• カテゴリ エステル記 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - エステル記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
思いを一つにして祈れ(エステル4章):右クリックで保存
祈り会:右クリックで保存

【概要】

本日のメッセージは、エステル記4章と第一テモテ2章に見る、困難な時に信仰を貫き、行動する勇気と断固たる決意についての御言葉です。神の導きの中で、自分の責任と使命を再認識し、互いのために祈り続ける大切さを学びます。

【聖書箇所】

・エステル記4章 (特に1節〜14節、15節以降の決意の部分を中心に)

・第一テモテ2章1節〜4節

【慰めの言葉】

苦しい状況の中で、神は常に私たちと共におられ、慰めと希望を与えてくださいます。私たちがどんなに孤独や絶望を感じても、主の御手は決して離れていません。

【励ましの言葉】

エステルが王宮という極限の環境の中で、民族の存亡を担う決断をされたように、私たち一人ひとりにも神の導きが備わっています。たとえ困難な状況に直面しても、主に信頼し、勇気を持って前に進むことが大切です。

【戒めの言葉】

私たちの行動は、時に周囲の運命を左右します。もし無関心や怠惰のままであれば、結果として多くの命や未来が危機に晒されることを、エステル記の中で神は私たちに警告されています。神の戒めに従い、私たちは自らの責任を深く自覚しなければなりません。

【勧めの言葉】

互いに励まし合い、心からの祈りに励む姿勢を持ち続けましょう。実際にエステルが、国のために、民族の救いのために、断食と祈りを求めたように、今この時代においても、私たちが立ち上がって祈ることが、平和と救いを招く大きな力となります。

【悔い改めの促しの言葉】

もし私たちが時に自らの行動において、神の意志に背く選択をしてしまったなら、心から悔い改め、神の御前に立ち帰ることが求められます。過去の失敗を悔い改め、清い心で未来に向かう決意を新たにしましょう。

【***詳細***】

今日、私たちはエステル記4章の物語に深く目を向けます。冒頭、モルデカイが王宮の門の前に出て、着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶって大声で嘆く姿が描かれています。<強調>「モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら…」</強調>この激しい行動は、ユダヤ人全体が直面した絶望と危機を象徴しています。自らの民族の存亡の危機に、モルデカイは自分の内に湧き上がる深い悲しみと、神への信頼、そして民への責任感を表現しました。

これを聞いたエステルは、ただの宮廷内での華やかな存在ではなく、その裏で民の声に耳を傾けなければならない役割を担っていることに気づきました。彼女は、王の宦官ハタクを呼び寄せ、<強調>「どういうわけか、また何のためか」と問いただすよう命じた</強調>その言葉に、私たちはただ美しいだけでなく、民のために命を捧げる覚悟が求められることを学びます。エステルは、自分が王の呼び出しを受けるという厳しい掟の中にありながらも、<強調>「たとえ法令に背いても、私は王のところへ参ります。私は死ななければならないのであれば、死にます。」</強調>という強い決意を持って、神の民としての自覚と使命を貫きました。

ここで、重要なのはエステルだけではありません。モルデカイの痛切なメッセージも、私たちに深い意味を刻み込んでいます。彼は「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びよう」と告げました。これは、一人ひとりの行動が民族全体の運命に大きく影響するという、重大な教訓です。私たちの日常生活においても、社会の中で、また家庭や職場で、私たちの選択や行動がどれほど大きな重みを持つかを決して軽視してはなりません。

さらに、エステル記の物語は、奇跡と神の摂理が重なり合っていることを示しています。エステルが王妃として選ばれた偶然、そしてモルデカイとエステルとの信頼関係、さらにはユダヤ人全体が断食と祈りで一つになった瞬間。これらは、決して偶然ではなく、神の導きによって用意された歴史の流れであると確信させられます。私たちの歩む道もまた、たとえ予期せぬ困難や試練があったとしても、神の導きの中にあり、その中でそれぞれの役割を果たすために送り出されているのです。

また、私がこの場で特に注意深くお伝えしたいのは、決して高い地位や権力に甘んじることなく、むしろ民の叫びに応え、必要とされる行動をとる覚悟を持つことの大切さです。エステルは、王の掟に反してでも民のために立ち上がる決意を示しました。これは、私たちにも当てはまることであり、立場や見た目に左右されず、真に神に忠実な者として日々選択していくことが求められています。

