• カテゴリ 講解説教(旧約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42):右クリックで保存

『さて、ついたちになったので、王は食事をするため席に着いた。王はいつものように壁寄りに席に着き、ヨナタンはその向かい側の席に着き、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所にはだれもいなかった。ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(1サムエル記20:24-26)

サウルは、それまで自分がダビデにして来た事、すなわち、ダビデを殺そうとして槍を投げたり、殺意をもって何度も追い回したりした事など、一切無かったかのように、ダビデが自分と食事を共にしないのは、「何か起って汚れたのだろう」と思ったのだ。
自分がしてきた事を一切考慮せず、どうしてそんな脳天気な理由を思い浮かべられるのだろうか。

自分が周りに、どんなにひどく怒りをぶちまけ、破壊し、周囲の人々の心や体を傷つけ、迷惑をかけ、ひどい事をして来たかを、一切、無かったかのようにして、普通に振舞うような人は、確かにいる。
自分が周囲にしてきた行ないが、見事、その人の意識の中から、全く抜け落ちているかのような。
周囲の調和をさんざん破壊しておきながら、それを全部してしまうと、何事も無かったかのように、日常的に周囲の人に振る舞うような人が。

そのような人は、その人が意識的にしている、というより、その人の内に住み着いた悪霊がそれをさせており、その人が悪霊に支配されている間、本人はあまり意識していないものである。
なぜ人は悪霊に意識を乗っ取られてしまうのか。
それはその人が、悪霊の好むエサを常時振り撒いており、寄って来た悪霊の邪悪な思い同意し、自分自身の意識や体の支配権を、悪霊に与えてしまうからだ。

悪霊の好むエサとは、ガラテヤ5章19節以降に記されている「肉の働きリスト」、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
宗教やまじない、占いにはまっている人が、そのような、非常人的な振る舞いをよくするのは、そのためだ。
サウルのように、偶像礼拝や殺意、ねたみ、怒りなどを放置しておくと、悪霊に支配されるようになって、無意識的に極端な”発作的行動”をしてしまうのだ。

もちろん、発作的に異常な言動をするすべての人が悪霊に憑かれていると言っているのではない。
しかし、少なくともサウルのように、主と主の言葉にそむく問題をそのまま放置し続けて、そうなってしまったのであるなら、それは明らかに霊的な問題である。

『しかし、ふつか目すなわち、ついたちの明くる日も、ダビデの場所はあいていたので、サウルは、その子ヨナタンに言った、「どうしてエッサイの子は、きのうもきょうも食事にこないのか」。
ヨナタンはサウルに答えた、「ダビデは、ベツレヘムへ行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。彼は言いました、『わたしに行かせてください。われわれの一族が町で祭をするので、兄がわたしに来るようにと命じました。それでもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうぞ、わたしに行くことを許し、兄弟たちに会わせてください』。それで彼は王の食卓にこなかったのです」。』(1サムエル記20:27-30)
ヨナタンの言った事、普通に「そういう事もあるだろう」と流せる内容だが、このわずかな言葉によって、サウルは豹変してしまう。
悪霊を宿している者は、通常、普通の人と変わらないように見えても、誰かのちょっとした言葉や行動がきっかけとなって、内に秘めている霊を暴走させてしまうのだ。

『その時サウルはヨナタンにむかって怒りを発し、彼に言った、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。あなたがエッサイの子を選んで、自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめていることをわたしが知らないと思うのか。エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたも、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。それゆえ今、人をつかわして、彼をわたしのもとに連れてこさせなさい。彼は必ず死ななければならない」。』(1サムエル記20:30-31)
サウルは突然、すごい剣幕で、ヨナタンのみならず、ヨナタンの母でありサウルの妻をも冒涜するような汚し事を叫んだ。

ヨナタンはただ、ダビデには都合あって、この食事の席に参加できない、と言っただけだった。
それが突然すごい勢いと剣幕で、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。」「自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめている(原意:母の裸を露わにしている)」など返される。
一体どこをどう連想すれば、母の裸の露わに、という話へ発展するのか理解はできないないが、とにかく、頭の中で悪い思いをぐるぐる巡らしている人は、常人には到底連想できないような考えへと導かれ、それをぶちまけるのだ。

『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った。』(1サムエル記20:32-33)
今度はなんと、自分の跡継ぎである息子にも槍を投げつけた。
つい今しがた、王位継承を危うんでいる言葉を発したばかりなのに、その継承者である息子を殺す衝動にかられてしてしまう。
私達は、悪霊に秩序を求めてはならない。
ただ破壊し、殺し、壊す事が、彼らの衝動なのだ。

『ヨナタンは激しく怒って席を立ち、その月のふつかには食事をしなかった。父がダビデをはずかしめたので、ダビデのために憂えたからである。』(1サムエル記20:34)
ヨナタン自身と、彼の母がはずかしめられたというのに、彼は、ダビデがはずかしめられた事を憂いている。
主にある兄弟姉妹とは、そういうもので、自分の事より、愛する兄弟姉妹のほうを心配し、案じるのだ。
パウロも、自分の身よりも同胞の救いをこそ切望した。

『あくる朝、ヨナタンは、ひとりの小さい子供を連れて、ダビデと打ち合わせたように野原に出て行った。そしてその子供に言った、「走って行って、わたしの射る矢を捜しなさい」。子供が走って行く間に、ヨナタンは矢を彼の前の方に放った。』(1サムエル記20:35-36)
前回見たように、矢を前方に射るのは、サウルがダビデのいのちを狙っていて危険だ、というサインだ。

『そして子供が、ヨナタンの放った矢のところへ行った時、ヨナタンは子供のうしろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供のうしろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。その子供は矢を拾い集めて主人ヨナタンのもとにきた。しかし子供は何も知らず、ヨナタンとダビデだけがそのことを知っていた。』(20:37-39)
ヨナタンは「早くせよ、急げ。とどまるな」と叫ぶ事で、事態の深刻さをダビデに伝えた。
ヨナタンの付き人には分からなかったが、これは、信仰の有志にのみ分かるサインであった。
迫害下にあった初代教会も、表向きは誰にも分からない、しかし、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合った。

