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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

バルジライに対するダビデの対応(2サムエル記19:31-40)
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『さてギレアデびとバルジライはロゲリムから下ってきて、ヨルダンで王を見送るため、王と共にヨルダンに進んだ。バルジライは、ひじょうに年老いた人で八十歳であった。彼はまた、ひじょうに裕福な人であったので、王がマハナイムにとどまっている間、王を養った。王はバルジライに言った、「わたしと一緒に渡って行きなさい。わたしはエルサレムであなたをわたしと共におらせて養いましょう」。』(2サムエル記19:31-33)

バルジライは、ダビデ王が都落ちした時から勝利するまで、始終一貫、王への忠誠を示し、ダビデがマハナイムに留まっている間、ずっと王を養っていた。
王について行った人達は、少なくとも2000人以上いたはずである。
彼らを一日養うだけでも、かなりの食料や経費と労力がかかったであろうが、バルジライは全てをまかなっていたのである。
ダビデ王は、そんなバルジライに報いたいと思い、一緒にエルサレムに来るよう申し出たのだ。

人はそれぞれ、主から賜物(ただで受けた贈り物)が与えられている。
それはバルジライのように富であったり、能力であったり、霊的な力であったりするのだが、おのおのに与えられた賜物を用いて、主にある兄弟姉妹の不足を補いあい、そうして互いが一つとなって、キリストのからだを建て上げて行くのである。
バルジライは、主から与えられた「富」を我がものとせず、主にあって戦いを戦っているダビデ達を支えるために、喜んで供与した。このようにして、彼も主の働きに参加したのである。

神の国はこのように、主から「ただで受けたもの(賜物)」を互いに分け合い、補い合い、そうしてキリストのからだを建て上げて行くものである。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。』(ローマ12:3-8)

ダビデは、自分達を助けてこんなにも良くしてくれたバルジライに、何とか報われて欲しいと願ったのだが、バルジライは、自分は老い先が短く、またあまりに年老いているため、せっかく美味なごちそうを頂いても、あるいは、せっかく男女の美しい歌声を聞いても、自分はもうそれらを味わう感覚が衰えてしまっている、そんな自分を招いてもらっても、ただ王の重荷になるだけです、と言って、丁重に辞退した。
バルジライはなんと慎ましい心の持ち主だろう。

ダビデが落ちぶれていた時は、冷たくあしらっていたのに、いざ、ダビデが隆盛を戻したとたんに、手のひらを返したかのように媚びて来たような人達は、大勢いた。
老い先が短く、味覚も聴覚も衰えているのに、自分ばかりが富をひとり占めにして、味わえもしないグルメ三昧したり、感性も無いのに芸術三昧しているような人は、多くいるかもしれない。
そんな中、バルジライは一切、見返りを期待する事なく、ただ、主に忠実なダビデを助けたい、という一心で、彼に与えられた富を分与し、それの報いを自分自身が受け取る事を辞退したのだ。

『どうぞしもべを帰らせてください。わたしは自分の町で、父母の墓の近くで死にます。ただし、あなたのしもべキムハムがここにおります。わが主、王と共に彼を渡って行かせてください。またあなたが良いと思われる事を彼にしてください」。王は答えた、「キムハムはわたしと共に渡って行かせます。わたしは、あなたが良いと思われる事を彼にしましょう。またあなたが望まれることはみな、あなたのためにいたします」。』(2サムエル記19:37-38)
このキムハムは、彼の息子であろう。
ダビデが死ぬ日が近づいた時、彼は跡を継ぐソロモンに、バルジライの子らに恵みを施すように特に指示をしている。(1列王記2:7)
後のバビロン捕囚の時代、ベツレヘム近くに「ゲルテ・キムハム(キムハムの宿所)」と呼ばれる土地がエレミヤ書で出てくるが(エレミヤ41:17)、もしかしたら、キムハムの子たちはダビデの故郷・ベツレヘム近くに土地を得て、その子孫達がバビロン捕囚の時まで生き残っていたのかもしれない。

『こうして民はみなヨルダンを渡った。王は渡った時、バルジライに口づけして、祝福したので、彼は自分の家に帰っていった。王はギルガルに進んだ。キムハムも彼と共に進んだ。ユダの民はみな王を送り、イスラエルの民の半ばもまたそうした。』(2サムエル記19:39-40)
かつては息子アブシャロムに卑しめられ、追われつつ渡ったヨルダン川だったが、今やダビデは栄誉を受け、同行する人数も非常に多くなっていた。

王の王であるキリストも、ダビデ王が経験したように、今は人々から卑しめられているように見えてはいても、やがては全ての敵を滅ぼし、天の軍勢を従えて来られる時が来る。
その時、ダビデの時に起こったのと同じように、人々は地上で為した行いに応じて、それぞれに報いが与えられる。
『人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。』(マタイ25:31-40)

バルジライは、ダビデが困窮した時、彼を訪ね、賜物として与えられていた富をもってダビデ達に食べさせ、宿を貸し、着るものを与えた。
彼も、メフィボシェテも、地上ではあまり報いられるという事がなかったが、彼の子孫は栄え、そして彼らの栄誉は、永遠の書物に記された。
この地上は、報いられるという事が少ないかのように見えても、主は必ず、永遠において報いて下さるお方なのだ。

メフィボシェテに対するダビデの対応(2サムエル記19:24-30)
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ダビデ王のエルサレム帰還に伴い、色々な人々の思惑が交錯する中、真っ先にダビデを迎えに出たのは、サウル家に属するシムイやツィバだった。

しかし、彼らが誰より先にダビデを迎えに来たのは、ダビデの勝利と無事を喜んで、という事ではなく、下心を持っての事だった。
そして、彼らの次にダビデを迎えに来たのは、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテだった。

『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。

ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、メフィボシェテのしもべであるツィバは、メフィボシェテに与えられているダビデの恵みを横取りしようとしたのか、ダビデが落ちのびて行った事をあたかも喜んでいるかのような、偽りの報告をした。
ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。(2サムエル記16:1-4)

それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかった。
『「メピボセテよ、あなたはどうしてわたしと共に行かなかったのか。」彼は答えた、「わが主、王よ、わたしの家来がわたしを欺いたのです。しもべは彼に、『わたしのために、ろばにくらを置け。わたしはそれに乗って王と共に行く』と言ったのです。しもべは足なえだからです。ところが彼はしもべのことをわが主、王の前に、あしざまに言ったのです。しかし、わが主、王は神の使のようでいらせられます。それで、あなたの良いと思われることをしてください。』(2サムエル記19:25-27)

ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。

『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。

『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)

ツィバは、メフィボシェテよりも一足早く、十五人の息子と二十人のしもべを従えてダビデ達に会いに来ており(17節)、ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。
足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)

ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)

人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世である。

人は不完全で判断を誤ってしまう事もあるが、主イエスは全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。
良い事で報われない人は、必ず報われ、悪を事で報いを受けていない者でも、やがて、相当のさばきをされるお方である。
メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った。(2サムエル記9:12、1歴代誌8:34-40)
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。

ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
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ダビデ達が、逃亡先のマハナイムから、首都エルサレムへと帰還するにあたり、彼らを真っ先に迎えに来たのは、意外な人物であった。


『バホリムのベニヤミンびと、ゲラの子シメイは、急いでユダの人々と共に下ってきて、ダビデ王を迎えた。一千人のベニヤミンびとが彼と共にいた。』(2サムエル記19:16-17)
覚えているだろうか。ゲラの子シメイは、ダビデ達が悲しみの内に都落ちしている所に現れ、一行にさかんに呪いの言葉を吐きつつ、石を投げ続けた彼である。
彼は、千人のベニヤミン人を連れて来た、という事は、サウル家の中でも、かなりの力があったのだろう。

その彼は、今、真っ先にダビデの前に現れて、さかんに命乞いをしている。
『どうぞわが君が、罪をわたしに帰しられないように。またわが君、王のエルサレムを出られた日に、しもべがおこなった悪い事を思い出されないように。どうぞ王がそれを心に留められないように。しもべは自分が罪を犯したことを知っています。それゆえ、見よ、わたしはきょう、ヨセフの全家のまっ先に下ってきて、わが主、王を迎えるのです。』(2サムエル記19:18-20)

かつてシムイがダビデを呪い石を投げつけていた時、ダビデは言った。
『彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(16:11-12)
ダビデは、泣きっ面の所に蜂が来たようなこの状況においても、主は必ず省みて善を報いて下さる、と信仰告白をした。
今、まさに彼が信じた通りに成っている。

私達も、主によって低くされている時は、忍耐しつつ御前でへりくだり、主は必ず最善を為して下さる、という期待と信仰を持ち続けるなら、主は丁度良い時に引き上げて下さり、呪った者を目の前に連れて来させ、ひれ伏させて下さるのだ。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)

『ゼルヤの子アビシャイは答えて言った、「シメイは主が油を注がれた者をのろったので、そのために殺されるべきではありませんか」。ダビデは言った、「あなたがたゼルヤの子たちよ、あなたがたとなにのかかわりがあって、あなたがたはきょうわたしに敵対するのか。きょう、イスラエルのうちで人を殺して良かろうか。わたしが、きょうイスラエルの王となったことを、どうして自分で知らないことがあろうか」。こうして王はシメイに、「あなたを殺さない」と言って、王は彼に誓った。』(2サムエル記19:21-23)
ダビデは、この者に復讐したい気持ちは、あったかもしれない。
しかし、彼は誰よりも先にダビデを迎えに出て来た、というのもまた、紛れも無い事実である。
そんな彼を、無下に殺してしまったとしたら、王国の民の間で「真っ先に迎えに来た人を殺した」と、衝撃が走ったであろう。
そうなると、先にせっかくアマサへ示した憐れみの抜擢も、無に帰してしまう。
上に立つ者は、自分の感覚だけで生きてはならず、臣下の心を萎えさせたり、躓いたりしないように気をつけて生きなくてはならないのだ。
それ故、上に立たされた人は、主に知恵を求める必要がある。

シメイはこの時、確かにダビデに赦された。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われた。
しかし、王権がソロモンへ改まった時、彼はソロモンの言葉どおりに徹しなかった故に、殺される事になる。(1列王記2:36-46)

ダビデは、赦しと憐れみに満ちた王である。
人の中には、その赦しと憐れみを逆手に取って、うまくやりくりする人もいるかもしれない。
しかし、やがて時が改まる時、闇に隠れていた事は全て光の内に照らされ、心の内に秘めていた事も全て露わにされ、正当なさばきが執行される。
これは、王の王であるキリストが再臨される時にも、同じである。
『だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。』(13:40-43)

私達は、シメイのような世渡り上手さを身につけなくても良いし、そのような者が跳梁跋扈している様を憂わなくて良い。
私達はただ、普段より、心から主に従い、またダビデのような愛と憐れみ、赦しのわざを、自分のものとして歩んでいるなら、全て人の企みや心を見透かされる主が、正しく報いて下さり、引き上げて下さるからだ。

イザヤ書講解説教メッセージ

ドマ(エドム)に対する宣告とアラビヤに対する宣告(イザヤ21:11-17)
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【概要】

本日の御言葉は、イザヤ書21章11節から17節の預言を中心に、神が与える祝福の本質と、その祝福を軽んじた時に訪れる戒めの時を示しています。私たちが正しい生き方を選び、神の御心に従うことで、昼の光のような豊かな祝福と未来が約束されるというメッセージです。

【聖書箇所】

  • イザヤ21:11-17

  • 創世記27:39-40

  • ルカ23:8-9

【戒めの言葉】

日常生活において、神から賜る祝福を自己中心的な行いや軽率な判断で粗末に扱うと、神の厳しい戒めが下され、暗い時代が訪れる危険性があることを警告します。

【励ましの言葉】

どんな困難な状況下でも、私たちは神に真摯に心を寄せ、互いに助け合いながら輝く昼のような人生を歩むことができると信じ、希望を持って進むよう励まします。

【悔い改めの促しの言葉】

これまでの歩みを振り返り、神の御言葉を軽んじた過去を悔い改めることにより、真の祝福へと立ち返る心を今一度求めましょう。

【***詳細***】

本日の説教では、まずイザヤ書21章11節から17節において、預言者が「土間に対する宣告」を通して、エドムの民に与えられた警告を伝えていることに注目します。ここで使われる「土間」という語は、元来エドムを象徴する象徴的表現であり、ヘブライ語の「ドゥマー」(沈黙)に通じる意味を持っています。すなわち、エドムの民は神の御言葉に対して無関心あるいは軽んじる態度を取った結果、重大な祝福を逃し、暗い夜のような時を迎える運命にあったという戒めが込められているのです。

