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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:指導者ヨシュアの最初の指示(ヨシュア記1:10-18):右クリックで保存

主はヨシュアに再三、強く、雄々しくあるようにと励ましたが、彼はそれを受けて、早速、指導者として”初の”アクションを起こした。
『そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」』(ヨシュア記1:10-11)

主は、アブラハムの時以来、何百年もの前から、このカナン人の地を与える事を約束しておられたが、もう、その地はすぐそこに迫っている。
そして、もうあと数日もすれば、そこに突入する所に来ている。
ヨシュアは民のつかさたちに、食料を整え、いつでも出立できるよう、必要な備えをしておくよう命じたが、その地に突入する際には、真っ先に進み行かなくてはならない人々がいた。

『ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。
あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」』(ヨシュア記1:12-15)

かつてルベン人、ガド人、およびマナセの半部族は、ヨルダン川の東側で既に勝ち得ている領土を、先んじて与えてください、という事を、モーセに願っていた。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、それをモーセに咎められたため、その要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先にいただく代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)

今、ヨシュアは、彼らがかつてモーセにしたその約束を、果たすように命じたのだ。
この時も、ヨシュアは、もしかしたら恐れがあったかもしれない。
果たしてこの民は、自分のこの初の命令を、聞くだろうか、と。

果たして彼らは、ヨシュアに答えた。
『彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」』(ヨシュア記1:16-18)

ヨシュアには、期待以上の答えだったろう。
彼らは、自分達はモーセに聞き従ったように、ヨシュアの命令にも、何でも聞き従う、と。
もし命令に逆らう者があれば、その者は殺されなければならない、と。
しかも、「主が共におられますように」という祝福をしてくれたばかりでなく、主が再三、励まして下さったのと全く同じ言葉、「強く、雄々しくあるように」という言葉まで、返って来たのだ。
これでヨシュアは、指導者としての自信を得、自分に与えられた主のミッションを心置きなく遂行できる、と、安心しただろう。

ヨシュアには元々、恐れなど無かったのかもしれないが、そうだとしても、あるいはその逆で大いに恐れていたとしても、主は、その働き人には、必ず必要な励ましと、勇気の源となるしるしと、部下を統率する権威とを、与えてくださるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:強く、雄々しくある根拠(ヨシュア記1:7-9):右クリックで保存

『ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。』(ヨシュア記1:7)
「強くあれ、雄々しくあれ」という励ましは、キリスト教会ではよく語られるが、実際にその言葉の通りに、強く雄々しく快進撃して行けるかどうかは、本人次第である。

ソロモンも、ヨシュアと全く同じ祝福を受けた。
「あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。」(1列王記2:2-4)
ソロモンは最初は御旨に適った歩みをしていたため、確かに、どの王にも勝る栄華を極めた。
しかし、後にはおごり高ぶり、御言葉に背き、主から離れたため、人生の終わりの時には、全てが虚しく、うつろなものとなってしまった事は、伝道者の書に記されているとおりである。
御言葉への従順なしの「強くあれ、雄々しくあれ」は、ただのむなしい空文である。
強さ、雄々しさの根拠たるお方、主を、しっかり敬い、主の御言葉をことごとく守り行い、それを離れて右にも左にも逸れずに歩まない事には。

『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(ヨシュア記1:8)

律法の書、それは現代で言うところの聖書の御言葉だが、御言葉は何も、礼拝中や教会の中だけで取り交わされる「非現実」の言葉ではない。
職場、家庭、学校など「現実」の生活の場において、信仰をもって語りだす時、それは「現実」の力となり、問題の解決となり、祝福の根拠となる。
御言葉を日々の生活においても口ずさみ、その内容に心を留めてそれを守り行う人は、流れのそばに植えられた木のように、どんなに日照りのような時でも、しっかり実を結び、その葉は枯れず、何をしても栄える事が出来るのだ。(詩篇1:2-3)

『わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。』(ヨシュア記1:9)
主が「強く、また雄々しくあれ」とヨシュアに仰せられたのは、これで三度目である。
ヨシュアには、最初から強く雄々しい、というイメージがあるが、もしかしたら彼にも恐れがあったのかもしれない。

ヨシュアは、偉大な指導者・モーセの従者として、長年彼の傍で仕えて来たため、モーセの偉大さも、民の頑なさも、十分に知っている。
その偉大な指導者・モーセがいなくなり、これからは、自分が直接、神様から示しを頂きながら、この60万以上の民を、導いて行かなくてはならない。
どれ程のプレッシャーを、彼は感じただろうか。
先代があまりに偉大であるなら、二代目は、すぐに潰れてしまうというパターンは多いが、ヨシュアは見事、モーセが成し得なかった事を為し、イスラエルを約束の地へと導き入れた。