『ヨナタンは自分の武器をその子供に渡して言った、「あなたはこれを町へ運んで行きなさい」。子供が行ってしまうとダビデは石塚のかたわらをはなれて立ちいで、地にひれ伏して三度敬礼した。そして、ふたりは互に口づけし、互に泣いた。やがてダビデは心が落ち着いた。』(1サムエル記20:40)
こうして、ダビデとヨナタンは、別れる事になる。
ダビデは国から追われる身、これからどうなるか分からない。
だから互いに、今生の別れを覚悟しただろう。

『その時ヨナタンはダビデに言った、「無事に行きなさい。われわれふたりは、『主が常にわたしとあなたの間におられ、また、わたしの子孫とあなたの子孫の間におられる』と言って、主の名をさして誓ったのです」。こうしてダビデは立ち去り、ヨナタンは町にはいった。』(1サムエル記20:41-42)
ヨナタンはこのように、信仰の友・ダビデ真実を尽くした。
私達も真実を尽くし、サウルの道に誰も陥らぬよう、互いに教え、戒めあって、信仰の交わりを健全に行って行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:血を分けた親子も及ばない繋がり(1サムエル記20:1-23):右クリックで保存

ダビデは、自分の家に逃げても、サムエルの所に逃げて、サウルがしつこく追ってきたため、今度は、サウルの子であり信仰の兄弟であるヨナタンに訴えた。


『ダビデはラマのナヨテから逃げてきて、ヨナタンに言った、「わたしが何をし、どのような悪いことがあり、あなたの父の前にどんな罪を犯したので、わたしを殺そうとされるのでしょうか」。ヨナタンは彼に言った、「決して殺されることはありません。父は事の大小を問わず、わたしに告げないですることはありません。どうして父がわたしにその事を隠しましょう。そのようなことはありません」。』(1サムエル記20:1-2)
ヨナタンがダビデの言葉を聞いた時の最初の反応は、「そんな事はない」だった。
ヨナタンはサウルの息子である、にもかかわらず、父が兵を動員して何度もダビデを殺そうとした事を知らなかったばかりか、そんな事はありえない、と言う。
ダビデとしては、心外だったかもしれない。
しかし彼は、平和に答える。

『「あなたの父は、わたしがあなたの好意をえていることをよく知っておられます。それで『ヨナタンが悲しむことのないように、これを知らせないでおこう』と思っておられるのです。しかし、主は生きておられ、あなたの魂は生きています。わたしと死との間は、ただ一歩です」。ヨナタンはダビデに言った、「あなたが言われることはなんでもします」。』(1サムエル記20:3-4)
ダビデは、サウルからいのちを狙われている、というのに、サウルを悪く言わず、弁護し、ヨナタンの事も気遣っている。
意思疎通の食い違いや、自分が受けた情報の食い違いで、いざこざに発展する事は、よくある。特に、いのちに関わる事において、せっぱつまっている時なら、なおさらだ。
しかし、ダビデはあくまで柔和に、平和に対応した。

柔和な人は、地を受け継ぐ幸いな人であり(マタイ5:5)、平和をつくる人は、神の子と呼ばれるのだ。(マタイ5:9)
ヨナタンも、その性質があった。

『ダビデはヨナタンに言った、「あすは、ついたちですから、わたしは王と一緒に食事をしなければなりません。しかしわたしを行かせて三日目の夕方まで、野原に隠れることを許してください。』(1サムエル記20:5)
民数記28:11-15によると、月のはじめの一日は、月ごとの例祭が定められており、ダビデは毎回、サウルの食卓に出席していたのだ。
それを利用して、サウルがダビデを殺す心づもりがあるかどうかを計ろうと、ダビデは提案している。
『もしあなたの父がわたしのことを尋ねられるならば、その時、言ってください、『ダビデはふるさとの町ベツレヘムへ急いで行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。そこで全家の年祭があるからです』。もし彼が「良し」と言われるなら、しもべは安全ですが、怒られるなら、わたしに害を加える決心でおられるのを知ってください。』(1サムエル記20:6-7)

『そしてヨナタンはダビデに言った、「イスラエルの神、主が、証人です。明日か明後日の今ごろ、わたしが父の心を探って、父がダビデに対して良いのを見ながら、人をつかわしてあなたに知らせないようなことをするでしょうか。しかし、もし父があなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたに知らせず、あなたを逃がして、安全に去らせないならば、主よ、どうぞ幾重にも、このヨナタンを罰してください。どうぞ主が父と共におられたように、あなたと共におられますように。』(1サムエル記20:12-13)
ヨナタンは、血の繋がった父よりも、血の繋がっていないダビデのほうを守った。

確かに父サウルが言う通り、ダビデを生かしておいたなら、ヨナタン自身の王位が危かっただろう。
それにも関わらず、彼は自分の王位よりもダビデをかくまう事のほうを、主の前で誓った。
なぜなら、主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも、神の国のことを優先させてしまうものだからである。
世の栄華は過ぎ去るが、神の国の栄光は、世の何者にも優れた、永遠のものだからである。

ヨナタンはさらに言う。
『 もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。どうぞ主がダビデの敵に、あだを返されるように」。』(1サムエル記20:14-16)

この時、状況的にダビデは、国家から追われるお尋ね者であり、王子ヨナタンに比べて圧倒的に弱い立場のはずである。
いのちの危険が迫っているのは、ダビデのほうで、ヨナタンのほうではなかったはずだ。
それなのに、あたかも、ヨナタンのほうが、ダビデに命乞いをしているかのようだ。

ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。
これからサウル家は没落し、ダビデが栄えると、たとえ今、いかに立場逆転していようとも。
なぜなら、ダビデこそ主の御旨を行っており、サウルこそ主の御旨を損ねているからだ。
これは、イエス様の十字架の場面と良く似ている。

