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ソロモンに与えられた莫大な祝福(1列王記4:1-34)
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イスラエルの人々は、神がソロモンに大いなる知恵が与えられたのを見て恐れ、彼がさらに大いなる者となって行く様がこの4章に記されている。
『ソロモン王はイスラエルの全地の王であった。彼の高官たちは次のとおりである。・・・』(1列王記4:1-6)
1節から6節までは、王の元での高官達の名前がリストアップされている。
その中には、ダビデ王の時代に、ダビデ王に仕えた人達の名前もちらほら登場する。
『ソロモンはまたイスラエルの全地に十二人の代官を置いた。その人々は王とその家のために食物を備えた。すなわちおのおの一年に一月ずつ食物を備えるのであった。その名は次のとおりである。・・・』(1列王記4:7-19)
7節から19節には、ソロモンがイスラエル全土に置いた、十二人の代官の名が記されている。
代官たちはそれぞれ、一年のひと月の間、貢を集めてソロモン王におさめていたが、王に納められる食料の分量は、とても膨大である。(後述)
『ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。』(1列王記4:20)
ダビデ王の時代、彼がイスラエルの人口を数えようとした所、ヨアブから「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。」と戒められたが(2サムエル記24:3)今や、その数は数えきれないほどに多くなり、それでかつ、地の産物も豊かに採れたので、食料の心配をする事なく繁栄を楽しんだ。
繁栄は、神の祝福である。
主の御声に聞き従うなら、主がそのような大きな繁栄と祝福を与えて下さる事は、主がモーセの時から示して下さった約束である。
『もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」』(申命記11:13-15)
主の御声に聞き従うなら、どんなに産物が祝福されるか、ソロモン王が純粋な信仰を持っていた時の繁栄ぶりを見れば、わかる。
いや、主は当時のソロモン以上に祝福を与えて下さる事さえ、可能なお方である。
『ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。』(1列王記4:21-24)
王宮で消費される食料は、とんでもない分量だ。
1コルは約220リットル、だから王の食卓に一日にのぼった分量は、麦粉6600リットル、大麦は13200リットル、いかに王の家が豪勢であったかが、うかがえる。
こんなに食べ切れない程の食料を集めて、何になるのだろうか、と思うだろうか。
いや、主の祝福が下るなら、収穫が多すぎて、有り余ってしまうのである。
『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無い。
新しい収穫物を倉庫に入れる時、そこには昨年穫れた作物がまだ残っており、それを捨てる、という事が、毎年あるのだ。
もっとも、主の祝福なしにこのような豪勢な生活を毎日送るとしたら、それは暴君である。
彼は晩年、人々から重税を取り立てる暴君として人々の生活を苦しめていた。
「ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで、安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。」(25節)
ここは元々、「乳と蜜の流れる地」である。
主がアブラハムに与えられると約束されたこの土地は元々、これほど莫大な産物を生み出すものなのだ。
『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:1-6)
祝福される条件は、「主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば」である。
そうするなら、次の祝福が待っている。
『主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。
主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。』(申命記28:8-13)
この祝福はまさに、ソロモン王が、主の御声に聞き従う心を求めた故であり、そしてこの時は実際、聞き従っていたからである。
しかし、聞き従う事をやめてしまって他の神々に向かうなら、それら祝福とは真逆のことが起こってしまう。
それは、徹底した呪いである。(申命記28:8-15節以降)
『ソロモンはまた戦車の馬の、うまや四千と、騎兵一万二千を持っていた。そしてそれらの代官たちはおのおの当番の月にソロモン王のため、およびすべてソロモン王の食卓に連なる者のために、食物を備えて欠けることのないようにした。また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。』(1列王記4:26-28)
モーセは、王たる者は自分のために馬を多くしてはならないと、主の御言葉を伝えた。
『王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(1列王記17:16-17)
ソロモンはこれからさらに多くの女をめとり、金銀を増やし、また、馬も多く増やそうとして行く。
彼が主から心を背けてしまう兆しが、既にあらわれているが、彼は父ダビデの故に、すぐに呪いが来るという事がない。
ソロモンに与えられたのは、富や栄誉ばかりではない。
『神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。彼はすべての人よりも賢く、エズラびとエタンよりも、またマホルの子ヘマン、カルコル、ダルダよりも賢く、その名声は周囲のすべての国々に聞えた。彼はまた箴言三千を説いた。またその歌は一千五首あった。彼はまた草木のことを論じてレバノンの香柏から石がきにはえるヒソプにまで及んだ。彼はまた獣と鳥と這うものと魚のことを論じた。』(1列王記4:29-33)
彼には、世の中の知恵者では誰にも叶わない、素晴らしい知恵が与えられた。
彼は、文学的・芸術的感性ばかりでなく、建築学や自然科学、サイエンスの面でも、あらゆる方面のエキスパートだったのだ。
主は、これ程までに、富と栄誉を、そして知恵を与える事の出来るお方である。
これらが彼に与えられたのは、「主に聞き従う心」を求めたからであり、当初はそれを守って主のために正統に用いたからだ。
ただ彼の場合、主への誠実を最後まで貫かなかったから、この繁栄も続かず、子供たちにその知恵が継がれる事も無かった。
もしもソロモンが、最後まで、主への誠実を貫き通していたなら、もっともっと祝福され、富も、栄誉も、知恵も、増し加えられた所だろう。
主に聞き従うなら、これ程大きな富と栄誉、知恵、祝福が与えられる、という望みを持って、主に従って行きたい。
ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)
