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メッセージ - 出エジプト記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:血潮による契約(出エジプト記24:1-8):右クリックで保存

いよいよ主とイスラエルの民との、契約の調印とも言えるべき箇所である。
はじめに主の御元に近づく事が許されたのは、モーセ一人だけだった。(出エジプト記24:1-2)
主はあまりに聖なるお方であり、人がそのまま御前に出ると死ぬしか無いため、必ず仲介者が必要なのだ。

『モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。』(出エジプト記24:3-5)

民が主の全ての言葉に同意したため、その実体のしるしとして、イスラエルの十二部族に従い十二の柱を建て、主の言葉を文書として書き記した。
契約は口頭での同意の他、文書の取り交わしにて為されるが、日本では印鑑が、西欧ではサインが、そして、神に対しては血が有効なしるしである。

『その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:6-8)
日本では、甲乙の契約書に一つの印を押して「割印」とするが、それと同じように、モーセは血の半分を祭壇に注ぎ、もう半分を民に注ぎかけて契約の血とした。

『だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。
彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:18)

血はまた、きよめの役割も果たす。
キリストの血は、人を完全にきよめ、死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とするものである。(ヘブル9:14)
血はまた、いのちを買い戻す代価として有効である。
『それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:15)

この荒野の民は、後に契約を破ってしまう事になるが、人類もまた同じように、神が提示した律法の基準に到達する事は人にはできず、誰もが罰せられるべき存在である。
それ故、人は誰もが、この罪の罰金を誰かに支払ってもらう必要がある。
それを成して下さったのが、イエスであり、ご自身の血潮によって完済して下さった。

『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』(マタイ26:26)

私達はこの贖いを、ただ感謝して受け取るのみである。
そして、イエスが流して下さったこの尊い血潮を、裂いて下さった尊い御からだを、ないがしろにしてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:果たすべき責任と与えられる祝福(出エジプト記23:23-33):右クリックで保存

私達が主に対して果たすべき責任と、それを守った時に与えられる祝福が、今回の箇所で示されている。

『わたしはあなたがたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。』(出エジプト記23:26-28)

私達は、このような主の祝福と守りが与えられるように祈る事はよくするが、それらの祝福が与えられるのは、条件つきであり、私達の側にも守るべき定めや果たすべき責任があるという事を、忘れている人が多い。
私達が守るべき分とは、私達が主イエスに心を留め、御声に聞き従って背かない事(出エジプト記23:21)、また、以下御言葉に示されている通り、神以外のものを神としない事である。
『あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなさい。』(出エジプト記23:24-25)

主は、偶像に関しては、徹底的に打ち壊し、粉々に打ち砕く事を命じている。それも、かなり徹底として。
人は思うかもしれない。それはなんでもやりすぎでは。人権も何も無いのでは、と。
しかし、イスラエルが辿った道、すなわち、カナンの神々を慕い求めて堕落してしまい、滅ぼされ捕囚されてしまった歴史を見るに、やはり、主のその戒めは正しかったと分かる。

ちょっとだけならいいのでは、という妥協は、禁物である。
ソロモンの堕落にしても、異国の妻を娶ったは、最初はほんのささいな出来心あるいは好奇心だったのかもしれない。
自分には知恵があり、リスクも承知している、だからちょっとだけなら大丈夫だ、深入りしすぎなければいい、と。
しかしソロモンは晩年、その妻達を愛し、彼女たちにそそのかされ、晩年は異国の偶像の宮を各所に作ってしまう程、堕落してしまった。(1列王記11章)

人間、痛みや困難と戦う事には強いが、気持ちよくさせたり高揚させたりしてくれるような誘惑には弱いものだ。

イスラエルはバアル神に魅せられたが、バアル神話は、父である神を倒して権力を奪い、美しく殺戮好きな妻(かつ妹)と共に、敵と戦いを重ねて大活躍する。現代の映画やドラマにすれば、実に受けそうな内容である。
戒律は無いため、欲望の赴くまま好き勝手に出来るし、力づくで隣人や他国を奪うのも良しとされ、性に奔放で、神殿娼婦と交わる事が、神聖な礼拝行為とされ、”できちゃった”不都合な子供は、神に捧げるという名の下に、火の中をくぐらせ抹殺してしまう。
このように肉欲や情欲を沸き立たせるストーリーや、肉欲をそそる礼拝にイスラエルは魅せられ、引きこまれ、まことの神から離れてしまったために、やがて申命記28章にある呪いを、ことごとく受けてしまったのだ。

