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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

無意味なパフォーマンスをするバアルの預言者達と、人々に捧げものをさせたエリヤ(1列王記18:22-35)
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バアルの預言者たちをイゼベルは飼っていたが、結局、長いききんの間、「豊穣の神バアル」はイスラエルに何の豊穣をもたらしてはくれなかった。
エリヤは人々に、主につくのか、それともバアルにつくのかをはっきりさせよ、と言ったが、人々は何も答えられなかった。
そこでエリヤは、具体的な提案を示す。

『エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。』(1列王記18:22-24)
人々は「どの神を信じるのか」という言葉には何も答えなかったが、具体的にこれこれの事をして、このようにされる神こそまことの神である、と、具体的に示さると、人々からは「それがよい」と答えがあった。
言葉だけで分からない人々には、行動としるしが必要である。

こうして、聖書の中でも名場面の1つである「エリヤとバアルの預言者との戦い」が始まる。
それは、実に不思議な戦いである。
肉弾戦や兵器による戦いではなく、舌戦でも心理戦でもない。人数は一切関係無く、対戦相手と対面すらしない。
戦いの方法は、ただ自分の神に呼ばわり、その神に動いて頂く、というものである。
そしてそれは、私達が、世に対し、サタンに対して戦う方法でもある。(エペソ6:12-18)
『わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。』(エペソ6:12)

『そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。』(1列王記18:25-26)
バアルの預言者達は、先にバアルを呼び出す事を始めたが、何をどう呼びかけても、何の答えもなかった。
彼らはついに、踊り回り始めるのだが、それでも答える者が何もいない。
朝からずっと見物していた人々は、きっとしびれを切らして来た事だろう。

『昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。』(1列王記18:27-29)
エリヤのほうは、自分の神である主に祈り求めたような行動は、一切していない。
なぜなら、「主に定められた時」ではなかったからだ。
身勝手な時に、身勝手な方法で、身勝手な熱心に基づいて行なう礼拝は、全く無駄なのだ。

バアルの預言者達は、叫び踊っていたばかりでなく、互いを刃物で傷つけ、血を流すまでになった。
何百人もの人々が踊り狂いながら、刃物で血を流し合う。
なかなかの壮観だったろう。
見ていた人々は、今度こそ、何か起こるのではないか、という気がしたかもしれない。
しかし、「何もおきない」という事実が厳然と残るのみで、人々のバアルに対する期待は失望に変わり、やがて怒りへと変わっていく。
そうこうしている内に、主が定められた「夕暮れの捧げ物」の時刻が近づき、そして、エリヤが動き出す。

『その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。』(1列王記18:30)
主の御名は今までずっと軽んじられっぱなしで、その時、主の祭壇は壊れたままだった。
祭壇も、主の家も、礼拝の場である。
生活を良い方に立て直したいのなら、まず、礼拝の立て直しから始めるべきである。

その人の中で、主を礼拝する「祭壇」が壊れたままなら、働いても働いても、なお暮らしは楽にならない状態なのだ。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。』(ハガイ1:4-8)
礼拝の立て直しを始めるなら、その時から主が動いて下さり、実生活の立て直しが始まるが、礼拝が壊されたまま放置しているなら、どんなに血を流すほどの熱心があっても、バアルの踊りと同じように、何も起きないのだ。

『そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、』(1列王記18:31)
十二の石を取る事は、モーセも、ヨシュアも行なった。(出エジプト記24:4,ヨシュア記4章)
これは、エホバであられる主にあって為している事のあかしとして行なっているのだ。
私達も、どなたを神としているのか、その所在を明らかにしておく必要がある。
一体、今、どなたを礼拝しているのか。「どの神」にあって、今、この事を行っているのかを。

『その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。』(1列王記18:32-33)
雨が降らない時期の水は、とても貴重であるが、エリヤは、それを主の祭壇に注げ、と、人々に言う。
水を注いだら、火がつくのがもっと困難になってしまうばかりでなく、貴重なものを注ぐわけだから、ちょっとやそっとの覚悟では出来ないが、人々はそれをした。
エリヤはさらに、それを2度せよ、3度せよ、と言った。
こうして、イスラエル部族の数と同じ、合計十二杯の水が祭壇に注がれた。

