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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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アハブは再びエリヤと会合する。

『そのとき、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。また彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう』」。』(1列王記21:17-19)
エリヤが主から呼ばれ、アハブと会うように言われたのは、アハブとイゼベルが共謀して義人ナボテを殺し、彼のぶどう畑を取り上げるために出かけるタイミングであった。
アハブはそれまで、主から、その身に見合わないほどの憐れみが与えられていたにもかかわらず、主に立ち返らず、また、警告を受けてもなお潔白な人の血を流し、その血塗られた地所を手に入れようとして出たその時、彼に与えられていた「主の憐れみの分量」は尽きてしまったのである。

『アハブはエリヤに言った、「わが敵よ、ついに、わたしを見つけたのか」。』(1列王記21:20a)
アハブ王はエリヤを見た時、会いたくない者に出くわしてしまったかのように、「敵」と評した。
しかしエリヤは別に、アハブに不当に危害を加えようとした訳ではなかった。
エリヤはただ、主の前で悪を行なってきたアハブに、何度も何度も警告して来ただけであったが、アハブは、言われても言われても聞かず、その故に諸々の天的な災難がアハブに起きて来ただけなのだ。
アハブはそんなエリヤを煙たがり、口うるさい男、不思議な奇跡を起こしてまでして自分を悩ます者、と、勝手な評価を下していたのだ。

『彼は言った、「見つけました。あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、』(1列王記21:20b)
原文的には、「あなたは、主の目に悪と見られるわざへと、あなた自身を売り渡したゆえ、あなたを見つけました。」となる。

悪のわざへと、自分自身を売り渡す・・・そう、彼はまさに自分自身を、そしてイスラエルの王権とを、イゼベルへと売り渡していた。
彼はイゼベルのアドバイスに従い、卑怯な手を用いてでも得られる「恩恵」に預かるために、彼女に言われるまま実行し続けて来たのだ。

私達も、サタン由来の悪しき意図のほうが御言葉よりも「得」だと思い、その体を売り渡し続けるなら、アハブと同じようなさばきを受ける者となってしまう。
アハブは、イゼベルを拒絶して、主に悔い改める機会は何度もあったのに、彼は結局、不当な利益を得たいがために、イゼベルに自分自身を売り渡してしまったのだ。
エリヤはそれで、主の言葉を伝えに行った。

『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。
イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」。』(1列王記21:20b-24)
いよいよアハブに対し、彼の一族郎党は、ヤロブアムやバシャの家同様、皆殺しにされてしまう宣告が下された。
アハブは、預言者に対してもイゼベルに対しても、神に対しても悪魔に対しても、全部「イエス」と言って肯定するような、どっちつかずの態度を続けていた故に、結局、あっちに迷惑をかけ、こっちに迷惑をかけ、主の裁きを先延ばしにし、そうして多くの人々に長時間迷惑をかけた末に、イゼベルに加担して、ようやく滅びの裁きが確定してしまった。

本来なら、もっと前にその宣告が降されても不思議ではなかった。
彼がイゼベルに従った罪ゆえ、全イスラエルに3年半のききんを呼んだ時、彼は立ち返らなかった。
エリヤを通して大いなるしるしが起きた時も、シリヤが攻めて来て到底勝ち目が無かったというのにそれでも主の憐れみによって勝利した時も、アハブは主に立ち返らなかった。
主は本当に憐れみ深く、忍耐深い。
しかし、それら全ての主に良くしていただいた事をことごとく無視し、なお、主の目に悪を行なったのだ。

『アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。』(1列王記21:25)
アハブの心は、イゼベルよりは悪くなかったかもしれない。自分から進んで悪を行う性質ではなかったかもしれない。
なにしろ、ナボテに語りかけた言い方には、やさしい気配りがみられる。
けれども彼は、イゼベルに選択権や裁量を明け渡した故に、イゼベルの悪の報いはアハブが刈り取る事になってしまった。
「悪を行うことに身を委ねる」、それこそ災いな性質である。

『彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。』(1列王記21:26)
偶像礼拝を導入するアイデアが思いついたのは、アハブではなくイゼベルだったかもしれない。それでも結局、アハブの罪になってしまう。

歴代の王で、アハブより悪辣な者は、他に幾らでもいたかもしれない。
また、アハブには、民草を気遣う心遣いや、敵をゆるす寛容さも見られた。
しかし、どんなに心遣いや寛容さを為した記憶が、本人自身に沢山あったとしても、また、悪い事を実行した記憶は自身に無いとしても、悪い者に選択権を渡し続け、悪しき意図に同意し続けるなら、その悪辣な者の受けるべき報いは、自分自身に受け、その評判は「最悪」となってしまうのだ。

たとえ、心の中で「自分は悪くない」と思っていたとしても、自分のハンコを、悪用する人に委ねてしまうなら、そのハンコを用いて引き起こされたあらゆる不利な契約や負債は、委ねた本人の責となってしまうのは、この世の常である。
もし「なんで自分は悪い事をした記憶は無いのに、むしろ善良な心を貫いているのに、こんなにも人生、災い続きなのだろう」と感じるなら、自分の人生のハンコを、すなわち、本来自分が持つべき裁量権や選択権を「何者か」に委ねていないかをチェックすべきである。

もしかすると、その「何者か」は、何度も同じ過ちを犯す伴侶かもしれないし、もしかすると、それが「常識」と思っていた程に、無意識に浸透している事柄かもしれない。
たとえ本人自身の記憶に、悪い契約をした、という記憶が無かったとしても、「その者」にハンコを渡し、彼に取引や契約ごとを委ねるなら、悪いわざの報いを受ける事となってしまう。どんなに本人の心や体に、悪い事をした記憶が無いとしても。

『アハブはこれらの言葉を聞いた時、衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち、荒布に伏し、打ちしおれて歩いた。』(1列王記21:27)
アハブは、エリヤが気に食わない事を言ったから彼を殺せと部下に命じるような事はせず、すぐに自らを低くする姿勢、悲しみを表す姿勢を取った。
彼は、エリヤの言葉を本気で受け止めたのだ。
そして主は、彼が食を断って打ちしおれて歩いた、その、わずかな悔いる行いを見逃さなかった。

『この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。』(1列王記21:28-29)
ああ、主は何と憐れみ深いお方だろう。
ほんのわずかでも、悔いる姿勢を見せただけで、アハブの生きている時にその災いを見るのを免れた。
実際、アハブ一族にそのさばきが行われたのは、アハブの孫の代だった。
結局、アハブのように、誰に対してもイエスしか言わず、ノーを言わない、その「どっちつかず」の性質の持ち主は、長い間周囲の人々に迷惑をかけ続け、最後には「あの人、なんとなく優しくて、特段悪い事はしなかったけれど、結局、最低だったね。」と評価されてしまうのだ。

私達の中から、アハブのような性質を取り除くべきである。
そして主に対してはいつも熱い思いで仕え、たとえ罪を犯したとしても、ダビデのようにすぐに、悔い改める心を持ち、いつも主に直接伺い、何をしても栄える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
いにしえの昔から私達の事を分かりきっておられた主(イザヤ44:1-8)
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世の価値観と神の価値観が相対する時(1列王記21:1-16)
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なぜアハブはイスラエル最悪の王と評されるのか。
その主な原因は、誰に対しても「イエス」と答えるけれど「ノー」を言えない、どっちつかずの性質ゆえであるが、そればかりでない。
彼は主から、見合わないほどの憐れみと助けを、何度も頂いておきながら、その時その時で「ラッキー」で終わらせ、学ぶ所が無く、主に恩を報いようとも、誠実に歩んで行こうともしない「恩知らず」であり、それでいて、主から叱責と警告をもらったら不機嫌になってふさぎ込む。
そのように、恩知らずでいい所どりの信仰、行き当たりばったりの信仰の彼であるが、その性質は21章において、ますますはっきりする。

『さてエズレルびとナボテはエズレルにぶどう畑をもっていたが、サマリヤの王アハブの宮殿のかたわらにあったので、アハブはナボテに言った、「あなたのぶどう畑はわたしの家の近くにあるので、わたしに譲って青物畑にさせてください。その代り、わたしはそれよりも良いぶどう畑をあなたにあげましょう。もしお望みならば、その価を金でさしあげましょう」。ナボテはアハブに言った、「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じて(主エホバにあって)いたしません」。』(1列王記21:1-3)
アハブは一見、何の変哲もない不動産売買を持ちかけているようである。
しかもアハブは、ナボテという平民に、好条件と気遣いを示したのに、それをナボテは断った。

