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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の裏切り女を引き戻すレビ人(士師記19:1-15):右クリックで保存

前章までの所では、イスラエルではいかに偶像礼拝が蔓延しているかを見た。

しかしこの19章以降、イスラエルの堕落はもっと深刻な事態になっている様を見る事になる。

『そのころ、イスラエルに王がなかった』(士師記19:1a)
イスラエルは本来、神である主こそが唯一の王であるはずなのに、そうではなく、ある者はあの神を、別の者はこの神を、別の者はあの人この人を、それぞれ好き勝手に王としている時代であった。

『エフライムの山地の奥にひとりのレビびとが寄留していた。彼はユダのベツレヘムからひとりの女を迎えて、めかけとしていたが、そのめかけは怒って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの父の家に帰って、そこに四か月ばかり過ごした。』(士師記19:1b-2)
前回は、ベツレヘム出身のレビ人が、エフライム山地のミカの家に行った。
今回は、エフライム山地のレビ人が、ベツレヘム出身の女性を「めかけ」としてめとっている。
ルツ記を見ても、ベツレヘム出身のエリメレク一家がモアブへと出て行ったように、このベツレヘムという地からは、出て行く人は多かったかもしれないが、この地はダビデ王の故郷であり、イエス・キリストの生まれた場所でもある。
ベツレヘム(パンの家)という地は、そこに留まる信仰者は、幸いを受けるが、そこから出て行く人には碌な事が起こらない。
このレビ人の「めかけ」の女性も同じである。

彼女は「怒って」彼のところを去ったとあるが、「怒る」と訳された後のヘブライ語「ザーナー」は、「姦淫を犯す」という意味である。
KJVでは、「his concubine played the whore against him」と記されており、明確に、彼女が姦淫を犯したためにこのレビ人の所を去ったと記されている。
律法に照らすなら、夫のある身でありながら姦淫の罪を犯した女は死刑であり(レビ記20:10)、もしこのレビ人が祭司であるなら、女は火で焼かれなければならない。(レビ記21:9)
しかしこのレビ人は、彼女を平和の内に連れ戻そうとした。

これを読む時、預言者ホセアを思い出す。
主はホセアに「姦淫の女をめとれ」と命じ、そして彼はその通りに実行したのだが、その女は夫に子を産んで愛されていながら、姦淫するために出て行ってしまった。
そこで主は、彼女を呼び戻せ、と言われる。
『主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。わたしは彼女に言った、「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)

本来なら死刑のはずの、姦淫の裏切り女にやさしく声をかけ、銀で買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。
それはまさしく、イエス様と私達の関係と同じではなかろうか。
かのレビ人も、ねんごろに裏切り女に声をかけ、よりを戻そうとした。しかし残念ながら、このレビ人は、彼女を命がけで守ろうという気概は、さらさら無かった。(後述)
それに引き換え、私達の主イエス様は、平気で裏切った私達のために命を投げ出し、私達が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けくださり、そしてねんごろに声をかけ、主の元へと引き寄せて下さった。

『そこで夫は彼女をなだめて連れ帰ろうと、しもべと二頭のろばを従え、立って彼女のあとを追って行った。彼が女の父の家に着いた時、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。娘の父であるしゅうとが引き留めたので、彼は三日共におり、みな飲み食いしてそこに宿った。四日目に彼らは朝はやく起き、彼が立ち去ろうとしたので、娘の父は婿に言った、「少し食事をして元気をつけ、それから出かけなさい」。』(士師記19:3-5)
彼女の父はこのレビ人によほど好意を寄せたのだろう、何日も彼を引き止めて歓待した。
創世記でも学んだように、パレスチナ地方では、旅人を篤くもてなす事が美徳とされている。

しかし、何日も歓待が続くので、彼らは、実に悪いタイミングで出立してしまう。
『その人がついにめかけおよびしもべと共に去ろうとして立ちあがったとき、娘の父であるしゅうとは彼に言った、「日も暮れようとしている。どうぞもう一晩泊まりなさい。日は傾いた。ここに宿って楽しく過ごしなさい。そしてあしたの朝はやく起きて出立し、家に帰りなさい」。しかし、その人は泊まることを好まないので、立って去り、エブスすなわちエルサレムの向かいに着いた。くらをおいた二頭のろばと彼のめかけも一緒であった。』(士師記19:9-10)
あまりにずるずると引き止めてしまう事も、引き止められてしまう事も、共に良くない。
アブラハムのしもべは、わずか1日歓待を受けただけで、翌日に早速出立したが(創世記24章)、それはやはり賢かったのだ。

