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ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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- pastor 2015-9-18 22:50
ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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ダビデ王に忠誠を貫いて、王と一緒に都落ちして行く人々もいたが、その中には、特に、異邦人たちが多かった事が記されている。
『彼のしもべたちは皆、彼のかたわらを進み、すべてのケレテびとと、すべてのペレテびと、および彼に従ってガテからきた六百人のガテびとは皆、王の前に進んだ。』(2サムエル記15:18)
ケレテ人はペリシテの地域に住んでいた人々で、彼らは共に、ダビデ王の親衛隊として側で仕えていた。(2サムエル記8:18、20:23、1歴代誌18:17)
また、ガテもペリシテの地である。ダビデはサウル王に追われていた時、そこに滞在していた。(1サムエル記27章)
『時に王はガテびとイッタイに言った、「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。あなたは帰って王と共にいなさい。あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。あなたは、きのう来たばかりです。わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。あなたは帰りなさい。あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。』(2サムエル記15:19-20)
イッタイを頭とするガテ人達は、ダビデを訪ねて来たばかりだ。それも、昨日。
彼らが来た時、イスラエル国はちょうど急変時で、ダビデは今日、都落ちして逃げている。
そんな状況だと言うのに、ダビデ王について来ようとした彼らに、ダビデは、自分の所に帰るように、と促すのだが、彼はそれを拒み、それでもダビデ王について行く、と言うのだ。
彼らは、ダビデの人柄に惹かれて来たのであろうし、武人として一度決心した忠誠を守る心もあっただろう。しかし彼らには、もっと高貴な動機があった。
『イッタイは王に答えた、「主(エホバ)は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」』(2サムエル記15:21)。
そう、彼らには「主(エホバ)」に対する信仰があったのだ。
彼ら、イスラエルの神・主に頼ろうという動機でイスラエルに来たのであり、そして彼らはアブシャロムではなく、ダビデを選んだ。
ダビデにこれからついて行く事は、いつ終わるとも知れない流浪と逃亡の生活に入る事を意味する。
常識的な観点で見るなら、ダビデ王はいつにでもアブシャロムに追い着かれ、殺されてしまうか分からない状況だ。
しかし、主に信頼する人々には、分かるのだ。主は、アブシャロムの側にではなく、ダビデの側におられる、と。
アブシャロムは、礼拝さえ、自分が王に成り上がるための道具とした。しかしダビデは、心底から主を敬い、主に信頼し、主に従順するがゆえに、主の懲らしめを甘じて受けている。(詩篇3篇)
ダビデについて行った当時の異邦の戦士たちに、私達もならうべきである。
今が旬の指導者が、いかに美しく、魅力的で、有能で、破竹の勢いがあり、周りの皆がなびいても、ただ一点、主を軽んじるような者であるとしたなら、その者について行かない方が良い。
かの異邦の戦士たちは、アブシャロムを選ばず、事実上敗北して都落ちしているようなダビデのほうを選んだ。
その理由は、ただ、ダビデが主に信頼し、主もまたダビデを愛しておられる、という点で。
ダビデのひいおばあさんであるモアブ人ルツも、同じ信仰だった。
彼女も「信仰」によって、ナオミに付いて行ってイスラエルに入った。
常識的に考えるなら、ナオミについて行く事には何のメリットも無く、結婚の望みも将来も見えないのに、この、夫と息子たちを失ってしまった一人の老女と共にイスラエルの神・主を頼りにして一緒にイスラエルに行こうとした信仰を、主は豊かに省みられた。
ルツは後に、栄光の家系へと嫁ぐ幸いを得、ダビデ王家の母となり、イエスキリストの系図に載る幸いを得た。
私達もルツのように、また、かの異邦の戦士たちのように、油注がれた王・キリストにより頼み、その御翼の陰に宿るなら、大いなる栄光と、豊かな報いがあるのだ。
『ダビデはイッタイに言った、「では進んで行きなさい」。そこでガテびとイッタイは進み、また彼のすべての従者および彼と共にいた子どもたちも皆、進んだ。』(2サムエル記15:22)
ダビデは、彼らとのわずかな言葉のやり取りで、この、昨日来たばかりの異邦の戦士たち六百人は、信頼に足る、と判断し、一緒に行動する事にした。
主に信頼する人同士は、霊と霊が共鳴し、理解する事に多くの時間や言葉はいらないものだ。
『国中みな大声で泣いた。民はみな進んだ。王もまたキデロンの谷を渡って進み、民は皆進んで荒野の方に向かった。』(2サムエル記15:23)
ダビデ王はまさに、後に来られるメシヤ・イエス様の雛形である。
イエス様もキデロンの谷を通って、オリーブ山で祈られ、十字架を背負って”都落ち”する時も、大勢のユダヤ人達はあざけり罵ったけれども、少数の異邦人達や、見捨てられてしまったような人々が、泣きながらイエス様について行った。
そしてイエス様は、後によみがえり、全能の父なる神の右に座し、世のどの王よりも高く上げられ、多くの異邦人達の救いの望みとなられた。
ダビデ王を偉大だと認知するユダヤ人達は、全て、イエス様こそ来るべきダビデの子・メシヤである事を、認知するべきだ。
エジプトに対する宣告 - 偶像礼拝者の混乱と搾取の運命(イザヤ:)
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- pastor 2015-9-16 23:33
イザヤ書講解説教メッセージ
エジプトに対する宣告 - 偶像礼拝者の混乱と搾取の運命(イザヤ19:1-15)
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【概要】
本日の説教は、イザヤ書19章2節〜15節を中心に、エジプトに対する神の宣告と、偶像礼拝の混乱、そして真の神に立ち返った時に与えられる命の水の恵みについて語られています。神の戒めと同時に、真理を求める者への慰めと励ましが込められた御言葉です。
【聖書箇所】
・イザヤ19:2-15
・エゼキエル47章(比較対象として引用)
【戒めの言葉】
偽りの神々に頼り、偶像崇拝にふける者は心が分裂し、混乱に陥ります。真の神から離れては国も人も衰退していくという警告です。
【悔い改めの促しの言葉】
誤った導きに惑わされず、まずは自分自身と国全体が真の神に立ち返る必要があります。心の奥底にある弱さや罪深さを洗い清め、悔い改めの祈りを捧げるべきです。
【励ましの言葉】
たとえ現実が混乱し、偶像や占いに溺れる社会に囲まれていても、神はいつも忠実に命の泉を流し出されます。真の信仰に根ざす者は、内に注がれる生の水によって潤い、揺るがぬ希望を得るでしょう。
【慰めの言葉】
主イエス・キリストを信じる者には、苦難の中にも神の愛と導きがあります。どんなに荒れ果てた時も、神の恵みは枯れることなく流れ続け、心に平安と喜びをもたらします。
【***詳細***】
今日、私たちはイザヤ書19章2節〜15節の御言葉を通して、神がエジプトという国に対してどのような宣告をされ、どのような戒めと約束を与えているかを聞きます。冒頭、預言者イザヤは「エジプトに対する宣告」を語り、エジプトの偽りの神々の前に、神の真実な裁きと警告が垣間見えると告げます。たとえば、「主は早い馬に乗ってエジプトに来る」との言葉は、神の迅速で厳正な裁きが迫っていることを象徴しています。ここで、エジプトはただ単に地理的な国としてだけではなく、偶像崇拝や不信仰、そして堕落した心の象徴として描かれています。
