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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

神殿のきらびやかさより、人の心を評価される主(1列王記6:14-38)
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続いて、ソロモンが神殿をどのように建てたか、さらに詳細な内容が記されている。

『彼は香柏の板をもって宮の壁の内側を張った。すなわち宮の床から天井のたるきまで香柏の板で張った。また、いとすぎの板をもって宮の床を張った。また宮の奥に二十キュビトの室を床から天井のたるきまで香柏の板をもって造った。すなわち宮の内に至聖所としての本堂を造った。宮すなわち本殿の前にある拝殿は長さ四十キュビトであった。宮の内側の香柏の板は、ひさごの形と、咲いた花を浮彫りにしたもので、みな香柏の板で、石は見えなかった。そして主の契約の箱を置くために、宮の内の奥に本殿を設けた。
本殿は長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトであって、純金でこれをおおった。また香柏の祭壇を造った。』(1列王記6:15-20)

この、宮の内奥にある「本殿」は、幕屋における「至聖所」にあたる所で、そこに契約の箱が安置され、年に一度、大祭司が血を携えて入って全イスラエルの贖いをする。
この「本殿」の寸法も幕屋の二倍で、縦横高さそれぞれ二十キュビトの立方体である。

ソロモンの神殿は、主がモーセに造らせた荒野の幕屋の二倍の寸法になっているが、材料は全く違う。
主がモーセに「このように造らなければならない」と言って示された幕屋は、四層の幕から成っており、解体して携行したり、また組み立てたりする事が可能なテントである。
その一番内側は、ケルビムの織り込まれた幕、次にやぎの毛の幕、その上は赤くなめした雄羊の皮の覆い、一番外側は、じゅごんの皮のおおいであった。
だから、人々が「幕屋」を外側から見る時、それはじゅごんの皮で覆われた巨大なテントとして見えるので、あまり見栄えが良いものではなかったが、しかしその内側には主の栄光が輝いていた。
対してソロモンの神殿は、解体不能な建造物で、外側が石、その内は香木やいとすぎの板、さらにその内は、純金であり、外見からしても豪勢であった。

『ソロモンは純金をもって宮の内側をおおい、本殿の前に金の鎖をもって隔てを造り、金をもってこれをおおった。また金をもって残らず宮をおおい、ついに宮を飾ることをことごとく終えた。また本殿に属する祭壇をことごとく金でおおった。』(1列王記6:21-22)
この神殿の内側は、残らず金で覆われていたため、灯火を灯すと、上限左右の金の壁面が光を反射して、とても美しくきらびやかな様子であった事が想像できる。

ソロモンはさらに、本殿(至聖所)の中に、高さおよそ4.5mのケルビムを造った。(23-28節)
ケルビムは、主の栄光と臨在をあらわす生き物であり、また、聖なる領域と俗なる領域の間に立って守る主の使いでもある。
エデンの園は、このケルビム達と、全方向に回転する炎の剣とによって守られ、人は入れなくなってしまった。(創世記3:24)

『彼は宮の周囲の壁に、内外の室とも皆ケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形の彫り物を刻み、宮の床は、内外の室とも金でおおった。本殿の入口にはオリブの木のとびらを造った。そのとびらの上のかまちと脇柱とで五辺形をなしていた。その二つのとびらもオリブの木であって、ソロモンはその上にケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形を刻み、金をもっておおった。すなわちケルビムと、しゅろの木の上に金を着せた。』(1列王記6:29-32)
モーセの幕屋では、最も内側の幕にケルビムが織り込まれていたが、それは今や、周囲の壁にも現れるようになった。
主の栄光の臨在が外へと広がり、以前よりも大きくなっているのだ。

さらに、黙示録では、主の栄光の臨在はもっと顕著となり、天から降ってきた新しい都・エルサレムが、神殿の究極的な完成形として表されている。
『御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。・・・都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。』(黙示録21:10-16)
『私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。』(22-26節)

モーセの時の幕屋の至聖所は、縦横高さ10キュビトの立方体だったが、ソロモンの神殿では20キュビトの立方体となり、それが黙示録では、一万二千スタディオン(2220km)の立方体となっている。
もはや都そのものが至聖所となり、主の栄光の臨在が都のどこもかしこも照らし、太陽も月もいらないのだ。
アダム以来、エデンの園はケルビムによってガードされ、いのちの木に至る道を失ってしまったが、ほふられた小羊キリストの血によって自らを洗った聖徒達は、この都に自由に入る事が出来、いのちの木にあずかる事が出来る。

『第四年のジフの月に主の宮の基をすえ、第十一年のブルの月すなわち八月に、宮のすべての部分が設計どおりに完成した。ソロモンはこれを建てるのに七年を要した。』(1列王記6:37-38)
ソロモンは、7年がかりで神殿を造った。それは幕屋に比べれば非常に贅を凝らした造りだったが、後の時代には異邦人に破壊され、汚される事となってしまう。
なぜなら神は、神殿という”場”に特別に住まわれるのではなく、神殿で礼拝をする「人の心」にこそ働かれるからだ。

