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主、褒め讃えるべきお方(2サムエル記22:47-51)
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ダビデの人生を象徴的に表す詩の、最終部分である。
ダビデは詩の最後で、彼をずっと守り、全てを良いほうへ導いて下さった主を褒め称えている。
『主は生きておられる。わが岩はほむべきかな。わが神、わが救の岩はあがむべきかな。
(NKJV: "The Lord lives! Blessed be my Rock! Let God be exalted, The Rock of my salvation!")』(2サムエル記22:47)
主は、まさに生きておられる。
ダビデの時代のみならず、今も生きておられ、そしてダビデのみならず私達を、すなわち、主を「救いの岩」とするすべての人達に対し、生き生きと働いておられる。
この素晴らしいお方を知れば知る程、褒め讃えずにはおられないのである。
『この神はわたしのために、あだを報い、/もろもろの民をわたしの下に置かれた。』(2サムエル記22:48)
ダビデの時代、かつてなかったほどに多くの国々をダビデは平定し、諸々の国民はダビデを恐れ、そしてダビデの背後におられるイスラエルの神・主への恐れが湧き起こり、多くの異邦人たちがダビデの信じる主に立ち返った。
ダビデは、改心した異邦人に対しては隔てをもうけず、彼の周りには、彼を慕って集まる異邦人たちも多かった。(2サムエル記15:18-22)
それで、多くの異邦人達もダビデを助け、ダビデのために戦い、ダビデと共に礼拝し、共に主を賛美し喜び踊ったのだ。
『またわたしを敵から救い出し、/あだの上にわたしをあげ、/暴虐の人々からわたしを救い出された。』(2サムエル記22:49)
主は、主に信頼するすべての人を、敵の手から、ことに「暴虐の人々」から救い出し、彼らの地位を、敵よりも上げさせてくださるのだ。
エレミヤも同じ事を言っている。
『わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ここの「敵」とは、預言者エレミヤが主の警告を伝えても主の言葉を軽んじ、かえって彼を迫害する同国人たちの事だ。
同国民であろうと、外国人だろうと、主はいかなる「敵」からも守り、救い出して下さる。
エレミヤもダビデと同じく、主と主の言葉は自分にとって喜びである事を告白した。
『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。』(エレミヤ15:16)
私達は、御言葉を「喜びの食物」として、進んで摂り入れているだろうか。
そうであるなら、主もまた私達を喜びとし、進んで守り、養い育てて下さる。
私達は、自分自身をきよく保つために、主をないがしろにする人達とは一線を画す事も、また大事である。
『わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。・・・それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。』(エレミヤ15:17-19)
主がここで言っているように、世の享楽にうつつを抜かして主を敬わない人々に、私達が合わせたり、彼らに混じりに行く必要は、無い。
つまらない言葉を止め、主の貴い御言葉を口に上らせるなら、その口は「わたしの口のようになる」と、主は言われる。
だから、主に召しだされた私達は、世の人や世の価値観に媚びたり卑屈になったりしてはならない。
むしろ、世のほうを、御国の価値観に染めさせ、御国の救いへと入れさせるべきだ。
そのようにして自らを清く保ち、信仰を貫く人々を、主は、次のように扱って下さる。
『わたしはあなたを、この民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ダビデはこの詩の最後も、主への賞賛で満たしている。
『それゆえ、主よ、わたしはもろもろの国民の中で、/あなたをたたえ、/あなたの、み名をほめ歌うであろう。主はその王に大いなる勝利を与え、/油を注がれた者に、ダビデとその子孫とに、/とこしえに、いつくしみを施される」。』(2サムエル記22:50-51)
彼は主に守られ、異邦人はそんな彼を恐れ、そして彼は、そんな異邦人に主を伝えた。