この預言は、古代のイスラエルとその周辺諸国に対する神の審判として語られているだけでなく、現代の私たちにとっても大きな意味を持ちます。たとえば、創世記27章39節から40節に記されているエサウの物語に見るように、長男の権利や祝福は、決して軽んじてはならない貴重なものであり、たとえ得られた富や地位があっても、その背景にある神の御計画や御心を軽視すれば、取り返しのつかない結果を招くのです。エサウは、父イサクの祝福を不適切な欲望に流された結果、弟ヤコブにその権利を奪われてしまいました。これは、神が与えた祝福を正しく受け止める重要性を私たちに強く示しています。

次に、説教はエドムのみならず、アラビヤに対する預言へと話を展開します。アラビヤの住民は、古代から豊かな地下資源や裕福さに恵まれていたにもかかわらず、その富を弱い者や困窮する者のために活用せず、自己中心的な利益の追求に走りました。預言者は、こうした態度に対する神の裁きを警告すると同時に、真の祝福とは、神が用意された恵みを正しく分かち合い、困っている人々を助けることでしか成立しないという教えを強調しています。すなわち、外面的な豊かさや一時的な経済的成功は、神の御言葉によって生かされる正しい行いの上に成立するものであり、それを怠れば、いつかは失われてしまう運命にあるのです。

また、ルカ23章8節から9節において、イエス様に対して誤った態度で臨む人々の姿が描かれています。権勢や名声にとらわれ、自分の利益ばかりを追い求める人は、イエス様の真理を正しく理解せず、神のご意志を軽んじる結果となります。その態度は、かえって神の厳しい裁きを招くこととなり、真の救いと祝福から遠ざかってしまいます。ヘロデの例が示すように、神の前ではどのような権力や名声も無力であり、私たちは常に謙虚な心で神の御心に従うべきであるという戒めを、改めて心に刻む必要があります。

このように、今日の御言葉は、私たちに二つの重要なメッセージを伝えています。ひとつは、神が与えてくださる祝福は、ただ単に贈られるものではなく、正しい行いと謙虚な信仰によって維持されるべき貴い賜物であるという点です。もうひとつは、祝福を乱用し、自己中心的に扱ってしまった場合、その結果として暗い夜の時が訪れ、神の祝福が取り返しなく失われるという厳しい現実です。預言者は、友や隣人、そして自分自身を顧みることの大切さを、具体的な歴史的背景と本質的な霊的教訓をもって語っています。

私たち現代のクリスチャンは、古代の預言に学び、自分たちの日常生活において神の御言葉をどのように実践すべきかを常に問い続けなければなりません。経済の変動や社会の混乱の中で、骨身にしみるような試練に直面することもありますが、その一方で、互いに助け合い、真の意味での「昼」の生活を追求する努力が求められています。正しい裁量で祝福を分かち合い、弱い者を助ける行いこそが、神から賜る本当の富であり、また永遠の命への道であるのです。

この説教を聞く私たちは、今一度立ち止まり、自分自身の行いを見つめなおす必要があります。もし過去に自己中心的な決断や、祝福を当たり前と考えていた部分があれば、心から悔い改め、神の御心に立ち返るべき時です。そして、明るい昼の光の中で、互いに愛と敬い合いながら歩む生活を誓い、周囲の弱者や困っている者に惜しみなく助けの手を差し伸べることで、神の祝福に相応しい者となるよう努めることが大切です。

最後に、預言者が記された言葉が、ただ歴史の中の出来事を伝えるに留まらず、現代を生きる私たちへの生きた教訓であることを強く理解しましょう。神は、私たち一人ひとりに対し、正しい歩みと誠実な信仰、そして愛の実践を期待されています。日々の祈りと聖書の学びを通して、私たちは神の御心に従い、真に祝福された人生を歩むことができるのです。どうかこの御言葉をもとに、悔い改めと共に新たな一歩を踏み出し、昼の光のような明るい未来を迎えられるよう心からお祈りいたします。

【結論】

神が与える祝福は、単なる偶然や恵みではなく、正しい生き方と謙虚な信仰の上に築かれる貴重な賜物です。私たちは、過去の誤りを悔い改め、神の御言葉に従い、互いに助け合う愛の実践を通して、明るく祝福に満ちた昼の人生を歩むことを心に誓いましょう。アーメン。

ダビデによる憐れみと赦しの采配(2サムエル記19:1-15)
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ダビデに反逆した彼の息子・アブシャロムは、ヨアブによって惨殺され、こうして戦いは決着がついた。

それは、戦いに出た戦士達には喜ばしい事だったが、ダビデにはそうではなかった。
『時にヨアブに告げる者があって、「見よ、王はアブサロムのために泣き悲しんでいる」と言った。こうしてその日の勝利はすべての民の悲しみとなった。それはその日、民が、「王はその子のために悲しんでいる」と人の言うのを聞いたからである。そして民はその日、戦いに逃げて恥じている民がひそかに、はいるように、ひそかに町にはいった。王は顔をおおった。そして王は大声に叫んで、「わが子アブサロムよ。アブサロム、わが子よ、わが子よ」と言った。』(2サムエル記19:1-4)

戦士たちは、せっかく命をかけて戦って勝利したのに、喜び迎え入れられないどころか、ダビデはこの度の敵であるアブシャロムの死のほうを、悲しんでいる。
人々には、ダビデのこの対応は、理解し難いものだっただろう。
そこでヨアブは諫言する。

『あなたは、きょう、あなたの命と、あなたのむすこ娘たちの命、およびあなたの妻たちの命と、めかけたちの命を救ったすべての家来の顔をはずかしめられました。それはあなたが自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、軍の長たちをも、しもべたちをも顧みないことを示されました。きょう、わたしは知りました。もし、アブサロムが生きていて、われわれが皆きょう死んでいたら、あなたの目にかなったでしょう。』(2サムエル記19:5-7)
ヨアブが言った事は、正論である。
戦士たちは、町で待機していたダビデや彼の妻、息子娘のために、危険な戦場で戦ったのに、そんな彼らの献身と努力を一切無視するかのような行為を、ダビデはしているのである。
むしろダビデには、敵であるアブシャロムの命ほうが、自分達の命よりも大切であるかのように見た人もいただろう。

