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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

ギブオン人の故の呪い(2サムエル記21:1-6)
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2サムエル記は、一章から八章までは、サウルの死から、ダビデ王国の全盛に至るまでの記録が記されており、九章以降はダビデの罪とその刈り取りの災いの記録が記されている。

この災いは、クーデターを起こした息子アブシャロムの死によって、一旦収束を迎えた。それが前回・二十章までの所である。
そして、2サムエル記の二十一章以降は、ダビデ治世で起きた付録的な事が記されている。

『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」。そこで王はギベオンびとを召しよせた。ギベオンびとはイスラエルの子孫ではなく、アモリびとの残りであって、イスラエルの人々は彼らと誓いを立てて、その命を助けた。ところがサウルはイスラエルとユダの人々のために熱心であったので、彼らを殺そうとしたのである。』(2サムエル記21:1-2)
ここに登場するギブオン人は、本来、聖絶されるべきカナン人であった。
彼らは、ヨシュアがカナンに攻め込んできた時、他のカナン人達が徹底抗戦の構えを見せる中、ギブオン人だけはイスラエルとの和平工作を画策し、彼らはあたかも遠い国から来たかのように変装してイスラエルをだまし、和平の不可侵条約を結ぼうとした。

彼らはヨシュア(イエシュア)に、直接交渉している。
『「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、「主(エホバ)」の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。』(ヨシュア記9:8-10)

ギブオン人は屈強な戦士で、その町も大きく堅固であった(ヨシュア記10:2)にもかかわらず、彼らは主の民イスラエルと戦おうとはせず、武具ではなく、ぼろぼろの服を身につけ、主と主の民の前に低くなった。
彼らがそのように自らを低くしたからこそ、主は彼らを救わせたのではないだろうか。(詩篇96:7-10)

結局、イスラエルはだまされた形でギブオン人と和平条約を結び、イスラエルの人々は三日後、それに気づいた。
欺かれたとはいえ、イスラエルは彼らに手を出さない、と、主の御前に誓いを立ててしまった以上、彼らはギブオン人に手出しできなくなった。
『そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。」(26-27節)

彼らは確かに「うそ」によってイスラエルの中に入ってきたが、イスラエルに入ってきて以降、彼らは以前カナンで行っていた偶像礼拝や暴虐、不品行などは捨て去り、主の祭壇や主の会衆のために、たきぎを切ったり、水を汲んだりして奉仕して行く内に、清められて行ったのだろう。
もし、彼らがそのまま邪悪な生活を続けていたとしたなら、和平条約など関係なくイスラエルから即刻絶たれるはずであり、イスラエルの中で生き残る事は出来なかっただろう。
彼らは日々、神の家のために、イスラエルの会衆のために奉仕をし続けて行く内に、以前の邪悪な行いは捨て去り、悔い改め、主を愛する心が芽生えて行った、にもかかわらず、サウルは誤った熱心によって彼らを殺し、追い払おうとしたのだ。

『それでダビデはギベオンびとに言った、「わたしはあなたがたのために、何をすればよいのですか。どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」。』(2サムエル記21:3)
ダビデは、どう償えばあなた達ギブオン人は快くイスラエルを「祝福」してくれるのか、と聞いている。
つまりダビデ王は、ギブオン人の「イスラエルを呪いいたい心境」を恐れ、なんとかそれを「祝福したい心境」へと持って行きたいと思っているのだ。
なぜならこの事は、先代王のサウルがギブオン人の血を流し、イスラエルから根絶しようとしたのが原因だと、主が明らかにされたからだ。
私達も、兄弟姉妹から呪われるような事をしているなら、彼らが陰で呪ったその言葉によって主から呪いを受け、そして祝福されるような事をしているなら、彼らが陰で祝福したその言葉によって、主から祝福をもらえるのだ。

それにしても、なぜサウルの代に災いが起きるのではなく、ダビデの代に起きたのだろう。
サウルは他にも色々な罪を犯したが、その報いは彼自身が受け、死をもって刈り取った。
しかし、後の代になってから、主がわざわざ飢饉を起こされた、という事は、もしかすると、サウルの代でイスラエル人に埋め込まれたギブオン人への差別と偏見が根強く残り、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって、祈りが天に届いたのかもしれない。

神の国の中においても、色々な成り立ちで、救いへと入ってきた人達がいる。
その中にはギブオン人のように、「うそ」が取っ掛かりとなって教会の集いに入って来た人達も、もしかしたらいるかもしれない。外面的には信仰を装っておきながら、実は、教会の中の女性が目当てだとか、善良な彼らをだまして何かするため、等など。
しかし、最初の動機がどうあれ、教会のため聖徒のために奉仕をしていく内に、ギブオン人のように清い性質へと造り変えられ、真に救われて行く人も、また多い。
重要なのは、以前どうであったかではなく、今、主の交わりの中においてどうであるかである。

以前、どんな性質の人であったとしても、もはや悔い改めて邪悪な性質を捨て去っており、神のために奉仕に勤しんでいるのなら、同じ主にある兄弟姉妹として、平和に接するべきである。
それをサウルは、身勝手な民族意識を振りかざしてギブオン人を殺し、そうしてギブオン人に、イスラエルを呪うような気持ちにさせてしまった。
私達は、このサウルの道を歩んではならない。