そして彼は、さらに国々の民の中で、主を讃え、主の御名を褒め歌った。
異邦人が主に立ち返り、主を褒め称えるようになるのは、御心に叶った事である事を、パウロも、聖書の色々な箇所を引用して証明している。
『わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、/「それゆえ、わたしは、異邦人の中で/あなたにさんびをささげ、/また、御名をほめ歌う」/と書いてあるとおりである。
また、こう言っている、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。また、/「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
またイザヤは言っている、/「エッサイの根から芽が出て、/異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。』(ローマ15:8-13)
福音はついに、東の果てに住む異邦の国、この日本にも届いた。
私達も、ダビデのように主に望みを置き、大いに主を喜び、共に賛美する特権が与えられたのだ。
ダビデのように、この素晴らしい主をほめ讃え、賛美し、大いに主からの守りと祝福を豊かにいただく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主が与えて下さる勝利に妥協してはならない(2サムエル記22:38-46)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-11 16:52
主が与えて下さる勝利に妥協してはならない(2サムエル記22:38-46)
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ダビデは、それまで経験して来た戦いについて、そして敵に対し、主がどのようにされて来たかを、今回記している。
『わたしは敵を追って、これを滅ぼし、/これを絶やすまでは帰らなかった。わたしは彼らを絶やし、彼らを砕いたので/彼らは立つことができず、わたしの足もとに倒れた。あなたは戦いのために、わたしに力を帯びさせ/わたしを攻める者をわたしの下にかがませられた。あなたによって、敵は/そのうしろをわたしに向けたので、/わたしを憎む者をわたしは滅ぼした。』(2サムエル記22:38-41)
もし、敵と言われている相手が、救われる可能性のある人間であるなら、その人のために執り成し祈るべきである。
しかし「敵」が私達の内に潜む罪、愚かさ、自堕落な性質であるなら、ダビデがしたように追いかけ、徹底的に砕き、二度と立つことができないまでに、滅ぼし尽くすべきである。
そうしないと、追い払ってもすぐにまた戻ってきては悩まされ、それを繰り返す内に慣れてしまい、その内、ちょっとやそっとの「追い払い」では出て行かなくなり、ついには居座って出て行かなくなってしまうからだ。
ギデオンは、三百人で十万以上の敵に勝利する、という快挙を成し遂げた直後、それで安住せず、休まずそのまま追撃しに行った。
彼らは疲れていたにも関わらず、また、同国民から気落ちさせるような事を言われたりされたりしたにも関わらず、なお追撃し、川を超え、敵が一息ついている所を急襲し、滅ぼし尽くした。
それで敵は、二度と立ち上がれなくなり、その後の彼の生涯は、ずっと安泰だったし、そして、彼が生きていた間のイスラエルも、ずっと平安が続いた。(士師記6-8章)
私達も、ダビデやギデオンのように、滅ぼし尽くすべき敵、すなわち、罪や愚かさを、徹底的に滅ぼし尽くすべきである。
それをするなら、その後の人生は安泰となるからであり、そして主も、そのような人には惜しまず助けを施して下さる。
しかし、彼が死んだ後のイスラエルは、再び罪の性質に妥協するようになり、滅ぼすべき者達を迎合し、悪い性質や、悪い民族を招き入れてしまった故、敵が力を得て、ほしいままにはびこって蹂躙されてしまう日々が続いてしまった。
士師記はまさに、災いが延々と続いてしまう書であるが、その原因は、滅ぼし尽くすべき敵を、徹底して滅ぼさない事ゆえである。
ヨシュアの場合、邪悪な先住民たちを滅ぼし尽くす事については、主は、太陽や月の動きを止めてまでヨシュア達を助けられた。(ヨシュア記10章)
私達も、自分の肢体に住みついている罪の性質という「先住民」を滅ぼし尽くす努力をし、追撃するなら、主は、太陽や月さえ動かす程の力で助けて下さるのだ!