ナボテのほうが不親切で偏屈者に見えるが、実は、御言葉に照らすなら、アハブのほうが悪く、ナボテのほうが正しい。
世の中の常識では、Aのほうが良くてBのほうが悪い、と見える事柄でも、実は神の国においては、Aのほうが悪くBのほうが正しかった、というような事は多々ある。
今回もまた、そうである。

御言葉には、次のように書いてある。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
『君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである。』(エゼキエル46:18)
ナボテは、主エホバの御名によって、アハブの申し出を拒否した。
彼は主エホバへの熱心ゆえに、主に対し悪を行なってばかりいるアハブが気に食わなかったという事も、あったかもしれない。
ともかく、御言葉に照らすなら、ナボテのほうが御言葉に適う事をしたのであり、アハブは違った事を行なったのは事実である。

『アハブはエズレルびとナボテが言った言葉を聞いて、悲しみ、かつ怒って家にはいった。ナボテが「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲りません」と言ったからである。アハブは床に伏し、顔をそむけて食事をしなかった。』(1列王記21:3-4)
アハブはナボテを王に逆らった科でいきなり死刑にする事はせず、悲しみ怒って、ふて寝した。
もしナボテが、超独裁国に生まれていたなら、すぐに殺され、財産没収されていた事だろうが、それに比べるならアハブは、まだましなようにも見える。
そこをもってしても、なぜ彼は「最悪な王」と評されているのか。
その疑問を持ち、なぜなのかを考え、御言葉から調べる習慣こそ、私達が霊的成長する上で非常に大事である。

『妻イゼベルは彼の所にきて、言った、「あなたは何をそんなに悲しんで、食事をなさらないのですか」。彼は彼女に言った、「わたしはエズレルびとナボテに『あなたのぶどう畑を金で譲ってください。もし望むならば、その代りに、ほかのぶどう畑をあげよう』と言ったが、彼は答えて『わたしはぶどう畑を譲りません』と言ったからだ」。妻イゼベルは彼に言った、「あなたが今イスラエルを治めているのですか。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがエズレルびとナボテのぶどう畑をあなたにあげます」。
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印をおして、ナボテと同じように、その町に住んでいる長老たちと身分の尊い人々に、その手紙を送った。彼女はその手紙に書きしるした、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」。』(1列王記21:5-9)

権威のある者が、気に食わない無実の人に濡衣を着せ、抹殺し、その財産を取り上げる事は、確かに邪悪であるが、この世では珍しくはないように思えるかもしれない。
しかし十戒に書いてある。
偶像礼拝してはならない、主の御名をみだりに唱えてはならない、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人について偽証してはならない、隣人のものを欲しがってはならない、と。
イゼベルの行おうとする事は、それら全てを破る事であるが、アハブは自分が欲しいものを手に入れられるなら、手段が邪悪であっても、御言葉に背いていても、目をつぶろう、と、権威の実印を彼女にわたしてしまう。

本来、神の民であるなら、御言葉に反する事を勧められた来た時には、「御言葉にこう書いてある」と言って、きっぱり退けるべきだが、アハブは、イゼベルという女をなすがままにした。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)
私達は、神の民を惑わすイゼベルを、なすがままにさせたり、ましてや、大切な実印を邪悪な者に明け渡してはならない。
イゼベルがアハブの印鑑を用いて成した事は、世の中では珍しくなくても、神の国では邪悪な事だった。

『その町の人々、すなわち、その町に住んでいる長老たちおよび身分の尊い人々は、イゼベルが言いつかわしたようにした。彼女が彼らに送った手紙に書きしるされていたように、彼らは断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせた。そしてふたりのよこしまな者がはいってきて、その前にすわり、そのよこしまな者たちが民の前でナボテを訴えて、「ナボテは神と王とをのろった」と言った。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石で撃ち殺した。』(1列王記21:11-13)
彼らは、二人以上の証人の証言とか(申命記17:6)、断食を布告するとか、一見聖書的な事を言ってはいるが、結局、彼らがした事は偽証であり、殺人である。
彼らは、二人のよこしまな者を連れてきて、偽りの証言をさせ、ナボテを死刑にしたが、それも明らかに律法に反している事である。

彼らはなまじ御言葉を知っている故に、知らないで犯す罪より、重い。
申命記19章に書いてある。偽りの証人を立てて相手を陥れる事が発覚した場合、手には手、歯には歯、いのちにはいのちで返さなくてはならない、と。
そして彼らは、それに従って裁かれてしまう事になる

アハブは思うかもしれない。
自分は邪悪な心は持っていませんでした、むしろナボテに親切にしました、自分は善良です、と。
しかし、この世の契約ごとにおいても、もし第三者に印鑑を託したなら、彼がその印鑑を用いて為した事、イコール本人の意思決定と見做され、責任がつきまとうのと同じように、アハブがイゼベルに印を渡して委託したのなら、イゼベルがした事は、アハブ本人自身がした事となる。
これは、私達についても全く同じであり、もし私達が、主を知らない者にアドバイスされた通り実行したり、その者に自分の支配権や行動権を託したりするなら、その者の邪悪な価値観に基いて受けるべきさばきを負ってしまう。

こうして、ナボテという義人は、殺された。
義人の血が流されるなら、その血はその土地から主に向かって叫ぶ。
そしてその土地は、血を流した者に対して「不作」を返し、その者は、働いても種を蒔いても実りが無く、呪われた者となってしまう。(創世記4章)
無実ゆえに流されてきた血は、決して虚しく消える事は無い。
その血は主の御前で叫ぶ。主はその人達のたましいに安息を与えられ、そして主の時が来た時、血を流した者達は必ず、その血を飲まされる事となる。(黙示録6:9-11,16:6)

『イゼベルはナボテが石で撃ち殺されたのを聞くとすぐ、アハブに言った、「立って、あのエズレルびとナボテが、あなたに金で譲ることを拒んだぶどう畑を取りなさい。ナボテは生きていません。死んだのです」。アハブはナボテの死んだのを聞くとすぐ、立って、エズレルびとナボテのぶどう畑を取るために、そこへ下っていった。』(1列王記21:15)
こうしてアハブとイゼベルは、せっかく主の憐れみが示されて、悔い改めるべき時期が与えられていたのに、それを無視し、あたかも主がいないかのように、何をしても許されるかのようにふるまい、しまいには、偽証をして無実の血を流し、その持ち物を奪った。
このような、主を敬わない態度を取り続ける者には、やがて滅びが追いついてしまう。

私達は、この世の常識や慣習と神の国の真理との間で、板挟みになる事はある。
しかしその都度、私達御言葉に従う道を選択し、歩んで行くべきである。

主に聞かず、「おだて」に乗って、ほいほいと契約を進めてしまったアハブ(1列王記20:31-43)
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主に対し罪ばかり犯してきたイスラエルは、主から保護されるような要素は一切無かったというのに、ただ、主の一方的な憐れみによって、勝てる要素の全く無い戦いに二度も勝利した。
アハブは、主に感謝しても、しきれない筈であり、その後はただ主に聞き従って、何事も主に相談して歩めば良いはずだった。
しかし彼は、自分勝手な道を歩み続けてしまう。

『家来たちは彼に言った、「イスラエルの家の王たちはあわれみ深い王であると聞いています。それでわれわれの腰に荒布をつけ、くびになわをかけて、イスラエルの王の所へ行かせてください。たぶん彼はあなたの命を助けるでしょう」。そこで彼らは荒布を腰にまき、なわをくびにかけてイスラエルの王の所へ行って言った、「あなたのしもべベネハダデが『どうぞ、わたしの命を助けてください』と申しています」。アハブは言った、「彼はまだ生きているのですか。彼はわたしの兄弟です」。』(1列王記20:31-32)
アハブは、「憐れみ深い王」という言葉と、ベン・ハダデの徹底的に低くなった態度に、気を良くしたのかもしれない。
それで彼は、決定的ミスを犯してしまう。