『ギベオンびとは彼に言った、「これはわれわれと、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、われわれが殺そうというのでもありません」。ダビデは言った、「わたしがあなたがたのために何をすればよいと言うのですか」。
かれらは王に言った、「われわれを滅ぼした人、われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人、その人の子孫七人を引き渡してください。われわれは主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」。王は言った、「引き渡しましょう」。』(2サムエル記21:4-6)

世の中には、ちょっとした被害を”ねた”として、過度な金銭を求めたり、過度な暴力で仕返しをする人は多い。
それなのに、ギブオン人は”ちょっとした”どころではない被害なのに一切求める事は無く、この問題はむしろ、主・エホバの問題であると言った。
それ程までに彼らの信仰は純粋となっていたのだ。

彼らはサウルを、「われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人」と言った。
主を愛する人にとって、神を礼拝する場所から追い出される事や、神の臨在の領域から閉めだされる事は、何にも代えられない苦痛である。
その人が主に訴えるなら、主は、神の家全体を飢餓に陥れてでも、その訴えを聞き届けられる。

現代、神の家である私達・教会は、よくよく気をつけるべきだ。
以前がいかなる状態であったとしても、またいかに「うそ」によって救いに入って来たとしても、ギブオン人のように、罪深い行いを止め、悔い改め、新しく主に仕える聖なる生活をするなら、主から弁護される。
しかし、そのように悔い改めた彼らを、サウルのように、誤った熱心で虐げるなら、その人が主に叫ぶ時、主から呪われてしまう。

名も知れぬ知恵深い女とヨアブ(2サムエル記20:14-26)
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将軍の地位から降ろされヨアブは、新しい将軍であり上司であるアマサを殺してしまい、彼自身の強烈な指導力を発揮させ、たちまちにして人々をまとめて反乱者シバを追いかけた。


『シバはイスラエルのすべての部族のうちを通ってベテマアカのアベルにきた。ビクリびとは皆、集まってきて彼に従った。そこでヨアブと共にいたすべての人々がきて、彼をベテマアカのアベルに囲み、町に向かって土塁を築いた。それはとりでに向かって立てられた。こうして彼らは城壁をくずそうとしてこれを撃った。』(2サムエル記20:14)
ベテマアカのアベルは、ガリラヤ湖の北、イスラエルの最北端に近い町である。シバと彼に従う者達は、そこに入った。
ヨアブはそこに到着次第、力づくで崩そうとしたが、一人の賢い女が、話し合いで解決を図ろうとする。

『昔、人々はいつも、『アベルで尋ねなさい』と言って、事を定めました。わたしはイスラエルのうちの平和な、忠誠な者です。そうであるのに、あなたはイスラエルのうちで母ともいうべき町を滅ぼそうとしておられます。どうして主の嗣業を、のみ尽そうとされるのですか」。』(2サムエル記20:18-19)
アベルの町は、周囲で何か問題が起きた時には、知恵と平和による解決を尋ねに来られた「母ともいうべき町」だったようである。
彼女はヨアブに、そのような平和な町をなぜ滅ぼそうとするのか、と問いかけた。

『ヨアブは答えた、「いいえ、決してそうではなく、わたしが、のみ尽したり、滅ぼしたりすることはありません。事実はそうではなく、エフライムの山地の人ビクリの子、名をシバという者が手をあげて王ダビデにそむいたのです。あなたがたが彼ひとりを渡すならば、わたしはこの町を去ります」。女はヨアブに言った、「彼の首は城壁の上からあなたの所へ投げられるでしょう」。こうしてこの女が知恵をもって、すべての民の所に行ったので、彼らはビクリの子シバの首をはねてヨアブの所へ投げ出した。』(2サムエル記20:20-22)
こうして、シェバの反乱は三日天下で終わり、アベルの町もこの名も無き女の知恵によって救われ、多くの人の血が流されずに済んだ。
これら全ての手柄は、ヨアブの独占状態となる。

『そこでヨアブはラッパを吹きならしたので、人々は散って町を去り、おのおの家に帰った。ヨアブはエルサレムにいる王のもとに帰った。ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。』(2サムエル記20:22-23)
結局、ダビデの決定した人事をあざわらうかのように、ヨアブは、腕づくで元の地位に復帰してしまった。
ダビデの治世の間、彼自身の力と剣によって、そして、多くの血を流しながら、ヨアブは自分の地位を守り続けていたが、やがては彼がした事全ての報いを受ける時が来る。
よこしまな男・シバは、野心を燃やしてイスラエルに災いを振りまいて成り上がろうとしたが、結局、その災いは、彼自身の頭上に返ってしまったように。

今回、名も記されていない知恵ある女が出てきた。
元々、シバを打ち取ったのは、彼女の知恵によるものだったが、ヨアブは彼女に何か報いたような事は記されていない。
彼女のその後も、その名も、記されずじまいである。

ソロモンは言う。
『ここに一つの小さい町があって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲み、これに向かって大きな雲梯を建てた。しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。そこでわたしは言う、「知恵は力にまさる。しかしかの貧しい人の知恵は軽んぜられ、その言葉は聞かれなかった」。』(伝道者の書9:14-16)
ソロモンは、平和の偉業を為したこの人は「記憶する者がなかった」と、あたかも、虚しい事のように評価している。