絶対に失敗しないコツ、それは実にシンプルである。
それは、申命記で幾度も聞かされてきた通り、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行う事だ。
そして、決して変わる事の無い主の愛の中に、とどまり続けるなら、世の何者も恐れる必要は無くなる。
『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:35-39)

御言葉から右にも左にも逸れる事なく、祝福の王道の真ん中を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:「何者も立ちはだかる者なし」という特別パス(ヨシュア記1:5-6):右クリックで保存

『あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。』(ヨシュア記1:5-6)

一生涯の間、誰一人、立ち向かう者はいない・・・とても魅力的な言葉である。
人は、ドラマや映画のヒーローのように、向かう所、敵なし、という姿に憧れがちだが、主がその特権をヨシュアに与えられたのは、彼らに勝利のいい気分を味わわせるためではなく、彼が為さなくてはならない責務のため、すなわち、イスラエルを約束の地へと導き入れるという、主のご計画を成就するために、彼を「向かう所、敵なし」状態にする必要があったからである。
私達は何かと、ヒーローになりたがるが、もし、主がその人をヒーローのようにするとするならば、主の栄光のため、天の御国の拡大のための責務がある事を、忘れてはならない。

神の国の働き人が為すべき責務とは、以下のイエス様の命令である。
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのであるとの名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:18-20)

私達・キリスト者の責務は、行って、あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名によってバプテスマを授け、主の命令を守り行うように命じる事である。
一国の大使には、様々な特権が与えられているように、主の奉仕者、神の国の働き人には、向かう所敵なしという”特別パス”や、万軍の主がいつも共にいるという”セキュリティ”も与えられているため、世の何者に対しても、強く雄々しく、大胆に、主から与えられた責務を行使する事が出来るのだ。

パウロも、コリントの宣教地で、反対者が現れた時、主が現れて言われた。
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。」(使徒18:9-10)
パウロはその主の命と承認を得たため、一年六か月の間、コリントに腰をすえて伝道し、多くの人々を救った。

主は、御言葉を伝える神の国の奉仕者を、プライドをかけて、守られる。
なぜなら御言葉は、主イエスキリストご自身であり、世の何者にも勝る、計り知れない宝だからだ。

『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。』(2コリント4:7-12)

礼拝説教メッセージ音声:既に与えられている所へ踏み出せ(ヨシュア記1:3-4):右クリックで保存

人は、初めから強く雄々しくあるわけではない。
強くなるにはそれなりの鍛錬が必要だし、雄々しくなるには、それなりの根拠が必要である。
聖書の中の、ヨシュアの言動は、まことに強く雄々しいが、彼はどのようにして強さを身に着け、何を根拠にして雄々しくなれるのだろうか。
彼が雄々しくなれる根拠、それは、主にある。
そして彼の強さは、日々、御言葉を信じ従順する事によって、鍛え上げられたものである。

『あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。』(ヨシュア記1:3)
主はモーセに、そこを既に「与えている」と約束した。
しかし、その約束されたものを、実体として受け取るには、主の言葉を信じ、実際にそこへ行って、「足の裏で踏」むという行動が必要である。

主の約束という「真理」の中では、その地は、既に彼らに「与えられている」。
なのに「現実」は、そこには強大なカナン人達が占拠しており、城壁は彼らに敵対して高くそびえ、城門も堅く閉ざしている。
このように、御言葉の「真理」と、「現実」とが敵対している時、人は、二通りの行動を取る。
すなわち、現実を取って、御言葉の真理を捨てるか。
それとも、御言葉の真理を信じて、現実に戦いを挑むか。

40年前のイスラエルも、全く同じチャレンジが与えられていた。
向きを変えて出発せよ、その地に行って占領せよ、そこは既に、あなた方に与えている、と。(申命記1:6-8)
しかし、40年前のイスラエルは、その地には強大な敵が住んでいる「現実」を見て、自分達はそこに入っていけないではないか、主は自分達を憎んでいるのではないか、だから、その地の住人を用いて自分達を殺させようとしているのではないか、と、「真理」とは真逆の「不信仰告白」をし、そうして、彼らの信じた通りに、彼らは滅んでしまった。
それから40年後のヨシュア達も、あの時と全く同じチャレンジを受けたのだが、ヨシュア達は見事、御言葉の真理を信じ、戦いを挑み、そして信じた通りに、真理で示されていた通りの祝福を勝ち得た。

