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さばきの胸当 - 主の胸に結び付けられて(出エジプト記28:15-30)
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- pastor 2013-2-15 18:20
礼拝説教メッセージ音声:さばきの胸当 - 主の胸に結び付けられて(出エジプト記28:15-30):右クリックで保存
今回は、エポデの上につける「さばきの胸当」についての主の指示である。
さばきは恐ろしいイメージがあるが、悪しき者が支配する世の中で不当に扱われてきた聖徒たちにとっては、主のさばきは慰めである。(詩篇18:20-34、黙示録6:9-10)
この「さばきの胸当」の特徴から、ご自分の民をしっかりと胸に結び付けて下さる大祭司イエスのご性質を見る事が出来る。
『あなたはまたさばきの胸当を巧みなわざをもって作り、これをエポデの作りのように作らなければならない。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、これを作らなければならない。』(出エジプト記28:15)
これは、エポデと同じ種類の撚り糸を用いて22cm四方の四角形に織られ、その中に、12種類の宝石がはめ込まれる。
『さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。』(出エジプト記28:30)
ウリムは光、トンミムは完全という意味で、主のさばき(御心)を求める時に用いられるものである。(民数記27:21、1サムエル28:6)
その十二の宝石には、イスラエル十二部族の名前が彫り込まれている。つまり、大祭司が「さばきの胸当」を身につけて聖所を出入りする時、イスラエルの名前が大祭司の胸に置かれた状態で、出入りする事になる。(出エジプト記28:21)
「胸」は心の座であるが、まことの大祭司である主も、まことの聖所である天において、私達地上にいるキリスト者をいつも御心に留め、取り成しておられるのである。
『しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』(ヘブル7:24-25)
さばきの胸当には十二種の宝石がはめ込まれているが、十二種の宝石は、黙示録にも登場する。
『その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。花嫁は宝石のよう。またその門には十二部族の名が記されている。そして土台石は宝石であり、十二使徒の名が記されている。』(黙示録21:10-12)
この、宝石を土台とした新しい聖都エルサレムは、主の花嫁であるが、宝石は花嫁と対比される。(箴言31:10、雅歌4:9)
私達の成り立ちが石ころのようであっても、主は、石ころからアブラハムの子孫を起こされ、それを尊い宝石として整え(ゼカリヤ9:16)、尊い宝石で飾って傷を包み慰めて下さる。(イザヤ54:11-13)
さばきの胸当ては金の輪と青紐によってしっかりとエポデに結び付けられるように(出エジプト記28:22-27)、私達も、主の御胸から落ちないよう、しっかりと天の紐によって結び付けられるのだ。
以下の雅歌の女性の告白は、そのまま私達の主に対する祈りでもある。
『私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。・・・ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。』(雅歌8:6,3)
礼拝説教メッセージ音声:エポデ - 私達を背負われる主(出エジプト記28:6-14):右クリックで保存
今回の箇所は、祭司の特別な服の一つ、エポデについて。
『そして彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を用い、巧みなわざをもってエポデを作らなければならない。これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない。エポデの上で、これをつかねる帯は、同じきれでエポデの作りのように、金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で作らなければならない。』(出エジプト記28:6)
エポデは袖なしのエプロンのような服で、幕屋の出入り口に使われた青、紫、緋、白の刺繍の他、神のご性質をあらわす「金」も加わり、非常にカラフルである。
このエポデは、神であり人であるイエス・キリストのご性質をあらわしている。
『あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない。宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、イスラエルの子たちの名をその二つの石に刻み、それを金の編細工にはめ、この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。』(出エジプト記28:9-12)
エポデの両肩部分には、縞めのうが配置されるが、縞めのうと訳されている語は「ショハム」、縞めのうの他に、薄青や青緑の宝石として、新共同訳ではラピスラズリとも訳される。
この石にはイスラエル十二部族の名が刻まれており、祭司の肩の所に配置されるため、祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為す事になるのだ。
主は、イスラエルをずっと背負ってこられた。
彼らが苦しむ時は共に苦しみ、愛と憐れみによって彼らを救おうとされて来たが、残念ながら、彼らは主に逆らい、聖なる御霊を痛ませて来た。
そのため、主は彼らの敵となられ、イスラエルは痛めつけられた。(イザヤ63:8-10)
そして、大祭司である主イエス様は、今も、ご自身の民であるキリスト者全てを肩に背負って歩んでおられる。
いつから、私達キリスト者は主に背負われて来たのか。
それは生まれる前から、私達はキリストにあって選ばれ、導かれて来たのである。(エペソ1:3-5)
いつまで、私達キリスト者は主に背負われて行くのか?