ところで、ヨアブのこの正論よりも前に、忘れられている事が無いだろうか。

ダビデは戦う前から、息子アブシャロムをゆるやかに扱って欲しい、と、全員に願っていた。
アブシャロムは、自ら木に引っかかって宙吊りになってしまうという、ヨアブが生け捕りにしようと思えば、いくらでも出来た状況だったのに、彼は無防備なアブシャロムの心臓を槍で貫き、10人がかりでなぶりものにし、彼の死体を、ほら穴に投げ込み、その上に石くれの山を積み上げた。
敵を打ち取る事、クーデターを起こした謀反者に制裁を加える事、それはヨアブにとって「正義」だったかもしれないが、しかし明らかに命令違反であり、ダビデの意図を踏みにじる行為だ。

『今立って出て行って、しもべたちにねんごろに語ってください。わたしは主をさして誓います。もしあなたが出られないならば、今夜あなたと共にとどまる者はひとりもないでしょう。これはあなたが若い時から今までにこうむられたすべての災よりも、あなたにとって悪いでしょう」。』(2サムエル記19:7)
ヨアブは、自分が「してしまった事」に一切触れる事無く、悪びれる事も悔む事も無く、あたかも自分は完全に正しくてダビデが間違っており、自分は、部下全体の総意を伝えているかのような。
しかも、自分の言うとおりしないなら、あなたは今までにない非道い災いが降る、とまで、半ばおどすような発言もしている。

確かにダビデの対応は、部下の心を離れさせる行為であった。
しかしここで一つはっきりした事は、ヨアブは主君・ダビデを軽んじており、ダビデの命令を聞かないばかりか、自分が聞かなかった事について一切言及する事なく、むしろ半ば脅すような形で指示までしている。
『しもべは言葉だけで訓練することはできない、彼は聞いて知っても、心にとめないからである。・・・しもべをその幼い時からわがままに育てる人は、ついにはそれを自分のあとつぎにする。』(箴言29:19-21)

『そこで王は立って門のうちの座についた。人々はすべての民に、「見よ、王は門に座している」と告げたので、民はみな王の前にきた。』(2サムエル記19:8)
ダビデは、ヨアブが命令違反した事について、また、自分がした事について、全く悪びれない様子に対し、特に何かをした、という記述は無い。
ただヨアブの進言どおりを、無言でそのまま実行したが、ダビデはヨアブを、もう将軍の座から降ろそうという決心があった。

さて、クーデターを起こしたアブシャロムの側についていた大多数の人達は、アブシャロムのあっけない死の故に、混乱状態にあった。(2サムエル記19:8-10)
彼らは議論している。
ダビデは昔からイスラエルのために体を張って戦い、自分たちをペリシテから救ってくれていたではないか、それなのに、自分達は浅はかにも、若く美しくて勢いのあるアブシャロムへとなびいて、彼を王とし、そうしてダビデに反逆してしまった。
そのアブシャロムがあっけなく死んでしまった今、唯一イスラエルを導いてくれるべき王は、ダビデしかいない。しかし彼は、遠い地に逃れている。
また、ダビデはこれから自分達・アブシャロム側についた「反乱軍」に、どのように出るかも分からない。

ダビデは、そんな気まずい思いをして手をこまねいている彼らに、明快な方向性を示す。
『ダビデ王は祭司たちザドクとアビヤタルとに人をつかわして言った、「ユダの長老たちに言いなさい、『全イスラエルの言葉が王に達したのに、どうしてあなたがたは王をその家に導きかえる最後の者となるのですか。あなたがたはわたしの兄弟、わたしの骨肉です。それにどうして王を導きかえる最後の者となるのですか』。』(2サムエル記19:11-12)
ダビデはまず、自分の身内であるユダ族に言う。
あなたがたが何を議論しているか、自分は知っている、それなら早くわたしを迎えに来なさい、と。
そればかりではない。

『またアマサに言いなさい、『あなたはわたしの骨肉ではありませんか。これから後あなたをヨアブに代えて、わたしの軍の長とします。もしそうしないときは、神が幾重にもわたしを罰してくださるように』」。』(2サムエル記19:13)
アマサは、ダビデとは遠い親類関係にあったが、ダビデの敵軍の長としてアブシャロムに任命された者である。(17:25)
つまり、ついさっきまで、ダビデの命を狙っていた側の将だ。
そんなアマサに、ダビデは言う。ヨアブを軍団長の座から降ろし、彼に代わってあなたを長としよう、と。
この、驚くような恵みの決定は、アブシャロムの側についていた人々を、どんなに安心させた事だろう。

アブシャロムは確かに人身操作術には長けていたかもしれない。
しかし、彼にくみした軍師アヒトペルが自殺してしまうようような、どこか心遣い無しな所があった。
それに引き換え、ダビデには、愛と憐れみ、赦しと温かみがあった。
『こうしてダビデはユダのすべての人の心を、ひとりのように自分に傾けさせたので、彼らは王に、「どうぞあなたも、すべての家来たちも帰ってきてください」と言いおくった。そこで王は帰ってきてヨルダンまで来ると、ユダの人々は王を迎えるためギルガルにきて、王にヨルダンを渡らせた。』(2サムエル記19:14-15)

アブシャロムの謀反によって、無秩序に陥ってしまったイスラエルを、ダビデは憐れみと赦しの采配によって和解をもたらし、平和の内に、秩序を回復させて行った。
この、愛と憐れみと赦しの采配は、まさしく、イエス・キリストの采配である。
私達も、ダビデが示したキリストの性質・愛と憐れみ、赦しを身に着けて行きたい。

永遠に帰って来なかった放蕩息子(2サムエル記18:19-33)
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戦いの結果は、ダビデ王が願った通りではなく、クーデターを起こした王子アブシャロムの死、という形で、決着がついた。

『ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。ヨアブは彼に言った。「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。ヨアブはクシュ人に言った。「行って、あなたの見たことを王に告げなさい。」クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。』(2サムエル記18:19-21)
アヒマアツは、この戦いの結果を「主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた」と評価したが、きっとそれがダビデの側についた人々の大勢の見方であろう。
なにしろ、謀反しクーデターを企てた者を、討ち取ったのだから。
アヒマアツは、その「戦勝の良き知らせ」を伝えようと意気込むのだが、ヨアブはそれを引き止めた。

