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メッセージ - 創世記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:裸を覆って下さる主(創世記3:20-24):右クリックで保存
韓国語通訳有

『主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」』(創世記3:22)
罪ある人が、永遠に生きないようにされたのは、大きな憐れみである。
罪と呪い、痛みと悲惨に満ちた世の中で、決して死ぬ事が出来ないとしたら、それこそ地獄である。
人の罪は、神の方法によって対処しなくてはならない。

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)
神は人を裸のままエデンから追い出すような事はせず、まず皮の衣を作って、人の裸を覆って下さり、それから救いのご計画を発動された。
アダムとエバはいちじくの葉で覆い、取り繕ったが、人間の編み出した方法では、神の前に罪や裸を覆う事にはならないし、神の前で良しとされるものではない。

日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処しなくてはならないように、人の罪の贖いの方法は、神の方法に乗っていなくてはならない。
罪を贖う神の方法は、犠牲である。

「皮」の衣が与えられたからには、何かの動物が犠牲となったはずである。
つまり、人間の裸という無力さを覆い、罪を覆うためには、神の前に犠牲が必要だという事である。
事実、後の時代にキリストは世の罪を取り除くまことの子羊として来られ、自らの尊い血潮という罰金を私たちの代わりに払ってくださり、その裂かれた肉体を私達の罪を覆う衣とし、着せてくださった。

イエス様はたとえ話で、王が婚礼に客を招いた際、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出した話をされた。
婚礼の礼服は王から支給されるものであり、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、どんな人間であっても外の闇に追い出される。
同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんなに善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。

私達は、ただ与えられた衣を、すなわちキリストを着て、その上ではじめて神の国に入れるのである。

礼拝説教メッセージ音声:アダムへの呪いと、そこからの脱出方法(創世記3:17-19):右クリックで保存
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アダムの不従順への報いは、土(アダマ)に関する呪いである。
『神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。』(創世記3:17)
アダムは、全能者の息によって息吹かれ、生きた者とされたと言うのに、その創造者なる神の言葉を退け、自分の肉であり骨であるエバの言う事を採用してしまったため、土地全体が呪われてしまった。

そうして土地は、わざわざ、アダムを苦しめるために、茨とあざみを生えいでさせるようになってしまった。
アダムの違反によって、土地全体が呪われてしまうとは、一体アダムは、どれほど重要な人物なのだろうか。

神は人を、神にかたどり、神に似せ、全ての生物を支配するようにと、その鼻に自らの息吹を入れて、造ってくださった。
つまり人類以外の生物は、人類のために造られた、と言っても過言ではない。
全能者の息吹を宿し、支配する立場として造られているアダムが、その全能者に逆らってしまったからには、それによって全被造物のバランスが崩れてしまい、全被造物はそのためにうめき続けている。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8:19-22)

被造物は、神の子たちのあらわれを、すなわち、全能者の息吹を持った、正当な支配者である第二のアダムに連なる者達を、待ち望んでいるのだ。

私達が神の子となるには、どうしたらよいか?
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
私達が全能者の霊によって導かれるなら神の子であり、全被造物を正しく治める事が出来、また、第一のアダムに入った呪いも、私達には届かなくなるのである。

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ 8:13)

アダムがエバという血肉の言う事を聞いて、死とのろいが入ってしまったように、人は、自分が血肉のように大切にして来た価値観や、築き上げて来て血肉のように大切にしている持ち物などを優先してしまうと、死とのろいへと導かれてしまうのだ。
「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2:17)

礼拝説教メッセージ音声:蛇と女の子孫(創世記3:14-16):右クリックで保存
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神はまず、蛇に対して呪いを定められた。
「お前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」(創世記3:14)

サタンは地を行き巡って、ほうぼうを練り歩き、神の前に訴えるべき獲物、食い尽くすべき塵を探しまわっている。(ヨブ1:7)
サタンがヨブを訴えた時、神はヨブを試みる事を許可したが、それによってヨブが誤った事をしてしまったとしても、しっかりと救いの道を備えてくださった。
ヨブは確かに全てを失って酷い目に遭ったが、彼は以前よりも遥かに主を知り、主に近くなり、そして以前よりも2倍も祝福された。