全く、バアルの預言者とは違った方法だ。
バアルの預言者達は、朝から熱心に騒ぎ立てながら祈ったのに、エリヤは、定められた時が近づくまで行動を起こさなかった。
バアルの預言者達は、派手なパフォーマンスをして人々にエンターテイメント性を感じさせる事を行なったのに対し、エリヤは人々を楽しませる事は一切せず、むしろ、貴重な水を主の祭壇に注がるという「捧げもの」をさせた。
礼拝とは、人間のエンターテイメントではない。人がサービスを受けるものではない。
礼拝とはサーヴィス、すなわち、仕える事や捧げる事を意味するものであり、主をエンターテインさせる(喜ばせる、もてなす)事である。

このように、人の側が主を敬い、主に捧げる行動をとる時、主は物事を動かされる。

指名手配されていたエリヤ、アハブ王と異教の預言者達850人を動かす(1列王記18:16-21)
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いよいよ3年半の沈黙を破って、エリヤが動き出す。

『オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会おうとして行った。アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。彼は答えた、「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。』(1列王記18:16-18)
アハブは、エリヤがイスラエルを煩わせる者だ、と言ったが、真逆だ。
主は、何百年も前から、あらかじめ宣告しておられた。
何をすれば雨が降り、何をすれば、雨が降らなくなってしまうのかを。

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:13-16)

この申命記の箇所は、メーズーザーと呼ばれ、イスラエル人の家ならどこでも家の柱にこの言葉が打ち付けられているほど、重要かつ有名な御言葉である。
何百年も前から既にあらかじめ主から言われていたというのに、彼らはそれを無視し、自分勝手に迷い出て、その身に災いを招いたのだ
アハブは、家畜を生かすための草を探しに行ったが、そんな事よりも、家畜のために野に草を生えさせて下さる主こそ、求めるべきだったのだ。
私達も、人生にききんや干魃、敵ののさばりによって、苦しめられているとしたら、まずは自分の胸に手を置き、主の言葉を軽んじていないかどうか、点検すべきだ。

『それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。』(1列王記18:19-20)
イゼベルはなんと、計850人もの偶像に仕える者たちを、国費で居候させ、ききんの時代の貴重な食料を、彼らにやって、飲み食いさせていたのだ。
イスラエルはまさに、イゼベルという一匹の狐によって好き放題荒らされ、その代わり、人々は飢えさせられている状況だったのだ。

ここで興味深いのは、王も、異教の預言者850人も、人々も、皆、エリヤの指示通りに動いた事だ。
3年半もの指名手配して徹底的に探し、ようやく目の前に現れたエリヤなのに。
アハブはどうして彼を見つけ次第、拘束する事なく、彼の言った通りに動いたのか。
それは、エリヤの側に、万軍の主がついておられるからである。

主の側につくたった一人の預言者が、偶像礼拝の者達の場を支配する。
世の中は、そういうものである。
主の御言葉によって創られたこの世は、主の御言葉に従う信仰者一人に対し、恐れをなし、従うのだ。

『そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
預言者は訴える。
あなたは、主を神とするのか、それとも、そうでないものを神とするのか。
表明せよ、とのエリヤの叫びに、人々の反応は「沈黙」で返した。
本当に情けない状況である。

神である主こそ万軍の主、力ある神である。
そう聖書に書いてあるのに、現実を見るとあたかも現実のほうが主である神より力を持っているかのように錯覚し、あたかも、聖書に書いてある事のほうが机上の空論であるかのように思えてしまう人は、多い。
なぜなら、主は目に見えないお方であり、このお方にあって歩むには、信仰を働かせる必要があるからだ。

信仰生活は、この世から天の霊的世界へと歩み続けるようなもので、足を使わずにいるならどんどん弱って歩けなくなってしまうように、信仰も、働かせないでいるなら、どんどん弱って、信仰の歩みができなくなってしまう。
信仰生活は、永遠へと通じる霊的生活であるが、目に見える現実に対し信仰を働かせず、自分の肉体や知識をやりくりして生きる「肉的生活」では、自分の力ではどうにもする事もできない現実に対して、対処する術がない。
しかし、信仰を用いて主に委ねるなら、どんな現実も問題も、対処可能だ。なぜなら主は、この現実世界を創造され、全権をもって支配しておられるからだ。
『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』(マルコ9:23)
『よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。』(マルコ11:23)