『その人々はこれを吉兆としてすみやかに彼の言葉をうけ、「そうです。ベネハダデはあなたの兄弟です」と言ったので、彼は言った、「行って彼をつれてきなさい」。
それでベネハダデは彼の所に出てきたので、彼はこれを自分の車に乗せた。ベネハダデは彼に言った、「わたしの父が、あなたの父上から取った町々は返します。またわたしの父がサマリヤに造ったように、あなたはダマスコに、あなたのために市場を設けなさい」。アハブは言った、「わたしはこの契約をもってあなたを帰らせましょう」。こうしてアハブは彼と契約を結び、彼を帰らせた。』(1列王記20:33)

アハブは相手を「兄弟」呼ばわりし、その者を連れて来て、自分の戦車に同乗させ、契約を結び、自由にしてしまった。
しかし相手は、そんな事は決してしてはならない相手だったのだ。

今まで悪どい事を繰り返しして来た者が、痛い目にあって、表面上へりくだって来たとしても、すぐさま気を許したり、こちらの懐を見せたりしてはならない。
イエス様が言われた戒め、すなわち、もし兄弟姉妹が一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたに来るなら赦してやりなさい、と言ったのは「兄弟姉妹間の事」であり、なおかつ、相手が「悔い改めます」と言って来た場合の事である。(ルカ17:3-4)
ベン・ハダデは兄弟ではないし、自分が悪かった事を認める言葉も、もう立ち向かう事はしませんという言葉も、一切言っていない。

実際、ベン・ハダデは解き放たれた後、イスラエルに町々を返さなかったし、再び戦争状態となった。
ベン・ハダデは後に、イスラエルを包囲して兵糧攻めにし、その時、イスラエル内は、母達が自分の子を煮て食べる程の飢餓状態に陥ってしまった。(2列王記6:24-25)
ダマスコの市場を解放するとか、契約とか、全くのうそ八百である。
彼は、恩を仇で返す事に何の躊躇もない、主の目に「滅ぼされるべき者」だったのだ。

契約において、買い物において、人間関係において、よく失敗してしまう人の性質は、アハブのように、主に相談しないで、「おだて」に乗せられたなら、ほいほいと契約ごとを進めてしまう人だ。
このように、口八丁手八丁を駆使して、守りもしない約束を連発し、憐れみを受けてもそれを覚えておらず、平気で約束をひっくり返して牙をむくような者は、いつの時代でも存在する。
洞察力のある人でなければ、見抜く事は難しい。
だからこそ私達は、何事も主に伺うべきであって、即答すべきではない。
特に、重要な決断をする時や、大きな買い物をする時、大きな契約をする時などは。

それに対し、当時の南ユダ王国の王・ヨシャパテは、いつも主に伺うたしなみがあった。
アハブはその後、ベン・ハダデに戦いを仕掛けようとして、ヨシャパテ王に一緒に行くように持ちかけた時、ヨシャパテは「まず、主のことばを伺ってみてください。」と勧めた。(1列王記22:5)


『さて預言者のともがらのひとりが主の言葉に従ってその仲間に言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。しかしその人は撃つことを拒んだので、彼はその人に言った、「あなたは主の言葉に聞き従わないゆえ、わたしを離れて行くとすぐ、ししがあなたを殺すでしょう」。その人が彼のそばを離れて行くとすぐ、ししが彼に会って彼を殺した。』(1列王記20:35-36)
「ともがら」を打つ事には、誰でも気が引けるし、憐れみを示したくもなる。
しかし、たとえ相手がともがらであっても、ベン・ハダデであっても、あるいは、自分のかわいい子であったとしても、打たなくてはならない場合がある。
特に、「主が」打てと言われる場合は。
その主の言葉に従わず、「下手な憐れみ」を示してしまうなら、やがて相手は「しし」に変わり、こちらを食い殺しにかかって来るからだ。

『彼はまたほかの人に会って言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。するとその人は彼を撃ち、撃って傷つけた。こうしてその預言者は行って、道のかたわらで王を待ち、目にほうたいを当てて姿を変えていた。』(1列王記20:37-38)
彼は、自分自身に傷を負わせてでも、主の命令ゆえに、王の前に出て主の言葉を伝えなくてはならない事情があった。

『王が通り過ぎる時、王に呼ばわって言った、「しもべはいくさの中に出て行きましたが、ある軍人が、ひとりの人をわたしの所につれてきて言いました、『この人を守っていなさい。もし彼がいなくなれば、あなたの命を彼の命に代えるか、または銀一タラントを払わなければならない』。ところが、しもべはあちらこちらと忙しくしていたので、ついに彼はいなくなりました」。イスラエルの王は彼に言った、「あなたはそのとおりにさばかれなければならない。あなたが自分でそれを定めたのです」。
そこで彼が急いで目のほうたいを取り除いたので、イスラエルの王はそれが預言者のひとりであることを知った。彼は王に言った、「主はこう仰せられる、『わたしが滅ぼそうと定めた人を、あなたは自分の手から放して行かせたので、あなたの命は彼の命に代り、あなたの民は彼の民に代るであろう』と」。』(1列王記20:39-42)
主の御心は、ベン・ハダデおよびアラム(シリヤ)を、滅ぼす事だった、というのに、アハブは彼を手放し、行かせてしまった。

主から、滅ぼし尽くすように、と定められたもの、例えば、自分自身の悪い習慣や、手くせ、悪いつきあいなど、それらを手放さなず、むしろそれらを自由に解き放ち、再契約してしまうようなら、今度は、自分自身が主に滅ぼされる対象となってしまう。
サウル王もそうだった。
主から「滅ぼし尽くしなさい」と言われていたアマレクを滅ぼし尽くさず、一部を惜しんでしまった故に、彼は王位から退けられてしまった。
それでサウル王も、アハブ王も、一致した運命を辿る。
すなわち、自分が滅ぼし尽くさなかったその相手から、逆に滅ぼされてしまう、という運命だ。

『イスラエルの王は悲しみ、かつ怒って自分の家におもむき、サマリヤに帰った。』(1列王記20:43)
アハブの、主からの言葉に対する対応は、不機嫌になって、激しく怒り、自分の所に帰る、というものだった。
これは、滅びが確定してしまう者の性質である。

イスラエルで最も偉大な王・ダビデの場合は、預言者から罪が指摘された時、「わたしは罪を犯した」と言ってすみやかに悔い改め、主に赦しを乞うた。(2サムエル12章、詩篇51篇)
主はそれで、ダビデから死を免れさせて下さり、彼は死なかった。

イスラエルで最も偉大な王と最悪な王との違いは、罪を犯す・犯さないの違いではなく、神の人から罪を指摘された時、自分の非を認めて悔い改めたか、それとも、怒ってそっぽ向いたかの違いであり、その違いが、私達を偉大にもするし、最悪にもする。
聞き従う事こそ、何にも勝るいけにえである。
そして背く事は、占いの罪であり、強情は、偶像礼拝の罪である。(1サムエル記15:22-23)
主の言葉を聞いて、不機嫌になるなど、とんでもない事だ。

人は罪を犯す。間違いも犯す。何が正しい事であり、どの道を行けば良いのか分からないものである。
だからこそ、主に聞く必要があるのだ。
ダビデのように、主を愛し、いつも主に伺い、罪を指摘されたらすぐ悔い改める、この偉大な王としての性質を身につけ、偉大になっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
主ご自身の一方的な憐れみ赦し故に、そむきの罪はぬぐい去られる(イザヤ43:22-28)
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主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
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イスラエルは本来、主から助けられるには全く値しないような、主に対して不誠実続きだったにもかかわらず、一方的に主からの恵みを受け、到底勝ち目の無いシリヤとの戦いは、勝利へと導かれた。

『時に、かの預言者がイスラエルの王のもとにきて言った、「行って、力を養い、なすべき事をよく考えなさい。来年の春にはスリヤの王が、あなたのところに攻め上ってくるからです」。』(1列王記20:22)
戦いは終わりではない、これからは主にあって何をなすべきか、主にあってどのような心構えでいるべきか、よく考えなさい、と、預言者は言う。
私達も、主に良くして頂いたなら、よく考えるべきである。
今後、自分は主に対しどのように在るべきか。主と共に、いかに歩んで行くべきかを。

いつも主の御前にどうあるべきかを、わきまえ知るために、知恵が必要である。
また、悪魔の攻撃は日々迫り来るものであり、誘惑との戦いも、ひっきりなしに来る。それに立ち向かうためにも、知恵が必要である。
知恵はいかにして見つけるべきだろうか。

