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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

イザヤ書講解説教メッセージ

壮大な罠である地上の有様(イザヤ24:14-23)
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第一列王記概要(1列王記1:1)
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講解説教は、第一列王記に入る。
元々、サムエル記と列王記は共に一つの書だったが、ギリシャ語聖書の70人訳聖書の時に分割され、第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」とされている。

列王記は、歴代の王達の歴史であり、その間のおよそ400年のイスラエルの歴史である。
王権がダビデからソロモンへと継承される場面に始まり、このソロモン王以降に続く王達とイスラエルの歴史が、バビロン捕囚に至るまでのおよそ四百年の間の出来事が、記されている。

ダビデ王の子、ソロモン王の子、レハブアム王以降、イスラエルは南北に分断されてしまう。
この分断された王国は、それぞれ、北イスラエル王国、南ユダ王国と呼ばれ、それぞれの国に、王が立っては消え、それぞれの歴史を刻んで行くが、北イスラエルには合計十九人、南ユダには合計二十人の王達の歩みが、第一・第二列王記に記されている。
そして、それぞれの王の治世の記録には、必ず、その王が神に従った「良い王」であったか、それとも従わない「悪い王」であったか、そして、その統治は何年であったかが、記されている。

これら、王たちの歩み方を読み進めていくと、あるパターンをすぐに見出す事が出来る。
すなわち、王が神に従う人なら、その王が統治する時代は祝福され、栄えるが、王が主に従わないなら、その時代は呪われ、衰退する、というパターンであり、それは絶対的なものだ。

このイスラエルの歴史は、私達の人生という歴史にも、全く当てはまる。
私達はある意味、自分自身という人生の「王」ではあるが、自分の人生の「王」である自分が、主に従うなら、必ずその自分は祝福され、栄えるが、主に従わないなら、必ず衰退する。
だから、私達がこの書を読み進めていく時、私達も何をしたら祝福され、何をしたら呪われるのか、その祝福と呪いのパターンを読み解くべきである。

第一列王記は、1章から11章までは、ダビデの子ソロモンの活躍が記されている。
彼は神に従って歩んでいた間は祝福され、素晴らしい知恵が与えられ、世のあらゆる富と栄光を集めた。

彼はエルサレム神殿を建築し、豪華絢爛な宮殿も建てた。
彼は箴言を編纂し、伝道者の書、雅歌書もしたため、また彼には、合計千人もの正妻と妾がいた。
このように、イスラエルの誰よりも栄華を極めた彼だが、その栄華が極まった時、彼は驕り高ぶり、主を忘れ、主の道から離れてしまった。

彼は異教の妻にそそのかされ、偶像礼拝を導入し、イスラエル内に異邦の神々の神殿をつくり、主から警告が与えられたにも関わらず、主の目に悪とされる事を止めず、ついには呪いが確定してしまい、彼の子の代以降、イスラエル王国は分断されてしまう。
12章から16章までが、その分断された王国の歴史が記されている。

『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。
しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。』(1列王記11:12)
こうしてイスラエルは、北イスラエル王国、南ユダ王国に分断されてしまい、それぞれにおいて、悪い王と良い王が入れ替わり立ち代わり支配して行く荒んだ時代へと突入してしまう。

17章から最後の22章までは、イスラエル史上、最悪の王とも言われるアハブ王の統治の出来事が記されているが、この暗黒の時代、偉大な預言者・エリヤが現れる。
彼は、霊的に堕落し主から離れてしまったイスラエルを、主へと立ち返らせようと努力するのだが、アハブの妻イゼベルの故に、イスラエルは中々主に立ち返らない。
結局、エリヤの時代は主に立ち返らなかったが、それでも主の御心はイスラエルから離れず、イスラエルは見捨てられなかった。
主の主権は、時を超えても世代を超えても変わらず、主の憐れみのご計画は、必ず成就する。

結局、この列王記の歴史を通じて分かる事は、時代と王国を支配しているのは人間の王ではなく、主である、という事だ。
17章以降、イスラエルの国の主導権は王ではなく、預言者であるかのような感じを受けるが、しかし預言者エリヤも我々と同じ人間であり、王も、預言者も、結局主に任命され、主の御心を果たす役割が与えられているに過ぎない。
全てを支配しておられるのは、王の王、主なのだ。

主がイスラエルの歴史の初期に与えられた十戒の次のことばは、この一連の時代を、如実にあらわしている。
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:3-6)

列王記の数百年は、徹底して、この法則に従って動いていた。
これは私達の人生も全く同じである。
人は結局、主と共に歩み、御言葉に従って歩む以外に、祝福と幸いの道は無いのだ。