このメッセージは、2000年以上にわたり、神がアブラハムに与えた祝福の約束が現代に至るまで続いているという事実をも信じさせてくれます。たとえば、エステル記に描かれる危機や絶望は、一見、ただの歴史的事件のように見えますが、神の永遠の視点から見ると、ユダヤ民族が後の時代に大いなる国として再建された奇跡の一部であります。私たち個々の人生も、大小さまざまな試練や偶然が連なって、今日の自分を形成しています。だからこそ、どんなに小さな選択であっても、神の御心に反するものであってはならず、逆に、主の御前で確固たる決意をもって行動することが求められているのです。

そして、第一テモテ2章1節〜4節の御言葉にもあるように、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために、願い、祈り、執りなし、感謝が捧げられるようにしなさい」と勧められています。これは、私たちが日々祈りを通して自己を奮い立たせるだけでなく、周囲の者すべてが救われ、平安と安定を手に入れるための大切な働きであると示しています。私たちが互いに励まし合い、心を尽くして祈り続けることで、神は必ずや必要な助けと救いの手を差し伸べてくださいます。

この歴史的な物語が現代の私たちに示しているのは、「立ち上がる勇気」と「互いに祈り合う絆」の大切さです。もし私たちが、今日示されたような使命感を持って、内なる声に正面から向き合い、信仰の歩みを全うするならば、どんな困難な時も必ず救いの光が差し込むことでしょう。たとえ法律や人の掟が私たちを抑えようとする時、神の御前では私たちの正しい行動が明らかとなり、必ずや大きな祝福がもたらされます。

皆さん、どうか今日の聖書箇所に耳を傾け、エステルとモルデカイの勇敢な姿、そして第一テモテの教えにあるように「すべての人のために」祈るという実践を、日常に生かしていただきたいと思います。私自身も、エステル記のその決意に感銘を受け、例え自分が小さな存在であっても、神の御心に従い行動する決意を新たにしております。私たち一人ひとりの祈りが、やがてこの国や世界全体の平和と救いにつながると信じ、力強く励んでいきましょう。

【結論】

本日の御言葉は、エステルとモルデカイのように、どんな過酷な状況にも真実なる信仰によって立ち上がり、他者のために勇気をもって行動することの重要性を教えてくれます。そして、すべての人のために、王や高位の者のために絶え間なく祈るようにという第一テモテの勧めは、私たち一人ひとりに与えられた大切な使命です。どうか私たちも、神の御心に従い、互いに励まし合いながら、平和と救いのために歩みを進めていきましょう。イエス様のお名前によって、皆さんが祝福され、守られますように。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪しき者のたくらみ(エステル3:7-15):右クリックで保存

【概要】

本日私たちはエステル記3章7節〜15節を通して、権力者の軽率な判断が神の御計らいと人々の生死にどれほど大きな影響を及ぼすかを学び、自らの体と心の「実印」をどこに委ねるかという重大な決断について考えます。

【聖書箇所】

・エステル記3章7節〜15節

※「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」(エステル記3章)

・ローマ人への手紙8章12節〜13節

※「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ人への手紙8章12〜13節)

【戒めの言葉】

・権力や外部の誘惑に無批判に依存してはならない。

・自分の体、心、そして実生活において、誰にその「実印」を渡すのかを慎重に判断する必要があります。

【励ましの言葉】

・御霊に委ねて生きるなら、必ず神の命と平安が備わります。

・日々の小さな選択が、未来に大きな実を結ぶことを信じ、御霊の導きに心を寄せましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

・過去に自らの判断で誤った道を選んだと感じる時、神に立ち返り、心からの懺悔と改心を行いましょう。

・神はいつでも悔い改める心を持つ者に慈しみと新生のチャンスを与えてくださいます。

【***詳細***】

今日、私たちはエステル記3章7節〜15節に記された、アハシュエロス王の時代における重大な出来事に目を向けます。エステル記では、権力者ハマンが自らの恨みと偏見から、特にモルデガイという一人のユダヤ人に対して憤りを募らせ、さらにその憤りをユダヤ民族全体へと向けるため、アハシュエロス王に進言しました。その進言の中で、彼はこう申し上げます。

「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」

 

この御言葉は、ただ単に個人の復讐心から出たものではなく、権力の座にある者が、国や民族の運命を左右する重大な判断を下す際に、どれほど軽率であってはならないかを示しています。アハシュエロス王は、ハマンの計らいに流され、王の実印―つまり、決定的な権威の象徴―を手渡してしまいました。この結果、既に遠い国々にまでその命令が回り、ユダヤ民族に対する根絶的な法令が発布されるという、悲劇的な事態を招いたのです。

