メッセージ - 出エジプト記カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存
過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)
除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。
イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)
酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。
パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。
小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。
礼拝説教メッセージ音声:過越の小羊(出エジプト記12:1-14):右クリックで保存
前回は、エジプトに対して最後の災い、初子が全て死んでしまう災いの通告をしたが、今回は、イスラエル民族への最も重要な祭り、過越祭の制定をされ、これを世々にわたって守り行うべき定めとされた。
『「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。』(出エジプト記12:2)
主はこの月(アビブの月:太陽暦では3−4月)を一年のはじめと定める程に、この一連の出来事を重要なものとしたが、実は、それはイスラエル民族だけでなく、全世界の全ての人にとっても重要な出来事である。
この祭りの特徴は、まず子羊をほふる事、その血を家の戸のかもいと門柱にしるしとしてつけ、その家の中で、ほふられた子羊を食す事である。
言うまでもなく、このほふられた子羊はイエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)
なぜ、ほふられた小羊がこのように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。
過越祭には、イエスキリストの福音との類似性が、いくつもある。
神が定めた過越祭は、アビブの月の14日だが、それはイエス様が十字架につけられた日と一致する。
過越の小羊をほふるのは、ヨセフスによれば午後三時を常としており、イエス様も同様に、午後三時に頭を垂れて霊をお渡しになった。
『小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。』(出エジプト記12:5)
ちょうどかわいいさかりの傷のない一歳の雄の小羊が、もし皆さんの手元にいるとしたら、それに刃に当ててほふらなくてはならないなら、相当の痛みと悲しみ、惜しむ心が沸き起こるのではなかろうか。
過越の小羊は10日に用意し、14日までそれを見守る事が定められている。
人々がそれを見守る間、その犠牲とされてしまう小羊をいとおしむ心が芽生えるはずである。
キリストは一切の罪の汚れが無いお方であり、御父がキリストをほふらねばならないその悲しみ、痛みを、この過越祭を行う人も、少しながら経験したのではなかろうか。
そして祭りの夜、家の皆でその焼かれた小羊を囲み、噛み締め、味わう事によって、身代わりになって死んでくれた事、救われた事の尊さが、ひとしお迫って感じられたのではなかろうか。
現代を生きる私達キリスト者たちは、聖餐の内に、ほふられた小羊キリストを”記念して”覚えるのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを”記念する”ため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの”記念として”このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。』(1コリント11:23-26)
『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。』(出エジプト記12:7)
印が付された者は守られ、付されていない者は滅びる。それは、聖書全体に流れる救いの共通事項である。(ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)
『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。』(出エジプト記12:8)
この種入れぬパンは、申命記16:3によると、悩みのパンと表現されている。
この悩みのパンや苦菜には、色々な解釈がある。イスラエルがエジプトで経験した悩み、キリストが受けた苦しみ、罪を悔い改める悲しみ、十字架上で苦味混ぜられた盃など。
いずれにせよ、主は十字架上で、焼けるような苦しみを覚え「わたしは渇く」と言われた。