この列王記から、祝福のパターンと呪いのパターンを学び、祝福と栄光の王道を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
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『その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。』(2サムエル記24:18)
主が、預言者ガデを通して祭壇を立てるように指図された、この「エブス人アラウナの打ち場」は、一体どういう場所なのか。
そこはとても重要な場所である。
ここは後に、エルサレム神殿が建立される場所であり、大昔、全イスラエル民族の先祖・アブラハムが、ひとり子イサクを捧げた、あのモリヤの山である。(2歴代誌3:1、創世記22:2)

『アラウナは見おろして、王とそのしもべたちが自分の方に進んでくるのを見たので、アラウナは出てきて王の前に地にひれ伏して拝した。そしてアラウナは言った、「どうして王わが主は、しもべの所にこられましたか」。ダビデは言った、「あなたから打ち場を買い取り、主に祭壇を築いて民に下る災をとどめるためです」。
アラウナはダビデに言った、「どうぞ王、わが主のよいと思われる物を取ってささげてください。燔祭にする牛もあります。たきぎにする打穀機も牛のくびきもあります。王よ、アラウナはこれをことごとく王にささげます」。アラウナはまた王に、「あなたの神、主があなたを受けいれられますように」と言った。』(2サムエル記24:20-23)
エブス人アラウナは、王に対し、また主に対してとても忠実な人物で、しかも、全ての財産を潔く喜んで捧げる、無私無欲な人であった事がよくわかる。

彼はまた、状況に左右されず、仕事に打ち込む人だったようだ。
彼は、自分の麦打ち場に立っている御使いがイスラエルに剣を向けていて、それで多くの人々が疫病に打たれ死んでいるのに、それを見ておきながらも麦を打つ事に専念していたのだ。(1歴代誌21:20)

イスラエルで多くの人々が打たれ倒れている傍ら、このエブス人と、その家族とには一切、害が及んでいない。
主は、主に忠実で、主が立てた権威に対しても忠実な人であるなら、いかにエブス人という異邦人であっても、災いで打つ事はせず、どんなに災いがはびこっている時代の中でも、守って下さるが、主と主の立てた権威に不従順な人は、いかに神の民イスラエルであっても打たれてしまい、災いの時代には真っ先に滅んでしまうのだ。

『しかし王はアラウナに言った、「いいえ、代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」。こうしてダビデは銀五十シケルで打ち場と牛とを買い取った。ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。』(2サムエル記24:24-25)
ダビデは「費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」と言ったが、その通りである。
犠牲なき礼拝には、意味が無い。

礼拝は、捧げることから始まる。
主が定められた日に、私達人間の側は、お金や時間、エネルギーなどを払い、礼拝すべき場所へとみずから赴き、そこで祈りと賛美、献金や奉仕を捧げるのである。
そのようにして”犠牲”を捧げるなら、主はその応えとして、御言葉による導きを、また日々の必要の備えを、そして、祝福を与えて下さるのである。
このような、神と人との双方向のコミュニケーションこそ礼拝である。
この、礼拝における私達の分は、まず、私達自身の体(ソーマ:霊、魂、肉体)を生きた供え物として捧げる事である。(ローマ12:1)

アラウナが麦打ち場として所持していた所は、モリヤの山と呼ばれていた。(2歴代誌3:1)
すなわちそこは、かつてアブラハムがイサクを捧げた所で、イスラエル民族の父・アブラハムは、そこでひとり子イサクを捧げるという、究極の痛みを伴う礼拝を捧げた場所だった。
アブラハムが主から示された通りに、このモリヤの山へと登り、イサクをほふろうとして剣を振り上げたその瞬間、主はアブラハムを呼ばれ、イサクに手をかけてはならない、と命じれた。
アブラハムの主に対する信仰が、この「行い」によって実証された故に、主はイサクの身代わりとなる一頭の雄羊を得させて下さった。
こうして、捧げられて死ぬべきだったイサクは、主が備えられた身代わりの雄羊の故に、命拾いしたのである。(創世記22章)

異邦人アラウナは、アブラハムがかけがえのないひとり子・イサクを捧げたのと同じ場所で、彼が所有していたこの土地や牛、脱穀機などの全財産を「全部捧げます」と言って、ひと度、所有権の一切を、ダビデへと手放した。
しかし彼は、次の瞬間、ダビデの「いいえ、買い取ります」という言葉によって、彼は相当の代価を得て財産を失う事は無かった。
ちょうど、アブラハムがイサクを捧げる時、主が、イサクの身代わりに捧げられる雄羊を備えて下さったように。
アラウナの信仰による行いもまた、アブラハムと一緒だったのである。

