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メッセージ - 創世記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:いのちによって死を飲み込む主(創世記38:12-23):右クリックで保存

『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終ってその友アドラムびとヒラと共にテムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。』(創世記38:12)

主に逆らって怒りを買った二人の息子・エルとオナンは主に打たれて死に、カナンの女もまた死んでしまった。
主は、神を中心とした家庭を築きあげる際、主に逆らって家全体を災いと導いて止めない者を、家族の中から取り除かれる。

12節の「喪を終って」と訳された言葉(nacham)には、「慰められる」という意味もあり、実は「妻が死んで、ユダは慰められた」と訳すことも出来る。
家族の死は確かに痛く悲しい。しかし、主に逆らう者が取り除かれるなら、後々、家全体が慰めを受けるのだ。

『時に、ひとりの人がタマルに告げて、「あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにテムナに上って来る」と言ったので、彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。』(創世記38:13-14)

ユダは、シラが成人したのに、彼が主に打たれるのを恐れて、タマルをシラの嫁にやらずにいた。
オナンはタマルと夫婦の営みをする時、子が出来ないよう外に出し、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らって殺されてしまったが、ユダのやっている事は、オナンと同じ罪である。
それでタマルは、義理の父・ユダが通りそうな所へ行って遊女の格好をし、ユダの子種を得ようと計ったのかもしれない。

なにしろタマルは、前夫が主の怒りを買って打たれたのを、二度も生々しく見ている。
ユダと共におられるいのちの主に逆らう事が、いかに恐ろしいか、人の良し悪し判断で子を生まない事が、いかに災いを招くかを、目の前で二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それがどんな災いを招いてしまう事だろう。
だから命がけの大胆な行動に出たのかもしれない。

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、遊女を買うための交渉を始める。
『彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。ユダは言った、「どんなしるしをあげようか」。彼女は言った、「あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえとを」。彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。』(創世記38:17-18)

彼がしるしとして与えた3つの品は、いずれも大切なものである。
「印」は、指輪のように指にはめられる印鑑で、権威の象徴であり、「紐」は英語ではブレスレットと訳され、腕や首を飾るものであり、また、「つえ」は支配の象徴の道具である。
そんなに大切なものを、ユダは、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。
彼女は中身はタマルではあるが、ユダにとっては異邦の遊女である事には変わりない。
遊女と寝るために、権威と支配の道具を手放してしまうとは、一体どうした事だろうか。
彼が異邦人の国に、異邦の妻の価値観に、どっぷりと漬かってしまったのが、伺える。

しかしこの章を見ていると、人は、罪の行いをしたら主に打たれる、というより、主に逆らい続ける時、打たれるようである。
人は元々、罪に染まっていない者は無い。
そんな人が主に向かうなら救いはあるが、救って下さる主に背を向けるなら、救いは無いのだ。

彼女は、このたった一度の逢瀬で、身篭った。
主はいのちの主であり、子を宿すも宿さないも、主が支配しておられる。

ユダも、その子孫のダビデも、たった一度の逢瀬で、しかも、誰にも知られたくない状況で、いのちを宿された。
そして彼らの誰にも知られたくないような行いは、イエス・キリストの系図の中に、永遠に記録される。(マタイ1章)

結局、人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。
そして、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪は犯されなかったものの、人としての悲惨さを全て味わいつつ、人と共に生き、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の欲望に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良いお方であることのご性質だけが、ただひときわ際立つ。
人は、憐れみ深く聖くあられる主を前に、ただ感謝してひれ伏すしか無く、このお方に逆らい続ける事は、極めて罪深いのだ。

ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類もみな、主の御前に最低である。
しかし、いのちの主は、いのちによって全ての死を勝利へと飲み込むのである。

礼拝説教メッセージ音声:メシヤの父祖の成り立ち(創世記38:1-11):右クリックで保存

37章からヨセフを中心とした物語が始まったばかりなのに、38章では唐突にユダの結婚と子供の話に入る。
ユダは、イスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系でもあるので、この一族の成り立ちは聖書からは外せない。
しかし、そのような重要な一族生成の初期段階においても、人間の罪と欲望の渦巻くドラマがある。

ユダは兄弟達から離れ、アドラム人ヒラの所で住んでいた。
『ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、これをめとり、その所にはいった。』(2節)
今まで学んで来た通り、神に属する家系は、異邦人から妻を迎え入れると、必ず災いとなる。
ユダは兄弟達から離れて住んでいたので、仕方なくカナン人から妻をめとったのであろうが、その、ちょっとした妥協が、後に多くの悲しみと、時間やエネルギーの浪費を生み出す事となってしまう。