イエスを主としたイスラエル人は、過越祭を為す度に、十字架上のキリストが思い出されたのではなかろうか。
『あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。』(出エジプト記12:11)
急いで食べなくてはならないのは、これを食べた後、全イスラエルはすぐにエジプトから追い出されてしまうからである。
エジプトは世を意味している。
私達も、過越の小羊キリストをいただく時、世にいつまでも未練を残していてはならず、すぐにでも旅立てる心の状態で、いただかなくてはならない。
『その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り”代々、永久の定めとして”これを守らなければならない。』(出エジプト記12:13-14)
そう、それは私達のためのしるしでもあり、代々、永遠に定められた祭りである。
今の世においても、天においても、屠られた子羊は、永遠に記念され、この小羊によって贖われた人々は永遠に、ほふられた小羊を賛美するのである。(黙示録5章)
礼拝説教メッセージ音声:エジプトへの最後の災いの通告(出エジプト記11:1-10):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。』(出エジプト記11:1)
主はエジプトへの最後の災いを実行される前に、エジプトとイスラエルとにそれぞれ通告される。
これまでの学びで、災いが降されるのを連続して九度も見て来ると、神はなぜここまで徹底的になさるのかと思うかもしれない。しかしそれだけエジプトは、神の民イスラエルを400年もじっくりと徹底的に虐げて来た、という事である。
神の時間と人の時間は違うし、神の忍耐と人の忍耐は、違う。しかし神の裁きは正しく、公平で、悪い事した側はきっちりと報いを受けるように、また、された側は、きっちりとその償いを受け取るようにして下さるお方である。(黙示録16:1-7)
『あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。』(出エジプト記11:2)
これはモーセが召された時点で、既に神から示されていた事である。(3章)その時は、まさかそんなことが有るだろうか、と思えたかもしれない。
しかし今や、エジプトは9つの災いを通らされ、モーセはエジプトからも尊敬される者となり、イスラエル民族も好意を得られ、この事は実現可能な事として目前まで迫って来た。
その時が来ると、どんなに気が弱い人でも、隣のエジプト人から剥ぎ取る事が出来るように、主がして下さるのだ。
モーセは神から言葉を預かったので、再びパロの前に出た。
10章の最後によると、パロとモーセは、もう二度と顔を合わせないと互いに言って、喧嘩別れになったはずだったが、主から言葉を預かってしまったからには、モーセは嫌でもパロの前に出て行って御言葉を伝えざるを得ず、またパロも、モーセが再び顔を見せた時は殺すつもりでいたであろうが、神がモーセを守っておられる以上、パロはモーセを殺せないのである。
『モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。』(出エジプト記11:4)
この10番目の災いが、前の9回の災いと決定的に違うのは、主みずからがエジプトの中へ出ていき、御業をなされ、エジプトは決定的に敗北するという事だ。
世の終わりの時も、はじめは預言者から幾度かの警告と災いの執行がなされ、最後には、主ご自身が世に現れて裁きを執行される。
『エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。』(出エジプト記11:5)
最後の災いの内容は、初子の死である。
それはエジプト全家が対象で、上は王から下は奴隷まで、しかも家畜に至るまでも、初子が死ぬというのである。
初子は一家にとって最も大事な存在だが、それが奪われる事はどれほどの悲しみだろう。
しかしこの災いが告げられても、パロと家来達には、いまいちピンと来ていないようである。
『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。』(出エジプト記11:7)
神は正確に、区別される。神の民と、世とを。
イスラエル60万世帯の、御言葉を守り行う人には、一世帯たりとも災いが誤って降る事はされず、エジプトには幾万世帯あろうとも、どこに隠れようとも、正確に災いを降されるのである。
『これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます』(出エジプト記11:8)
その時、家来たちはパロを通さずに、モーセに直接ひれ伏してお願いするようになる。
