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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

主の霊が留まる人にあらわれる性質(イザヤ11:2)

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English Service Walk in the Spirit(Rom8:1-8) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 5月の聖句は、イザヤ11章2節である。『その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である』。この箇所は、エッサイの根株から生じた「新芽(ネツェル:切り株から生じた全く新しい芽)」が示されており、それはすなわち、ナザレ人イエス・キリストを指す。
 その根株とは「切り株」、すなわち、一度は巨木へ成長したのに、高ぶった故に、切り倒されてしまったのだ(10:33-34)。実際、ダビデの子・ソロモン王の家は、祝福されると、高慢になり、信仰が変質して行ってしまったため、その王家は切り倒されてしまった。それで、ソロモン系列ではないダビデ王家の子孫から、イエス・キリストが出た(ルカ3:31)。主は、人の知恵や力由来の高慢が混ざった力は、用いない。むしろそれは切り倒し、人間の力の混じっていない、主の復活のいのちの力を通して、御国を建てられる。
 
 イエス様がバプテスマを受けて水から上がられた時、聖霊が鳩のように降りてきてイエス様に留まり、「その上に主の霊がとどまる」と預言された言葉が成就した。私達も、バプテスマを受け、イエス様へ接ぎ木されているなら、同じ霊が私達にも流れ込んでくる。その霊にはどのような性質や能力があるか。2節にある。
 1,知恵(ホークマー):wisdom 、知恵,知性,思慮。 2,悟り(ビーナー):understanding 、理解,識別。 3,はかりごと(エツァー):counsel 、計画、助言。 4,能力(ゲブラー):might、力。 5,主を知る「知識(ダアト)」:knowledge 、知識,理解,認知。 6,主を「恐れる(イェーラー)」:fear 、畏怖,尊敬,敬虔。
 私達もキリストにつながり、これらの性質に満たされるなら、もはや過ちや間違いは犯さなくなり、世のどんな力も、知恵者も、その人には太刀打ちできない。ちょうど、神の霊で満ちたダニエルやステパノのように。
 また、表面上の物事に騙されなくなる。その人は、目で見える所によって判断せず、耳で聞く話で判断せず、むしろ、公正と義をもって判断するようになり、特に寄るべのない人や貧しい人を正しく導き、また、口のむちをもって地を打ち、「くちびる(サーファー)の息(ルアッハ:霊)で悪者(ラーシャー)を殺す」(3-4節)。 
このサーファーとは、「唇」の他に、「言葉」、「境界線」、「縁」という意味があり、ラーシャーは、道徳的な悪を積極的に行う性質、あるいは、そういう人を指す。すなわち、そのような唇から出る息こそ、御霊の与える御言葉の剣であり、私達の中の、あるいは人の中の邪悪な性質や、反道徳的な性質を刺し殺すのである。
 
 聖霊の油が注がれて、御霊に導かれて歩む人は、もはや、世の肉欲を満たしながら生きるためではなく、主の御国をこの地にもたらすために生きるようになる。そのため、肉の判断ではなく、霊の判断によって判断し、また、人間的なやりたい時にではなく、主の時に促されて事を起こす。主に油注がれた王・クロスは、人の技とは到底思えないような手段とタイミングで、バビロンに勝利し、ペルシア帝国を大いに栄えさせた。
 そして、そのように主の霊に導かれた人が統治する世界は、平和になる。その究極形態としての、イエス・キリストが統治する世界が、6−9節に記されている。そこでは、狼は子羊とともに宿り、子牛と、若獅子と、肥えた家畜は、共にいて、小さい子どもがこれを追って行く。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食うようになる・・・。9節に、そこがこんなにも平和である理由が記されている。
そこは「主の聖なる山」という領域であり、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」状態なのだ。
 獅子や熊が、牛と一緒になって草をハムハムする・・・。そう、主の知識である御言葉をテフィリンし、それが、私達の中に満ちると、どんなに獅子や熊、狼や蛇のような性質であったとしても、それらは抜き去られ、平和な食物を食べる者へと創り変えられ、主の聖なる山で、永遠に、平和の内に生きるようになる。
 
 私達はこの日本に、そのように平和な「主の聖なる山」をもたらす者になりたい、と、思わないだろうか。そのためにはまず、私達の中の高慢が切り倒されなくてはならない。人間的な誇りや高慢の一切混じっていない、「新芽」であられるキリストへと接ぎ木され、この御方につながり続けるなら、そうしている内に流れ込んで来る聖霊の油によって、豊かな実を結び続け、流れ込んでくるいのちに、満ち溢れるようになって来る。
 『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:5) 私達が御言葉にとどまり続けるなら、大胆に、主に何でも求める事ができるようになる。海が水で満ちているように、主の栄光でこの地を満たす、栄光の働きに、豊かに用いられる私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

主日礼拝

ディアスポラ:聖霊の風によるいのちの拡散(ヤコブ1:1)

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English Service: Διασπορά:Scattered - God's great will(Jam1:1-5)  Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 先週は、二年半ぶりにキム・ヒョンジョン博士(米国コーエン大学副総長、テフィリン国際宣教会会長)をお招きし、コーエンジャパンの講義を行う事ができた。コロナの時代、海外の講師を日本にお連れするには、幾つもの許可や資料が必要で、受けるべき諸々の検査に不備が一つでもあったら実現しなかったし、また、準備の時期に関係者の一人でもコロナに感染したら、実現できないという、実に、信仰が試されるセミナー開催だったが、主は全ての青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折り、御言葉の真理の秘められた宝を、ざくざくと開示して下さった(イザヤ45:1-3)。ねたむ霊的存在からの妨害も、色々あったが、主は私達をあらゆる面で支え、成功させて下さり、私達が進んでいるこのテフィリンの道、御言葉中心の道は、確かに主が祝福し、守り、道を開いておられるという事が、ありありと示された。栄光の主をほめ讃えます!
 約2年半ぶりのキム先生の講義は「変わった」と言う人が多かった。確かに今まで、キム先生の講義は、博士課程の講義とは思えないほど、面白くて楽しい、けれども、難しい所もまた多かった。しかし今回のテーマはとても難しい内容のはずなのに、面白くてわかりやすい!という人が続出したのだ。この2年、キム先生にどういう変化があったのか。先生を空港にお届けする道中、その秘密をお伺いする事ができた。
 