十字架上で、ひとりの強盗はイエス様をなじり、もう一人の強盗は「御国の座につく時には、私を思い出して下さい」と、イエス様にお願いした。
状況的に見れば、もうあと数時間もすれば、イエス様も死ぬし自分も死ぬはずである。
それなのに、この強盗は、信仰によって知っていたのである。
イエス様は決して死を見る事なく、永遠の王座につく、という事を。それだから彼は、その日、イエス様とともにパラダイスに行く恵みにあずかったのだ。

信仰によって、自分の家を絶やさぬようダビデににお願いしたヨナタンも、実際、ダビデが王になってから、ヨナタンの家には慈しみが施された。
私達も、信仰によってイエス様にお願いするなら、実際、イエス様から永遠の慈しみが施されるのである。

『そしてヨナタンは重ねてダビデに誓わせた。彼を愛したからである。ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた。』(1サムエル記20:17)
主イエスにある兄弟姉妹こそ、血を分けた親子のつながりよりも、はるかに勝るつながりである。
『すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。』(マルコ3:33-35)

このように、ヨナタンはダビデに真実を尽くした。
私達も、主にある同じ兄弟姉妹に真実を尽くすべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:捕らえに来る人達が預言状態になる事で守られたダビデ(1サムエル記19:18-24):右クリックで保存

ミカルの助けによって何とか命拾いしたダビデは、サムエルの所へ逃れた。

彼はサウルにされた事を全てサムエルに告げ、そして彼の所にしばし住んだ。(1サムエル記19:18)
サムエルは、サウルが主の御言葉にそむいてアマレクを聖絶しなかった時以来、サウルに会わなかったが、あれ以来どんどん邪悪な性質に崩れていくサウルをどう見ていただろうか。

『ある人がサウルに「ダビデはラマのナヨテにいます」と告げたので、サウルは、ダビデを捕えるために、使者たちをつかわした。彼らは預言者の一群が預言していて、サムエルが、そのうちの、かしらとなって立っているのを見たが、その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。』(1サムエル記19:19-20)
サムエルは、ラマで、預言者たちを養成し、訓練していたのだろう。
面白い事に、ダビデを捕らえるためにサウルから遣わされた者達が、そこに行くと、彼らも預言し、そしてダビデを捕らえる事ができなかったようだ。
なぜだろう。

神の霊は、神の御前に何が正しく、何が正しくないのかを示す、知恵と啓示の霊である。
そもそも、ダビデは何も悪い事をしていないし、彼は主の御旨を果たす勇士として、主から大いに用いられている。
それに引き換えサウルは、主から油を注がれたにも関わらず、御旨に背き、主の言葉を軽んじる事を止めないばかりか、何も悪い事をしていないダビデを殺そうと、使者を遣わす。
サウルに従って、ダビデを追い回す事が、いかに愚かで、主の御胸を損ねているか。
それを示され、ダビデを追う事が、もはやできなくなったのではないだろうか。

『サウルは、このことを聞いて、他の使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。サウルは三たび使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。そこでサウルはみずからラマに行き、セクの大井戸に着いた時、問うて言った、「サムエルとダビデは、どこにおるか」。ひとりの人が答えた、「彼らはラマのナヨテにいます」。』(1サムエル記19:21-22)
遣わした使者が、2度ならず3度も預言するようになって、ダビデを追う事をやめている。
もう、明らかに、ダビデを追う事は御旨にかなっていない、と、主が示されているのに、サウルは今度は、自らダビデを捕らえに行く事にした。

主の御霊は、何をすべきか、そして、何をすべきでないかを、私達に告げる。
パウロの場合、第一次宣教旅行はアジアで成功したため、再びアジアに行こうとしたが、行く所行く所、御言葉を語る事を聖霊に禁じられ、リストラからトロアスまでのおよそ千キロ以上、霊的収穫も特に無いままさまよったが、トロアスに来て、ようやく御旨はマケドニアにある事が分かった。(使徒16:6-15)
宣教という良い事においても、また、殺人という悪い事においても、主の御霊は、その時その時人に示し、導きを与える。

サウルの場合、明らかにダビデを追うべきでないと示されたのに、彼は御旨に従う事より、自分のしたい事、すなわち、ダビデを殺したいという思いを、優先させてしまった。
主は、御霊によって導きや警告を与えられるが、それに従うかどうかは、最終的には人の自由意志に委ねられている。
御旨に従い続けるなら、「いのち」の良き実を刈り取るが、背き続けるなら、「死」という苦々しい実を刈り取ってしまう。
パウロは、御霊の導きに忠実に従ってマケドニア、すなわち、ヨーロッパ方面へ渡り、その方面の福音宣教の豊かな実りを得た。
その反対に、バラムは、主が阻止した道をさらに進み行って、その身は剣によって刺し貫かれてしまい、サウルもまた、御旨に背き続け、ついには自ら剣でその身を刺し貫くこととなってしまう。

『そこでサウルはそこからラマのナヨテに行ったが、神の霊はまた彼にも臨んで、彼はラマのナヨテに着くまで歩きながら預言した。そして彼もまた着物を脱いで、同じようにサムエルの前で預言し、一日一夜、裸で倒れ伏していた。人々が「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのはこのためである。』(1サムエル記19:23-22)
このようにダビデは、捕らえに来る人達が全て預言状態になる、という、実にユニークな方法で、主から守られた。
主は、主に寄り頼む聖徒を、悪しき者から守られる。

私達も、世にあっては患難がある。
主は、私達を世から取り除くように、とは祈られず、悪しき者から守られるように、と祈られた。
ダビデの患難の日々がしばし続いたように、私達もそのような日々が続くかもしれない。
しかし主は、その期間、私達を練り清め、将来主に大いに用いられるために素晴らしい訓練をしておられるのである。

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
ぶどう畑についての愛の歌(イザヤ5:1-17)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書5章を基に、神の愛とイスラエルの背信、そしてキリストの贖いについて語るメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書5:1-17、ヨハネ15章、ガラテヤ5:22-23

