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メッセージ - 出エジプト記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:死刑にあたる罪(出エジプト記21:12-17):右クリックで保存

今回の箇所は、死刑に処せられるべき罪を示す所である。
律法には、死刑に処せられるべき罪が確かに示されており、それが何であるかを明示する事によって、悪がはびこる事を防ぎ、人として身に付けるべき常識感覚を養い、平和な秩序を保つのだ。

「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記21:12)
以前も学んだように、神は人の命を尊いものとされ、それを人が脅かす事は許されず、そこには未成年などの年齢制限は無い。
ただし、恨みもない人を誤って殺してしまう、という事がある。

『故意にではなく、偶然、彼の手に”神が”渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。』(出エジプト記21:13)
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など、主は事細かに、偶然人を死なせてしまった場合の事例を挙げている。
その場合、その人の救済措置として、「のがれの町」に逃れる事が出来、その境界の内側にいるなら復讐者に襲われる事から守られるが、境界の外側に出た場合、その人の命の保証は無い。

そのような場合は、「神が」敢えてその人の命を取られた、という事である。
例えば、ダビデがペリシテの代表戦士ゴリアテに投げた石は、百発百中でゴリアテの兜の隙間を縫い、急所に命中し、イスラエルに勝利をもたらしたし(1サムエル17章)、イスラエルの悪王アハブも、ひとりの兵士が何げなく放った弓が、見事に胸当てと草摺の間を射抜き、それによってアハブは絶命した。(2歴代誌18章)
それらは人の責任でも栄誉でもなく、主のわざである。

『しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。』(出エジプト記21:14)
殺意をもって意図的に隣人を殺す場合は、その人がたとい祭壇の聖なる所にいたとしても、そこから引きずり出して死刑に処さなくてはならない。
ユダ王国で唯一、女性として国を治めたアタルヤは、自分が支配権を握りたいが故に、王の血筋を引く人達を一人を除いて全て殺害したが、彼女は後に、祭壇の聖なる所から引きずり出されて殺された。(2列王記11章)

また、誘拐する者も死刑に処せられる。
『人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:16)
神は人を自由な存在として創造され、その自由を他人が侵し、売り買いするような事を、主は許されない。
人を殺したり誘拐する者は死刑、という法律は、古来から珍しいものではないし、私達も感覚的に理解できるが、以下は現代日本人には厳しすぎるように見えるかもしれない。

『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:15-17)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割があり、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場の人であり、それに逆らう事は神である主に逆らう事である。

また、父母は、人が従うべき権威の最も身近、最も基本である。それに逆らうとするなら、その人にとって「権威」という概念が無くなってしまい、権威という概念が無い人達がはびこると、親子関係や社会の、国家の、そして、神の権威までもないがしろにされ、世の中は混乱を来してしまう。

親殺し、いわゆる尊属殺人には、世界各国でも厳しい処置を行う歴史があり、日本でも、1973年までは尊属殺人には死刑か終身刑という厳しい措置があった。
しかし、世界的にもその時期あたりから犯罪者の人権が擁護されるようになって来て、そのような法律が撤廃されて来た。
世の中の「権威」という概念が無くなって来たのは、その時期あたりからではなかろうか。
そして今や、親子や社会、国家、そして神の権威は、ないがしろにされ、秩序が無くなって来ている。

『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』
これは現代の我々にはとても厳しく見えるが、それが神のスタンダードであり、それを尊守するなら祝福を得、それをないがしろにするなら、呪いを招くものである。

礼拝説教メッセージ音声:奴隷に関するおきて(出エジプト記21:1-11):右クリックで保存

今回の箇所は、ヘブル人の奴隷を買う場合のおきてである。
人の世には罪があり、他人の罪に巻き込まれてしまったり、親が事業で失敗してしまうなど、どうしようもない理由によって、奴隷として売られてしまう、というような事は、起きうる事である。
奴隷というと、人を金で売り買いし、買った奴隷は人扱いせず生涯こき使うような、黒い、憎むべき制度としてのイメージがあるが、聖書は、奴隷になってしまった人への救済措置や人権保証をしっかり与えており、奴隷歴史の黒いイメージは、むしろ、聖書から離れた人間の罪と欲望の渦によって生まれたものなのだ。

『あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:2)
まず、奴隷は7年という期限付きであり、7年が満ちた時は失業して路頭に迷うような事がないようにと、主はわざわざ以下のように命じている。