説教の中盤では、エジプトという国が多くの神々を祭り、遺跡や絵画にも数多くの偶像が記されている現状が語られます。かつては、イスラエルの民をも圧迫するほどに栄えていたエジプト。しかし、その偽りの繁栄は、奴隷制度に代表されるような強圧的な統治と、真実からの逸脱によって、本来の祝福ではなく呪いへと転じる運命にあると預言されています。こうした過去の歴史と共に、現代においても、私たちの社会には占いや口寄せ、霊媒といった、神でないものに頼ろうとする風潮が広がっています。
この説教では、エジプトの預言の後半部分にも焦点が当てられています。神は、エジプトが悔い改めて主に立ち返るならば、その立場を逆転させ、エジプトとアシリアがともに神を賛美する時が来ると約束されています。しかし、この約束は、過去の成就があったのか、あるいは未だ来るべき未来の約束なのか、議論が分かれるところでもあります。預言は、いつか本当にすべての国々が主の御前にへりくだり、神の前に整えられるその日が必ず訪れるという希望も同時に示しているのです。
また、この御言葉の中で特に象徴的な部分は、エジプトの自慢であったナイル川の水が干上がるという描写です。イザヤは、海から水が引き、ナイル川やその支流が枯渇し、運河の水が臭くなっていく様子を記しながら、偽りの神々によって養われる国の栄光の儚さを強調します。水は生命の源であり、本当に必要なものであるのに、偽りに頼る者は、その源すらも取り戻せなくなるという戒めがここに込められているのです。
しかし、一方で、エゼキエル書47章の預言を参照するかのように、神殿から流れ出る水は決して尽きることがなく、いずれは荒れた大地に新たな命をもたらすと約束されています。神が与える命の水は、真に神を信じ、主に頼る者に注がれ、彼らの心を潤し、また周囲の人々にまでその豊かな祝福を広げていくのです。これは、ただ単に自然現象としての水の回復という以上に、霊的な回復−真の信仰に基づく再生−を象徴しています。
続いて、説教はエジプトの歴史や現実における偶像礼拝の実態に目を向けます。エジプトがかつて栄えた背景には、奴隷たちの酷使と、それにより得られる一時的な栄光がありました。しかし、その栄光は真の祝福ではなく、後には必ず衰退を招くと預言されています。偶像崇拝に慣れ、占いや口寄せによって指導を求める社会では、心が分裂し、人々の判断力が失われ、自らを破滅へ導く結果となると警告されます。
特に、現代社会においては、テレビやインターネットを通して次々と占いの情報が提供され、国民は指導者や政治家を選ぶ際にも、結果だけを重視する傾向があります。これは、誤った価値観に基づく選択を招き、長期的には国家全体を破滅の道へと駆り立てるものです。説教者は、かつて占い館がほとんど存在しなかった時代と比較し、現状の変化について語りながら、私たちがどのように真の神の導きに立ち返るかを問いかけます。
さらに、説教は政治的・社会的現状にも触れています。指導者が自らの利益や安易な約束に飛びつく結果、国全体が混乱し、税金や借金問題から抜け出せなくなっている現状が嘆かれます。人々は、自分自身や国を救うために、一体どのような指導者、そしてどのような政策に賭けるべきかを真剣に考え直す必要があるという教訓が込められています。誤った導きに従えば、必ずやその報いは自分たちへの苦しみとなって現れるのです。
そして最も重要な教えは、私たちが頼るべきは、決して変わることのない真の神であるという点です。神でないものに心を委ねることは、結局は命の泉を失い、心が枯れてしまう結果に繋がります。一方、イエス・キリストを主として信じる者は、神の与える永遠に尽きることのない命の水によって、内面から潤され、真の祝福を受けることができます。説教は、神の前に悔い改め、真摯な信仰を立て直すよう迫ります。
この御言葉を通して、私たちが学ぶべきは、日常生活においても、神以外のものに頼る生活はいつか必ず自滅を招くという真理です。私たちは、どのような困難な時でも、神の御声に耳を傾け、正しい導きを求める必要があります。たとえ国や社会が混乱し、占いや偽りの価値観が蔓延している中でも、主の霊が流れ込み、再び命の水として溢れるその日を信じ、歩みを進めることこそが、真に blessed な生き方であると説かれています。
最後に、主の祈りをもって礼拝が締めくくられ、天にいます我らの父の御名を賛美し、国と民に平和と祝福が訪れるようにとの願いが述べられます。信仰の仲間たちが互いに励まし合い、神の前に謙虚に立つことで、偶像礼拝や誤った導きに背を向け、本来の真理を取り戻し、豊かな命と未来を共有できると信じさせる御言葉です。
私たち一人ひとりが、この御言葉に触れ、心に刻むべきは、いかなる状況にあっても、神だけが変わることなく、永遠に命を与える源であるという確信です。もし、偽りのものに心を委ねていたなら、今こそ改めて、真の救いを求める時であり、神の裁きと恵みに気づく時であると強く訴えられています。皆さんが、これらの戒めと希望に耳を澄ませ、自身の生き方を省み、本当の安らぎと祝福の源である神へと立ち返ることを心から願います。
【結論】
神は、偶像や偽りに依存する者たちに厳しい裁きを下されると同時に、真実に悔い改める者には尽きることのない命の水を注ぎ、国と人々を新たに導かれます。私たちは、どんな時も真の神を主とし、悔い改めと立ち返りをもって日々を歩むことによって、神の祝福と平安を受けることができるのです。
手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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- 執筆 :
- pastor 2015-9-16 23:26
手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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アブシャロムは、心で長い間企んでいた陰謀を、ついに実行に移す。
『四年の終りに、アブサロムは王に言った、「どうぞわたしを行かせ、ヘブロンで、かつて主に立てた誓いを果させてください。それは、しもべがスリヤのゲシュルにいた時、誓いを立てて、『もし主がほんとうにわたしをエルサレムに連れ帰ってくださるならば、わたしは主に礼拝をささげます』と言ったからです」。王が彼に、「安らかに行きなさい」と言ったので、彼は立ってヘブロンへ行った。』(2サムエル記15:7-9)
アブシャロムは、主への誓いを果たす為にヘブロンへ行って礼拝させて下さいとダビデに許可を求めたが、それは偽りであった。
彼が「礼拝」を捧げに行くのは、主に誓っていた事を果たすためではなく、あらかじめ設定していた謀反の引き金を引くためであった。
つまり、彼がヘブロンで礼拝をささげる事が、彼が王となる事の合図として用いられたのだ。
『そしてアブサロムは密使をイスラエルのすべての部族のうちにつかわして言った、「ラッパの響きを聞くならば、『アブサロムがヘブロンで王となった』と言いなさい」。二百人の招かれた者がエルサレムからアブサロムと共に行った。彼らは何心なく行き、何事をも知らなかった。アブサロムは犠牲をささげている間に人をつかわして、ダビデの議官ギロびとアヒトペルを、その町ギロから呼び寄せた。徒党は強く、民はしだいにアブサロムに加わった。』(2サムエル記15:10-12)
ここに議官・ギロ人アヒトフェルが登場するが、当時、彼が考え出すはかりごとは、神の言葉のように思われる程、優れたものだった。(2サムエル記16:23)
アヒトフェルはバテ・シェバの祖父にあたり(2サムエル記11:3, 23:34)、ダビデの事を快く思っていなかった可能性は、大いにある。
アブシャロムはそんな彼に、「敵の敵は味方」として、謀反に加わるよう呼びかけたのだろう。