知恵は、主を恐れる事から始まる。(箴言9:10)
私達には、主に対する「恐れ敬い」は、あるだろうか?
もし今、目の前に、総理大臣が来たとしたら、普段よりは身と心を引き締めるかもしれない。しかし主は、総理大臣よりもはるかに上に座しておられるお方である。
主を前にして礼拝する時、相応しい畏れ敬いは、あるだろうか?
もし、知恵を頂きたいのであれば、主に対する恐れ敬い、尊敬を、その態度で示すべきだ。

アハブは、「力を養い、なすべき事をよく考えなさい。」と言われたからには、一連の起きた出来事をよく思い返し、主は自分に何を望んでおられるのかを求めつつ、次の年の戦いに備えるべきだった。
主を待ち望む者こそ、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるからだ。(イザヤ40:31)

『スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。もしわれわれが平地で戦うならば、必ず彼らよりも強いでしょう。それでこうしなさい。王たちをおのおのその地位から退かせ、総督を置いてそれに代らせなさい。またあなたが失った軍勢に等しい軍勢を集め、馬は馬、戦車は戦車をもって補いなさい。こうしてわれわれが平地で戦うならば必ず彼らよりも強いでしょう」。彼はその言葉を聞きいれて、そのようにした。』(1列王記20:23-25)
シリヤは、自分たちが敗北した戦いを分析し、作戦を練りなおした。これは肉弾戦ではなく、背後にいる神が、勝敗の鍵を握っている、と。
しかし彼らは、イスラエルの神である主を、あたかも、数多ある神々のうちの一つであるかのように見た。
彼らの着眼点は非常に良いのだが、イスラエルの神に対する認識が誤っていた。

彼らは、思っていた。
地方地方には、固有の影響力を持つ神々がいて、それぞれ、得意分野・不得意分野がある、と。
現代日本人も、多くはそう思っているかもしれないが、あいにく、イスラエルの神である主は、「沢山ある神々のうちの一つ」ではない。
全地・全宇宙を創られた全能なる神であり、人の空想の産物である「神々」を、むなしいものとされるお方である。(詩篇97:9)

『春になって、ベネハダデはスリヤびとを集めて、イスラエルと戦うために、アペクに上ってきた。イスラエルの人々は召集され、糧食を受けて彼らを迎え撃つために出かけた。イスラエルの人々はやぎの二つの小さい群れのように彼らの前に陣取ったが、スリヤびとはその地に満ちていた。』(1列王記20:26-27)
再び戦いが起きるが、やはりイスラエルは、数では勝ち目はなさそうである。
しかし、主の言葉は、あらかじめあった。

アハブは、主をわきまえ知る時間が1年与えられていた。
その間、アハブはどんな心備えをしていたのかは書かれていない。もしかすると、全くしていなかったかもしれない。
しかし、この度の戦いも、ただ主ご自身が一方的に働かれる。

『その時神の人がきて、イスラエルの王に言った、「主はこう仰せられる、『スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう』」。』(1列王記20:28)
神の人からのこの情報は、イスラエルは別に知っていなくても、勝負の決定には関係無かったかもしれない。
しかし、この情報は、主がどんなお方であり、人はどのように神と関係して行くべきかを知るためには非常に重要な事柄である。
すなわち、神は、山の神や海の神など、人間が限定できるようなお方ではなく、全地を治め、全ての神々を見下ろし無とされる主であり、敵が陣営の中で思い巡らすはかりごとさえ、全て知っておられるお方であるという事、そして、主を見くびる者には主は災いをもって報いられるお方である事だ。

申命記で、モーセは、似た事を言っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)

主はなぜ、勝ち目のない敵をイスラエルに渡され、勝利をもたらされるのか。
それは「敵が悪いため」である。
何度も繰り返して言われている事は「あの者達が悪いから」「あなたが正しいからではない」という事であり、もし、イスラエルが勝利した場合は、「自分が正しいから」「自分の知恵や力のおかげだ」などと、思ってもみてはならない。
主はむしろ、あなたがたは頑なだ、主の前に強情だ、と言われる。
ただ、この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前からあの者共を追い払われるのである、と。

モーセの時代も、アハブの時代も、主の御前にイスラエルは、何の益も見いだせなかった。
むしろイスラエルは頑なで、主を煩わせる者達であったが、主はそんな彼らさえ、主の御名を置き、彼らの手を用いて勝利をもたらされるのだ。
だから、もし勝利がもたらされるとしたら、自分には何の誇りも無く、ただ主に栄光を捧げ、これからは主にのみ聞き従いつつ、歩むだけである。

『彼らは七日の間、互にむかいあって陣取り、七日目になって戦いを交えたが、イスラエルの人々は一日にスリヤびとの歩兵十万人を殺した。そのほかの者はアペクの町に逃げこんだが、城壁がくずれて、その残った二万七千人の上に倒れた。ベネハダデは逃げて町に入り、奥の間にはいった。』(1列王記20:29-30)
こうして、やぎの群れのようだったイスラエルは、十万もの相手を打ち破った。
さらには、城壁が崩れて二万七千人を打ったのは、まさに主ご自身だ。
主はこの度も、大勝利を与えて下さった。

これで、イスラエルはわきまえ知るべきだった。
自分はただ、主により頼んでいれば良いのだ、と。

しかしアハブは、残念ながら、主を知ろうという意欲がなかった。

私達は、何にもまして、知恵を得ることを求めるべきである
『それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。』(箴言4:5-6)
『あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。』(ヤコブ1:5-8)

とがめる事なく豊かに知恵を与えて下さる主に、求め、豊かに与えられ、主の栄光と共に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

無謀・無策のイスラエルに助けの手を延べられた主(1列王記20:13-21)
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イスラエル最悪の王・アハブは、シリヤという敵に「いいえ」を言えず、部下にも「いいえ」を言えず、確固とした信念なしに、ただ全部にハイハイと答えて行った結果、その煮え切らない態度は、イスラエルという国を、無謀な戦争へと導いてしまった。
試験日を忘れていた生徒が、何の対策もしないまま突然試験に臨まれてしまったように、この圧倒的不利な戦争は、勝つ算段も知恵も何もないまま突然訪れてしまった。
しかし主は、一方的に彼らに助けの手を差し伸べられる。

『この時ひとりの預言者がイスラエルの王アハブのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう』」。』(1列王記20:13)
主は何故に、霊的怠慢と背信続きの彼らに、こんなにも憐れみをかけられるのか。
それは「あなたは、わたしが主であることを、知るようになる」ためである。
ただ、主こそ力強い神であり、憐れみ深く恵みに富んでおられる、という事を彼らにありありと示し、主に立ち返るためだ。

『アハブは言った、「だれにさせましょうか」。彼は言った、「主はこう仰せられる、『地方の代官の家来たちにさせよ』」。アハブは言った、「だれが戦いを始めましょうか」。彼は答えた、「あなたです」。そこでアハブは地方の代官の家来たちを調べたところ二百三十二人あった。次にすべての民、すなわちイスラエルのすべての人を調べたところ七千人あった。』(1列王記20:14-15)
主が示される勝利の鍵は、『地方の代官の家来たち』である。
それは、NKJVでは「By the young leaders of the provinces.」、リビングバイブルでは「外人部隊」と訳されている。
つまり、イスラエルの民の誰かではなく、外部の者達が、勝利の鍵となる。

神の声に久しく聞かず、あれだけ大きなしるしが示されてもなお立ち返らないようなイスラエル。
彼らによっては勝利はもたらされない。むしろ主は、そんなイスラエルの力は敢えて用いられず、外部の者達を用いて勝利がもたらされる。
これは、主は全ての事が可能であり、決してあなどってはならないお方である事を、彼らに示されるためかもしれない。

『地方の代官の家来たち』の数は、二百三十二人であった。それと共に、イスラエルの兵は七千人。
それに対し、相手は、十万以上はいたと推測できる。(29節)
人の目には到底勝ち目の無い、しかし、主からは勝利の約束のある戦いが、こうして始まる。

『彼らは昼ごろ出ていったが、ベネハダデは仮小屋で、味方の三十二人の王たちと共に酒を飲んで酔っていた。地方の代官の家来たちが先に出ていった。ベネハダデは斥候をつかわしたが、彼らは「サマリヤから人々が出てきた」と報告したので、彼は言った、「和解のために出てきたのであっても、生どりにせよ。また戦いのために出てきたのであっても、生どりにせよ」。』(1列王記20:16-18)
完全にイスラエルを見下げた態度である。
しかしイスラエルには、主の御言葉による後ろ盾がある。

『地方の代官の家来たちと、それに従う軍勢が町から出ていって、おのおのその相手を撃ち殺したので、スリヤびとは逃げた。イスラエルはこれを追ったが、スリヤの王ベネハダデは馬に乗り、騎兵を従えてのがれた。イスラエルの王は出ていって、馬と戦車をぶんどり、また大いにスリヤびとを撃ち殺した。』(1列王記20:19-21)
まさに、ギデオンの時のような奇跡が起きた。
なぜ、こんな最低な王・アハブの時代に、そんな奇跡が起きたのか?