異邦人といえども、心から主に捧げるなら、それは大いに主に用いられるものとなる。
ちょうど無名の少年が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に捧げた所、主を求めて来た人達五千人以上を養ったのと、同じように、彼が捧げたその土地は、後に神の民イスラエルにとってもっとも重要な土地となって行く。

信仰をもって捧げる事こそ、私達に求められている「礼拝」であり、それをする聖徒には、主は豊かに備えて下さるのである。
それは、アブラハムも、異邦人アラウナも、私達も同じである。

『ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。 』(2サムエル記24:25)
これが、第二サムエル記の最終節である。
ダビデは、アラウナの打ち場を買い取って、そこで犠牲のいけにえを捧げた。
そうして、全イスラエルの罪に対する罰は、止んだ。

後に来られるまことのダビデ、イエス・キリストも、この神殿の丘の傍らに位置するゴルゴダの丘で、十字架に掛けられ、全人類の身代わりの羊として犠牲となり、それ故、彼を信じる人は、罪赦され、処罰は止み、救いを得るのだ。
そして、このお方に捧げる全ての礼拝者は、異邦人であっても、イスラエル人であっても、「主の山からの備え」を頂く事が出来るのだ。

サムエル記は、ダビデがこの土地を買い取って、犠牲の捧げものを捧げる礼拝で終わった。
それは、後のイスラエルにとって重要な出来事であるばかりでなく、私達キリスト者にとっても、非常に意義深い出来事である。

私達もアラウナのように、礼拝の場所において、全身全霊をまことのダビデである主イエス様に捧げるなら、全ての必要と祝福を得、そして、捧げられたものは大いに神の国・神の民のために用いられて行くのだ。

人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
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『しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。』(2サムエル記24:10)

ダビデは部下の静止をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出て、有限であるその数字を聞いた時、心を責められた(原意:ダビデの心が彼(ダビデ)を打った)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。

ダビデは、自国の民を数えてその数を知った時、その保証の源と平安とを失ってしまったのだろう。
しかし、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白した。
ダビデは、さすがである。

『ダビデが朝起きたとき、主の言葉はダビデの先見者である預言者ガデに臨んで言った、「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、「わたしは三つのことを示す。あなたはその一つを選ぶがよい。わたしはそれをあなたに行うであろう」と』」。ガデはダビデのもとにきて、彼に言った、「あなたの国に三年のききんをこさせようか。あなたが敵に追われて三か月敵の前に逃げるようにしようか。それとも、あなたの国に三日の疫病をおくろうか。あなたは考えて、わたしがどの答を、わたしをつかわされた方になすべきかを決めなさい」。』(2サムエル記24:11-13)
主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。

私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。

『ダビデはガデに言った、「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。わたしを人の手には陥らせないでください」。』(2サムエル記24:14)
ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ね、それで主は「疫病」を下される。
1歴代誌21:12の並行箇所を見ると、「主(エホバ)のつるぎすなわち疫病」、と記されてあって、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、主の御手に陥る事を選んだのだ。

『そこで主は朝から定めの時まで疫病をイスラエルに下された。ダンからベエルシバまでに民の死んだ者は七万人あった。』(2サムエル記24:15)
ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。

この事件の最初は、次のように始まっている。
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(24:1)
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。

では主は、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
民数記でも度々起きたが、主に信頼を置いている人は病や災いから守られるが、そうでない人は災いに追いつかれてしまうのだ。
主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。

主は、好きこのんで、人々に災いを下されるお方ではない。神罰は誰にも彼にも降されたわけではなく、主と王とに忠実な人は、たとえ災禍の中心地にいても災いは降されなかった。
イスラエルの人々とダビデが苦しんでいるのを見て、主は災いを思いなおされる。
『天の使が手をエルサレムに伸べてこれを滅ぼそうとしたが、主はこの害悪を悔い、民を滅ぼしている天の使に言われた、「もはや、じゅうぶんである。今あなたの手をとどめるがよい」。その時、主の使はエブスびとアラウナの打ち場のかたわらにいた。ダビデは民を撃っている天の使を見た時、主に言った、「わたしは罪を犯しました。わたしは悪を行いました。しかしこれらの羊たちは何をしたのですか。どうぞあなたの手をわたしとわたしの父の家に向けてください」。』(2サムエル記24:16-17)
主は、祈りを聞いて下さるお方であり、大上段からばっさりと一方的に命令を下されるお方では、決してない。
ダビデは主に執り成し、主はそれを聞かれたし、アブラハムも主に執り成し、主はそれを聞かれた。

さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブス人・アラウナの麦打ち場だった。
実は、この場所はとても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。

モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。

主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。

私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書講解説教メッセージ

全世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13)
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サタン由来の”感動”に動かされてしまったダビデ(2サムエル記24:1-9)
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いよいよ2サムエル記も最終章となった。
前章では、ダビデの最後の言葉が記され、ダビデを支えた勇士たちも記され、そこで一旦完結しても良かったような気もするが、なおもうひとつ、時期的にもう少し遡った時に起きた出来事、すなわち、ダビデが主の御前に犯した一つの罪の出来事が記されている。

ダビデ記とも言える第二サムエル記の最終章が、ダビデの罪の記事で終わるのは、いささか不思議な気もするが、実はそれは全イスラエルにとって、いや、全人類にとって重要な事のきっかけとなる。
その重要な事とは、すなわち、エルサレム神殿建立である。
ダビデが犯した罪が、そのきっかけとなるのだ。

『主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。』(2サムエル記24:1)
一見すると、あたかも主が、ダビデを動かして、イスラエルの数を数えさせよと誘惑したかのように取れる。
主は誰をも誘惑するようなお方ではないとヤコブ1:13に記されているが、一体どういう事か。

KJVでは、ここは「”he” moved David against them to say, Go, number Israel and Judah. 」と記されている。
この、ダビデを「感動」させ、イスラエルとユダを数えさせるようにした「he」とは、何者か。
歴代誌の並行箇所を見ると、その「he」が誰だか分かる。

『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。』(1歴代誌21:1)
そう、「he」とはサタンであり、彼がダビデを動かしたのだ。

『試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。』(ヤコブ1:12-15)
ここに書いてある通り、神は「試練」は与えられても、「誘惑」はなさらない。
「誘惑」と、「試練」とは、全く別物である。
「誘惑」が最終的に目指す所は、人を死へと、滅びへと至らせる事であり、「試練」が最終的に目指す所は、人を生かし、建て上げる事である。

サタンは、人の「欲」をおびき寄せのターゲットに用い、おびきよせた人を罪へ捕らえ、その罪が熟し切ると、死に至る。
誘惑は悪魔に由来し、人の欲がそれに乗っかると、その人が死に至るまで便乗して行くのだ。
「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれる」とある通りである。

ダビデは、サタン由来の「民を数えよ」という思いを吹き入れられ、それに「感動」し、動かされてしまった。
『そこで王はヨアブおよびヨアブと共にいる軍の長たちに言った、「イスラエルのすべての部族のうちを、ダンからベエルシバまで行き巡って民を数え、わたしに民の数を知らせなさい」。ヨアブは王に言った、「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。そして王、わが主がまのあたり、それを見られますように。しかし王、わが主は何ゆえにこの事を喜ばれるのですか」。しかし王の言葉がヨアブと軍の長たちとに勝ったので、ヨアブと軍の長たちとは王の前を退き、イスラエルの民を数えるために出て行った。・・・
こうして彼らは国をあまねく行き巡って、九か月と二十日を経てエルサレムにきた。そしてヨアブは民の総数を王に告げた。すなわちイスラエルには、つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。』(2サムエル記24:2-9)

ヨアブが「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。」とダビデを諌めたのは、全く正解であったが、ダビデに吹きこまれてしまった悪魔由来の”感動”の勢いは、ヨアブと軍団長たちの諌めの言葉よりも強かった。
そうしてヨアブは行って、戦士たちの数え、およそ9ヶ月後に、その調査結果が出た。
その結果は、イスラエルが八十万、ユダが五十万、合計百三十万人だったが、その有限なる数字の結果を聞いたダビデは、無限なる主の御前に良心のとがめを感じ、自分は罪を犯したと告白した。(10節)

さて、ここで疑問に思う。
兵士の数を数える事が、なぜそんなに悪い事なのだろう。
国家が人口調査をするのは当たり前だし、企業もビジネスドメインの統計を出さなくては、その後の戦略は立てられない。
一体なぜ、この時、ダビデが全イスラエルの戦士を数える事が、そんなに悪い事だったのだろう。

よく読みとるべきである。一体何が、ダビデを動かして兵士の数を数えさせたのか。
それは主ではなく、ダビデ自身ですらない。
それは、サタンである。

サタン由来の感動によって物事を行うなら、一見良い事に見えるような事も、罪となりうる。
兵力調査も、献金する事さえも。
アナニヤとサッピラは、夫婦ともに合意の上で、売った地所の代金の一部を取っておき、「これで全部です」と偽って”献金”したが、ペテロに「どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。」と指摘された。(使徒5:3)