『彼らがエブスに近づいたとき、日はすでに没したので、しもべは主人に言った、「さあ、われわれは道を転じてエブスびとのこの町にはいって、そこに宿りましょう」。主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。
『彼はまたしもべに言った、「さあ、われわれはギベアかラマか、そのうちの一つに着いてそこに宿ろう」。彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギベアの近くで日が暮れたので、ギベアへ行って宿ろうと、そこに道を転じ、町にはいって、その広場に座した。だれも彼らを家に迎えて泊めてくれる者がなかったからである。』(士師記19:11-15)

ギベアはベニヤミン族の領地であり、イスラエルの初代王・サウル王の故郷であるが、どうも様子がおかしい事に、この町の住人は誰一人として、家に迎えようとはしない。
不信仰の異邦人の町に留まるよりは、イスラエル人の町に留まる、という判断は正しいはずなのに、実は、この判断は、後に災いの元となってしまう。
人から御言葉から離れ、おのおの、自分のよかれで動くような時代は、何が安全で確実であるのかも、分からない時代になってしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
夜、思い巡らせるは、愛する花婿イエスのみ(雅歌3:1-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ダンは道のかたわらの蛇(士師記18:27-31):右クリックで保存

『さて彼らはミカが造った物と、ミカと共にいた祭司とを奪ってライシにおもむき、穏やかで、安らかな民のところへ行って、つるぎをもって彼らを撃ち、火をつけてその町を焼いたが、シドンを遠く離れており、ほかの民との交わりがなかったので、それを救うものがなかった。その町はベテレホブに属する谷にあった。彼らは町を建てなおしてそこに住み、

イスラエルに生れた先祖ダンの名にしたがって、その町の名をダンと名づけた。その町の名はもとはライシであった。』(士師記18:27-29)
こうしてダン族は定住後を得たが、そこは、ヨシュアが”くじ”で割り当てた地ではなかった。
本来なら、くじで割り当てられた自分本来の地を、信仰によって奪い返す事が先のはずなのに、彼らは信仰による戦いを回避し、弱そうな相手を選んで、楽にその地を勝ち取った。

そして彼らはその地に自分たちの名をつけたが、そこで何を行ったか。
『ダンの人々は刻んだ像を自分たちのために安置し、モーセの孫すなわちゲルショムの子ヨナタンとその子孫がダンびとの部族の祭司となって、国が捕囚となる日にまで及んだ。』(士師記18:30)
彼らはそこで、偶像礼拝を盛んに行ったのだ。

なお、かの雇われ祭司は、日本語聖書では「モーセ」の孫とあるが、ヘブル語本文では、モーセではなく「マナセ」となっている。
また、ここには「モーセの孫すなわちゲルショムの子ヨナタン」と記されているが、モーセの孫・ゲルショムの子は「シュブエル」のはずであり(1歴代誌23:16、26:24)、「ヨナタン」ではないはずだ
つまり、このヨナタンなる「レビ人の祭司」は、出生詐称の可能性もある。(もっとも、本当に彼がモーセの子孫・ゲルショム族の出だとしても、元々祭司職は得られないが。)

この時以降、ヨナタンの子孫がダン族の祭司となって、それは「国が捕囚となる日にまで及んだ。」(31節)
ヨナタンとその子孫は、いきなりイスラエル一部族の祭司となったので、棚からぼた餅的な立身出世であっただろう。
しかし、彼らにとっての「世的な成功」は、後のイスラエルに、大いに悪影響をもたらすことになる。
牧師や伝道者など、神の働き人の”世的な”立身出世は、神の国に成功をもたらすとは限らず、むしろ逆に、神の国を大いに損なってしまう事もあるのだ。

『神の家がシロにあったあいだ、常に彼らはミカが造ったその刻んだ像を飾って置いた。』(士師記18:30-31)
神の箱がシロにあったのは、サムエルの時代までであり、ダビデの時代以降はエルサレムに移された。
士師記の時代が終わった後、他の部族が正当な信仰に戻っても、ダン族だけは、シロやエルサレムに礼拝に行かず、このイスラエルの最北の地で、不当な礼拝をしていたのだろう。

ダビデの子ソロモンの時代が終わると、イスラエルは南北に分裂し、北イスラエル王国最初の王ヤロブアムは、ダンとベテルに金の子牛像を据え、そこを偶像礼拝の中心地とした。(1列王記12:26-30)
それ以降、「ヤロブアムの罪」と言えば偶像礼拝の代名詞となったが、その大元は、はるかさかのぼって、この士師時代のダン族にあったわけである。
つまり、この士師記の時代以降、北イスラエル王国がアッシリアへ捕囚された紀元前700年前半くらいまでずっと、偶像礼拝の中心地だった事になる。