人の目から見るなら、ヨアブのように手柄を独占したり、ソロモンのように偉大な知恵が賞賛されたりする人が幸いで、彼女のように、手柄も名も残らなかった人は、何か虚しいかのように見えるかもしれない。
しかし、天の評価は違う。
『自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。・・・隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。』(マタイ6:1-4)

天の査定は、この世で人から賞賛を受けたり褒められたりしたら、天では報いは残っていないが、人目に隠れて行った良い行いは、全て、隠れた所で見ておられる天の父が報いて下さる、というものだ。
シバにしても、ヨアブにしても、ソロモンにしても、彼らの知恵、力、出世力は、彼らを永遠のいのちへと導く事は出来なかった。
彼らのように、多くの人々の血や税金、労苦の上に成り立っているような、地位や名誉、財をこの世で受けるよりも、主のまなざしと、御言葉の確信と、天において用意されている報いの希望によって成り立っている「平和の土台」に立てられた道を歩む者でありたい。

純潔を貫き通すダビデと、流血で物事を通すヨアブ(2サムエル記20:3-13)
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いよいよダビデは、再びエルサレムへ入城する。
『ダビデはエルサレムの自分の家にきた。そして王は家を守るために残しておいた十人のめかけたちを取って、一つの家に入れて守り、また養ったが、彼女たちの所には、はいらなかった。彼女たちは死ぬ日まで閉じこめられ一生、寡婦としてすごした。』(2サムエル記20:3)

アブシャロムの場合、エルサレムに王として入城してから、真っ先にした事が、ダビデを辱かしめるために、この十人の妾と寝た事だった。
ダビデはそ全く逆で、彼が王宮に戻って真っ先にした事は、彼女たちとは一生「寝ない事」だった。
ダビデは彼女たちを保護し、一生その家に閉じ込めた・・・それはどういう事だろう。

彼女たちは「一生、寡婦としてすごした」と記されている。寡婦とは、夫に死なれた女である。
つまり彼女たちは「ダビデの妾」としてではなく、「アブシャロムの未亡人」として扱われたという事だが、ダビデはなぜ、彼女を再び自分の妾として戻さなかったのか。
それは、律法では「してはならない事」だったからだ。
『女がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ、後の夫も彼女をきらって、離縁状を書き、その手に渡して家を去らせるか、または妻にめとった後の夫が死んだときは、彼女はすでに身を汚したのちであるから、彼女を去らせた先の夫は、ふたたび彼女を妻にめとることはできない。これは主の前に憎むべき事だからである。あなたの神、主が嗣業としてあなたに与えられる地に罪を負わせてはならない。』(申命記24:2-4)

アブシャロムは父ダビデ王を侮蔑し、平気で律法を破ったが、ダビデはその全く逆で、死んだアブシャロムを侮蔑する事も、律法を破る事も、決してせず、自分自身も彼女たちも純潔を貫かせたのだろう。
そもそも、ダビデが彼女達を王宮の留守番にしなければ、そのような事は最初から起きなかったのだろうが、過ぎてしまった以上、もはや、こうする以外には無かったのだろう。
いずれにせよダビデは、バテ・シェバとの一件以降、性的な面において、純潔を貫き通すようになった。(1列王記1:4)

続いてダビデは、王宮に戻ると、シェバの反乱への対応を速やかに取らなくてはならない。
シェバのおかげでイスラエルは再び分裂状態になってしまったため、これは急を要する。

『王はアマサに言った、「わたしのため三日のうちにユダの人々を呼び集めて、ここにきなさい」。アマサはユダを呼び集めるために行ったが、彼は定められた時よりもおくれた。』(2サムエル記20:4)
アマサは、ヨアブに代わって新たに任命された将軍で、彼の初仕事は、三日以内にユダから兵を集め、追撃体制を整える事だった。
しかし彼は慣れていなかったのか、期限内にそれを達成出来なかった。

『ダビデはアビシャイに言った、「ビクリの子シバは今われわれにアブサロムよりも多くの害をするであろう。あなたの主君の家来たちを率いて、彼のあとを追いなさい。さもないと彼は堅固な町々を獲て、われわれを悩ますであろう」。こうしてヨアブとケレテびととペレテびと、およびすべての勇士はアビシャイに従って出た。すなわち彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:6-7)
アマサが達成できなかった事のフォローを、ダビデはアビシャイに命じた。
旧知の経験豊かなヨアブであったら、すぐに出来た事であろうが、ダビデは既に彼を将軍の地位から降ろしている。
ところが、である。

『ヨアブはアマサに、「兄弟よ、あなたは安らかですか」と言って、ヨアブは右の手をもってアマサのひげを捕えて彼に口づけしようとしたが、アマサはヨアブの手につるぎがあることに気づかなかったので、ヨアブはそれをもってアマサの腹部を刺して、そのはらわたを地に流し出し、重ねて撃つこともなく彼を殺した。こうしてヨアブとその兄弟アビシャイはビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:9-10)
なんとヨアブは、ダビデが任じた将軍であり、既に彼の上司となったアマサを、殺してしまったのだ。

ヨアブのこのような仲間殺しは、アブネルに続き、二度目である。
最初の時は、サウル家の将軍アブネルの尽力によって、サウル家とダビデ家が平和の内に政権交代しようとしていた所に、ヨアブはアブネルを今回のように殺し、平和な流れを、流血によって染めてしまったのだ。
口づけと平和の安否をしながら近づいて、殺す。このような、イスカリオテのユダのような者は、安らかな死ぬ方はできない。(1列王記2:32)

