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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19)
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アムノンは、彼が恋い焦がれる妹のタマルと、二人きりの状況をつくり出すため、仮病を装い、妹に看護してもらいたいと、父ダビデに要望した。

そして二人きりになった時、彼は、神の国において「あってはならない事」をする。

『タマルが彼に食べさせようとして近くに持って行った時、彼はタマルを捕えて彼女に言った、「妹よ、来て、わたしと寝なさい」。タマルは言った、「いいえ、兄上よ、わたしをはずかしめてはなりません。このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。わたしの恥をわたしはどこへ持って行くことができましょう。あなたはイスラエルの愚か者のひとりとなるでしょう。それゆえ、どうぞ王に話してください。王がわたしをあなたに与えないことはないでしょう」。』(2サムエル記13:11-13)
彼らは、律法を知っていた。
イスラエルの中では、兄妹同士の間は、結婚するどころか、肉体関係を持つなど、もっての外である事が書かれてある。(レビ記18章)
だからタマルは「このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。」と叫んだのだ。
タマルは、王に話しましょう、王がなんとかしてくださる、と話したが、アムノンは聞かなかった。
彼もまた、これはイスラエルの中では叶わない事だと感じていたのだろう、だからこそ彼は策を弄し、人払いをして、強引に事を遂げようとしたのだ。

『アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。』(2サムエル記13:14)

アムノンは力づくで事を為してしまった。
彼の父・ダビデも、同じように、王権というパワーを用いて、交わってはならない人妻と、事を為した過去がある。
交わってはならない女性に激しい欲情を抱き、力づくで、強引に、その欲求を捌けさせる。
皮肉にも、父ダビデがした罪をそのまま息子が為し、そして、ダビデの娘は強姦の被害者となった。
子供は親の背中を見て育つ。
良い事も悪い事も、親がした事を、子は見習ってするものだ。

『それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った、「立って、行きなさい」。』(2サムエル記13:15)
結局これが、彼がずっと抱いていた「恋心」の正体である。
それは「これが欲しい」「あれが欲しい」「何をしてでも手に入れたい」といった、ただの「激しい情欲」だったのだ。
『欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。』(箴言20:17)
禁断の木の実をこっそり食べる時、それは甘美な味かどうかは分からないが、一つはっきりしている事は、それは口にした途端「じゃり」に変わり、神経に触るような苦々しい思いに満たされ、取り返しがつかなくなるものである。

『タマルはアムノンに言った、「いいえ、兄上よ、わたしを返すことは、あなたがさきにわたしになさった事よりも大きい悪です」。しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、彼に仕えている若者を呼んで言った、「この女をわたしの所から外におくり出し、そのあとに戸を閉ざすがよい」。』(2サムエル記13:16)
アムノンは、ただ一度きり、ほんの数分で終わる「欲情の発散」を遂げるため、彼女の一生を台無しにし、そして事を為し終えたら、彼女を捨て去った。
それもまた当然、神の国においては、重大な違反である。

聖書において、肉体関係を結んで良いのは、唯一、結婚相手に対してのみであり、そして結婚とは、相手の伴侶に対し、自分を”唯一の異性”としてコミットする事である。
すなわち、女性は相手の男性に唯一専属的な「女性」となり、男性は相手の女性に唯一専属的な「男性」となり、相手以外に「性」は開放しないのだ。
この聖書の価値観は、以下に定められている律法からにじみ出ている。

『男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」に相当すると言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。

そしてまた、婚約前の状態で肉体関係を持ったとするなら、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)

アムノンはようするに、律法に照らすなら、死刑に当たる罪を幾つも犯したわけである。
それを自分は王の長男だという事で、何事も特に罰されないまま、のうのうと暮らしている。
しかし、義が行われる神の国においては、そのまま何事も無く過ごせるという事は無い。

『この時、タマルは長そでの着物を着ていた。昔、王の姫たちの処女である者はこのような着物を着たからである。アムノンのしもべは彼女を外に出して、そのあとに戸を閉ざした。タマルは灰を頭にかぶり、着ていた長そでの着物を裂き、手を頭にのせて、叫びながら去って行った。』(2サムエル記13:18-19)
当時のイスラエルで「長そでの着物」は、日本の「振袖」のように、未婚の処女が着るものである。
彼女はその袖を裂き、泣き叫びながら出て行った。
もはや彼女は、アムノンの一方的な陵辱の故に、処女ではなくなってしまい、一生、ひっそり暮らしていかなくてはならないと絶望したからだ。

こうしてダビデは、強姦被害者の親、強姦加害者の親、近親相姦が起きた家の親、という、実に恥ずかしい立場になってしまった。
ダビデ王の家の中で、このような忌ま忌ましい罪が行われてしまう・・・。いかに栄光の王族の家といえども、肉欲に燃料投下し罪を放置しておくなら、その真っ只中でも忌ま忌ましい事が行われるものだ。
だから私達は、日々霊的に目を覚まして、誰も罪に陥ることが無いよう、聖徒の交わりにおいて互いに励まし合い戒め合う必要があるのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)