【戒めの言葉】

主が期待されたのに、イスラエルは酸いぶどうを実らせてしまいました。私たちも同じ過ちを犯さないよう気をつけましょう。

【励ましの言葉】

たとえ私たちが酸っぱい実を結んでしまっても、十字架上のキリストを仰ぎ見るなら救われます。

【悔い改めの促しの言葉】

私たちの酸っぱくなってしまった人生を主に差し出し、新しい始まりを与えていただきましょう。

【***詳細***】

今日、私たちが恵みをいただく御言葉はイザヤ書5章1節から17節までです。ここで主は、ぶどう畑をモチーフにしてイスラエルの人々にあることを知らせようとされます。

まず1-2節を読みます。

私は歌おう。その葡萄畑についての我が愛の唄を。我が愛する者は、よく越えた山腹に葡萄畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良い葡萄を植え、その中に矢倉を建て、酒船までも掘って、甘い葡萄のなるのを待ち望んでいた。ところが、酸い葡萄ができてしまった。

主は愛の心をもって、また喜びをもって、期待をもって、甘いぶどうのなるのを期待して、よく手入れしてぶどうを植えられましたが、しかし酸っぱいぶどうがなってしまって、主は悲しまれました。

愛という言葉は非常に私たちにも麗しく響くものですが、同時に愛の心は甘く麗しいのですが、同時に酸っぱくもなりやすいものです。自然界のぶどうは、しっかりと手入れして正しく用いれば甘いぶどう酒はできるはずですが、ここでできてしまったものは、しっかりと管理されて、いろんな手入れもされたにもかかわらず、自分の意思を持っているかのように酸っぱいぶどうになってしまいました。

7節で主ははっきりと言われます。「大和の葡萄畑はイスラエルの家であり」と。主はよく人々、また私たちをブドウに例えることをよくなさいます。例えば詩編128編や、ヨハネ15章で、「私は真のぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われています。

主は私たちが豊かな実を結ぶことを期待しておられます。ガラテヤ5章22-23節には、「しかし、御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらの実を私たちが結ばせるならば、本当に私たちは主に甘い実を祈らせて、主に喜ばれるのです。

しかし、主がよく手入れしたブドウ園、イスラエルが結んだものは、酸っぱい実でした。主はせっかく成してくださった良い業に対して酸っぱさを返したイスラエルに対して、3節以降で裁きを宣言されます。

私が我がブドウ畑に対してすることを告げよう。その垣を取り除いて、食い荒らされるままにし、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。私はこれを荒れ果てるままにしておく

親の愛を一心に受けて育つのですが、子供は親の愛がわからず親に対してひどいことをしたりします。子供が親の愛、そして親がどんなに偉大なことをして、どんなに自分のために骨を折っていろいろな苦労をしてくれたか分かるのは、親の元を離れた時です。

社会に出て、人々から虐げられたり、恥をかいたりすると、初めて「ああ、私の父母が私をこんなに愛してくれたのか」と気づくのです。神の愛も同じです。私たちが困難に直面したとき、初めて神の愛の大きさに気づくのです。

8節以降には、人々が主の愛に対していかに悪いことを返したかが記されています。例えば、貧しい人々から搾取し、自分たちだけが富を独占するような行為です。こういった行為に対して、主は11節で「ああ、朝早くから強い酒を追い求め、夜更かしをして、葡萄酒を煽っている者たち」と警告されます。

このような人々に対する裁きが13-14節に書かれています。「それゆえ、我が民は無知のゆえに捕らえ移される。その貴族は飢え、群衆は渇きに悩む。それゆえ、よみは欲望を大きくし、限りなく口を開く。彼らの栄華も、そのにぎわいも、そのどよめきも、その中で喜び騒ぐ者も、みなそこに落ち込む

しかし、こうした裁きを通して、人々は正しい道に立ち返るのです。高ぶる者は低くされ、低くされた者が高くされるのです。

そして、このメッセージの最も重要な点は、イエス・キリストの十字架です。イエスは十字架上で、酸っぱくなってしまった人間性、人が身勝手にして罪に罪を重ねて酸っぱい実りを実らせた、その人のあらゆる苦さ、酸っぱさ、営みを全部十字架の上で飲み尽くしてくださいました。

イエスが十字架上で「渇く」と言われたとき、人々は酸っぱいぶどう酒を差し出しました。イエスはそれを受け入れ、「完了した」と言われました。これは、人間のあらゆる酸っぱさ、あらゆる罪の営み、それを全部イエスが身代わりになって完済してくださったことを意味します。

【結論】

私たちの酸っぱくなってしまった人生を、十字架上のキリストに差し出しましょう。キリストは私たちの罪を赦し、新しい始まりを与えてくださいます。これからは、真のぶどうの木であるキリストにつながり、御霊の実を豊かに結ぶ者となりましょう。そうすることで、神と人を喜ばせる永遠の祝福の歩みが始まるのです。

礼拝説教メッセージ音声:ミカルとダビデ(1サムエル記19:11-17):右クリックで保存

ダビデが逃げた先は、自分の家だった。

その家は、父エッサイからのものではなくサウルから与えられたものであろう。
そこには、新妻でありサウルの娘であるミカルがいる。

『その夜、サウルはダビデの家に使者たちをつかわして見張りをさせ、朝になって彼を殺させようとした。しかしダビデの妻ミカルはダビデに言った、「もし今夜のうちに、あなたが自分の命を救わないならば、あすは殺されるでしょう」。そしてミカルがダビデを窓からつりおろしたので、彼は逃げ去った。ミカルは一つの「像(テラフィム)」をとって、寝床の上に横たえ、その頭にやぎの毛の網をかけ、着物をもってそれをおおった。』(1サムエル記19:11-13)
ミカルはダビデを愛していたので、父の殺意を汲むのではなく、ダビデを助け、逃し、寝床に服を着せた像(テラフィム)を置いて、人が寝ているかのように見せかけた。