こうしてアブシャロムは、四年の歳月をかけて多くの人の心を掴んで行き、また、アヒトフェルというダビデに敵対的で強力な相談役も得、ぬかりの無い裏工作を巡らして行ったため、ダビデ王権の転覆を成功させるには充分となったが、それに対しダビデ王はどう対応したか。
『ひとりの使者がダビデのところにきて、「イスラエルの人々の心はアブサロムに従いました」と言った。ダビデは、自分と一緒にエルサレムにいるすべての家来に言った、「立て、われわれは逃げよう。そうしなければアブサロムの前からのがれることはできなくなるであろう。急いで行くがよい。さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」。』(2サムエル記15:13-14)
ダビデ王の対応は、一切抵抗する事なく、エルサレムの都を出て逃げる事だった。
その理由も、アブシャロムが剣で攻め入って、エルサレムの中から犠牲者が出るといけないから、であった。
まったくもって、ダビデ王の行動原理と、アブシャロムの行動原理は、逆である。
ダビデ王は、あくまで平和を動機として行動した。
彼は、自分の手練手管を用いず、全て主に依り頼み、それも、かつては自分のいのちを付け狙って来たサウル王を、二度も見逃してやった程だった。
対して、アブシャロムは、主に頼らずに自分の手練手管に頼って世渡りして行く性質で、しかも、「主への礼拝」さえ自分のはかりごとの材料にしてしまう程だった。
彼は結局、天地を創られた主は彼の「主」ではなく、自分のはかりごとのほうが、彼の「主」だったわけである。
大多数の人は、何も抵抗せずに無様に逃げるダビデより、手練手管に長けて地道に裏で準備して行くアブシャロムのほうを、心強いと思うであろう。
しかし、決定的にダビデの方が勝っている点がある。
それは、ダビデは主により頼み、主に信頼している、という点だ。
アブシャロムは、はかりごとや手練手管を用い、偽りの礼拝を引き金にして自分が王だと名乗ったが、それに対してダビデは、羊を飼っていた時に主に見出され、一方的に主から油注がれ、王となった。
主が味方するのは、どちらだろうか。それは、一目瞭然である。
主を除外したはかりごとや手練手管の成果物は、やがてはぼろが出て、そちらを頼りにした人々はやがて恥を見るようになる。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。』(詩篇1篇)
『王のしもべたちは王に言った、「しもべたちは、わが主君、王の選ばれる所をすべて行います」。こうして王は出て行き、その全家は彼に従った。王は十人のめかけを残して家を守らせた。王は出て行き、民はみな彼に従った。彼らは町はずれの家にとどまった。』(2サムエル記15:15-17)
それまでダビデ王が歩んできた、主に対する誠実な歩みを見て、彼について行った人達も、少なからずいた。
こうしてダビデ王は都落ちするのだが、彼はどのような心境で、自分の名がつけられた都から落ち延びて行ったのか。
彼は詩篇3編にて、その心境を記している。
『ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌。主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。』(詩篇3:1-4)
彼の心は、主に向いていた。助けの源を、主へと求めた。
いかに周りの人々が、「彼には助けがない」と言い合っているような状況であっても、それでも彼は主を盾とし、「主がわたしに答えて下さる」と信仰告白した。
ダビデのこのような祈り、久しぶりな気もする。
彼がサウルに追われていた時、よくこういう祈りをしていた。
ダビデ王は確かに一時、罪を犯した。その時、彼の罪は、神との間の隔たりとなって、祈る事もできなかっただろう。
しかし、彼は自分の罪を告白し、悔い改め、そして主が与えられる災いをも甘んじて受ける従順によって、主との交わりを回復した。
『わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。』(詩篇3:5-7)
ダビデは、息子に反逆され都落ちしてしまうような、悲しんで然るべき状況であっても、安らかに眠りにつく事が出来た。
主は、主を愛し、拠り所とする人には、平安と安らかな眠りを与えられる。しかし、悪い事をたくらむ者には、平安も安息した眠りも無いのだ。
『救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。』(詩篇3:8)
ダビデは、この詩の最後を、祝福で終えている。
それ程平安でゆとりのある心持ちだったのだ。
嘘をつく人は、その嘘がばれないようにするためにさらに嘘を重ね、誰にどの嘘をついたか色々の事を覚えて行かなくてはならないように、はかりごとをたくらむ人は、一々色々の事を覚え、考え、心配しなくてはならない。
しかし主に信頼し、主が全てを思い図って心配して下さる事を信じている人は、人を祝福するゆとりがあり、そして彼が発した祝福は、本人に返ってくるのだ
ダビデにこの度の事が起きたのは、元々はダビデの弱さ、罪、愚かさゆえだったかもしれない。
しかし、そんな無知、愚かさ、弱さにあっても、それでも主に向ける人は、主が守り、主がそれら全てから救い出し、悪い方向へ動いてしまった物事さえも、主は最善へと転換させて下さるのだ。
周到な反逆の企みをするアブシャロム(2サムエル記15:1-6)
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アブシャロムは、それまで願っていた父との面会がようやく叶ったのだが、それは非常に儀礼的なもので、アブシャロムは逆に憎しみを募らせるものとなってしまい、彼はこの会合以降、父ダビデの気を引こうとして来たそれまでの心を反転させ、ダビデ王に反旗を翻しクーデターを引き起こす準備を始めてしまう。
『アブサロムは早く起きて門の道のかたわらに立つのを常とした。人が訴えがあって王に裁判を求めに来ると、アブサロムはその人を呼んで言った、「あなたはどの町の者ですか」。その人が「しもべはイスラエルのこれこれの部族のものです」と言うと、アブサロムはその人に言った、「見よ、あなたの要求は良く、また正しい。しかしあなたのことを聞くべき人は王がまだ立てていない」。
アブサロムはまた言った、「ああ、わたしがこの地のさばきびとであったならばよいのに。そうすれば訴え、または申立てのあるものは、皆わたしの所にきて、わたしはこれに公平なさばきを行うことができるのだが」。』(2サムエル記15:2-4)
アブシャロムが父ダビデ王に反逆するためにまず行った事は、人の心を地道に掴んで行く事だった。
通りに毎日立ち、ダビデ王に裁判してもらおうとする人を待ち伏せして、親しげに声をかけ、その人の訴えに耳を傾け同情し、王はあなたの望み通りに動いてくれないが、もし自分なら正しくさばきが出来る、と吹き込んで行く。
こうして、ダビデ王に対する良くない思いと、またアブシャロムに対する好感を植え付けて行く。
人々がダビデ王にさばいてもらいたいと持ち寄る案件は全て、地方の長老では対処できないような難解なものであるはずである。
だから当然、訴えをした人の思い通りには行かない事もあるだろうし、また裁判が長引く事もあるだろう。
そのように、ダビデに訴えるさばきは、ある程度の不自由さを我慢しなくてはならないものであるのだが、アブシャロムは、そこを突いたのだ。
『そして人が彼に敬礼しようとして近づくと、彼は手を伸べ、その人を抱きかかえて口づけした。アブサロムは王にさばきを求めて来るすべてのイスラエルびとにこのようにした。こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を自分のものとした。』(2サムエル記15:4-6)
アブシャロムは、王子という高貴な身分であり、比類なき美貌の持ち主である。その彼が自分から人に手を差し伸べ、抱きかかえて口づけする。
当然、人々は感動し、そして噂するだろう。
あの美しいという噂の王子様・アブシャロムを、私は見た、そればかりでなく、こんな私に自ら近づいて来て、抱き寄せて口づけして下さった。
