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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。(1サムエル記30:1-8):右クリックで保存

ダビデはサウルから逃れるために、世的な解決方法に頼り、神の国イスラエルから離れ、ペリシテという、神から離れた”世”での生き方、すなわち、騙し合い、奪い合い、殺し合いの日々を送っていたが、ある日突然、そのして来た事の刈り取りをする事になってしまう。


『さてダビデとその従者たちが三日目にチクラグにきた時、アマレクびとはすでにネゲブとチクラグを襲っていた。彼らはチクラグを撃ち、火をはなってこれを焼き、その中にいた女たちおよびすべての者を捕虜にし、小さい者をも大きい者をも、ひとりも殺さずに、引いて、その道に行った。ダビデと従者たちはその町にきて、町が火で焼かれ、その妻とむすこ娘らは捕虜となったのを見た。』(1サムエル記30:1-3)
ダビデ達は、出かけているわずか三日の間、アマレクの略奪隊が来て、他人から奪いながら積み立てて来た財産も、そして大切な家族も、全て奪われてしまった。
ある日家に戻ってみたら、家は焼かれて灰になっており、妻子も、それまで築き上げて来た財産も、なくなっているとしたら、どうだろう。
ダビデ達はまさにそのような状況だった。

『ダビデおよび彼と共にいた民は声をあげて泣き、ついに泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であったアビガイルも捕虜になった。』(1サムエル記30:4-5)
後の出来事を読むと、ダビデはこの後、全てを見事に取り返す事が分かるのだが、少なくともこの時点、ダビデは、妻子も財産も全て失い、すっからかんになっていたのだ。

人は、弱肉強食の世の中で生き残るために奔走する時、「よかれ」と思って色々な手立てを講じる。
よかれと思ってこの会社に入った、よかれと思って何処どこに移住した、よかれと思ってこの株式を購入し、この証券を買った、等、自分の人生や将来に「よかれ」と思って、色々な策を講じるが、神から離れてキリストを抜きにした「はかりごと」は、全て、不完全である。
人は、一日先の未来さえ分からない存在であり、自分の立てた「はかりごと」がいつ破綻してしまうのかも分からないが、いざ破綻した時、人は深く悲しみ、悲しみは怒りへと変わり、そして、その怒りの発散先を求める。

『その時、ダビデはひじょうに悩んだ。それは民がみなおのおのそのむすこ娘のために心を痛めたため、ダビデを石で撃とうと言ったからである。』(1サムエル記30:6a)
ダビデの部下達は、怒りの矛先をダビデへと向けた。ダビデは自分達をミスリードした、死んでお詫びしろ、と。
ダビデはそれまで、昼夜襲い来る危険や心配のプレッシャーに耐えながら部下達を守り養って来たのに、いざ事が起きた時、部下たちは全部ダビデが悪いと、石を投げようとする。
彼はどれ程、悩んだことだろう。
家や会社をリードする立場にある人は、そのような悩みはつきものであるが、この時のダビデのように、自分の迂闊な判断で自分の配下全体を絶望の極地へと導いてしまった場合、どうすれば良いだろう。

『しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。』(1サムエル記30:6b)
そう、これが私達も取るべき行動である。
ダビデはこんな時だからこそ、主を思い出し、主によって自分を力づけた。
自分の不信仰ゆえに、愚かさゆえに、犯した罪のゆえに、大事なものを失う事があるが、そんな時こそ、主に向かうのであるなら、その時点が”V字回復”の起点となるのだ。

『ダビデはアヒメレクの子、祭司アビヤタルに、「エポデをわたしのところに持ってきなさい」と言ったので、アビヤタルは、エポデをダビデのところに持ってきた。』(1サムエル記30:7)
ダビデの口から出る久しぶりの言葉である。
エポデは、主の御心を伺う道具であり、それを持って来させたが、私達にとっての、主の御心を伺う道具は、何だろうか。
私達が御心を伺う道具、それは聖書であり、伺う手段は、祈りである。
それを事あるごとに用い、主に伺うべきだ。

『ダビデは主に伺いをたてて言った、「わたしはこの軍隊のあとを追うべきですか。わたしはそれに追いつくことができましょうか」。主は彼に言われた、「追いなさい。あなたは必ず追いついて、確かに救い出すことができるであろう」。』(1サムエル記30:8)
ダビデは、非常に控えめに、勇気を振り絞って、主に問いかけをした。
主はそれに対し、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と、明確に、しかも、ダビデが問うた以上の答えを示して下さった。
久しく主を忘れ、身勝手にふるまい、それで窮地に陥った時、ようやく主を思い出し、主に問いかける祈りに、主は答えて下さる。
主はなんと恵み深いお方であろうか。

私達は、サタンという「アマレク」に、何を奪われて来ただろうか。
どんな「ペリシテの地」で、消耗して来たであろうか。

私達の人生の中で、家族、友人、金銀、時間、若さなど、かけがえのないものがサタンに奪われ、また自分の愚かさ故に消耗して来たかもしれない。
ダビデは、主にあって奮い立ち、主に問うた。
「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
私達も、追うべきである!
どうしてキリストにあって聖とされたものが、サタンに、いいようにされて良いだろう。

このダビデの告白を、私達も告白し、信仰によって奮い立ち、奪われて来たものを主にあって追いかけ、大胆に奪い返す皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
やり過ぎたアッシリヤに対する災いの預言(イザヤ10章):右クリックで保存

【概要】

アッシリアの高慢と神の裁き、そしてイスラエルの救いについてのメッセージ

【聖書箇所】

イザヤ書10章1-34節

イザヤ書37章36-38節

【戒めの言葉】

高ぶりは滅びをもたらす。主に与えられた力や祝福を、自分のものとして誇ってはならない。

【励ましの言葉】

いかに敵が強大に見えても、主を礼拝し助けを求める者を、主は速やかに救ってくださる。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は、イザヤ書の10章です。まず1-2節を読みます。

「ああ、不義の掟を制定する者、災いを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄る辺のない者の正しい訴えを却下し、私の民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分の獲物にし、みなしごたちをかすめ奪っている。」

イザヤは、イスラエルに対して、主に立ち返らないその頑なな心の上には災いが下るということを予言してきました。この1-2節だけを読んでも、不義の掟を制定するもの、災いを起こす判決を書いている者たち、というイスラエルの状況が分かります。古今東西、権力者がこの過ちを幾度も犯してきました。

当時の世界において、男性は力の象徴でした。畑仕事など主な生活が守られている一方、女性は家に閉じ込められているような状況でした。そこで、夫や父を失った女性や孤児は、社会のシステムがよく分からず、訴えることもできない弱い立場にありました。神が特別な法律を立てて、孤児とやもめを養いなさいと言っていたのに、逆に彼らのわずかな持ち物をかすめ取って、自分たちの富を増やそうとする悪い風潮がイスラエルにはびこっていました。

3節では、そのような者たちに対して刑罰の日が定められていると警告しています。

「刑罰の日、遠くから来る嵐の時に、あなたがたはどうするのか。誰に助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、囚われ人の足元に膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、主の怒りはおさまらず、なおも御手は伸ばされている。」