遂げてはならない欲情が沸き起こる時(2サムエル記13:1-6)
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ダビデは、家の中から災いが湧き起こる事を、主から警告されていた。(12:11)
なぜなら「姦淫」という罪はいのちへの冒涜であり、家系や子孫などの「いのち」から反撃を受けるものだからだ。

『さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。』(2サムエル記13:1)
アムノンも、アブシャロムも、ダビデがヘブロンで王だった時に生まれた子達である。
アムノンはダビデに最初に生まれた「長男」であるため、王位継承の筆頭者ではあったが、彼は良い信仰の持ち主ではなかった。

彼は異母の妹であるタマルに恋をした。
近親者との結婚は、神の民の中では「あってはならない」事である。(レビ記18章)
してはならない事、叶わない事であるなら、その欲求が沸き起こった初期の段階で、思いと意思、感情をコントロールしておけば、何でもなかったが、彼はそれをコントロールせず、情の流されるままに思い巡らし、それを募らせてしまった。

してはならない事への欲情が沸き起こった時、その事を思い巡らす事は、その欲情に対し燃料を投下する事であり、ますます燃え上がって、やがて手がつけられなくなってしまう。
若者が、叶えてはならぬ欲情に焦がれてしまう時、それを消火するために、シンプルかつ強力な方法がある。
それは、御言葉を暗記する事によって、である。
『若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。』(詩篇119:9)

実際、謂れのない強烈な情欲や、自己嫌悪感、深い悲しみなど、あらゆる負の思いが来た時、試てみると良い。
箴言のどこかを2,3節も暗記(あるいは暗記する努力)をするなら、その僅かな時間で、そのような思いは消えて無くなる事を体験するだろう。
実際、天声教会の80%以上の聖徒たちはテフィリンを実践し、それによって頭脳が活性化し、どうしようもない傷や性質が改善され、人格も品性も整えられている事を、日々実感している。
(御言葉教育「テフィリン」の効用について: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2463&cid=3  http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2493&cid=3

『アムノンは妹タマルのために悩んでついにわずらった。それはタマルが処女であって、アムノンは彼女に何事もすることができないと思ったからである。』(2サムエル記13:2)
アムノンが悩んでわずらった理由は、彼女は「処女であって、何事もすることができない」点だった。
つまりアムノンの望みは、処女である彼女に、何事かをしたい、けれども、御言葉を恐れ敬う周囲の環境ゆえに、自分にはそれができない、そのようなジレンマを抱えていたのだ。
アムノンにとって、自分の肉欲のほうが御言葉よりも主人であり、御言葉は彼にとって「足かせ」以外の何者でもなかった。
自分の思いや意思、感情を御言葉の前に平服させるのが神の民のたしなみであるが、彼はそのたしなみを持っていなかった。

肉と御霊、どちらを主人とし、どちらに仕えるか。それによって、いのちを刈り取るか、それとも死を刈り取るかが決まってしまう。
『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:8)

『ところがアムノンにはひとりの友だちがあった。名をヨナダブといい、ダビデの兄弟シメアの子である。ヨナダブはひじょうに賢い人であった。彼はアムノンに言った、「王子よ、あなたは、どうして朝ごとに、そんなにやせ衰えるのですか。わたしに話さないのですか」。アムノンは彼に言った、「わたしは兄弟アブサロムの妹タマルを恋しているのです」。』(2サムエル記13:3-4)
心の思い悩みを何でも打ち明けられる友人を、人は「貴重」「何よりの宝」と言うかもしれない。
しかし、友人関係の平和さを重視するあまり、聞き心地は良くても、御言葉には反するアドバイスをするとするなら、それがかえって滅びの元となってしまう。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。』(箴言27:5-6)
事実、この友人の「全く御言葉に基づかない助言」が、アムノンを滅ぼしてしまう事になる。

『ヨナダブは彼に言った、「あなたは病と偽り、寝床に横たわって、あなたの父がきてあなたを見るとき彼に言いなさい、『どうぞ、わたしの妹タマルをこさせ、わたしの所に食物を運ばせてください。そして彼女がわたしの目の前で食物をととのえ、彼女の手からわたしが食べることのできるようにさせてください』」。』(2サムエル記13:5)
賢い彼がした助言は、単なる「彼女とふたりきりになれる妙案」だった。
彼は、アムノンの劣情を遂げさせようとしてこの提案をしたのかどうかは分からないが、ある女性に対して情欲を持った男を、その女性と二人きりにさせるのは、決して良い助言ではない。

神の国に属する人が、結婚してはならないような相手を欲しがり、妙案と力づくでものにしてしまうのは、滅びの元である。
ノアの洪水は、神の子達が、人の娘たちのいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで妻とした事が発端だった。
それによって生まれた者達が、力づくの原理で地上に悪を増大させ、心に計る事がみな悪に傾くようになってしまったため、人の寿命は引き下げられ、ひいては、大洪水が引き起こさ、その世代の者達は滅びてしまった。(創世記6章)
ダビデも、結婚してはならない女性に欲情をいだき、権力で「もの」にしたが、彼はそれを悔い改めた事によって、死は免れた。
しかし、その罪の刈り取りは、子孫の中にはびこってしまう事になる。