人は、信仰を働かせて御言葉に自分自身を従わせるより、信仰を働かせないで世の諸々をぼんやりながめているほうが、肉的に楽である。
しかし、そのように霊的になまけてばかりいるなら、いざ、自分の目の前に現実の山が立ちはだかった時、何も対処できないままに飲まれてしまう。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
私達の人生という畑は、夫婦関係が、親子関係が、経済状況といった「石がき」は、崩れ果てていないだろうか。
崩れた防護壁の隙間から、きつねが出入りし放題になって汚されてしまったり、大事なものが奪われ放題にされてしまっていないだろうか。
当時のイスラエルは、まさにその状態だった。
長らく信仰の石垣がくずれたまま放置し、イゼベルというきつねがやりたい放題し、主の預言者が殺され、異教の神々に貴重な食料が食べられっぱなしで何も出来ない、情けない時代だった。
そして当時の人々は、主があらかじめ言っておられた御言葉さえ分からず、よろめいていた。

そのような、霊的虚弱状態にある人々に、主はエリヤを送り、奇跡をもってご自身が生きておられる事を示される。
奇跡は、御言葉だけで信じられない、弱い人々のために、起こされる。
それは、主が生きて働いておられる事を示すためだ。
それ故、御言葉に聞こうとせず、奇跡ばかり求める人は、健全な食生活を怠って、モルヒネばかり求める人のようだ。
私達は、特効薬ばかり求めるのではなく、日々、健全な御言葉の食事を噛み締め、味わい続けるべきなのだ。
『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。』(ヨハネ20:29)

教会が誕生したばかりの時代、聖徒たちは、主の「言葉」だけでは信じ切れない人々が、信じられるようなるために、しるしと奇跡を行わせてください、と祈り求めた。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。』(使徒4:29-30)
信じない世代の中において、私達も、求めるべきである。
「聖なる僕、イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい。」と。
僕とは、気が向いた時だけ従う者ではなく、いつでも、自分がどんな思考を持っていようとも、いつでも御言葉に従う者だ。

この時代、主のしもべとして、信仰を混ぜた御言葉を口から発し、エリヤのように、不信仰な時代の人々を信仰へと突き動かして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

オバデヤ - 干魃で主に呪われてなお行状を改めない王に仕える信仰者(1列王記18:1-15)
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『多くの日を経て、三年目に主の言葉がエリヤに臨んだ、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」。』(1列王記18:1)
主は、不従順なイスラエルに対する審判として、干魃の日々を送られたが、その日々に、終わりを告げられる。
アハブやイゼベルは、この審判を通して悔い改めたかというと、そうではなかった。
なぜその状況で、主は再び雨を降らせて下さるか。
イスラエルには、わずかながらでも主を恐れる人々が残っているが、もし彼らが、霊的にも物質的にもききんの状況があまりに長く続くなら、耐える事は出来ないだろう。
そんな彼らを憐れまれる故であろうし、また、主を軽んじていた者たちに対して、主こそ天地を支配しておられる神である事を知らせるためでもあろう。
イゼベルも、アハブも、そして多くのバアル神(元々はカナンの豊穰神)を信仰するイスラエルの民も、この干魃がやむように祈ったであろうが、まことの神である主を差し置いてそのような偶像の神々に頼る事は、全く愚かである事を、この事を通して思い知らされるのである。

『エリヤはその身をアハブに示そうとして行った。その時、サマリヤにききんが激しかった。アハブは家づかさオバデヤを召した。(オバデヤは深く主を恐れる人で、イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った)。』(1列王記18:2-4)
イゼベルは、主の預言者たちを虐殺していた。
神の国であるはずのイスラエルが、国家権力によって主のしもべ達を組織的に虐殺するのは、未だかつて無かった事だ。
イゼベルがいかに邪悪な者であるかを物語っている。

北イスラエル王国では、今まで主を恐れ敬う王が一人もいなかったが(またその後も無いのだが)、そんな中、オバデヤのような主を恐れ敬う高官が存在する事も、特筆すべき事だ。
そのような人達が残っている限り、主は、彼らが耐え切れないような世の中にならない内に手を打って下さる。

『アハブはオバデヤに言った、「国中のすべての水の源と、すべての川に行ってみるがよい。馬と騾馬を生かしておくための草があるかもしれない。そうすれば、われわれは家畜をいくぶんでも失わずにすむであろう」。彼らは行き巡る地をふたりで分け、アハブはひとりでこの道を行き、オバデヤはひとりで他の道を行った。』(1列王記18:5-6)
アハブ王は自ら、馬や騾馬を生かすための草を探しに行った。