ステパノは、神殿冒涜の濡れ衣を着せられて、裁判の席に立たされた時、欺瞞に満ちているイスラエルの指導者達に言った。
『ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」』(使徒7:46-53)

ソロモン以降の王たちも、また、使徒時代の人々も、神殿を重んじておきながら御言葉から逸脱し、その心は主から遠く離れ、表向きでは神を敬っているようでも実は主に背き、主の怒りを積み上げていたのだ。
結局のところ、主が評価されるのは、神殿のきらびやかさではない。
礼拝者の心である。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。』(1コリント3:16-17)
神殿や礼拝堂といった、建物の大きさやゴージャスさが重要なのではなく、神と対面する「人」こそ重要なのだ。

私達こそ、キリストが宿られる神の建物であり、そしてその土台は、キリストご自身である。
そして、このキリストという土台の上に、私達は神の家を立てていくのだが、どのように建てるべきか、それは、各人にかかっている。
『あなたがたは神の畑であり、神の建物である。神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。』(同9-13節)
 

イザヤ書講解説教メッセージ

うしろざまに倒れる酔いどれのイスラエル(イザヤ28:1-13)
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神殿の構成と、私達キリスト者の関係(1列王記6:1-13)
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6章には、ソロモンが建てた神殿の詳細が記されている。

『イスラエルの人々がエジプトの地を出て後四百八十年、ソロモンがイスラエルの王となって第四年のジフの月すなわち二月に、ソロモンは主のために宮を建てることを始めた。ソロモン王が主のために建てた宮は長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。宮の拝殿の前の廊は宮の幅にしたがって長さ二十キュビト、その幅は宮の前で十キュビトであった。』(1列王記6:1-3)
神殿の機能と構造は、主が荒野でモーセに示された「幕屋」と同じであるが、その寸法は、荒野の幕屋の2倍となっており、また、幕屋よりもさらに尊い素材から造られている。
この「神と人とが相まみえる場」は、幕屋から神殿へと成長し、最後には、神と人とが永遠に共に住む永遠の都として、完成されて行く。(黙示録21章)

『彼は宮に、内側の広い枠の窓を造った。また宮の壁につけて周囲に脇屋を設け、宮の壁すなわち拝殿と本殿の壁の周囲に建てめぐらし、宮の周囲に脇間があるようにした。下の脇間は広さ五キュビト、中の広さ六キュビト、第三のは広さ七キュビトであった。宮の外側には壁に段を造って、梁を宮の壁の中に差し込まないようにした。』(1列王記6:4-6)
ソロモンが建てた神殿が、正確にどのような構造であったのかは、文字での説明しか残されていないため、図解によってはそれぞれに若干の違いは出てくるが、ソロモンが具体的にどんな神殿を立てたのかは、あまり重要ではない。
その事を思い巡らせる事は、知的には楽しい事だが、今、”私達”という「キリストが住まわれる神殿」は、一体どのような特徴を持っているのか、ソロモンが建てた神殿の性質から読み解いて行く事には大いに意義があるので、その観点から見ていきたい。

『宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。』(1列王記6:7)
神殿の建設現場では、一切、鉄器の音が聞かれない程に、材料があらかじめ全て整えられていた。
当時の建築技術水準がとても高かった事を、伺い知る事が出来る。

なお、祭壇を建てる時は素材とする石は鉄器が当てられてはならず、「自然のままの石」を用いるよう、主がモーセに命じられている。
『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。』(申命記27:5-6)
『あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:25)

ところで、ソロモンが石切り場で「切り整えた石」は、ヘブル語では「エベン・シャレーマー」、形容詞シャーレームの女性単数形であり、「自然なままの」「完全な」という意味である。
また、申命記にて、主がモーセに自然のままの石で祭壇を造るよう命じられたその「自然のままの石」は、「アヴェニーム・シェレモート」、これはソロモンの時の石の「エベン・シャレーマー」と同じ意味の、女性複数形である。
神にいけにえを捧げる「祭壇」は、人手が一切加えられない、自然のままの石たち(女性複数形)が用いられるよう命じられているが、ソロモンの神殿は、石切り場で整えられた(あるいは、自然なままの、完全な)、”単数形の石”によって建てられた。
これは、どういう事を意味するのだろう。

預言者ダニエルは、ネブカデネザル王の夢を解き明かした時、その夢の中では、ネブカデネザル王を筆頭とする帝国郡(バビロン、メド・ペルシア、ギリシヤ、ローマ)を象徴する巨大な像があった。
しかしその像は、人手によらずに切り出された一つの「石(男性単数形)」によって粉々に砕かれ、その石は、大きな山となって全土に満ちた。(ダニエル書2章)
この、人手によらずに切り出された(男性単数形の)石、それは間違いなくキリストを表している。