親しげに声をかけ、わたしの訴えに同情して下さった。
それに引き換えダビデ王は、対応が遅くて随分待たされた挙句、自分の思う通り裁きをしてくれなかった、など。
このように、人々の間では、アブシャロムの美しさと優しさ、有能さが、そして、ダビデの「無能さ」が、広まって行っただろう。
この地道な活動は、ボディブローのように徐々に、そして着実に効いて行く。
アブシャロムは、持て余した時間を、ただ人々に取り入って同調し、ダビデの悪い噂話を流す事に使えるが、ダビデ王は日々、人々のさばきを実際に考え、たとえ訴えに来る人が望まない結果であろうとも公平なさばきをしなくてはならないし、それだけでなく、色々な仕事も同時に抱え持っており、日々その対応に追われている。
会社や教会などの集団の中で、具体的に何か仕事をするわけでもなく、暇を持て余し、ただ上の権威の良くないうわさ話を撒き散らしつつ、自分の所に人々を引き寄せようとする人を放置させておくなら、彼の言葉はがんのように広まって、その組織をどんどん腐らせて行く。
パウロはローマの聖徒たちに、そのような人々について警告している。
『さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。』(ローマ16:17-18)
このように、アブシャロムは周到なはかりごとを巡らし、彼自身の美貌や知恵、能力を駆使して、確実にダビデを貶めようと、また、自分が王になろうと、謀った。
ダビデは、アブシャロムが何をしようと企んでいたのか、感づいていたのかどうかは分からないが、ダビデが取った対応は、やはり「放置」だった。
いずれにせよ、イスラエルという「神の領域」において王となるのは、人の能力やはかりごとに拠るものではなく、ただ神によってなるものである。
アブシャロムは、生まれ持った美貌や手練手管、知恵と能力を駆使して王になろうとした。
しかしダビデが全イスラエルの王になったのは、主が王として下さるという約束に信頼して、一切自分の手練手管を用いず、ただ主がなされるがままに委ねて、そうして王となった。
人々は、アブシャロムのような人の方が、頼りがいがありそうだ、王としてふさわしい、と考えがちだが、最終的には、ダビデのように主に信頼して自分のはかりごとを捨てる人の方が主に守られ、生き残るのである。
人々は、外見の良さや甘言に騙されやすいもので、そのように外見や甘い言葉につられてしまう人の歩みは安定に欠いている。
しかし、人間の悪だくみやはかりごとに関わらず、ただ主に信頼する人の歩みは、決して揺るがされる事はない。
子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
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『そこで王はヨアブに言った、「この事を許す。行って、若者アブサロムを連れ帰るがよい」。ヨアブは地にひれ伏して拝し、王を祝福した。そしてヨアブは言った、「わが主、王よ、王がしもべの願いを許されたので、きょうしもべは、あなたの前に恵みを得たことを知りました」。そこでヨアブは立ってゲシュルに行き、アブサロムをエルサレムに連れてきた。』(2サムエル記14:21-23)
ダビデは、ヨアブに遣わされた知恵深い女によって、息子アブシャロムが放置されたままの状態にあるのは、良くない、という事を諭された。
ダビデはそれを受け入れ、アブシャロムをエルサレムに連れて来る事を許すのだが、『王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:24)
アブシャロムと会っていない3年の間、ダビデの心はアブシャロムへと向いていた(14:1)、はずなのに、彼をエルサレムへ呼び寄せた途端、ダビデはそれとは裏腹の行動を取っている。
『さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。』(2サムエル記14:25-27)
アブシャロムは、類を見ない魅力的な人物だった。
「足の裏から頭の頂まで」非の打ちどころが無く、また髪も豊富で、美しい娘も生まれている。
彼は外見が魅力的だけではなく、非常に有能な人物で、人の心を掴む事に長けており、正しい事を断行する勇気も、決断力も、それを実現させるための知恵も、忍耐力も、全て兼ね備えている。
そのような面を見るなら、彼は、次に王となるに申し分無い器として、人々の目に映っていたかもしれない。
ただ一点、ダビデの長男を謀殺した、という点を除くなら。
『こうしてアブサロムは満二年の間エルサレムに住んだが、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:28)
アブシャロムは父の近くに呼び寄せられたものの、さらに2年、放置されてしまった形になる。
ダビデがどのような心境で、どのように判断して、そのようにしたのかは記されていないため、聖書学者の間でも色々な憶測が為されているが、父親が息子を敢えて放置するなら、息子がどのように出るのか、それは容易に想像できる。
『そこでアブサロムはヨアブを王のもとにつかわそうとして、ヨアブの所に人をつかわしたが、ヨアブは彼の所にこようとはしなかった。彼は再び人をつかわしたがヨアブはこようとはしなかった。そこでアブサロムはその家来に言った、「ヨアブの畑はわたしの畑の隣にあって、そこに大麦がある。行ってそれに火を放ちなさい」。アブサロムの家来たちはその畑に火を放った。ヨアブは立ってアブサロムの家にきて彼に言った、「どうしてあなたの家来たちはわたしの畑に火を放ったのですか」。』(2サムエル記14:29-31)
ヨアブは、アブシャロムをエルサレムに引き寄せるよう取り計らった張本人であるが、どういう訳か、彼までも、アブシャロムの2度の呼びかけを放置し、彼がかつてした事とは裏腹の行動を取っている。
アブシャロムに対しては、ダビデも、ヨアブも、なぜか裏腹の行動を取る。
一体何が問題で、アブシャロムはこのようにされてしまうのか。
彼はあまりに有能過ぎる故、危険と判断されたのか、あるいは単に、父ダビデの弱さ故なのか、あるいはもっと他に理由があるのか、それらは分からない。
一つ確かな事は、親はあまりにも子を放置するなら、子から何かの形で火をつけられてしまう、という事だ。
『アブサロムはヨアブに言った、「わたしはあなたに人をつかわして、ここへ来るようにと言ったのです。あなたを王のもとにつかわし、『なんのためにわたしはゲシュルからきたのですか。なおあそこにいたならば良かったでしょうに』と言わせようとしたのです。それゆえ今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください」。』(2サムエル記14:32)
ここに、アブシャロムの心の叫びが垣間見える。
アブシャロムは、ずっと父ダビデに会うことも赦されず、何のコミュニケーションも許されず、かといって何の処断も下されず、右に行っていいのか左に行っていいのか分からない状態のまま、ずっと放置されていた。
もし処罰されるべきなら、はっきり処罰してほしい、それがたとえ死刑でもかわない、とにかく、うやむやなまま放置される事だけは、我慢ならない。
それが、子供の本心である。
『むちと戒めとは知恵を与える、「わがまま(シャラーハ:追い遣る、放任する)」にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
子供と正面から向き合わず、子供が望ましくない事をしても、それに対して何も処断を下さず、ただ放置しておくとするなら、子はやがて、親に火をつけるようになってしまうのだ。
『そこでヨアブは王のもとへ行って告げたので、王はアブサロムを召しよせた。彼は王のもとにきて、王の前に地にひれ伏して拝した。王はアブサロムに口づけした。』(2サムエル記14:33)
こうして、父と子の何年ぶりかの再会が実現したというに、ただ儀礼的な挨拶をした以外は、特に記されていない。
アブシャロムが切望して来た、何年ぶりかの父との再会。
それなのにアブシャロムは、「子」として「父」とコミュニケーションが出来なかった。