『彼らは見まわしたが、救う者はいなかった。彼らは主(エホバ)に叫んだが、彼らには答えられなかった。わたしは彼らを地のちりのように/細かに打ちくだき、/ちまたのどろのように、踏みにじった。』(2サムエル記22:42-43)
いざという時に主に助けを叫んでも、何の助けも無く、救い出してもらえないケースは、聖書に何度か出てくる。
主に助けを叫んでも、無視されてしまう人達に共通している性質は、普段から主を敬わず、主を恐れる事を好まず、主の御業を見ておきながらそれを軽んじ、主の叱責をことごとく侮るような人である。
サウル王は、人生最大の危機に面した時、主に伺おうとして祭司や預言者に聞いたのに、主からは何の導きが得られず、そうと見たサウルは、さっさと口寄せに導きを求に行ってしまった。
サウルはかつて、自分の思い通りにならないからと、エポデを着た祭司を85人も殺し、また、実行こそしなかったが、預言者サムエルさえ殺そうとする勢いだった。
彼はそのように、主の代弁者である預言者サムエルの言葉をないがしろにし、神と人との間に立って執り成す祭司を不当に扱い、そうやって主を軽んじて来た。
だから、サウルに恐怖と災難が襲った時に、主を呼んでも主はサウルに答えず、苦難と苦悩が下った時、主を捜し求めても、彼らは見つける事ができなかったのだ。(箴言1:27-30)
しかし、ダビデのように普段から主を恐れ敬う人は、この詩の通りに、主が盾となり、救いの岩となって下さり、彼が主に助けを呼び求める時、主は天を押し曲げて降りてこられ、速やかに救い出して下さるのだ。
『あなたはわたしを国々の民との「争い(競争、コンテスト)」から救い出し、/わたしをもろもろの国民のかしらとされた。わたしの知らなかった民がわたしに仕えた。異国の人たちはきてわたしにこび、/わたしの事を聞くとすぐわたしに従った。異国の人たちは、うちしおれて/その城からふるえながら出てきた。』(2サムエル記22:44-46)
ダビデのように主の栄光のために生きるなら、主は、コンテストなどの仲間内の競争にも勝たせ、かしらとさせて下さる。
実際、スポーツや、あらゆるコンテストなどで、クリスチャンが優勝し、主に栄光を捧げている場面はよく聞くし、よく目にする。
主が彼らを勝利させて下さるのは、彼らが勝利した時に、彼らは主に栄光を捧げるという事を、主が知っておられるからであり、もし、自分の欲や名誉のために「優勝させて下さい」と願うなら、それは虫が良すぎる願いである。
ダビデは主に信頼し、主に守られるたびに主に感謝を捧げ、詩と賛美をつくって主を褒め称えた。
ダビデは、勝利すれば勝利する程、彼は主に栄光をささげ、主の栄光が増し加わって行った。それだから主も、ダビデをもっともっと勝利させて行ったのだ。
そうして、あらゆる外国人はダビデを恐れるようになり、そして、ダビデが仕える主を恐れ敬う心が、国々へと広がって行った。
私達も、主に信頼して歩むなら、相手がいかに強者であったとしても主は勝利させて下さり、まだ見ぬ敵さえ恐れさせ、ますます主の栄光のために用いられて行くのだ。
神、その道は完全。主のみことばは純粋。(2サムエル記22:31-37)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-9 23:32
神、その道は完全。主のみことばは純粋。(2サムエル記22:31-37)
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『この神こそ、その道は非のうちどころなく、/主の約束は真実である(the word of the LORD is tried)。彼はすべて彼に寄り頼む者の盾である。』(2サムエル記22:31)
人の意思は移ろいやすく、神様に喜ばれる生き方を守ろうとしても、罪を犯してしまう事があるし、完全さを保とうとしても、どこかしら弱さが出てしまう。
しかし、主の道の完全さ、御言葉の確実さは、決して変わる事ない。それ故、自分に頼る道を捨て、主に依り頼む生き方をして行くなら、決して失望させられる事は無い。
ダビデは、人生を積み重ねていく内に、ますますそれを体験として実証して行ったのだ。
ダビデは、御言葉の純粋さについて、別の詩篇でも表現している。
『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。 』(詩篇12:6)
銀は、土の炉で何度もためす内に、どんどん純化され、強度も光沢も増して行くように、御言葉を私達という「土の炉」でよく咀嚼し、「ためす」なら、それは私達の内でどんどん光を放ち、強靭さを増して行く。
そのような、信仰のある人が宣言する御言葉には、剣のような鋭さがあり、力と権威と威力がある。
あるいは、そのような人が信仰を混ぜて口から語る御言葉には、癒やしがあり、愛と憐れみが満ち、物事の解決や、必要の満たし、奇跡さえ起こる事もある。
しかし、信仰の無い人が宣言する御言葉には、何の力も無く、かえって、なまくらな御言葉を宣言した故に、火傷を負ってしまう事さえあるのだ。(使徒19:11-17)
『主のほかに、だれが神か、/われらの神のほか、だれが岩であるか。この神こそわたしの堅固な避け所であり、/わたしの道を安全にされた。』(2サムエル記22:32)
ひと度本物を味わってしまったなら、他の偽物は一切受け入れられなくなってしまうものであるが、まことの神である主は、そんな、取り換え可能な存在ではない。
この御方の完全な力と愛、憐れみに、ひと度ひたされてしまったなら、もはや、他に何も頼りにすべきものが必要なくなってしまう。(マタイ13:44)
私達も、主を頼りとするなら、主から守られるばかりでなく、私達自身も、力が増し加わって行く。