馬は、戦争で用いる動物で、毎日たくさんの草を食べる。
長い干魃によって苦しんでいる人を生かすためでなく、戦争の動物である馬を生かす目的で、水源や川を査察しに行く所を見るに、彼は、軍事力を強化するためには平気で国民からむしり取り、人民が飢えて死んでもかまわないような王なのだろう。

『オバデヤが道を進んでいた時、エリヤが彼に会った。彼はエリヤを認めて伏して言った、「わが主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか」。エリヤは彼に言った、「そうです。行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」。』(1列王記18:7-8)
オバデヤは、自らエリヤを「わが主人」と呼んだが、エリヤは彼に、アハブの事を「あなたの主人」と言った。
オバデヤはとてもアハブを恐れているからだ。

『彼は言った、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか。』(1列王記18:9)
唐突な反応である。
このように、「えっなんで突然そういう話になるの?」とびっくりするような反応をしてくる人は、圧迫と不安の中を長らく過ごして来た人である事が多い。
彼は高官であっても、アハブにいつ殺されるか分からない恐怖の中を、長らく過ごして来た。

『あなたの神、主は生きておられます。わたしの主人があなたを尋ねるために、人をつかわさない民はなく、国もありません。そしてエリヤはいないと言う時は、その国、その民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。あなたは今『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。』(1列王記18:10-12)
アハブは、エリヤを見つけ出すために、そこまで徹底して来たのだ。
このような時勢の中において、オバデヤは主の預言者100人をかくまうという良い事をしたのだが、彼は、起きてもいない事柄を悪い方へと先回りして考え、いらない恐れに満たされてしまっている。

『しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。イゼベルが主の預言者を殺した時に、わたしがした事、すなわち、わたしが主の預言者のうち百人を五十人ずつほら穴に隠して、パンと水をもって養った事を、わが主は聞かれませんでしたか。ところが今あなたは『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。そのようなことをすれば彼はわたしを殺すでしょう」。』(1列王記18:12-14)
彼はさらに、聞かれてもいない事を、すなわち、今まで自分がして来た良い事を並べ立てる。
これは、いつ下されるか知れない罰が極力減らされるようにと、恐怖政治の下で身に染みてしまった行動パターンなのかもしれない。

主へのあかしをたてる人々を次々と虐殺して行く王の元、主への信仰をかろうじて保ちながら怯えつつ暮らして行くと、心がしなえてしまうものである。
オバデヤは信仰を振り絞って主の預言者100を守り、養ったが、そろそろ限界が来ていたようだ。
主は、そんなわずかな人々を救うために立ち上がり、事を行われる。

『エリヤは言った、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる。わたしは必ず、きょう、わたしの身を彼に示すであろう」。』(1列王記18:15)
オバデヤに比べ、エリヤはなんと心強いだろう。
邪悪な時勢では、世の中で高い地位に上って恐々と信仰生活する人よりは、多少貧しくとも、信仰によって世から離れ、主御自身から直接養われている人のほうが、強いのだ。

この終わりの時代、アハブの治世下のように、信仰生活を送るのが困難な時代になって来るかもしれない。
天地を創られた主を無視し、偶像礼拝を推し進めるような国、人を生かす事よりも軍備強化に力を入れるような時勢になるとしても、主への誠実を守り、信仰によって主に養われ、エリヤのように強く凛々しい主の尊い働き人として、大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
御言葉を聞いても理解せず、御業を見ても悟らない主のしもべ(イザヤ42:14-25)
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主は与え、取られ、また与える。主を信じるようになるために。(1列王記17:17-24)
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『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:17-18)

ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。
彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。

なぜこのような事が起きるのか。
イエス様の言葉にヒントがある。

『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)
イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、以下である。
「それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」

主は、人の病や死、その悲しみを、何の感覚もなくただ見過ごしにされているわけではない。
主は、人が死に束縛され、死の悲しみに打ちひしがれている様を見て涙を流し、霊に憤りを覚えられる。(ヨハネ11:35)
主は「死」に勝利し、罪と死から救い出すお方である。
それを人々に知らしめるために、あえて、ラザロが死ぬ事をお許しになったのだ。

『イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。』(同25-27節)
イエス様こそ、よみがえりであり、命である。
これは文字通り「死ぬほど重要」な真理であり、これを人に伝えるため、敢えて主はラザロが死ぬ事を許されたのであり、やもめの子が死ぬ事もお許しになられたのだ。

人はたとえ、奇跡的に食料が与えられて生きながらえても、また、たとえ死んだ状態から生き返らせてもらったとしても、結局、死ぬ。
この、人が誰も逃れられない「死」の根本原因は、罪である。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
やもめはエリヤに「わたしの罪を思い出させるためですか」と問うたが、人はまさにこの「罪」と「死」の問題を取り扱うべきであり、その事を教えるため、主は敢えて、あのような事を起こされる。

『エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(1列王記17:19-21)
彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。

自分にはどうにもならない、この問題に対処できるまでの信仰が無い、というような場合は、エリヤのような信仰の先輩に持って行き、祈ってもらうのが一番である。
『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)
それ故、聖徒の交わりは大切だ。自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだから。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)

『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。』(1列王記17:22)
主は、エリヤの祈りに答えて下さった。
エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
『人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれたすると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。』(ヨハネ11:39-44)
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。

奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。

『女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。』(1列王記17:24)
彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。

主は、私達が「信じるため」にも、色々な事を起こされる。
『わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、”あなたがたが信じるようになるため”である。』(同15節)
『イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、”イエスを信じた”。』(同45節)
『イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。”見ないで信ずる者は、さいわいである”」。』(ヨハネ20:29)
信じる者こそ、幸いである!

イザヤ書 講解説教メッセージ
しもべとなられた主に倣う「主のしもべたち」の権威と使命(イザヤ42:1-13)
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やもめへと遣わされたエリヤと、エリヤを養うよう命じられたやもめ(1列王記17:7-16)
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不従順なイスラエルへの審判として、主から干魃が送られた時、エリヤは主の命令によって、ケリテ川のほとりに住み、そこでカラスによって養われていた。

『しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。』(1列王記17:7-9)
シドンといえば、イスラエルに災いをもたらした、あの邪悪な女・イゼベルの出身地である。
しかし、シドンには邪悪な者しかいない訳ではなかった。エリヤを養うようにと、主から命令を受けたやもめもいたのだ。

『そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。』(1列王記17:10-12)
彼女は、当時の人々の罪の結果のとばっちりを受け、最後のわずかな食料を食べて、彼女も、彼女の子も、死のうとしていた。
そして、その最後の料理するために、薪拾いをしている最中、彼女は偉大な預言者から声をかけられる・・・。

本当に不思議である。
どう見ても、彼女は誰かを養う能力も資力も無い。
なぜ預言者を養うはずのやもめが、こんなにも貧しく、追いつめられているのか。
なぜエリヤが遣わされる先が、イスラエルの誰か、ではなく、シドンのこのやもめなのか。
イエス様はその故郷において、この第一列王記を引用し、メッセージしている。

『「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。』(ルカ4:24-26)
イエス様は「預言者は故郷では歓迎されない」事を伝えるために、イエス様はこの箇所を引用した。
つまり、エリヤの時代、イスラエルにも沢山、やもめはいたものの、この偉大な預言者エリヤを歓迎するやもめはイスラエルの中において、一人もいなかったという事だ。

不信仰な時代、預言者を誰も受け入れようとせず、むしろエリヤは指名手配が出されているような状態で、彼を見つけたなら、即アハブ王に報告するよう命令が出されているような状況であった。
それでエリヤは、イスラエルの誰にも遣わされる事なく、異邦の国・サレプタのやもめへ「遣わされた」のだろう。

主はサレプタの「やもめ女に命じてあなたを養わせよう」とエリヤに言ったが、どうも彼女は、主から命じられたような感じではない。
もし彼女が、主から命じられたという意識があったなら、エリヤを見るなり「お待ちしておりました、さあどうぞこちらへ」と言いそうなものだが、そうではないし、それどころか、彼女にはその能力も持ち物も無い。

