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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
全ての高ぶりは低くされ、主が高められる(イザヤ2:1-22)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書2章に基づき、終わりの日における主の山の高められることと、人間の高ぶりが低くされることについての説教。
【聖書箇所】
イザヤ書2章1-22節
【励ましの言葉】
主の光に歩み、主の道を求めることで、平和と祝福が与えられる。
【戒めの言葉】
金銀や武力、人間の力に頼るのではなく、主のみを高く仰ぐべきである。
【悔い改めの促しの言葉】
高ぶりを捨て、主の御顔の輝きを求めるよう促している。
【***詳細***】
イザヤ書2章は、ユダとエルサレムについての預言で始まります。「終わりの日」に起こることとして、主の家が山々の頂に堅く立てられ、すべての国々がそこに流れ来ると預言されています。
この「終わりの日」は、使徒ヨハネが「今は終わりの時である」(ヨハネの手紙第一2:18)と言ったように、既に私たちの時代にも適用されます。つまり、イザヤの預言は今日の私たちにも関係しているのです。
主の山に上り、主の道を学ぼうとする人々の姿が描かれていますが、これは今日の教会に集う私たちの姿でもあります。主の言葉を求めて集まる私たちは、まさにこの預言の成就の一部なのです。
さらに、主の言葉が広まるところには平和がもたらされると言われています。「彼らは、その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し。国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2:4)これは、福音によって人々の心が変えられ、争いをやめ平和を求めるようになることを示しています。
しかし、イスラエルの民に対しては厳しい言葉が続きます。彼らは主の道を捨て、世俗的な力や富に頼るようになったためです。「その国は、金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は、馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は、偽りの神々で満ち、彼らは自分の手で作ったもの、指で作ったものを拝んでいる。」(イザヤ2:7-8)
このような世俗的なものに頼る者たちは、主によって低くされると預言されています。「その日には高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主お一人だけが高められる。」(イザヤ2:11)
主が襲いかかるものとして、自然の偉大さを表す「レバノンの杉」や「バシャンの樫」、人工的な防御を表す「高い山々」や「そびえる峰々」、「そそり立つ塔」や「堅固な城壁」、そして商業の力を表す「タルシシュのすべての船」や「すべての美しい船」が挙げられています。これらは人間が誇りとするものの象徴です。
しかし、主が立ち上がって地を震わせられるとき、人々は恐れおののき、岩の洞穴や地の穴に隠れようとします。彼らは自分たちが作った偶像さえも捨て去ります。「その日、人は拝むために作った銀の偽りの神々と、金の偽りの神々を、もぐらやこうもりに投げやる。」(イザヤ2:20)
最後に、イザヤは「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんなものに何の値打ちがあろうか。」(イザヤ2:22)と警告しています。これは人間の力の儚さを指摘し、ただ主のみを頼りとすべきことを強調しているのです。
この預言は、私たちに重要な教訓を与えています。私たちも時に、富や力、人間の知恵などに頼ろうとする誘惑に陥ります。しかし、それらは最終的には無力であり、むしろ主の御顔の輝きを避けさせる原因となります。
私たちは instead、主の光を慕い求めるべきです。「さあ、ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」(イザヤ2:5)という呼びかけに応えましょう。主の御顔の輝きの中に留まり、主の言葉に聴き従う者となりましょう。そうすれば、かつて人を傷つける道具であった私たちの言動が、御霊の実を結ぶ道具へと変えられていくのです。
【結論】
高ぶる心を捨て、主の光の中を歩むことで、真の平和と祝福を得ることができる。人間や世俗的なものではなく、ただ主のみを頼りとすべきである。
礼拝説教メッセージ音声:サウルの暴走と主の見事な采配(1サムエル記14:36-52):右クリックで保存
『サウルは言った、「われわれは夜のうちにペリシテびとを追って下り、夜明けまで彼らをかすめて、ひとりも残らぬようにしよう」。人々は言った、「良いと思われることを、なんでもしてください」。しかし祭司は言った、「われわれは、ここで、神に尋ねましょう」。』(1サムエル記14:36)
サウルは、あまりに御声に聞こうとせず、次から次へと何かしようとするので、祭司は、呼びかけたのだろう。
サウルには「御心を大事にしている」というアピールも大事なので、「神に尋ねましょう」という提案に従う。
『そこでサウルは神に伺った、「わたしはペリシテびとを追って下るべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡されるでしょうか」。しかし神はその日は答えられなかった。』(1サムエル記14:37)
主から何も答えがない。
そのように、主からの答えが無いような時は、自分の中に、神との隔ての壁となっているような罪や不義がないかを、真っ先にチェックすべきである。
次のように書いてあるからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ59:1-2)
『そこでサウルは言った、「民の長たちよ、みなこの所に近よりなさい。あなたがたは、よく見きわめて、きょうのこの罪が起きたわけを知らなければならない。イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それがわたしの子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない」。しかし民のうちにはひとりも、これに答えるものがいなかった。』(1サムエル記14:38-39)
サウルは、自分が神に求めても、何も答えて下さらない「罪」の原因者は、たとえ、自分の子であろうと赦さない、という意気込みを見せた。
しかし、「たといそれが”わたし”であっても、”わたし”は必ず死ななければならない」とは言わず、今回の大勝利の最大の功労者・ヨナタンであっても、と言った所がミソである。