『わたしの足をめじかの足のようにして、/わたしを高い所に安全に立たせ、わたしの手を戦いに慣らされたので、/わたしの腕は青銅の弓を引くことができる。』(2サムエル記22:34-35)
雌鹿は、岩山さえも難なく飛び跳ね登って行くが、同じように、主は人生のいかなる岩場をもたやすく乗り越える力を与えて下さり、決して揺るがされない土台に立たせ、高い所へと導いて下さる。
青銅の弓を絞るにはかなりの力が要るが、弓を扱うためには、力ばかりでなくコントロールも必要である。
「罪」(ハマルティア)の元々の意味は「的外し」であるが、主に信頼するなら、私達を力強くして下さるばかりでなく、的を外して来た罪の歩みを卒業させ、的をきれいに射抜くような真実な道を歩ませて下さるのだ。
『あなたはその救の盾をわたしに与え、/あなたの助けは、わたしを大いなる者とされた。』(2サムエル記22:36)
主を頼りとしている人の人生は、救いの盾を得ているようなものであるが、そうでない人は、盾なしの丸腰で人生を戦っているようなものである。
『あなたはわたしが歩く広い場所を与えられたので、/わたしの足はすべらなかった。』(2サムエル記22:37)
御言葉に従順して行くなら、その人生は、広い所へと導かれていく。
なぜなら、その「服従」は、あらゆる敵に対し、要塞をも破る力のあるものであり(2コリント10:4)、そのように日々、御言葉に服従し実行して小さな要塞を打ち破って行くなら、自由な領域はどんどん拡大して行くものである。
私達は、何か狭い領域の中で、窮屈をおぼえて暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に従って行くなら、あらゆる事から守られ、力が増し加わり、ますます仕事が出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションも活発にできるようになって、より広い領域へと踏み出し、そうして、その人の「領域」はますます広く、増し加わって行くものだ。
この世界は、完全で純粋な「御言葉」によって構築された。
だから、私達の内に、その神の御言葉を取り込み、その言葉が私達の内にますます組み込まれて行くなら行くほどに、私達は世界の成り立ちをわきまえるようになり、物事を分別する理解と知恵が与えられ、力が増し加わっていく。
そういうわけだから、銀を求めるよりも、主の御言葉を求めたほうが、はるかに得なのだ。(箴言16:16)
御言葉を蓄え、力も知恵も富も権威もさらに増し加わって行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-11-7 10:37
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ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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主に後ろ暗い所が無い人の幸い(2サムエル記22:21-30)
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『主はわたしの義にしたがってわたしに報い、/わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされた。それは、わたしが主の道を守り、悪を行わず、/わが神から離れたことがないからである。そのすべてのおきてはわたしの前にあって、/わたしはその、み定めを離れたことがない。わたしは主の前に欠けた所なく、/自らを守って罪を犯さなかった。それゆえ、主はわたしの義にしたがい、/その目のまえにわたしの清きにしたがって、/わたしに報いられた。』(2サムエル記22:21-25)
2サムエル記を読んで来た方なら、よくもダビデは「わたしは主の前に欠けた所なく、自らを守って罪を犯さなかった。」などと言えたものだ、と思われたかもしれない。
ダビデにしても、そして私達にしても、人生トータルで見るなら、誰一人、欠けが無い者はなく、罪を犯さなかった者もいない。
人は誰でも、どこかで悪を行い、その悪を敢えてそのまま留め置いて「呪われモード」となってしまう事がある。
しかしその都度、悔い改め、主に立ち返るなら、恵みと憐れみと赦しに富まれる主は、その人との関係を回復させて下さり、その人を「祝福モード」へと転換させて下さる。(レビ記26章、申命記28章)
ダビデはそれを信じていたから、大胆に告白できたのだろう。
『そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:1-5)
実際ダビデは、サウル王に追われていた時、状況的にはいつ殺されてしまうか分からない圧倒的不利だったにもかかわらず、ただ主にのみ頼り主にのみ望みを置いていたため、主との関係は絶好調で、実はものすごい「祝福モード」に入っていた。
その時期、主はダビデを二度もサウル王を簡単に殺せるチャンスに置かれたが、ダビデは主の故に敢えてそれをせず、そしてサウル王に次のように言っている。
『ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。』(1サムエル記26:22-24)
私達も、主に聞き従い、主に対して何ら後ろ暗い所が無いなら、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを求める事が出来るのだ。(ヘブル4:16)
そして、もしも何か「呪われモード」に入っているような感じがしたなら、主に伺うべきだ。何が原因でそうなっているのかを。
『忠実な者には、あなたは忠実な者となり、/欠けた所のない人には、/あなたは欠けた所のない者となり、清い者には、あなたは清い者となり、/まがった者には、かたいぢな者となられる。』(2サムエル記22:26-27)