主は、当人にその意識があるにしろ無いにしろ、資力があるにしろ無いにしろ、その人の心に、その人の信仰に応じたミニストリーを「命じる」事がある。
なぜなら主は、全世界を見わたし、一人一人の生活の中における主への従順やこころざしを常日頃ご覧になっておられ、それぞれに対し、この時代のこの時、この事をするようにという志を立てさせて下さるのだ。
『あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。』(ピリピ2:13)
その時、たとえ主から命じられた「記憶」は無くても、持ち物や時間、お金が無くても、これこれの主の働きをしなくては、という意識が湧き上がり、その使命感に突き動かされて行く。
そうして信仰によって突き動かされて行った時、必要な志も、持ち物も、時間も、お金も、主が用意して行くものである。
サレプタのやもめには、日頃の信仰や従順から、信仰によって預言者を養う素地が出来上がっていたのであり、決して、宝くじに偶然当選するかのように、ききんの時代に生き残れる事に選ばれたのではなかったのだ。

エリヤが彼女に一口のパンを求めた時、彼女は「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と言った。
この言葉は、「これから私が言う事は偽りなき真実です」という意味の、イスラエル風の独特の言い回しではあるが、ともかく彼女はエホバなる主の御名を用いている。
つまり彼女は、元々、主を敬う信仰の持ち主だったのであり、だからこそ主はエリヤに彼女の所へ行くように示されたのだ。

『エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。』(1列王記17:13-14)
ある人がここを読むと、エリヤは、とても「人でなし」な事を言っていると見なす。
やもめと子供の最後の食料を、まず自分に差し出せ、と。もしそれでエリヤが食べて終わりなら、それほど酷い話はない。
しかし、信仰ある人は「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という言葉に、大きな希望を見出す。
自分も、子も、そして預言者も、主からの直接の養いを受けるのだ、と。
その希望の根拠は、『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』という、イスラエルの神、主の言葉だ。
エリヤの言葉を、非道いと取るか、それとも希望に取るか。
それは、その人の信仰次第である。

彼女はエリヤを通した主の言葉に、ただ、行いをもって答えた。
『彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。』(1列王記17:15-16)
主の偉大な栄光が、ここに現れた。
それは、彼女が主の言葉の通りにしたからだ。
主の偉大な栄光が現れるためにはどうすればいいか。それは単純に、主の御言葉どおりに行動する事であり、それ以上でも以下でもない。
こうして彼女は、エリヤの言葉どおり実行した事で、本当に粉は尽きず、油も尽きず、自身も、子供も、預言者も、ききんの間それによって養われた。

牧師を何年かしていると、彼女のように、最後の粉や油を差し出されるような事がある。
その時、彼らのその状況と心を見るに、人情としては、とても受け取れるような心境にはなれない。
ダビデが、三勇士が命がけで持ってきた水を、自分が飲む事は出来ず、そのまま主へ注いだように(2サムエル記23:17)、ただ主に差し出して「主よ、絶対彼らを養って下さい」と、深く祈る以外には無い。
エリヤはカラスの手で養われていたが、そのように、一人ひっそり養われているほうが、よほど心苦しい思いをしなくて済む、と思った事もあるが、それは間違いであった。

主は、信仰ある彼女が、飢えて死なないようにするために、彼女のために預言者を「遣わされた」のだ。(ルカ4:24-26)
そして預言者からすれば、主は預言者を養うために、彼女を主から命を受けたミニスターとして用意されたのだ。(1列王記17:9)
双方とも、はじめはその事が分からなくても、双方が御言葉どおり行った時、はじめてその事が分かるのだ。
これらの事は、信仰ある兄弟姉妹、共々、主への感謝が増し加わるためであり、互いに与え合う事によって、全てのものを惜しみなく分け与えて下さる方への感謝が、それぞれが捧げる事を通して、増し加わっていき、互いに豊かになって行くためである。
もし、カラスがただ必要を運んで来るだけでは、主の栄光も、信仰者達が受けるべき冠も、決して味わえないままだ。

『神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。
こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:8-12)

主に心から捧げる人には、主はこのようにして、決して尽きない主の栄光を見る事が出来、そしてききんの時代にあっても、物質的な養いを受ける事が出来る。
この、霊的ききんとも呼べる時代、働き人を養い、あるいは養われ、こうして双方とも主からの豊かな養いを受け、栄光をあらわす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エリヤ - 最も暗い時代に遣わされた、最も偉大な預言者(1列王記17:1-6)
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北イスラエル王国が主の目の前に悪を行い、それによる諸々の災いによって荒れすさんでいく中、主はなおも、北イスラエル王国を愛され、立ち返らせようと、度々預言者を遣わして来られたが、彼らは尽く、立ち返らなかった。
そして、闇が最も深くなった時、主は、偉大な預言者・エリヤをその時代に遣わされる。

