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メッセージ - 創世記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:柔和な者が地を相続する(創世記13:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有

アブラムは、彼が失敗する前に純粋な思いで主を礼拝していた場所へと戻り、初心に帰って、改めて主を礼拝した。
皆さんにも、信仰の原点というべき所はあるだろうか。
もし、最初の主との良い関係から離れてしまったなと感じたら、初心に返って、自分の歩みを見つめなおす事も大事である。
アブラムは今回の失敗によって謙虚になり、柔和な者となって、ますます富む者とされた。

「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。」(5節)
物質的に祝福されるにつれ、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起き、その地方のカナン人達と同じようになって行くのをアブラムは憂慮し、身内内で争いが起こるくらいなら、むしろ別れたほうが良い、と判断した。

「アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(8-9節)

本来、目上であるアブラムがロトに「わたしがこちらを選ぶから、あなたはあっちに行きなさい」など指示できるはずであるが、彼は争いを好まず、へりくだり、主導権をロトに譲っている。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。・・・平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:5,9)

この時点では、住むべき土地を選べる主導権を握ったロトのほうが有利であるかのように見えるかもしれないが、結果から見ると、ロトは財産と妻を失い、娘達も夫となるべき男がいないので、父によって子をもうけるに至った。
しかしアブラムは、さらに祝福され、約束の子イサクを得、イスラエル国家の父となり、信仰の父となった。

結局、地を相続する者は、柔和な者、平和な者である。
柔和なスタンス、人に譲るスタンスは、最初はメリットが無いかのように見えても、最終的には、地を受け継ぐのである。
アブラムにならって柔和な者となり、平和を造る者となり、主に祝福され、多くを相続していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:試練と失敗と、神のフォロー(創世記12:10-20):右クリックで保存

今日の個所のあらすじは、まず自分たちの住んでいる所に食糧難が起こったため、エジプトへ行く事を判断し、しかしパロの権威の元、家族を奪われ、束縛されてしまった。
そこに主の介在が入り、主はエジプトに災害を下し、パロは彼らを全ての所有物と共に追い出した。
このエジプト滞在のあらすじは、彼の子孫たちの出エジプトの記事と、非常に良く符合している。

アブラムに最初の信仰の試練が訪れた。それは、ききんである。
「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。」(12:10)
ルツ記において、エリメレク一家はききんの時、安易に異邦の地へパンを求めて出て行ったため家族を失ってしまったように、主が定めた地においてききんが起こった時は、そこに留まり、悔い改めが必要なら悔い改め、主に祈って御手が動かされるのを待つべきである。

アブラムはこの時、エジプトに食料があるのを見て、エジプトへと、歩みを進めてしまった。
ひとたび自分の考えに捕らわれてしまうと、主への信頼は、なし崩し的に崩れてしまう。

「エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。」(12節)
彼のこの言葉から、彼は主よりも、エジプト人やパロを恐れている事がわかる。
生きて、産んで、いのちに満ちて行く、という主の祝福の約束は、どこへやら、である。

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」(13節)
さらには妻に、自分は妹だと言うように指示し、そうして彼女がパロに召し入られるなら、自分達は良い目を見る事ができるだろう、と、確信犯的な皮算用さえしている。
主の約束は、サライがパロとの子を生む事などではなく、アブラムとの間の子が増えて、地に満ちていく筈だったのに、その約束も、どこへやらである。

アブラムでさえ、主ではなく人を恐れると、このように狂気に走る。

アブラムが心配して言ったことば通りに、エジプト人はサライの美しいのを見てパロに召し入れられてしまい、そしてアブラムは家畜や奴隷を所有するようになった。
アブラムは財産が増えて、自分の思い図った通り成功した、と思っただろうか?
確かに衣食住の心配は無くなったかもしれないが、彼が正常な信仰者であるなら、主の約束から大分離れてしまった事で、平安が乱されていたのではないだろうか。

