。
彼は、信仰の先祖達を意識したようである。
彼は「わたしは先祖にまさる者ではありません」と言ったが、あいにく、自分という人間を評価するのは、自分ではないし、誰か他の人間でもない。
それは、主である。
エリヤは新旧約にも登場する、預言者の代表格として、イエス様と共に、変貌山で現れた。
彼は自分の死を願ったが、あいにくエリヤは、死を味わった事が無い者として聖書に記されている。
一時的な感情の荒波の内に、絶望感に満たされ、一時はマイナスな祈りをしたとしても、全て人の心の傷も弱さも全部ご存知である主は、その一時の言葉どおりに受け取る事はなさらない。
主は、主に熱心な働き人が傷心の時には、必要な助けを差し伸べる。
『彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。』(1列王記19:5-6)
主が御使を通してエリヤに送ってくださったものは、彼の願った死ではなく、パンと水だった。
心打ちひしがれ、主の慰めも、人の慰めも耳に入らない傷心の人には、どんな言葉よりも、ただ焼いたパンをそっと差し出すほうが、遥かに慰められるものだ。
イエス様も、傷心の弟子達に、同じ事をされる。
十字架のイエス様を前に、逃げ出してしまった弟子達は、イエス様が復活した後、手をこまねいて昔の仕事である漁に戻った事があった。
イエス様はそんな弟子達に現れ、一切、叱責する事なく、ただ、炭火で焼いた魚とパンを差し出された。(ヨハネ21:9-13)
主のために働いて来たのに、弱さの故にあやまちを犯してしまった、傷心の弟子達に、主は現れ、自ら焼いて下さった魚とパンを、そっと差し出された。
また主は、熱心に働いた末に心折られ、死を願うほど疲れ切ってしまったエリヤに、主は御使いを遣わし、焼いたパンを与えてくださった。
主はそのようなお方である。
そして、それらの主からの直接的な養いは、主のために労して働く「働き人」の特権である。
『主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(1列王記19:7-8)
御使いが二度目にパンと水をエリヤに与えた時、「道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」と言った。
あなたにはまだまだ、行くべき道がある、だからこれを食べて、元気づけて、行きなさい、と。
エリヤは、それを主からいただくと、四十日四十夜行って、神の山ホレブに向かった。
主が与えてくださるパンは、ただ日毎の空腹を満たすためのもののみならず、人間業ではとうて出来ないような主の働きをするに足りる元気を与えてくださるためでもあり、それを頂くなら、どんな険しく長い道程でも、進み行く事ができるのだ。
エリヤは、神の山ホレブに到着し、主の御前に立つ。
主と出会い、祈るためだ。
主は私達が弱り果て、心萎えてしまった時でも、主は直接的な食物を与え、再び主の前に立てるようにしてくださる。
この時代、主の働きをする人は、心へし折られてしまいそうな事柄が沢山あるが、それら全ての中にあっても、エリヤのように主に養われ、強められ、神と人との前で凛々しく働く力が与えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
イスラエルに注いだ3年半ぶりの大雨(1列王記18:36-46)
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バアルの預言者達と、主の預言者エリヤとの戦いは、本人同士の戦いではなく、彼らの背後の神同士の戦いだった。
私達も、人生の戦いの場面で、自分対相手という戦いからは降りて、天地を創られた主を背後につけて戦っていただく事のほうが、断然得である。
いかに、こちらがたった一人で弱くあっても、そして、相手がどんなに大人数で、歴戦の強者で権力や財産があったとしても、主につく側が勝利するのだ。
バアルの預言者達は、朝から踊ったり血を流し合ったりしてまで、バアルを呼び求めたものの、何も答える者は無かった。
それなのにエリヤは、たった一回の祈りで、事を終わらせる。
『夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。』(1列王記18:36-38)
主こそ生きておられ、力強き神である事が証明された瞬間だ。
エリヤは、主に定められた時、主の御名を置いた祭壇を築き直し、主に呼ばわって祈った。
主の御旨に適った時、方法、言葉で祈るなら、主は一発でその祈りを聞かれるが、主の御旨に叶っていないものは、何度祈っても、踊り狂って血を流しても、無意味なのだ。
この、3年半も天から雨が降らないという、大掛かりな「しるし」は、何のために起きたか。