サタンがシモン・ペテロをふるいにかけた時も、主は決して見捨てる事無く、信仰が無くならないよう、あらかじめ執り成しておられた(ルカ22:31-32)し、そして、サタンがエバを唆した時も、主は決して見捨てる事無く、人類に対する救いの道を用意していて下さった。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)
主の、人類全体を贖うご計画は、この女の子孫(単数形)によって成し遂げられる。
この単数形の女の子孫こそ、主イエスキリストであり、彼によってサタンの頭は砕かれ、その血によって私達の罪に対する罰金は支払われ、再び永遠のいのちへの道が開かれたのだ。

「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」(創世記3:16)
女には、生みの苦しみと男に支配される事が定められたが、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(1テモテ2:15)
ここの「子を産む事によって救われる」とは、どういうことか。

黙示録12章に、女と、その女が産みの苦しみを経て産んだ子と、それと敵対する巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者の記述がある。
女が産んだ子は、鉄の杖でもってすべての国民を治める者、すなわちキリストであり、女は太陽(キリスト)をまとい、月と星のしるしを持つ者、すなわち、教会を現すと思われる。

私達教会は、福音伝道によって、キリストのいのちを生んで、増えて、地に満ちて行く者、キリストの花嫁として、キリストを宿し、キリストを生んで行くのである。
「若い者が処女をめとるように/あなたの「子ら(子孫達)」はあなたを「めとり(保護者となり)」、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。」(イザヤ62:5)

礼拝説教メッセージ音声:目が開け、裸である事を知った(創世記3:7-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

善悪の知識の木の実を取って食べたら、必ず死ぬ、と、神は言われていた。
人の構成は、土から作った「肉体」に、神がいのちの息吹「霊」を吹き込み、その結果、生ける「魂」が生成した事を、創世記2:7にて学んだが、この実を食べた時、神の息吹であり、神と交わる機能を持つ「霊」が死んでしまったのだ。
その結果人は、肉体と魂をやりくりして生きなくてはならなくなり、霊に導入されてしまった死が、肉体や魂にも及ぶようになり、結果、やがて死ぬ存在となってしまった。
また、霊が機能を失ってしまった結果、神との愛なる交わりが出来なくなり、人は神を避け、神から逃げるようになってしまったのだ。

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:7)

霊が死んでしまった結果、真っ先に起こった事は「目が開け」た事である。
「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)
神に対する目が閉ざされ、神との交わりが除外されてしまった自然、環境、人間関係が、彼らの眼前に「目が開けた」所、それらは彼らに脅威となり、自分達が何も出来ない、裸で、無力な存在である事に気付き、そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆った。

この、自分の恥ずかしい部分をいちじくの葉で覆う行為こそ、人類全体が持つ「取り繕い」のはじまりである。
自分の弱さを、裸を覆うために、力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させて自活して生きて行く。これがアダム以来の呪いの生き方である。
この、人間が神から離れて自力で生きて行くための道具としての「いちじくの葉」は、歴史を下るごとに進化して行き、それはやがて身を守る道具や武器となり、知識や学術体系となって、発展して行ったが、結局、神によってしか埋められない霊の空洞も、罪に対しても、死に対しても、どうする事も出来ない。

『アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」』(創世記3:12)
アダムは自分の非を告白せず、あたかも神のほうが悪いかのように、また、妻が悪いかのように、「言い訳」といういちじくの葉で自分の罪を覆い、エバも同様であった。

神に対して実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの者は、主によって枯らされてしまう。(マタイ21:18-22)
人がいかに主の臨在から逃げ隠れしようと、やがていつか、圧倒的な主の臨在の前に隠れる事が出来ず、 山や岩に向かって、自分に倒れ掛かって覆ってくれ、と叫ぶようになる。(黙示録6:15-17)

ただ主にささげるべきは、砕かれたたましい、悔いた心である。神はそれをさげすまれない。(詩篇51:17)

人は何によって罪と裸を覆っていただくべきか。
『「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」』( ルツ記3:9)

私達は、まことのボアズであるキリストに申し上げるべきである。
「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは、罪と死から、いのちへと買い取って下さる方です。」と。

礼拝説教メッセージ音声:三つの誘惑のチャンネル(創世記3:6):右クリックで保存
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「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記3:6)
人間を誘惑して神様から遠ざけさせるものが三つあり、それは「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」である。
サタンはこの3つのチャネルから誘惑を仕掛けてくる。
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、『肉の欲』、『目の欲』、『生活のおごり』は、御父から出ないで、世から出るからです。」(1ヨハネ2:16)

サタンが仕掛ける誘惑のまず一つ目は「肉の欲」、すなわち食欲や性欲など人間の最も原始的な生存欲求であり、エバの根源的な欲望を刺激して、神の命令を忘れさせた。
二つ目は「目の欲」すなわち美への欲求、見た目を良くしたい、いつまでも美しくありたいという欲求であり、禁断の実はエバの目を惹つけて神が造られた他のあらゆる良き実から目をそらさせた。
3つ目は「生活のおごり」すなわち、より多くを持ち、より豪奢な生活をしたいという欲求で、神のように賢くなれるという誘惑にエバは負けてしまった。

実際、これら三種のものを手に入れるために、愛すべき者を押しのけたり、神様から離れたり、サタンと取引する者さえおり、これらに惑わされて行き着く先は、死である。
「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2:17)

しかし、これらに対抗し勝利する方法を、イエス様が手本を示して下さった。(ルカ4:1-13)

サタンは主イエス様に「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言って「肉の欲」への誘惑をしたが、主は、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
人間の人間たるゆえんは、動物のように食物のためだけに生きるのではなく、神と関わりを持ち、御言葉にあって生きるからである。
このように主は、御言葉を基に、見事に一つ目の誘惑を撥ね退けた。

続いてサタンは、主に世界の栄華と繁栄を見せ、もし自分を拝むならこれら全てをあなたに上げよう、と言って「生活のおごり」の誘惑をしたが、主は「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」とお答えになった。
世の人は、自分がより良い地歩を得るために、あの神この神をとっかえひっかえ拠り頼んで、神々を道具にして自身を全てのトップに据えているが、私達を創られた神こそ主とし、自分はそれに仕える、というスタンスこそ本来あるべき姿である。

続いてサタンは、主を神殿の頂きに立たせ、ここから飛び降りよと言い、「神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。」と、御言葉まで用いて「目の欲」の誘惑をしたが、主は「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
サタンは人に、これこれの事をしてあなたは有名になりなさい、そのために神様はあの奇跡を起こして下さるよ、と、御言葉さえ引用して、誘惑を仕掛けて来る。
私たちが神様に先んじ、身勝手な願いをもって奇跡を求めたり祝福を求めるのではない。神は御自分に拠り頼む者を救うために、御言葉の救いを与えて下さったり奇跡を起こして下さるのである。

私たちがサタンの誘惑に対抗する手段は、唯一、信仰を込めた御言葉であり、悪魔はいつまでもしつこく試みたり誘惑をする事はできない。
「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。」(ルカ4:13)
この3つのチャンネルで勝利すれば、サタンは逃げ去っていき、私達も御使いによって守られるのである。
信仰を込めた御言葉でもって、あらゆる誘惑に勝利し、神様に守られた人生を歩む皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:サタンの誘惑の方法(創世記3:1-5):右クリックで保存
(韓国語通訳有)

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」(創世記3:1)
この蛇こそ、天から投げ落とされた、全人類を惑わす者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる、あの古い蛇(黙示録12:9)である。