このように、人間の考えるベストは「最善」にはなれず、どこかに虚しさや苦々しさがついて回るものだ。
しかし主は、そのような人間的な失敗さえも、「最善」へと導く事の出来るお方である。

「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(17節)
主の直接介入である。
パロはこの災害の原因は、明確に、アブラムの妻・サライをめとった事にあると知っていた。
パロは恐れ、アブラムに手を下す事なく彼にサライを返し、全ての所有物と共に送り出した。

アブラムは、主ではなく物に溢れるエジプトにたより、主ではなくパロやエジプト人たちを恐れたが、そのエジプトもパロも、最終的にはアブラムのほうを恐れ、その背後におられる主を恐れた。
アブラムは自分を弱々しいと思っていたが、彼は、彼と契約を結ばれた主の故に、エジプト人全体に恐れられた。
私達の信じる主は、万軍の主であり、私達も信仰によるアブラハムの子孫であるからには、彼と同じく、世が、主イエスの故に私達を恐れるのである。

アブラムは、後にも同じ失敗・・・嘘をつく事や、肉的な力に頼る事、人間的なやりくりで押し切ろうとする失敗を繰り返すが、それでも主は、恵みと憐れみによって、彼を信仰の父たる者へと、作り変えて行かれる。

この主に信頼し、主に導かれて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:わたしが示す地に行け(創世記12:1-9):右クリックで保存

『主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。・・・アブラムは、主の言葉に従って旅立った。』(創世記12:1-4)

アブラムが後にアブラハムとなり、信仰の父として今も世界に多大な影響を与えているのは、生まれ故郷や父の家より、神である主の御言葉の方を優先させ従ったからである。
『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』(マタイ10:37-39)
私達も、生来の能力や血筋に頼るよりも、神に信頼して従順し、自分の生来の好みよりも主イエスキリストを優先させるなら、アブラハムのように祝福の人生を歩む。
しかしテラのように、行くべき所に行かず自分の好きな所に留まるのであれば、それ以上に進む事は出来ないのである。

主の言葉を信じて従う者には、祝福が約束されている。
「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(12:3)
この御言葉どおり、アブラハムの子孫であるイスラエルをかくまった遊女ラハブは、祝福の家系に入り、アブラハムの子孫達を何百年もの間奴隷として虐待したエジプトには、10の災いが下り、長男は全員死に、軍隊は水に流され、とことんまで呪いを受けた。

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」(12:4)
アブラムと共にハランを出た中に、甥のロトもいるが、彼が一緒に出たのは、神の御言葉に従ったからではなく、アブラムと一緒に行くほうが良いように見えたからである。
彼もアブラムと一緒にいる間は、大いに祝福されたのだが、後になると、彼の行動の動機が明らかになり、最終的には、信仰による行動と信仰によらない行動の違いが、明らかになってくる。

「主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」(12:7)
カナン人の地は暴虐と不品行に満ちた地で、そこに移住してきたアブラムはという地、全くの寄留者だった。
私達信仰によって生きる者たちも、この世においては寄留者であり、本籍を置く所ではないが、アブラムに主が現れた場所に祭壇を築いたように、私達もこの世において、主が現れて下さった事を忘れず、主を礼拝する場所をしっかり確保する必要がある。

『信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。』(ヘブル11:8-10)

地上に望みを置くのではなく天に望みを置き、信仰によって生き、祝福の民となる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の導き方(創世記11:10-32):右クリックで保存
韓国語通訳有

イスラエルの歴史は、セムの系図からはじまり、セムから10代目の子孫にイスラエル民族の父・アブラム(後のアブラハム)が生まれた。
アブラムの父・テラは、カルデヤ人のウルに住んでいる時に3人の子、アブラム、ナホル、ハランを生んだ。

カルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝や不品行が盛んな町であり、ヨシュア24:2によると、アブハムやナホルとの父テラは元々、そこで他の神々に仕えていた。
神に召される者達は、以前の状態は重要ではなく、真の神と出会った時、その神に服従するか、それとも自分勝手な道をえらぶかが大切である。