私たちはこのエピソードから、外部の権力や誘惑がもたらす危険性、及びその影響力に対して、常に警戒を怠ってはならないという戒めを受け取ることができます。決して、世の権力者の一言で私たちの運命が左右されるべきではありません。そして、私たち一人一人が持つ「実印」は、私たち自身の体や心、生活のすべてを意味しているのです。誰にその大切な実印を託すか、またどのような思いに委ねるかという選択は、私たちの未来にとって極めて重大な問題です。

このメッセージから私は、現代の私たちにとっても、心の中にある感情や意思、さらには日常の小さな決断が、後に大きな実を結ぶことを思い起こさせられます。例えば、日々の中で感じる怒りや憎しみ、または反抗心が、いつのまにか私たち自身の破滅に向かうものであってはならないのです。悪魔の策略は、私たちが肉的な欲望に従う瞬間に静かに忍び寄ります。そして、その結果、私たちは神の恵みや命の祝福を遠ざけ、破滅への道を歩むことになってしまいます。

一方で、聖書はローマ人への手紙8章12〜13節において、私たちに光を示してくださいます。

「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

 

この御言葉は、私たちが日々の生活の中で、肉に支配される生き方を捨て、御霊に導かれる選択をするよう強く促しています。御霊に従う生き方は、神の愛と平安、そして永遠の命へとつながります。私たちは自らの意思で、心の中の悪い感情や肉的欲望を「殺し」、その代わりに神の御霊がもたらす愛と喜びに満たされる生を歩むべきです。

また、エステル記の物語は、どれほど巧妙にして、権力者が自分の都合の良いように事実を操作し、ユダヤ民族という選ばれた民を狙ったかを描いています。ハマンはあえて「一つの民族」という表現を用い、その正体を曖昧にしながらも、最終的には全民族に対する虐殺令を発布させました。その冷酷な計略は、私たちにとっても重大な教訓となります。権力や物事を自分勝手の都合で動かす時、どんなに人々の命が危機にさらされようとも、その判断は正義を欠き、神の御心には決してかなわないということです。

私自身、この箇所から深く感じるのは、「実印」の意味です。実印とはただの印鑑ではなく、私たち一人一人の信仰、価値観、そして日々の選択そのものを象徴しています。たとえば、私たちが車を運転する際、その操作ひとつひとつが善にも悪にも変わるという比喩に似ています。日常の中で誰かに対して怒りを抱いたり、無意識のうちに破壊的な行動に出たりすることは、すなわち自らの「実印」を肉的な欲望に託してしまっていることです。そして、それがいずれ自らや周囲の人々に取り返しのつかない結果をもたらす可能性があるのです。

しかし、私たちは希望を見失ってはなりません。神は常に、御霊による新しい生の道を示してくださっています。たとえ過去に誤った判断をしてしまったとしても、私たちは悔い改め、祈り、断食を通して神に立ち返ることができます。旧約のイスラエル民族が大危機の中で一致団結し、祈りと断食によって救いを求めたように、現代に生きる私たちも、日々の選択の中で神に心を委ね、御霊の導きを受け入れることが重要です。

さらに、私たちがこのエステル記の物語から学ぶべき大切な点は、権力者の軽率な「実印の委譲」に対して、自分自身の大切な体や心、未来を誰に委ねるかという問いかけです。アハシュエロス王は、ハマンに実印を渡したことで、後悔の及ばぬ惨事を招いてしまいましたが、私たちはそのような過ちを回避するために、日々しっかりと自分自身の判断を育て、神の御心に照らして生きる必要があります。

私たちが日常の中でどのような選択をするかによって、神の御恵みが与えられるか、あるいは破滅へと導かれるかが決まってきます。例えば、些細な怒りの感情や恨みを放置することは、やがて大きな悲劇へと発展するかもしれません。一方、御霊の導きに従い、謙虚に神の意志を求め、互いに愛し合う心を持つならば、私たちは神の相続人として、豊かな祝福と永遠の命を受けることができるのです。

改めて、ローマ人への手紙8章12〜13節の御言葉に立ち返りましょう。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

 

この御言葉は、私たちが肉の誘惑に流されず、常に御霊に導かれる選択をするべきであることを、力強く示しています。私たちの内に宿る思い、感情、そして意思が、神の御霊に委ねられるとき、私たちは真に神の子どもとして、新たな生命と希望に満たされるのです。たとえ今、どれほど混乱や誘惑、そして周囲の不正が目まぐるしく変わろうとも、神は変わることのない御約束と共に、私たちに平和と救済をお与えくださると信じます。