イザヤが予言した通り、後にイスラエルの指導者たちはアッシリアによって罰せられました。アッシリアは刑罰の道具として用いられたのです。

しかし、アッシリアも非常に高慢になりました。5-7節にその様子が記されています:

「ああ、アッシリア、わたしの怒りの杖。彼らの手にある鞭は、わたしの憤り。わたしはこれを、神を敬わない国民に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと命じ、物をぶんどらせ、獲物を奪わせ、街路の泥のようにこれを踏みにじらせる。しかし彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」

主がアッシリアを怒りの杖として用いたにもかかわらず、アッシリアはそうは思わず、ただ滅ぼすことだけを考えていました。アッシリアの高慢は主にまで及び、10節では自らをエルサレムの神よりも高いものだと誇っています。

そのような高慢に対して、主は12節以降で裁きを宣言します:

「主は、シオンの山、エルサレムで、ご自分のすべての業を成し遂げられるとき、アッシリアの王の高慢な心と、その誇り高ぶる目を罰する。」

15節では、主はアッシリアの愚かさを次のように例えています:

「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それを引く人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が木でない人を持ち上げるようなものではないか。」

このように、主に対して高慢になることの愚かさが示されています。

24-27節では、シオンに住む民に対する励ましの言葉があります:

「それゆえ、万軍の神、主はこう仰せられる。シオンに住むわたしの民よ、アッシリアを恐れるな。彼らが杖であなたを打ち、エジプトがしたように棒をあなたに振り上げても。ほんのしばらくすれば、わたしの憤りは終わり、わたしの怒りは彼らを滅ぼしてしまう。...その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼の軛はあなたの首から取り除かれる。」

そして、イザヤ書37章36-38節では、実際にアッシリアが滅ぼされた様子が記されています:

「主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で18万5千人を討ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、なんと、そこには彼らの死体があった。アッシリアの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの神殿で礼拝していたとき、その子のアドラメレクとサルエツェルは剣で彼を殺し、アララテの地に逃げた。その子エサルハドンが代わって王となった。」

この出来事は、ヒゼキヤ王の時代に実際に起こりました。イスラエルを取り囚んでいた18万5千人の軍隊が、たった一夜にして、主の使いによって滅ぼされたのです。

【結論】

この御言葉から、私たちは以下のことを学ぶことができます:

  1. 高ぶりは滅びをもたらします。主に与えられた力や祝福を、自分のものとして誇ってはいけません。

  2. いかに敵が強大に見えても、主を礼拝し助けを求める者を、主は速やかに救ってくださいます。

  3. 困難な状況にあっても、ヒゼキヤ王やヨシャパテ王のように、主に信頼し、賛美をもって進み出るべきです。

  4. 主は今も同じように働いておられます。私たちの個人的な戦いにおいても、主に信頼し、主の御業を期待すべきです。

  5. 主を呼び求め、主に信頼して崇める者、主に礼拝をする者には、同じ恵みと勝利が与えられます。

私たちは、日々の生活の中で様々な困難や敵に直面するかもしれません。しかし、そのような時こそ、主を呼び求め、主に信頼し、賛美をもって進み出るべきです。主は私たちの戦いを戦ってくださり、勝利をもたらしてくださるのです。

礼拝説教メッセージ音声:偽りへの暴走を止めて下さる主(1サムエル記29:1-11):右クリックで保存

『さてペリシテびとは、その軍勢をことごとくアペクに集めた。イスラエルびとはエズレルにある泉のかたわらに陣を取った。ペリシテびとの君たちは、あるいは百人、あるいは千人を率いて進み、ダビデとその従者たちはアキシと共に、しんがりになって進んだ。』(1サムエル記29:1-2)

ダビデは、本心に偽ってペリシテの王に取り入り、ついには引っ込みがつかなくなって、神の民イスラエルと戦うために行軍している所だった。

自分の命を狙うサウルを、二度も見逃してやった、あのダビデ。
サウルに追われている中でも、神の民・イスラエルの町をペリシテから救ってやった、あのダビデである。
今までアキシュに、表面上、イスラエルを襲っていたかのように見せかけてはいても、イスラエル人の血は一度も流さなかった、あのダビデが、この度、イスラエルに敵対し、サウルの軍に対して刃を向けなくてはならなくなってしまった。
彼の心に、どれ程の嵐が吹き荒れていただろう。

しかし主は、ダビデに、イスラエルの血を流さなくて済むように計らってくださる。
『その時、ペリシテびとの君たちは言った、「これらのヘブルびとはここで何をしているのか」。・・・「この人を帰らせて、あなたが彼を置いたもとの所へ行かせなさい。われわれと一緒に彼を戦いに下らせてはならない。戦いの時、彼がわれわれの敵となるかも知れないからである。この者は何をもってその主君とやわらぐことができようか。ここにいる人々の首をもってするほかはあるまい。』(1サムエル記29:3-4)
ダビデは、アキシュの元では、本心を偽った行動を突き進むほかに無かったが、主は、ペリシテの領主たちを用い、暴走していたダビデを留めて下さった。
アキシュも、ペリシテの領主達から一斉に反対されてしまっては、従わざるを得ない。

『ダビデはアキシに言った、「しかしわたしが何をしたというのですか。わたしがあなたに仕えはじめた日からこの日までに、あなたはしもべの身に何を見られたので、わたしは行って、わたしの主君である王の敵と戦うことができないのですか」。
アキシはダビデに答えた、「わたしは見て、あなたが神の使のようにりっぱな人であることを知っている。しかし、ペリシテびとの君たちは、『われわれと一緒に彼を戦いに上らせてはならない』と言っている。それで、あなたは、一緒にきたあなたの主君のしもべたちと共に朝早く起きなさい。そして朝早く起き、夜が明けてから去りなさい」。こうしてダビデとその従者たちとは共にペリシテびとの地へ帰ろうと、朝早く起きて出立したが、ペリシテびとはエズレルへ上って行った。』(1サムエル記29:8-11)
このようにダビデは、イスラエル人の血を流さずに済んだ。
しかし主は、本心に偽って突っ走ってしまうダビデを、元の健全な状態へと戻すために、少々の荒治療をされる。

私達も、自分の弱さ、足りなさ、知恵の無さ故に、愚かな道を突っ走り、引っ込みがつかなくなって、兄弟姉妹や自分自身を傷つけてしまう事がある。
怒り、妬み、憤りに支配され、「もう出て行く」などと言って飛び出し、荒んだ生活へとどんどん沈み込んで行き、ある時点で後悔しても、既に勢いがつきすぎて戻れなくなってしまっているような事が、私達にもある。
そんな時、「こんな暴走してしまう、どうしようもない私を助けて下さい」と主に助けを求めるなら、主は思わぬ所から助けを遣わし、止めさせてくださる。
但し、その時、痛みもなく丁重に治して下さる、とは限らない。
ダビデの場合は、荒治療であった。しかしそれもまた、主の憐れみである。
私達は、自分の愚かさ故に暴走している事に気づいた時、まだ軌道修正が簡単にできる内に主に向かい、軌道修正すべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:限りない闇と絶望の前夜(1サムエル記28:11-25):右クリックで保存