遂げてはならない欲情への対処方法は、ただ、御言葉を摂り入れる事によってである。
私達は努めてそれを実行し、自分の家系に、罪や呪いの入り込む余地が無いようにしたい。

バテ・シェバを慰めるダビデ(2サムエル記12:24-31)
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ダビデは姦淫の罪を犯した故に、これからその報いを受けて行かなくてはならないが、主に罪を指摘された以降のダビデは、正面からそれと向き合っていく。
『ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。』(2サムエル記12:24)

ダビデはバテ・シェバを通して苦い経験をしたが、それで彼女を捨て去ったり疎んじたりする事はなく、しっかり彼女を慰めた。
何しろ彼女は、ただ一方的に、ダビデの罪故に災難に引き込まれたのだから。
彼女は、体を洗っている所を勝手にダビデ王に見られ、勝手に情欲を抱かれ、一方的に呼び出され、姦淫の相手とされ、夫ウリヤは謀殺され、ただ一方的に王の妻とされた。
そして生まれて来た子は、王の罪の故に死んでしまった。
そんな目に遭わせた彼女を疎んじるなど、御前においてとんでもない事だ。
ダビデは彼女を、根気よく慰める責任がある。

『ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデア(「主に愛された」の意味)と呼ばせられた。』(2サムエル記12:25)
世界的に有名な、あの知恵に満ちた王・ソロモン王は、このようにして生まれた。

ところでソロモンは、かの事件の後、すぐに生まれたわけではない。
彼は4男であり、彼が生まれるに至るまで、色々な紆余曲折があったようである。
『エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。』(1歴代誌3:5)
ダビデとバテ・シェバとの間に生まれた最初の子・シメアは、ダビデの罪ゆえに主に打たれて死んでしまった。
シメアの名の意味は「聞く、うわさ」であり、彼が生まれた時、ダビデの姦淫やウリヤ謀殺について、色々なうわさ話が聞かれていたのかもしれない。
次男ショバブの名は「堕落する、反逆的な、手に負えない」という意味である。
バテ・シェバの、その時のダビデに対する態度がそうだったかもしれないし、あるいは、子は母の胎にいる時、母の状況や精神状態に影響を受けやすいものであるが、そのため子が反逆的で手に負えなくなってしまったのかもしれない。
また、3男ナタンの名は「与えられる、置かれる」という意味である。
ダビデとバテ・シェバとの間に、段々落ち着きが与えられて行ったのだろう。
そして4男、ソロモンは「平和」という意味である。
ようやく平和な心で子が生まれた事を喜び祝い、平和の子となったのかもしれない。

『さてヨアブはアンモンの人々のラバを攻めて王の町を取った。ヨアブは使者をダビデにつかわして言った、「わたしはラバを攻めて水の町を取りました。あなたは今、残りの民を集め、この町に向かって陣をしき、これを取りなさい。わたしがこの町を取って、人がわたしの名をもって、これを呼ぶようにならないためです」。そこでダビデは民をことごとく集めてラバへ行き、攻めてこれを取った。』(2サムエル記12:26-29)
元々、アンモン人との戦いが発生した時から、ダビデの怠慢がはじまり、そうして一連の事件が起きたのであるが、その間、ヨアブの活躍によって、戦いは大体の収束をつけてきた。
そしてダビデは、ヨアブの促しによって、戦いの指揮をとる立場へと戻り、勝利し、こうしてアンモンは平定された。

このように外敵は平定されたものの、次章以降、ダビデは外敵ではなく身内から、すなわち、子と子の間の問題で、苦々しい経験をしていく事となる。
姦淫は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。

ダビデ王のバテ・シェバとの馴れ初めは、最悪に類するものだが、主は、人のそのような「最悪」を「最善」へと造り替える事ができるお方であり、彼らの間に生まれた子を用いて、主は、全人類救済のご計画を遂行していく。
罪を犯した男女の、いのちが呪われてしまった歩み。それはエデンの園以降、全人類に重くのしかかるものであるが、ダビデがバテ・シェバを根気よく慰め続けたように、人がいのちを大切にし営んで行く所なら、主はそこから救いのご計画を遂行されて行くのだ。

イザヤ書講解説教メッセージ
助言と憐れみを退け滅んでしまうモアブ(イザヤ書16:1-14)
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罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
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ダビデは自分の罪を主に認めたゆえ、主は彼の罪を見過ごしにして下さったため、彼は主に打たれて死ぬ事や聖霊が取り上げられたりする事からは免れたが、彼の犯した罪の報いは、彼自身が刈り取る事になる。
『さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。』(2サムエル記12:15-17)