最後に、この教えを心に留め、日々の生活の中で「実印」をどこに委ねるか、どのように自らの意思や感情を扱うかを慎重に見極める決意を新たにしましょう。たとえ私たちが一度誤った判断をしてしまったとしても、悔い改めと祈りをもって、再び神の御手に委ねることができるのです。今この時、私たちは神の導きを仰ぎ、御霊の光の中で新たな生を歩む決断をするべき時なのです。

【結論】

私たちは、権力者の軽率な判断によって多くの人命が危機にさらされたエステル記の教訓を胸に、日々自らの体と心の「実印」を神に委ね、御霊による生き方を選ぶべきです。人間の弱さに流されず、真の神の子どもとして、神の恵み豊かな相続人となるよう、悔い改め、祈り、そして御霊に従う決意を新たにしましょう。イエス様の御名によって、この真実のメッセージが私たち一人ひとりの生命に確かな希望と平安をもたらしますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民に敵対するハマンの性質(エステル記3:1-7):右クリックで保存
祈りと祝祷:右クリックで保存

【概要】

本日の説教は、エステル記3章1節から7節の御言葉を通して、神に忠実であらねばならない民の在り方と、悪の権勢に屈しない信仰の強さを学びます。モルデカイの譲らぬ姿勢は、どんな圧力や誘惑にも決して心を曲げず、神に従う者としての証しとなるものです。

【聖書箇所】

・エステル記 3章1節〜7節

・1サムエル記15章(アマレクに対する神の命令の記録)

・エステル記 5章12節、6章6節

・ヨハネの第一の手紙 3章8節

・箴言 19章19節

【戒めの言葉】

私たちは、権勢や世の風潮に流されることなく、神の御前では常に謙虚でいなければなりません。また、怒りや憎しみ、妬みといった悪魔の策略に心を奪われることがあってはならず、兄弟姉妹に対する不愛にも決して陥ってはなりません。

【慰めの言葉】

たとえ、神に従うために周囲からの圧力や反発にあう時であっても、主は決してあなたを見捨てません。神は忠実な民を守り、試練の中にあっても明けの明星のように希望と救いをもたらしてくださいます。

【励ましの言葉】

エステル記において、モルデカイはハマンの命令に屈することなく、神への忠誠を貫きました。同じように、私たちの歩みも時に困難な状況に直面するかもしれませんが、神の御言葉を守る者には必ず大きな祝福が用意されていると信じ、勇気をもって歩んでいきましょう。

【***詳細***】

本日の御言葉「エステル記」3章1節〜7節は、ペルシアのアハシュエロス王の治世の中で、権勢を握ったハマンという人物が、自己の虚栄心と憤りからユダヤ民族を根絶しようと企む様子を記録しています。ハマンは、王の側近として昇進し、王の家来たちにひれ伏すよう命じられましたが、ただ一人、ユダヤ人であるモルデカイは決してその命令に従いませんでした。「エステル記」3章に記されるこの出来事は、単なる政治的争いの物語に留まらず、神に従う民と悪魔の策略とが対立する霊的な戦いの象徴として読むことができます。

ハマンは、過去の歴史においてイスラエルの敵対民族であったアガグの子孫、すなわちアマレク人の末裔であり、その性質は古くからイスラエルに対して敵意を抱いていました。1サムエル記15章に記された神の命令――「アマレクを打ち、そのすべてを容赦してはならない」という厳命――は、神がイスラエルに対して持つ深い憎悪と、悪に対する断固たる態度を明確に示しています。私たちは、ハマンのように自己の利益や虚栄心に駆られて行動するのではなく、神が定められた御言葉に従い、悪に対抗する勇気ある信仰を持たなければなりません。

モルデカイの振る舞いは、現代に生きる私たちの模範となるものです。彼は、王の命令に背くことに対して「なぜ、王の命令に従わないのか」と尋ねられても、自身の信仰から妥協することなく、ユダヤ人であること、そして神に従う者であるという誇りを明確に示しました。このような姿勢は、私たちにとっても非常に大切な示唆を与えています。たとえ周囲が圧力を加え、時には迫害や嘲笑にさらされようとも、私たちが心に抱く神への忠誠と信仰は、必ずや最終的な勝利へと導いてくださいます。

