• カテゴリ 講解説教(旧約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:滅びを積み立てるサウルと王の整えを積み立てるダビデ(1サムエル記23:6-18):右クリックで保存

『アヒメレクの子アビヤタルは、ケイラにいるダビデのもとにのがれてきた時、手にエポデをもって下ってきた。』(1サムエル記23:6)

祭司皆殺しを命じたサウルからは、祭司はいなくなり、その唯一の生き残り・アビヤタルがダビデの元に逃げてきたので、彼は祭司を得た。
以後、アビヤタルがダビデの専属的な祭司となる。

『さてダビデのケイラにきたことがサウルに聞えたので、サウルは言った、「神はわたしの手に彼をわたされた。彼は門と貫の木のある町にはいって、自分で身を閉じこめたからである」。そこでサウルはすべての民を戦いに呼び集めて、ケイラに下り、ダビデとその従者を攻め囲もうとした。』(1サムエル記23:7-8)
色々と的外れなサウルである。
そもそも、神はサウルを王から退け、ダビデに油を注がれたのに、サウルは「神は」「わたしの手に彼(ダビデ)をわたされた。」と喜んでいる。

サウルがもし自分を国王と名乗るなら、ケイラが襲われた時、その町を救うべきは、彼のはずだったのではないか。
しかしその町を救ったのは、国王から追われているダビデだった。
それなのに、サウルはそれを聞いて、国敵ペリシテは放置して、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町であるケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしているのだ。
『イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。』(マタイ12:25)

サウルはなぜこんなにも、的を外してばかりいるのだろう。
ギリシア語で「的外れ」はハマルティア、それは「罪」と訳される言葉であるが、御言葉こそ「的」であり、サウルのように、真の「的」である御言葉を退け、自分の好む事をごり押しばかりしているなら、このような的外れの数々を演じてしまうのだ。
的外れから来る報酬は死であり(ローマ6:23)、サウルはやがて、その報酬を受け取ってしまう事になる。それはどんな人にも当てはまる事だ。

私達も、サウルのように、真に憎むべき敵・サタンを怒らず、怒りの矛先は主にある兄弟姉妹に向けたりしていないだろうか。
滅ぼすべき「自分の罪」に御言葉の矛先を向けず、主にある兄弟姉妹を、言葉の剣で切り裂いたりしていないだろうか。
神の国のために貢献したダビデを妬んで追い回したサウルに主が敵対したように、主に貢献し活躍している人を妬んで貶めるなら、その人は主から敵対される。

『ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知って、祭司アビヤタルに言った、「エポデを持ってきてください」。』(1サムエル記23:9)
エポデに結び付けられている「さばきの胸当て」には、御心を求める道具「ウリムとトンミム」がある。(出エジプト記28:30)
ダビデは祭司を得て、早速、御心を伺った。

『そしてダビデは言った、「イスラエルの神、主よ、しもべはサウルがケイラにきて、わたしのために、この町を滅ぼそうとしていることを確かに聞きました。ケイラの人々はわたしを彼の手に渡すでしょうか。しもべの聞いたように、サウルは下ってくるでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうぞ、しもべに告げてください」。主は言われた、「彼は下って来る」。ダビデは言った、「ケイラの人々はわたしと従者たちをサウルの手にわたすでしょうか」。主は言われた、「彼らはあなたがたを渡すであろう」。
そこでダビデとその六百人ほどの従者たちは立って、ケイラを去り、いずこともなくさまよった。ダビデのケイラから逃げ去ったことがサウルに聞えたので、サウルは戦いに出ることをやめた。』(1サムエル記23:10-13)

主のこたえは、サウルは来る、その時、ケイラの住人はダビデを引き渡す、であった。
それら二つの事は、ダビデがすぐに逃れた事によって、実際は起こらなかったが、主はご存知だった。
ダビデがケイラにいる限り、サウルはケイラごとダビデを滅ぼそうという心がある事、そして、サウルが全部隊を率いてケイラに攻め込んだら、ケイラの住民は、恩人であるダビデを引き渡してしまう「弱さ」がある事を。

主は、人が罪を犯してしまう弱い存在である事を、罪を犯す前から、既にご存知である。
イエス様も、ペテロが三度主を否む前から、既にご存知だった。そのため、ペテロの信仰がなくならないようあらかじめ祈り、立ち直ったら兄弟たちを力づけるようアドバイスを下さっていた。(ルカ22:32)
主は、私達の弱さを先回りして執り成しておられ、また、弱さ故に罪を犯した後も、フォローして下さるお方だ。(ヨハネ21章)

『ダビデは荒野にある要害におり、またジフの荒野の山地におった。サウルは日々に彼を尋ね求めたが、神は彼をその手に渡されなかった。』(1サムエル記23:14)
主はダビデを、あらゆる災いから守って下さった。
主は、主に依り頼む者を守り、助け、必要を備えて下さるばかりでなく、弱っている心をも力づけて下さる。

『さてダビデはサウルが自分の命を求めて出てきたので恐れた。その時ダビデはジフの荒野のホレシにいたが、サウルの子ヨナタンは立って、ホレシにいるダビデのもとに行き、神によって彼を力づけた。そしてヨナタンは彼に言った、「恐れるにはおよびません。父サウルの手はあなたに届かないでしょう。あなたはイスラエルの王となり、わたしはあなたの次となるでしょう。このことは父サウルも知っています」。こうして彼らふたりは主の前で契約を結び、ダビデはホレシにとどまり、ヨナタンは家に帰った。』(1サムエル記23:15-18)
恐れていたダビデは、ヨナタンの訪問と力づけによって、どれほど慰めを得ただろう。