『時にヨアブの若者のひとりがアマサのかたわらに立って言った、「ヨアブに味方する者、ダビデにつく者はヨアブのあとに従いなさい」。』(2サムエル記20:11)
この若者は、ヨアブのあまりに強引で”わかりやすい”行為に恐れ、思わず叫んだのだろう。
ヨアブこそ、ダビデの将軍としてふさわしい者だ、と。

『アマサは血に染んで大路の中にころがっていたので、そのそばに来る者はみな彼を見て立ちどまった。この人は民がみな立ちどまるのを見て、アマサを大路から畑に移し、衣服をその上にかけた。アマサが大路から移されたので、民は皆ヨアブに従って進み、ビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:12-13)
他の人々も、ヨアブのあまりに強引で力任せなやり方に、誰も逆らうことが出来ず、ヨアブに従って行った。

男性は、このように、ごちゃごちゃした物事を、単純明快な力わざで進める人に頼もしさを覚え、ついて行ってしまう所がある。
しかし、主君を軽んじ、平和ではなく流血で物事を解決して行こうとする人には、平和な最後は無い。
人の血を流す者は、人から血を流される。(創世記9:6)
剣を取る者は、剣で滅びる。(マタイ26:52)
私達は、ヨアブのような怒りと流血によって滅びる者ではなく、ダビデのように平和をつくる柔和な者として、地を相続する者でありたい。

よこしまな一言によって、簡単に分裂してしまったイスラエル(2サムエル記19:41-20:2)
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エルサレムへ帰還するダビデを巡って、既に、色々な人間模様があるのを見ている。
ある人は、保身や命乞いのために、ある人は、本心からダビデの無事を喜んでダビデを迎えに来ていたが、今回見るのは、そのどちらでもない群衆達である。
すなわち、しっかりしたアイデンティティを持たず、ただトレンドや流行を追いかけるかのようにして、ダビデを迎えに来た人達である。

『さてイスラエルの人々はみな王の所にきて、王に言った、「われわれの兄弟であるユダの人々は、何ゆえにあなたを盗み去って、王とその家族、およびダビデに伴っているすべての従者にヨルダンを渡らせたのですか」。』(2サムエル記19:41)
イスラエルの人々がダビデに問い詰めている内容は、ダビデ王が帰還するに当って、なんで自分達を呼ばずにユダ族だけにダビデの帰還を世話させて、ダビデを「盗み去り」「独り占め」にさせたのか、と。

ダビデは、ただイスラエルに平和を戻したかっただけだ。
それまで、全イスラエルが担いでいたアブシャロムが、あっけなく討たれてしまい、右往左往していたイスラエルを、ダビデは一つにまとめるために、まずは、身内のユダ族に「ダビデをエルサレムへと戻しなさい」と指示を与え、そこからイスラエルに秩序を回復させようとしたのだ。
もしダビデが、自分を裏切ってアブシャロムに与した全イスラエルと和解する気が一切無かったとしたなら、アブシャロムの将軍だったアマサを、わざわざ自分の将軍に起用するなぞ、しなかったはずだろう。
ダビデはただ、イスラエルに平和を戻したかっただけなのだが、やましさの残っている群衆達は、別の思惑に流されていた。

『ユダの人々はみなイスラエルの人々に答えた、「王はわれわれの近親だからです。あなたがたはどうしてこの事で怒られるのですか。われわれが少しでも王の物を食べたことがありますか。王が何か賜物をわれわれに与えたことがありますか」。』(2サムエル記19:42)
ユダ族は、ダビデが返事する機会を奪って、平和ではない言葉でイスラエルに答えており、肝心のダビデの意図が不在のまま、集団と集団の争いが起こりつつある。

『イスラエルの人々はユダの人々に答えた、「われわれは王のうちに十の分を持っています。またダビデのうちにもわれわれはあなたがたよりも多くを持っています。それであるのに、どうしてあなたがたはわれわれを軽んじたのですか。われらの王を導き帰ろうと最初に言ったのはわれわれではないのですか」。しかしユダの人々の言葉はイスラエルの人々の言葉よりも激しかった。』(2サムエル記19:43)
ここに、イスラエル10部族対ユダ族という構図の分裂が起こっている。
その構図は、ダビデの子・ソロモンの時代が終わって以降、顕著に現れるのだが、この時、この混乱に乗じて人々を自分に引き寄せようとする者があらわれる。

『さて、その所にひとりのよこしまな人があって、名をシバといった。ビクリの子で、ベニヤミンびとであった。彼はラッパを吹いて言った、「われわれはダビデのうちに分がない。またエッサイの子のうちに嗣業を持たない。イスラエルよ、おのおのその天幕に帰りなさい」。そこでイスラエルの人々は皆ダビデに従う事をやめて、ビクリの子シバに従った。しかしユダの人々はその王につき従って、ヨルダンからエルサレムへ行った。』(2サムエル記20:1-2)
シバはラッパを吹き鳴らして人々を引き寄せ、わずか二言三言で、全イスラエルをダビデから引き離れさせてしまった。
この時、ユダ族は最後までダビデに付き従ったのであるが、結局、全イスラエルがいとも簡単に突如現れたシバの言葉になびいて、ダビデから離れてしまったという事は、結局彼らにっとってダビデはどうでも良かったという事だ。