私達は、いかにすれば「現実」を「真実」で塗り替えるのか。
それは、信じて、行う事によって、である。
信仰の通りに実行するなら、約束されていたものを勝ち取る事ができる、という原理は、現代も、将来も、全く同じである。
主は御言葉において、既に、様々な良き祝福を約束しておられるが、それを実体として手に入れるためには、まず、私達の側が信じてアクションする必要があるのだ。

『あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。』(ヨシュア記1:4)
主が約束された地の範囲は、大川ユフラテからヘテびとの全地にわたる、広大な地域である。
ところが、イスラエルの歴史では、今に至るまでも、大川ユフラテまでを領地とした事は、いまだに無い。
なぜなら彼らは、ある程度占領したら、もうこれでいいや、と、途中で妥協してしまい、信仰の戦いをする事を、止めてしまったからだ。(士師記1章)

主が示した占領すべき地を、いつまでも攻めず落とさずに残しておくと、その未占領地域はかえって敵対する力を得、ゆくゆくは仇となって、攻め寄せて来るものだ。
手付かずの宿題を先延ばしにしていると、日毎にそれらの存在が重荷となり、ついにはその人を責めるまでになってしまうように。
だから、主が示されたなら、すぐに、その通り実行しないと、ゆくゆくはそれが敵対して攻めて来ることとなる。

皆さんは、主から示されている為すべき事を、途中で止めて、妥協してはいないだろうか。
御言葉を信じて、それに服従し、実行する時、その「服従」は、要塞をも破る力のあるものとなり(2コリント10:4)、そうして信仰によって日々、小さな要塞を打ち破って行くなら、皆さんの自由な領域は、日々、拡大して行くものである。

引き篭もっている人は、実体の無い恐怖、すなわち、社会に出るなら、自分はよくわからない事で怒られてしまう、親以外の大人はみんな怖いものだ、何をするにもあざけられ、恥ずかしい思いをさせられてたりするものだ、などと恐れ、いつまでも狭い領域の中で窮屈に暮らしているものだ。
皆さんも、霊的に狭い領域の中で、窮屈に暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に聞き従って、進み行くならば、あっさりと勝利するものだ。
なぜなら、主が共にいて下さるからだ。

引き篭もっている人が、少しずつ勝利を積み重ねていくなら、仕事も出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションできるようになり、それを楽しむようになり、今まで狭い領域だけで過ごしていたのが、より広い領域へと踏み出すようになり、外国にさえも自由に行き来できるようになり、ますますその人の「領域」は増し加わって行くものだ。
しかし、主が「行け」と言われている領地を勝ち取っていく事に、妥協してしまったり、いつまでも恐れて引き篭もっているなら、何の進展も無く、ただ若さと時間ばかりを浪費し、意欲も萎えてしまい、その分、敵に力を与えてしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアという人(ヨシュア記1:1-2):右クリックで保存

聖書は、神が人を救うための全容が記された書物である。

最初の人アダムは、エデンの園で神の命令に背き、そうして人には罪と死が入り、滅ぶ存在となってしまった。
神は人類を救うために、一人の人・アブラハムを選び、神の基準である「律法」をモーセを通して与え、アブラハムの子孫であるイスラエルが、それを守り行う事により、全人類に主の栄光を伝えさせるため、彼らを約束の地・カナンへと導き入れようとした。
以上が、創世記から申命記までのいわゆる「モーセ五書」の内容であり、約束の地へ入る直前、モーセの死の場面でその内容が終わった。
続くヨシュア記以降は、イスラエル民族が入る約束の地で、主と共にいかに歩んだか、という歴史が記されており、ヨシュア記以降エステル記に至るまでの聖書は、「歴史書」という区分で分けられている。

その、歴史書の始まりであるヨシュア記は、モーセの死と、モーセの後継者・ヨシュアへに対する主の命令で始まる。
『主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。』(ヨシュア記1:1-2)

ヨシュアは、モーセ五書の中でも何度か登場したが、彼のそれまでの歩みは、まさに、信仰の歩みだった。
ヨシュア記の学びを始める前に、まず、彼の人となりを見ておきたい。

ヨシュアは、モーセの「従者(シャーラス:アテンド、ミニスター)」であり、いつもモーセの近くに仕え、従っていた。

彼が聖書で最初に登場するのは、イスラエルが出エジプトして間もない頃、レフィディムにて、アマレクが戦いを仕掛けて来た時だった。(出エジプト記17章)
その時、モーセの従者だったヨシュアは、前線に出て戦い、モーセは背後で彼らを祝福し、その結果、イスラエルは勝利をおさめた。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立ち、主に執り成して祈るその姿を見て、安心して戦う事が出来た。ヨシュア達が肉体で格闘したように、祝福の祈りもまた、重要な格闘なのである。