父祖イスラエルは、死ぬ直前、預言している。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。』(創世記49:17-18)
ダン族は道の傍らの蛇となって、ミカの家を噛み、ライシュを噛み、そして後々、北イスラエル王国の歩みを噛む事になった。

聖書の最後の書・黙示録には、神の印が押されるイスラエル十二部族が出てくるが、そこには、ダン族は外されてしまっている。(黙示録7:4-8)
他の兄弟姉妹が正当な礼拝に戻っても、自分勝手な礼拝を捨て去らず、かえって兄弟姉妹につまづきを与えてしまうような者は、神の民から除外されてしまうのだ。
間違った道に逸れる事なく、御言葉に従って正当に歩み、信仰と祝福の王道を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:奪われてしまっても何も出来ない神(士師記18:21-26):右クリックで保存

『かくて彼らは身をめぐらして去り、その子供たちと家畜と貨財をさきにたてて進んだ。』(士師記18:21)

彼ら、すなわちダン族がそのようにしたのは、彼らが自身がミカの家の持ち物と祭司とを奪うという「やましい事」をしたためであり、ミカ達が武装して取り返しに来ても対抗できるよう備えるためだ。

『ミカの家をはるかに離れたとき、ミカは家に近い家の人々を集め、ダンの人々に追いつき、ダンの人々を呼んだので、彼らはふり向いてミカに言った、「あなたがそのように仲間を連れてきたのは、どうしたのですか」。』(士師記18:22-23)
人の資産を奪い、従業員もさらって置きながら、「あなたがそのように仲間を連れてきたのは、どうしたのですか」などと、とぼけた事を言ったが、ミカが奪われた資産とは、ミカにとっての「神」である。

『彼は言った、「あなたがたが、わたしの造った神々および祭司を奪い去ったので、わたしに何が残っていますか。しかるにあなたがたがわたしに向かって『どうしたのですか』と言われるとは何事ですか」。』(士師記18:24)
ミカは、自分の神が奪われた、わたしに何が残っているか、と訴えたが、ここに一つ、質問をさせていただく。

皆さんの神は、誰々に奪われてしまう神であろうか。
神の御子キリストは、誰かが暴力的に私達の所から奪って行ったら、もう手元には無くなってしまうようなお方だろうか。
世の神にはそのような事はあっても、私達の神に限っては、決してありえない事を、私達は感謝するのみである。

『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:35-39)
主は、たとえ私達が地の底に降っても、あるいは天のかなたに宿っても、決して離れる事なく、いつも共におられ、見ておられ、守っておられる生きたお方である。(詩篇139編)

『ダンの人々は彼に言った、「あなたは大きな声を出さないがよい。気の荒い連中があなたに撃ちかかって、あなたは自分の命と家族の命を失うようになるでしょう」。こうしてダンの人々は去って行ったが、ミカは彼らの強いのを見て、くびすをかえして自分の家に帰った。』(士師記18:25-26)
ミカからは神が奪われてしまったが、その神が守ってくれる事を信じて戦いに出る事も、命賭けで取り戻そうとする事も、しなかった。
ただ多勢に無勢で何も出来ず、すごすごと引き返しただけだった。
結局は、母の銀二百枚を用いて、自分の自由にできる「礼拝王国」を構築し、それで宗教ごっこの自己満足をしていたただけの事が、あらわにされたのだ。

士師記には、命の危険を賭しても主の御声に聞き従い、父の家のバアル像を切り倒して、まことの神である主にいけにえを捧げ、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきだ」(士師記6:32)と言わしめた「エルバアル」がいたが、その全く逆である。
盗もうとしていた母の銀を使って「神」を作り、その神が、強い他人に奪われても、命おしさに何も出来ない。何と、情けない話だろうか。
士師記の時代、すなわち、人がそれぞれ自分の「よかれ」で生きる時期が長くなればなるほど、このように情けなく、御前に罪深い時代へと、落ち込んで行くのである。

『刻める像、鋳像および偽りを教える者は、その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、その造ったものに頼んでみても、なんの益があろうか。わざわいなるかな、木に向かって、さめよと言い、物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀をきせたもので、その中には命の息は少しもない。しかし、主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ。』(ハバクク2:18-20)

その後のミカの行動については、記されていない。
これを機に目覚めて、まことの神に立ち返ってくれれば良いのだが、彼の性質を見るならば、残った母の銀九百枚を使って、また新たに神を作った可能性が高い。