ヨアブは、ダビデのことを良く知っていた。
この度の結果は、ダビデにとっては良き知らせではない、と。そして、伝令の報告の仕方次第では、伝令が殺されかねない、とまで思ったのかもしれない。
だから彼は、無名のクシュ人に伝令の役割をさせたのだ。
しかしアヒマアツは、それでも自分も伝えに行きたい、と懇願し、ヨアブは根負けして、行く事を許した。

『ダビデは二つの門の間にすわっていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、ただひとりで走って来る男がいた。見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただひとりなら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来たとき、見張りは、もうひとりの男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んで言った。「ひとりで走って来る男がいます。」すると王は言った。「それも吉報を持って来ているのだ。」
見張りは言った。「先に走っているのは、どうやらツァドクの子アヒマアツのように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」』(2サムエル記18:24-27)
ダビデは知らせが届く前から、しきりに「良い知らせ」にこだわっている。
伝令が一人で来たなら「それは吉報」だ、一人ではなく二人だと分かっても「それも吉報」だと、また、あの男は良い男だから「良い知らせ」だ、と。

ダビデにとっての「良い知らせ」とは、息子アブシャロムが無事である事。
その「吉報」が来るのを、ダビデは、今か今かと切望していたのだろう。
あたかも、放蕩息子の父が、息子が出て行った道をはるか望み見、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)

『アヒマアツは大声で王に「ごきげんはいかがでしょうか。」と言って、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」王が、「若者アブシャロムは無事か。」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」王は言った。「わきへ退いて、そこに立っていなさい。」そこで彼はわきに退いて立っていた。』(2サムエル記18:28-30)
アヒマアツは、「戦いには勝った」という面だけの「良い知らせ」は伝えたものの、肝心の所を濁した。
言ってみれば、報告する上で「美味しい所取り」をして、ダビデに自分に対する「良い印象」を残したわけである。

ダビデ王は、自分に手向かって来た敵が打ち伏された報告については、目もくれなかった。あたかも、当たり前であるかのように。
彼は今までの経験から、主に対してやましい所が無く、自分主により頼んでおり、そして相手が主に従順していないなら、たとえどんなに不利な戦いでも、主は必ず勝利を下さる、と確信していたのだ。
彼のやましさは、とうの昔に主に告白し、悔い改め、主に”取り扱われ済み”だ。

しかし、アブシャロム達は、明らかに主の前で悪い事をしており、主に守られる分は無い。
だから、ダビデは自分達がいかに圧倒的不利であろうとも、この戦いに勝つ事は、それ程驚く事ではなかったのかもしれない。
それを信じた上で、ダビデは、部下たちにアブシャロムを手柔らかに扱うよう指示したのだろう。
つまり、ダビデにとっての真っ先の関心事項は、戦勝ではなく、アブシャロムが無事かどうか、という事だったのだ。
アブシャロムがこのまま御言葉に逆らうような事をしていたら、主からの懲罰が追いついてしまう事は明らかだ、そうならない内に、何とか救われて欲しい、と。

『するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」』(2サムエル記18:31)
クシュ人の伝令は、言ってしまった。
アブシャロムを「王の敵」とし、その「敵」は、主が裁いて下さった、と。
そしてあたかも、ダビデの子アブシャロムが、呪われるべき者の代表格であるかのように、王を害する者は、あの若者のようになりますように、と言った。

『すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」』(2サムエル記18:33)
この王の反応は、人々には理解しがたいものだったかもしれない。実際、アヒマアツも、この度の事はダビデに良い知らせだと思って、最初は伝えたくてうずうずしていた。
王はなぜ、そのような反応をするのか?
確かに息子が死んだ事は悲しい事かもしれないけれど、それ以上に、自分の命の危機は去って、再び王国に平和が戻るのだから、そこまで悲しむのはやりすぎでは、と、人々は思ったかもしれない。

きっとダビデは、今までアブシャロムが何かしても放置する事を重ねたため、彼がこんなにも、呪われるような事をしてしまう子へとならせてしまった、という自責の念があったのだろう。
アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、子育てにおいて彼に間違えた対応をし続けてしまった故に、名前とは全くそぐわない子となってしまい、最終的に、彼は自身の罪の故に滅びが追いついて死んでしまった。

またアブシャロムの死は、そればかりの事ではなかった。
これでダビデの子は3人死んでしまったわけだが、彼らの死は、大本を辿って行くと、ダビデ自身が犯した姦淫と殺人の罪へとたどり着くのだ。

ダビデは、自分の息子に王座を奪われ、命を狙われ、自分の妾を公然と寝取られた。
それだけでも苦しいのに、それに積み重ねて、息子が父に復讐したいがために、律法では死罪に当たるような悪どい事を父にし続けて来て、そして、その罪の刈り取りは、息子自身が刈り取らなくてはならなくなり、そしてついに滅びが追いついて、死んでしまう。
これら一連の全ての原因は、結局、ダビデ自身に行き着くのだ。

ダビデが犯したあの罪の故に、そして、ダビデが放置して来たあれらの事どもの故に、既に3人の子がダビデの前で死んで行き、ただ、ダビデだけは生き残っている。
「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」とダビデが叫んだのには、それだけの理由があるのだ。
ダビデは自分の罪を認めた故、死ぬ事は免れたものの、むしろ死んだほうが良かったと思う程の苦痛と悲しみを背負って生きなくてはならなかったのだ。

イエス様のたとえ話の放蕩息子は、悔い改めて父の元に帰って来てハッピーエンドとなったが、ダビデの放蕩息子は、永遠に帰って来なかった。
アブシャロムは”放蕩先”で、神と父とに反逆する事を改めなかった故に、呪いが追いついてしまい、滅んでしまった。

父なる神は、罪人がその罪の内に滅んでいく事を、全く望んでおられない。
『悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:30-32)

神は、いかに人間が反逆しようとも、それであっても立ち返って、救われる事を望まれる。
たとえ、父の財産を散財し、ぼろぼろになって帰ってきたとしても、父は、遠くからその姿をみとめて走り寄り、口付けし、元の地位に戻して、宴会を開いて下さる。
一人の罪人が立ち返って悔い改めるなら、天では大きな喜びが沸き起こるが、罪人がずっと悔い改めず、呪いが追いついて滅んでしまうなら、ダビデが号泣したように、天では深い悲しみが起こるのだ。