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- 執筆 :
- pastor 2015-12-18 23:50
ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)
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ソロモンは主に「聞き従う心」を求めた故に、主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富とを与えられたが、それが大いに発揮され人々に知れ渡る出来事が起こる。
『さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。』(1列王記3:16)
当時のイスラエルでは、何か事件が起きると、まずは十人の長に相談して判定してもらい、そこで解決できないならさらに百人の長、千人の長へと上訴して裁判してもらい、それでも解決できないなら、王に裁判してもらっていた。(出エジプト記18章)
『ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。』(1列王記3:17-22)
この事件は、二人きりの状況で起きたのだから、第三者の証人は望めない。
彼女たちはただ、多くの言葉で自分の正当性を主張するばかりで、物証や客観的事実を手がかりに解いていく方法を用いようとすればする程、混乱するばかりである。
この事件を担当して来たであろう長老たちは、ソロモンより人生経験が上だったとしても、皆、お手上げだった。
しかしソロモンは、物証や客観的事実に手がかりを求めず、神の知恵によって、「人の心の内を露わにするもの」を用いた。
『この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。』(1列王記3:23-25)
ソロモンが持ってきたものは、刀だった。
刀は切り分け、殺す。
しかし、神の知恵である「御言葉の剣」は、肉の心と霊とを切り分け、人の心の内を露わにする。
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(ヘブル4:12-13)
『すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。』(1列王記3:26)
この剣を前に、彼女たちは「多くの言葉のまくし立て」によって隠されていた心の内が、露わにされた。
一方は真実と愛と憐れみが、他方は偽りと妬みと殺意が。
御言葉の剣を前に、人は分断され、心の内が露わにされる。
真実を求めていた人には、真実と愛と憐れみが表面に現れ、涙したり、悔い改めたりする。
しかし悪い物事を心に蓄えている人は、「ばれたか」という悔しさと開き直り、怒りなどが露呈する。
御言葉の剣によって露呈した心の内の有様は、真実を求めていた人は、実に美しく、偽りを求めていた人は、実に醜い。
アブラハムも、「愛する息子イサクを捧げよ」という言葉の剣によって心の真実があらわにされ、一旦は失っていたイサクを信仰によって取り戻した。(創世記22章)
そうしてイサクと、後に生まれてくる彼の子孫達は皆、「主に捧げられ済みのもの」となったのだ。
私達も、救われて主のものとされるためには、御言葉という剣の前に、身も心も委ねる事が必要であり、それが、十字架の経験である。
その時、それまで生きてきた自分自身に対しては死ぬが、キリストが復活したように、私達も復活し、もはや罪には歩まない者となり、主のものとなり、永遠のものとなって、全く新しくされるのである。
『イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。』(1列王記3:28)
難解な事件は、一見、災いであるように見えたが、一転して彼の名誉を、そして、彼に知恵を与えて下さった神の名誉を、高めるきっかけとなった。
ソロモンはかつて若く、未熟で、兄のアドニヤに「自分が王になろう」とさえ言われた事もあった。しかしもはや、誰もソロモンを軽んじる者がなくなった。
彼に与えれたような主の知恵は、どうしたら与えられるだろう。
箴言2章に、その手法と順番が書いてある。
『わが子よ、もしあなたが/「わたしの言葉を受け」、わたしの戒めを、あなたの「心におさめ」、あなたの「耳を知恵に傾け」、あなたの「心を悟りに向け」、しかも、もし知識を「呼び求め」、悟りを得ようと、あなたの「声をあげ」、銀を求めるように、これを「求め」、かくれた宝を尋ねるように、これを「尋ねる」ならば、あなたは、「主を恐れることを悟り」、「神を知る」ことができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。』(箴言2:1-6)
まず、主の言葉を「受け」「心におさめ」る事。次に「耳を傾け」「心を向ける」事。また、「呼び求め」「声をあげる」事。そして、「求め」「尋ねる」事。
まずは主の言葉をただ「受ける」事から始まり、次に、耳と心を「傾ける」事、そして「口」を用いて、求めている事を告白する事、そして、宝物や銀を欲しがるような「欲しがり」さ加減で、求める事。
それをするなら「主を恐れることを悟り」「神を知る」ことが出来ると書いてある。
知恵とは何も、世渡り上手になるとか、誰をも論破できる能力といったものではなく、本質は「主を恐れる事」「神を知る事」なのだ。
主への恐れ無き「世渡り上手さ」や「論破能力」は、暴力でしかない。
主へのおそれを身につけた上で、そうしたものも与えられるのだ。
主に求め、主の知恵をいただき、それを正しく行使して、御心に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ソロモンが主に願い求めたもの、それは知恵ではなく・・・(1列王記3:5-15)
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- pastor 2015-12-17 23:20
ソロモンが主に願い求めたもの、それは知恵ではなく・・・(1列王記3:5-15)
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ソロモンは当初、主を愛し、父ダビデの戒めに従って歩んでいた。
彼は、ギベオンという最も重要な「高き所」で、いけにえの動物千頭を捧げた日の夜、主が夢の内でソロモンに現れ、言われた。
『あなたに何を与えようか、求めなさい。』(1列王記3:5)
もし何か一つ願い事が叶うと言われたら、一体何を願うだろう。
自分の健康や、自分の富や名誉が増し加わる事を求める人は多いかもしれない。あるいは、憎い敵の不幸を求めるかもしれない。
ソロモンは、そうした事は一切求めず、主の御心に叶った事を願う。
『ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。』(1列王記3:6)
ソロモンの兄たち、アムノンやアドニヤは、父ダビデ王の七光りを受けて傲慢になったが、ソロモンは違った。
彼は自分の父ダビデを「あなたのしもべ」と呼び、彼が「大いなるいつくしみ」が施されたのは、「誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだ」ため、と、全ては主の恵みゆえである事を告白している。