今、教会はキリストの花嫁(女性)であり、キリストこそ、唯一まことの夫(男性)である。
このキリストがあらわれた今、私達・信じた一人ひとり(教会:エクレシアすなわち召しだされた者たち)は、それぞれがキリストを宿す神殿であり(1コリント3:16)、キリストのからだを構成する各器官である。(1コリント12:27)
私達は生物学的には男女はあるが、霊的には、キリストにあって全て女であり、キリストこそまことの男性である。
キリストは私達教会のかしら、すなわち夫であり、私達・信じる者たちの信仰の土台石である。
つまり、主にいけにえをささげる「祭壇」を構成する石が、「女性複数形」であるのは、私達一人ひとりが「生ける石」であり、神によろこばれる霊のいけにえを捧げるためである。
次のように書いてある。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ「生ける石」となって、「霊の家」に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(1ペテロ2:5)

では、何によって神の家へと組み込まれ、建て上げていくのか。
それは、イエスを生ける神の御子とする信仰告白によって、である。
『そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(ペトロス:岩盤(ペトラ)から切り離された石ころ、男性名詞)である。そして、わたしはこの「岩(ペトラ、女性単数名詞)」の上にわたしの「教会(エクレシア:集会、集まり、教会。女性単数名詞)」を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。』(マタイ16:15-18)

ペテロは、イエス様を「知らないと言った時、集いから切り離された、自立した、そして心細い一人の男性であった。
しかし彼が再びキリストの集い集まりなおした時、その集いの中に、復活のキリストというまことの夫が入ってきて下さり、その集いは強い岩盤(ペトラ)となって、黄泉の力も打ち勝てないほどの盤石なものとなり、教会は、いかなる迫害にあっても、決して廃れる事は無かったのだ。
そして預言者ダニエルが解き明かした通り、この人手によらず切り出された石は、人間によるローマ帝国を打ち破り、かえってキリスト教国へとしてしまったのだ。

すなわち、私達・キリスト者一人ひとりが、神であるキリストを宿す小さな神殿であり、神の家を築き上げる「生ける石」であり、それぞれが組み合わさって、岩盤(ペトラ)である教会となり、そして教会は、唯一夫なるお方・キリストの花嫁である。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)

そして、祭壇の石には、鉄の道具が当てられてはならないのと同じように、キリストのからだを建て上げる私達一つ一つの石もまた、人手によって切り出されたり、加工されたりしてはならない。
誰でも、人間の知恵によってキリストを信じるものではないし、人の努力によって神に受け入れられる器になれるものでもない。
『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』と記されている通りである。(1コリント12:3)
つまり、教会は、鉄の道具など人間の強制力によらず、自然に、聖霊の思うがままの導きによって、建て上げていくべきものである。

『そこで主の言葉がソロモンに臨んだ、「あなたが建てるこの宮については、もしあなたがわたしの定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩むならば、わたしはあなたの父ダビデに約束したことを成就する。そしてわたしはイスラエルの人々のうちに住み、わたしの民イスラエルを捨てることはない」。』(1列王記6:11-13)
ここの、13節だけをピックアップするなら、神は決して捨てる事は無い、と見えるが、後の歴史を見ると、神に見放され追放された者であるかのような歴史をたどっている。
それは、12節の条件「主の定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩む」事をしなかったからだ。

私達は、主の道を決して外す事なく歩み、神の家に組み込まれ、神殿の柱となるまでに、主と共に歩んで行きたい。
『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:10-12)

イザヤ書講解説教メッセージ

サタンへのさばきと神の民への救い(イザヤ27:1-13)
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異邦の王との共同作業により進められた神殿建設(1列王記5:1-18)
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『さてツロの王ヒラムは、ソロモンが油を注がれ、その父に代って、王となったのを聞いて、家来をソロモンにつかわした。ヒラムは常にダビデを愛したからである。』(1列王記5:1)

5章には、神殿建設の準備がいかに進められて行ったかが記されている。
その重要な役割を担ったのが、この、ダビデの代から親交のあったツロという国の王ヒラムである。
ツロはガリラヤ湖北西の海沿いにあり、古来より海洋貿易で栄えた。
ソロモン王が建築したエルサレム神殿建設の素材は、主に、このツロからのものであった。