「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。」(創世記11:31)
アブラムの父テラは、カルデヤのウルから出てカナンを目指したものの、彼は、目的地であるカナンに足を踏み入れる事なく、途中のカランまで進むと、そこに留まってしまい、それ以上の事も出来ないまま、そこで死んだ。
そして神は、テラの子・アブラムに現れ、父の家を出て示す所へ行くように、と、指示された。

神様の導き方は、はじめから終わりまで全ての道順を細かに示すのではなく、次に行くべき所だけを示され、人がそれに従順してその所まで来たら、その次の道が示される。
もしアブラムに初めから先々の将来も教えておられたら、どうだっただろう。
彼は将来、100歳になってからやっと子供が与えられ、その子は神に捧げなくてはならず、また、彼が生きている間は、マクペラの畑にある洞穴しか土地が与えられない、と、全行程が最初に示されていたら、彼もまた、カランから出ないままだったかもしれない。

アブラム、後のアブラハムは、神様から次に行くべき所を示され、そこへ行って、また次に行く所を示され、という従順を繰り返し、最終的には大いなる祝福が与えられ、彼は、彼の腰から出た子孫だけでなく、全て信仰によって救われる者達の父となった。

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)
御言葉は足元しか照らさないので、時に心許なく見えるかもしれないが、それでも神の導きは最善であると信じ、自分の願いではなく、神の願いを選択して進みゆく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:バベルの塔の呪い(創世記11:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有

全地が一つの話し言葉であった頃、東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
このシンアルの地は、神の前に(敵対的に)力をつけたニムロデが、バベルの町を建造した所である。(創世記10:8-10)

ノアに祝福されたセムの子孫は、東の高原地帯に住んでいた(10:30)が、その彼らがシヌアルの地に移動して来て、ハムの子孫と共に定住し、『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」』(4節)

本来彼らが主体にすべき神は、脇に置かれてしまい、「われわれ」主体となってしまっている。
(欽定訳では、4節は「us(われわれ)」という言葉が4回も登場する。)
神のノアに対する祝福は、生んで増えて、地に満ち、あちこちへと増え広がる事であったが、彼らはそれを好まず、人間同士が結託し、力を合わせて高くなろうとした
しかし、人間が高くなろうとして結託する結果、神からもたらされるものは、混乱(バラル)である。

人間が高い建造物を作りたがる背後には、自らが高くなりたいという高慢と、洪水への恐れがある。
かつて不従順のために洪水が起こった、だから神に従順しよう、という発想ではなく、だから高い建造物を造ろう、という発想になるわけである。

この、自らが高められたいという欲求は、サタン由来である。
サタンは、真に高められるべき神を差し置いて、自らが高い所に座をしめようとした結果、地に投げ落とされた。(イザヤ14:12-15)

同じように、バベルの時代の人間も、自分たちが高みに登ろうとしたものの、その野望は、ことばの混乱によって砕かれた。
彼らは言葉が通じなくなったため、全地に散っていく事となった。

せっかくノアを通して、人類が神と共に歩む新しい希望が生まれた、と思ったら、早速人類は、神に敵対し、混乱と離散が起きてしまった。

創世記を11章まで学んできたが、そこまでに人類は既に幾度も神に敵対し、被造物を台無しにし、どうにもならない所まで来る度に、神の介入が入って来た。
さらに旧約聖書を読み進めて行くと、人の神に対する不従順と、罰と、悔い改めのくり返しを、幾度も見る事になる。

今回も、人類は不従順のために神の介入が入ったが、神はそれでもめげずに、人類を救済するご計画を立てられる。
それは、エベルの子孫からアブラハムを立て、このアブラハムの子孫を通して、人類を救済する方法である。
旧約聖書の大部分は、このアブラハムの子孫の歴史である。

