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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主に向かわない人に降る止めどなき災難(イザヤ9:8-21)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書9章8-21節を中心に、主の御声に聞き従わない者への警告と災いについてのメッセージ

【聖書箇所】

イザヤ書9:8-21

申命記28章

【戒めの言葉】

主の御声に聞き従わず、自分の道を行く者には災いが臨む

【勧めの言葉】

主の御声によく聞き従い、その命令を守り行うことで祝福を受ける

【悔い改めの促しの言葉】

御言葉を軽んじる罪を悔い改め、速やかに主の御声に聞き従う生活へと立ち返る

【***詳細***】

今日の箇所は、イザヤ書9章8節から21節です。ここでは、主がヤコブに言葉を贈られたにもかかわらず、イスラエルの民がそれを聞き入れず、高ぶり、思い上がる様子が描かれています。

主がヤコブに一つの言葉を贈られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリアに住む者たちは皆、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。」(イザヤ9:8-9)

これは非常に重要な箇所です。主が御言葉を与えられたにもかかわらず、それを受け入れず、むしろ高ぶる態度をとるイスラエルの姿が描かれています。この態度が、後の災いの原因となるのです。

続く箇所では、イスラエルの民の驕りが具体的に描かれます。

レンガが落ちたから、切り石で建て直そう。一軸杉の木が切り倒されたから、杉の木でこれに変えよう。」(イザヤ9:10)

これは、人間の力や知恵で問題を解決しようとする態度を表しています。主の御声に聞き従うのではなく、自分たちの力で立ち直ろうとする姿勢が見られます。しかし、このような態度は結局のところ災いを招くことになります。

主は、このような態度に対して厳しい裁きを下します。

そこで主は列印に当たる者たちをのし上がらせ、その敵たちを煽り立てる。東からはアラムだ。西からはペリシテ人だ。イスラエルを頬張って喰らう。それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている。」(イザヤ9:11-12)

ここで重要なのは、「それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている」という表現です。これは、主の裁きが続くことを意味しています。イスラエルの民が悔い改めない限り、災いは続くのです。

さらに、イスラエルの指導者たちの腐敗についても言及されています。

この民の指導者は迷わせ者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。」(イザヤ9:16)

指導者の腐敗は社会全体の腐敗につながります。これは現代の私たちにも当てはまる警告です。私たちは常に、正しい指導者を選び、また自分自身が指導的立場にある場合は、神の御心に従って行動する必要があります。

最後に、この箇所は非常に厳しい言葉で締めくくられています。

それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている。」(イザヤ9:21)

これは、イスラエルの民が悔い改めない限り、主の裁きが続くことを意味しています。しかし同時に、主の御手が伸ばされているということは、悔い改めの機会がまだ残されているということでもあります。

この箇所から学ぶべき重要な教訓は、主の御声に聞き従うことの重要性です。申命記28章にも同様の教えがあります。

あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が今日命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主はあなたを地上のすべての国民の上に立てられる。」(申命記28:1)

主の御声に聞き従うことで、私たちは祝福を受けることができます。逆に、主の御声を無視し、自分の道を行けば、災いを招くことになります。

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日命じる主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたは呪われる。」(申命記28:15)

私たちは常に自分の生活を振り返り、主の御声に聞き従っているかどうかを吟味する必要があります。もし主の御声から離れていることに気づいたなら、速やかに悔い改め、主の道に立ち返らなければなりません。

また、私たちは周囲の人々の影響にも注意を払う必要があります。悪い仲間は良い習慣を損なうからです。ソドムとゴモラの例を思い出しましょう。主はロトとその家族を救うために、彼らをその地から連れ出しました。これは、悪い環境にいると、たとえ自分は悪いことをしていなくても、その影響を受けてしまう可能性があることを教えています。

私たちは、主の御言葉を聞いたなら、それを実行に移す必要があります。御言葉を聞くだけでなく、それを生活の中で実践することが重要です。家庭で、職場で、日々の生活の中で、主の御言葉を実践していく必要があります。

そして、私たちは常に悔い改めの姿勢を持ち続ける必要があります。主の御声に聞き従わなかったことに気づいたら、すぐに悔い改め、主の道に立ち返らなければなりません。悔い改めは、瞬間的な立て直しをもたらします。

【結論】

主の御声に聞き従うことが、祝福を受ける秘訣です。自分の力や知恵に頼るのではなく、常に主の導きを求め、御言葉に従って生きることが重要です。もし主の道から外れていることに気づいたなら、速やかに悔い改め、立ち返ることが必要です。私たちは、イスラエルの民の失敗から学び、常に主の御声に耳を傾け、従順に歩む者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声:世の評価を得ようと奔走する「泥沼」の過酷さ(1サムエル記27:1-28:2):右クリックで保存

サウルの殺意に対して憐れみで勝利し、善をもって悪に打ち勝ったダビデだったが、この章では、彼らしくない失敗を犯す。


『ダビデは心にうちに言った、「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地へのがれるほかはない。そうすればサウルはこの上イスラエルの地にわたしをくまなく捜すことはやめ、わたしは彼の手からのがれることができるであろう」。』(1サムエル記27:1)

ダビデは、サウルから身を守るために、神から与えられた相続地、礼拝する神殿があるイスラエルから離れ、弱肉強食の地・ペリシテへと逃れた。
今回の彼の決断に、祭司にエポデを持って来させて御心を伺ったような形跡は、ない。
わざわざイスラエルから離れなくても、イスラエルの片隅に住むでも良かったであろうに、彼は恐れに支配され、信仰を活用せず、世の解決方法に頼ったのだ。

信仰と忍耐によって大成功して、緊張の糸がほぐれ、気が緩んだ狭間に、ふっと、信仰を働かせずに歩んでいた「楽な」時期を思い出し、しばしそれに浸りたくなる時はある。
しかし、その心の隙に入り込んできたそのような思いは、キリストにあってとりこにし、追い出し、その隙間を賛美と感謝で満たさなくてはならない。
ひと度、礼拝する習慣から離れて、世の価値観に従い、自分の力でやりくりする生き方に入るなら、どんどん泥沼へと沈んで行き、抜け出すのが困難になってしまうからだ。

『こうしてダビデは、共にいた六百人と一緒に、立ってガテの王マオクの子アキシの所へ行った。ダビデと従者たちは、おのおのその家族とともに、ガテでアキシと共に住んだ。ダビデはそのふたりの妻、すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルの女でナバルの妻であったアビガイルと共におった。ダビデがガテにのがれたことがサウルに聞えたので、サウルはもはや彼を捜さなかった。』(1サムエル記27:2-4)
ダビデは確かに、当初の目論み通り、サウルに追われなくて済むようには、なっただろう。
その方面では、確かに平和は訪れたかもしれない。
しかし、礼拝の無い地、神を敬わない地に住み続けるためには、異邦の習慣に染まり、異邦の価値観での”実績”を挙げ続けなくてはならなくなる。
世の方法に頼って生きる生活は、一方の問題を抑えても、さらなる問題が四方八方から吹出してしまうもので、彼はこれを機に、世の方法で走り続けなくてはならなくなってしまった。

『さてダビデはアキシに言った、「もしわたしがあなたの前に恵みを得るならば、どうぞ、いなかにある町のうちで一つの場所をわたしに与えてそこに住まわせてください。どうしてしもべがあなたと共に王の町に住むことができましょうか」。アキシはその日チクラグを彼に与えた。こうしてチクラグは今日にいたるまでユダの王に属している。ダビデがペリシテびとの国に住んだ日の数は一年と四か月であった。』(1サムエル記27:5-7)
ダビデは、ペリシテの王アキシュに気に入られるために、遠くの街に住まわせて下さい、と、気を遣った。
ダビデは元々、ペリシテの敵側の将だったからだ。
悪徳業者の社員が”良い実績”を上げていくために、騙し、脅し、暴力など血も涙もない性質こそ「良い価値観」として自分に言い聞かせ、訓練して行くように、ダビデはペリシテの王に気に入られようとした時点で、ペリシテ流の、血も涙もない「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまったのだ。

