メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章21-31節を基に、イスラエルの堕落と主の裁き、そして悔い改めと贖いについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:21-31
【戒めの言葉】
教会に通いながら罪を悔い改めず、同じ罪を繰り返す者は、不純物として取り除かれる危険がある。
【勧めの言葉】
真の悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが求められている。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、涙を流して悔い改め、二度と同じ罪を犯さないと決心することが必要。
【***詳細***】
今日の御言葉は、イザヤ書1章21節から31節までです。この箇所は、イスラエルに対する主の失望と、悔い改めへの促しから始まっています。
主は、かつて正義と公正が宿っていたエルサレムが、今や不義に満ちた街となってしまったことを嘆いています。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」(21節)と主は言われます。
主は、イスラエルの堕落を具体的に指摘されます。「お前の銀は金かすになった。お前の良い酒も水で割ってある」(22節)。これは、純粋なものの中に不純物が混ざってしまった状態を表しています。本来は良いはずの銀や葡萄酒が、混ぜ物によって価値を失ってしまったのです。
さらに主は、指導者たちの腐敗を非難されます。「お前のつかさたちは反逆者、盗人の仲間。皆、賄賂を愛し、報酬を追い求める」(23節)。正義を守るべき立場にある者たちが、逆に不正を働いているのです。
このような状況に対し、主は厳しい裁きを宣言されます。「ああ、私のあだに思いを晴らし、私の敵に復讐しよう」(24節)。主は、イスラエルの中にある敵、つまり主に逆らう者たちを裁かれるのです。
しかし、主の目的は単なる破壊ではありません。「しかし、お前の上に再び我が手を伸ばし、お前の金かすをあくのように溶かし、その浮きかすを皆のぞこう」(25節)。これは、純粋な銀を得るために不純物を取り除く精錬の過程を表しています。主は、イスラエルを清めて、本来あるべき姿に戻そうとされているのです。
「 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。」(26節a)。主は、イスラエルの指導者たちを正しい者に立て直そうとされています。
そして、清められたイスラエルの将来について、主は希望に満ちた約束を与えられます。「その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」(26節b)
この箇所から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。私たちもまた、教会に通い、クリスチャンとして生活しているつもりでも、知らず知らずのうちに不純物を混ぜてしまっているかもしれません。純粋な信仰が、世俗的な考えや行動によって汚されてしまう危険性は常にあるのです。
主は、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」(27節)と言われます。ここで重要なのは、「悔い改める者」という言葉です。単に教会に通うだけでなく、真に悔い改め、主の前に立ち返る者が贖われるのです。
バプテスマのヨハネの言葉を思い出しましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)。悔い改めは単なる言葉だけではなく、具体的な行動の変化を伴うものでなければなりません。
私たちは、自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、心を裂き、涙を流して悔い改めなければなりません。そして、二度とその罪を犯さないと決心し、主の助けを求めて歩む必要があります。
主は、「背く者は、罪人と共に破滅し、主を捨てる者は、失せ果てる」(28節)と警告されます。悔い改めない者、主を捨てる者には厳しい裁きが待っているのです。
しかし、主の目的は私たちを滅ぼすことではありません。主は、私たちを清め、純粋な信仰を持つ者としたいのです。「 あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 」(29節)。ここでの「樫の木」や「園」は、偶像礼拝の場所を指していると考えられます。主は、私たちが頼りにしている偽りの神々や世俗的な価値観が、実は何の役にも立たないことを示されるのです。
「つわものがあさくずに、そのわざはひばなになり、そのふたつとももえたってこれをけすものがいない」(31節)。ここでの「つわもの」は、自分の力を頼みにする者を表しています。しかし、主の前では、人間の力など何の価値もありません。
私たちは、自分の中にある不純物、主の御心に反するものを取り除いていただく必要があります。それは時に痛みを伴う process かもしれません。しかし、それによって私たちは純粋な信仰を持つ者となり、主に用いられる器となることができるのです。
【結論】
今日の御言葉は、私たちに厳しい警告と同時に、希望に満ちた約束を与えています。私たちは、自分の罪を認識し、真摯に悔い改め、主の清めを受け入れる必要があります。そうすることで、私たちは「正義の街、忠心な都」の住民として、主に喜ばれる者となることができるのです。主の恵みによって、私たちが日々、悔い改めと信仰の歩みを続けていくことができますように。アーメン。
圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-3-13 23:39
礼拝説教メッセージ音声:圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5):右クリックで保存
『こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。サウルとその子ヨナタン、ならびに、共にいる民は、ベニヤミンのゲバにおり、ペリシテびとはミクマシに陣を張っていた。』(1サムエル記13:15-16)
サムエルは、サウルを置いて行ってしまった。
サムエルが来ていけにえを捧げるまで待て、と言われていたのに待ちきれず、身勝手に自分でいけにえを捧げ、主にそむいてしまったためだ。
これから何を為すべきか、という示しを何も頂けないまま、サムエルに去られてしまったが、それでもペリシテ人は容赦なく迫ってくる。