『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』(2サムエル記18:33)
このダビデの嘆きは、悔い改めないまま、呪いに追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神様の嘆きでもある。
父なる神様は、こよなき愛で、人を愛された。それで父なる神様に対する反逆と罪の故に滅んでいく人を、滅びから救うために、ひとり子を世に遣わされた。
彼を身代わりにして死なせる事によって、人の罪を処罰し、彼を信じる人が、永遠のいのちを持つようになるために。

華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。

『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。

木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)

『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。

『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。

『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。

『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。

私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。

イザヤ書講解説教メッセージ

海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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【概要】

本日のメッセージは、イザヤ書21章1〜10節と黙示録18章の預言を通して、神の義なる裁きと正しい生き方への呼びかけを語ります。バビロンの滅亡の預言や、信者に対する戒め、励まし、悔い改めの促しが込められています。

【聖書箇所】

・イザヤ21:1-10

・黙示録18章

【戒めの言葉】

神は不正や不品行に満ちた世の制度を断罪され、誇り高く堕落した者たちには厳しい裁きが下されます。私たちは日々の生活の中で、偶像崇拝や不正な取引、自己中心的な行いを改める必要があります。

【励ましの言葉】

たとえ今の世の中が混迷し、あふれる悪に心が揺れるとしても、神は決してご自分の民を見捨てられません。正しい行いと忍耐によって、私たちはいつか神の光り輝く御国に迎え入れられるのです。

【悔い改めの促しの言葉】

自身の罪や過ちに気づいたならば、真摯に悔い改め、心を整え神に立ち返る勇気を持ちましょう。神の恵みは、悔い改める者すべてに与えられる恵みの道しるべです。

【***詳細***】

今日、私たちはまずイザヤ書21章1〜10節の美言葉から、神の啓示を受けるためにその御言葉に耳を傾けます。「海の荒野に対する宣告」という導入の言葉は、荒涼とした地に吹き荒れるつむじ風のような恐ろしい力が迫っていることを示しているのです。イザヤは、この荒野と称される場所に、神の厳しい裁きが下されることを預言として語っています。私たちはこれを神が与えられた真実の言葉として受け止め、日々の心を整え、謙虚に神に立ち返るべきであると改めて教えられます。

説教の中盤では、イザヤが語る預言は、かつてバビロンとして知られた国の未来やその運命と深く結びついています。バビロンは、チグリスとユーフラテスに挟まれ、肥沃な土地と同時に荒廃の影をも持つ国として描かれており、そこでは高慢な商人たちや堕落した生活があふれていました。イザヤは、そのバビロンがいまだ大国として成立していない時代に、将来大いなる国へと成長し、やがて神の裁きを受ける運命にあることを明確に示されました。預言者自身は、当時の政治情勢―アッシリアの圧力や国々の罪深い行い―を前に、深い悩みと恐れを抱きながらも、神の啓示に従い、真実を伝える苦しみを味わっていました。

また、イザヤの預言は、単に古代の歴史的事実を語るにとどまらず、現代に暮らす私たちに対する警告とも受け取ることができます。今日の社会においても、不正な取引や愛欲、誇り高い生き方が横行し、まるであの荒廃したバビロンのような状況が見受けられます。神はそのような世の堕落に断固として立ち向かわれるお方であり、私たち信者もまた、戒めと自己反省の心を持ち続けるべきだということを預言の中から学ばせていただきます。

説教の中盤部ではさらに、イザヤによる幻の中で示された恐ろしいビジョンが詳しく語られます。幻の中で、預言者はある苦しみと心の乱れを体験します。まるで、女の出産に似た苦痛―それは神からの重大な警告の証であり、罪のない民の血が流される悲劇を予告するものでした。人々は、堕落や裏切りに満ちた生活を送る中、その破滅の日がいずれ訪れることに気づかず、慶事に耽るばかりでした。物見の塔に登り、騎兵や戦車の動向を目にする中で、勇ましい兵士たちは神の裁きを告げる鐘のように、注意を促されるのです。ここでの預言は、ただ単にバビロンという古代都市の運命を告げるだけでなく、どんなに華やかな生活があったとしても、神の正義は必ず成就するという普遍の真理を示しています。

説教は次第に、ぼんやりとした過去の出来事から今日の現実、さらには将来に向けた啓示へと展開していきます。私たちの目の前には、旧約の預言と同様に、新約の黙示録18章に記された、バビロンの最終的な滅亡と裁きの光景があります。黙示録では、バビロンが不信仰に溺れた結果、神の怒りによって断罪される様子が詳細に描かれています。地上の商人たちは、その豪華な生活と不正な取引のために大いに悲しみ、国々の民はその深い裏切りに対して激しい怒りを示します。偶像崇拝と高慢な態度によって栄えたその都市は、やがて血と涙と苦悩の中で滅び、神の正義の現れとして、すべての民にその教訓を与えるのです。

このような聖書の預言の言葉は、私たちに現代のあらゆる堕落と不正に対しても、変わることのない神の裁きがあることを思い出させます。同時に、信者として私たちは、自らの心を清め、罪を悔い改め、日々の生活の中で正しい行いを積み重ねることを求められているのです。悔い改めることは決して恥ずかしいことではなく、神の恵みによって救われるための大切な一歩であります。また、私たちが正しい道を歩むとき、神はその正義と慈愛によって、私たちの肉体的な試練や迫害をも救い、最終的には花嫁として光り輝く姿で天に迎え入れてくださるのです。

説教の後半では、今日の世界の現状にも目を向けられます。中東やその他の地域では、権力争いや不正な武器取引が日常的に行われ、悪徳な者たちが交錯する中で、信者が迫害され、血が流されるという悲劇が現実のものとなっています。聖書に描かれるバビロンの破滅の予告は、現代においても真実として重みを持ち、私たちに「今こそ心を整え、神に立ち返るべき時である」という戒めのメッセージを与えているのです。悪徳な力に取り巻かれる世界で、私たちが守るべきは、常に正義と真実、そして神に基づく愛ある生き方です。不正が横行する中で、信者たちは互いに助け合い、励まし合いながら、神の教えの下で自らの使命を果たしていく必要があります。

最後に、黙示録18章に記された裁きのビジョンが語られた部分では、バビロンの都が突然滅び、その街に染み付いた罪の血や、不正な取引によって得られた富が、すべて神の前で裁かれる様子が力強く描かれています。そこでは、神の生徒たちが立ち上がり、その正しい行いと忍耐、そして悔い改めの心をもって、真の花嫁のような姿で天に迎え入れられる日が約束されているのです。私たちは、日々の生活の中で自らの内面と向き合い、神の前に謙虚になること、また、迫害や誘惑に対して堅固な意志で立ち向かうべきであると強く訴えられています。

