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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝
乳と蜜の流れる地に入るための査定:ダバル(民数記13:27-14:38)
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週報/メッセージ(説教)概要

 『彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。』(民数記13:27) イスラエルに行ってみると、そこはまさに乳と蜜の流れる地だと感じた。その地のくだものは、太陽と水にふんだんに育まれ、刺すようなみずみずしさで溢れていた。南のベエル・シェバやエルサレムは砂漠の気候なのに、水が湧き上がり、北のガリラヤ湖周辺は非常に潤って緑豊かで、さらに北端のダンの地、ヘルモン山周辺では豊かな水の流れが出ていた。
四国ほどの面積の中に春夏秋冬があり、砂漠も潤った地もあった。まさに山と谷の地、天の雨で潤っている地、主の目がいつも注がれている地であった。そしてそこは、同時に、人をテストする地でもあった。
主は、乳と蜜の流れる地に入る人を、テストされる。果たしてそこの良きものを享受するに値するかどうかを。
  本日の書、「民数記」の原語はベミッドバルבמדבר、「荒野にて」という意味である。「ダバルדבר(ことば)」に場所を表す前置詞「メムמ」がつくと「ミットバルמדבר(荒野)」、さらに前置詞ベイトב(〜にて)がつくと、「荒野にて」の意味となる。民数記の内容は、エジプト(世)から約束の地(神の国)へ行く途上の中間地帯、荒野(ミットバル)にて、神がテストし、約束の地に入るに値する人と、そうでない人とを振り分けた記録でもある。神はまず、御言葉という「大正解」を教えられる。そして、目の前に起きる事象や出来事に対し、人がどのダバル(ことば)を選択し、発したかによって、採点された。私達も同じように、この「世」という荒野にて、目の前に起きる諸々の事象に対し、どのダバルを選択して行くかによって、採点される。
 そこは乳と蜜が流れる地であったが、『その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。』(13:28-29) 主は、強靭な原住民をテスト材料に用いられた。ついこの間までエジプトで隷属して生きてきたイスラエルの民には、到底勝ち目の無い相手である。
 『その時、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼と共にのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。』(民数記13:30-31)
 カレブとヨシュアは「必ず勝つ」と、他の10人は「攻めのぼる事は出来ない」と、ダバル(言葉)を発した。
自分達の力では到底勝ち目の無い相手なのに、ヨシュアとカレブは、なぜ「必ず勝てる」と判断したのか。
それは神の命令は元々「行け」であり、そして自分達と共に行かれる神は、その者達より遥かに強いからだ。
 他の十人は、主の命令と主の力をキレイさっぱり忘れたかのように、自分と彼らとを比較し、主が示された地を「悪く」言いふらした。そこは自分たちを滅ぼす地だ、そこに住む者達は強大で、それに対し、自分達はいなごのように思われた、と(13:32-33)。人々は、そのダバルに感染され、次々に不平・不満を言い出す。
『何故、主は私達をこの地に連れてきて、剣に倒れさせ、また私達の妻子をえじきとされるのであろうか。』(14:3) 主の言葉を捨て、人由来の弱音や不平、文句を言った人達は、そのダバルどおりにその身に災いが起き、荒野にて滅びた。ただ神のダバルを握りしめ、御言葉を発した人達だけが約束の地を受け継いだ。
  言葉(ダバル)。それは感染力を持つ。ダバルの母音が変わってデーベルという発音になると、ペストのように広まる「疫病」の意味になる。詩篇91篇に書いてある。主に対し「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と宣言する人を、主は狩人のわなから、恐ろしい「疫病(デーベル)」から、救い出される、と。
民数記にて、多くの人を滅びに導いてしまった人間の言葉(ダバル)には感染力があり、それがデーベル(疫病)へと実体化し、彼らを滅ぼした。それを消毒し、いのちへと導く特効薬は、神のダバルである。
 今回、私たちも試された。2/22以降、イスラエルでは日本人・韓国人はコロナを持っているかのような”ダバル”が蔓延し、私達はホテルの隅に隔離され、以降の行程が断念された。軍に拘束される危険性もあったため空港に逃れたが、あちらこちらに追い返された。しかし私達は誰も、絶望の言葉や、「どうして私達をここに連れて来たのか」と文句を言わなかった。私達の一人が38度の熱があると診断され、全身防護服の検疫官に連れて行かれ、一緒にいた私達も隔離を言い渡された時も、また、用意された航空券が購入できない程の高値であった時も、ただ神のダバルを宣言し、祈り続けた結果、主は、とても素晴らしい待遇で手配して下さり、私達は全員揃って、無事、日本に帰る事が出来た。主は、試される。私達が、この世という「荒野にて」、どのダバルに場所取りするかを。それによって、約束の地に入れるか入れないかが決まる。
デーベルに侵される事なく、神のダバルを宣言し、いのちに溢れた地を受け継ぐ皆さんでありますように!
 