決して誰にも奪われる事の無い神、そして、世の何者も引き離す事のない主であるキリストにのみ仕える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:化けの皮が剥がされた礼拝者たち(士師記18:11-20):右クリックで保存

ダン族は予め派遣した斥候たちに促され、自分の地を離れてライシュを略奪すべく旅立った。

『そこでダンの氏族のもの六百人が武器を帯びて、ゾラとエシタオルを出発し、上って行ってユダのキリアテ・ヤリムに陣を張った。このゆえに、その所は今日までマハネダンと呼ばれる。それはキリアテ・ヤリムの西にある。』(士師記18:11-12)
マハネ・ダンとは、ダンの宿営、という意味である。
この部族は、土地によく自分の部隊の名をつけるようである。

『彼らはそこからエフライムの山地に進み、ミカの家に着いた。かのライシの国をうかがいに行った五人の者はその兄弟たちに言った、「あなたがたはこれらの家にエポデとテラピムと刻んだ像と鋳た像のあるのを知っていますか。それであなたがたは今、なすべきことを決めなさい」。そこで彼らはその方へ身をめぐらして、かのレビびとの若者の家すなわちミカの家に行って、彼に安否を問うた。しかし武器を帯びた六百人のダンの人々は門の入口に立っていた。』(士師記18:13-16)
彼らは「今、なすべきことを決めなさい」と言ったが、それはようするに、この家にあるエポデやテラピムや偶像などを奪って自分たちのものとしなさい、と言っているのである。

『かの土地をうかがいに行った五人の者は上って行って、そこにはいり、刻んだ像とエポデとテラピムと鋳た像とを取ったが、祭司は武器を帯びた六百人の者と共に門の入口に立っていた。』(士師記18:17)
これは「強奪」と言う行為に他ならない。

一体彼らの信じるその「神」は、その化身(?)たる像を「強奪」されても、おかまいなしに、新しいほうの持ち主を幸いにしてくれるとでも思っていたのだろうか。
もしそうだとしたら、「神の真実」とは、一体何だろう。そしてそれなら、人は、どうして真実へと導かれるというのだろう。
神の祝福が、他者から強奪できる者のものであるとしたら、また、「地獄の沙汰も金次第」という言葉のごとく、救いが金で何とかなるようであるとするなら、一体弱く貧しい人の救いは、どこにあるのだろう。
このように、人が好き勝手にこしらえた宗教のはびこる所には、救いは何も無い。
救いはただ、御言葉なるお方・イエス様の元にのみ、存在する。

御言葉こそ真理であり、人は、御言葉によってこそ正しく判断し、解釈できる。
この士師記17-18章に登場した人物達を、最も基本的な御言葉である「十戒」に照らし合わせるなら、次のように幾つも破って(あるいは未遂して)いる事がわかる。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(第一戒)
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(第二戒)
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(第三戒)
「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」(第五戒)
「あなたは殺してはならない。」(第六戒)
「あなたは盗んではならない。」(第八戒)
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」(第十戒)
結局、御言葉が無い所には罪のはびこりがあり、秩序の乱れがあり、この士師記の時代のように、神を恐れぬ人間による暴虐と不毛な争いが満ち満ちるのだ。

『彼らがミカの家にはいって刻んだ像とエポデとテラピムと鋳た像とを取った時、祭司は彼らに言った、「あなたがたは何をなさいますか」。彼らは言った、「黙りなさい。あなたの手を口にあてて、われわれと一緒にきて、われわれのために父とも祭司ともなりなさい。ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか」。祭司は喜んで、エポデとテラピムと刻んだ像とを取り、民のなかに加わった。』(士師記18:18-20)
このレビ人が、神と人との間を取り持つ「祭司」の端くれでもあるなら、神の義を示し、人の罪を正すべきであるはずなのに、より条件の良い就職先が見つかるやいなや、目を輝かせ、喜んでそちらになびき、今までお世話になって来たミカを平気で捨て、しかも、ミカの資産であるはずのエポデとテラピムと刻んだ像とを持ち出して来て、その人々の中に加わっていく。
一体このような「神の国の働き人」を、どう思うだろうか。
しかし、そのような「主の働き人」は、どの時代でもいるし、そして現代にも、いる。
そのような者は、神の国と神の義の事は何とも思わず、自分に都合が良い条件が提示されるなら、その者達の不法には口をつぐみ、その勢力の中へと、喜んで入っていくものだ。

ダン族も、そのレビ人も、何も起きなければ、一見誠実な礼拝者に見えていたかもしれない。
しかしいざ、誘惑の試練をくぐらされると、実にあっさり化けの皮が剥がれてしまった。

