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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
幼い娘を立派な花嫁に育てよ(雅歌8:8-14)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:”珍しく”悔い改めて主に立ち返るイスラエル(1サムエル記7:1-6):右クリックで保存

当初はイスラエル人にもペリシテ人にも軽んじられたような扱いをされた主の箱だが、主は、そのように軽んじた者達全てに災いを降し、誰の目にも明らかな形で主の栄光が現され、皆、恐れるようになった。
主の箱はベテ・シェメシュの住人からも恐れられ、そこからさらに移される事になる。

『キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。』(1サムエル記7:1-2)
この時以降、ダビデ王がエルサレムへ主の箱を導き入れるまで、長らくそこに留まる事になる。(1歴代誌13章)
イスラエルは、これら一連の事を通して、主の栄光と自分達の不実とを思い知り、主を慕って嘆く心が湧き起こって来た。

災い遭う事は、実は幸いである。
それによって自分の中の正すべき事を正し、主に立ち返るからである。
『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。』(詩篇119:71)
そこでサムエルは、全イスラエルに、悔い改めを促す。

『その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。』(1サムエル記7:3-4)
彼らは、あれほどの目に遭っておきながら、いまだに、他の神々を持っている状況だった。
あの神もこの神も仲良くあわせて持つのに何の抵抗も感じない日本人のように、当時のイスラエルは、主の聖の基準から長らく離れていたため、何が主に喜ばれ、何が喜ばれないかを知らなかったのかもしれない。
サムエルは、全て他の神々を除き去って、ただ主にのみ仕えるよう促した。
そしてイスラエルは、素直にそれに従った。

『サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。』(1サムエル記7:5-6)
彼らは実に「珍しい事」をしている。
それは、一つに集まり、心を主に向けて悔い改めの集会を開いた事だ。
悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というのも、情けない話である。
しかし、ヨシュアが死んで以降、イスラエルはずっとそのような霊的状態であり、また、悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というキリスト者も、実は多いのだ。
皆さんは、そのような状態に、なっていないだろうか。
災い続きではないだろうか。

主の救いと立て直しは、悔い改めて主に立ち返る所から始まり、それをするなら、主は豊かに恵みを施して下さる。
『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-4)

礼拝説教メッセージ音声:誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21):右クリックで保存

『時にベテシメシの人々は谷で小麦を刈り入れていたが、目をあげて、その箱を見、それを迎えて喜んだ。』(1サムエル記6:13)

神の箱は、わずか七ヶ月でイスラエルに戻って来る事となった。
この町の人達は、牛車がひとりでに運んで来たものが「神の箱」であると認知していたが、このベテ・シェメシュという町は、ナフタリ族へくじによって割り当てられた相続地であり(ヨシュア記19:38)、そして、大祭司アロンの子孫達へと放牧地が割り当てられた町でもある。(ヨシュア記21:16)
つまり、神の箱の正当な扱い方を知っていた(はずの)奉仕者たちが住む町であり、この町に神の箱が帰って来たのは、まさに導きといえる。

『ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また金のねずみは、城壁をめぐらした町から城壁のない村里にいたるまで、すべて五人の君たちに属するペリシテびとの町の数にしたがって造った。主の箱をおろした所のかたわらにあった大石は、今日にいたるまで、ベテシメシびとヨシュアの畑にあって、あかしとなっている。』(1サムエル記6:17-18)
ペリシテの五つの町の内、ガザとアシュケロンには、主の災いが降った記述は無いが、もしかしたらそこにも災いが降っていたのかもしれない。
とにかくペリシテの祭司や占い師達は、ペリシテの領主の数・都市の数に従い、五つの金のはれ物の像と、五つの金のねずみの像を作らせて、それをイスラエルの神に「償い」として捧げさせた。

『車はベテシメシびとヨシュアの畑にはいって、そこにとどまった。その所に大きな石があった。人々は車の木を割り、その雌牛を燔祭として主にささげた。レビびとは主の箱と、そのかたわらの、金の作り物をおさめた箱を取りおろし、それを大石の上に置いた。そしてベテシメシの人々は、その日、主に燔祭を供え、犠牲をささげた。ペリシテびとの五人の君たちはこれを見て、その日、エクロンに帰った。』(1サムエル記6:14-16)
彼らは最初、主の箱がこのように戻って来た事を喜び、ペリシテ人もまた、災いの元凶が自分達の元から去った事に胸をなでおろした事だろう。
これで一件落着、かというと、そうではなかった。
この神の箱は、そこベテ・シェメシュの町にも、災いをもたらす事となってしまうのだ。

『ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち七十人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ。』(1サムエル記6:19)
撃たれた人の数は、口語訳では「七十人」となっているが、別の訳では「五万七十人」(新改訳、KJV)、さらに別の訳では「五万のうち七十人」(新共同訳)となっている。
どうしてこんなに訳が分かれるかというと、ここのヘブライ語原典を字義通りに並べると「七十人、五十千人」、これをどのように訳出すれば良いのか分からないからだ。
いずれにせよ、ベテ・シェメシュの人達は非常に大きな痛手を受け、イスラエルの神・主への大きな恐れが沸き起こった事は確かである。

なぜこのような災いがイスラエルにも起こったのか。
それは、神の箱を正当に扱う術を知っているはずの人達がそれをせず、主の箱の中を見るような不敬を犯したからである。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。』(ガラテヤ6:7)
神はまさに聖なる神、義なる神であり、イスラエルに対してだけでなく、異邦人に対しても公平にさばきを行われる方である。

私達は、主の「親しさ」を「馴れ馴れしさ」と勘違いし、主を軽んじてはならない。
また、主があまりに憐れみ深い故に「赦され慣れ」して、自分たちはただ赦される側、何をしても良い側、そして主はただ身代わりの痛みを受けてもらう側として怠慢に陥ってはならない。
そのような事を敢えてし続けるなら、主はその者を懲らしめ、強制的に正しい立ち位置へと戻される。

『ベテシメシの人々は言った、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主はわれわれを離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか。』(1サムエル記6:20)
まさに、聖なる神・主の御前に立つ事ができる者は、誰もいない。

主は、神の箱が奪われそうになった時タイミングでペリシテ人を打つ事は出来たであろう。
あるいは、イスラエルが神の箱を縁起物でも持ち出すかのように軽々しく聖所から運び出そうとしたタイミングで打つ事も出来たであろう。
しかし主は敢えて人々の為すがままにし、この4章以降の一連の出来事を起こさせ、その上で、イスラエルにもペリシテにも、ご自身の聖を燦然と表されたのだ。
その結果、イスラエルもペリシテも、神である主は恐るべき方であり、正当に敬う事をしないなら、こんなにも恐ろしい目に遭う、という事を、徹底的に思い知らされた。

こうしてイスラエルの心は、神を正当に恐れ敬う健全な心へと、造り変えられてゆくのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主に栄光を返したペリシテ人(1サムエル記6:1-12):右クリックで保存

『主の箱は七か月の間ペリシテびとの地にあった。』(1サムエル記6:1)

ここは、主の箱はペリシテ人の「野」にあったとも訳す事ができる。
七ヶ月の間に少なくとも2回は移動させた、という事は、災いはそれだけ誰の目にも明確で、主の箱を「町」に置けなかったのだろう。

『ペリシテびとは、祭司や占い師を呼んで言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょうか。どのようにして、それをもとの所へ送り返せばよいか告げてください」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱を送り返す時には、それをむなしく返してはならない。必ず彼にとがの供え物をもって償いをしなければならない。そうすれば、あなたがたはいやされ、また彼の手がなぜあなたがたを離れないかを知ることができるであろう」。』(1サムエル記6:2-3)
主の「聖」に対して不実を犯した場合は、償いをしなくてはならない事は、確かに律法に記されている。(レビ記5:15-16)
ペリシテ人がイスラエルの律法を調べたのか、それとも、ただで返す事は失礼に値すると考えたのか、ともかく彼らは、降りかかった災いの故に、主に対する恐れ敬いが芽生えた事は確かだ。

『人々は言った、「われわれが償うとがの供え物には何をしましょうか」。彼らは答えた、「ペリシテびとの君たちの数にしたがって、金の腫物五つと金のねずみ五つである。あなたがたすべてと、君たちに臨んだ災は一つだからである。それゆえ、あなたがたの腫物の像と、地を荒すねずみの像を造り、イスラエルの神に栄光を帰するならば、たぶん彼は、あなたがた、およびあなたがたの神々と、あなたがたの地に、その手を加えることを軽くされるであろう。』(1サムエル記6:4-5)
ペリシテ人達は、腫物だけでなく、ねずみによってもかなりの災いを受けたようだ。
彼らは、自分たちはこれらのものによって災いを受けました、その事はイスラエルの神・主がなされた事であり、ここにあなたの栄光を表します、と、主に敬意を表するなら、この災いは軽くされるだろう、と考えたのだ。

『なにゆえ、あなたがたはエジプトびととパロがその心をかたくなにしたように、自分の心をかたくなにするのか。神が彼らを悩ましたので、彼らは民を行かせ、民は去ったではないか。』(1サムエル記6:6)
主がエジプトに対して為した災いはかなり昔であるが、当時、主が為された事は、イスラエル周辺諸国にとどろき渡った。
そのイスラエルの神・主は、今も健在である、と、彼らは恐れており、この主に対して頑なになってはならないと警告している。