  先生は、コロナ禍ゆえに、海外渡航制限されて以来、世界中を飛び回って講義する事が出来なくなり、手足がもがれてしまったかのように見たが、実は、それがかえって、全世界のテフィリン活動が熱くなるきっかけとなったのだ。ちょうどパウロが、ローマに行きたくても「神がかり的な妨げ(エコルセン、ローマ1:13)」に遭って、どうしても行けなかったように。しかし、その「妨げ」のおかげで、パウロはローマ書という書簡を書き残し、その素晴らしい内容が全世界へと広がり、今こうして、私達も、養いを受ける幸いにあずかった。
 キム先生も、世界に出て行けなくなったお陰で、テフィリン国際宣教会(TEIM)が立ち上がり、コロナ前に先生がテフィリンの種を蒔いて育っていた世界中の弟子達を通して、1189節の御言葉暗唱を、世界同時に行うプロジェクトが発足し、今、日本の私達も同じテフィリン箇所を全世界の仲間と一緒に暗唱している。
 現在それに参加している国は37ヶ国、テフィリン映像を制作できる国は、日本も含め9ヶ国に上っている。
 海外渡航が閉ざされ、世界でセミナー開催ができなくなった時、収入の見込みがなくなり、もはや働きができなくなるかのように見えたのだが、奇跡が起きた。キム先生と面識のない方々からの献金が続々集まり、全ての必要が賄われたのだ。神様は、テフィリンに関しては、道を開いておられる、という事なのだ。
 
 この2年半、先生はテフィリンの弟子達を養うために、聖書の一節一節について、四百字原稿用紙3〜5枚分ほどの解説を書くようになった。それは、どれ程の事だろうか。たとえば、「夕があり、朝があった。第三日」(創世記1:13)という、たった一節から、千字以上の解説を書き上げる事が、私達にできるだろうか?
 先生はあれ以来、一節の御言葉をじっくり読み、何度も声に出して宣言し、原語で一語一句を調べ思い巡らす、という作業を、何度も繰り返した。すると主が、その御言葉に込めて下さった命を与えて下さるのだ。
 神の言葉は、一節の中に、宇宙以上の価値が込もっており、御言葉のひとつを集中して何度も宣言し思い巡らしていくと、主が語りたい事が、聖霊を通してダウンロードされ、文字に起こす事ができるようになる。
 そうして聖霊によっていのちが与えられたその言葉は、血肉を帯び、感情を掻き立て、本能的・直感的に理解を与え、時には責め、戒め、あらゆる人に(子供であっても)わかりやすい、養いの言葉となるのだ。
 そして「文書」は残り、蓄積され、その書き残されたものは、全世界へと拡散されていく。あたかも、植物の種が、神様が起こした台風によって捲き上げられ、気流に乗って、拡散し、神様の意図する所へと運ばれ、落ちた所で芽を吹き、根を張り、育って、さらなる実を結び、数千億とも言える生き物たちを養うがごとくに。
 
 『神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、「離散している(ディアスポラ)」十二部族の人々へ、あいさつを送る。』(ヤコブ1:1) この言葉の元であるディアスパイローは、「ディア(あちこちに)」+「スパイロー(種が蒔かれる)」である。つまり「ディアスポラ」になる事は、神による意図的な種の拡散なのだ。一見すると絶望的な「散らされざま」に見えても、それは神の主導によるものであり、結果的には至る所にいのちの実が結ばれて行く事になるのだ。この時代、主が吹かせて下さった聖霊の嵐に乗って、テフィリンの種をさらに拡散させ、その実を豊かにみのらせていく私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

主日礼拝

終わりの時代の残された者になろう(ローマ11:4-5)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭(イースター)、主イエス様の復活を記念する日である。本日は特別に、テフィリン国際宣教会(TEIM)代表、キム・ヒョンジョン博士に、メッセージしていただく。
 『ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルに膝をかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。』(ローマ11:4-5)  
 この箇所は、旧約・第一列王記19章で、主がエリヤに語られた箇所からの引用である。かの時代、神の民と言われていた者達の誰もが、不信仰に陥ってしまった時代だった。そんな中、主に熱心に仕えたエリヤは、祈りによって天から火を降し、3年半も降らなかった雨が降るようになった。それを見た人々はこぞって「主こそ神です」と叫んで、信仰が一気に回復したかのように見えたが、たった一人の女・イゼベルの、たった一言によって、彼が今まで熱心に為して来た労苦と働きは、一瞬にして台無しになってしまった。
 エリヤは逃げて、大いに意気消沈し、「主よ、もはや充分です。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と願うまでになってしまった(1列王記19:4)。 しかし主は、復活の主であり、主にとって「復活」はお手の物である。主は、心が死んでしまったかのような働き人を、復活させて下さる。
 
 エリヤは全てを放り出して、木の下で眠っていたが、そんな彼に主が送られたのは、彼が願っていた「死」ではなく、むしろ、焼いたパンと水だった。復活の主イエス様も、弟子達に同じようにして下さった。弱さ故に過ちを犯してしまった傷心の弟子たちに、主は現れ、ご自身が焼いて下さった魚とパンを、弟子たちに差し出された(ヨハネ21:9-13)。 私達の主は、そのようなお方である。そのような主の直接の養いは、苦心して働く働き人に親密に与えられる、特別な特権であり、それによって養われる働き人は、復活する。
 主は、傷心のエリヤに、御使いを遣わされた。『主の使は再びきて彼に触って言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(7-8節) エリヤにはまだ、多くの成すべき「使命」があった。たとえ傷つき、疲れ、倒れてしまっても、主は、そんな働き人に直接の養いを下さり、そしてそれを頂く人は、どんな険しく、長い道のりでも、進み行く事が出来る。そして、人にはとうて出来ない「主のわざ」をするようになって行く。復活の主は、死を打ち破る爆発的な力を下さるのだ。
 
