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水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
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- pastor 2015-7-27 6:19
水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
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『ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。』(2サムエル記6:1)
今回ダビデが兵を集めたのは、戦うためではなく、神の箱を、自分の街エルサレムに運び入れるためだった。
神の箱は、長い間、放置状態だった。
この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によって、ひとりでに戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は箱の中を見てしまったため、不敬の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。
『彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。』(2サムエル記6:3-5)ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車を用意し、そこに神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を指揮させ、三万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用い、新しい賛美とダンスをもって主をほめたたえながら運んだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりの頂点の時、全部を覆してしまうような事が起きた。
『彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。』(2サムエル記6:6-8)
牛がつまづいて、神の箱が倒れそうになったのを支える、という、「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
聖書を探ってみると、実は、ダビデ達の側に正さねばならない事があった事に気づく。
今回、ダビデが主の箱を運び入れようという行動に至った経緯が、第一歴代誌に詳しく記されている。
『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)
ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。これがまず一つである。
『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されているものの、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。
ようするに、ダビデ達は一見、主を敬っているかのように見えるが、実は人間が主体で「主・不在の人間的盛り上がりイベント」に過ぎなかった、という事だ。
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険である。
なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。
今回彼らは、神の箱を移動しているのだが、その場合、どうしなくてはならないのだろうか。
その作法は、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを一歩間違えると、「死ぬ」恐れがある事が、元々記されている。
だから、箱が晒された状態で、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
もし、ダビデのこの斬新な企画が、何の落ち度もないまま進んで行っていたとしたら、ダビデ達は確実に御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく御言葉に従っているつもり」だと思い込んでいながら、実はよく分かっておらず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯し、滅びへと突き進んでいるような事は無いだろうか。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。
『その日ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか」。』(2サムエル記6:9)
ダビデは恐れ、このイベントを急遽中止したが、『主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。』(箴言1:7)
ここからダビデは御言葉に求め、人が主体である事を捨て、主が主体であるべきだとする思いが芽生えただろう。
私達も、良かれと思っていた方法を進めている時に、いきなり冷水を浴びせられるような事が起きるかもしれない。
その時は、御言葉に立ち返るべき時である。
イザヤ書講解説教メッセージ
バビロンの性質とそれに対する預言 2(イザヤ14:1-11)
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【概要】
バビロンの裁きとイスラエルの回復に関するイザヤ書14章のメッセージ
【聖書箇所】
イザヤ書14:1-11
【励ましの言葉】
神は必ずイスラエルを憐れみ、再び選び、彼らの土地に帰らせてくださる。
【戒めの言葉】
バビロンのように高慢になり、人々を強いたげてはいけない。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の中にあるバビロンの性質を取り除き、神に立ち返るべきである。
【***詳細***】
今日のメッセージはイザヤ書14章1-11節に基づいています。これは先週に続いてバビロンに対する預言の続きですが、単なる一国家に対する裁きではなく、罪人全体に対するより大規模な裁きを示しています。世の終わりには、バビロンに象徴される者たちに対する裁きがなされると先週学びました。
まず1節を見ると、**「誠に主は、ヤコブを憐れみ、再びイスラエルを選び」**と書かれています。ヤコブとイスラエルは同じ民を指しますが、ヤコブは神に従順でない状態のイスラエルを表しています。それでも神はそのようなヤコブを憐れみ、再び選んでくださるのです。