サウルは、国家権力を駆使してもダビデに接触できなかったのに、ヨナタンは、いとも簡単に接触できた。
主がダビデのため、またヨナタンのために導いてくださったからだ。
主には、そこまで出来るのなら、どうして主はすぐにでもサウルを消し去って、即座にダビデを高めてくださらないのだろうか。

主は、全ての人の心に隠されているものが「実を結ぶ」のを待っておられる。(マタイ13:36-43)
人々の意思決定と行動によって、心の内が露わにされ、実を結び、その結んだ実に応じて、主は報いを与えられるのだ。

サウルはこの時点であっても、御言葉に立ち返って悔い改め、救いを得る事も出来たであろうが、彼はあくまで、我が道を行く事を選び続け、滅びの火の燃料を積み上げて行った。
ダビデはこの時点、主に従う事を放棄して、邪悪な行動に出る事も出来たであろうが、彼はあくまで御旨に従う事を選び通し、そうして王としての整えを積み上げて行った。
ヨナタンは、ダビデを力づけたいと願い、主はそれをよしとして、あらゆる都合をつけてダビデに引き会わせ、ヨナタンを通して、ダビデを慰めて下さった。
主は、全て人の自由意志を尊重され、ダビデやヨナタンのように、御旨に叶う事をする人を助け、サウルのように、御旨に適わない事をあくまでする者を、退けられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:みんなの常識的な意見が主の導きと相対する時(1サムエル記23:1-5):右クリックで保存

逃亡中のダビデ達の所に、一つの知らせが届いた。

『「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。』(1サムエル記23:1)

ダビデ一行は、サウル王の軍隊から追われている状況だ。
ケイラを助けるのは、もっとゆとりのある人に任せる事ができるだろうし、何より、それはサウル王の仕事であろう。
にも関わらず、「わたしが行くべきでしょうか」と主に尋ねるのが、ダビデのダビデたる所以である。
彼はゴリヤテの時も、生ける神の陣がなぶられる事を許しておけなかったし、羊の一頭でも、ライオンに持っていかれるのを許しておけなかった。
彼は、キリストのように、一人の魂でも、滅んで行く事を許していられない性格だったのだ。

主の御心は、「行け」だった。
ダビデは早速、部下達に伝達しただろう。これから我々はケイラを救いに行く、だから準備せよ、と。
『しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。』(1サムエル記23:3)
常識的に考えるなら、彼らの言う事のほうが、もっともである。
今、自分たちはそんな場合ではない、むしろ、自分たちの身を案じるべきだ、と。

私達も信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。
主の御心は「行け」なのに、常識や世の人は「行くな」と言い、そのはざまに揺れる事が。
せっかく、なけなしの信仰を奮い立たせて実行しようとしたのに、周りが早速「NO」をつきつけてくる事が。

人目を気にするサウルなら、迷わず、主の御旨を退け、人の意見を採用していただろう。
しかし、ダビデは違った。
彼は、もう一度、主に伺った。
『ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。』(1サムエル記23:4)

主の意見は、同じであった。
しかも今度は、より明確に、勝利の約束まで与えて下さった。
主は、一度導きを与えたなら、もう二度とは言わないようなお方ではなく、不安だったらもう一度問うて良いのだ。
ギデオンも、最初はそうだった。
しかし、何度も尋ね、何度もgoサインをいただき、しるしまで頂いておきながら、結局、行かないような者は、主はそのうち御顔を背けてしまう。
出エジプトの民やバラム、そしてサウルがそうだった。

『ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(1サムエル記23:5)
戦果は、大勝利だった。
彼らの集いは既に六百人に増えていたので、一日を過ごすだけで、かなりの食料が必要であろう。しかし、この戦いをしたお陰で、必要を満たす事が出来た。

ダビデは、「主に伺う」事をいつもしており、苦境にある聖徒たちや兄弟姉妹のためには、自分の考慮をせず、ただ助け出さずにおれない性質である。
彼のように、自分の心配をする以前に、主に伺い、主の御旨どおり行動する人は、いつも大勝利し、またいつも必要が満たされるのだ。

自分には今、あの兄弟姉妹、あの教会を助ける余裕など無い、というような時でも、主は「行け」「助けよ」と言われる事がある。
そのような時こそ、行くべきである。
主は、救う力も必要な資力も与えて下さり、行って、勝利し、救ったなら、全以前よりも富む者とされ、関わった全ての人達が主の栄光を見るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:アマレクではなく祭司たちを滅ぼし尽くしたサウル(1サムエル記22:17-23):右クリックで保存

私達は常時、何かしらを「思っている」ものだが、その「思い」の出所元には、いつも気をつけるべきだ。

なぜなら私達は、常日頃浸っている「思い」の「出処」に似てくるからである。
サウルは、健全な主の言葉から思いをそむけ、かえって、「妬み」や「怒り」「殺意」といった、サタンを出処とする悪しき思いを、いつも巡らしていたため、彼はどんどん、サタンの性質を帯びるようになって行ってしまった。

人は、ねたみや好色、汚れた思いに委ねているのは、肉的にはラクである。
人にはそうした罪の性質が「刺さって」いるため、ねたみや好色などをネタにする雑誌が、国を問わず、売れているのだ。
しかし私達のように、キリストにあって聖徒とされた者が、聖なる言葉に馴染もうとせず、肉的にラクな道ばかりを選び、汚れた思いに浸り続けているなら、どんどん聖なる感覚は鈍って行き、ついには、恐るべき悪行をも、無感覚的に平気で実行するようになってしまうのだ。