 エリヤは神の山ホレブに到着し、主の御前に自分の思いを全て投げ出し、一対一で交わった。とても激しく。そして、とても親密に…。その時、主が言われたのが、この言葉である。 『しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を「残しておく(שָׁאַרシャエル)」。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」』(1列王記19:18) シャエル(残された者)法則。それは、主が取って置かれた者、残しておられた者を通して、主が時代に介入される法則である。 どういう人が「残された者」として、主に用いられる働き人となるのか。それは、御言葉暗唱をして、御言葉が息吹かれた働き人、である。
 終わりの時代、主が用いられる人は、忍耐して神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続ける聖徒(黙示録14:12)、つまり、1,旧約の戒めを守り、2,イエスを信じる信仰を持ち続ける、という二つの「守る(シャマール)」を持つ人、すなわち旧新約の御言葉をそのまま暗唱する人が、終末時代の主人公となるのだ。
 
 エリヤはこれ以降、もはや、独りで戦うのではなく、主のために戦う次世代を育て、建て上げる働きへ入る。
主はエリヤに「ダマスコのハザエルに油を注いで王とせよ」と命じられたが、ハザエルを王としたのはエリヤではなく、後継者のエリシャだった。その後、エリシャの預言者のともがらの一人が、ニムシの子エフーに油を注いだ(2列王記9章)。「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは「預言者学校の生徒」と訳されている(2列王記2:3-5)。エリヤはかつて、預言者は全員殺されて自分しかいなくなった、と思ったが、主はバアルにひざをかがめない7千人を「残してシャエル」おられた。彼は後に、預言者学校を立ち上げ、多くの若手預言者たちを育成して行ったのだ。主と一対一で親密に交わり、復活の力を得たゆえである。
 今この時代、私たちは御言葉暗唱して、エリヤのように「御言葉暗唱学校」をつくり、暗唱学校の生徒を、主にある「残された者」として育て上げ、この時代に主のために使命をもって働き、主の栄光を届ける「時代の主人公」を育て上げていく私たちでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

十字架の主への感謝はあるだろうか?(ヨハネ12:24-25)

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English Service: Why "Passion Week"?(Sol8:5-7) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日は「棕櫚の聖日(パームサンデー)」、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城した時、人々が衣服やしゅろの葉を置いてイエス様を歓迎したのを記念する日である。イエス様は、群衆がしゅろの葉を持ってホサナと叫びながら迎える様を、どういう心境で見ておられただろう。彼はご存知だった。その一週間後、彼らの「ホサナ」は「十字架につけろ」へと変わり、弟子達からも、そして神からも捨てられる、という事を。
 群衆はなぜ、そのように様変わりしてしまうのか。弟子達はなぜイエス様を捨てたのか。それは、人は、自分が心地良く都合がいい事を「正解」とし、都合が悪く心地悪い事を捨て去る性質があるからだ。しかし主は言われる。『自分の「命(プシュケー:自分主体の心理)」を愛する者はそれを失い、この世で自分の命(プシュケー)を憎む者は、それを保って「永遠の命(ゾエ:霊的・天的生命)」に至るであろう。』(ヨハネ12:25)
つまり、自分の思い・意思・感情よりも、神の言葉、すなわちイエス様を選択する人は、復活の主イエス様へと接ぎ木され、永遠の命の源泉なる神へとつながり、後に続く世へ存続するいのちを獲得するのである。
 
 私達は本能的に、御言葉は正しい、とはわかる。けれども、御言葉が「良し」と示す事をせず、「悪し」と示す事を捨てずに、御言葉を無視して、あくまで自分の好む事を貫き通すなら、不義をもって真理を阻む事になってしまう(ローマ1:18)。そうしているなら、その分だけ、呪いめいた事、災いめいた事が起きてしまう。
 人はすべて、エデンの園以来、神の言葉に逆らって神から離れ、自分の善悪判断に従って歩み続けた故に、無意識的・自動的に、滅びへと向かう生き方以外を、知らなかった。しかしイエス様は、私達が知らないでやっていた罪については、十字架上で執り成し祈ってくださった。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と。そして本来私達が受けるべき罪の刑罰を、イエス様は、身代わりになって、受けてくださった。それを信じて、救われた人間が、私達・クリスチャンである。
 私達は、私達のために十字架上で痛まれ、私達の身代わりに死んで下さったイエス様への感謝を、どれ程、感じているだろうか。自分の罪に、申し訳なさを感じるだろうか。自分の弱さに、ふがいなさや悲しみが出てくるだろうか。そして、そんな自分が、罪と滅びから買い戻され、救われた事への感謝と喜びの感覚が、あるだろうか?主がして下さった事への感謝を、言葉だけでなく、ありとあらゆる感情や感覚をもってあらわす事、それが天国への道である。天国は永遠に、感謝と喜びの賛美があふれているからだ(黙示録5章)。
 
 しかし、もしひと度、福音を聞いて救われ、その喜びと御国の素晴らしさを味わっていて、敢えて御言葉を捨てて、自分のよかれで歩んで行くなら、その人の下すあらゆる選択は「愚鈍の極み(アスネトス)」となる。
 『なぜなら彼らは神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心(アスネトス)は暗くなったからである。』(ローマ1:21) 「感謝もせず」と訳された語ユーカリステオーは、感謝の意を表明する事である。英語の感謝(thanks)は、考える(think)と密接に関わった語である。
 つまり、神様への感謝は、具体的に表明すべきものなのだ。神様はこの案件に、どう介入し、いかに成功させて下さったか、その一つ一つを熟考し、感情を込め、具体的に感謝を捧げなさい、という事である。
 神をあがめ感謝すべき場面なのに、それらを捧げないなら、一つ、愚かさを積み上げる事になる。だから神への感謝が無い人は、次から次へと愚かになって行き、悪の力に縛られ、人生の諸々が、悲惨な状態へと傾いて行ってしまう。そうして「愚鈍の極み(アスネトス)」になると、物事を「正常に考える」という軸が無くなり、あらゆる事を、愚かで邪悪な方法で片付ける以外に、思いつかなくなり、サタンの手下として思うがままに用いられてしまう。そのような状態の人が助かる道は、1つしか無い。
「神に感謝する事!」  それも、 具体的に感謝を表明する事によって。
 