もし皆さんが、主よりも、テレビの向こう側のアイドルやドラマ、コンピューターグラフィックスを駆使した映像やゲームなど、人の作ったイメージ(idol:偶像)のほうに時間や心やエネルギーを捧げ、それらの内容はすぐに思い出せても、イエス様が成して下さった良き御業をなかなか思い出せないとしたら、偶像礼拝に足を踏み入れている。
イエス様よりも、アイドルやイメージに捧げたお金や時間、空想の方が多く、そして、中々祝福が与えられていない、という「自覚」があるのであれば、そうしたアイドル(偶像)は捨て去り、悔い改め、主に立ち返るべきである。

列王記や歴代誌は、神様のみおしえに歩む良い王様の時代と、神様に背く悪い王様の時代が交互に来る。
神を恐れ御言葉に歩む良い王様の時代は、必ず祝福され、民は幸せになり、戦争に勝利し、必ず栄えた。
しかし、律法を破って偶像を拝む悪い王様の時代は必ず呪われ、不幸になり、戦争には負け、必ず衰退した。
ちょっと良くなって栄えると、すぐ霊的高慢になって堕落してしまい、神を忘れ、呪いに入ってしまう。そして悔い改めると、また再び良くなっていき、、、という繰り返しが、イスラエル王国の歴史である。

皆さんは列王記のような毎日を送っていないだろうか。ちょっと良くなるとすぐ霊的に高慢になって堕落してしまうような。
神以外のものに夢中にさせ神を忘れさせるような「偶像」を徹底して除き去り、主が喜ばれるみおしえを守り行い、祝福の人生を歩み続ける皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:主の使いに導かれよ(出エジプト記23:20-22):右クリックで保存

『見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。』(出エジプト記23:20)
御使いというと羽の生えた天使を思い浮かべやすいが、モーセ五書を通読された方は、恐らくそういう天使が荒野の民を導いた記憶はないかと思う。
御使い、あるいは天使、と訳されているヘブライ語「マラヮク」は、メッセンジャー、使者、預言者の意味もあり、色々な状況で、時には思わぬ姿形で、神の民の前に現れるのだ。

主がモーセに現れた時、主の使いは燃える柴の中に現れ、モーセをエジプトへと遣わした。(出エジプト記3:2)
また、イスラエルの民が荒野を進む時、主の使いは雲の柱、火の柱となって、彼らを導き、紅海沿いでエジプト軍に追いつかれそうになった時、主の使いは彼らの後ろに移り、エジプトの軍とイスラエルの間に立ちはだかって彼らを守り、エジプトに敵対した。(出エジプト記14章)

主の使いは、様々な場面に、様々な形で、私達に語りかける。
雲の柱や火の柱として導かれる事もあるし、モーセのように神から使わされた人間もあるし、ある時は主ご自身が雷鳴のとどろきのような声で、ある時はか細い声で直接語り、ある時は、導かれる状況そのものが主のメッセージだったりもする。

『あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに、彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし、もしあなたが彼の声によく聞き従い、すべてわたしが語ることを行うならば、わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとするであろう。』(出エジプト記23:21-22)
主の使いからメッセージを受けた時、私達が取るべき態度は、ただ一つ。その言葉に聞き従い、行う事である。
私達は「わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとする」という言葉は大好きであるが、そうした主の守りと祝福に入るには、条件があり、その条件が、御言葉に聞き従って背かない事、主が語る事を行う事である。
それが、祝福のコツである。
実にシンプルであるが、人はなんと頻繁に主のメッセージをないがしろにしたり、無視したりして、祝福を逃している事だろう。