それは、私達がしらが頭になっても、なお背負われ、やがて誰もが行き着く「死」という大川に至っても、なお主は共に歩み、永遠の御国へと導いて下さるのである。
『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)
礼拝説教メッセージ音声:祭司のつとめ(出エジプト記28:1-5):右クリックで保存
28章と29章は、祭司の務めに関する定めである。
『またイスラエルの人々のうちから、あなたの兄弟アロンとその子たち、すなわちアロンとアロンの子ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルとをあなたのもとにこさせ、祭司としてわたしに仕えさせ、またあなたの兄弟アロンのために聖なる衣服を作って、彼に栄えと麗しきをもたせなければならない。』(出エジプト記28:1-2)
神は、アロンとその子達が神によって祭司に任命されている
そのように、祭司とは元々、自分からなるものではなく、神から一方的に選ばれ任命されるものであり、その務めは、神と人との間に立って執り成したりいけにえをささげたり、特別な事柄のために仕える仕事である。
『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。・・・だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。』(ヘブル5:1-5)
祭司はその務めに相応しく、特別な、聖なる衣服を着るよう、主に指示されている。
『あなたはすべて心に知恵ある者、すなわち、わたしが知恵の霊を満たした者たちに語って、アロンの衣服を作らせ、アロンを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。』(出エジプト記28:3-5)
この衣服は、人間の知恵や感性など”人間のわざ”によるものではなく、神の側から示された型どおりに創られたものでなければならない。
人間の知恵や感性など”人間のわざ”とは、神の御前には「汚れた衣類」のようなものである。(イザヤ64:6)
人が、いかに正しい行いをしようとも、いかに清くなろうとがんばっても、主の御前に”きよい”とされる事は無い、それら行いは、ただ汚れた衣のようである。
主が、その汚れた衣を脱がせて下さり、主が与えて下さる新しい衣を着せられる事によってのみ、清らかにされるのだ。
『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。』(ゼカリヤ3:1-4)
生まれつきの人間は汚れたものであり、主の御前に出る時、そうした人間的な知恵や感性などは脱ぎ捨てなければならない。
ちょうど、バルテマイがイエス様に呼び出された時、自分のそれまで大切にしてきた外套を脱いだように。
今や、私達キリスト者は、祭司として聖なる務めにあずかる者とされているのだ。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:5-6)
礼拝説教メッセージ音声:主の大庭に入る時は(出エジプト記27:1-21):右クリックで保存
幕屋の外門から庭に入る時、最初に目にするのが、祭壇である。
『あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:1-3)
人が幕屋に来て真っ先にすべきは「捧げる事」であり、捧げ物なしに主の大庭に入ってはならない。(申命記16:16、詩篇96:8)
捧げ物には色々な種類があり、ある時は感謝のいけにえを、ある時は動物に自分の罪を移し、自分の身代わりとして動物を焼き尽くす事もあり、ある時は和解を喜びつつ焼いた肉を共に食べる事もある。(レビ記)
この祭壇はアカシヤ材の上に青銅が被されており、祭壇で使う諸々の道具も、皆、青銅で出来ている。
青銅はさばきを意味するが、礼拝とは、まず自分自身の罪をさばき、自分自身を捧げる所からである。
この祭壇では、人の罪の身代わりとして動物が捧げられたが、私達には、私達の身代わりとなって下さったキリストがおり、キリストの故に私達も大胆に主の御前に出る事が出来るのである。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)
ゆえに、イエス・キリスト無しに神の御前に行く事は、身代わりの犠牲無しに祭壇へ行く事であり、そうするならもはや自分自身が裁かれるより他に無い。
『あなたはまた幕屋の庭を造り、両側では庭のために長さ百キュビトの亜麻の撚糸のあげばりを設け、その一方に当てなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。また同じく北側のために、長さ百キュビトのあげばりを設けなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。』(出エジプト記27:9-11)
幕屋の庭は、亜麻の撚り糸で織った幕で外界と仕切られている。
それは5キュビト間隔で柱によって支えられ、柱は青銅の台座の上に立てられており、銀の留め金によってつなぎ合わされている。
つまり、幕の内側と外界とは亜麻の撚り糸で織った幕によって分離されており、それは「さばきの青銅」の上に支えられ、「贖いの銀」によってつなぎ合わされているわけである。
私達も「十字架」という「さばき」によって世から分離されている。
「十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架のこちら側にいる私達キリスト者に対し、世は何もする事が出来ず、私達もまた、十字架のあちら側にいる世に対しては別様の者である、と理解すべきである。