ペリシテ人達は、三組に分かれて、イスラエル領土内を荒らしに来ていたが、サウルに付き従う人々は既に大勢逃げてしまい、今や、六百人ほどになってしまった。
しかも、武器を持っているのは、サウルとヨナタンだけだった。なぜなら、ペリシテ人はイスラエルに武器を作らせないようにと、鍛冶を禁じていたからだ。
イスラエルに敵するペリシテは、戦車3万に、騎兵6千、歩兵は海辺の砂粒のように多い。
誰がどう見ても、イスラエルに勝ち目が無い状況である。
この時、再びヨナタンが行動を起こす。
『ある日、サウルの子ヨナタンは、その武器を執る若者に「さあ、われわれは向こう側の、ペリシテびとの先陣へ渡って行こう」と言った。しかしヨナタンは父には告げなかった。』(1サムエル記14:1)
この戦いが始まったのも、そもそも彼がペリシテの守備隊長を打ったのが発端だった。
彼は、父サウルには黙ってペリシテ人の先陣へと行った。
なぜ父サウルに黙って行ったのだろう。
後の箇所を見るとわかるが、サウルは民に無意味な制約を科したり、いらぬ所で変な命令を出したり、あるいはそれを翻したりして、民を右往左往させる事をしきりに行うのだが、すでにその徴候があったのかもしれない。それでヨナタンは、父に何も知らせずに行ったのかもしれない。
『サウルはギベアのはずれで、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていたが、共にいた民はおおよそ六百人であった。またアヒヤはエポデを身に着けて共にいた。アヒヤはアヒトブの子、アヒトブはイカボデの兄弟、イカボデはピネハスの子、ピネハスはシロにおいて主の祭司であったエリの子である。民はヨナタンが出かけることを知らなかった。』(1サムエル記14:2-3)
アヒヤは、かの悪名高きエリの子ピネハス、聖徒の捧げ物をかすめ奪って聖所でみだらな事をした、あの祭司・ピネハスの孫で、ピネハスが死んだ日に生まれたイカボテ(栄光なしという意味)の兄・アヒトブの子であり、エリの「ひ孫」にあたる。
サウルは、神に伺いを立てる祭司を近くに呼び寄せていたが、それはサウルには、あまり意味をなしていない事が後に明らかになる。
サウルは、ざくろの木の下で、何の手立てもなくただじっとして、民がこっそり逃げて行くにも手をこまねいているだけの状況だったが、ヨナタンの心には、サウルとは別の思いがあった。
こんな時機に、父サウルと一緒に手をこまねいていても、主は何も働かれない、自分で信仰による行動した方がいい、そう思って、父に黙って出かけたのだろう。
不信仰の愚かな者が、支配権を握っている時、その配下の信仰者が、不信仰の者に黙って行動する、という事は、確かにある。ナバルに対してのアビガイルもそうだった。(1サムエル記25章)
ペリシテの略奪隊は、既に三組に分かれて、イスラエルをなぶり始めている。
ヨナタンは彼らを「割礼なき者ども」と見、主は神の民をなぶる者達を必ず滅ぼしてくださると、信頼して出て行った。
それは、信仰なき者が見るなら無謀以外の何者でも無い。父が聞くなら、当然止める事だろう。
だから、父に内緒で行ったのだ。
主を知らず、生まれながらの感性や価値観で生きている「生まれながらの人」は、「霊の人」の信仰の行動を、愚かと見なす。
『生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。』(1コリント2:14-16)
御霊にある人は、肉にある人には想像もできないような事業を為し、そしてそれは成功し、その全ての行程において、神が栄光をお受けになるのだ。
ヨナタンのその信仰の行動が、再び、イスラエルと敵とを、大いに揺り動かす。
世を支配しておられるのは主であるが、主はどういうわけか、主を畏れ敬う人達の、信仰にある行動を用いて、世界を動かして行く。
信仰によって御言葉に従順し、主の御胸を行い、いのちで満たしていく事に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:待つ事が出来なかったサウル(1サムエル記13:1-14):右クリックで保存
『サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。』(1サムエル記13:1)
この1節の原文は、どう訳して良いのか難解な文となっており、訳し方が多岐に分かれる所である。
口語訳や新改訳では、三十歳で王の位についた、とあるが、脚注にある通り、それは「推定」であって正確ではない。
ちなみに原文をそのまま並べると、「子(血筋) 年 サウル 中で 統治する と 二つの 年 統治する 上に イスラエル」となっており、どのように意味を汲んで良いのか正確な所が分からない。
サウルが何年王として統治し影響力を振るったのかは、正確な所は分からないが、ひとつ明らかな事は、彼の統治は「短かった」事だ。
なぜなら、サウルは主の道を歩まなかったからである。
この箇所では、サウルはまだ王となったばかりであるが、早速、主の道に歩まない性質が現れはじめる。
『さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。』(1サムエル記13:2-3)
神の民の敵・ペリシテに、最初に戦いを挑み、そして勝利したのは、サウルの子・ヨナタンだった。彼は手勢の1000人を引き連れ、守備兵を破った。
その事は、イスラエルにも、敵にも、動きを起こさせる事となった。
それにしても、サウルはなぜこの時、「イスラエルよ」と呼びかけずに、「ヘブルびとよ」と呼びかけたのだろう。
14:21を見ると分かるが、ヘブル人でありながら、神の民イスラエルに逆らい、ペリシテについた者もいた。だから、いわゆる「神の民イスラエル」へ限定した呼びかけではなく、ヘブル語がわかる者なら誰であっても聞け、という事だったのかもしれない。
『イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。 』(1サムエル記13:4)
ペリシテの守備兵を破ったのは、ヨナタンだったはずだが、なぜか「サウルがペリシテびとの守備兵を敗った」事が、イスラエル中に広まった。
後のサウルの言動を見ると分かるのだが、彼は、人の手柄は自分のものにし、自分の都合が悪い事は人のせいにする性質がある。
『ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千(原文:三万)、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。』(1サムエル記13:5-7)
イスラエルの軍隊は、三千。それに比べ、ペリシテが戦うために出てきたのは、戦車の数だけで、イスラエルの数を上回っている。