頑ななパロは家来たちに見捨てられ、パロを介さずに物事を進めようとするように、頑なな上司はやがて部下から見捨てられ、その上司を通さずに物事を進めるようになっていく。
『彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。』(出エジプト記11:8)
モーセが怒って出て行ったのは、自分の弁論に自分で激昂したからではなく、あまりにもパロと家臣たちが頑なで、あまりにも自分達に降りかかろうとしている災いに無頓着だったからだ。(11:9-10)
預言者は、怒る。御言葉を受けた人達が、頑なだった時は。自分の身に降りかかろうとしている災いを語られたのに、あまりにも、のほほんとしている時は。
神は、イスラエルが正しいから特別扱いしたのではない。(申命記7:7、9:4-6)
モーセに力があったからエジプトに災害が起きたのではないし、モーセの口に雄弁さがあったからエジプト人が尊敬したのでもない。
彼が御言葉を正しく伝えたから、御言葉こそが真実だから、である。
モーセが御言葉を正しく伝えたため、実際に諸々の奇跡が起こり、そしてモーセは御言葉によって威厳を帯びるようになったのだ。
私達を通して、神の御技が為されると、なにかと私達は傲慢になりやすい。
「自分は正しいから」「自分には力あるから」「自分が霊的レベルアップしたから」などなど。
しかし、傲慢になってしまうと、あっという間に主の御業は為されなくなってしまい、人々も逃げ去ってしまう。
私達はひたすら主の御前にへりくだり、栄光を自分のものとせず、いつでも主に栄光を捧げ、いつでも主に有用な器として用いられていきたい。
礼拝説教メッセージ音声:第九の災い - 暗闇の災い(出エジプト記10:21-29):右クリックで保存
エジプトの第九の災いは、暗闇の災いである。
『主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。』(出エジプト記10:21)
第3、第6の災いの時と同様、この災いもパロへの予告なしに行われ、また、今回もエジプトとイスラエルとを区別された。
「人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。」という記述から、平衡感覚を失って立てないほどの濃い闇だったと分かる。
電灯が発達している現代の私達には分かりづらいが、手も見えないような闇の中に長時間置かれるのは、舌を噛むほどの苦痛である。(黙示録16:10)
『そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。』(出エジプト記10:24)
パロは相変わらず、モーセの要求を全て飲む事はせず、自分の意見を一部押し付けた。
まだまだ頑なさが残っている事が分かる。
パロのこの言葉は、主への捧げ物は持たずに礼拝しに行け、と言っているようなものである。
世も、礼拝者に妥協を求めて来る。礼拝に行くのはかまわないが、献金はするな、など。
しかしモーセは一切妥協せず、むしろパロに挑戦的な言葉を返した。
『モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。』(出エジプト記10:25)
エジプト人にとって、牛と羊は聖なる動物である。それを、イスラエルの神に捧げる捧げ物として、パロ自身が提供せよ、と言うのである。
神はあらゆる人に迫る。それまであなたが”神”として来たものは捨て去り、わたしに捧げよ、と。
自分の仕えて来た偶像の神々を捨てて、主に立ち返るならば、神は豊かな憐れみによって祝福を与え、神の国へと加えて下さる。
しかしパロはまたもや頑なにされ、モーセ達とは喧嘩別れの形で互いに別れてしまった。
今回の暗闇の災いは、真理の道を邪魔する者、神の道から人々を遠ざける者に注がれる災いである。
パウロがキプロス島を巡回して伝道し、地方総督に福音を伝えていた時、魔術師エルマは総督を信仰からそらそうとして、しきりにパウロ達の邪魔をした。
そこでパウロは彼をにらみつけて言った。
『「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。
たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。』(使徒13:10-12)
福音が伝えられている時、御言葉を語っている時、賛美をしている時、聖徒が食卓の交わりをしている時など、急にそわそわし出して、しきりにその場をひっくり返そうと邪魔したがり出す者がいる。
それは、その人の内にいる悪しき霊がそうさせているのだ。
悪しき霊がターゲットとしていた人に、いのちが蒔かれ、光に照らされ、ますます健やかになって行くのを見るのを、悪霊は不愉快で仕方無いのだ。
しかし、そのように「主のまっすぐな道を曲げる」者は、ますます闇に落ち込んでしまう。
そのような人は、そうやって闇に支配されたり闇を選択する事を止めさせ、光へと導くべきである。