『それゆえ今、新しい車一両を造り、まだくびきを付けたことのない乳牛二頭をとり、その牛を車につなぎ、そのおのおのの子牛を乳牛から離して家に連れ帰り、主の箱をとって、それをその車に載せ、あなたがたがとがの供え物として彼に償う金の作り物を一つの箱におさめてそのかたわらに置き、それを送って去らせなさい。』(1サムエル記6:7-8)
普通、くびきをつけた事のない牛に、くびきをつけるなら、牛はそれを振りほどくはずだ。
牛にとって、くびきは不快なものであり、それを初めてされたなら、抗するはずだ。
また、子に乳を飲ませている母牛が、子を置き去りにして行く、という事も、自然の摂理に反する。
その、通常ではあり得ない行動を牛が取るり、神の箱をイスラエルへと運んで行くとすれば、これは主が為さった事だと知る事が出来る、というのだ。

『人々はそのようにした。すなわち、彼らは二頭の乳牛をとって、これを車につなぎ、そのおのおのの子牛を家に閉じこめ、主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。すると雌牛はまっすぐにベテシメシの方向へ、ひとすじに大路を歩み、鳴きながら進んでいって、右にも左にも曲らなかった。ペリシテびとの君たちは、ベテシメシの境までそのあとについていった。』(1サムエル記6:10-12)
乳牛が鳴きながら子から離れて行き、イスラエルへの道を、くびきを負いながら進んで行くのを、彼らは見て驚いただろう。

まさにイスラエルの神は、生きて働いておられる。
この神は、自分達の神々を倒し、ひれ伏させ、腫物やねずみによって自分達を打ち、行く所どこも死の恐怖に怯えさせた。
そして、自分達がこの神である主に栄光を帰すために、償いの備えをしたなら、主はあり得ない形でその栄光を受け取られた様も、彼らは見た。
あのペリシテ人でさえ、主に打たれ懲らしめられたなら、主を恐れたのだ。
私達も主からの懲らしめを受けたなら、速やかに悔い改めて主に栄光を帰すべきである。

しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるの言葉通り、彼らはその恐れと尊敬を持続させず、相変わらずダゴンの神を礼拝し続け、そして神の民・イスラエルを打つのをやめなかった。
だから彼らは結局、主の民を懲らしめる器としてしか用いられず、ペリシテ人という”民族”は現在、残っていない。アレクサンドロス大王の支配下で滅んでしまったのだ。
私達も、ひと度主から懲らしめを受け、主を畏れ敬う者となっておりながら、その主への恐れ敬いを持続させないなら、ただ良くない事にのみ用いられ、そして滅んでしまうのだ。
私達は主への恐れをキープし、祝福を受け続ける者でありたい

礼拝説教メッセージ音声:敵国内でひとりでに栄光をあらわす神の箱(1サムエル記5:1-12):右クリックで保存

イスラエルから奪われてしまった契約の箱だが、その箱には、全能の神とイスラエルとの間に結ばれた契約が入っている。

人の手で担がれなくては何も出来ない偶像とは、全くわけが違う。

『ペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた。そしてペリシテびとはその神の箱を取ってダゴンの宮に運びこみ、ダゴンのかたわらに置いた。』(1サムエル記5:1-2)
ダゴンとは、頭部が魚、体が人間の、ペリシテ人の偶像神である。
そのそばに安置したという事は、彼らは今回の戦勝に浮かれ、イスラエルの神は自分の神ダゴンよりも劣っていると考えたのかもしれない。

しかし聖書をみると、神の箱はあまりに聖であるため、ケハテ族のレビ人以外は運んではならず、ダビデの時代も、牛車で運ばせたら、その御者が主に打たれて死んでしまった程のものである。
それ程、取り扱いには気をつけなくてはならないものであるのに、なぜか今回、ペリシテ人が運んでも何の害も受けなかった。

この契約の箱は、イスラエル人が神の契約を畏れ敬う心をもって、イスラエルの中で正当に取り扱ってこそ、意味があるものである。
それなのに、本来安置されるべき聖所からお手軽に運び出され、縁起物か何かのように戦いの場へ持っていかれてしまう程に、軽んじられてしまったのであるから、主はそれを正すために、敢えてイスラエルから取り上げ、ペリシテ人の領地へと運ばせたのだ。
契約の箱がどこにあるかよりも、その契約の内容を守る事こそ、神の民としての意義があるように、私達も、何処どこの教会に通っているとか、キリスト教的なアイテムを持っているといった事より、むしろ、キリストそのものであられる御言葉を「わたし」の内に留め、それを守り行ってこそ、信仰者としての意義があるのだ。