さらに、「彼らを自分たちの土地に移す」とあります。これはバビロン捕囚からの帰還を予言していますが、同時に1948年のイスラエル建国も予見しています。2500年以上前のこの預言が文字通り実現したのです。聖書には他にも未実現の預言がたくさんありますが、それらも必ず実現するでしょう。なぜなら、「神のことばは生きており」(ヘブル4:12)、たとえ天地が滅びても神のことばは残るからです。
2-3節では、イスラエルが回復されると、かつて彼らを虐げた者たちを逆に支配するようになると預言されています。実際、現代のイスラエルは世界に大きな影響力を持つ国となっています。
4-11節では、バビロンの王の没落が描かれています。高慢で横暴だったバビロンが滅ぼされると、全地が安らかに憩い、喜びの歌声をあげると預言されています。これは私たちへの警告でもあります。私たちの内にバビロンのような高慢さや横暴さがあるなら、それを取り除くべきです。
特に注目すべきは9-11節です。バビロンの王が黄泉(よみ)に下ると、そこにいる死者たちがざわめき、迎えに出るという描写があります。**「あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似たものになってしまった」と彼らは言います。さらに、「あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらがあなたの覆いとなる」**と書かれています。
これは単なる比喩ではありません。マルコ9:48にも、**「そこでは、彼らを食う虫は尽きることがなく、火も消えることがありません」**と書かれています。死後の世界、特に神を拒んだ者たちの行き先について、聖書は明確に警告しているのです。
しかし、良い知らせがあります。イザヤ1:18には、**「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」**とあります。どんなに罪深くても、神に立ち返るなら赦され、清められるのです。
私たちは自分の中にある「バビロンの性質」、つまり高慢さや人を虐げる性質を取り除かなければなりません。マルコ9:43-47では、罪を犯させる手や足や目があれば、それらを切り捨てなさいと教えています。これは比喩的な表現ですが、罪との妥協を許さない徹底的な態度が必要だということです。
最後に、黙示録19:1-4を見ると、バビロンが裁かれた時、天では大勢の群衆が「ハレルヤ」と叫び、24人の長老と4つの生き物が神を礼拝する様子が描かれています。私たちもまた、バビロンの性質を捨て去り、永遠の礼拝に加わる者となりたいものです。
【結論】
バビロンの性質を取り除き、神に立ち返ることで、永遠の命と喜びを得ることができる。自分をつまずかせる罪は徹底的に取り除き、神の憐れみと赦しを求めよう。
内外の敵に対する正しい対処(2サムエル記5:17-25)
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全イスラエルの王とされ、堅固な都エルサレムに王宮を建てて住み、さらに妻をめとり多くの子を産んで行くダビデ。
成功の道をまっしぐらに進んでいるかのようなダビデだが、神に属する人が栄えると、それを妬んで攻撃して来る者も現れる。
『さてペリシテびとは、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞き、みな上ってきてダビデを捜したが、ダビデはそれを聞いて要害に下って行った。ペリシテびとはきて、レパイムの谷に広がっていた。』(2サムエル記5:17-18)
ペリシテが集結したレパイムの谷は、エルサレムのすぐ近く、ほんの数キロほど南である。
ダビデの町の喉元まで迫ってきたのだ。
サウルは、ペリシテが攻めて来た時、その軍勢を見て恐れ、わなないたが、今回もかなりの数と装備で攻め寄せて来たと思われる。
ダビデはどうしたか。
『ダビデは主に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上るがよい。わたしはかならずペリシテびとをあなたの手に渡すであろう」。』(2サムエル記5:19)
かつてダビデは、サウルから逃れるために、主に御心を求めずにペリシテの地へ行き、世の中的な生存競争の泥沼に陥った挙句、妻子や財産全てを奪われ、部下たちに殺されそうにまでなったが、その時、彼は主に伺って奮い立ち、見事全てを取り返した。(1サムエル記27章)
この事があってだろうか、彼は以後、何事に対しても主に伺うようになった。
私達もダビデのように、何事についても主の守りと祝福を、そして導きを求めて祈るなら、平和と尊厳の内に人生を全うできる。
『そこでダビデはバアル・ペラジムへ行って、彼らをその所で撃ち破り、そして言った、「主は、破り出る水のように、敵をわたしの前に破られた」。それゆえにその所の名はバアル・ペラジムと呼ばれている。』(2サムエル記5:20)
「バアル・ペラジム」の名は、神は突破口を開いて下さる、という意味である。
人は、自分の考えや経験に基づいた行動によって突破口を開こうとするが、それは最善ではなく、多かれ少なかれ自分や他人を傷つけるものである。
しかしダビデのように主に伺うなら、主はどんな問題であっても、最善かつ完璧な突破口を開いて下さる。
『ペリシテびとはその所に彼らの偶像を捨てて行ったので、ダビデとその従者たちはそれを運び去った。』(2サムエル記5:21)
ダビデは、敵の残して行った偶像を、しっかり除去したが、これは大事な事である。
カナンの偶像は、性的・肉的情欲をそそる表現が、あからさまに施されていたり、また、肉欲の逸脱的な発散行為が「礼拝」とされているような地であった。
エルサレム近くの谷に置き去りにされた偶像を片付けさせた事は、言うならば、純粋な青少年男子をかかえている親が、性的不健全な本やビデオが近所に散乱しているのを、すぐ片付けさせたようなものか。
目に見える偶像に従うのは、肉的には、非常にラクだ。
それに対し、見えない神に信頼し、書かれてある御言葉に信頼して歩む道は、肉的には困難を覚える。
その事は、信仰者である皆さんは日々、実感している事であろう。
だから主は、特に偶像を警戒させたのだ。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)
実際、列王記や歴代誌を見ると、ダビデの子孫である王達で、偶像が堕落のきっかけとなってしまった事例を、多く見る事が出来る。
だから、偶像をしっかり除去させたダビデは、その点素晴らしいのだ。
ペリシテ人は、懲りずにまた攻めてきた。