その次に彼が登場するのは、主が契約の石板をモーセに授けるために、モーセひとりを山へ呼び出された場面である。(出エジプト記24:13)
モーセは四十日四十夜、山で主とともにおり、降りて来なかった。
イスラエルの民は、モーセがあまりに山で手間取るので待ちきれなくなり、アロンとフルも民を正しく導く事ができず、金の子牛を作って早速主に背いてしまったが、ただ一人、ヨシュアだけは、民から離れた場所で、モーセが降りてくるのを忠実に待っていた。(出エジプト記32:17)
またヨシュアは、モーセが会見の幕屋から帰った後でも、幕屋から離れずにいた。(出エジプト記33:11)

このように、彼はいつもモーセから離れず、主の幕屋から離れず、モーセが戦いに行けといえば行き、待てと言われれば、他の誰よりも待った。

主が、長老たち七十人にも霊を分与した時、長老として登録された人達のうち二人は集うべき場に集っていなかったのに、その二人にも主の霊が注がれて預言した。
『若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください」。モーセは彼に言った、「あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起しているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」。』(民数記11:28-29)
ヨシュアが「止めさせて下さい」と願ったのは、指示に不忠実だった長老達にさえ、預言の霊が与えられた事を、不服に思ったからかもしれない。
しかし、約束の地に入る事が出来たのは、預言が与えられた指示に不忠実な長老達ではなく、預言は与えられずとも、いつでも指示に忠実に従ってきたヨシュアのほうであった。

そして、民数記13章では、ヨシュアはイスラエル各部族の代表である十二人の斥候のうちの一人として、約束の地を探ってくるという、大役が任される事となる。
ヨシュアは元々、ホセアという名だったが、この時、モーセは彼に「ヨシュア」という新しい名を付けた。
ホセアの名前は「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味である。
そして、ヨシュアは、ギリシヤ語読みでは「イエス」、あの、イエスキリストと同じ名である。
ヨシュアの親が「ホセア」と名付けたのは、自分で自分を「救う」者になって欲しいと願ったのかもしれないが、モーセは、主こそ救いの拠り所であるとして、ヨシュアと名づけて、斥候の任務に遣わしたのかもしれない。

そして実際ヨシュアとカレブは、カナン人は強くその町は堅固であるのを見たにもかかわらず、その信仰は衰えず、かえってその良き地を得たいと考え、主が救って下さるなら必ず勝利できる、だから是非、攻め上りましょう、と、皆に進言した。
しかし、他の十人の斥候は、その土地について悪い噂を言い広め、その「臆病」がイスラエル全体に伝染してしまい、結局、イスラエルはのその不信仰の故に、荒野での四十年の放浪が、確定してしまった。
この四十年の間、あの時不信仰にならった世代は、ヨシュアとカレブ以外は全員死に絶え、その世代では、ただ、ヨシュアとカレブだけが生きて約束の地に入る事が許された。

モーセ五書の中心人物であり、律法の代表的存在とも言えるモーセは、多くの実績と功労を残したのに、たった一つの過ちを犯したが故に、主の約束された安息の地には、入れなかった。
一つでも過ちを犯してしまうと、どんなに功績を残しても、安息には入れない。
その事は、律法の性質をよく表している。

律法は、たった一つの違反を犯しても、律法の全体を犯したと、みなされてしまう。(ヤコブ2:10)
そして律法の致命的欠陥は、単に「人には違反がある」という事を示すだけで、いのちを与える事ができない、という点である。(ガラテヤ2:21, 3:21)
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:10-11)

モーセは、約束の地の手前までは導く事は出来ても、約束の地そのものへ人々を導き入れる事は、できなかった。
人々を約束の地へと導き入れるのは、モーセではなく、ヨシュアである。
この事は、イエス・キリスト(ヨシュア)と、旧約律法(モーセ)との関係を、よくあらわしている。

『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。』(ガラテヤ3:24)
律法は、イエス・キリストへと導く事はできても、実際に安息の地へは入れない。律法は、キリストへと連れて行く養育係に過ぎないのだ。
私達を真の約束の地、すなわち天の御国へと導き入れる事ができるは、モーセに示される律法ではなく、ヨシュアに示されるイエスキリストである。

ヨシュア記は、勝利に満ちているが、同時に、少しでも不信仰に陥ったり、滅ぼしつくすべきものを滅ぼさないのなら、いかに、ヨシュアの軍団の中にいようとも、すぐに負けてしまうという法則が相変わらず存在する事も、忘れてはならない。
私達はただ、イエスキリストを信じる信仰によって、世に勝利し、死をいのちで飲み込み、サタンに勝利して、神の安息に入る事が出来るのだ。