神の民イスラエルの最も聖なる建造物の材料が、異邦の国に由来する、というのは、実に興味深い。
神であられる主は実に、異邦人をも含めた、全世界の主なのである。

『そこでソロモンはヒラムに人をつかわして言った、「あなたの知られるとおり、父ダビデはその周囲にあった敵との戦いのゆえに、彼の神、主の名のために宮を建てることができず、主が彼らをその足の裏の下に置かれるのを待ちました。ところが今わが神、主はわたしに四方の太平を賜わって、敵もなく、災もなくなったので、主が父ダビデに『おまえに代って、おまえの位に、わたしがつかせるおまえの子、その人がわが名のために宮を建てるであろう』と言われたように、
わが神、主の名のために宮を建てようと思います。それゆえ、あなたは命令を下して、レバノンの香柏をわたしのために切り出させてください。わたしのしもべたちをあなたのしもべたちと一緒に働かせます。またわたしはすべてあなたのおっしゃるとおり、あなたのしもべたちの賃銀をあなたに払います。あなたの知られるとおり、わたしたちのうちにはシドンびとのように木を切るに巧みな人がないからです」。』(1列王記5:2-6)

ソロモンはヒラムに、神殿建設のために必要な杉材を輸入したい旨と、その見返りに、望むものは何でも支払う事を申し出たが、彼の申し出の中には、「主(エホバ)」の御名が、頻繁に用いられている。
私達も、主にあって祝福されている事、そして主から知恵が与えられている事を、積極的に世の人にあかしして行くべきであり、そして、彼らも主の礼拝を建て上げるために、主の働きに参加するよう申し出るべきである。

『ヒラムはソロモンの言葉を聞いて大いに喜び、「きょう、主はあがむべきかな。主はこのおびただしい民を治める賢い子をダビデに賜わった」と言った。』(1列王記5:7)
ソロモンのこの申し出に、異邦の王ヒラムは喜び、主(エホバ)の御名を誉め称えた。
これは、ソロモンが主を正しくあかしした故だ。
私達も正しく主の御力と栄光と、そして主が為してくださったあらゆる良き事を人々にあかしする時、人々は喜びをもって、私達と交わりを持ちたいと願うようになるのだ。

『そしてヒラムはソロモンに人をつかわして言った、「わたしはあなたが申しおくられたことを聞きました。香柏の材木と、いとすぎの材木については、すべてお望みのようにいたします。わたしのしもべどもにそれをレバノンから海に運びおろさせましょう。わたしはそれをいかだに組んで、海路、あなたの指示される場所まで送り、そこでそれをくずしましょう。あなたはそれを受け取ってください。また、あなたはわたしの家のために食物を供給して、わたしの望みをかなえてください」。』(1列王記5:8-9)
この異邦の王は、豊かに恵みを下さる主から祝福を受けたソロモンと親交を持つ事が出来る事を、そして、その偉大なる主の事業に共に参加できる事を、とても喜び、ソロモンが受けた莫大な恩恵が、自分達の中に入ってくる事を喜んでいる。

神の民であるキリスト者は、世と分断して生きるべきではない。
主から祝福を受けたキリスト者は、その与えられた祝福を世へと流し出して行き、世も、私達を通して祝福の元なる主に繋げていくべきものなのだ。

『こうしてヒラムはソロモンにすべて望みのように香柏の材木と、いとすぎの材木を与えた。またソロモンはヒラムにその家の食物として小麦二万コルを与え、またオリブをつぶして取った油二万コルを与えた。このようにソロモンは年々ヒラムに与えた。主は約束されたようにソロモンに知恵を賜わった。またヒラムとソロモンの間は平和であって、彼らふたりは条約を結んだ。』(1列王記5:10-12)
1コルは約220リットルだから、その年間に輸出した量はかなり膨大である。
前章でも見た通り、ソロモンの家で消費される小麦や牛、羊は莫大な量であったが、しかしそれでも民は重税で苦しんだのではなく、それだけ貢を収めてなお平和に飲み食いして楽しんだのだ。
民が重い取り立てで苦しみ、王だけがふんだんに飲み食いするとするなら、ただの暴君であるが、ソロモンが健全な信仰に留まっていた時は、民も王も主の祝福で豊かに潤っていたのだ。
こうして主が賜った有り余った富みによって、異邦の杉材を輸入し、そうして神殿が建てられていった。

『ソロモン王はイスラエルの全地から強制的に労働者を徴募した。その徴募人員は三万人であった。ソロモンは彼らを一か月交代に一万人ずつレバノンにつかわした。すなわち一か月レバノンに、二か月家にあり、アドニラムは徴募の監督であった。・・・王は命じて大きい高価な石を切り出させ、切り石をもって宮の基をすえさせた。こうしてソロモンの建築者と、ヒラムの建築者およびゲバルびとは石を切り、材木と石とを宮を建てるために備えた。』(1列王記5:13-18)
木材や石材を切ったり運んだりするのは、確かに重労働であるが、しかし労働条件はなんと、3ヶ月ローテーションの中で1ヶ月だけ働き、後の2ヶ月は休む、というものだ。
日本では、「年間休日数」として120日という数字はよく見るが、当時のイスラエルはそれが逆転して、「年間労働日数」が120日くらいで、それだけ働いても充分労働者の生活が賄われるほどの報酬が払われていたのだろう。
労働条件までも、祝福につぐ祝福である。