結局彼は、「罪」の原因を、自分ではなく、他人に求めているのだ。
彼の言動は、主に「熱心」であるかのような素振りではあるが、どうも”ちぐはぐ感”を否めない。
彼は、自ら御心を求めようとせず、祭司に勧められてから、やっと御心を求めた程だから、自分の大切な息子よりも神様のほうが大事だ、などという気が無いのは、明らかである。
(むしろ、最大功労者ヨナタンを、実は死に追いやりたいのではないか、と思える程に、ヨナタンの名をしきりに出している。)
サウルのやり方は、自分の命令を守らない者は、たとえ自分の子であろうとも死を免れない、という、恐怖政治である。
だから人々は凍りついた。
極端な言動をして、場の雰囲気を凍りつかせる人はいるが、サウルは神を黙らせ、また人を黙らせてしまった。
『サウルはイスラエルのすべての人に言った、「あなたがたは向こう側にいなさい。わたしとわたしの子ヨナタンはこちら側にいましょう」。』(1サムエル記14:40)
結局、御心を示すくじは、ヨナタンに当たった。
『サウルはヨナタンに言った、「あなたがしたことを、わたしに言いなさい」。ヨナタンは言った、「わたしは確かに手にあったつえの先に少しばかりの蜜をつけて、なめました。わたしはここにいます。死は覚悟しています」。サウルは言った、「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」。』(1サムエル記14:43-45)
ヨナタンは、自分の死を認めた。
まがりなりにも、油注がれた王の定めた誓いを、知らなかったとは言え、破ってしまったのだから、自分は死んで仕方がなし、と。
そして父は、ヨナタンが死なないなら、神が幾重にも自分を罰して下さるように、と、答えた。
この独特の表現、**しないなら、神が幾重にも自分を罰して下さるように、という言い方は、主に誓う時の言い方である。
なぜこんな事になってしまうのか、と、私達は思う。
しかし、後の結果を見るに、主の采配の仕方は見事としか言いようがない、と思える。
サウルは、誰かが犯した「罪」の故に、他人を死へと追いやろうとしたが、そもそも、サウルがサムエルを待てず、分を超えていけにえを勝手に捧げてしまった「罪」の故に、主の示しが与えられなくなってしまってはいなかったか。
そもそも、サウルと民が、ペリシテを前にただ怯えるしか無かったのは、彼のせいではなかったか。
そこをヨナタンが、サウルの不信仰とは一切関係なしに、主の救いを信じて行動し、その結果、サウルをはじめイスラエルに救いをもたらしたのではなかったか。
自ら勝手に定めた色々の取り決めによって、一番の恩人、一番死刑にしてはならない人を、死刑に導いてしまう。この性質は、パリサイ人の性質である。
パリサイ人の性質は、御言葉を曲解し、沢山の「しろ」「してはならない」でがんじがらめにして、自分はそれらを守っているようで守らず、神の国に入ろうとしないばかりか、人々をも入らせようとせず、肝心の愛と憐れみをおろそかにしている。
しかし主は、サウルもヨナタンも、誰も死なせる事なく、ヨナタンは人々の口によって弁護された。
『その時、民はサウルに言った、「イスラエルのうちにこの大いなる勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。決してそうではありません。主は生きておられます。ヨナタンの髪の毛一すじも地に落してはなりません。彼は神と共にきょう働いたのです」。こうして民はヨナタンを救ったので彼は死を免れた。』(1サムエル記14:45)
主はアブラハムに、イサクをほふって捧げるよう命じた時、別の身代わりの羊を備えて、死ぬべきイサクの身代わりとさせて下さった。
イサクが両手両足をおとなしく縛られ、父アブラハムが刀を振り下ろそうとした時、イサクは確かに、神の目にも、アブラハムの目にも、死んだのだ。
しかし、彼らの覚悟と、その行動の故に、神は彼らを弁護して下さり、イサクを死から救って、生かして下さった。
同じようにヨナタンも、死を覚悟し、また、父がヨナタンの死を宣誓した時、ヨナタンは、人々の口によって弁護され、死から救われたのだ。
サウルは人々の目を非常に気にするので、みんなに言われては、そうするしかなかった。
彼は「主が幾重にも罰してくださるように」とまで言った誓いを、いとも簡単にひるがえし、ヨナタンを死なせなかった。
こんなにもコロコロと、主との取り決めを翻してしまうサウル。
なぜ「罪あり」を示すくじは、サウルではなく、ヨナタンに示されたのだろう。
それはやはり、主の采配である。
サウルは、曲がりなりにも、主に油注がれた王である。
主に油注がれた王であるからには、主からの憐れみも、注がれている。
結局主は、サウル自身の愚かな言葉によって、サウル自身を滅ぼさせる事なく、また、義人ヨナタンも殺される事なく、誰も死ぬ事がないようにして下さった。
罪と背きにまみれた者が、本来、死のくじが当てられるはずの所を、それを逃れ、その代わり、罪がなく、神の民に救いをもたらした「子」に、死の宣告がくだされる。
これはまさしく、キリストを示している。
本来、私達こそ、サウルのように主に背き、御言葉をないがしろにし、死が宣告されるべき者であった。
しかし、神の御子、キリストが身代わりとなって、死に定められた。
キリストはひと度、罪の身代わりとなって死なれたが、父なる神様は彼を復活させ、永遠に生きる者とし、そして、彼を信じる者は誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちが与えられるのである。
そして、キリストを信じる私達は生かされ、王族の祭司職があたえられた。
なんという素晴らしい恵みと特権だろうか。
しかし、この素晴らしい恵みと特権をないがしろにし、恵みと赦し下さった主に背き続けるなら、与えられている特権は、やがて剥奪されてしまう。
サウルは、主の憐れみのゆえに救われたという事を、恩にも感じず、御声に背く事を続けるが故に、やがて王権が剥奪されてしまう。
私達は、主にしていただいた恩を決して忘れてはならない。
ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-3-19 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35):右クリックで保存
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵(mine enemies)にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(1サムエル記14:24)
主の敵を滅ぼす、という誓いならともかく、サウルは「わたしの敵」(mine enemies)に復讐する事を強要するため、夕方まで民に断食を強要した。