『アシドドの人々が、次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていたので、彼らはダゴンを起して、それをもとの所に置いた。その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。それゆえダゴンの祭司たちやダゴンの宮にはいる人々は、だれも今日にいたるまで、アシドドのダゴンのしきいを踏まない。』(1サムエル記5:3-5)
最初は地震か何かでたまたま倒れたのだろう、くらいに思っていたかも知れないが、翌日には、ダゴンの頭と手が胴体から切り離され、敷居の所にあり、しかも、神の箱の前に向かってひれ伏す形となっていた。
この事から、イスラエルの神のほうが優位で、ダゴンは無力である事を示しているのに、ペリシテ人は、イスラエルの神を敬うのでなく、ダゴンを敬い、今後、ダゴンが伏していた敷居を踏まない事にした。
しかし起きたことは、そればかりではない。

『そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドとその領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。アシドドの人々は、このありさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの所に、とどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴンの上にきびしく臨むからである」。
そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちを集めて言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょう」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱はガテに移そう」。人々はイスラエルの神の箱をそこに移した。』(1サムエル記5:6-8)
もはや明らかにイスラエルの神は力があり、ダゴンは無力である事は明らかなのに、ペリシテ人は、イスラエルの神を「恐れ」はしても、敬わず、神の箱を縁起の悪いものとして移動させる。

『彼らがそれを移すと、主の手がその町に臨み、非常な騒ぎが起った。そして老若を問わず町の人々を撃たれたので、彼らの身に腫物ができた。そこで人々は神の箱をエクロンに送ったが、神の箱がエクロンに着いた時、エクロンの人々は叫んで言った、「彼らがイスラエルの神の箱をわれわれの所に移したのは、われわれと民を滅ぼすためである」。そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちをみな集めて言った、
「イスラエルの神の箱を送り出して、もとの所に返し、われわれと民を滅ぼすことのないようにしよう」。恐ろしい騒ぎが町中に起っていたからである。そこには神の手が非常にきびしく臨んでいたので、死なない人は腫物をもって撃たれ、町の叫びは天に達した。』(1サムエル記5:9-12)

彼らは、明らかにこの箱が災いの元であると認めた。
それなのに彼らは、自分たちの力なき神ダゴンから離れてイスラエルの神に立ち返ろうという気にはならなかったし、イスラエルを虐げる事も止めなかった。
またイスラエル人も、こんなにも力ある神が自分たちにおられるのに、自分たちの内から別の神々を捨て去ろう、という気も起きなかったようである。(1サムエル記7:3)
人とは何と愚かで盲目な、そして、自分の好む事を捨てない頑なな者であろうか。

偶像の神は、自分で自分の世話をする事もできず、担がれなくては移動も出来ない、ただ人々の重荷となるばかりであるが、主は私達が罪に陥っている時でも、世話をし、義の道へと立ち返らせて下さり、そして私達が白髪頭となっても、主は私達を運んで下さる。
『ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず/かえって、自分は捕われて行く。
「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。』(イザヤ46:1-4)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
封印のように固く成熟して行く夫婦の愛(雅歌8:1-7)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:栄光はイスラエルを去った、か?(1サムエル記4:12-22):右クリックで保存

『その日ひとりのベニヤミンびとが、衣服を裂き、頭に土をかぶって、戦場から走ってシロにきた。彼が着いたとき、エリは道のかたわらにある自分の座にすわって待ちかまえていた。その心に神の箱の事を気づかっていたからである。その人が町にはいって、情報をつたえたので、町はこぞって叫んだ。』(1サムエル記4:12-13)

ベニヤミン人といえば、イスラエルの長老達が、シロでの主の祭りに出てきた娘たちをベニヤミン人に略奪させた一件を思い出す。(士師記21章)
そのベニヤミン人が、この時、シロに悪い知らせを告げ知らせ、彼が伝えた先々では、悲しみの叫び声が沸き起こった。

『エリはその叫び声を聞いて言った、「この騒ぎ声は何か」。その人は急いでエリの所へきてエリに告げた。その時エリは九十八歳で、その目は固まって見ることができなかった。』(1サムエル記4:14-15)
エリは、二人の息子ではなく、神の箱の事で気遣って(原意:震えて)いた。
しかし彼が最も聞きたくなかった、最悪の知らせが届く。