『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:8-11)

ヨシュア記のヨシュアが勝ち取ったカナンの地は、真の安息の地ではない。
真の安息の地は天であり、それは私達・信じる者達に残されているのだ。
だから私達は、その安息に入るために、この地上の歩みを、キリストにあって強く雄々しく、信じて、大胆に歩もうではないか。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
しいたげられている人を慰めるお方は(伝道者の書4:1-6):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書4章1-6節を基に、神様を信じる人生の豊かさと、神様を離れた人生の虚しさについて語る説教。

【聖書箇所】

伝道者の書4:1-6

出エジプト記3:7-10

マタイ11:28

エペソ1:4

【励ましの言葉】

神様を知り、イエス様を信じている皆さんは、生まれてきて本当に良かったと感謝できるはずです。命は美しく素晴らしいものです。

【戒めの言葉】

霊的に怠けていないか気をつけましょう。御言葉に示されていることを実行せず、怠けていると、心は荒れ果て、悪魔の餌食になってしまいます。

【***詳細***】

今日の御言葉は伝道者の書4章1-6節です。ソロモンが著した伝道者の書は、神様を離れた人の最終的な姿を描いています。ソロモンは人類で最も知恵のある人でしたが、神様抜きで生きると、結局は全てが虚しいという結論に至ってしまいました。

ソロモンは1-3節で、**「虐げられている者の涙を見よ。彼らには慰める者がいない」と言っています。しかし、これは誤った判断です。出エジプト記3:7-10を見ると、神様は虐げられている民の叫びを聞き、彼らを救うためにモーセを遣わしました。「私はエジプトにいる私の民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。私は彼らの痛みを知っている」**と神様は言われています。

私たちにはイエス様がおられます。マタイ11:28で**「疲れた者、重荷を負う者は、みな私のもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」**とイエス様は言われています。神様は私たちを慰め、休ませてくださるのです。

ソロモンは「死んだ者の方が、生きている者よりも幸いだ」とまで言っていますが、これも間違いです。神様は私たちを愛し、永遠のいのちを与えるために御子を遣わしてくださいました。エペソ1:4には**「神は私たちを世界の基が置かれる前から愛し、御前で聖く、傷のない者にしようとしてくださいました」**とあります。生きていること、命を与えられていることは素晴らしいことなのです。

ソロモンは4-5節で、人間の労苦や成功の原動力は妬みだと言っています。確かに、妬みは人を突き動かす力になることがありますが、結局は破壊しか生みません。しかし、神様は人の悪意さえも最善に変えることがおできになります。ヨセフは兄弟たちの妬みによってエジプトに売られましたが、神様はそれを用いて多くの人々を飢饉から救われました。

イサクの例を見てみましょう。イサクは神様に祝福され、100倍の収穫を得ました。それを妬んだペリシテ人たちはイサクの井戸を塞ぎました。しかし、イサクは別の場所に井戸を掘り、また水を得ました。これが3回も繰り返されたのです。最終的に、ペリシテ人たちはイサクの神様の力を認め、平和条約を結びに来ました。

神様に愛され、神様を恐れる人は、妬みを原動力にしなくても祝福されるのです。詩篇127篇には**「主が家を建てるのでなければ、建てる者の労苦はむだになる」**とあります。神様に頼る人の働きは決して無駄になりません。

一方、6節では怠け者について警告しています。怠け者は何もせずに自分の肉を食べてしまうと言います。箴言24:30-34にも同様の警告があります。「怠け者の畑を通り過ぎて見ると、そこではいばらが生え、地面は雑草で覆われ、石垣は崩れていた」

これは霊的な怠惰についても当てはまります。御言葉を実践せず、霊的に怠けていると、私たちの心は荒れ果て、悪魔の攻撃に無防備になってしまいます。

私たちはソロモンのような霊的な怠惰に陥らないよう気をつけなければなりません。現実だけを見るのではなく、神様の真理に目を向け、御言葉に基づいて生きるべきです。そうすれば、本当に生まれてきて良かった、神様に感謝できる人生を送ることができるのです。

【結論】

神様を信じ、御言葉に従って生きる人生は、たとえ苦難があっても豊かで意味のあるものです。一方、神様を離れ、自分の知恵だけに頼る人生は、最終的に虚しさに行き着きます。私たちは怠惰を避け、神様の真理に目を向け、感謝に満ちた人生を送るべきです。

 