『さてダビデは従者と共にのぼって、ゲシュルびと、ゲゼルびとおよびアマレクびとを襲った。これらは昔からシュルに至るまでの地の住民であって、エジプトに至るまでの地に住んでいた。ダビデはその地を撃って、男も女も生かしおかず、羊と牛とろばとらくだと衣服とを取って、アキシのもとに帰ってきた。』(1サムエル記27:8)
ペリシテ流の価値観は、弱肉強食である。弱い者・騙される者が愚かで、強い者・騙してでも奪った者が、勝者なのだ。
ダビデは、相手が異邦人とはいえ、町々を襲い、男も女も生かさずに略奪して生活するという、神の民から程遠い生活、ペリシテ人流の価値観で自活して行く者となってしまった。

ダビデは勇士であり、統率力も、人望も、実績もある。
世に降っても、そこそこの地位へと上りつめる自信は、あったかもしれない。
しかし、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人に対する「世からの要求」は、どんどん過酷になって行く。
礼拝から離れ、主に信頼する信仰生活から離れ、世の王に取り入り、自分の力や知恵、人望、実績などをアピールし、切り盛りして行こうとするクリスチャンは、必ず、このジレンマに陥る。

『アキシが「あなたはきょうどこを襲いましたか」と尋ねると、ダビデは、その時々、「ユダのネゲブです」、「エラメルびとのネゲブです」「ケニびとのネゲブです」と言った。ダビデは男も女も生かしおかず、ひとりをもガテに引いて行かなかった。それはダビデが、「恐らくは、彼らが、『ダビデはこうした』と言って、われわれのことを告げるであろう」と思ったからである。ダビデはペリシテびとのいなかに住んでいる間はこうするのが常であった。』(1サムエル記27:10-11)
ダビデは、カムフラージュの生活、仮面の生活を送らざるを得なかった。
すなわち、表向きはイスラエルの町々を襲っているかのように見せかけ、実は、異邦の町を襲い、かろうじて神の民イスラエルの民に手をかけるという事を避けていた。
ペリシテの王から見れば、ダビデはイスラエルに憎まれる事をしている、と見せているのだが、それを通すために、女子供さえ皆殺しにし、口を封じるようにしている。
一つの嘘をつくと、別の嘘で塗り固め、それをフォローするために、さらに別の嘘をついたり、偽りの行ないをしたり、アリバイ作りなどをしなくてはならなくなり、罪がどんどん重ねられて行ってしまうのだ。

『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(1サムエル記27:12)
ダビデは、確かにペリシテの王アキシュからの信頼を深めたかもしれない。
しかしペリシテの王に「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と、ひと度思わせてしまったなら、アキシュはダビデを、イスラエルを襲う事のプロとして見るようになり、さらに要求も過酷になって行く。
私達も、世の上司に気に入られるために、神に喜ばれない行動をし続けるなら、上司はますますそちら方面で評価をし、この者は肝っ玉が座っている、それならもっと高度な事をしてもらおう、と、もっと神に喜ばれない事をさせられるようになってしまうのだ。

そしてついに、ダビデにとって最も望ましくない事を、要求されてしまう。
『そのころ、ペリシテびとがイスラエルと戦おうとして、いくさのために軍勢を集めたので、アキシはダビデに言った、「あなたは、しかと承知してください。あなたとあなたの従者たちとは、わたしと共に出て、軍勢に加わらなければなりません」。ダビデはアキシに言った、「よろしい、あなたはしもべが何をするかを知られるでしょう」。アキシはダビデに言った、「よろしい、あなたを終身わたしの護衛の長としよう」。』(1サムエル記28:1-11)
なんとダビデ、ペリシテの側の軍勢として、一緒にイスラエルの民を襲おう、と持ちかけられ、それに対し「よろしい」と答えてしまう。
この言葉によって、ダビデはますますアキシュの歓心を得、終身雇おう、との確約を得た。
世から見れば、ダビデはわずか一年数ヶ月での大昇進だ、すごい、となるだろう。
ダビデは果たして、ペリシテ王の護衛の長という”終身雇用”の保証を得た事を、喜べただろうか。

ダビデは、サウルに追われながらでも、イスラエルの一つの町・ケイラがペリシテに襲われていると聞いた時、主に伺って、行って、ケイラを救った人だ。
ダビデの心には、とてつもない嵐が吹き荒れていたのではなかろうか。
ダビデはきっと、自分はなんという生き方へと、嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻たちや部下たちを導いてしまったのだろう、と思っただろう。
こんな事なら、サウルに追われながらでも、いのちの危険がありながらでも、信仰者として恥じない生活をし、神の民として誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
この大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。

『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)

世に妥協し、世に取り入ろうとするクリスチャンは、この葛藤に陥ってしまい、そこから抜け出せないでいると、どんどん泥沼へと沈んで行ってしまう。
しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
もちろん、ただでは済まされず、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒す、という事はされないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルに槍を返し、逆に槍を封じたダビデ(1サムエル記26:17-25):右クリックで保存

サウルは、またしても自分がダビデから憐れみを受け、殺されても仕方がないのに、見逃してもらった事を悟り、言った。
『「わが子ダビデよ、これはあなたの声か」。ダビデは言った、「王、わが君よ、わたしの声です」。』(1サムエル記26:17)
サウルはダビデを「わが子」と呼びかけた。
2度も、主とダビデからの憐れみを受け、心刺されたのだろう。

『ダビデはまた言った、「わが君はどうしてしもべのあとを追われるのですか。わたしが何をしたのですか。わたしの手になんのわるいことがあるのですか。王、わが君よ、どうぞ、今しもべの言葉を聞いてください。もし主があなたを動かして、わたしの敵とされたのであれば、どうぞ主が供え物を受けて和らいでくださるように。』(1サムエル記26:18-19a
ダビデは、サウルを責めたり、罵ったりする事をせず、主がこの事を判断してくださるように、と言って、物事のジャッジは主に根拠を置くように、サウルに仕向けさせた。

もし、サウルにダビデの命を狙い追わせたのが主から出た事であるなら、主はそれをたやすく成功させて下さったであろう。
けれども現実はそうでなく、逆に、ダビデのほうがたやすくサウルの命を奪える立場へと、2度も置かれた。

最初にダビデがサウルを見逃してあげた時、『どうぞ主がさばきびととなって、わたしとあなたの間をさばき、かつ見て、わたしの訴えを聞き、わたしをあなたの手から救い出してくださるように」。』(1サムエル記24:15)と言った。
それを主は聞き入れて、正しくさばいて下さった。
主の軍配は2回ともダビデの側に上がり、ダビデの命を付け狙うサウルの側には無い事を、誰の目にも明らかにして下さったのだ。

『もし、それが人であるならば、どうぞその人々が主の前にのろいを受けるように。彼らが『おまえは行って他の神々に仕えなさい』と言って、きょう、わたしを追い出し、主の嗣業にあずかることができないようにしたからです。』(1サムエル記26:19b)
サウルをダビデを殺したい気持ちへと突き動かした源が、「人(原文:アダムの子)」からのものであれば、それは呪われるように、と、ダビデは宣言した。
実際、そのような性質は、呪われるべきである。
次のように書いてあるからだ。
『主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。 』(箴言6:16-18)

『それゆえ今、主の前を離れて、わたしの血が地に落ちることのないようにしてください。イスラエルの王は、人が山で、しゃこを追うように、わたしの命を取ろうとして出てこられたのです」。』(1サムエル記26:20)
罪なき者の血が流されると、血はその土地の中から叫び、血を流した者は呪われ、さすらい人となってしまう。その事は、アベルの時から今日まで、ずっとそうである。
ダビデは、どうか”イスラエルの王”は、こんな取るに足らぬつまらない者の血を流して、呪われるような事がありませんように、と訴えたのだ。