『その人はエリに言った、「わたしは戦場からきたものです。きょう戦場からのがれたのです」。エリは言った、「わが子よ、様子はどうであったか」。
しらせをもたらしたその人は答えて言った、「イスラエルびとは、ペリシテびとの前から逃げ、民のうちにはまた多くの戦死者があり、あなたのふたりの子、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました」。彼が神の箱のことを言ったとき、エリはその座から、あおむけに門のかたわらに落ち、首を折って死んだ。老いて身が重かったからである。彼のイスラエルをさばいたのは四十年であった。』(1サムエル記4:16-18)

神の箱という、国宝中の国宝を戦いの場に持ち出し、敵に奪われてしまう。
そんな不祥事は、モーセの時代に神から与えられて以来、ヨシュアの時代も、そして邪悪を極めた士師の時代においてさえ、無かった。
自分の子達の悪をそのまま見逃し、私服を肥やしていたがために、なんという不祥事が、自分の代で起きてしまったのだろう。
彼は絶望で倒れ、その時、自身の肥え太った体の重みで首の骨を折り、死んでしまった。

主はいつも赦して下さった、主は赦しの神だ、だからこれから何をしても主はずっと赦して下さるだろう、と思い込んでいる人がいる。
主は、十字架にかかって赦してくれる側。私は、何をしても良い側、何をしても赦される側、と。
そのように信じ込んで疑わず、他人にもそう教える人は、覚えておかなくてはならない。
不従順をいつまでも改めずにいるなら、主はその事の報いもされる事を。

かつて神がホレブにおいて、イスラエルの民が神様と共に歩む事を約束した証明書とも言うべき契約の箱を、敵に勝利したいがために、縁起物として担ぎ出し、のこのこと戦いの場に持ち出して来る。
この事を例えるなら、「自分以外には夫があってはならない、浮気をしてはならない」と約束をして結婚した女性が、結婚後すぐに浮気をして、それを改めないまま、いざ敵が現れたら、結婚証明書を振りかざして夫に守りを求める程に、無神経で、夫の怒りをさらに引き起こすような行為である。
結局、主からの助けは来ないどころか、主ご自身がイスラエル敵対し、契約の箱は、奪われてしまった。
浮気している女性が襲われいても、夫は助けないどころか、その襲う者を助け、彼女が担ぎだしていた結婚証明書書は、敵の手に奪わせたようなものである。

契約の箱は元々、主の栄光の雲が立ったなら、レビ人に担がれて出立し、栄光の雲が留まった所に箱は降ろされ、神の民もそこに留まった。
だから主の栄光は、箱にあるのではなく、主の栄光の導きに箱がついて行き、民もついて行くものなのだ。
私達の歩みも、そして主のミニストリーも、同じである。
主の栄光、主の臨在のある所へと私達が出入りすべきであって、もし、主の栄光と臨在を無視して自分の好む事をするなら、失敗してしまうのだ。

この知らせを受けた時、死んだのは、エリだけではなかった。
『彼の嫁、ピネハスの妻はみごもって出産の時が近づいていたが、神の箱が奪われたこと、しゅうとと夫が死んだというしらせを聞いたとき、陣痛が起り身をかがめて子を産んだ。
彼女が死にかかっている時、世話をしていた女が彼女に言った、「恐れることはありません。男の子が生れました」。しかし彼女は答えもせず、また顧みもしなかった。ただ彼女は「栄光はイスラエルを去った」と言って、その子をイカボデと名づけた。これは神の箱の奪われたこと、また彼女のしゅうとと夫のことによるのである。彼女はまた、「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われたからです」と言った。』(1サムエル記4:19-22)

もし、彼女の言うように「イスラエルから栄光が去った」としたら、それはいつからだろうか。
契約の箱が奪われた時だろうか?いや、もっと前からのはずである。
ヨシュアが死んで以降、イスラエルが主をないがしろにし出し、御言葉を守り行わなくなりはじめた時から、既にこの序章は始まっていた。
それが目に見える形であらわれたのが、今回のこの事件である。
それでようやくイスラエルは目が覚めたのだ。

彼女は「栄光はイスラエルを去った」と言ったが、果たして、契約の箱が取り上げられてしまったら、神の栄光は無くなってしまうのだろうか?
そんな事は無い。
主の栄光は全地に満ち満ちており(イザヤ6章)、彼らから契約の箱が取り上げられたとしても、主はの目はいつも、昼も夜もまどろむ事なく神の民に注がれている。
現にここ数千年、契約の箱は行方知れずのままだが、神はイスラエルをずっと顧みて来られた事を、歴史が証明している。