テラフィムは、家族・子孫繁栄のご利益物として、あるいは家督権相続のしるしとして用いられる事もあった。
ミカルはテラフィムをカムフラージュとして手軽に使った所を見ると、崇拝対象としていなかったようだが、サウルから分与された家に、そのような物が置いてあった事自体、サウル家の信仰が伺える。
(ちなみに、サムエルがサウルを叱った言葉、「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しい」(1サムエル記15:23)の、「偶像礼拝の罪」は、直訳すれば「罪とテラフィム」となる。)

彼女はダビデを愛し、彼をかばった故に、サウル家が没落した後でも、ダビデの妻として生き残ったが、子は無かった。
ヤコブの妻ラケルも、このテラフィムがらみで災い多き人生だった。彼女は子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、その子孫繁栄がらみの災いを刈り取ってしまった。

ミカルは、ダビデを窓から吊り降ろして救った。
遊女ラハブも、神の民からの斥候をかくまって窓から吊り降ろして救ったが、ラハブとミカルの違いは、ミカルはその後、夫であり王であるダビデが、主の前で無邪気に楽しみ踊っているのを見下ろして、さげすんだ所だ。
カナン人であるラハブから、ボアズという信仰の立派な子が生まれて育ったのは、彼女がイスラエル人の夫・サルモンに従順に仕え、サルモンが施す律法教育に従順に従ったからだ。
キリスト者は、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時、神ではなきものは捨て去り、まことの夫、購い救ってくれたキリストに仕える事を、しなくてはならない。

ダビデは、今回のこの時の祈りを、詩篇59編にて記している。
『 聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの
わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。』(詩篇59:1-4)

ダビデは、いつでも主を頼りとした。
国家の最高権力者である王から、指名手配犯のように追われ、先行きが全く絶望であるかのように見えたかもしれないが、彼は全てを主に訴えた。
主は、主に助けを求める人を守られる。

『どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。』(1サムエル記59:11-13)
ダビデを追う者、苦しめる者の災いを彼は求めている。
彼は上っ面で祈るのではなく、そのようないらだちの心さえ主に隠し立てせずに、正直に、心のままを打ち明けている。
ダビデは、主を喜ぶ時も、ミカルにさげすまれる程に喜びの感情をあらわしたし、敵に追われる時も、心に湧き上がる思いを全部、主に打ち明けた。

そうして心の全てを、主に洗いざらい打ち明ける時、平安が来る。
実際、この詩篇の最後は、心からの賛美と、救いの確信で閉じられている。
『しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。』(詩篇59:15-17)

全能者なる主に、何もかもを打ち明ける時、平安が与えられ、そして罪や弱さは覆われ、きよく平和な心が与えられるのだ。
私達も、ダビデのように、主に隠し立てせず何もかも打ち明け、ダビデが詩篇を編纂したように、私達も主と共に歩んだ日々を、心に、あるいは書物に記し、主の良くして下さった事を何一つ忘れない者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:立てた約束を簡単に破ってしまう人の性質(1サムエル記19:1-10):右クリックで保存

『サウルはその子ヨナタンおよびすべての家来たちにダビデを殺すようにと言った。しかしサウルの子ヨナタンは深くダビデを愛していた。』(1サムエル記19:1)
サウルは今まで、ダビデを殺したいという思いを内密にしていたが、おおっぴらにするようになった。
このままダビデを生かし、彼の活躍をゆるしていたら、サウル家の存続にかかわる、と、息子ヨナタンや家来たちに煽ったのだろう。
サウルには、主がダビデを通してイスラエルを御旨を為そうとしておられる事より、自分の王座、自分の名声が保たれる事のほうが大事だったのだ。

ヨナタンは、ダビデを主にある信仰の兄弟として愛していたので、父をなだめるための和解の行動に出る。
『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。』(1サムエル記19:4)
ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺すという「罪」を犯さないで下さい、と、サウルの霊的自尊心を突いた。
このような、霊的自尊心を突く言葉は、「どうかダビデを殺さないで」という嘆願を何十回するより、あるいは「どうしてそんな事するのか」、と責めなじる言葉よりも、はるかに効果がある。

『彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」。』(1サムエル記19:5)
続いて、ダビデがイスラエルに対して為した明白な良き実績と、そしてサウルがそれを喜んだ、という事実を思い出させた。
そう、ダビデは命がけで戦ったのだ。千人隊の長になった時も、千人の部下の誰より先陣を切って敵陣へ切り込んでいったから、多くの「年上の部下」も喜んで彼についていったのだ。

実に素晴らしい「執り成し」である。

『サウルはヨナタンの言葉を聞きいれた。そしてサウルは誓った、「主は生きておられる。わたしは決して彼を殺さない」。ヨナタンはダビデを呼んでこれらのことをみなダビデに告げた。そしてヨナタンがダビデをサウルのもとに連れてきたので、ダビデは、もとのようにサウルの前にいた。』(1サムエル記19:6-7)
こうしてヨナタンは、サウルから、「ダビデを決して殺さない」という誓いを引き出し、和解のつとめは大成功に終わった。
それなのにサウルは、主(エホバ)の名によって自分で立てた誓いを、早速破ってしまう。

『ところがまた戦争がおこって、ダビデは出てペリシテびとと戦い、大いに彼らを殺したので、彼らはその前から逃げ去った。さてサウルが家にいて手にやりを持ってすわっていた時、主から来る悪霊がサウルに臨んだので、ダビデは琴をひいていたが、サウルはそのやりをもってダビデを壁に刺し通そうとした。しかし彼はサウルの前に身をかわしたので、やりは壁につきささった。そしてダビデは逃げ去った。』(1サムエル記19:8-10)
せっかくヨナタンが建て上げた尊い和解のわざを、サウルはいとも簡単にひっくり返してしまった。
神と人との前で誓った誓いを、いともあっさり破ってしまう。めちゃくちゃだ、と思うかもしれないが、悪霊に憑かれている者の行動は、そのように、支離滅裂なものである。
主に属する人は、和解のつとめを無し、いのちを建て上げるが、サタンに属する者はそれを破壊し、尊いものを踏みにじるのが、仕事である。
『聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。』(マタイ7:6)