近衛兵たちは、誰も、このサウルの命令、「主(エホバ)の祭司たちを殺せ」には、従えなかった。(1サムエル記22:17)
主エホバをおそれる民であるなら、主の祭司を殺すなど、決してできないものだ。
「主の祭司たちを殺す」という”望み”を果たしてくれる人は、神の民イスラエルの中には誰もいない、というのを見て取ったサウルは、神を恐れぬ邪悪な者をもって、その”望み”を果たさせようとする。

『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても、サウルの心は全く動かず、かえってドエグに、そこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向かせ、祭司たちの女、子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺させ尽くしたのだ。

この祭司たちは、エポデを着ていた。
エポデとは、祭司が務めを為す時の服であり、その両肩部分には、イスラエル十二部族の名が刻まれた宝石が結び付けられ、また、胸の所には、イスラエル十二部族の名が彫り込まれた十二種の宝石がはめ込まれている「さばきの胸当て」を結びつけられる。
祭司たちはエポデを着る事によって、イスラエルの名を両肩に背負い、またイスラエルの名を胸に収めつつ、聖所を出入りして、イスラエルの罪の贖いをしているのだ。(出エジプト記28章)

サウルは、神と人との間に立って罪を身代わりに背負ってくれる祭司たちを、自分から抹殺したのだ。
一体誰が、サウルの身代わりに罪の贖いをしてくれるというのだろうか。
それは彼には、もはや無い。
だから、サウルがこれから危機に陥った時、彼を救ってくれるものは、何もなくなってしまったのだ。
私達ももし、私達の罪を身代わりに背負って罪を購ってくださった主イエス・キリストをあなどり、拒否し、抹殺するとするなら、もはや罪の贖いは何も残っておらず、ただ恐ろしいさばきを待っている他ないのだ。

『しかしアヒトブの子アヒメレクの子たちのひとりで、名をアビヤタルという人は、のがれてダビデの所に走った。そしてアビヤタルは、サウルが主の祭司たちを殺したことをダビデに告げたので、ダビデはアビヤタルに言った、「あの日、エドムびとドエグがあそこにいたので、わたしは彼がきっとサウルに告げるであろうと思った。わたしがあなたの父の家の人々の命を失わせるもととなったのです。』(1サムエル記22:20-22)
ダビデも、まさかサウルがそこまでするとは思っていなかった事だろう。

しかし実をいうと、このエリの子孫達が剣で絶たれてしまう事は、主によってあらかじめ警告されていた事だった。(1サムエル記2:31-36)
『イスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。』(1サムエル記2:30-31)
エリとその息子達は、この警告を受たが、軽んじ、行状を改めなかった。

『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
エリも、彼の息子ホフニとピネハスも、この警告の通り、同じ日に死んだ。
そしてこの度、その一族郎党の祭司たち八十五人も、女子供も、乳飲み子までも、剣によって絶やされてしまった。
こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言は、成就した。

ここで、アヒメレクの子・アビアタルだけが逃れて来たのだが、結局彼も、ソロモン王の時代、ダビデに敵する側についたゆえに、祭司職から罷免され、彼の代わりに、ツァドクの家(ピネハスの子孫)が大祭司の家系となっていく。(1列王記2:35)
こうして「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という預言も、エリの家に成就する事となった。

『あなたはわたしの所にとどまってください。恐れることはありません。あなたの命を求める者は、わたしの命をも求めているのです。わたしの所におられるならば、あなたは安全でしょう」。』(1サムエル記22:23)
このようにしてサウルは、主に伺う事のできる祭司を自ら抹殺し、彼自身、みずから主に伺う事を断絶してしまった。
しかしお陰で、ダビデは、祭司を得る事になった。

滅ぼし尽くすべきアマレクは滅ぼす事を惜しみ、代わりに、神と自分との間に立って執り成してくれる祭司を滅ぼし尽くしたサウル。
サウルのように、罪の性質を滅ぼす事を惜しみ、健全な御言葉を踏みにじり続けるなら、その内、手をかけてはならない恩人をあやめるようになり、ついには、まことの大祭司であるイエスキリストを殺してしまうようになってしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声:憎しみを思い巡らす人は主の祭司も平気で殺す(1サムエル記22:6-16):右クリックで保存

『サウルは、ダビデおよび彼と共にいる人々が見つかったということを聞いた。サウルはギベアで、やりを手にもって、丘のぎょりゅうの木の下にすわっており、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(1サムエル記22:6)

サウルは、息子・ヨナタンに槍を投げつけて以来の登場であるが、彼の人格の崩れ度合いは、さらに進んでいる。
戦時でもないのに、いつも彼が槍を手にしているのは、人々を威圧するためか、あるいは最悪、気に食わない者に槍を投げつけるためなのかもしれない。

『サウルはまわりに立っている家来たちに言った、「あなたがたベニヤミンびとは聞きなさい。エッサイの子もまた、あなたがたおのおのに畑やぶどう畑を与え、おのおのを千人の長、百人の長にするであろうか。』(1サムエル記22:7)
サウルは、イスラエル全体の王のはずだ。なのに、彼の周りにはベニヤミン人しかいない。
もしかすると、凶暴化して来た彼から人々が逃げ、もはや身内のベニヤミン人しかいなくなってしまったのかもしれないし、あるいは、サウルの猜疑心が強くなりすぎて、自分の身内しか信用できなくなってしまったからかもしれない。

サウルは、「エッサイの子」すなわちダビデは、はたして、あなたがたにぶどう畑や昇進などの褒美を取らせるだろうか、と言っている。
しかし本来、神の民は、畑を人から褒美として与えられるべきものではないし、また本来、千人隊や百人隊の長や兵士などを、人間の制度によって徴用されるべきものではない。
王である主が、相続地を人に与えておられ、そして主が、それぞれの人に賜物を与え、それぞれおの志に働きかけるのだ。
だから、神の国の人は、主から与えられた賜物を自由に生かし、ある人は隊長になり、ある人は畑を豊かにさせる者となったりするのだ。

