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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

エステル - 王に促されたなら敵を殲滅せよ(エステル9-10章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今年に入ってから、王の前に相応しく身を整え、宴会を設けるべき事をエステル記から学んでいる。
それをするなら、王がその人を祝福し、敵の面前で宴会が設けられ、勝利し、大いに栄える事を今まで学んで来たが、いよいよ運命の日が訪れる。ハマンが定めたユダヤ人を滅ぼす日、2月13日は、逆に、神の民を滅ぼそうとしていた者達が、滅ぼされた日となった。全ての人はユダヤ人を恐れ、大臣や総督など主だった人達も皆ユダヤ人側についた。なぜならモルデカイが破竹の勢いで勢力を増していたからだ。

その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、今度は王のほうからエステルに、欲しいものは何でも願え、必ず聞き届けられる、と促されて来た。私達も、キリストの御言葉に留まるなら、王なるキリストのほうから、欲しいものは何でも願いなさい、と促される。そこでエステルは、あの優美な口調で王に言う。
「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください。」(13節) 敵は既に首都スサだけでも五百人が殺され、ハマンの子達10人も死んだ。その上なお敵を根絶し、ハマンの子達の死体は木に架けて晒して下さい、と言うのは、やりすぎでは?と思うかもしれない。あの優美なエステルの言葉とは、あまり思えない。
しかし聖書には、容赦せずに、徹底的に滅ぼし尽くすべき事例を、幾つか見つけられるはずだ。
そうすべき時とは、王からの促しがあった場合、すなわち、王なる主が「せよ」と言われた場合である。
そのような時、神の民の敵に対しては、徹底して滅ぼし尽くさなくてはならない。神の民は、やられてもただニコニコ黙っている者ではなく、主に促されたなら、勇敢に戦い、滅ぼすべき相手は滅ぼし尽くすのだ。
その戦いとは、昨今行われている戦争とは全く性質が違う。ほしいままに富や利権を分捕ったり、他を力づくで自分色に塗り替えたりするものではない。実際ユダヤ人は、許されていた分捕りを、しなかった。
神に敵対し、いのちを踏みにじるサタンのわざに対しては、王なる主キリストの許しが得られ、また「滅ぼし尽くせ」と命じられたなら、徹底的に滅ぼし尽くすべきであって、決して容赦してはならないのだ。

そもそもエステルが願ったこの願い、神の民の敵の根絶は、サウル王の時に成されなくてはならなかった。
昔、サウル王が主から命じられた時、その通りにアマレク人を滅ぼし尽くしていたなら、アマレク人の末裔・アガク人ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。(1サムエル15章)
私達の内から滅ぼし尽くすべき敵とは、肢体に宿る、御霊に敵対する罪や欲望である。(コロサイ3:5-6)
「何もそこまで」「ちょっとくらいは」と思って滅ぼす事を留めていたら、それはすぐに苦い根(ヘブル12:15)を出して蔓延り、サウル王のように取り返しがつかなくなる。サウル王は結局アマレク人にとどめを刺された。
主が滅ぼしなさいと言われたのに滅ぼさないなら、それが罠となり、逆にとどめを刺されてしまう。それは、ヨシュアの時代のアカンがそうだったし、ヨシュア後のイスラエル国も、ヨアシュ王の時代もそうだった。

エステルは、王の前でも敵の前でも、あくまで優美な品性を身に纏い、自分の好む事ではなく王の好む事を為し、そして、王に促しが与えられたなら、大胆に敵の滅びを求めた。私達もそれに見習うべきである。
こうしてエステルの時代、神の民の敵は一網打尽にされ、ユダヤ人は暫く安息と繁栄を享受した。
彼らは安息を得た日12月14日を祝日として定め、プリム祭として現代でも祝っている。
エステル記最後の10章は、後にアハシュエロス王はさらに強力になり、モルデカイも、王の次の位が与えられ、自分の民族のために多くの功績を残した事が記されている。ユダヤ人も安息の内に栄えた。
最後には勝利と、宴会と、永遠の栄光が待っているのだ。その栄誉を受けるための最も最短コースは、へりくだる事であり、神はそのような人を、ちょうど良い時に高くして下さる。モルデカイはまさにそうだった。
安息を得るには、敵を殲滅しなくてはならない。私達の内に住む罪や汚れ、妬みや憎む心など、滅ぼし尽くすべきものが沸き起こった時は、それをキリストにあって捕縛し、服従させなくてはならない。(2コリ10:5)
服従を着る事が、王なるキリストの前に花嫁衣装を着る事である。そして主のために宴会を設けるとは、主の喜ばれるごちそうを用意する事、すなわち「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」事である。
そのようにする人には、敵の面前で油注がれ、宴を設けられ、敵が蓄えた栄誉や富を、そのまま引き渡されるのだ。そのように安息の内に栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
何も包み隠さない交わりへの成熟(雅歌7章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:エリの一族への警告(1サムエル記2:27-36):右クリックで保存