誓う事は霊的な意思表示であるが(民数記30章)、彼は一見、その霊的な事をしはしても、その動機は結局、自己中心である。
彼は、御心を求めてから途中でそれを止めさせたり、サムエルを待てなかったくせに人々には食べるのを待つよう強要したりしたりと、ちぐはぐで、芯の無い行動をしている。
それは結局、人々に信仰的だと思わせる動機でしているから、人々の賛同如何で、ころころ変わってしまうような、ちぐはぐで芯の無い行動となってしまうのだ。
彼のような、外見は”信仰的”でも、心は人受けする事を第一とするような指導者の下にいる人は、サウルの部下達のように、振り回されっぱなしである。
『ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。』(1サムエル記14:25-27)
ヨナタンは、サウルが立てさせた誓いを知らなかったので、何の良心のとがめも、悪意もなく、蜜を味わった。
『その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。』(1サムエル記14:28-30)
このような、いらぬ「せよ」「してはならない」の命令を、神の名の元に乱発し、群れ全体の仕事効率を低下させたり、聖徒達を苦しめたりする霊的指導者は、いつの時代でも、いるが、彼らは、主の御心を行う事が第一ではなく、主の御名を借りて、人々に自分の好む事を押し付けたいに過ぎない。
主にある指導者が、主にあって正当に支配しているかどうかの指標は、御霊の実を実らせているかいないかという事、そして、そこに自由があるかないか、である。
『主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。』(2コリント3:17)
ヨナタンの言葉には、自由があるが、サウルの言葉には、自由が見られない。
以下、見比べて見ると、よく分かる。
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル記14:6-7)
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(同24節)
もちろん、自由とは、好き勝手に欲望のおもむくまま、ではなく、御霊にある自由であり、そこには愛、喜び、誠実、自制などの、御霊の実が結ばされているものである。
御霊が働かれる所には、自由がある。
しかし、人の押し付けには自由は無く、行動の制限と束縛感があり、そして束縛がきつ過ぎると、人に罪を犯させてしまう。
『その日イスラエルびとは、ペリシテびとを撃って、ミクマシからアヤロンに及んだ。そして民は、ひじょうに疲れたので、ぶんどり物に、はせかかって、羊、牛、子牛を取って、それを地の上に殺し、血のままでそれを食べた。』(1サムエル記14:31-32)
血のあるままで肉を食べる事、これは、律法では禁じられている事であるが、人々にその罪を犯させる「とっかかり」を作ったのは、サウルだった。
『またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。だれでもすべて血を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:26-27)
もしサウルが、あくまで律法を徹底するとしたら、血のまま食べた人々を、民の内から絶たなければならないはずだが、それはしなかった。
そして、別の「ある事」を徹底させ、さらに「とんちんかん」を増し加えて行く事になる。
礼拝説教メッセージ音声:霊的優先順位を外したサウル(1サムエル記14:16-23):右クリックで保存
『ベニヤミンのギベアにいたサウルの番兵たちが見ると、ペリシテびとの群衆はくずれて右往左往していた。』(1サムエル記14:16)
ペリシテの中に、神からの恐れが入り、陣営は大混乱に陥った。そのとっかかりを作ったのは、ヨナタンと道具持ちの二人である。
主は、彼らの信仰に基づいた行動を、大いに用いられたのだ。
主は、ご自分の心に適う者、御声に聞き従い、それを、守り行う人を求められる。
サウルはひと度、それに失敗したが、主は、一人の代表者の不信仰によって神の民全体を見捨てる事をせず、その中の一人の信仰者の行動を汲み取ってそれを用い、イスラエル全体に救いをもたらされる。
『その時サウルは、共にいる民に言った、「人数を調べて、われわれのうちのだれが出て行ったかを見よ」。人数を調べたところ、ヨナタンとその武器を執る者とがそこにいなかった。サウルはアヒヤに言った、「エポデをここに持ってきなさい」。その時、アヒヤはイスラエルの人々の前でエポデを身に着けていたからである。サウルが祭司に語っている間にも、ペリシテびとの陣営の騒ぎはますます大きくなったので、サウルは祭司に言った、「手を引きなさい」。』(1サムエル記14:17-19)
サウルが、敵の状況が変わったのを見て起こした行動は、実に、霊的優先順位を外したものである点に、私達は着目すべきである。
彼が真っ先に求めたのは、「誰がこの事をしたのか?」であり、騒乱している敵を前に、自軍600人の人員点呼を取らせるという行動に出た。
物事が有利に起こった時、あるいは不利になった時、真っ先に「それは誰か」を探る事は、ナンセンスである。
サウルは、人を見た。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
この後もサウルは「御心が示されなくなってしまったのは、誰のせいか」を追求し、そうして最大の功労者であるヨナタンの命を、落とそうとしてしまう。
社会や政治の場において、何か危急の事が起きた時、一刻も早く対処するではなく「誰彼追求」をして、かえって物事を悪くしてしまうような人がいるが、私達はそうした「誰彼追求」を、霊的現場において、していないだろうか。それはサウルの、失敗する道である。
サウルがそうして人員を調べさせた結果、出て行ったのは、ヨナタンと道具持ちである事が分かった。
それで、彼が次に彼が行った事は、ヨナタンを助けに行くではなく、この機に乗じて奇襲を仕掛けに行くでもなく、祭司にエポデ(主の御心を伺うための道具)を持って来させ、このまま攻めに行くべきか、行かないべきかを伺う事だった。
サウルは、祭司がずっと一緒にいた、にもかかわらず、御心を伺う事をしたのは、もしかしたらここが初めてだったのかもしれない。
あるいは、御心を求めても何の答えも無かったか、それとも、答えはあっても、その通り行動していなかったかであろう。
なぜなら、もし御心を伺ってその通り行動していたとしたなら、何も、ヨナタンに先んじられる事なく、サウルはもっと別の有益な結果を残していたであろうから。
サウルが御心を求めている間、敵陣の混乱はますます大きくなったので、サウルは祭司に「手を引きなさい」と遮り、戦いの場へと急行した。