サウルは、どのタイミングで、主からの悪い霊が入ったか。それは、ダビデがペリシテとの戦いで、大活躍したタイミングだ。
つまり、サウルに再び「嫉妬」「恐れ」「怒り」が沸き起こり、それを「エサ」として悪霊がおびき寄せられ、その侵入をゆるしてしまったのだろう。
私達も、心に空隙を残したまま悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっとたちの悪いもの七つが連れて来られ、以前よりもさらに悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)

ダビデははっきりとサウルの元にはいれないと認識し、これ以来、ダビデのサウルからの逃亡生活が始まる。
私達もサウルのようにならないように、悪霊の好む汚れた性質は放置しておかず、それをイエスキリストの名によって支配して追い出し、追い出されて出来たその空隙は、御言葉と感謝と賛美で満たしていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30):右クリックで保存

『その時サウルはダビデに言った、「わたしの長女メラブを、あなたに妻として与えよう。ただ、あなたはわたしのために勇ましく、主の戦いを戦いなさい」。サウルは「自分の手で彼を殺さないで、ペリシテびとの手で殺そう」と思ったからである。』(1サムエル記18:17)
サウルとしては、ダビデに「王の娘と結婚できる」という「褒美」をちらつかせて戦争に出させ、戦っている内に戦死させようと、目論んだのだろう。
サウルから二度も槍を投げつけられ、妬みの目で見られていたダビデには、彼のこの表面上きれいな言葉に、かなりの胡散臭さを感じたであろう。
しかし「王」という最高権威から言われる事については、どうしようもない。

『ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。』(1サムエル記18:18)
ダビデには、知恵があった。そして、自分という立場をわきまえていた。
彼は「主が油を注がれた王」が、いかに尊いものかを、サウル本人よりもわきまえており、後に彼は自分を付け狙うサウルを、いとも簡単に殺せるチャンスが2度訪れるのだが、2度とも、主に油注がれた王を殺す事は出来ないと、決して手を降さなかった。

『しかしサウルの娘メラブは、ダビデにとつぐべき時になって、メホラびとアデリエルに妻として与えられた。』(1サムエル記18:19)
サウルは、ダビデが中々罠にかかってくれないので、あきらめて、娘を他の男に嫁がせたのかもしれない。
このようにサウルは、ダビデに勧めた事を土壇場でキャンセルしておきながら、すぐにまた別の企みをする。

『サウルの娘ミカルはダビデを愛した。人々がそれをサウルに告げたとき、サウルはその事を喜んだ。サウルは「ミカルを彼に与えて、彼を欺く手だてとし、ペリシテびとの手で彼を殺そう」と思ったので、サウルはふたたびダビデに言った、「あなたを、きょう、わたしのむこにします」。そしてサウルは家来たちに命じた、「ひそかにダビデに言いなさい、『王はあなたが気に入り、王の家来たちも皆あなたを愛しています。それゆえ王のむこになりなさい』」。』(1サムエル記18:20-22)
サウルが娘の気持ちを喜んだのは、娘の幸せを思ってではなく、ダビデを殺す道具に使える、と思ったからだ。
彼は元から上の娘・下の娘の幸せを全く考えておらず、むしろ、妬ましいダビデが死ぬなら、娘が未亡人になってもかまわないのだ。

『そこでサウルの家来たちはこの言葉をダビデの耳に語ったので、ダビデは言った、「わたしのような貧しく、卑しい者が、王のむこになることは、あなたがたには、たやすいことと思われますか」。サウルの家来たちはサウルに、「ダビデはこう言った」と告げた。』(1サムエル記18:23-24)
サウルは、今度は直接ではなく、兵士たちの口を用いて、間接的にダビデに勧めたが、彼はまたも辞退した。そのような身分ではない、と。
どんな条件を要求をされるのか分かったものではないし、また、自分をわきまえていたからだ。
しかし、サウルの側から、結婚のための条件が提示される。

『サウルは言った、「あなたがたはダビデにこう言いなさい、『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる』」。これはサウルが、ダビデをペリシテびとの手によって倒そうと思ったからである。』(1サムエル記18:23-25)
陽の皮は、ユダヤ人が割礼の時に切り取られるべき部分である。
それを百枚、それも期限つきでそれを獲よ、とダビデを急かす事によって、ダビデは屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、とサウルは思ったのかもしれない。

しかし前章を見て分かる通り、ダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は、主にあって当然すぎる事だった。
『サウルの家来たちが、この言葉をダビデに告げた時、ダビデは王のむこになることを良しとした。そして定めた日がまだこないうちに、ダビデは従者をつれて、立って行き、ペリシテびと二百人を殺して、その陽の皮を携え帰り、王のむこになるために、それをことごとく王にささげた。そこでサウルは娘ミカルを彼に妻として与えた。』(1サムエル記18:26
ここまであざやかに条件を達成されてしまっては、何も文句は言えない。
サウルは一度、既に約束を破っている。
そして今回は、サウル自ら兵たちに噂を流させ、公に意図を伝えたのだから、人目を恐るサウルとしては、自分が約束した事を果たさざるをえない。

『しかしサウルは見て、主がダビデと共におられること、またイスラエルのすべての人がダビデを愛するのを知った時、サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した。さてペリシテびとの君たちが攻めてきたが、ダビデは、彼らが攻めてくるごとに、サウルのどの家来よりも多くのてがらを立てたので、その名はひじょうに尊敬された。』(1サムエル記18:28-30)
主は、主を愛する者を守り、その敵の企み通りにはなさらないのだ。