それで人々は、逃げ隠れした。
サウルが守備隊を破った、というだけ取り上げていたなら、サウルの(本当はヨナタンの)手柄で沸き立っていたであろうが、それがペリシテを怒らせ、大軍を呼び覚ましてしまった、となっては、大変な事になったと思っただろう。
人々はこの大軍を前に、震えるしかなかった。
しかし今まで、神の民・イスラエルに対して敵が圧倒的勢力で攻めて来た事は、幾度もあった。
例えばギデオンの時は、わずか三百人で、十三万五千の敵を圧倒した。
神の国の戦いは、兵力や装備による戦争ではなく、神ご自身が戦われるか、闘われないか、によって、勝敗が決まってきた。だからサウルに必要な事は、兵や装備をつのる事ではなく、ただ勝利の主に信頼する事だけだった。
しかしサウルは誤った事をしてしまう。
『サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。』(1サムエル記13:8-9)
サウルはここで、二つの罪を犯している。
祭壇で主にいけにえを捧げる行為は、レビ族しか許されていないはずだが、それを行ってしまった事、そして、サムエルを待たずに自分勝手に行動してしまった事だ。
『その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。』(1サムエル記13:10-12)
サウルは、民は彼を離れて散って行くのを見て、これ以上民が離れて行かないようにするため、アピール目的でいけにえを捧げたのだ。
燔祭とは全焼のいけにえであり、自分の全てを捧げます、という主に対する意思表示のはずだが、彼の場合、主に対する信仰は一切無く、ただ人をつなぎとめるための「動物焼きパフォーマンス」に過ぎなかった。
それは、主の御前に悪でしか無い。
『サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。』(1サムエル記13:13-14)
サムエルがかつてサウルに命じたのは、『あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:8) であった。
サムエルが来ていけにえを捧げたなら、サウルがその後しなければならない事が、主から告げられる、はずだった。
しかし、彼が主を待たず、身勝手な事をしてしまった今となっては、次なる主の示しは与えられない。
しかし、このただ一度の失敗で、もはや永遠に手遅れ、という訳ではない。
サムエルが言ったのは「今は、あなたの王国は続かない」であって、「もう決して、あなたの王国は続かない」ではない。
実際、サウルは敗者復活のチャンスが後に与えられる。
終わりの時代、患難の時がやって来る。
その時、主を忍耐して待たなければならないが、それは人が思っているよりも遅い事が、あらかじめ主から示されている。(2ペテロ3:9)
主を待ち望め、それは旧約でも新約でも共通する命令である。
いかに「遅い」と思えるようであっても、主が「待ち望みなさい」と言われたからには待つべきであって、サウルのように焦って、ひとりよがりの行動してはならない。
不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-3-11 23:50
礼拝説教メッセージ音声:不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25):右クリックで保存
サムエルは、イスラエルがモーセの時以来、いかに主に対して不真実に歩んできたかを指摘し、それに加えて、王を求めるという罪まで犯した事を指摘した。
『それゆえ、今、あなたがたは立って、主が、あなたがたの目の前で行われる、この大いなる事を見なさい。きょうは小麦刈の時ではないか。わたしは主に呼ばわるであろう。そのとき主は雷と雨を下して、あなたがたが王を求めて、主の前に犯した罪の大いなることを見させ、また知らせられるであろう」。そしてサムエルが主に呼ばわったので、主はその日、雷と雨を下された。民は皆ひじょうに主とサムエルとを恐れた。』(1サムエル記12:16-18)
イスラエルには雨季と乾季があり、小麦の刈り入れ時、すなわち、6月頃は雨は降らないはずなのだが、サムエルが祈り求めると、主は雷と雨がくだされた。
それは、あり得ない天気である。
サムエルがありえない時期に雷と雨を呼び求め、そして主がそれに応えられたのは、イスラエルの民がいかに主を無視し、主に罪を犯したかを示すためであり、また、主は呼び求めるなら答えてくださるお方であると示すためでもある。
『民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」。』(1サムエル記12:19)
イスラエルの民は恐れ、自分達が主の御心を損ねた事を明確に告白した。
そして、主から災いが降されないよう祈り求めるように、サムエルに願った。
私達も、罪が示された時、具体的にそれを告白して悔い改めているだろうか。
そして、それを改めるための行動を起こしているだろうか。
私達は、主の愛の広さ、高さ、長さ、深さをますます理解できるよう、その理解力が与えられるように祈る必要があるが、それと同時に、自分達がいかに主を悲しませ、御旨を損ねて来たかも理解できるよう、祈り求める必要がある。
『サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。むなしい物に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うこともできないむなしいものだからである。』(1サムエル記12:20-21)
サムエルは、恐れてはならない、と言った。
民は確かに罪を犯した。しかし主に従って歩むなら、主は赦してくださる、と。
主はなぜ赦して下さるのか。
それは、自分達が主に対して罪を犯し、御心を損ねた事を正確に認知し、具体的にそれを告白し、救われたいと願ったからだ。
このように、罪の赦しと、神との和解とは、無条件のものではない。自分の罪を告白し、悔い改めの意思表示をして、はじめて与えられるものである。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。』(ルカ17:3-4)
悔い改め無き赦しは、ありえない。
しかし、もし「悔い改めます」と言って一日に七度でも来るなら、七度でも赦すべきなのだ。
『主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。』(1サムエル記12:22)
主は、主の御名のプライドにかけて、イスラエルの民を捨てる事をされない。