このように、イザヤ書と黙示録の預言は、古代の出来事に留まらず、現代の私たち一人ひとりに大切な示唆を与えています。不正と堕落がはびこる世の中においても、神は必ず御心にかなう者を導き、最終的にはすべての悪を裁かれるお方です。私たちは、毎日の生活の中で正しい道を歩むために、悔い改めと自己反省を怠らず、忍耐強く神の御言葉に従うよう努めるべきです。たとえ厳しい試練が待っていたとしても、神の約束は決して揺らぐことはなく、未来に希望と光があることを信じ、歩みを進めるのです。

【結論】

バビロンの滅びと神の正義の預言は、今の私たちに自らの生き方を改める大切な機会を与えています。正しい行い、悔い改め、そして忍耐をもって日々を過ごすことで、私たちは神の御言葉にふさわしい光り輝く花嫁として、永遠の救いに迎え入れられるのです。主イエスキリストのお名前によって祝福されるよう、今日も心新たに歩んでいきましょう。

勝っても負けても悲しみしか無い戦い(2サムエル記18:1-8)
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主がダビデを助ける人々をちょうど良い時に遣わして下さったお陰で、ダビデは、物資面でも、人においても、物事においても、必要な助けを得て、迫ってくるアブシャロムに対し態勢を整える事が出来た。

『さてダビデは自分と共にいる民を調べて、その上に千人の長、百人の長を立てた。そしてダビデは民をつかわし、三分の一をヨアブの手に、三分の一をゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイの手に、三分の一をガテびとイッタイの手にあずけた。』(2サムエル記18:1-2)
ヨアブとアビシャイは、かねてから軍団長として活躍していたが、ダビデはさらに、ガテ人イッタイも軍団長として採用した。
ガテ人イッタイがダビデを慕ってエルサレムに来た時、その次の日にダビデは都落ちしてエルサレムを出て行ったにもかかわらず、ダビデについて行くという誠実を示した。

『こうして王は民に言った、「わたしもまた必ずあなたがたと一緒に出ます」。しかし民は言った、「あなたは出てはなりません。それはわれわれがどんなに逃げても、彼らはわれわれに心をとめず、われわれの半ばが死んでも、われわれに心をとめないからです。しかしあなたはわれわれの一万に等しいのです。それゆえあなたは町の中からわれわれを助けてくださる方がよろしい」。王は彼らに言った、「あなたがたの最も良いと思うことをわたしはしましょう」。』(2サムエル記18:2b-4)
ダビデはかつて、皆が戦いに出ている間、彼だけは王宮に残り、夕暮れ時に目覚めて、女性が体を洗っている姿に欲情を燃やし、彼女が人妻であるにも関わらず姦淫し、その夫を殺すという罪を犯したが、もう、その時のダビデとは違っていた。
ダビデは元々、戦いの時は、人々の先頭に立って戦いに出ていたものだが、そのダビデに戻っている。
ダビデは今回、いのちをかけて戦いに出る彼らと、一緒に行きたかったのだが、人々はそれを許さなかった。
なにしろ今回の戦いは、相手が狙うのは領土や金銀ではなく、ダビデただ一人の命であり、ダビデさえ死ねばアブシャロムのクーデターが成功するのだから。

『王はヨアブ、アビシャイおよびイッタイに命じて、「わたしのため、若者アブサロムをおだやかに扱うように」と言った。王がアブサロムの事についてすべての長たちに命じている時、民は皆聞いていた。』(2サムエル記18:5)
ダビデはもしかすると、アブシャロムがアムノンを殺して逃亡して以来、ずっとアブシャロムを気にかけ、心配していたのかもしれない。

そもそも、ダビデがアブシャロムに命を狙われるようになったのは、彼の身から出た錆的な所が大きい。
ダビデは、姦淫と殺人という「いのち」に対する罪を犯した故に、彼の身から生まれた「いのち」達から間接的に反撃を受け、自分の身内を性的に辱めたり、殺したり、クーデターを起こされたりしたのだ。
つまり、ダビデが犯した「いのち」を冒涜した罪の報いの道具として、自分の子が用いられてしまったのだ。
そして、もし「子」が、親であるダビデに対して反逆したり、性的にしてはならぬ事をしたりするなら、その刈り取りは当然、それを為した「子」が受けなければならない。

父・ダビデとしては、自分の子から実際的に命を狙われたり、また、子が犯してしまう罪のゆえに、子がその滅びの刈り取りをしなければならない事とに、心が引き裂かれる思いだっただろう。
だからダビデは、戦いに出て行く人々に、アブシャロムを穏やかに扱って欲しい、と懇願するのだが、しかし人々からすれば、アブシャロムは王に反逆した敵であり、一刻も早く倒したい相手だった。
ダビデにとっては、勝っても負けても痛みを伴う、実に複雑な状況である。

こうして戦端は切って落とされたが、主はダビデに有利に働かれた。
『民はイスラエルに向かって野に出て行き、エフライムの森で戦ったが、イスラエルの民はその所でダビデの家来たちの前に敗れた。その日その所に戦死者が多く、二万に及んだ。そして戦いはあまねくその地のおもてに広がった。この日、森の滅ぼした者は、つるぎの滅ぼした者よりも多かった。』(2サムエル記18:6-8)
ダビデの軍の剣によって滅んだ者よりも、森によって滅ぼされた者が多く出た、という事は、主がダビデに味方し、アブシャロムに敵対された、という事に他ならない。

ダビデとしては、勝っても負けても心痛い戦いだっただろう。
しかし主は、人の思いを遥かに超えた最善が何であるかをご存知であり、ただ、神の正しい義のみを遂行される。

次から次へと助けが遣わされたダビデの性質(2サムエル記17:15-29)
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『そこでホシャイは祭司たち、ザドクとアビヤタルとに言った、「アヒトペルはアブサロムとイスラエルの長老たちのためにこういう計りごとをした。またわたしはこういう計りごとをした。それゆえ、あなたがたはすみやかに人をつかわしてダビデに告げ、『今夜、荒野の渡し場に宿らないで、必ず渡って行きなさい。さもないと王および共にいる民はみな、滅ぼされるでしょう』と言いなさい」。』(2サムエル記17:15-16)
ホシャイは速やかにダビデに報告するために、メッセンジャーを遣わした。
アブシャロムが、いつまたアヒトフェルの助言を採用してしまうか、分からないからだ。