妹が陵辱されて以来、感じてきた悔しさ、忍耐して来た辛さ、やってしまった事のうしろめたさ、一人放置されていた事の寂しさ、人々に理解されない事の苦しさ、そうした事を打ち明ける事が出来なかった。
あまりにも親子関係の「親しさ」が無い、ただ上下関係だけが強調された、儀礼的な挨拶だけの再会に、アブシャロムはどんなに失望しただろう。
アブシャロムはこの再会の後、父ダビデ王になんとか会って話しあおうとして来た努力の方向性を反転させ、父・ダビデに反逆し、クーデターを起こす準備をするようになってしまう。
この第二サムエル記14章は、ダビデも、ヨアブも、アブシャロムに対して、裏腹な行動ばかりを取ってきた。
人の心も営みも、移ろいゆくものであり、時に裏腹の行動を取り、時に反転するものである。
第二サムエル記13章と14章で、主は全く沈黙しており、主が何かを語られたとか、何かされたといった記事は、一切無い。
ただ人の思い図りと、裏腹さだけが記されている。それらはなんの益ももたらさず、ただ崩壊へと向かうのみである。
『人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。』(1ペテロ1:24-25)
クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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- pastor 2015-9-9 14:58
イザヤ書講解説教メッセージ
クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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【概要】
本日の説教は、イザヤ書18章の預言を中心に、異邦の国々に対する神の愛と裁き、そして混沌の時代にあっても主に信頼し歩む大切さを示しています。神はどんな状況下にあっても、心から祈る者に変わらぬ恵みと救いを与えてくださいます。
【聖書箇所】
・イザヤ18:2-7
・(また、九州やエチオピアへの預言の背景を示す文脈として)イザヤ20章の預言の一部も参照
【慰めの言葉】
主は、灼熱の太陽の下に現れる濃い雲のように、激しい日々の中でも心に涼やかな慰めと安心を与えてくださいます。
【励ましの言葉】
どれほど混乱した世の中であっても、神は常に私たちの傍におられ、信仰を持って祈り続けるならば、その恵みと導きが必ず実を結ぶと励まされています。
【戒めの言葉】
世俗の喧騒や祭りの騒ぎに流されることなく、常に神の声に耳を傾け、自らの心を清めることが求められています。もし神から離れてしまえば、かつてイスラエルや周囲の国々に見られたように、厳しい懲罰が訪れる恐れがあります。
【勧めの言葉】
家庭や教会での礼拝、祈り、賛美を通して、常に神の御顔に触れ、その恵みを受け入れる生活を大切にし、互いに助け合うことが強く勧められています。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちの心が誤った道に迷い、神から疎遠になっていると感じるならば、深く悔い改め、真摯な心で主の元へ立ち返るよう促されています。
【***詳細***】
本日の御言葉は、まずイザヤ書18章2節から7節の預言の朗読から始まりました。この箇所では、遠い異邦の国―その国は古代において大国として恐れられ、背が高く肌の滑らかな民が住む国―に対して、迅速な使者がパピルスの船に乗り、神の命令を伝える様子が描かれています。ここでの言葉は、ただ単に遠い昔の歴史的事象を記述するのではなく、現代における私たちへの重要な示唆として伝えられているのです。
この異邦の国、後にエチオピアとして呼ばれる国は、その国力の強さと多くの川が流れる肥沃な土地として知られていました。しかしその一方で、周囲を取り巻く強大な国々、特にアッシリアの脅威に晒される中で、神は自らの御計画に従って、この国に特別な役割と祝福を備えられたと預言されています。預言者は、この国の民へ、迅速な使者を送り、神のお告げと共に、彼らが悔い改めと内省、そして徹底した信仰の歩みを進めるよう促しています。
また、預言の中には、激しい太陽が照りつける中で突然現れる濃い雲の比喩が登場します。この比喩は、暑い日に現れる日陰と梅雨のような恵みの雨を想起させ、極めて過酷な環境下でも神がその民に慰めと潤いを与えてくださるという希望を示しています。つまり、どんなに不安定な時代や環境であっても、主は私たちの上に常に御顔を輝かせ、必要とされる恵みを注いで下さるという確固たる保証なのです。
さらに、聖書の中では、エチオピアとユダヤ人以外の民との交わりが強調されています。新約聖書においては、エチオピアの宦官がイエス・キリストの御名に預かり、洗礼を受けた出来事が記されており、これは異邦人に対しても神の御恵みが満ち溢れていることの表れです。エチオピアという遠い国が、古代より神の御心に従い、その歴史の中で祝福を受けたことは、私たちにとっても大きな励ましです。国境や人種、文化の違いを超えて、神の愛と救いは普遍的に与えられているという真理がここにあります。
一方で、預言は厳しい戒めも伴っています。たとえば、かつてイスラエルやその周辺の国々が、神への不従順と誇りによって災いを招いた歴史を思い起こさせます。もし私たちが、家庭や教会での祈りを疎かにし、世俗の誘惑に流されるならば、神の厳しい裁きや懲罰が下される可能性があるのです。これは決して罰としてではなく、真に神との正しい関係を保つための必要な戒めとして示されています。私たちは、日常のあらゆる瞬間において、神の御言葉を心に刻み、互いに励まし合いながら歩むことが求められているのです。
現代においても、世界は依然として戦争や政治的不安、異常気象など多くの試練にさらされています。こうした混乱の中で、私たちは一層、主に信頼し、その御顔を仰ぎ見る必要があります。たとえ外の世界が騒然としていても、家庭や教会という聖なる共同体の中では、神の御恵みと平安が豊かに流れ出しています。私たちが真摯な祈りと賛美に励むならば、どんな苦難も乗り越えることができると、聖書は私たちに教えてくれています。
また、エチオピアやセバの女王が遠い南から知恵を求め、またエチオピアの宦官が信仰によって新たな命を得た出来事は、神が歴史の中でいかに広く恵みを注いできたかを示す象徴です。これにより、私たちも自分自身の立場や背景に関係なく、主の計画に従って歩むことができるという希望を抱かされます。神は常に「悔い改めに立ち返る者」に対して、恵みと祝福を惜しみなく与えてくださるお方であり、それは今を生きる私たちにとっても変わることのない真理です。
そして、説教の終盤に差し掛かるにつれ、私たちは主の祈り―「天にまします我らの父よ…」―の深遠な意味に思いをはせるように促されます。この祈りは、単なる形式的な言葉ではなく、私たち一人ひとりが神との親密な交わりを実感し、絶えず心を新たにするための道しるべとなるものです。祈りを通して、日々の生活の中に神の御顔の光を迎え入れるとき、私たちは確固たる信仰によってその混乱や恐れを打ち破る力を得るのです。
また、教会における礼拝や家庭での小さな祈りの時間が、私たちの心だけでなく、共同体全体に神の恩寵を呼び起こすことを強調されています。互いに励まし合い、助け合うことの大切さは、単に個々の信仰の力を高めるだけでなく、全体としての霊的な強さへと結びついていきます。神が常に私たちに向けられるその慈愛の光を絶やさずに、困難や試練の中でも前向きに歩むことこそ、真に祝福された生き方であると説かれているのです。
最後に、私たちはこの説教から、混沌とする現代の中でも神の御言葉に従い、悔い改めと祈りを通して心を清め、主の御顔に近づくことの重要性を再認識することが求められていると理解します。たとえ外の世界がいかに荒れ狂っていても、神は眠ることなく、常に私たち一人ひとりの上に御顔を照らし、その愛と恵みを注いでくださいます。私たちが真摯な態度で主に仕え、互いに励ましながら日々を送るならば、その祝福は決して尽きることはありません。どうか、私たちがこの御言葉に導かれ、確かな信仰を持って歩む日々を重ねることができますように。