主は、ねじ曲がった者には、ねじ曲げる方である、と、ダビデは言っている。
主に対してねじ曲がった考え方をしている者に、主はどうされるか、イエス様は「ミナのたとえ話」の中で話しておられる。
『イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』』(ルカ19:12-13)
それで、あるしもべは1ミナで商売し10ミナを儲け、別のしもべは、1ミナで5ミナを儲けた。
しかし、主人に対してねじ曲がった考えを向けていたしもべは次のように言った。
『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。』(ルカ19:20-21)
このしもべは、1ミナという大金を主人から預かっておきながら、自分が働かなかった事を棚に上げ、主人を「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人」と、実際とは違う邪推をし、その邪推を根拠に、主人を「きびしい方」と責め、働かなかった事の言い訳をした。
それに対する主人の評価は次のものだった。
『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』(ルカ19:22-23)
このしもべは、主人に対してはわずかな「利息」さえも儲けさせるまいという心だったため、主人は、彼が「さばいた通りに、さばき返した」のだ
主は、ねじ曲がった者に対しては、ねじ曲げる方である。
『あなたはへりくだる民を救われる、/しかしあなたの目は高ぶる者を見て/これをひくくせられる。』(2サムエル記22:28)
これも、ダビデが人生を通して知った、主のご性質である。
ダビデは、別の詩篇で、次のように言っている。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
『まことに、主よ、あなたはわたしのともし火、/わが神はわたしのやみを照される。まことに、あなたによって/わたしは敵軍をふみ滅ぼし、/わが神によって石がきをとび越えることができる。』(2サムエル記22:29-30)
結局、主こそ私達が助けられる源であり、ダビデの人生、色々な罪あやまちを犯して来たにも関わらず、主に愛され守られて来た秘訣は、ここにある。
主を敬わない東大卒の人と、主を敬う中卒の人と、主はどちらを守られ、どちらが最終的に永遠のいのちを勝ち取るだろう。
それはもちろん、主を敬う人、である。
確かに、勉強や肉体の鍛錬もいくらかは有益であるが、結局、信仰を育み育てる事のほうが、遥かに大事だ。
相手がいかに強くとも、頭が良くても、結局最後に勝利するのは、主に守られる人だ。
私達もダビデのように、主を敬い、主に守られる者として人生の道を歩んでいきたい。
主の助けは遥か上を行っていた(2サムエル記22:10-20)
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『彼は「天(複数形)」を低くして下られ、/暗やみが彼の足の下にあった。』(2サムエル記22:10)
主は、主に助けを叫び求める人を救うために「諸々の天」を押し曲げて、降りてこられる。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力の悪霊どもが棲家とする「空中」(エペソ2:2)と、そして、「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。
主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、諸天を押し曲げて、降りてこられる。しかも、暗闇を足の下にして。
主は天から降りて来られる時、主の敵である闇を足の下に踏みにじって下さるのである。
ダビデの目の前に迫り来る敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
また、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし主は、それら全ての遥か上を行っていた。
主は、天地を支配しておられる万軍の主である。
その素晴らしい主が、こんなにもちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。
『彼はケルブに乗って飛び、/風の翼に乗ってあらわれた。彼はその周囲に幕屋として、/やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。そのみ前の輝きから/炭火が燃え出た。主は天から雷をとどろかせ、/いと高き者は声を出された。彼はまた矢を放って彼らを散らし、/いなずまを放って彼らを撃ち破られた。』(2サムエル記22:11-15)
敵が矢によって攻撃して来るなら、主は、いなずまの矢を放って敵を撃ち破られる。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けて下さる。
主の助けは、人間の力の及ぶ範囲や、人間の想像できる範囲の、はるか上を行っている。
『主のとがめと、その鼻のいぶきとによって、/海の底はあらわれ、/世界の基が、あらわになった。』(2サムエル記22:16)
主の息吹は、塵のかたまりにいのちを与えるし(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
いかに人が力や権威、技術を駆使しても、到底太刀打ちできないような形で、主は助けて下さるのだ。