主日礼拝
災いの日を喜びの日に変えるために(エステル9-10章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 年明け以降、エステル記から恵みを頂いている。本日、その最後である。ユダヤ人の敵ハマンは、ユダヤ人を滅ぼす日を12月13日と定め、さらにモルテガイも木にかけて殺害しようと企んだ。
 しかし、時間と空間の主権を支配しておられる主は、主に助けを求める神の民を、敵の思いのままにさせる事をしない。主は紙一重の差で、モルテガイに大きな栄誉を与え、またハマンの全ての悪行を暴き、彼がモルテガイを吊るそうとして立てた木に、彼自身がそのまま架けられた。こうしてモルテガイは、彼が建てていなかったハマンの家を譲り受け、また、ハマンが得ていた地位と権威も、ごっそりそのまま受け継いだ。
 ハマンは死んだが、彼が制定した「ユダヤ人を滅ぼせ」というメド・ペルシヤの法令は、一度発布されたら、取り消す事はできない。そこでモルデカイは、その法令に勝利する法令を、すなわち、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらむ者は、逆に滅ぼしても良い、という法令を、王から与えられた権限を行使して制定した。
 こうして、その法令に則って行動する人には、いのちの救いと、敵の財産を没収する特権が与えられた。
しかしもし、この王の権限を行使せず、敵が勝手に制定した「死の法令」を放置したままなら、滅んでいた。
 
 天の法令も、メド・ペルシヤの法令と同様、一度発布されたら取り消せない。敵であるサタンは、人をそそのかし、人を罪に陥れ、罪と死の法則を招いた。罪を犯した人は、必ず死ななければならないが、天の王であられる神は、それに勝利する法令を発布された。すなわち神は、御子イエス・キリストを、全人類の身代わりに十字架に架け、そして彼を信じる信仰によって、罪は帳消しにされ、滅びを免れ、神の子としての特権が与えられ、サタンから大いにぶんどって良いという「いのちの御霊の法則」(ローマ8:1)が制定された。
 この、王から与えられた特権を行使するなら、人は救われるだけでなく、サタンから良いように分捕られ続けて来たものを、逆に、大いに分捕り返して良いのだ。しかし、この特権を行使しないなら、その人は死の法則によって滅ぼされてしまう。サタンが人を陥れた「罪と死の法則」は、取り消されていないからだ。
 
 さて運命の12月13日、ユダヤ人達は、モルテガイが定めた新たな法令に、固く立ったゆえに、ユダヤ人の敵は、逆にユダヤ人によって滅ぼされた。その報告がもたらされた王は、エステルに言った。
 『「さてあなたの求める事は何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞き届けられる。」エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。』(エステル記9:12-13)
 あの優美なエステルが、そんな事を願い出たのか、と、驚かれるかもしれない。しかし、神に敵対し、人のいのちを踏みにじるようなサタンの仕業は、私たちは躊躇せず、徹底的に滅ぼし、見せしめにするべきだ。
 そもそも、エステルが願ったこの願い、すなわち、神の民に敵対する者の根絶は、はるか昔、サウル王の時代に、成されるべきだった。サウル王はアマレク人を根絶するよう、主から命じられていたが、彼はアマレクの王アガクを根絶する事を惜しみ、それで災いの根を残す事になってしまった。(1サムエル15章)
 アマレクの性質を一言で言うなら「弱い者いじめ」で、弱い者を狙い撃ちするのは、サタンの性質である。
アマレクは、エジプトから出てきた会衆の、後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにし、また、ダビデと部下達が戦争で留守中、天幕に留まっていた女子供と財産を狙い、奪って行った。
 アガグ人ハマンは、このアマレクのアガグの子孫であると言われている。ハマンは、権力を握ったとたん、イスラエル民族を皆殺しにしようと企んだ。もしサウルの時代、サウルが主から仰せられた通り根絶していれば、アマレク人の末裔・アガク人・ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。
 私たちも、私たち自身の中にある、自分を滅ぼしかねない性質は、徹底して滅ぼし尽くすべきである。
そして、弱い者いじめをして圧政しようとする性質には、断固、立ち向かうべきである。王はエステルに、「何をしてほしいのか、求めなさい」と言った。天の王である主も、私達に「求める」事を願っておられる。
 私達は、救うべき人を救うべきであり、滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くすべきである。それをしないなら、災いの根っこが育って手がつけられなくなってしまう。私たちは見分ける知恵を求め、遂行するべきだ。
 エステル記10章は、アハシュエロス王の勢力がモルテガイの力にあずかっている事を暗示している。
エステルやモルテガイのように、聖なるプライドを持ち、王の王・イエス・キリストの喜びとなる事を行い、その時代に大いに用いられ、栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
闇の中で病が忍び寄る時の過ごし方(詩篇91篇)
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週報/メッセージ(説教)概要