どうしても闇に同意し、主のまっすぐな道を曲げることを止めないのであれば、パウロのように、主イエスの御名によって呪うのである。
暗闇から解放させて下さるお方は、唯一、イエスキリストである。
神は、暗闇の中で苦しみ悶えている人間の上に、大きな光をともしてくださった。
ひとりのみどりごを私達に与え、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれ、そのお方により頼む人はいつまでも導かれるのである。
『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:1-7)
礼拝説教メッセージ音声:第八の災い - いなごの災い(出エジプト記10:12-20):右クリックで保存
『いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』(出エジプト記10:14-15)
どこにでも入り込んで来て、植物の青物類を全て食いつくしてしまう大量の虫の災いの恐ろしさは、現代日本に生きる私達には想像しにくいかもしれないが、パロが今まで以上にうろたえるほどの災厄である。
「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(出エジプト記10:16-17)
彼は雹の災いの時にも同じような事を言った。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。」(9:27)
前回は単に「罪を犯した」「私達が悪い」だけだったが、今回は、誰と誰に対して罪を犯したのかを明確に告白し、また、「この”死”をわたしから離れさせてください」とまで言った事から、いなごに全ての青物や緑の物を食い尽くされる苦しみは相当なものだったと伺える。
ヨエル書には、いなごに荒らされる災いの恐ろしい様を表現している。
『かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。』(ヨエル1:4-5)
パロは自らの頑なで身勝手な思いに酔いしれて、現実逃避しているようなものだったが、いなごによって目覚めさせられた。
主は、のほほんと罪を犯し続けて頑なに行いを改めない者には、全てを食い尽くし奪い去る”いなご”を送って、目を覚まさせる。
『一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。』(ヨエル1:6-7)
ここに記されているいなごは特殊で、その歯はししの歯のようである有様は、黙示録に登場するいなごのようである。
『これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。』(黙示録9:7-9)
黙示録に登場するいなごは、底知れぬ穴から、立ち上る煙と共に現れ、太陽は暗くなり、草木には害を与えずに、神の印の押されていない人達のみに害を与える。
このいなごは、さそりのような尾を持ち、それに刺されると、さそりにさされたような苦痛に襲われ、人は死を願うのに死ぬことは出来ず、五か月の間、その苦しみにもだえる。
「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」とある通りである。(ヨエル2:1-11)
しかし主は、主に助けを求める人を、恵みと慈しみで覆って下さる。
『主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。』(ヨエル2:12-14)
主に立ち返るには、単に衣服を裂くような外見的な悔い改めではなく、心を裂いて真剣に悔い改める事が必要である。
そうして心を尽くして主に立ち帰るなら、主は災いを思い返し、主への捧げ物をささげられるように祝福を残して下さり、主が祝福を残して下さったなら、私達はその中から主に捧げ物を捧げるべきである。
『わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされた/あなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。』(ヨエル2:25-26)
礼拝説教メッセージ音声:主を子孫に語り継げる内容(出エジプト記10:1-11):右クリックで保存
エジプトに降る第8の災いは「いなごの災い」、大量発生したばった類が地を覆うほど群生し、全ての草本類を食べ尽くしてしまう、いわゆる蝗害(こうがい)である。
殺虫剤の普及で近代の日本では見なくなったが、アフリカ諸国など国土が広大で組織的な駆虫が難しい地域では、今でも局地的に発生し、大きな被害を出している。
蝗害はエジプトでも古来から恐れられており、いなごの形をしたお守りを作って大量発生しないよう祈っていた。
『それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。』(出エジプト記10:5)
モーセ達はそう告げるとパロのもとを出て行った。かなり強気である。
『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』(出エジプト記10:7)
ここで家来たちは「この人はわれわれのわなとなる」と言っているが、自分達が災いを被っているのは、あたかもモーセ達によるかのような言い方である。
災いを起こしているのはモーセではないし、モーセが魔術のようなものを使って、イスラエル民族を虐げてきたエジプトに仕返しをしているのでもない。
彼らは気づいていない。自分達が頑なで、神に対して高慢であり、その罪の報いを自分達で受けているのだ、という事を。
パロは家来たちに進言されて、モーセ達を呼び戻して問うた。「行くものはだれだれか」と。
モーセは、老いも若きも、男も女も、羊も牛も、全部だ、と答えたが、パロは怒りを爆発させた。
『それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。』(出エジプト記10:11)
パロはなぜ、全員が行くのはだめだと言ったのか。
それは、もし全員が出てしまうと、人質になるような人がエジプトに残らず、イスラエルはもう帰ってこない可能性があり、そうなると、エジプトから奴隷仕事をする人が、いなくなってしまうからだ。
結局この期に及んでも、パロはイスラエル人を、奴隷としてこき使う気満々だったのだ。(14:5)
今はたまたま、モーセとかいう新参の魔術師みたいな者に苦しめられているけれど、これが過ぎたら、今まで四百年の伝統に従ってイスラエル人には奴隷仕事をさせて、自分達は楽な生活を続けられだろう、と思っていたのだ。
今回、彼らを頑なにしたのは、神だったと1節に書いてある。そして、神が彼らを頑なにした理由は、神がエジプトに行ったしるしを、子や孫に語り伝えるためだった。(2節)
神がどういうお方であるかを、子々孫々に語り継げる・・・その語り継げるべき内容には、自分達もパロのように頑なになって主を恐れず、主の御言葉にそむくようになるなら、エジプトに諸々の災いが下ったように、自分達にも災いが降る、という事も、含まれている。
『もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。』(申命記28:58)
「主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。」(申命記28:27)
神はやさしい方だと思って、何でもかんでもやりたい放題やっても、いつまでも赦してくれると勘違いしている”クリスチャン”もいるが、そのような人は、主の日が盗人のように来た時、主の御前に立ちおおせない。
私達はキリストにあってアブラハムの子孫である。しかし、そうだと言って安住してはならない。
神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事の出来るお方であり、神の民と言えど、神を恐れなくなり頑なさを続けていけば、滅びてしまうからである。
礼拝説教メッセージ音声:第七の災い-雹(出エジプト記9:22-35):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「あなたの手を天にむかってさし伸べ、エジプトの全国にわたって、エジプトの地にいる人と獣と畑のすべての青物の上に雹を降らせなさい」。モーセが天にむかってつえをさし伸べると、主は雷と雹をおくられ、火は地にむかって、はせ下った。こうして主は、雹をエジプトの地に降らされた。』(出エジプト記9:22)
今回以降の3つの災いは、モーセ自らが杖を動かして災いが降るようにしている。
この時モーセは、もはやパロに対する怖気は無く、神の代理人としての余裕と、その穏やかな口調に貫禄と気品が見える。
神はモーセの過去のトラウマを癒し、人の頑張りでは決して出来なかった事をもさせて下さった。
同じように主は、私達が過去受けた傷を癒し、解放し、権限を委任された使徒として私達を用いて下さり、余裕と気品で飾らせて下さるのだ。
『そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。』(出エジプト記9:24)
かつて無かったほどの雹の災いは、黙示録にも登場する神の裁きである。(8:7,16:21)
この災いの前日、モーセは予めアドバイスをしていたが、それに従った者は災いを免れ、そうでない者は災いを受けた。
そして神は、またもイスラエルを区別され、イスラエル人の住むゴシェンの地には雹は降らなかった。
このように主は、御言葉に従う人と従わない人、神の民とそうでない人、さばきを免れる人とさばきを受ける人の区別を、明確にされる。