エリヤは、預言者の代表格的存在である。
ユダヤ人達は、以下のマラキ書の預言を元に、エリヤが来るのを今でも待ち望んでいる。
『見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。』(マラキ書4:5-6)

ユダヤ人達は過ぎ越し祭ではエリヤが来た時のための、空の盃を用意し、一連の祭りの最後で皆で盃にあずかる時、外にエリヤが来ていないかどうかを、子供に確認させに行く。
子供が扉を開けて、エリヤが来ていない事を確認すると、祭りの司式者である父親は「来年は必ず来る」と言って、家族皆で、以下の歌を歌うの習わしとしている。
「エリヤが来る。エリヤが来る。来年は必ず エリヤ来る。その後、ダビデの家にメシヤが来る。その後ダビデの家にメシヤが来る。」(キムヒョンジョン博士著 テフィリン P119)この伝統は今日でも続けられている。
それは、エリヤが来て、その後にダビデの子孫であるメシヤが来るとするなら、イスラエルが代々舐めてきた民族的な苦しみから解放される、という、神の約束を信じているからである。
しかし、それらはとんでもない思い違いである。

エリヤも、メシヤも、とうの昔に来たのだ。
『弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。』(マタイ17:10-13)

バプテスマのヨハネこそ、人々の心をメシヤであられるキリストへと向けさせるエリヤの役割を果たした。(マタイ11:14)
そして、メシヤなるキリストが来られたのに、当時の主だった人々は、バプテスマのヨハネも、イエス・キリストも否定してしまったのだ。
それでユダヤ人達は、今でも頑なにキリストがメシヤであられる事を否定し、エリヤの来るのを頑なに待ち望んでいる。

やがて、イスラエル民族は、自分たちが突き刺したお方であるキリストを受け入れる時が、必ず来る。その事も預言されている。
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ12:10)

その偉大な預言者エリヤはどのような働きをしたのか。
それが、第一列王記17章から、第二列王記の2章に至るまで、詳細に記されている。
この章以降、あたかも物語の主人公の座を彼が奪い、彼を中心にイスラエルの王が、そして王国全体が、彼を通して語られる主の言葉に振り回されて行く展開となって行く。

『ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。』(1列王記17:1)
この言葉が発せられて以降、3年半の間雨は降らないのだが、この時はイスラエル人々も、またエリヤ自身さえ、いつまで雨が留められているのかを知らなかった。
イスラエルの民は、エリヤの言葉どおりに起きた事の実体験をしたが、アハブは悔い改めず、逆にエリヤこそイスラエルに災いをもたらすものとして、彼を見つけ次第、捕らえるようにと、イスラエル全体におふれを出した。

主に失礼を犯した自分が悔い改めるのではなく、悪いのは御言葉を語った者だとし、神に心を向けず、また、自分の悪にも向けない。そのような人からは、災いがいつもつきまとって離れない。
御言葉によって戒めを受け、そして実際に望ましくない状況へ落ち込んでいったなら、その状況は主がご自身の立ち返らせようとして起こされたのであって、自分が悔い改めるべきである。
それをせず、逆に御言葉を伝えた人や、御言葉どおりの事が起きた状況を「逆恨み」するとするなら、それはアハブの道である。

エリヤは、最初から宣言している。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。」と。
つまり、イスラエルに雨が降らないのは、、エリヤのしわざではなく、彼が仕える主が為される事なのだ。
そして主は彼がアハブに捕らえられないように守り、その間の養いを与えられる。

『主の言葉がエリヤに臨んだ、「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。』(1列王記17:2-6)
主はエリヤを養うために、まず、ヨルダンの東に行けと指示された。
エリヤは、そこにかくまわれるのだが、この偉大な預言者を養うよう命じられたのは、なんと、カラスである。
カラスは律法では汚れた動物であり、カラスが運んできたものを食べるのは、律法を持たない私達でも嫌だが、それでも主はカラスに命じ、朝夕ごとにパンと肉を運んできた。
こんな時代であるからこそ、主は、その御言葉を忠実に伝える人を「宝」のように守り、カラスを用いられてでも、その人を養われる。
その時、主は、「ちょっとこの人は神様に用いられないだろう」というようなカラスのような人さえ用いられることがあるのだ。