サムエルはかつて、人々が王を求めた時、あらかじめ宣言していた。
『あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ・・・また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え・・・あなたがたは、その奴隷となるであろう。そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。』(1サムエル記8:11-18)
イスラエルは、サウルを王に任じた事を、既に後悔していたであろう。

『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。わたしの子がエッサイの子と契約を結んでも、それをわたしに告げるものはなく、またあなたがたのうち、ひとりもわたしのために憂えず、きょうのように、わたしの子がわたしのしもべをそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない」。』(1サムエル記22:8)
サウルは、ものすごい被害妄想に憑かれている。
誰も教えてくれない、誰も心配してくれない、みんなが共に計って自分に敵対している、と思っているのだ。

サウルは「あなたがたは逆らっている」と言ったが、真に逆らっているのは、一体誰だろう。
サウルは、はるか前、サムエルを通して、主から言われていた。
『あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル記15:23)

サウルは既に王位から退けられており、彼に代わって、主はダビデに王としての油が注がれた。
サウルにはその事が知らされていなかったのかもしれないが、少なくともヨナタンは、ダビデがこれから王として栄え、サウルの家は衰えていく事が分かっていた。
それなのにサウルは、相変わらず王位にしがみつき、ダビデを殺そうと付け狙っている。
神の民の「王」というものは、人間の王が唯一絶対の権力者ではなく、その上に王の王、主の主であられる神がおられるものだ。
だからもし、人がおとなしくその「王座」から降りて、神に明け渡さないでいるなら、やがて、強制的に降ろされてしまう事になる。

ベニヤミン人の部下たちは、サウルに何も言えないでいたが、ただ一人一人、サウルに応えた者があった。
『その時エドムびとドエグは、サウルの家来たちのそばに立っていたが、答えて言った、「わたしはエッサイの子がノブにいるアヒトブの子アヒメレクの所にきたのを見ました。アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。そこで王は人をつかわして、アヒトブの子祭司アヒメレクとその父の家のすべての者、すなわちノブの祭司たちを召したので、みな王の所にきた。』(1サムエル記22:9-11)
先にも見た通り、ドエグはエドム人、一杯の食物で尊いものを売り渡したエサウの子孫であるが、彼も、地位や名誉欲しさに、神の祭司を告げ口する。

『サウルは彼に言った、「どうしてあなたはエッサイの子と共にはかってわたしに敵し、彼にパンとつるぎを与え、彼のために神に問い、きょうのように彼をわたしに逆らって立たせ、道で待ち伏せさせるのか」。』(1サムエル記22:13)
アヒメレクとしては、唐突にこんな事を言われて、暫く、わけが分からなかっただろう。

サウルのような、いつも被害妄想で怯え、良くない思いを脳内で巡らしているような者は、唐突に意味不明な事で人を責め立て、凍りつかせるものだが、それが王で、絶対的権力を持っているなら、その王の下にいる人々は悲惨である。
サタンは歴史上、幾度もこのような手段を用いて、多くの国を悲惨に陥れて来た。

そもそも、神の国の王たるものは、祭司に何か物申す事はできないはずで、王のほうが、祭司の示して来る御言葉に服従しなくてはならない。(申命記17:14-20、2歴代誌26:16-23)
それなのに、サウルの中では、完全にサウルが上で、主と主の言葉と主の祭司は、その下になっている。
サウルはなぜ、王から退けられたか。それは、彼が御言葉を退けたからだった。

『アヒメレクは王に答えて言った、「あなたの家来のうち、ダビデのように忠義な者がほかにありますか。彼は王の娘婿であり、近衛兵の長であって、あなたの家で尊ばれる人ではありませんか。彼のために神に問うたのは、きょう初めてでしょうか。いいえ、決してそうではありません。王よ、どうぞ、しもべと父の全家に罪を負わせないでください。しもべは、これについては、事の大小を問わず、何をも知らなかったのです」。』(1サムエル記22:14-15)
祭司は極めてもっともな事を言っているし、また事実である。

『王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。』(1サムエル記22:16)
サウルは既に、脳内で、祭司アヒメレクは死ぬべき反逆者として、憎しみを混ぜつつ思い巡らしてしまった後なので、アヒメレクが事実を言ったかどうか、そして彼が主の祭司であるかどうかは一切関係なく、彼を殺せ、と命じてしまう。
もはやサウルは、主を恐れる心も、祭司を敬う心も無くなってしまった。
こうしてサウルは、主に伺う事のできる祭司を自ら抹殺し、彼自身、主に伺う事を断絶してしまったが、この事がきっかけで、ダビデは主に伺う事ができる祭司を得る事になる。

サウルは「王座」をしがみついて、離さない故に、「王座」に支配され、「王座」に振り回され、やがては「王座」によって滅ぼされてしまう。
「王座」は、人間が座るものではなく、唯一、主が座すべき所であり、人がそこに座そうとするなら、必ず滅びが待っている。
『あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。』(詩篇32:9-11)

私達の王は、誰だろうか。
それは唯一、王の王、主の主であるイエス様であるべきだ。

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
くちびるに炭火を当てられて(イザヤ6章):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書6章を中心に、預言者イザヤの霊的体験と唇の清めについて語られた説教。