主の御前に不実だったエリとその子達に、いよいよ主から警告が通達される。

『イスラエルのすべての部族のうちからそれを選び出して、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って、香をたかせ、わたしの前でエポデを着けさせ、また、イスラエルの人々の火祭をことごとくあなたの先祖の家に与えた。それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか。』(1サムエル記2:27-29)
主の使いは、エリに対し「なぜ自分を肥やすのか」と言っている。
彼の子達がした事によって、自分が肥えた部分がやはりあったのだろう。
エリは、主と、主の民よりも、自分の子達を優先させた。
エリの子達は、戒められたのに、行状を改めなかった。
それなのにエリは、彼らを祭司職にそのまま留まらせ、そうして彼らは、全イスラエルに対し、そして主に対して罪を犯させ続けた。

『それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。』(1サムエル記2:30)
主は確かに、アロンの子孫に「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と約束をされたが、エリの家は、忠実でなかった。
私達キリスト者も、自分は罪赦されたのだ、信仰によってアブラハムの子孫となったのだ、などと言って、キリスト者としての聖なる務めをないがしろにして、主を侮ってはならない。
主は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事がおできになる方であり、悔い改めに相応しい実を結ばずに罪の苦い実ばかり結んでいるとするなら、もみがらのように投げ捨てられ、焼かれてしまうのだ。

ところで、エリは確かにアロンの子孫ではあるが、実は彼が大祭司職をするのは、正当ではない。
エリはアロンの四男・イタマルの子孫であるが、民数記25:10-13によると、アロンの三男エルアザルの子、ピネハスの子孫が、正当な大祭司の職を継ぐ子孫とされており、エリはそれではないのだ。
どういうわけでエリが大祭司になったのかは、定かではない。しかし主は、エルアザルの子ピネハスに与えられた約束を、ずっと後に、実現される。

『見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。あなたの家には永久に年老いた者がいなくなるであろう。・・・そしてあなたの家で生き残っている人々はみなきて、彼に一枚の銀と一個のパンを請い求め、「どうぞ、わたしを祭司の職の一つに任じ、一口のパンでも食べることができるようにしてください」と言うであろう。』(1サムエル記2:31-36)
エリの家に、明確な警告が為された。
「その日が来る」、という内容なので、これはまだ確定ではなく、警告である。
彼らは警告を与えられたのに、この後、行状を改めなかったため、その警告の通りになってしまう。

『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
この言葉の通り、エリも、彼の二人の息子ホフニとピネハスも、同じ日に死ぬ。(4章)

その死がピネハスの妻に知らされた時にちょうど生まれた子は、イカボデ(「栄光無し」の意)と名付けられ(4:19)、彼の兄であるアヒトブが、その後の祭司の務めを担う事になる。
しかし、アヒトブの子・アヒメレクは、サウル王に言いがかりをつけられ、エリの子孫達や祭司たち85人は、剣によって殺されてしまう事になる。(22章)
こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言は成就する。

その時、アヒメレクの子・アビアタルだけが剣を逃れ、ダビデの所に、命からがら逃げて来て、その後、彼はダビデ王によって大祭司に任じられるのだが(22:20、23:6、30:7、1列王記2:27)、結局彼もソロモン王によって罷免され、彼の代わりに、ツァドクの家(ピネハスの子孫)が、大祭司の家系とされる。(1列王記2:35)
こうして「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という預言も、エリの家に成就する事となる。

『わたしは自分のために、ひとりの忠実な祭司を起す。その人はわたしの心と思いとに従って行うであろう。わたしはその家を確立しよう。その人はわたしが油そそいだ者の前につねに歩むであろう。』(1サムエル記2:35)
この、ひとりの忠実な祭司、その家を永遠に確立し、油注いだ者の前を歩むその祭司とは、キリストでなくして、誰だろう。
キリスト(油注がれた者の意)にあって、私達信じる者たちも、祭司職を得ているのだ。