主がダビデに言われた通り、その子に、死の兆候が現れる。
生まれたばかりの自分の子が、死の苦しみに遭っている様を見るのはとても辛い事であるが、ダビデはそれ以上に辛い事情がある。
本来、死の苦しみを受けるべきは、罪を犯した「自分」のはずなのに、その自分はぴんぴんしていて、その代わりに何もしていない自分の子が死の苦しみを味わっているのだ。
ダビデの辛さは、どれ程だっただろう。
彼は、自分が犯した罪の大きさを思い知り、苦しんだだろう。
それで彼は、必死に主のあわれみにすがり求めたのだが、結局祈りは聞かれず、その子は七日後、死んでしまった。

『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23前半)
姦淫の罪の報いは死であり(申命記22:24)、また、目には目、歯には歯、という事は、ダビデが無実の人を剣で殺したからには、剣によって撃たれるのが正当だ。
主の敵・サタンが大いにあなどり、ダビデを訴えるとするなら、残念ながら、サタンの訴えは理にかなってしまっている。
かと言って、主がこのダビデの罪をそのまま過ごしにするなら、主の「義」が立たなくなってしまう。
一体どうして、ダビデは生かされるのだろうか。
それは、罪なき命の、身代わりの死によって、である。

私達もそうだ。
本来、私達が犯した罪の刑罰を受け、死ななくてはならない罪人のはずである。
しかし、その私達が罪赦され生かされるとするなら、それは、神の一方的な贈り物の故だ。
その「贈り物」とは、すなわち、罪なきお方・生ける神の御子イエス・キリストである。
彼の身代わりの死によって、私達は生かされた。
そういう訳で、以下のように書かれてある。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)

『七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。』(2サムエル記12:18-19)
家来たちは、思っただろう。
7日も断食して祈り続ける程、熱情的に懇願していたのに、それが叶わずに、子が死んでしまった。彼はその熱情を一体どこに持っていくだろう?
悲しみのあまり後を追っおうとするだろうか。それとも「神様ひどい」とばかりに自暴自棄になるだろうか。色々思い巡らしたかもしれない。
しかしダビデは、彼らの想像を超えた行動を取った。

『そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。』(2サムエル記12:20)
彼は、それまでの熱情的な祈りと断食を一切止めた。
そして真っ先にした事は、身をきれいにし、主の家に入って、礼拝した事だった。

もし、子が死んだと悟ったとたん、何日ぶりかで身体を洗えるとか、何日ぶりかで食べられるといった事に、真っ先に飛びついたとしたら、彼は本当は冷酷で、子を愛していたのではなく、ただのパフォーマンスで断食や祈りをしていたに過ぎない。
また、もしダビデが「こんな事をした主はひどい」と言って主を恨んでいたなら、彼は身を清めて礼拝するなど、しなかっただろう。
しかしそうではない。
彼は真っ先に、主の前に出て、礼拝したのだ。

彼は、自分のした悪と、それに対して主がなさった事を100%受け入れ、同意したからこそ、主の御前に身を清め、礼拝を捧げ、もはや自分の願いや執着は捨て去ったのだ。
これこそ、神の民が取るべき主への従順である。

イエス様も、ゲツセマネの園で、「この杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流す程、必死に祈った。
しかし、御父の御旨はイエス様が十字架に架かられる事だと示された時、イエス様はそれを100%受け入れ、堂々と十字架へと歩んで行った。
私達もダビデやイエス様にならい、主の御心が示されたなら、それがどんな道であれ、従順して歩むべきなのだ。

イエス様は私達の身代わりになって死んで下さった。そして、よみがえって下さった。
それ故、私達もダビデのように、主のなさる事に同意し、全て自分の願いや執着を主の前に捨て、身を清めて礼拝し、正しく食事をとり、イエス様に生かされた命を感謝しつつ、正当に生て行くべきなのだ。

犯してしまった罪の刈り取り(2サムエル記12:7-14)
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『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、』(2サムエル記12:7)
ダビデは、主に見放されたサウル王がどんな悲惨な軌跡を辿ったのかを見ていたので、預言者から「あなたがその人です」と言われた時、冷水を浴びせられたようにぞっとしただろう。
主がどのようなお方であるかを理解しているならしている程、主の怒りを買う事がいかに恐ろしいかを知っており、自分がそのような状態にある時、心落ち着かないものだ。
主に扱っていただくべき罪や弱さ、至らなさを、いつまでも放置して呻いたまま何ヶ月も何年も過ごすのは、不健康であり、速やかに御前に出て取り扱っていただくべきだ。

『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。』(2サムエル記12:9)
もし御言葉に記されている事(例えば、姦淫をしてはならない、殺してはならないという記述)を知りながら、それでもそれを犯すとするなら、御言葉なる主を軽んじ、御言葉なる主の目の前で悪を行っているものである。
警察官を目の前にするなら、誰も万引きはしないであろうが、そのようなレベルの問題ではなく、主のことばによって造られたこの世界の中で、主のことばによって造られた私達は、決して、神の臨在から離れる事は出来ないのものであり、例えば、アダムとエバがいちじくの葉で腰を覆ったり木陰に隠れたりする事は、全く無意味な事なのだ。

『あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。』(2サムエル記12:9-10)
ダビデは「剣」を用いて罪なき人の血を流した。
それ故今後、剣による災いに悩まされる事になる。
事実、ダビデから生まれた子の内、3人は剣で殺されてしまう。またダビデ自身、将来、剣から逃れなくてはならなくなってしまう。

『主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(2サムエル記12:11-12)
ダビデはもうひとつ、姦淫という罪を犯した。
それ故、彼は姦淫で「はずかしめられる側」となり、事実この言葉の通り、ダビデの娘タマルは異母兄弟によって辱められ、ダビデの側女もダビデの子アブシャロムによって、白昼公然と辱められてしまう。

『ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。』(2サムエル記12:13)
ダビデはこの時、王の権威をふるって、耳に痛い事を言う預言者を殺す事もできたであろうが(実際、歴代の王達は預言者を迫害し殺した者も多くいた)、ダビデはそれをせず、正直に罪を認めた。

主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。
しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)

ダビデが犯した「姦淫」は、いのちの誕生への冒涜行為であり、剣によって罪なき人を殺害するという罪もした。
それ故、ダビデ自身は報いを受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまった。

ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。
懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)

あなたがその男です(2サムエル記12:1-7a)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

前章では、ダビデが今までして来た素晴らしい功績や栄誉を、まるでひっくり返してしまうような、罪深い有り様を見た。

ダビデがした悪は、うまく隠しおおせたかのように見えたが、主は全てを見ておられ、その指摘と報いとをされる。

『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。』(2サムエル記12:1)
預言者ナタンはかつて、ダビデに永遠に続く家を建てる、という主の言葉を伝えたが、今回、ダビデの隠れた罪を指摘しに来た。

『「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。』(2サムエル記12:1-3)
この話中に出てくる富んでいる人は、ダビデの事を指し、貧しい人とその羊は、ヘテ人ウリヤとその妻バテ・シェバを指している。

この話中の、貧しい人の有り様から、バテ・シェバはウリヤと結婚して以来、彼と一緒の器から食物を食べ、一緒の器から飲み、彼の懐で寝て、とても慕わしく過ごしていた様子が伺える。
ウリヤは元々、イスラエルが忌むべき異邦の民・カナンのヘテ人であったのに、まことの神・主に立ち返り、イスラエルの民に加えられ、彼の純粋な信仰と誠実さと、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、愛する妻と共に日々を送っていただろう。
しかし、その幸いな日々は、ダビデ王によってある日突然奪われてしまう。

『時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた「人(イシュ:男)」のために調理した」。』(2サムエル記12:4)
ここで「旅人」と訳されているヘブライ語は「ヘイレフ」、流れる、あるいは旅人の意味であり、また、話中ではこの旅人は「男性」である。
ダビデに流れ来た「男の性欲」という旅人を満足させるため、ダビデは、自分の所に大勢いる妻からは取らず、誠実なウリヤが唯一大切にしている妻、バテ・シェバを取って、ダビデの「男の性欲」を満足させた。
ダビデは、この事を隠れて行ったが、覆われているもので露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)

『ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。』(2サムエル記12:5-6)
ダビデは話中の金持ちに、激しく怒り、死刑宣告をし、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならないと宣告した。
律法には、羊一頭を盗んだ場合、四倍にして償うよう記されてはいるが、死刑にせよ、とまでは書いていない。(出エジプト記22:1)

ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったように、人はそれ程、自分が神と人との前に犯してきた罪の数々を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えており、その裁きを、主の基準よりも厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。
『だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。』(ローマ2:1-3)
人はなぜか、なんとなく思っている。
「自分は、さばきを免れる」と。
それでいて他人の罪はありありと覚えていて、「さばき主」の立場に立ち、相手への仕返しや報いは、大げさに増し加えようとするものだ。

『それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。』(ローマ2:4-6)
主は、私達が罪を告白し、悔い改め、主に立ち返って救われる事を願っておられる。
悔い改めるなら、神の豊かな慈愛と寛容によって赦してもらえる。
しかし、主に罪を指摘されても悔い改めず、サウル王のように言い訳したり、力づくで自分の罪を覆い隠そうとしたり、あるいは歴代の王たちがしたように、神から遣わされた預言者を迫害したり、抹殺するなら、その人はさばきの厳しさを増し加えるための燃料を、さらに積み上げているのだ。

ダビデに預言者ナタンが遣わされた時、ダビデは悔い改めた。
だから、彼は今も偉大な王として、その栄誉が語り継がれているのだ。
私達にも、罪が指摘された時、悔い改めの道と、自分の好き勝手な道を貫き通す事と、どちらを選ぶだろうか。

イザヤ書講解説教メッセージ
モアブに対する宣告:親族を救う事へのうめき(イザヤ15章)
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【概要】

イザヤ書15章を通して、モアブに対する神の裁きと哀れみについて語られています。

【聖書箇所】

イザヤ書15章1-9節

【戒めの言葉】

神の恵みから離れることは、人を残虐にし、最終的には滅びに至らせます。

【悔い改めの促しの言葉】

神様は長く忍耐されますが、悔い改めないなら最後には裁きが来ます。

【***詳細***】

今日の箇所はイザヤ書15章です。1節から9節までありますが、まず1節を読みます。

「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び果てた。」

この章は、イスラエルの南東に位置するモアブの国に対する神の警告の言葉です。前回までのアッシリアやバビロンに対する裁きの宣告とは異なり、モアブに対する神の言葉には悲しみが満ちています。神の哀れみと愛を感じさせる内容となっています。

モアブの起源を振り返ると、モアブはロトの子孫です。ロトはアブラハムの甥であり、ソドムとゴモラから逃れた後、自分の娘たちとの関係から生まれた子がモアブとアンモンの先祖となりました。つまり、モアブはアブラハムの親戚関係にあたります。

しかし、モアブは偶像崇拝に陥り、ケモシュという偶像を拝み、子供を焼いて捧げるような残虐な宗教を行っていました。イスラエルとモアブの関係は、まるで私たちクリスチャンが少数派である日本で、偶像礼拝をする親戚がいるような状況に似ています。

皆さんも、もし偶像礼拝をする親戚や家族がいたら、その人たちが救われることを願うでしょう。どんなに長い間嫌がらせをされても、blood関係の人が救われることを祈り続けるものです。

しかし、何度も悔い改めを促しても悔い改めず、主の御言葉を伝えても受け入れず、イエス様の憐れみを示しても受け取らないなら、やがて主の時が来てしまいます。

モアブは何度も何度も神のイスラエルを攻撃し、嫌がらせを続けました。ついに、アッシリアによってモアブの町々は短期間のうちに滅ぼされてしまいます。

2節を見ると、「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために登る。ネボとメデバのことでモアブは泣き喚く。頭は皆丸くなり、ひげは皆切り取られる。」

様々な地名が出てきますが、これらはモアブの主要な町々です。歴史的には、アッシリアによってこれらの町々はたちまちに飲み込まれるように滅ぼされてしまいます。

モアブの人々は、自分たちの偶像の神々に助けを求めますが、それらは何の力も持ちません。たとえ自分の子供を犠牲として捧げても意味がありません。人が作った神は、絶対に応答しないのです。

主は、このモアブのために叫ぶと言っています。神はもともとアブラハムの親族として救われることを望んでいました。アブラハムもロトのために取り次ぎの祈りをしました。しかし、モアブは立ち返ることをせず、ついに滅ぼされるべき時が来てしまったのです。

人は働くと給料をもらいますが、同様に悪いことをすれば、その報いとして災いを受けることになります。ロトはアブラハムと共に出発しましたが、アブラハムから離れて罪の地に住み、ソドムとゴモラから救い出されても、アブラハムのもとに戻ることなく、自分の好きなところに住み、罪の子孫を産みました。

アブラハムから離れれば離れるほど、ロトの子孫は悪くなっていきました。最終的には、自分の欲を満たすために子供まで焼いてしまうほどになってしまいました。これは恐ろしいことです。神の恵みから遠ざかると、人は残虐になっていくのです。

神の恵みを一度味わって、その後恵みから離れた者は、その時間が長ければ長いほど、神に反逆し、残虐な人間になります。モアブがまさにそうでした。

ロトがソドムとゴモラから逃げるとき、神の使いは山、つまりアブラハムの住んでいる方向に逃げるよう指示しました。しかし、ロトは低地の方向に逃げました。これが運命の分かれ道となったのです。

アブラハムと共にいれば、このようなことは起こらなかったでしょう。私たちは、信仰を貫く人々がいるところに自分の身を置くべきです。ロトは助かりましたが、信仰がない場所に行き、そこで罪を犯し、モアブとアンモンという民族が生まれました。その結果、後には自分の子供を焼いて偶像に捧げるまでに堕落していったのです。

5節には、「わたしの心はモアブのために叫ぶ。逃げる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまで行く。ルヒトの坂を泣きながら登り、ホロナイムの道で破滅を嘆き叫ぶ。」とあります。

モアブの北から南まで、全土にわたって嘆き叫ぶ声が聞こえてくると預言しています。

神は好んでモアブ人を殺すわけではありません。この15章には何度も「ああ」という言葉が出てきます。神の深いうめきを感じさせる章です。

罪から来る報酬は死です。人が自由意志を持って罪とその報酬である死を選び続ける限り、神にはどうすることもできません。

私たちも、神を知らない人々、伝道しても神を敬わない人々がいるなら、福音を伝え、取り次ぎの祈りをすべきです。モアブはイスラエルを呪いましたが、神の民を呪うことは、神を呪うのと同じです。

モアブに対して神の憐れみがあったのは、アブラハムの取り次ぎの祈りがあったからです。長い間、アブラハムの祈りのおかげで、モアブには猶予期間が与えられていました。取り次ぎの祈りは本当に大切です。

【結論】

私たちは、家族や親族、友人たちのために取り次ぎの祈りを続け、福音を伝え続けるべきです。神の恵みから離れないよう気をつけ、悔い改めて主の御前に立ち返ることが大切です。救いのために祈り、伝道に励む者となりましょう。

権力者によって流されて来た血と涙とを覚えておられる主(2サムエル記11:16-27)
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ヨアブが「ウリヤを謀殺せよ」というダビデの手紙を受けた時、彼は特に詮索したり戒めたりする事なく、命令をそのまま実行する。
ヨアブもかつてアブネルを剣で謀殺したので、そのようなはかりごとに対する拒否反応は無かったのだろう。

『ヨアブは町を囲んでいたので、勇士たちがいると知っていた場所にウリヤを置いた。町の人々が出てきてヨアブと戦ったので、民のうち、ダビデの家来たちにも、倒れるものがあり、ヘテびとウリヤも死んだ。』(2サムエル記11:16-17)
あの罪なき誠実な戦士・ウリヤは、死んでしまった。
ウリヤだけでなく、ダビデの家来達の中からも、何名か倒れる者があった。
直接手をかけたのはアモン人であるが、ダビデが指示し、敵の手を利用して、殺させたのだ。
剣を用いる者には剣がつきまとい、罠を張る者は、やがて、自らが張った罠にかかってしまう。

『ヨアブはその使者に命じて言った、「あなたが戦いのことをつぶさに王に語り終ったとき、もし王が怒りを起して、『あなたがたはなぜ戦おうとしてそんなに町に近づいたのか。彼らが城壁の上から射るのを知らなかったのか。』(2サムエル記11:19-20)
ヨアブは、あらかじめダビデが言いそうな事に対してアドバイスをしている。
イスラエルの軍は、敵の城壁に接近し過ぎる事は、禁じ手だった。
その理由は、以下の事があったからだ。
『エルベセテの子アビメレクを撃ったのはだれか。ひとりの女が城壁の上から石うすの上石を投げて彼をテベツで殺したのではなかったか。あなたがたはなぜそんなに城壁に近づいたのか』と言われたならば、その時あなたは、『あなたのしもべ、ヘテびとウリヤもまた死にました』と言いなさい」。』(2サムエル記11:21)

これは士師の時代、エルベセテ(=エルバアル=ギデオン)の子・アビメレクが、敵の城壁に近づいて火をつけている所を、一人の女が彼に石臼を投げ落として頭蓋を割り、それで殺された事に由来する。(士師記9章)
ダビデ自身、戦士であり、聖書にも通じていたので、聖書の記述やイスラエルの歴史を元に、戦いの時はこうしなさい、これはしてはいけない、と、常々指示していたのだろう。
それで、「城壁に近づき過ぎると危険だ」という戦訓は、全兵士が知っている基本中の基本だったのだろう。
聖書の記述を元にして、普段から戦訓や教訓を部下に徹底させる点、ダビデは偉大であるが、今回彼がした事は、決して偉大とは言えない。

『こうして使者は行き、ダビデのもとにきて、ヨアブが言いつかわしたことをことごとく告げた。使者はダビデに言った、「敵はわれわれよりも有利な位置を占め、出てきてわれわれを野で攻めましたが、われわれは町の入口まで彼らを追い返しました。その時、射手どもは城壁からあなたの家来たちを射ましたので、王の家来のある者は死に、また、あなたの家来ヘテびとウリヤも死にました」。』(2サムエル記11:22-24)
この報告から、ウリヤが死んだ時の様子を伺う事ができる。

敵は、城壁の町から出て来て野に出てきた所を、ヨアブたちは迎え打ち、そこで敵が後退して城壁の中に入ろうとした時、ヨアブはウリヤに追い打ちをかけるよう命令し、彼らが城門に近づいた所を、弓で射掛けられてしまい、それでウリヤは討ち死にして、こうして全て、ヨアブの手はず通りに運んだのだろう。
ヨアブは、このようなはかりごとを巡らす点においてはとても聡いが、そのような彼の死に際は、決して平和なものではない。(1列王記2章)

『ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。』(2サムエル記11:25)
ダビデは、ヨアブが予期した通りに責める事はせしなかった。かえって、「励ましなさい」と伝えた。

ダビデは、ウリヤの死を聞いて、ほっとしただろうか。
自分のした悪が公になる事を防げて、ほっとした気持ちもあっただろう。
しかし、それ以上に、罪の責め苦の嵐が吹き荒れていたのではないだろうか。
なぜなら、彼の罪が全て明らかにされた時、彼は『わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。』(詩篇51:3) と、後になって告白している。
また彼は、詩篇32編で次のように書いている。

『わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:3-5)
ダビデは、罪を犯した事を黙っていた時、苦しみ、うめいたようである。
罪を隠し黙っている時、主の御手が重くのりかかり、骨が疲れ果てるような、夏の日照りで渇ききるような変調を、心にも、そして体にも来らせてしまうのだ。
しかし、主に罪を認めそれを告白する時、罪の代価は支払わねばならないが、それらの責め苦からは解き放たれ楽になるのだ。

『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル記11:26-28)
ダビデは一時、面目を保てたかもしれない。
その罪はうまく隠しおおせて、これから後、覚えられる事は無いと思ったかもしれない。
しかし主は、一人の義人の不当に流された血を覚えておられ、また、それによって流された全ての涙も、覚えておられる。

主は、ウリヤの死とその妻の涙が忘却の闇へと葬り去られて行く事を、許さない。
主は、不当に虐げられ助けを求める人達には救いであるが、彼らを不当に虐げる側にとっては、恐ろしい主である。

ウリヤ。それは、主の光という名である。
主の光がダビデの闇をあばき、そしてこの事は容赦なく明るみに出され、永遠の書物に記され、新約聖書の最初の章・イエス・キリストの系図には堂々と「ウリヤの妻」の表記が記されている。

王が人妻と寝て、その夫を謀殺する。
それは世では決して珍しい事ではなく、あたかも当たり前のように公然と行われ、それで幾多の人々の命と涙が、闇の中へと葬り去られているかのように見えるが、主は、それら一つ一つの流されてきた血潮と、涙とを、覚えておられる。
さばきは、神の家から始まる。だからダビデは、他のどの王も当然しているかのような事でも、真っ先に光を当てられ、「さばかれた」のだ。
そして実は、王や権力者がその力を利用して強奪するあらゆる搾取についても、ただ、さばきが遅らされているだけで、やがては主の正当な主のさばきが行使されるのだ。

ウリヤという主の光に照らされて(2サムエル記11:6-15)
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ウリヤの妻と寝たダビデは、その後、彼女を身ごもらせたという事を聞いた。彼はそれを隠蔽する工作に出る。
『そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。』(2サムエル記11:6-8)
ダビデがウリヤを呼び寄せたのは、彼を、妻が待っている家に帰らせて「妻と寝る」事をさせるためである。
そうすれば、妻が身ごもっている事のつじつまがあい、ダビデとウリヤの妻の情事を、闇に葬る事が出来るからだ。

ウリヤ以外の兵士たちにとって、ダビデがウリヤを呼び出した事は、うらやましがられる事だったろう。
危険な戦線を離れ、王に直接戦況報告をする栄誉が与えられ、そして、妻が待っている家に帰って一緒の時を楽しめるのだから。
戦いの現場から久しぶりに妻の所へ帰った兵士は、当然、妻と愛の交わりをするだろう、、、ダビデはそう目論んだのだが、なんとウリヤは、それをしなかった。

『ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。』(2サムエル記11:11)
彼はなんと誠実な人だろうか!
同志達も上官も、そして、イスラエルの神・主も、戦いに出て野営している。
それなのに、自分だけ家に帰って妻と楽しむ事など、イスラエルの王であるあなたの前には、決してできない、と言うのだ。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろうか。快適な王宮で昼寝をするにおいても、女と情事を楽しむにおいても、ウリヤとは全く逆の事をしていたではないか。
ダビデは、ウリヤ(主の光)が、眩しくて仕方なかったに違いない。

『ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。』(2サムエル記11:12-13)
ダビデは今度は、ウリヤを、ダビデの目の前で飲ませ、酔わせた。
もしかすると、”綺麗事”を言っている彼も、酒に酔ったなら、我慢する心を手放して、家に帰り、妻と寝るかもしれない、と思ったのであろう。
しかしウリヤは、酒を飲まされても、主と主君とに対する忠誠を失わなかった。

ダビデはますます主の光に照らされ、さぞ眩しかっただろう。そして、恐れも生じただろう。
主と共に歩んでいる人は、本人にはその気は無くとも、うしろ暗い闇を抱えている人が見るなら、眩しくて、恐れを抱かせるものだ。

もはや、自分の罪を隠す手立てを、失ってしまったダビデ。
全てを告白して赦しを乞うか、それとも、あらゆる力を駆使し、あくまで「光」を覆い隠そうとするかの、二者択一が迫られたが、ダビデは非常に残念な決断をしてしまう。

『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』(2サムエル記11:14-15)
以前のダビデを知っている私達には、到底信じられないような事を、彼はするようになってしまった。
王としての権威を用い、この、有能で誠実な部下を謀殺する指示を、彼自身に持たせてヨアブに届けさせたのだ。

第一サムエル記のダビデ登場から、第二サムエル記の10章までだけを読むなら、ダビデは偉大な王だった。
しかし、この11章1節からの、たった15節を読むだけで、ダビデがそれまでして来た素晴らしい信仰の実績は、全て色あせてしまう。
人は罪と肉に心を許し、その方面に意図して歩むなら、いとも簡単に、なし崩し的に転落してしまう事を、私達キリスト者は、心して気をつけるべきである。

あたかも、仕事から離れてリゾート地で羽を伸ばしたいと切に願うかのように、正しい義の歩み・御霊にある歩みを離れて、肉欲のリゾートで罪の羽を伸ばしたい、と、日々心で願望している人は、ダビデのように、いつ積み上げて来た信頼や名声を失墜してしまっても、おかしくはない。
肉欲の発散はバケーションなどではなく、罪と死に追い使われる過酷で苦々しい奴隷生活の発端である事、そして、御霊にある歩みこそ、罪と死の束縛から開放された真のバケーションである事を、私達キリスト者は真に知るべきだ。

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