また、この御言葉は私たちに、憤りや怒りという感情の危険性をも警告しています。エステル記では、ハマンはモルデカイの一言に激しい憤りを覚え、その怒りは彼の判断を曇らせ、やがて全ユダヤ人根絶という極悪非道な計画へと発展しました。私たちが日々の生活の中で、感情に流され堪えてはならないのは、まさにこのことです。聖書ヨハネの第一の手紙3章8節は、「罪を行う者は悪魔から出たものである」と教え、私たちが悪魔の策略に染まることのないよう、心を清めることの重要性を説いています。さらに、箴言19章19節にも「激しく憤る者は罰を免れない」と記され、私たちがいかに慎重に、そして謙虚な心で日々を過ごすべきかを改めて示しています。

神は、私たちが感情や欲望に任せ、自己中心的な行動に走るとき、必ずやその結果として試練や災いをもたらされると警告されています。しかし、同時に主は、忠実に御言葉に従う者、すなわち神の道を歩む者を、あらゆる災いから守り、最終的には栄光と祝福とで報いてくださいます。エステル記全体を通しても、最初は困難や試練に直面した民が、忠実に神に従った結果、神の偉大な救いを体験し、繁栄へと導かれるという歴史の真理が読み取れます。

また、私たちはイエス・キリストによって示された究極の愛の模範を見逃してはなりません。キリストは、ご自分の命をささげ、私たちのために死を取り払い、愛と赦しの道を開かれました。その愛は、たとえ周囲がいかに冷たく、攻撃的であっても、私たちに真の勝利と平和をもたらす光であるのです。私たちが互いに支え合い、兄弟姉妹を心から愛するその行動は、キリストの御業に参与し、悪に打ち勝つための揺るぎない信仰となります。

今日、私たちがこの御言葉を胸に刻むとき、内に秘めた憤りや無慈悲な心の閑かさを見直し、決して悪に染まることなく、すべての行いにおいて神の御意志を第一に求める決意を新たにする必要があります。私たちが、どんなに小さな心の隙間も悪魔に譲ることなく、日々の生活と礼拝の中で神に眼を向け、御言葉に従うならば、神は必ずやあなたを守り、その歩みに祝福と栄光を与えてくださいます。

【結論】

私たちは、エステル記に見るように、時の権勢や悪の影響を前にしても、神に忠実であらねばなりません。モルデカイの犠牲を通して示された信仰と勇気は、今日の私たちにも大いなる励ましです。感情の怒りや他者への憎しみを捨て、互いに愛し合い、神の御言葉に従うことで、必ずや勝利と祝福を得ることができると信じ、日々の歩みを堅く守り続けましょう。イエス・キリストの御名によって、私たちの信仰が輝き、永遠の光の中で歩むことができますように。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
内面の美しさの秘訣(エステル記2章):右クリックで保存

祝祷

【概要】

エステル記第二章の初めの出来事を通して、神の導きと人の従順、内面から輝く真の美しさについて考えます。神の計画の中で、私たちはどんな環境にあっても従順と信仰により祝福されるという慰めと励ましを受けています。

【聖書箇所】

・エステル記 2章1節〜7節、8節〜11節、12節〜23節

・エステル記 2章15節〜20節

・エステル記 2章21節〜23節

・1ペテロの手紙 3章1節〜6節

【慰めの言葉】

主の御手は私たちの歩む道を常に見守っています。外見や環境がいかに厳しくとも、神は忠実な心を持つ者を必ず守り、御計画に従って大いなる祝福へと導いてくださいます。

【励ましの言葉】

エステルやモルデカイ、旧約の信仰の先人たちのように、日々の小さな従順と信仰の実践が、やがて偉大な祝福と救いを我々にもたらします。神様の時は必ず来ます。

【戒めの言葉】

世の栄華や外面的な美しさに惑わされることなく、自己主張や虚栄心にとらわれず、常に神の御言葉に従う謙遜な生活を送りましょう。その結果、信仰に基づく真の美しさが身に宿ります。

【勧めの言葉】

内面の美しさを養い、日々の生活において主の導きを求め、忠実に歩むことが何よりも大切です。エステルのように、試練の中でも身を慎み、従順な姿勢を保ちましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

もしこれまで外面的なものや人の評価に重きを置いて歩んできたなら、今一度立ち返り、主が望む内面の堅実な美しさと従順の信仰に向き合い、心からの悔い改めと新たな決意をしましょう。