この時代、主の目には、偉大な預言者をかくまい養う為に、不信仰なイスラエルの誰かを用いるよりは、カラスを用いたほうがましだ、と映ったのだろうか。
まさに、当時のイスラエルがどんなに情けない霊的状況であったかを示す、主からの大いなる「皮肉」である。

北イスラエル王国は、この干魃の間も、主に立ち返る事をしない。
しかし、どんな暗黒の時代でも、主は備えておられる。エリヤのような預言者を、そして、バアルに膝をかがめない七千人を。(1列王記19:18)

今のこの暗闇の時代、私達がイエス様を主とし、信仰を保って働くなら、私達こそ、主に備えられた「バアルに膝をかがめない七千人」であり、干魃のような時代であっても、主から養いを頂く保証を頂けるのだ。

 

イザヤ書 講解説教メッセージ
天地を創られた主による、神々に対する訴訟(イザヤ41:17-29)
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アハブとイゼベル - イスラエル最悪の王の時代へ(1列王記16:29-34)
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『ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。』(1列王記16:29-30)

アハブは、イスラエル最悪の王として有名である。
彼の統治は22年、統治期間としては決して長いとは言えないが、彼の統治中の出来事について、聖書は、詳細に記しており、第一列王記の16章から終わりの22章まで続いている。
それは彼と、彼の妻の悪業にまみれた暗い時代に対し、主が、預言者エリヤを通して為されるめざましいわざを通してイスラエルを立ち返らせようとする重要な出来事があったためだ。

『彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。』(1列王記16:31-32)
彼が「彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」と称され、彼に比べればヤロブアムはまだ軽いとまで言われた理由は、彼は、シドンの王の娘・イゼベルをめとった点と、バアル礼拝を導入した点である。

ヤロブアムは、金の子牛を造ったものの、それでもイスラエルの神の御名は保っていた。(12:28)
しかしアハブは、イスラエルの神を退け、全く異教の神であるバアル礼拝を導入した。
サムエルの改革以来、イスラエルの中でバアル礼拝は途絶えていたのに、それをわざわざ復活させたのだ。

アハブ王は、イスラエル全体を、バアルにひざをかがめるようにさせてしまったが、アハブ王をそのように仕向けたのが、彼の妻イゼベルである。
新約には、アハブの名は登場しないが、イゼベルの名は、主のしもべや民を惑わし、偶像礼拝や不品行へと導く女として登場する。(黙示録)

女の惑わしによって破滅してしまう出来事は、聖書でも、世界史でも枚挙にいとまがない。
最初の人・アダムがそうだったし、ノアの時代の神の子達も、サムソンも、ソロモン王も、みんな不信仰な妻によって惑わされ、滅びを招いてしまった。
「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。」(箴言31:3)
どんな人と結婚し、また連合するかについては、よくよく注意すべきである。

『アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。』(1列王記16:33)
主はあらかじめ言われていた。異邦の神々に従うなら、かならず滅びる、と。(申命記8:19)
『あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像を切り倒さなければならない。あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:12-14)
アハブはアシラ像を造り、主のねたみを引き起こしてしまった。

アハブは確かに主を怒らせる事を行なったが、主はすぐに彼らを滅ぼすわけではない。
「ねたみ」は、愛しているが故に沸き起こる感情である。
主はイスラエルを愛しているからこそ、立ち返るための機会と、そのための期間とを設けて下さる。

『彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:34)
ここに唐突にエリコが再建された記事が挿入されているが、アハブが行なった事と関連がある。

ヨシュアの時代、主はエリコの町を聖絶し尽くしなさいと言われ、一度、聖絶された。(ヨシュア記6:26-27)
しかしエリコの聖絶すべき物を惜しんで、それを隠し持っていたアカンは、イスラエル全体に災いを及ぼし、彼は家族もろとも滅ぼされてしまった。
主が「滅ぼし尽くせ」と言われたものを、復活させるのは、アルコール依存症だった人が、一度はアルコールを飲むのを止めたのに、再び飲む習慣を復活させてしまうようなものである。
それをするなら、以前よりももっと悪くなってしまう。
滅ぼし尽くす性質のものは、真剣に滅ぼし尽くし、それをしたなら、もうそれを「再建」してはならないのだ。

アハブは、滅ぼし尽くすべきものを再建させ、主のねたみを買い、災いを起こされてしまう。
主は、そんな彼と彼の時代を立ち直らせるために、素晴らしい預言者を遣わされる。

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