それは、人々が主を信じるようになるために他ならない。
人々が主を信じるようになるために、主は、人に望ましくない事を送られる事がある。
それを起こされる目的は、その人を罰して滅ぼすためではなく、その人を永遠に救うためであり、彼がどんなにむなしいものを求めていたのか、彼がどんなに主の前に失礼を犯して来たか、彼がどんなに無力であるのかを、とことん味わわせた後、主へと立ち返らせるためだ。
エリヤが祈った結果、天から火が降ってきて、主の前に置かれたいけにえだけでなく、水さえもその火は焼きつくしてしまった。
これ以上、主が生きておられる事の明確なしるしはない。これを見、また聞いておきながら主に立ち返らず、心頑なにするなら、そのような者は、もう救いようがない。
だから私達も、もし主のしるしを求めるとするなら、気をつけるべきである。
『民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。エリヤは彼らに言った、「バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない」。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した。』(1列王記18:39-40)
バアルやアシェラの預言者達が除かれた後、恵みの雨が戻って来る。
イスラエルに不信仰を助長させていた者達がいなくなると、恵みの雨が降るのと同じように、私達の生活を主の御前で堕落させるような、有害無益な習慣や言葉が除かれるなら、恵みの雨が近づいて来る。
『エリヤはアハブに言った、「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」。』(1列王記18:41)
エリヤには聞こえた。雨の音が。
私達も、主の前に、あるいは御言葉を前に、明らかに取り除くべき事を、取り除くなら、それまで何年も降っていなかった恵みの雨音が、聞こえてくるようになるのだ。
そして、その雨が実体となるまでは、なお祈りと行動を続けるべきである。
『アハブは食い飲みするために上っていった。しかしエリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていたが、彼はしもべに言った、「上っていって海の方を見なさい」。彼は上っていって、見て、「何もありません」と言ったので、エリヤは「もう一度行きなさい」と言って七度に及んだ。七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。エリヤは言った、「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。』(1列王記18:42-44)
エリヤは最後まで、祈りの手を緩めなかった。
私達も、主から確信が与えられても、なお行動し、祈り続けるべきなのだ。
望みをもって為して行く事を続けるなら、最初は手のひら程の小さな雲であっても、やがては恵みの大雨となる。
『すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った。また主の手がエリヤに臨んだので、彼は腰をからげ、エズレルの入口までアハブの前に走っていった。』(1列王記18:45-46)
こうして、3年半ぶりに、イスラエルに大雨が降り注いだ。
それまで人々は主を軽んじ、無視していた。
しかしこのききんの3年半、主が遣わされたエリヤの言葉を人々はもはや無視できず、彼を「イスラエルに災いをもたらすもの」と言っていたものだが、結局これら一連の事を通して、イスラエルに災いをもたらしていたのは、実は自分たちであった、自分たちこそ、まことの神である主を退け、主に失礼な態度を取り、自分こそ災いを招いていた元であった事が、否応なく示された。
私達も、災いを招いていた原因が、実は自分の主に対する不従順であったという事は無いだろうか。
私達自身が悔い改め、心をつくし行いをもって立ち返るなら、恵みの雨が戻ってくるのだ。
エリヤは、祈ると天が閉じ、再び祈ると天が開いたが、彼は私達と同じ人間である。
私達も主にあって歩み、主が定められた通りに礼拝し、主に捧げ、祈るなら、主は雨を降らせて下さる。
この干魃のような時代の中、エリヤのように、この時代に対し霊的潤いをもたらす事に大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主の栄光のために創られた、高価で尊い「あなた」(イザヤ43:1-7)
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- pastor 2016-8-24 19:50