最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けた。
この異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなって行き、シュアの娘の影響力が次第に大きくなって行ったのだろう。
長男は、主を恐れる父親より異邦人の母の影響を受け、主をおそれるのではなく怒らせるようになって行き、ついには主に殺されてしまった。

『そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。』(創世記38:8-10)
イスラエルには、生んで増えて地に満ちるという祝福の命令が与えられているのに、オナンはそれに逆らい、そして父の意向にも逆らったため、彼もまた、主に殺されてしまったのだ。

主の怒りを招いた、と言えば、ヤコブの12人の子達も負けず劣らず行状が悪いが、少なくとも彼らは神を恐れ、意図的な「反逆」はしていない。
しかし、一家に偶像を持ち込んだラケルは早死してしまったように、妻も子供たちも偶像礼拝など主への「反逆」をしてしまったために短命だったのかもしれない。
列王記や歴代誌には、ユダのさらなる子孫たちの有様が記されているが、主を捨てて偶像礼拝に走った王達は、必ずと言っていい程、短命で災い多き人生である。

『そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。』(創世記38:11)

ユダの妻であるシュアの娘は、出所は「カナン人」であるが、明確な名前は記されておらず、歴代誌にもカナン人シュアの娘と記されている。
しかし、このタマルという女性は、名前は明確に記されているのに、出所は記されていない。
という事はタマルは、もしかしたらアブラハムの家系なのかもしれない。
いずれにせよ、彼女は、ユダ一族の子孫を残す事がいかに大切かをユダよりも意識しており、彼女が主を恐れている事を伺わせる。

ユダは息子が二人も死んでしまったので、タマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、一体誰の責任だろうか。
それは書かれてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男も「兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思った」と書いてある以上、彼も主に打たれて死ぬ要素が十分にあった事を、ユダ自身が認めていたのだろう。

ユダは、タマルを遠くにやるよりも、自分たちの主に対する態度に間違いがあった事を認め、悔い改めるべきだった。
それなのに彼はそれをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやり、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとしたのだ。

しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神への果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に人々の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。

ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん大きくなっていく。
主の御声には、どんなささやかなものでも正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って、時間もいのちもロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:人の愛情(創世記37:29-36):右クリックで保存

『彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長そでの着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」。 』(31-32節)
ヤコブ自身が愛情を込めて特別にこしらえ、ヨセフに贈った長服が、ぼろぼろに、血に染まって帰って来た。
それを手に取った時の彼の悲しみは、どれほどだったろう。

しかし、彼自身が行った「偏愛」という行いの実を、彼自身が刈り取ったのである。
ヤコブはかつて、「やぎ」の毛皮と、兄の「晴れ着」を用いて「父親騙し」を実行し、父が愛した兄から祝福を奪ったが、今回、彼の息子たちに「やぎ」の血とヨセフの「長服」を使って「父親騙し」を実行され、愛するヨセフを奪われたのだ。
自分がかつて行った「父親騙し」の実も、その身に刈り取ったわけである。

「そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。」(34節)
ヤコブのその後の言動からは、以前のような覇気は無くなってしまい、何事にも神経質で、失う事を非常に恐れている事から、悲嘆にくれつつ余生を送っていたのを伺う事ができる。

人間の愛情。
それは良いものに見えて、実にやっかいである。
ヤコブがヨセフに寄せていた「愛情」は、兄弟に憎しみを芽生えさせ、ヨセフを命の危険に晒させ、ヤコブ自身に、大きな悲しみを招いてしまった。
人の愛は、利己的で、時に不純で、気まぐれであり、愛憎が強ければ強いほど、自分や周りに対して破壊力を生み出すものだが、主の愛は純粋で完全、永遠である。

彼は時にイスラエルと記されたり、時にヤコブと古い名で記されたりしているが、今回の箇所では、ヤコブの名で記されている。
ヤコブという名前からは、人を掴み、人の祝福を奪い取る、以前の古い生き方を連想させる。
彼は神からイスラエル(「神に支配される」の意)という新しい名が与えられたのに、しばらくは「ヤコブ」と「イスラエル」との間を、行ったり来たりしていたのだ。

ヤコブの生き方、すなわち自分で掴み取る生き方は、失うのみである。
彼はヨセフを手の内に「掴んで」寵愛した結果、失ってしまった。
自分のものとして握り締めていたもろもろが、指の間からこぼれ落ちていくたびに、「あなたはまだ手放さなくてはならない」と言われているのであり、どんどん手放して身軽になっていく内に、ますます主の御前に有用になって行くのである。

一家の中からヨセフが消えた事によって、この一家は変えられていく。
父親は、偏って愛する事がいかに愚かな事だったかを悟り、父親がこんなに悲しんだのを見た兄たちも、自分達のしてきた事がいかに愚かだったかを知った。
しかし、主にあって一度失ったものは、遥かに優れた形で取り戻すのが、十字架の原則である。
ヨセフはまだ生きており、そしてやがて、遥かに優れた形になって父親の懐に帰ってくるのである。

礼拝説教メッセージ音声:最低人間から栄光の家系へ(創世記37:12-28):右クリックで保存

ヨセフの兄たちは、父ヤコブの住むヘブロンの北方80km程に位置するシェケムに移動して、そこで羊を飼っていた。
そこは以前、妹ディナが陵辱された事でシメオンやレビによって虐殺が行われ、兄弟達がそこに入って略奪した所である。(34章)
ヤコブは兄たちの安否を確認するために、ヨセフを使いに出した。

兄たちは、遠くから近づいて来るヨセフを認めた時  互に言った。
「あの夢見る者がやって来る。 さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。 (19-20節)

兄たちのヨセフに対する憎しみは既に殺意に変わり、ほぼ全員が弟を「殺そう」と言う事で一致したのだが、長男であるルベンは彼を救い出そうとする。
『「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。』(22節)
シメオンやレビは、かつてシェケムで多くの血を流したが、ルベンはさすがに、兄弟の血を流す事はしてはならないと感じたようである。

『さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。 こうして彼らはすわってパンを食べた。』(23-25節)
殺意の兄たちに穴に投げ込まれ、ヨセフはとても恐ろしくショックであったろう。
彼は穴の中から憐れみを求めたのに、兄たちはそれをさかなにして、座って食事し出したのだ。

ずいぶんひどい話であるが、憐れみを閉ざす者に待っているのは憐れみの無いさばきである。(ヤコブ2:13)
彼らは20数年後、その報いを受け、ヨセフから苦しい目に遭うのだが、その時彼らは述懐する。

『彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。ルベンが彼らに答えて言った、「わたしはあなたがたに、この子供に罪を犯すなと言ったではないか。それにもかかわらず、あなたがたは聞き入れなかった。それで彼の血の報いを受けるのです」。』(42:21-22)

彼らは後に、自らの行いの報い受けた時、後悔した。ヨセフの苦しみを見ながら、ルベンの忠告を聞き入れて憐れみを示さなかった事を。
しかし、彼らがヨセフを穴に投げ込んだその時、彼らは憎しみを殺意になるまで互いに増幅させ、弟を殺せ、という熱狂的・異常な雰囲気の元に、弟の血を流そうとしたのは、確かである。

しかし、主が計られたいのちの日数は、主が定めたその時が満ちるまで、人も、御使いも、それに触れる事は出来ない。
いかにヨセフが絶体絶命のピンチでも、いかに集団で殺意を燃やし、今にも殺そうとしていても、主がヨセフに立てていたご計画が揺るがされる事は決して無いし、主の許しが無ければ、いのちが取られる事は決してない。
それは、私達にも同じ事が言える。

兄たちがヨセフを穴に投げ込んだ時、ちょうどイシュマエル人の隊商が通りかかった。
『そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。』(26-27節)

ユダが再び「血を流してはならない」と言わなくてはならなかった所を見ると、皆は最初のルベンの忠告を聞かず「ヨセフを殺せ」という方向へと再び戻ってしまったようである。
ユダはこの時、ヨセフ助けようとしたと言うより、どうせなら売って厄介払いしたほうが、少しでも益が残る、とでも思っていたのだろう。

ちなみに、イエス様を銀30枚で売った12弟子も、同じユダという名前である。
ユダの子孫からは、後に王族が生まれ、イエス・キリストもその家系から出るのだが、この時点では、とてもそうとは思えない。
これまでの兄達すべての所業を見ていると、とてもイスラエル12部族の栄光ある父祖たちとは思えないほど、最低人間達である。
自らの手を弟の血に染める事からは免れたが、異邦人よりもたちが悪いのでは、と思える程の、邪悪な思考パターンに、邪悪な行動パターンである。

しかし実は、イスラエルの子らは、このヨセフを通して品性が練られ、一族のいのちが救われ、後には、イスラエル12部族の栄光の父祖らしく整えられていくのである。
もっとも、そこに至るには、さらに多くの月日と、火のような試練をくぐらなくてはならない。

「時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。」(28節)
ヨセフはこうして、エジプトへと売られて行ってしまった。
それは、人間の目から見れば絶望に映るかもしれないが、神の視点から見れば、さらに優れたいのちへの第一歩を踏み出したばかりである。

人間は最悪しか生み出さないが、主に信頼するならば、主はそこから最善を生み出して下さる。
私達も今いかに悪どく、弱く、どうしようもなくても、主イエスに拠り頼むのであれば、主は私達を、キリストに似た者へと造り変え、栄光の神の家族へと加えて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:一族で最も正直者のヨセフ(創世記37:1-11):右クリックで保存

37章以降は、イスラエル一族全体の歴史であるが、特にヤコブの11番目の子・ヨセフを中心に話が進む。
ヨセフは兄弟達から憎まれていたが、それには色々な原因があった。

「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。 」(2節)
ヨセフは兄弟達に憎まれる事に恐れる事無く、正確に父に報告した。
アブラハムやイサクは周囲を気にする余りに妻を妹だと偽ったり、ヤコブは兄の祝福を「騙し」取ったが、ヨセフのあくまで正直な性質は、そんな父たちとは逆である。

「ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。」(3節)
かつてヤコブがラケルを偏愛したために、妻たちの中に争いを引き起こしたが、ヤコブの偏愛癖もまた、ヨセフが憎まれる要因となってしまい、子供達の中に不穏な空気を生み出してしまった。
「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。 」(4節)

ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したため、彼らは、ますます彼を憎んだ。
『ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。 』(6-7節)
こんな事を言ったら兄に憎まれるのは目に見えているのに、それは主が見せて下さった、意味のある夢であったから、伝えずにはおれなかったのだろう。

事実、20年以上も後の未来に、彼の夢の通りの事が起こる。
誰もその時、想像し得なかった事だが、ヨセフは30歳でエジプトの宰相になり、40歳くらいの時には全世界を相手に穀物の振り分けをしてしている中で、兄弟達が彼の元に来ておじぎをし、穀物を分けてくれるようヨセフにお願いしたのだ。(創世記42:6)

17歳の彼はまた、先の夢がさらにスケールアップした形で、夢を見た。
『「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。 兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 』(9-11節)

夢が二度くり返されたのは、このことが神によって定められ、神は確かにこれをなさるしるしである。(創世記41:32)
父ヤコブはヨセフの見た夢をとがめ、父である自分も、母も、おまえを拝むのか、と言って怒るが、彼はその事を心に留めた。

イスラエルの父祖達や12部族は、将来、彼らに後の世代に生まれ出る、ヨセフのような性質を持つ一人の子孫、すなわち、イエスキリストを、拝む事になる。
イスラエルという国は、現在はまだイエスをメシヤとして受け入れていないが、やがて、イエスが主であると告白し、ひざまずく時が、必ず来るのだ。

ヨセフは、色々な面において、イエスキリストの性質を帯びている。
ヨセフは、父からの寵愛を受け、父から特別な服が着せられ、それ故に兄弟達から妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、偽りの罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、どんな相手にも正直に、神から託された事を語った。
彼は兄弟達や父からは死んだ者と見なされていたが、実は彼はイスラエル全家を救うために、神によって先にエジプトへ遣わされ、エジプトの統治者とされた。(創世記45:7-8)
イエス様の次の御言葉が思い起こされる。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。(ヨハネ14:1-4)

ヨセフは救いを得させるために、場所を備えに遣わされた。
同じように、イエス様も私達が天で住む住まいを用意するために、私達に先駆けて天に昇られたのだ。

また、ヨハネは黙示録にて、ヨセフの夢と似た幻を見ている。
「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。・・・女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。」(黙示録12:1-2,5)

この女は、イスラエルを指しており、私達霊的イスラエルを表していると言われている。
イスラエルから生まれた、ヨセフの性質を持つ一人の子孫、イエスキリストはやがて現れ、彼は鉄のつえで諸国を治め、全ての膝は彼の前に屈まれ、ひれ伏され、彼が全てを支配し、統治される時が、やがて来るのだ。

ヨセフは正直であるが故に憎まれ、一時期卑しめられ、苦しんだが、それでも正直を貫き通したから、祝福を栄誉を得た。
ヨセフのように、人に対して恐れず、正直に主から与えられた御言葉を語り、たといそれによって困難に陥っても、忍耐して、後には栄光と祝福を受ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:肉の者の栄枯盛衰(創世記36:1-43):右クリックで保存

『エサウは妻と子と娘と家のすべての人、家畜とすべての獣、またカナンの地で獲たすべての財産を携え、兄弟ヤコブを離れてほかの地へ行った。彼らの財産が多くて、一緒にいることができなかったからである。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らをささえることができなかったのである。』(創世記36:6-7)

エサウは弟ヤコブに長男の権利と祝福を奪われたのだが、この創世記36章を見る限り、富においても権威においてもエサウの方が遥かに勝っているようだ。
しかし、エサウの妻たちはカナン人やイシュマエル人であり、エサウの子孫達は、後の行動を見ても、やはり神の基準から離れた「世の人」である事には変わりはない。

エドムは、イスラエルの子達がエジプトで奴隷生活を送っている間にも着実に栄え、セイルの先住民であるホリ人を制圧し(20-30節)、首長も多く輩出し、(15-19、40-43節)、イスラエルに王が出る遥か前から、王たちも多く出た(31-39節)。
神の民イスラエルは栄えず、エサウの民が遥かに栄えているのはなぜか、と思われるかもしれない。
しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。

エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。

エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)

詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』

このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。

『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)

歴史上、エドムに攻め入った国々は、アッシリア、バビロン、ハスモン朝、そして、ローマ帝国であり、エドム人はAD66年のローマ帝国に反逆した故に、ティトスによってほぼ根絶され、僅かしか生き残らなかった。
こうして以下のオバデヤの預言が成就したわけである。
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)

私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。

『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)

『あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。』(詩篇18:25-27)

世の人は一見、神の民よりも栄えているかのように見えるが、長い目で見れば、世の人は衰え、神の民は富といのちと権威を増し加えて行くのだ。
困っている兄弟姉妹を助け、平和な者として地を受け継ぐ皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:気になると、せずにはおれない人の災い(創世記35:16-29):右クリックで保存

ヤコブは「あなたは立ってベテルに上り、そこに"住んで"、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」と主から言われていた。(1節)
それで彼はベテルに行き、祭壇を造って礼拝した。そこまでは良かったのだが、ベテルには住まず、すぐに父イサクの住む南の方へと歩を進めてしまう。
しかも、愛する妻ラケルが妊娠して、お腹が大きくなりかけていた時に。

舗装されていない砂漠をらくだに揺られながらの旅である。妊婦にとっては、かなり大変だ。
ヤコブはなぜ留まるべき場所を離れ、しかも、ラケルが安静にしていなくてはならない時に、移動してしまったのか。

確かにヤコブは、20年前にベテルで主が現れた時、父イサクの家に戻る事を表明していた。(創世記28:21)
しかし、それは主が命じたのではなく、彼が自分で決めた事である。
主からは「ベテルに住みなさい」と、つい最近命じられたばかりであるので、そんな遥か昔に決めた事など、実行するような時ではなかったはずだ。

もしかすると、父イサクがかなり高齢で、いつ死ぬか分からなかったので焦ったのかもしれない。
いずれにせよ、彼はこの時、自分でやりたい事や心配事が沸き起こったら、それが気になって気になって仕方なくなり、ラケルや主の命令よりも、自分の思いを優先させて、さっさと実行してしまわなくては、気が済まなかったようである。

御心を求めず、周りも顧みずに、自分が思い立った事を、その時やらずにはおれない人には、災いが尽きないものである。
ヤコブは主の命令を脇に置き、お腹の膨らんだ最愛のラケルに旅を強い、皆を引き連れて移動させた結果、彼女は難産になり、それが元となって、彼女は死んでしまった。

『イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。』(21節)
ミグダル・エダルとは「羊の群れのやぐら」という意味で、恐らくそこは、羊を飼うのに適した所だったのだろう。
彼はそこにとどまった時、彼にとって屈辱的な事が起きた。
『イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。』(22節)
この出来事によって、ルベンは長男の権利を失い、彼は他の兄弟達に抜きん出る事もなく、その後の歴史でも、彼の民族からは士師も預言者も王も出る事は無かった。

家長であり、指導者でもあるヤコブが、主から与えられていた命令を守る事をせず、父の家に帰るという自分で決めた事も中途半端にして、羊を飼うのにいい所を見つけると、そこに定住してしまう。
そのように、思いの向くまま、行き当たりばったりで自分の集団を導いてしまうと、最愛の人を亡くしてしまったり、子供や部下が好き勝手にし出して、家長としての権威と秩序を失ってしまうものである。

彼らはそこからさらに移動し、ついに、ヘブロンのマムレにいる父イサクの所へ到着した。
「イサクの年は百八十歳であった。イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」(28-29節)

イサクは、アブラハム・イサク・ヤコブの中では、最も波瀾万丈さが無く、第三者が「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれないが、彼は最も長く生き、最も安泰な生涯だった。
それは、イサクが平和の人であったから、彼は争う必要も無く主に守られ、平和に長寿を全う出来たのである。
ヤコブとは、実に対照的な生き方である。

ヤコブは後に言う。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)
自分の気の赴くままに、周りを振り回し、自分自身も振り回されてしまう人生は、「短く」「苦しみ多い」。
主に信仰の碇を降ろし、イサクのように平和と尊厳に満ちた人生を生きる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:そしてイスラエルへ(創世記35:6-15):右クリックで保存

ヤコブは、エサウの脅威が無くなった時、霊的に油断して、身勝手な場所に住居を買い、身勝手に祭壇を建て、そこに身勝手な名前を付け、結果、ひどい目に遭った。(33-34章)
そこで彼は、本来あるべき信仰へと戻り、主が示された正しい場所で主を礼拝した結果、祝福が与えられた。(創世記35:6-7)
そうしてヤコブがかつてベテルで約束した事を果たした時、はじめて神は、パダン・アラムからの旅に「終了宣言」を出したわけである。(9節)

『時にリベカのうばデボラが死んで、ベテルのしもの、かしの木の下に葬られた。これによってその木の名をアロン・バクテと呼ばれた。』(創世記35:8)
ここに突然、リベカの乳母・デボラが登場する。彼女の名が出てくるのは、後にも先にもここだけである。
リベカの乳母は登場するのに、リベカ本人が登場しない、という事は、恐らくヤコブを寵愛していた母リベカは既に亡くなり、そのゆかりの人・乳母のデボラが生きていたので、ヤコブは寂しさを紛らわせるために、彼女を連れて旅をしていたのだろう。
その彼女が死んだ時、そこを「アロン・バクテ(嘆きの樫の木)」という名をつけた所から、ヤコブの悲しみが非常に大きかった事、ヤコブにとって彼女はとても大切な人だった事を伺わせる。

昔からヤコブをかわいがり、かばっていたリベカやデボラが死んだこの時、彼は心細く悲しかったかもしれない。
神がアブラムに「アブラハム」という新しい名を与えた時も、まさに似たような状況だった。
アブラムが99歳、もはや人の目から見れば死んだも同然の時に、神は「全能の神」(エル・シャダイ)という名で現れ、新しい名で呼ばれるようになった。
同じようにヤコブも、デボラが死に、もはや守ってくれる肉親が死んだ時、新しい名が与えられたのだ。

『神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。』(10節)

彼はこの時以来、イスラエルと名乗る事になった。
この新しい名、イスラエルは、「神と戦う」「神に支配される」という意味である。

自分の力に頼らず、ただ神の力に頼り、神の支配の内に生きる。それこそ「イスラエル」のアイデンティティであり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティでもある。

彼は神と格闘し、ももを打たれ、歩く時はびっこを引くようになり、自分を寵愛し守ってくれる身内も死に絶えた。
しかしこれからは、全能の神が彼のバックを守り、先頭を進んで守って下さるのだ。

『神はまた彼に言われた、「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。』(11節)
彼自身から多くの国民が出て、王たちが出る、という約束は、アブラハムにも与えられた約束だが、「生めよ、ふえよ」という祝福の命令は、アブラハムやイサクにも与えられていない、堕落前の人類とノアに与えられた命令である。
事実、イスラエルの代で、家族は70人の群れとなり、そこからさらに多くの群れへと増えていった。
そしてさらに、土地を受け継ぐ約束も与えられた。(12節)

『そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、一本の石の柱を立て、その上に灌祭をささげ、また油を注いだ。そしてヤコブは神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。』(創世記35:14-15)
灌祭とは、飲みものを注ぐ供え物で、それは、私達自身の全てを神に注ぎ尽くす事を意味する。(レビ23:13)
ヤコブはそこで全面的に主に捧げ、その場所を改めてベテルと呼んだ。