【結論】
結局のところ、私たちは混乱と不安に満ちた時代の中でも、神の御言葉に従い、心から悔い改め、祈りと信頼をもって主の恵みを受けることが最も大切です。エチオピアへの預言とその歴史的証しは、国境や時代を超えて神の愛が広がっていることを示しています。常に主の御顔に近づき、その恵みの中で歩む決意を新たにし、平和と希望を抱いて生きていきましょう。
なすべき正しい事を知っているなら(2サムエル記14:1-17)
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ダビデは、彼の長男アムノンが妹のタマルを犯した事について、特に何もせず2年放置したため、タマルの兄アブシャロムがアムノンを復讐で殺してしまう事件となってしまった。
それから3年が経ち、ダビデはアブシャロムの事を「気にかけて」はいたものの、実質的には、放置状態であった。
将軍ヨアブは、この状態は良くないと、一計を案じ、テコア出身のある賢い女を喪に服しているかのように装わせ、王の元に行って「これこれの事を語りなさい」と言付けさせた。
『テコアの女は王のもとに行き、地に伏して拝し、「王よ、お助けください」と言った。王は女に言った、「どうしたのか」。女は言った、「まことにわたしは寡婦でありまして、夫は死にました。つかえめにはふたりの子どもがあり、ふたりは野で争いましたが、だれも彼らを引き分ける者がなかったので、ひとりはついに他の者を撃って殺しました。
すると全家族がつかえめに逆らい立って、『兄弟を撃ち殺した者を引き渡すがよい。われわれは彼が殺したその兄弟の命のために彼を殺そう』と言い、彼らは世継をも殺そうとしました。こうして彼らは残っているわたしの炭火を消して、わたしの夫の名をも、跡継をも、地のおもてにとどめないようにしようとしています」。』(2サムエル記14:4-7)
彼女が訴えた状況は、ダビデがその時陥っている状況にとても似ている。
ダビデの子も、一方が一方を殺し、生き残っている方が、ないがしろにされている状態だ。
元々、アブシャロムに殺されたアムノンは、律法では絶たれるべき罪を犯したのに、一切咎めなく2年も放置されたままだった。そこをアブシャロムが復讐したのだが、彼は事実上、逃亡先に追放されたままの状態だ。
ダビデはそんなアブシャロムに、何の処断も下さないまま、今度は三年も放置したままの状態である。
『王は女に言った、「家に帰りなさい。わたしはあなたのことについて命令を下します」。テコアの女は王に言った、「わが主、王よ、わたしとわたしの父の家にその罪を帰してください。どうぞ王と王の位には罪がありませんように」。』(2サムエル記14:8-9)
ダビデ王は、彼女が「こうして下さい」と具体的な訴えを言う前から、その訴え内容を察知し、家に帰りなさいと言った。
彼自身に身に覚えがあるから、彼女が訴えたい内容は分かっていたのだろう。
『王は言った、「もしあなたに何か言う者があれば、わたしの所に連れてきなさい。そうすれば、その人は重ねてあなたに触れることはないでしょう」。女は言った、「どうぞ王が、あなたの神、主をおぼえて、血の報復をする者に重ねて滅ぼすことをさせず、わたしの子の殺されることのないようにしてください」。王は言った、「主は生きておられる。あなたの子の髪の毛一筋も地に落ちることはないでしょう」。』(2サムエル記14:10-11)
ダビデ王は、兄弟を殺した彼女の息子は保護され、死ぬことはない、と約束した。
ダビデがその処断を下した時、彼女は唐突に言う。
『女は言った、「どうぞ、つかえめにひと言、わが主、王に言わせてください」。ダビデは言った、「言いなさい」。女は言った、「あなたは、それならばどうして、神の民に向かってこのような事を図られたのですか。王は今この事を言われたことによって自分を罪ある者とされています。それは王が追放された者を帰らせられないからです。』(2サムエル記14:12-13)
彼女が「王は自分を罪あるものとしている」と言った道理は、すなわち、王は彼女に「兄弟を殺した息子は保護され死ぬ事はない」と処断したのに、王自身、それを守っておらず、「王が追放された者を帰らせられない」事だ。
すなわち王は、兄弟を殺した息子アブシャロムを放置したままにしているのに、他人にそのような処断を下すのは、矛盾している、と。
『人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。』(ヤコブ4:17)
もしも、なすべき正しい事を放置したままにするなら、する程、よけいに物事を混乱させてしまう。
放置された側には、どんどん良くない感情が蓄積されて行き、さらには別の大きな罪を犯させてしまうきっかけを作ってしまう事にもなりかねない。
『わたしがこの事を王、わが主に言おうとして来たのは、わたしが民を恐れたからです。つかえめは、こう思ったのです、『王に申し上げよう。王は、はしための願いのようにしてくださるかもしれない。王は聞いてくださる。わたしとわたしの子を共に滅ぼして神の嗣業から離れさせようとする人の手から、はしためを救い出してくださるのだから』。
つかえめはまた、こう思ったのです、『王、わが主の言葉はわたしを安心させるであろう』と。それは王、わが主は神の使のように善と悪を聞きわけられるからです。どうぞあなたの神、主があなたと共におられますように」。』(2サムエル記14:15-17)
彼女はやはり知恵深い。
王よ、あなたはこれこれの悪いことを行っています、という裁く言葉で終わるのではなく、王は聞いて下さる方、王は滅んでいこうとする人を救って下さる方、王は民草を安心させて下さる方、王は神の使いのように善と悪を聞き分けられる方だから、自分は進み出て言う決心がついた、と、ダビデ王がどういう人格の持ち主であるかを突いて来て、そして最後を祝福の言葉で終えている。
私達も、目上の人に提言をする時は、このように相手がどういう良き性質を持っているかを突いて、祝福の言葉で終える知恵を身に着けたい。
そして私達が主に申し上げる時も、主がどのようなお方であるかを突く時、主はその祈りを聞いて下さる事が多い。(創世記18:25、32:9、2歴代誌20:6-9)
今回、ヨアブはこの知恵深い女を通して、ダビデが放置したままにしている事を先に進ませるよう促した。
『あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことを/さし控えてはならない。あなたが物を持っている時、その隣り人に向かい、「去って、また来なさい。あす、それをあげよう」と言ってはならない。』(箴言3:27-28)
私達も、もし、為すべき正しい事を知りながら、また、その力が与えられておりながら、それを未だにしていないとするなら、今すぐ実行すべきである。
放置という対処 - いつ爆発するか分からない時限爆弾(2サムエル記13:28-39)
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- pastor 2015-9-7 6:05
放置という対処 - いつ爆発するか分からない時限爆弾(2サムエル記13:28-39)
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ダビデ王子の兄妹間で起きてしまった姦淫事件について、親であるダビデも、加害者のアムノンも、果たされるべき責任は果たされず、指導や懲らしめも無いまま、また、被害者のタマルに対する正当な補償も手付かずのまま、二年の歳月が経った。
ダビデもアムノンも、特に何もしないままに時が過ぎ、事件の重大さは月日を追うごとに段々薄れて行ったようであるが、タマルの兄アブシャロムは、その間、沈黙を守りつつも、復讐心を心に育んでいた。
そして時が熟したと見られる時、彼は遂に行動を起こす。
『そこでアブサロムは若者たちに命じて言った、「アムノンが酒を飲んで、心楽しくなった時を見すまし、わたしがあなたがたに、『アムノンを撃て』と言う時、彼を殺しなさい。恐れることはない。わたしが命じるのではないか。雄々しくしなさい。勇ましくしなさい」。アブサロムの若者たちはアブサロムの命じたようにアムノンにおこなったので、王の子たちは皆立って、おのおのその騾馬に乗って逃げた。』(2サムエル記13:28-29)