異邦人たちは、イスラエルの民が、主に祝福されている有様を見、彼らを祝福してくださった主を誉めたたえ、共に主の事業に参加した。
こうして主に祝福された神の民イスラエルの富は、世界へと流し出され、こうして、全世界に主の栄光と富が、主のおしえと救いが、さらに流れて行くはずだった。
ところがソロモンは途中から主から離れ、女達にそそのかされ、偶像礼拝へと落ちて行ってしまい、主の人類救済のご計画が果たされるのは、もっと後押しになってしまった。
人は何度、主を残念がらせただろう。

元々、ソロモンに祝福が与えられたきっかけは、彼が「聞き従う(シェマー)」心を求めたからだった。
私達は常に主に聞き従う心をキープし、ますます祝福されて行く者でありたい。

ソロモンに与えられた莫大な祝福(1列王記4:1-34)
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イスラエルの人々は、神がソロモンに大いなる知恵が与えられたのを見て恐れ、彼がさらに大いなる者となって行く様がこの4章に記されている。

『ソロモン王はイスラエルの全地の王であった。彼の高官たちは次のとおりである。・・・』(1列王記4:1-6)
1節から6節までは、王の元での高官達の名前がリストアップされている。
その中には、ダビデ王の時代に、ダビデ王に仕えた人達の名前もちらほら登場する。

『ソロモンはまたイスラエルの全地に十二人の代官を置いた。その人々は王とその家のために食物を備えた。すなわちおのおの一年に一月ずつ食物を備えるのであった。その名は次のとおりである。・・・』(1列王記4:7-19)
7節から19節には、ソロモンがイスラエル全土に置いた、十二人の代官の名が記されている。
代官たちはそれぞれ、一年のひと月の間、貢を集めてソロモン王におさめていたが、王に納められる食料の分量は、とても膨大である。(後述)

『ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。』(1列王記4:20)
ダビデ王の時代、彼がイスラエルの人口を数えようとした所、ヨアブから「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。」と戒められたが(2サムエル記24:3)今や、その数は数えきれないほどに多くなり、それでかつ、地の産物も豊かに採れたので、食料の心配をする事なく繁栄を楽しんだ。

繁栄は、神の祝福である。
主の御声に聞き従うなら、主がそのような大きな繁栄と祝福を与えて下さる事は、主がモーセの時から示して下さった約束である。
『もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」』(申命記11:13-15)
主の御声に聞き従うなら、どんなに産物が祝福されるか、ソロモン王が純粋な信仰を持っていた時の繁栄ぶりを見れば、わかる。
いや、主は当時のソロモン以上に祝福を与えて下さる事さえ、可能なお方である。

『ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。』(1列王記4:21-24)
王宮で消費される食料は、とんでもない分量だ。
1コルは約220リットル、だから王の食卓に一日にのぼった分量は、麦粉6600リットル、大麦は13200リットル、いかに王の家が豪勢であったかが、うかがえる。

こんなに食べ切れない程の食料を集めて、何になるのだろうか、と思うだろうか。
いや、主の祝福が下るなら、収穫が多すぎて、有り余ってしまうのである。
『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無い。
新しい収穫物を倉庫に入れる時、そこには昨年穫れた作物がまだ残っており、それを捨てる、という事が、毎年あるのだ。

もっとも、主の祝福なしにこのような豪勢な生活を毎日送るとしたら、それは暴君である。
彼は晩年、人々から重税を取り立てる暴君として人々の生活を苦しめていた。

「ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで、安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。」(25節)
ここは元々、「乳と蜜の流れる地」である。
主がアブラハムに与えられると約束されたこの土地は元々、これほど莫大な産物を生み出すものなのだ。
『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:1-6)
祝福される条件は、「主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば」である。
そうするなら、次の祝福が待っている。

『主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。
主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。』(申命記28:8-13)

この祝福はまさに、ソロモン王が、主の御声に聞き従う心を求めた故であり、そしてこの時は実際、聞き従っていたからである。
しかし、聞き従う事をやめてしまって他の神々に向かうなら、それら祝福とは真逆のことが起こってしまう。
それは、徹底した呪いである。(申命記28:8-15節以降)

『ソロモンはまた戦車の馬の、うまや四千と、騎兵一万二千を持っていた。そしてそれらの代官たちはおのおの当番の月にソロモン王のため、およびすべてソロモン王の食卓に連なる者のために、食物を備えて欠けることのないようにした。また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。』(1列王記4:26-28)
モーセは、王たる者は自分のために馬を多くしてはならないと、主の御言葉を伝えた。
『王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(1列王記17:16-17)
ソロモンはこれからさらに多くの女をめとり、金銀を増やし、また、馬も多く増やそうとして行く。
彼が主から心を背けてしまう兆しが、既にあらわれているが、彼は父ダビデの故に、すぐに呪いが来るという事がない。