私が中学生の時、宿泊学習先で初めてオリエンテーリングというゲームを行った。
それは地図とコンパスを用いて、山の中の各所に設置された地点を、いかに早く全て通過するか、というゲームであるが、その時、陸上部と野球部のメンバーが、地図とにらめっこするよりも自分の足で走って探すほうが早いし、そちらのほうが根性と力が示せる、などと、奇妙な美意識を打ち出し、やみくもに走り出してしまい、グループメンバーがはぐれるわけには行かないため、全員でその後を追う形となった。
はじめのうちは、自分の足で走って適度な疲れも来るので、効率よく探しているような気もし、自分達は他のチームよりも根性があるなどと錯覚し、すぐにでもポイントを稼げるような気分でいた。
しかし、走っても走っても地点には行き当たらず、ただ疲れるだけで、残り時間が少なくなった時、他のチームは7,8点なのに自分のチームは2,3点。疲れと点数の低さに絶望的な雰囲気となり、結局、最下位となってしまった。
このように、身勝手なビジョンを打ち出し、正しい手順に則る事なく自分の力や自分の頭脳に固執して、やみくもにがんばる人は、成果もなく、ただ疲れるだけの無意味な時を過ごし、周りを巻き込んで敗北してしまうのだ。

今、皆さんが目標とすべき地点は、御言葉という”地図”によって、理解できているだろうか。
聖霊という”コンパス”の導きを、仰いでいるだろうか。
妙なプライドを掲げて、やみくもに走り回ったりして、与えられている人生の残り時間を、いたずらに費やしたり、周囲を巻き込んだりしていないだろうか。

私達はまず、御声に聞き、御心を知る事から始めるべきである。
仕事において、家庭において、あるいは人生の様々な目標において、それが御言葉という地図に照らして、正しいものであるかを確認する必要がある。
自前勝手な美意識やプライドは捨てて、聖霊の導きに従って歩んでいるかを、点検すべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主の安息と祭り(出エジプト記23:10-19):右クリックで保存

10節から12節に続く箇所では、安息日と安息年について示されている。
『あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない。あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。』(出エジプト記23:10-12)

安息日については十戒の箇所で学んだが、ここでは安息”年”についても定めており、それもまた七の周期で訪れる。
安息の制定は休ませるためでもあるが、第一の意義は「主を覚えて聖とする」(出エジプト記20:8)事であり、これを守れば、仕事のパフォーマンスが上がるだけでなく、主からの祝福を受ける。

七年目は種まきも刈り入れもしてはならない、としたら、七年目は一体どうやって食べれば良いのか、と、心配するかもしれない。
それについて主は、明瞭に答えている。
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ25:20-22)

思い出して欲しい。マナが降ったのは六日間で、主が定められた安息日にはちゃんと休めるよう、主は、六日目には二日分のパンを豊かに備えて下さる。
主を覚えるべき安息の日に立ち働いても徒労に終わるのみで、神と人から蔑みしか得られず、安息年を久しく守らなかったイスラエルの民は、バビロンへ連行して強制的にその地に安息を与えた。(2歴代36:21)
礼拝を守ろうとする聖徒に、主は手のわざを祝福し、しっかり礼拝を捧げられるよう都合をつけて下さり、その日に仕事を休んでも、必要をちゃんと備えて下さるのだ。

14節から19節に続く箇所は、ユダヤにおける重要な三つの祭りに関して、守るべき事柄が示されている。

『あなたは年に三度、わたしのために祭を行わなければならない。あなたは種入れぬパンの祭を守らなければならない。わたしが、あなたに命じたように、アビブの月の定めの時に七日のあいだ、種入れぬパンを食べなければならない。それはその月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。』(出エジプト記23:14-15)
重要な祭りの一つが「種入れぬパンの祭」(大麦の刈り入れ時期)で、アビブの月すなわち第一の月に14日夕暮から始まる「過越祭」に続き、7日間、種入れぬパンを食べる。(出エジプト記12章)
これは、新約において主イエスが苦難を受け、復活された時期であり、主はまことの過越の小羊としてほふられ、血を流され、肉を裂かれた。

二つ目の祭りは「初穂をささげる刈入れの祭」で、これは小麦の刈り入れ時期に行われる。
『また、あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭と、あなたの勤労の実を畑から取り入れる年の終りに、取入れの祭を行わなければならない。男子はみな、年に三度、主なる神の前に出なければならない。』(出エジプト記23:16-17)
この祭りは、穀物にかまを入れ始める時から七週を数えるため「七週の祭」とも呼ばれる。(申命記16:9-12)
これは、新約におけるペンテコステの日であり、ユダヤ人が各地から集まっている中、キリスト者達は聖霊に満たされ、主の働き人として捧げられた「初穂」として、公に示された。