つまり、群衆にとっては、自分の思い通りに行くなら、指導者はダビデでも、アブシャロムでも、シバでも良かったのだ。
いつの時代でも、アイデンティティを持っていない群衆は、浮動する大衆心理の赴くままに流され、自分をそこそこ良い生活をさせてくれるなら別に支配者は誰でも良く、いとも簡単に、ある指導者を持ち上げたり、あるいはすぐに敵対したりするものだ。
イエス様のエルサレム入城の時も、群衆はイエス様を高々と持ち上げたのに、その一週間後には、イエス様を十字架につけろと叫ぶ側に一斉にまわってしまった。

心定まらない群衆が集まって、よく分からない主張で盛り上がったりすると、そのような危うさがつきまとうものである。
こうして、肝心のダビデが一言も発しないままに、ただ群衆のざわめきの波に揉まれるまま、イスラエルは、再び分裂状態へと流されて行ってしまった。
せっかくダビデが建て上げつつあった、尊い和解のわざを、シバはいとも簡単にひっくり返してしまった。

シバのように、人々に混乱させ分裂させている彼らは、結局、自分が目立って、人々を自分のもとに引き寄せたいだけで、ダビデの事も、イスラエルの平和も、全く考えていないのだ。
人々に分裂の兆しを見ると「自分が成り上がるチャンスだ」とわくわくして、いらぬ扇情を煽り立て、そうして人々が分裂している様を見て「自分の思い通りになった」と、ほくそ笑んでいるのだ。
『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。』(ルカ17:1-2)

主に属する人は、和解のつとめを為し、いのちを建て上げるが、サタンの意図は、つまづきを起こさせ、分裂させ、尊いものを踏みにじる。
私達はその意中に、はまってはならない。
パウロは言っている。
『兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。・・・平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:17-20)

神は平和の神であり、分裂の神ではない。
平和の神は、私達聖徒の足をもって、そのような兄弟姉妹に分裂を促すようなサタンの性質を、踏み砕かせて下さるのだ。
ただし、私達が踏みにじるのは、誰か人間ではなく、サタンである事も、間違えてはならない。

イザヤ書講解説教メッセージ

幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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バルジライに対するダビデの対応(2サムエル記19:31-40)
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『さてギレアデびとバルジライはロゲリムから下ってきて、ヨルダンで王を見送るため、王と共にヨルダンに進んだ。バルジライは、ひじょうに年老いた人で八十歳であった。彼はまた、ひじょうに裕福な人であったので、王がマハナイムにとどまっている間、王を養った。王はバルジライに言った、「わたしと一緒に渡って行きなさい。わたしはエルサレムであなたをわたしと共におらせて養いましょう」。』(2サムエル記19:31-33)

バルジライは、ダビデ王が都落ちした時から勝利するまで、始終一貫、王への忠誠を示し、ダビデがマハナイムに留まっている間、ずっと王を養っていた。
王について行った人達は、少なくとも2000人以上いたはずである。
彼らを一日養うだけでも、かなりの食料や経費と労力がかかったであろうが、バルジライは全てをまかなっていたのである。
ダビデ王は、そんなバルジライに報いたいと思い、一緒にエルサレムに来るよう申し出たのだ。

人はそれぞれ、主から賜物(ただで受けた贈り物)が与えられている。
それはバルジライのように富であったり、能力であったり、霊的な力であったりするのだが、おのおのに与えられた賜物を用いて、主にある兄弟姉妹の不足を補いあい、そうして互いが一つとなって、キリストのからだを建て上げて行くのである。
バルジライは、主から与えられた「富」を我がものとせず、主にあって戦いを戦っているダビデ達を支えるために、喜んで供与した。このようにして、彼も主の働きに参加したのである。

神の国はこのように、主から「ただで受けたもの(賜物)」を互いに分け合い、補い合い、そうしてキリストのからだを建て上げて行くものである。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。』(ローマ12:3-8)

ダビデは、自分達を助けてこんなにも良くしてくれたバルジライに、何とか報われて欲しいと願ったのだが、バルジライは、自分は老い先が短く、またあまりに年老いているため、せっかく美味なごちそうを頂いても、あるいは、せっかく男女の美しい歌声を聞いても、自分はもうそれらを味わう感覚が衰えてしまっている、そんな自分を招いてもらっても、ただ王の重荷になるだけです、と言って、丁重に辞退した。
バルジライはなんと慎ましい心の持ち主だろう。

ダビデが落ちぶれていた時は、冷たくあしらっていたのに、いざ、ダビデが隆盛を戻したとたんに、手のひらを返したかのように媚びて来たような人達は、大勢いた。
老い先が短く、味覚も聴覚も衰えているのに、自分ばかりが富をひとり占めにして、味わえもしないグルメ三昧したり、感性も無いのに芸術三昧しているような人は、多くいるかもしれない。
そんな中、バルジライは一切、見返りを期待する事なく、ただ、主に忠実なダビデを助けたい、という一心で、彼に与えられた富を分与し、それの報いを自分自身が受け取る事を辞退したのだ。

『どうぞしもべを帰らせてください。わたしは自分の町で、父母の墓の近くで死にます。ただし、あなたのしもべキムハムがここにおります。わが主、王と共に彼を渡って行かせてください。またあなたが良いと思われる事を彼にしてください」。王は答えた、「キムハムはわたしと共に渡って行かせます。わたしは、あなたが良いと思われる事を彼にしましょう。またあなたが望まれることはみな、あなたのためにいたします」。』(2サムエル記19:37-38)
このキムハムは、彼の息子であろう。
ダビデが死ぬ日が近づいた時、彼は跡を継ぐソロモンに、バルジライの子らに恵みを施すように特に指示をしている。(1列王記2:7)
後のバビロン捕囚の時代、ベツレヘム近くに「ゲルテ・キムハム(キムハムの宿所)」と呼ばれる土地がエレミヤ書で出てくるが(エレミヤ41:17)、もしかしたら、キムハムの子たちはダビデの故郷・ベツレヘム近くに土地を得て、その子孫達がバビロン捕囚の時まで生き残っていたのかもしれない。

『こうして民はみなヨルダンを渡った。王は渡った時、バルジライに口づけして、祝福したので、彼は自分の家に帰っていった。王はギルガルに進んだ。キムハムも彼と共に進んだ。ユダの民はみな王を送り、イスラエルの民の半ばもまたそうした。』(2サムエル記19:39-40)
かつては息子アブシャロムに卑しめられ、追われつつ渡ったヨルダン川だったが、今やダビデは栄誉を受け、同行する人数も非常に多くなっていた。

王の王であるキリストも、ダビデ王が経験したように、今は人々から卑しめられているように見えてはいても、やがては全ての敵を滅ぼし、天の軍勢を従えて来られる時が来る。
その時、ダビデの時に起こったのと同じように、人々は地上で為した行いに応じて、それぞれに報いが与えられる。
『人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。』(マタイ25:31-40)

バルジライは、ダビデが困窮した時、彼を訪ね、賜物として与えられていた富をもってダビデ達に食べさせ、宿を貸し、着るものを与えた。
彼も、メフィボシェテも、地上ではあまり報いられるという事がなかったが、彼の子孫は栄え、そして彼らの栄誉は、永遠の書物に記された。
この地上は、報いられるという事が少ないかのように見えても、主は必ず、永遠において報いて下さるお方なのだ。

メフィボシェテに対するダビデの対応(2サムエル記19:24-30)
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ダビデ王のエルサレム帰還に伴い、色々な人々の思惑が交錯する中、真っ先にダビデを迎えに出たのは、サウル家に属するシムイやツィバだった。

しかし、彼らが誰より先にダビデを迎えに来たのは、ダビデの勝利と無事を喜んで、という事ではなく、下心を持っての事だった。
そして、彼らの次にダビデを迎えに来たのは、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテだった。

『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。

ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、メフィボシェテのしもべであるツィバは、メフィボシェテに与えられているダビデの恵みを横取りしようとしたのか、ダビデが落ちのびて行った事をあたかも喜んでいるかのような、偽りの報告をした。
ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。(2サムエル記16:1-4)

それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかった。
『「メピボセテよ、あなたはどうしてわたしと共に行かなかったのか。」彼は答えた、「わが主、王よ、わたしの家来がわたしを欺いたのです。しもべは彼に、『わたしのために、ろばにくらを置け。わたしはそれに乗って王と共に行く』と言ったのです。しもべは足なえだからです。ところが彼はしもべのことをわが主、王の前に、あしざまに言ったのです。しかし、わが主、王は神の使のようでいらせられます。それで、あなたの良いと思われることをしてください。』(2サムエル記19:25-27)

ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。

『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。

『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)

ツィバは、メフィボシェテよりも一足早く、十五人の息子と二十人のしもべを従えてダビデ達に会いに来ており(17節)、ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。
足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)

ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)

人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世である。

人は不完全で判断を誤ってしまう事もあるが、主イエスは全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。
良い事で報われない人は、必ず報われ、悪を事で報いを受けていない者でも、やがて、相当のさばきをされるお方である。
メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った。(2サムエル記9:12、1歴代誌8:34-40)
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。

ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
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ダビデ達が、逃亡先のマハナイムから、首都エルサレムへと帰還するにあたり、彼らを真っ先に迎えに来たのは、意外な人物であった。


『バホリムのベニヤミンびと、ゲラの子シメイは、急いでユダの人々と共に下ってきて、ダビデ王を迎えた。一千人のベニヤミンびとが彼と共にいた。』(2サムエル記19:16-17)
覚えているだろうか。ゲラの子シメイは、ダビデ達が悲しみの内に都落ちしている所に現れ、一行にさかんに呪いの言葉を吐きつつ、石を投げ続けた彼である。
彼は、千人のベニヤミン人を連れて来た、という事は、サウル家の中でも、かなりの力があったのだろう。

その彼は、今、真っ先にダビデの前に現れて、さかんに命乞いをしている。
『どうぞわが君が、罪をわたしに帰しられないように。またわが君、王のエルサレムを出られた日に、しもべがおこなった悪い事を思い出されないように。どうぞ王がそれを心に留められないように。しもべは自分が罪を犯したことを知っています。それゆえ、見よ、わたしはきょう、ヨセフの全家のまっ先に下ってきて、わが主、王を迎えるのです。』(2サムエル記19:18-20)