『庭の長さは百キュビト、その幅は五十キュビト、その高さは五キュビトで、亜麻の撚糸の布を掛けめぐらし、その座を青銅にしなければならない。すべて幕屋に用いるもろもろの器、およびそのすべての釘、また庭のすべての釘は青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:18-19)
以上のように、庭の長さは44.5m、幅は22.25m。
内側と外側を区切る幕の高さは2.23mであるから、普通の身長の人は、外側から庭の中を見る事はできない。
ただ4m超のじゅごんの皮で覆われた聖所の建物が、亜麻の幕の上からとび出ているのが見えるような感じである。
この外庭の門にも、色々な色で刺繍が施されている。
「庭の門のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織った長さ二十キュビトのとばりを設けなければならない。その柱は四つ、その座も四つ。」(出エジプト記27:16)
つまり、この庭の門に入ろうとする時、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては入れず、出入りする際は、天を、王を、血潮を、清めを意識するようになっている。
「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。」(出エジプト記27:20-21)
これは、聖所に置かれる「燭台」を灯す油についての指示であり、主の御前で絶える事なくともしびを灯しておくように、永遠の定めとして命じられている。
私達もまた、この暗闇の世界を灯す世の光として、聖霊の油を絶やす事なく、いつも主の御前にともしびを灯しておくべきであり、また、賢い乙女たち(マタイ25章)のように、いつ主が迎えに来られても良いように、油の用意をしておくべきである。
幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37)
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- pastor 2013-2-11 23:32
礼拝説教メッセージ音声:幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37):右クリックで保存
今回の箇所は、幕屋の骨格となる立枠についての指示であるが、今や、私達キリスト者ひとりひとりがキリストのからだの各部分、各器官であり(1コリント12:27)、私達自身が神の宮であり(1コリント3:16-17)、主にあって最後まで忍耐し勝利する聖徒は「聖所の柱」とされる。(黙示録3:12)
故に幕屋の構成物ひとつひとつは、私達・キリスト者の予表である。
『あなたは幕屋のために、アカシヤ材で立枠を造らなければならない。枠の長さを十キュビト、枠の幅を一キュビト半とし、枠ごとに二つの柄を造って、かれとこれとを食い合わさせ、幕屋のすべての枠にこのようにしなければならない。』(出エジプト記26:15-17)
幕屋の骨組みは、この4.45mx66cmのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
この幕屋は縦10キュビト、横30キュビト、高さ10キュビトなので、ちょうど10キュビト四方の立方体を横に三つ合体させたような寸法の建物である。
台座として支えられる銀は贖いを意味し、幕屋を構成する立板は、二つ(証人の数)の銀によって地上から贖われ、神の宮のために建て上げられ、キリストのからだの一部分とされた私達を暗示する。
これらの立板は、横木によって、しっかり組み合わされ、結び合わされる。
『またアカシヤ材で横木を造らなければならない。すなわち幕屋のこの側の枠のために五つ、また幕屋のかの側の枠のために横木五つ、幕屋のうしろの西側の枠のために横木五つを造り、枠のまん中にある中央の横木は端から端まで通るようにしなければならない。そしてその枠を金でおおい、また横木を通すその環を金で造り、また、その横木を金でおおわなければならない。こうしてあなたは山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記26:26-30)
キリストのからだも、多くの部分からなり、それぞれ横のつながりによって結合している。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)
31節以降は、聖所と至聖所とを分ける「幕」についての指示である。
『また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。』(出エジプト記26:31-33)
アダムとエバの堕落以降、人はエデンの園への道がケルビムと回る炎の剣によって遮られてしまったが、至聖所への道も、ケルビムの織物によって遮られている。
しかしキリストが十字架でさばかれた時、この幕は真っ二つに裂かれ、もはや聖所と至聖所を隔てる壁は打ち壊された。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:13-16)
「至聖所」には契約の箱が置かれ、その上に贖罪蓋がかぶせられており、ケルビムの織物によって隔てられた向こう側・聖所には、南側に燭台、北側にパンの机が向かい合わせで置かれている。そして聖所と外を隔てる出入り口には、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕が張られ、その幕のために、金をかぶせたアカシヤ材の柱が五本立てられ、それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造される。(出エジプト記26:34-37)