三つ目は「取入れの祭」であり、仮庵祭と呼ばれ、ぶどうやオリーブ等果物の取り入れ時期、10月半ば頃に行われる。
これは出エジプトの民が、荒野で天幕に住んだことを覚え、祭りの期間は仮設の家(仮庵)を建てて住んだ事を覚える祭りであるが、新約における主イエスの誕生と一致する。
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)は、直訳すると、ロゴスは肉となって私達の内に幕屋(仮庵)を設けた、という意味であり、イエス様は肉体という幕屋を張って、私達の間に住んで下さったのだ。

現代、イエス様の誕生を12月25日に祝っているが、その日はイエス様の誕生日ではない。
聖書の記述を辿っていくと、イエス様の誕生は、10月半ばの仮庵祭の頃となる。(ザカリヤはアビヤの組の祭司で(ルカ1:5)、アビヤの組は8番目(?歴代誌24:10)である。ユダヤの第1月、ニサンの月は太陽暦の3月半ば〜4月半ば、ザカリヤの第8組は5月半ば〜6月半ばとなり、この時期にエリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもったという事になる。マリヤが身ごもるのはその6ヵ月後、11半ば〜12月半ばであるから、そこから出産までの約10ヶ月を足すと、ちょうど仮庵祭の頃となる。)

旧約聖書は全てイエスというお方についてあかししており(ヨハネ5:39、ルカ24:27)、律法で定められた「祭り」には、イエスのヒントが見え隠れする。
安息も、祭りも、いずれも主を覚えるためであり、主イエスを表している。それを人が守る時、その人は祝福されるのである。

礼拝説教メッセージ音声:判決を降す際は(出エジプト記23:1-9):右クリックで保存

今回の箇所は、判決を下す際の戒めである。
主は、人をかたより見る事はされないお方であり、私達にもそれを求めておられる。

『あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。』(出エジプト記23:1)
よく子供の中で(いや、むしろ大人のほうが)気に食わない誰かについてあらぬ悪いうわさを流し、その人を陥れるという事がある。
それは、主の敵が為す事であり、その最後は安らかなものではない。
イゼベルやアハブは悪意の証人を立ててナボテを殺し、パリサイ人達も悪意の証人を立ててイエス様を十字架につけて殺し、ステパノを石で殺すよう仕向けたが、いずれも、悲惨な最後を遂げた。

『あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。また貧しい人をその訴訟において、曲げてかばってはならない。』(出エジプト記23:2)

強い者や多数に追随して、皆で悪い方向へと向かってしまうのは、インターネット上でよく行われているし、特に日本人はそのような傾向に陥りやすいが、主は、それをしてはならないと命じておられる。
また、弱い立場の人をかばうあまり、裁判を曲げてしまう事も、してはならないと命じておられる。

過剰な被害者意識も、過剰な加害者意識も、両方とも道を誤らせてしまう元なのだ。
強い者や多数意見に流されたり、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならず、公正にジャッジする事を、主は求めておられる。

『もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない。』(出エジプト記23:4)

神はここまで具体的に、公平である事を私達に求めておられる。
というより、敵にこのようにされた場合、あるいは、した場合、仲たがいしている心も和らぐのではないだろうか。

主は公正明大なお方で、情に流されて裁いたりされない。だから私達も、公平であるべきである。
裁きや報復は、主がなさる事。私達は悪に対して悪で返さず、善で返す事によって、罪から守られ、自分の手を汚す事からも守られ、祝福をいただけるのである。

『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:弱き人を守られる主(出エジプト記22:21-31):右クリックで保存

主は弱き人達に配慮し守られるお方で、21節から27節までの箇所に、そういう人達に為すべき配慮が記されている。
『あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。』(出エジプト記22:21)

その最も先に記された事は、寄留の他国人たちへの配慮についてである。
彼らはつい数ヶ月前までエジプトにおいて在留異国人であり、その事を忘れさせないためである。そして私達も、この世にあっては旅人であり寄留者である事を忘れてはならず、この国で在留し生活している人達への配慮を忘れてはならない。

『あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。』(出エジプト記22:22-24)
福祉や人権の概念のなかった当時の世界は、孤児や寡婦はとても弱い立場だったのに対し、主は、彼らが人々から見捨てられるなら、その見捨てた者達を剣に渡す事を宣言された。

『あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。』(出エジプト記22:25-27)

当時、上着は寝るときに覆う「布団」の役割もあった。
貧しくなった人が、上着を抵当にお金を借りたからといって、寝るときの布団まで取りあげてしまうのは、御心ではない。
主は情け知らずの主ではなく憐れみ深い主である。
全てのものは主のもので、今、私達の手の内にある資産は主が貸し与えて下さっているものなのだから、同じように、私達も弱い立場の人達を憐れむべきである。

これらは、単なるきれいごとや脅しではない。
イスラエルの歴史では、実際に、寡婦や孤児の権利を踏みにじった故、あるいは同胞から高利を取った故、主の怒りが燃え上がり、イスラエルは諸々の国に散らされた事があり、そうしてイスラエルの中から、汚れが取り除かれた。(エゼキエル22章)

また、28節から31節には、神に対してあるべき態度が記されている。

『あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。』(出エジプト記22:28)
ここの「あなたは神をののしってはならない。」の「神」は、ヘブライ語ではエローヒム、「神」とも訳せるし「さばきびと」とも訳せる語である。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものであるのだから、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいている事であり、そむいた人は自分の身にさばきを招く。(ローマ13:1-2)
人はみな、神が立てた権威に従うべきである。

『あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。あなたのういごを、わたしにささげなければならない。あなたはまた、あなたの牛と羊をも同様にしなければならない。七日の間その母と共に置いて、八日目にそれをわたしに、ささげなければならない。』(出エジプト記22:28-30)
私達は、祝福が与えられたなら、ささげものを遅らせてはならない。
というのは、人には欲があり、捧げ物を後回しにすればするほどそれが惜しくなり、実行するのが難しくなって結局捧げず、神様との約束を反故にして罪を犯す事になるからである。

『あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない。あなたがたは、野で裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。』(出エジプト記22:31)
野で獣に裂き殺されたものは、汚れたものとされている。
私達も、世という野において、獣のような汚れた者達のえじきにされたものにハイエナのように群がって、その残りをむさぼるような事をしてはならない。
それは、犬のように卑しい者達のえじきとするべきものである。

礼拝説教メッセージ音声:性的な純潔と霊的な純潔(出エジプト記22:16-20):右クリックで保存

『もし人がまだ婚約しない処女を誘って、これと寝たならば、彼は必ずこれに花嫁料を払って、妻としなければならない。もしその父がこれをその人に与えることをかたく拒むならば、彼は処女の花嫁料に当るほどの金を払わなければならない。』(出エジプト記22:16)
婚約もしていない処女と性交渉を持ったなら、彼女を妻として迎えなくてはならず、また、妻や夫もしくは婚約者のいる人が別の異性と性交渉するなら、死刑が定められている。(申命記22:22-24)
また、女性を力づくで犯す事は、殺人にも等しい行為であり(申命記申命記22:25-26)、そのことは、いかに女性の尊厳を傷つける事であるか示されている。

神の基準では、肉体関係を持つべき相手は、死が互いを別つまで、オンリーワンである。
そして、性的な事柄は、霊的な事柄と相通じるものがある。
夫婦はお互い相手に純潔である事を求めるように、主もまた人に「純潔」である事を求めておられる。

当時のカナン地方では、呪術が盛んに行われていたが、それは、悪霊と交わる行為であり、偶像崇拝は、主のねたみを招く「霊的姦淫」である。
『偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:19-22)

そして、私達が主を礼拝し、主の聖餐にあずかる事は、主と交わり、主と一体となる事を意味している。
『それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(1コリント 10:15-17)
男と女の性的な関係は、主と私達の関係のひな形である。

『すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記22:19)
人は神の似姿であり、性行為はその相手と一つとなる事である。それ故、汚れた者や獣と交わる事は、神を大いに侮辱する行為である。
私達のこの体は、キリストの体でり、もしこの体で遊女と寝るなら、キリストの体を取って遊女の体とする行為である。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
しかし主につく者は、主と一つの霊になるのだ。(1コリント6:15-17)

『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:18-20)

偶像崇拝も、不品行も、主を汚す行為である。
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。」(出エジプト記22:20)
私達は、自らの体を使って、神の栄光をあらわすべきである。

礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:損害賠償(出エジプト記22:1-15):右クリックで保存

今回の箇所は、人の財産に損害を与えた場合の定めである。

『もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう。もしその盗んだ物がなお生きて、彼の手もとにあれば、それは牛、ろば、羊のいずれにせよ、これを二倍にして償わなければならない。』(出エジプト記22:1-3)