『ペリシテびとが、ふたたび上ってきて、レパイムの谷に広がったので、ダビデは主に問うたが、主は言われた、「上ってはならない。彼らのうしろに回り、バルサムの木の前から彼らを襲いなさい。バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは奮い立たなければならない。その時、主があなたの前に出て、ペリシテびとの軍勢を撃たれるからである」。』(2サムエル記5:22-24)
ダビデは再び、主に伺った。
人は特に、一度勝利したり成功したりすると、その経験や成功パターンに飛びついて主に伺う事を止めてしまう事が多い。
しかし彼は、そうではなかった。
ダビデが今回取るべき「主の戦法」は「登って行くな」であったが、もし主に伺わずに行っていたら、どうなっていただろう。
ヨシュアの時代、城塞都市エリコに大勝利した直後、アイという小さな町を攻略する上で、彼らは「今回も楽勝だろう」と考え、主に伺わずに出て行った結果、負けてしまった。
彼らの中には聖絶すべきものがあったため、どんな小さな相手にさえも勝てない状態に陥っていたのだが、主に伺っていなかったため、それに気付けなかった。
『ダビデは、主が命じられたようにして、ペリシテびとを撃ち、ゲバからゲゼルに及んだ。』(2サムエル記5:25)
以上のように、ダビデは、聖絶すべきものを徹底して除去する事についても、主に伺うという事においても、ぬかりはなかった。
そのため、ダビデは至る時、至る所で大勝利し、結構な北方まで領地を奪回した。
私達もダビデのように、滅ぼし尽くすべきものにおいて、また、主に伺う事において抜かり無くして、祝福を逃さないものでありたい。
そのような皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
花婿を迎え入れた花嫁 - ダビデを迎え入れたエルサレム(2サムエル記5:6-16)
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- 執筆 :
- pastor 2015-7-24 12:47
花婿を迎え入れた花嫁 - ダビデを迎え入れたエルサレム(2サムエル記5:6-16)
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いよいよ今回、エルサレムにダビデ王が入城し、この都はイスラエルのものとなる。
エルサレム。
この都は今後、聖書に何度も登場する重要な都である。
『王とその従者たちとはエルサレムへ行って、その地の住民エブスびとを攻めた。エブスびとはダビデに言った、「あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。かえって、めしいや足なえでも、あなたを追い払うであろう」。彼らが「ダビデはここに攻め入ることはできない」と思ったからである。』(2サムエル記5:6)
ダビデが入る前、エルサレムは「エブス」という町で、エブス人が住んでいた。
ヨシュアの時代、そこはベニヤミン族のものとして割り当てられていたが(ヨシュア18:21-28)、ベニヤミン人はそこを自分のものとせず、ずっと放置してエブスが住むままにしていた。
この都、エルサレムの成り立ちは、私達キリスト者の成り立ちと、よく共通している。
エルサレムが最初に聖書に登場するのは、いつだろうか。
それは実は、かなり早い段階で、イスラエルの父祖アブラハムの時代である。
『その時、「サレム」の王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った・・・。』(創世記14:18-20)
この「サレム」が、エルサレムの初期の名である。
そして、そこを支配していた王は、あのアブラハムを祝福した偉大な祭司・義の王であるメルキゼデクだった。
しかし、いつしかエブスという邪悪なカナン人が、この都を占拠し、支配するようになってしまった。
「エブス」の名の意味は「踏み潰す」、「エルサレム」の名の意味は「平和という土台」である。
元々は義の王が支配していた「平和の土台」という都は、やがて、「踏み潰す」者たちに占拠されてしまった。
これは人間の成り立ちにも、非常によく似ている。
人間は元々、神の似姿として創造され、永遠に、神と共に平和に生きるはずだったが、人はいつしか、邪悪な者に踏みにじられてしまった。
人を不当に踏みにじった者、それはサタンである。
それ以来、人の内側は不法で満ち溢れ、罪によって占拠されてしまった。
時代が降り、ヨシュアの時代、「エブス」となっていたエルサレムの町は、ヨシュアのくじによって、ベニヤミンの地とされたが、ベニヤミン族はその町をずっと放置したままにした。
一時、ユダ族がその町を攻め取ったものの(士師記1:8)、その後もエブス人が住み続けていた、という事は、ベニヤミンはせっかく邪悪な者どもをユダ族に追い払ってもらったのに、そこを神の民で満たす事をせず、空き家のままに放置したのだろう。
それで再びエブス人が来て住むようになって、以前よりももっと攻め落としづらくなってしまった。
人も同じように、悪しきものが内側から追い出されたとしても、そこを良きもので満たしていないなら、もっとたちの悪い七つの悪霊が来て住みつくようになってしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまうのだ。(マタイ12:43-45)
長らく続いた邪悪な者による占拠状態から、ようやくエルサレムを救ったのが、ダビデだった。
『ところがダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である。・・・ダビデはその要害に住んで、これをダビデの町と名づけた。またダビデはミロから内の周囲に城壁を築いた。こうしてダビデはますます大いなる者となり、かつ万軍の神、主が彼と共におられた。』(2サムエル記5:7-10)
偉大な王・ダビデがエルサレムに介入して入り、邪悪な者達をなぎ払い、神の民が住む都とした。
こうしてこの都は、偉大な王・ダビデが名を置く所となり、さらに強固に建て直され、やがては、聖なる神殿がその中に構築されて行く。
私達キリスト者も、同じ事を経験している。
罪の奴隷状態として、邪悪な感情や思いの占拠状態であったこの心と身体に、まことのダビデであるイエス様が介入して入って来られ、罪や汚れをなぎ払い、神のものとして、私達を邪悪な者サタンから分捕り返して下さった。
さらには、私達を聖霊の住まわれる宮とされ、偉大な王・イエス・キリストが住まわれる「神殿」とされた。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
しかし後に、エルサレムの都は、主を敬わない身勝手な王達によって、不法をはびこらせてしまう。
主が預言者を遣わし、それを戒めても、彼らはそれを無視し続け、ついにはバビロンという破壊者によって破壊されてしまう。
『ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。』(マタイ23:37-39)