『そこで、パロは人をつかわし、モーセとアロンを召して言った、「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。』(出エジプト記9:27-28)
パロは言う。「こんどは罪を犯した」と。
「こんどは」と言うからには、裏を返せば、今まで彼の頭の中では、パロが正しくて、モーセ達と神が間違っていたわけである。
このように、頑なな者の特徴とは、自分は正しくて、自分の望む通りに動かない周りや神のほうが間違っている、とする事である。
パロが「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください」と言ったのは、激しい雹が降っている最中だった。
しかしモーセには分かっていた。「あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」(30節)
「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻は花が咲いていたからである。小麦とスペルタ麦はおくてであるため打ち倒されなかった。」(31-32節)
主は憐れみ深く、いきなり再起不能な一網打尽は、なさらない。
主から懲らしめを受けた時は、自分が滅ぼし尽くされなかった事を感謝し、主に立ち返るのが正しい作法であるが、パロとその家臣たちは、そうではなかった。
『ところがパロは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪を犯し、心をかたくなにした。彼も家来も、そうであった。すなわちパロは心をかたくなにし、主がモーセによって語られたように、イスラエルの人々を去らせなかった。』(出エジプト記9:34-35)
株で身を滅ぼす人のパターンは、大きな損をした時に、自分にはまだあれが残っている、これを保持していれば必ずいつか巻き返す、など、根拠なき希望を頑なに持ち続けて、手放すべきものを手放さず、結局、何もかも失ってしまうものだが、パロとその家臣たちは、その滅びの行動パターンに陥り、ますます頑なになってしまったのである。
『また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。』(黙示録16:21)
私達は雹の災いを受ける人を見て、あたかも対岸の火事を見るのように、どうしてそこまで頑なになれるのかと第三者的に思うかもしれないが、人は結構、自分がこの頑なさに陥っている事が、わからないものである。
「なぜ親はあんなに厳しく、うるさく、しつこく自分を罰するのか」と思った事はあるだろうか。
それは自分が周囲に、厳しく、うるさく、しつこく迷惑を振りまいていたからに、他ならない。
頑なな者はいつもそのように、罪ある自分に気付かないまま、主から罰を受ける。
私達は災いを受けた時、自分を省みるべきである。
主は、自分の咎を悔いた人をあわれみ、労苦に報い、祝福の将来を与えて下さるお方である。(エレミヤ31:15-22)
礼拝説教メッセージ音声:主が忌み嫌われる者:高ぶる者(出エジプト記9:13-21):右クリックで保存
『主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼らに言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。』(出エジプト記9:13)
既に幾度も聞いている言葉だが、頑なな心には、幾度同じ言葉を言っても自分を曲げないものである。
ここまで幾度も主が同じ事を命じられているのに、ことごとくそれを反故にし、その度に災いが下されて来たのに、なお主に従う事の出来ないパロの頑なさを見る時、私達も、そのような頑なさ、すなわち「災いに遭いやすさ」が自分の内に無いか内省し、そのような性質を悔い改め、そうならないよう気をつけるべきである。
『今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。』(出エジプト記9:14-15)
主はいつでもエジプトを疫病で打って消し去る事は出来る。
しかしそれをあえてなさらないのは、彼らの内に一人でも主を恐れる人が起こされ、主の素晴らしさを多くの人が仰ぎ見、救われるためであり、主を恐れる人には主は憐れみ深く敵に対しては力強いお方である事を、世にあまねく知らせるためである。
主は、エジプトに災いが次々と下る根本原因を、パロに示された。
『あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。』(出エジプト記9:17)
エジプトに災いが次々と下る根本原因、それは、「高ぶり」である。
パロからすれば、イスラエルの民は奴隷として当然のように働くべきであり、自分はいつでも彼らを滅ぼせる立場にある、と思っており、事実、主の助けが無ければそうかもしれない。