いかに、アハブのような者であったとしても、主の言葉どおりに守り行うなら、主のお言葉どおり、なるのだ。
これは、誰でもそうである。

ただ、彼がこの時、主の御言葉通りに行なったのは、彼は主に悔い改めて立ち返ったからではなく、御声に聞き従おうと決心したからでもなく、今までどおり、誰にでもハイハイと言ってその場をくぐり抜けやり過ごして来た、彼の「行動パターンの一環」として、であったようだ。
なぜなら、後の彼の言動からは、この出来事から何かを学んだようなふしが見受けられず、敵に対し再び「ハイ」を言ってしまうからだ。

どういう時にハイを言うべきか、あるいはノーを言うべきか、その判別が分からない、という人がいるが、分からないなら、主に伺えば良いのである。
すなわち、聖書を開いて、御言葉には何と書いてあるのかを調べ、それが分からないなら、祈って主と相談し、祈り方も分からないなら、預言者のような、信仰の先輩に聞くのである。
あるいは、全て真実な事、尊ぶべき事、正しい事、純真な事、愛すべき事、誉れある事、また徳といわれるもの、称賛に値するものにこそ心を留め、それに即する方面を選択し、その通り行動するのが、聖書的である。
『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。』(ピリピ4:6-7)

もし私達が主の言葉どおりにして助かった時、祝福された時は、それをただ「ラッキー」で終わりにしてはならない。
その場合はしっかり主に感謝し、主に従順する事がどんなに幸いであり、従わない事がどんなにに呪いであるか、しっかりと心に留めて「学習」し、以後は主に従って歩む努力をすべきだ。
日本人は、場の空気を積極的に読んで、他人の心を害さないよう気を遣う事にかけては、世界一だが、それと同じ要領で、聖なる空気を積極的に読み、主の御心を害さないよう「聖なる気遣い」するよう心掛けるなら、誰よりも早く霊において長けた者となれるはずである。

今回、アハブは、預言者の言葉に従った故に、大勝利がもたらされた。
もし彼がそこから学び、その後は積極的に御声を求めて従って行けば、もっと良い王として歴史に名を残したであろう。
しかし彼は、そうではなかった。
アハブのようではなく、積極的に主の御声を求め、従い、祝福され、その祝福の法則をどんどん学んで体得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
荒野に道を、荒地に川を設ける主(イザヤ43:14-21)
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【概要】

神はイスラエルがバビロン捕囚に遭うことをイザヤの時代から予告されていましたが、同時にバビロンを裁き、イスラエルを救い出すことも約束されていました。神は過去の罪を赦し、荒野に道を、砂漠に川を設けて、新しいことをなさる方です。たとえダチョウやジャッカルのような者であっても、主の御霊が注がれるならば、主の栄光をほめたたえる者として新しく造り変えてくださいます。

【聖書箇所】

  • イザヤ43:14-21

  • 詩篇137:1-9

  • ヨブ39章

【慰めの言葉】

神は私たちが罰を受けている時でも、私たちを見捨てず、最終的には救い出してくださる方です。心の底から「ごめんなさい」と主に祈り、赦しを求めたなら、もう罪によって責められることはありません。主の御霊が注がれるならば、いかに冷たい心を持つ者であっても、主を知り、主を崇め、新しくされることができます。

【励ましの言葉】

神は私たちの親であり、他の者が神の子どもをいじめることを決して許されません。主は、海の中に道を設け、激しく流れる水の中に通り道を設けてくださる方です。出エジプトの時のように、追い詰められた状況からでも必ず救い出してくださいます。主は新しいことをなさいます。今もうそれが起ころうとしています。乾いている人生、敵によって揉まれている人生、囚われて苦労する人生に、主は生ける水を、命の水を川々と流してくださいます。知恵が欠けている者は、誰にでも惜しげなく知恵を与えてくださる主に求めるべきです。主は豊かに与えてくださいます。

【戒めの言葉】

神に逆らい続けると、個人には人というムチが、国全体には国というムチが来ます。

【悔い改めの促しの言葉】

自分が良くないことをやって、明らかに罪の責めを受けていることが分かったなら、心の底から主に「ごめんなさい」と祈り、赦しを求めなさい。私たちは神の御前で、野の獣がやるような卑劣なこと、ジャッカルやダチョウがやるような卑劣なことをやってきました。しかし主に求めるならば、主は新しく造り変えてくださいます。

【勧めの言葉】

私たちは主の栄誉を宣べ伝えるために造られました。主がなさったわざを見て、聞いて、味わって、そして主をほめたたえるように生きましょう。先のこと、昔のことを思い出すのをやめなさい。主がなされる新しいことに目を向けなさい。赦されたことを確信し、過去の罪にいつまでも縛られることから卒業しなさい。主に聞き従おうとするならば、主は生かしてくださいます。荒野に水を、荒れ地に川を流させてくださいます。ただ主に求め続け、主にとどまり続けるべきです。

【AIによる文字起こし】

【第1部】(冒頭〜詩篇137篇4節まで)

今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書43章14節から21節です。まず、14節と15節をお読みいたします。

「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。
『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデア人を喜び歌っている船から突き落とす。
わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。』」
(イザヤ43:14-15)

アーメン。

それでは、主が今日、私たちに語ってくださることを、心を開いて受け取りましょう。

このバビロンに関する預言について、まず知っておきたい大切な点があります。イザヤの時代は、バビロンが覇権を握る時代よりも、はるか以前です。イザヤの頃、バビロンはまだ興り始めたばかりで、今後の歴史の中で大帝国となる姿を、まだ十分には現していませんでした。

しかしイザヤは、この預言書の中で、やがてバビロンが台頭し、イスラエルを苦しめることを告げています。当時のバビロンは小さく、力も決して強い国ではありませんでしたが、のちに勢力を増し、横暴とも言えるほどの力を振るう者たちとなっていきます。

主は、イスラエルがバビロンに捕囚されることを、すでにご存じでした。けれども同時に、主はその先に、回復と希望の御計画を備えておられるということを、すでにこのイザヤの時代に、預言を通して語ってくださったのです。

イスラエルを苦しめる者、それがバビロンです。主は、「あなたがたのために、カルデア人を、彼らが喜び歌っている船から突き落とす」と仰せになります。これは、バビロンがイスラエルを苦しめる時が来ることを、主があらかじめ知っておられた、ということでもあります。

では、神はわざわざご自分の民に試練を送り、苦しみを与えるお方なのでしょうか。

私たちと主との関係は、しばしば親と子の関係にたとえられます。子が道を踏み外し続けるなら、親はその子を正すために、時に厳しさをもって臨みます。守りの手を一時退かれ、「自分の選びの結果を学ぶ」ことを許されることもあります。

しかし、もしそこに第三者が入り込み、「言うことを聞かないから」と、親の権威を越えて子を痛めつけるなら、親はそれを決して見過ごしません。わたしが正すことと、他者が虐げることは別問題だからです。主も同じです。ご自分の民が不従順ゆえに戒めを受けることがあったとしても、主は、外部の者がその限度を越えて虐げることを、決して許されません。

主は、のちにバビロンが「むち」として用いられることを、すでにご存じでした。個人が聞き従わないときに、時に“人”がむちとなることがあります。国全体が聞き従わないときに、時に“国”がむちとなることもあります。