かつてシムイがダビデを呪い石を投げつけていた時、ダビデは言った。
『彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(16:11-12)
ダビデは、泣きっ面の所に蜂が来たようなこの状況においても、主は必ず省みて善を報いて下さる、と信仰告白をした。
今、まさに彼が信じた通りに成っている。

私達も、主によって低くされている時は、忍耐しつつ御前でへりくだり、主は必ず最善を為して下さる、という期待と信仰を持ち続けるなら、主は丁度良い時に引き上げて下さり、呪った者を目の前に連れて来させ、ひれ伏させて下さるのだ。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)

『ゼルヤの子アビシャイは答えて言った、「シメイは主が油を注がれた者をのろったので、そのために殺されるべきではありませんか」。ダビデは言った、「あなたがたゼルヤの子たちよ、あなたがたとなにのかかわりがあって、あなたがたはきょうわたしに敵対するのか。きょう、イスラエルのうちで人を殺して良かろうか。わたしが、きょうイスラエルの王となったことを、どうして自分で知らないことがあろうか」。こうして王はシメイに、「あなたを殺さない」と言って、王は彼に誓った。』(2サムエル記19:21-23)
ダビデは、この者に復讐したい気持ちは、あったかもしれない。
しかし、彼は誰よりも先にダビデを迎えに出て来た、というのもまた、紛れも無い事実である。
そんな彼を、無下に殺してしまったとしたら、王国の民の間で「真っ先に迎えに来た人を殺した」と、衝撃が走ったであろう。
そうなると、先にせっかくアマサへ示した憐れみの抜擢も、無に帰してしまう。
上に立つ者は、自分の感覚だけで生きてはならず、臣下の心を萎えさせたり、躓いたりしないように気をつけて生きなくてはならないのだ。
それ故、上に立たされた人は、主に知恵を求める必要がある。

シメイはこの時、確かにダビデに赦された。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われた。
しかし、王権がソロモンへ改まった時、彼はソロモンの言葉どおりに徹しなかった故に、殺される事になる。(1列王記2:36-46)

ダビデは、赦しと憐れみに満ちた王である。
人の中には、その赦しと憐れみを逆手に取って、うまくやりくりする人もいるかもしれない。
しかし、やがて時が改まる時、闇に隠れていた事は全て光の内に照らされ、心の内に秘めていた事も全て露わにされ、正当なさばきが執行される。
これは、王の王であるキリストが再臨される時にも、同じである。
『だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。』(13:40-43)

私達は、シメイのような世渡り上手さを身につけなくても良いし、そのような者が跳梁跋扈している様を憂わなくて良い。
私達はただ、普段より、心から主に従い、またダビデのような愛と憐れみ、赦しのわざを、自分のものとして歩んでいるなら、全て人の企みや心を見透かされる主が、正しく報いて下さり、引き上げて下さるからだ。

イザヤ書講解説教メッセージ

ドマ(エドム)に対する宣告とアラビヤに対する宣告(イザヤ21:11-17)
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ダビデによる憐れみと赦しの采配(2サムエル記19:1-15)
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ダビデに反逆した彼の息子・アブシャロムは、ヨアブによって惨殺され、こうして戦いは決着がついた。

それは、戦いに出た戦士達には喜ばしい事だったが、ダビデにはそうではなかった。
『時にヨアブに告げる者があって、「見よ、王はアブサロムのために泣き悲しんでいる」と言った。こうしてその日の勝利はすべての民の悲しみとなった。それはその日、民が、「王はその子のために悲しんでいる」と人の言うのを聞いたからである。そして民はその日、戦いに逃げて恥じている民がひそかに、はいるように、ひそかに町にはいった。王は顔をおおった。そして王は大声に叫んで、「わが子アブサロムよ。アブサロム、わが子よ、わが子よ」と言った。』(2サムエル記19:1-4)

戦士たちは、せっかく命をかけて戦って勝利したのに、喜び迎え入れられないどころか、ダビデはこの度の敵であるアブシャロムの死のほうを、悲しんでいる。
人々には、ダビデのこの対応は、理解し難いものだっただろう。
そこでヨアブは諫言する。

『あなたは、きょう、あなたの命と、あなたのむすこ娘たちの命、およびあなたの妻たちの命と、めかけたちの命を救ったすべての家来の顔をはずかしめられました。それはあなたが自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、軍の長たちをも、しもべたちをも顧みないことを示されました。きょう、わたしは知りました。もし、アブサロムが生きていて、われわれが皆きょう死んでいたら、あなたの目にかなったでしょう。』(2サムエル記19:5-7)
ヨアブが言った事は、正論である。
戦士たちは、町で待機していたダビデや彼の妻、息子娘のために、危険な戦場で戦ったのに、そんな彼らの献身と努力を一切無視するかのような行為を、ダビデはしているのである。
むしろダビデには、敵であるアブシャロムの命ほうが、自分達の命よりも大切であるかのように見た人もいただろう。