私達が今回、この箇所から学ぶべきは、高慢になってはならない事である。
本来、主とすべきお方を差し置いて、自分が高くなろうとすると、それはへし折られ、混乱が起き、散らされるのだ。
自らはへりくだり、主であるキリストを高く上げ、そして聖霊をいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ノアの子孫たち(創世記10章):右クリックで保存
韓国語通訳有

創世記10章は、ノアの3人の子、セム・ハム・ヤペテの系図と歴史が記されてある。

ヤペテは白色人種の祖父であり、その子孫はヨーロッパに進出して、次のノアの預言が後に成就した。
「神がヤペテの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」(創世記9:27)
ヤペテの子孫は旧約時代までは異邦人として神の約束から離れた民であったが、新約時代以降は福音が最も普及し、結果、セムからの恩恵を最も受けた民となった。

それに対し、ハムの子孫は、聖書では悪名高い民族が多数生まれ出る。
「クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。」(8節)
ここに登場するニムロデの名は「反抗」という意味で、9節には「彼は、主の御前に勇敢な狩人であり」とあるが、この「御前に」の原語には敵対的な意味も含まれており、つまり、彼は神に敵対して高慢になった最初の勇士であった。

彼が建造したバベルの塔は、神抜きで人間が高ぶって名声を得ようとして建造したものであり、バベルは後にはユダヤ人を捕囚した、あのバビロンとなる。
また、11節のニネベは、後に北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリヤの首都であり、13節のミツライムは、ユダヤ人を奴隷として苦しめたエジプトであり、また14節にも、イスラエルを長きに渡って苦しめたペリシテ人が登場する。

15節以降20節までは、ノアに呪われたカナンの子孫の系図である。
ソドムとゴモラは、性的不品行により神の前に怒りを積み上げ、硫黄の火によって滅ぼされた。
カナン人らは神の御前に罪を積み重ね、ついに、アブラハムの4代目の子孫を通して滅ぼされるにいたった。(創世記15:16-21)

21節以降は、セムの子孫の系図である。
「エベルには二人の息子が生まれた。ひとりの名は、その時代に土地が分けられた(パラグ)ので、ペレグといい、その兄弟はヨクタンといった。」(25節)
エベルはすなわちヘブル人の祖先である。
ペレグの時代に民族部族が分けられて行き、そしてペレグの後の子孫に、アブラハムが出、ダビデから続く王族が出、イエスキリストが出た。

このように、ある民族は神に敵対し、世に悪をはびこらせ、また、ある民族からは神に従順で有用な民族が別れ出たが、我々も含めた全ての民族は、義人ノアから出ている事には代わりはない。
今や、私達はどの民族から出ているかは関係なく、「どなたを主として信じているか」が大切である。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)

イエスを信じるなら、国も血筋も関係なく、神の子として、天の国籍を持つ者として、新しく生まれた者である。

礼拝説教メッセージ音声:言い触らす者の呪いと覆う者の祝福(創世記9:18-29):右クリックで保存
韓国語通訳有

ノアは、改まった世界以降、農夫となってぶどう畑を作り始め、出来上がったぶどう酒を飲むと酔って、天幕の中で裸で寝ていた。
酒に酔う事は王たる者のする事ではない、と、箴言にある。なぜなら、さばきを曲げるといけないから(箴言31:4-5)であり、また、そこには放蕩があるから(エペソ5:18)である。
事実、あの義人ノアでさえ、酔った事によってさばきを曲げてしまった。

「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(22節)
この「見る」のヘブル語(ra^'a^h)は、じっくり見る、楽しみつつ見る、等の意味がある。
ハムは敬うべき父の天幕に入り、そこで見つけた父の裸を、じっくりと見、楽しんで見、そして天幕から出て、兄弟たちに言いふらし、来て見るよう招いた。