【***詳細***】

本日はエステル記第二章に記された出来事を拝読し、その中に現れる神の導きと人間の歩む道について深く考察して参ります。冒頭、エステル記2章1節から7節にかけて、アハシュエロス王の憤りが収まり、王はかつての王妃ワシティの行いやその決定を思い出し、次なる新たな王妃を得るために全国から美しい未婚の娘たちを集めることになりました。ここで、王は「容姿の美しい者」を求めるという指令を下しましたが、私たちはこれを単なる外面的な美しさだけの問題と見るのではなく、神の御心にかなう謙虚な心と品性が如何に重要であるかを読み取る必要があります。

また、この出来事の中で、ひときわ目を引くのがモルデカイというユダヤ人です。彼は、かつてバビロン捕囚の時にユダの王エコネヤとともに捕らえられ、エルサレムから移された民の中で、王宮に仕える大いなる存在となりました。**「この乙女は姿も顔立ちも美しかった」**と書かれるエステルは、単に外観だけでなく、モルデカイのもとで厳かに養育され、品性と慎み深さを学んだ女性でありました。エステルは自身の民族や生い立ちを隠し、王の前にその純粋な美徳を表すことで、神の秘めた計画に従って進む道を歩み始めたのです。

エステルがその後、長い12ヶ月にわたる厳しい美の鍛錬、すなわち前半の6ヶ月は没薬の油による厳しい手入れ、後半の6ヶ月は香料と婦人の化粧による美の研磨を経て、最終的に王の心を捕らえる存在となった背景には、彼女の内面に宿る「入和で穏やかな霊」という、**「朽ちることのない隠れた人柄」**の本質がありました。これは、1ペテロの手紙3章1節から6節に明示されているように、外面的な飾りではなく、心の内側に宿る従順さ、謙虚さ、そして神への深い敬虔さこそが、永遠に輝く美しさの源であるという教えと重なります。

私たちも、現代の職場や日常生活において、しばしば外見や地位、世間の評価に惑わされがちです。しかし、エステルや旧約聖書の中に登場するヨセフやダニエルのように、苦難や試練の中で神への従順、そして、日々の小さな忠実さを示すことが最も大切です。たとえば、ヨセフがエジプトの異国で奴隷として置かれながらも、家のすべての管理を任され、神に祝福されたように、私たち一人ひとりもどんな環境にあろうと、神の御計画の中で忠実に歩むならば、必ず大きな恵みが与えられると信じます。

エステル記には、また王の側近たちが策謀を企てる場面もあります。モルデカイが王宮の門で仕えている時に、二人の宦官ビクタンとテルシュがアハシュエロス王を暗殺しようと企てた事実が記され、その情報をエステルが王に報告したため、二人は罰せられたとあります。この出来事は、神の御心に背く者を必ず罰するという戒めであり、また、正義の行いが結果的に神の計画に沿って実現していくという確信を深めさせるものであります。私たちにとっても、正しい行いや正義を重んじる心こそが、神にとって喜ばれる行いであると改めて気づかされます。

さて、ここでエステルの姿から私たちが学ぶべき大切な点は、まず何よりも「内面の美しさ」です。エステルは、皇宮での審美的な鍛錬の中にあっても、王に召し出された後一度も自分の出自や民族を口にしなかった、まさに謙虚で従順な女性でした。彼女は、宦官ヘガイの勧めに乗りながらも、自らの品性に基づく選択を惜しむことなく、余計な要求を一切せず、ただ神とモルデカイの導きを信頼して従いました。この姿勢が、最終的に王アハシュエロスから並々ならぬ愛情と信頼を受け、ワシティに代わる王妃として迎えられる結果につながったのです。

また、1ペテロの手紙3章に示されるように、妻たちが自らを「柔和で穏やかな例」として飾ることは、単に外見を美しく整えるための装飾ではなく、心の中に神の御前に価値ある品性を宿すためのものであるという教訓が含まれています。これは、現代に生きる私たちにとっても大いなる励ましであり、年齢や境遇を超えて、内面の美しさこそが真の魅力であるという確固たる真理を再認識させます。

また、エステル記に散見されるモルデカイの働きは、ただ王宮の一員としての立場を超えて、神の計画の中で”隠れた英雄”としての役割を果たしていたことを示しています。彼は自らの地位に驕ることなく、常に主の意向に従い、エステルを養育し、守り抜くという責務を全うしました。その謙虚さと忠実さは、後にイスラエル民族全体に対して大いなる救いと栄光をもたらす結果となります。これもまた、神が私たち一人ひとりに、決して偶然ではない計画と導きをお与えになっていることを証明しております。

私たちは、しばしば瞬間的な成功や外面的な栄華に心を奪われることがあります。しかし、エステルのように、内側からの堅実な信仰と忠実な従順さ、そして常に神に信頼して歩む生き方こそが、真に永遠な祝福へと至る道であると聖書は教えています。「主は人の行いを喜ぶ時、その人の敵をも和らげる」(参考:エステル記および旧約の諸書より)という御言葉は、私たちが正しい行いを選び、たとえ苦境にあっても神を頼りにすることの大切さを示しています。

今日、この説教を聴く皆さまには、どんな現実の困難や誘惑があろうとも、外面的な評価に左右されることなく、むしろ内面の慎み深さと従順な信仰を大切にしていただきたいと思います。私たちが日々の生活で、神の声に耳を傾け、与えられた使命を堅実に果たすならば、主は必ずやその祝福と導きをもって、私たちの歩みを豊かにされることでしょう。そして、いつの日か私たちも、見かけの美しさや一時的な成功にとらわれるのではなく、神の御前に価値ある本当の美しさを体現している者として、周囲の人々に光と希望を示すことができるのです。

この説教を通して、エステルやモルデカイ、そして他の聖書の偉人たちが私たちに遺した教訓―それは、神の御計画の中で謙虚に、かつ従順に歩むことこそが、どんな困難な現実の中にあっても、いつか大いなる祝福と救いへと導かれる道である、という真理です。どうか、私たち一人ひとりがその真理を心に刻み、日々の歩みの中で神の御心に従って生きることができますように。心から祈り、そして主イエス・キリストの御名によって互いに励まし合いながら、素晴らしい信仰生活を歩んでいきましょう。

【結論】

エステル記第二章は、神の導きと忠実な従順の力を輝かせる物語です。私たちも、エステルやモルデカイのように、外面的な栄華に惑わされることなく、内面の美しさと神への従順を磨き続け、どんな状況においても神の御計画に信頼し歩み続ける信仰者となりましょう。主の恵みと祝福が、常に皆さまと共にありますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
高慢な妻と慎み深い妻(エステル記1章):右クリックで保存

【概要】

本日はエステル記と関連聖書箇所を通して、神の御業とキリストの花嫁としての立場、そして高慢や傲慢に陥らない謙遜な信仰の歩みについて説きます。

【聖書箇所】

・エステル記 1章1-9節

・エゼキエル書 28章12-13節および14節以降(サタンの転落に関する記述)

・雅歌 5章2-8節

・雅歌 2章10-15節

【戒めの言葉】

・主の御声に応えず、自らの誇りや美しさに頼ったなら、いつかその尊い冠が奪われることを、今日のエステル記とエゼキエル書が私たちに警告しています。

【励ましの言葉】

・神の御声に敏感に耳を傾け、謙遜な心で応えるなら、あなたはどんな状況にあっても神の御手の保護の中にあります。

【慰めの言葉】

・たとえ遠く離れた異邦の地にあっても、私たちはキリストの花嫁として、神の愛と慰めの中に常に守られていることを忘れてはなりません。

【***詳細***】

今日、私はエステル記の冒頭の場面から、私たちが学ぶべき真理についてお話ししたいと思います。エステル記は、アハシュ⁑ス王の豪華な宴会の記述から始まります。王はシュシャンの城において、王族にも臣下にも惜しみない贈り物とともに、華麗な宴を180日、さらにその後7日間にわたって催しました。**「アハシュ⁑ス王は、金の盃で酒を振る舞い、その豊かな栄光と栄華を民衆に示された」**との記述は、神の世ではなく人間の世の栄光に過ぎません。しかし、この豪華な宴の裏側には、王妃ワシュティが自らの高慢によってその立場を失い、結果として国中の人々の尊敬をも失わせるという重大な教訓が隠されています。

私たちは、エステル記における王妃ワシュティの行動から、謙遜な心で主に仕えるべきという大切なメッセージを読み取ることができます。エステル記のこの部分は、単に古代ペルシアの宮廷劇のような歴史記録ではなく、「私たちは誰の妻なのか?」という問いを現代に向けて問いかけます。王妃ワシュティは、美貌ゆえに傲慢となり、王の呼びかけに応じることを拒んだために、その栄誉が失われ、後により優れた花嫁—謙遜な心のエステル—にその座が譲られました。ここで私たちは、イエス・キリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応え、謙虚にその愛を受け入れることの大切さを学びます。正しい信仰の歩みとは、どんなに美しい外見や才能があろうとも、主の前ではすべてのものが私たちのものではなく、私たちはただ主の召命に従う花嫁であり続けなければならないということを思い起こさせます。