今、中国武漢に端を発するコロナウイルスで全世界が恐怖に包まれている。ウイルスは目に見えないし、今回のウイルスは潜伏期間が長いので、一体誰が感染しているのか、もしかしたら自分も?と、死の恐怖が闇の中から忍び寄っているような恐ろしさがある。店からも、マスクや消毒液は売り切れている状況だ。
 この時期、私達キリスト者は、いかに過ごして行くべきか。今日、あらゆる災いから守られるコツを得たい。
 
 結論から言うと、最も有効な防護方法は、詩篇91篇を、各自、信仰を混ぜて宣言し、いと高き神に身を避ける事である。マスクは売り切れるし、ウイルスはマスクの隙間からも入って来るが、信仰の大盾は売り切れる事が無く、迫りくるウイルスも、悪霊が放つ火の矢も、無効化させられる。毒を受けても害を受けず、むしろ病人に手を置けば、病人は癒やされるのが、信じる者に与えられるしるしである。(マルコ16:18)
 詩篇91篇には、とても強力な保証が書いてある。いと高き方の隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は、闇の中を歩き回る疫病も、真昼に襲う滅びをも、千人の人が右手に、万人の人が傍らに倒れる時さえ、災いが襲うことはない。 第2次世界大戦下、イギリスのウイットルゼイ大佐は、この詩篇91篇を部下全員に暗唱(テフィリン)させ、毎日祈らせた結果、銃弾が飛び交う戦場で5年間、一人の死者も出さなかった。
 主は、その御翼の陰を避け所とし助けを求めに来る人には、御翼を広げ、その人を覆ってくださる。神の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も恐れることはない、と書いてある。
 
 人は、蔓延する疫病は、無差別に誰も彼もに襲いかかる、と思いがちだが、主は無差別なお方ではない。出エジプト記や民数記などを見ると、災いや病が起きる時、必ず人の側に、主に対する罪があり、また、病や災いで真っ先にやられた人は、主が立てられた指導者モーセに逆らったり、文句を言ったり、主の御言葉に逆らった人達だった。病がはびこる時、そこに込められた主のメッセージに、耳を傾けるべきである。
 コーエンの中国宣教をした方からの報告によると、武漢は2019年、教会迫害が最もひどく、48の地下教会を強制的に閉鎖させた地域で、中国宗教規制政策の模範地指定までされた。年末には、ほぼ全てのキリスト教宣教師が追放されており、中国全体のどの地域より、キリスト教弾圧がひどかったという。
 しかしこの度のウイルス騒ぎでは、宗教規制を実行する部門の最高位だったその人が、真っ先にウイルスで死んだという。「あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。」(詩篇91:8)
 主は、好きこのんで人々に災いを下されるお方ではないし、災いは誰にも彼にも降されるわけではない。
主に忠実な人は、災禍のたとえ中心地にいても、無事である。
 イスラエルが罪を犯し、サタンがダビデをそそのかして民の数を数えさせた時、イスラエル全土で、7万人もの人々が疫病で倒れた時、御使いがエブス人・オルナンの打ち場に立ち、抜き身の剣をエルサレムの上に差し伸べていた(1歴代誌21章)。その災いの中心地である打ち場にいたオルナンは、何の害も受けず、その傍らで麦打ちしていた。そこに主君・ダビデ王が来た時、彼はすぐに出て来て、ひれ伏した。
 オルナンは、普段から仕事に、また主が立てられた権威に忠実であったばかりではない。彼はいつでも、主に全てを捧げる心備えががあった(22節)。 このように忠実で、主を愛する人を、主は助けて下さる。
 『彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。』(詩篇91:14)
 また、人々を救うために働き、執り成し祈る人にも、主は守りの保証を与えて下さる。モーセの時代、人々が主に逆らった故に疫病が起こり、人々がばたばた倒れて行く中、大祭司アロンは祭壇から火を取り、死んだ人達と生きている人達の間に走って行って祈りの香を焚いた時、疫病が止んだ(民数記16:41-50)。
この時、アロンは生きている人と死んだ人の間に立ったのに、彼は病とは無縁だった。
 