けれども主は、個人であれ、国であれ、ご自分を恐れ敬い、主により頼む者を、最終的に見捨てられません。むしろ、戒めののちに、主ご自身が報いてくださるお方であることが、ここに示されています。

主は、バビロンが栄える前からすべてをご存じでした。イスラエルがやがて心を頑なにし、背信へと進み、ついに捕囚となることも、そこで罰を受け、飢えや辱めを味わうことも、さらにその捕囚の地で嘲りを受けることも──主はそれらを知っておられました。しかし同時に、その後、主がバビロンを退け、イスラエルが主に顧みられた「宝の民」であることを、明らかにされることまでも、ここであらかじめ告げておられるのです。主の御計画は、はるか先まで届いています。

この捕囚の地バビロンで何が行われたかは、聖書の他の箇所からも見えてきます。バビロンは、歌を愛する民であったかのように描かれることがあります。その代表が、詩篇137篇です。捕囚の地に移された、名もなき詩人の嘆きが、そこに記されています。

詩篇137篇を見ますと、イスラエルの民が捕囚され、悲しみの中で座し、シオンを思い出して泣いている姿が描かれています。少し1節からお読みいたします。

「バビロンの川のほとり、そこで私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に、私たちはたてごとをかけた。
それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、喜びを求めて、
『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。
私たちがどうして異国の地にあって、主の歌を歌えようか。」
(詩篇137:1-4)

アーメン。


【第2部】(詩篇137篇の続き〜イザヤ43:18-19の適用の途中まで)

この詩を読むと、本来、神の民であるはずのイスラエルが、捕囚の地で辱めを受けている様子が伝わってきます。支配する側と支配される側の差は大きく、バビロンの人々は面白半分に、「シオンの歌を歌ってみよ」と迫ります。礼拝の歌が、異邦人の娯楽として求められる──それは、神を恐れる者にとって耐えがたい屈辱です。

詩人は、たてごとを柳の木に掛け、歌うことをやめます。そして、エルサレムを忘れることがないように、忘れてしまうなら自分が罰を受けてもよい、というほどの強い思いを示します。4節の「異国の地にあって、主の歌をどうして歌えようか」という言葉には、主を賛美する歌を、心のない求めに従って捧げることなどできない、という魂の叫びがあります。

もちろん、ここに至った背景には、イスラエルが主に逆らい続けたという歴史があります。人には刈り取りがあり、不従順の結果として、この辱めを味わうことになった。しかし、その中にも、主を恐れ敬う者たちがいました。彼らは異国の地で主を慕い、主の正義を求めて祈り、嘆きます。

7節から9節には、極めて強い言葉で、主の裁きを願う祈りが記されています。

「主よ、エルサレムの日に『破壊せよ、破壊せよ、その基にまでも』と言った、エドムの子らを思い出してください。
バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。お前の私たちへのしわざを、お前に仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
お前の子供たちを捕らえ、岩に打ち付ける者は、なんと幸いなことよ。」
(詩篇137:7-9)

この祈りは、私たちにとって重く響きます。しかし少なくとも、詩人が「自分の手で裁く」のではなく、主の正義に訴えていることも見落としてはなりません。「主よ、私たちの受けた恥を、あなたがご覧になっているなら、どうか正しく扱ってください」──そういう切実な訴えです。

そしてイザヤは、はるか昔から、このことを預言していました。イザヤ43章14節で、主はこう仰せになります。「わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデア人を喜び歌っている船から突き落とす。」バビロンの川辺で、船の上で喜び歌い、主の民を嘲った者たちを、主は必ず退けられる──そのことが、すでに語られているのです。

神の民は、主に背を向けるなら、確かに苦しみを刈り取ります。しかしその中で、主に立ち返り、「私は罪を犯しました」と悔い改め、さらに、敵が度を越えてのさばるとき、「主よ、どうかあなたの正義を現してください」と祈るなら、主はその祈りを顧みられます。主は、災いを通しても、幸いを通しても、ご自分が真実なお方であることを示されるのです。

イザヤ43章15節で主は、「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」と宣言されます。主が「聖なる方」であるとは、言葉に偽りがなく、正しく、ぶれない方であるということです。そして「創造者」であり、「王」である。王とは、民に対して責任を負う存在です。

地上の王は勝つことも負けることもあります。しかし、私たちの王である主は、決して敗北されません。私たちが自分の不従順ゆえに打ち負かされることがあっても、主ご自身が敗北することはない。主は、必ず勝利されるお方です。

さらに21節には、「この民はわたしがわたしのために造った」とあります。主は、ご自分の栄光が現されるために、民を造られました。主のわざを見、聞き、味わい、その体験を通して、主をほめたたえる者として歩むように──そのために主は私たちを召されたのです。

さて、16節と17節を読みます。

「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主は、こう仰せられる。
彼らはみな倒れて起き上がれず、灯心のように消える。」
(イザヤ43:16-17)

ここには、出エジプトの出来事が想起されます。イスラエルが追い詰められたとき、主は海を分かち、乾いた道を設け、民を渡らせて救い出されました。ところが、追撃してきた者たちが同じ道を進もうとしたとき、海は元に戻り、彼らは滅びました。主が民を救うために用いられたものが、敵にとっては裁きとなったのです。主は、このようにしてご自分の民を守られます。

しかし、18節以降で、主はまったく異なる方向のことを語り始められます。

「先のことどもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。
確かにわたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」
(イザヤ43:18-19)

主は言われます。「先のこと、昔のことを思い出すな。考えるな。」
それは、悔い改めを否定する言葉ではありません。むしろ、悔い改めを果たした者が、いつまでも過去の罪責に縛られて生きるのではなく、赦しの恵みに立って、新しい歩みへ進めという招きです。

 

もし自分が罪を悟り、「主よ、私は悪かったのです。赦してください」と心から祈ったなら、次に必要なのは、赦されたことを信じることです。赦しをいただいた者が、なお自分を責め続け、過去の鎖に自らを閉じ込める必要はありません。主は「見よ、わたしは新しいことをする」と言われます。赦された者に、主は新しい道を開かれるのです。

【第3部】(イザヤ43:20〜結びの直前まで)

20節をお読みいたします。

「野の獣、ジャッカルやダチョウも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流し、
わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
(イザヤ43:20)

ここで主は、「野の獣、ジャッカルやダチョウも、わたしをあがめる」と仰せになります。
この表現は、聖書全体を通して見ても、象徴的な意味を強く帯びた言葉です。

荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるならば、本来そこに生きることのできない存在までもが、命を得て、主をあがめるようになる。主はそのような、根本的な変化を語っておられます。

聖書において、ジャッカルは荒廃した地に住む存在として描かれ、ダチョウはヨブ記39章などにおいて、知恵を欠き、愛情に乏しい存在として描写されています。母でありながら卵を土に残し、自らの体温で温めることもせず、踏みつけられても顧みない──その姿は、無責任さや無関心の象徴とも言えるでしょう。

母と子の絆は、本来、人間関係の中でも最も深いものです。その絆が失われた姿は、聖書において「荒れ果てた状態」の一つの象徴として語られています。

しかし主は、そのような存在でさえも、「わたしをあがめるようになる」と仰せになります。それは、彼ら自身が変わるからです。荒野に水が注がれ、乾いた地に川が流れるからです。

これは、外側の環境が少し良くなる、という程度の話ではありません。主がご自身の霊を注がれ、内側から造り替えるという約束です。

私たちは時に、自分自身の中に、荒野のような部分を見いだすことがあります。冷え切った心、愛の欠け、思慮のなさ、責任から逃げようとする弱さ。そうした姿を前にして、「自分は変われないのではないか」と思うこともあるかもしれません。

しかし主は言われます。「荒野に水を、荒れ地に川を流す」と。
それは、人が自分の力で努力して変わる、という話ではありません。主がなさる新しいわざなのです。

21節を見ます。

「この民は、わたしがわたしのために造った。
彼らは、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
(イザヤ43:21)

主は、ご自分の栄光を現すために、この民を造られました。
過去がどのようなものであったとしても、主はその人を新しくし、主の栄光を証しする者とすることがおできになります。

「かつては荒れていました」「かつては知恵を欠いていました」「かつては愛に乏しい者でした」──そのような過去があったとしても、主の御霊が注がれるなら、「見よ、すべてが新しくなった」と告白できる者へと変えられるのです。