このダビデへの二人の伝令は、アブシャロムに属する若者に見られていまい、追われる事となってしまう。
『彼らふたりは急いで去り、バホリムの、あるひとりの人の家にきた。その人の庭に井戸があって、彼らはその中に下ったので、女はおおいを取ってきて井戸の口の上にひろげ、麦をその上にまき散らした。それゆえその事は何も知れなかった。アブサロムのしもべたちはその女の家にきて言った、「アヒマアズとヨナタンはどこにいますか」。女は彼らに言った、「あの人々は小川を渡って行きました」。彼らは尋ねたが見当らなかったのでエルサレムに帰った。』(2サムエル記17:18-20)
ダビデ達を助ける人は、ここでも現れた。
ダビデは以前から、行く先々で恵みと憐れみのわざを人々にする事を常として来たため、いざという時に彼を助けてくれる人が沢山いるのだ。

例えば、ダビデがサウル王に追われていた時代、ナバルの羊飼い達と共に過ごした時でも、ダビデ達はナバルの羊飼い達のため盾となり、持ち物がなくならないように気を遣ってやった。
ナバルは、そんなダビデの恩を、仇で返したが、主はナバルを打たれ、そして夫のナバルに代わってダビデに恩を返したアビガイルは、ダビデの嫁となり後には王妃となる幸いにあずかった。
主を頼りとしている人達に良い事で返すなら、その人には良い報いが返って来るが、仇で返すなら、それ相当の報いがその人に帰ってくるのだ。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)

『彼らが去った後、人々は井戸から上り、行ってダビデ王に告げた。すなわち彼らはダビデに言った、「立って、すみやかに川を渡りなさい。アヒトペルがあなたがたに対してこういう計りごとをしたからです」。そこでダビデは立って、共にいるすべての民と一緒にヨルダンを渡った。夜明けには、ヨルダンを渡らない者はひとりもなかった。』(2サムエル記17:21-22)
ダビデに伝える二人の伝令は、こうして無事、ダビデの所に情報を届ける事が出来、こうしてダビデ達は、一人も損なわれる事なく無事にヨルダンを渡る事が出来た。
悪しき者は主の民に色々と企み、次から次へと攻勢をかけてくるが、主は、主に信頼して御言葉に歩む人には、人を通じ、あるいは自然現象を通じ、時には、自然を超越した現象を起こしてでも働かれ、守られるのだ。

『アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。』(2サムエル記17:23)
アヒトペルは、「神の御告げ」のような計りごとをめぐらす人だったが、その計りごとは、自分のいのちをながらえさせる事が出来なかった。
彼が自ら首をくくった理由は「自分のはかりごとが行われないのを見て」だった「自分の思い通りに行かないなら、死んだほうがましだ」という理由で自殺をするなら、ダビデは一体何度、自殺するような場面があっただろう。

イスカリオテのユダも、アヒトペルのように首をっくくって死んだが、彼も、イエス様が自分の思い通りに行かないから、というのが、裏切りの発端だった。
自分の思いや計りごとを、あくまで執着するなら、自分で自分の首を締めてしまうものだ。
しかしキリスト者は、自分の計りごとを降ろし、主の前に服従させ、そうして、誰にも出来ないような勝利を勝ち取れる人々である。
『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』(2コリント10:5-6)

ダビデには、さらに助ける人が現れる。
『ダビデがマハナイムにきた時、アンモンの人々のうちのラバのナハシの子ショビと、ロ・デバルのアンミエルの子マキル、およびロゲリムのギレアデびとバルジライは、寝床と鉢、土器、小麦、大麦、粉、いり麦、豆、レンズ豆、蜜、凝乳、羊、乾酪をダビデおよび共にいる民が食べるために持ってきた。それは彼らが、「民は荒野で飢え疲れかわいている」と思ったからである。』(2サムエル記17:27-29)

ダビデを助けた一人目は、ナハシの子ショビである。
ナハシは生前、ダビデと親しい交流があったアモン人の王であったが、その子・ハヌンは、ダビデの恩に仇で返した。(10章)
しかしショビは、ダビデの恩に恩で報いた。
ショビとハヌン。同じナハシという親から生まれたのに、一方はダビデに恩を返し、一方はダビデを辱めた。それと同じように、同じ肉の親から生まれても、一方はキリストに恩を返し、他方はキリストを辱める、という事は、あるのだ。

ダビデを助けた二人目のマキルは、サウル家のヨナタンの子・メフィボシェテを養った人である。(9章)
きっと彼は、メフィボシェテに憐れみをかけ、王の食卓で彼を養ってくれたダビデに対し、恩を報いたのだろう。
また、バルジライは19章で詳しく記されているが、彼は非常に裕福で、ダビデ達がマハナイムにとどまっている間、彼らを養った。
それでダビデが幸いを得た時、彼を祝福し、豊かに報いる。(19章)

ダビデは行く先々で、人々に平和に接し、憐れみをほどこした。
悪い事をしていないのに命を付け狙われてる事があっても、悪で返す事をせず、善で返して来た実績がある。
だからダビデは、神と人とに愛され、彼を助ける人が後を絶たなかったのだ。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。・・・・義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:5-10)
このように、ダビデを助ける人達が、次から次へと現れたおかげで、アブシャロム達がヨルダンを渡って来る頃には、ダビデ達は物資面でも充実し、戦いの準備もしっかり整える事が出来た。

それに引き換え、アブシャロムに従っている人は、アブシャロムの美しさや魅力、勢いの良さ、頭の良さを見て一緒になる人が多かった。
つまり、彼と一緒にいる事のほうが今後都合が良いといった「損得勘定」で彼に従う人が多かった。
もしアヒトペルが、アブシャロムを愛し慕っていたとするなら、自分の計りごとが一度採用されなかったからと言って、早急に自殺してしまうような事は、しなかっただろう。

地を相続する人とは、外見や口先の言葉が美しい人ではなく、柔和な人である。
いざという時に憐れみを受けられる人は、普段から憐れみ深い人である。
神の子と呼ばれる人は、神のお告げのような計りごとを語る人ではなく、平和をつくる人である。
天国を相続する人とは、時代のトレンドに合わせて主人や主張を変える者ではなく、迫害されても、なお義を貫く人である。

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