 私達は、私達のために十字架で痛まれ、悲しまれ、神に捨てられたイエス様に、感謝しても、し尽くせないはずである。イエス様が身代わりに死なれた事への申し訳なさ、自分のふがいなさ、そしてイエス様が為されたわざの故に、贖われ、救われた事への感謝や喜び、また、ありとあらゆる「感覚」を表現しながら、感謝と賛美を捧げる人には、全ての祝福が戻ってくる。ネブカデネザル王は、そうだった(ダニエル4章) 。
 この時期、十字架の主が具体的に自分に何をして下さったのか、今一度思い返し、感謝と賛美を捧げ、主との関係を一層親密に深めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

主日礼拝

この宇宙の下で最も尊く大切なもの(1コリント13:13)

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English Service: When Jesus visits you(Luk19:1-10) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今月の聖句は、第一コリント13:13である。パウロは勧める。あなた方はより優れた賜物を熱心に求めなさい、しかしどんな賜物にまさる道がある、それは、愛である、と(1コリント12:31)。この宇宙の下で、最も尊く、大切なものが「愛」であり、これこそ、私達が真っ先に追求し、そして身につけなければならないものである。
 クリスチャンの中には、「すごい」と思えるような賜物を持っている人は、確かにいる。心に秘めた事や、将来を言い当てる「預言」の賜物を持つ人、あらゆる奥義や知識に通じているかのような人、あるいは、この人が祈るなら、山をも動かせるのではないか、と思えるような信仰の人など。あるいは、持っている物を全部、貧しい人達に分け与えるような人や、自分の体を焼かれるために渡す程の、すごい犠牲を払う人もいる。
 しかし、そうした「すごい賜物」を持っているからといって、必ずしも、神と人から評価されるわけではない。
書いてある。もし「愛」が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルであると(1節)。
このアララゾーとは、鬨の声を大声で叫ぶ際の擬音で、やかましく喚きちらす事である。つまり、たとえそうした「すごさ」を持っていたとしても、愛が無いなら、その「すごさ」が、逆に「やかましい」と厭われてしまう。
すごい奇跡が起きたね、でもそれが何? あなたはすごい信仰だね、だから何? わたしの渇いた人生に、それが一体何の足しになるの? と。たとえ、そういったすごさは無くとも、愛があるなら、人の心は動くのだ。
私達キリスト者は、なぜ、イエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになっただろうか?それはイエス様が、私達を愛してくださったから、ではなかったか。しかも、十字架上で、ご自分のいのちを投げ出すまでの愛で。だから、私達キリスト者も、イエス様にならって、愛を追い求め、愛を振りまいていくべきなのだ。
 
 自分に愛があるか無いかは、4節以降を「逆」に読むと見えて来る。すなわち、愛が無い人は不寛容であり、不親切であり、よく人を妬む。愛が無い人は、自慢し、高慢になり、礼儀に反する事をする。愛が無い人は、自分の利益を求め、怒りに身を任せ、人がした悪をよく勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。
愛が無い人はがまんできず、信用せず、期待せず、耐え忍ばない。そういう人は、どんなに「すごい」事をしてみせたところで、やかましいシンバル、すぐにでも止めて欲しい「騒音」となってしまうのだ。
 パウロは言う。完全なものが現われたら、不完全なものは廃れる、と(10節)。つまり預言も、異言も、知識も、そうした賜物は、所詮は完全なものの一部分を映す鏡に過ぎない。パウロはさらに続ける。子どもの時は子どもとして話し、考え、論じた、と。つまり、「愛」と比べるなら、それらのものは「子供のたぐい」「鏡にぼんやり映るたぐい」なのだ。真に価値あるものは「愛」であり、愛そのものであられるイエス・キリストである。
 私達は、彼によって完全に知られており、彼にあって、ぼんやり鏡に写ったようなものを完全に知る事ができる(12節)。優れた賜物を熱心に求める事は、確かに重要ではあるが、愛が無いなら、何にもならない。
愛があってこそ、物事を完全に知り、物事をわきまえ、全ての賜物が、完全になるのだ。
 
 この宇宙、この三次元世界は、愛の実体であられるお方・イエスキリストの再臨と共に、巻き去られる。
その有限世界の下で最も価値あるものは、愛である。愛が目指すところは「いのち」であり、愛が最も言いたい事は「生きなさい」「存在しなさい」である。それが、愛なる神様が、私達に願っておられる事である。
 自分には愛が無い、どうしたら愛が自分から流れ出るようになるか、と思う人は、私達をはじめから愛してくださったイエス様を、神の御子と告白し、その愛の内に留まり続けているなら、自然と身についてくる(1ヨハネ4:7-21)。イエス様は、私達が生きるように、と、ご自身のいのちを差し出し、身代わりとなって下さった。
 それに対し、サタンは、愛を破壊する「善悪判断」へと誘い込み、愛のわざを、あたかも損得勘定の「損」と思わせ、愛のわざを、くだらないと思わせ、愛から離れるように仕向けて来る。そしてサタンの願うところは、「生きるな」「存在するな」である。私達はサタンのわざを踏みつけ、キリストの働きをするべきである。忘れてはならない。この世で最も価値あるものは、愛であり、世の富や地位は、何も永遠へと加えるものは無い。だから、愛によって子育てしている専業主婦のほうが、愛が無い高給取りよりは、はるかに値高いのだ。
 神の御子が十字架でいのちを投げ出す事は、究極的に無駄な事に思えるかもしれない。しかし、それによって神のこよなき愛が示された。イエス様の十字架こそ、この宇宙で最も価値のある愛のあらわれである。
 イエス様にならい、この限りある時間、限りある地上の命を、人を生かし、次世代を生かし、真理をつなげるために、いのちを燃やし尽くして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

主日礼拝

知恵と啓示の霊を、思慮分別の霊を、求めよ(ダニエル2:1-30)

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週報/メッセージ(説教)概要

 バビロンのネブカデネザル王は、かつてなかったような無茶な難題を、バビロンの知者へ突きつけた。
自分が見た夢を言い当て、その解き明かしをするようにと要求し、それができないなら、その人の手足を切り離して、その家を滅ぼし、ごみの山とする、と、言って来たのだ(1-6節)。人が見た夢の内容など、言い当てられられる訳が無いので、バビロンの知者達は、まず、夢の内容をお話しください、と返す(7節)。しかし王は、頑として言う。あなた方は時間を稼ごうとしている、もし出来ないなら、判決は同じだ、と。一方はあれを要求し、他方はこれを要求して、互いに話が噛み合わないまま、互いの感情だけが険悪になって行く…。
 そもそも王は、なぜこんな非常識な難題を押し付けて来たのか。それは、王は、夢を見て心が騒いだからであり(1,3節)、速やかにその解釈を知りたかったのだが、肝心の、自分の見た夢の内容を、覚えておらず、ただ、内容のインパクトが強かった、という事だけを覚えていて、眠れないまでになってしまっていたからだ。
 