キリスト者も基本やさしいために、世の人は威張り散らすかもしれないし、もし主がついていなければ、たちまち滅びてしまうような者かもしれない。
しかし真実な所、主は不信仰で頑なな者たちを、逆にいつでも滅ぼせる立場におり、一人でも多くが不信仰や頑なさを捨て、主に立ち返って救われて欲しいと、憐れみつつ忍耐しておられるのである。
主が最も忌み嫌われる罪、それは「高ぶり」である。
サタンはこの「高ぶり」によって地に投げ落とされた。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:12-15)
サタンの基本的性質は、自らを高くし、神のようになろうとする事、そして、自分を神よりも高く置こうとする事である。
アダムとエバも「神のようになれる」という誘惑に陥って、結局エデンの園から追い出されてしまった。
この「神のようになろう」「高くなろう」るという高ぶり、それこそサタンの性質であり、アダムやエバだけでなく、多くの人類がそれによって呪われてしまい、滅びを招き入れてしまった。
『さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」』(出エジプト記9:18-19)
ここに主の憐れみ深さがある。
パロの頑なさの故に、エジプトに災いが決定してしまった時も、パロ以外の臣民が救い出されるようにと道を示された。
『パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。』(出エジプト記9:20-21)
主を恐れ、主の御言葉に従った者は救われ、損害を出さないで済んだが、そうでないものは、災いに遭い、損害を受けてしまった。
聖書のはじめから終わりまで、主が一貫して語っておられる事は、結局そこである。
主を恐れ、主の御言葉に従う人は救われ、祝福を得るが、主を軽んじ、御言葉に従わない者は、救いを得ず、呪われてしまうのだ。
イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-26 23:45
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12):右クリックで保存
エジプトに降る第五の災いは、家畜の疫病である。
『主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。』(出エジプト記9:3)
馬、ろば、らくだは物を運搬する動物で、また牛と羊は重要な聖獣である。
主は今回、エジプトの財産と物流、そして神々を打たれたのだ。
主は今回も災いの時を予め定め、その通り実行し、また、エジプトとイスラエルを明確に区別された。
『あくる日、主はこのことを行われたので、エジプトびとの家畜はみな死んだ。しかし、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。パロは人をつかわして見させたが、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもパロの心はかたくなで、民を去らせなかった。』(出エジプト記9:6)
主は予告した通りの災いを降し、エジプトとイスラエルの民を区別された。それ程鮮やかにしるしを行ったのに、パロはなお、心頑なにした。
続く第六の災いは、うみが出る腫物の災いで、ぶよの災いの時同様、パロの目の前で明示的に実行した。
『主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱい取り、それをモーセはパロの目の前で天にむかって、まき散らしなさい。』(出エジプト記9:8)
かまどと言えば、イスラエルがまさに奴隷仕事としてれんがを焼いている道具である。
かまどの中からすすを取りだして空中に蒔いた所、それが人や動物、そしてモーセ達に対抗した呪法師にも、腫物の災いを及ぼした。
こうして主は、イスラエルを奴隷として用いていた道具を用い、エジプトの人々にも動物にも、そして神々にも、明示的に報復したのである。
主ご自身が、イスラエルの盾となり、戦っておられるのである。
『しかし、主はパロの心をかたくなにされたので、彼は主がモーセに語られたように、彼らの言うことを聞かなかった。』(出エジプト記9:12)
前の五回の災いが起きた時は、パロ自ら心を頑なにしていたが、今回、はじめて「主が」パロの心をかたくなにされた、という表現が用いられている。
人があくまで主を拒否し、頑なさを続けていると、今度は、主がその心を頑なにされるのだ。
以下、詩篇81篇に記されている通りである。
『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」』(詩篇81:10-16)
主は人に、心へりくだって御言葉に従順となり、主の道に歩む事を望んでおられる。