さて、サウルがした事を順番に並べると、一番最初は「これは誰のせいか」を求めた事、次に、御心を伺わせた事、しかし、状況が変わったのを見て途中で止めさせ、ようやく戦場へと駆けつけた事だった。
全くもって、優先順位が逆である。
ヨナタンには、御心を伺う祭司が、一緒にいただろうか? 彼は祭司なしに自分の信仰だけで出て行った。
彼は、敵が右往左往しているのを見てから戦場へ出て行っただろうか? いや、彼は戦況が圧倒的不利な状態で、敵前へと出て行ったのだ。
彼は、人を求めただろうか。いや、彼には、自分と信仰の行動を共にする人一人さええれば、道具持ちの若者一人で充分だった。
ヨナタンは主に伺う以前に、主が何かをして下さるだろう、という信仰と期待だけを握り締めて、行ったのだ。
彼の信仰と期待はそれだけ確信があったが、私達は、信仰に自信が無い時は当然、主に伺うべきである。
しかし、サウルのように、御心を伺っている最中にそれを差し止めたり、御心が与えられるのが「待ちきれず」に行動を起こしてしまうのは、失敗の道である。
『こうしてサウルおよび共にいる民は皆、集まって戦いに出た。ペリシテびとはつるぎをもって同志打ちしたので、非常に大きな混乱となった。また先にペリシテびとと共にいて、彼らと共に陣営にきていたヘブルびとたちも、翻ってサウルおよびヨナタンと共にいるイスラエルびとにつくようになった。またエフライムの山地に身を隠していたイスラエルびとたちも皆、ペリシテびとが逃げると聞いて、彼らもまた戦いに出て、それを追撃した。こうして主はその日イスラエルを救われた。』(1サムエル記14:20-23)
結局、この戦いは、ヨナタンの信仰の行いの、一人勝ちであった。
私達も、ヨナタンのように、信仰によって行動するなら、遣わされている仕事場において、戦いの場において、そしてこの日本において、勝利のきっかけの重要パーソンとなれるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰の二人は万を打つ(1サムエル記14:6-15):右クリックで保存
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル14:6-7)
ヨナタンは、主が何かをして下さると期待して、出て行った。
主が御業をなされる上では、人の頭数の多さより、むしろ、その集まりの、主を信頼する純粋さこそが、重要な鍵となる。
不信仰な人間の頭数の多さは、逆に邪魔だ。
実際主は、エジプトを出た男子六十万全部を約束の地へ導き入れたのではなく、純粋な信仰を保ったヨシュアとカレブの二人だけを入れたし、また、ギデオンの時は32000人を、主は「多すぎる」として、300人へと絞った。
集いの中に、不信仰の者が混ざると、信仰者の足を引っ張る。
だからヨナタンは、祭司を呼び寄せても何もしない父サウルや、サウルと一緒にただ震えて待っているだけの人々には何も告げずに、出て行ったのだ。
『こうしてふたりはペリシテびとの先陣に、その身を現したので、ペリシテびとは言った、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」。先陣の人々はヨナタンと、その武器を執る者に叫んで言った、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」。ヨナタンは、その武器を執る者に言った、「わたしのあとについて上ってきなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」。』(1サムエル記14:11-12)
大軍の敵を前に、姿を現した若者二人。
信仰なき者達には、命知らずの自殺行為であろうが、ヨナタンにとってはたとえ二人であろうと、イスラエルを代表した戦いであり、そして、敵の嘲りの言葉は、彼には「主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」という勝利のしるしだった。
『そしてヨナタンはよじ登り、武器を執る者もそのあとについて登った。ペリシテびとはヨナタンの前に倒れた。武器を執る者も、あとについていってペリシテびとを殺した。ヨナタンとその武器を執る者とが、手始めに殺したものは、おおよそ二十人であって、このことは一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分の内で行われた。』(1サムエル記14:13-14)
岩をよじ登って来る者を迎え撃つ。それは、赤子の首をひねるよりも簡単と思われるが、どういう戦いが展開されたのか、なんと、よじ登っていったヨナタンのほうが、ペリシテを二十人も打ったのだ。
「一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分」、それは英語聖書では半エーカー、すなわちおよそ60mx30mほどの場所である。
ちなみに、ギリシャ語「エーカー」は「くびき」を意味する言葉で、ひとくびきの牛が一日間で耕すことが可能な土地の広さを一エーカーとして定めたとされている。
『そして陣営にいる者、野にいるもの、およびすべての民は恐怖に襲われ、先陣のもの、および略奪隊までも、恐れおののいた。また地は震い動き、非常に大きな恐怖となった。』(1サムエル記14:15)
こうして、たった二人の信仰ある者の行動が、ペリシテの陣営全体を、震えおののかせた。
また、地は震い動き(the earth quaked)、非常に大きな恐怖(原文では、神(エローヒム)の恐れ)が沸き起こった。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。』(1ペテロ2:4-6)
岩なる主は、寄り頼む者には、決して揺るがされる事の無い救いである。
しかし、寄り頼まない者には、全く逆の作用を及ぼす。
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。』(同7-8節)
主イエス・キリストという救いの岩に信頼を置く私達には、次の特権が与えられている。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(同9-10節)
主を信頼する私達は、選ばれた種族、王のような祭司、聖なる国民、神の民であり、あわれみを受けた者となっているのだ。
神の国、すなわち「神の支配領域」は、神の子が、神の御言葉を信じて、その通り行動する所に、現れる。
そしてそこは、物理法則さえ凌駕する神の力、神の業がなされる。ヨシュアが祈りで地球の自転を停止させたように、エリヤとやもめのパンが尽きなかったように、また、ペテロが少しの間だが水の上を歩いたように。
皆さんの家、職場、行く先々は、神の国となっているだろうか。
私達が、御言葉に信頼して行動するなら、そこは、神の支配が行き届く所となるのだ。
神の国は、神の子とされた者が、神のことばを信頼し、行使する所に現れる。
行く先々において、神の国を興し、闇を光に、死をいのちに塗りつぶして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章21-31節を基に、イスラエルの堕落と主の裁き、そして悔い改めと贖いについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:21-31
【戒めの言葉】
教会に通いながら罪を悔い改めず、同じ罪を繰り返す者は、不純物として取り除かれる危険がある。
【勧めの言葉】
真の悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが求められている。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、涙を流して悔い改め、二度と同じ罪を犯さないと決心することが必要。
【***詳細***】
今日の御言葉は、イザヤ書1章21節から31節までです。この箇所は、イスラエルに対する主の失望と、悔い改めへの促しから始まっています。
主は、かつて正義と公正が宿っていたエルサレムが、今や不義に満ちた街となってしまったことを嘆いています。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」(21節)と主は言われます。
主は、イスラエルの堕落を具体的に指摘されます。「お前の銀は金かすになった。お前の良い酒も水で割ってある」(22節)。これは、純粋なものの中に不純物が混ざってしまった状態を表しています。本来は良いはずの銀や葡萄酒が、混ぜ物によって価値を失ってしまったのです。
さらに主は、指導者たちの腐敗を非難されます。「お前のつかさたちは反逆者、盗人の仲間。皆、賄賂を愛し、報酬を追い求める」(23節)。正義を守るべき立場にある者たちが、逆に不正を働いているのです。
このような状況に対し、主は厳しい裁きを宣言されます。「ああ、私のあだに思いを晴らし、私の敵に復讐しよう」(24節)。主は、イスラエルの中にある敵、つまり主に逆らう者たちを裁かれるのです。
しかし、主の目的は単なる破壊ではありません。「しかし、お前の上に再び我が手を伸ばし、お前の金かすをあくのように溶かし、その浮きかすを皆のぞこう」(25節)。これは、純粋な銀を得るために不純物を取り除く精錬の過程を表しています。主は、イスラエルを清めて、本来あるべき姿に戻そうとされているのです。
「 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。」(26節a)。主は、イスラエルの指導者たちを正しい者に立て直そうとされています。
そして、清められたイスラエルの将来について、主は希望に満ちた約束を与えられます。「その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」(26節b)
この箇所から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。私たちもまた、教会に通い、クリスチャンとして生活しているつもりでも、知らず知らずのうちに不純物を混ぜてしまっているかもしれません。純粋な信仰が、世俗的な考えや行動によって汚されてしまう危険性は常にあるのです。
主は、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」(27節)と言われます。ここで重要なのは、「悔い改める者」という言葉です。単に教会に通うだけでなく、真に悔い改め、主の前に立ち返る者が贖われるのです。
バプテスマのヨハネの言葉を思い出しましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)。悔い改めは単なる言葉だけではなく、具体的な行動の変化を伴うものでなければなりません。
私たちは、自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、心を裂き、涙を流して悔い改めなければなりません。そして、二度とその罪を犯さないと決心し、主の助けを求めて歩む必要があります。
主は、「背く者は、罪人と共に破滅し、主を捨てる者は、失せ果てる」(28節)と警告されます。悔い改めない者、主を捨てる者には厳しい裁きが待っているのです。
しかし、主の目的は私たちを滅ぼすことではありません。主は、私たちを清め、純粋な信仰を持つ者としたいのです。「 あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 」(29節)。ここでの「樫の木」や「園」は、偶像礼拝の場所を指していると考えられます。主は、私たちが頼りにしている偽りの神々や世俗的な価値観が、実は何の役にも立たないことを示されるのです。
「つわものがあさくずに、そのわざはひばなになり、そのふたつとももえたってこれをけすものがいない」(31節)。ここでの「つわもの」は、自分の力を頼みにする者を表しています。しかし、主の前では、人間の力など何の価値もありません。
私たちは、自分の中にある不純物、主の御心に反するものを取り除いていただく必要があります。それは時に痛みを伴う process かもしれません。しかし、それによって私たちは純粋な信仰を持つ者となり、主に用いられる器となることができるのです。
【結論】
今日の御言葉は、私たちに厳しい警告と同時に、希望に満ちた約束を与えています。私たちは、自分の罪を認識し、真摯に悔い改め、主の清めを受け入れる必要があります。そうすることで、私たちは「正義の街、忠心な都」の住民として、主に喜ばれる者となることができるのです。主の恵みによって、私たちが日々、悔い改めと信仰の歩みを続けていくことができますように。アーメン。
圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5)
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- pastor 2015-3-13 23:39
礼拝説教メッセージ音声:圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5):右クリックで保存
『こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。サウルとその子ヨナタン、ならびに、共にいる民は、ベニヤミンのゲバにおり、ペリシテびとはミクマシに陣を張っていた。』(1サムエル記13:15-16)
サムエルは、サウルを置いて行ってしまった。
サムエルが来ていけにえを捧げるまで待て、と言われていたのに待ちきれず、身勝手に自分でいけにえを捧げ、主にそむいてしまったためだ。
これから何を為すべきか、という示しを何も頂けないまま、サムエルに去られてしまったが、それでもペリシテ人は容赦なく迫ってくる。
ペリシテ人達は、三組に分かれて、イスラエル領土内を荒らしに来ていたが、サウルに付き従う人々は既に大勢逃げてしまい、今や、六百人ほどになってしまった。
しかも、武器を持っているのは、サウルとヨナタンだけだった。なぜなら、ペリシテ人はイスラエルに武器を作らせないようにと、鍛冶を禁じていたからだ。
イスラエルに敵するペリシテは、戦車3万に、騎兵6千、歩兵は海辺の砂粒のように多い。
誰がどう見ても、イスラエルに勝ち目が無い状況である。
この時、再びヨナタンが行動を起こす。
『ある日、サウルの子ヨナタンは、その武器を執る若者に「さあ、われわれは向こう側の、ペリシテびとの先陣へ渡って行こう」と言った。しかしヨナタンは父には告げなかった。』(1サムエル記14:1)
この戦いが始まったのも、そもそも彼がペリシテの守備隊長を打ったのが発端だった。
彼は、父サウルには黙ってペリシテ人の先陣へと行った。
なぜ父サウルに黙って行ったのだろう。
後の箇所を見るとわかるが、サウルは民に無意味な制約を科したり、いらぬ所で変な命令を出したり、あるいはそれを翻したりして、民を右往左往させる事をしきりに行うのだが、すでにその徴候があったのかもしれない。それでヨナタンは、父に何も知らせずに行ったのかもしれない。
『サウルはギベアのはずれで、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていたが、共にいた民はおおよそ六百人であった。またアヒヤはエポデを身に着けて共にいた。アヒヤはアヒトブの子、アヒトブはイカボデの兄弟、イカボデはピネハスの子、ピネハスはシロにおいて主の祭司であったエリの子である。民はヨナタンが出かけることを知らなかった。』(1サムエル記14:2-3)
アヒヤは、かの悪名高きエリの子ピネハス、聖徒の捧げ物をかすめ奪って聖所でみだらな事をした、あの祭司・ピネハスの孫で、ピネハスが死んだ日に生まれたイカボテ(栄光なしという意味)の兄・アヒトブの子であり、エリの「ひ孫」にあたる。
サウルは、神に伺いを立てる祭司を近くに呼び寄せていたが、それはサウルには、あまり意味をなしていない事が後に明らかになる。
サウルは、ざくろの木の下で、何の手立てもなくただじっとして、民がこっそり逃げて行くにも手をこまねいているだけの状況だったが、ヨナタンの心には、サウルとは別の思いがあった。
こんな時機に、父サウルと一緒に手をこまねいていても、主は何も働かれない、自分で信仰による行動した方がいい、そう思って、父に黙って出かけたのだろう。
不信仰の愚かな者が、支配権を握っている時、その配下の信仰者が、不信仰の者に黙って行動する、という事は、確かにある。ナバルに対してのアビガイルもそうだった。(1サムエル記25章)
ペリシテの略奪隊は、既に三組に分かれて、イスラエルをなぶり始めている。
ヨナタンは彼らを「割礼なき者ども」と見、主は神の民をなぶる者達を必ず滅ぼしてくださると、信頼して出て行った。
それは、信仰なき者が見るなら無謀以外の何者でも無い。父が聞くなら、当然止める事だろう。
だから、父に内緒で行ったのだ。
主を知らず、生まれながらの感性や価値観で生きている「生まれながらの人」は、「霊の人」の信仰の行動を、愚かと見なす。
『生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。』(1コリント2:14-16)
御霊にある人は、肉にある人には想像もできないような事業を為し、そしてそれは成功し、その全ての行程において、神が栄光をお受けになるのだ。
ヨナタンのその信仰の行動が、再び、イスラエルと敵とを、大いに揺り動かす。
世を支配しておられるのは主であるが、主はどういうわけか、主を畏れ敬う人達の、信仰にある行動を用いて、世界を動かして行く。
信仰によって御言葉に従順し、主の御胸を行い、いのちで満たしていく事に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:待つ事が出来なかったサウル(1サムエル記13:1-14):右クリックで保存
『サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。』(1サムエル記13:1)
この1節の原文は、どう訳して良いのか難解な文となっており、訳し方が多岐に分かれる所である。
口語訳や新改訳では、三十歳で王の位についた、とあるが、脚注にある通り、それは「推定」であって正確ではない。
ちなみに原文をそのまま並べると、「子(血筋) 年 サウル 中で 統治する と 二つの 年 統治する 上に イスラエル」となっており、どのように意味を汲んで良いのか正確な所が分からない。
サウルが何年王として統治し影響力を振るったのかは、正確な所は分からないが、ひとつ明らかな事は、彼の統治は「短かった」事だ。
なぜなら、サウルは主の道を歩まなかったからである。
この箇所では、サウルはまだ王となったばかりであるが、早速、主の道に歩まない性質が現れはじめる。
『さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。』(1サムエル記13:2-3)
神の民の敵・ペリシテに、最初に戦いを挑み、そして勝利したのは、サウルの子・ヨナタンだった。彼は手勢の1000人を引き連れ、守備兵を破った。
その事は、イスラエルにも、敵にも、動きを起こさせる事となった。
それにしても、サウルはなぜこの時、「イスラエルよ」と呼びかけずに、「ヘブルびとよ」と呼びかけたのだろう。
14:21を見ると分かるが、ヘブル人でありながら、神の民イスラエルに逆らい、ペリシテについた者もいた。だから、いわゆる「神の民イスラエル」へ限定した呼びかけではなく、ヘブル語がわかる者なら誰であっても聞け、という事だったのかもしれない。
『イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。 』(1サムエル記13:4)
ペリシテの守備兵を破ったのは、ヨナタンだったはずだが、なぜか「サウルがペリシテびとの守備兵を敗った」事が、イスラエル中に広まった。
後のサウルの言動を見ると分かるのだが、彼は、人の手柄は自分のものにし、自分の都合が悪い事は人のせいにする性質がある。
『ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千(原文:三万)、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。』(1サムエル記13:5-7)
イスラエルの軍隊は、三千。それに比べ、ペリシテが戦うために出てきたのは、戦車の数だけで、イスラエルの数を上回っている。
それで人々は、逃げ隠れした。