ダビデは元々、兵の数に頼るような人ではなかった。
自分と他人の力や数を比較して、戦うべきかそうでないかを判断するような人物ではなかった。
もしそうなら、ダビデは元々、ゴリヤテに向かって行かなかっただろう。
彼は王となって、力が増し加わるにつれ、兵たちを見て「これは自分の号令によっていくらでも動くものだ」「いったいどのくらいのものなのか」という、驕り高ぶった思いが、サタンに付け込まれたのだろう。

人は、証拠を求めたがる。自分はどのくらいの兵力で相手はどのくらいか、この事をするのにいくらかかるのか、手持ちの資産は幾らか、今立てている計画はどうで、それが成功する根拠は一体何か、など。
世は、社会は、そうして物事を進めて行くが、神の国の事柄は、物的証拠によって動くのではなく、信仰によって動くものである。

主は、兵の多さによって人を救うお方ではない。
心が全く主に向いている人を喜ばれ、その人に主は勝利を与えて下さるのである。
有限なる「見える事柄」を数えだし、そして自分の持ち物と、敵の持ち物とを比較しだすと、無限なる神が見えなくなり、無尽蔵の保証の源である信仰によって歩む事ができなくなってしまう。

勝利をもたらすのは、装備や兵力、財産ではなく、主である。
主に従うなら、こちらが一人であっても千んを打ち、二人が万を打つのだ。
私達は何事も、主から来たのか、サタンから来たのかを、御言葉のものさしと聖霊の感覚によって見極め、本当に良いものを選んで歩んでいきたい。

ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39)
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前回に続き、ダビデに仕えた勇士たちが名を連ねている。

『ゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイは三十人の長であった。彼は三百人に向かって、やりをふるい、それを殺した。そして、彼は三人と共に名を得た。彼は三十人のうち最も尊ばれた者で、彼らの長となった。しかし、かの三人には及ばなかった。』(2サムエル記23:18-19)
ヨアブの兄弟・アビシャイは、ダビデがサウルに追われていた時から頻繁に活躍している。
直近では、ダビデが老いて戦いに疲れ、危険にさらされた時、ダビデを救ったのも、彼であった。
アビシャイは、かの三人よりも力の面では及ばなかったものの、おそらく、政治力や統率力など他の面で秀でていたために、三十人の長として用いられたのだろう。

『エホヤダの子ベナヤはカブジエル出身の勇士であって、多くのてがらを立てた。彼はモアブのアリエルのふたりの子を撃ち殺した。彼はまた雪の日に下っていって、穴の中でししを撃ち殺した。彼はまた姿のうるわしいエジプトびとを撃ち殺した。そのエジプトびとは手にやりを持っていたが、ベナヤはつえをとってその所に下っていき、エジプトびとの手からやりをもぎとって、そのやりをもって殺した。・・・彼は三十人のうちに有名であったが、かの三人には及ばなかった。ダビデは彼を侍衛の長とした。』(2サムエル記23:20-22)
ベナヤは祭司エホヤダの子で、ヨアブの元では、外国の雇用兵の長であった。(2サムエル記20:23)
後に王権がソロモンの代になると、彼は、ソロモンの命によってヨアブを殺し、ヨアブに代わって軍団長の座に着く事になる。(後述)

24節から、39節までは、ダビデの三十勇士のリストとなる。
『三十人のうちにあったのは、ヨアブの兄弟アサヘル。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。・・(中略)・・ヘテびとウリヤ。合わせて三十七人である。』(2サムエル記23:24-39)

この節中に登場する名前を数えると、32人となる。
その内、ヨアブの兄弟アサエル(24節)は、サウル王の将軍だったアブネルによって殺されてしまい、また、ヘテ人ウリヤ(39節)も、ダビデによって謀殺されてしまった。
その2人の補充として2名が加えられ、そうして合計32人が記されたのだろう。
さらに、8節から23節までに名を連ねている5人を加えると、「三十七人」となる。

この勇士たちの中に「ギロ出身のアヒトペルの子エリアム」(34節)が名を連ねているが、アヒトフェルは、アブシャロムの謀反に加わってダビデを裏切ったものの、彼の立てたはかりごとが採用してもらえず、自殺してしまった。(2サムエル記17:23)
そして、エリアムの娘は、ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバである。
ダビデは、このバテ・シェバと姦淫を犯し、ウリヤを謀殺したのだ。

このように、ダビデの勇士の中には、色々な国籍や生い立ち、バックグラウンドを持った人達がいる。
主君のために大いに忠誠を尽くした人もおれば、主君が犯した罪の犠牲となってしまった人もいる。
それでも彼らは、三十七人のリストから抜かれる事なく、神の国イスラエルの建て上げに貢献した者として、しっかり名が記録されている。