サタンのやり口は、まず御言葉に不純物を混ぜ、心に不安の波紋を起こさせる所から始まる。
『蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』(創世記3:1)
神が言われたのは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい、 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、だったが、サタンは、神様から与えられている全ての良き祝福には全く言及せず、たった一つのしてはならない事にクローズアップさせ、あたかも神は我々に大きな制限を課しているかのような錯覚を、吹き込ませる。

エバはその掻き乱し攻撃に、まんまと乗ってしまった。
エバは「園にある木の実を食べてよいのです」と答えて、「どの木からでも」「思いのまま」を省いてしまい、神様からのあらゆる良き恵みを、彼女の中で縮小させてしまい、さらに「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と続けた。
「ない」を3つ続けた所に、エバの神様に対する認識、神様は「ない」を良く言うお方だという認識を、垣間見る。

神は「触れてはいけない」とは言っていなかった。
エバとしては、神様をかばうつもりで拡大させて言ったのかもしれないが、神は、御言葉に付け足したり引いたりせず、正しく告白する事を喜ばれる。
御言葉に人間的な解釈をつけ足しする事は、パリサイ派や律法学者の道であり、それはますます人を束縛し、御言葉から遠のけさせ、サタンを喜ばせる事である。

神は「それ(善悪を知る知識の実)を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われたが、エバの中では「死んではいけない」と変換されており、「必ず死ぬ」という確信が揺らいでいる事が分かる。

私達がサタンに心かき乱されるような事を言われた時、答えに急いて、口からでまかせを言ったり、自分なりの解釈を言ってはならない。
主はサタンに試みられた時、御言葉によってを撥ね付けたように、私たちも、そのままの御言葉に、信仰を混ぜて宣言するなら、サタンはいずれ去っていく。

サタンは信仰の篭っていない御言葉解釈や人間的な力・知恵など、これっぽちも怖くはない。
むしろ、御言葉に付け足したり、差し引いたりする事を、サタンは大喜びし、さらに惑わしを吹きかけて来る。
エバの中に御言葉への確信がなく、付け足したり差し引いたりしたのを、サタンは見て、今度は御言葉の全否定に取り掛かった。
「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4-5)

サタンの本質的は、神を降ろして自分が高くなる事である(イザヤ14:12-15)。
しかし救いの道は、自分を降ろしてイエス様が高くなる事である。
私達が主とするべきお方は唯一キリストのみ、土台とすべきは自分の考えではなく御言葉のみである。

サタンの策略を知り、勝利していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:結婚のための条件(創世記2:15-20):右クリックで保存
韓国語通訳有

神は、造られた生物達をアダムの前に連れてきたが、彼は相変わらず独りで、どの生き物たちの中にも、ふさわしい助け手は見出せなかった。
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」(創世記2:21-22)

アダムに深い眠りが与えられてエバが造られたように、また、キリストが死を経て教会を生み出したように、未婚の男女が、ふさわしい助け手を得るには、まず、深い眠り、すなわち、死を通る必要がある。
結婚は人生の墓場だと良く言われるが、それはある意味、正しい。
独身時代は自分のために思うがままに生き、あらゆる異性が結婚相手になるかもしれない可能性があったが、結婚してからは、そうはいかなくなる。
自分に対しては死に、伴侶のために、そして新しく生まれるいのちのために生きるのでなければ、結婚は成り立たない。
自分に対して死ぬのであれば、結婚生活において、さらにすぐれた命の喜びを見出す事になる。
そういうわけで、結婚のための第一条件は、自分に対して死ぬ、という事である。

「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(23節)
アダムの所に女が連れてこられた時、アダムはこのように言って、はなはだ喜んだ。
同じように、キリストも自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足すされる。(イザヤ53:11)

アダムは「女」と名前をつけた。つまり、夫が妻の「主」であり、保護者である。
聖書では、妻は、全ての面で夫に従い仕える事が勧められており、そして夫には、キリストが教会を愛し捧げ尽くしたように、妻を愛し(アガペー)捧げ尽くす事が勧められている。(エペソ5:22節以降)
それらは男性にとっても女性にとっても難しい命令に聞こえるかもしれないが、それは、キリストにあってこそ可能であり、もし夫婦がそのような関係に入るのであれば、それはエデンにおけるような最も素晴らしい夫婦関係となる。
「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」(1コリント 11:11-12)

結婚のための第二条件は、父母の庇護から離れて、一人立ちしている事である。
『「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。』(エペソ5:31-32)

男も女も、親の庇護から離れなくては伴侶を苛立たせてしまうように、私達もキリストの庇護に入ったからには、世という親元からは離れていなければならない。
女の居場所は男の腕の中、脇腹の所であるように、私達教会の居場所も、キリストの腕の中、脇腹ぴったり寄り添っているべきである。
キリストは私達教会のために、いのちを投げ出して下さった。それ故、私達教会はキリストを敬い、従うのであり、それこそ夫婦生活のお手本である。

礼拝説教メッセージ音声:人に任された管理責任(創世記2:15-20):右クリックで保存
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神は人に、エデンの土地を耕し、守る仕事を与えられた。(15節)
私達は、たといエデンのような素晴らしい所が与えられるとしても、ただ安穏と何もしないのは御心ではなく、与えられた領域をしっかりと管理し、私達という人間性をしっかりと耕して、豊かな実を結び続ける努力をしなくてはならない。

神が人に与えられた命令は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16-17)
神は、して良い事としてはならぬ事、そして、してはならぬ事をした結果、どのようになってしまうのかを、明言した。

神は、ずっと後に定められる律法においても、また、イエスキリストの福音においても、して良い事としてはならぬ事、そして、してはならぬ事をした結果どのようになるかの明示は、必ずなされる。
私達は生かされている領域を、しっかりと耕して管理し、神様から示された良い事を為し、してはならぬ事をしない、という事を、守り続けるべきである。
エデンにおいて唯一してはならなかった事とは、善悪を知る知識の実を食べる事だったが、今私達も、神から離れた独善的な善悪判断は、してはならない。

神が唯一「良くない」と言われたのは、人が独りでいる事だった。(2:18)
1章26節において神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」と仰せられたが、神は三にして一なるお方であるように、人間もまた、神の前に夫婦は二人にして一人である。

さてここで、神は男と女とに創造されたと1章では書いているのに、2章ではなぜか、男が独りのままである。これはどういう事だろうか。
1章での創造の時、エバはまだアダムの脇腹にいて、外見上はアダム独りであったかもしれないが、神の目は、アダムの中にいるエバを既に見ていた、と思われる。
それと同じように、キリストを信じて救われ、キリストの花嫁となった私達も、キリストが十字架につけられ死んだ時、キリストの脇腹にいて共に死に、キリストが復活した時、共に復活し、キリストが天に昇られた時、共に天の所に座させてくださったのだ。(エペソ2:6)

神は人のところに、野の獣、空の鳥を連れてきて、それにどんな名をつけるかを見ていた。(創世記2:19)
親が子に名前をつけるように、名前をつけるとは、その者の支配者であり保護者であるという事を示す。
人は元々、全ての生き物の支配者として創られた。(1:28)
アダムの所にライオンなどの強い獣が連れられた時も、彼は全く恐れず、名前をつけて支配する側となったように、私達も、神様が送って下さったあらゆる状況に対して、主にあって恐れる事なく、正しい名をつけ、御言葉に沿った正しい判断をして、支配者として立つべきである。

神が創造された生き物に、人間が名前をつけ、そうして全ての生き物は、神と人間とによって共同で支配されるものとなったように、私達もキリストと共に全てを治めるのである。

『次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」』(2テモテ2:11-13)

礼拝説教メッセージ音声:エデンの園と新しいエルサレム(創世記2:4-14):右クリックで保存
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「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり(ヤッツァー:form)、その鼻に命の息(ネシャマ:霊)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(たましい)となった。」(7節)
人の構成は、土を素材とする「体」と、神の息を素材とする「霊」と、霊が吹き込まれた時に出来た副生物「たましい」の、3要素から成る。