『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

奴隷から独立したら、家族ともども路頭に迷う事なく、しっかり身を立てて行けるように、奴隷の主人は配慮せよ、というのが主の御心である。
それならば、現代日本の雇用状況は、聖書の「奴隷」より非道い状態である事が分かる。
現代日本では、非正規雇用の人達は手に職を持てず、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま30,40代になってもマイホームも子供も持てないような状況に陥りやすいが、それは主の御心を大いに反している。

『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)
聖書には確かに奴隷制度が出てくるが、それはむしろ雇用関係のようなものだ。

奴隷が女性である場合、女性の社会的立場は男性よりも弱いため、男性よりも厚遇の度合いが大きい。
『もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。』(出エジプト記21:7)
「彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。」とは、例えば解雇しても路頭に迷わぬようにしっかり保証してやれ、という事である。
女性の奴隷であっても、しっかり人格的な扱いするよう主は命じておられる。

『彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。』(出エジプト記21:9)
ここを見ると、女奴隷の扱いは、あたかも「妻」や「娘」と同じ扱いである。

人間の奴隷制度には血も涙も無いイメージだが、主が奴隷について定められた事は、男奴隷は主人と雇用関係のよう、女奴隷は、妻や娘と同じようである。
どんな人間も、神の御前に平等で、貧富の差や能力の差は、主の御前では関係ない。
富も成功も主から来るもの、富んでいる人はたまたまその時、主から多くを預けられているに過ぎず、持っていない人も、たまたまその時、主に低くされているに過ぎない。(1サムエル2章)
たとえ自分の息子や娘さえ、自分の所有物ではなく、全てのいのちは主のものである。

主は、どんな状況にある人に対しても、憐れみ深い。
それ故私達も、この時主から多くを与えられているなら、少なく与えられている人に憐れみをほどこすべきである。
そうして主の体全体が憐れみに満ちあふれ、全体がますます富むものとなって行くのである。

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。・・・
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。』(2コリント8:9-15)

礼拝説教メッセージ音声:礼拝の際は人間的なものは排除せよ(出エジプト記20:18-26):右クリックで保存

『民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。』(出エジプト記20:18-19)

民は、主の圧倒的なあらわれを見て恐れ、主が直接語られないようにと願った。
モーセは「恐れてはいけません」と語ったのに、それでも民は遠く離れて立ち、主の御前に行こうとはしなかった。

信仰の偉人たちも、主の圧倒的な臨在に触れた時は恐れ、死を覚悟したが、この民とは違い、主の「恐れてはならない」という御声によって力づけられ、御前に出て行った。
モーセも主の臨在の深みへと入って行ったが、民は結局、主が直接語られる事を拒み、主の御前に行かなかった。

真実を嫌う人、偽りを好む人は、主の御前に立つ事や、主が直接御言葉を語られる事を、極度に恐れる。
そして、牧師やモーセのような、目に見える人間を神の代理人とし、取り次いでもらおうとする。

この民は後に、モーセに不平不満をぶちまけ、石で打とうとし、代わりに自分達をエジプトへ戻してくれる新しい指導者を立てようとさえした。
神が立てて下さった権威に逆らう者は皆、たとい主のあらわれを体験したとしてもすぐに忘れてしまい、目の前の自分の欲求を満たすことにのみ、思いが一杯なのである。

主の圧倒的なあらわれを見た彼らが、主を裏切るような事をするのは信じられない、と思うかもしれない。
しかし、驚くべき事に、彼らは裏切ったのだ。主も、驚かれた。(イザヤ59:16)
そして、私達も幾度、主の良くして下さったわざを、裏切をもって報いてきたことだろう。
私達の罪深さは驚くべきものであり、それを越えて、主の憐れみはなお驚くべきものである。

『あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:23)

私達は主に対し、人間的な何かを当てはめてはならない。
主を礼拝する際は、徹底的に、人間的なわざを排除する事を、主は要求される。

人間の手で作った偶像はもっての他であり、そして、礼拝を捧げる祭壇も、シンプルに、土や天然石だけで築く事を要求されている。
異国の神々の祭壇は、職人によって精巧な造作を施され、豪華絢爛なものだが、それに対し主の祭壇は、シンプルに過ぎる。
それは、人が祭壇に特別な思いを抱くべきではなく、あるいは人の作った造作や職人技に思いを馳せるべきでもなく、真実に主に集中して礼拝を捧げる事を要求されるからである。
主は、繰り返し言葉だけの心ない祈りや、悔い改めの無い断食、外見だけ着飾って内面を改めない礼拝を、忌み嫌われるお方だ。