確かにイスラエルはかたくなな民であり、主に罪を犯し続ける事も、かたくなに止めないものだが、それでも主が捨てられないのは、「主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるから」である。
『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。』(1サムエル記12:23)
サムエルもまた、イスラエルのために、執り成し祈る事を止めて「主に罪を犯す」わけにはいかない、と言った。
サムエルからすれば、イスラエルはずっと主に罪を犯し続けてきたのを、彼は若い時からずっと見て来て、もううんざりしていた事だろう。
もうそろそろ、投げ出してしまいたい、と思っていたかもしれないが、それでも、祈りをやめる事はしなかった。祈る事を止めるのは、主に罪を犯すことである、として。
私達も、家族や仕事場、友人知人のため、そしてこの国のために、祈る事をストップするべきではない。
『あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。』(1サムエル記12:24-25)
ここに、二つの道が示されている。
「ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕え」るか。それとも、「なおも悪を行う」か。
主に誠実に心を尽くして仕えるなら、末永く幸いを得る。しかし「なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされる。」
もはや主を悲しませる歩みを止めて、主を喜ばせる歩みをし、主が喜んで祝福を注いで下さるような者へと変えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-3-9 22:14
礼拝説教メッセージ音声:主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15):右クリックで保存
前回のところでは、サムエルが今までイスラエルをいかに真実に導いて来たかを証し、人々もそれに同意したが、今回の所では、主がイスラエルに対しいかに真実を尽くして導いてこられたかを、思い起こさせている。
『サムエルは民に言った、「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出された主が証人です。それゆえ、あなたがたは今、立ちなさい。わたしは主が、あなたがたとあなたがたの先祖のために行われたすべての救のわざについて、主の前に、あなたがたと論じよう。』(1サムエル記12:6-7)
私達も、主がいかに良くしてくださったかを、事あるごとに思い起こす必要がある。
主は、私達のために、いかに良い事をはからい、私達を愛され、贖いの御業を為してくださったか。
主はそれを為し遂げるために、十字架上でどれほど傷まれ、うめかれ、苦しまれたか。
主が私達に為して下さった事は、ことごとく真実であったと、私達も証するべきなのだ。
『ヤコブがエジプトに行って、エジプトびとが、彼らを、しえたげた時、あなたがたの先祖は主に呼ばわったので、主はモーセとアロンをつかわされた。そこで彼らは、あなたがたの先祖をエジプトから導き出して、この所に住まわせた。』(1サムエル記12:8)
主は、エジプトで苦しめられているイスラエルを助けられた。
彼らが主に向かって叫び、助けを求めたからだ。
主は当初からイスラエルにいつも真実を尽くして来られたが、そのイスラエルは、主に対して不真実で答えて来た。
『しかし、彼らがその神、主を忘れたので、主は彼らをハゾルの王ヤビンの軍の長シセラの手に渡し、またペリシテびとの手とモアブの王の手にわたされた。そこで彼らがイスラエルを攻めたので、民は主に呼ばわって言った、『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』。主はエルバアルとバラクとエフタとサムエルをつかわして、あなたがたを周囲の敵の手から救い出されたので、あなたがたは安らかに住むことができた。』(1サムエル記12:9-11)
申命記においてモーセが口を酸っぱくして言った事は、主の御声に聞き従い、それを守り行いなさい、という事であり、もし聞き従わずに主を捨てるなら、必ず災いが起こるという事も、何度も言って来た。
しかし彼らは、「してはならない」と言われた事を敢えて「して」、「行ってはならない」と言われていたの所に敢えて「行った」ため、当然のごとく、災いが身に降り掛かった。
しかし彼らが『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』と言った時、彼らが主に為して来た所業にも関わらず、主は豊かに赦し、主は士師を遣わしてイスラエルを助けられた。
御言葉はまさに、法則そのものである。
御言葉に従って歩むなら、主守りの内に幸いに栄えるが、主と主の御言葉に背き、してはならないと言われている事を敢えてするなら、必ず災いを受ける。
しかし、そこからさらに立ち返るなら、主は豊かに許してくださる。
主こそまさに、憐れみ深いお方である。
そして12節以降で、サムエルは、イスラエルがまさに「している」事について言っている。
『ところが、アンモンびとの王ナハシが攻めてくるのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、あなたがたはわたしに、『いいえ、われわれを治める王がなければならない』と言った。それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。』(1サムエル記12:12)
イスラエルはかつて、王を求めた事は無かった。主が王であったからだ。
しかしこの度、イスラエルは、今まで真実に導いて来られた主を無視し、人間の王を求めたのだ。
たとえるなら、心砕いて養って来てくれたお母さんを目の前にして、「いや、自分には養ってくれるお母さんが必要なのだ」などと言っているようなものである。
イスラエルは、主を無視して王を求める、という罪を犯した、にも関わらず、主は彼らを見捨てず、真実を尽くして下さる。
『もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。』(1サムエル記12:14-15)
イスラエルは、王が自分達を正当に守り導いてくれると夢見ていたが、王たる者や指導者たる者が必ずしも間違えずに正当に導くとは限らないし、彼らが主に真実に従うとは限らない。
牧師や教職者といえども、人は皆、間違った道へと人々を導いてしまう可能性を秘めているのだ。
確かに地上には、服すべき指導者や王がいる。