今回のこの箇所は、祭司とされた私達に対しての、戒めである。
祭司職を軽んじているなら、それが取り上げられ、その職は、別の者へと移ってしまうのだ。(使徒1:20)

礼拝説教メッセージ音声:祝福を積み立てるサムエルと滅びを積み立てるエリの家(1サムエル記2:18-26):右クリックで保存

『サムエルはまだ幼く、身に亜麻布のエポデを着けて、主の前に仕えていた。母は彼のために小さい上着を作り、年ごとに、夫と共にその年の犠牲をささげるために上る時、それを持ってきた。(1サムエル記2:18-19)

サムエルの父母は、息子サムエルとは年に一度、捧げ物をする時にしか会えなかったが、母はサムエルのために真心を込めて上着を作り、それを年に一度、サムエルに逢える時に着せてやり、サムエルはそれを身に帯びて御前に仕え、こうして彼は、心も体も霊も健全に育っていった。

『エリはいつもエルカナとその妻を祝福して言った、「この女が主にささげた者のかわりに、主がこの女によってあなたに子を与えられるように」。そして彼らはその家に帰るのを常とした。こうして主がハンナを顧みられたので、ハンナはみごもって、三人の男の子とふたりの女の子を産んだ。わらべサムエルは主の前で育った。』(1サムエル記2:20-21)
祭司は、「子を捧げたほうの妻」すなわちハンナを祝福したのであり、ペニンナではなかった。
ペニンナのように、礼拝という場や捧げ物を、人を煩わせる材料にするような者は、祝福から漏れてしまい、衰えていくのだ。

サムエルは、年に一度しか親に会えず、場所的には離れていたが、愛されている実感と、その愛と真心の実体である手作りの服と、そして親の祈りによって、健全に成長して行った。
それに引き換え、祭司エリの子達は、全く逆の性質を身に付けて行った。

『エリはひじょうに年をとった。そしてその子らがイスラエルの人々にしたいろいろのことを聞き、また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて、彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。』(1サムエル記2:22-23)
エリは、息子達の悪行を、人づてに「聞いた」という事は、彼らには普段から親子の会話や交わりが無かったようである。
彼らは共に、シロの主の家で祭司の務めをしていたというのに、心は遠くはなれていたようだ。

エリの子達は、人々が主に捧げる捧げものを食い物にしたばかりでなく、会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝るという事さえした。
女たちは、主の御そば近くに居たい心・主に捧げ仕えたい心をもって、幕屋の近くで奉仕していたはずなのに、エリの子らはそれさえ食い物にし、踏みにじった。
祭司の子によるこのような悪行は、アロンの子ナダブとアビフのように、主の御前から火が降って来てもおかしくはない状況であるが、主の憐れみは、まだ注がれていた。

『わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。』(1サムエル記2:24-25)
エリはこのように戒めはしたのに、子達は、全く親や権威を、そして主を恐れるという事なく、行ないも改めなかった。
大人になってからでは、厳しい言葉で戒めたり、また戒めを受け入れて行状を改めるという事が、中々難しくなってしまう。だから箴言にある通り、子の内から、しっかり御言葉によって訓戒しつつ、教育する事が大事である。
『望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。・・・子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言19:18、23:13-)

このように、人々が主に捧げたい心を持って御前に捧げ物をする度に、罪を犯し、人々をつまづかせ、それを戒めても、行ないを改めないからには、もはや、一刻の猶予なく、彼らを祭司の座から取り除けるべきなのに、エリはそうせず、そのまま放置した。
エリは98歳になっても体が重かった(4:18)、という事は、もしかしたら彼も、息子達の持ってくる脂つきの肉に、日常的にあやかっていたのかもしれない。
とにかく彼らはこうして、ますます滅びの炭火を、自分達の頭上に積み上げていく。

『わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた。』(1サムエル記2:26)
サムエルは、このような環境の中であっても、悪く染まる事が無かった。
それは、信仰の父母の御言葉に基づく愛や祈りの故だろうか。あるいは、生まれながら頭にかみそりを当てられず、他の人とは違う、聖別された者という意識ゆえだろうか。
とにかく彼は、主の御前に誠実に仕えつつ育って行った。
私達もサムエルのように、邪悪な周囲に流されず、ただ主を見上げ、自分がキリストにあって聖別された者、神の子とされた者であるという自覚を持ちつつ、自らをきよく保ち続けたい。

礼拝説教メッセージ音声:人々の主への捧げ物を食い物にしたエリの子達(1サムエル記2:11-17):右クリックで保存

『エルカナはラマにある家に帰ったが、幼な子は祭司エリの前にいて主に仕えた。』(1サムエル記2:11)

エルカナの妻ハンナは、幼い長男という、若き母にとっては最も尊いものを主に捧げ、そして主はそれを豊かに用いられた。
それに引き換え、祭司の子たちは、主の前に悪を行ない、自らの頭上に滅びを積み上げていた。

『エリの子らは、「よこしまな人々(直訳:ベリヤアルの子)」で、主を恐れなかった。』(1サムエル記2:12)
祭司とは、神と人との間に立って執り成しの務めを果たすはずの者だが、祭司エリの子らは、なんと、「主を知らなかった」。
主を知らない祭司。
それは、法定を知らない弁護士や、操縦桿を知らないパイロットよりも、はるかに意味不明な、無価値な存在である。
ベリヤアル(ベリアル)とは元々、無価値な者、邪悪な者の意味である。いかに祭司の子であっても、主を知らないとしたら、ベリヤアルの子になってしまうのだ。
私達も、主の御言葉という「塩気」を失ってしまうなら、無価値なもの(ベリヤアル)として、外に投げ捨てられ、人々に踏みにじられてしまうのである。

『人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司の「しもべ(ナーリ:若者、ベイビー)」がきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。』(1サムエル記2:15-16)
民の捧げるいけにえからは、確かに、特定の部位を祭司が自由に受け取って良い。
しかし、脂肪の部分は人が手をつけてはならず、主の御前に焼き煙にして捧げるべき「神の食物」である。(レビ記21:6)
『イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、すべて牛、羊、やぎの脂肪を食べてはならない。自然に死んだ獣の脂肪および裂き殺された獣の脂肪は、さまざまのことに使ってもよい。しかし、それは決して食べてはならない。だれでも火祭として主にささげる獣の脂肪を食べるならば、これを食べる人は民のうちから断たれるであろう。』(レビ記7:23-25)
彼らは、してはならない事と知りつつも、敢えて行っていたのだろう。
なにしろ、祭司ではない一般の民が「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と諌めているくらいだから。

現代風に言うなら、聖徒が講壇の前に献金をささげ、主に祈っている最中に、牧師がやってきて、その献金をわしづかみにして持ち去ってしまうようなものだろうか。
あるいは、聖徒の食事のもてなしを「牧師は、食事やもてなしでは受けない、ただ現ナマのピン札でしか受け取らない、拒否するなら、そのお代は力づくで取ろう」などと言うようなものだろうか。
そのような事をされたら、その聖徒の主への思いがどうなってしまうかは、想像に難くない。

『このように、その若者たちの罪は、主の前に非常に大きかった。この人々が主の供え物を軽んじた(naats)」からである。』(1サムエル記2:17)
ここは、「人々が主に供え物をする事を忌み嫌わせた」とも訳せる。

捧げものは、主を愛する人々が、主に、愛と真心と感謝を込めて捧げるものであるのに、祭司がそれを独り占めにし、全部食い物にしていたのだ。
これでは、人々は「もう捧げるものなぞ持って来るか」となってしまっても、仕方がない。
主は、そのような事を、決して放置して置かない。
そのような事をするしている者は、自らにさばきを招き、弱くなったり、病になったり、死へと向かっているのだ。
『ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。・・・もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。』(1コリント11:27-34)

私達は、礼拝に集う時は、教会がキリストのからだである事を意識し、聖徒の交わりや愛さん、また、主への奉仕や捧げ物を、あたかも、自分の所有物のように勘違いしたり、あるいいは軽んじたりして、その身にさばきを招いてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:ハンナの賛歌(1サムエル記2:1-10):右クリックで保存