ソロモンは知っていた。父ダビデが大いに祝福されたのは、主の選びと後ろ盾があったからで、もしそれが無いとするなら、王といえども何もない一人の人間に過ぎない、という事を。
『わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。』(1列王記3:7-8)
彼はまた、自分は未熟な者である、と告白した。
神の国では、自分を低くする者が高くされ、自分を高くする者は低くされる。
アブシャロムやアドニヤは、勝手に自分が王になろうとして策を弄したが、御旨でない王座に着こうとした結果、刈り取った実は、滅びであった。
ソロモンは元々、神に王として選ばれていた者ではあったが、彼は「自分は王として相応しくない」と思っている点においても、兄たちよりは、御前で相応しかったのだ。
なぜなら、「自分は未熟だ」「自分は相応しくない」と思っている人は、ただ、主により頼むしかないからだ。
主により頼む事、それこそ、何より主の御前に用いられるに相応しいたしなみである。
そこで彼が主に願った事は、次の事だ。
『それゆえ、”聞きわける(シャマー)”心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪を”わきまえる(ビーン)”ことを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。』(1列王記3:9-10)
ソロモンは主に「知恵」が与えられるよう願い、それが主に喜ばれて、多くのものが与えられた、と知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」である。
彼がそれを求めた理由は、主の民を正しく裁き、何が正しく、何が間違っているのかを「わきまえる(ビーン)」事を得るため、である。
聞き分ける「シャマー」の心。
これは、主にどんないけにえを捧げるよりも優れた事である。
サムエルは言っている。
『主はそのみ言葉に”聞き従う事(シャマー)”を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、”従うこと(シャマー)”は犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル記15:22-23)
主がもっとも喜ばれるいけにえ、それはシャマーの心、すなわち、聞く事、従う事である。
それを主は喜ばれた。
『そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。』(1列王記3:11-12)
まさに、おし入れゆすり入れして、全てが加えて与えられるパターンである。
聞き分ける心、そして主に従う心、それは、全てに勝るものである。
『わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで(ハーラフ)、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。』(1列王記3:13-14)
そしてさらに大事な事は「主の道に歩むこと」、すなわち、「聞き従う」と決心した初心をキープし続け、主と共に歩む事である。
そうするなら、栄えといのちは長く続く、と主は約束しておられる。
「主とともに歩む(ハーラフ)」、これは、信仰の先人達がみな行った事だ。
ダビデはそうだったし、アブラハムも、ノアも、エノクも、皆主とともに歩む性質の持ち主だった。
『ソロモンが目をさましてみると、それは夢であった。そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ、すべての家来のために祝宴を設けた。』(1列王記3:15)
彼はもはや、正統ではない礼拝場所である高き所を離れ、正当な礼拝場所、すなわち、主の契約の箱の所へ行って、そこで礼拝を捧げた。
こうして彼は祝福され、これから、おびただしく栄える事になって行く。
この時の彼のように、主の御声に聞いて従い(シャマー)、主と共に歩み(ハーラフ)、そうしてますます主に喜ばれる道を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
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- 執筆 :
- pastor 2015-12-16 23:22
ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
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『ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。』(1列王記3:1)
前章では、王国における不穏分子が全て除かれ、ソロモン王国が確立した事が記されてあった。
そしてこの3章以降、ソロモン王がさらに栄えて行く様が記されているのだが、それに先立って、彼はエジプトの王・パロの娘と結婚した事が記されている。
実はこの事は、これからのソロモンの将来を暗示する象徴的な出来事である。
ソロモン王は、その生涯において、多くの輝かしい実績を残した。
神殿建設もそうであるし、知恵と富と栄誉がふんだんに与えられ栄華を極めた点においては、世の誰にも勝っていたが、しかし彼はイスラエルに偶像礼拝を導入した”悪い王”として、その生涯は終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。
それはずばり、異邦の女との結婚である。
エルサレムを再建した偉大な指導者・ネヘミヤは言っている。l
『あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。」』(ネヘミヤ13:25-27)
結婚とは、男と女ふたりの人が、一つのからだとなる事である。
だから、主を信じて神の国の価値観で生きるようになった人と、世の価値観で生きる人とが、結婚する事は、ひっきりなしに自分を打ち叩いく器官を体内に組み入れてしまうような事なのだ。
聖書では、女に惑わされて、してはならない事をしてしまい、その身に呪いを招いてしまった事例を沢山見る事が出来る。
最初の人アダムしかり、洪水前の神の子達しかり、サムソンも、アハブも、そしてソロモンも、皆、女によってその身を滅ぼしてしまった。
男性はそれ程、女性から影響を受けやすいものだという事を知るべきであり、女性もまた、男性の信仰と祈りを煩わせないよう気をつけるべきだ。
『そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。』(1列王記3:2-4)
ここに出てきた「高き所」というキーワードは、列王記や歴代誌では頻繁に出てくる。
高き所(バーマー)とは、「礼拝する場所」ではあるが、まことの神を礼拝する場所とは限らない。
元々、カナン地方では、山や丘の小高い所や、木の茂った所などに、この「高き所」を築き、そこで偶像礼拝をしていたが、主はモーセを通じ、それらを壊すよう命令していた。
『これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。』(申命記12:1-3)
ヨシュアの時代、それらはことごとく破壊され取り除かれたはずだった。
しかし、イスラエルが次第に土着の者達と連合して行く内に、偶像礼拝がはびこるようになってしまった。
士師記の暗黒時代を経て後、サムエルの時代に宗教改革が為されて偶像は撤廃され、高き所は、主を礼拝する場所となった。(1サムエル記9-10章)
しかし、列王記・歴代誌の中で時代が降って行く内に、「高き所」は次第に偶像礼拝の場所としての意合いが強くなって行き、主を礼拝する場所との区別がつきにくくなって行く。
主は礼拝について、律法で何と言っているか。
『あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。』(申命記12:10-11)
『全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。』(同13-15節)
つまり、本来は主が定められた場所・以外では、気ままに礼拝をしてはならないものであった。
それなのに、ソロモンの時代もそれ以降も、”高き所”はずっと取り除かれないままだった。
本来なら高き所での礼拝は違法だったが、イスラエルの信仰がまだ未熟な時や、まだ不安定だった時は、主の憐れみによって赦されていた。
しかし、各問題が平定され、成熟した時、それらを自ら取り除く事を、主はずっと待っておられたのだ。
しかし高き所がようやく取り除かれたのは、13代目の王・ヒゼキヤ王の時代だった。
今や、イエス様がまことの小羊としてただ一度捧げられた事によって、もはや犠牲としての動物を捧げる礼拝は必要なくなり、どこか神殿などの特別な場所に行く必要は無く、霊と真理によって主を礼拝する時代となった。
今や私達が取り除くべき「高き所」とは、私達が過去に行っていた良くない行いや、忌むべき世のならわしという「高き所」である。
「高き所」での礼拝は、一見良いもののように見えても所詮は主の御言葉から外した礼拝であり、すぐに偶像礼拝へと転換してしまったように、私達も、御言葉に従っていない「一見良いもの」は取り除くべきである。
それは、過去の忌むべき行いかもしれないし、あるいは世の価値観との連合や結婚かもしれない。
それらは、いきなり止める事は出来ないかもしれないが、主の憐れみはいつも注がれており、それを取り除く事ができるまでに成熟した時、取り除くものである。
そのように純粋に主に喜ばれる道を歩み、成熟して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
平和の都、平和の王から離れてしまったシメイ(1列王記2:36-46)
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- pastor 2015-12-14 21:31
平和の都、平和の王から離れてしまったシメイ(1列王記2:36-46)
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ソロモンは続いて、シメイへの対処を行う。
シメイは、ダビデがアブシャロムに追われて本当に困っていた時、ダビデ一行にさかんに呪いの言葉を浴びせ、石を投げつけながら、一行の傍をついて行った。
しかし、ダビデがアブシャロムに勝利し、これからダビデが栄える事が確定した時には、真っ先にダビデの元に駆けつけて、平伏して謝罪し、命を拾った者だ。
彼は、ダビデ王にこの上なく失礼な事をしたのに、それでもダビデ王が彼を赦したのは、もし、真っ先にダビデ一行を迎えに出て謝罪したこの者を殺していたのなら、それまでアブシャロムの側についてダビデに反していた大くのイスラエル人たちは、恐怖し、ダビデにますます心を閉ざし、さらに反乱分子が沸き起こっていた事だろう。
しかし、ダビデ王が示したその大きな憐れみの故に、多くのイスラエルはダビデ王に心を開くようになった。
そういうわけでシメイはあの時、殺されずに済んだのだが、まことに彼のように、権威に対して心に一物をかかえ、口先三寸と世渡り上手さでのし上がっているような者は、王国の中では、危険分子である。
実際彼は、ベニヤミンの中では有力者で、影響力のある人だった。
ダビデ王の治世の時は、彼にはどうする事も出来なかったが、やはり彼は野放しにして置くわけには行かないので、ダビデは特にソロモンに命じたのだろう。
ソロモンも分かっていた。シメイを、ベニヤミン人達の中で野放しにしていたら危ないと。
『また王は人をつかわし、シメイを召して言った、「あなたはエルサレムのうちに、自分のために家を建てて、そこに住み、そこからどこへも出てはならない。あなたが出て、キデロン川を渡る日には必ず殺されることを、しかと知らなければならない。あなたの血はあなたのこうべに帰すであろう」。シメイは王に言った、「お言葉は結構です。王、わが主の仰せられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてシメイは久しくエルサレムに住んだ。』(1列王記2:36-39)
ソロモン王は彼に、あなたには不穏な事を企む疑いがあるから、この都から出てはならない、もし出ないなら命は安全である、しかしもし出るなら、あなたの命は無い、と言って、こうして彼を首都エルサレムで監視下に置いた。
彼は約束したとおり、三年間はおとなしくエルサレムから出ずにいて無事だったが、しかしその後、約束を破る。
『ところが三年の後、シメイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシのところへ逃げ去った。人々がシメイに告げて、「ごらんなさい、あなたの奴隷はガテにいます」と言ったので、シメイは立って、ろばにくらを置き、ガテのアキシのところへ行って、その奴隷を尋ねた。すなわちシメイは行ってその奴隷をガテから連れてきたが、』(1列王記2:39-40)シメイがエルサレムを出た理由は、奴隷が逃げたので、直々に連れ戻すため、であった。
別段、緊急でも重要な用事でもない。
彼には他にも多くのしもべがいただろうに、それでも彼が直々に連れ戻しに行ったのは、彼は三年もエルサレムから出ずにいたのだから遠出して気晴らしがしたかったのかもしれないし、あるいは、3年も何事も無く無事だったのだから、そろそろ大丈夫だろう、くらいに思ったのかもしれない。
ともかく、ソロモンの命令を軽んじて、約束を破った事には変わりない。
『シメイがエルサレムからガテへ行って帰ったことがソロモン王に聞えたので、王は人をつかわし、シメイを召して言った、「わたしはあなたに主をさして誓わせ、かつおごそかにあなたを戒めて、『あなたが出て、どこかへ行く日には、必ず殺されることを、しかと知らなければならない』と言ったではないか。そしてあなたは、わたしに『お言葉は結構です。従います』と言った。ところで、あなたはなぜ主に対する誓いと、わたしが命じた命令を守らなかったのか」。』(1列王記2:41-43)
シメイは、主にかけて、誓っていたのだ。エルサレムから出ません、と。
彼はダビデ王から憐れみを受けたし、ソロモン王からも、命を保つ道、すなわち、エルサレムから出ない、という約束を主にかけてしていたのに、たかだか二人の奴隷の逃亡を赦さないゆえに、出てしまい、こうして彼は弁解の余地がなくなってしまった。