今回のこの事件は、士師の時代以来、イスラエルの心にずっと蔓延してきた「どうせ赦されるから」という霊的居眠り状態から覚まさせるために、主が起こされたのだ。
では、契約の箱は一体どうなるのだろうか?それは後にわかるが、全能の主がどうにかして下さる。
その辺の偶像の神輿のように、人に担がれてさえも何も出来ない神々とは、全くもって違うのだ。
現代、契約の箱はどこにあるかも分からない状態であるが、それも将来、必ず現れる時が来るのだ。(黙示録11:19)

礼拝説教メッセージ音声:奪われてしまった契約の箱(1サムエル記4:1-11):右クリックで保存

「イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。」(1サムエル4:1-2)

神の民は、御言葉に従っているなら勝利し、御言葉に背いているなら必ず敗北する事を、主は、モーセを通してあらかじめ語っておられた。
それを知ってか知らずか、イスラエルの民はペリシテ人に戦いを挑んだ。
当時のイスラエルの状況では、御言葉によるなら、負けは確定している。

『イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。』(1サムエル4:3)
彼らは、敗北の原因は、自分たちの主に対する不誠実な態度にある、という考えには至らなかった。
それより、主の契約の箱を自分たちの中に運びこんで来れば、きっと主のミラクルが起きる、契約の箱がある陣は、まさか敵に攻め入られる事は無いだろう、と考えた。
主に来てもらって、自分たちが願う通りに、主に動いてもらおう、という考えである。
さて、どうなっただろうか。

『こうしてペリシテびとが戦ったので、イスラエルびとは敗れて、おのおのその家に逃げて帰った。「戦死者(マッカー:疫病、殺戮)」はひじょうに多く、イスラエルの歩兵で倒れたものは三万であった。また神の箱は奪われ、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された。』(1サムエル記4:10-11)
彼らにとって、あり得ない事が起きた。
イスラエルにとって最も重要なもの、主との契約の箱が、偽りの神々を拝む者達に奪われてしまったのだ。

主は、契約の箱の中や、人が造った神殿に住むお方ではない。
全宇宙は主の王座、全地は主の足台であり(使徒7:48-50)、大事なのは、そのお方との約束を守り行う事であって、契約の箱という「アイテム」を持って来る事ではないのだ。

契約の箱の中には、神と人との間で交わされた契約、十戒の石版が入っているが、そこには何と記されているだろう。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト記20:3)
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」(出エジプト記20:4)
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(出エジプト記20:7)
この最初の3戒だけでも、彼らはアウトだろう。

改めるべきを改めないまま、戦いに望んだ結果、イスラエルは三万人が倒れる大打撃を受け、契約の箱は奪われ、エリの息子、ホフニとピネハスは死んだ。
最初の戦いでは、ペリシテ人がイスラエル四千人を殺したが、この時三万人もの人が死んだのは、主が送られた「非常に激しいマッカー(疫病、殺戮)」による。

私達が「マッカー(疫病、殺戮)」から逃れるコツは、詩篇91編に記されている。
すなわち、いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る事である。
主は、そのような人に対し、仕掛けられた罠や陥れる言葉から守り、昼飛び来る矢も、暗黒の中を歩きまわる疫病も襲うことは無い、という約束を与えられているが、主に信頼せず、主との約束をないがしろにするような人に対しては、主は逆に、その人を罠に落とし、いかに鎧で身を固めていようとも隙間に矢をヒットさせ(1列王記22:34)、急な疫病を望ませて滅ぼされるのだ(民数記11章)。

彼らが担いてきた契約の箱の中には、御言葉の記された石版の他に、芽を出したアロンの杖と、マナの入った壺も入っている。
私達自身の心の「石版」にこそ御言葉を記し、十字架の死と復活という「アロンの杖」をいつも手放さず、主ご自身からのいのちの養いである「マナ」によって、いつも養われている事が大事なのだ。

十字架のアクセサリーを身に着けるよりも、日々、自分の追うべき十字架を負うべきであり、御言葉を家の壁やトイレに張るよりも、私達の思いと、口と、心にいつも御言葉を置くべきである。
大事なのはアイテムではなく、御言葉なる主への従順なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:サムエルのはじめての預言 - エリの家への災い(1サムエル記3:11-21):右クリックで保存

主が、サムエルに初めて現れ、告げられた言葉の内容は、育ての親とも言える祭司エリの家に対する災いの預言であった。

『その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。
わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。それゆえ、わたしはエリの家に誓う。エリの家の悪は、犠牲や供え物をもってしても、永久にあがなわれないであろう」。サムエルは朝まで寝て、主の宮の戸をあけたが、サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。』(1サムエル記3:11-15)