盗みを働いた場合、基本的にはその倍もしくはそれ以上の賠償が請求される。
盗んだ家畜が生きたままで見つかった場合は二倍、生きたまま返せない場合は、羊なら四倍、牛なら五倍で償わなければならない。
高価な家畜ほどペナルティが高いわけである。
食べ物や持ち物に困っているわけでもないのに盗んだり、万引きをゲーム感覚で行う人もいるが、神の定めた律法で「盗み」に課せられるその罰を見る時、人の物を盗む事は、それほど重い罪である事を知らなければならない。

不注意ゆえに損害を与えていまう場合は、基本、その「償い」をする事になっている。(5-6節)
例えば、自分の家畜が他人の畑のものを食べてしまった場合は、自分の産物の中から最良のもので償わなければならず、また、火の不始末などで人の畑を1ヘクタール火で燃やしてしまったら1ヘクタール分、100ヘクタールなら100ヘクタール分、償わなければならない。

当時のイスラエルは財産といえば畑や家畜であり、銀行に預けるという事ができなかったため、旅などで家を空ける場合は、隣の人に家畜をみてもらったりしていた。
そのため、家畜をあずかっていた時に起きた損害についての定めもある。

誰かの家畜をあずかっていた時、その家畜が盗まれてしまったり死んでしまった場合は、神(エローヒム:さばきびと)の前に出て、自分がその手を下していない事を誓わなくてはならない。(7-13節)
家畜をあずかっていた時に起きた損害で、自分に非が無いのであれば、その事を神(さばきびと)の前で「誓う」事によって、落着する。
ただ、神の御前で誓う時はは、軽がろしくは出来ない。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(20:7)と書かれてある通りである。
また、誰かから家畜を「借りている(「預かっている」ではない)」場合に、その家畜に損害を与えてしまった場合は、「償い」をしなくてはならない。(14-15節)

神から離れて生きる生き方を選んでしまった人間は、呪いの元にあり、その呪いの度合いが大きければ大きいほど、負債が重なったり、盗んだり、蹴落としたり、という生き方が、むしろスタンダードになってしまう。

ジャン・バルジャンは、貧困ゆえにパン一本を盗み、その罪だけで十九年も刑に服したが、人の定めた罰則は不完全であり、不平等である。
盗んだものを貧しさゆえに返せないような場合、律法では奴隷となるが、七年奴隷をすれば解放され、独り立ちして生きていけるような配慮が律法にはある。
神様に従って誠実に生き、律法を守って歩む人は祝福され、また、たとえ貧しくなっても、兄弟姉妹や親類が養ってくれる事が律法で定められているため、律法を尊守する民には、貧しくなるとか盗むとかいう概念が無くなっていくのである。

人間は元々、神から離れて生きるようには出来ていない。神とともに歩み、神の御口から出る御言葉によって生きる生き方こそ、人にとって最善の生き方である。

礼拝説教メッセージ音声:家畜に関する定め(出エジプト記21:28-36):右クリックで保存

今回の箇所は、家畜に関する定めである。
ユダヤにおいて家畜は財産だったが、生き物であるが故に、何かを起こした場合の対処方法を主はここで示された。

『もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。』(出エジプト記21:28)
牛には力があり、時に人を殺傷する事がある。
そして牛が人を殺した場合は、その牛の命をとらなければならないが、牛の持ち主がそれ以上の責任を負う事は無い。
全てのいのちは主のものであり、主が人の齢を計り与えているからである。
しかし、以下の場合は別である。

『牛がもし以前から突く癖があって、その持ち主が注意されても、これを守りおかなかったために、男または女を殺したならば、その牛は石で撃ち殺され、その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。』(出エジプト記21:29)

人は財産を持つと、その持ち物について社会的な管理責任が発生する。
例えば、車は役に立つ”財産”であるが、使い方次第では殺傷能力のあるものとなり、例えばブレーキが壊れていて放置して事故を起こした場合は、その人の責任となるのと同じである。
しかし、人が意図的に人を殺した場合と違い、贖い金で解決する手段も主は残された。

『牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。』(出エジプト記21:32)
牛が奴隷を殺した場合は、奴隷の代価として銀三十シケルを支払わなくてはならない。
ここから、この銀三十シケルという値段が奴隷の値段と分かる。
イエス様もイスカリオテのユダを通し、パリサイ人たちに”奴隷の値段”として銀三十シェケルで値積もりされた。

『もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:33-34)
ここでも資産の管理責任が問われている。
そして自ら落ちて死んだ獣については代金で買い取る形となり、何らいのちを差し出す必要が無いのは、理にかなっている。

『ある人の牛が、もし他人の牛を突いて殺すならば、彼らはその生きている牛を売って、その価を分け、またその死んだものをも分けなければならない。あるいはその牛が以前から突く癖のあることが知られているのに、その持ち主がこれを守りおかなかったならば、その人は必ずその牛のために牛をもって償わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:35)

動物同士の殺傷は、被害者側と加害者側の、双方が平等に配分されるよう取り計らわれているが、突く癖のある牛については、ここでも管理責任が問われる。
そういうわけで、家畜によって”物持ち”となるからには、それなりに自分の家畜や隣人に配慮する事も要求される事になる。
多くの富や力を得るからには、多くの責任も発生するのである。

現代を生きる私達には、厳しすぎるように見えるところもあったかもしれない。
しかし、これが神のスタンダードであり、神の基準では、人の命はそれほど重要で、配慮すべきものなのである。
神様がノアに与えられた祝福を見ると、人がいかに尊い存在であり、人の血を流す事が、いかにおおごとであるのかが分かる。

『神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。あなたがたは、生めよ、ふえよ、/地に群がり、地の上にふえよ」。』(創世記9:1-7)

礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27):右クリックで保存

今回の箇所は、傷害事件の際の命令である。
『人が互に争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、再び起きあがって、つえにすがり、外を歩くようになるならば、これを撃った者は、ゆるされるであろう。ただその仕事を休んだ損失を償い、かつこれにじゅうぶん治療させなければならない。』(出エジプト記21:18-19)
誰かに傷害を与えた場合、相手が死ななかったら「ゆるされる」と言っても、「死刑」は免れるという意味で、例えば相手を傷害で1ヶ月床についた場合は、その分の給料を保証してやらなくてはならないし、そればかりでなく以下のペナルティもつく。

『命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。』(出エジプト記21:23-25)
相手を失明させた場合は自分も失明させられ、手や足を失わせば、自分も同じようにされるのである。
傷害事件の”加害者”の側は、踏んだり蹴ったりである。
やられたら、憎しみに身を任せて何倍にもして返す事がまかり通っていた古代世界において、この律法は、画期的なまでの平等な法だった。

また、奴隷に対する傷害事件も、当時の世界の他の国に比べれば驚くほどに人権への配慮がなされていた。
『もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。』(出エジプト記21:20-21)

当時は奴隷に人権は無いも同然で、奴隷が主人に言い逆らったら平気で殺していたし、近代の奴隷船においても、運んでいる奴隷が少しでも気に食わなかったり病気などで弱っていたりしたら平気で海に突き落としていたので、サメがいつも奴隷船の周りにいたほどだった。

それに対し、神様が定めた律法では、奴隷をその場で殺してしまったら「必ず罰せられる(すなわち、死をもって償わせられる)」のである。
また、次のようにも定められている。

『もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:26)

奴隷の目や歯を損なったら、その奴隷は解放してやらなくてはならず、また、間違ってその場で殺してしまったら、自分が殺される事になってしまうのである。
律法の下にある主人は、よほど奴隷を大切に扱ったのではなかろうか。

律法の一つ一つを見ていくと、時に厳しすぎると思うかもしれない。親を罵っただけで死刑とか、現代日本では信じられないかもしれない。
しかし、想像してみてほしい。
喧嘩して相手を失明させたら、失明させられ、死なせたら、自分も死んでしまうような社会だったとしたら、そのようなリスクを犯してまで、憎しみに任せて相手に手を下すだろうか。
家で仕えている奴隷も、目や歯を損なったら、その奴隷を解放しなくてはならず、間違って殺してしまったら、自分も殺される事になるとしたら。
また、子供は親を罵るのはとんでもない罪だという価値観の元に、親を恐れ、敬い、権威に服従する事を小さい時から学び、また、周りの子供たちも皆じような価値観で育てられるとしたら、きっと想像もつかないほど平穏で健やかな、尊厳に満ちた社会になるのではなかろうか。

現代人は、律法はお固い、厳しい、と思う。
しかし、律法を守り行う人は神に保護され、守られ、平和と尊厳の内を生きるのである。

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