今回の箇所は、ハンナの喜びに溢れた祈りが記されており、その内容は、イエスの母マリヤの賛歌に、非常によく似ている。

天地宇宙を造られた、永遠なる主が、こんなにも小さな、貧しい、取るに足らない自分に関わって下さって、とても大きな事を為して下さった。
その事を、マリヤもハンナも大いに喜んでいる。
当然その喜びは、私達キリスト者の喜びでもある。

ハンナは、主は全部知っておられた、あの時の言葉にならない呻きの祈りも、長い間ペニンナに心悩まされていた事も、あの時この時の私の心理状態や状況も、全部知っておられたのだ、と驚いている。(3節)
それはキリスト者なら皆味わうはずの共通の驚きと喜びであり、有名な「おどろくばかりの(アメージンググレース)」の賛美も、そのようにして生まれた。

『ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。』(1サムエル記2:1)
ハンナは、最もいとしいであろう幼子を、神の家に預けたその直後の時期に、なぜ、こんなにも喜んでいられるのか。
それは、主が彼女を全部知っておられた事、主ご自身が直接的に関わって下さった事が、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだろう。
そして、その子が全能なる主の元で養われる事が、彼にとって何より幸せであると、わかっていたからだろう。
事実、サムエルの名は、聖書の一巻の名前にもなる程、重要な人物となった。
それはまさしく、彼女の信仰による行いの故である。

『主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。』(1サムエル記2:2)
主を「岩」とする表現は申命記にも少し出てきたが、岩なる主は、キリストを意味している。(1コリント10:4)
「岩」であられる主は、信じる人には頼もしい救いの拠り所だが、信じない人には、妨げの岩、つまづきの岩である。(1ペテロ2:8)

『あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。』(1サムエル記2:3-5)
自分の力や富、持ちものの故に高慢になっている者は、必ず衰える。そして、主に信頼を置く者こそ、永遠に幸いを得る。
彼女はその事を歌っており、これはマリヤも同じ賛歌を歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(ルカ1:51-53)
全てのものは主から出たものであり、その主を重んじるか、軽んじるかによって、人の永遠は決まってしまうのだ。

『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。』(1サムエル記2:6-8)
これはまさしくメシヤなるキリストを現している。
彼は殺され、また生かされた。陰府に降り、三日目に上げられ、天に昇られた。
主はひと度、貧しくなられ、低くされ、そして圧倒的に高くされ、富む者となった。
これはまさに、十字架につけられた神の子キリストの有り様であり、そして私達キリスト者も、キリストと同じく、世にあっては低い身分のように見えても、天においては高い身分であり、悲しんでいるかのように見えても、大いに喜んでおり、死んだも同然のような者であっても、永遠に生きるものとされ、何も持たないかのように見えても、全てを持っている。(2コリント6:1-10)

『主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう。』(1サムエル記2:10)
ここに「油注がれた者(ヘブライ語:マシヤハ)」と記されているが、それはメシヤなるキリストが力を受け、神の敵を永遠に滅ぼす事を預言している。
一介の、貧しい、一女性が、メシヤを預言した。
私達信仰者も、メシヤなるキリストを表現する者である。
ただ主にだけ寄り頼む者に、主はインマヌエル(共におられる主)として現れ、プライベートに密接に関わってくださり、そしてメシヤなるキリストの有り様を、細かく示して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
正しい夫婦関係の回復(雅歌6章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:神は聞かれた(1サムエル記1:19-28):右クリックで保存

『彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。』(1サムエル記1:19-20)

サムエルの名は「シェムー(聞かれる)エル(神)」、まさしく「神は聞かれた」のだ。
彼女が誓願したその一年後には、もう男の子を出産していたので、彼女の祈りは、あの祈りをした直後に成就していた、という事である。

『エルカナその人とその家族とはみな上っていって、年ごとの犠牲と、誓いの供え物とをささげた。しかしハンナは上って行かず、夫に言った、「わたしはこの子が乳離れしてから、主の前に連れていって、いつまでも、そこにおらせましょう」。夫エルカナは彼女に言った、「あなたが良いと思うようにして、この子の乳離れするまで待ちなさい。ただどうか主がその言われたことを実現してくださるように」。』(1サムエル1:21-22)
彼女は元々、「男の子が与えられたら、主に捧げる」という誓願をしていたのだが、この時点、その子はまだ乳離れしておらず、主の宮に捧げられる状態には至っていなかったため、彼が乳離れして主に捧げる事が出来るようになるまでは、行かずにおきましょう、という事だろう。