私達が福音を伝える時も、岩なるキリストを、身勝手な細工を施してはならない。
キリストはキリストのまま、御言葉は御言葉のままに伝えるのが、本来である。

礼拝説教メッセージ音声:律法の意義(出エジプト記20:12-17):右クリックで保存

前回までは十戒の各戒めについて一つ一つ見てきたが、今回は、律法の意義について学びたい。

神は十の戒めを与えたが、人間はそれを守り通す事は出来ず、エデンにおいてはたった一つの戒めさえ守る事が出来なかった。
人は、律法という神の基準に到達する事が出来ない。

ある金持ちの青年は、イエス様から「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と言われた時、十戒を示されたが、彼は「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」と答えた。
しかし、イエス様が彼に提示した神の基準は、はるかに厳しいものだった。(マタイ19:16-26)
『イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。』(マタイ19:21-22)
イエス様は、他にも神の基準を示したが、それらはとても人には到達できない内容であった。(マタイ5:21-48)

果たして、救われる人はいるのだろうか。
『弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。』(マタイ19:25-26)
イエス様の答えは、救いは、人には達成し得ない。しかし、神にはなんでもできる、という事だった。

イエス様は、金持ちの青年に最初に言っていた。
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」
私達の救いは、「よい方」にかかっている。

では、律法とはいったい何か。
律法とは、キリストが来られる時まで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの、と書いてある。(ガラテヤ3:19)
『律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。』(ローマ7:7-8)
パウロが律法を知らなかった間は、彼の内に罪という意識は無かったが、「むさぼってはならない」という律法を聞いた時、彼の内の「むさぼり」という欲求がサーチライトのように照らし出され、彼の内に「罪」という違反がある事が、明らかにされたのである。
まず律法の性質のその一は、人の内に、罪という違反がある、という事を明らかにするものである。

『それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。』(ガラテヤ3:21-22)
ここで、「万一」と仮定法が使われているからには、律法は、人を生かす事はできない。律法は逆に、人々を罪の支配下に閉じ込めた。
律法の性質その二は、律法は、人にいのちを与える事はできない、という事である。
そこで人には第三者からの救い、律法を成就して下さる「よい方」への渇望が生まれるのである。

『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。』(ガラテヤ3:24-26)
律法の性質その三は、律法は、キリストへと導く養育係である。
キリストという本体が現れ、私達がキリストを信じる信仰によって救われた以上、もはや私達は律法という養育係の元にいるものではない。

だからといって律法は、好き好んで破ったりしてよいものではない。
『すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。』(ローマ3:31)
イエス様も言われた。
『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。』(マタイ5:17-19)

それ故、旧約律法のうち、最も小さいものさえ破る事を人には勧めないほうが良い。
『あなたは隣人について、偽証してはならない。』と書いてある以上、「嘘も方便」と言って、兄弟姉妹に嘘をつく事を勧めるキリスト者は、天国で「小さき者」と呼ばれてしまうのである。
だから、例えば人を救うために嘘をつかなければならなかった、というような場合でも、後でちゃんと主に悔い改めるべきである。

主の戒めを守る人は、主の愛の内にとどまり、主の愛の内に守られるのである。(ヨハネ15:7-10)
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:3)
愛する男性から「毎朝わたしのために味噌汁を作ってほしい」と言われたなら、「味噌汁を作る」という、いわゆる”戒め”は、難しいものではなく、むしろ喜びであるように、私達も主を愛するなら、その愛する主から来た”戒め”は、むしろ喜びとなるはずである。
そして主の戒めを守る人は主から守られ、主から愛されるのである。

救いにおいて大切なのは、「よい事」ではなく「よいお方」、律法を成就してくださったお方を信じ、このお方と一つとなる事が大事である。

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第八戒〜第十戒(出エジプト記20:15-17):右クリックで保存

第八戒は『あなたは盗んではならない。』(出エジプト記20:15)である。
盗むとは、他人の領域を侵犯し、他人の所有物を勝手に自分のものとする事だが、これはサタンの性質である。
サタンは、自分のおるべき所をよしとせず、神の領域とすべき栄光の座を侵入して来た。

『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を、主はさばき、地の底へと落とす。

第九戒は『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(出エジプト記20:16)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質には「偽り」というものはない。偽りは、悪魔の性質であり、悪魔の性質は私達の内から滅ぼされるべきものだ。