敬うべき人の裸を、指さしてあげつらえ、罪を指摘して中傷するのは、サタンの道である。

ノアはその事を知ると、ハムの子カナンを呪った。
「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」(25節)
事実、カナンの子たちは、ノアの呪ったの通りの歴史となっている。
エブス人やエモリ人、ソドムやゴモラ等のカナンの子孫たちは、偶像崇拝や不品行、暴虐に満ち溢れ、セムの子孫であるユダヤ人を通して神に滅ぼされる対象となってしまった。
そして、ハムは黒色人種の祖先であると言われているが、世界歴史はノアの呪い通りである事を示している。

我々が学ぶべきは、父、あるいは祝福を授ける立場の者のプライベートへ踏み込み、露わな様をじっくりと見て楽しみ、周りの兄弟たちに言いふらし、一緒に来て見るように招いたりするような者は、確かに呪われ、罪と滅びを招いてしまい、その子孫も呪われる、という事である。

「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。」(23節)
敬うべき人が裸をあらわにしていたら、そこから目をそむけ、覆ってあげる事こそ、祝福される者の道である。

「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。」(26節)
事実このとおり、セムの子孫からアブラハムが出て、神の民イスラエルとなり、カナン人を追い出し、さらには、全人類の救い主イエスが出た。
「神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」(27節)
ヤフェトはヨーロッパ系の白色人種の祖先であると言われており、以降の歴史では異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及した民族であり、「セムの天幕に住まわせ」という預言が実現した。

兄弟姉妹の裸を覆い、裸の恥から目を背ける者は、栄誉を受け、祝福を受けるが、敬うべき人の天幕に入り込み、そこで見た裸をあざ笑い、言いふらすような者は、奴隷となり、呪いを産み、滅びを刈り取るのである。
ハムのようではなく、セムやヤフェトのようになって祝福を受け継ぐ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:虹のしるし(創世記9:8-17):右クリックで保存
韓国語通訳有

神は、全ての生き物との平和の契約を、目に見える形で定められた。
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(13節)
虹が雲の間に現れる時、主は、もはや水によって人類を滅ぼし尽くさないという、平和の契約を思い起こされる。(16節)

聖書の他の箇所で、虹は、エゼキエル1:28や黙示録4:3に出てくるが、いずれも、不従順な人や不敬虔な民を罰する直前に「虹」という言葉が現れる。
神は罰する前に、人々に平和の契約を思い起こさせるために、また、滅ぼし尽くさないという憐れみをも示すために、虹を現したのであろう。

神をあざける者は「昨日も今日も何も変わっていない、これからもそうだろう」と思い、欲望のままに歩むかもしれない。
しかしこの不従順に満ちた世界が、現在も保たれているのは、神の恵みと憐れみによる、という事を忘れてはならない。

「当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。」(2ペテロ3:6-7)
人は思うかもしれない。
神はいつまで不条理に満ちた世界を、そのままほうって置かれるのか、いつまで暴虐な者達を好き放題にさせておられるのか、と。
しかし「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(同9節)

今や、救いはイエス様にある。
溺れている人に浮き輪を投げ、その人が浮き輪を掴んだら救われるように、私達がイエスキリストを誰かに伝え、その人がイエス様を信じて受け入れたら救われる。
浮き輪の信ぴょう性を疑って掴まなかったり、あるいは投げ入れた浮き輪ではなくワラなどを掴んだりしたら溺れてしまうように、イエス様以外に救いを求める者も、滅んでしまう。

今は恵の時、救いの時。
救い主イエスを一人でも多くの人に届け、多くのいのちを救い出す皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:血を伴う犠牲の大いなる意味(創世記9:1-7):右クリックで保存
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ノアは何事にも従順であったが故に、祝福された。
彼は、箱舟を造れと言われればその通りに実行し、箱舟に入れと言われればその通り実行し、外に出ても大丈夫そうであっても自分勝手に出る事をせず、神様から出なさいと命じられてから、はじめて箱舟から出た。
彼はそのように従順であった故に、後の世に多くのいのちを繋げ、そして祝福の契約をいただいた。
そして、彼が新天新地に降り立った時、真っ先に行ったのは、犠牲を伴った礼拝だった。
神はそのなだめの香りをかぎ、それによって、もはや地を滅ぼすまいと約束された。