詩篇を読むと、サウルに関連した悩みがたくさん出てくるのが分かるが、その都度、ダビデは主に助けを求め、主から慰めを受け、主にあって奮い立ち、主から力を得ており、ダビデとしては、このサウルから学んだ事が非常に多い。
主は、サウルを用いてダビデを鍛えたのだ。
私達も、どうしてこんな人が目の前にいるのだろう、いなくなって欲しい、と思うような人がいるかもしれない。
しかしそのような時でも主に助けを求め、主を拠り所とするなら、主はやがてその人を高く挙げて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:罪を制さぬ者は悪霊に制せられる(1サムエル記18:1-16):右クリックで保存

『ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。この日、サウルはダビデを召しかかえて、父の家に帰らせなかった。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。』(1サムエル記18:1-4)

主にある信仰者は、信仰者の、信仰ある行動に惹きつけられて互いに意気投合し、血の繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるものである。キリスト者とは、そういうものだ。
教会は「キリストのからだ」で、同じキリストのいのちを共有しており、一つが尊ばれれば共に喜び、一つが傷つけば共に痛む。故に、教会では互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合うのだ。(1コリント12章)
ダビデの名は「愛されし者」だが、彼はヨナタンから愛されただけでなく、サウルの家来たちからも愛された。

『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(1サムエル記18:5)
ダビデはとても若いはずなのに、兵の隊長へと大抜擢された。
上司がかなり年下だと、うまく関係が築けなくなりやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は、戦いにおいて、いつも先頭に立って戦っていたからである。(13,16節)
彼が千人隊の長になっても、千人の部下より、誰よりも先んじて出て行き、いつも圧倒的な実績を収めていた。
だから誰もが認め、誰もが彼に安心してついて行けたのだ。

このように人々から愛され、人気者になると、妬む者も現れる。
彼を妬んだのは、イスラエルの王・サウルだった。
『人々が引き揚げてきた時、すなわちダビデが、かのペリシテびとを殺して帰った時、女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、/「サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した」。サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。サウルは、この日からのちダビデをうかがった。』(1サムエル記18:6-9)

サウルが、ダビデを見る目が変わってしまったきっかけは、女性たちの、ダビデを褒めたたえる歌だった。
サウルは身長が高く、美男子だったので、ペリシテとの戦いで勝利する度に、女性達からの声援も、たくさん受けた事だろう。
しかしこの度、サウルよりもダビデのほうに、より大きな評価が集まっているという事で、彼を憎んだ。
妬み、怒り、独占欲、そうした悪い心を、取り扱わないまま放置しているなら、悪魔サタンにエサを蒔いて「来てください」と言っているようなものである。

『次の日、神から来る悪霊がサウルにはげしく臨んで、サウルが家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」ので、ダビデは、いつものように、手で琴をひいた。その時、サウルの手にやりがあったので、サウルは「ダビデを壁に刺し通そう」と思って、そのやりをふり上げた。しかしダビデは二度身をかわしてサウルを避けた。』(1サムエル記18:10-11)
サウルは、悪い霊が激しく望んで「預言した」。ここで分かるように、預言すれば何でも良いというものではない。
預言できる人が、必ずしも、霊的に正しいとは限らないため、その、預言をさせている霊を確かめるべきだ。
御霊の実には、妬みや嫉妬、怒り、独占欲、殺意なぞ、無い。もし、皆さんの周りに霊的な人、預言の人、奇跡をする人がいて、ガラテヤ5:19-21でリストアップされているような、死に属する行動を取るなら、すみやかに離れたほうが良い。

戸口で待ち伏せている罪を治める事をせず、放置しているなら、さらに悪い事になり、さらに罪を犯す事になってしまう。
『日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。』(創世記4:3-7)

カインもサウルも、自分より下の者が、神様から愛され認められる事で、妬みを起こし、殺人の行動を取った。
主はなぜアベルを認め、またダビデを認めたのか。
それは、彼らが主を愛し、主に優れたものを捧げたからであって、彼らは別に誰かに認められたいとか、昇進したいとかいう下心は、一切なかった。

ダビデはますます手柄を立て、ますます人々から愛され、その事は、サウルをますます恐れた。
妬み、嫉妬、殺意、恐れ。それは皆、ガラテヤ5:19-21に記されている、肉の実である。

私達は、罪が戸口で慕っていると感じた時、それを主イエスの名によって、とりこにし、治めるべきだ。
それをしないなら、殺意が芽生え、それを放置する、あるいは殺意を思い巡らしていくなら、実際に、殺しをするのである。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。』(ヤコブ4:1-3)

私達は決して肉の欲望を満足させず、御霊にあって歩み、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を豊かに結ばせる者でありたい。(ガラテヤ5:22-23)

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
7人の女にすがりつかれる男とは(イザヤ4章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書4章1-6節を基に、真の夫であるイエス・キリストへの信頼と、それ以外のものを頼りにすることの愚かさについて語られたメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書4:1-6、イザヤ書11:1-5、黙示録7章

【戒めの言葉】

主以外のものを頼りにすることの愚かさと、その結果もたらされる災いについて警告しています。

【励ましの言葉】

真の夫であるイエス・キリストだけを頼りにし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。

【***詳細***】

今日のメッセージは、イザヤ書4章1-6節を中心に展開されています。この箇所は、イスラエルの民が主を離れ、偶像や世俗的なものを頼りにしたことによって引き起こされた災いと、そこからの回復の預言を含んでいます。

まず、1節で描かれている「七人の女が一人の男にすがりつく」という状況は、バビロン捕囚時代に実際に起こったことを反映しています。戦争によって多くの男性が死亡し、捕囚となったため、女性たちが結婚相手を見つけられない状況に陥ったのです。しかし、この預言は単に歴史的な出来事を語るだけでなく、私たちにも適用される霊的な真理を含んでいます。

説教者は、この状況を現代の私たちの生活に当てはめ、主以外のものを「夫」として頼りにすることの愚かさを指摘しています。お金、地位、名誉、美しさなど、世俗的なものを頼りにする生き方は、結局のところ空しく、災いをもたらすのです。