ところで、エルサレムの名前は「平和(シャローム)の町」あるいは「平和の土台」を意味する。また、ソロモンの名前も、シャロームに由来する。
シメイは本来、殺されてもいいような罪を犯したのに、憐れみを受け、平和の王の都、平和の土台から出てはならない、という救いの道を示されていたのに、二人の奴隷を赦さなかったゆえに出てしまい、もはや、弁解の余地がなくなってしまった。
この事は、現代の私達も大いに気をつけるべき事である。
私達も、主に対して、決して払い切る事の出来ない罪の負債を負っているというのに、主の大きな憐れみによって、赦され、負債は免除された。
そして、平和の王であるキリストから離れず、平和の領域に留まっているなら、裁かれる事は無く、守られているのに、しかし、他人を赦さず、自ら裁き、この平和の領域から敢えて出てしまうなら、もはや憐れみの余地は無いのだ。(マタイ18:23-35)
『王はまたシメイに言った、「あなたは自分の心に、あなたがわたしの父ダビデにしたもろもろの悪を知っている。主はあなたの悪をあなたのこうべに報いられるであろう。しかしソロモン王は祝福をうけ、ダビデの位は永久に主の前に堅く立つであろう」。王がエホヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出ていってシメイを撃ち殺した。』(1列王記2:44-46)
彼は、憐れみと赦しに富んだ王・ダビデのやさしさにつけ込んで、悪いことを赦してもらった。
そしてソロモンの時にも、エルサレムの中に留まっていれば安全だった、それでも彼は自分から出てしまった事によって、それをふいにしてしまった。
こうしていよいよ彼は、死刑という罰を受けてしまった。
私達も、何度でも許されると思って主を軽んじ、自分の思い通りに物事を押し通そうとするようなシムイの心を、取り除くべきである。
『こうして国はソロモンの手に堅く立った。』(1列王記2:46)
ソロモンはこうしてダビデ王の遺言を全うし、不穏分子を王国内から全て取り除いた。
そうしていよいよ、ソロモン王国は確立する。
ソロモン王は、聖書全体を見ると、あまり良い王ではないが、しかしこの時点、彼の将来は「良し」にも「悪し」にも開けていた。
この事は現時点の私達も、同じである。
私達の将来が良しになるか、それとも悪しになるか、それは日々の選択にかかっており、日々、平和の王キリストの支配から離れず、平和の土台から離れないなら、確実に、平安で安全な将来が待っている。
新王国の中からふるい分けられた毒麦(1列王記2:26-35)
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アドニヤは、相変わらず自分が王になる企みを持ち続けていたという事が発覚し、死という報いを受けたが、彼に与していたアビヤタルとヨアブにも、その彼に与した罪が問われる事となった。
彼らは長年ダビデ王に仕え、ダビデ王の治世では大いに活躍して来たのに、ダビデを捨ててアドニヤについてしまった故に、その長年仕えて来た実績も、また活躍して来た功績も、全て無駄となってしまった。
『王はまた祭司アビヤタルに言った、「あなたの領地アナトテへ行きなさい。あなたは死に当る者ですが、さきにわたしの父ダビデの前に神、主の箱をかつぎ、またすべてわたしの父が受けた苦しみを、あなたも共に苦しんだので、わたしは、きょうは、あなたを殺しません」。そしてソロモンはアビヤタルを主の祭司職から追放した。こうして主がシロでエリの家について言われた主の言葉が成就した。こうして主がシロでエリの家について言われた主の言葉が成就した。・・・王はまた祭司ザドクをアビヤタルに代らせた。』(1列王記2:26-27、35)
アビヤタルの先祖をたどると、あの劣悪な祭司のホフニとピネハス、そして彼らの父・エリの子孫である。
エリの子孫が祭司職から罷免される事は、実は、サムエルがまだ幼子だった時代から預言されていた事であった。
当時、エリの子ホフニとピネハスは、人々の主への尊い捧げ物を横領して自分の私服を肥やし、また、主に仕える女性達と、ふしだらな事をしていた。
それらの事で主を怒らせ、主は、預言者を遣わして彼らを戒めたのに、行状を一向に改めず、エリもまた、彼らに口先で戒めはしても、そのまま祭司職に留まらせ、こうして、神と人との前に罪を犯させ続けた。
そこで主は、彼らに、明確な警告を与えられた。
『見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。あなたの家には永久に年老いた者がいなくなるであろう。・・・そしてあなたの家で生き残っている人々はみなきて、彼に一枚の銀と一個のパンを請い求め、「どうぞ、わたしを祭司の職の一つに任じ、一口のパンでも食べることができるようにしてください」と言うであろう。』(1サムエル記2:31-36)
彼らは、この警告を受けても、行状を改めなかった故に、その警告の通りになってしまう。
『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
この言葉の通り、エリも、二人の息子ホフニとピネハスも、同じ日に、死んでしまう。(1サムエル記4章)
彼ら全員の死が、ピネハスの妻に知らされた時、生まれた子は「イカボデ(「栄光無し」の意)」と名付けられ(同4:19)、そしてイカボテの兄・アヒトブが、後の祭司職を継ぐ事になる。
しかし、そのアヒトブの子・アヒメレクの代になると、エリの子孫の祭司たち85人は、サウル王により剣で虐殺され(同22章)、こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言が成就した。
この時、一人だけダビデの所に逃れて来たのが、今回、ソロモン王によって罷免された、アヒメレクの子・アビアタルである。
アビヤタルは、ダビデ王の時代、ダビデと苦楽を共にし、大祭司に任じられたのだが、結局、彼も最後までダビデに忠誠を尽くさなかった故、この度、罷免されてしまったのだ。
こうして、大祭司の一族は、エリの一族から、ツァドクの一族へと切り替わったわけである。
こうして、「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という、昔に預言されていた事も、成就したのだ。
実を言うと、祭司の一族が、エリ一族からツァドク一族へと切り替わった事は、本来あるべき姿に戻った事である。
その「本来あるべき姿」とは、もっと昔、モーセの時代に定められた事だった。
この度、罷免されたアビヤタルの父祖・エリは、アロンの四男・イタマルの子孫であるが、民数記25章によると、正当な大祭司の職を継ぐ子孫とされるべきは、アロンの三男、エルアザルの子・ピネハスの子孫であるべきだった。
彼らの父祖・エルアザルの子ピネハスは、主に熱心であり、イスラエルが異邦の女と淫らな事をしていた時、それを排除して主の賞賛を受け、彼の子孫は永遠に祭司職となる、という約束を主からいただいた。(民数記25:10-13)
今回ソロモンに任命されたツァドクこそ、実は、このエルアザルの子ピネハスの子孫である。(エズラ7:1-5)