『その時、サウルは言った、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。きょう、わたしの命があなたの目に尊く見られたゆえ、わたしは、もはやあなたに害を加えないであろう。わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした」。』(1サムエル記26:21)
サウルは真っ先に「自分が罪を犯した」と認めた。愚かなことをして、非常なまちがいをした、と。
実に大きな前進である。
憐れみは、人を成長させるのだ。
しかし、いかに何度も憐れみをかけて悔い改めを導いても、結局その人が悔い改めに相応しい実を結び続けられるかどうかは、本人次第だ。

悔い改めを告白したその言葉に、相応しい心を継続して保ち、それに相応しい行動を行い続けるなら、その人はさらに、主からの応援と祝福を頂く事ができて、どんどん良くなる。
しかし、その努力をしないで、以前の罪深さに逆戻りし、相変わらず邪悪な行ないをし続けてしまうなら、罪に罪を重ねる事になってしまう。
サタンに責め立てられる機会をさらに作ってしまい、もはや憐れみは届かなくなって、ついには永遠に救いの機会を失ってしまう。

『ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。』(1サムエル記26:22-24)
ダビデの言うとおり、命を大切にする人は、主が、その人の命を大切にされる。

サウルはその槍で、人のいのちを粗末にしつづけたが、主は、いのちを大切にしたダビデの手に、サウルのいのちを2度も渡された。
ダビデはその槍を、サウルに持ち帰らせた。
これから後、その槍は、すなわち、何度もダビデに向かって投げ、ヨナタンにも投げ、あるいは他にも多くの人に対して投げつけたかもしれない、その槍は、サウルにとって戒めのしるしとなるだろう。
私達も、誰かに槍を投げつけられるかもしれないが、その槍は取り上げるよりも、主にあって諭した後に、本人に返してやるほうが、はるかに効果的である。

『サウルはダビデに言った、「わが子ダビデよ、あなたはほむべきかな。あなたは多くの事をおこなって、それをなし遂げるであろう」。こうしてダビデはその道を行き、サウルは自分の所へ帰った。』(1サムエル記26:25)
こうしてダビデとサウルは、別れ別れになった。彼らにとって、これが今生の別れとなった。

ダビデははその後、神の国イスラエルから離れ、ペリシテへと向かう。
サウルは自分の所に帰ってくるように、と言っているし、万一、サウルが再びダビデの命を狙う事になっても、主はきっと守られるであろうが、ダビデは恐れたのだ。
ダビデは、まだまだこれから整えられるべきところがあり、そのために苦難も待ち受けているが、主にあって整えられ守られていく。
それはやはり、主に愛されているからであり、彼の整えが主の基準に達した時、彼は永遠に名を残す王として、諸々の実績をさらに残して行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:居眠りして油注がれた王を守らず(1サムエル記26:13-25):右クリックで保存

主は再び、サウルを簡単に殺せる立場へとダビデを置かれたのに、ダビデはそれをしなかった。

しかしダビデは、この起きた事を、サウル達に知られずに置くような事は、しなかった。
主はダビデを守っておられ、サウル達こそ御心を外して行動している、という事を、彼らに分からせるためである。

『ダビデは向こう側に渡って行って、遠く離れて山の頂に立った。彼らの間の隔たりは大きかった。ダビデは民とネルの子アブネルに呼ばわって言った、「アブネルよ、あなたは答えないのか」。アブネルは答えて言った、「王を呼んでいるあなたはだれか」。』(1サムエル記26:13-14)
ダビデは、サウル王ではなく、将軍アブネルのほうを名指しで呼んだのに、アブネルは「”王を”呼んでいるあなたはだれか」と答えた。
彼がサウル王の部下の筆頭であり、代理であるからだろう。

『ダビデはアブネルに言った、「あなたは男ではないか。イスラエルのうちに、あなたに及ぶ人があろうか。それであるのに、どうしてあなたは主君である王を守らなかったのか。民のひとりが、あなたの主君である王を殺そうとして、はいりこんだではないか。あなたがしたこの事は良くない。主は生きておられる。あなたがたは、まさに死に値する。主が油をそそがれた、あなたの主君を守らなかったからだ。いま王のやりがどこにあるか。その枕もとにあった水のびんがどこにあるかを見なさい」。』(1サムエル記26:15-16)
彼らが眠り込んでいたのは、主が送られた深い眠り故であったが、アブネルが自分の立場を王の代理・王の部下の筆頭として自認し、表明したからには、彼がした事、すなわち、眠りこけて、主が油注がれた彼らの主君を守っていなかった事は、致命的なミスである。
実を言うと、私達も、このような致命的なミスをよくしてしまうものだ。

ダビデが16節で言った「油注がれた者」のヘブライ語は「マシヤハ(メシヤ)」、ギリシヤ語の「クリストス(キリスト)」に相当する。
だから16節の言葉は、「おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、キリストを見張っていなかったからだ。」という事になる。

キリストの命が狙われていて、キリストを守るべき時に、眠りこけて守らず、キリストを死に追いやってしまう・・・。
どこかで聞いた話である。
イエス様の弟子達が、ゲッセマネの園でそれをしたし、私達も幾度、それをしているだろう。

『それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。』(マタイ26:36-38)

イエス様は最初、弟子達に「ここに”すわって(カスィゾー:座る)”いなさい」と言った。
次に、ペテロやヨハネ達に「ここに”待って(メノー:とどまる、座る)”いて、わたしと一緒に「目をさましていなさい(グレゴレオー、見張っていなさい)」と言った。
弟子達は、このイエス様の全存在を賭けたかのような必死の祈りの時、共に「座し」「とどまり」、イエス様と一緒に「目を覚まして(見張って)」いればよかったのだが、残念ながら彼らは、眠り込んでしまった。

困難が迫っている時、私達は「座し(カスィゾー)」「とどまり(メノー)」、イエス様と一緒に「目を覚まして、見張って(グレゴレオー)」いるべきである。
『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都に「とどまって(カスィゾー)」いなさい」。 』(ルカ24:49)
『わたしに「つながって(メノー)」いなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう(I in you.)。枝がぶどうの木に「つながって(メノー)」いなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしに「つながって(メノー)」いなければ実を結ぶことができない。』(ヨハネ15:4)
『だから、「目をさまして(グレゴレオー)」いなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 』(マタイ24:42)

『そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。』(マタイ26:39-40)
聖霊をまだ受けておらず、自分の力で何とかしようとしていた弟子達は、弱かったのである。
自分の力で霊的な物事を為そうとしても、その意識を覚まし続けている事はできず、眠り込んでしまい、そして、油注がれた方を死へと渡してしまうものである。
だから、イエス様は言われる。
『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。』(マタイ26:41)

私達も、心は燃えていても肉体は弱い、という事を常に覚えておくべきである。
イエス様には死んでもついて行きたい、と、単発的に熱く思っても、普段から霊に拠って歩まず、肉によって歩んでいるなら、いざという時、ペテロ達のように居眠りしてしまったり、イエス様を知らないと皆の前で宣言してしまったりするものだ。
だから私達は、誘惑に陥らないよう、日々、御言葉を基準に考え行動する事によって、霊的な目を開いておくべきである。
また、肉体は弱いという事を前提に考え、寝るべき時にはしっかりと寝て、与えられている体の体調と時間とを正しく管理すべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルを殺せる二度目のチャンスの時(1サムエル記26:1-12):右クリックで保存

『そのころジフびとがギベアにおるサウルのもとにきて言った、「ダビデは荒野の前にあるハキラの山に隠れているではありませんか」。サウルは立って、ジフの荒野でダビデを捜すために、イスラエルのうちから選んだ三千人をひき連れて、ジフの荒野に下った。』(1サムエル記26:1-2)

ジフ人は、以前もサウルに「ダビデはここにいる」と告げ口し、サウルは「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」と言って喜んだ。(23:21)

サウルは一度、主によって、自分のいのちがダビデの手に渡された、というのに、ダビデに憐れみをかけられ命拾いした。
彼はダビデの真実な対応に心打たれ、それに引き換え、自分はずっと悪で返して来た事に号泣し、もうダビデを追わないと、神と人との前で誓ったはずだ。
だから、ジフ人に再び「ダビデはここにいる」と言われた時、もう自分は彼を追わないと断るのが筋のはずなのに、サウルはまたしても、いとも簡単に、その誓いを翻してしまう。