 私達は、まことのほふられた小羊であるキリストの十字架の血潮の元に、避けどころを求めるべきである。
オルナンのように、与えられた仕事と権威に忠実で、いつも主を愛し、主に捧げる心を持ち、そしてアロンのように、苦しんでいる人達のために祭司としてとりなし祈り、この事によって主への悔い改めが沸き起こり、主への栄光が捧げられる形で、収束に向かう事を祈りつつ、この時期を過ごす皆さんでありますように!

主日礼拝
滅びの法則は、キリストのいのちの法則で対抗せよ(エステル記8章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 主から大きな恵みを頂いて、大きく用いられる性質とは何か。エステル記から引き続き恵みを得たい。
 モルテガイを木にかけようとしていたハマンは、逆にその木に彼が架けられ、ハマンの家は王妃エステルに与えられ、ハマンが握っていた王の指輪(実印)は、そのままモルデカイに渡された。(エステル記8:1-2) 
 まさに、私達が満たしていない良い物が満ちた家を得させ、私達が掘ったものでない井戸を得させ、私達が植えたものでないぶどう畑とオリーブ畑を得させて下さる、という御言葉の通りである。(申命記6:11)
 主は、時間と空間を支配し、主を求める人々には、素晴らしいタイミングで助けを送り、主に敵対する者には、その報いをされ、こうして主は、主の民を特別扱いして下さる事を世界に示し、栄光をあらわされる。
 
 ハマンは死に、モルデカイは支配の実印が渡され、ハマンの家も与えられたが、まだ一件落着ではない。
このままでは、ハマンが定めた神の民を滅ぼす日・12月13日に、モルデカイもユダヤ人も殺されてしまう。
そこでエステルは、この今だ有効な「滅びの法令」を取り消してもらうため、再び王に直訴した。しかし王が言うには、メド・ペルシヤの法令は、一度発布してしまったら消す事は出来ない。だから、ハマンが定めた「滅びの法令を打ち滅ぼす法令」を新たに定め、王の名で実印を押し、有効化させなさい、と言った。
 天の法令も、メド・ペルシヤの法令と同じように、一度発布されたら、取り消せない。人は罪を持っているなら、必ず死ななければならない、という天の法令は、決して取り消す事ができない。
 ハマンは最初、ユダヤ人を殺害し、その富を分捕ろうとしたが、サタンも同じ目論見をした。サタンは人を妬んでそそのかして、罪へと陥れ、死と呪いを招いた。罪を犯した人は必ず死ななければならないが、憐れみ深い神は、それに対抗する法令を発布された。すなわち、私達の罪の身代わりとなって、木に架けられ、死なれたイエスキリストを信じる者は、その信仰によってサタンに勝利し、罪は帳消しにされ、滅びを免れ、神の子としての特権と栄誉が与えられる。主は、この素晴らしい「いのちの御霊の法則」を制定された。
 ローマ8:1を、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩み続けている(現在形分詞)キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」である。
サタンが定めた罪と死の法令に対し、何も対策を実行しないままでは、そのまま死の法則が遂行されてしまう。だから私達は、勝利者であるキリストに留まり続ける事、いのちの御霊の法則に乗り続ける必要がある。
すなわち、自分の思い・意思・感情は脇に置き、御言葉であるキリストご自身である御言葉を優先させる。
そうすると、自分の資質や能力、努力などによるのではない、キリスト由来の、力ある「法則」が動き出す。
 飛行機に乗るなら、重力の法則を打ち負かして飛行して行くように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則を打ち負かし、死をいのちへと飲み込んで行くのである。主は、滅びの法則に束縛された私達に、人の資力によらぬ、キリストのいのちの法則による解放を与えて下さったのだ。
 