アムノンは、自分が強姦した相手の兄・アブシャロムが主催する宴席で、酔って、上機嫌になった。
自分が陵辱した相手の兄の前で、酔って上機嫌になれるようなアムノンの神経を見ると、やはり彼は、「自分がした事」への後ろめたさは、持ちあわせていなかったのだろう。
そこを彼は刺され、殺された。
こうして、預言者ナタンを通して主が警告した通り、ダビデの家に、剣の災いと、姦淫の恥がつきまとうようになってしまった。
それは、ダビデ自身が犯した姦淫と血の罪の結果である。
『しかしダビデの兄弟シメアの子ヨナダブは言った、「わが主よ、王の子たちである若者たちがみな殺されたと、お考えになってはなりません。アムノンだけが死んだのです。これは彼がアブサロムの妹タマルをはずかしめた日から、アブサロムの命によって定められていたことなのです。それゆえ、わが主、王よ、王の子たちが皆死んだと思って、この事を心にとめられてはなりません。アムノンだけが死んだのです」。』(2サムエル記13:32-33)
このヨナタブは、アムノンに、タマルと二人きりになれる方法を入れ知恵をした、あのずる賢い男である。
つまり、彼がこれら一連の事を起こした張本人とも言える。
彼は「アムノンの友人」であると言いつつも、そのアムノンが殺されてしまった事について、動揺なく報告できる神経の持ち主であり、また、彼自身の言葉からは、自分もこの事を引き起こした事の一端を担っているというような悔悟の念が、微塵も感じられない。
『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』(箴言27:17)
アムノンは実に、自分の身を滅ぼす「悪い友」を持ってしまったようである。
『彼が語ることを終った時、王の子たちはきて声をあげて泣いた。王もその家来たちも皆、非常にはげしく泣いた。』(2サムエル記13:36)
ダビデ王も、王子たちも、家来たちも、心から悲しんだ事だろう。こんな罪の応酬が、王家の中で起きてしまったのだ。
第三者から見れば、アムノンのような、妹を力づくで犯すような者は、死んで然るべしと思えるかもしれないが、しかしダビデは、彼ら全員の父である。どれ程、心刺されただろう。
また、私達の父なる神様は、私達・主にある兄弟姉妹同士でいがみあい、殺し合い、はずかしめ合うとするなら、どれ程心痛められるだろう。
『しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。アブサロムはのがれてゲシュルに行き、三年の間そこにいた。王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである。』(2サムエル記13:37-38)
アブシャロムは長男を殺した後、母の故郷ゲシュルに逃れた。ゲシュルの王タルマイはアブシャロムにとって祖父である。
ダビデはアブシャロムを心にかけており、あれから3年も過ぎた後、ダビデはアムノンの事についても慰めを得たため、彼はアブシャロムに会う事を、切に望んでいた。
アブシャロムは、ダビデにとって、大事な長男アムノンを殺した、張本人である。
しかし、アムノンはアブシャロムに殺されても仕方ない事をしたのであるし、アブシャロムの殺意を汲み取りもせず放置し放ったらかしのままにしたのは、親であるダビデである。
だから、お互い会いたいとしても、いざ会った時、自分をどういう立ち位置に置いて接して良いのか、どう話を切り出せば良いのか、互いに分からなかったのではなかろうか。
それで3年という期間、互いに何も切り出せないままの「放置の状態」だったのではないだろうか。
もしダビデがアブシャロムを呼び寄せて、長男を殺した事について懲らすとするなら、それなら、なぜアムノンは懲らさずにいて、今更アブシャロムだけ懲らすのか、と言われると、何も言えないだろう。
ダビデは、「懲らすべき事を何もせず放置したまま」という、非常にまずい対応をした故に、それによって首根っこ掴まれ、子たちにもはや何も出来ず、そのダビデの「何も出来なさ」が、今度はアブシャロムをも滅びへと導いてしまう。
面倒くさい事をすぐに対処せず、「放置」したままにする。それは楽かもしれない。
しかし放置されればされる程、その期間に沸々と育ってしまう良からぬものがあり、やがてそれが爆発するなら、取り返しの付かない悲惨な事になってしまう事が多々あるという事も、忘れてはならない。
私達も、このダビデ王家のいびつな親子関係から、学ぶべきである。
親子同士、あるいは家族同士、普段からしっかり心を通じ合わしておくべきであり、もし何かを犯したなら、すぐに懲らすべきは懲らし、責任を取らせるべきはしっかり取らせるのだ。
そうでないと、状況はどんどんいびつに、不健全になって行ってしまい、ついには取り返しの付かない事になってしまうから。
人の心は、愚かさに繋がれている。
御言葉という杖によって、それが断ち切られる。
私達は普段から御言葉によって養われ、互いに教え戒めあいつつ、愚かさを除き去り、そうして信仰の継承をしっかりして行く者でありたい。
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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- 執筆 :
- pastor 2015-9-5 23:26
イザヤ書講解説教メッセージ
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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【概要】
本日の説教は、イザヤ書17章をもとに、ダマスコに対する神の宣告と、罪に陥った民への厳しい警告、そして悔い改めと神の憐れみの望みについて語られています。
【聖書箇所】
・イザヤ17:1‐11(ダマスコに対する宣告、イスラエルとの関わり、そして残された憐れみについて)
【慰めの言葉】
主は、厳しい裁きの中にも、ご自分につながり信頼する人々にわずかでも憐れみのしるしを残される方です。
【戒めの言葉】
私たちは、偶像やこの世の価値観に流されると、神の民としての誇りを失い、滅びの危機にさらされるという真実を、決して忘れてはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
自らの罪と弱さを認め、神の前に心から悔い改めることが、救いと再生への唯一の道であることを、改めて訴えています。
【勧めの言葉】
日々の生活において、真の信仰と献身をもって神に立ち返り、世俗的な誘惑に屈しない堅固な意志を持って生きるよう努めるべきです。
【***詳細***】
本日の説教は、まず冒頭で「イザヤ書17章」を読み上げながら、ダマスコに対する宣告の御言葉に触れています。冒頭の一節では、ダマスコが「取り去られ、町で滅び、廃墟となる」と預言され、これは単に古代のシリア地方の一都市が破壊されるという歴史的出来事だけではなく、私たちの罪深い状態、すなわち神に背いた結果としての霊的な廃墟状態を象徴していると語られました。説教者は、自分たちが犯してきた罪や、神と人との関係を乱すあらゆる行為を、全面的に投げ捨て、清められた存在となるよう、神に整え直していただくことを願う祈りを捧げます。
次に、説教はダマスコというシリア地方の中心都市が、かつてアラムという国の中で果たしていた重要な役割や、北イスラエル王国との活発な交流に触れます。当時、ダマスコは文化と交流の中心地として輝いていましたが、同時にその繁栄の影で不誠実な信仰や、偶像に頼る生活が横行していたと指摘されます。すなわち、イスラエルとの交流の中で、真実の神を信じる姿勢が薄れ、他国の価値観や神々に頼ろうとする態度が見られたため、神の怒りが下される結果となったのです。説教者は、これを現代のクリスチャンに対する警告としてとらえ、世の中の享楽や誤った価値観に流されると、結局は神から受けるべき憐れみさえも遠ざかってしまう現実を告げています。