【聖書箇所】

イザヤ書6章

【励ましの言葉】

神様の前に出て、自分の罪深さを知り、唇を清めていただくことで、主に用いられる者となれる。

【戒めの言葉】

私たちの唇は火であり、不義の世界である。言葉で多くのことを失敗するので、唇を制御することが大切。

【悔い改めの促しの言葉】

イザヤのように、自分こそが贖われる必要があると気づき、唇を清めていただく必要がある。

【***詳細***】

今日の聖書箇所は、イザヤ書6章です。この章では、預言者イザヤが神の御前で霊的な体験をし、自身の罪深さを悟り、唇が清められる出来事が描かれています。

イザヤは、それまでイスラエルに対する災いの予言をしてきましたが、この6章の経験を通して、自分こそが災いを受けるにふさわしいものであったと悟ります。「ああ、私はもうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

この体験は、主を見ること、主の聖なる有様を見てしまうこと、その圧倒的聖に触れるときに起こります。人は本当に絶望しかなくなってしまいます。イザヤは、自分が唇の汚れた者であることを認識し、神の前に立つことができないと感じたのです。

私たちの唇、言葉の力についても語られました。**「私たちは言葉で非常に多くのことを失敗するものですけれども、この唇を立派に制御できる人は、完全なものだ」**とヤコブの手紙にあるように、唇を制御することの重要性が強調されました。

また、唇は火であり不義の世界であるとも言われています。一言で人の人生を台無しにしたり、他人の人生を傷つけたりすることがあります。言葉の力の大きさを認識し、慎重に使う必要があります。

預言者イザヤの経験から、私たちも自分の罪深さを認識し、神の前に出て清めを求める必要があることが語られました。イザヤの唇が清められたように、私たちも清められる必要があります。

「すると、私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみでとった燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」(イザヤ6:6-7)

この箇所は、イエス・キリストの贖いの予型として解釈されました。祭壇の炭火は、私たちの罪の身代わりとなったイエス・キリストを表しています。イエス様は十字架上で私たちの罪を負い、私たちの身代わりとなって処罰を受けてくださいました。

そのため、イエス様を信じる人々は、肉体的な処罰を受けることなく、罪が取り除かれ、清められるのです。これは、連帯保証人の例えで説明されました。イエス様は私たちの罪の連帯保証人となり、私たちが返済できない罪の借金を支払ってくださったのです。

この恵みを知ることで、私たちはイエス様への感謝と、主に用いられたいという思いを持つようになります。イザヤのように、自分の罪深さを認識し、主に清めを求めることが大切です。

そして、清められた唇で主を賛美し、主の言葉を宣べ伝える者となることができるのです。説教者は聴衆に向けて、イザヤのように主の御前に出て、唇を清めていただくように促しました。

【結論】

私たちは皆、イザヤのように神の聖さの前に立ち、自分の罪深さを認識する必要があります。そして、イエス・キリストの贖いによって清められ、主に用いられる者となることができます。日々、自分の言葉に気をつけ、主を賛美し、人々を励ます言葉を語る者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声:養うべき人を養う内に、実は養われていたダビデ(1サムエル記22:1-5):右クリックで保存

ダビデは、自分のいのちを守るために、逃げ隠れしたり、本心でない行動を取ったりして、本当にみじめな思いが続いただろう。
そして彼自身、真実から外れた言動を続ける事に、良心の咎めを感じ、このままでは良くないと思っていた事だろう。
そんな彼に、主は、助けを送られる。

『こうしてダビデはその所を去り、アドラムのほら穴へのがれた。彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた。』(1サムエル記22:1)
一人逃避行中のダビデの元に、彼の家族や血縁者が集まって来た。
なぜ集まって来たのかは、大体想像できる。
ダビデは、何も悪い事はしていないとは言え、一国の王・サウルから執拗につけ狙われており、しかも、サウルは最近、見境の無い暴君のようになってしまったから、ダビデの家族も、何をされるか分からなくなってきた。
それで彼らもダビデと一緒に逃げるようになったのだろう。

どんな理由であれ、ひとり心萎えていたダビデは、家族が来たことで、慰めを得ただろう。
そしてダビデの元に来たのは、血縁の人達だけでなかった。

『また、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。おおよそ四百人の人々が彼と共にあった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは別に、軍団の長になりたくて人を募ったわけでなく、人々のほうから来たのだが、その400人の内訳は、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)」だった。
ダビデはキリストのご性質を、実によくあらわしている。
キリストを慕い求めて来た人達も、当時の世において虐げられている人々、負債がある人々、苦い魂を持った人達だった。

それにしても、400人という大所帯である。
彼らが一日行動するにしても、かなりの食料や物資を調達しなくてはならないし、しかも彼らは、王に追い回されている身だ。
ダビデはそれまで、自分自身の悩みで手一杯だった所に、彼に助けを求めて来た人々が集まってきた。

”わたし”が助けられたい身なのに、なぜか、”わたし”に助けを求めて人が集まって来る。
実はそれが、主が”わたし”を助ける方法だったのだ。
人は、守らなくてはならない人、養わなくてはならない人を持つようになると、強く、健全になるものだ。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、本意ではないにしても、真実でない行動をして来た。
しかし400人の長となった今、彼らの前で偽りの行動はする訳にはいかなくなり、真理に立つようになっていった。
それは、彼の後の言動から知れる。

『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデのひいおばあさん・ルツの故郷である。
ダビデは、彼のひいおじいさん・ボアズが、ルツと結婚する前に言った言葉、「あなたがその翼の下に身を寄せて来た主が、豊かに報いて下さいますように」という言葉を思い起こしただろう。

しかし、モアブもペリシテのように、異教の神を拝する異邦の国であったが、ダビデはもはや、媚びる事も逃げ隠れもせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、いさせて下さい、と頼んだ。
ダビデは、まことの神に導かれる者として、堂々と振る舞うようになった。ペリシテの時と比べて、ダビデはなんと変わっただろう。