『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。

悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。
私達は誰に対しても、サタンの性質である「偽り」に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきである。

第十戒は『あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。』(出エジプト記20:17)である。
「むさぼり」のヘブライ語「カゥマド」は、欲しがる、好ましく思う、あこがれる等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は大抵の国にあるだうが、隣人のものを欲しがったりあこがれたりしてはならない、という法律は、かなり珍しいだろう。
しかし、この、他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心こそ、自分の身を滅ぼす根源である。

この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい(カゥマド)と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木を食べて人類に罪と死を導入する背景に、善悪の木を欲しがり、あこがれるという事があったのだ。

この、自分の領域のものではないもの、自分の領域に持ち込んではならぬものを、欲しがったりあこがれたりする心こそ、全ての罪の根源であり、サタンの性質でもある。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)

十戒における**してはならないという戒めは、サタンの性質に染まらないようにするためである。
私達は、御子イエスの流された血により、神の子とされたのだから、神の子らしく歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第五戒〜第七戒(出エジプト記20:12-14):右クリックで保存

十戒の第四戒までは神との関わりについての戒めだったが、五戒からは、人との関わりについての戒めとなる。

その、人との関係において最も先に来る戒めが『あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。』(出エジプト記20:12)である。
父と母を敬う事。それは、最も根本的で最小単位における「権威」を敬う事である。
この世のあらゆる事は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に正しく服する事をおろそかにしてしまうと、その人は、人間社会においても、自然界においても、あらゆる場面で苦労する事となり、権威に服する事が出来ない人は、あらゆるものと敵対して生きなくてはならない苦しみを負っている。

権威には順序がある。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
親子関係においても忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
権威の第一は主である。両親が主に反する事や御言葉に反する事を命じて来るなら、それには服従すべきでない。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした事以外なら、両親は敬い、服従すべきである。
なぜなら御言葉でも約束している通り、それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

目に見える権威に、それも、最も身近な権威である親にしっかり服従できるならば、目に見えない神との正しい関係を構築しやすくなり、幸いを得るようになるのだ。

第六戒は『あなたは殺してはならない。』(出エジプト記20:13)である。
殺人など凶悪犯罪が小年齢化している昨今、人の命のかけがえがなさ、尊さが薄れてきている状態であるが、聖書を知らない大人たちは、命の尊さをうまく説明できない。
聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。

『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)

人は神の息吹が吹き込まれた神の似姿であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となってもなお神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は、神に愛され、大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。

第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(出エジプト記20:14)である。
姦淫とは、妻や夫など唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事であるが、なぜそれがいけないのか。

『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
夫と妻との関係において、主の御心は、一対一である。

これら三つの戒めは、おるべき立場、立つべき立ち位置が示されている。それが創造の秩序であり、それを守ることが人間にとって最も幸いなのである。

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第三戒と第四戒(出エジプト記20:7-11):右クリックで保存

『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。』(出エジプト記20:7)

十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
主の御名を乱発し、同時に不誠実な行いも乱発する事によって、主を貶めている人は確かにおり、身勝手に御言葉を引用したり、神の名を振りかざして侵略の口実にしたり、戦争する者さえいるが、彼らは主に背く者、主の諭しを憎み御言葉を捨てている者である。

『神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。
告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)

主の御言葉を片端から唱える人が主に愛されるのではない。サタンでさえ御言葉を引用する。御言葉を口に出す人が主に愛されるのではなく、御言葉を心に留めて行う人こそ主に愛されるのであり、守る気も無いのにみだりに御言葉を連発したり、主への恐れも無いのにみだりに主の御名を連発する者は、主は罰せずにはおかない。

十戒の前三つは「するな」の命令だったが、第四戒は「せよ」という積極的命令である。
『安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記20:8-11)

創造の御業が完成した第七の日(土曜日)が安息日であるが、現代のキリスト者は、主日(週の初めの日、日曜日)を礼拝する日、主を覚える日として守っている。
それは、復活の主イエス様は主日に現れ(ヨハネ20:19-29、黙示録1:10)、初代教会の聖徒たちも主日に集って主を覚え、パンを裂き、祈り、交わりをし、聖徒のもてなしをしていた(使徒20:7、1コリント16:2)ためである。

ここで大切な事は、主が聖とされた日を「覚え」「聖とする」事、すなわち週の一日を主のものとして捧げ、その日は世の事は一切止め、主を覚える事である。
パリサイ人は「仕事をやらない」事を第一に考えたあまり、主の安息を「覚える」という事をないがしろにするという、本末転倒を演じてしまっていたが、私達もパリサイ人のように人間的な考えをこね回したり議論に明け暮れたりする事なく、安息日の主であるキリストを覚える日として、主に自分を捧げる日として、その日を聖別するべきである。
『だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)