私達も、試練の火をくぐらされる時、内側があらわにされ、主に対する姿勢が明らかにされる。
その時、ある者は化けの皮が剥がされてしまい、別の人は、本当に主に真実を尽くすまことの礼拝者である事が明らかにされるのだ。

イエス様は言われた。
『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』(ヨハネ4:23-24)
私達は日頃から、目に見えるものによってではなく、心を尽くし、力を尽くし、霊とまことによって主を礼拝するものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:ダン族の「見える所によって歩む」不信仰(士師記18:1-10):右クリックで保存

『そのころイスラエルには王がなかった。そのころダンびとの部族はイスラエルの部族のうちにあって、その日までまだ嗣業の地を得なかったので自分たちの住むべき嗣業の地を求めていた。それでダンの人々は自分の部族の総勢のうちから、勇者五人をゾラとエシタオルからつかわして土地をうかがい探らせた。すなわち彼らに言った、「行って土地を探ってきなさい」。彼らはエフライムの山地に行き、ミカの家に着いて、そこに宿ろうとした。』(士師記18:1-2)


ダン族には「その日までまだ嗣業の地を得なかった」とあるが、そんな事は無いはずである。
ヨシュア記を読むと、彼らにはヨシュアのくじによって、確かに相続地が割り当てられている。(ヨシュア記19:40-46)
しかしダン族は、情けない事に、原住民によってそこから追い出されてしまったのだ。(士師記1章)
他の部族は原住民を制圧し、完全には追い出し尽くさなかったものの、苦役に復させたりしたのに、ダン族に限っては、その原住民に圧倒されてしまっているのだ。
ようするに、彼らが信仰に立って動こうとしない「霊的怠慢」の結果、彼らは追い出され、定住地を得ずに放浪していたのだ。

『彼らがミカの家に近づいたとき、レビびとである若者の声を聞きわけたので、身をめぐらしてそこにはいって彼に言った、「だれがあなたをここに連れてきたのですか。あなたはここで何をしているのですか。ここになんの用があるのですか」。若者は彼らに言った、「ミカが、かようかようにしてわたしを雇ったので、わたしはその祭司となったのです」。』(士師記18:3-4)
ダン族の斥候たちは、レビびとの「声を聞き分け」たので、色々と質問している。
誰に連れて来られ、ここで何をしていて、何の用があるのか、と。

このレビ人は一見、祭司風の格好をして、礼拝風の事をしているのだから、別に、根掘り葉掘り聞く程でもないであろうに、そこまで彼に興味を持ったのは、彼の言葉の内容、あるいは、その礼拝形式が、彼らにとって普通ではなかったのだろう。
もしかしたら彼の礼拝形式が、何か斬新で、いかにもご利益ありげに見えたのかもしれない。
『彼らは言った、「どうぞ、神に伺って、われわれが行く道にしあわせがあるかどうかを知らせてください」。その祭司は彼らに言った、「安心して行きなさい。あなたがたが行く道は主が見守っておられます」。』(士師記18:5-6)
このレビ人は「主が」と言って、エホバの御名を出しているが、それにしても随分と素早い返答である。

正当な神の預言者であるなら、まず主に伺うはずである。
モーセは、過越祭をやむを得ない理由で祝えなかった人々から質問された時、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう。』(民数記9:8)と言ったし、エレミヤも、主の御心を求められた時は、10日間主の御前に出て御心を求めた。(エレミヤ42章)
御言葉の根拠も無しに、あるいは主に伺いもせずに、幸いな言葉を即答したり、幸いな預言を乱発するような人は、要注意である。

『そこで五人の者は去ってライシに行き、そこにいる民を見ると、彼らは安らかに住まい、その穏やかで安らかなことシドンびとのようであって、この国には一つとして欠けたものがなく、富を持ち、またシドンびとと遠く離れており、ほかの民と交わることがなかった。』(士師記18:7)
このライシという場所(後にダンの名が付される)は、聖書地図を確認すると、イスラエルの領土の中でも北のはずれに位置する。
それで、「ダンからベエル・シェバまで」という言葉が、イスラエルの領土の最北端から最南端までのイスラエル全領土を意味する言葉となった。
彼らは、どういうわけで、その地に目を留めたのか。