しかし、私達が最も優先して服すべきは、御言葉であられるキリストだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主が耐えられない程忌み嫌う礼拝(イザヤ1:10-20)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。
【聖書箇所】
イザヤ書1章10-20節
【戒めの言葉】
虚しい礼拝や見せかけの信仰を捧げることを戒めています。
【勧めの言葉】
主の前に出て、主と論じ合い、悔い改めて清められることを勧めています。
【悔い改めの促しの言葉】
罪を認識し、主の前に出て悔い改め、清められることを促しています。
【***詳細***】
この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。説教者は、イスラエルの民がソドムやゴモラと同じように罪深くなっていたことを指摘し、彼らの礼拝が主に喜ばれないものとなっていたことを説明します。
まず、10-11節で、主は彼らの多くの生贄を喜ばないと述べています。「あなた方の多くの生贄は、私に何になろう、と主は仰せられる。私は、お羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。」これは、形式的な礼拝や儀式が主の心を満たさないことを示しています。
12-15節では、主は彼らの礼拝や祭りを重荷に感じ、彼らの祈りを聞かないと言っています。「あなた方の新月の祭りや礼祭を私の心は憎む。それは私の重荷となり、私は担うのに疲れ果てた。」これは、心からの悔い改めや信仰がない状態での礼拝や祈りは、主に受け入れられないことを示しています。
特に15節では、「あなた方が手を差し伸べて祈っても、私はあなた方から目をそらす。どんなに祈りを増し加えても聞くことはない。あなた方の手は血まみれだ。」と厳しく述べられています。これは、罪を悔い改めずに捧げる祈りは聞かれないことを意味しています。
しかし、16-17節で主は解決策を提示します。「洗いきよめよ。自らを清くせよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪を行うのをやめ、善を行うことを学べ。」これは、悔い改めと善行の実践を求めるものです。
18節は非常に重要な約束を含んでいます。「さあ、来たれ。共に論じ合おう。─主は言われる─ たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」この箇所は、真摯な悔い改めと主との対話を通じて、どんな大きな罪も赦されうることを示しています。
説教者は、この「論じ合う」ということの重要性を強調しています。単に形式的に教会に来るのではなく、主と真剣に向き合い、対話することの必要性を説いています。
19-20節では、従順さの重要性が語られています。「もし、すすんで聞き従うなら、あなたがたは地の良い物を食べることができる。しかし、もし拒んで逆らうなら、剣に食べられる。」これは、主の言葉に従順であることの祝福と、不従順の結果を明確に示しています。
説教の結びでは、私たちが「ミミズ」のような罪深い状態から、主の赦しによって「羊」のように清められ、主に導かれる者となることができると励まします。
この説教全体を通じて、形式的な礼拝や祈りではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活の重要性が強調されています。
【結論】
真の礼拝は、形式的なものではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活から生まれます。私たちは自分の罪を認識し、主の前に出て清めを求め、主に喜ばれる生き方を実践していくべきです。
礼拝説教メッセージ音声:霊的指導者の引き際(1サムエル記12:1-5):右クリックで保存
モーセも、ヨシュアも、引退する時には全イスラエルを呼び集めて、最後のメッセージをしたが、サムエルもこの章で引退メッセージをしている。
とは言っても、サムエルはそれで引退してめでたく隠居生活に入ったわけではなかった。
サウルが主の道を正しく歩まないために、色々と世話しなくてはならない事がまだまだ起こってしまうからである。
なにしろサウルは、サムエルが死んだ後さえ、口寄せを呼び寄せてまでサムエルから助言を得ようとしたほどだった。
『サムエルはイスラエルの人々に言った、「見よ、わたしは、あなたがたの言葉に聞き従って、あなたがたの上に王を立てた。見よ王は今、あなたがたの前に歩む。わたしは年老いて髪は白くなった。わたしの子らもあなたがたと共にいる。わたしは若い時から、きょうまで、あなたがたの前に歩んだ。』(1サムエル記12:1-2)
サムエルは、子供の時から主の言葉を伝える者として働き、イスラエルを導いてきたが、今や、サウルが油注がれ、イスラエルを導く王となった。
この時、サムエルが後継者として立てた彼の子達は、指導者の座から降りて一般人のようになっていたようだ。
サムエルは、子がわいろを取り、指導者として相応しくない行動を取ったとあれば、彼らをその座から降ろして、主に油注がれたサウルへと支配権を渡したのだろう。
サムエルは確かに子を霊的に純潔に育てる事はできなかったかもしれないが、祭司エリとは違い、子をそのまま支配の座につかせて続けて、罪を犯させる事を、させなかった。
私達もそのような潔さが必要である。
『わたしはここにいる。主の前と、その油そそがれた者の前に、わたしを訴えよ。わたしが、だれの牛を取ったか。だれのろばを取ったか。だれを欺いたか。だれをしえたげたか。だれの手から、まいないを取って、自分の目をくらましたか。もしそのようなことがあれば、わたしはそれを、あなたがたに償おう」。彼らは言った、「あなたは、われわれを欺いたことも、しえたげたこともありません。また人の手から何も取ったことはありません」。』(1サムエル記12:3-4)
サムエルは、もし自分に何か不正や責められるべき所があるなら、言ってみなさいと、堂々と言えたし、民もまたそれを見出さなかった。。
パウロも、死を覚悟した時、エペソの長老たちを呼び寄せて最後のメッセージしたが、その内容はサムエルのメッセージと重なる所が多い。
『わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。』(使徒20:25-27)
霊的指導者の責任は、主の御心をあます所なく伝えるまでである。
だから、キリスト者が為すべきは、慈善活動よりも、むしろ御言葉をあます所なく伝える事であり、その伝える中には当然、何が罪であり、罪を続ける結果の裁きや永遠の滅びなど、人が聞いて痛いような事も含まれ、そして、それからの救いは、主イエス・キリスト以外には誰もいない事を、はっきり伝えるべきである。