神は人間を、ご自身の手によって練り込んで形づくり、ご自身の息吹を吹き入れられ、特別な存在として造られた。
人は、神の霊抜きにはただの塵にすぎず、元々、神と関わるように創られているのだ。

「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」(5節)
創世の時代は雨が降らず、地の面は、立ち昇る露によってまんべんなく潤されており、主の恵みと支配が、まんべんなく行き届いていた状態だった。(ハバクク2:14)

神はさらに、人の必要を満たす所、また、人の働くべき所として、エデンを造られ、そこに命の木と善悪を知る知識の木とを、生えさせられた。(8-9節)
この「命の木」、すなわちキリストを選ぶか、それとも、「善悪の知識の木」すなわち自分で善悪判断する道を取るか、という選択は、聖書を一貫して貫く重要テーマであり、私達人間には、常にその選択が迫られている。

黙示録21章以降に、全てが成就した世界の有様が記されている。
そこにも命の木は登場するものの、善悪の木は、もはやそこには無く、神と人とは共にひとつとして住み、もはや呪われるべきものは何も無い。(黙示録22:3)
呪われるべきものとはすなわち、神から離れて善悪判断する生き方であり、その善悪判断の集大成である律法に拠る人々は、全て呪いのもとにある。(ガラテヤ3:10)

「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」(創世記2:10)
黙示録においても、いのちの木やいのちの水の川が流れている様を見る。
いのちの木の実を食べる者、すなわち御言葉なるイエスキリストを食べる者は、その人の腹から命の水が川々となって流れ出るようになり(ヨハネ4:14)、神が住まわれる神殿となり、天におけるまことのエデンに入る事が許される者となる。
エデンから流れる川々のほとりからは、良質の金や宝石類が産出し、その川の水によって諸国に恩恵をもたらした(創世記2:11-14)。
同じように、黙示録におけるまことのエデン、新しくされたエルサレムでも、諸々の宝石や、透き通ったガラスのような純金によって豪華絢爛に飾られており(黙示録21:18-21)、川は諸国へと流れて行き、諸国を潤し、癒す。(黙示録22章)

創世記と黙示録のこうした一致は、人間の完成とはすなわち、神から離れて善悪判断しつつ生きる道を捨て、キリストなる命の木に結び合わされ、神とひとつとなって共に住む事であるからだ。

礼拝説教メッセージ音声:神の安息(創世記2:1-3):右クリックで保存
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万物の創造は、第六日目に人間を創られた事において成就し、神はその時、なさっていた創造わざの完成を宣言された。
神は元々、人間を中心に想定して全被造物を造られたのであり、最後に人間が創造世界の中に収まった様子を見て、全てを「はなはだ良かった」と満足され、安息され、休まれた。

創世のはじめにおいて、人は神と共に住み、神に対して何の恐れもやましさもなく、裸でも恥ずかしいと思わない程、無邪気で親しい関係にあった。
また、黙示録においても、全ての「成就」は、神と人とが「ひとつ」となる事である事が記されている。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。・・・事は成就した。」(黙示録21:4-6)

創造の完成の当初は、神が「はなはだ良し」と満足された程、良いものだったのに、今の世界を見るに明らかにそうでないのは、人間に罪が入ってしまい、罪ある人間が神の創造されたあらゆる良き物を、身勝手に台無しにしてしまっているからに他ならない。

神から離れてしまった人間が、再び神との平和の関係に入り、安息に入るには、御言葉を信仰によって自らに混ぜ合わせ、御言葉なるキリストと一体となる事である。(ヘブル4:1-3)
「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」(ヘブル4:3)
それ故、安息に入れない者とは、聞いた御言葉に従おうとしない者(ヘブル3:18)、不従順の者(同4:6)、心をかたくなにする者(同4:7)である。
安息日の休みは、信仰によって救われる者達のために残されており、そして神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る。(同10節)

御言葉なるキリストを信仰によって自身に混ぜ、キリストとひとつとなり、神の安息の内に居続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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