主が聖別された日を守る異邦人は、たとい宦官であっても、祝福される。
『安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。イスラエルの追いやられた者を集められる/主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。』(イザヤ56:2-8)

主日を聖別して主を覚え礼拝を守って来た聖徒達がいかに祝福されたか、歴史が証明している。
アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局、多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた人ではなく、主日にしっかり主を覚えて礼拝したクリスチャン達だった。

ただ、パリサイ人のような過ちに陥ってはならない。日曜は意地でも礼拝出席、という事ではなく、一週間の最初の日を初物として主に捧げるという心、主が聖とされた日を覚え、主を聖とし、主を敬う心こそ、大切である。
心から主を敬い、主の聖なる山における交わりに加えられ、主の祈の家のうちで楽しむ皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第一戒と第二戒(出エジプト記20:1-6):右クリックで保存

出エジプト20章以降には、主が与える契約の内容が記されており、そして、その最も先に与えられた大切な戒めが、十戒である。
その十戒を与えるにあたり、主ははじめに言われた。
『「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』(出エジプト記20:2)

皆さんにとって、主はどういう御方だろうか。主は、皆さんに、何をして下さっただろうか?
その質問にすぐに答えられない人は、主から受けた恩を一つ一つ思い起こして、それを確認して感謝すべきである。
主はイスラエルの民に「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と言って、イスラエルにとってどのような御方であるのか、何をして下さったかを、まず明らかにされた。

十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものである。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

皆さんの生みの母は唯一であるはずで、それ以外の人に「お母さん」と呼ぶとしらた、実の母に対して失礼極まりないのと同じように、神という地位も唯一であり、それ以外を神とするのは、神に対してはなはだ失礼である。
「神」が八百万もあり、神を何かとっかえひっかえ出来るような感覚のある日本人には理解しずらいかもしれないが、「神」と呼ぶべき存在はただ一つであり、そこに別物を入れてはならないのだ。

『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:4)

十戒で二番目に重要な事は、偶像礼拝の禁止である。
このように書かれてある以上、日本人が働いても、知恵を働かせても、お金を豊かに得ても、幸せになれない人が多い事の原因は、この偶像礼拝である事は間違いないだろう。

偶像礼拝とは、神社仏閣などによくある像を拝む事に留まらず、まことの神以外の何かを、より大事にして優先させる事である。
例えば、自分の望む何かを、自分のものに出来ないなら、神様なんか信じない、と言う時は、その自分の望む何かが「神」となっており、偶像礼拝である。

まことの神である主を知り、そのすばらしい御業を体験しておきながら、自分の欲望におびき寄せられ、偶像礼拝に戻ってしまう人の樣子が、エゼキエル書に記されている。

『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。』(エゼキエル書8:5)

ここでは、主を礼拝すべき神殿の出入り口に、主のねたみを引き起こさせる偶像が置かれてあった。
今、キリストにあって、私達が神殿であり(1コリント3:16-17)、私達の心の出入り口に、神のねたみを引き起こさせるものが置かれてある事を、主は忌み嫌われる。

『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。』(エゼキエル書8:7-11)

ここでは、イスラエルの指導者達が、隠れた暗い所で、主の忌み嫌われるあらゆるものに香を焚いて礼拝している様が露わにされているが、主は、表向きはきれいでも内側があらゆる汚れて満ちている状態、表面を白く塗った墓のような状態を、忌み嫌われる。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。』(エゼキエル書8:12)
このように、主は自分達を見ない、と豪語する事は、主が無力である事を暗に宣言する事であり、主への冒涜である。

『そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。』(エゼキエル書8:14)
ここでは女が偶像の神のために泣いているが、自分の好む事のために泣くことはしても、主のためには心動かされず泣きもしない事は霊的な姦淫である。

『彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。』(エゼキエル書8:16)
太陽は恩恵をもたらすものであるが、それを創られた主には背をそむけ、自分に恩恵をもたらすものに拝する事も、主の忌み嫌われる偶像礼拝である。

十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものであった。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
主を憤らせるのではなく、妬ませるのではなく、主を第一とし、主に愛される私達でありますように!