『彼は高き所から手を伸べてわたしを捕え、/大水の中からわたしを引き上げ、わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを救われた。彼らはわたしにとって、あまりにも強かったからだ。彼らはわたしの災の日にわたしに、たち向かった。しかし主はわたしの支柱となられた。』(2サムエル記22:17-19)
私達もいつも主と共に歩み、そして助けを求めるなら、迫り来る敵はどんなものでも、全て、主の御前に無力となる。
鼻で息を吸う人間も、自然環境や社会的環境、物理的な相手でも、霊的な相手でも、そしてまた、私達自身の内に打ち込まれている罪、欲深さ、強情さ、自我なども。
それらは、私にとっては、到底押し倒す事のできない強敵であっても、主を拠り所とし主に助けを求めるなら、主が圧倒的に勝利をされ、その勝利の行列に私達をも連ならせて下さるのだ。
『彼はまたわたしを広い所へ引きだされ、/わたしを喜ばれて、救ってくださった。』(2サムエル記22:20)
主はなぜ、ダビデを喜びとされ、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
主はどのような人を喜ばれ、ダビデのように守られるのか。
『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。』(詩篇147:10)
すなわち主は、主を恐れる人(主を敬い重んじる人)、主のいつくしみを望み求める人を、喜ばれ、彼らを助け、ひいきにして下さる。
ダビデはまた、主は自分を広い所へ導き出して下さった、と告白している。
私達も、御言葉を守り行うなら、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を、主は踏みゆかせて下さる。
その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
いずれにせよ、御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になるのだ。
そして、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、閉塞していた心が開放され、出来なかった事が出来るようになり、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るのだ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)
ダビデの人生をあらわす象徴的な詩(2サムエル記22:1-9)
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ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の終わり近くに、サムエル記の筆者は、ダビデの代表的な詩を一つ紹介している。
この詩は、詩篇18編とほぼ一致している。
数多くあるダビデの詩の中から、筆者が特にこの詩を選び、サムエル記に挿入したからには、この詩は、ダビデの人生を象徴的に表す詩とも言えるのだろう。
『ダビデは主がもろもろの敵の手とサウルの手から、自分を救い出された日に、この歌の言葉を主に向かって述べ、彼は言った、』(2サムエル記22:1-2)
ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だったが、それ以降の、彼の王としての四十年、ダビデにはサウル以外にも「もろもろの敵」が立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、あるいは、親しい友や肉親からの突然の敵対、そして、悪魔からの誘惑など、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
皆さんは、主はどのようなお方ですか、と尋ねられて、すぐに答えられる言葉があるだろうか。
ダビデは、主がどのようなお方であるかを、次のような言葉で表現している。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、/わが高きやぐら、わが避け所、/わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる。わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:2)
主がどのようなご性質であられるか、詩の冒頭から幾つも記されている。
ダビデは様々な敵が立ちはだかる都度、主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行く内に、この詩篇が練られて行ったのだろう。
ダビデはこれら一つ一つの主の性質に、主は「わが・・・」「わたしの・・・」と宣言し、主のそれらのご性質は、皆「わたしのもの」という告白を添えている。
私達も、それにならうべきである。
主は、アブラハム・イサク・ヤコブの主であるばかりでなく、ダビデの主であり、そして今現在、これを読んでいる「あなた」自身の主でもあるのだ。
主は人類歴史において、主を「私の主。私の神。」と呼ぶ、全ての人にとって「主」となって下さるのだ。(ヨハネ20:28)
『わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:4)
ダビデは主を「ほめ讃えられるべき方」としている。
彼は、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせている。
ダビデが中で多くの苦しみと死の危険を通って来た事は、サムエル記から既に見てきた。