そういった頼りにならないものに対して主、子自身は証をするんですね。これはこのように頼りにならないよ。あなたが頼りにした権威、力をどうやって地に落ちていくのか見てみなさい。

一方で、2節以降に描かれている「主の若枝」は、メシア、すなわちイエス・キリストを指しています。イザヤ書11章1-5節を引用しながら、説教者はこの「若枝」がイエス・キリストであることを明確にしています。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊が留まる。」(イザヤ11:1-2a)

イエス・キリストこそが、私たちの真の夫であり、頼るべき唯一の存在です。4-6節では、主が私たちを清め、守り、祝福してくださることが描かれています。

主はシオンの山のすべての場所、その会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それは、すべての栄光の上に大幕となり、かつ天幕となり、昼は暑さを避ける影となり、嵐と雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(イザヤ4:5-6)

この描写は、黙示録7章に描かれている天の光景とも呼応しています。説教者は、黙示録7章14-17節を引用し、イエス・キリストが私たちの真の守り主であることを強調しています。

御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」(黙示録7:15b-16)

最後に、説教者は聴衆に対して、イエス・キリストだけを頼りとし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。

どうか皆さん、このイザヤ書3章の愚かな夫、愚かな女、この二の鉄を踏むことなく、本当に誠の夫であるイエス様だけを頼りとして、本当にイエス様ご自身が皆さんの覆いとなって、幕屋となって、守って、その幸いにいつまでも預かる皆さんでありますように。

【結論】

私たちは、この世のはかないものではなく、真の夫であるイエス・キリストだけを頼りとして生きるべきです。イエス・キリストは私たちを清め、守り、祝福してくださる唯一の存在です。この真理に立ち返り、主との親密な関係の中で生きることが、真の幸いと祝福への道なのです。

礼拝説教メッセージ音声:ゴリヤテを討ち取ったダビデ(1サムエル記17:48-58):右クリックで保存

『そのペリシテびとが立ち上がり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。』(1サムエル記17:48)

ダビデとゴリヤテの、一騎打ちの火蓋が切って落とされた。
と言っても、体格差は倍以上、ダビデは装備らしきものを一切身に付けていない少年である。
人々には、一騎打ちというより、一方的な殺戮ゲームとして見えただろうし、ペリシテ人たちもゴリヤテに便乗して野次っていただろう。
しかし、戦いは一瞬で片がついた。

『ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。』(1サムエル記17:49)ダビデは最初の一投目でゴリヤテの急所、こめかみに石をめり込ませ、ゴリヤテは倒れた。
野次っていたペリシテ人達は、一瞬何が起こったのか分からず、凍りついただろう。

『こうしてダビデは石投げと石をもってペリシテびとに勝ち、ペリシテびとを撃って、これを殺した。ダビデの手につるぎがなかったので、ダビデは走りよってペリシテびとの上に乗り、そのつるぎを取って、さやから抜きはなし、それをもって彼を殺し、その首をはねた。』(1サムエル記17:50-51)
人の目には、ゴリヤテの一方的な殺戮ゲームに見えたかもしれないが、全く逆だった。
ダビデは、群衆が状況を把握する間も与えず、ゴリヤテにとどめを刺した。

私達も、状況が少し改善したのに満足して、それで手を休めてはならない。
私達の内の、滅ぼし尽くすべき性質は徹底的に根絶し、やり遂げるべき事は最後までやり遂げなくては、後々、やっかいな事になってしまう。

『ペリシテの人々は、その勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ちあがり、ときをあげて、ペリシテびとを追撃し、ガテおよびエクロンの門にまで及んだ。そのためペリシテびとの負傷者は、シャライムからガテおよびエクロンに行く道の上に倒れた。イスラエルの人々はペリシテびとの追撃を終えて帰り、その陣営を略奪した。ダビデは、あのペリシテびとの首を取ってエルサレムへ持って行ったが、その武器は自分の天幕に置いた。』(1サムエル記17:51-54)
イスラエル人達は、ゴリヤテの言う通りにペリシテ人を奴隷としたのではなく、ダビデが宣言した通りに、ペリシテの軍勢を撃ち殺した。
ダビデは戦いの前、『きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。』(46節)と言っていたが、まったくその通りになり、こうして全集団は、イスラエルに神がおられるという事を思い知った。

イエス様も、福音書で何度も言っている。
「あなたが信じたとおりになれ」と。

『サウルはダビデがあのペリシテびとに向かって出ていくのを見て、軍の長アブネルに言った、「アブネルよ、この若者はだれの子か」。アブネルは言った、「王よ、あなたのいのちにかけて誓います。わたしは知らないのです」。王は言った、「この若者がだれの子か、尋ねてみよ」。』(1サムエル記17:55-56)
サウルは前章で、二度も、ダビデの父・エッサイに人を遣わしているのに、ダビデが誰の子かを忘れている。
しかも「この若者は」と聞いていた所を見ると、ダビデの名前すら、忘れていたのかもしれない。

サウルが悪い霊に悩まされる度に、ダビデの竪琴で癒やされていた、というのに、その癒してくれた人の名前も忘れてしまう。
このような、感謝するべき事はすぐ忘れ、それでいて人を攻撃する材料はすぐ見つけるような者は、同じ過ちを何度も繰り返し、災いが絶えない。

この出来事で、イスラエルの子供たちに、自分もダビデに続けと石投げのコントロールを鍛えるブームが起こったかどうかは、分からないが、石投げのコントロールなどを鍛えるより、神に愛される品性をこそ、鍛えるべきなのだ。
『からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。』(1テモテ4:8)
ダビデは、羊飼いとしての日常の内に、御言葉に聞き従う事と、主に信頼する信仰が培われた。
だから、まだ誰からも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれ、羊達をライオンや熊から守り、そして、弱冠にしてイスラエルをゴリヤテから守ったのだ。
私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭、その先々で、主と主のことばに忠実に仕え、守るべき羊達を守るべきだ。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest