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メッセージ - 出エジプト記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:モーセの顔の光(出エジプト記34:29-35):右クリックで保存

『モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。』(出エジプト記34:29-30)

40日間、世のものを飲み食いせず、主の臨在に浸されて主と語っていたモーセは、自らのはだが光を放っている事に気が付かなかった。
イスラエルの人々がモーセを見た時恐れた程であるから、まばゆく神聖な光だったのだろう。
しかし、それはずっと続くものではなく、やがて消え失せるものだった。

私達も、いつも主を思い主と交わるうちに、無意識の内に主の栄光を輝かせるようになり、世の人がそんな私達を見る時、特別な感じがするようになるが、私達はそれとは気付かない。
しかし、主の栄光を輝かせているかのような「ふり」をするなら、とたんに胡散臭くなってしまう。

『モーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。』(出エジプト記34:34)

モーセは、会見の天幕にて主と語るたびに、顔の覆いを外して主の栄光を受け、人々の前に出る時は、顔に覆いをかけて語った。
パウロは、このモーセが発した顔の光とその覆いについて、第二コリント3章にて詳しく語っている。

モーセが山で主にいただいた石の板、この石に刻まれた「文字の務め」は、死の務め(第二コリント3章7節)で、罪に定める務めであり(同9節)、やがて消え去るべき栄光である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)

文字の務めに対し、御霊の務めは、はるかに栄光ある務めである。

『そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。』(2コリント3:13-15)

パウロは、モーセが顔に覆いを掛けた理由を、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、と言っている。
栄光が消え去って行く様を、イスラエルの民が見たらどうなるか。色々な口実をつけてモーセに反逆した民だから、大体想像がつく。
そしてパウロは、この覆いは、今日もモーセの律法が朗読される度に、イスラエルの民にかけられている、と言っており、それはイエスをメシヤとして受け入れていない現代のイスラエルもまた同じである。

この覆いが取りのけられるのは、ただキリストによってであり(同15節)、もし、人が主キリストに向くのであれば、キリストが覆いを取り除いて下さる。
『しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)

主の栄光を見えなくさせている、私達の心にかかる覆いは、色々ある。
恐れ、不安、固定概念など。しかし、その人が主に向くのなら、その覆いは取りのけられる。
それ故、私達の務めは、人をただキリストに向かせる、これに限る。

モーセの時代、律法は石の板に刻まれ、モーセは会見の天幕に行かなければ主と相対す事が出来ず、栄光の光を発する事は無かったが、今や私達には、御言葉は石の板ではなく心の板に記され、私達は御言葉なるキリストにあって、主と一体化された。
主はいつも共におられ、私達が主に呼びかける時、私達の心を主に向ける時、あらゆる心の覆いは取り除けられ、主の栄光を受け、反射して、至る所でそれを輝かせる事が出来るのだ。
私達は、モーセのように栄光を覆うことはせず、世の光として、燭台として、光を世に輝かせるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:重要な祭りと戒めの再確認(出エジプト記34:18-28):右クリックで保存

続いて主は、イスラエルが守るべき祭りや、幾つかの戒めについての再確認をしている。
ここで述べられている事はほぼ全て、以前主が命じられた事の焼き直しであるが、その中でも、特に重要な事柄を再確認したのだろう。

イスラエルが守るべき重要な祭りの筆頭は、種を入れないパンの祭りである。(18節)
主が、大いなる救いによって奴隷状態から開放して下さった事を祝う過越祭から七日間に渡って行われる祭りで、その間、純粋な種を入れないパンを食べ続け、主の救いと御言葉をじっくり味わう時とするものだ。

19-20節は、人間も動物も最初に生まれる子は主のものである事の再確認である。
特に、ろばは羊で贖うように指示され、贖いが無いなら首を折らなければならないと定めているが、ろばは、主イエスを人々に届ける働き人を暗示しており、主のための働き人は、必ず、まことの小羊キリストによって贖われた事の実感が必要である。

21節は、安息日尊守の命令で、いかに耕作時や刈入れの時であっても、安息日は休むべきであると示している。
一般的には、耕作時や刈入れの時は、一日でも惜しんで休まず働く時であるが、それでも安息日は尊守すべきであると具体的に命じている。
主の命じられた安息日を守るなら、主は、その休んだ日の分も、倍にして祝福して下さる事を、マナによって(出エジプト記16:11-21)、また、安息年によって(レビ25:20-22)、教えられている。

22節は、ユダヤ三大祭の二つ目、七週の祭りの尊守を命じている。
『年に三度、男子はみな主なる神、イスラエルの神の前に出なければならない。』(出エジプト記34:23)
年に三度、イスラエルの男子が皆、エルサレムに集中してしまうと、その間の男ではどうするのか、敵が攻めて来たらどうするのか、という心配があるかもしれないが、主は、それをも払拭して下さる。

『わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に三度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう。』(出エジプト記34:24)
敵がそれを狙って攻めてくる事は無いと、主は約束しておられる。
実際、主の命じられた事を尊守しようとしたヨシャパテ王の時、周囲の国々は皆恐れ、ヨシャパテと戦うことをしなかった。(2歴代誌17:10)

『あなたは犠牲の血を、種を入れたパンと共に供えてはならない。また過越の祭の犠牲を、翌朝まで残して置いてはならない。』(出エジプト記34:25)
ここで、過越の犠牲やパンについて、それは特別な日の、特別なものである事を、再び確認している。
イエス・キリストは、過越の日が始まったその夕暮れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、ほふられた。
実に、過越祭は、ほふられた小羊キリストを示す祭りである。

『また主はモーセに言われた、「これらの言葉を書きしるしなさい。わたしはこれらの言葉に基いて、あなたおよびイスラエルと契約を結んだからである」。モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡を板の上に書いた。』(出エジプト記34:27-28)
こうして、四十日四十夜の後、民が以前だいなしにしてしまった主との契約が修復され、再び締結されるに至った。

礼拝説教メッセージ音声:神の視点に立って(出エジプト記34:1-17):右クリックで保存

主の前に大きな罪を犯したイスラエルの民は、滅ぼされるまであと一歩の所から、モーセの執り成しによって救われた。
しかし、主はもうイスラエルと共に行かないと言われたが、そのような状況に対しても、モーセは主に執り成し、イスラエルも悔い改めたため、主は、イスラエルと共に上って下さるという約束をして下さるまでに、思い直して下さった。
『主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。』(出エジプト記34:1)
主は、ひとたび民の違反によって破壊されてしまった契約、その石の板を、再び与えて下さる。

『主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。』(出エジプト記34:6-7)
これこそ、主のご性質である。
旧約の神は、何かと、恐ろしいイメージがあるかもしれない。
しかし、聖書を主の側の視点で読んでみると、主がさばきを下される直前までの人々が、いかに頑なで、邪悪で、礼儀知らずであったかを知るはずであり、主はよくそこまで忍耐されたなと、主の恵み深さ、憐れみ深さを、逆に知るはずである。

私達は何かと、自分たちが属する側の視点で、神をあちら方向へと追いやったような視点で、物事を見がちである。
例えば、皆さんにとって「異性」にあたる人が、浮気をして、皆さんにとって「同性」にあたる人が憤って暴力を振るったとする。それを聞いたなら、大体、皆さんは「同性」の立場に立ち、「異性」を非道いと糾弾し、「同性」に同情する傾向がある。
それと同じように、人が何かを犯して、神が裁いた、というなら、人は人に同情し、裁きを降す神は非道い、と、思いがちだ。
しかし、実際に罪を犯したのは人間の側であり、私達は悔い改めに立つべきであり、神はどのように思われるか、どのようなな思いで人の悪を忍耐し、どのようにやるせない思いで、裁きを降さざるをえなかったかに、思いを馳せるべきである。

主が裁きをされたり滅ぼされたりするからには、その前に必ず人間の側の罪や反逆があり、主の側の赦しと、悔い改めの促しと、長い忍耐とがある。
主があまりに忍耐深くて、さばきを下されないのをいいことに、なおも罪を犯し続けていると、主は、やがて裁きを下される。

例えば、カインからノアの時代に至るまで、読めば僅か数ページしかなく、通読では系図の箇所はつまらなくて一人ひとりの名前など気にも留めないが、その、一人の人生分の間、主の忍耐と赦しがあり、カインからノアの時代に至るまでの何百年、何千年もの間、主は忍耐し、人が立ち返るのを待っており、とうとう、ノアとその家族以外は、はなはだ堕落してしまうまでになってしまったため、洪水をおこされたのだ。
私達は、神の裁きや罰に目を向けるではなく、むしろ、私達の側のそむきや罪、身勝手さを、悔い改めるべきである。

『あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:14)
主は再び契約を結ばれる段において、真っ先に偶像崇拝を禁じ、異教徒と契約を結ぶ事を禁じた。
それ程までに、偶像崇拝や、汚れた民族と関わりを持つ事は、罠となるからだ。

主は確かに恵み深く、憐れみ深い。怒るに遅く、さばきをいつまでも遂行されない。
しかし、そうだからと言って調子に乗り続けると、約束の地に入れなかったり、滅ぼされてしまったり、という事例が厳然としてある以上、私達は頑なになる事なく、主に従順であり続けるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主が共にいて下さるための執り成し(出エジプト記33:12-23):右クリックで保存

モーセは、主がイスラエルと共に行かれることを願って主に執り成すが、ここで注目すべきポイントは、「あなたは・・・と言いました」「かつてあなたは・・・と仰せになりました」、など、必ず「主が言われた御言葉」を盾に取り、そして願いを申し出ている事である。
私たちも主に願う時、異邦人の祈りのごとくただ願いごとを何百遍繰り返しても効果は無い。御言葉に根拠を置いた祈りこそ、聞かれる祈りである。

『主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。』(出エジプト記33:14)
こうしてモーセは、主が共に行って下さるという口約束はいただいたものの、それだけでは心配だったのかもしれない。イスラエルの民を「わたしたち」として、自分にだけでなく、自分たちイスラエルとも共に行って下さい、と頼む。

『モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。』(出エジプト記33:15-16)

モーセは、あなたが共におられないのなら、あなたの名がつけられたイスラエルは、他の民族と何ら区別が無いではありませんか、それでは主の栄光になりません、と、暗にほのめかしている所が、さすがである。
主が共におられる事。それこそ、神の民と呼ばれるゆえんであり、私達キリスト者も同様である。

『主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。』(出エジプト記33:17)
主はこうしてイスラエルの民と一緒に行って下さる事を約束して下さったが、モーセはなお、食い下がった。
『モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。』(出エジプト記33:18)

民は金の子牛を作って主を激しく怒らせ、殺されても当然の事をしてしまっていたため、主は本当にそんな民と共に行って下さるのだろうか、と、モーセは心配だったのかもしれない。
それに対し、主が言われたのは、「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」であった。
それは実に心強い言葉である。
主は、民のかたくなさや邪悪さに従ってあしらわれる事をせず、ただ主が恵もうとされるが故に民は恵まれ、ただ主が憐もうとされるが故に民は憐れみを受けられるのだ。
そこには、人間の側の何かは、一切無い。
民が罪深かろうと、かたくなであろうと、主が「そうする」と決められたからには、民はそうされるのだ。
私達も同様に、主から恵みとあわれみを頂けるような要素は一切なく、ただ、主が一方的に私達を憐れんで下さり、ひとり子を世に遣わして私達の罪の身代わりとして下さったからこそ、私達は恵みと憐れみを、ただ受けられるのである。

『また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。』(出エジプト記33:20)
主はあまりに聖であられ、その「聖」に人が触れてしまうなら、人は生きてはおれない。
そこで主は、「わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。」といわれる。(出エジプト記33:20-23)

私達は、主は御手によって私達を悪しき者から守っていて下さる事は良く知っているが、実は、主の「聖」からも守られているのだ。
罪ある人が、石の板をそのまま見るなら、その人は死んでしまう。そこで主は、契約の箱と贖いの蓋によってそれを覆い、人を主の聖なる光によって打たれる事から守って下さった。

主は、神とイスラエルの民との間に、執り成し手であり仲保者であるモーセを備えて下さったように、神と私達との間にも、完全な仲保者であるイエス・キリストを備えて下さった。
私達がそのまま聖なる主の御前に出るなら、ただ打たれて死ぬしか無い。しかし、私達は執り成し手であり仲保者であるキリストにあって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るようになったのである。

礼拝説教メッセージ音声:うなじのこわい(出エジプト記33:1-11):右クリックで保存

モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無い、という確約は、とりあえずいただき、そればかりでなく、主は使いを遣わして約束の地へと導き、そこに住むカナン人達を追い払って下さる事、乳と蜜の流れる地へ入れる事をも、約束して下さった。(出エジプト記33:1-2)
ただし、である。主は、民と一緒には行かない、と言われた。
『あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう』(同3節)

いのちが助かっただけでも、もうけものだが、民は「主が共に行って下さらない」事を、悪い知らせとして受け止めて憂い、その身から飾りを取り外した。
それは正しい反応である。

主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほどの恩知らず、主を知らない者である。ただ、現代を生きる私達の内には、「主は共におられなくてもいいから、とにかく罰を受けない確約と、敵に対するの勝利の確約と、天国に入れる約束は欲しい」と思うような者が、意外と多い。
主が共におられるという事は、全宇宙を創られた万能であられる御父が共におられ、私達に最善の道を歩ませ、さとして導いて下さるという事である。
そして主は、驚くほどのあわれみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。
主は共にいなくていいから、祝福と楽しみだけ欲しい、などと言う者は、お父さんは一緒に住まなくていいからお金とゲームだけ欲しい、などと言う子供よりも、はるかに愚かである

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、かたくなな民である。もしわたしが一刻でも、あなたがたのうちにあって、一緒にのぼって行くならば、あなたがたを滅ぼすであろう。ゆえに、今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう』」。』(出エジプト記33:5)

主が「共におられなくなる」ためのコツは、かたくなになる事である。
主が右に行けと何度も言っているのに、いや、私はどうしても左に行くのだと言って聞かなかったり、主が御言葉を示して悔い改めを促しているのに、それを無視してどんちゃん騒ぎをしたり、そういった頑なな性質こそ、主の臨在を離れさせるコツであり、主からたちどころに滅ぼされるためのコツである。

『民はこの悪い知らせを聞いて憂い、ひとりもその飾りを身に着ける者はなかった。』(出エジプト記33:4)
私達も、歩んできた道が御前に罪であった事が御言葉で示されたなら、すぐにその道を改め、自分好みという「飾り」は、身から外すべきである。
悔い改めるべき時には悔い改め、喜ぶべき時には喜ぶのである。
主は悔い改める人には恵み深い。

『モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。』(出エジプト記33:7-10)


私達も、自分の家を出て礼拝に向かう前から、礼拝に向けて心ぞなえをし、主の臨在と御言葉の導きを楽しみに期待し、立って敬意を払うべき時は立ち、座して耳を傾けるべき時は耳をすまし、礼拝が終って後もなお主を思うのである。
ヨシュアは、モーセが帰った後も、幕屋を離れずにいる程に、忠実だった。(出エジプト記33:11)
私達も、ヨシュアのように忠実であれば、主が約束して下さった王国を受け継ぎ、多くの人々をそこへと導く者として下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:正しいさばきと深い執り成し(出エジプト記32:30-35):右クリックで保存

前回までの箇所だけを見ると、モーセはあたかも怒りに任せて裁きを行なう恐ろしい指導者のように見えたが、今回の箇所を見ると、びっくりする程の深い愛をもってイスラエル民族を思い、御前に憂いていたかが分かる。

『翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。』(出エジプト記32:30新共同訳)
真に良き指導者、良き羊飼いは、単に義のさばきを遂行するだけには留まらず、民のしてしまった罪を、主の御前に覆い、執り成すものである。

『モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」』(32:31 新共同訳)
なんとモーセは、主の御前に、自分の命を盾にとって執り成している。
良くない羊飼いは、羊を養わず、かえって自分の羊達を食い物にしてしまう。(ゼカリヤ11章)が、良き羊飼いは、羊のためにいのちを捨てるのだ。(ヨハネ10章)

民衆の目を恐れ迎合し、民衆のせいにしてしまったアロンとは、全く大違いである。
モーセは確かに示されるままに恐ろしいさばきを遂行したが、同時に、深いうめきによって民を執り成したのだ。
パウロもモーセと同じように、同国人のためなら、自分がキリストから引き離され呪われた者となっても良い、と、願う程であった。(ローマ9:1-3)

民をさばき、教え、訓戒するはずの立場の人が、その責務を果たさず、「勝手に民がやった」「自己責任だ」などと言って放置するなら、その民がした事はその人自身の罪となってしまう。
「そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。”それはアロンが造った”のである。」(出エジプト記32:35)、と、ある通りである。

『もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」』(出エジプト記32:32 新共同訳)
ここから分かるように、神が記されている書物、すなわち、「いのちの書」がある。
神の御言葉に、つけ加えたり除いたりする者があれば、神はその人をこの書から名前を除かれ(黙示録22:18-19)、また、その書物には、神の民が、愚かさ故にさすらって来た日々も、流してきた涙の日々も、全てしるされている(詩篇56:8)。
私達人間は、誰しも、神の基準に耐えうるものではない。
そこで、モーセのように執り成してくださるお方が必要であり、執り成し手がいなければ、誰も、そのいのちの書に名を残せるものではない。

モーセは、彼に敵対していつも逆らう民のために執り成し、パウロも、彼に石を投げたり鞭打ったりして迫害する同国人のために、自分のいのちを捨てても良いと言い切るまでに祈る愛の心を持っていたが、それ程の執り成す心は、御霊によって与えられるものだ。
御霊は、深いうめきによって執り成してくださる。(ローマ8:26-27)
そしてキリストは、自分をあざけり、鞭打ち、十字架につけ、なお罵詈雑言を浴びせる人々を、「父よ彼らをお赦し下さい」と執り成し、十字架上で私達全人類のために、完全に、身代わりを引き受けて下さったのだ。
私達は、この「キリストにあって」命の書から消される憂いは無くなった。しかし、これ程までに愛して下さったキリストの血潮をないがしろにし、恵みの御霊を侮る者は、どれ程重い刑罰が待っているだろう。(ヘブル10:26-31)

『主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。』(出エジプト記32:33新共同訳)
私達は、誰が救われるのか、あるいは救われないのかと詮索しがちだが、救いは究極的な所、自己責任である。
執り成されてもなお罪を犯し続ける者は、神が裁く。しかし、アブラハムやモーセ、パウロが人々を執り成したように、私達も、執り成す事をあきらめてはならない。

『今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。』(出エジプト記32:34)
ここで言われている「使い」とは、神から遣わされた使者であり、出エジプト記においては火の柱、雲の柱として現れた御使いであるが、現在の私達に先立っていく神の使いは、キリストである。

私達が人生という荒野を行くには、神から遣わされた使いであるキリストの導きが必要である。
荒野の民がこの使いに導かれて行ったら約束の地へ導かれたように、私達も、人生という荒野をこの御方に導かれていくなら、天の約束の御国へと導かれる。
しかし、荒野でこの使いに従わずモーセに逆らいエジプトへ戻ろうとした民は、荒野の途上で滅ぼされたように、私達も、私達に先んじて行くキリストに逆らうなら、約束の御国に入れられる事なく、人生の荒野の途上で滅んでしまうのである。

礼拝説教メッセージ音声:血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29):右クリックで保存

「アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。」(出エジプト記32:22)
アロンは、自分が罪を犯した事を告白せず、民の悪さへとモーセの目を向けさせようとした。民が悪いのは、あなたも知っているでしょう、と。

小さい子供は、誰からも教えてもらってもいないのに、言葉を覚えた当初から、罪を他人になすりつけたり、自己弁護したりするように、人は誰しも、生まれながらに自分の罪を隠し取り繕う「くせ」が、身についてしまっている。
しかし、もし自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(1ヨハネ1:9)

アロンは、民が「神を造ってください」と言った時点で、与えられていた十戒を元にNOを突きつけるべきだった。
それなのに彼は、民の心情を損ねたくなかったのか、それをせず、「金を持っている者はそれを取り外して下さい」と言ってしまった。(出エジプト記32:23-24)
そう言えば民衆は黙ってくれる、と、期待したのかもしれない。しかし、ひと度妥協してしまった事で、ますます民を付け上がらせる事になってしまった。

「彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです。」(出エジプト記32:22-24)
結局、彼自身がそれを火に投げ入れた事は告白しているが、あたかも、子牛が自動的に出てきたような言い分である。
「なんで事故を起こしたの!」という親の言葉に、「だって、電柱が車に向かって突っ込んで来たんだもの。」と返す子のようであるが、電柱が車に向かって突っ込んで来るよう車を導いたのはその子であったように、民衆を堕落へと導いたのは、アロンである。

『モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。』(出エジプト記32:21)
アロンとしては、民が勝手な事を言い出し、それに少しだけ譲歩しただけ、それなのに民は、あれよあれよという間に勝手に偶像を造った、と思っているかもしれない。
しかしモーセは、アロンが民に罪を犯させた、と、明瞭に言っているし、35節でも「金の子牛はアロンが造った」と書いてある。
アロンは、その手で子牛を造らなかったかもしれない。しかし、指導者たる者が、戒めるべき所を戒めなかった事によって「彼が造った」と見なされてしまうのである。
悪い事を「する」ばかりが罪ではない。罪の防止を「しない」事も、悪をほしいままに振舞わせる事も、悪を「する」事と同列なのだ。

『モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。』(出エジプト記32:25)
ここは、KJVでは、アロンは彼らを裸にさせ、彼らの敵の間で裸の恥をさらすようにした、と訳す事ができる。
モーセが山から降り、皆の前で金の子牛を粉々に砕いても、なお、裸のままでいる者達がいた、という事だろう。

酔っぱらいのように、ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、なお開き直るような者はいるが、それは放っておいてはならない。
罪をそのまま野放しにしてはびこらせると、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)

『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。』(出エジプト記32:26-28)

イスラエルの男子約六十万に対し、倒されたのは三千人。
会衆の中に、なおそれだけ罪をはびこらせる者がいた、という事だろう。

この命令は、厳しく聞こえるかもしれない。
しかし、神の民は、それほどまでに、罪のはびこりに対しては厳しく扱い、妥協してはならないのだ。

罪を指摘されても、悔い改めもせず、なお公然と罪を犯すような者は厳然と取り除き、会衆を清く保たなければならないのは、旧約でも新約でも同じである。(民数記25章、1コリント5:1-8)
神の民には、確かに幸いも特権も祝福も多いが、それなりの果たすべき責任もあるのである。

『そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:29)
新約でもイエス様は同じ事を言っている。
『地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。』(マタイ10:34-39)

私達自身の内から罪を除き去り、また、主に反対する親や兄弟、愛する人には、逆らってでも、主を選択する事は、神の民なら避けて通れない事のようである。

礼拝説教メッセージ音声:割られてしまった神の石板(出エジプト記32:15-20):右クリックで保存

ヨシュアは、モーセが最後に「待っていなさい」という言葉を残して、主の臨在の雲の中へと入って行って以来、40日間、ずっと忠実に待っていた。
彼は、民から離れた所、そして主の臨在の雲から近い所で、ずっと待ち続けていたのだろう。
そして、やっとモーセが彼の前に姿をあらわした時、彼らは民衆の大きな叫び声を聞いた。

『ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。』(出エジプト記32:17-18)
私達は、神の敵、すなわち、罪やサタンと戦い、勝利の叫びを上げる事が最も望ましい。
それに負けてしまった時に、悔しさや悲しみの叫びをするのは、まだましな方で、最も良くないのは、罪やサタンを迎合し、罪由来の汚れた楽しさを謳歌するための叫びを上げる事、これを神は怒り、悲しまれる。

『モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。』(出エジプト記32:19)
この板は、神聖にして侵すべからざるもの、この板が安置されている箱が行き巡ったペリシテ人の国は恐慌にみまわれ、契約の箱の中を覗いたイスラエルの民も多く打たれ(1サムエル6章)、また、その箱が安置されている至聖所においては、祭司が少しでも手順を間違えれば、神に打たれて死んでしまう程、神聖なるものだった。
それなのに、モーセはそれを粉々に砕いてしまった。

そのように、神聖なるものが壊されてイスラエルの中から取り去られてしまう事は、イスラエルの歴史の中では幾度かある。
契約の箱がペリシテ人に奪われた時も、バビロン捕囚時にカルデヤ人が神殿を荒らし回った時も、使徒の時代にローマ人が神殿を破壊し尽くした時も、主は、その汚れた民が略奪するがままにされていた。
それはいずれも、神の民の堕落がはなはだ激しかった時であり、尊く聖なるしるしは神の民の中から取り除かれ、神の栄光は去ってしまったのだ。

『また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。』(出エジプト記32:20)
「金」で出来たものが、火で焼かれ粉々に砕かれる。
よほど不純な粗悪品だったか、あるいは主ご自身が徹底的に粉々に砕かれたのか。とにかく、人は自分の蒔いた種を自分で刈り取り、報いの杯を飲まされるのである。
「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。(黙示録14:9-12)

罪ある人は、神の基準に達する事はできない。
それだから、神が石の板に書かれた定めを人が守ろうと頑張っても、遅かれ早かれそれを破ってしまう時が来る故、もっと抜本的な解決を提供するような、新しい契約が必要である。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

新約においては、石の板ではなく、私達の心に直接、神の指によって御言葉が記され、その言葉は決して離れる事なく、私達は心に刻まれた律法に従って歩む事が出来る。
それは、イエス・キリストを信じる信仰により、聖霊によって記されるものである。

『あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3,6)

そして、この新しい契約は、人を罪に定めたり死に定めたりする務めではなく、いのちの務めであり、古い契約の務めよりも、はるかに栄光のある務めである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。(2コリント3:7-8)

礼拝説教メッセージ音声:執り成して祈れ(出エジプト記32:7-14):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。』(出エジプト記32:9)
民は主の御前に大きな罪を犯し、この時滅ぼされても仕方なかった。
幾度も主が命じられた事を無視し、分からず屋で何度言っても過ちを犯し、40日ほどしか経っていないのに早くも堕落してしまった民に、モーセ自身もうんざりしていたに違いないが、彼は、神が「彼らを滅ぼしあなたを大いなる国民としよう」と言われた時、「はい、ぜひそうして下さい」などとは言わなかった。
彼は逆に、イスラエルの民を救うために執り成した。

このモーセの執り成しに、私達は注目すべきである。
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。』(出エジプト記32:11-13)

彼は、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの人の何かを根拠に弁護する事は、一切なかった。
彼は「イスラエル人の何か」を根拠に執り成し祈る事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点から、執り成したのである。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。だから、人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
そして何より、主はアブラハムに子孫を増やし、約束の地へと導かれる御言葉の約束をされたではありませんか、その約束を覚えて下さい、と。

そもそもイスラエル人のみならず、人間は誰しも、神の御前に受け入れられるような良い点など、一つも持っていない。義人はひとりもいないのだ。(ローマ3:10-18)
人は、あれをした、これをした、といった「行い」によっては救われない。人間由来の何かをもって神に取り入ろうとしても、無駄である。
ただ、主は憐れみ深きお方であり、罪に汚れて弱き私達を救って下さる、その一方的な救いに私達は拠りすがるのみなのだ。

モーセは神と人との間に立って取り成したが、私達を執り成して下さるお方は、イエス様である。
このお方にあってのみ、私達は神に近づく事が出来るのである。

『それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:14)
神は既に御心を定めておられるから、私達は祈ってもムダだ、と思ってはならない。
神は私達に、祈りによって神とかかわる事を望んでおられる。
事実、アブラハムは主の真実さを盾に取ってソドムを滅ぼさないよう交渉できたし、ツロの女もイエス様が「子犬」と言った言葉尻を捉え、なお食い下がったため、娘の癒しを与えられた。
身勝手な祈りや同じ文句の繰り返しなどは聞いてくださらないが、私達が主の真実さに信頼し、御心に叶った祈りをするなら、主は聞いて下さるのだ。

主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びない事である。
『主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:23,31-32)
そのようなご性質故、アブラハムやモーセが執り成して祈った時、主は「よくぞ執り成してくれた」と喜ばれたのではないだろうか。

今は確かに終わりの時代で、世の終わりに定められている災いが来るのは免れないが、だからと言って執り成し祈る事を止めてはならない。
主は、破れ口に立って執り成して祈る人を、求めておられるのだ。(エゼキエル22:30)

礼拝説教メッセージ音声:金の子牛への二つの罠(出エジプト記32:1-6):右クリックで保存

『民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。・・・アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
・・・そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。』(出エジプト記32:1,4,6)

民は早くも堕落してしまった。
40日ほど前、あれほどの恐ろしく圧倒的な主の顕現を見たはずなのに。
また、この日の朝、主からのマナを食べ、主が備えて下さった水を飲んだはずなのに。
雲の柱と火の柱による主の臨在が、相変わらず彼らと共にあったのに。それなのに、一体、どうした事なのだろうか。

アロンは「あすは主(エホバ)への祭りである」(5節)と言った。エホバ、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神、天地を創られた全能なる神への祭りだと宣言したが、もしかしたら彼らは、造った偶像にエホバなる主を投影する事によって、主に仕えているような「気」になっていたのかもしれない。
だが、「その気」だったとしても、それは到底エホバなる主が受け入れるものではない。
主に仕えているような「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。
私達はそれを十分注意して取り扱わなくてはならない。

「さあ、”わたしたちに”先立って行く神を、”わたしたちのために”造ってください。」(1節)この言葉からも、主体は神ではなく「わたしたち」にある事が分かり、彼らの「その気」は、心から主を愛するものではなく、自己中心的なものであると分かる。
そして彼らは、御言葉に従っておらず、むしろ、いくつも御言葉に反している。

主が十戒の第一戒で言われたのは「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」だった。
また、第二戒で言われたのは「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」だった。(出エジプト記20:1-6)
さらに続けて主は言われた。「あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。」(出エジプト記20:22-23)

この言葉が与えられ、まだ40日ほどしか経っていないのに、アロン彼らから金を集めさせ、のみで鋳型を造り(のみを当てるなら汚す事になる、と、主は20:25で言われているのに)、金の子牛を造って、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と、のうのうと宣言している。

このように彼らは、こちらが見ていて怖くなってしまうほどに主の戒めを破り、主の御怒りを引き起こしている事が分かるはずだが、彼らは、分からなかったのである。
なぜか?
それは、彼らの内に御言葉が無く、身勝手に、自分の目に正しいと思われる「思い込み」によって、突き動かされていたからである。

災い多く忌むべき士師記の時代のキーワードは、「おのおの自分の目に正しいと見る所を行なっていた」だった。
御言葉の根拠が無い、神に仕えているという身勝手な「思い込み」。それこそ、災いと呪いの根源である。
私達が正しいと見える事、それは果たして主の御前に正しいだろうか。
それをいつも、御言葉に照らし合わせて、点検する必要がある。

もう一つ、この箇所から私達が陥りやすい罠を見る事が出来る。
その罠とは、「民衆の声」である。

アロンは、民衆の「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。」という声に対し、御言葉で否む事をせず、民衆の思いをさせてしまった。
サウル王も同じ罠に陥った。彼も、サムエルから与えられた御言葉どおりに待ちきれず、自分流の思いに急かされ、そして「民が」離れていくのを恐れ、御言葉を乗り越え、自分のおるべき領分を超えた事を行なってしまった。
彼も言い訳で「神に仕えたつもり」だった事を言ったが、それは御心を損ねる事であり、王国は剥奪される事になってしまった。(1サムエル13:8-14)

政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶが(知恵蔵2013)、神の国において、このポピュリズムは、最もしてはならぬ事である。
現在、キリスト教界において、御言葉よりも、大衆に迎合される事を重視し、御言葉をそのまま伝える事を躊躇してクリスチャンが塩気を失い、御言葉の光を失い、塩気の無い塩として、外に投げ捨てられてしまっている状況を、よく見る事が出来る。

わたしたちは、アロンやサウル王が陥ってしまった、二つの罠に気をつけるべきである。
一つは、御言葉が与えられても、忍耐して待ちきれない、という罠。
主の現れは、人の目には遅いと感じる事もある。しかし、しっかり主に信頼し、言われた言葉を守り続けるべきである。
もう一つの罠は、民衆の声、みんなの声である。

それらに惑わされず、御言葉にしっかり留まって御言葉の成就を忍耐して待ち望み、民衆の声に惑わされず、御言葉のほうに信頼して従順するなら、ヨシュアやカレブのように、次世代へいのちを継がせる者となる事が出来る。
もし、みんなの声に惑わされ、主の御言葉を押しのけるなら、荒野の民のように、サウル王のようになってしまう。
御言葉に従順し、服従し、新しい改まった世界へといのちをつなげる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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