『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)
主にある弟子訓練とは、一緒にいる時は御言葉をしっかり伝え、分かれるべき時が来たなら御言葉にその人をゆだねる事であり、決して自分色や教団色に染める事ではない。言ってみればキリスト色に染める事であり、それには御言葉への従順が不可欠である。
牧師や教職者など、霊的指導する立場にある人は、次のように断言出来るだろうか。
『わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。』(使徒20:33-35)
私達はいつも主にあって走るべき道のりを熱心に走り、引くべき時には潔く引き、その時は、堂々と次のように言える者でありたい。
『サムエルは彼らに言った、「あなたがたが、わたしの手のうちに、なんの不正をも見いださないことを、主はあなたがたにあかしされる。その油そそがれた者も、きょうそれをあかしする」。彼らは言った、「あかしされます」。』(1サムエル記12:5)
礼拝説教メッセージ音声:確立されたサウル王朝(1サムエル記11:1-15):右クリックで保存
神と人との前で王の任命を受けたサウルだったが、王とはまだ名ばかりで、本人も民も、実体と心は全然伴なっていなかった。
そこで主は、彼を名実ともに王として整える出来事を起こされる。
それは、アモンという敵国の侵略だった。
イスラエル領内のヤベシュ・ギルアデに、アモンは大軍で攻め囲んで来たため、そこの人々は降伏を申し出るのだが、アモンの王ナハシュは言った。
『次の条件であなたがたと契約を結ぼう。すなわち、わたしが、あなたがたすべての右の目をえぐり取って、全イスラエルをはずかしめるということだ。』(1サムエル記11:2)
降伏を受け入れる条件に、人々の「右の目をえぐり出す」という残忍な事を要求し、その屈辱をさせて全イスラエルをはずかしめようとしたのだ。
『ヤベシの長老たちは彼に言った、「われわれに七日の猶予を与え、イスラエルの全領土に使者を送ることを許してください。そしてもしわれわれを救う者がない時は降伏します」。こうして使者が、サウルのギベアにきて、この事を民の耳に告げたので、民はみな声をあげて泣いた。』(1サムエル記11:3-4)
神の民イスラエル、随分となめられたものである。
アモン人は、イスラエルは自分達を恐れて、誰もヤベシュの人々を助けに来ないとたかをくくっていたのか、あるいは、たとえ助けが来たとしても、自分達はそれを圧倒できると思っていたのか、ともかくアモンは、ヤベシュの人々がイスラエル全土に使者を送るための七日の猶予を与えてやった。
近隣の敵国に、ここまで平然となめた行動を取られてしまう程に、イスラエルは、落ちぶれていたという事だ。
イスラエルは、自分達の一領土が異邦人に蹂躙されても何も出来ず、その知らせを受けても、ただ泣くしか無いほどに、無力、無能だったのだ。
この知らせをサウルが受けた時、彼は何をしていたか。
『その時サウルは畑から牛のあとについてきた。そしてサウルは言った、「民が泣いているのは、どうしたのか」。』(1サムエル記11:5)
サウルはなんと、王としての任職を受けたというのに、人々の先を進み行くのではなく、畑で牛のあとについて行っていたのだ。
何と情けない、と思うかもしれないが、私達もあながち、彼と同じような事をしているかもしれない。
ペテロとヨハネも、主が復活された後、宣教者として福音を届ける神の使者として任命され、聖霊の息を吹きこまれたはずなのに、一度手放した漁師の網を再び取って、元の生活に戻ろうとした。
私達も、せっかく任職を受けても、何をして良いのか分からない時は、以前の仕事に戻ってしまうような所があるかもしれない。
しかし主は、そんな私達に、聖なる任務を思い起こさせ、主の尊い働きへと導いて下さる。
『サウルがこの言葉を聞いた時、神の霊が激しく彼の上に臨んだので、彼の怒りははなはだしく燃えた。彼は一くびきの牛をとり、それを切り裂き、使者の手によってイスラエルの全領土に送って言わせた、「だれであってもサウルとサムエルとに従って出ない者は、その牛がこのようにされるであろう」。民は主を恐れて、ひとりのように出てきた。』(1サムエル記11:6-7)
ペテロやヨハネは、主に再び触れられた時、自ら網を捨て、宣教者として出て行ったが、サウルも同じように、それまで大事にして追っていた牛を、自らほふって切り刻んだばかりでなく、それを全イスラエルに送りつけて「だれであってもサウルとサムエルとに従って出ない者は、その牛がこのようにされるであろう」と、非常にシンプルかつ分かりやすいメッセージの道具とした。
サウルは、神の霊が激しく臨んだ時、怒りがはなはだしく燃えたが、聖なる神の集いが汚れた者にそしられ、なぶられている事に怒りを燃やすのは、正当である。
むしろ「忍耐します」「ゆるします」などとうそぶいて、聖なるものが蹂躙されてしまうのを許してしまう事こそ、不当である。
ダビデも、生ける神の陣がなぶられたのを見た時、また、なぶられ続けているイスラエルの情けない様を見た時、聖なる憤りに駆られ、じっとしていなかった。(17章)
サウルのこの知らせが届いた先では、「主」への恐れが生じ、彼らは「ひとりの人のように」サウルの元に出てきた。
『サウルはベゼクでそれを数えたが、イスラエルの人々は三十万、ユダの人々は三万であった。そして人々は、きた使者たちに言った、「ヤベシ・ギレアデの人にこう言いなさい、『あす、日の暑くなるころ、あなたがたは救を得るであろう』と」。使者が帰って、ヤベシの人々に告げたので、彼らは喜んだ。』(1サムエル記11:8)
彼らは、わずか七日以内に、全イスラエルから集まって来たのだ。
それまで、てんでバラバラだったのに、驚くべき一致の仕方である。
『そこでヤベシの人々は言った、「あす、われわれは降伏します。なんでも、あなたがたが良いと思うことを、われわれにしてください」。明くる日、サウルは民を三つの部隊に分け、あかつきに敵の陣営に攻め入り、日の暑くなるころまで、アンモンびとを殺した。生き残った者はちりぢりになって、ふたり一緒にいるものはなかった。』(1サムエル記11:10-11)
こうして、イスラエルは救いを得、サウルの見事な王としての導きに、全イスラエルが認めざるを得なくなった。
こうして皆、主が確かにサウルを王として立てられたと知ったのだ。