人がその通りにしたなら、速やかにその敵を征服し、最良の小麦と岩の上にできる蜜で道たらせる用意が、主の側にはいつでもできているのだ。
しかし人が頑なになると、どうしても自分の道を捨てたがらず、怒り狂って神にさえ対抗し、けがしごとを言ってしまうものだ。(黙示録16章)
祝福へのもっとも近道は、主に対して心柔らかにし、いつでも御言葉を受け入れる体制でいる事である。
かたくなさは捨て去り、いつも主の御声に従順に聞き従って、いつでも祝福を頂き続けている皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:あぶの災い(出エジプト記8:20-32):右クリックで保存
エジプトに降る第四の災いは、あぶの災いである。
日本語で「あぶ」と訳されている言葉は、ヘブライ語でアロブ、七十人訳では「いぬばえ」、犬などの家畜や人に刺し、刺されると痛みが走る虫で、動物の神々を敬うエジプト人には嫌悪される虫である。
エジプト人の、聖獣といわれる動物への崇敬ぶりは、すごいものがある。
『エジプト人が死守していたベルザの城をペルシャ王カンビセスの大群が久しく囲んで落とせないでいた。智慧の深いカンビセスは、攻撃軍の先鋒に当たる兵士や士官の全部に楯を与える代わりに猫を一匹ずつ持たせた。この、世にも堂々たる進軍が起こされると同時に、城の輿論が決した。エジプト人は猫を殺すくらいなら潔く城を明渡そうと云うのに一致したのだった。』(「猫のいる日々」大佛次郎氏)
今回の災い以降、アロンが杖を差し伸べることではなく言葉で命じる事によって災いが降る。
そして今回の災い以降、主はエジプトとイスラエルを明確に区別され、イスラエルには災いが降りかからないように、特別扱いされた。
神を恐れぬ国の中にいると、その国の中にいる神の民にも災いのとばっちりを受ける事があるが、神は真実なお方であり、その邪悪な国の中に義人が十人いるなら、その国を滅ぼすことはなさらず(創世記一八章)、義人を悪者の集団もろとも滅ぼすような事の無いお方である。
『主はそのようにされたので、おびただしいあぶが、パロの家と、その家来の家と、エジプトの全国にはいってきて、地はあぶの群れのために害をうけた。そこで、パロはモーセとアロンを召して言った、「あなたがたは行ってこの国の内で、あなたがたの神に犠牲をささげなさい」。』(出エジプト記8:24)
パロはモーセの言った要求の一部は許可したが、そこに自分の主張も混ぜ込み、モーセに譲歩させようとした。
しかしモーセはそれには乗らず、自分達は神の要求を何一つ違えるつもりは無くそのまま実行すると主張した。
世は神の民に、色々な手を使って「妥協」を要求して来る。
礼拝するのは主日でなくてもいいではないか、イエスを信じるのは勝手だが私達にイエスを伝えるな、など。
私達は世に妥協して、御言葉をねじまげてはならない。
『こうしてモーセはパロのもとを出て、主に祈願したので、主はモーセの言葉のようにされた。すなわち、あぶの群れをパロと、その家来と、その民から取り去られたので、一つも残らなかった。』(出エジプト記8:30-31)
昨日まで国中に溢れていたあぶの群れが、モーセの言葉のとおり、翌日には一匹も残らずいなくなった。それもまた、すごい奇跡である。
かえるの災いの時、モーセはかえるが絶えるよう主に叫んだが、今回は単に「祈願した」とだけある。それはモーセの主に対する信頼が以前より増したからである。
水を恐れる人が、膝の高さの水でも溺れてしまうのは、水に対する恐れと不安のために、余分な力を入れたり余計なもがきをしてしまうからで、水泳の達人は、水への知識と信頼があるため、無意識的にに力を抜き、必要な力だけを使って、素早い泳ぎができる。
同じように、信仰が発達していない人も、余計な心配や祈りをして、信仰生活が、あたかも莫大なエネルギーを要するかのように見てしまうが、しかし主と共に歩んだ日数の多い信仰の達人は、無意識的にに主を信頼し、余計な力の入った祈祷をせずとも、意識する以前から必要が備えられたりする。
『しかしパロはこんどもまた、その心をかたくなにして民を去らせなかった。』(出エジプト記8:32)
パロは今回、モーセに「私のために祈ってくれ」と言った。
もしもパロがこの時に約束を守っていたら、モーセは約束した通りパロのために祈ったであろうが、残念ながら、モーセが荒野に出てパロのために祈った事は無かった。
なぜなら、パロは更に幾度も心頑なになり、神の前での約束を反故にし、エジプトの初子が打たれてやっとイスラエルの民は荒野へ行けたのに、それでもなおパロは軍隊を遣わして、イスラエルの民を滅ぼそうとし、そこで主はエジプトの軍隊を海に飲み込ませ、そうしてイスラエルは徹底的にエジプトと決別したからである。
今は恵みの時、救いの日である。
とりなし手が祈ってくれる内に主を恐れ、心を頑なにする事を止め、御前にへりくだるべきである。