『そして彼はモアブの王に彼らを託したので、彼らはダビデが要害におる間、王の所におった。』(1サムエル記22:4)
モアブの王は、申し出を受け入れた。
主は、正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。

こうしてダビデは、しばしモアブに留まる事になった。
ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、いのちの安全が確保され、400人の長として、ある程度の平和の生活を送る事が出来るようになった。
もはやサウルの事は忘れて、モアブで新しい人生を再出発できるかも、という気分だったかもしれないが、それは主の御心ではない。

『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5)
預言者を通して神に示されたダビデは、すぐに預言者の言葉に従順し、危険ではあるけれども神の御心の地・イスラエルの地に帰った。
ダビデは主から、特別な任職の油を注がれた。だから彼は、一生を安穏として生きるべきではないのだ。
私達キリスト者にも、主から聖霊の油を注がれたからには、単に安穏とした一生を生きるものではなく、神の国の働き人として働かなくてはならない。それは安穏の逆、ダビデのように冒険の日々である。

ダビデは、任された400人のいのちを養う内に、清められ、整えられ、そしてイスラエルの王としての特別な養いを、この苦難の期間に受けた。
女王蜂を育てるためには、ローヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデを王として育てるために、この苦難の期間が、主からのローヤルゼリーだったのだ。
主は私達キリスト者にも、王族の祭司となるために、特別な御言葉のローヤルゼリーで養って下さる。

主はそれぞれに、どんなご計画を持っておられるか、人には分からない。
しかし、主が私達にご計画しておられるか、分かるまでは、私達は主に任されている事を忠実に行ない、また、任されているいのち達を忠実に養うべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:最もみっともない場面でも賛美したダビデ(1サムエル記21:11-15):右クリックで保存

サウルを避けてペリシテのガテに逃れたダビデは、ペリシテ人に捕らえられ、ペリシテの王アキシュの所に連れて行かれた。

『アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の”王”ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。』(1サムエル記21:11)
イスラエルの女達が歌った『サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した』の歌は、異邦の地にも鳴り響いており、しかもイスラエルの王はサウルであるのに、ダビデも「王」として認知されていた。
ダビデのほうが異邦の国でも認められているのだ。
しかし今は、その事を喜べる状況ではなく、その事がまずい状況である。

『ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。』(1サムエル記21:12)
それまで全くもってペリシテ人を恐れなかったダビデだったが、この時、彼はペリシテ人を恐れるあまり、命を救うために、気が変になったふりをした。
そんな事をしなくても、主はきっと彼を守ったでろう。しかし彼は、恐れたのだ。

彼にはあまりに色々な事が起こり過ぎた。
ダビデは何も悪くないどころか、サウルやイスラエルのため最も貢献した筈なのに、そのサウルから逃げざるを得ないために、ペリシテの地に逃れて、そこで捕らえられてしまったのだ。
もっと、怒ったり悲しんだり、自暴自棄になっても不思議でないが、彼はこの時の経験を通して、主との関係が親密に深まり、信仰が鍛えあげられた。
彼はこの時の出来事を、詩篇に記している。

『ダビデがアビメレク(アビメレクはペリシテの王の称号)の前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。』(詩篇34:1-2)
彼は、気の触れた者を装って危機を逃れるような、恥かしさの極みのような時さえも、まさに「あらゆる時に」主をほめたたえている。
彼の口には、いつも賛美があった。だからこそ主は、彼を守ったのだ。
主は聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられるからだ。

私達も人生の危機の場面において、命を救うために、恥も外聞もかなぐり捨てるような事があるかもしれない。
ダビデも、そこを通って来たのだ。
そして彼は、そんな時ですら、主を誉めたたえたのだ。
だからこそ、主は彼を引き上げたのである。

『私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』(詩篇34:4-7)
ダビデは、知っていた。
彼が気が触れた者を装って、ひげによだれを流し、壁を打ち叩いていたまさにその時さえも、主は、彼の周りに御使を遣わして陣を張り、彼を守って助けだされた事を。
私達も、罪の故に、あるいは弱さの故、望まない行動をしてしまう時があっても、いつも主に助けを求める心を持っているなら、まさにその時、主は御使を遣わして陣を張り、罪や悪から、誘惑から、そして災いや死から守ってくださるのだ。

『主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。』(詩篇34:8-10)
皆さんも、実感がないだろうか。
今までの人生の、あの時この時、仕事や生活やもろもろの活動の中において、主に訪ね求めて来た自分には、何一つ欠けるものがなく、必要がいつも満たされていた、という事に。
主に信頼して歩む人は、その経験を多くしているはずである。
なぜなら主は生きておられ、御言葉は真実だからだ。

『来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。』(詩篇34:11)
ダビデは、弱さの極みを経験し、恥ずかしさの極みも通った。
しかしその都度、主に感謝し、主を誉めたたえたからこそ、王として高められたのだ。
私達も、いかに人生のどん底に落ちたとしても、共におられる主に信頼して歩むなら、主の素晴らしさを味わう事が出来、私達もダビデのように主の証を大胆にできるようになり、人生の低い所に落とされている人を慰め助ける事ができるようになるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:恐れませんと告白しつつも恐れてしまう時(1サムエル記21:7-10):右クリックで保存

サウル王に命を狙われ、着の身着のまま逃げてきたダビデが行った先は、ダビデ自身が最も頼りにしていた、イスラエルの神・主の、その宮だった。
彼はそこで、具体的な助けをいただいた。
『ダビデはまたアヒメレクに言った、「ここに、あなたの手もとに、やりかつるぎがありませんか。王の事が急を要したので、わたしはつるぎも武器も持ってこなかったのです」。祭司は言った、「あなたがエラの谷で殺したペリシテびとゴリアテのつるぎが、布に包んでエポデのうしろにあります。もしあなたがこれを取ろうとおもわれるなら、お取りください。ここにはそのほかにはありません」。ダビデは言った、「それにまさるものはありません。それをわたしにください」。』(1サムエル記21:8-9)