『その時、民はサムエルに言った、「さきに、『サウルがどうしてわれわれを治めることができようか』と言ったものはだれでしょうか。その人々を引き出してください。われわれはその人々を殺します」。しかしサウルは言った、「主はきょう、イスラエルに救を施されたのですから、きょうは人を殺してはなりません」。そこでサムエルは民に言った、「さあ、ギルガルへ行って、あそこで王国を一新しよう」。こうして民はみなギルガルへ行って、その所で主の前にサウルを王とし、酬恩祭を主の前にささげ、サウルとイスラエルの人々は皆、その所で大いに祝った。』(1サムエル記11:12-15)
このようにしてイスラエル最初の王朝、サウル王朝が成立されたが、その王朝はわずか一代で終わってしまった。
サウルはその後、主に従順してイスラエルを統治して行くのではなく、不従順となって主を退けたからだ。
私達も、従順して永遠の栄光を勝ち得るか、それとも不従順となってサウルの道を行くか、それは私達の「これから」にかかっている。
礼拝説教メッセージ音声:公に王となったサウル(1サムエル記10:14-27):右クリックで保存
『サウルのおじが、サウルとそのしもべとに言った、「あなたがたは、どこへ行ったのか」。サウルは言った、「ろばを捜しにいったのですが、どこにもいないので、サムエルのもとに行きました」。サウルのおじは言った、「サムエルが、どんなことを言ったか、どうぞ話してください」。サウルはおじに言った、「ろばが見つかったと、はっきり、わたしたちに言いました」。しかしサムエルが言った王国のことについて、おじには何も告げなかった。』(1サムエル記10:14-16)
サウルはそれまで、父の家畜の面倒を見るだけの者だったのが、いきなり、イスラエル全体の面倒を見る王へと、主が任命されたのだ。
あまりの突拍子無さ故に、サムエルが言った事を、中々言い出せなかったのだろう。
私達にも、そのようなふしが、あるかもしれない。
私達もキリストにあっては、サウルのように、聖霊の油が注がれ、新しい者に造り変えられ、王族の祭司とされ、聖なる国民とされた。
『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』(1ペテロ2:9)
この素晴らしい特権が与えられておきながら、その事を家族に黙っていて、相変わらず以前のような生き方をするようなキリスト者がいるとするなら、それは速やかに改めなくてはならない。
主からの「召命」を受け、それが確かに主から出た事であるという「しるし」を受け、「聖霊」も与えられたのであるのなら、いかなる事であっても、主が示して下さった道を歩むべきであり、また、他に対してもそれを明示していくべきである。
いかに主からの召命を「聞かなかった事」にしようとしても、それは隠すことは出来ず、いかに今までどおりの生活を続けようとしたところで、それは維持できなくなり、主の召された通りに歩まなくては、どうにもならなくなってしまうのだ。
サムエルはイスラエル全体を召集して、イスラエルに新しく王が誕生した事を、公然と示した。
『「それゆえ今、あなたがたは、部族にしたがい、また氏族にしたがって、主の前に出なさい」。こうしてサムエルがイスラエルのすべての部族を呼び寄せた時、ベニヤミンの部族が、くじに当った。またベニヤミンの部族をその氏族にしたがって呼び寄せた時、マテリの氏族が、くじに当り、マテリの氏族を人ごとに呼び寄せた時、キシの子サウルが、くじに当った。』(1サムエル記10:19-21)
サウルは王である事の召命を「個人的に」受けてはいたが、今度は「くじ」によって公に、彼が王である事を明らかにされた。
くじで王を選出する、というのは、常識では考えられないかもしれない。しかし当時のイスラエルでは、主の御名の元に投げられる「くじ」は、主の御心そのものを示すものであり(民数記26:55-56、34:13、箴言16:33)、くじの結果は100発100中の、御心を示すものだった。
実際、ヨシュアの時代には、聖絶のものを隠し持っている者を、イスラエル六十万の中からピンポイントで示したし、またこの時も、サウルを多くの群衆の中からピンポイントで示した。
ちなみに、くじが聖書で最後に用いられたのは、12使徒の補欠を補う時であり、その直後、ペンテコステの出来事で聖霊がしもべにもはしためにも注がれるようになったために、もはやくじで決める事はなくなり、主の働き人たちは、聖霊の導きによって主の働きを進めて行くようになって行った。
『しかし人々が彼を捜した時、見つからなかった。そこでまた主に「その人はここにきているのですか」と問うと、主は言われた、「彼は荷物の間に隠れている」。』(1サムエル記10:21-22)
サウルが王である事は、既に何度も主が示した事で、サウルはもはや隠れている場合ではないはずであるが、彼は隠れた。
しかし主は、その彼が隠れている場所さえピンポイントで示した。
主がヨナに、ニネベへ行って預言するよう命じた時、彼はその任務から逃げ、人混みにまぎれて、船の奥底に隠れたが、主はそれを露わにて引き出し、彼に与えた任務を遂行させた。
主が任命したからには、逃げ隠れしても、引きずり出されてしまうのだ。
私達も、王である祭司、聖なる国民という地位を頂いて、召し出して下さった方の御業をのべ伝えるという任務が与えられておきながら、逃げ隠れしたり、聞かなかったふりをしたり、今までどおり生活を続けようとしても、引きずり出されて、その任務へと戻されてしまうのだ。
『人々は走って行って、彼をそこから連れてきた。彼は民の中に立ったが、肩から上は、民のどの人よりも高かった。サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。その時サムエルは王国のならわしを民に語り、それを書にしるして、主の前におさめた。こうしてサムエルはすべての民をそれぞれ家に帰らせた。』(1サムエル記10:23-25)
彼は美しくて背が高く、人受けする外見であったため、人々から、王と認められやすい人だった。
人々は王を望み、そののぞみどおりに王が与えられたというのに、それでも反対者が出た。
『サウルもまたギベアにある彼の家に帰った。そして神にその心を動かされた勇士たちも彼と共に行った。しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。』(1サムエル記10:26-27)
神が示され、任命された王である。
それを拒否するような者は、本来許してはならないものだが、サウルはこの時、黙っていた。まだ王として未熟であり、権力を遂行する勇気も自覚も無かったからであろう。
未熟であるが故に、あるいは無知である故に、御胸どおりに行えないのであるなら、主は憐れみ深く、赦して下さり、さらにフォローさえして下さる。
しかし、そのようなフォローを受け続け、主がたしかにその道を守り、祝福しておられる事を沢山体験しておきながら、それでもなお意図的に主の御胸に反し続けるなら、それは許されない事であ。
礼拝説教メッセージ音声:主の霊が激しく降って預言をした、後(1サムエル記10:1-13):右クリックで保存
『その時サムエルは油のびんを取って、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った、「主はあなたに油を注いで、その民イスラエルの君とされたではありませんか。あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない。主があなたに油を注いで、その嗣業の君とされたことの、しるしは次のとおりです。』(1サムエル記10:1)
サウルに王としての任職の油が注がれ、ついに、イスラエルに王が誕生した。
サムエルはサウルに、この事は主から出た事である事を明確に示すため、かなり具体的に、これから彼に起こるしるしを告げる。
『あなたがきょう、わたしを離れて、去って行くとき、ベニヤミンの領地のゼルザにあるラケルの墓のかたわらで、ふたりの人に会うでしょう。そして彼らはあなたに言います、『あなたが捜しに行かれたろばは見つかりました。いま父上は、ろばよりもあなたがたの事を心配して、「わが子のことは、どうしよう」と言っておられます』。
あなたが、そこからなお進んで、タボルのかしの木の所へ行くと、そこでベテルに上って神を拝もうとする三人の者に会うでしょう。ひとりは三頭の子やぎを連れ、ひとりは三つのパンを携え、ひとりは、ぶどう酒のはいった皮袋一つを携えている。彼らはあなたにあいさつし、二つのパンをくれるでしょう。あなたはそれを、その手から受けなければならない。』(1サムエル記10:2-4)
これほどまでに具体的かつ事細かに示されるのは、聖書の中でも珍しい。
しかしそこまでサウルに示されたのは、彼に王としての油が注がれたのは、確かに全能の主から来た事であり、主は未来の事も完全に知り、全てを支配しておられる事を彼に教えるためだ。
『その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って「新しい(アカー:別の、違った)」人となるでしょう。』(1サムエル記10:5)
主の霊が激しく降ると、それまでとは違った、新しい人になる。
私達も同じように、主キリストにあって、新しく造り変えられた者だ。
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(ガラテヤ5:17)
ただし、武器を買ってもそれを装備しなければ効力を発揮出来ないように、「キリストのうちに」あり続けないなら、新しく造られた者としての効力は一切発揮されない。
サウルは、王としての任職の油が注がれたからには、その特権を正しく行使する責任も与えられたのであり、それをしないなら、せっかく主から任職の油が与えられても全く無益どころか、逆に害なすものとなってしまう。
私達も、王として、祭司として、聖なる国民としての特権が与えられている。その理由は、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった方の御業を、語り伝えるためである。(1ペテロ2:9)
だから、与えられた特権を活用し、主の栄光のため・神の国の働きのために用いるなら、その人自身も、その働きも、どんどん祝福されていく。
しかしその特権を乱用し、古き罪深い生き方をし続けるなら、不信者よりも格別きびしいさばきを受けてしまう。
『主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。』(ルカ12:47-48)
聖霊が激しく自分に降る事を求めるキリスト者は、たくさんいる。
しかし結局大事なのは、それが与えられた後の、御言葉への従順である。
サムエルは続けて言う。
『これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当りしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:7)
手当たり次第、何でもしなさい。
ここを直訳するなら「あなたの手に来た事は何でもしなさい」であり、つまり、何も起きていない所から自ら何かを考え出して実行する、という事ではなく、何か事が起きたなら、それに対して何とでも対処しなさい、という事である。
主の霊に導かれる人は、自分から何か思いついた事をするのではなく、主の霊の導きに従って行動するものなのだ。
当面、サウルが従順すべき事は、彼は先にギルガルに行くべき事、そして、そこで七日の間、サムエルを待つ事だと言われた。
忍耐して待つ事が七という完全数に満ちた時、サムエルが来て燔祭と酬恩祭をささげ、その後彼が為すべき事が示されるというのだ。
しかし、結論から言うと、サムエルが来る前にサウルが勝手に燔祭と酬恩祭をささげてしまったため、その後サウルに示されるべき道は、結局分からずじまいとなってしまった。
『サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った、「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。(1サムエル記10:9-11)
サウルは実際に預言し、「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」という言葉が、ことわざのようになった。
預言したり、聖霊が激しく降る事を望むキリスト者は多い。
しかし、聖霊に満たされる事や、預言が言えるようになる事が、キリスト者のゴールではない。
主が約束された永遠の御国に入る事こそ、ゴールであるべきだ。
モーセの時代、主の霊が与えられて預言したイスラエルの七十人の長老たちは、果たして約束の国に入れただろうか?
彼らは不従順の故に、約束の地に入れず、荒野で死んでいった。
サムソンは、主の霊が激しく降って、すさまじい力を発揮し大活躍したがその最後はどうだっただろうか。
彼は不従順を重ねた故に、壮絶な最後を遂げた。
サウルも同じである。
いかに主の霊が激しく降り、預言したとしても、不従順を重ね続けるなら、預言も夢も幻も取り上げられ、悲惨な最後となってしまうのだ。
今は終わりの時代であり、主の霊は、しもべにもはしためにも注がれている。(ヨエル2:28-32)
そして私達キリスト者は、王として、祭司として、聖なる国民として、主に立てられており、御言葉に従順となって、与えられている特権を正しく活かす事が求められている。
それを正しく行使するなら、永遠の栄光が待っている。
しかし不従順を重ねるなら、サウルのように、かの七十人の長老達のように、約束の地に入れないまま、荒野をさまよい続けるしか無いのだ。