ところで、サムエル記全体を通じて、軍事的な面でもっとも活躍した人といえば、間違いなくヨアブであろう。しかし、彼の名がここのリストに「登録されていない」事も、注目すべきである。
ヨアブは、ダビデに対して度々の命令違反を犯し、ダビデを軽んじていたばかりでなく、後のダビデの後継者争いでアドニヤのほうを支持してたため、ソロモン王の指示により、エホヤダの子ベナヤの手で殺される事になってしまう。(1列王記2:29−35)
どんなに活躍しても、主君を軽んじて不従順を重ね、主の御旨でない者を担ぎ上げてしまうなら、特別な地位から降ろされ、抹殺され、王国の勇士達のリストから除外されてしまうのだ。

現代の教会にも、色々なバックグラウンドを持った人達が集まっているが、私達・教会は、ダビデの勇士たちと同じように、信仰の戦士たちである。
私達の戦いは、身体的なものではなく、霊的なものであり、身に付ける武具も、物理的なものではなく、霊的なものである。
そして、戦うべき相手は、目に見える人間ではなく、主権、力、暗闇の世界の支配者である。(エペソ6章)

『それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。』(エペソ6:13-18)
私達も、まことのダビデであるキリストに従順し、主が与えて下さるこの霊的武具をよく駆使し、悪しき者に対抗し、よく戦うべきなのだ。
主君を軽んじ、従順しないで、身勝手な王を立てるなら、いかに「出来る人」であったとしても、ヨアブのように立場を追われ、除外されてしまう。

まことのダビデであり、私達の主君である主イエス・キリストに従順し、彼のために信仰の戦いを闘いぬき、多くを勝利し、分捕り、多くの聖徒達に良きものを受け継がせて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデに仕えた勇士たち - 三十人の長の三勇士(2サムエル記23:8-17)
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ダビデは、自分は偉大な王にはなったけれども、そのすべてはただ主から与えられた、主が自分を立ててイスラエルを治める者としてくださった事を、最後の言葉で告白した。
この23章8節以降は、ダビデに仕えた勇士たちの名前が記されている。

『ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。』(2サムエル記23:8)
ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の最後に、彼に仕えた勇士たちの名が記されている事には、意義がある。
イスラエルの栄光建て上げは、何も、ダビデ一人のわざではなく、その背後に王に仕え、神に仕えた勇士たちがいる事を、しっかり記録している。

『タクモンびとヨセブ・バッセベテはかの三人のうちの長であったが、彼はいちじに八百人に向かって、やりをふるい、それを殺した。彼の次はアホアびとドドの子エレアザルであって、三勇士のひとりである。
彼は、戦おうとしてそこに集まったペリシテびとに向かって戦いをいどみ、イスラエルの人々が退いた時、ダビデと共にいたが、立ってペリシテびとを撃ち、ついに手が疲れ、手がつるぎに着いて離れないほどになった。その日、主は大いなる勝利を与えられた。民は彼のあとに帰ってきて、ただ殺された者をはぎ取るばかりであった。』(2サムエル記23:8-10)

ダビデの三勇士の長は、たった一人で、八百人の敵を打ち倒した。
まさに、信仰による一人の人は千を打ち、ふたりは万を打つのだ。(申命記32:30)
第二の人・エレアザルもまた、みんなが後退した時でも一人で戦い、剣が手と一体化するまでに孤軍奮闘したが、「その日、主(エホバ)は大いなる勝利を与えられた。」。
信仰の人が、一人でも残って戦うなら、主がその人の信仰を汲み取って働いて下さり、全体を勝利へと導くのである。(1サムエル記14章)
私たちも、この日本という国の中において、祈りで戦う信仰の戦士達たち(エペソ6章)がいないような状況であっても、御言葉の剣を手放さず、御言葉の剣が、自分自身と一体化するまでに戦い続けるなら、主は、そのような人を通して、ご自身を表され勝利して下さり、そして勝利して得た多くの分捕りを、他の兄弟姉妹たちにも分け与える事が出来るのだ。

『彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ある時、ペリシテびとはレヒに集まった。そこに一面にレンズ豆を作った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げたが、彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる救を与えられた。』(2サムエル記23:11-12)
この三人に共通している事は、たとえ一人になったとしても決して後退せずに戦い、そして、主が彼らに勝利をもたらして下さった事だ。
彼らは単に力強さや戦いのスキルがあったばかりでない。彼らには、ダビデに対する忠誠と愛が大きかった事が、次の記事で分かる。