彼は主の宮で、食料のみならう武器も入手する事ができたが、その主の宮にはある男がいて、彼らのやり取りを見ていた。
『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)

このドエグという者はエドム人、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った、あの、エサウの子孫である。
彼がそこにいたのは、主を慕うゆえではなく、何かの訳があって、主の宮に留め置かされていたのだ。
彼には、主を敬う心は全く無い。
その証拠に、彼は後に、ダビデとアヒメレクのこのやり取りをサウルに告げ、そしてサウルに命じられて主の祭司たちを彼は虐殺する。
主の宮に留められてはいても、その心は主に無く、主の祭司を敬う事も無く、兄弟姉妹を糾弾する材料を見つけたなら平気で告発し、売り飛ばし、殺める事に躊躇しない者は、昔も今もいるのだ。

『ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。』(1サムエル記21:10)
ダビデは、このドエグを気にしていたので、すぐにそこから離れて行ったが、ダビデが逃げて行った先は、ペリシテ人のガテ、ダビデが殺したゴリヤテの故郷であった。
彼は、国家指名手配犯のよう立場だったため(彼自身は何も悪い事してはいないが)、イスラエルの国外へ逃亡したのだ。

実に皮肉な運命である。
ダビデはそれまで、主にあって戦っていたので、どんな屈強なペリシテ人も、恐れていなかった。
自分の倍以上もあるゴリヤテにも、主にあって平気で向かっていったし、サウルからペリシテ人の陽の皮100枚を求められたところ、200枚も揃えた
そのダビデが、なぜこんなにもみじめに、ペリシテ人の国へと逃げ惑わなくてはならなかったのだろう。
それは、彼をつけねらっているサウルが、曲がりなりにも、主に油注がれた王だからだ。
ダビデは、主が油を注がれた王であるサウルに、手をかけるわけには行かなかった。それは、ダビデが主を愛する故であり、その主が油注がれた王を敬う故である。
だから彼は、サウルからは逃げるしか無いのだ。

ダビデはペリシテのガテで、ペリシテ人たちに捕えられてしまったようである。
詩篇56編の表題には、次のように書かれてある。
『聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの』

ダビデは、敵地で一人、捕らえられてしまったが、彼は、彼ととともにおられた神に呼びかけた。
『神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。』(詩篇56:1)
まさに四方八方敵だらけの状態だが、主にその事を訴えている。

『あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。』(詩篇56:8)
ダビデが「わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください」と言ったように、私達も、「主のゆえに」「神の国のゆえに」流して来た全ての涙は、主の皮袋に、たくわえられているのだ。
迫害の故に、聖徒の故に、また、自分の罪や弱さを嘆き、御胸に従えない事を悲しんで流した涙も、含めて。

『わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。』(詩篇56:9-11)
ダビデは「恐れません」と、主に申し上げ、自分にも言い聞かせている。
しかしこの直後、ダビデは、恐れゆえに、きちがいのふりをしてその場を乗り切る行動に出てしまう。
恐れに憑かれて、弱くなってしまったのだ。

主にあって自らを御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、実際には恐れてしまい、恐れ故の行動をしてしまう、というのは、私達にもある事であり、ダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
しかしダビデは、その事を神と人とに打ち明け、その時の心境と祈りをこうして詩篇に56編にしたため、彼が編成した聖歌隊にその内容を賛美させたのだ。
彼は、主の素晴らしさを伝え主の栄光を誉め讃えるために、自分の恥さえ、喜んでさらし、主を賛美する道具としてくれた故に、この詩篇と同じ困難と苦しみにある多くの聖徒達を励まし続けて来たのだ。

『神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。』(詩篇56:12-13)
彼は最後を、感謝でくくっている。
私達もダビデのように、ゆえなく、苦しい所や恥ずかしい所を通らされる場面は、人生において確かにある。
しかし私達も主を信頼し、御言葉を握り締めて歩むなら、主がダビデを引き上げてくださったように、私達も引き上げてくださるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:聖なるパンにあずかれる特権者とは(1サムエル記21:1-6):右クリックで保存

ダビデはヨナタンと別れて以来、サウル王という国家権力から追われる「逃亡生活」が本格的に始まり、それ以降、サウルが死ぬ時までそれは続く。

彼は着の身着のまま逃げたが、そこで真っ先に行った先は、祭司アヒメレクが仕えている「主の宮」であった。
人は、いざとなった時、真っ先に助けを求めに行く先をどこにするかによって、普段からどこに拠り所を置いているかを知れるが、ダビデの場合、それは主だった。

『ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。』(1サムエル記21:1)
アヒメレクは、彼が一人で来た状況に、ただならぬものを感じたのだろう、それで、おののきながらダビデに尋ねた。

『ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。』(1サムエル記21:2-3)
ダビデは、祭司に心配をさせまいとしたのだろう、真実を伏せた。
彼は、着の身着のまま逃げてきたため、とてもひもじかったので、パンを求めたのだが、あいにく「普通の」パンは無かった。

『祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。・・・そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。』(1サムエル記21:4-6)
この、主の宮に置かれている聖別したパンとは、安息日ごとに主の宮に捧げられるパンであり、アロンとその子以外は食べてはならないはずのもので、女を慎む慎まないは関係ないはずだ。(レビ記24:5-9)
はたして、いいのだろうか。
その事については、イエス様が弁護しておられる。