16節・17節では、主は海の中に道を設け、敵の戦車と騎兵を滅ぼされました。
しかし18節以降では、主は荒野に道を、荒れ地に川を設けると語られます。

かつては、悪しき者が裁かれ、滅びが語られました。
しかし今、主は、悔い改めて主に立ち返る者に対して、生かすことを語っておられます。

荒野に水を。
荒れ地に川を。

それは、枯れ果てた人生に、もう一度、命を流し込む主の御業です。

私たちは、自分自身を振り返り、「自分には知恵が足りない」「自分には愛が足りない」と思うことがあるかもしれません。そのようなとき、聖書はこう語ります。

「あなたがたの中に知恵の欠けた者がいるなら、
その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。
そうすれば与えられます。」
(ヤコブ1:5)

主は、求める者に、惜しげなく与えてくださいます。
分別も、知恵も、心の柔らかさも、主の霊によって与えられるのです。


【第4部】(結び)

主はなぜ、この一連の出来事をなさるのでしょうか。
なぜ海に道を造られ、敵を退けられたのでしょうか。
なぜ荒野に水を流し、荒れ地に川を設けられるのでしょうか。

それは、主が生きておられることを示すためです。
そして、私たちが主を恐れ敬い、主の栄光を宣べ伝える者として生きるためです。

どうか私たち一人ひとりが、主にあって歩み、
知恵を受け、心を新しくされ、
かつては荒れていたとしても、
今は主をあがめる者として立たされていきますように。

荒野に水を流される主が、
あなたの人生にも、生ける水を満たしてくださいますように。

 

主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
アーメン。

【結論】

主は、心から悔い改めた者の罪を赦し、過去の失敗や罪を思い出すことをやめるよう命じておられます。神は私たちが罪を犯して罰を受けることを知っておられますが、同時にその後の救いも用意してくださっています。神の民を苦しめる者に対して、神ご自身が報復されます。出エジプトの時に海を割って民を救われたように、主は今も私たちのために道を開き、敵を滅ぼし、私たちを守ってくださる方です。赦されたことを信じ、主が今なそうとしている新しいことに目を向けるとき、主は荒野に道を、砂漠に川を設けてくださいます。乾いた人生、敵に揉まれる人生に、主は生ける水を川々と流してくださるのです。私たちがダチョウやジャッカルのような者であったとしても、主の御霊が注がれるならば、以前のものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。知恵が欠けている者は、惜しげなく与えてくださる主に求めるべきです。主に聞き従い、主にとどまり続けるならば、主は私たちを生かし、主の栄光をほめたたえる証人として歩ませてくださいます。この主の大いなるわざを体験し、味わい、主の御名をほめたたえていきましょう。

イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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主は、それまで人々を主に立ち返らせるために、大いなる御業をイスラエルに示されたが、それにも関わらず、頑として主に立ち返らなかった。
そこで主は、立ち返らない者達を、これから「剣で殺す」事を宣言をされたが、主はすぐにはしない。
なお悔い改めて立ち返るチャンスを与えるために、主こそ力強い方、憐れみ深い方である事を、さらに示される。

この20章においては、主はエリヤ以外の預言者をアハブに遣わして取り扱われる。
アハブの預言者に対する態度は、エリヤに対してとは違い、一見好意的なもののように見える。
結局、彼は主に従いたいのか従いたくないのか、主の預言者を殺したいのかそうでないのか、はっきりしない立場を続けているが、この20章を見ると、もっと分かって来る。
アハブは誰に足してもNOを言わない、「どっちつかず」の性質であるかが。

何に対してもNOを言わない。それは一見、やさしくて平和的であるかのように、無害であるかのように見えるが、実をいうとそれは、熱いか冷たいかのどちらかより遥かに有害な性質だ。
事実、どっちつかずであった彼は、イスラエル史上最悪の王として数えられてしまっているし、また、どっちつかずだったポンテオ・ピラトも、イエス様を苦しめた者として数えられてしまっている。
誰にも反対しない、NOと言わない自分を「やさしい」「人格者だ」と自己評価している人は、実は、その煮え切らない態度が、自分の人生に多くの災いをもたらし、自分の家族や配下の人達から嫌われている原因であると、知るべきである。

シリヤの王ベン・ハダデは、大軍を率いてイスラエルを取り囲んだ時、イスラエルは干魃のため、無能な王の故に弱体化してしまっており、軍隊はほとんどいなかった。
そのような状況で、アハブ王は、シリヤの王から好き放題な事を言われる。
『スリヤの王ベネハダデはその軍勢をことごとく集めた。三十二人の王が彼と共におり、また馬と戦車もあった。彼は上ってサマリヤを囲み、これを攻めた。また彼は町に使者をつかわし、イスラエルの王アハブに言った、「ベネハダデはこう申します、『あなたの金銀はわたしのもの、またあなたの妻たちと子供たちの最も美しい者もわたしのものです』」。』(1列王記20:1-3)

神の民が、随分となめられたものであるが、アハブは、主にも、預言者にも、家来にさえも相談せずに即答してしまう。
『イスラエルの王は答えた、「王、わが主よ、仰せのとおり、わたしと、わたしの持ち物は皆あなたのものです」。』(1列王記20:4)

これは、脅して来る者に対しては最悪の答え方である。
脅して来る者、偽り者に対し、一番してはならないのは、「おおせのとおりです」と同意してしまう事だ。
悪しき者の脅しや偽り事に「同意」してしまうなら、相手はもっと図に乗って、さらに過酷な要求を突き付けて来るからだ。

自分は無理な要求を飲みました、頑張りました、そんな頑張ったわたしに免じて、優しく扱って下さい、などと考えるのは、妄想である。
脅しを仕掛けて来る者には、そんな思考パターンは、全く無い。
むしろ、もっと脅せばもっと搾り取れるだろう、と、さらに脅しの手を強めて来るのだ。
右の頬を打つ人には他の頬をも向けてやりなさい、という「主の御言葉に信仰をもって従う」事と、御言葉への信仰が全く捨て去られた人が「恐怖心から無抵抗になる」のとは、雲泥の差があるのだ。

『使者は再びきて言った、「ベネハダデはこう申します、『わたしはさきに人をつかわして、あなたの金銀、妻子を引きわたせと言いました。しかし、あすの今ごろ、しもべたちをあなたにつかわします。彼らはあなたの家と、あなたの家来の家を探って、すべて彼らの気にいる物を手に入れて奪い去るでしょう』」。』(1列王記20:5-6)
この通り、要求はもっと過酷になってしまった。
最初は、奪われるものはアハブの持ちものに限定されていたのに、今度は、アハブのみならず、家来の全部の家を自由に出入りして何でも奪い放題していい事になってしまった。

悪霊が人に入る時も、同じ原理である。
思いをガードせずに、空中に漂っているあの空想やこの空想を、両手放しで受け入れる事は、危険である。
空中は悪しき霊が座す所であり(エペソ2:2)、思いを開いて、漂っているあの霊この霊を受け入れてしまうなら、もっとたちの悪い者共に、ずかずか入り込まれてしまい、聞きたくもない霊の声が聞こえるようになり、ひどくなると、思いの中が悪霊どもの声々に圧殺され、突然笑い出したり、突然泣き出したり、意味不明な所作をいきなりし出したり、人の神経を逆撫でする絶妙なポイントをついて来たりして、どんどん人々から敬遠されてしまうのだ。
そのような人の性質は「無抵抗」「なんでも受け入れる」である。

だから、霊においても、実生活においても、ノーガードでいてはならない。
真理の帯で引き締め、正義の胸当で胸を守り、平和の福音を足に履き、信仰のたてを手に取って悪しき者の放つ火の矢を消し、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取って悪しき者を攻撃するのだ。(エペソ6:14-17)
そして、絶えず祈り、御霊によって祈り、霊において目覚めておくべきだ。(同18節)

何もかも悪霊に束縛され、奪われ、人々から疎外されてしまった人が唯一、救われる方法は、「その人自身の意志で」イエス様に助けを求めに行く事である。
レギオンという大勢の悪霊は、なぜ鎖を引きちぎる程の脚の力をもってイエス様から逃げる事をしないで、わざわざイエス様の所へと足を進め、自ら追い出されるために行ったのか。
悪霊どもとしては、追い出されたくはなかったであろう。しかし「本人自身が、意思をもってイエス様の所に行く」事の足だけは、どんなに強力な悪霊が、何千匹がかりで阻止しようとも、それを止める事は出来ないのだ。(マルコ5章)