『三十人の長たちのうちの三人は下って行って刈入れのころに、アドラムのほら穴にいるダビデのもとにきた。』(2サムエル記23:13)
ダビデがアドラムのほら穴にいた時は、ちょうど、ダビデがサウルに追われて逃避行が始まった頃で、彼が一人で逃げていた所を、虐げられている人や負債がある人々、苦い魂を持った人達が、彼を慕い求めて集まりだした時だった。
そんなダビデがアドラムのほら穴にいた時に、この三人はダビデと行動を共にするようになったのだろう。

『時にペリシテびとの一隊はレパイムの谷に陣を取っていた。その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、ダビデは、せつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。』(2サムエル記23:13-16)
たった3人で敵の陣営を突き抜け、敵陣まっただ中の井戸から水を汲み、その水をこぼさないようにして、持ち帰る。
彼らが飛び抜けて力強くあったばかりでなく、忠誠心においても飛び抜けていた事が分かる。

彼らは、ダビデはとても喜んでその水を飲んでくれるだろう、と思っていたであろう。
しかしダビデは、その水が彼の前に差し出された時、意外な事をする。
『ダビデはそれを飲もうとはせず、主の前にそれを注いで、言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。』(2サムエル記23:16)

ダビデに飲んでもらおうと、命がけで取って来たその水を、ダビデは飲む事をせず、主の前に「注ぎの供え物」としてささげた行動は、人によっては不可解な行動に見えるかもしれない。
ただ前回の箇所から分かる事は、自分は本当に何者でもなく、主の憐れみが無ければ、全く取るに足らない者だと認識していた事だ。
ダビデは、自分はとうてい、水一杯を飲むために、素晴らしい貴重な勇士たちが、命がけで水を汲んで来てもらえるような資格など、主の御前において断じて無い、と、認識していたのだ。
だから彼は、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」と言って、主に捧げたのだ。

きっとこの三人の勇士達は、本当はダビデに飲んで欲しかったであろう。
ただ、もし、ダビデがこの時飲んでいたら、その水はダビデの腹に降って、いくばくかの渇きが癒され、その時の感謝と満足でおしまいだったであろう。
しかしダビデは、そんな事を望まなかった。
つまり彼はこの三人をないがしろにして飲まなかったのではなく、その真逆で、大切に思ったからこそ飲む事ができず、ダビデの最も大切なお方である主に捧げたのだ。
これは主にささげられた事によって、この三人が成した忠誠と勇気のすべてが、永遠の記念として昇華されたのだ。

世の中には、色々な王様や指導者がいる。
おいしい水一杯を飲むために、いのちがけで汲みに行けと平気で命令するような者も中にはいるが、ダビデは彼らとは一切違い、自分の私腹を肥やすためでなく、ただ主のために生き、主のためにささげる人生を全うした。
そんなダビデのありさまを、部下たちは見て、自分達は本当に優れた王のために、そして神のため、永遠のために戦っているのだ、と誇りを持つことが出来、安心して戦い働く事が出来ただろう。

第二サムエル記の終わりに、このような記事がある事は、非常に意義である。
神の国の事柄は、ダビデなど誰か特別なヒーローの肩だけに乗っかっているものではなく、背後の多くの働き人たちの献身によって成り立っている事を、この記事は思い起こさせてくれる。
私達一人一人も、神の国の一旦を担う信仰の勇士である事を、決して忘れてはならない。

ダビデの最後の言葉(2サムエル記23:1-7)
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『これはダビデの最後の言葉である。』(2サムエル記23:1)
22章はダビデの人生を象徴的に表す詩だったが、今回はダビデが後世へと残した遺言である。
信仰の偉人・ヤコブやモーセ、ヨシュアが残した最後の言葉に比べれば、非常に短くシンプルである。

『エッサイの子ダビデの託宣、/すなわち高く挙げられた人、/ヤコブの神に油を注がれた人、/イスラエルの良き歌びとの託宣。』(2サムエル記23:1)
ダビデはまず、自分を「エッサイの子」「高く挙げられた人」「ヤコブの神に油を注がれた人」「イスラエルの良き歌びと」と、あたかも、誰か第三者がダビデを説明しているかのような「3人称」の表現をしている。

確かに彼は、主によって高く挙げられた人で、神に油注がれ、良き歌びとではあるのだが、ダビデは何も、自分の人生自慢を最後にしたかったのではない。
彼は人生を終えるにあたり、後世の人々に、とても大事な言葉を遺したいがために、そのような強調をして、これから自分が語る言葉は、主に油注がれ、高くされた人生を歩んで来た者の、実績のある言葉であるから、心して聞くように、と、注意を促したのだ。