ツァドクの子孫は後に、イスラエル人が迷って主から離れた時も、主の聖所の任務を忠実に果たした、という、主の賞賛をいただき(エゼキエル44:15)、それ故、彼らは主の近くで主に仕え、祭壇のつとめが許された。
さらに、ツァドクから生まれた後の子孫には、バビロン捕囚から帰還した時の偉大な指導者・エズラがいる。(エズラ7:1-5)
彼らの父祖・ピネハスといい、この度のツァドクといい、エズラといい、この一族は、主に対する熱心と義を貫き通す、素晴らしい祭司一族なのだ。
エリの家は、確かに祭司という栄誉を得ていた。
しかし彼らは、主に対しまた職務に対し忠実でなかった故に、祭司職から降ろされてしまった。
この事は、私達キリスト者も、心に留めるべきである。なぜなら、私達キリストを信じる者たちも、キリストにあって祭司職を得ているからだ。
主は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事がおできになる方であり、悔い改めに相応しい実を結ばずに、罪の苦い実ばかり結んでいるとするなら、もみがらのように投げ捨てられ、焼かれてしまうのだ。
祭司職を軽んじているなら、それが取り上げられ、その職は、別の者へと移ってしまうのだ。(使徒1:20)
さて、続いてヨアブについてである。
『さてこの知らせがヨアブに達したので、ヨアブは主の幕屋にのがれて、祭壇の角をつかんだ。ヨアブはアブサロムを支持しなかったけれども、アドニヤを支持したからである。』(1列王記2:28)
ヨアブはダビデ王の存命中、イスラエルにおいて、軍事的な面で最も活躍した、有能な軍団長であった。
しかし彼は日頃、主君ダビデを軽んじ、王の命令を度々無視し、また、罪なき血を流してきた。
そしてダビデ王の治世の終わりに、彼は、ダビデ王の推すソロモンではなく、アドニヤのほうに組した事により、いよいよ彼もさばきを受ける時が来た。
ヨアブは、アドニヤが処罰された事を聞くと、祭壇に入ってその角をつかむという、アドニヤが最初に憐れみを受けた時と、全く同じ事をした。
アドニヤは最初、それを行った時は放免されたが、ヨアブはどうだったか。
『ソロモン王はエホヤダの子ベナヤをつかわし、「行って彼を撃て」と言った。ベナヤは主の幕屋へ行って彼に言った、「王はあなたに、出て来るようにと申されます」。しかし彼は言った、「いや、わたしはここで死にます」。ベナヤは王に復命して言った、「ヨアブはこう申しました。またわたしにこう答えました」。そこで王はベナヤに言った、「彼が言うようにし、彼を撃ち殺して葬り、ヨアブがゆえなく流した血のとがをわたしと、わたしの父の家から除き去りなさい。』(1列王記2:29-31)
ヨアブは、赦されなかった。なぜなら彼は、平和な時に、罪なき血をゆえなく流して来たからである。
『主はまたヨアブが血を流した行為を、彼自身のこうべに報いられるであろう。これは彼が自分よりも正しいすぐれたふたりの人、すなわちイスラエルの軍の長ネルの子アブネルと、ユダの軍の長エテルの子アマサを、つるぎをもって撃ち殺し、わたしの父ダビデのあずかり知らない事をしたからである。それゆえ、彼らの血は永遠にヨアブのこうべと、その子孫のこうべに帰すであろう。しかしダビデと、その子孫と、その家と、その位とには、主から賜わる平安が永久にあるであろう」。』(1列王記2:32-33)
彼は本当は、もっと昔に処罰されるべきだった。
なぜなら律法には、罪なき血を流す者は、たとえ祭壇に逃げ込んだとしても、必ず殺されなくてはならない、と記されているからである。
『人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。』(出エジプト記21:12-14)
誤って人を殺してしまった人には、のがれの町に逃れて、復讐者から守られるという保護策が主から与えられているが、意図的に故なく人を殺すような者に与えられるような保護策は、ない。
『そこでエホヤダの子ベナヤは上っていって、彼を撃ち殺した。彼は荒野にある自分の家に葬られた。王はエホヤダの子ベナヤを、ヨアブに代って軍の長とした。王はまた祭司ザドクをアビヤタルに代らせた。』(1列王記2:34-35)
こうして、ダビデ王に長年仕え、ダビデ王と共に生きて活躍した二人の重要人物は、一方は罷免され、一方は殺されてしまった。
私達も気をつけなくてはならない。
いかに、主の働き人として重要なポストにいようとも、また、それがいかに長年で、いかに活躍の実績があろうとも、やがては心の内が露わにされる時が来る。
その日、主の倉に入れられる側に入るか、それとも、外に投げ出されてしまうのか、それは、日頃の表に出ない「心の内に秘めた忠実さ」に左右される、という事を、よく心に留めておくべきである。
男性ではなく女性をターゲットに惑わす悪しき者の常套手段(1列王記2:13-25)
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- pastor 2015-12-9 23:50
男性ではなく女性をターゲットに惑わす悪しき者の常套手段(1列王記2:13-25)
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偉大な王・ダビデが死んだ。
そこで、アドニヤがまたしても、良からぬ企みを起こす。
『さて、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテシバのところへきたので、バテシバは言った、「あなたは穏やかな事のためにきたのですか」。彼は言った、「穏やかな事のためです」。』(1列王記2:13)
アドニヤは、ソロモンの母、バテ・シェバの所に来た。
彼が来た時、彼女は真っ先に「あなたは穏やかな事のためにきたのですか」と問うたが、そんな質問は、誰にでもするようなものではない。
彼女が真っ先にそんな質問をしなければならなかった事が、アドニヤがいかに普段から平和とは反対の人物であったかを物語っている。
『彼はまた言った、「あなたに申しあげる事があります」。バテシバは言った、「言いなさい」。彼は言った、「ごぞんじのように、国はわたしのもので、イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。しかし国は転じて、わたしの兄弟のものとなりました。彼のものとなったのは、主から出たことです。』(1列王記2:14-15)
彼は何か、とてつもなく身の程知らずな勘違いをしている。
主が定められたダビデの正統な跡継ぎである王は、ソロモンだった。
それなのに彼はそれを無視し、自分が王になろうと、しゃしゃり出たが、結局、ダビデ王も、世間も彼にはつかなかった。
彼は「イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。」と言っているが、ソロモンが王になった時、群衆の歓声は地が割れんばかりになり、アドニヤについていた人々は皆、震え上がって、彼を独り残し離れて行き、彼自身も、神殿の角を握り締めてまでして赦しを乞い願ったのを、彼はすっぽり忘れてしまったのだろうか。
本当なら彼は、反逆罪で殺されても不思議でない所を、ソロモンに憐れみを受け、命拾いした身であった。
それでもなお、「ごぞんじのように」「国はわたしのもので」と言って、あたかも自分が王になる事が当然であるかのように、そして現状、自分の弟が王になっている事が不当であるかのような物言いをしている。