私達も、まことのダビデであるイエス様を軽んじ、身勝手な思いに身を委ね、戒めを無視し続けるなら、破壊されてしまう。
しかし、イスラエルが後に憐れみを受けたように、私達も悔い改めて立ち返るなら、主は豊かに赦し、回復させて下さるのだ。
エルサレムは2015年現在、神殿の丘にはイスラムのモスクが建っており、未だ、不純なものが混在している状態である。
だが将来、主の時に必ず完全で純粋なものへとつくり変えられる。
『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:2)
その時、エルサレムは完全で清いものとなり、キリストの花嫁として、永遠にキリストのものとされる。
エルサレムがまだその途上であるように、今、私達も完成される途上にある。
私達のこの肢体には、相変わらず罪と義が混在状態になっていて、この身体を着ている間、しばし、うめかなくてはならないが、しかし私達がまことのダビデであるキリストを王として迎え入れる時、私達はこの地上の束縛から解放され、天に属するものとして、聖なる栄光の歩みをして行く事が出来、そして、来るべきキリストの花嫁として、ますます整えられて行くのである。
王とされたダビデ(2サムエル記5:1-5)
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『イスラエルのすべての部族はヘブロンにいるダビデのもとにきて言った、「われわれは、あなたの骨肉です。先にサウルがわれわれの王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そして主はあなたに、『あなたはわたしの民イスラエルを牧するであろう。またあなたはイスラエルの君となるであろう』と言われました」。
このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。』(2サムエル記5:3)
いよいよダビデは、全イスラエルの王となった。
聖書中の最重要人物の一人、イエス・キリストが生まれる家系の父となりイスラエル王族の大元となった「ダビデ王」。
彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じる「待ちの姿勢」を貫いた結果、半自動的に王とされた。
神の国で高められる人の性質は、自分の力や知恵によらず、ただ主に依り頼む人である。
『ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。すなわちヘブロンで七年六か月ユダを治め、またエルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。』(2サムエル記5:4-5)
ダビデの統治した期間は40年。
イスラエル全体の歴史からすればとても僅かであり、その間、ダビデ自身の罪や不完全さによって、人々の生活が不安定となった時もあった。
しかし、来るべきダビデの子・イエス・キリストの統治は、永遠であり、完全である。
『わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。』(エゼキエル34:23-24)
王の中の王として有名なダビデ。
彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となれたのか。
それは、ダビデは事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だったからだ。
ダビデとサウルの違いは、日頃主に依り頼むか、頼まないか。
罪が指摘された時、悔い改めるか、悔い改めないか。
その違いはシンプルだが、それは実に、永遠の明暗を分ける違いである。
私達も、救い主・イエスキリストにあって「王族の祭司」とされた。(1ペテロ2:9)
「王」であるからには、私達にも統べ治めるべき領域がある。
自分自身の人生、すなわち、自分の時間や身体を正しく治めるものであるし、子供や家庭を、また事業や仕事などを正当に治めるべき「王」である。
今、私達に任されているその王としての統治領域は僅かかもしれない。
しかし私達は、その小さな領域を、忠実に支配していくべきだ。
ダビデはいつ、全能の主から「王」として見出されただろうか。
それは彼がまだ紅顔の少年だった時に、すなわち、エッサイ一家の末っ子として皆に軽んじられ、サムエルの食事会にも招かれず、羊の番をさせられていた時から、であった。
その時から彼は、羊飼いとして与えられた小さな仕事を軽んじる事なく、任された羊達を、ライオンや熊からも命がけで守った。
彼は普通の毎日の中で、主に聞き従い、主の主権の中で忠実である事を、しっかり培ったからこそ、人間の誰にも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれたのだ。
そうして彼は、イスラエルの徴兵にもされない弱冠の歳にして、イスラエルの大人たちが誰も出来なかった事、すなわち、ゴリアテを倒したのだ。
それは、彼の能力や知恵によらず、はかりごとによらず、ただ、主に信頼して進み出た事によって、だった。
私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭などの先々で、主と主のことばに忠実に仕える事をしっかり養い、守るべき「羊」達を守るべきだ。
日々の小さな事に忠実であるなら、ダビデのように主に見出され、さらに多くを任せられる。
日ごと忠実に歩み、ダビデのように多くを任され、多くの主の仕事が出来る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
イシュ・ボシェテ殺害に対するダビデの表明(2サムエル記4:1-12)
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- pastor 2015-7-20 23:50
イシュ・ボシェテ殺害に対するダビデの表明(2サムエル記4:1-12)
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『サウルの子イシボセテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、その力を失い、イスラエルは皆あわてた。』(2サムエル記4:1)
平和のうちに物事が進んでいたのに、突然、血なまぐさい事が起き、上から下まで大騒ぎになる。
2015年7月現在の日本も、まさにその状況だ。
衆議院で、安全保障関連法案が強行採決されてしまい、今までに無かったようあ大騒ぎである。
このような激動の時、これを機に「のし上がってやろう」と、良からぬ事を企む者も出てくるものだ。