『かくて彼らがゾラとエシタオルにおる兄弟たちのもとに帰ってくると、兄弟たちは彼らに言った、「いかがでしたか」。彼らは言った、「立って彼らのところに攻め上りましょう。われわれはかの地を見たが、非常に豊かです。あなたがたはなぜじっとしているのですか。ためらわずに進んで行って、かの地を取りなさい。あなたがたが行けば、安らかにおる民の所に行くでしょう。その地は広く、神はそれをあなたがたの手に賜わるのです。そこには地にあるもの一つとして欠けているものはありません」。』(士師記18:8-10)
彼らが、そこに攻め上ろう、と言った根拠は、その地の人々は弱そうで、孤立しており、たやすく攻め落せそうだというのが理由だ。
彼らは取って付けたように「神はそれをあなたがたの手に賜わる」と言っているが、そこは主がヨシュアを通して示された地ではなかったはずだ。

かつて、ヨシュアとカレブは、いかに敵が巨体であろうと、城壁を持っていようとも、主が共におられるのだから、必ず攻め落とせる、と、信仰によって攻撃を仕掛け、そして実際に攻め落とした。
しかしダン族の考えは、その全く逆である。
その地は相続地として示されていないし、しかも、相手が弱そうだから攻めていこう、と言うのである。
随分情けない。

信仰者の歩みは、見える所によってではなく、御言葉に信頼し、まだ見ていない主の祝福を勝ち取って行くものである。
私達はダン族のようでなく、ヨシュアやカレブのように、御言葉の約束を信じ、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛らしい鳩よ、出ておいで(雅歌2:8-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主不在の礼拝ごっこ(士師記17:7-13):右クリックで保存

ミカの家には、刻んだ像と鋳た像と、自前の神殿とがあったが、祭司がいなかったため、息子の一人を祭司として立てていた。

そんな彼の所に、ユダのベツレヘム出身の一人のレビ人が訪れる。このレビ人は、18章30節によると、モーセの孫ゲルショムの子、ヨナタンである。
『ミカは彼に言った、「あなたはどこからおいでになりましたか」。彼は言った、「わたしはユダのベツレヘムのレビびとですが、住むべきところを尋ねて旅をしているのです」。ミカは言った、「わたしと一緒にいて、わたしのために父とも祭司ともなってください。そうすれば年に銀十枚と衣服ひとそろいと食物とをさしあげましょう」レビびとはついにその人と一緒に住むことを承諾した。そしてその若者は彼の子のひとりのようになった。』(士師記17:9-11)

ミカとしては「レビ人」という霊的地位の高い人を家の祭司に招き入れる事が出来、また、このレビ人にしても、安定した職場と住居が与えられ、互いの利害が一致してめでたしめでたし、と言えるように思えるかもしれないが、これもまた、主の御心から離れた宗教的自己満足である。
そもそも、家に自前の神殿がある事や、銀二百枚程度で作った偶像を天地を創られた主に置き換える事自体、間違いであるのだが、祭司として主の前に立てるのは、モーセの子孫のレビ人ではなく、大祭司アロンの子孫であるはずだ。(民数記3:10)

『ミカはレビびとであるこの若者を立てて自分の祭司としたので、彼はミカの家にいた。それでミカは言った、「今わたしはレビびとを祭司に持つようになったので、主がわたしをお恵みくださることがわかりました」。』(士師記17:12-13)
彼は、主(エホバ)がわたしに恵みをくださると言っているが、それは自分の望み通りの礼拝王国が完成した事の喜びであって、主の御心が成った事を喜んでいるのではない。
そして、このレビ人も、そこそこ良い条件の所に就職できた事に満足しているのであり、主の御心が成る事を気にも留めていない。
現に彼は、後に、より条件の良い就職先が出来れば、そちらのほうへホイホイと行ってしまうのだ。

現代でも、同じことがキリスト教会で行われないように注意しなければならない。
ある程度満足の行く働き場に”就職”して、主の御心を全く求めないミニスターと、ちょっとした霊的先生を自分の所に迎えた事に満足し、御言葉や御旨には一切無関心な信徒集団。
その両者の利害関係が一致して、主の御旨を外した礼拝ごっこで盛り上がる。
そこには、人間的な盛り上がりはあっても、主の臨在も、導きも、霊的満たしも、何も無い。

ミカは、レビ人を迎えた事を喜んだ。これで、全ての役者とアイテムが揃った、と。
私達キリスト者は、誰か「人」を迎えた事や、自分の望むアイテムが揃った事を喜ぶ者ではなく、キリストが私達に素晴らしい事をして下さった事、罪深い自分自身の罪が主の血潮によって清められ、天に私達の名が記され、永遠のいのちを獲得できた事をこそ喜び、そして、これからの道もキリストにあって最善へと導かれ、生かされて行ける事を喜ぶべきである。
私達はキリストの花嫁として、キリストの喜びとなるべく、日々自分自身を素晴らしいお方の花嫁として相応しく整えて行くべきだ。

キリストの名を大いに使って、キリスト不在の「礼拝ごっこ」というどんちゃん騒ぎをする人は、いつの時代にもいる。
私達は、御言葉のともしびに照らされて御旨に適った歩みをし、主の喜ばれる霊とまことによる礼拝をするものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:誤った知識を元に歩む時代(士師記17:1-6):右クリックで保存

『ここにエフライムの山地の人で、名をミカと呼ぶものがあった。』(士師記17:1)

17-18章では、ミカという人物を中心に、ダン族の取った行動が記されている。
ミカの名の意味は「主に近い者は誰か?」であるが、彼周辺の人々を見ていると、一体、主に近い者は誰かいるのだろうか、と思えて来る。

ミカは、母の銀を盗んだ。
『彼は母に言った、「あなたはかつて銀千百枚を取られたので、それをのろい、わたしにも話されましたが、その銀はわたしが持っています。わたしがそれを取ったのです」。母は言った、「どうぞ主がわが子を祝福されますように」。』(士師記17:2)
銀千百枚といえば、デリラにサムソンを陥れさせる為にペリシテ人の領主ひとりが彼女に贈ったのと同じ額で、それはかなりの額である。

彼は自分のした事を正直に告白したが、それは、母がかわいそうと思ったからでもなく、自分が悪いことをして後悔したからでもなく、母が呪ったのが怖かったからだ。
彼の特徴は、どうでもいい所で信心深く、かんじんな所を外している所である。

母は、息子が正直に告白した事を良しとし、何の懲らしめも無いまま、祝福している。
現代日本では美談のように見えるが、律法に照らすなら、意図的に人のものをかすめる事で”主に”不正をなした場合、そのかすめたものの全部、プラス、その五分の一を、罪過のためのいけにえを捧げる日に返さなくてはならない。(レビ記5章)
しかし母は、息子を懲らしめる事も無しに、呪いを取り下げて祝福している。それは神の民の性質ではない。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:8)

続いて彼らは、以下のやり取りをしているのだが、どう思うだろうか。
『そして彼が銀千百枚を母に返したので、母は言った、「わたしはわたしの子のために一つの刻んだ像と、一つの鋳た像を造るためにその銀をわたしの手から主に献納します。それで今それをあなたに返しましょう」。ミカがその銀を母に返したので、母はその銀二百枚をとって、それを銀細工人に与え、一つの刻んだ像と、一つの鋳た像を造らせた。その像はミカの家にあった。このミカという人は神の宮をもち、エポデとテラピムを造り、その子のひとりを立てて、自分の祭司とした。』(士師記17:3-5)

一見、信心深そうな家族に見えるかもしれない。
しかし、モーセ五書を学んできた方なら、いくつも問題点がある事に気づくだろう。

母は「主に奉献します」と言った。しかし、主に奉献するものの内訳は、刻んだ像と鋳た像である。
そのような像は、主の最も忌み嫌われるものである。
『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:4-6)
彼らは「こうすれば主に喜ばれる事だ」と根拠なく定め、それを実行し、しかし実の所、それを行う事によって主を怒らせているのだ。

それに彼らは、自分の家に神の宮を持っているが、それも違反である。
神の宮は、主が定めた場所でなくてはならず(申命記12章)、それ以外の場所に祭壇を築く事は、主への反逆に等しい行為である。
当初のイスラエルは、相手がたとえ一緒に戦ってきた兄弟であったとしても、それを犯すとするなら、徹底抗戦をも辞さない姿勢があった。(ヨシュア記22章)

また、ミカは彼の子の一人を祭司に任命しているが、それも違反である。
祭司は、アロンの子孫のみに許されているものであり、誰も彼もがなって良いものではない。
『あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう」。 』(民数記3:10)
これを犯したイスラエルの王・ヤロブアムは、わずか2代で滅びてしまった。(1列王記13:33-34)

また、今回の個所だけでも、十戒をいくつも破っている。(ほかの神々があってはならない、偶像を造ってはならない、父と母を敬え、盗んではならない)
それなのに、彼らは自分で「信仰深い」と思っているようだ。
『そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。』(士師記17:6)
この個所は、士師記を一言で表す言葉であり、災い多き荒んだ時代に入る元凶である。
私達は、御心を外した所でいくら頑張っても、苦労しても、無駄で、逆に主を怒らせるだけである。

知識が無く、勝手に決め付けてしまう人は、このような過ちに陥ってしまう。
『わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。』(ローマ10:2-3)
御言葉による正しい知識に基づいて、的を射た歩みをして行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:サムソンの最後(士師記16:23-31):右クリックで保存

デリラに力の秘密を明かして、髪を剃られてしまったサムソンは、力を失い、目を抉られ、足かせに繋がれて、臼ひきをさせられるという、屈辱の日々を味わっていた。

『さてペリシテびとの君たちは、彼らの神ダゴンに大いなる犠牲をささげて祝をしようと、共に集まって言った、「われわれの神は、敵サムソンをわれわれの手にわたされた」。民はサムソンを見て、自分たちの神をほめたたえて言った、「われわれの神は、われわれの国を荒し、われわれを多く殺した敵をわれわれの手にわたされた」。』(士師記16:23-24)

彼らは、自分達が拝む偶像の神・ダゴンがサムソンに勝った、と言っている。
しかし真相は、サムソンは、偶像の神に勝てなかったのではなく、女の誘惑に勝てなかったのであり、サムソンのイスラエルの神である主に対する不実が原因で、彼から主の力が取り上げられたのである。
神に仕えるはずの者が、不実を犯す事によって、神の御名が貶められてしまう、という事は、大いに起こりうる事だ。

『彼らはまた心に喜んで言った、「サムソンを呼んで、われわれのために戯れ事をさせよう」。彼らは獄屋からサムソンを呼び出して、彼らの前に戯れ事をさせた。彼らがサムソンを柱のあいだに立たせると、サムソンは自分の手をひいている若者に言った、「わたしの手を放して、この家をささえている柱をさぐらせ、それに寄りかからせてください」。その家には男女が満ち、ペリシテびとの君たちも皆そこにいた。また屋根の上には三千人ばかりの男女がいて、サムソンの戯れ事をするのを見ていた。』(士師記16:25-27)

その建物は、屋根の上にも三千人ばかりを収容できたのだから、おそらく、万単位の人が入れる劇場的な施設だったのだろう。
サムソンは、大勢の人々の前で戯れ事をさせられ、笑われ、屈辱を受けているというのに、彼は、自分の手をひく若者一人を振りほどく事さえ出来ずにいた。
主の力抜きの彼は、それほど、力が弱かったのである。

『サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。』(士師記16:28)
サムソンが主に呼びかけたのは、聖書の記述上では、これが二回目である。
一度目は、ろばのあご骨で千人を撃ち殺し、死にそうになった時だった。
普段は主を呼びもせず、与えられている主の力は、自分の肉欲を満たすためにだけ用いて来た彼だが、その、わずかな呼びかけに主は答えてくださる。
まことに主の真実は大きく、主の憐れみは尽きない。

『主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。』(哀歌3:22-33)

彼は、主への不従順を重ねたあげく、決して手放してはならぬものを手放してしまった。
それ故、この哀歌の言葉の通り、彼はくびきを負わされ、強制的に口をちりにつけざるを得ない状況に落とされ、髪が伸びるまで、打つ者にほおを向けざるを得ない状況に陥れられた。
そうして彼は学んだ。自分がして来た事がいかに愚かであったかを。

『子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。』(箴言5:7-14)

彼は、主の戒めを軽んじ、父母の訓戒も無視して、異邦の女をいだいて離れなかった。
それでこの箴言の言葉どおり、無慈悲な者に渡され、その力という資産は奪われ、他国の者の家に引きずり出されて行ったが、もうこの時は、彼を戒めた父・マノアは他界していた。
自分はなんという愚かな、取り返しの付かない事をしてしまったのだろう、と、嘆いたに違いない。

『そしてサムソンは、その家をささえている二つの中柱の一つを右の手に、一つを左の手にかかえて、身をそれに寄せ、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と言って、力をこめて身をかがめると、家はその中にいた君たちと、すべての民の上に倒れた。こうしてサムソンが死ぬときに殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かった。』(士師記16:29-30)
生まれる以前から、士師として選ばれ、ナジル人として特別な任務を受けた彼であったのに、なんと悲しい最後であろう。
いかに主から選ばれた人であれ、身勝手な罪の内を歩むなら、このようになってしまうのだ。

それでも彼は士師として数えられており、そして彼が最後の士師だった。
『やがて彼の身内の人たちおよび父の家族の者がみな下ってきて、彼を引き取り、携え上って、ゾラとエシタオルの間にある父マノアの墓に葬った。サムソンがイスラエルをさばいたのは二十年であった。』(士師記16:31)
士師記の時代は、まだまだ続く。
そして、主の御教えから離れ続けているイスラエルは、さらにさらに悪い方へ落ち込んでいく。

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