『そこでイスラエルの王は国の長老をことごとく召して言った、「よく注意して、この人が無理な事を求めているのを知りなさい。彼は人をつかわして、わたしの妻子と金銀を求めたが、わたしはそれを拒まなかった」。』(1列王記20:7)
アハブは相手の要求が過酷になった時、イスラエルの神にではなく、家来に相談した。
あんなにも、ありありと、イスラエルの神・主のわざを見ておきながら、主に帰らず、国をこんなにも弱体化させたまま何も出来ないでいる、というのに。

『すべての長老および民は皆彼に言った、「聞いてはなりません。承諾してはなりません」。それで彼はベネハダデの使者に言った、「王、わが主に告げなさい。『あなたが初めに要求されたことは皆いたしましょう。しかし今度の事はできません』」。使者は去って復命した。』(1列王記20:8-9)
ここまでで、アハブは、シリヤの王に対しても、家来に対しても、全部「イエス」の回答しか返していない。
最初、シリヤに対して「イエス」で答えたが、家来と相談した時、シリヤに対して「ノー」をしなさいという勧めを、アハブは「イエス」し、結果、アハブはシリヤに「ノー」を突きつける事となった。
このように、複数の、相反する人達に対して全部「イエス」で返すなら、おのずと必ず誰かを裏切る事になり、激しい怒りを買って、相手からも身内からも信用されなくなって行く。

『ベネハダデは彼に人をつかわして言った、「もしサマリヤのちりが、わたしに従うすべての民の手を満たすに足りるならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記20:10)
つまり、自分の軍勢の人数は、サマリヤの砂粒の数よりも多いぞ、という脅しである。

『イスラエルの王は答えた、「『武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない』と告げなさい」。』(1列王記20:11)
武具を帯びる者とは、これから戦いをしようとする者、それを脱ぐ者は、戦いで勝敗が決まった者の事である。つまりアハブが言いたいのは、まだ戦ってもいないのに勝ち誇ったような事を言うな、という事である。

『ベネハダデは仮小屋で、王たちと酒を飲んでいたが、この事を聞いて、その家来たちに言った、「戦いの備えをせよ」。彼らは町にむかって戦いの備えをした。』(1列王記20:12)
こうして、戦いの火蓋が切って落とされるが、アラムの軍勢は「地に満ちていた」のに対し、イスラエルの軍勢は「二つの群れのやぎのよう」であった。(27節)
軍勢の数で比べるなら、イスラエルに勝ち目は無い。

このような状態で、策も根拠も無く、ただ流されるままに戦いの火蓋が切って落とされてしまったが、主は、そんな無策・無謀・流されるまま危機に陥って行ったイスラエルに救いの手を差し伸べられる。
なぜなら、主こそ力があり憐れみ深く頼りがいのある神である事を、人々に示されるためだ。

立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
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主に反逆する時代のイスラエルにおいて、3年半を通じた、目を見張るような主のしるしが、エリヤを通して行われ、人々は「主こそ神です」と叫び、信仰のリバイバルが起きた、かのように見えたが、たった一人の女・イゼベルによって、台無しにされてしまった。
エリヤは気落ちし、死を願うまでになってしまったが、主は彼を取り扱い、再び立てるようにしてくださる。

『エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:13-14)
主は、先にしたのと全く同じ質問をし、エリヤもまた、全く同じ答えを返した。
このやり取りは、一見ちぐはぐで、会話が成り立っていないように見えるが、はっきりしている事は、エリヤはこの時、主と「心の通う交わり」をしているという事である。
エリヤはこの交わりを続ける内に、着実に癒やされている。

交わりとは、必ずしも、言葉のつじつまの合うやり取りをしなければならない、というものではない。
エリヤは主との交わりの中、主の圧倒的な臨在と、力と、そして力強き御腕の守りにかくまわれている内に、彼のあらゆる鬱憤は吐き出され、癒やされて行った。
ちょうど小さな子供が、親の胸の中で激しく感情をぶつけ、自分で何を言っているかわからない事を叫びながらぶつかって行く内に、徐々に落ち着き、やがては、圧倒的に強く大きな親の胸の中で眠りに落ち込んで行くように。

ヨブも、同じ経験をした。
主は、ヨブの激しい問いかけには一切答えず、ただ主の圧倒的な臨在と御業とを見せた。
そうしてヨブは、全能の主を悟り、全ての事が可能である主を深く知るに至った。
それでヨブが悔い改め自分を低くした、その時、あらゆる問題は、問題ではなくなり、彼は以前にも増して二倍の祝福が与えられた。

主はエリヤの心を回復させ、そして、彼が為すべき事を教えられる。
『主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。』(1列王記19:15-17)

エリヤは決して一人ではない。
エリヤはこれから、彼の後継者であるエリシャを得、そしてエリヤは地上での役割が終えると、天に挙げられていく。
ダマスコのハザエルを王とするのは、エリヤではない。エリヤが天に挙げられた後、エリシャが王としたのだ。(2列王記8章)
また、さらにその後、エリシャの「預言者のともがら」の一人が、ニムシの子エフーに油を注ぐ。(2列王記9章)

「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは、「預言者学校の生徒」と訳されている。(2列王記2:3-5章)
エリヤが最初、絶望したように、預言者は殺され断たれてしまうのではない。
エリヤはこれから、エリシャという後継者を得、預言者学校を立ち上げ、多くの預言者達が育って行くのだ。
主の真実は、人に押しとどめられるものではなく、決して途絶える事は無い。

今後、エリヤを通して油注がれる人達に与えられる役割は、「つるぎで殺す」事である。
主は今まで、人が悔い改めて立ち返るようにと、目に見えて偉大なしるしを起こされたが、それでも人々は悔い改めなかった。
エリヤはそれで絶望したものだが、主は、頑固なまでに悔い改めなかった者達に対しては、今度は「殺す」ミニストリーを働き人に与えられる。

主は既に、「憐れみ」「立ち返り」のわざを、長らく人々に示された。
ありありとしたしるしを見、憐れみを体験しておきながら、それでもなお主を拒み、立ち返らないとなれば、もはや、憐れみのわざではなく、主は「殺しのわざ」に入ってしまう。
それは、全ての人に対して、そうである。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、贖いを成し遂げられた。
そして将来、主が再び来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いためにであり、決して、堕落と反逆の道を楽しむ事を止めない人々をもう一度赦すためではない。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)

『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。』(1列王記19:18)
主は確かに、主の民を残しておられる。どんなに不従順の背信の世代の中にあっても。
主の恵みの時間は、なお与えられている。
アハブもイゼベルも、すぐに殺されるわけではない。
こんなアハブやイゼベルにさえも、悔い改めて立ち返る期間が、まだまだ与えられているのだ。
主は、悪者が死ぬのを望まれない。
悪事を止めて、主に立ち返る事を望まれるけれども、人がどうしてもそれを止めないとするなら、もはや、その人には滅びしか残されていない。

こうしてエリヤは、主との交わりの内に立ち直って、早速主から命じれられた通り行うために出て行く。
『さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。
エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。』(1列王記19:19-21)

エリシャがエリヤから外套をかけられた時、彼は一瞬で、霊において、悟ったようである。
これは、主の働きへの召命である、と。

彼はエリヤからは一言も言われてはいなかったけれども、自分がそれまでしてきた仕事の道具を壊し、それを用いて父母に最後のもてなしをし、その後、エリヤに従って行った。
主の働きのために召しだされる時、言葉では言われなくても、霊において急き立てられるものがあり、それまでの仕事や家族は全て捨て置いてでも主に従って行かなくては、と思うものだ。

エリシャはそれまで、牛の一番後ろで働く勤勉な者であったが、その彼の勤勉さは、召し出された後もそうだった。
彼が、エリヤから離れまいとする気概は、どの預言者よりも強く、彼はエリヤが天にあげられたその瞬間まで、エリヤから離れなかった。
それで彼は将来、エリヤの2倍の霊が与えられる。
世の仕事という小さい事に忠実であるなら、主から、大きな事にも忠実であるとされ、主からさらに大きな役割が与えられるのだ。

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