また、エゼキエル書28章では、神がかつて愛された天使長サタンの美しさと知恵、そしてその後の堕落に至る過程が描かれています。**「あなたは知恵に満ち、美の極みであった。しかし、あなたがその美しさに高ぶり、誇りに浸ったため、汚れた者として神の前から追放された」**との言葉は、私たちに高慢の危険性を厳しく戒めています。エステル記の王妃ワシュティもまた、自らの美貌と地位に溺れ、神に対する謙虚な心を失った結果、王の御前から退けられる運命に遭いました。これと対照的に、新たに選ばれたエステルは、その慎ましさと従順さにより、王から特別な庇護を受け、イスラエル民族の救いに大きく貢献しました。

私たちは今日、エステル記の中に現れる歴史的背景を通して、神がどのような人々を御用に召されるのか、そしてどのような心持ちで御前に立つべきかを再確認する必要があります。王妃ワシュティの失敗は、どれほど華やかな環境にあっても神から離れることが、取り返しのつかない結果を招くという警告です。一方、エステルのように謙遜で主への絶対的な信頼を持つ者は、どんなに異国の地であっても神の御心の通りに働くことができるのです。

さらに、雅歌の中にある恋の描写は、キリストとその花嫁たる私たちとの深い交わりを象徴しています。雅歌5章2〜8節には、愛する方が呼びかけ、花嫁がその声に心を震わせる情景が描かれています。**「我が愛する者、美しい人よ、さあ立って出ておいで。あなたの声を聞かせておくれ」**という御言葉に、私たちはどれほど感動し、応えなければならないかを思い知らされます。同様に、雅歌2章10〜15節でも、主からの呼びかけに対して、花嫁が即座に応じる姿が描かれ、主と交わる喜びがあらわされています。

ここで改めて、私たちに問いたいのは「私たちは誰のために生きているのか」ということです。私たちはイエス・キリストの花嫁として御前に召され、たとえ世界のどこにいても、神の王宮と呼ばれる御座は変わらずそこにあります。エルサレムにおいてネヘミヤやエズラが神殿再建に奔走し、その後、遠き異国の地においてもエステルが救いの鍵を握ったように、私たちもどのような環境においても、主への従順と謙虚な心を忘れてはなりません。

確かに、世の中は誘惑と誇りに満ち、どんなに華やかに見えても、その裏側には必ず神の裁きと戒めが存在することを、今日の聖書の記述は示しています。私たちは決してその栄誉に乗り、自己中心的になってはなりません。むしろ、主の呼びかけに敏感になり、心から「私の愛する方は私のもの、私はあの方のものです」と信仰を告白し、日々の生活の中でその証を示すべきです。

神は、私たちに高慢や傲慢に陥らないよう、また、どんな時も主の呼びかけに応え、御言葉に従うようにと望まれています。過去の大いなる歴史の中で、ワシュティがその高慢のために冠を失ったように、もし私たちが自己を高ぶらせ、主の呼びかけに背くなら、いつかその栄誉は取り去られてしまうでしょう。しかし、エステルのように謙虚であるならば、主は必ず祝福と守りをもって私たちと共に在り続け、限りない愛の交わりを約束してくださいます。

最後に、私たちが生きるこの時代においても、神の御声は決して遠くないということを確信してください。日々の忙しさや世俗の誘惑に惑わされることなく、毎朝の祈りと思い起こしの中で、神が私たちに呼びかけておられることを感じ取ってください。イエス様の花嫁として、謙虚に、そして従順に、主の教えと召命に応えるその心を持ち続けることが、私たちの真の栄光と祝福につながるのです。

愛する皆さん、神はあなたの内にその御霊を注ぎ、いつもあなたが歩む道を照らしておられます。いかなる状況においても、主の愛を信じ、御声に敏感に耳を傾け、決して自分の力に頼らず、ただ主の豊かな恵みによって生きることを、心から願っております。

【結論】

本日の聖書の御言葉は、私たちがどのような立場、どのような環境にあっても、主イエス・キリストの花嫁として謙虚に従い、主の呼びかけに即応すべきであるという力強いメッセージです。どうか今日の御言葉を心に刻み、日々主の愛と召命に従う歩みを続け、栄光の冠を失うことなく、永遠に主と交わり続ける信仰の花嫁であられるよう、神の祝福が皆さんに豊かにありますように。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest