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華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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- pastor 2015-10-1 23:40
華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。
『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。
木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)
『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。
『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。
『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。
『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。
私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。
海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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- 執筆 :
- pastor 2015-9-30 18:10
イザヤ書講解説教メッセージ
海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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【概要】
本日のメッセージは、イザヤ書21章1〜10節と黙示録18章の預言を通して、神の義なる裁きと正しい生き方への呼びかけを語ります。バビロンの滅亡の預言や、信者に対する戒め、励まし、悔い改めの促しが込められています。
【聖書箇所】
・イザヤ21:1-10
・黙示録18章
【戒めの言葉】
神は不正や不品行に満ちた世の制度を断罪され、誇り高く堕落した者たちには厳しい裁きが下されます。私たちは日々の生活の中で、偶像崇拝や不正な取引、自己中心的な行いを改める必要があります。
【励ましの言葉】
たとえ今の世の中が混迷し、あふれる悪に心が揺れるとしても、神は決してご自分の民を見捨てられません。正しい行いと忍耐によって、私たちはいつか神の光り輝く御国に迎え入れられるのです。
【悔い改めの促しの言葉】
自身の罪や過ちに気づいたならば、真摯に悔い改め、心を整え神に立ち返る勇気を持ちましょう。神の恵みは、悔い改める者すべてに与えられる恵みの道しるべです。
【***詳細***】
今日、私たちはまずイザヤ書21章1〜10節の美言葉から、神の啓示を受けるためにその御言葉に耳を傾けます。「海の荒野に対する宣告」という導入の言葉は、荒涼とした地に吹き荒れるつむじ風のような恐ろしい力が迫っていることを示しているのです。イザヤは、この荒野と称される場所に、神の厳しい裁きが下されることを預言として語っています。私たちはこれを神が与えられた真実の言葉として受け止め、日々の心を整え、謙虚に神に立ち返るべきであると改めて教えられます。
説教の中盤では、イザヤが語る預言は、かつてバビロンとして知られた国の未来やその運命と深く結びついています。バビロンは、チグリスとユーフラテスに挟まれ、肥沃な土地と同時に荒廃の影をも持つ国として描かれており、そこでは高慢な商人たちや堕落した生活があふれていました。イザヤは、そのバビロンがいまだ大国として成立していない時代に、将来大いなる国へと成長し、やがて神の裁きを受ける運命にあることを明確に示されました。預言者自身は、当時の政治情勢―アッシリアの圧力や国々の罪深い行い―を前に、深い悩みと恐れを抱きながらも、神の啓示に従い、真実を伝える苦しみを味わっていました。
また、イザヤの預言は、単に古代の歴史的事実を語るにとどまらず、現代に暮らす私たちに対する警告とも受け取ることができます。今日の社会においても、不正な取引や愛欲、誇り高い生き方が横行し、まるであの荒廃したバビロンのような状況が見受けられます。神はそのような世の堕落に断固として立ち向かわれるお方であり、私たち信者もまた、戒めと自己反省の心を持ち続けるべきだということを預言の中から学ばせていただきます。
説教の中盤部ではさらに、イザヤによる幻の中で示された恐ろしいビジョンが詳しく語られます。幻の中で、預言者はある苦しみと心の乱れを体験します。まるで、女の出産に似た苦痛―それは神からの重大な警告の証であり、罪のない民の血が流される悲劇を予告するものでした。人々は、堕落や裏切りに満ちた生活を送る中、その破滅の日がいずれ訪れることに気づかず、慶事に耽るばかりでした。物見の塔に登り、騎兵や戦車の動向を目にする中で、勇ましい兵士たちは神の裁きを告げる鐘のように、注意を促されるのです。ここでの預言は、ただ単にバビロンという古代都市の運命を告げるだけでなく、どんなに華やかな生活があったとしても、神の正義は必ず成就するという普遍の真理を示しています。
説教は次第に、ぼんやりとした過去の出来事から今日の現実、さらには将来に向けた啓示へと展開していきます。私たちの目の前には、旧約の預言と同様に、新約の黙示録18章に記された、バビロンの最終的な滅亡と裁きの光景があります。黙示録では、バビロンが不信仰に溺れた結果、神の怒りによって断罪される様子が詳細に描かれています。地上の商人たちは、その豪華な生活と不正な取引のために大いに悲しみ、国々の民はその深い裏切りに対して激しい怒りを示します。偶像崇拝と高慢な態度によって栄えたその都市は、やがて血と涙と苦悩の中で滅び、神の正義の現れとして、すべての民にその教訓を与えるのです。
このような聖書の預言の言葉は、私たちに現代のあらゆる堕落と不正に対しても、変わることのない神の裁きがあることを思い出させます。同時に、信者として私たちは、自らの心を清め、罪を悔い改め、日々の生活の中で正しい行いを積み重ねることを求められているのです。悔い改めることは決して恥ずかしいことではなく、神の恵みによって救われるための大切な一歩であります。また、私たちが正しい道を歩むとき、神はその正義と慈愛によって、私たちの肉体的な試練や迫害をも救い、最終的には花嫁として光り輝く姿で天に迎え入れてくださるのです。
説教の後半では、今日の世界の現状にも目を向けられます。中東やその他の地域では、権力争いや不正な武器取引が日常的に行われ、悪徳な者たちが交錯する中で、信者が迫害され、血が流されるという悲劇が現実のものとなっています。聖書に描かれるバビロンの破滅の予告は、現代においても真実として重みを持ち、私たちに「今こそ心を整え、神に立ち返るべき時である」という戒めのメッセージを与えているのです。悪徳な力に取り巻かれる世界で、私たちが守るべきは、常に正義と真実、そして神に基づく愛ある生き方です。不正が横行する中で、信者たちは互いに助け合い、励まし合いながら、神の教えの下で自らの使命を果たしていく必要があります。
最後に、黙示録18章に記された裁きのビジョンが語られた部分では、バビロンの都が突然滅び、その街に染み付いた罪の血や、不正な取引によって得られた富が、すべて神の前で裁かれる様子が力強く描かれています。そこでは、神の生徒たちが立ち上がり、その正しい行いと忍耐、そして悔い改めの心をもって、真の花嫁のような姿で天に迎え入れられる日が約束されているのです。私たちは、日々の生活の中で自らの内面と向き合い、神の前に謙虚になること、また、迫害や誘惑に対して堅固な意志で立ち向かうべきであると強く訴えられています。
このように、イザヤ書と黙示録の預言は、古代の出来事に留まらず、現代の私たち一人ひとりに大切な示唆を与えています。不正と堕落がはびこる世の中においても、神は必ず御心にかなう者を導き、最終的にはすべての悪を裁かれるお方です。私たちは、毎日の生活の中で正しい道を歩むために、悔い改めと自己反省を怠らず、忍耐強く神の御言葉に従うよう努めるべきです。たとえ厳しい試練が待っていたとしても、神の約束は決して揺らぐことはなく、未来に希望と光があることを信じ、歩みを進めるのです。
【結論】
バビロンの滅びと神の正義の預言は、今の私たちに自らの生き方を改める大切な機会を与えています。正しい行い、悔い改め、そして忍耐をもって日々を過ごすことで、私たちは神の御言葉にふさわしい光り輝く花嫁として、永遠の救いに迎え入れられるのです。主イエスキリストのお名前によって祝福されるよう、今日も心新たに歩んでいきましょう。
勝っても負けても悲しみしか無い戦い(2サムエル記18:1-8)
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主がダビデを助ける人々をちょうど良い時に遣わして下さったお陰で、ダビデは、物資面でも、人においても、物事においても、必要な助けを得て、迫ってくるアブシャロムに対し態勢を整える事が出来た。
『さてダビデは自分と共にいる民を調べて、その上に千人の長、百人の長を立てた。そしてダビデは民をつかわし、三分の一をヨアブの手に、三分の一をゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイの手に、三分の一をガテびとイッタイの手にあずけた。』(2サムエル記18:1-2)
ヨアブとアビシャイは、かねてから軍団長として活躍していたが、ダビデはさらに、ガテ人イッタイも軍団長として採用した。
ガテ人イッタイがダビデを慕ってエルサレムに来た時、その次の日にダビデは都落ちしてエルサレムを出て行ったにもかかわらず、ダビデについて行くという誠実を示した。
『こうして王は民に言った、「わたしもまた必ずあなたがたと一緒に出ます」。しかし民は言った、「あなたは出てはなりません。それはわれわれがどんなに逃げても、彼らはわれわれに心をとめず、われわれの半ばが死んでも、われわれに心をとめないからです。しかしあなたはわれわれの一万に等しいのです。それゆえあなたは町の中からわれわれを助けてくださる方がよろしい」。王は彼らに言った、「あなたがたの最も良いと思うことをわたしはしましょう」。』(2サムエル記18:2b-4)
ダビデはかつて、皆が戦いに出ている間、彼だけは王宮に残り、夕暮れ時に目覚めて、女性が体を洗っている姿に欲情を燃やし、彼女が人妻であるにも関わらず姦淫し、その夫を殺すという罪を犯したが、もう、その時のダビデとは違っていた。
ダビデは元々、戦いの時は、人々の先頭に立って戦いに出ていたものだが、そのダビデに戻っている。
ダビデは今回、いのちをかけて戦いに出る彼らと、一緒に行きたかったのだが、人々はそれを許さなかった。
なにしろ今回の戦いは、相手が狙うのは領土や金銀ではなく、ダビデただ一人の命であり、ダビデさえ死ねばアブシャロムのクーデターが成功するのだから。
『王はヨアブ、アビシャイおよびイッタイに命じて、「わたしのため、若者アブサロムをおだやかに扱うように」と言った。王がアブサロムの事についてすべての長たちに命じている時、民は皆聞いていた。』(2サムエル記18:5)
ダビデはもしかすると、アブシャロムがアムノンを殺して逃亡して以来、ずっとアブシャロムを気にかけ、心配していたのかもしれない。
そもそも、ダビデがアブシャロムに命を狙われるようになったのは、彼の身から出た錆的な所が大きい。
ダビデは、姦淫と殺人という「いのち」に対する罪を犯した故に、彼の身から生まれた「いのち」達から間接的に反撃を受け、自分の身内を性的に辱めたり、殺したり、クーデターを起こされたりしたのだ。
つまり、ダビデが犯した「いのち」を冒涜した罪の報いの道具として、自分の子が用いられてしまったのだ。
そして、もし「子」が、親であるダビデに対して反逆したり、性的にしてはならぬ事をしたりするなら、その刈り取りは当然、それを為した「子」が受けなければならない。
父・ダビデとしては、自分の子から実際的に命を狙われたり、また、子が犯してしまう罪のゆえに、子がその滅びの刈り取りをしなければならない事とに、心が引き裂かれる思いだっただろう。
だからダビデは、戦いに出て行く人々に、アブシャロムを穏やかに扱って欲しい、と懇願するのだが、しかし人々からすれば、アブシャロムは王に反逆した敵であり、一刻も早く倒したい相手だった。
ダビデにとっては、勝っても負けても痛みを伴う、実に複雑な状況である。
こうして戦端は切って落とされたが、主はダビデに有利に働かれた。
『民はイスラエルに向かって野に出て行き、エフライムの森で戦ったが、イスラエルの民はその所でダビデの家来たちの前に敗れた。その日その所に戦死者が多く、二万に及んだ。そして戦いはあまねくその地のおもてに広がった。この日、森の滅ぼした者は、つるぎの滅ぼした者よりも多かった。』(2サムエル記18:6-8)
ダビデの軍の剣によって滅んだ者よりも、森によって滅ぼされた者が多く出た、という事は、主がダビデに味方し、アブシャロムに敵対された、という事に他ならない。
ダビデとしては、勝っても負けても心痛い戦いだっただろう。
しかし主は、人の思いを遥かに超えた最善が何であるかをご存知であり、ただ、神の正しい義のみを遂行される。
次から次へと助けが遣わされたダビデの性質(2サムエル記17:15-29)
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- pastor 2015-9-28 6:10
次から次へと助けが遣わされたダビデの性質(2サムエル記17:15-29)
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『そこでホシャイは祭司たち、ザドクとアビヤタルとに言った、「アヒトペルはアブサロムとイスラエルの長老たちのためにこういう計りごとをした。またわたしはこういう計りごとをした。それゆえ、あなたがたはすみやかに人をつかわしてダビデに告げ、『今夜、荒野の渡し場に宿らないで、必ず渡って行きなさい。さもないと王および共にいる民はみな、滅ぼされるでしょう』と言いなさい」。』(2サムエル記17:15-16)
ホシャイは速やかにダビデに報告するために、メッセンジャーを遣わした。
アブシャロムが、いつまたアヒトフェルの助言を採用してしまうか、分からないからだ。
このダビデへの二人の伝令は、アブシャロムに属する若者に見られていまい、追われる事となってしまう。
『彼らふたりは急いで去り、バホリムの、あるひとりの人の家にきた。その人の庭に井戸があって、彼らはその中に下ったので、女はおおいを取ってきて井戸の口の上にひろげ、麦をその上にまき散らした。それゆえその事は何も知れなかった。アブサロムのしもべたちはその女の家にきて言った、「アヒマアズとヨナタンはどこにいますか」。女は彼らに言った、「あの人々は小川を渡って行きました」。彼らは尋ねたが見当らなかったのでエルサレムに帰った。』(2サムエル記17:18-20)
ダビデ達を助ける人は、ここでも現れた。
ダビデは以前から、行く先々で恵みと憐れみのわざを人々にする事を常として来たため、いざという時に彼を助けてくれる人が沢山いるのだ。
例えば、ダビデがサウル王に追われていた時代、ナバルの羊飼い達と共に過ごした時でも、ダビデ達はナバルの羊飼い達のため盾となり、持ち物がなくならないように気を遣ってやった。
ナバルは、そんなダビデの恩を、仇で返したが、主はナバルを打たれ、そして夫のナバルに代わってダビデに恩を返したアビガイルは、ダビデの嫁となり後には王妃となる幸いにあずかった。
主を頼りとしている人達に良い事で返すなら、その人には良い報いが返って来るが、仇で返すなら、それ相当の報いがその人に帰ってくるのだ。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)
『彼らが去った後、人々は井戸から上り、行ってダビデ王に告げた。すなわち彼らはダビデに言った、「立って、すみやかに川を渡りなさい。アヒトペルがあなたがたに対してこういう計りごとをしたからです」。そこでダビデは立って、共にいるすべての民と一緒にヨルダンを渡った。夜明けには、ヨルダンを渡らない者はひとりもなかった。』(2サムエル記17:21-22)
ダビデに伝える二人の伝令は、こうして無事、ダビデの所に情報を届ける事が出来、こうしてダビデ達は、一人も損なわれる事なく無事にヨルダンを渡る事が出来た。
悪しき者は主の民に色々と企み、次から次へと攻勢をかけてくるが、主は、主に信頼して御言葉に歩む人には、人を通じ、あるいは自然現象を通じ、時には、自然を超越した現象を起こしてでも働かれ、守られるのだ。
『アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。』(2サムエル記17:23)
アヒトペルは、「神の御告げ」のような計りごとをめぐらす人だったが、その計りごとは、自分のいのちをながらえさせる事が出来なかった。
彼が自ら首をくくった理由は「自分のはかりごとが行われないのを見て」だった「自分の思い通りに行かないなら、死んだほうがましだ」という理由で自殺をするなら、ダビデは一体何度、自殺するような場面があっただろう。
イスカリオテのユダも、アヒトペルのように首をっくくって死んだが、彼も、イエス様が自分の思い通りに行かないから、というのが、裏切りの発端だった。
自分の思いや計りごとを、あくまで執着するなら、自分で自分の首を締めてしまうものだ。
しかしキリスト者は、自分の計りごとを降ろし、主の前に服従させ、そうして、誰にも出来ないような勝利を勝ち取れる人々である。
『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』(2コリント10:5-6)
ダビデには、さらに助ける人が現れる。
『ダビデがマハナイムにきた時、アンモンの人々のうちのラバのナハシの子ショビと、ロ・デバルのアンミエルの子マキル、およびロゲリムのギレアデびとバルジライは、寝床と鉢、土器、小麦、大麦、粉、いり麦、豆、レンズ豆、蜜、凝乳、羊、乾酪をダビデおよび共にいる民が食べるために持ってきた。それは彼らが、「民は荒野で飢え疲れかわいている」と思ったからである。』(2サムエル記17:27-29)
ダビデを助けた一人目は、ナハシの子ショビである。
ナハシは生前、ダビデと親しい交流があったアモン人の王であったが、その子・ハヌンは、ダビデの恩に仇で返した。(10章)
しかしショビは、ダビデの恩に恩で報いた。
ショビとハヌン。同じナハシという親から生まれたのに、一方はダビデに恩を返し、一方はダビデを辱めた。それと同じように、同じ肉の親から生まれても、一方はキリストに恩を返し、他方はキリストを辱める、という事は、あるのだ。
ダビデを助けた二人目のマキルは、サウル家のヨナタンの子・メフィボシェテを養った人である。(9章)
きっと彼は、メフィボシェテに憐れみをかけ、王の食卓で彼を養ってくれたダビデに対し、恩を報いたのだろう。
また、バルジライは19章で詳しく記されているが、彼は非常に裕福で、ダビデ達がマハナイムにとどまっている間、彼らを養った。
それでダビデが幸いを得た時、彼を祝福し、豊かに報いる。(19章)
ダビデは行く先々で、人々に平和に接し、憐れみをほどこした。
悪い事をしていないのに命を付け狙われてる事があっても、悪で返す事をせず、善で返して来た実績がある。
だからダビデは、神と人とに愛され、彼を助ける人が後を絶たなかったのだ。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。・・・・義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:5-10)
このように、ダビデを助ける人達が、次から次へと現れたおかげで、アブシャロム達がヨルダンを渡って来る頃には、ダビデ達は物資面でも充実し、戦いの準備もしっかり整える事が出来た。
それに引き換え、アブシャロムに従っている人は、アブシャロムの美しさや魅力、勢いの良さ、頭の良さを見て一緒になる人が多かった。
つまり、彼と一緒にいる事のほうが今後都合が良いといった「損得勘定」で彼に従う人が多かった。
もしアヒトペルが、アブシャロムを愛し慕っていたとするなら、自分の計りごとが一度採用されなかったからと言って、早急に自殺してしまうような事は、しなかっただろう。
地を相続する人とは、外見や口先の言葉が美しい人ではなく、柔和な人である。
いざという時に憐れみを受けられる人は、普段から憐れみ深い人である。
神の子と呼ばれる人は、神のお告げのような計りごとを語る人ではなく、平和をつくる人である。
天国を相続する人とは、時代のトレンドに合わせて主人や主張を変える者ではなく、迫害されても、なお義を貫く人である。
将来と希望の預言が成就せず災いが成就してしまうケース(イザヤ19:16-20:6)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-9-26 1:54
イザヤ書講解説教メッセージ
将来と希望の預言が成就せず災いが成就してしまうケース(イザヤ19:16-20:6)
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【概要】