ダビデは、ジフ人にされた事を全て主へ持って行って「彼らは神をおのが前に置くことをしません。」と訴えた。(詩篇54編)
せっかく、ダビデを付け狙うという「罪」をやめたサウルに、再び、いらぬ情欲を燃え立てるよう、そそのかしたジフ人達は、自分の前に神を置くことなどしない者達なのだ。
ダビデはそんな彼らに宣言している。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)

ダビデは、相手が自分を陥れるような事をした時、その相手に自分の手で仕返ししたりせず、相手と自分との間に主を置いて、その相手の事は主に委ねた。
これが聖なる国民、天に属する王族の者のたしなみである。

『サウルは荒野の前の道のかたわらにあるハキラの山に陣を取った。ダビデは荒野にとどまっていたが、サウルが自分のあとを追って荒野にきたのを見て、斥候を出し、サウルが確かにきたのを知った。』(1サムエル記26:3-4)
当時はレーダーも携帯電話も無く、情報は人づてに聞くか、自分の目と足で得るしか無い時代である。
それなのに、ダビデはいつも、サウルの動向を事前にキャッチした。
彼は神から愛され、人から愛され、その両者から守られていたからだ。なぜなら彼が為す事は、いつも「真理」に叶っていたからだ。

『そしてダビデは立って、サウルが陣を取っている所へ行って、サウルとその軍の長、ネルの子アブネルの寝ている場所を見た。サウルは陣所のうちに寝ていて、民はその周囲に宿営していた。』(1サムエル記26:5)
この陣営は三千人の精鋭の兵達であり、彼らはこぞって、自分を狙っている。
近寄るだけでも危険な筈なのに、ダビデはその陣営を見ると、なんと、もっと近寄って行った。
彼にはきっと、主にあって自分には害は無い、という確信があったのだろう。

『ダビデは、ヘテびとアヒメレク、およびゼルヤの子で、ヨアブの兄弟であるアビシャイに言った、「だれがわたしと共にサウルの陣に下って行くか」。アビシャイは言った、「わたしが一緒に下って行きます」。』(1サムエル記26:6)
ダビデが信頼を置いている側近が、二人いた。
その一人は、ヘテ人アヒメレク。
ヘテ人といえば、カナンの末裔で、ヨシュア記では聖絶の対象の民族であるはずだが、きっと彼も、ラハブのようにイスラエルの神・主に回心したのだろう。
サウルは間違った熱心ゆえに、イスラエルの中に住む異邦人を殺そうとしたため(2サムエル記21:2)、彼も、サウルから逃げてきたのかもしれない。
アヒメレクは、異邦人と言えど、優秀な人材だったのだろうし、ダビデも、主に立ち返った異邦人を差別する事なく、側近として用いていたのだろう。
もう一人は、ダビデの血縁・ゼルヤの子アビシャイで、彼は後に、勇士たちの長となり、槍を振るって三百人を倒すほどの、槍の達人である。(2サムエル記23:18)

『こうしてダビデとアビシャイとが夜、民のところへ行ってみると、サウルは陣所のうちに身を横たえて寝ており、そのやりは枕もとに地に突きさしてあった。そしてアブネルと民らとはその周囲に寝ていた。アビシャイはダビデに言った、「神はきょう敵をあなたの手に渡されました。どうぞわたしに、彼のやりをもってひと突きで彼を地に刺しとおさせてください。ふたたび突くには及びません」。』(1サムエル記26:7-8)
またしても、サウルをいとも簡単に殺せる機会が訪れた。
サウルは前回の警告を無視し、またもダビデのいのちを狙って来た、からには、ダビデは彼に手にかけても、誰も文句を言わなかっただろう。
あるいは、自分は手を汚さず、部下アビシャイに全てを任せる事もできただろう。アビシャイなら音も立てずに殺す事は出来ただろうし、彼も、自信をもって申し出ている。

『しかしダビデはアビシャイに言った、「彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか」。ダビデはまた言った、「主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。しかし今、そのまくらもとにあるやりと水のびんを取りなさい。そしてわれわれは去ろう」。』(1サムエル記26:9-11)
ダビデは、アビシャイにサウルを殺させるとしても、それは「わたしが手をのべること」とした。
自分が行動していなくとも、上の立場である自分が黙認した事は、自分がしたのと同じなのだ。
彼は以前サウルと洞窟で相対した時や、ナバルとの一件で、既に学んだのだ。
自分が仕返しする事は、ただ悪への道であり、この主が油注がれた王については、主に任せる事が一番である事を。

『こうしてダビデはサウルの枕もとから、やりと水のびんを取って彼らは去ったが、だれもそれを見ず、だれも知らず、また、だれも目をさまさず、みな眠っていた。主が彼らを深く眠らされたからである。』(1サムエル記26:12)
主は、彼らを深く眠らせている。
ことごとく主が自分に味方しておられるからには、自分のしている道は正しかった、主はやがてサウルを打たれ、自分は必ず守られるだろう、と、確信したのだ。

主は、サウルはをいつでも打つことは出来たが、憐れみ深いのが主である。
ダビデはサウルを逃す事によって、言ってみれば主の憐れみに「加担」したのだ。
私達もダビデのように、自分で復讐する事なく、全て主に任せ、主の事業に「加担」し、ますます主に用いられ引き上げられて行く者でありたい。

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
暗黒を照らすひとりのみどりご(イザヤ9:1-7)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書9章1-7節を基に、闇から光へ、苦しみから喜びへと導かれる救いについてのメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書9:1-7

【慰めの言葉】

苦しみのあったところに闇がなくなり、光栄を受けるようになる。

【励ましの言葉】

神は沈黙の後も必ず語りかけ、光を与えてくださる。

【戒めの言葉】

罪を悔い改めず、立ち返らないと、長く苦しむことになる。

【勧めの言葉】

イエス・キリストという一人の男の子に頼り、その主権と平和のうちに生きよう。

【悔い改めの促しの言葉】

罪に染まった生活から速やかに立ち返り、光の中を歩もう。

【***詳細***】

今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書9章1-7節です。ここでは、闇と苦しみの中にいた人々に光が照らされ、喜びが与えられるという希望に満ちたメッセージが語られています。

まず1節を見てみましょう。「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先には、ゼブルンの地とナフタリの地は、恥ずかしめを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。

ここで言及されているゼブルンとナフタリの地は、イスラエルの北部に位置し、異教の影響を最も受けやすい地域でした。彼らは最初に罪に染まり、また最初に敵の攻撃を受けるような場所だったのです。しかし、神は彼らに光を与えると約束されました。

これは私たちにとって大きな慰めとなります。たとえ私たちが罪に染まり、世の影響を強く受けていたとしても、神は私たちを見捨てず、光を与えてくださるのです。

2-3節では、「闇の中を歩んでいた民が、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照らした。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられました。」と続きます。

ここで注目すべきは、光が照らされた後の変化です。人々は増え、喜びが増し加えられたのです。これは、神の光が私たちの人生に入ってくると、それまでの苦しみや闇が一掃されるだけでなく、積極的な祝福と喜びがもたらされることを示しています。

4-5節では、「彼らの重くのしかかったくびきと、肩の杖と、彼らを虐げる者の杖を、あなたはミディアンの日のようにお破りになりました。戦場でとどろく靴、血にまみれた着物はみな、焼かれて火の燃料となります。」とあります。

ここでは、神の光がもたらす解放と勝利が描かれています。私たちを縛っていた罪のくびきが打ち砕かれ、私たちを虐げていた敵が打ち負かされるのです。そして、戦いの道具や血に染まった衣服が燃やされるという描写は、神がもたらす平和を象徴しています。

そして6-7節で、この救いと光をもたらす方について語られます。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

ここで預言されている「ひとりのみどりご」こそ、イエス・キリストです。イエスは、単なる人間ではなく、神の主権を持ち、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれるお方なのです。