 モルデカイは次の法令を発布した。すなわち、ユダヤ人の敵は残らず根絶やしにし、その家財を分捕って良い、という法令を。(9-11節) その良き知らせが、早馬によって世界中に告げ知らせられた。
 同じように今、イエス・キリストが定めた勝利の良き知らせ、すなわち福音(エウァンジェリオン)が、世界中に届けられつつある。キリストはサタンを打ち破り、圧倒的に勝利し、サタンの家財を、大いに分捕って良い、という、勝利の良き知らせ(福音)は、今、全世界に告げ知らされ、私達はその使者となっている。
 しかし法則は、ただ単に知っているだけでは、効力は発動されない。ハマンが定めた法令に対抗手段を講じず、そのまま置いていたなら、やがて滅ぼされてしまっていたように、日々迫り来る罪や死、病や困難に対し、何の対抗手段を講じなければ、やがて滅ぼされてしまう。私達は日々迫り来る罪や死は、イエス・キリストの名によって拒否し、イエスにつく者として、勝利を宣言し、そして、信じた通りに行動するのだ。
 モルデカイは栄誉が与えられ、青白の王服と金の冠を身に帯びて、王の前から出てきた。(15節)
同じように私達も、王族の祭司の特権と栄冠が与えられ、王として統べ治めるのだ。(1ペテロ2:9)
だから今、私達は主イエス・キリストが定めて下さった、いのちの御霊の法則に、しっかり根ざすべきだ。
サタンは一度、罪と死を人類に導入し、人類はそれに何ら対抗できなかったが、しかし今や主イエス・キリストが勝利し、彼にあって堂々と対抗できるようになった。私達は彼にあって必ず勝利し分捕る事が出来る。
この法則に従って、勝利の内に歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
未体験の莫大な恵みをいよいよ得るにあたって(エステル記5:1-5)
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 自分で努力して建てなかった素晴らしい町々や家々、自分で努力して植えなかった、素晴らしくて良い畑を与えるために、主の側は、いつでも準備が整っている。ただ私達の側が、それを受ける体制を整えなくてはならない。果たして私達は、今まで見た事も聞いた事も、手にした事も経験した事も無いような、素晴らしくて大きな栄誉を、また富を、力を、いよいよ得る準備は整っているだろうか? 今回、このような莫大な恵みを頂く性質とは何かを、エステル記を開いて、共に恵みを頂きたい。エステルは見事、王の心を射止め、王妃の座を獲得し、王から三度も「望むなら、王国の半分でも願いをかなえてあげよう」と言われた。
 
A,エステルの一番際立った性質は、「従順さ」である。彼女は霊的な育ての親・モルデカイに従順であったし、また、王の嗜好を熟知している宦官・ヘガイの言う事に従順であった。王妃の候補であった女性には、願うものはみな与えられ、それを持って王宮に行く事が出来たが、彼女は、ヘガイが勧めたもの以外は、何も求めなかった。それでエステルは、全て彼女を見る者に喜ばれた。(エステル記2:15)
 願うものはみな与えられる、という場面であっても、自分の好むものは何も求めない。ただ、従うべき人の助言に従って、それを身に着け、王の喜びとなるものだけを求めた。私達も、自分の願望ではなく、霊的な助言に従って求め、王の王であるキリストの喜びとなる事だけを求めるなら、やがて莫大な恵みを頂ける。
B,『わたしがもし死なねばならないのなら、死にます』(4:16) この言葉は、王の次の権力者・ハマンが、ユダヤ人を絶滅させるための法律を、王に成り代わって発令した時、モルデカイが「王に直訴するように」とエステルへ求めた時の、彼女の言葉である。王からは呼び出されていない状態で、王の元へ行く事は、死ななければならないが、王の好意を得、王が笏を差し伸べるなら、その時は助かる。彼女は、それでも行った。彼女は、自分が王妃だという身分である事に安んじる事なく、神の民のために死ぬ覚悟を示したのだ。
C,『三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。』(5:1)
 エステルは死の覚悟の断食をし、三日目になった時、王妃としての権威を着て、王の居る方へと立った。
 夫は、妻が従順を示し、夫の喜びとなる事をつとめ、「わたしはあなたのものです」と、その瞳でじっと見つめられると、夫は彼女を、ティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしく、そして、旗を掲げた軍勢のように「恐ろしい」と感じるようになる(雅歌6:1-10)。
 エステルは、死を覚悟して、王妃の衣装を着、王の前に出て行った。その時のエステルは、どれほど王の目に美しく、愛らしく、そして、恐ろしく見えただろう。ここまでされると、王は、行動せざるを得ない。
D,王はエステルに好意を示し、金の笏を彼女へ差し伸べ、彼女は笏の頭に触れた。そして王は言った。
E,「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。
 