ところで、ヨアブのこの正論よりも前に、忘れられている事が無いだろうか。

ダビデは戦う前から、息子アブシャロムをゆるやかに扱って欲しい、と、全員に願っていた。
アブシャロムは、自ら木に引っかかって宙吊りになってしまうという、ヨアブが生け捕りにしようと思えば、いくらでも出来た状況だったのに、彼は無防備なアブシャロムの心臓を槍で貫き、10人がかりでなぶりものにし、彼の死体を、ほら穴に投げ込み、その上に石くれの山を積み上げた。
敵を打ち取る事、クーデターを起こした謀反者に制裁を加える事、それはヨアブにとって「正義」だったかもしれないが、しかし明らかに命令違反であり、ダビデの意図を踏みにじる行為だ。

『今立って出て行って、しもべたちにねんごろに語ってください。わたしは主をさして誓います。もしあなたが出られないならば、今夜あなたと共にとどまる者はひとりもないでしょう。これはあなたが若い時から今までにこうむられたすべての災よりも、あなたにとって悪いでしょう」。』(2サムエル記19:7)
ヨアブは、自分が「してしまった事」に一切触れる事無く、悪びれる事も悔む事も無く、あたかも自分は完全に正しくてダビデが間違っており、自分は、部下全体の総意を伝えているかのような。
しかも、自分の言うとおりしないなら、あなたは今までにない非道い災いが降る、とまで、半ばおどすような発言もしている。

確かにダビデの対応は、部下の心を離れさせる行為であった。
しかしここで一つはっきりした事は、ヨアブは主君・ダビデを軽んじており、ダビデの命令を聞かないばかりか、自分が聞かなかった事について一切言及する事なく、むしろ半ば脅すような形で指示までしている。
『しもべは言葉だけで訓練することはできない、彼は聞いて知っても、心にとめないからである。・・・しもべをその幼い時からわがままに育てる人は、ついにはそれを自分のあとつぎにする。』(箴言29:19-21)

『そこで王は立って門のうちの座についた。人々はすべての民に、「見よ、王は門に座している」と告げたので、民はみな王の前にきた。』(2サムエル記19:8)
ダビデは、ヨアブが命令違反した事について、また、自分がした事について、全く悪びれない様子に対し、特に何かをした、という記述は無い。
ただヨアブの進言どおりを、無言でそのまま実行したが、ダビデはヨアブを、もう将軍の座から降ろそうという決心があった。

さて、クーデターを起こしたアブシャロムの側についていた大多数の人達は、アブシャロムのあっけない死の故に、混乱状態にあった。(2サムエル記19:8-10)
彼らは議論している。
ダビデは昔からイスラエルのために体を張って戦い、自分たちをペリシテから救ってくれていたではないか、それなのに、自分達は浅はかにも、若く美しくて勢いのあるアブシャロムへとなびいて、彼を王とし、そうしてダビデに反逆してしまった。
そのアブシャロムがあっけなく死んでしまった今、唯一イスラエルを導いてくれるべき王は、ダビデしかいない。しかし彼は、遠い地に逃れている。
また、ダビデはこれから自分達・アブシャロム側についた「反乱軍」に、どのように出るかも分からない。

ダビデは、そんな気まずい思いをして手をこまねいている彼らに、明快な方向性を示す。
『ダビデ王は祭司たちザドクとアビヤタルとに人をつかわして言った、「ユダの長老たちに言いなさい、『全イスラエルの言葉が王に達したのに、どうしてあなたがたは王をその家に導きかえる最後の者となるのですか。あなたがたはわたしの兄弟、わたしの骨肉です。それにどうして王を導きかえる最後の者となるのですか』。』(2サムエル記19:11-12)
ダビデはまず、自分の身内であるユダ族に言う。
あなたがたが何を議論しているか、自分は知っている、それなら早くわたしを迎えに来なさい、と。
そればかりではない。

『またアマサに言いなさい、『あなたはわたしの骨肉ではありませんか。これから後あなたをヨアブに代えて、わたしの軍の長とします。もしそうしないときは、神が幾重にもわたしを罰してくださるように』」。』(2サムエル記19:13)
アマサは、ダビデとは遠い親類関係にあったが、ダビデの敵軍の長としてアブシャロムに任命された者である。(17:25)
つまり、ついさっきまで、ダビデの命を狙っていた側の将だ。
そんなアマサに、ダビデは言う。ヨアブを軍団長の座から降ろし、彼に代わってあなたを長としよう、と。
この、驚くような恵みの決定は、アブシャロムの側についていた人々を、どんなに安心させた事だろう。

アブシャロムは確かに人身操作術には長けていたかもしれない。
しかし、彼にくみした軍師アヒトペルが自殺してしまうようような、どこか心遣い無しな所があった。
それに引き換え、ダビデには、愛と憐れみ、赦しと温かみがあった。
『こうしてダビデはユダのすべての人の心を、ひとりのように自分に傾けさせたので、彼らは王に、「どうぞあなたも、すべての家来たちも帰ってきてください」と言いおくった。そこで王は帰ってきてヨルダンまで来ると、ユダの人々は王を迎えるためギルガルにきて、王にヨルダンを渡らせた。』(2サムエル記19:14-15)

アブシャロムの謀反によって、無秩序に陥ってしまったイスラエルを、ダビデは憐れみと赦しの采配によって和解をもたらし、平和の内に、秩序を回復させて行った。
この、愛と憐れみと赦しの采配は、まさしく、イエス・キリストの采配である。
私達も、ダビデが示したキリストの性質・愛と憐れみ、赦しを身に着けて行きたい。

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