ソロモンに与えられたのは、富や栄誉ばかりではない。
『神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。彼はすべての人よりも賢く、エズラびとエタンよりも、またマホルの子ヘマン、カルコル、ダルダよりも賢く、その名声は周囲のすべての国々に聞えた。彼はまた箴言三千を説いた。またその歌は一千五首あった。彼はまた草木のことを論じてレバノンの香柏から石がきにはえるヒソプにまで及んだ。彼はまた獣と鳥と這うものと魚のことを論じた。』(1列王記4:29-33)
彼には、世の中の知恵者では誰にも叶わない、素晴らしい知恵が与えられた。
彼は、文学的・芸術的感性ばかりでなく、建築学や自然科学、サイエンスの面でも、あらゆる方面のエキスパートだったのだ。

主は、これ程までに、富と栄誉を、そして知恵を与える事の出来るお方である。
これらが彼に与えられたのは、「主に聞き従う心」を求めたからであり、当初はそれを守って主のために正統に用いたからだ。
ただ彼の場合、主への誠実を最後まで貫かなかったから、この繁栄も続かず、子供たちにその知恵が継がれる事も無かった。

もしもソロモンが、最後まで、主への誠実を貫き通していたなら、もっともっと祝福され、富も、栄誉も、知恵も、増し加えられた所だろう。
主に聞き従うなら、これ程大きな富と栄誉、知恵、祝福が与えられる、という望みを持って、主に従って行きたい。

イザヤ書講解説教メッセージ

さばきの日の隠れ家(イザヤ26:12-21)
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ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)
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ソロモンは主に「聞き従う心」を求めた故に、主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富とを与えられたが、それが大いに発揮され人々に知れ渡る出来事が起こる。

『さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。』(1列王記3:16)
当時のイスラエルでは、何か事件が起きると、まずは十人の長に相談して判定してもらい、そこで解決できないならさらに百人の長、千人の長へと上訴して裁判してもらい、それでも解決できないなら、王に裁判してもらっていた。(出エジプト記18章)

『ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。』(1列王記3:17-22)

この事件は、二人きりの状況で起きたのだから、第三者の証人は望めない。
彼女たちはただ、多くの言葉で自分の正当性を主張するばかりで、物証や客観的事実を手がかりに解いていく方法を用いようとすればする程、混乱するばかりである。
この事件を担当して来たであろう長老たちは、ソロモンより人生経験が上だったとしても、皆、お手上げだった。
しかしソロモンは、物証や客観的事実に手がかりを求めず、神の知恵によって、「人の心の内を露わにするもの」を用いた。

『この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。』(1列王記3:23-25)
ソロモンが持ってきたものは、刀だった。
刀は切り分け、殺す。
しかし、神の知恵である「御言葉の剣」は、肉の心と霊とを切り分け、人の心の内を露わにする。
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(ヘブル4:12-13)
『すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。』(1列王記3:26)
この剣を前に、彼女たちは「多くの言葉のまくし立て」によって隠されていた心の内が、露わにされた。
一方は真実と愛と憐れみが、他方は偽りと妬みと殺意が。

御言葉の剣を前に、人は分断され、心の内が露わにされる。
真実を求めていた人には、真実と愛と憐れみが表面に現れ、涙したり、悔い改めたりする。
しかし悪い物事を心に蓄えている人は、「ばれたか」という悔しさと開き直り、怒りなどが露呈する。
御言葉の剣によって露呈した心の内の有様は、真実を求めていた人は、実に美しく、偽りを求めていた人は、実に醜い。

アブラハムも、「愛する息子イサクを捧げよ」という言葉の剣によって心の真実があらわにされ、一旦は失っていたイサクを信仰によって取り戻した。(創世記22章)
そうしてイサクと、後に生まれてくる彼の子孫達は皆、「主に捧げられ済みのもの」となったのだ。
私達も、救われて主のものとされるためには、御言葉という剣の前に、身も心も委ねる事が必要であり、それが、十字架の経験である。
その時、それまで生きてきた自分自身に対しては死ぬが、キリストが復活したように、私達も復活し、もはや罪には歩まない者となり、主のものとなり、永遠のものとなって、全く新しくされるのである。

『イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。』(1列王記3:28)
難解な事件は、一見、災いであるように見えたが、一転して彼の名誉を、そして、彼に知恵を与えて下さった神の名誉を、高めるきっかけとなった。
ソロモンはかつて若く、未熟で、兄のアドニヤに「自分が王になろう」とさえ言われた事もあった。しかしもはや、誰もソロモンを軽んじる者がなくなった。

彼に与えれたような主の知恵は、どうしたら与えられるだろう。
箴言2章に、その手法と順番が書いてある。
『わが子よ、もしあなたが/「わたしの言葉を受け」、わたしの戒めを、あなたの「心におさめ」、あなたの「耳を知恵に傾け」、あなたの「心を悟りに向け」、しかも、もし知識を「呼び求め」、悟りを得ようと、あなたの「声をあげ」、銀を求めるように、これを「求め」、かくれた宝を尋ねるように、これを「尋ねる」ならば、あなたは、「主を恐れることを悟り」、「神を知る」ことができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。』(箴言2:1-6)