 いつも王の近くに侍っていたバビロンの知者達は、普段から、呪文や神伺いなどを駆使して、何もかも解決できるかのように振る舞っていたので、王としては、彼らには夢の内容と解き明かしが言い当てられるだろう、と、思っていた。ところがバビロンの知者たちは、この期に及んで、そんな事ができる人は一人もいないし、そんな難問をつきつけてきた王は誰もいない、と返して、結局、今まで彼らが行ってきた事は「人間わざ」だったと自ら暴露した。それで王は大いに怒り狂い、バビロンの知者を全て滅ぼせ、と命じた(12節)。
 強硬に要求をゴリ押しして来る人は、自分の思い通りに動いてくれない相手を、短絡的に「無能」呼ばわりし、イライラする。もしその人が強権を持った上司であるなら、大いにやっかいだが、そのような相手に一番してはならない事は、自分の正論をそのままぶつけ、短絡的な解決方法を押し通す事である。そうしてしまうなら、大切なものを失ってしまう。大切な人間関係、積み上げた信頼、そして最悪、大切ないのちを。
 そういう場合に必要なものは「知恵と思慮」である。ダニエルは、自分を殺しに来た侍従長に「知恵と思慮」をもって応待したので、殺しに来た彼らの心をやわらげ、事の詳細を引き出す事に成功した(14節)。
 私達も知恵と思慮を身につけるなら、子育てや夫婦関係、友人や上司との関係において、失敗する事は無くなる。だから私達は、ワンダフルカウンセラーであられる主イエス様に求めるべきである。あなたが見るように見させて下さい、あなたが聞くように聞かせて下さい、あなたの知恵と啓示の霊を与え、思慮分別の霊を、わたしにも与えて下さい、と。 ダニエル達は、祈り求めた結果、与えられた(17-19節)。主は、知恵を求める人には、誰にでも、惜しげなく、咎めることなく、お与えになるお方である(ヤコブ1:5)。主は、人の心に隠れた事を解き明かし、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられるお方だ(20-23節)。
 
 ダニエルは、王の前に連れて来られた時、社会的身分は「ユダからの捕虜」であった(25節)。そうでありながら彼は、ネブカデネザル以上に、世界に神のわざをもたらす影響者となった。実際ダニエルは、3つの覇権国、合計4人の王の代を、生きて、栄えた(1:21)。人の世の地位と、神が授ける地位は、違うのだ。
 ダニエルは王に言った。あなたが求める秘密は、世のどんな知者も示す事はできないが、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、終わりの日に起こる事を王に示されたのです、と(27-29節)。ダニエルは王に、あなたは寝床で、この後何が起こるのかを思い巡らされました、と言い当てたが、なぜ、それができたのか。
 世のカウンセラーは、他人が寝床で思い巡らした内容など分からないが、ワンダフルカウンセラーである主は、全ての秘密も、問題の本質も、そして、それら全部の解決方法も、ご存知である。
 王は、夢の内容を思い出せなかったが、全ての人も同様に、自分の問題の原因を、思い出せない。
どうしてこんなに心が騒ぐのか、どうして皆、とんちんかんなアドバイスしかくれないのか、なんで皆、自分を奇人扱いするのか。人は、どうして自分自身の性質がこのように形成してしまったかを、思い出せない。
 このように、本人すら分からない心の思いと問題の本質は、知恵と啓示の霊と、思慮分別の霊によって味付けられた人こそ、真に、解決への糸口へと導く事ができる。だから私達・クリスチャンは、四六時中、ワンダフルカウンセラーであられるイエス様に祈り、求め、聞くべきである。イエス様と、いつもひっきりなしに交わって、共に歩んで行くなら、ダニエルのように、知恵と啓示の霊が与えられ、思慮分別の霊が与えられ、時代を支配し、神の国をもたらす者、栄える者とされて行くのだ。ワンダフルカウンセラーであるイエス様にいつも求め、御霊を得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

主日礼拝

時代を制する者となる秘訣(ダニエル1章)

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English Service:The Secret of Becoming a Conqueror of this generation(Daniel 1) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 ダニエルとその友人達は、激動の時代を経験した。彼らの国・イスラエルの信仰が堕落し、バビロンという異教の国が力を得て、彼らはそこへ囚われて行ってしまったが、彼らはそれでも、見事、御言葉の基準を貫き、彼らを通して、世界は真の神を知り、彼らは時代をリードする人物となった。まさに今、全世界は、彼らのような人材を待ち望んでいる。彼らのような次世代を生み出す極意を、ダニエル1章から得ていきたい。
 
 ダニエル1章には「神が与えた」という重要なキーワードが、3回登場する。 その一番目は2節にあるが、2節の「与えた」は、あまり有り難いものではない。主は、神の宮の宝物と、世界の政治・経済・文化・教育の支配権を、バビロンの王へ「与えた」のだ。なぜ神は、神の言葉を微塵にも重んじない異邦の王に、それを与えたのか?それは、「神の民」と呼ばれる人達が、主に忌み嫌われる事をし続け、預言者を通して警告されても無視し続けたからだ。そのような事を続けるなら、聖なる器と支配権を、神の民から奪い、異邦の王へと「与え」るのだ。主はいつも、主に忠実で熱心な神の民を探し求めておられる。どんな暗い時代であっても、いかに異教の地であっても、また、どんなに人数が少なくても、主は、彼らを通して、威光を表される。当時、そのような、主の御旨にかなった少年達が、バビロンへ連れて行かれた中に4人いた(3-7節)。
ダニエルと、彼の3人の友人たちである。彼らは親元である神の民の中から引き離され、神の国の価値観から程遠い国のただ中に強制連行されても、御言葉の基準を固く貫いた。多くのクリスチャンの子供は、親元から離れたとたん、羽目を外してしまいがちだが、そのような子供達は、世の荒波に飲まれ、挫折し、何もかも失った末に、ようやく神様と出会う、という、お決まりのパターンの「無駄足」を踏んでしまう。
 ダニエル達は、そういった「寄り道」は一切せず、神と人から重んじられ、その時代に神の栄光の支配をもたらす者となった。彼らのようになるにはどうしたら良いか。彼らは自分の身を汚すまいと決心したが(8節)、彼らが決心をしたその知識は、彼らがバビロンに移される前、親から受けた御言葉教育の故だった。
 彼らは幼少期からテフィリンし、御言葉の知識があって、その基準を守ろう、という熱心が、既に子供の時から備わっていたのだ。そのような人に、神は、知恵と能力と地位と、その時代の支配権を「与えられる」。
 