『サウルの子イシボセテにはふたりの略奪隊の隊長があった。ひとりの名はバアナ、他のひとりの名はレカブといって、ベニヤミンの子孫であるベロテびとリンモンの子たちであった。(それはベロテもまたベニヤミンのうちに数えられているからである。ベロテびとはギッタイムに逃げていって、今日までその所に寄留している)。』(2サムエル記4:2-3)
この二人の「略奪隊の隊長」であるベロテびとは、ベロテから逃げざるを得ない、何かしらの不穏な事情があって、ギッタイムに来た、という経緯がある。
『ベロテびとリンモンの子たち、レカブとバアナとは出立して、日の暑いころイシボセテの家にきたが、イシボセテは昼寝をしていた。家の門を守る女は麦をあおぎ分けていたが、眠くなって寝てしまった。そこでレカブとその兄弟バアナは、ひそかに中にはいった。
彼らが家にはいった時、イシボセテは寝室で床の上に寝ていたので、彼らはそれを撃って殺し、その首をはね、その首を取って、よもすがらアラバの道を行き、イシボセテの首をヘブロンにいるダビデのもとに携えて行って王に言った、「あなたの命を求めたあなたの敵サウルの子イシボセテの首です。主はきょう、わが君、王のためにサウルとそのすえとに報復されました」。』(2サムエル記4:5-8)
二人は、サウルの子・イスラエルで王たる者を、寝込みの無防備な時に、密かに命を奪って、その首をダビデの元に持って行くという、これまた卑劣な行為を行った。
しかも彼らは「主(エホバ)」の名を用い、あたかも、自分達が大義名分を果たしたかのような言い草で、のうのうと「主は報復されました」とダビデに報告している。
このような者たちは、血なまぐさい平和ならざる事をしてしまって後、後付け的に、大義名分を付け加えるものだ。
彼らは、義なる方・平和の君である「主」への尊敬も怖れも無く、単に、自分がしでかした事に正当性を付与したいがために、「主の御名」をその道具として使っただけである。
主は言われる。
『主よ、主よ』と言う者が御国に入るには非ず、御父の御心を行う者だけが入る、と。
その日いかに『主よ、主よ、私達はあなたの名によって何々したではありませんか』と言っても、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言う、と。(マタイ7:21-23)
かの二人のような「略奪者」の観点では、敵将の首を取り、持って行くのは、褒美がもられる「良い事」に見えたかもしれない。
しかしあいにく、神の国の価値観は、略奪の価値観とは違い、主は「真実」な方、「平和の君」である。
サウルは、「勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた」が(1サムエル記14:52)、隊長に任ずる採用基準に、霊的モラルのある無しは、あまり関係無かったようだ。
その”つけ”が、サウル家にまわって来てしまった。
私達も、力だけを求めて、御国の基準を後回しにすると、そのつけが後で回って来るものなのだ。
『ダビデはベロテびとリンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えた、「わたしの命を、もろもろの苦難から救われた主は生きておられる。わたしはかつて、人がわたしに告げて、『見よ、サウルは死んだ』と言って、みずから良いおとずれを伝える者と思っていた者を捕えてチクラグで殺し、そのおとずれに報いたのだ。悪人が正しい人をその家の床の上で殺したときは、なおさらのことだ。今わたしが、彼の血を流した罪を報い、あなたがたを、この地から絶ち滅ぼさないでおくであろうか」。』(2サムエル記4:9-11)
ダビデは、サウルが無防備だった時も、寝込みを襲えたような時も、決して手をかけなかった。
また、サウルが殺された時も、「自分が殺した」と言って来たアマレク人に、「油注がれた者」に手をかけた罪に報いた。
そんな、真実な彼の行動パターンを見ていれば、分かりそうなものを、かの二人は、空気が読めなかったというか、自分の価値観に凝り固まっていたというか、自らダビデの元に、自らを滅ぼす愚かさを、晒しに行ったのである。
『そしてダビデは若者たちに命じたので、若者たちは彼らを殺し、その手足を切り離し、ヘブロンの池のほとりで木に掛けた。人々はイシボセテの首を持って行って、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬った。』(2サムエル記4:12)
ダビデは、アブネルにしたのと同じく、イシボセテをヘブロンに葬って敬意を表し、ここにおいても、神と人との前に義と平和を表明した。
ダビデは、平和の君・キリストのひな形である。
平和の君とは、隠れて血を流すような卑劣な者を、そのまま許すような方ではなく、悪に対しては、きっちりけじめをつける、義なるお方だ。
こうしてダビデは、サウル家の誰にも手をかける事なく、かつて彼が宣言した通りになった。
『主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。』(1サムエル記26:10-11)
このダビデの有様、すなわち、決して自分で動くのではなく、主に伺い、主が何もかも為して下さった様を見て、私達に繰り返し語られている、次の御言葉を身に付けるべきである。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:5-9)
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
バビロンの性質とそれに対する預言(イザヤ13:1-22)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書13章のバビロンに対する預言について、現代に生きる私たちへの警告として解説。
【聖書箇所】
イザヤ書13章
【警告の言葉】
バビロンの罪から離れ、神の警告に従うよう促す。
【励ましの言葉】
神の言葉に従順であれば、祝福されたイスラエルとして扱われる。
【***詳細***】
イザヤ書13章は、バビロンに対する預言を記しています。この預言は、当時のバビロンだけでなく、霊的なバビロン、すなわち神に逆らう者たちに対する警告としても解釈できます。
まず、「ハゲ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声を上げ、手を振って彼らを貴族の門に入らせよ。」(イザヤ13:2)という言葉から始まります。これは、神の裁きが迫っていることを示す警告のシグナルです。
「私は怒りを晴らすために、私に聖別された者たちに命じ、また私の勇士、私の勝利を誇る者たちを呼び集めた。」(イザヤ13:3)ここで、神は裁きを執行する者たちを召集しています。
重要なのは、この預言が単に古代バビロンに対するものだけでなく、「主の日」に関する預言でもあるということです。「泣き喚け。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」(イザヤ13:6)この「主の日」は、最終的な裁きの日を指しています。