主のこの言葉は、サムエルに対して、ではなく、エリとその家に向けて主が発せられた、二度目の警告である。
一度目は、直接エリに対して語られたが、その”一度目”から、少年サムエルがある程度成長するくらいの、少なからぬ時が経っていた。
しかしエリはその間、子達が神を汚している事を「抑止(カーハー)」しなかった。(13節)
親は、子が罪を行った時、口先で「そんな事してはダメ」と言うだけでは、足りない。
その罪を「抑止(カーハー)」し、その罪の行動を止めさせなければ、意味が無いのだ。

『しかしエリはサムエルを呼んで言った、「わが子サムエルよ」。サムエルは言った、「はい、ここにおります」。エリは言った、「何事をお告げになったのか。隠さず話してください。もしお告げになったことを一つでも隠して、わたしに言わないならば、どうぞ神があなたを罰し、さらに重く罰せられるように」。そこでサムエルは、その事をことごとく話して、何も彼に隠さなかった。エリは言った、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」。』(1サムエル記3:16-18)
エリはサムエルに、主からどんな言葉が与えられたのか、それを教えないなら、神が重く罰せられるように、と、かなり厳しい口調で、教えるように命じた。
この事は、サムエルにとって益だった。なぜなら、預言者たるものは、どんなに語りづらい言葉であっても、主が与えて下さった言葉は、何であれ語るべきだからであり、最初にその訓練が出来たからだ。

サムエルが全てを隠し立てせず、全て話し終わった時、エリの「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と言った。
一見、信心深そうに見える言葉ではあるが、このような「主に食い下がらない姿勢」「主との交わりを断絶してしまうような姿勢」は、滅びる者に共通する性質である。
自分に対する、災いの言葉が与えられたなら、アブラハムやモーセ、ダビデのように、主に赦しを乞い願い、あくまで食い下がるために、主と対話を続けるべきである。(創世記18章、出エジプト記32章、詩篇51編)

エリに対する二度目の警告は、彼にとって意外な人物、彼に仕えている少年・サムエルを通して、為された。
しかし結局、彼らは「どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と言ったきり、全く改めなかった。
それでも、彼らに「成る」と言われた災いが実現するは、もっと後である。その間、主はずっと、彼らが立ち返る事を待っておられたのだろう。

もし災いの預言が与えられたとしても、それを聞いて、悔い改めるのなら、その災いは実現しないものだ。
イスラエル史上最悪の王・アハブでさえ、預言者エリヤから、主から災いを降されるという預言を聞いた時、断食をし、荒布を着て伏し、打ちしおれてへりくだった結果、主は彼が生きている間は、災いを降さないように、主はして下さった。(1列王記21:17-29)
また、邪悪な町ニネベも、ヨナの説教によって悔い改め、上から下まで断食をし、主の前にへりくだった所、警告されていた災いは降されなかった。
主は、悪者が滅びるのを望まれず、悔い改めて悪から離れるのを待たれるお方だ。(エゼキエル18:23-32)

サムエルが、主から初めて託された言葉は、育ての親に伝えるには、厳しい内容であった。
彼はまだ少年で、祭司エリとその子達が、主の前にどんな悪いことをしたのか、実感も、理解も、出来ていなかっただろう。
しかし、自分が理解できる事であれ、できない事であれ、あるいは幸いな内容であれ、災いの内容であれ、主から与えられた言葉は、そのまま、正確に人に伝える事は、預言者として必須のたしなみである。
彼はこの最初の”預言者”としての仕事を正しく全うした結果、主はさらに彼を用いられるようになった。

『サムエルは育っていった。主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので、ダンからベエルシバまで、イスラエルのすべての人は、サムエルが主の預言者と定められたことを知った。主はふたたびシロで現れられた。すなわち主はシロで、主の言葉によって、サムエルに自らを現された。こうしてサムエルの言葉は、あまねくイスラエルの人々に及んだ。』(1サムエル記3:19-21)
祭司エリの時代は、神の宮シロにおいて主のまぼろしが示されるのは、まれになっていた。
サウル王の時もそうであったが、指導者が不従順であるなら、主の示しは得られなくなってしまうのだ。
しかし、主に忠実なサムエルの登場によって、再び主のことばが再び、イスラエルに示されるようになった。

そうして与えられる主の御言葉は、決して虚しく地に落ちるものではない。
必ずいのちを生み出し、主の言い送った事を必ず実現させる。(イザヤ55:10-11)
夢やまぼろしなど「見えるもの」を追い求める人は、騙されやすいが、御言葉によって養われる人は、着実にいのちを伸ばして行く。
そして御言葉によって養う人は、決して誤った導きをする事は無い。