『女は言った、「あなたのためにだれを呼び起しましょうか」。サウルは言った、「サムエルを呼び起してください」。』(1サムエル記28:11)

サウルは、敵に見つかるかもしれない危険を犯して20キロも旅してまで、死んだサムエルに事を伺いたかった。
サウルは、サムエルが生きている間は何も伺わず、訪問もせず、死んでからはじめて伺いたいという気が起こった。
このような人が多いから、古今東西・世界各地で口寄せ商売が成り立っているのだ。

闇に伺いを立てに行く人に、跳ね返って来るものは、やはり、闇である。
『人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。 』(イザヤ8:19-22)

女は、自分が呼び出した霊を見た時、「どうしてあなたはわたしを欺かれたのですか。あなたはサウルです。」と叫んだが、サウルは「恐れることはない。あなたには何が見えるのですか」と言った。
『女はサウルに言った、「”神のようなかた(エローヒム、KJV:gods)”が地からのぼられるのが見えます」。サウルは彼女に言った、「その人はどんな様子をしていますか」。彼女は言った、「ひとりの老人がのぼってこられます。その人は上着をまとっておられます」。サウルはその人がサムエルであるのを「知り(ヤーダー:知覚し、判断し。KJV:perceived)」、地にひれ伏して拝した。』(1サムエル記28:13b-14)
サウルは、その「方」の成り立ちを、女から聞いて、それをサムエルであると「判断」した。

さて、ここに出てきたサムエルが、果たして本物かどうかという議論はあるが、これはサムエルではなく別の霊だと私は考えている。
イエス様がラザロと金持ちの話をされた時、憐れみのわざをしなかった金持ちは死んで後、黄泉(ハデス)に降ったのに対し、ラザロはアブラハムと共に「上」のほうにいた事を言っておられた。(ルカ16:23)
それに対し、この霊は「地からのぼって」来たと言っている。
サムエルは当然、アブラハムの側、「上」にいるはずなので、地の下から登ってくる霊は、違うものではなかろうか。
また、この霊はサウルに「あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になる(KJV: with me)であろう」(19節)と言っているが、主に従ったサムエルと、主に従わなかったサウルが、果たして共に同じ所に行くだろうか。

金持ちとラザロの間には、大きな淵が横たわっていて、誰も行き来出来ない、と記されている。(ルカ16:26)
だから死んだ人は、生きている人の世界と、行き来出来ないはずである。
つまり、死んだ人の霊と会った、と言っている人は、実は、死んだ人本人の霊と会ったではなく、その人に扮した「悪霊」と会っているのであり、死後の世界について、天国と地獄について、永遠の救いとさばきについての真実を掻き乱そうとするサタンから遣わされた霊であり、その霊と交わるなら、汚されてしまうのだ。
『あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて、汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ19:31)

『サムエルはサウルに言った、「なぜ、わたしを呼び起して、わたしを煩わすのか」。サウルは言った、「わたしは、ひじょうに悩んでいます。ペリシテびとがわたしに向かっていくさを起し、神はわたしを離れて、預言者によっても、夢によっても、もはやわたしに答えられないのです。それで、わたしのすべきことを知るために、あなたを呼びました」。』(1サムエル記28:15)
サウルは、主と心一つになろうとする意図はさらさら無く、自分の導きをしてくれる相手なら、神であろうと、死人であろうと、誰でもよかった。
だから、さっさとそちらに向いてしまったのだ。

私達が神を呼んだのに、何も答えられない、という事があるとするなら、その時は自分を省みるべきである。
自分の中に、主との間に妨げとなっている罪は無いか、まだ悔い改めておらず、取り扱っていない罪がなかったか、と。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ59:1-2)

もし私達に、不義が、罪が示されたなら、ダビデのように、主に正直に告白して取り扱っていただくべきだ。(詩篇51編)
サウルの場合、自分の罪は一切告白せず、何か悔い改めるべき事が自分の側にあるのではと探る事もせず、さっさと主の忌み嫌われる死人伺いに走ってしまった。

『サムエルは言った、「主があなたを離れて、あなたの敵となられたのに、どうしてあなたはわたしに問うのですか。・・・主はまたイスラエルをも、あなたと共に、ペリシテびとの手に渡されるであろう。あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になるであろう。また主はイスラエルの軍勢をもペリシテびとの手に渡される」。』(1サムエル記28:16-19)
あす、地の底から登ってきた霊と、一緒になる・・・何か、底知れぬ闇、救いようがない絶望を感じる。
いのちの君であられる主以外の者に伺いを立てるなら、それは死へと通じる道だ。もしいのちを得たいなら、いのちの君である主に伺うべきだ。

『そのときサウルは、ただちに、地に伸び、倒れ、サムエルの言葉のために、ひじょうに恐れ、またその力はうせてしまった。その一日一夜、食物をとっていなかったからである。』(1サムエル記28:20)
サウルはもはや、食欲も、行動意欲も、生気も無くなってしまった。
主を軽んじ続けるなら、いのちを失ってしまうのだ。

『女はサウルのもとにきて、彼のおののいているのを見て言った、「あなたのつかえめは、あなたの声に聞き従い、わたしの命をかけて、あなたの言われた言葉に従いました。それゆえ今あなたも、つかえめの声に聞き従い、一口のパンをあなたの前にそなえさせてください。あなたはそれをめしあがって力をつけ、道を行ってください」。』(1サムエル記28:21-22)
この霊媒女は、サウルに憐れみをかけた。
滅び行く者は、滅び行く者同士で気が合い、同情し合うものである。

『その女は家に肥えた子牛があったので、急いでそれをほふり、また麦粉をとり、こねて、種入れぬパンを焼き、サウルとそのしもべたちの前に持ってきたので、彼らは食べた。そして彼らは立ち上がって、その夜のうちに去った。』(1サムエル記28:24-25)
そしてこの女が、最後に憐れみとしてサウルに差し出したものは、ほふられた肥えた子牛と、種入れぬパンだった。
何か、主への礼拝の捧げ物を思い起こさせる。
サウルはこの最後の晩餐を、どのような思いで食べただろうか。
それは分からないが、サウルは日頃から主を退け、自分の心の赴く事を求めていた。だから、いざという時、彼は主を見いだせなかった。
いつでも主を呼び求め、いつでも主の光の内に導かれ、主の導きの内に守られ歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:サウルからことごとく逃げて行った「主の守りと導き」(1サムエル記28:3-10):右クリックで保存

『さてサムエルはすでに死んで、イスラエルのすべての人は彼のために悲しみ、その町ラマに葬った。また先にサウルは口寄せや占い師をその地から追放した。』(1サムエル28:3)

主は、サムエルが生きている間、ペリシテを防いでおられた。(1サムエル記7:13)
ペリシテはちょくちょく攻め寄せて来る事はあっても、サウルがそれを退ける事が出来たのは、サウルの力でも信仰でもなく、サムエルが年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けたからであり(7:16-17)、ダビデが信仰をもって戦ったからだ。
しかし、そのサムエルが死に、ダビデもサウルから逃げてイスラエルを離れた今、イスラエルを守る者は、サウルしかいなくなった。
そのとたんに、ペリシテが攻めて来た。