また、イザヤ書の中で語られる裁きの中には、ただ断罪だけでなく、厳しいながらもごくわずかに神の憐れみが残されるという希望のメッセージが含まれています。例えば、預言の一部では「二節以降」や「三節」において、ダマスコやエフライム(北イスラエル王国)の運命が厳しく宣告される一方で、神がわずかな残りの民に対し、栄光と救いをもたらすという描写がなされます。これは、たとえ罪深い状態にあっても、真に主に立ち返る者は神の恵みを受け入れることができるという希望でもあります。残されたわずかな実が、木の最も高い場所にあるために人には取ることができないように、神はご自身に忠実な人々を決して見捨てません。
さらに、説教の中盤では、イスラエルの民が偶像崇拝へと走り、本当に与えられた「ブドウの種」を神から受け取るのではなく、他国のものに頼ってしまったという事実が挙げられます。その結果、彼らは自分たちが育てた見かけの実(偽りの祝福)を、神の厳しい裁きによって刈り取られてしまうことが語られます。現代の私たちにおいても、社会の中で作り上げられる価値観や、自分たちが自ら築き上げた偶像に依拠する生活は、いずれ神の前で厳しく問われることとなります。説教者は、こうした危険性を具体的な例えを用いて力強く伝え、私たち一人一人に対し、本来あるべき神との正しい関係を取り戻すため、悔い改める決断を促しています。
その後、説教は国々の民や大水の轟のような勢いを例に出して、神の裁きの速さと確実さについても語られます。たとえ、どれほど巨大な勢力であっても、神がお叱りになると、それは風の前のもみ殻のように散ってしまいます。実際に、アッシリアという大国がイスラエルを囲むほどの軍勢を率いても、神の一声によってその威勢は一朝にして崩壊したという歴史的事実が示されています。これは、今を生きる我々に対し、世の権勢や自らの力に頼ることの無意味さを強調するものです。
そして、説教の終盤では、教会に属する私たちが、神の御前にふさわしい働き人として清められるべきだという決意が表明されます。私たちは、世俗の価値観に染まってはならず、神の御心に従う真実の信仰者として、日々の生活の中で自らの行いを省みるよう促されます。自分自身で築いた祭壇や作り上げた神々、さらには他国の成功や文化に傾倒することは、結局は神から離れる道であると戒められています。説教者は、今この瞬間に自分の心を神に開き、悔い改め、真の信仰に立ち返る決断をするよう、会衆一人一人に手を差し伸べています。
最後に、説教は実際の祈りの時間へと移行し、イエス・キリストの御名によって、私たちの愚かさを嘆き、悔い改めと更新を求める祈りが捧げられます。私たちは、神の御前にあって自らの弱さを認め、再び確かな信仰の歩みを始めるための内面的な変革を熱心に願わなければなりません。主の祈りをもって、日々の糧と罪の赦し、そして試練に負けない強い信仰を求めるその祈りは、現代のクリスチャンにとっても非常に大切なものであると強調されています。
このように、イザヤ書17章の御言葉を通して、我々は神からの厳しい警告とともに、悔い改めるならば必ず与えられる憐れみと救いの希望を学びます。世の権勢やその他のものに心を奪われるのではなく、たった一人一人が自らの内面を見つめ、神の御前に清く立つ決意を新たにするよう求められているのです。私たちがもし、一度でも立ち止まり、自分の行いと信仰を正しく省みるならば、神は必ずその心を清め、御前にふさわしい使徒として整えてくださいます。
【結論】
イザヤ書17章の御言葉は、ダマスコと北イスラエルの運命を預言するとともに、私たちに真の信仰と悔い改めの決断を迫っています。たとえ過ちや偶像に流れる時があっても、神は真心で立ち返る者に憐れみと救いの望みをお与えになります。私たち一人一人が自らの罪を認め、神の御前に清く立つ決意を新たにし、世の誘惑に惑わされることなく、真実の神の国を築く働き人として生きるよう、祈りと決意を新たにしましょう。
子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-5 16:17
子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
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『兄アブサロムは彼女に言った、「兄アムノンがあなたと一緒にいたのか。しかし妹よ、今は黙っていなさい。彼はあなたの兄です。この事を心にとめなくてよろしい」。こうしてタマルは兄アブサロムの家に寂しく住んでいた。ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。』(2サムエル記13:20-21)
このわずかな節から、ダビデ王が長男アムノンを普段、どのように扱って来たかが、大体想像できる。
ダビデ王は、この一連の事件を「聞いてひじょうに怒った」事は書いてあっても、その事でアムノンを懲らしたり、責任を取らせたりした記述は無い。
今回の被害者・タマルは、兄アブシャロムの家でわびしく住んでいた、という事は、ダビデは、アムノンが取るべき責任を取らせず、そのままにしていた、という事だ。
つまりアムノンは、普段から、衝動的・突発的に何かをしてしまった時も、大目に見られ、その事の責任を取らされて来なかったと想像できる。
だからあの事をたくらみ、「今回もなんとかなる」「律法にはああ書かれてあるけれど、自分はこれをしても、罰は及ばない」などと思って、事を起こしたのだろう。
確かにダビデも、律法に照らすなら、死ぬべき罪を幾つか犯している。
しかし、ダビデが赦され、生きながらえているのは、少なくとも彼は自分の罪を認め、悔い改め、そして自分が被害を与えたバテ・シェバに対しては、しっかり責任を取ったからだ。
それなのにアムノンは、お咎めなしのまま放置されてしまっている。
とするなら、それはアムノンを滅びへと至らせてしまう事だ。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言23:13-14)
『「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:5-7)
聖書は、子を懲らしたりむちを加える事によって、子から愚かさを削ぎ落とし、悪から救い出すようにと色々な箇所で示している。
しかし現代日本では、懲らしめはタブー視されている。
そのようにして育てられた子は、アムノンのように、激しく思うと歯止めが効かなかったり、何か事を犯しても、それを自分が責任を取る事をすっかり抜かしてしまうようになってしまうものだ。
ダビデは、アムノンを懲らしめたり、責任を負わせたりする事をしなかった。それが為に、彼を滅びと至らしめてしまう。
ダビデは、アムノンと同じような事をした過去を持っているため、うしろめたさがあったのかもしれない。それで強く言えなかったのかもしれないが、相手が自分と同じ罪を犯したなら、なおさら、経験した者としていっそう強く言うべきだった。
ダビデは、姦淫の罪を指摘された時、詩篇51編でこう告白している。
『あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。』(詩篇51:12-13)
彼は、もし自分を赦して下さるなら、「とがを犯した者に/あなたの道を教え」ましょう、と、この時約束している。
しかし彼はそれをしなかった。
こうして、何も取り扱われないまま、月日が過ぎていく。
『アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。それはアムノンがアブサロムの妹タマルをはずかしめたので、アブサロムが彼を憎んでいたからである。』(2サムエル記13:22)
タマルの兄・アブシャロムは、表向き、何もないかのように装っていたが、心はそうでななかった。
ダビデは特に何もしないまま、アムノンは平然としたまま、そして、アブシャロムは殺意の心を熟成しながら、2年の月日が過ぎて行き、そしてある日、事件が起きてしまう。