バビロンの滅びは、非常に激しいものとして描かれています。「彼らはおじまどい、産む女が身もだえするように、苦しみとひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。」(イザヤ13:8)これは、神の裁きの恐ろしさを表現しています。
さらに、「見よ、主の日が来る。残酷で、憤りと激しい怒りの日。地を荒廃させ、そこから罪人を絶滅させるために。」(イザヤ13:9)ここでは、裁きが単にバビロンだけでなく、すべての罪人に及ぶことが示されています。
この預言は、バビロンの滅びだけでなく、宇宙的な変動も予告しています。「天の星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても暗く、月も光を放たない。」(イザヤ13:10)これは、終末の時の出来事を描写しているとも解釈できます。
バビロンの人口は激減し、「私は人間を純金よりも稀に、人をオフィルの金よりも少なくする。」(イザヤ13:12)と預言されています。これは、神の裁きの厳しさを示しています。
具体的な裁きの執行者として、「見よ、私はメディア人を奮い立たせる。」(イザヤ13:17)と述べられています。歴史的には、メディア人とペルシア人の連合軍がバビロンを滅ぼしました。
最終的に、バビロンは完全に廃墟となり、「バビロンは二度と人の住むところとならず、代々にわたって人の住まないところとなる。アラビア人もそこに天幕を張らず、羊飼いもそこに群れを伏させない。」(イザヤ13:20)と預言されています。
この預言は、歴史的に成就しましたが、同時に私たちへの警告でもあります。「霊的なバビロン」、すなわち神に逆らう生き方から離れるよう促しているのです。
私たちは、神の警告を真剣に受け止め、罪から離れ、神に従順な生活を送るべきです。そうすることで、「バビロン」ではなく「イスラエル」、つまり神に祝福された者として生きることができるのです。
神の言葉に従うか従わないかは、私たちの選択です。しかし、その選択の結果は重大です。神の警告を無視し続けると、最終的には**「悪霊どもが住む場所」**となってしまう可能性があります。これは、人との正常な関係が失われ、霊的に荒廃した状態を意味します。
したがって、私たちは常に自分の生き方を吟味し、神の言葉に照らして正しい方向に進んでいるかを確認する必要があります。神の警告を受けたら、速やかに悔い改め、正しい道に立ち返るべきです。
【結論】
イザヤ書13章のバビロンに対する預言は、単なる歴史的な出来事の予告ではなく、私たち一人一人への警告でもあります。神に逆らう生き方(霊的なバビロン)から離れ、神の言葉に従順に生きることで、神の祝福を受けるイスラエルとなることができます。日々の生活の中で、神の警告に敏感になり、常に悔い改めと立ち返りを実践していく必要があります。
アブネルの死に対するダビデの表明(2サムエル記3:28-39)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-7-17 23:50
礼拝説教メッセージ音声:アブネルの死に対するダビデの表明(2サムエル記3:28-39):右クリックで保存
ヨアブは、卑劣な方法でアブネルの血を流し、殺した。
主は言われる。
『あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。』(創世記9:5-6)
主は確かに、血を流したがる者には、血をもって報いられるが、私達はそのような者達に対し、全くの無対応でいてはいけない。
そのような者たちに対し、はっきりと御言葉に基づいた見解を、そして命の立場を、表明すべきである。
ダビデは、起きた事についてどのような立場であるか、どのような見解であるかを、公然と表明した。
『その後ダビデはこの事を聞いて言った、「わたしとわたしの王国とは、ネルの子アブネルの血に関して、主の前に永久に罪はない。どうぞ、その罪がヨアブの頭と、その父の全家に帰するように。またヨアブの家には流出を病む者、らい病人、つえにたよる者、つるぎに倒れる者、または食物の乏しい者が絶えないように」。』(2サムエル記3:28-29)
ダビデはまず、今回、アブネルが卑劣な仕方で殺された事について、自分も、そしてイスラエルという神の国においても、一切関わりが無い、という事を表明し、また、ヨアブがした事については「呪われるべき」であると見解を表明し、実際に呪いを宣言した。
(なお天声では、この度、衆議院において安部首相をはじめとする自民党が「戦争法案」の強行採決に踏み切った事を受け、争いを好む者、敢えて血を流そうとする者達に対し、聖書(創世記9:6、箴言1:15-19)が示している通り「呪われる」事を、また、いのちのために働く人達が祝福されるよう、主イエスの名によって宣言している。)
『こうしてヨアブとその弟アビシャイとはアブネルを殺したが、それは彼がギベオンの戦いで彼らの兄弟アサヘルを殺したためであった。』(2サムエル記3:30)
ここを見ると、アブネルを殺したのはヨアブ一人だけではなく、弟のアビシャイも関わっていた事、そして、この動機は兄弟アサヘルが殺されたためである事が記されている。
つまり、この事件を意図し関わったのは、ヨアブ一人だけではなかったようだ。
そこでダビデは、ヨアブを中心に、この事件に関わった全ての人々に命じている。
『ダビデはヨアブおよび自分と共にいるすべての民に言った、「あなたがたは着物を裂き、荒布をまとい、アブネルの前に嘆きながら行きなさい」。そしてダビデ王はその棺のあとに従った。』(2サムエル記 3:31)
『人々はアブネルをヘブロンに葬った。王はアブネルの墓で声をあげて泣き、民もみな泣いた。』(2サムエル記3:32)
アブネルが葬られたヘブロンは、ユダ族の領地である。
アブネルはベニヤミン族であるので、ベニヤミンの地に葬るのが普通だが、敢えて、ダビデが治めていた地に葬った事で、アブネルを「イスラエルに功労した者」として、後の人々から敬意が表されるよう配慮したのかもしれない。
『王はアブネルのために悲しみの歌を作って言った、/「愚かな人の死ぬように、/アブネルがどうして死んだのか。あなたの手は縛られず、/足には足かせもかけられないのに、/悪人の前に倒れる人のように、/あなたは倒れた」。そして民は皆、ふたたび彼のために泣いた。民はみなきて、日のあるうちに、ダビデにパンを食べさせようとしたが、ダビデは誓って言った、「もしわたしが日の入る前に、パンでも、ほかのものでも味わうならば、神がわたしをいくえにも罰しられるように」。』(2サムエル記3:33-35)
ダビデはアブネルのために追悼の歌を作り、人々に歌わせたばかりでなく、断食して悲しんだ。
以上のように、ダビデは、自分と自分の王国には「血を流すような罪とは関わりがない事」を表明し、このように卑劣な形で血を流すような者は、呪われるべきである事を、そして、アブネルを殺した者達に対しては、アブネルの死をしっかり悼み悲しませた。
そしてダビデ自身は、アブネルの死を悼み、悲しみ、断食し、ヘブロンに葬り、追悼の歌を創って敬意を表した。
『民はみなそれを見て満足した。すべて王のすることは民を満足させた。その日すべての民およびイスラエルは皆、ネルの子アブネルを殺したのは、王の意思によるものでないことを知った。』(2サムエル記3:36-37)
全イスラエルは、安心しただろう。
この度の事は、ダビデが裏で糸を引いていたものではない、ダビデは計略を用いて不都合な人を暗殺するような腹黒い王ではない、と。
またダビデは、家来たちに対しても、表明した。
『王はその家来たちに言った、「この日イスラエルで、ひとりの偉大なる将軍が倒れたのをあなたがたは知らないのか。わたしは油を注がれた王であるけれども、今日なお弱い。ゼルヤの子であるこれらの人々はわたしの手におえない。どうぞ主が悪を行う者に、その悪にしたがって報いられるように」。』(2サムエル記3:38)
ダビデは、悪を行う者は、主・エホバがその悪に報いて下さるように、と、部下達の前で宣言した。
もし企業のトップが、儲けのためには少々の悪も必要だ、と言うとしたら、部下達は妥協して悪を行うだろう。世の企業ではそうだとしても、神の国に属する集団は、潔白であるべきなのだ。
ダビデはそのように宣言し、妥協しなかったからこそ、偉大な王となったのだ。
ダビデは、自分にはイスラエルを治めるような力は無い、と認めていた。その通り、自分に威厳や力や経験があるから、民は従ってくれる、というものではない。
民が、ダビデに従うようにさせて下さるのは、主である。
『あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。』(詩篇18:43-44)
このようにダビデは、内外に対して明確に、自分は真理に立っており、闇には立っていない、という立場を表明した。
これは私達にも必要なたしなみである。
礼拝説教メッセージ音声:平和を流血で塗り替えたヨアブ(2サムエル記3:12-27):右クリックで保存
争っていたサウル家とダビデ家であったが、アブネルの側から和平の申し出がなされた。
『アブネルはヘブロンにいるダビデのもとに使者をつかわして言った、「国はだれのものですか。わたしと契約を結びなさい。わたしはあなたに力添えして、イスラエルをことごとくあなたのものにしましょう」。』(2サムエル記3:12)
両家の争いにダビデは一切登場していなかったが、この、平和の申し出にダビデは答えた。
『ダビデは言った、「よろしい。わたしは、あなたと契約を結びましょう。ただし一つの事をあなたに求めます。あなたがきてわたしの顔を見るとき、まずサウルの娘ミカルを連れて来るのでなければ、わたしの顔を見ることはできません」。それからダビデは使者をサウルの子イシボセテにつかわして言った、「ペリシテびとの陽の皮一百をもってめとったわたしの妻ミカルを引き渡しなさい」。』(2サムエル記3:13-14)
ダビデのつけた条件は、正当なものであり、難しいものでもない。
ミカルはダビデを愛していたのに、父サウルがダビデの命を狙うようになって、ダビデは逃げざるを得なくなり、一人になってしまったミカルを、サウルは勝手にパルテエルという男性に嫁がせてしまったのだから、ダビデがミカルを戻すよう求めるのは、理にかなった事だ。
『そこでイシボセテは人をやって彼女をその夫、ライシの子パルテエルから取ったので、その夫は彼女と共に行き、泣きながら彼女のあとについて、バホリムまで行ったが、アブネルが彼に「帰って行け」と言ったので彼は帰った。』(2サムエル記3:15-16)
ミカルの一時的な夫だったパルテエルが、別れの時に泣き悲しんだ様も、サムエル記の筆者はわざわざ記している。
アブネルは、このパルテエルに声をかけて帰らせたばかりでなく、全イスラエルにも声をかけ、ダビデを王としてイスラエルを統一するために、大小あらゆる折衝をした。
彼は実に有能な働きをする人であることがわかる。
『アブネルはイスラエルの長老たちと協議して言った、「あなたがたは以前からダビデをあなたがたの王とすることを求めていましたが、今それをしなさい。主がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしの民イスラエルをペリシテびとの手、およびもろもろの敵の手から救い出すであろう』と言われたからです」。アブネルはまたベニヤミンにも語った。そしてアブネルは、イスラエルとベニヤミンの全家が良いと思うことをみな、ヘブロンでダビデに告げようとして出発した。』(2サムエル記3:17-19)
アブネルは言った。イスラエルも、そしてサウルの同族・ベニヤミンも、ダビデが治める事を「以前から(直訳:昨日も一昨日も)」求めて来た、と。
そう、ダビデが王になる事は、主の御心であり、民意でもあったのだ。
『アブネルが二十人を従えてヘブロンにいるダビデのもとに行った時、ダビデはアブネルと彼に従っている従者たちのために酒宴を設けた。アブネルはダビデに言った、「わたしは立って行き、イスラエルをことごとく、わが主、王のもとに集めて、あなたと契約を結ばせ、あなたの望むものをことごとく治められるようにいたしましょう」。こうしてダビデはアブネルを送り帰らせたので彼は安全に去って行った。』(2サムエル記3:20-21)
このように、全てが平和の内に、全イスラエルの王権がダビデへと移ろうとしていた。
人々も皆、全てが平和に事が進んだと喜んだ事だろう。
しかし、この平和の雰囲気は、一人の男によってひっくり返されてしまう。
『ちょうどその時、ダビデの家来たちはヨアブと共に多くのぶんどり物を携えて略奪から帰ってきた。しかしアブネルはヘブロンのダビデのもとにはいなかった。ダビデが彼を帰らせて彼が安全に去ったからである。ヨアブおよび彼と共にいた軍勢がみな帰ってきたとき、人々はヨアブに言った、「ネルの子アブネルが王のもとにきたが、王が彼を帰らせたので彼は安全に去った」。』(2サムエル記3:22-23)
ヨアブは、かの一連の出来事を知らなかった。略奪に行っていたからである。
ダビデは、略奪に出かけている彼の所に急使を送って、アブネルたちがいつ、どんな目的で来る、という事を、伝える事も可能ではあっただろう。
しかしそれをしなかったのは、ヨアブが平和な性格ではないからだと思われる。
『そこでヨアブは王のもとに行って言った、「あなたは何をなさったのですか。アブネルがあなたの所にきたのに、あなたはどうして、彼を返し去らせられたのですか。ネルの子アブネルがあなたを欺くためにきたこと、そしてあなたの出入りを知り、またあなたのなさっていることを、ことごとく知るためにきたことをあなたはごぞんじです」。』(2サムエル記3:24-25)
ヨアブの血気盛んさが、よくわかる。
彼は、平和で物事が解決しようとしている所に、疑いを掻き立てさせ、いらぬ焦燥感を吹き入れた。
そして、ダビデがそれに乗らない、と見て取ると、彼は主君ダビデには黙って行動を起こす。
『ヨアブはダビデの所から出てきて、使者をつかわし、アブネルを追わせたので、彼らはシラの井戸から彼を連れて帰った。しかしダビデはその事を知らなかった。アブネルがヘブロンに帰ってきたとき、ヨアブはひそかに語ろうといって彼を門のうちに連れて行き、その所で彼の腹を刺して死なせ、自分の兄弟アサヘルの血を報いた。』(2サムエル記3:26-27)なんと彼は、全てを平和裏に進めていたアブネルを、卑劣なやり方で殺害してしまった。
その動機は、「自分の兄弟アサヘルの血を報い」るために。
私怨を晴らすために、全イスラエルが平和に動こうとしているのを、彼は覆してしまったのだ。
ずっと後、ソロモンは言っている。『主はまたヨアブが血を流した行為を、彼自身のこうべに報いられるであろう。これは彼が自分よりも正しいすぐれたふたりの人、すなわちイスラエルの軍の長ネルの子アブネルと、ユダの軍の長エテルの子アマサを、つるぎをもって撃ち殺し、わたしの父ダビデのあずかり知らない事をしたからである。』(1列王記2:32)
ヨアブは、彼のキャリアの中で「自分よりも正しく優れた人」を2人も殺した、という事は、彼は自分の地位が脅かされないため、自分よりも出来る人を排除したかった、というのも動機としてあったのかもしれない。
イエス様は言われた。剣を取る者は、剣で滅びる、と。
私達は、ヨアブのような怒りと流血によって滅びる者ではなく、ダビデのように平和をつくる者、柔和な者として地を相続する者でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:女に力を費やしてしまう先(2サムエル記3:1-11):右クリックで保存
『サウルの家とダビデの家との間の戦争は久しく続き、ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。ヘブロンでダビデに男の子が生れた。彼の長子はエズレルの女アヒノアムの産んだアムノン、その次はカルメルびとナバルの妻であったアビガイルの産んだキレアブ、第三はゲシュルの王タルマイの娘マアカの子アブサロム、第四はハギテの子アドニヤ、第五はアビタルの子シパテヤ、第六はダビデの妻エグラの産んだイテレアム。これらの子がヘブロンでダビデに生れた。』(2サムエル記3:1-4)
ヘブロンに落ち着き、ますます力を増し加えて行ったダビデに、6人の子が生まれた。
しかし皆、それぞれ違う母親から生まれている。
一体いつの間に、こんなに妻を増やしていたのだろう。
おそらく政略結婚的な所もあるだろうが、主はモーセを通して命じている。
『王となる人は・・・妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(申命記17:16-17)
また、マサの王レムエルの母も、王である息子に言っている。
『あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。』(箴言31:3)
世界歴史を見て、女によって身を滅ぼした王が多いのは周知の事実だが、聖書によるなら、女に力を費やす事は「心迷わされる」道であり、「王たる者を滅ぼす」道だと記されている。
ダビデは王としては実に有能だったが、その後、女にからむ失敗によって、とても苦しむ事になる。
世で言う「王様」とは、何でも、好きな事を自由にできるものだと思われがちだが、神の国における「王」とは、王の王であられる主に仕え、主の御言葉を守り行うべき者だ。
なぜなら、王権も権威も全て主から預けられたものであり、実際、主の道を守らずに自分の思うがままに王権を乱用したサウルは、主から退けられてしてしまった。
だから主は、モーセを通して、王となるべき者について次のように命じている。
『彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。』(申命記17:18-20)
サウル家の将軍アブネルも、女性がらみの事がきっかけとなって、身を滅ぼす事になってしまう。
『サウルの家とダビデの家とが戦いを続けている間に、アブネルはサウルの家で、強くなってきた。さてサウルには、ひとりのそばめがあった。その名をリヅパといい、アヤの娘であったが、イシボセテはアブネルに言った、「あなたはなぜわたしの父のそばめのところにはいったのですか」。』(2サムエル記3:6-7)
このサウルのそばめだったリヅパは、相当聡明で美しかったのだろう。彼女は後に、サウルとの間に生まれた二人の子供達に対し、死を越えた愛を示す。(21章)
『アブネルはイシボセテの言葉を聞き、非常に怒って言った、「わたしはユダの犬のかしらですか。・・・主がダビデに誓われたことを、わたしが彼のためになし遂げないならば、神がアブネルをいくえにも罰しられるように。すなわち王国をサウルの家から移し、ダビデの位をダンからベエルシバに至るまで、イスラエルとユダの上に立たせられるであろう」。イシボセテはアブネルを恐れたので、ひと言も彼に答えることができなかった。』(2サムエル記3:8-11)
王の”めかけ”であった女を、自分のものにする。それは、自分が王よりも力を得、実権を握った事の象徴である。(2サムエル記16:21-22)
いかにサウルの子イシボセテには力が無く、サウル家は衰退し、将軍アブネルに実権があったかを知れるが、ダビデにしても、アブネルにしても、女に力を費やす事で、災いを招く事になってしまう。
男性は元々、複数の女性に力を費やせる程に、甲斐性があるようには創造されていない。
もし力を費やすべき相手がいるとするなら、それはただ一人、「妻」という女性のみだ。
神は人を、男と女とに創造され、「二人は」父母を離れ一体となるものとして、結婚を制定された。(創世記2:18-25)
創造当初の男と女の関係は「一対一」であり、一対複数ではないのだ。
そして、聖書が「夫」に命じている事は、「あなたの妻を愛しなさい」すなわち、アガペーの愛で、命がけで愛しなさい、という事であり、「妻」に対して命じている事は、全ての事について夫に仕え、夫を敬うべき事だ。(エペソ5:22-33)
つまり、男性にとって、命がけで愛せる女性は、ただ一人しかいない筈であり、もし、命がけで愛すべき相手が二人、三人以上いると言う男性がいるなら、文字通り「命が幾つあっても足りない」筈なのだ。
レムエルの母が言うように、「女」という「性」に力を費やすなら、滅ぼされてしまう、と言うのも、うなずける。
男性は、妻たる女性を命がけで守り、女性は夫たる男性を敬い仕え、そうして二人が一つとなって、家庭を築き上げてこそ、子が安定して育つ。
そして子供達に御言葉に基づいた教育をしてこそ、主が創世当初の人に命じられた祝福、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」がその家庭に与えられるのだ。