礼拝説教メッセージ音声:ふるさと眺めて昇り行く日まで(申命記34:1-12):右クリックで保存

モーセ五書の最終章である。
モーセは、主から与えられた御言葉を全て伝え尽くし、従順と不従順、祝福とのろいとをはっきり示し、将来彼らが主から離れて災いに遭った場合に備えて歌まで残し、そして、イスラエル十二部族のひとつひとつを名指しして祝福し、そうして為すべき事を全て為し終えて、いよいよ、先祖たちの列に加えられるべき時が来た。

『モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。・・・そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」』(申命記34:1-4)

あらかじめ主から示されていた通り、モーセがこのピスガの山の頂から見える約束の地を見渡す時、彼は息を引き取って、先祖たちの列に加えられる。
彼は百二十歳といえど、目はかすまず、まだまだ健強である。
全ての民が見守る中、彼が一人、ピスガの山の頂へと一歩一歩進んで行くその足取りは、しっかりしていたであろうが、その心はどうであっただろう。

彼はかつて、主に、「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしたが、主は言われた。
「おまえはもはや”足りている”。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。」(申命記3:25-28)

モーセは、主に願った事がぴしゃりと断られ、ああ、自分だけが約束の地に入れないのだ、と、やるせない悲しみを握りしめながら、山を登っていったのだろうか?
そうではない、と、私は思う。
むしろ、走るべき行程を走り終え、為すべき事を為し尽くし、これからは、栄光の冠が待っているという希望に満ち足りた思いで、ピスガの山を登っていったのではないか、と。
そのように思う根拠は、ヘブル書にある。

『信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』(ヘブル11:24-27)

彼は、不従順による楽しみよりも従順による苦難を、地上のものよりも天のものを、目に見える過ぎ去っていくものよりも、目に見えない永遠のものを望み見る「信仰者」だった。
だから彼は、ピスガの山から目で見える乳と蜜の流れる地よりも、目で見る事の出来ない、さらに優れた「天の故郷」をこそ、彼は望み見ていたのではなかろうか。

主が言われたのは、「おまえはもはや”足りている(満ち満ちている)”、この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26)だった。
モーセ、おまえが相続すべきものは、もっと優れたものだ、もう、満ち足りている、だから、その事を尋ねる必要さえ無いのだ、というニュアンスなのかもしれない。

モーセは確かに、ヨルダンを渡る事も、民を約束の地に導き入れる事も許されていなかった。
しかし実は、ちゃっかりと約束の地の中にモーセがいる記事もある。イエス様の時代、モーセは神々しい光の内に、預言者エリヤと一緒に現れ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる「ご最期:エクソダス:出エジプト」について、イエス様と一緒に話している場面をご存知だろう。(ルカ9:28-36)
モーセは、肉の体では約束の地に入れなかった。
しかし、より優れた栄光の体で、イエス・キリストという真の約束の地へと、入る事が出来たのだ。

『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:13-16)
私達も、モーセやアブラハムのように、目に見えるものではなく見えないもの、地上のものよりも天のもの、古び廃れていくものよりも、永遠のものを望む「信仰者」であるからには、信じた通りのもの、すなわち、罪のゆるしと体のよみがえり、永遠の命という、永遠の栄光ある「約束の地」を得るのである。

モーセが荒野で導いて来た民は、モーセがピスガの頂から仰ぎ見たあの大地で、わずか二世代で主を裏切り、その地は彼らに対して乳と蜜の流れる地ではなくなり、さらに後の時代にはバビロン捕囚の憂き目に遭い、イエス様の時代以降には、イスラエルの領土は異邦人に奪われ、約1900年間もの離散の憂き目に遭う。
安息の地は、地上に見える形のものではない。
『イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。』(ルカ17:20-21)
『もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』(ヘブル4:8-11)

『こうして、主の「命令」によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。』(申命記34:5-7)

この「命令」は「ペー」、「言葉」とも「口」とも訳せるもので、ユダヤ人の伝説によれば、モーセは、主の口、すなわち、主の接吻によって死んだ、と教えられているようである。
主は人に、いのちの息吹を吹きこまれ、そして、取られる。
『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」』(詩篇90:3 モーセの祈り)

私達のいのちは、主のものであり、主が与えて下さり、主が取って下さる。
そして、信仰者の行き先は、天であり、その事は大いに希望であり慰めである。

『静けき祈りの 時はいと楽し
聳(そび)ゆるピスガの 山の高嶺(たかね)より
故郷(ふるさと)眺(なが)めて 昇り行く日まで
慰(なぐさ)めを与え 喜びを満たす』(賛美歌310 静けき祈りの 3番)

モーセは、その走るべき道のりを、しっかりと走りぬいた。
語るべき御言葉を語りつくし、預言し、祝福し、そうして、主ご自身の接吻によって、天に挙げられた。
モーセのように、しっかり後継者へ御言葉を語り伝え、為すべき霊的子育てをなし、執り成しの祈りと祝福をしつつ、天に上げられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:しあわせなイスラエルよ(申命記33:26-29):右クリックで保存

今回の箇所で、申命記全体に渡って記されたモーセの最後の説教は終わる。

『「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。』(申命記33:26)
再びイスラエルに「エシュルンよ」、と呼びかけている。
エシュルンは「まっすぐにする」「正しく考える」という意味であったが、イスラエルの歩みは、エジプトを出た直後からその名に相応しくない歩み、主に対して逆らい通しの歩みであった。
それでも主は、イスラエルを助けるために、天から守りの御手を差し伸べ、誠実に導いて下さった。
そのようなお方は、世のどこにもない。

『昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ。』と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。』(申命記33:27-28)
主は、イスラエルにとっては「住む家」となられ、夫が妻を腕枕するように、主の御腕は、いつも彼らの下へと差し伸べられていた。
今や、その主の愛による守りと祝福は、イスラエルだけが独占的に得ているものではなく、イエス・キリストにあって、信じる私達のものともなっている。

詩篇91編にある通り、主は、主の御翼の陰に助けを求めてくる人には、仕掛けられた罠から、陥れる言葉から、救い出してくださる。
主の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、恐れることはない。
暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。
たとえ、一千の人が、たとえ一万の人がその右に倒れる時さえ、その人に災いが襲うことはなく、その人はただ主に逆らう人達が滅んでいくのを眺めるのみである。
主は御使いに命じて、その人の道のどこにおいても守らせてくださり、その人は、獅子と毒蛇を踏み、獅子の子と大蛇を踏みにじって行く。

イギリスのウイットルゼイ大佐は、第2次世界大戦中、この詩篇91篇を、部下全員に暗誦させ、毎日祈らせたところ、5年間、その部隊からは一人の死者も出さなかった。
主の守りは、信じる者に実際に現実に起こる、確かな盾であり、守りなのである。

そして、モーセ五書で記録されている、モーセの最後の言葉は、以下の祝福である。
『しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。』(申命記33:29)

モーセが長い人生の中で、イスラエルについて、一言で端的にあらわした言葉は、これであった。
しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。

全能なる主、万軍の主に守られ、救われ、赦され、導かれ、勝利する民は、何と幸せな事か。
この幸せは、今やイスラエルだけのものではなく、イエス・キリストを通して信じる人達に対して、全世界へと広まっている。
主を主として歩む人々は、なんとしあわせであろうか。

礼拝説教メッセージ音声:ダン、ナフタリ、アシェルへの祝福(申命記33:22-25):右クリックで保存

今回は、ダン、ナフタリ、アシェルに対する祝福である。
彼らの相続地は、いずれもガリラヤ湖近くで、後の時代にイエス様が活動された地域である。

『ダンについては言った、/「ダンはししの子であって、/バシャンからおどりでる。」』(申命記33:22)
ヤコブも、死ぬ間際に彼らについて預言している。『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。』(創世記49:16-18)

これらの言葉から、ダンは力強くて、他を害する者である事がわかる。
実際、獅子を素手で引き裂いた士師・サムソンは、ダン族の出で、ペリシテに多くの打撃を与え、敵にとってはまさに「道のかたわらのへび、道のほとりのまむし」であったが、その力の矛先を、主にある兄弟姉妹に向けるとなると、それは、呪いと災いの性質となってしまう。
ダン族は、黙示録7章の12部族リストからは除外されてしまっているが、そういう事なのかもしれない。

『ナフタリについては言った、/「ナフタリよ、あなたは恵みに満たされ、/主の祝福に満ちて、/湖とその南の地を所有する」。』(申命記33:23)
ヤコブの彼らについて預言は『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)である。
この「子じか」は、「歌」や「ことば」の意味もあり、「彼は美しい歌(ことば)を生む」とも訳せる。

ナフタリの地、それは、イエス様が住まわれた所であり、宣教を開始した所でもある。
『イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。』(マタイ4:12-17)
ヤコブはナフタリを、美しい歌、美しい言葉を生み出す地として祝福し、モーセも恵みと祝福に満ちた地として祝福した。
それはもしかすると、メシヤのおとずれをナフタリに見ていたからなのかもしれない。

アセル部族に対しては、ヤコブも祝福している。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)

アシェルは、幸せという意味である。彼らは豊かな食物で、王の美味な食卓を整える、という。
王といえばキリストであるが、キリストの食物とは「御心を行い、御業を成し遂げる事」である。(ヨハネ4:34)

『アセルについては言った、/「アセルは他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、/その足を油にひたすことができるように。あなたの貫の木は鉄と青銅、/あなたの力はあなたの年と共に続くであろう。」』(申命記33:24-25)
足に油を、という言葉からは、ベタニヤのマリヤを思い出す。彼女は高価なナルド油のつぼを割り、イエス様に注ぎ尽くして、足へと流れた油を髪でぬぐった。(ヨハネ12章)
彼女は、誰よりもイエス様の言葉を慕い求め、イエス様の足元で聞き入っていたため、御心を悟り、イエス様の葬りの整えを唯一行う事の出来た人である。彼女は見事、御心を行い、王であるキリストの美味なる食卓を整えたわけだ。
その行いは、永遠に記念として、今も語り伝えられている。

主にある兄弟姉妹にも、色々なタイプがあるが、私達は、ダン族のような、蛇のように草むらから伺って他を噛み付くような性質ではなく、ナフタリのように美しい言葉・美しい歌を生み出す者、アセルのように王なるキリストに美味な食卓を整える者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:ゼブルンとイッサカル、ガドへの祝福(申命記33:18-21):右クリックで保存

今回は、ゼブルンとイッサカル、ガドに対する祝福である。

『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。彼らは国々の民を山に招き、/その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼らは海の富を吸い、/砂に隠れた宝を取るからである」。』(申命記33:18-19)
ゼブルンとイッサカルは、聖書の他の箇所でも、よくペアで登場するが、ヤコブが祝福した時も同じように預言している。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(創世記49:13-15)

ゼブルンは、海と関係した祝福があるようである。ヤコブが言及したシドンは、地方最大の港町であり、地中海の海洋貿易で大いに栄えた。
イッサカル部族はゼブルンの領地の南に、狭いながらも豊かな相続地を得た。
しかし、良い地を得て安逸をむさぼった結果、やがては奴隷とされてしまう事を、ヤコブは預言したが、後にはその言葉の通り、カナン人やアッシリアなど他国に貢を収めたり、苦役を課せられる事になってしまった。

私達も、祝福されて油断し、信仰になまけ癖をつけてしまうと、やがては敵にいいようにされ、罪の奴隷となってしまう事もありうる。
祝福を受けたからと言って、なまけてはならない。怠け続けていると、以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)

『ガドについては言った、/「ガドを大きくする者は、ほむべきかな。ガドは、ししのように伏し、/腕や頭の頂をかき裂くであろう。彼は初穂の地を自分のために選んだ。そこには将軍の分も取り置かれていた。彼は民のかしらたちと共にきて、/イスラエルと共に主の正義と審判とを行った」。』(申命記33:20-21)
ガド族はルベンやマナセと共に、他の部族に先んじて、ヨルダン川の東に相続地を得た。
彼らは、イスラエルがカナンに攻め入る前、非常に多くの家畜を得ていたため、ヨルダン川の東側に相続地を先に与えてくれるようにモーセに願い出たのだが、モーセは、ガド族たちは民の先頭に立って戦う事を条件に、それを受け入れた。(民数記32章)

実際、彼らは先に先んじて戦い、イスラエルの他の部族のために多くの相続地を勝ち得たため、ヨシュアから祝福されて送り出された。
「あなたがたは主のしもべモーセが命じたことを、ことごとく守り、またわたしの命じたすべての事にも、わたしの言葉に聞きしたがいました。今日まで長い年月の間、あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令を、よく守ってきました。今はすでに、あなたがたの神、主が、あなたがたの兄弟たちに、先に約束されたとおり、安息を賜わるようになりました。それで、あなたがたは身を返して、主のしもべモーセが、あなたがたに与えたヨルダンの向こう側の所有の地に行き、自分たちの天幕に帰りなさい。」(ヨシュア22:2-4)

キリスト者にも、色々なタイプがいる。
ゼブルン族のように、積極的に世に出て行って、外部との交渉によって聖徒の交わりに富をもたらしてくれる人もいるし、イッサカル族のように、神の国の内側において本領を発揮する人もいる。
ガド族のように、真っ先に祝福が与えられて、幸いがまだ与えられていない人を積極的に支援し助ける人もいる。
主はおのおのにバラエティに富んだ賜物を与えて下さり、それぞれが、与えられた量りに応じ、互いに助け合い、互いに成長して行くのが、教会の特色である。
それぞれに与えられた賜物を有効に活用し、共に立て上げられ、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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