イエス様の弟子達が麦畑を通った時、ひもじかったので、麦の穂を摘んで食べ始めたところ、それを見たパリサイ人達はイエス様に言った。
「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:2)
パリサイ人が責めたのは、弟子達が人様の畑のものを勝手に食べたからではない。麦の穂を「摘んで」「脱穀する」という行為は「労働」にあたるものであり、それが安息日にしてはならな事だから、という、少々ややこしい理由からである。
それに対しイエス様は、ダビデがした事を引用して言われる。

『「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。』(マタイ12:3-4)
ダビデは祭司の元に行った時は一人だったが、その後誰かダビデと一緒に行動する人が現れ、おそらく彼にもそのパンを分け与えたのだろう。
イエス様は言われた。
『「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。』(マタイ12:7)
イエス様は他の場面でも、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」と言われた。(マルコ2:27-28)
安息日の主であるイエス様は、いのちを奪う主ではなく、いのちの君であり、憐れみの主である。

さらにこう言われている。
『また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。・・・人の子は安息日の主である」。』(マタイ12:5-8)

祭司たちは「神の国の公用」を果たす者で、安息日でも宮の中で務めをして働かなくてはならない。
このように、祭司には安息日にも働く事が許されているのだから、ましてや、安息日の主であり、宮よりも偉大なる主であるイエス様の弟子達が、「神の国の公用」を働く事を、どうして何者かが差し止めたりできるだろう。
『聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。』(1テモテ5:18)
だから、神の国のために働く弟子達も、そして、キリストに仕える私達も、聖なる食卓から存分に食べてもいい、ばかりでなく、主から様々の特権が与えられている。
私達もキリストにあって、王であり、祭司である故、全て神の国のために働くための必要は備えられ、神の宮からの食料をいただき、食べることを阻む全ての「くつこ」は除かれるべきなのだ。

ダビデは真っ先に主を慕い求め、その宮に助けを求めに行った。
だから主は、ダビデを擁護し、聖なるパンを備え、また、神の戦いを戦っているダビデに組したダビデの「連れの者」にも、そのパンに与ることを、主は許された。

主は、ダビデのように、主を慕い求める全ての魂たちにに、全ての必要を備えてくださり、聖なるパンに与る特権も与えて下さる。
ダビデのように、あらゆる必要が満たされ、心から歓びをもって主に仕える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主を敬わない者へのさばき(イザヤ5:18-30):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書5章18-30節を中心に、神の言葉をないがしろにする罪とその結果としての裁きについて語られた説教。

【聖書箇所】

イザヤ書5:18-30、マラキ書3:13-18

【戒めの言葉】

神の言葉をないがしろにし、軽んじることは大きな罪である。神がいないかのように振る舞い、悪を行う者たちに対して、神は必ず裁きを下される。

【励ましの言葉】

神を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前に記憶の書が記される。神は彼らを憐れみ、宝として扱われる。

【***詳細***】

本日の説教は、イザヤ書5章18節から30節を中心に展開されました。この箇所は、神の言葉をないがしろにし、罪を重ねる者たちに対する警告と裁きの預言です。

まず、18-19節では、「嘘を手綱として、とがを引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち」について語られています。これは、罪に罪を重ね、神の憐れみを踏みにじる者たちの姿を表しています。彼らは神の存在を疑い、挑発的に「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たい者だ」と言います。

説教者は、このような態度が「神はいない」という思いの現れであると指摘します。詩編10:4を引用し、「悪者は、傲慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは、神はいないの一言に尽きる」と述べています。

次に、20-23節では、善悪を転倒させ、賄賂によって正義を歪める者たちが非難されています。特に、「酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけて豪の者」という表現に注目し、これが単なる酒の問題ではなく、正しい判断を鈍らせるものの比喩であると解説しています。

説教者は、現代のクリスチャンにも当てはまる警告として、「正しいことを忘れさせる酒、物事を正しく裁くことをやめさせる酒、それは皆さんにとって何でしょうか」と問いかけます。これは、神の言葉や真理を忘れさせ、正しい判断を鈍らせるものすべてを指しています。

24-25節では、神の裁きの描写が続きます。「火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯草を舐め尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も塵のように舞い上がる」という強烈な表現で、神の言葉を侮る者たちの運命が語られます。

特に重要なのは、「彼らが万軍の主の教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方の御言葉を侮ったからだ」という部分です。神の言葉を軽んじることが、すべての罪の根源であることが強調されています。

26-30節では、神が遠くの国々から敵を呼び寄せ、イスラエルを罰する様子が描かれています。「その矢は研ぎ澄まされ、弓はみな張っており、馬のひずめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる」という描写は、迫り来る裁きの恐ろしさを表しています。

説教者は、これを現代のクリスチャンへの警告として解釈し、「神様の御言葉を教えられて、それを世と天秤にかけて、世の方をとって、世の方が何か正しい、神の言葉は奇情の空論、夢見事のようにしている」態度を戒めています。

さらに、マラキ書3:13-18を引用し、神を恐れる者たちの態度と、彼らに対する神の約束を対比的に示しています。「その時、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された」という箇所は、神の言葉を大切にする者たちへの励ましとなっています。

説教の結びでは、「どうか皆さんは、主の御言葉にしっかりと留まって、そして本当に正しい主の御言葉を伝え、それも主の憐れみ、主を恐れを敬う人に対しては、主は本当に憐れんでくださることを、これを忘れることなく、しっかりと御言葉を伝えて歩む皆さんでありますように」と会衆に勧めています。

【結論】

神の言葉を軽んじることは重大な罪であり、必ず裁きをもたらす。しかし、神を恐れ、御言葉を尊ぶ者たちには、神の憐れみと祝福が約束されている。私たちは常に神の言葉に留まり、それを大切にし、正しく伝えていく者とならなければならない。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest