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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言者とは(イザヤ1:1-9)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書1章1-17節を基に、預言者の役割と真の預言の本質について解説するメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書1:1-17

【戒めの言葉】

真の預言者は耳障りの良いことだけでなく、主の怒りや戒めも正確に伝えなければならない。

【勧めの言葉】

預言を受ける側も、それを真剣に受け止め、悔い改めて従う必要がある。

【悔い改めの促しの言葉】

イスラエルの民への悔い改めの呼びかけを通して、私たちも罪を悔い改め、主に立ち返るよう促される。

【***詳細***】

本日の御言葉はイザヤ書1章1節から17節です。イザヤ書は旧約聖書の大預言書の一つであり、ユダ王国の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した預言者イザヤの預言が記されています。

まず、預言という言葉の本質について考えてみましょう。預言とは、ただ単に未来のことを当てることではありません。預言の漢字は「預かる言葉」と書きます。つまり、神様から言葉を預かって、それを人々に伝えることが預言なのです。

「預言の霊はイエスの証しです」(ヨハネの黙示録19:10)

と聖書にあるように、真の預言は必ずイエス・キリストを指し示すものでなければなりません。

預言者の役割は非常に重要であり、同時に危険を伴うものでした。偽りの預言をすることは、旧約時代には死罪に値するほど重大な罪とされていました。なぜなら、神の権威ある言葉を偽って伝えることは、多くの人々を誤った道に導くことになるからです。

イエス様もこう警告されています:

「しかし、この小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましです。」(マタイ18:6)

真の預言者は、人々の耳に心地よいことだけを語るのではありません。時には王や民衆の怒りを買うような厳しい言葉も語らなければなりません。そのため、多くの預言者が迫害され、殺されてきました。

イザヤ書1章の冒頭で、主は預言者イザヤを通して、イスラエルの民に対する怒りと嘆きを表明されています:

「ああ、罪を犯す国、とがの重い民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」(イザヤ1:4)

主は、イスラエルを大切に育てた子どものようだと言われます。しかし、その子どもたちは主に逆らいました。牛でさえ飼い主を知っているのに、イスラエルは主を知ろうとしません。これは、私たち人間の姿を映し出しているようです。私たちも時として、神様の恵みを忘れ、自分勝手な道を歩もうとしてしまいます。

主は、イスラエルの民の罪深さを厳しく指摘されます:

「頭はことごとく病み、心はことごとく弱っている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。」(イザヤ1:5-6)

これは、罪に染まったイスラエルの惨めな姿を表現しています。罪は私たちの全身、全人格を蝕んでいきます。そして、その傷は自分たちの力では癒すことができないのです。

しかし、主は完全に見捨てることはされません:

「もし万軍の主が、私たちに少しの生き残りを残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていただろう。」(イザヤ1:9)

ここに主の憐れみが示されています。たとえ多くの者が罪を犯しても、主は必ず残りの者を残されます。これは、私たちに対する主の変わらぬ愛と忍耐を表しています。

預言者の役割は、親が子どもを正しく導くのに似ています。子どもが間違ったことをしたとき、親は厳しく叱ります。しかし、それは子どもを傷つけるためではなく、正しい道に立ち返らせるためです。同様に、預言者の厳しい言葉の裏には、神の深い愛があるのです。

私たちは、この御言葉を通して何を学ぶべきでしょうか。

  1. 神の言葉を軽んじず、真剣に受け止めること。

  2. 自分の罪を認め、悔い改めること。

  3. 周りの人々の悪い行いに同調せず、神の道を歩むこと。

  4. 神の愛と憐れみを覚え、感謝すること。

私たちも、この世で「預言者」としての役割を果たすよう召されています。つまり、神の言葉を正しく理解し、それを周りの人々に伝える責任があるのです。時には耳障りな言葉であっても、愛をもって真理を語る勇気が必要です。

同時に、自分自身も神の言葉に従順であることが求められます。神の戒めを守り、罪を悔い改め、日々主との関係を深めていくことが大切です。

【結論】

イザヤ書1章の御言葉は、私たちに悔い改めと神への立ち返りを促しています。神の愛と憐れみを覚えつつ、同時に神の聖さと正義を忘れずに歩む者となりましょう。そして、私たちも現代の「預言者」として、神の真理を周りの人々に伝える者となれますように。

礼拝説教メッセージ音声:突然の貴賓扱いを受けたサウル、と私達(1サムエル記9:17-27):右クリックで保存

『そのときサウルは、門の中でサムエルに近づいて言った、「先見者の家はどこですか。どうか教えてください」。サムエルはサウルに答えた、「わたしがその先見者です。わたしの前に行って、高き所に上りなさい。あなたがたは、きょう、わたしと一緒に食事しなさい。わたしはあすの朝あなたを帰らせ、あなたの心にあることをみな示しましょう。

三日前に、いなくなったあなたのろばは、もはや見つかったので心にかけなくてもよろしい。しかしイスラエルのすべての望ましきものはだれのものですか。それはあなたのもの、あなたの父の家のすべての人のものではありませんか」。』(1サムエル記9:18-20)

サウルは先見者サムエルとこの時初対面のはずが、なんと彼は、きょう、あなたと一緒に食事をすることになっている、と意外な事を言った。
そればかりでなく、サウルが父のろばを三日前から探し歩いていた事も、そして既にそれは見つかっているという、サウルさえ知らない事さえも、知っていたのだ。
さらに驚くことに、イスラエル全体は、あなたを望んでいる、と言うのだ。
サウルは面食らっただろう。
聖なる方の助言をちょっと伺おう、といったつもりで来たのに、相手は自分の何もかもを、それも自分の知らない事までも知っており、しかも、一緒に食事をすることになっている、というのだから。

この状況は、私達と主との出会いにも似ている。
取税人ザアカイは、聖なるお方イエスをひと目見ようと木に登ったのに、イエス様のほうから近づいて来られ、自分の名前を呼び、「今日はあなたの家に泊まる事になっている」と声をかけられた。
ザアカイは自分の名前で声をかけられた時、悟ったのだろう。
自分がしてきた、あらゆる悪事も。それ故人々から憎まれ、蔑まれている事も。そして、そのような状況から自分は救われたいと、密かに願っていたその事も。
この聖なる方は、そんな自分を全部知っており、しかもその上で「今日はあなたの家に泊まる事になっている」とまで言われた。
それでザアカイは、一瞬にしてこのお方に心を捕えられ、それまでの行いを悔い改め、新しい聖なる生き方をすると決心したのだ。

私達も人生のある時、サウルのように、ザアカイのように、聖なるお方に呼び止められたのではなかろうか。
自分の事を何もかも知り尽くし、その上で、わたしはあなたと食事を共にしたい、あなたの内に宿りたい、と、誘われたのではなかろうか。
そして主から、あなたはこれから全く違った歩みをしなさい、王族の祭司として、聖なる国民として、相応しく歩みなさい、と、勧められたのではなかろうか。

『サウルは答えた、「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか」。』(1サムエル記9:21)
サウルとしては、晴天の霹靂だったろう。
自分はイスラエルという集団の中では、もっとも弱い、小さい、つまらない者なのに、なぜそのように言うのですか、と。
私達もまったく同じだ。
イエス様、なぜ、こんな弱い、小さい罪人に呼びかけて下さったのですか、と。
主の選びは、そのようである。
主は、この世の力ある者・知恵ある者をはずかしめるため、あえて弱く無に等しい人を、選ばれるのだ。(1コリント1章)

『サムエルはサウルとそのしもべを導いて、へやにはいり、招かれた三十人ほどのうちの上座にすわらせた。そしてサムエルは料理人に言った、「あなたに渡して、取りのけておくようにと言っておいた分を持ってきなさい」。料理人は、ももとその上の部分を取り上げて、それをサウルの前に置いた。そしてサムエルは言った、「ごらんなさい。取っておいた物が、あなたの前に置かれています。召しあがってください。あなたが客人たちと一緒に食事ができるように、この時まで、あなたのために取っておいたものです」。こうしてサウルはその日サムエルと一緒に食事をした。
そして彼らが高き所を下って町にはいった時、サウルのために屋上に床が設けられ、彼はその上に身を横たえて寝た。』(1サムエル記9:22-25)

サウル達は、この突然の貴賓扱いに、とまどっただろう。
聖なる方から宴会に招かれ、上座へと導かれ、最上のごちそうを頂いて貴賓扱いを受けたのだから。
私達もまさしく、イエス様から最上のごちそうを用意された宴会に招かれ、王侯に属するような貴賓扱いを受けたようなものだ。

父なる神は、御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしてほふり、共にこの食卓に与からせようと、私達を招いておられる。その事を、王子の結婚の披露宴を設けた王のたとえ(マタイ22:1-14)で示された。
『そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。』(マタイ22:8-10)
今や、この天の大宴会には、良い人も悪い人も、あまねく招かれ、その招待に応じる人は、だれでも宴会場に入る特権があるのだ。

しかし、礼服を身に着けずに宴会場に入った者が、外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりしてしまう事もまた、書いてある。
せっかくキリストが命を裂いてまで与えて下さった贖いの衣を、敢えて身につけず、天の宴会のごちそうだけ頂こうとするような者は、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
サウルは後に、せっかく与えられた特権を軽んじ続けたため、王族から追い出されてしまう事となる。

『そして夜明けになって、サムエルは屋上のサウルに呼ばわって言った、「起きなさい。あなたをお送りします」。サウルは起き上がった。そしてサウルとサムエルのふたりは、共に外に出た。彼らが町はずれに下った時、サムエルはサウルに言った、「あなたのしもべに先に行くように言いなさい。しもべが先に行ったら、あなたは、しばらくここに立ちとどまってください。神の言葉を知らせましょう」。』(1サムエル記9:26-27)
サウルとしては、ろばが見つかったのなら、もうここには用なしのはずであるが、予見者サムエルのほうが、サウルに用があるというのだ。

私達も、主に何か願い事を叶えて頂いたなら、もう用済み、ではない。
主イエス様の側が、いつでも、私達に用があるのだ。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
主は私達に、いつも、この与えられた特権に相応しく歩みなさい、と言われているのだ。

 礼拝説教メッセージ音声:サウルの成り立ち(1サムエル記9:1-16):右クリックで保存

イスラエルは主の御心に反して王を求めたが、主は、彼らが求めるがままに、イスラエルに王を与える。

『さて、ベニヤミンの人で、キシという名の裕福な人があった。キシはアビエルの子、アビエルはゼロルの子、ゼロルはベコラテの子、ベコラテはアピヤの子、アピヤはベニヤミンびとである。キシにはサウルという名の子があった。若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった。』(1サムエル記9:1)
このサウルが、主が定めたイスラエルの最初の王である。
 
サウルの名は「尋ねられる」「面会を求められる」という意味である。
彼は「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高」かった、ばかりでなく、裕福な家出身であり、場の空気をよく読む、思いやりのある人だった。
まさに、人々から「求められる」という名前の通りの者であった。
人を思いやるのは良いことであるが、神よりも人を思いやるとしたら、災いの性質であり、それが後の彼にとって罠となってしまう。
 
『サウルの父キシの数頭のろばがいなくなった。そこでキシは、その子サウルに言った、「しもべをひとり連れて、立って行き、ろばを捜してきなさい」。そこでふたりはエフライムの山地を通りすぎ、シャリシャの地を通り過ぎたけれども見当らず、シャリムの地を通り過ぎたけれどもおらず、ベニヤミンの地を通り過ぎたけれども見当らなかった。彼らがツフの地にきた時、サウルは連れてきたしもべに言った、「さあ、帰ろう。父は、ろばのことよりも、われわれのことを心配するだろう」。』(1サムエル記9:3-5)
彼がベニヤミンの地を出て、サムエルの所へ行ったのは、王として任職を受ける気があったからでは毛頭無く、ただ、父のろばがいなくなったので、探しに行くよう頼まれたからだった。
彼は一人のしもべと一緒に遠くまで探しに来たのだが、なかなか見つからず、あまり手間取って父を心配させるのも悪いので、帰ろうと言い出す。
『ところが、しもべは言った、「この町には神の人がおられます。尊い人で、その言われることはみなそのとおりになります。その所へ行きましょう。われわれの出てきた旅のことについて何か示されるでしょう」。』(1サムエル記9:6)
 
この町に神の人がいる、という事をサウルは知らなかったのか、それとも、知っていても伺おうという気が起きなかったのか、分からないが、とにかく、自分の問題を神に伺おうと提案したのは、サウルではなく、名も無きしもべのほうだった。
この、主に聞くという事が、頭の中から抜け落ちているような性質は、私達も改めなくてはならないものであり、人を導く王であるなら、なおさらである。
しかしサウルはその後、部下に勧められて初めて御心を求めるような性質を改めず、また、御心を超えて勝手に行動してしまったりした。(1サムエル記13章、15章)
彼のそのような性質を取り除かない事は、せっかく与えられた王権が剥奪されてしまう元となってしまう。
 
このように、神の導きを求める事を、自分からせず、人に勧めれれてから、はじめてするような信仰者は、自立していない信仰者である。
人から勧められない限りは、自分からは礼拝には行かない、自分からは祈らない、自分からは賛美しない、勧める人がいなくなると、しなくなる。
初心の時ならいざ知らず、いつまでもそのようなキリスト者であるなら、災いが絶えないものだ。
 
『サウルはしもべに言った、「しかし行くのであれば、その人に何を贈ろうか。袋のパンはもはや、なくなり、神の人に持っていく贈り物がない。何かありますか」。しもべは、またサウルに答えた、「わたしの手に四分の一シケルの銀があります。わたしはこれを、神の人に与えて、われわれの道を示してもらいましょう」。・・・サウルはそのしもべに言った、「それは良い。さあ、行こう」。こうして彼らは、神の人のいるその町へ行った。』(1サムエル記9:7-10)
サウルは、御心を伺うときに贈り物をする事を気にした。
人を思いやる事、神の働き人を敬うのは良いことであるが、神よりも、人を思いやる事を優先させるとしたら、順番違いである。
 
『こうして彼らは町に上っていった。そして町の中に、はいろうとした時、サムエルは高き所に上るため彼らのほうに向かって出てきた。さてサウルが来る一日前に、主はサムエルの耳に告げて言われた、「あすの今ごろ、あなたの所に、ベニヤミンの地から、ひとりの人をつかわすであろう。あなたはその人に油を注いで、わたしの民イスラエルの君としなさい。彼はわたしの民をペリシテびとの手から救い出すであろう。わたしの民の叫びがわたしに届き、わたしがその悩みを顧みるからである」。』(1サムエル記9:14-)
 
サムエルには主からあらかじめベニヤミン人と出会う事、そして、その者に油をそそいで王とすべき事が命じられていた。
この時点、サウルはこれから王となり、イスラエルを正しく治めペリシテ人から救い、サウルの家は王家として確立されていく、はずだった。
ところが聖書で記されている後の歴史は、違う。
彼の家は王家としては続かず、王権は剥奪されてダビデの家へと移ってしまう。
なぜなら彼は、神よりも人を恐れ、御言葉よりも自分のよかれを押し通す性質を、手放さなかったからだ。
 
私達の内に、サウルの性質は無いだろうか。
人に勧められなければ礼拝に行かない、人に見られていなければ祈りをしない、人に促されなければ賛美しない、というようなサウルの性質は早急に手放し、自ら進んで喜んで礼拝を捧げ、王として栄えていくダビデの性質を身に着けていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

礼拝説教メッセージ音声:王なる主を退けるイスラエル(1サムエル記8:1-22):右クリックで保存

『サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。』(1サムエル記8:1-3)

父が素晴らしい信仰者だからと言って、子も自動的にそうなるとは限らない。
信仰は結局、本人の意志決断に依るのものだが、親の愛情と祈りは、それを養うのに大きな力がある。
実際、サムエルは年に一度しか親と会う事ができない状況だったのにも関わらず、母の愛と祈りによって、良き信仰者として成長した。

そこで人々は、サムエルに、「ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」と願い出た。
『彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。』(1サムエル記8:6-8)

彼らが王を求めた事は、サムエルの機嫌を損ね、主もまた、「わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにした。」とまで言われた。
王を求める事。
一般的に見るなら、何ら問題もなさそうなこの事が、一体なぜこんなにも主を怒らせ、サムエルの機嫌を損ねたのか。
それは、王を求める事も偶像礼拝も、「主を捨てる」という一点においては、なんら変わり無いからである。

『「今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない。」サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、言った』(1サムエル記8:9-11)
主は、もしイスラエルが王を立てるとするなら、いかなる事になるのかを説いて聞かせた。
すなわち、王は息子娘達を徴用して使い、畑の産物や家畜を徴用し、望まぬ事をさせられ、人々は、奴隷のようになってしまうという事を。
『「そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。』(1サムエル記8:18-22)

彼らは、「われわれも他の国々のようになり」と言ったが、要するに、彼らには他の国々への妙なあこがれがあるのだ。
はたして、神が直接導かれるイスラエルのほうが劣っていて、人間の王が導く他の国のほうが優れている、というのだろうか?とんでもない!
ところが、彼らには、そう見えたのだ。
神が王として自分達を治め、導いておられる事が、どんなに素晴らしく特権的であるのかを、彼らは知らないのだ。

彼らは「われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである。」と言ったが、果たして今まで主は正当にさばいてくださっていなかったのだろうか。
主は、ペリシテ人に対し、そして背いたイスラエルに対しても、先頭に先んじて戦っておられたではないか。
イスラエルは、あんなにも不従順ゆえに神を怒らせていたにも関わらず、主はここまで守って下さったという「エベン・エゼル」の幸いを、早速忘れてしまったのだ。
まさに、彼らは主を捨てたのだ。

『ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。』(ヨハネ19:14-16)
まことの王なる主を差し置いて、別のものを王としてあこがれる時、王なる主を「除け」と叫び、十字架につけようとしているようなものである。
もし、主を王座から退けてしまい、主とは別物の、例えばお金や権力、自分自身を「王」と据えるなら、その「王」によって、散々な目に遭ってしまうのだ。
イスラエルはイエス様を王から除き、カイザルを王としたその結果、すぐ後にローマによって亡ぼされ、1900年もの離散生活を送らなくてはならなかった。

主は敢えて、主以外のものを王として据える事を許される。王なる主を十字架につける自由さえ与えられたのだ。
私達は、主イエスキリストを王とし、そこからぶれる事なく、違った別物を王とする者が受けるような災いから遠ざかる歩みをしたい。

礼拝説教メッセージ音声:エベン・エゼルを忘れるなかれ(1サムエル記7:7-17):右クリックで保存

『イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。』(1サムエル記7:7-8)


イスラエルは、悔い改めの集会をするためにミツパに集まったのであって、軍事的行動をしたのでは決してなかった。それなのに、ペリシテ人は攻めて来た。
それには意味がある。
神の民が、主に立ち返る事。それは、神の民の根本的な敵である悪魔サタンが、最も嫌がる行動だからだ。
現代を生きる私達・神の民も、誰かを主に立ち返らせたり、あるいは今まで悔い改めていなかった態度を悔い改めたりする時、大体このような霊的攻撃が起こり、その気を挫こうと仕掛けてくるが、それに負けてはならない。

イスラエルはこの時、今までとは違った、悔い改めに相応しい行動パターンを取った。
すなわち、力やご利益など、自分の良かれと思うやり方で、困難に対抗するのではなく、主に助けを求め、主から救いを得ようとしたのだ。
もっとも、サムエルなど霊的指導者まかせのままでいるなら、後々、同じ過ちを繰り返してしまうのだが、しかし少なくとも、神の契約の箱さえも自分都合の勝利の道具に利用しようとしたような今までとは、違った行動である。

『そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。』(1サムエル記7:9-11)
かつてイスラエルは、主を軽んじた事により主に激しく打たれ、その打たれた数は、ペリシテ人に打たれた数よりも多かった。
しかし今回、イスラエルは悔い改めて主に返り、心を尽くして主に求めたたため、主はペリシテ人に敵対し、イスラエルに勝利をもたらして下さった。

イスラエルに、ようやく勝利が与えられた。
それは、イスラエルが主の忌み嫌われるものを取り除き、自分に罪がある事を認め、悔い改め、主にのみ仕えたからに他ならない。

神の民にとって、勝ち負けは、主を重んじるか、それとも軽んじるかによりけりである。
勝利とは、自分の力や知恵で勝ち取るものではなく、主から与えられるものなのだ。
まさしくサムエルが言った通りである。「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう。」(3節)

そして、勝利の後こそ肝心だ。
『その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。』(1サムエル記7:12)
主は今までイスラエルが犯してきた背きの罪の数々にかかわらず、今に至るまで、助けて来られた。
その事を覚えさせるため、また、勝利の秘訣は主にある事を後々に伝えるため、サムエルは、エベンエゼル(助けの岩、救いの岩という意味)という記念の岩を立てた。
私達も、主に立ち返って助けられたなら、それを忘れないように、心の内に”エベンエゼル”を建て、事あるごとに思い返し、主に感謝すべきである。

『サムエルは一生の間イスラエルをさばいた。年ごとにサムエルはベテルとギルガル、およびミヅパを巡って、その所々でイスラエルをさばき、ラマに帰った。そこに彼の家があったからである。その所でも彼はイスラエルをさばき、またそこで主に祭壇を築いた。』(1サムエル記7:15-17)
サムエルは、主への感謝と従順をキープさせるために、平和が与えられて後も、年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けた。
せっかく手術して治っても、以前の不摂生を相変わらず続けるなら、全く意味が無いのと同じように、ひと度、主にあって勝利をしたなら、主に喜ばれる霊的健全さをキープし続けなくては、意味が無い。だからサムエルは年ごとに巡回し、それをキープさせたのだ。
そこには、戦いに勝利するような派手さは無く、地道なものであるが、これはひとつの戦いに勝利する事よりも、はるかに偉大な彼の功績である。
私達もそれを怠ってはならない。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
幼い娘を立派な花嫁に育てよ(雅歌8:8-14)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:”珍しく”悔い改めて主に立ち返るイスラエル(1サムエル記7:1-6):右クリックで保存

当初はイスラエル人にもペリシテ人にも軽んじられたような扱いをされた主の箱だが、主は、そのように軽んじた者達全てに災いを降し、誰の目にも明らかな形で主の栄光が現され、皆、恐れるようになった。
主の箱はベテ・シェメシュの住人からも恐れられ、そこからさらに移される事になる。

『キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。』(1サムエル記7:1-2)
この時以降、ダビデ王がエルサレムへ主の箱を導き入れるまで、長らくそこに留まる事になる。(1歴代誌13章)
イスラエルは、これら一連の事を通して、主の栄光と自分達の不実とを思い知り、主を慕って嘆く心が湧き起こって来た。

災い遭う事は、実は幸いである。
それによって自分の中の正すべき事を正し、主に立ち返るからである。
『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。』(詩篇119:71)
そこでサムエルは、全イスラエルに、悔い改めを促す。

『その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。』(1サムエル記7:3-4)
彼らは、あれほどの目に遭っておきながら、いまだに、他の神々を持っている状況だった。
あの神もこの神も仲良くあわせて持つのに何の抵抗も感じない日本人のように、当時のイスラエルは、主の聖の基準から長らく離れていたため、何が主に喜ばれ、何が喜ばれないかを知らなかったのかもしれない。
サムエルは、全て他の神々を除き去って、ただ主にのみ仕えるよう促した。
そしてイスラエルは、素直にそれに従った。

『サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。』(1サムエル記7:5-6)
彼らは実に「珍しい事」をしている。
それは、一つに集まり、心を主に向けて悔い改めの集会を開いた事だ。
悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というのも、情けない話である。
しかし、ヨシュアが死んで以降、イスラエルはずっとそのような霊的状態であり、また、悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というキリスト者も、実は多いのだ。
皆さんは、そのような状態に、なっていないだろうか。
災い続きではないだろうか。

主の救いと立て直しは、悔い改めて主に立ち返る所から始まり、それをするなら、主は豊かに恵みを施して下さる。
『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-4)

礼拝説教メッセージ音声:誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21):右クリックで保存

『時にベテシメシの人々は谷で小麦を刈り入れていたが、目をあげて、その箱を見、それを迎えて喜んだ。』(1サムエル記6:13)

神の箱は、わずか七ヶ月でイスラエルに戻って来る事となった。
この町の人達は、牛車がひとりでに運んで来たものが「神の箱」であると認知していたが、このベテ・シェメシュという町は、ナフタリ族へくじによって割り当てられた相続地であり(ヨシュア記19:38)、そして、大祭司アロンの子孫達へと放牧地が割り当てられた町でもある。(ヨシュア記21:16)
つまり、神の箱の正当な扱い方を知っていた(はずの)奉仕者たちが住む町であり、この町に神の箱が帰って来たのは、まさに導きといえる。

『ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また金のねずみは、城壁をめぐらした町から城壁のない村里にいたるまで、すべて五人の君たちに属するペリシテびとの町の数にしたがって造った。主の箱をおろした所のかたわらにあった大石は、今日にいたるまで、ベテシメシびとヨシュアの畑にあって、あかしとなっている。』(1サムエル記6:17-18)
ペリシテの五つの町の内、ガザとアシュケロンには、主の災いが降った記述は無いが、もしかしたらそこにも災いが降っていたのかもしれない。
とにかくペリシテの祭司や占い師達は、ペリシテの領主の数・都市の数に従い、五つの金のはれ物の像と、五つの金のねずみの像を作らせて、それをイスラエルの神に「償い」として捧げさせた。

『車はベテシメシびとヨシュアの畑にはいって、そこにとどまった。その所に大きな石があった。人々は車の木を割り、その雌牛を燔祭として主にささげた。レビびとは主の箱と、そのかたわらの、金の作り物をおさめた箱を取りおろし、それを大石の上に置いた。そしてベテシメシの人々は、その日、主に燔祭を供え、犠牲をささげた。ペリシテびとの五人の君たちはこれを見て、その日、エクロンに帰った。』(1サムエル記6:14-16)
彼らは最初、主の箱がこのように戻って来た事を喜び、ペリシテ人もまた、災いの元凶が自分達の元から去った事に胸をなでおろした事だろう。
これで一件落着、かというと、そうではなかった。
この神の箱は、そこベテ・シェメシュの町にも、災いをもたらす事となってしまうのだ。

『ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち七十人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ。』(1サムエル記6:19)
撃たれた人の数は、口語訳では「七十人」となっているが、別の訳では「五万七十人」(新改訳、KJV)、さらに別の訳では「五万のうち七十人」(新共同訳)となっている。
どうしてこんなに訳が分かれるかというと、ここのヘブライ語原典を字義通りに並べると「七十人、五十千人」、これをどのように訳出すれば良いのか分からないからだ。
いずれにせよ、ベテ・シェメシュの人達は非常に大きな痛手を受け、イスラエルの神・主への大きな恐れが沸き起こった事は確かである。

なぜこのような災いがイスラエルにも起こったのか。
それは、神の箱を正当に扱う術を知っているはずの人達がそれをせず、主の箱の中を見るような不敬を犯したからである。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。』(ガラテヤ6:7)
神はまさに聖なる神、義なる神であり、イスラエルに対してだけでなく、異邦人に対しても公平にさばきを行われる方である。

私達は、主の「親しさ」を「馴れ馴れしさ」と勘違いし、主を軽んじてはならない。
また、主があまりに憐れみ深い故に「赦され慣れ」して、自分たちはただ赦される側、何をしても良い側、そして主はただ身代わりの痛みを受けてもらう側として怠慢に陥ってはならない。
そのような事を敢えてし続けるなら、主はその者を懲らしめ、強制的に正しい立ち位置へと戻される。

『ベテシメシの人々は言った、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主はわれわれを離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか。』(1サムエル記6:20)
まさに、聖なる神・主の御前に立つ事ができる者は、誰もいない。

主は、神の箱が奪われそうになった時タイミングでペリシテ人を打つ事は出来たであろう。
あるいは、イスラエルが神の箱を縁起物でも持ち出すかのように軽々しく聖所から運び出そうとしたタイミングで打つ事も出来たであろう。
しかし主は敢えて人々の為すがままにし、この4章以降の一連の出来事を起こさせ、その上で、イスラエルにもペリシテにも、ご自身の聖を燦然と表されたのだ。
その結果、イスラエルもペリシテも、神である主は恐るべき方であり、正当に敬う事をしないなら、こんなにも恐ろしい目に遭う、という事を、徹底的に思い知らされた。

こうしてイスラエルの心は、神を正当に恐れ敬う健全な心へと、造り変えられてゆくのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主に栄光を返したペリシテ人(1サムエル記6:1-12):右クリックで保存

『主の箱は七か月の間ペリシテびとの地にあった。』(1サムエル記6:1)

ここは、主の箱はペリシテ人の「野」にあったとも訳す事ができる。
七ヶ月の間に少なくとも2回は移動させた、という事は、災いはそれだけ誰の目にも明確で、主の箱を「町」に置けなかったのだろう。

『ペリシテびとは、祭司や占い師を呼んで言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょうか。どのようにして、それをもとの所へ送り返せばよいか告げてください」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱を送り返す時には、それをむなしく返してはならない。必ず彼にとがの供え物をもって償いをしなければならない。そうすれば、あなたがたはいやされ、また彼の手がなぜあなたがたを離れないかを知ることができるであろう」。』(1サムエル記6:2-3)
主の「聖」に対して不実を犯した場合は、償いをしなくてはならない事は、確かに律法に記されている。(レビ記5:15-16)
ペリシテ人がイスラエルの律法を調べたのか、それとも、ただで返す事は失礼に値すると考えたのか、ともかく彼らは、降りかかった災いの故に、主に対する恐れ敬いが芽生えた事は確かだ。

『人々は言った、「われわれが償うとがの供え物には何をしましょうか」。彼らは答えた、「ペリシテびとの君たちの数にしたがって、金の腫物五つと金のねずみ五つである。あなたがたすべてと、君たちに臨んだ災は一つだからである。それゆえ、あなたがたの腫物の像と、地を荒すねずみの像を造り、イスラエルの神に栄光を帰するならば、たぶん彼は、あなたがた、およびあなたがたの神々と、あなたがたの地に、その手を加えることを軽くされるであろう。』(1サムエル記6:4-5)
ペリシテ人達は、腫物だけでなく、ねずみによってもかなりの災いを受けたようだ。
彼らは、自分たちはこれらのものによって災いを受けました、その事はイスラエルの神・主がなされた事であり、ここにあなたの栄光を表します、と、主に敬意を表するなら、この災いは軽くされるだろう、と考えたのだ。

『なにゆえ、あなたがたはエジプトびととパロがその心をかたくなにしたように、自分の心をかたくなにするのか。神が彼らを悩ましたので、彼らは民を行かせ、民は去ったではないか。』(1サムエル記6:6)
主がエジプトに対して為した災いはかなり昔であるが、当時、主が為された事は、イスラエル周辺諸国にとどろき渡った。
そのイスラエルの神・主は、今も健在である、と、彼らは恐れており、この主に対して頑なになってはならないと警告している。

『それゆえ今、新しい車一両を造り、まだくびきを付けたことのない乳牛二頭をとり、その牛を車につなぎ、そのおのおのの子牛を乳牛から離して家に連れ帰り、主の箱をとって、それをその車に載せ、あなたがたがとがの供え物として彼に償う金の作り物を一つの箱におさめてそのかたわらに置き、それを送って去らせなさい。』(1サムエル記6:7-8)
普通、くびきをつけた事のない牛に、くびきをつけるなら、牛はそれを振りほどくはずだ。
牛にとって、くびきは不快なものであり、それを初めてされたなら、抗するはずだ。
また、子に乳を飲ませている母牛が、子を置き去りにして行く、という事も、自然の摂理に反する。
その、通常ではあり得ない行動を牛が取るり、神の箱をイスラエルへと運んで行くとすれば、これは主が為さった事だと知る事が出来る、というのだ。

『人々はそのようにした。すなわち、彼らは二頭の乳牛をとって、これを車につなぎ、そのおのおのの子牛を家に閉じこめ、主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。すると雌牛はまっすぐにベテシメシの方向へ、ひとすじに大路を歩み、鳴きながら進んでいって、右にも左にも曲らなかった。ペリシテびとの君たちは、ベテシメシの境までそのあとについていった。』(1サムエル記6:10-12)
乳牛が鳴きながら子から離れて行き、イスラエルへの道を、くびきを負いながら進んで行くのを、彼らは見て驚いただろう。

まさにイスラエルの神は、生きて働いておられる。
この神は、自分達の神々を倒し、ひれ伏させ、腫物やねずみによって自分達を打ち、行く所どこも死の恐怖に怯えさせた。
そして、自分達がこの神である主に栄光を帰すために、償いの備えをしたなら、主はあり得ない形でその栄光を受け取られた様も、彼らは見た。
あのペリシテ人でさえ、主に打たれ懲らしめられたなら、主を恐れたのだ。
私達も主からの懲らしめを受けたなら、速やかに悔い改めて主に栄光を帰すべきである。

しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるの言葉通り、彼らはその恐れと尊敬を持続させず、相変わらずダゴンの神を礼拝し続け、そして神の民・イスラエルを打つのをやめなかった。
だから彼らは結局、主の民を懲らしめる器としてしか用いられず、ペリシテ人という”民族”は現在、残っていない。アレクサンドロス大王の支配下で滅んでしまったのだ。
私達も、ひと度主から懲らしめを受け、主を畏れ敬う者となっておりながら、その主への恐れ敬いを持続させないなら、ただ良くない事にのみ用いられ、そして滅んでしまうのだ。
私達は主への恐れをキープし、祝福を受け続ける者でありたい

礼拝説教メッセージ音声:敵国内でひとりでに栄光をあらわす神の箱(1サムエル記5:1-12):右クリックで保存

イスラエルから奪われてしまった契約の箱だが、その箱には、全能の神とイスラエルとの間に結ばれた契約が入っている。

人の手で担がれなくては何も出来ない偶像とは、全くわけが違う。

『ペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた。そしてペリシテびとはその神の箱を取ってダゴンの宮に運びこみ、ダゴンのかたわらに置いた。』(1サムエル記5:1-2)
ダゴンとは、頭部が魚、体が人間の、ペリシテ人の偶像神である。
そのそばに安置したという事は、彼らは今回の戦勝に浮かれ、イスラエルの神は自分の神ダゴンよりも劣っていると考えたのかもしれない。

しかし聖書をみると、神の箱はあまりに聖であるため、ケハテ族のレビ人以外は運んではならず、ダビデの時代も、牛車で運ばせたら、その御者が主に打たれて死んでしまった程のものである。
それ程、取り扱いには気をつけなくてはならないものであるのに、なぜか今回、ペリシテ人が運んでも何の害も受けなかった。

この契約の箱は、イスラエル人が神の契約を畏れ敬う心をもって、イスラエルの中で正当に取り扱ってこそ、意味があるものである。
それなのに、本来安置されるべき聖所からお手軽に運び出され、縁起物か何かのように戦いの場へ持っていかれてしまう程に、軽んじられてしまったのであるから、主はそれを正すために、敢えてイスラエルから取り上げ、ペリシテ人の領地へと運ばせたのだ。
契約の箱がどこにあるかよりも、その契約の内容を守る事こそ、神の民としての意義があるように、私達も、何処どこの教会に通っているとか、キリスト教的なアイテムを持っているといった事より、むしろ、キリストそのものであられる御言葉を「わたし」の内に留め、それを守り行ってこそ、信仰者としての意義があるのだ。

『アシドドの人々が、次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていたので、彼らはダゴンを起して、それをもとの所に置いた。その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。それゆえダゴンの祭司たちやダゴンの宮にはいる人々は、だれも今日にいたるまで、アシドドのダゴンのしきいを踏まない。』(1サムエル記5:3-5)
最初は地震か何かでたまたま倒れたのだろう、くらいに思っていたかも知れないが、翌日には、ダゴンの頭と手が胴体から切り離され、敷居の所にあり、しかも、神の箱の前に向かってひれ伏す形となっていた。
この事から、イスラエルの神のほうが優位で、ダゴンは無力である事を示しているのに、ペリシテ人は、イスラエルの神を敬うのでなく、ダゴンを敬い、今後、ダゴンが伏していた敷居を踏まない事にした。
しかし起きたことは、そればかりではない。

『そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドとその領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。アシドドの人々は、このありさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの所に、とどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴンの上にきびしく臨むからである」。
そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちを集めて言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょう」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱はガテに移そう」。人々はイスラエルの神の箱をそこに移した。』(1サムエル記5:6-8)
もはや明らかにイスラエルの神は力があり、ダゴンは無力である事は明らかなのに、ペリシテ人は、イスラエルの神を「恐れ」はしても、敬わず、神の箱を縁起の悪いものとして移動させる。

『彼らがそれを移すと、主の手がその町に臨み、非常な騒ぎが起った。そして老若を問わず町の人々を撃たれたので、彼らの身に腫物ができた。そこで人々は神の箱をエクロンに送ったが、神の箱がエクロンに着いた時、エクロンの人々は叫んで言った、「彼らがイスラエルの神の箱をわれわれの所に移したのは、われわれと民を滅ぼすためである」。そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちをみな集めて言った、
「イスラエルの神の箱を送り出して、もとの所に返し、われわれと民を滅ぼすことのないようにしよう」。恐ろしい騒ぎが町中に起っていたからである。そこには神の手が非常にきびしく臨んでいたので、死なない人は腫物をもって撃たれ、町の叫びは天に達した。』(1サムエル記5:9-12)

彼らは、明らかにこの箱が災いの元であると認めた。
それなのに彼らは、自分たちの力なき神ダゴンから離れてイスラエルの神に立ち返ろうという気にはならなかったし、イスラエルを虐げる事も止めなかった。
またイスラエル人も、こんなにも力ある神が自分たちにおられるのに、自分たちの内から別の神々を捨て去ろう、という気も起きなかったようである。(1サムエル記7:3)
人とは何と愚かで盲目な、そして、自分の好む事を捨てない頑なな者であろうか。

偶像の神は、自分で自分の世話をする事もできず、担がれなくては移動も出来ない、ただ人々の重荷となるばかりであるが、主は私達が罪に陥っている時でも、世話をし、義の道へと立ち返らせて下さり、そして私達が白髪頭となっても、主は私達を運んで下さる。
『ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず/かえって、自分は捕われて行く。
「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。』(イザヤ46:1-4)

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