まず、主の言葉を「受け」「心におさめ」る事。次に「耳を傾け」「心を向ける」事。また、「呼び求め」「声をあげる」事。そして、「求め」「尋ねる」事。
まずは主の言葉をただ「受ける」事から始まり、次に、耳と心を「傾ける」事、そして「口」を用いて、求めている事を告白する事、そして、宝物や銀を欲しがるような「欲しがり」さ加減で、求める事。
それをするなら「主を恐れることを悟り」「神を知る」ことが出来ると書いてある。

知恵とは何も、世渡り上手になるとか、誰をも論破できる能力といったものではなく、本質は「主を恐れる事」「神を知る事」なのだ。
主への恐れ無き「世渡り上手さ」や「論破能力」は、暴力でしかない。
主へのおそれを身につけた上で、そうしたものも与えられるのだ。

主に求め、主の知恵をいただき、それを正しく行使して、御心に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ソロモンが主に願い求めたもの、それは知恵ではなく・・・(1列王記3:5-15)
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ソロモンは当初、主を愛し、父ダビデの戒めに従って歩んでいた。
彼は、ギベオンという最も重要な「高き所」で、いけにえの動物千頭を捧げた日の夜、主が夢の内でソロモンに現れ、言われた。
『あなたに何を与えようか、求めなさい。』(1列王記3:5)

もし何か一つ願い事が叶うと言われたら、一体何を願うだろう。
自分の健康や、自分の富や名誉が増し加わる事を求める人は多いかもしれない。あるいは、憎い敵の不幸を求めるかもしれない。
ソロモンは、そうした事は一切求めず、主の御心に叶った事を願う。

『ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。』(1列王記3:6)
ソロモンの兄たち、アムノンやアドニヤは、父ダビデ王の七光りを受けて傲慢になったが、ソロモンは違った。
彼は自分の父ダビデを「あなたのしもべ」と呼び、彼が「大いなるいつくしみ」が施されたのは、「誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだ」ため、と、全ては主の恵みゆえである事を告白している。
ソロモンは知っていた。父ダビデが大いに祝福されたのは、主の選びと後ろ盾があったからで、もしそれが無いとするなら、王といえども何もない一人の人間に過ぎない、という事を。

『わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。』(1列王記3:7-8)
彼はまた、自分は未熟な者である、と告白した。
神の国では、自分を低くする者が高くされ、自分を高くする者は低くされる。
アブシャロムやアドニヤは、勝手に自分が王になろうとして策を弄したが、御旨でない王座に着こうとした結果、刈り取った実は、滅びであった。

ソロモンは元々、神に王として選ばれていた者ではあったが、彼は「自分は王として相応しくない」と思っている点においても、兄たちよりは、御前で相応しかったのだ。
なぜなら、「自分は未熟だ」「自分は相応しくない」と思っている人は、ただ、主により頼むしかないからだ。
主により頼む事、それこそ、何より主の御前に用いられるに相応しいたしなみである。

そこで彼が主に願った事は、次の事だ。
『それゆえ、”聞きわける(シャマー)”心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪を”わきまえる(ビーン)”ことを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。』(1列王記3:9-10)

ソロモンは主に「知恵」が与えられるよう願い、それが主に喜ばれて、多くのものが与えられた、と知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」である。
彼がそれを求めた理由は、主の民を正しく裁き、何が正しく、何が間違っているのかを「わきまえる(ビーン)」事を得るため、である。

聞き分ける「シャマー」の心。
これは、主にどんないけにえを捧げるよりも優れた事である。
サムエルは言っている。
『主はそのみ言葉に”聞き従う事(シャマー)”を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、”従うこと(シャマー)”は犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル記15:22-23)

主がもっとも喜ばれるいけにえ、それはシャマーの心、すなわち、聞く事、従う事である。
それを主は喜ばれた。
『そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。』(1列王記3:11-12)
まさに、おし入れゆすり入れして、全てが加えて与えられるパターンである。
聞き分ける心、そして主に従う心、それは、全てに勝るものである。

『わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで(ハーラフ)、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。』(1列王記3:13-14)
そしてさらに大事な事は「主の道に歩むこと」、すなわち、「聞き従う」と決心した初心をキープし続け、主と共に歩む事である。
そうするなら、栄えといのちは長く続く、と主は約束しておられる。
「主とともに歩む(ハーラフ)」、これは、信仰の先人達がみな行った事だ。
ダビデはそうだったし、アブラハムも、ノアも、エノクも、皆主とともに歩む性質の持ち主だった。

『ソロモンが目をさましてみると、それは夢であった。そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ、すべての家来のために祝宴を設けた。』(1列王記3:15)
彼はもはや、正統ではない礼拝場所である高き所を離れ、正当な礼拝場所、すなわち、主の契約の箱の所へ行って、そこで礼拝を捧げた。
こうして彼は祝福され、これから、おびただしく栄える事になって行く。

この時の彼のように、主の御声に聞いて従い(シャマー)、主と共に歩み(ハーラフ)、そうしてますます主に喜ばれる道を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
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『ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。』(1列王記3:1)

前章では、王国における不穏分子が全て除かれ、ソロモン王国が確立した事が記されてあった。
そしてこの3章以降、ソロモン王がさらに栄えて行く様が記されているのだが、それに先立って、彼はエジプトの王・パロの娘と結婚した事が記されている。
実はこの事は、これからのソロモンの将来を暗示する象徴的な出来事である。

ソロモン王は、その生涯において、多くの輝かしい実績を残した。
神殿建設もそうであるし、知恵と富と栄誉がふんだんに与えられ栄華を極めた点においては、世の誰にも勝っていたが、しかし彼はイスラエルに偶像礼拝を導入した”悪い王”として、その生涯は終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。
それはずばり、異邦の女との結婚である。

エルサレムを再建した偉大な指導者・ネヘミヤは言っている。l
『あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。」』(ネヘミヤ13:25-27)

結婚とは、男と女ふたりの人が、一つのからだとなる事である。
だから、主を信じて神の国の価値観で生きるようになった人と、世の価値観で生きる人とが、結婚する事は、ひっきりなしに自分を打ち叩いく器官を体内に組み入れてしまうような事なのだ。

聖書では、女に惑わされて、してはならない事をしてしまい、その身に呪いを招いてしまった事例を沢山見る事が出来る。
最初の人アダムしかり、洪水前の神の子達しかり、サムソンも、アハブも、そしてソロモンも、皆、女によってその身を滅ぼしてしまった。
男性はそれ程、女性から影響を受けやすいものだという事を知るべきであり、女性もまた、男性の信仰と祈りを煩わせないよう気をつけるべきだ。

『そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。』(1列王記3:2-4)
ここに出てきた「高き所」というキーワードは、列王記や歴代誌では頻繁に出てくる。
高き所(バーマー)とは、「礼拝する場所」ではあるが、まことの神を礼拝する場所とは限らない。

元々、カナン地方では、山や丘の小高い所や、木の茂った所などに、この「高き所」を築き、そこで偶像礼拝をしていたが、主はモーセを通じ、それらを壊すよう命令していた。
『これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。』(申命記12:1-3)

ヨシュアの時代、それらはことごとく破壊され取り除かれたはずだった。
しかし、イスラエルが次第に土着の者達と連合して行く内に、偶像礼拝がはびこるようになってしまった。
士師記の暗黒時代を経て後、サムエルの時代に宗教改革が為されて偶像は撤廃され、高き所は、主を礼拝する場所となった。(1サムエル記9-10章)
しかし、列王記・歴代誌の中で時代が降って行く内に、「高き所」は次第に偶像礼拝の場所としての意合いが強くなって行き、主を礼拝する場所との区別がつきにくくなって行く。

主は礼拝について、律法で何と言っているか。
『あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。』(申命記12:10-11)
『全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。』(同13-15節)
つまり、本来は主が定められた場所・以外では、気ままに礼拝をしてはならないものであった。
それなのに、ソロモンの時代もそれ以降も、”高き所”はずっと取り除かれないままだった。
本来なら高き所での礼拝は違法だったが、イスラエルの信仰がまだ未熟な時や、まだ不安定だった時は、主の憐れみによって赦されていた。
しかし、各問題が平定され、成熟した時、それらを自ら取り除く事を、主はずっと待っておられたのだ。
しかし高き所がようやく取り除かれたのは、13代目の王・ヒゼキヤ王の時代だった。

今や、イエス様がまことの小羊としてただ一度捧げられた事によって、もはや犠牲としての動物を捧げる礼拝は必要なくなり、どこか神殿などの特別な場所に行く必要は無く、霊と真理によって主を礼拝する時代となった。
今や私達が取り除くべき「高き所」とは、私達が過去に行っていた良くない行いや、忌むべき世のならわしという「高き所」である。
「高き所」での礼拝は、一見良いもののように見えても所詮は主の御言葉から外した礼拝であり、すぐに偶像礼拝へと転換してしまったように、私達も、御言葉に従っていない「一見良いもの」は取り除くべきである。
それは、過去の忌むべき行いかもしれないし、あるいは世の価値観との連合や結婚かもしれない。
それらは、いきなり止める事は出来ないかもしれないが、主の憐れみはいつも注がれており、それを取り除く事ができるまでに成熟した時、取り除くものである。

そのように純粋に主に喜ばれる道を歩み、成熟して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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