イエス・キリストの支配は増し加わり、その平和には限りがありません。彼は正義と公平によって国を治め、それは永遠に続くのです。

このメッセージから、私たちは二つの道を選ぶことができます。一つは、ゼブルンやナフタリの地のように、主に立ち返らず、自分の好むことをし続け、結果として奪われ、搾取され、奴隷化されていく道です。もう一つは、イエス・キリストを受け入れ、光の中を歩み、イエスの主権のうちに生きていく道です。

私たちは、イエス・キリストという一人の男の子により頼み、いつでもこの不思議な助言者に救いを求め、力を得るべきです。イエスの支配を永遠に受け入れ、幸いと祝福と栄えのうちに過ごしていくことができるのです。

【結論】

今日のメッセージを通して、私たちは神の驚くべき恵みと救いの計画を見ました。たとえ私たちが深い闇の中にいたとしても、神は光をもたらすことができるのです。その光は、イエス・キリストを通してもたらされます。私たちは、このイエス・キリストに頼り、その主権のもとに生きることで、真の平和と喜びを見出すことができます。今日から、私たちの人生の主権をイエス・キリストに委ね、その光の中を歩む決意をしましょう。

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イザヤ8章ではイスラエルの王アハズのかたくなさによって、主が何度も立ち返りなさいと言っているのに、それでも全く立ち返らない「かたくなさ」を見た。
アハズは預言者イザヤによってしずかにして信頼しなさい、と言われていたのに、アッシリアの王に勝手に頼って、しかも、偶像の設計図まで取り寄せる余計な「走り回り」をしていた。
そんな中で、主はイザヤをはじめ主を畏れ敬う民に対して言われた事は、かたくなな世の者に見習うな、という事であり、おしえとあかしに尋ねなければならない、と勧めた。
主に対し徹底的にかたくなを貫き通し、あくまで主に聞かない、徹底して、御言葉を軽んじる、者に対し、備えられている事は、法則的に、8章の最後の通りである。
イザヤ8:21 彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。
8:22 また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。

神が人を罰する、という場合、必ず、次の順番である。それは、
人が神を無視して自分勝手なことをする → 神が人を罰する
という順番がある。だから私達は、罪が私達を打って、神に打たれる、という事を十分注意して、そうならないように未然に防がなくてはならない。

主に従わない人を、苦しい目に合わせる。主はあらかじめ、預言者イザヤを通して立ち返るように促したが、立ち返らない。それなら苦難が重くされる。それでも立ち返らないなら、さらに苦難が重くされる。しかし、主はいつまでも人を打っておられるお方ではない。

 9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。

ゼブルンの地とナフタリの地、イスラエルの北であり、真っ先に異邦人と和合し、染まってしまった地である。
同時に、罪ゆえの災いも真っ先に受けてしまう地でもある。
世と和合し、罪と和合し、聖なるおもむきを失ってしまったイスラエルに対し、罪のゆえのとばっちり、悲しみ、闇、それを主は、無くしてくださる。

ゼブルンとナフタリ、主の宮からはなれていた。
主の御言葉から、遠くはなれていたら、真っ先に異邦の教え、異邦の拝むもの、異邦の価値観にすぐに感染して、染まってしまう。だから、宮から離れる事ないように気をつけるべき。

 9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

この箇所はマタイでも引用されている。イエス様がガリラヤで宣教を始めた時に。
闇が最も深い時に、光があらわれる。
アッシリア、バビロン、メディア、ペルシア、ギリシヤ、ローマ.
光が登ったのは、ローマの時、だから、罪にどっぷり浸かりきっているなら、何世代に渡っても光は上らない。
力ある者が来ては踏みにじられ、してきた。
私達には既にイエス様が来られ、何か起きた時、イエス様に助けを求めるなら、速やかにイエス様が助けに来てくださるが、しかし、立ち返らない、という事であれば、(主は確かにあわれんではくださるが)、しかし、その助けは、蹂躙され奪われ下敷きにされた、さらにその、ずっとずっと後に、である。だから、私達の側が悔い改めて立ち返るほうが、よほど立ち直りの近道である。

イエス様が現れる時、全ての闇は光へ、全ての死は、いのちへと飲み込まれていく。
イエス様が来られる前までは、本当に暗闇だった。人は絶望し、マラキから預言が絶えて400年、ずっと空白の期間を過ごし、人々がメシヤを求める声、その呼び声をかける人々の上に、大きな光が照った。

 9:3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。

死を待ち望む以外にないような人々n上に、光を照らしてくださる。
主が与えてくださった豊かな実り、主が育てて下さったもの、、、主が光を照らしてくださると、いのちが育って、多くの実りがもたらされる。
このような祝福お受けた人は、やることなす事、全て健やかに祝福されてしまう。あまりに利益が、あまりに収穫が多くされ、あたかも、戦争して勝ってぶんどりができるかのようになる。
この「ぶんどり」、戦争で勝利した側がする事であるが、この箇所の「敵」は悪魔サタンである。
つまり、悪魔サタンにとらわれていた人達、悪魔サタンが不当に占拠していた数多の良いもの、それを、私達が分捕ったという喜び楽しみ。主が与えてくださる実りと、主が勝ち取らせてくださるこのぶんどりに、私達は喜び楽しむのである。

 9:4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。
 9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。

まことの光なるイエス様が、太陽としてのぼり、死の陰の地に住んでいた彼らの重荷、また、彼らを打っていた鞭や杖、それらは、ミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれる。
御言葉に背く事には、ひたいの汗と労苦があり、罪の刑罰、すなわち鞭とつえが、必ずともなう。

 9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
罪の飲み食いや取引をする内に、人の血を流したり、返り値をあびたり、あるいは、自分が、より強い者から血を流されたりする。そうした血に汚れたふくやくつ、義の太陽なるキリストが昇る時、火のえじきとなり、もやは罪穢れは焼かれて清められる。
自分も相手も傷を与え、傷つけ合い、罪を犯しあい、血を流したり流させたり、、、神の目から見れば私達の姿は、みんな、血を流しているように見える。その様を、「すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣」、それを、わらのように燃やす。わらに火がつけられると、たちまち一瞬にして燃えて灰になるように。

主はどのようにして、死の影の地に住んでいた人達に、光を照らしてくださるのか。。。
それは、ひとりのみどりごによって、である。

 9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

このイエス様が来て、1-5節の全てを解消する!
全世界を覆っていた、ながらく覆っていた分厚い、しつこい闇、死、その中へと投じられたひとつの光。
その光によって救われる「光」とは、ひとりのみどりご。
主イエス様は、ひとりのみどりごとして私達のために生まれて下さった。
主の御名を呼ぶ個人にも生まれ、主の御名を呼ぶ集団に生まれ、また、主の御名を呼ぶ国にも生まれてくださる。
どういう方か。

 9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
Isa 9:6 For unto us a child is born, unto us a son is given: and the government shall be upon his shoulder: and his name shall be called Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.

主権は、英語でガバメント、すなわち政府。つまりイエス様の肩に政府が置かれる。
日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の支配権は、イエス様の肩に置かれている。
国に申請する時は、いつも役所に行ってしなくてはならないが、神の国においてはそんな面倒は無い。イエス様の御名によっていつでもどんな時でも、まどろむ事なく、眠ることのないイエス様に申し上げる事ができる。
全ての権威、点においても地においても、イエス様の肩にあるから、どこかに行ってやる事もない。したい事を、したい時間に、移動する事なく、全部できてしまう。
なぜなら、大祭司の肩には、イスラエルの名を負って記念としている。大祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為すのだ。(出エジプト記28:9-12)

「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」 英語では、「Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.」
主は、どんな悩み、問題、しつこい解決不能な事さえ、解決へと導いてくださる Wonderful, Counsellorであり、力ある神。仕事で忙しくてなかなか助言を求められなくても、私達の主イエス様は、いつでも、求めて、いつでも助言を求める事ができる。この、神の国のガバメントは、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、なになにの書類を整えなければ受理しません、も無い。いつでも、永遠の父の求め、不思議な助言が与えられ、力ある神の力が行使され、平和の君、そのあらゆる善き事を、いつでも、求める事ができるのだ。

イエス様はまた、平和の君、プリンス・オブ・ピースである。あらゆる不和、あらゆる争いごと、それはイエス様の元に行けば、平和へとつくりかえられる。

 9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
Isa 9:7  Of the increase of his government and peace there shall be no end, upon the throne of David, and upon his kingdom, to order it, and to establish it with judgment and with justice from henceforth even for ever. The zeal of the LORD of hosts will perform this.