サウルが守備隊を破った、というだけ取り上げていたなら、サウルの(本当はヨナタンの)手柄で沸き立っていたであろうが、それがペリシテを怒らせ、大軍を呼び覚ましてしまった、となっては、大変な事になったと思っただろう。
人々はこの大軍を前に、震えるしかなかった。
しかし今まで、神の民・イスラエルに対して敵が圧倒的勢力で攻めて来た事は、幾度もあった。
例えばギデオンの時は、わずか三百人で、十三万五千の敵を圧倒した。
神の国の戦いは、兵力や装備による戦争ではなく、神ご自身が戦われるか、闘われないか、によって、勝敗が決まってきた。だからサウルに必要な事は、兵や装備をつのる事ではなく、ただ勝利の主に信頼する事だけだった。
しかしサウルは誤った事をしてしまう。
『サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。』(1サムエル記13:8-9)
サウルはここで、二つの罪を犯している。
祭壇で主にいけにえを捧げる行為は、レビ族しか許されていないはずだが、それを行ってしまった事、そして、サムエルを待たずに自分勝手に行動してしまった事だ。
『その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。』(1サムエル記13:10-12)
サウルは、民は彼を離れて散って行くのを見て、これ以上民が離れて行かないようにするため、アピール目的でいけにえを捧げたのだ。
燔祭とは全焼のいけにえであり、自分の全てを捧げます、という主に対する意思表示のはずだが、彼の場合、主に対する信仰は一切無く、ただ人をつなぎとめるための「動物焼きパフォーマンス」に過ぎなかった。
それは、主の御前に悪でしか無い。
『サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。』(1サムエル記13:13-14)
サムエルがかつてサウルに命じたのは、『あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:8) であった。
サムエルが来ていけにえを捧げたなら、サウルがその後しなければならない事が、主から告げられる、はずだった。
しかし、彼が主を待たず、身勝手な事をしてしまった今となっては、次なる主の示しは与えられない。
しかし、このただ一度の失敗で、もはや永遠に手遅れ、という訳ではない。
サムエルが言ったのは「今は、あなたの王国は続かない」であって、「もう決して、あなたの王国は続かない」ではない。
実際、サウルは敗者復活のチャンスが後に与えられる。
終わりの時代、患難の時がやって来る。
その時、主を忍耐して待たなければならないが、それは人が思っているよりも遅い事が、あらかじめ主から示されている。(2ペテロ3:9)
主を待ち望め、それは旧約でも新約でも共通する命令である。
いかに「遅い」と思えるようであっても、主が「待ち望みなさい」と言われたからには待つべきであって、サウルのように焦って、ひとりよがりの行動してはならない。
不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25)
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- pastor 2015-3-11 23:50
礼拝説教メッセージ音声:不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25):右クリックで保存
サムエルは、イスラエルがモーセの時以来、いかに主に対して不真実に歩んできたかを指摘し、それに加えて、王を求めるという罪まで犯した事を指摘した。
『それゆえ、今、あなたがたは立って、主が、あなたがたの目の前で行われる、この大いなる事を見なさい。きょうは小麦刈の時ではないか。わたしは主に呼ばわるであろう。そのとき主は雷と雨を下して、あなたがたが王を求めて、主の前に犯した罪の大いなることを見させ、また知らせられるであろう」。そしてサムエルが主に呼ばわったので、主はその日、雷と雨を下された。民は皆ひじょうに主とサムエルとを恐れた。』(1サムエル記12:16-18)
イスラエルには雨季と乾季があり、小麦の刈り入れ時、すなわち、6月頃は雨は降らないはずなのだが、サムエルが祈り求めると、主は雷と雨がくだされた。
それは、あり得ない天気である。
サムエルがありえない時期に雷と雨を呼び求め、そして主がそれに応えられたのは、イスラエルの民がいかに主を無視し、主に罪を犯したかを示すためであり、また、主は呼び求めるなら答えてくださるお方であると示すためでもある。
『民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」。』(1サムエル記12:19)
イスラエルの民は恐れ、自分達が主の御心を損ねた事を明確に告白した。
そして、主から災いが降されないよう祈り求めるように、サムエルに願った。
私達も、罪が示された時、具体的にそれを告白して悔い改めているだろうか。
そして、それを改めるための行動を起こしているだろうか。
私達は、主の愛の広さ、高さ、長さ、深さをますます理解できるよう、その理解力が与えられるように祈る必要があるが、それと同時に、自分達がいかに主を悲しませ、御旨を損ねて来たかも理解できるよう、祈り求める必要がある。
『サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。むなしい物に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うこともできないむなしいものだからである。』(1サムエル記12:20-21)
サムエルは、恐れてはならない、と言った。
民は確かに罪を犯した。しかし主に従って歩むなら、主は赦してくださる、と。
主はなぜ赦して下さるのか。
それは、自分達が主に対して罪を犯し、御心を損ねた事を正確に認知し、具体的にそれを告白し、救われたいと願ったからだ。
このように、罪の赦しと、神との和解とは、無条件のものではない。自分の罪を告白し、悔い改めの意思表示をして、はじめて与えられるものである。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。』(ルカ17:3-4)
悔い改め無き赦しは、ありえない。
しかし、もし「悔い改めます」と言って一日に七度でも来るなら、七度でも赦すべきなのだ。
『主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。』(1サムエル記12:22)
主は、主の御名のプライドにかけて、イスラエルの民を捨てる事をされない。