その都度、彼は主に呼び求め、主から助けをいただき、ここまで来れたのだ。
『死の波はわたしをとりまき、/滅びの大水はわたしを襲った。陰府の綱はわたしをとりかこみ、/死のわなはわたしに、たち向かった。苦難のうちにわたしは主を呼び、/またわが神に呼ばわった。主がその宮からわたしの声を聞かれて、/わたしの叫びはその耳にとどいた。』(2サムエル記22:5-7)
ここの箇所は、次のヨナの祈りによく似ている。
『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)
ヨナは大魚に飲み込まれ、海の底の魚の腹の中、という絶望的な状況から、主を呼び求めた。
彼の場合、その苦しみは、彼の不従順によって来た。
しかし、その自らの不従順の苦しみの中からでも、ダビデのように主の宮を思い焦がれた。そして主はそれを聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再び彼のミニストリーに戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自分の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りさえ、漏らさず聞いて下さるのだ。
主は、待っておられる。私たちが主に立ち返り、主を呼び求める事を。
『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれると”すぐ”、あなたに答えてくださる。たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。』(イザヤ30:18-20)
ここを見ると、主はあたかも私達に「主よ助けて下さい」と言う事を今か今かと待っておられ、呼び求めるなら、直ぐにでも恵みを与えよう、と、いつでも準備しておられるかのようだ。
主はいつでも、恵もうと待っておられるのだ。
肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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- pastor 2015-11-2 23:00
肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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『ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。』(2サムエル記21:15)
ペリシテ人はまたしても巨人を動員してイスラエルに戦争を仕掛けて来たので、ダビデは部下を引き連れて戦いに出た。
ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。
『時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。』(2サムエル記21:16-17)
ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。
ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。
私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。
『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。
ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。
サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。
私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。
キリスト教は、伝道はする事は頑張っても、信仰を子々孫々へと継承して行く事をおろそかにして来てしまったため、せっかくリバイバルが起きたとしても、残念ながら次世代へと中々つながらないケースが、世界各地に見られる。
それに引き換え、ユダヤ人は、離散してから2000年経っても決して信仰は廃れず、およそ二千年ぶりに失った国土を回復するまでになったのは、ひとえに主から頂いた御言葉を大切にし、信仰を子々孫々に継承する事を徹底して守り行って来たからだ。
『イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(申命記6:4-9)
私達の戦いは、血肉によるものではない。御言葉や信仰を武具とした、霊の戦いである。
ダビデの体が老いて行ったように、私達の体も、日々衰えるが、主に信頼する者は、力を得、鷲のように登っていく事が出来、内なる人は日々、新たにされて行く。
パウロは最後まで「わたしにならう者となってください」と言って、彼について行った弟子たちに立派な”背中”を見せつつ、信仰の道を走り通し、義の栄冠を勝ち取った。
私達もパウロのように、生涯現役の信仰の勇士として信仰の戦いを果敢に戦い、子々孫々に信仰を継承して行く者でありたい。
飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-23 19:37
飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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サウル王は民族意識が昂じて平穏に信仰生活していたギブオン人を虐げた結果、ダビデの治世に飢饉がもたらされ、しかも、その罪がなだめられるためには、サウル自身の子孫七人が、主の前で木にかけられ、晒し者にされなくてはならなくなってしまった。
主の約束を軽んじ、ふにゃふにゃの民族意識を昂じさせ、手前勝手な熱心を振り回して善良に暮らしている民族を弾圧する者は、その累が自身の子孫へと及んでしまうのだ。
『しかし王はサウルの子ヨナタンの子であるメピボセテを惜しんだ。彼らの間、すなわちダビデとサウルの子ヨナタンとの間に、主をさして立てた誓いがあったからである。』(2サムエル記21:7)
ダビデはヨナタンに、彼の子孫には恵みを施す誓いを、主の前でしていたため、ヨナタンの子・メフィボシェテを守るために、別のサウルの子孫達を選別した。
『王はアヤの娘リヅパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメピボセテ、およびサウルの娘メラブがメホラびとバルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギベオンびとの手に引き渡したので、ギベオンびとは彼らを山で主の前に木にかけた。彼ら七人は共に倒れた。彼らは刈入れの初めの日、すなわち大麦刈りの初めに殺された。』(2サムエル記21:8-9)
アヤの娘・リツパは、元々サウル王のそばめで、サウル王に二人の子・アルモニとメフィボシェテを産んでいた。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女をめとる事によって、自分に実権があるという事を全イスラエルにアピールしたが、アブネルも程なくヨアブによって殺されてしまった。(2サムエル3章)
そんなリツパにとって、この二人の子は、生きがいであっただろう。
しかし彼女の子達は、大麦の刈り入れの始め頃(過越祭の時期)、山の上で木に掛けられ殺されてしまった。
『アヤの娘リヅパは荒布をとって、それを自分のために岩の上に敷き、刈入れの初めから、その人々の死体の上に天から雨が降るまで、昼は空の鳥が死体の上にこないようにし、夜は野の獣を近寄らせなかった。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天からの雨を降らせる時まで、そこを離れず、猛禽や獣から息子たちの遺体を守り続けたのだ。
ここまで徹底した愛、子が死体となって晒されても、なお守ろうとする「母の愛」。
これ以上の愛は、人には無い。
子がぐれて悪くなり、皆からは「死人」のように見なされても、それでもその子をいつも想い、守り、執り成す。
母とは、そういうものである。
しかし、それよりももっとすごい愛が、この世に存在する。
それは、神の愛である。
『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 』(イザヤ49:15-16)
世の中には、自分が産んだ子をあわれまないような母親は、滅多にない。
しかし、たとえ母が子を忘れるような事があっても、それでもなお私達をいつも気にかけ、「言いようもない深いうめき」によって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。
たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになったとしても、それでもなお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまで、執り成しておられる。
『アヤの娘でサウルのめかけであったリヅパのしたことがダビデに聞えたので、ダビデは行ってサウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシギレアデの人々の所から取ってきた。これはペリシテびとがサウルをギルボアで殺した日に、木にかけたベテシャンの広場から、彼らが盗んでいたものである。ダビデはそこからサウルの骨と、その子ヨナタンの骨を携えて上った。また人々はそのかけられた者どもの骨を集めた。』(2サムエル記21:11-13)
リツパのその行動は、ダビデ王の心を動かした。
『こうして彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のゼラにあるその父キシの墓に葬り、すべて王の命じたようにした。この後、神はその地のために、祈を聞かれた。』(2サムエル記21:14)
長年の間、忘れ去られていたサウルとヨナタンの骨も、また、この度主の前で犠牲となったサウルの子孫達の骨も全て、彼らの故郷・父キシュの墓へと葬るように、ダビデはさせた。
リツパが若い時にサウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。
しかし、彼女がその遺体を守り続けた事によって、ギブオン人はなだめられ、神はなだめられ、日照りと乾燥の中ずっと遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの、恵みの雨が降り注いだのだ。
その雨は全イスラエルを潤し、イスラエルの多くの民にパンをもたらした。
私達もまた、父アダムの罪の故に、呪いが定められてしまっていたが、キリストもまた大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者とされ、神と人との前で晒しものとされた事によって、父なる神はなだめられ、彼を通して、全人類に恵みと慰めの雨が降り注いだのだ。
大きな愛は、人の罪と弱さを覆い、人を回復させ建て上げ、多くの人を潤し、恵みへと導く。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至って広まりつつあるのである。