 二番目の「神が与えた」は、9節にある。「神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。」
 彼らは、王の食卓からの飲食物を、律法に照らして「汚れたもの」と断り、野菜と水だけを求めたが、そのような失礼な事をするなら処刑させられてもおかしくはなかった。神は、そんな健気な彼らに図らって、逆に、上役に好意を得させ、十日間、彼らが申し出た通り試すようにした。その結果、十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、体も肥えていた(10節)。「顔色(マレーヘ)が良い(トーブ)」とは、外見がパーフェクト、ビューティフル、グッドになったという事で、また「肥えていた(バーリィー)」とは肥満という事ではなく、体格ががっちりした、つまり、ナイスバディになったのだ。
たった10日試しただけで、ビフォーとアフターが明確なほど、外見もボディも美しくなった、だけではない。
 
 三番目の「神が与えた」が17節にある。神は彼らに知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた!
これは、学校で学んでいる子供や、御言葉学校やコミュニティセンターを建てる私達に、まさに必要なものである!これらが与えられたいなら、私達も、世の価値観や映像など、汚れた「罪の飲み食い」を断り、ただ神様が「よし」とされたものを願い求め、採り入れるのだ。そうするなら、美しい外見やボディのみならず、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられる、ばかりではない。あらゆる面でダントツになって行く。
 彼らは3年の過程を修了し、王の前で面接を受けた時、誰も彼らに並ぶ者は無かった(19節)。王が彼らに尋ねてみると、彼らは知恵や悟りやあらゆる面で、国中のどんな知恵者より「十倍も」勝っていた(20節)。
そしてダニエルは、バビロン、メディア、ペルシアという3つの覇権国で、ずっと重要な地位にあった(21節)。
そのようになりたいだろうか?それならまず、私達自身がテフィリンして御言葉を暗唱し、ダニエル達のような価値観を身に付けよう。彼らのように、主の嫌われるものを断ち、ただ主に喜ばれるものを求めるなら、上に立てられた人々からの好意が「与え」られ、良い外見やボディも「与え」られ、さらには世に十倍まさる知恵や悟りが「与え」られる。そうして神を第一とする仕組みを建てあげ、この時代、素晴らしい御言葉教育の機関をつくり、誰もがあっと驚くような子を育て、次世代リーダーを送り出して行く私達でありますように!

 

 

 

 

主日礼拝

無割礼の強者が「仕組み」を強要して来る場合(1サムエル記17章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 ゴリヤテは、身長2.9メートルの巨体に、殺傷力が高い武器や防具を身につけ、幼い時から戦闘訓練を受けてきた能力にモノをいわせ、神の民を脅し、彼のルールを押しつけて来た。「お前らはサウルの奴隷ではないか」「一人よこせ」「勝負して勝ったら奴隷になってやる」「勝負に負けたら、お前達は奴隷になれ」と(4-9節)。イスラエルの軍は彼に気圧され、意気消沈し、40日もの間、朝夕なぶられっぱなしであった。
 私達にもこのような「ゴリヤテ」が立ちはだかるかもしれない。そのゴリヤテは一方的にルールを押し付け、勝手に設けた不利な土俵で勝負するよう要求し、「とても勝てない」と気落ちさせ、なぶられ放題にするような「仕組み」を仕掛けて来る。今、時代が、そうなりつつあるが、聖書には、小さい者が大きな相手を倒す場面が、いくつもある。そのような「ゴリヤテ」がはびこる昨今、その者と渡り合って、勝つ術を学びたい。
 
 イスラエルがなぶられて40日が経った時、少年ダビデは、父からのお使いを頼まれて、そこへ来た。
ダビデは、ゴリヤテが平然とイスラエルをなぶるのを見、また、イスラエルの大人達が皆、彼を恐れて逃げ隠れしているのを見て、大いに憤慨した。ダビデにとって、自分達は「生ける神の陣」なのに、それを、無割礼の者によって良いようになぶられっ放しだったからだ(24-26節)。私達も、きよく保つべき自分の人生や仕事、家庭、経済という「神の陣」を、無割礼の者が好き放題にしているなら、大いに憤り、対処すべきだ。
 サウル王は、そんなダビデを呼び出した。サウルは思ったかもしれない。この少年はきっと、少年にありがちな「全能感」に駆られ、大風呂敷を広げているのだろう、と。しかしダビデには、ゴリヤテを打ち倒す根拠があった(34-37節)。ダビデは羊飼いだったが、羊がさらわれたなら、相手が獅子でも熊でも、いのちがけで取り返す性分だった。その性分こそ、神様が「エッサイの子らの中に王を見つけた」と評価された性質だ。
ダビデは「羊飼い」という、人から見れば「下っ端仕事」をしている間、忠実に羊を守り、獅子や熊からさえも、羊を守ったので、主は彼を、イスラエルを牧する「王」とするために、羊飼いの牧場で鍛えておられたのだ。
私達も「羊」を養う時、軽んじてはならない。その「羊飼い」の仕事は、王になるための訓練だと思うべきだ。
 サウルは、ダビデに、自分のよろいかぶとを着させたが、ダビデは、それが馴染まない、と分かると、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだ、「羊を養う道具」を採用した。神の国の戦いは、世の手段や常識に合わせて戦おうとすると、合わなくなる。それを用いようとすると、全然身動きが取れないのだ。主の戦いの武器は、殺傷能力の高い世の武器や、暴言や、脅し言葉などではなく、羊飼いの道具、すなわち、養い守るべき”羊達”を守ってきたことば、手段、方法であり、何より、まことの羊飼いであられる主の言葉だ。ダビデは、川から滑らかな石を5つ取って来たように、私達も巨人を倒すためには、御言葉の水の洗いに揉まれて角が取れた”生ける石”を取り、イエス・キリストという岩の土台に立って、敵に立ち向かうのだ。
 
 45節以降のダビデの言葉には、私達が勝利する秘訣が、ふんだんに込められている。「お前は剣と、槍と、投げ槍を持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、お前が挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」 ダビデは、この言葉によって、武器や力の戦いから、自分の神 vs 相手の神という戦いヘと、シフトした。私達も、主イエスの御名を宣言し、シフトすべきである。
「この全会衆も、主は救を施すのに、剣と槍を用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主が我々の手にお前達を渡されるからである」。そう!主は、武器や装備、経済などを使わずに、救う事がおできになる方である!私達も主の約束の言葉に基づいて、イエス様の御名によって、主の戦いである事を宣言し、主に戦っていただくなら、あとは、主が、勝利へと導いて下さる。
 ダビデはそうした結果、石ひとつでゴリヤテを打ち倒し、ゴリヤテ自身の武器でとどめを刺した(49-51節)。
そしてダビデがゴリヤテを倒した時、イスラエルは、ゴリヤテが決めたルールなぞ守らなかった(52-53節)。
神の民はそもそも、無割礼の者が敷いたルールに、従わされるべきではない。むしろ、主にあってルールを敷いて、それに、無割礼の者を従わせるべきである。「ゴリヤテルール」は、ダビデの信仰宣言によって「ダビデルール」へと上書きされ、それによってダビデは、勝利した。人生における戦いや、主にある兄弟姉妹の戦いを、「主の戦い」へとシフトして、相手がどんなに巨大でも、どんなに大軍でも、どんな装備であっても、彼らの拠り所としているものが、無力化され、私達の神の前に倒れ、そしられていた日々の復讐の日々が始まり、滞っていた祝福の流れが流れ出して行く皆さんでありますように!
 

 

 

 

 

 

主日礼拝

アブラハムの7つの祝福を受けるためには(創世記12:1-3)

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English Service:We always ought to pray and not lose heart(Luke18:1-8) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 3月となった。今月のカレンダー聖句は、創世記12:2-3である。そこには、主が私達の信仰の父・アブラハムに約束された7つの祝福が記されている。私達もアブラハムに習うなら、その祝福を受け継ぐ事ができる。その祝福とは、どんな祝福で、どうしたらその膨大な祝福を受けられるのか、その条件を見てみたい。
 
 アブラハムに与えられた、7つの素晴らしい祝福を受ける条件は、1節の「レフ・レハーלֶךְ־לְךָ」である。
「レフ」は「ハーラフהָלַךְ」の命令形で、ハーラフには「行く、来る、歩む」など色々な意味がある。その次の「レハー」は、多くの訳では訳出されていないが、「あなたのために」という重要な意味がある。つまり「レフ・レハー」は、「あなたのために行け・来い・歩め」である。神様の「行け」という命令は、結局、私達のためだ。もし神様が「行け」と言っているのに、行かないなら、それは私達のためにはならず、滅びに至ってしまう。
そして祝福を受ける条件は、「出て行くレフ・レハー」が3種類、「目指して行くレフ・レハー」が、1種類ある。
出て行くべき3つとは、「エレツ(地,土地,国)」、「モレデット(出生地,親族,同族)」、「ベイト・アビィカー(父の家,先祖の家、生まれながらの所)」である。 アブラハムが生まれ育ったカルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝が盛んな町で、ヨシュアは次にように言っていた。『あなた方の先祖達、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、皆、他の神々に仕えていた』(ヨシュア記24:2)
 私達も、自分が生まれ育った国や、親族、先祖伝来の風習で、主に嫌われる性質があるなら、そこから「出る」べきである。今までの、主を知らずに生きて来た生き方で身についてしまった主に忌み嫌われる性質から、あなたのために「出て行き」、主の元に「来て」、主と共に「歩め」、それが、祝福の前提条件である。
 
 次に、目指して行くべき一つの「レフ・レハー」とは、主が見させ、解らせ、理解させ続ける(ラアーの未完了態)、「あの地」(1節後半)、と主は言われる。それは、地上のどこか特定の場所ではない。主が見させてくださる地、「ここがそれだ」と、私達に理解させて下さる地である。事実アブラハムは、どこかの場所に定住するという人生は送らず、ある時はヘブロンに、ある時はベエル・シェバに宿り、いずれも、主が「ここがそれだ」と理解させて下さった地に、天幕を張った。私達も同じである。主が「ここだ」と言っておられるのが、私達に「わかる」その場所が「そこ」なのであり、その「場所」とは、その時々で、変わる。そこの場所がどこかは、重要ではない。私達にはただ、神様と共に「ハーラフ(行く、来る、歩む)」する事こそ、重要なのだ。
 
 このように「レフ・レハー」するなら、主から与えられる7つの祝福が2-3節にある。その動詞には強意・能動態(ピエル態)がふんだんに使われており、詳訳すると、次のようになる。 ?あなたを、人々の前で、大いなる・重要な・際立った人に、し続ける(未完了継続)。 ここの「人々」と訳された語「ゴイ」は、人々やイナゴなどの「群れ」を意味する。アブラハムの祝福の条件を満たす人は、人々の間で、際立った、重要な人となり、周囲の人々は、単なる「群れ」のようになるのだ。 ?わたしはあなたを、断じて祝福する!(ピエル態)
?わたしはあなたの名を、断じて大いなる者とする!(同) ?あなたの名は、祝福となれ!(命令形) ?わたしは「あなたを断じて祝福し続ける人」を、わたしも断じて祝福する! ?「あなたを断じて軽んじ呪い続ける者」を、わたしも呪い続ける! ?地上の全てのやからは、あなたによって祝福された(受動・完了)。
 
 以上のような、素晴らしい祝福を受ける条件が、3種類の「出て行くレフ・レハー」と、1種類の「目指して行くレフ・レハー」だった。この、主と共に「歩む(ハーラフ)」事こそ、神の民の必須条件であり、祝福に不可欠な性質である。エノクとノアは、「神と共に歩んだ(ハーラフ)」と記されており(創世記5:22-24, 6:9)、ダビデも、主と共に歩んでいるなら、そこがたとえ、死の影の谷であっても、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが、追いかけて来る、と告白した。(詩篇23編)
 アブラムに、祝福の名「アブラハム」が与えられた時、主は「ハーラフ」を命じられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。」(創世記17:1) ここの「歩み」はヒットパエル態、すなわち、自ら主体的・自覚的・自発的に、主とともに歩みなさい、それが「全き者」の条件である。
 自分から主体的・自発的に、主の忌み嫌われる所から出て行き、主の「行け」と言われる所へ行き、そこで主と共に歩み、全き者となって、アブラハムに与えられた7つの祝福を得ていく私達でありますように!

 

 

 

主日礼拝

霊的戦いの本質 – 場所取り戦争(黙示録12:7-12)

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English Service:The Nature of Spiritual Warfare - The War for place (Revelation 12:7-9) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 悪魔サタンの性質と戦い方について、もう少し学びたい。黙示録を見ると、霊的戦いの本質が分かる。
黙示録12:7-9から分かることは、悪魔サタンという存在は、神の勢力よりも弱く、神の御使いにすら勝てないという事、また、悪魔サタンは、詐欺師と同じく、色々な名前を持っており(巨大な竜、悪魔、サタン、古い蛇など)、そうして正体をうやむやにする…裏を返せば、正体が明かされる事を極端に嫌う事だ。さらにここで分かる重要な事は、天の戦いは、殺し合い・傷つけ合いの戦いではなく、「場所取り戦争」である事だ。
その「場所」とは物理的な空間ではなく、意思のやり取りによって、得たり、失ったりする、見えない「支配領域」であり、それが現実の世界を動かす。そして勝負方法は、意識やことばを用いた主権・力の戦いである。
 
 エペソ6:12に書いてある。私達の格闘は物理的・肉体的なものではなく、以下の戦いである。すなわち、
 1,主権(アロケー):順序的・時間的・場所的な主導権。 2,力(エクソウシア):力を自由に行使したり裁量できる特権。 3,空中(アイオーン:時代・世代・世界)に働く、闇を握った世の主権者たち(コスモクラトール)、また、4,天にいる、諸々の悪意を持った霊的存在たち(プネウマティコス)に対するものである。
 それらは、悪意をもって時代に働き、主権を取り、時間的・空間的・経済的な「場所取り」を仕掛けて来る。
それは、人が持っている自由や資産を侵犯し、奪いにかかる事を意図し、その悪意に同意する人間達を、政治家や王に仕立て、経済の実権を握らせて働き、法や仕組みを動かし、悪意を遂げようとして来る。私達の戦う相手は、これらであると書いてある。それなら私達は、政治運動をしたり、彼らが隠れてしている事を暴露する働きをしなければならないのか?エペソ書の続く箇所には、そんな事は書かれていない。むしろこの戦いは、肉弾戦ではないと書いてあり、主権・力、この暗やみの世界の支配者という「見えない相手」に戦う手段は、見えない武器によって立ち向かうべきであり、それは、訳の分からない戦いではない。
 
 14節以降に、戦いの武具が書いてある。これらは明らかに、物理的武器ではない。私達が取るべき武具とは「真理」、「正義」、「平安の福音の準備」、「信仰」、「救い」、そして「神のことばという御霊の剣」である。
 私達は、福音の真理や、義、平安、信仰などによって、私達の思い、意思、感情、知識を武装し、そして、口からは、御霊に味付けられた神の御言葉を剣とし、攻撃するのだ。ゲームの武器や防具には、よく属性やステータスが割り振られているが、私達の霊的武具のそれぞれのステータスは、イエス様への信仰の度合いによって、強くなるが、御言葉暗唱(テフィリン)こそ、「霊的経験値稼ぎ」に最短・最強の方法である。
 霊的攻撃も、防御も、神のことばと御霊による祈りによるものであり、勝利の鍵は、「しつこさ」である。18節には、絶えず目をさまして御霊によって祈れ、と書いてある。それも、忍耐の限りを尽くして祈りなさい、と。
いつまで祈ればいいのか。それは、「場所を勝ち取るまで」である。そして人生を取り戻す奪還戦をするには、一体何が、それまでの人生を台無しにして来たのかを、明確にターゲッティングする事が必須である。
 イエス様は悪霊を追い出す時、明確にターゲットを特定して、追い出した(マルコ5:9,9:25)。一体何が今までの自分を惨めにさせて来たのか、何が人生をここまでにしてしまったのかを、まず辿り、悪霊が場所取りしている所を、明確にするのだ。過去に受けたあの時の傷、そこから沸き起こる負の感情、あるいは、過去に満たされなかった強烈なあこがれなどに、悪霊は巣作りして、当時、感じた痛みを、しょっちゅう、ほじくり返しては、「あの人が悪い」「戻ってやり直したい」「あの時発散できなかったから今発散するのだ」、といった、怒涛の「負の感情攻撃」を、ずっと仕掛け続けている。私達はその「要塞」をターゲッティングし、それが分かったなら、それを紙に書いて狙い撃ちにし、踏みつけ、イエス様の名によって縛り追い出すのだ。
 
 悪しき者との戦いは、物理的なものではなく、ゆずった・ゆずらない、容認した・容認しないという、意思と言葉を用いた場所取り戦争であり、勝利する鍵は、真理の御言葉によって、いかに「しつこく」攻撃し続けたかどうか、である。それは、延々と続く戦いではない。サタンはイエス様を誘惑した時、3回の御言葉攻撃で、撃退された。しかしもし私達の側が、譲ってしまうなら、その既成事実が要塞となり、つけあがってくる。
私達が御言葉にしっかり立ち続けるなら、悪魔サタンはその領域を侵犯できず、やがて、出ていく。真理の御言葉に固く立って、悪しき者を追い出し、奪われてきた人生の時間や尊厳、経済、人間関係といった「場所」を奪い返し、むしろ支配していく皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 
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