かつては杖一本しか持たないヤコブだったが、今や多くを持つ者となった。
それは、彼が主に約束されたことを信じ、主に命じられた事を、紆余曲折はありながらも、守り行ったからである。

礼拝説教メッセージ音声:原点へ還れ - 再びベテルへ(創世記35:1-5):右クリックで保存

子供達は近隣に憎まれる事をし、家長としての権威も失墜して、どうにもならなくなってしまったヤコブに、神が現れ指示した。
「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と。(18節)
ベテル。それはヤコブにとっての信仰の原点であり、そこに立ち還れ、と言ったのだ。

今や多くを持っているヤコブだが、かつて、エサウを逃れて一人故郷を逃げて来た時、彼はみじめで、はだか同然で、力も無かった所に、神はベテルで現れた。
ヤコブはこのベテルの経験を通して20年間のラバンの元での生活は守られ、祝福され家族も持ち物も増えたのだが、持ち物が増え兄の脅威も無くなると、ヤコブは次第に神様に頼る心が薄れ、混沌な状態へと陥ってしまった。
ちょうどエペソの教会のような状況である。(使徒19,20章、黙示録2:4-5)

ヤコブにとっての信仰の原点は、ベテルにおける、天から地に架けられたはしごにあった。
その時、ヤコブは貧しく、一人だったが、その旅路は幸いだった。
それは、そのはしごを通して来る守りと祝福に望みを置き、頼っていたため、それで彼はどんどん祝福されて行ったからだ。

財産が増え、妻や子供もでき、仕事も順調になっていくと、何かと初めの愛から離れてしまいがちになる。
信仰の原点であるイエス様から離れてしまって、権威が失墜し、子供や部下達がとんでもない事をしたりして、混沌な状況になっていないだろうか。
その時、私達も原点に立ち返るべきである。
私達にとっての信仰の原点は、イエスキリスト。全能の神と私達とを橋渡しして下さる、唯一のお方である。

神はベテルでヤコブに言われた。
「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15)
ヤコブはこの時、パンや着る物の保証を求めたが、神はそれを遥かに上回る多くの祝福を与え、決して捨てること無く守られ、カナンの地へと安全に戻された。
それなのにヤコブは、未だにベテルでの約束を果たしていなかったのだ。

『ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて、着物を着替えなさい。』(創世記35:2)
ヤコブはベテルへ上るにあたり、全家に三つの事を指示した。

まず一つ目は、異なる神々を捨てる事。
ヤコブの一家が、混沌へと向かっていった大きな原因は、偶像の容認であった。
ラケルによってテラフィムが持ち込まれ、後にそれを見つけた時でも大好きなラケルの手前、取り除かずに容認してしまったのだろう。
それによって、もはやこの一行は、パン種が入ってしまったパンのように、全体が不純に発酵してしまい、権威も秩序もなし崩し的に崩壊していったのである。
私達も、主イエス以外の何か(仕事や異性、お金など)に生きる望みを置いていたとしたら、それを心の第一の座から降ろし、再び主を第一の座に据えるべきである。

二つ目は、身を清める事。
主の御前出るからには、主がきよくあられるように、私達も身を清めるべきである。
そのためには、イエスの十字架の血潮で罪を清め、御言葉の洗いで真理から反れた行いを清めるのだ。

三つ目は、着物を着替える事である。
身を清めた後に、主が賜ったまことの着物、贖いの衣を身に纏う事によって、私達は初めて王の宴会に参加できるのだ。(マタイ22:8-14)

これら三つの事柄は、私達が主の御前に出て礼拝する際に、必要な心構えである。
そうして私達も、主が指示された場所へと、礼拝するために出ていくのだ。

『そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。』(4節)
ヤコブの指示に、全家は従い、その通り実行した。
ヤコブが34章の終わりで「わたしが嫌われ者となった」「わたしに迷惑かけた」「わたしが危険にさらされた」と、完全に「わたし」の心配ばかりしても、息子は何の恐れもなく言い返し、それに何も言い返せなかったヤコブだったが、彼が主を第一とし、「わたし」はその神に服従するという、正しい権威構造に身を置いた結果、彼は家長としての権威を回復したのである。

権威を回復したのは、身内に対してだけでなく、周囲の異邦人達にもであった。
「そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。」(5節)