ダビデはまず、自分は「エッサイの子」と言っている。
自分はかつて、ベツレヘムの無名な羊飼いの末っ子で、父の家では最初は数にも数えてもらえなかった。
そんな自分を、主は高く「挙げられ」、ヤコブの神は自分に油を「注がれた」、と、彼は受身形で全て主に「してもらった」事を強調している。

自分がここまでになったのは、自分の能力や知恵でなったのでは、決してなかった。
自分は元々、無名の弱い低い者だったのに、ただ、神によって一方的に高く上げられた、王権さえも、神からのもらいものである、と表明している。

この「自分は小さき者」「主こそ偉大なお方」という人生評価こそ、真に主とともに歩んだ信仰者の、人生評価である。
パウロもヤコブも、そうだった。
自分は罪人のかしらで、小さき者、ただ、主の憐れみによって、神の国建設の働きの一端を担わせて頂いている、自分は先人達にはとうてい足元にも及ばない、と評価した。
だから、自分は偉大だなどと評価する人は、実は、知らなくてはならない事も知っていないのだ。

『主の霊はわたしによって語る、/その言葉はわたしの舌の上にある。』(2サムエル記23:2)
ダビデは、主の霊によって動かされる人だった。
彼は、聖霊の感動によって詩篇を編纂し、そして聖霊が教えて下さるままにキリストを預言した。(マタイ22:43、マルコ12:36、使徒2:25-31)
それで、彼がこれから語る言葉も、自分のものではなく主の霊によって語るものだ、と注意を促している。
以上はいわば前振りになるが、わずか7節で終わってしまうダビデ最後の言葉のうち、3節を割いてまで、前置きをしたのは、次の、重要な事を伝えるためだ。

『人を正しく治める者、/神を恐れて、治める者は、朝の光のように、/雲のない朝に、輝きでる太陽のように、/地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む。』(2サムエル記23:4)
ダビデが伝えたい重要な事は、すなわち、「治める者」は御前でどのようにあるべきか、という事である。
つまりダビデは、自分の後に生まれてくる「王たる者」「治める者」は、人を正しく治め、神を恐れなさい、と強調したかったのであり、そのように治める人は、民草にとっては朝の光のように、雨の後の太陽のように人を潤し、人を養い育て、栄えさせるのだ。

『まことに、わが家はそのように、/神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かな/とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、/皆なしとげられぬことがあろうか。』(2サムエル記23:5)
そしてダビデは、神は自分の家門と永遠の契約を結び、とこしえに続く家を建てて下さると、定めて下さったではないか、と言っている。
だから恐れる事は一切ない、この神に依り頼んで生きるべだと、後代に伝えている。

このように、ダビデが後世の王となるべき人に残した内容は、とてもわずかで、シンプルだった。
にもかかわらず、ソロモン以降のダビデ王家は、ダビデの残した言葉どおりに生きなかった。
彼らは、栄えると高ぶって主を軽んじるようになり、主の忌み嫌う偶像礼拝をするようになって、そうして主の御守りが彼らから離れて行ってしまった。

ダビデは「よこしまな者」がどのようになるかについても、はっきりと言い残している。
『しかし、よこしまな人(ベリヤアル:無価値な者、邪悪な者)は、いばらのようで、/手をもって取ることができないゆえ、/みな共に捨てられるであろう。これに触れようとする人は/鉄や、やりの柄をもって武装する、/彼らはことごとく火で焼かれるであろう」。』(2サムエル記23:6-7)
ダビデの敵となった異国の異教徒達は、確かにいばらのように投げ捨てられ倒れていったが、「よこしまな人」とは何も、異邦人に限ったことではない。
いかに神の民イスラエルであっても、主を軽んじ、主の御言葉を捨てるなら、価値なき邪悪な者になってしまい、いばらのようにやりの柄で掻き集められ、焼かれてしまうのだ。

パウロも言っている。
『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。』(1コリント4:6-7)

ダビデは、全て主にしていただいた事を表明した。同じように、パウロも表明している。
私達も、今こうしてあるのは、全て、主のおかげであるという感謝の心を忘れてはならない。
それを忘れて、傲慢になってしまうと、ダビデの子孫たちと言えども、滅ぼされてしまったように、私達も主を軽んじる事を止めないなら、いばらのように投げ捨てられてしまう。

ダビデのように、人生の終わりに至るまでいつも主に感謝し、主を褒め称え、それを後代へと伝えて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書講解説教メッセージ

ツロの富は積み立てられず、主の前に住む人々へ渡る(イザヤ23:10-18)
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