高ぶる者は、悔い改めが無い故に、周囲や場の空気が読めず、また、過去に起きた事を忘れ去って、どうしても自分を滅ぼしてしまうための行動を取ってしまうものである。
彼は、懲らしめを受けずにちやほやされながら育っているので、全世界は自分の思い通りに動く、という、根拠の無い錯覚が、彼の不動の世界観となって、疑わないのだ。
しかし悲しい事に、自分に自信が無い人や、気が弱い人は、その者の言葉がどんなに勘違い甚だしくても、美貌と自信と勢いをもって確信犯的に畳み掛けれてしまうなら、飲まれてしまうものだ。
バテ・シェバは元々は一平民であり、また、スキャンダラスな形である日突然ダビデ王家に入ってきたため、彼女は王家の中でも肩身が狭かっただろうし、アドニヤはそんな彼女をやり込める自信はあっただろう。
『今わたしはあなたに一つのお願いがあります。断らないでください」。バテシバは彼に言った、「言いなさい」。彼は言った、「どうかソロモン王に請うて、――王はあなたに断るようなことはないでしょうから――。』(1列王記2:16-17)
アドニヤは、母バテ・シェバの願い事なら、ソロモンは断らない、と、確信犯的に言っている。
彼は、ソロモンに自分の願い事を通すには、まずは、ソロモンが言うことを聞いてくれる女・バテ・シェバを落とす事が近道だ、と、踏んでいたわけである。
そしてバテ・シェバなら、自分の美しい外見と、勢いと、確信に満ちた言葉で押すなら、落とすのはたやすい、と。
男を落とすために、まずは、彼の大切な女性から落とす・・・どこかで聞いた話である。
そう、この手法は、エデンの園の時以来、サタンが人を堕落させるために用いてきた、古典的常套手段である。
男性は、女性が、「蛇(サタン)」に由来するものを持ってきた時、アダムのように、それをそのまま受け取って食べてしまってはならず、そのような時には主にある不動の立場に立ち、御言葉に基いて、正しい方向へと、女性をリードして行くべきである。
もしかすると、女性は時に、蛇(サタン)が投げて来た負の思い、激浪のような感情に翻弄された状態で、突然男性の前に現れるかもしれない。
そのような状態の女性に、深夜、突然起こされてしまうかもしれないし、仕事中に突然そのような状態の女性から、電話がかかってくるかもしれない。
そのような時、男性はそれを「彼女由来のもの」として、そのまま「食べて」しまってはならない。
それでは、背後にいる「蛇(サタン)」の思う壺である。
もしそれを彼女の手から「食べて」しまうなら、アダムとエバのように、責任のなすり合いといがみ合いの末、男女ともども「失楽園」してしまう。
男性は、女性がそのようになってしまった場合、その向こう側で操る「蛇(サタン)」のたくらみを見抜いて、女性を責めるのではなく、サタンを責めるべきだ。
そうして、家庭の中に、男女関係の中のエデン(喜び、楽しみ、の意)を守らなくてはならない。
ちょうど、ソロモンがバテ・シェバを責めるのではなく、彼女を通して背後で操ろうとしたアドニヤを責めるように。
アドニヤがバテ・シェバに言った内容は、次のものだった。
『シュナミびとアビシャグをわたしに与えて妻にさせてください。』(1列王記2:17)
これは一見すると、害がないかのように思える。
バテ・シェバはよく分からずに、この言葉をそのままソロモンの所に持って行く。
バテ・シェバはソロモンに願う。
『「あなたに一つの小さいお願いがあります。お断りにならないでください」。王は彼女に言った、「母上よ、あなたの願いを言ってください。わたしは断らないでしょう」。彼女は言った、「どうぞ、シュナミびとアビシャグをあなたの兄弟アドニヤに与えて、妻にさせてください」。ソロモン王は答えて母に言った、「どうしてアドニヤのためにシュナミびとアビシャグを求められるのですか。彼のためには国をも求めなさい。彼はわたしの兄で、彼の味方には祭司アビヤタルとゼルヤの子ヨアブがいるのですから」。』(1列王記2:20-22)
ソロモンは、バテ・シェバには見抜けなかったアドニヤの企みを、全て見ぬいた。
アビシャグを妻として求める裏には、どんな意図があるか。
アビシャグといえば、父ダビデの老いた体を温めるために、ダビデに侍らせられた女で、ダビデは彼女と肉体関係は持っていなくても、ダビデと床を共にしていた女性である。
その女性を妻とするなら、自分はダビデの女性をめとっている者だ、ひいては、ダビデの王位を継ぐに相応しい者だ、と主張する取っ掛かりを得られる事になる。
もっとも、そんな事をした所で、ソロモン王権には全く傷はつかないであろう。しかし問題は、事の大小ではなく、アドニヤの心がどこに向かっているか、である。
「ごぞんじのように」「国はわたしのもので」「イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。」「しかし国は転じて、わたしの兄弟のものとなりました。」などと言って、母・バテ・シェバにその願いを持ってきた以上、もはや彼が王になろうとして、王権転覆の志を今だに持ち続けていた事は、確定的である。
これは、小さな事であっても、決して野放しにしていてはならない。
『そしてソロモン王は主をさして誓って言った、「もしアドニヤがこの言葉によって自分の命を失うのでなければ、どんなにでもわたしを罰してください。わたしを立てて、父ダビデの位にのぼらせ、主が約束されたように、わたしに一家を与えてくださった主は生きておられる。アドニヤはきょう殺されなければならない」。ソロモン王はエホヤダの子ベナヤをつかわしたので、彼はアドニヤを撃って殺した。』(1列王記2:23-25)
このように、彼は殺されてしまった。ひと度憐れみを受けたのに、それでもなお恩を仇で返すような者だったからだ。
私達は、高慢は滅びに先立つ(箴言16:18)事を、よく心に止めておかなくてはならない。
そして私達も、ソロモンのような、見分ける知恵と啓示の霊が与えられるように、求めるべきである。
人が何かたくらみを持って来た時、それを見抜けるように。
そして、惑わされてしまっている人の背後に働くサタンの意図を見破り、その人ではなくサタンをイエスの名によって処罰する者でありたい。
ダビデの死と、そしてダビデの永遠の将来(1列王記2:1-12)
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『ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った、』(1列王記2:1)
ダビデは死を目前に、彼の後継の王であるソロモンに、個人的な指示をする。
その内容は、ソロモンが成功するためのアドバイスと、そして、ある人達をどう扱うべきかの指示であった。
『「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。』(1列王記2:2-3)
まずは、強くあって男らしくせよ(原意:男である事を示せ)と命じている。
それも、神である主のさとし(charge)を守り、その道に歩み、その定め(statutes)と戒め(commandments)と、おきて(judgments)とあかし(testimonies)とを、モーセの律法に従って守れ、と。
これが全ての事、全て所において成功し、栄える秘訣であるからだ。
強さ、男らしさは、御言葉あっての男らしさでなくてはならない。主を恐れる事と御言葉なき「男らしさ」は、野蛮に過ぎない。
かつては野蛮と言われていた国でも、御言葉の福音が入った後は、野蛮さが抜け、秩序的な文明国になって行った例は、世界に沢山ある。(北欧のバイキングなど)
だから私達も、御言葉に基づいて、勇気と力を発揮すべきであり、それを除外した勇気と力は、単なる蛮勇に過ぎないのだ。
『また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。』(1列王記2:4)
主はかつてダビデに、彼の王権は、決して取り去られない、という事を、約束された。(2サムエル記7章)
しかし結論から言えば、王権は確かにダビデからは取り除かれなかったが、ソロモンは人生の後半、父ダビデの命令を守らず、主から離れ、偶像礼拝をし、堕落してしまったため、ソロモンの子孫からは、王権が取り上げられてしまった。
実は、イエス・キリストは、ダビデの血は継いでいても、ソロモンの血は継いでいないのだ。これはどういう事か。
マタイ一章の系図は、ダビデ王族としてのイエスキリストの系図で、ダビデからソロモンが生まれ、その後、しばらく王権は続くが、バビロン捕囚以降、王は立たなくなってしまい、そうしてイエス・キリストの時代まで続いている。
イエス様は、聖霊によってみごもり、処女マリヤから生まれているため、「養父」ヨセフの血を継いでいない。それは、「継いではならない」理由があるからだ。
系図の中、マタイ1:11に、エコニヤの名があるが、彼とその前の王達は、あまりに悪い事をし続けたため、主は以下のように預言している。
「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである。」(エレミヤ22:30)
実際、エコニヤ以降に王は出なかった。
では、イエス様は王族ではないのか?ダビデの子ではないのだろうか?いいや、ダビデの子であり王族である。
実は、ルカの福音書三章に、もう一つの系図がある。
この系図は、マリヤの家系の系図であり、マタイ一章のヨセフ系図では、ダビデの子はソロモンであるが、ルカのマリヤ系図では、ダビデの子はナタン(バテ・シェバの子でソロモンの兄:1歴代3:5)となっており、それ以降のマタイとルカの系図は、分岐している。
つまり、イエスの母マリヤは、歴代の王族の家系ではないものの、れっきとしたダビデの子孫であり、そして、悪に染まった王族の血を、継いでもいない。
つまりイエス様は、法的にはヨセフの子、すなわち、法的には歴代の王族の子であり、そして血筋としては、ソロモン以降の悪しき王達の血を継がない、「純粋なダビデの子孫」なのである。
まことに主は、いかなる歴史を通じても、そしていかに人々が不真実であっても、それでも真実な方であり、正確に義を遂行されるお方である。
ダビデは続いて、ソロモンに、人間の「仕分け」を命じる。
『またあなたはゼルヤの子ヨアブがわたしにした事、すなわち彼がイスラエルのふたりの軍の長ネルの子アブネルと、エテルの子アマサにした事を知っている。彼はこのふたりを殺して、戦争で流した地を太平の時に報い、罪のない者の血をわたしの腰のまわりの帯と、わたしの足のくつにつけた。それゆえ、あなたの知恵にしたがって事を行い、彼のしらがを安らかに陰府に下らせてはならない。』(1列王記2:5)
ヨアブは度々、自分のやりたい事と、自分のキャリアの保身のために、主君・ダビデの命令に背いて、罪なき人々の血を流し、平和を流血で染めた。
だから彼は、どんなに功績を立てても、ダビデの三十勇士には名が記されなかったし、そして軍団長の地位から降ろされるのだ。
神の国においても同じである。
どんなに功績を上げても、まことの主君・イエス・キリストを軽んじて、不従順を重ね、主の御旨でない者を担ぎ上げてしまうなら、特別な地位から降ろされ、御国のリストから除外され、抹殺されてしまうのだ。
『ただしギレアデびとバルジライの子らには恵みを施し、彼らをあなたの食卓で食事する人々のうちに加えなさい。彼らはわたしがあなたの兄弟アブサロムを避けて逃げた時、わたしを迎えてくれたからである。』(1列王記2:7)
バルジライは、ダビデがアブシャロムのクーデターによって都を追われて本当に困っていた時、バルジライは彼の富を活用し、ダビデと数千人はいる彼の部下たちを助け、クーデターが解決するまで、彼らを養った。
それでダビデは、彼の子孫たちに良くしてやりなさい、と命じたのだ。
私達も、イエス様が真に栄光を受けていない今、むしろこの時代、軽んじられているようなイエス様とそのしもべたちを助けるなら、後には永遠につづく報いが待っているのだ。
『またバホリムのベニヤミンびとゲラの子シメイがあなたと共にいる。彼はわたしがマハナイムへ行った時、激しいのろいの言葉をもってわたしをのろった。しかし彼がヨルダンへ下ってきて、わたしを迎えたので、わたしは主をさして彼に誓い、『わたしはつるぎをもってあなたを殺さない』と言った。しかし彼を罪のない者としてはならない。あなたは知恵のある人であるから、彼になすべき事を知っている。あなたは彼のしらがを血に染めて陰府に下らせなければならない」。』(1列王記2:8-9)
シメイは、ダビデがアブシャロムに追われて本当に困っていた時、ダビデ一行に、さかんに呪いの言葉を浴びせかけ、石を投げつけながら同行した者であったが、ダビデが勝利した時、真っ先にダビデの元に駆けつけて謝罪し、命を拾った者である。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われたのだ。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。
まことに彼は、口先と行動力で上手に世渡りしている者であるが、ダビデが最後にこの指示をしたという事は、やはりシメイは、表向きはダビデを恐れているものの、心の底からダビデを敬う事をして来なかったのを、ダビデは見抜いていたのだろう。
事実シメイは、後の王ソロモンの命令を破り、それが元で、彼自身の破滅を招く事となる。
『ダビデはその先祖と共に眠って、ダビデの町に葬られた。ダビデがイスラエルを治めた日数は四十年であった。すなわちヘブロンで七年、エルサレムで三十三年、王であった。このようにしてソロモンは父ダビデの位に座し、国は堅く定まった。』(1列王記2:10-12)
こうして、1サムエル記から長らく活躍して来たダビデもまた、先祖の列に加えられ、葬られた。
しかし、あまり悲しいものではない。
彼は永遠に滅んだのではなく、必ず復活し、全ての聖徒達と共に、天の王国を共に継ぐのだから。
ダビデは歌っている。
『わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。』(詩篇16:8-11)
私達も、死とよみに打ち勝たれた私達の主、イエス・キリストを、自分の前に置くなら、主は私達をよみに捨て置かせず、墓を見させない。
この、死に勝利された主にあって、私達もよみがえらされ、わしのように若くされるのである。
『主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。』(詩篇103:3-5)
まことに主にある者は、老いるにも、死ぬにも、そして復活するにも、栄光に満ちているのだ。