このように、私達の内から偶像を取り除き、神を礼拝しに向かう時、権威も秩序も回復するのである。
私達も、まことの神以外を頼りとする「偶像」は古い土地に埋め、真に礼拝する場所へと、進み行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声:霊的権威を失うと(創世記34:18-31):右クリックで保存

「若者は、ためらわずにこの事をした。彼がヤコブの娘を愛したからである。」(創世記34:18)
日本語訳では、シェケムはディナを”愛して”いたと訳されているが、それは大切に思う”愛”ではなく、「夢中になる」「喜ぶ」の意味である。
異性に夢中になる事や喜ぶ事を「愛」だと勘違いし、それで結婚するなら、すぐに破綻してしまう。
聖書の愛は相手を大切にし、尊重し、互いに対して責任を負うものであるが、彼らにはそれが無い。

ヤコブの子達が提示した条件にハモルと彼の子シェケムは喜んで同意し、彼らは早速出ていき、町の者達にヤコブ達と契約を結ぶ事の素晴らしさを説得した。
「そうすれば彼らの家畜と財産とすべての獣とは、われわれのものとなるではないか。ただわれわれが彼らに同意すれば、彼らはわれわれと一緒に住むであろう」。(23節)
町の者達が説得されたポイントは、祝福されているヤコブ達の持ち物が、自分たちのものになる、という点であった。
結局彼らは物欲に惹かれたために、形式上の割礼を受けたのだが、その後、とんでもない事になる。

『三日目になって彼らが痛みを覚えている時、ヤコブのふたりの子、すなわちデナの兄弟シメオンとレビとは、おのおのつるぎを取って、不意に町を襲い、男子をことごとく殺し、またつるぎの刃にかけてハモルとその子シケムとを殺し、シケムの家からデナを連れ出した。そしてヤコブの子らは殺された人々をはぎ、町をかすめた。彼らが妹を汚したからである。』(34:25-27)

なんとシメオンとレビは、割礼の傷みで弱っている町の男たち全部、剣にかけて殺し、他の兄弟達は、殺された者達の妻子や財産を略奪したのだ。
しかも、割礼という主から与えられた聖なる約束を、欺きの道具にして。
彼らが怒るのは確かに当然ではあるが、その怒りに任せ、何十人あるいは何百人もの人達を、剣で血を流し、殺してしまうのは、度を越している。

シメオンとレビは、この行為の故に、兄弟達の中で権利を失ってしまう。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

このとおり、自分の怒りに任せて殺したり、ほしいままに虐待する者は、呪われてしまうのだ。
人の怒り、人の憤りは、神の義を実現するものではなく(ヤコブ1:20)、呪いの元となってしまうが、神の怒りを自分のものとする者は、祭司となる。(出エジプト32:29、民数記25:6-13)

『そこでヤコブはシメオンとレビとに言った、「あなたがたはわたしをこの地の住民、カナンびととペリジびとに忌みきらわせ、わたしに迷惑をかけた。わたしは、人数が少ないから、彼らが集まってわたしを攻め撃つならば、わたしも家族も滅ぼされるであろう」。彼らは言った、「わたしたちの妹を遊女のように彼が扱ってよいのですか」。』(創世記34:30-31)

ヤコブの言葉の中から、何度「わたし」が出て来ているだろうか。
彼は「わたしが嫌われ者となった」「わたしに迷惑かけた」「わたしが危険にさらされた」と、完全に「わたし」の心配しかしておらず、「神」がすっぽり抜けてしまっている。

彼は、周りに迷惑をかけた事や、自分達は人数が少ないから集団で攻め寄せて来たら滅ぼされてしまうだろう、といった心配をしている。
一体、マハナイムでの出来事は忘れてしまったのだろうか。彼には地の陣営の他に、天の陣営もいつもついているというのに。
この時の彼は、息子二人の言葉に何も言い返せなくなってしまった程、霊的権威が無かった。

「自分」にばかり目を向け、自分達の力と相手とを比較して心配する時、平安を失い、権威も威厳も失ってしまう。

それは、シェケムの土地を買って彼らと関係を築いてしまったが為に、カナン人に配慮しなくてはならなくなり、そこがヤコブの弱みとなり、彼の言動の自由を奪ってしまったのだ。
そればかりでなく、彼の一族には偶像との妥協があったようである。(次章)

それら偶像や世との関係をきっぱり捨て去る時、権威は回復する。
次回以降に詳しく見ていきたい。

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