これを行うのは、私達の努力ではなく、主の熱心が、この事を行ってくださる。
イエス様の主権、ガバメントは、どんどん増し加わって、そしてそれは、平和であり、限りなく、ダビデの王座につき、その王国を、とこしえまで。エバーラスティング。終わりが無い。それが、闇の中に住んでいる人達の上に照り渡る光。それが、彼の威光であり、力であり、ご性質である。

私達には、2つの道がある。
ゼブルンやナフタリ、のように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続けて、ひたすら、ほかの強い人から奪われ、搾取され、奴隷化され、ずっと続けるか。その一つの道を選ぶか。
それとも。もう一つの道、イエス様を受け入れて、イエス様の主権の内に歩んでいくか。
イエス様すなわち、ひとりのみどりごに依り頼んで、いつでも不思議な助言を得て、力を得て、支配を得て、幸いへと祝福へと栄の内にとこしえまで生きる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい夫の元へと導かれる女性の性質(1サムエル記25:36-44):右クリックで保存

『こうしてアビガイルはナバルのもとにきたが、見よ、彼はその家で、王の酒宴のような酒宴を開いていた。ナバルは心に楽しみ、ひじょうに酔っていたので、アビガイルは明くる朝まで事の大小を問わず何をも彼に告げなかった。』(1サムエル記25:36)


ナバルは、アビガイルが彼の愚かさを身代わりに引き受け、ダビデに執り成していたその時、王のような宴会をしていた。
彼は、与えられてた富や素晴らしい人材、赦され続けて来た赦しを、極度のぜいたくで浪費していた。
人は、どんなに富んでいても、神の前で富まなくてはどうしようもない。

ぜいたくを極めたソロモンは言っている。
『人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。』(伝道者2:24-26)
ソロモン王は、統治の前半は与えられた知恵と富を神と人とのために用いたが、後半は主を忘れ、自分の欲望を満足させる事に、富と権力を用いた。

神の国の事柄が見えなくなった彼は、世における最高の良い楽しみは「飲み食い」にしか見い出せない、全てがむなしい、という価値観になってしまった。
彼は26節で言っている。罪人が一生懸命働いて富を積み立てても、それは実は御心に適った人に渡すために蓄えているものだ、と。
ナバルに、まさに、それが実現してしまう。

『朝になってナバルの酔いがさめたとき、その妻が彼にこれらの事を告げると、彼の心はそのうちに死んで、彼は石のようになった。十日ばかりして主がナバルを撃たれたので彼は死んだ。』(1サムエル記25:37-38)
ナバルはそれまで、普段から行状が悪いのを直さず、ほしいままに突き進んでは、周囲にとばっちりを負わせ、悲しませ続ける事が、今まで許されていたが、主はその「周囲」の悲しみ・叫びをも、聞いておられる。
主からの憐れみ・赦しの時を、浪費し尽くしてしまう時、突然の滅びが訪れるのだ。(詩篇73編)

人から、神から、同じ事を注意され続けても、いつまでも許されると思って突き進んでいてはならない。
やがて、その刈り取りをする事になるからだ。
ナバルにとって、ダビデの使者が遣わされた時が、最後のチャンスだったが、彼は普段どおり愚かな対応をしてしまい、結局、主に打たれることとなってしまった。

『ダビデはナバルが死んだと聞いて言った、「主はほむべきかな。主はわたしがナバルの手から受けた侮辱に報いて、しもべが悪をおこなわないようにされた。主はナバルの悪行をそのこうべに報いられたのだ」。』(1サムエル記25:39)
ダビデはこの経験を通して、確信した。主は、悪を行う者に必ず報いて下さるという事を。
そして、自分の手で悪者に仕返しをする事は、悪の道であり、何の益ももたらさない事を。
善を行ない続ける事が、もしかしたらとても無駄であるかのように、自信が揺らいでいたが、それはやはり正しかった、その道を進んで良いのだ、その先には大きな報いがあるのだと、自信を取り戻した。
それで彼は、確信をもって詩篇37編を記したのだろう。
『主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。』(詩篇37:7-11)

『ダビデはアビガイルを妻にめとろうと、人をつかわして彼女に申し込んだ。ダビデのしもべたちはカルメルにいるアビガイルの所にきて、彼女に言った、「ダビデはあなたを妻にめとろうと、われわれをあなたの所へつかわしたのです」。』(1サムエル記25:39)

ダビデは、アビガイルとたった一度しか会っていなかったのに、夫ナバルが死んだと聞いて、早速結婚を申し込んだ。
たった一度のあの会話で、彼女が素晴らしい信仰者である事を悟ったのだ。
彼女は、主の御名と柔和な言葉によってダビデの荒んでいた心を慰め、弱っている信仰を奮い立たせ、罪を犯す事から、彼を守ってくれた。
彼女を伴侶として共に歩むなら、信仰にあって共に助け合い、罪や悪に走りそうな時、助けてくれてくれるだろう、と踏んだのだ。

愚かで行状の悪い夫が死に、はるかに優れた男・ダビデにプロポーズされたアビガイルは、どうしたか。
『アビガイルは立ち、地にひれ伏し拝して言った、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」。アビガイルは急いで立ち、ろばに乗って、五人の侍女たちを連れ、ダビデの使者たちに従って行き、ダビデの妻となった。』(1サムエル記25:41-42)
彼女は、素晴らしい男性から告白されたとたん、傲慢がそそり立つような女性ではなく、彼女が真っ先に起こしたリアクションは、地にひれ伏し拝する事、真っ先に言った言葉は「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」だった。

妻が夫に仕える。それは、結婚生活において主の御前に正しい事であり(エペソ5:22-24)、そのようにする家庭には、権威の正しい秩序が形成され、健全な家庭となる。
ダビデの先の妻・アヒノアムの子・アムノンも、後の妻・マアカの子・アブシャロムも、共に問題を起こしたが、アビガイルの子・キルアブについては、特に問題を起こした事は記されていない。
サウルの娘・ミカルは、自分の価値観を押し付ける目でダビデを見下ろし、それに則さない夫に嫌味を言う性質だったためだろうか、生涯、子が無かった。

アビガイルは、ナバルという愚かな夫の妻だった時から、既に、いつも主の御名を呼び、主にあって正しく仕えていた。
だからこそ彼女は、ダビデとばったり会った時、主エホバの御名を七度も用いて彼をなだめる事が出来たのであり、いざ、彼女がダビデに迎えられた時、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめ」になるつもりだと告白したのだ。
『妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。』(1ペテロ3:1-4)

アビガイルは既に「成熟した妻」として整えられていた。
だから主は、彼女をさらに優れた夫・ダビデの元へと、しかも、イスラエルの王となる「途上」の、ダビデにとって重要な時期に、妻として送られたのだ。
私達も、普段、愚かなナバルに仕えるような日々を通らされているかもしれない。
しかし、アビガイルのように、主にあって忠実にその時期を過ごし、学ぶべき事をしっかり学び、誠実を養い、御前に不要な性質を取り除くなら、主はちょうど良い時期に引き上げて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:アビガイルの信仰と執り成し(1サムエル記25:25-35):右クリックで保存

アビガイルのダビデに執り成した内容から分かる事は、彼女は、卓越した信仰の持ち主だ、という事である。

なぜなら、24節から31節の彼女の言葉には、「主(エホバ)」の御名が七もあり、また彼女は、ダビデがこれから主によって王とされ、その後ダビデが受ける祝福をかなり正確に言い当てるからだ。

『わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。あなたのはしためであるわたしは、わが君なるあなたがつかわされた若者たちを見なかったのです。』(1サムエル記25:25)
彼女は決して、自分の夫・ナバルの悪口を言って、ダビデの機嫌を取ろう、としているのではない。
夫婦は一体であり、彼女は、夫がした事は「自分がした」事として、執り成しているのだ。
事実、彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言い(24節)、「どうぞ”はしためのとが”を許してください。」(28節)と願っている。

「わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバル(であり自分)のことを気にかけないでください。」
自分達の側が犯した罪咎を、どうぞ気にかけないで下さい・・・随分都合の良い要求のように見えるが、ダビデ自身も、同じような「都合のいい」事を主に求めている。
『主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。』(詩篇25:6-7)
私達も、まことのダビデである主イエス様に、「主よ、わたしの罪咎を思い出さないでください」「あなたの恵み、あなたのいつくしみに従って、わたしを思い出してください。」と、実に都合の良い祈りが出来る事は、本当に幸いである。

『それゆえ今、わが君よ、主は生きておられます。またあなたは生きておられます。主は、あなたがきて血を流し、また手ずから、あだを報いるのをとどめられました。どうぞ今、あなたの敵、およびわが君に害を加えようとする者は、ナバルのごとくになりますように。』(1サムエル記25:26)
彼女は聡明である。
ダビデが自分から人の血を流す事を「主(エホバ)は」「既にとどめた」、と、言葉において既成事実化しており、同時に、ナバルに災いが降る事、そして、ダビデの敵もナバルのようになると、「既に成った」事としている。
主にあって信仰深く歩もうと、常に気をつけているダビデとしては、この言葉は、飲まざるをえないだろう。

『どうぞ、はしためのとがを許してください。主は必ずわが君のために確かな家を造られるでしょう。わが君が主のいくさを戦い、またこの世に生きながらえられる間、あなたのうちに悪いことが見いだされないからです。』(1サムエル記25:28)
驚くことに彼女は、預言者ナタンに先んじて、「主は必ずわが君のために確かな家を造られる」と、ダビデの将来を正しく予見している。(2サムエル記7章)
彼女がこの事を言ったのは、決して「おだて」でなく、根拠がある。それは、ダビデが「主のいくさを戦」っている事だ。

ダビデがゴリヤテやペリシテ人と戦い、ケイラを救ったのも、「主の戦い」には違いないが、彼は、霊においても「主の戦い」を戦っている。
彼が油注がれた王・サウルを、いつでも殺してしまえる「誘惑」と戦ったのも、「主の戦い」であり、その、常人ではとても勝利できないような誘惑に、彼は勝利した。

私達も常時、ダビデのように、信仰において「主の戦い」を戦っている。
罪や穢れ、悪と戦う時、また、私達の内に込み上げてくる怒りや恐れ、不安に対し「主にあって」戦う時、それは主の戦いである。
『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。』(箴言16:32)

ダビデはサウルに対する恐れと戦い、部下達を養わなくてはならない不安と戦い、逃亡生活中であってもケイラを救うために戦い、ナバルの羊飼いに良くしてやるという「信仰の戦い」もして来た。
そして今回、恩を仇で返したナバルへの「怒り」という、ダビデの内なる敵に負けそうになったが、主は助け手としてアビガイルを送り、助けて下さった。

『たとい人が立ってあなたを追い、あなたの命を求めても、わが君の命は、生きている者の束にたばねられて、あなたの神、主のもとに守られるでしょう。しかし主はあなたの敵の命を、石投げの中から投げるように、投げ捨てられるでしょう。』(1サムエル記25:29)
彼女のこの言葉は、どれほどダビデにとって慰めとなっただろう。
彼はこの時、一国の王から追われている身だ。
いかに主から油を注がれた、と言っても、現実は、右も左も見えず将来も全く見えない。
第三者が見れば、いつ命を落とされるか、いつのたれ死んでしまうか分からない状況である。
主を信頼してずっと善を行って来たはずなのに、恩を仇で返され、怒り、落胆し、剣で報いようとして向かう途中、という、荒み切った心のダビデに、この言葉は、どれほど慰めとなったただろう。

『そして主があなたについて語られたすべての良いことをわが君に行い、あなたをイスラエルのつかさに任じられる時、あなたが、ゆえなく血を流し、またわが君がみずからあだを報いたと言うことで、それがあなたのつまずきとなり、またわが君の心の責めとなることのないようにしてください。主がわが君を良くせられる時、このはしためを思いだしてください」。』(1サムエル記25:30-31)
アビガイルは、将来、あなたは必ず王になるから、今、主が約束されているそのキャリアに汚点を残す事が無いようにして下さい、そして、王となった暁には、わたしを思い出して下さい、と願った。
彼女は、まだ見ていない事を、信仰によって、見ていた。
目の前のダビデは、一介の逃亡者である。しかしダビデは主の戦いを今戦っており、彼はやがてイスラエルの王となるべき器である事を。

イエス様と共に十字架につけられた強盗も、その信仰を持っていた。
彼の目の前にいたイエス様は、十字架につけられ、人々から罵られ、あと数時間もすれば、死んでしまうような死刑囚であったのに、彼はイエス様の中に、生死を超越した永遠の王の性質を見たのだ。
だから彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と願ったのだ。(ルカ23:42)

事実、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行って、永遠に共に生きるようになった。
アビガイルも、ナバルが死んだ後、ダビデに結婚を申し込まれ、後には王妃となり、ダビデと共に王宮で暮らす事となった。
目に見える所によらず、信仰によって永遠の王・キリストを見、彼に「わたしを思い出して下さい」と申し出るなら、私達もパラダイスへ行き、キリストの花嫁となり、永遠の御住まいで共に生きるのだ。

アビガイルが、この素晴らしい執り成しを終えると、ダビデは真っ先に、主を誉めたたえた。
『ダビデはアビガイルに言った、「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめられたのです。』(1サムエル記25:32-33)
この言葉の中に、バラーフ(祝福、膝をつく)という言葉が、三度使われている。
ダビデは、主にひざをつき、アビガイルの知恵に、そしてアビガイル自身を祝福した。

『わたしがあなたを害することをとどめられたイスラエルの神、主はまことに生きておられる。もしあなたが急いでわたしに会いにこなかったならば、あすの朝までには、ナバルのところに、ひとりの男も残らなかったでしょう」。』(1サムエル記25:34)
ダビデの優れた所は、ひとたび彼自身が誓った事でも、それが主に対して罪を犯すような内容であったと気づいたら、すぐさまそれを取り降ろした所だ。
身勝手な誓いを連発し、最功労者であり息子のヨナタンさえ殺そうとしたサウルとは、大違いである。

『ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて、彼女に言った、「あなたは無事にのぼって、家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ、あなたの願いを許します」。』(1サムエル記25:35)
ダビデはアビガイルに、無事に(シャロームの内に)帰りなさいと、平安の内に帰した。
信仰の友・ヨナタンとも会えず、荒んでいたダビデにとって、この素晴らしい信仰の女性・アビガイルとの邂逅は、大きな慰めとなっただろう。
信仰者は、素晴らしい信仰者と新しく出会う時、慰めを受け、そこから新たないのちの繋がりが生まれて来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ナバル家を代表して執り成すアビガイル(1サムエル記25:14-24):右クリックで保存

ナバルとダビデの使者とのやりとりを見ていた若者がいた。

彼はナバルの無礼な対応を見て、明らかに、これから自分たちに災いが降りかかる事を知った。
それで彼はナバルの妻・アビガイルに相談する。

『ダビデが荒野から使者をつかわして、主人にあいさつをしたのに、主人はその使者たちをののしられました。しかし、あの人々はわれわれに大へんよくしてくれて、われわれは少しも害を受けず、またわれわれが野にいた時、彼らと共にいた間は、何ひとつ失ったことはありませんでした。われわれが羊を飼って彼らと共にいる間、彼らは夜も昼もわれわれのかきとなってくれました。』(1サムエル記25:14-16)
この、ナバルに仕えている若者も、ダビデの事を認めている。
ダビデ達は、サウルに追われていて大変であるにもかかわらず、自分達に良くしてくれ、自分達を守ってくれていた事を。