『神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。』(創世記9:1)
このいのちの祝福の言葉は、創世記1章でも語られたが、1章28-30節における契約と、9章における契約とは、異なっている所がいくつかある。

まず、1章に存在して9章には存在しない言葉は、「地を従わせよ」「生き物をすべて支配せよ。」である。
罪が入って以降、人は全地を支配するべき者ではなくなってしまった。

また、ノア以降は創造のはじめと違い、全ての生き物達は「あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(2節)つまり、動物たちは人間に対して恐怖が芽生え、動物たちは人間の手に委ねられた。

また、1章では人間の食物は種子を持つ木や草であったのに、9章では、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。」と、肉食が始まっている。
創世のはじめは、生き物は全て草食で、どの生き物も、何も恐れたり脅かす事は無かったのに、9章以降では、弱肉強食の世界となり、恐れる関係になってしまった。

そしてまた、9章では新たに、血に関する新しい戒めが定められた。
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(4節)
ここで神は、血は、肉なるものの命そのものである、とした。
いのちを買い戻す為には、血のあがないが必要であり、血は、とてつもなく重要な意味を持っている事がわかる。

「どうして人は人を殺してはいけないのか?」という質問の明確な答えが、6節に書いてある。
「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(6節)
神にかたどって造られた人は尊いものであり、そのいのちそのものである血を流すことは、その似姿の元なる神に対する大きな冒涜である。

「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ17:11)

旧約祭儀において祭壇の上で流す血は、人間の命の贖いのためである、とまで書かれてある。
そうであるからには、まことの神の子羊・イエスの血は、どれほど私達を救う力を持っており、イエスのいのちそのものであるイエスの血は、どれほど尊いものであろうか。

イエスの血の尊い意味を理解し、この血の守りにますます拠り頼む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:なだめの香り(創世記8:15-22):右クリックで保存
韓国語通訳有

ノアは、鳩の知らせによって水が引いたのを知った時も、箱舟の覆いを取り除いて地の面が乾いた事を確認した時も、自分の判断で身勝手に箱舟を出ることはせず、神様から示しが与えられてから、箱舟から出た。(創世記8:16-18)
出エジプトの民の多くは、神の時ではなく自分の望む時を優先させ、滅びへと導かれてしまったが、ノアは神の時が来るのを忍耐して待ち、そうして新しい天地へと導かれた。
神が定めた次のステップへ移る時は、神が計っており、その導きを従順に求めるなら、主は平安と祝福の内に、導いて下さる。

「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。」(20節)
ノアが新天新地に降り立って、初めて行った事は、礼拝だった。
箱舟の中を生き残った、貴重な生き物達を捧げたのだが、ノアは、神様がよしとする捧げものは何かをよく知っていた。
それは、犠牲である。
主が、カインの捧げものではなくアベルの捧げものに心を留められたのも、犠牲があったからであり、人間の罪・咎を洗い清めるのは、イエスキリストの尊い犠牲による。

『主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』(21節)

人には相変わらず罪の性質があるが、それでもなお生きながらえているのは、主がこのなだめの香りを受け、その時にそのように約束されたからである。
そして、主を完全に満足させるなだめの香りは、キリストである。
キリストは十字架上で、燃え尽くされるような苦痛を味わって「私は渇く」と言われ、その主の宥めを受け取って、神は完全になだめられた。

「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」(22節)

人の営みには、シーズンがある。
蒔くべき時があれば刈り取る時があり、寒い時があれば暑い時もあり、明るい時もあれば暗い時もある。
そして、人は種を蒔けば、それに相応しい刈り取りをする事になる。(ガラテヤ6:7-8)
その法則は、世の終わりまで、永遠に変わることは無い。

自分由来の何かではなく、神様の望まれる捧げもの、すなわち、キリストを信じる信仰による礼拝を捧げる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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