サムエルのように、御言葉によって良く養われ、御言葉によって人を養う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:サムエルの召命(1サムエル記3:1-10):右クリックで保存

『わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。』(1サムエル記3:1)

サムエルは少年に成長し、神と人とに愛されつつ、主の御前で仕えていたが、祭司エリには、御言葉が示される事も、主からの幻も、まれになってしまっていた。

『神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、』(1サムエル記3:3)
シロに主の箱があった当時、そこはモーセの時代の「幕屋」の形式ではなく、柱がある神殿のような所だったようである。(1:9)
神の箱も手軽に担ぎ出されたりしていたので、当時は、律法で定められた通りではなく、自己流的な神殿だったのかもしれないが、夜の間はともしびを灯す定め(出エジプト記27:21)は守られていたようである。
そこに聖所と至聖所を区切る幕があったかどうかは定かでないが、サムエルは、主の箱の近くで寝る事を常としていた。
そんなある日、彼に突然、主からお呼びがかかる。

『主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。』(1サムエル記3:4-5)
主が呼ばれたのに、サムエルはエリが呼んだと勘違いして、エリの元に走って行った。
主は、夢や幻などで現れる事もあるが、サムエルの場合、誰かが語りかける声のような形で、主からの語りかけを聞いた。
エリとしても、サムエルとしても、何か夢でも見て、勘違いしたのだろう、日常でも有り得る事だとして、この場を収めようとしたが、主は、再びサムエルを呼ばれる。
サムエルは最初と同様、エリの所へ行って、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」と言ったが、エリは「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」と、同じように返事をした。
お互い、少しおかしいな、くらいは思ったかもしれない。
『サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。』(1サムエル記3:7)
サムエルは、「主に仕え」ていはいた。少年でもできる雑用を働いていたかもしれないが、「主から言葉を受け、それを人に伝える」という「預言者」としての仕事は、当時、エリさえまれだったので、彼はまだ主を知らなかった。
私達も、主が語りかけておられるのに、あるいは主を知らないがゆえに、それを偶然で片付けたり、誰かが何かしたのだろうなどとして、日常の一部として片付けてしまったりする事があるかもしれない。

『主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。』(1サムエル記3:8-9)
サムエルは3度目の事なので、おかしいとは思たであろう。
しかしそれでも、声を無視する事なく、また声に声だけをもって返答するでもなく、顔と顔を合わせて話するために、エリの所へと再び行った。
これは、神の言葉を預かって人に届ける「預言者」として、重要なたしなみである。

それにしても主はなぜ、最初からサムエルに自らを明かさなかったのだろう。
モーセの時のように、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主である」と、最初から自己紹介していたなら、もっと簡単に話が進んだであろうに。
しかし、もしもそうしていたなら、サムエルはエリを何度も起こしに行く事は無かっただろうし、エリも、サムエルに主が現れた、と、強く印象づけられる事も無かっただろう。
人の目に、まわりくどいと思えるような方法を、主が取られる時には、それなりの理由があるのだ。

『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。』(1サムエル記3:10)
サムエルは、エリに教えられた通りの正しい受け答えをた。
「しもべ」は「聞く」、この姿勢は預言者だけでなく、私達神の民全員に、とても重要な姿勢である。

ヨシュアも、城塞都市エリコを攻略しようとしていた時、一人の人が抜身の剣を持ってこちらに立っていたので、声をかけた。
「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか。」(ヨシュア記5:13)
彼は、自分が話している相手が、主の軍の将だと知った時、サムエルと同じように、正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(ヨシュア記5:14)

「わが主は」「しもべに」何を告げようとされるのか、と、ひれ伏し拝して伺う。
そう、主こそ語る側であり、私達こそ「しもべ」、そして聞く側である。
だから、主にいのり倒して、こちらの願いを無理やり聞いてもらおうという態度は、正しいものではない。

昨今の日本も、サムエルやエリの時代のイスラエルのように、主の御声や、御言葉が、公な所で語られる事は、ほぼ無い。
そんな中において、私達キリスト者は、主のしもべとして、また、サムエルのような主の働き人の予備軍として、いつも聞く姿勢を持っていたい。
主は何も、奇跡やしるし、幻などの内でしか語られないものではなく、いつも語られている。
それは、あまりに日常な中なので、最初のサムエルやエリが取ったように、日常に有り得る事として片付けてしまっているかもしれない。
しかし主は、日常の御言葉において、また、牧師の聖書メッセージや、兄弟姉妹との御言葉を交えた分かち合いなどを通して、ひっきりなしにご自身を示しておられる。
そうした主の御声を逃す事が無く、御旨を悟ってその通りに歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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