『それで、あなたは今それを知って、自分のすることを考えてください。主人とその一家に災が起きるからです。しかも主人はよこしまな人で、話しかけることもできません」。』(1サムエル記25:17)
この、名も無き若者のほうが、ナバルよりも賢い。
自分達の主人ナバルが、誰に一体何をしたか。そのため、どんな事がこれから起ころうとしているのかを、悟っている。

社長がどうしようもなく愚かなのに、その会社が良い業績を上げているとするなら、愚かな社長をフォローしている有能な部下たちがいるのだろう、と、推測できる。
同じように、ナバルは今までずっとこんな愚行をして改めていないのに、事業が立ちまわっているのであるなら、ナバルが愚行を犯す都度、有能な彼の周りがフォローしてくれていたのだろう、と、推測できる。
しかし、物事には限度がある。
今回、ナバルがしてしまった事については、ナバルのしもべ達には何のフォローもしようがないし、また、ナバルに何を言っても聞かない事は、既に分かっていた。
だから彼は、ナバルの妻・アビガイルに申し出たのだ。

『その時、アビガイルは急いでパン二百、ぶどう酒の皮袋二つ、調理した羊五頭、いり麦五セア、ほしぶどう百ふさ、ほしいちじくのかたまり二百を取って、ろばにのせ、若者たちに言った、「わたしのさきに進みなさい。わたしはあなたがたのうしろに、ついて行きます」。しかし彼女は夫ナバルには告げなかった。アビガイルが、ろばに乗って山陰を下ってきた時、ダビデと従者たちは彼女の方に向かって降りてきたので、彼女はその人々に出会った。』(1サムエル記25:18-20)
彼女の、ダビデをなだめるための行動は、素早かった。
贈り物として彼女が用意したものは、ダビデ達六百人に対しては、少ないかのように見える。
きっと、ナバルには内緒で準備したために、用意できるものは限られてはいても、精一杯整えたのだろう。

『さて、ダビデはさきにこう言った、「わたしはこの人が荒野で持っている物をみな守って、その人に属する物を何ひとつなくならないようにしたが、それは全くむだであった。彼はわたしのした親切に悪をもって報いた。もしわたしがあすの朝まで、ナバルに属するすべての者のうち、ひとりの男でも残しておくならば、神が幾重にもダビデを罰してくださるように」。』(1サムエル記25:21-22)
ナバルのダビデに対する無礼な対応を、怒る気持ちは、分からないでもない。
しかし、ナバルだけでなく彼に属する全ての人達を殺すのは、明らかにやり過ぎである。
それは「ダビデは」してはならない事である。

普通の人なら普通にして許されるような事でも、主に油注がれた者、すなわち、主から特別に任職された者には、許されない事もあるのだ。
多くの人の命を預かるパイロットは、飛行機を操縦している間、決して酒を飲まないのと同じように、多くの人々の魂を預かる主から任職された器の人は、怒りに酔って人々を殺すような事は、してはならない。
主は、主が用意された特別な器を訓練する。
そして、罪を犯させないように守り、助ける人を遣わしてくださる。

『アビガイルはダビデを見て、急いで、ろばを降り、ダビデの前で地にひれ伏し、その足もとに伏して言った、「わが君よ、このとがをわたしだけに負わせてください。しかしどうぞ、はしために、あなたの耳に語ることを許し、はしための言葉をお聞きください。』(1サムエル記25:23-22)
アビガイルのダビデに対する執り成しが始まる。
彼女がそれをしたのは、彼女の主人・ナバルのためであり、またナバルに仕える大勢の人々のためだった。

彼女はこの事を知らなかったし、また、もし彼女が最初に応対していたとするなら、絶対ナバルのような対応は取らなかった。
それでも彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言った。
ダニエルも、彼自身は罪を犯していなかったのに、『”われわれは”罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。』と言ってイスラエルを執り成した。(ダニエル9:5)
イエス様も、罪無きお方であったのに、全人類に代わって罪とされ、身代わりとなって、十字架上で刑罰を受けて下さった。

アビガイルが、自分の属しているナバル家を救うために、ダビデをなだめる行動を起こしたように、私達も、私達が属している国、団体、会社のトップ達のために、主に執り成し、祈るべきである。
私達の国は、まことのダビデであるキリストに、数々の無礼を働いているため、そのままでは災いが来る事は、目に見えている。
日本では少数のキリスト者である私達が、主をなだめるために祈る祈りは、たかが知れているかもしれない。それでも、主をなだめ祈るべきだ。

『そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。』(1テモテ2:1-2)
私達は、取り成し祈る事によって、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす事が出来るが、もしそれをしないなら、私達が属している国や集団、会社などが犯してきた罪や愚かさの報いを、一緒に受けてしまう。
そうならないためにも、私達は破れ口に立ち、執り成し祈るべきなのだ。
『これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。』(1テモテ2:3-4)

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主を頼みとしない者が受ける分(イザヤ8章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られたメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書8章2-4節、5-10節、11-16節、17-22節

【励ましの言葉】

主を聖なる方とし、恐れおののく者には、主が聖所となり守りとなってくださる。

【戒めの言葉】

人々が恐れるものを恐れず、主のみを恐れよ。占い師や霊媒に頼らず、神の教えと証しに尋ねよ。

【***詳細***】

今日のメッセージは、イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られています。

まず、2-4節で、イザヤは息子の名前を「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは早く、略奪は速やかに)と名付けるよう命じられます。これは、ダマスコとサマリアが滅ぼされることを預言するものでした。

「それは、この子がまだお父さん、お母さんと呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリアの分取り物がアシリアの王の前に持ち去られるからである。」(イザヤ8:4)

この預言は、アハズ王が恐れていたアラムとイスラエルの王が速やかにアッシリアによって滅ぼされることを示しています。神は、まだ生まれていない子供の名前を用いて預言することで、アハズ王に神への信頼を促そうとしました。

しかし、5-10節では、ユダの民が神を信頼せず、アッシリアに頼ろうとしたことが批判されます。

「この民が緩やかに流れるシロアの水をないがしろにして、レツィンとレマリアの子を喜んでいる。」(イザヤ8:6)

神は、彼らが頼ろうとしたアッシリアが逆にユダを滅ぼすことを預言します。これは、人間の力に頼ることの愚かさを示しています。

11-16節では、イザヤは神から特別な警告を受けます。

「この民が謀反と呼ぶことを、あなたがたは謀反と呼んではならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。おののいてはならない。」(イザヤ8:12)

ここで神は、イザヤに人々の恐れや陰謀に巻き込まれないよう警告しています。代わりに、万軍の主を聖なる方とし、主のみを恐れるよう命じています。これは、困難な時代にあっても、神のみに信頼を置くべきことを教えています。

17-22節では、イザヤの決意と、不信仰な者たちへの警告が語られます。

「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける。」(イザヤ8:17)

イザヤは、たとえ神が御顔を隠しておられるように見えても、主を待ち望む決意を表明しています。一方で、占い師や霊媒に頼る者たちは、真の光を見出せないと警告しています。

「もし、この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:20)

このメッセージ全体を通して、神は私たちに次のことを教えておられます:

  1. 人間の力や知恵ではなく、神に信頼を置くこと。

  2. 世の中の恐れや陰謀に惑わされず、神のみを恐れること。

  3. たとえ困難な時代であっても、神の言葉に従い、主を待ち望むこと。

  4. 占いや霊媒など、神以外のものに頼らないこと。

これらの教えは、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えています。世界が混沌とし、不安が広がる時代にあっても、私たちは神の言葉に立ち返り、主に信頼を置くべきです。

「教えと証しとに尋ねよ。もし、彼らがこの言葉に従って語らなければ、その人たちには夜明けがない。」(イザヤ8:20)

この御言葉に従って生きる時、たとえ周りが暗闇に包まれていても、私たちの内には光が輝き続けるのです。

【結論】

困難な時代にあっても、人間の知恵や力ではなく、神のみに信頼を置き、御言葉に従って生きることが重要である。そうすることで、私たちは世の光として輝き、神の守りの中に留まることができる。

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