青銅はさばきを意味するが、つまり聖所の入り口は、まず神のさばきを経なくては入れず、また、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては、入れない。
さばきはイエス・キリストが身代わりとなって受けて下さり、私達は、天の王であられるキリストの血潮にあって白く清められ、大胆に聖所に入る事が出来る。(エペソ3:12)
この建物の最奥(西側)にある至聖所は、10キュビト四方の立方体である。
後のソロモンが建てた神殿の至聖所は、その二倍の20キュビト四方の立方体(列王記6:20)で、黙示録に現れる新エルサレムにいたっては、12000スタディオンの立方体(1スタディオン=185m、1辺が約2400km)であり、その中には神殿はなく、都そのものが、主の栄光と臨在に満ちた至聖所である。(黙示録21章)
黙示録で記されている神の都こそまことの神殿であり至聖所であり、山で示された幕屋や神殿は、その型である。
主のご計画が成就するごとに、隠されていた物事が徐々に露わにされて行き、全ての時が満ち、全てが成就した時、神の栄光は誰の目にも明らかなほど巨大に、公にあらわれるのである。
礼拝説教メッセージ音声:幕屋の幕に見るキリスト者の性質(出エジプト記26:1-14):右クリックで保存
幕屋の幕は、四層から成る。
その最も内側、聖所に接している部分にあたるのが、ケルビムが織り込められた幕である。
『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。』(出エジプト記26:1-3)
この幕は一つが12.46メートルx178センチ、それを五枚つなぎあわせたもの二組をさらにつなげて一つにするのであるから、テントとしては結構な大きさであり、それを荒野で組み立てたり分解したり、運搬したりするには、レビ人の特別な働きが必要である。
この幕の縁には、青いひもの輪と、金の輪と金の留め金を五十個つけ、それを互いにつなぎあわせて一つとしている。(出エジプト記26:4-6)
この、最も聖所に近い幕は、栄光化されたキリスト者の性質があらわれている。
天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、そして白い亜麻布(清められた聖徒:黙示録7:9)によって、神の御前に仕えるケルビムが織りつけられ、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合い、神の性質である金の輪で留められるのだ。
このケルビムが織り込められた幕の上から被せられるのが、やぎの毛の幕である。
『また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。』(出エジプト記26:7-8)
これはケルビムが織り込められた幕よりも若干大きく、一枚分多い。それは、天幕の前で折り重ね、余った部分を垂らす事によって、ケルビムが織り込められた幕を覆い、外界からは完全に隔離された形とするためである。
『そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。』(出エジプト記26:10-13)
やぎの毛の幕は白、すなわち清さの色であり、これをつなぎ合わせる留め金は、青銅によって作られている。
青銅は裁きを意味する事を学んだが、イエス・キリストが私達の身代わりとなってさばかれ、それによって私達の罪は清められた。キリストが裁かれたそのさばきによって、白く清められた私達は一致するのである。
このやぎの毛の幕の上から被せるものが、さらに二つある。
『天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。』(出エジプト記26:14)
雄羊の皮は、なめすと赤くなる。雄羊はほふられたキリストを(黙示録5章)、赤い色は、キリストがほふられた時に流された血を思わせる。
そして、最も外側を覆う皮がじゅごんの皮であり、幕屋を外見として見る時、それは巨大なじゅごんの皮が横たわったようなテントで、見栄えはあまり良いものではない。
「じゅごん」はヘブル語「タハシュ」で、色々な訳がなされている言葉で(あなぐま、いるか、あざらしなど。)いずれにせよ汚れた動物であり、皮の見栄えの良いものではないが、頑丈であり、外側を覆うものとして適したものである。
私達も律法上では異邦の民であり、世を渡り歩く汚れた者であったが、キリストにあって神に近い者とされた。
以上、幕屋の幕は四層からなるが、これを外側から内側へと行けば行くほど栄光に富んだものとなって行き、まさしく、私達キリスト者が、罪清められ、聖化され、栄化される有様が浮かび上がってくる。
私達は、以前は異邦人として汚れた者(じゅごん)であったが、ほふられた羊キリストの血(赤くなめした雄羊)によって清められ、白くされ(やぎの毛皮)、キリストが受けたさばき(青銅)によって一つとなり、そして、栄光のケルビムと共に、至聖所にて礼拝にあずかる者とされるのだ。(ケルビム織りの幕)
このケルビムが織り込められた幕は、外界からは完全に隔離されており、至聖所の栄光に直に触れている。
それは天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、白い亜麻布によって織りなされており、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合わされ、神の性質である金の輪で留めら、いつまでも至聖所の栄光の元にケルビムのように仕える。それが、栄光化されたキリスト者の性質である。
『ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』(エペソ2:11-13)
礼拝説教メッセージ音声:幕の内側 - パンの机と燭台(出エジプト記25:23-40):右クリックで保存
神を礼拝する場所「幕屋」とは、天幕によって仕切られた22.3mx44.5mの「大庭」と呼ばれる敷地内に、4.45mx13.35mからなる長方形のテントがあり、そのテントの中は二部屋に分かれ、入り口に近い方の長方形の部屋が「聖所」、その奥には、最も聖なる領域とされる「至聖所」と呼ばれる4.45m四方の部屋があり、聖所と至聖所は、幕によって仕切られている。
前回見た「契約の箱」は、この最も聖なる領域・至聖所に安置され、今回の箇所で見る「パンの机」と「燭台」は、聖所に置かれており、日毎の祭事に用いられるものである。
(聖所にはもう一つ、「香壇」が置かれるが、それは30章にて学ぶ。)
『あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。』(出エジプト記25:23)
これが「供えのパンの机」の寸法で、センチメートルに直すと、長さ89cm、幅は44.5cm、高さは66.8cmである。
これにも金をかぶせ、4箇所に輪を付け、その輪に担ぎ棒を通して持ち運び可能なものとした。
『そして机の上には供えのパンを置いて、常にわたしの前にあるようにしなければならない。』(出エジプト記25:30)
この机には、常に、主の御前に十二のパンが供えられ、ひと重ねに六個ずつ、ふた重ねが置いており、おのおの重ねの上には乳香を置いて主の御前にささげている。
それは安息日ごとに整えられ、最終的にそれらはアロンとその子達の食べる分となる。(レビ記24:5-9)
現代、キリストにあって祭司とされた私達も、この幕屋の内に隠れた特別なパンにあずかる事が出来、主の働き人には、常にパンの養いを受ける保証がある。
『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。』(ヨハネ6:32)
続いて燭台について、31-40節に記されている。
『また純金の燭台を造らなければならない。燭台は打物造りとし、その台、幹、萼、節、花を一つに連ならせなければならない。また六つの枝をそのわきから出させ、燭台の三つの枝をこの側から、燭台の三つの枝をかの側から出させなければならない。』(出エジプト記25:31-32)
つまり、一本の燭台を中心にして、右側に三本、左側に三本、真ん中を入れると合計7本が、それぞれ左右に弧を描くように枝分かれして、その全体は半円形のように見える燭台である。
この燭台には夕から朝まで、油を絶やす事なく、常時ともしびをともし続けなくてはならない。
『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えなければならない。』(レビ24:2-4)
この燭台は、アーモンドの花の形をした三つの”がく”が、それぞれ節と花をもって一つの枝にあるようになっている。(出エジプト記25:33)
アーモンドはヘブライ語でシャケデ、エレミヤ1章ではシャカデ(見張る)という言葉と掛けて使われており、黙示録では、この7つのともしびは全世界を見張る主の目でもある。(黙示録5:6)
また燭台は、世を主の光で照らす「教会」でもある。
『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。・・・あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:12-20)
幕屋の内側は、外界とは幕によって隔てられ、世からは区別された領域である。
現代を生きる私達も、イエスの血によってはばかる事なくキリストの肉体という幕の内に入る事が出来、私達はその幕の中で区別され、まことのパンの養いを受け、主のともしびの光にいつも照らされて、主のつとめを為すのである。
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)
礼拝説教メッセージ音声:契約の箱に見るキリストのご性質(出エジプト記25:10-22):右クリックで保存
今回の箇所は、契約の板を入れるための箱(契約の箱、英語:ark)を造る際の指示であるが、この箱の性質は、イエス・キリストの性質である。
契約の箱は、アカシヤ材を元にして造られる。
アカシヤは砂漠地方に育つ木で、密度のある頑丈な木で、とげばっており、材木としてはあまり適した木ではないが、この木はイエス・キリストの人間性をあらわしている。
『彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。』(イザヤ53:2)
また、アカシヤ材は純金で覆われるが、純金は神の性質である。
つまり、イエスキリストの、神であり人としての二面性が、ここに示されているわけである。
この箱の四隅には、輪が取り付けられ、そこにさおを通し、日本の神輿のように担ぐ事によって持ち運びが可能となっている。(出エジプト記25:12)
そのようにするのは、持ち運びの便宜のためだけではない。この箱は神聖なものであり、神が示した手順によって扱わないならその人は死ぬ他に無く(1サムエル6:19、2サムエル6章)、そのような事の無いためである。
キリストは人として来られ、ヨハネもキリストをじっと見、手で触った。(1ヨハネ1:1)人としてのキリストは、そのように親しく私達と交われるお方であるが、キリストの神としての栄光の御姿を見た時、ヨハネは倒れて死人のようになってしまった。(黙示録1:17)
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方(1テモテ6:15-16)である。
『また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。』(出エジプト記25:17)
この「贖罪所」または贖罪蓋(ギリシア語:ヒラステリオン)は、律法の石板が人に直接触れないようにするための「覆い」である。
これもまた、贖いの衣であるキリストを表している。
キリストは、聖なる御言葉の剣が人に直接触れて死んでしまわないようにするための、神と人との間の覆いとなっておられるのだ。
『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖いの蓋、贖罪蓋)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)
姦淫の現場で捕らえられた女が、イエス様の前に引きずり出された時、イエス様は地面に指で書いておられたが(ヨハネ8章)、神の指で書かれた律法に従って人が裁かれるなら、誰しも、死ぬ他に無い。
その女も、彼女を訴えた者も、傍観して面白がっていた者も。
しかし、主イエスは全ての人の罪を覆い、ご自身を通して神と和解をするようにと、全ての人に促しておられるのだ。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(2コリント5:20)
礼拝説教メッセージ音声:幕屋についての詳細な指示(出エジプト記25:1-9):右クリックで保存
『すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。』(出エジプト記25:9)
25章以降、荒野の民の礼拝の中心である「幕屋」の建造と、それに関わる全ての用具を作るにあたっての主の指示が続く。
その内容は設計書や仕様書そのもので、建造物の材料や寸法から、個々の什器の形や色に至るまで、詳細に指示されている。
聖書通読を挑戦する人にとって、最初の山となりやすい所で、一体、この内容が私達に何の関係があるのか、と感じる事が多いかもしれない。
主はなぜ、幕屋についてそこまでの緻密な指示を出されたのか。
それは、これら幕屋の建造物や器物は「天の型」であり、人に天の有様を示すためである。
『彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。』(ヘブル8:5)
『このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。』(同9:23-24)
主は、これらの細やかな指示を、当てずっぽうにされたのではない。天にはまことの幕屋、まことの聖所があり、その模型を造らせるために指示されたのだ。
人が地上の幕屋を見る時、天の模型を見ているのであり、人が地上の幕屋で礼拝する時、天でのまことの礼拝の”型”を行なっているのである。
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。』(出エジプト記25:1-2)
地上の幕屋は、聖徒達の捧げ物が元となって、造られる。そしてその元は、エジプトから分捕ったものである。
同じように私達も、サタンが所有権を持っている世から分捕って神の国のものとし、それを主に捧げるべきである。
捧げ物をする際、心から進んで捧げる捧げ物をこそ、主は喜ばれる。
主はその捧げ物を豊かに用いられ、さらに感謝が捧げられるように、祝福を増し加えて下さる。しかし、嫌々ながら捧げるような捧げ物は、主は喜ばれない。
『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。』(2コリント9:6-8)
天のまことの幕屋でも、地上の聖徒の捧げ物が元となっているものがある。
人が地上で主のために為した事は、天において宝として積まれ、決して朽ちる事が無い。(マタイ6:20)
主にあって勝利を得る者は、神の聖所の柱とされ(黙示録3:12)、また、聖徒たちは神の子羊の花嫁なる「聖なる都」とされ、高価な色とりどりの宝石で飾られ(黙示録21章)、この花嫁が着せられる光り輝く麻布は、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示録19:8)
天においては、神の幕屋が人とともにあり、神は人と共に永遠に住まわれるのである。(黙示録21章)
私達が地上の幕屋で主に仕える事は、天におけるまことの礼拝の前味わいをしているわけである。
礼拝説教メッセージ音声:主の御前で(出エジプト記24:9-18):右クリックで保存
血のそそぎを受けたアロンと長老七十人も、ともに主の御前に出る事ができるようになった。
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)
イスラエルの神が現れる様は、恐ろしいもので、サファイアの輝きのような主の栄光は、エゼキエル1章や黙示録でも同じ記述がされている。
主の現れを見たイザヤやエゼキエルは恐れ、ダニエルやヨハネは、そのあまりに「聖なる」様に、倒れて死人のようになっている。
しかし、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。
なぜか?
それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、イエスの血によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来たのだ。
それにしても、なぜ御前で「飲み食い」なのか?
血の注ぎを受け、罪赦された人に待っているのは、さばきや恐ろしさではなく、ほふられた動物を共に食す宴会が用意されているのだ。放蕩から帰って来た息子のように。
私達がいただけるごちそうとは、キリストの裂かれたからだである。
『わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。』(1コリント10:16-18)
私達はなにかと、サファイアの輝きのような主の栄光を見たがるものだが、しるしや不思議を見れば良いというものではないし、主の奇跡と祝福が毎日あれば良いというものでもない。
山のふもとで待っていた民は、四十日四十夜、山の上で燃える火のように見える主の臨在をそばで見ていながら、別の神々を作ってしまった。
なぜそんな、有り得ないことをするのか、と思うだろうか。しかし人間の「慣れ」は、怖いものである。
主の祝福が続き、物持ちとなり、安全が続いたダビデも、罪を犯してしまった。
私達は祝福が続いた時こそ、心して、私達の内に潜む怠慢に気をつけるべきである。
『ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。そこでモーセは従者ヨシュアと共に立ちあがり、モーセは神の山に登った。彼は長老たちに言った、「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい」。』(出エジプト記24:12-14)
ここで主は、律法と戒めを書き記した石の板を授けるために、モーセひとりを山へ呼び出される。
ヨシュアはモーセの従者(「シャーラス」英語でミニスターやアテンドと訳されている)として、いつもモーセのそばで仕えており、彼だけがモーセが山を降りるまで忠実に待っていた。
そして長老たちには、モーセが山で主と会っている不在の間、重要な案件はアロンとフルに持っていくよう託し、こうしてモーセは山に登っていった。
この時、モーセは「いつまで」山に留まるとは言わなかった。それは、主が言わなかったからであり、モーセも知らなかったからだ。
後でわかるが、モーセがあまりに山で手間取るので民は待ちきれなくなり、アロンとフルも、そんな正しく民を導く事はできなかった。
モーセがいつ山を降りてくるかを知っていたなら、おそらく民もアロンも持ちこたえただろう。しかし、人の内に隠れた信仰が明らかとされるために、神は敢えて「いつまで」を言わないものである。
主は必ず、再び来られる。しかし、その日その時はいつになるか、分からない。
不忠実だったイスラエルの民のように、主人の帰りは遅いと思ってどんちゃん騒ぎしたり、酔ったり、おなじ仲間を打ち叩いたりしてはならない。
主がいつ来ても大丈夫なように、忠実なしもべとして霊的に目を覚ましているべきであり、いつでも迎え出られるよう、聖霊の油を常に用意しておくべきなのだ。
『こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。』(出エジプト記24:15-18)
主が現れるまで、モーセは六日感待たされ、民は四十日待たされたわけである。
私達は何かと、今日明日にでもインスタントに導きを欲しがるが、忍耐して待ち望む事が必要なのだ。
それは、私達の内に秘められた信仰がためされ、真実が露わにされるためである。
出エジプトの民はその日その時を待てず身勝手に神々を作り、サウル王も人々からのプレッシャーにその日を待てず、自分勝手な礼拝を捧げてしまった
それに対し、忠実にその時を待ったヨシュアは、約束の地を継ぐ事ができた。
私達に必要な姿勢は、ヨシュアのように、ミニスターとして、アテンドとして仕える姿勢であり、主人の帰りが遅くなっても、いつ来ても大丈夫なように準備して霊的に目をさましている事なのだ。