本日の御言葉は、イザヤ書19章16節〜20章6節およびエレミヤ書29章11節〜12節から、エジプトをはじめとする国々に対する神の裁きと、真に主へ立ち返るなら救いと祝福が与えられるという希望のメッセージを学びます。人は偶像や人間の力に頼るとき、いずれ真実の救いを見失うが、真心から主に従えば必ず神の慈悲が現れることを示しています。
【聖書箇所】
・イザヤ書19:16-20:6
・エレミヤ書29:11-12
【戒めの言葉】
自らの誤った信仰や偶像に頼る姿勢を断ち切り、偽りに頼ることの危険性を厳しく戒め、主に立ち返る決意を促しています。
【励ましの言葉】
主に従い、悔い改めた者には、いかなる困難の中でも救いと平安、将来への希望が与えられるという確かな励ましが伝えられています。
【悔い改めの促しの言葉】
過去の誤りや罪深い行いを、深い悔い改めによって清め、心を新たに主の御名に身を委ねるよう、私たちに強く求められています。
【***詳細***】
本日私たちが頂戴する恵みの御言葉は、イザヤ書19章16節〜20章6節に記されている、エジプトに対する預言です。ここで神は、エジプトの民が自らの偽りの神々や偶像、そして霊媒や口寄せといった人間の知恵に頼り、安心感を得ようとしていたことに対し、厳しい裁きを宣告します。冒頭では「その日、エジプトの民は万軍の主が振り上げる裁きの光景を目にし、深い恐れに襲われる」と告げられ、民は恐怖に陥ります。これは、ただ単に罰を与えるためではなく、悔い改めと主への立ち返りを促すための御措置なのです。
また、イザヤ書の後半部分では、エジプトに一度は厳しい災いが予告されるものの、最終的には主に立ち返ることで真実の救いと祝福が約束されると語られています。この変転は、エジプトのみならず、私たち一人一人の生活にも深く関係しています。どんなに国や個人が自らの力や偶像に頼っても、その頼りは限りあるものであり、決して永遠の安心をもたらすものではありません。むしろ、私たちが心から救い主であるイエス・キリストに立ち返り、御言葉に従順であれば、神は必ずや慈愛深い恵みをもって私たちを救い、未来に希望ある平安を与えてくださるのです。
さらに、エレミヤ書29章11節〜12節の御言葉は、神が私たち一人一人のために、災いではなく平安と希望に満ちた計画を立てておられると明言しています。「わたしはあなた方のために立てている計画をよく知っている。それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」というこの御言葉は、現代に生きる私たちにも深い安心と励ましを与えてくれます。困難な局面に立たされるたび、また世の中の混乱や不安の中で、私たちは偶像や自己の力に頼りがちですが、本当の救いは神の御言葉に従う信仰の中にあるのだと示されています。
預言者イザヤがかつて、救いの印として自身が裸になって裸足で三年間エジプトを歩いたという行為は、単なる奇行ではなく、神から与えられた生きたメッセージでした。彼は、この行いを通して、エジプトの民に対し「真の救いは、自分自身の力や偶像に頼るのではなく、主へ立ち返ることにある」という厳粛な警告を伝えようとしました。イスラエルの民は、イザヤのその姿を目の当たりにし、真摯に心を改めるべき時が来たことを悟りました。一方で、悔い改めずに自分を信頼し続けた者たちは、いずれ神の正義の裁きに遭い、罪の代償を受ける運命にあるという戒めが込められています。
この御言葉は、単に古代のエジプトに関する預言にとどまらず、私たち現代人にとっても多くの示唆が込められています。具体的には、家庭や社会、国家において、私たちが偶像や人格主義、自己中心的な考え方に頼るならば、いずれそれらは裏切り、不完全なものとして露呈するという現実を思い起こさせます。だからこそ、私たちは常に主に立ち返り、真の救いと平安を追い求めることが大切です。神は、どのような状況にあっても、本当に心から悔い改める者を決して見放すことはありません。むしろ、そのような者に対しては、時間や状況を超えて確固たる祝福と希望をお与えになるのです。
さらに、教会という共同体において互いに励まし合い、神の御言葉に従って生活することが、私たち個々の信仰をより強固なものにしていきます。信仰を持つ仲間と共に集い、祈り、そして御言葉を学ぶことは、個々人が立ち返る勇気を持ち、日常生活で神の御導きを受け取るために非常に重要な意味を持ちます。互いの悔い改めと賛美の中で、神から与えられる希望と未来の計画が、具体的な形として現れるのです。
最後に、私たちに対する神の呼びかけは、「自らの罪を認め、心の奥底から悔い改めよ。そして、真実に主に立ち返り、御言葉に従い歩むならば、あなたの人生に真の救いと祝福が訪れる」というものです。今日の御言葉を通して、私たちは自分自身の内面を省み、どんな時も神の慈愛と導きを求める決意を新たにするべきです。たとえ一時の過ちや傲慢があったとしても、主はいつでも私たちを迎え入れ、真に救いへと導いてくださいます。
【結論】
神の計画は、私たちが自らの誤りを悔い改め、真心から主に立ち返るならば、どんな災いも救いと祝福へと変えるという普遍的な真実です。今日の御言葉を胸に刻み、日々の生活の中で主の御声に耳を傾け、謙虚な心で従順に歩むことを誓いましょう。主イエス・キリストのお名前によって、皆さんに平安と希望、そして無限の祝福が豊かに注がれますように。アーメン。
人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
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- pastor 2015-9-25 19:26
人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
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アヒトペルは、アブシャロムにダビデのめかけ達と公然と寝るよう助言し、ダビデを大いに侮ってアブシャロムに味方する者たちの士気を大いに上げたが、彼は間髪を入れずに、次の助言をする。
『「わたしに一万二千の人を選び出させてください。わたしは立って、今夜ダビデのあとを追い、彼が疲れて手が弱くなっているところを襲って、彼をあわてさせましょう。そして彼と共にいる民がみな逃げるとき、わたしは王ひとりを撃ち取り、すべての民を花嫁がその夫のもとに帰るようにあなたに帰らせましょう。あなたが求めておられるのはただひとりの命だけですから、民はみな穏やかになるでしょう」。この言葉はアブサロムとイスラエルのすべての長老の心にかなった。』(2サムエル記17:1-4)
つまり、ダビデは今、とても意気消沈し疲れているから、この機を逃さずに急襲しましょう、今ならやすやすと攻め落とせるでしょうから、と。
これは実際、「良い計りごと」だった。(14節)
ダビデ達は実際、心も体も疲れていたし民を連れていて無防備状態である。この機に攻め込まれたなら、ひとたまりもないだろう。
しかし、全ての人のいのちを司る主は、ダビデを守る事が御心であった。
なぜなら、ダビデは主を敬い主に依り頼んでいたのに対し、アヒトペルとアブシャロムは、主と御言葉とを、軽んじていたからだ。
主は、知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを、むなしいものにされる。(1コリント1:19)
アヒトペルがせっかく”良い計りごと”をしたのに、アブシャロムは、余計な提案をする。それも、どれ程余計だったかというと、彼の生死を分けてしまう程の。
『そこでアブサロムは言った、「アルキびとホシャイをも呼びよせなさい。われわれは彼の言うことを聞きましょう」。』(2サムエル記17:5)
アブシャロムは、ホシャイにも伺おうと言って彼を呼び出すのだが、ホシャイはダビデから遣わされたスパイである。
アブシャロムの提案は、ダビデ達にとって有利な、そして自分達にとって不利な事だった。
『ホシャイがアブサロムのもとにきた時、アブサロムは彼に言った、「アヒトペルはこのように言った。われわれは彼の言葉のように行うべきか。いけないのであれば、言いなさい」。』(2サムエル記17:6)
ホシャイはアヒトペルの計りごとを聞いて慄いただろう。
もし彼の計りごとが速やかに遂行されるなら、今、無防備なダビデ達は、ひとたまりもないだろう、と。
そこでホシャイは、ダビデ達にとって有利で、なおかつ、聞く人全てを納得させるような計りごとを立てる。
『ホシャイはアブサロムに言った、「このたびアヒトペルが授けた計りごとは良くありません」。ホシャイはまた言った、「ごぞんじのように、あなたの父とその従者たちとは勇士です。その上彼らは、野で子を奪われた熊のように、ひどく怒っています。また、あなたの父はいくさびとですから、民と共に宿らないでしょう。彼は今でも穴の中か、どこかほかの所にかくれています。』(2サムエル記17:7-9a)
ホシャイは、アヒトペルとは真逆の解釈を展開する。
すなわち、ダビデは疲れて意気消沈しているのではなく、アブシャロム達が自分達をはずかしめた事によって、子を奪われた熊のように怒り心頭である、そして、戦いに熟練したダビデなら、きっとアブシャロム達の虚を突いて、少なからぬ被害が出るだろう、と。
『もし民のうちの幾人かが手始めに倒れるならば、それを聞く者はだれでも、『アブサロムに従う民のうちに戦死者があった』と言うでしょう。そうすれば、ししの心のような心のある勇ましい人であっても、恐れて消え去ってしまうでしょう。それはイスラエルのすべての人が、あなたの父の勇士であること、また彼と共にいる者が、勇ましい人々であることを知っているからです。』(2サムエル記17:9-10)
続いてフシャイは、アブシャロムの内にあるわずかな心配を、巧妙に突く。
アブシャロムは、策略家であったかもしれないが、戦いには熟練していない。
いかに今はおとなしいダビデとは言え、子はどこかしら、父の怒りに対する恐れを持っているものである。
『ところでわたしの計りごとは、イスラエルをダンからベエルシバまで、海べの砂のように多くあなたのもとに集めて、あなたみずから戦いに臨むことです。こうしてわれわれは彼の見つかる場所で彼を襲い、つゆが地におりるように彼の上に下る。そして彼および彼と共にいるすべての人をひとりも残さないでしょう。もし彼がいずれかの町に退くならば、全イスラエルはその町になわをかけ、われわれはそれを谷に引き倒して、そこに一つの小石も見られないようにするでしょう」。』(2サムエル記17:11-13)
いかに戦いに長けたダビデとは言え、圧倒的多数での物量作戦に出るなら、ひとたまりもないだろう、と。
しかも、アブシャロム自らが陣頭指揮を取って、大軍を率い勝利する。それはアブシャロム自身のプライドをくすぐる作戦でもある。
『アブサロムとイスラエルの人々はみな、「アルキびとホシャイの計りごとは、アヒトペルの計りごとよりもよい」と言った。それは主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。』(2サムエル記17:14)
そう、本当なら、ホシャイよりもアヒトペルの計りごとのほうが、良かったのだ。
しかし、アヒトペルの計りごとを虚しいものにしたのは、主である。
「主が」アブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められた・・・。
久しぶりに、主ご自身が働かれた記述を見た。
主のわざはそれまで、人間の罪やはかりごとによって、表に出られない状態だった。
人が自分の力、自分のはかりごとを巡らしてそれを通そうとしている内は、主の力は働かれない。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)
主は、ダビデのたった一言の祈り、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください(15:31)」に応え、動き出された。
自分の力や計りごとを全て主の前に投げ出し、主に祈る事こそ、主の力を引き出す鍵である。
アブシャロムの華々しいリベンジ(2サムエル記16:15-23)
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- pastor 2015-9-24 23:50
アブシャロムの華々しいリベンジ(2サムエル記16:15-23)
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『さてアブサロムとすべての民、イスラエルの人々はエルサレムにきた。アヒトペルもアブサロムと共にいた。』(2サムエル記16:15)
ダビデが去ったエルサレムの都に、アブシャロムが新しい王として入城した。
アブシャロムの所には、アヒトペルもいる。彼は天才的な助言をするため、ダビデにとっては脅威だ。
それでダビデは、アヒトペルの助言を無効化するため、彼の友であり相談役のホシャイを、アブシャロムに接近させる。
『ダビデの友であるアルキびとホシャイがアブサロムのもとにきた時、ホシャイはアブサロムに「王万歳、王万歳」と言った。アブサロムはホシャイに言った、「これはあなたがその友に示す真実なのか。あなたはどうしてあなたの友と一緒に行かなかったのか」。
ホシャイはアブサロムに言った、「いいえ、主とこの民とイスラエルのすべての人々が選んだ者にわたしは属し、かつその人と一緒におります。かつまたわたしはだれに仕えるべきですか。その子の前に仕えるべきではありませんか。あなたの父の前に仕えたように、わたしはあなたの前に仕えます」。』(2サムエル記16:16-19)
アブシャロムは最初、疑っていた。しかしホシャイは、知恵深く答え、彼はわずかな言葉でアブシャロムの信用を勝ち得た。
『そこでアブサロムはアヒトペルに言った、「あなたがたは、われわれがどうしたらよいのか、計りごとを述べなさい。』(2サムエル記16:20)
もしダビデだったなら、人にではなく、真っ先に主に伺うために神の宮に入って行っただろう。
しかしアブシャロムは、エルサレムにある神の箱も、主の祭司も、全く見向きせず、人のはかりごとに真っ先に聞いた。
前にも見た通り、アヒトペルはバテ・シェバの祖父、ウリヤの義理の祖父である。(23:34、11:3)
彼はダビデに対する憎しみもあったろう。なにしろ、孫娘を不倫の対象とされ、孫の一家を破壊されたのだから。
そこでアヒトペルは、性的な面でダビデを辱める行動を助言する。
『アヒトペルはアブサロムに言った、「あなたの父が家を守るために残された、めかけたちの所にはいりなさい。そうすればイスラエルは皆あなたが父上に憎まれることを聞くでしょう。そしてあなたと一緒にいる者の手は強くなるでしょう」。こうして彼らがアブサロムのために屋上に天幕を張ったので、アブサロムは全イスラエルの目の前で父のめかけたちの所にはいった。』(2サムエル記16:21-22)
こうしてダビデのめかけ達は、公然と陵辱されてしまった。
まさしく、ナタンが預言していた通りである。
『あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(12:10-12)
ダビデは今、まさに剣に追われており、そして、ダビデが罪を犯す発端となった、あの屋上で、今度は彼自身が性的な報復をおおっぴらな形で受ける事になってしまった。
主は、悔い改めたダビデの罪を見過ごしにし、死なないようにしては下さった。
しかし、犯した罪の報いは受けなくてはならないものであり、ダビデは今まさにそれを受けているわけである。
アブシャロムに組していた人々は、気勢を上げただろう。
特に、性的な冗談や嘲りは、世的な事柄に興味を持っている人々を、大いに盛り上がらせるものだ。
『そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった。アヒトペルの計りごとは皆ダビデにもアブサロムにも共にそのように思われた。』(2サムエル記16:23)
アヒトペルは、確かに天才的な計りごとをしたかもしれないが、あいにく彼は、神ではない。
彼の助言は、大いに人受けし、アブシャロムも、周りも盛り上がったかもしれない。
しかしあいにく、彼がした助言の内容は、律法に照らすなら、死に値する事だった。
『その父の妻と寝る者は、その父をはずかしめる者である。彼らはふたりとも必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。』(レビ20:11)
アヒトペルは「父の寝床にのぼる」という、主の前に死にあたる罪を、躊躇なくアブシャロムに勧め、そしてアブシャロムも、躊躇なくそれを行った。
結果的に、アヒトペルは後に自殺し、アブシャロムは木に吊るされた状態で殺されてしまう事になる。
アブシャロムの致命的な欠点は、神にではなく、神のような計りごとをする「人」に頼った事だった。
アブシャロムは若く美しく、人々の心を掴むカリスマ性もあり、性的な嘲りをして、彼の周囲は大いに盛り上がったかも知れない。人目には実に格好良く映ったろう。
対してダビデは、もはや若くなく、相手が攻めてくると、みっともなく逃げ、泣きながら落ち延びて行っている。実に、格好悪い。
しかし忘れてはならない。
アブシャロムは、主を敬う心はこれっぽっちも無いのに対し、ダビデは主にへの従順があり、嘲りや罵りさえ、主の故に甘んじて受けている。
そのような場合、全能の主が味方するのは、明らかにダビデの方だ、という事を。
いざという時に露わにされる人間の本質(2サムエル記16:1-14)
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- pastor 2015-9-23 6:25
いざという時に露わにされる人間の本質(2サムエル記16:1-14)
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ダビデというイスラエルの王が、この度、王座を追われ、都落ちして行く事によって、ダビデを取り巻いていた人々の色々な人間模様が浮き彫りにされて行く。
『ダビデが山の頂を過ぎて、すこし行った時、メピボセテのしもべヂバは、くらを置いた二頭のろばを引き、その上にパン二百個、干ぶどう百ふさ、夏のくだもの一百、ぶどう酒一袋を載せてきてダビデを迎えた。王はヂバに言った、「あなたはどうしてこれらのものを持ってきたのですか」。ヂバは答えた、「ろばは王の家族が乗るため、パンと夏のくだものは若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で弱った者が飲むためです」。』(2サムエル記16:1-2)
ダビデにこれらの差し入れを持ってきたヂバという男は、9章にも登場した。
彼は元々、サウル家のしもべであり、ダビデからは、足が不自由なヨナタンの子メピボセテに仕えるようにされた者である。
『王は言った、「あなたの主人の子はどこにおるのですか」。ヂバは王に言った、「エルサレムにとどまっています。彼は、『イスラエルの家はきょう、わたしの父の国をわたしに返すであろう』と思ったのです」。王はヂバに言った、「見よ、メピボセテのものはことごとくあなたのものです」。ヂバは言った、「わたしは敬意を表します。わが主、王よ、あなたの前にいつまでも恵みを得させてください」。』(2サムエル記16:3-4)
ダビデ王はこの時、ヂバから言われた事を鵜呑みにして「メピボセテのものはことごとくあなたのもの」と定めたが、実はこの時ヂバのほうが偽りを言っていて、メピボセテのほうがダビデに対し真実だった事が、後に分かる。
ヂバは、後にダビデが勢力回復する事を踏んで、この危急の事態を利用し、のし上がろうとしたのだろう。
もう一人、都落ちしているダビデに、事を起こした者が、サウル王家の中にいた。
『ダビデ王がバホリムにきた時、サウルの家の一族の者がひとりそこから出てきた。その名をシメイといい、ゲラの子である。彼は出てきながら絶えずのろった。そして彼はダビデとダビデ王のもろもろの家来に向かって石を投げた。その時、民と勇士たちはみな王の左右にいた。
シメイはのろう時にこう言った、「血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。あなたが代って王となったサウルの家の血をすべて主があなたに報いられたのだ。主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」。』(2サムエル記16:5-8)
ダビデはサウル家のシメイによって、「血を流す人」呼ばわりされ、主の御名によって呪われたが、ダビデのほうは、サウル王家の人の血は一人も流さなかったし、それどころかサウル王家から受けて来た悪に対し、いつも善で報いて来た実績がある。
だから「サウル家の血の報い」を受けるいわれは、ダビデのほうには一切無いはずである。
『時にゼルヤの子アビシャイは王に言った、「この死んだ犬がどうしてわが主、王をのろってよかろうか。わたしに、行って彼の首を取らせてください」。しかし王は言った、「ゼルヤの子たちよ、あなたがたと、なんのかかわりがあるのか。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」。
ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。』(2サムエル記16:9-11)
ダビデは今、自分が都を追われ、みじめに呪われながら落ちのびているこの状況は、「主が」そのようになされた、と言った。
きっとダビデは、「あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」という言葉に、心を突かれたのだろう。
ダビデはサウル家の血は流しはしなかったものの、忠実で罪なき部下・ウリヤの血を流した事の故に、今、剣に追われている真っ最中なのだから。
実際、この時、ダビデはそれまで誰からも言われなかった事を、言われている。
すなわち、「あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」と。
ダビデは、呪いの言葉と石を投げつけられるによって、今まさにウリヤの血の報いを「主から」受けている、そしてシメイは、その代弁者としてたまたま用いられているに過ぎない、と取ったのだろう。
私達も時に、過去に犯した悪事の報いを、主からの公平なるさばきによって、全く別の方面から受ける事があるかもしれない。
もちろん、悪魔サタンからの、ただ聖徒を貶めるだけの攻撃には毅然と立ち向かうべきである。
しかし、「主が」敢えて低くし、「主の御前に心当たりのある」事ゆえに懲らしめを受けているとするなら、私達もダビデのように謙虚にへりくだって、主からの懲らしめを受けるべきである。
その低くされている時期は、悲しいかもしれないが、その忍耐には望みがある。
ダビデは言っている。
『主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(2サムエル記16:12)
主は、主から来る懲らしめを甘んじて受ける聖徒を、いつまでもそのまま放っておくようなお方ではない。
主はやがて助け、その屈辱的な状況の中にあっても恥を見させる事は無い。やがては主ご自身が立ち上がり、弁護者となって正しいさばきをして下さるのだ。
『わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。
わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。』(イザヤ50:6-9)
私達が一時期、低くされ、敵が高くされているその時、私達の本質と、周囲の人々の本質が、露わにされる。
ある人は状況を利用して自分だけがのし上がろうとしたり、あるいは普段はおとなしく何も発言しなかった人が突然立ち上がって呪いや石を投げかけて来たりする事もある。
あるいは、本当に大切にすべき友が明らかにされたりもする。
人は、主から高められる事も、低くされる事もあるが、逆風の時も順風の時も、そのどちらの状況であっても祝福される人とは、いつでも主に信頼する人だ。
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37)
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- pastor 2015-9-21 6:13
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37)
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祭司たちも、契約の箱を担ぎつつ、ダビデに従って来ていた。
『アビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。』(2サムエル記15:24-25)
かつてダビデは、主を慕い求める心が強かったゆえに、契約の箱を自分の町へと運び込んだものだが、ダビデはそれを、町へ戻すように指示した。
主の箱がダビデと一緒にある、という事は、それもまた「ダビデの側に主がおられる」事のアピールにはなったであろうに、ダビデはそんな事はしなかった。
主は、人の手で造られたものに住むのではなく、全地に主の霊が満ち、主の眼差しは全世界に注がれている事を、ダビデは知っていたのであり、また主の御心であるなら、主はダビデが慕い求める主の家へと再び戻し、再び主を礼拝できる恵みにあずからせてくださる、と、信じていたのだ。
『しかしもし主が、『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」。・・・ ダビデはオリブ山の坂道を登ったが、登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った。彼と共にいる民もみな頭をおおって登り、泣きながら登った。』(2サムエル記15:26-27)
ダビデは今、涙と悲しみの内にキデロン川を渡り、オリーブ山を登って、主を礼拝する場所へと向かっている。
そして、「主が良しと思われることをしてくださるように」と言って、幸いも災いも、何もかも主に委ねる従順を見せた。
イエス様も全く同じく経験された。オリーブ山の所で、主に祈った。
『イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。』(ルカ22:39-42)
まことにダビデは、来るべきメシヤ、ダビデの子孫キリストの雛形である。
『王はまた祭司ザドクに言った、「見よ、あなたもアビヤタルも、ふたりの子たち、すなわちあなたの子アヒマアズとアビヤタルの子ヨナタンを連れて、安らかに町に帰りなさい。わたしはあなたがたから言葉があって知らせをうけるまで、荒野の渡し場にとどまります」。そこでザドクとアビヤタルは神の箱をエルサレムにかきもどり、そこにとどまった。』(2サムエル記15:27-29)
ダビデは祭司たちにエルサレムの動向を知らせる役割を託し、こうして彼らは、神の箱と共にエルサレムへと戻った。
『時に、「アヒトペルがアブサロムと共謀した者のうちにいる」とダビデに告げる人があったのでダビデは言った、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください」。』(2サムエル記15:31)
天才的なアドバイザーであるアヒトフェルがアブシャロムと一緒にいる、という状況は、ダビデ達にとって脅威であっただろう。
ダビデは彼の「計略を愚かなものにしてください」と祈ったが、同じように私達も、神の民を陥れるような天才的なたくらみを、無効にして下さい、と、祈る事が出来る。
『すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。』(1コリント1:19-20)
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。』(1コリント1:26-29)
『ダビデが山の頂にある神を礼拝する場所にきた時、見よ、アルキびとホシャイはその上着を裂き、頭に土をかぶり、来てダビデを迎えた。』(2サムエル記15:32)
ホシャイはダビデの友であり、相談役である。
彼はダビデと行動を共にしたいと願い出たが、ダビデは彼に別の役割を与える。
『ダビデは彼に言った、「もしあなたがわたしと共に進むならば、わたしの重荷となるであろう。しかしもしあなたが町に帰ってアブサロムに向かい、『王よ、わたしはあなたのしもべとなります。わたしがこれまで、あなたの父のしもべであったように、わたしは今あなたのしもべとなります』と言うならば、あなたはわたしのためにアヒトペルの計略を破ることができるであろう。
・・・あなたがたは聞いたことをことごとく彼らの手によってわたしに通報しなさい」。そこでダビデの友ホシャイは町にはいった。その時アブサロムはすでにエルサレムにはいっていた。』(2サムエル記15:33-37)
こうしてダビデは、何名かをスパイとしてエルサレムに留め、またホシャイを”埋伏の毒”として、アブシャロムの所に送った。
エルサレムにはアブシャロムが入ったが、この都の中には何名か、ダビデから遣わされた働き人達、ダビデに報告する人、ダビデのために有利に働く”スパイ達”が入っている。
今私達も、この暗闇の世へとキリストに遣わされて、この世で起きている出来事をキリストへ報告し、キリストのために働く”スパイ達”である。
ダビデはこの時、預言者ナタンを通して主に言われていた通り、まさに剣に追いかけられている状況だ。
ダビデはそれに対し、主にへの100%の従順をもって甘んじて受けている。
聖書が一貫して示している事は、主は、主に忠実な神の民を、いつまでもはずかしめにあわせて置くような事はなさらない事である。
『主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。』(哀歌3:22-31)
ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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- pastor 2015-9-18 22:50
ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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ダビデ王に忠誠を貫いて、王と一緒に都落ちして行く人々もいたが、その中には、特に、異邦人たちが多かった事が記されている。
『彼のしもべたちは皆、彼のかたわらを進み、すべてのケレテびとと、すべてのペレテびと、および彼に従ってガテからきた六百人のガテびとは皆、王の前に進んだ。』(2サムエル記15:18)
ケレテ人はペリシテの地域に住んでいた人々で、彼らは共に、ダビデ王の親衛隊として側で仕えていた。(2サムエル記8:18、20:23、1歴代誌18:17)
また、ガテもペリシテの地である。ダビデはサウル王に追われていた時、そこに滞在していた。(1サムエル記27章)
『時に王はガテびとイッタイに言った、「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。あなたは帰って王と共にいなさい。あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。あなたは、きのう来たばかりです。わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。あなたは帰りなさい。あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。』(2サムエル記15:19-20)
イッタイを頭とするガテ人達は、ダビデを訪ねて来たばかりだ。それも、昨日。
彼らが来た時、イスラエル国はちょうど急変時で、ダビデは今日、都落ちして逃げている。
そんな状況だと言うのに、ダビデ王について来ようとした彼らに、ダビデは、自分の所に帰るように、と促すのだが、彼はそれを拒み、それでもダビデ王について行く、と言うのだ。
彼らは、ダビデの人柄に惹かれて来たのであろうし、武人として一度決心した忠誠を守る心もあっただろう。しかし彼らには、もっと高貴な動機があった。
『イッタイは王に答えた、「主(エホバ)は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」』(2サムエル記15:21)。
そう、彼らには「主(エホバ)」に対する信仰があったのだ。
彼ら、イスラエルの神・主に頼ろうという動機でイスラエルに来たのであり、そして彼らはアブシャロムではなく、ダビデを選んだ。
ダビデにこれからついて行く事は、いつ終わるとも知れない流浪と逃亡の生活に入る事を意味する。
常識的な観点で見るなら、ダビデ王はいつにでもアブシャロムに追い着かれ、殺されてしまうか分からない状況だ。
しかし、主に信頼する人々には、分かるのだ。主は、アブシャロムの側にではなく、ダビデの側におられる、と。
アブシャロムは、礼拝さえ、自分が王に成り上がるための道具とした。しかしダビデは、心底から主を敬い、主に信頼し、主に従順するがゆえに、主の懲らしめを甘じて受けている。(詩篇3篇)
ダビデについて行った当時の異邦の戦士たちに、私達もならうべきである。
今が旬の指導者が、いかに美しく、魅力的で、有能で、破竹の勢いがあり、周りの皆がなびいても、ただ一点、主を軽んじるような者であるとしたなら、その者について行かない方が良い。
かの異邦の戦士たちは、アブシャロムを選ばず、事実上敗北して都落ちしているようなダビデのほうを選んだ。
その理由は、ただ、ダビデが主に信頼し、主もまたダビデを愛しておられる、という点で。
ダビデのひいおばあさんであるモアブ人ルツも、同じ信仰だった。
彼女も「信仰」によって、ナオミに付いて行ってイスラエルに入った。
常識的に考えるなら、ナオミについて行く事には何のメリットも無く、結婚の望みも将来も見えないのに、この、夫と息子たちを失ってしまった一人の老女と共にイスラエルの神・主を頼りにして一緒にイスラエルに行こうとした信仰を、主は豊かに省みられた。
ルツは後に、栄光の家系へと嫁ぐ幸いを得、ダビデ王家の母となり、イエスキリストの系図に載る幸いを得た。
私達もルツのように、また、かの異邦の戦士たちのように、油注がれた王・キリストにより頼み、その御翼の陰に宿るなら、大いなる栄光と、豊かな報いがあるのだ。
『ダビデはイッタイに言った、「では進んで行きなさい」。そこでガテびとイッタイは進み、また彼のすべての従者および彼と共にいた子どもたちも皆、進んだ。』(2サムエル記15:22)
ダビデは、彼らとのわずかな言葉のやり取りで、この、昨日来たばかりの異邦の戦士たち六百人は、信頼に足る、と判断し、一緒に行動する事にした。
主に信頼する人同士は、霊と霊が共鳴し、理解する事に多くの時間や言葉はいらないものだ。
『国中みな大声で泣いた。民はみな進んだ。王もまたキデロンの谷を渡って進み、民は皆進んで荒野の方に向かった。』(2サムエル記15:23)
ダビデ王はまさに、後に来られるメシヤ・イエス様の雛形である。
イエス様もキデロンの谷を通って、オリーブ山で祈られ、十字架を背負って”都落ち”する時も、大勢のユダヤ人達はあざけり罵ったけれども、少数の異邦人達や、見捨てられてしまったような人々が、泣きながらイエス様について行った。
そしてイエス様は、後によみがえり、全能の父なる神の右に座し、世のどの王よりも高く上げられ、多くの異邦人達の救いの望みとなられた。
ダビデ王を偉大だと認知するユダヤ人達は、全て、イエス様こそ来るべきダビデの子・メシヤである事を、認知するべきだ。