礼拝説教メッセージ音声:この聖なる主の御前に誰が立てるだろう(出エジプト記19:16-25):右クリックで保存

聖なる主が現れた時の光景は、実に恐ろしいものだった。
『三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。』(出エジプト記19:16)

主は焼きつくす火であり(ヘブル12:26)、かまどの煙のような煙が立ちこめ(創世記15:17)、煙と地響きが伴い(イザヤ6:4)、その御声は雷鳴のよう、ラッパのようである。(黙示録1:10)
主が災いを降される時、雷鳴と声といなずまと地震が起こる。(黙示録4:5)
主の側からの憐れみがなければ、人は誰一人、この聖なる主の御前に立ちおおす事は出来ない。

全山が揺れ動き、煙と雷鳴とラッパの響きの中、主は御声を発してモーセと語られ、モーセは主の御元へと召されたためシナイ山へ登った。

主は言われた。「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。」
モーセは不思議に思ったかもしれない。主は既にそのように戒められていたし、そして、これほどの恐ろしい光景を目の当たりにしたのだから、誰もそんな気は起きないのではないか、と。
しかし、主が語られる事に、無意味は無い。
主がそう語られたからには、民のうちに不遜にも主を見ようと押し破って来ようとする者達が、確かにいたのだ。
それで多くの人が滅びる事にならないようにと、モーセに警告された。

主は、焼きつくす火である。
聖なる主の前に、人が罪あるまま出るなら、飛んで火に入る夏の虫のように、焼き尽くされて死ぬしか無い。
しかし主は、人から罪を取り除くために、御子イエス・キリストを世に送られ、その血潮によって、人が再び大胆に御前に出られるようにして下さったのだ。

『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)

私達はイエス様の血によって、大胆に恵みの御座に就かづく事ができるようになった。
『あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル12:18)

人は、そのままで主の前に近づけるものではない。
大祭司でさえ血を携えずには聖所に入る事は出来ないように、イエスの流された血が無いままでは、誰も主の御前に立ちえない。
それ故、イエス様が流された尊い血潮は、決して軽んじてはならない。
主イエスは私達を白くきよめるために、血潮を流されたのだ。
主の御前に出る時は、軽がろしく出るのではなく、おそれと畏敬の念を持ち、主の流された血潮によって身を清めて、そうして礼拝すべきである。

礼拝説教メッセージ音声:御前に出る前の整え(出エジプト記19:9-15):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。』(出エジプト記19:10)

主と出会う三日目のために身を聖別して衣服を洗うべき事を、主が命じられたように、私達も、主の御前に出る時は身を清めなければならない。
私達は何によって清められ、衣を洗って白くするのか。

『「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。』(黙示録7:13-14)
私達の衣、罪で汚れた衣を清くするのは、ただ神の子羊キリストの血によってである。
そうして自らを清める人は、神の御前に出て、聖所で仕える事が出来るのだ。

『それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。』(黙示録7:15-17)
主は、エジプトから出てきた民を、雲によって炎熱から守ったように、私達も自らを子羊の血で洗うなら、御座にいます方は私達の上に幕屋を張り、世のあらゆる炎熱から守って下さる。
主は、エジプトから出てきた民をマナで満たし、ほとばしる水によって潤して下さったように、私達も、自らを子羊の血で洗うなら、御座にいます小羊は私達の牧者となり、いのちの水の泉へと導いて下さり、もはや飢えることも渇く事もなくなるのである。

『あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。』(出エジプト記19:12)
三日目が満ちるまで、神の山に登る事はできなかったように、主の時が満ちる前に主の御前へ直接出る事は、かなわない。
しかし、主の時が満ちてラッパが響いた時、キリストにある人は、皆、御前へと挙げられなくてはならない。

『モーセは民に言った、「三日目までに備えをしなさい。女に近づいてはならない」。』(出エジプト記19:15)
女に近づいてはならない、とは、主から命じられていなかったが、モーセがそれを言ったのはどういう事だろうか。

男は女を求めるものであり、肉欲が過ぎると不品行に陥る可能性がある。そして、女にとっても、男はそのような存在である。
『男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。・・・ただし、合意の上で祈に専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。』(1コリント7:1-6)
ここでパウロが言っているように、心を主に向け専心して祈りる為に、互いに離れるのは、良い事である。

主の御前に出るべき時は、主以外の何か夢中になるようなものは、取り除いておく事に越したことはない。
私達が主に有用な者として整えられ、用いられたいのであれば、まず、自らを清めるべきなのである。

『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2テモテ2:20)

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