確かにイスラエルはかたくなな民であり、主に罪を犯し続ける事も、かたくなに止めないものだが、それでも主が捨てられないのは、「主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるから」である。
『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。』(1サムエル記12:23)
サムエルもまた、イスラエルのために、執り成し祈る事を止めて「主に罪を犯す」わけにはいかない、と言った。
サムエルからすれば、イスラエルはずっと主に罪を犯し続けてきたのを、彼は若い時からずっと見て来て、もううんざりしていた事だろう。
もうそろそろ、投げ出してしまいたい、と思っていたかもしれないが、それでも、祈りをやめる事はしなかった。祈る事を止めるのは、主に罪を犯すことである、として。
私達も、家族や仕事場、友人知人のため、そしてこの国のために、祈る事をストップするべきではない。
『あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。』(1サムエル記12:24-25)
ここに、二つの道が示されている。
「ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕え」るか。それとも、「なおも悪を行う」か。
主に誠実に心を尽くして仕えるなら、末永く幸いを得る。しかし「なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされる。」
もはや主を悲しませる歩みを止めて、主を喜ばせる歩みをし、主が喜んで祝福を注いで下さるような者へと変えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15)
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- pastor 2015-3-9 22:14
礼拝説教メッセージ音声:主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15):右クリックで保存
前回のところでは、サムエルが今までイスラエルをいかに真実に導いて来たかを証し、人々もそれに同意したが、今回の所では、主がイスラエルに対しいかに真実を尽くして導いてこられたかを、思い起こさせている。
『サムエルは民に言った、「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出された主が証人です。それゆえ、あなたがたは今、立ちなさい。わたしは主が、あなたがたとあなたがたの先祖のために行われたすべての救のわざについて、主の前に、あなたがたと論じよう。』(1サムエル記12:6-7)
私達も、主がいかに良くしてくださったかを、事あるごとに思い起こす必要がある。
主は、私達のために、いかに良い事をはからい、私達を愛され、贖いの御業を為してくださったか。
主はそれを為し遂げるために、十字架上でどれほど傷まれ、うめかれ、苦しまれたか。
主が私達に為して下さった事は、ことごとく真実であったと、私達も証するべきなのだ。
『ヤコブがエジプトに行って、エジプトびとが、彼らを、しえたげた時、あなたがたの先祖は主に呼ばわったので、主はモーセとアロンをつかわされた。そこで彼らは、あなたがたの先祖をエジプトから導き出して、この所に住まわせた。』(1サムエル記12:8)
主は、エジプトで苦しめられているイスラエルを助けられた。
彼らが主に向かって叫び、助けを求めたからだ。
主は当初からイスラエルにいつも真実を尽くして来られたが、そのイスラエルは、主に対して不真実で答えて来た。
『しかし、彼らがその神、主を忘れたので、主は彼らをハゾルの王ヤビンの軍の長シセラの手に渡し、またペリシテびとの手とモアブの王の手にわたされた。そこで彼らがイスラエルを攻めたので、民は主に呼ばわって言った、『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』。主はエルバアルとバラクとエフタとサムエルをつかわして、あなたがたを周囲の敵の手から救い出されたので、あなたがたは安らかに住むことができた。』(1サムエル記12:9-11)
申命記においてモーセが口を酸っぱくして言った事は、主の御声に聞き従い、それを守り行いなさい、という事であり、もし聞き従わずに主を捨てるなら、必ず災いが起こるという事も、何度も言って来た。
しかし彼らは、「してはならない」と言われた事を敢えて「して」、「行ってはならない」と言われていたの所に敢えて「行った」ため、当然のごとく、災いが身に降り掛かった。
しかし彼らが『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』と言った時、彼らが主に為して来た所業にも関わらず、主は豊かに赦し、主は士師を遣わしてイスラエルを助けられた。
御言葉はまさに、法則そのものである。
御言葉に従って歩むなら、主守りの内に幸いに栄えるが、主と主の御言葉に背き、してはならないと言われている事を敢えてするなら、必ず災いを受ける。
しかし、そこからさらに立ち返るなら、主は豊かに許してくださる。
主こそまさに、憐れみ深いお方である。
そして12節以降で、サムエルは、イスラエルがまさに「している」事について言っている。
『ところが、アンモンびとの王ナハシが攻めてくるのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、あなたがたはわたしに、『いいえ、われわれを治める王がなければならない』と言った。それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。』(1サムエル記12:12)
イスラエルはかつて、王を求めた事は無かった。主が王であったからだ。
しかしこの度、イスラエルは、今まで真実に導いて来られた主を無視し、人間の王を求めたのだ。
たとえるなら、心砕いて養って来てくれたお母さんを目の前にして、「いや、自分には養ってくれるお母さんが必要なのだ」などと言っているようなものである。
イスラエルは、主を無視して王を求める、という罪を犯した、にも関わらず、主は彼らを見捨てず、真実を尽くして下さる。
『もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。』(1サムエル記12:14-15)
イスラエルは、王が自分達を正当に守り導いてくれると夢見ていたが、王たる者や指導者たる者が必ずしも間違えずに正当に導くとは限らないし、彼らが主に真実に従うとは限らない。
牧師や教職者といえども、人は皆、間違った道へと人々を導いてしまう可能性を秘めているのだ。
確かに地上には、服すべき指導者や王がいる。
しかし、私達が最も優先して服すべきは、御言葉であられるキリストだ。