『ペリシテびとが集まってきてシュネムに陣を取ったので、サウルはイスラエルのすべての人を集めて、ギルボアに陣を取った。サウルはペリシテびとの軍勢を見て恐れ、その心はいたくおののいた。』(1サムエル記28:4-5)
サウルは、ようやく気づいたかもしれない。
今までいかにサムエルやダビデに守られて来たのかを。
しかしサウルは、彼らに、何をして来ただろう。

サウルは、サムエルからの主の言葉を軽んじて欲しいままに振るまい、自分の気に入らないなら、サムエルさえも殺しかねない者となったため(1サムエル記16:2)、サムエルは二度とサウルに会おうとしなくなった。(1サムエル記15:35)
ダビデに対しては、サウル家の王位を脅かす者として追い回し、殺そうとしたため、ダビデも彼から逃げて国外逃亡した。

サウルは、自分に王としての分が無いと分かった時、ダビデこそ王となるべき者だと悟った時、自分から王座を降りて、新しく油注がれたダビデにゆずるべきだったのだ。
そうしたなら、もっと平和な余生を送って、安らかに人生を全うしたであろう。
しかし彼は、自分が座していてはならなぬ王座にしがみついたが故、とても悲惨な死に方をする。

『そこでサウルは主に伺いをたてたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかった。』(1サムエル記28:6)
ウリムとは、祭司が御心を伺うためにエポデの中に納められている祭具だが、彼はエポデを着た祭司たちを、どうしただろうか。
『王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。』(1サムエル記22:18)
またサウルは、預言者をどうしただろう。
実行こそしなかったが、彼は預言者サムエルさえ殺そうとする勢いだった。
それ故、祭司も、預言者も、油注がれた者・ダビデも、ことごとくサウルを拒否し、サウルの周りから逃げられてしまったのだ。

自分が王でありたいが故に、預言者を退け、祭司を除き、油注がれた王を殺そうとする。
そのような者が行く先は、サウルと同じである。
キリストこそ、真の大祭司であり、まことの預言者であり、油注がれた王だ。
この御方を退け、自分が王座に座り続けようとするなら、やがては、自分がしがみつこうとした「王座」が、自分を滅ぼすものとなってしまうのだ。
だから私達は、さっさと自分が「王」である事を降り、自分に関する全ての支配権はダビデの子孫・イエスキリストへとゆずるべきなのだ。

『サウルはしもべたちに言った、「わたしのために、口寄せの女を捜し出しなさい。わたしは行ってその女に尋ねよう」。しもべたちは彼に言った、「見よ、エンドルにひとりの口寄せがいます」。』(1サムエル記28:7)
主に御心を求めても、何も返ってこないのを見て取ったサウルは、いとも簡単に、主が忌み嫌われる「口寄せ」はいないかと部下に尋ねた。
もしこの時、サウルが、かつてイスラエルの民がミツパでしたように、心を主に注いで断食し、「私たちは主に対して罪を犯しました。」(1サムエル記7:6)と悔い改め、主に求めていたらどうだっただろうか。
主は助けて下さった、と私は思う。なぜなら主は、どんなに邪悪な者達(アハブ王、ニネベの住人、十字架上の強盗など)であれ、悔い改めたら赦し、災いを思い直されたからだ。
しかし結局、サウルの心には主は無かったのだ。彼はいとも簡単に、主に忌み嫌われる者に尋ねようとし、部下たちも「王様、主に忌み嫌われる事はやめてください」とは言わず、すぐに「エンドルにいます」とサウルに教えた。
結局、サウルを戒めずに、イエスマンで通して来た彼らが滅ぶとしても、サウルとの共同責任なのである。

『サウルは姿を変えてほかの着物をまとい、ふたりの従者を伴って行き、夜の間に、その女の所にきた。そしてサウルは言った、「わたしのために口寄せの術を行って、わたしがあなたに告げる人を呼び起してください」。』(1サムエル記28:8)
口寄せの女がいるエンドルは、サウル達が陣営を張っているギルボアから20キロほど北にあるが、ペリシテが陣営を張っているシュネムは、エンドルの南西わずか5キロほどの所にある。
彼は夜、変装し、敵に見つかりそうな危険を犯しても、口寄せを求めて20キロの旅をしたのだ。
その労を主に捧げる心があったなら、彼はどんなに変わっていただろう。

『女は彼に言った、「あなたはサウルがしたことをごぞんじでしょう。彼は口寄せや占い師をその国から断ち滅ぼしました。どうしてあなたは、わたしの命にわなをかけて、わたしを死なせようとするのですか」。サウルは主(エホバ)をさして彼女に誓って言った、「主(エホバ)は生きておられる。この事のためにあなたが罰を受けることはないでしょう」。』(1サムエル記28:9-10)
サウルは、主の忌み嫌われる口寄せに対し、主エホバの名によって、彼女の安全を誓った。
彼は完全に、主の御名を軽んじ、主の御名を誤った用い方をしている。彼がこのように、主を軽んじる者だったからこそ、滅びへの街道がまっしぐらだったのだ。

平素は自分の心の赴くままに生きて、死ぬ直前にイエス様の名を呼び求めれば、世の中も好きに生きれて、死んだら天国に行けるのではないか、と思う人がいるが、果たしていざという時、主を呼び求める心を、保ちつづけていられるだろうか。
人はいざという時こそ、普段から頼っているものに心を向け、普段から頼っていないものをすぐに捨てるものである。
だから私達は、普段から、真に油注がれた王であり、まことの預言者、真の大祭司である主キリストを頼りとし、その守りの内を歩んでいくべきだ。

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主に向かわない人に降る止めどなき災難(イザヤ9:8-21)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書9章8-21節を中心に、主の御声に聞き従わない者への警告と災いについてのメッセージ

【聖書箇所】

イザヤ書9:8-21

申命記28章

【戒めの言葉】

主の御声に聞き従わず、自分の道を行く者には災いが臨む

【勧めの言葉】

主の御声によく聞き従い、その命令を守り行うことで祝福を受ける

【悔い改めの促しの言葉】

御言葉を軽んじる罪を悔い改め、速やかに主の御声に聞き従う生活へと立ち返る

【***詳細***】

今日の箇所は、イザヤ書9章8節から21節です。ここでは、主がヤコブに言葉を贈られたにもかかわらず、イスラエルの民がそれを聞き入れず、高ぶり、思い上がる様子が描かれています。

主がヤコブに一つの言葉を贈られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリアに住む者たちは皆、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。」(イザヤ9:8-9)

これは非常に重要な箇所です。主が御言葉を与えられたにもかかわらず、それを受け入れず、むしろ高ぶる態度をとるイスラエルの姿が描かれています。この態度が、後の災いの原因となるのです。

続く箇所では、イスラエルの民の驕りが具体的に描かれます。

レンガが落ちたから、切り石で建て直そう。一軸杉の木が切り倒されたから、杉の木でこれに変えよう。」(イザヤ9:10)

これは、人間の力や知恵で問題を解決しようとする態度を表しています。主の御声に聞き従うのではなく、自分たちの力で立ち直ろうとする姿勢が見られます。しかし、このような態度は結局のところ災いを招くことになります。

主は、このような態度に対して厳しい裁きを下します。

そこで主は列印に当たる者たちをのし上がらせ、その敵たちを煽り立てる。東からはアラムだ。西からはペリシテ人だ。イスラエルを頬張って喰らう。それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている。」(イザヤ9:11-12)

ここで重要なのは、「それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている」という表現です。これは、主の裁きが続くことを意味しています。イスラエルの民が悔い改めない限り、災いは続くのです。

さらに、イスラエルの指導者たちの腐敗についても言及されています。

この民の指導者は迷わせ者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。」(イザヤ9:16)

指導者の腐敗は社会全体の腐敗につながります。これは現代の私たちにも当てはまる警告です。私たちは常に、正しい指導者を選び、また自分自身が指導的立場にある場合は、神の御心に従って行動する必要があります。

最後に、この箇所は非常に厳しい言葉で締めくくられています。

それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている。」(イザヤ9:21)

これは、イスラエルの民が悔い改めない限り、主の裁きが続くことを意味しています。しかし同時に、主の御手が伸ばされているということは、悔い改めの機会がまだ残されているということでもあります。

この箇所から学ぶべき重要な教訓は、主の御声に聞き従うことの重要性です。申命記28章にも同様の教えがあります。

あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が今日命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主はあなたを地上のすべての国民の上に立てられる。」(申命記28:1)

主の御声に聞き従うことで、私たちは祝福を受けることができます。逆に、主の御声を無視し、自分の道を行けば、災いを招くことになります。

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日命じる主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたは呪われる。」(申命記28:15)

私たちは常に自分の生活を振り返り、主の御声に聞き従っているかどうかを吟味する必要があります。もし主の御声から離れていることに気づいたなら、速やかに悔い改め、主の道に立ち返らなければなりません。

また、私たちは周囲の人々の影響にも注意を払う必要があります。悪い仲間は良い習慣を損なうからです。ソドムとゴモラの例を思い出しましょう。主はロトとその家族を救うために、彼らをその地から連れ出しました。これは、悪い環境にいると、たとえ自分は悪いことをしていなくても、その影響を受けてしまう可能性があることを教えています。

私たちは、主の御言葉を聞いたなら、それを実行に移す必要があります。御言葉を聞くだけでなく、それを生活の中で実践することが重要です。家庭で、職場で、日々の生活の中で、主の御言葉を実践していく必要があります。

そして、私たちは常に悔い改めの姿勢を持ち続ける必要があります。主の御声に聞き従わなかったことに気づいたら、すぐに悔い改め、主の道に立ち返らなければなりません。悔い改めは、瞬間的な立て直しをもたらします。

【結論】

主の御声に聞き従うことが、祝福を受ける秘訣です。自分の力や知恵に頼るのではなく、常に主の導きを求め、御言葉に従って生きることが重要です。もし主の道から外れていることに気づいたなら、速やかに悔い改め、立ち返ることが必要です。私たちは、イスラエルの民の失敗から学び、常に主の御声に耳を傾け、従順に歩む者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声:世の評価を得ようと奔走する「泥沼」の過酷さ(1サムエル記27:1-28:2):右クリックで保存

サウルの殺意に対して憐れみで勝利し、善をもって悪に打ち勝ったダビデだったが、この章では、彼らしくない失敗を犯す。


『ダビデは心にうちに言った、「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地へのがれるほかはない。そうすればサウルはこの上イスラエルの地にわたしをくまなく捜すことはやめ、わたしは彼の手からのがれることができるであろう」。』(1サムエル記27:1)

ダビデは、サウルから身を守るために、神から与えられた相続地、礼拝する神殿があるイスラエルから離れ、弱肉強食の地・ペリシテへと逃れた。
今回の彼の決断に、祭司にエポデを持って来させて御心を伺ったような形跡は、ない。
わざわざイスラエルから離れなくても、イスラエルの片隅に住むでも良かったであろうに、彼は恐れに支配され、信仰を活用せず、世の解決方法に頼ったのだ。

信仰と忍耐によって大成功して、緊張の糸がほぐれ、気が緩んだ狭間に、ふっと、信仰を働かせずに歩んでいた「楽な」時期を思い出し、しばしそれに浸りたくなる時はある。
しかし、その心の隙に入り込んできたそのような思いは、キリストにあってとりこにし、追い出し、その隙間を賛美と感謝で満たさなくてはならない。
ひと度、礼拝する習慣から離れて、世の価値観に従い、自分の力でやりくりする生き方に入るなら、どんどん泥沼へと沈んで行き、抜け出すのが困難になってしまうからだ。

『こうしてダビデは、共にいた六百人と一緒に、立ってガテの王マオクの子アキシの所へ行った。ダビデと従者たちは、おのおのその家族とともに、ガテでアキシと共に住んだ。ダビデはそのふたりの妻、すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルの女でナバルの妻であったアビガイルと共におった。ダビデがガテにのがれたことがサウルに聞えたので、サウルはもはや彼を捜さなかった。』(1サムエル記27:2-4)
ダビデは確かに、当初の目論み通り、サウルに追われなくて済むようには、なっただろう。
その方面では、確かに平和は訪れたかもしれない。
しかし、礼拝の無い地、神を敬わない地に住み続けるためには、異邦の習慣に染まり、異邦の価値観での”実績”を挙げ続けなくてはならなくなる。
世の方法に頼って生きる生活は、一方の問題を抑えても、さらなる問題が四方八方から吹出してしまうもので、彼はこれを機に、世の方法で走り続けなくてはならなくなってしまった。

『さてダビデはアキシに言った、「もしわたしがあなたの前に恵みを得るならば、どうぞ、いなかにある町のうちで一つの場所をわたしに与えてそこに住まわせてください。どうしてしもべがあなたと共に王の町に住むことができましょうか」。アキシはその日チクラグを彼に与えた。こうしてチクラグは今日にいたるまでユダの王に属している。ダビデがペリシテびとの国に住んだ日の数は一年と四か月であった。』(1サムエル記27:5-7)
ダビデは、ペリシテの王アキシュに気に入られるために、遠くの街に住まわせて下さい、と、気を遣った。
ダビデは元々、ペリシテの敵側の将だったからだ。
悪徳業者の社員が”良い実績”を上げていくために、騙し、脅し、暴力など血も涙もない性質こそ「良い価値観」として自分に言い聞かせ、訓練して行くように、ダビデはペリシテの王に気に入られようとした時点で、ペリシテ流の、血も涙もない「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまったのだ。

『さてダビデは従者と共にのぼって、ゲシュルびと、ゲゼルびとおよびアマレクびとを襲った。これらは昔からシュルに至るまでの地の住民であって、エジプトに至るまでの地に住んでいた。ダビデはその地を撃って、男も女も生かしおかず、羊と牛とろばとらくだと衣服とを取って、アキシのもとに帰ってきた。』(1サムエル記27:8)
ペリシテ流の価値観は、弱肉強食である。弱い者・騙される者が愚かで、強い者・騙してでも奪った者が、勝者なのだ。
ダビデは、相手が異邦人とはいえ、町々を襲い、男も女も生かさずに略奪して生活するという、神の民から程遠い生活、ペリシテ人流の価値観で自活して行く者となってしまった。

ダビデは勇士であり、統率力も、人望も、実績もある。
世に降っても、そこそこの地位へと上りつめる自信は、あったかもしれない。
しかし、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人に対する「世からの要求」は、どんどん過酷になって行く。
礼拝から離れ、主に信頼する信仰生活から離れ、世の王に取り入り、自分の力や知恵、人望、実績などをアピールし、切り盛りして行こうとするクリスチャンは、必ず、このジレンマに陥る。

『アキシが「あなたはきょうどこを襲いましたか」と尋ねると、ダビデは、その時々、「ユダのネゲブです」、「エラメルびとのネゲブです」「ケニびとのネゲブです」と言った。ダビデは男も女も生かしおかず、ひとりをもガテに引いて行かなかった。それはダビデが、「恐らくは、彼らが、『ダビデはこうした』と言って、われわれのことを告げるであろう」と思ったからである。ダビデはペリシテびとのいなかに住んでいる間はこうするのが常であった。』(1サムエル記27:10-11)
ダビデは、カムフラージュの生活、仮面の生活を送らざるを得なかった。
すなわち、表向きはイスラエルの町々を襲っているかのように見せかけ、実は、異邦の町を襲い、かろうじて神の民イスラエルの民に手をかけるという事を避けていた。
ペリシテの王から見れば、ダビデはイスラエルに憎まれる事をしている、と見せているのだが、それを通すために、女子供さえ皆殺しにし、口を封じるようにしている。
一つの嘘をつくと、別の嘘で塗り固め、それをフォローするために、さらに別の嘘をついたり、偽りの行ないをしたり、アリバイ作りなどをしなくてはならなくなり、罪がどんどん重ねられて行ってしまうのだ。

『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(1サムエル記27:12)
ダビデは、確かにペリシテの王アキシュからの信頼を深めたかもしれない。
しかしペリシテの王に「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と、ひと度思わせてしまったなら、アキシュはダビデを、イスラエルを襲う事のプロとして見るようになり、さらに要求も過酷になって行く。
私達も、世の上司に気に入られるために、神に喜ばれない行動をし続けるなら、上司はますますそちら方面で評価をし、この者は肝っ玉が座っている、それならもっと高度な事をしてもらおう、と、もっと神に喜ばれない事をさせられるようになってしまうのだ。

そしてついに、ダビデにとって最も望ましくない事を、要求されてしまう。
『そのころ、ペリシテびとがイスラエルと戦おうとして、いくさのために軍勢を集めたので、アキシはダビデに言った、「あなたは、しかと承知してください。あなたとあなたの従者たちとは、わたしと共に出て、軍勢に加わらなければなりません」。ダビデはアキシに言った、「よろしい、あなたはしもべが何をするかを知られるでしょう」。アキシはダビデに言った、「よろしい、あなたを終身わたしの護衛の長としよう」。』(1サムエル記28:1-11)
なんとダビデ、ペリシテの側の軍勢として、一緒にイスラエルの民を襲おう、と持ちかけられ、それに対し「よろしい」と答えてしまう。
この言葉によって、ダビデはますますアキシュの歓心を得、終身雇おう、との確約を得た。
世から見れば、ダビデはわずか一年数ヶ月での大昇進だ、すごい、となるだろう。
ダビデは果たして、ペリシテ王の護衛の長という”終身雇用”の保証を得た事を、喜べただろうか。

ダビデは、サウルに追われながらでも、イスラエルの一つの町・ケイラがペリシテに襲われていると聞いた時、主に伺って、行って、ケイラを救った人だ。
ダビデの心には、とてつもない嵐が吹き荒れていたのではなかろうか。
ダビデはきっと、自分はなんという生き方へと、嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻たちや部下たちを導いてしまったのだろう、と思っただろう。
こんな事なら、サウルに追われながらでも、いのちの危険がありながらでも、信仰者として恥じない生活をし、神の民として誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
この大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。

『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)

世に妥協し、世に取り入ろうとするクリスチャンは、この葛藤に陥ってしまい、そこから抜け出せないでいると、どんどん泥沼へと沈んで行ってしまう。
しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
もちろん、ただでは済まされず、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒す、という事はされないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルに槍を返し、逆に槍を封じたダビデ(1サムエル記26:17-25):右クリックで保存

サウルは、またしても自分がダビデから憐れみを受け、殺されても仕方がないのに、見逃してもらった事を悟り、言った。
『「わが子ダビデよ、これはあなたの声か」。ダビデは言った、「王、わが君よ、わたしの声です」。』(1サムエル記26:17)
サウルはダビデを「わが子」と呼びかけた。
2度も、主とダビデからの憐れみを受け、心刺されたのだろう。

『ダビデはまた言った、「わが君はどうしてしもべのあとを追われるのですか。わたしが何をしたのですか。わたしの手になんのわるいことがあるのですか。王、わが君よ、どうぞ、今しもべの言葉を聞いてください。もし主があなたを動かして、わたしの敵とされたのであれば、どうぞ主が供え物を受けて和らいでくださるように。』(1サムエル記26:18-19a
ダビデは、サウルを責めたり、罵ったりする事をせず、主がこの事を判断してくださるように、と言って、物事のジャッジは主に根拠を置くように、サウルに仕向けさせた。

もし、サウルにダビデの命を狙い追わせたのが主から出た事であるなら、主はそれをたやすく成功させて下さったであろう。
けれども現実はそうでなく、逆に、ダビデのほうがたやすくサウルの命を奪える立場へと、2度も置かれた。

最初にダビデがサウルを見逃してあげた時、『どうぞ主がさばきびととなって、わたしとあなたの間をさばき、かつ見て、わたしの訴えを聞き、わたしをあなたの手から救い出してくださるように」。』(1サムエル記24:15)と言った。
それを主は聞き入れて、正しくさばいて下さった。
主の軍配は2回ともダビデの側に上がり、ダビデの命を付け狙うサウルの側には無い事を、誰の目にも明らかにして下さったのだ。

『もし、それが人であるならば、どうぞその人々が主の前にのろいを受けるように。彼らが『おまえは行って他の神々に仕えなさい』と言って、きょう、わたしを追い出し、主の嗣業にあずかることができないようにしたからです。』(1サムエル記26:19b)
サウルをダビデを殺したい気持ちへと突き動かした源が、「人(原文:アダムの子)」からのものであれば、それは呪われるように、と、ダビデは宣言した。
実際、そのような性質は、呪われるべきである。
次のように書いてあるからだ。
『主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。 』(箴言6:16-18)

『それゆえ今、主の前を離れて、わたしの血が地に落ちることのないようにしてください。イスラエルの王は、人が山で、しゃこを追うように、わたしの命を取ろうとして出てこられたのです」。』(1サムエル記26:20)
罪なき者の血が流されると、血はその土地の中から叫び、血を流した者は呪われ、さすらい人となってしまう。その事は、アベルの時から今日まで、ずっとそうである。
ダビデは、どうか”イスラエルの王”は、こんな取るに足らぬつまらない者の血を流して、呪われるような事がありませんように、と訴えたのだ。

『その時、サウルは言った、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。きょう、わたしの命があなたの目に尊く見られたゆえ、わたしは、もはやあなたに害を加えないであろう。わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした」。』(1サムエル記26:21)
サウルは真っ先に「自分が罪を犯した」と認めた。愚かなことをして、非常なまちがいをした、と。
実に大きな前進である。
憐れみは、人を成長させるのだ。
しかし、いかに何度も憐れみをかけて悔い改めを導いても、結局その人が悔い改めに相応しい実を結び続けられるかどうかは、本人次第だ。

悔い改めを告白したその言葉に、相応しい心を継続して保ち、それに相応しい行動を行い続けるなら、その人はさらに、主からの応援と祝福を頂く事ができて、どんどん良くなる。
しかし、その努力をしないで、以前の罪深さに逆戻りし、相変わらず邪悪な行ないをし続けてしまうなら、罪に罪を重ねる事になってしまう。
サタンに責め立てられる機会をさらに作ってしまい、もはや憐れみは届かなくなって、ついには永遠に救いの機会を失ってしまう。

『ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。』(1サムエル記26:22-24)
ダビデの言うとおり、命を大切にする人は、主が、その人の命を大切にされる。

サウルはその槍で、人のいのちを粗末にしつづけたが、主は、いのちを大切にしたダビデの手に、サウルのいのちを2度も渡された。
ダビデはその槍を、サウルに持ち帰らせた。
これから後、その槍は、すなわち、何度もダビデに向かって投げ、ヨナタンにも投げ、あるいは他にも多くの人に対して投げつけたかもしれない、その槍は、サウルにとって戒めのしるしとなるだろう。
私達も、誰かに槍を投げつけられるかもしれないが、その槍は取り上げるよりも、主にあって諭した後に、本人に返してやるほうが、はるかに効果的である。

『サウルはダビデに言った、「わが子ダビデよ、あなたはほむべきかな。あなたは多くの事をおこなって、それをなし遂げるであろう」。こうしてダビデはその道を行き、サウルは自分の所へ帰った。』(1サムエル記26:25)
こうしてダビデとサウルは、別れ別れになった。彼らにとって、これが今生の別れとなった。

ダビデははその後、神の国イスラエルから離れ、ペリシテへと向かう。
サウルは自分の所に帰ってくるように、と言っているし、万一、サウルが再びダビデの命を狙う事になっても、主はきっと守られるであろうが、ダビデは恐れたのだ。
ダビデは、まだまだこれから整えられるべきところがあり、そのために苦難も待ち受けているが、主にあって整えられ守られていく。
それはやはり、主に愛されているからであり、彼の整えが主の基準に達した時、彼は永遠に名を残す王として、諸々の実績をさらに残して行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:居眠りして油注がれた王を守らず(1サムエル記26:13-25):右クリックで保存

主は再び、サウルを簡単に殺せる立場へとダビデを置かれたのに、ダビデはそれをしなかった。

しかしダビデは、この起きた事を、サウル達に知られずに置くような事は、しなかった。
主はダビデを守っておられ、サウル達こそ御心を外して行動している、という事を、彼らに分からせるためである。

『ダビデは向こう側に渡って行って、遠く離れて山の頂に立った。彼らの間の隔たりは大きかった。ダビデは民とネルの子アブネルに呼ばわって言った、「アブネルよ、あなたは答えないのか」。アブネルは答えて言った、「王を呼んでいるあなたはだれか」。』(1サムエル記26:13-14)
ダビデは、サウル王ではなく、将軍アブネルのほうを名指しで呼んだのに、アブネルは「”王を”呼んでいるあなたはだれか」と答えた。
彼がサウル王の部下の筆頭であり、代理であるからだろう。

『ダビデはアブネルに言った、「あなたは男ではないか。イスラエルのうちに、あなたに及ぶ人があろうか。それであるのに、どうしてあなたは主君である王を守らなかったのか。民のひとりが、あなたの主君である王を殺そうとして、はいりこんだではないか。あなたがしたこの事は良くない。主は生きておられる。あなたがたは、まさに死に値する。主が油をそそがれた、あなたの主君を守らなかったからだ。いま王のやりがどこにあるか。その枕もとにあった水のびんがどこにあるかを見なさい」。』(1サムエル記26:15-16)
彼らが眠り込んでいたのは、主が送られた深い眠り故であったが、アブネルが自分の立場を王の代理・王の部下の筆頭として自認し、表明したからには、彼がした事、すなわち、眠りこけて、主が油注がれた彼らの主君を守っていなかった事は、致命的なミスである。
実を言うと、私達も、このような致命的なミスをよくしてしまうものだ。

ダビデが16節で言った「油注がれた者」のヘブライ語は「マシヤハ(メシヤ)」、ギリシヤ語の「クリストス(キリスト)」に相当する。
だから16節の言葉は、「おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、キリストを見張っていなかったからだ。」という事になる。

キリストの命が狙われていて、キリストを守るべき時に、眠りこけて守らず、キリストを死に追いやってしまう・・・。
どこかで聞いた話である。
イエス様の弟子達が、ゲッセマネの園でそれをしたし、私達も幾度、それをしているだろう。

『それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。』(マタイ26:36-38)

イエス様は最初、弟子達に「ここに”すわって(カスィゾー:座る)”いなさい」と言った。
次に、ペテロやヨハネ達に「ここに”待って(メノー:とどまる、座る)”いて、わたしと一緒に「目をさましていなさい(グレゴレオー、見張っていなさい)」と言った。
弟子達は、このイエス様の全存在を賭けたかのような必死の祈りの時、共に「座し」「とどまり」、イエス様と一緒に「目を覚まして(見張って)」いればよかったのだが、残念ながら彼らは、眠り込んでしまった。

困難が迫っている時、私達は「座し(カスィゾー)」「とどまり(メノー)」、イエス様と一緒に「目を覚まして、見張って(グレゴレオー)」いるべきである。
『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都に「とどまって(カスィゾー)」いなさい」。 』(ルカ24:49)
『わたしに「つながって(メノー)」いなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう(I in you.)。枝がぶどうの木に「つながって(メノー)」いなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしに「つながって(メノー)」いなければ実を結ぶことができない。』(ヨハネ15:4)
『だから、「目をさまして(グレゴレオー)」いなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 』(マタイ24:42)

『そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。』(マタイ26:39-40)
聖霊をまだ受けておらず、自分の力で何とかしようとしていた弟子達は、弱かったのである。
自分の力で霊的な物事を為そうとしても、その意識を覚まし続けている事はできず、眠り込んでしまい、そして、油注がれた方を死へと渡してしまうものである。
だから、イエス様は言われる。
『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。』(マタイ26:41)

私達も、心は燃えていても肉体は弱い、という事を常に覚えておくべきである。
イエス様には死んでもついて行きたい、と、単発的に熱く思っても、普段から霊に拠って歩まず、肉によって歩んでいるなら、いざという時、ペテロ達のように居眠りしてしまったり、イエス様を知らないと皆の前で宣言してしまったりするものだ。
だから私達は、誘惑に陥らないよう、日々、御言葉を基準に考え行動する事によって、霊的な目を開いておくべきである。
また、肉体は弱いという事を前提に考え、寝るべき時にはしっかりと寝て、与えられている体の体調と時間とを正しく管理すべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルを殺せる二度目のチャンスの時(1サムエル記26:1-12):右クリックで保存

『そのころジフびとがギベアにおるサウルのもとにきて言った、「ダビデは荒野の前にあるハキラの山に隠れているではありませんか」。サウルは立って、ジフの荒野でダビデを捜すために、イスラエルのうちから選んだ三千人をひき連れて、ジフの荒野に下った。』(1サムエル記26:1-2)

ジフ人は、以前もサウルに「ダビデはここにいる」と告げ口し、サウルは「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」と言って喜んだ。(23:21)

サウルは一度、主によって、自分のいのちがダビデの手に渡された、というのに、ダビデに憐れみをかけられ命拾いした。
彼はダビデの真実な対応に心打たれ、それに引き換え、自分はずっと悪で返して来た事に号泣し、もうダビデを追わないと、神と人との前で誓ったはずだ。
だから、ジフ人に再び「ダビデはここにいる」と言われた時、もう自分は彼を追わないと断るのが筋のはずなのに、サウルはまたしても、いとも簡単に、その誓いを翻してしまう。

ダビデは、ジフ人にされた事を全て主へ持って行って「彼らは神をおのが前に置くことをしません。」と訴えた。(詩篇54編)
せっかく、ダビデを付け狙うという「罪」をやめたサウルに、再び、いらぬ情欲を燃え立てるよう、そそのかしたジフ人達は、自分の前に神を置くことなどしない者達なのだ。
ダビデはそんな彼らに宣言している。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)

ダビデは、相手が自分を陥れるような事をした時、その相手に自分の手で仕返ししたりせず、相手と自分との間に主を置いて、その相手の事は主に委ねた。
これが聖なる国民、天に属する王族の者のたしなみである。

『サウルは荒野の前の道のかたわらにあるハキラの山に陣を取った。ダビデは荒野にとどまっていたが、サウルが自分のあとを追って荒野にきたのを見て、斥候を出し、サウルが確かにきたのを知った。』(1サムエル記26:3-4)
当時はレーダーも携帯電話も無く、情報は人づてに聞くか、自分の目と足で得るしか無い時代である。
それなのに、ダビデはいつも、サウルの動向を事前にキャッチした。
彼は神から愛され、人から愛され、その両者から守られていたからだ。なぜなら彼が為す事は、いつも「真理」に叶っていたからだ。

『そしてダビデは立って、サウルが陣を取っている所へ行って、サウルとその軍の長、ネルの子アブネルの寝ている場所を見た。サウルは陣所のうちに寝ていて、民はその周囲に宿営していた。』(1サムエル記26:5)
この陣営は三千人の精鋭の兵達であり、彼らはこぞって、自分を狙っている。
近寄るだけでも危険な筈なのに、ダビデはその陣営を見ると、なんと、もっと近寄って行った。
彼にはきっと、主にあって自分には害は無い、という確信があったのだろう。

『ダビデは、ヘテびとアヒメレク、およびゼルヤの子で、ヨアブの兄弟であるアビシャイに言った、「だれがわたしと共にサウルの陣に下って行くか」。アビシャイは言った、「わたしが一緒に下って行きます」。』(1サムエル記26:6)
ダビデが信頼を置いている側近が、二人いた。
その一人は、ヘテ人アヒメレク。
ヘテ人といえば、カナンの末裔で、ヨシュア記では聖絶の対象の民族であるはずだが、きっと彼も、ラハブのようにイスラエルの神・主に回心したのだろう。
サウルは間違った熱心ゆえに、イスラエルの中に住む異邦人を殺そうとしたため(2サムエル記21:2)、彼も、サウルから逃げてきたのかもしれない。
アヒメレクは、異邦人と言えど、優秀な人材だったのだろうし、ダビデも、主に立ち返った異邦人を差別する事なく、側近として用いていたのだろう。
もう一人は、ダビデの血縁・ゼルヤの子アビシャイで、彼は後に、勇士たちの長となり、槍を振るって三百人を倒すほどの、槍の達人である。(2サムエル記23:18)

『こうしてダビデとアビシャイとが夜、民のところへ行ってみると、サウルは陣所のうちに身を横たえて寝ており、そのやりは枕もとに地に突きさしてあった。そしてアブネルと民らとはその周囲に寝ていた。アビシャイはダビデに言った、「神はきょう敵をあなたの手に渡されました。どうぞわたしに、彼のやりをもってひと突きで彼を地に刺しとおさせてください。ふたたび突くには及びません」。』(1サムエル記26:7-8)
またしても、サウルをいとも簡単に殺せる機会が訪れた。
サウルは前回の警告を無視し、またもダビデのいのちを狙って来た、からには、ダビデは彼に手にかけても、誰も文句を言わなかっただろう。
あるいは、自分は手を汚さず、部下アビシャイに全てを任せる事もできただろう。アビシャイなら音も立てずに殺す事は出来ただろうし、彼も、自信をもって申し出ている。

『しかしダビデはアビシャイに言った、「彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか」。ダビデはまた言った、「主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。しかし今、そのまくらもとにあるやりと水のびんを取りなさい。そしてわれわれは去ろう」。』(1サムエル記26:9-11)
ダビデは、アビシャイにサウルを殺させるとしても、それは「わたしが手をのべること」とした。
自分が行動していなくとも、上の立場である自分が黙認した事は、自分がしたのと同じなのだ。
彼は以前サウルと洞窟で相対した時や、ナバルとの一件で、既に学んだのだ。
自分が仕返しする事は、ただ悪への道であり、この主が油注がれた王については、主に任せる事が一番である事を。

『こうしてダビデはサウルの枕もとから、やりと水のびんを取って彼らは去ったが、だれもそれを見ず、だれも知らず、また、だれも目をさまさず、みな眠っていた。主が彼らを深く眠らされたからである。』(1サムエル記26:12)
主は、彼らを深く眠らせている。
ことごとく主が自分に味方しておられるからには、自分のしている道は正しかった、主はやがてサウルを打たれ、自分は必ず守られるだろう、と、確信したのだ。

主は、サウルはをいつでも打つことは出来たが、憐れみ深いのが主である。
ダビデはサウルを逃す事によって、言ってみれば主の憐れみに「加担」したのだ。
私達もダビデのように、自分で復讐する事なく、全て主に任せ、主の事業に「加担」し、ますます主に用いられ引き上げられて行く者でありたい。

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