夫のいる女性が誓いをする場合、夫の承認が必要であるため(民数記30章)、彼女は夫エルカナに自分の誓いを夫に言ったのだが、夫は「どうか主がその言われたことを実現してくださるように」と言って快諾した。
彼も、良き信仰の人だった。
自分の気に入る・気に入らないによって妻の誓いを支配するではなく、「主の御心が成るように」という、主への従順と信仰が彼の言動に現れている。

『乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。その子はなお幼かった。そして彼らはその牛を殺し、子供をエリのもとへ連れて行った。
ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。そして彼らはそこで主を礼拝した。』(1サムエル記1:24-28)

彼女は自分が誓願した通りに、その子を捧げに行った。
アブラハムといい、ハンナといい、そしてイエス・キリストの父なる神といい、親が、ひとり子を自分の懐から手放す事は、どれ程の事だろう。
しかし、ハンナの言葉や続く賛歌からは、悲壮感の類は一切、感じられない。

主が聞かれた、主はこれから与えて下さる、そして、その子は主のものとされ、主の守りと養いの内に栄え、主のわざを成していく、という確信が、彼女に与えられたのだろう。
彼女は本当に、信仰の人である。
子を与えて下さいという、声にもならない呻きの祈りをした時も「主が聞き入れて下さった」という平安と確信が与えられた。
そしてこの時も、この子は主に捧げられたものとして聖別され、祝福され、そして自分はこれから、さらに子を産んで行き、ますます栄誉が増し加わって行く、という確信までも与えられたのだ。

キリスト者の、そのような信仰の確信と喜びは、人生に一度や二度の特殊体験ではない。
祈る度に、信仰によって御言葉を受け止める度に、すなわち、日々自分を下ろし、自分の十字架を負って、主について行く度ごとに、日常的に起こるものである。

礼拝説教メッセージ音声:人知れぬ呻きの祈りによって生み出されたサムエル(1サムエル記1:9-18):右クリックで保存

『シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。』(1サムエル記1:9-10)

エルカナの一家が主の神殿で食事をした中で、ハンナだけは食べようともしなかったが、皆の食事が終わった時、彼女は一人、主の御前に出て激しく泣いた。
彼女は、礼拝中も食事中も心に苦しみがあったのだが、それは一切出さず、皆の飲食がひと通り終わった後、一人、御前にそれを持っていったのだ。

教会や交わりにおいて、兄弟姉妹に嫌味を言って、その言われた人が、礼拝や交わりが苦々しくなってしまうような事は、あってはならない事である。
苦々しくなってしまった人が、その思いを他の兄弟姉妹にぶつけてしまうなら、礼拝や愛餐の聖なる集いが汚されてしまうが、ハンナはそれをしなかった。
彼女のように、憂いや憤りを人にではなく、主へと持っていくならば、主がその問題を請け負って下さり、解決は主の仕事となる。

『そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。』(1サムエル記1:11)
彼女は今まで、幾度も、男の子が与えられるように祈って来ただろう。
しかし、この時の彼女の祈りは、特別だった。
もし、その子が与えられるなら、その子を神様に捧げます、という誓願をしたのだ。
主に捧げられた子、その子は神のものとされ、神の事を為し、神の御心を行い、そして彼が主にあって為す事は、人間の力や知恵、限界を遥かに超えたものである。

『彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。』(1サムエル記1:12-14)
彼女は悩みと憂いに満ちていたため、眉間に皺が寄り、目を赤く腫らし、苦しみに震えつつ、唇だけが動いていたのだろう。
祭司は「酔っ払っている」と勘違いしたが、主はご存知だった。彼女の心の願いを、そして、彼女が声に出さずして誓った内容も。
そして、彼女が人知れず誓った内容を、彼女は果たす気でいる、という事も。

主は私達を探り、知っておられる。
座るのも立つのも、どこに行こうとしているのかも知っておられ、私達の思いを遠くから読み取られる。
言葉が私達の舌にのぼる前に、主はそれを、ことごとく知っておられる。(詩篇139編)

『しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。
こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。』(1サムエル記1:15-18)
祭司エリは、あまり良い祭司ではなかったが、そんな祭司であっても、彼女は彼の言葉を信仰によって受け止めた。
その瞬間から、彼女は変わった。
状況は変わっていない。しかし心は、あたかも目の前の問題は無くなったかのような、平安に満たされたのだ。

私達キリスト者にも、そのような「信仰の瞬間」がある。
悪い状況は、変わっていない。しかし、その悪い状況など、あたかも無くなったかのように、平安に満たされる、という瞬間が。
キリスト者の特権であるその「信仰の瞬間」は、心から主に祈った時や、信仰によって御言葉を受け止めた時に、起こる。

御言葉に記されている真理を、信仰によってその人の霊の中へと引き出す時、主が約束して下さった事は、もう成就した、という確信が沸き起こる。
その時、現実の状況とは全く関係なく、心は平安で満たされ、やがては現実世界のほうが、その人が信じた通りに成って行くのだ。
それはちょうど、預金通帳に記されている数字を、当たり前のように信じて疑わず、それを持って銀行へ行ってしかるべき手続きをするなら、現実に現金が手元へ引き出されるのと同じである。

こうして、時代の指導者・サムエルは、一人の不妊の女の、言葉にならない人知れぬ祈り、しかも、祭司さえ「酔っぱらい」と勘違いするような、呻きの祈りによって、生み出される。
私達も、主に捧げる心を持ち、信仰によって祈るなら、時の指導者さえ生み出す事が可能なのである。

礼拝説教メッセージ音声:ハンナとペニンナ(1サムエル記1:1-8):右クリックで保存

歴代誌によると、サムエルの父エルカナは、ケハテ族のレビ人であり、コラの子孫である。(1歴代誌6:33-43)

「エフライムびと」とは記されているが、それはエフライムの血筋の子孫という事ではなく、エフライムの地域に住む人という事である。(ルツ1:2 1サムエル17:12)
ちなみに、サムエルの孫にあたるヘマンは、詩篇88編の作者であり、神の宮で賛美する代表的な者の一人となった。

『エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。』(1サムエル記1:1-2)

エルカナの二人の妻のうち、不妊の女・ハンナの名の意味は「自発的に与えられる賜物」、子があるほうのペニンナの名の意味は「真珠」である。
真珠は、貝に傷をつける事で徐々に醸成されていく尊い宝石であるが、ペニンナ自身が真珠を生み出すのではなく、ペニンナがハンナを傷つける事によって、ハンナを通して、サムエルという尊い真珠が生み出されていく事になる。

『この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。・・・エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。』(1サムエル記1:3-6)
この時代は、士師記の荒んだ時代ではあったものの、ルツ記のように神を恐れ敬う民は確かにおり、エルカナの一家もそれに含まれていた。
彼らが捧げた犠牲は、神と人と祭司が共に食す「和解のいけにえ」と思われるが、この礼拝の日は、ハンナにとって心痛い日だった。

ペニンナには息子たちや娘たちがいたため、彼女自身の分と、さらに息子娘達の分も犠牲が与えられた。
それに対しハンナは、捧げる犠牲は自身ひとり分しか与えられず、そして”主がハンナの胎を閉じていた”事をもって、ペニンナはハンナをいじめていたのだ。

一人の夫に二人の妻がおり、一方が他方から憎まれる。
どことなく、創世記に出てくるヤコブの妻たち、ラケルとレアに似ているが、そのケースと逆なの点は、いじめる側のほうが子沢山で、いじめられる側には、子がいない、という点である。
また、ハンナはペニンナに何かで仕返しをする事も、言い返したりする事なく、そして、夫にぶちまける事もしなかったようである。
『ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。』(1サムエル記1:7)

ハンナは、夫から慰めの言葉をもらうのだが、それは何の功も奏さない。
彼女はただ、やられったなしで、それを仕返ししたり、夫にぶちまける事もせず、ただ自分の中で押さえ、泣き、食事も取らずにいた。
そうして彼女は、この事を主に持っていく事になる。

礼拝を”ねた”に、誰かを悩ませたり、また、「主が与えてくださらない」点を突いて悩ませるのは、良くない事である。
私達も、礼拝という場、クリスチャンの集いという場から、そういった類の悩みやいじめを受ける事があるが、それでも主に向かうのであるなら、主が顧みて下さり、幸いを得させてくださる。
事実、ハンナは真剣に主に求めるようになって、ついには、彼女はペニンナよりも幸いを得る事となって行く。

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