 以上が、エステル流の、手にした事も、経験した事も無いような、素晴らしく大きな栄光を頂く性質である。
王の王であられる主イエスと、聖霊のアドバイスに「A'.従順」であり、自分自身の欲求は、十字架の「B'.死へと明け渡し」、「C'.三日目に、王なるキリストから与えられている衣を着て、王の前に進み出る」のだ。
 本来、聖なる聖なる王、主イエスの前にそのまま進み出るなら、死ぬ以外には何も無い。しかし、私達がA'-C'を保って進み出るなら、「D'.主は私達に好意を示し、その支配の象徴である、鉄の杖を差し伸べて下さる。」私達もその杖の頭に触れ、そうして、私達にも諸国を支配する権威が与えられる。(黙示録2:26-27)
 そうすると、王は言われる。「E'.あなたが望むなら、王国の半分でも、願いをかなえてあげよう」、と。
 しかし、国の半分でも与える、という言葉を頂いた時、有頂天になって、さっさと調子に乗ってはならない!
エステルはさらに奥ゆかしく、「もしも王様がよろしければ、宴会に、ハマンと一緒に起こし下さい」と言った。
彼女の中では、心底、王の喜びとなる事が、優先なのだ。いかに、自分の民族を滅ぼし尽くそうと企んだ、あの汚らわしいハマンを一緒に招かなくてはならない、としても。それほど、エステルの心は、王を喜ばせたい、という一心だった。全く見せかけではない、その「美しい性質」こそ、真に自分のものとすべきだ。
そのためには、日頃から、この王として、また王妃としての、優雅な美しい素養を培っていなくてはならない。
 見た目にも、心の中も、立ち居振る舞いにも、言葉遣いも、タイミングも、気品においても、全てにおいて美しいエステルのように、柔和な、穏やかな、心の中の隠れた人柄を飾りにする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝
キリストにあって新しくされた人の特権(マルコ1:9-11)
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 新しい年が始まった。この記念すべき2020年最初の主日、かねてから天声の養いを受けていたMajid兄弟が、洗礼を受ける事になった。天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間は、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、主への礼拝によって年を初める。洗礼も全く同様で、過去の自分を、水の中に沈めて死へと渡し、一切を精算し、キリストにある新しいいのちで生き始める新たな出発である。
 洗礼を受けて主に繋がった人には何が起きるのか。それを学ぶ事は、この新たな始まりの日に相応しい。
本日、主イエス様が洗礼を受けられた場面から、洗礼を受けた私達はどんな恵みを受けるのかを知りたい。
 
 『その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように自分に下って来るのをご覧になった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。』(マルコ1:9-11)
 イエス様が洗礼を受けられた時、3つの経験をした。すなわち「1,天が裂ける」、「2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る」、「3,天からの声があった。その内容は、あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」 これら3つは、洗礼を受けて主に繋がった私達も、経験する事である。
 洗礼は、罪に対して死に、神に対して新たに生きる誓いである。罪が元々無いイエス様は、洗礼を受ける必要は無かったのに、敢えて受けられた理由は、私達全ての代理として、また長子として、模範を示されたのだ。私達も彼に倣うように、と。全く同じ理由で、イエス様は十字架で処罰を受けられ、また死なれた。
 だから、イエス様が洗礼を受けられた時、彼が経験された全ての事は、私達・キリストに繋がった全ての兄弟姉妹も経験する「特権」である。だから、私達も洗礼を受けた時、次の事が起きる。
 
 1,天が裂ける(スキゾー): この非常に特殊な出来事は、イエス様が十字架にかかって息を引き取られた時にも起きた。神殿の幕が真っ二つに「裂け(スキゾー)」、神殿の最も聖なる領域である「至聖所」を隔てる幕が、破かれたのだ。キリストを通して、聖なる天国への道が、開通したのだ。だから十字架以降、誰でもキリストの御名を呼ぶなら、天国が裂けて、私達に向かって開かれるのである。イエス様は「わたしの名によって祈れ」と言った。なぜなら、イエス様の御名によって、天が開かれるからだ。これは全て、洗礼を受けてキリストに繋がった人々に与えられる特権の第一号である。
 2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る: イエス様は言われた。『よくよくあなたに言っておく。誰でも、水と霊とから生れなければ、神の国には入る事はできない。』(ヨハネ3:5) すなわち、水のバプテスマを受けると、今までの、古い、罪に従って歩んできた自分は死に、霊によって新しく生まれ、キリストと共に永遠の神の国へと入って行く生き方になってゆく。聖霊は、人には見えないが、霊によって生まれた人は、聖霊の声がわかり、それを感じ、それに導かれ、神の支配領域(神の国)へと入っていく。しかし、生まれながらの肉に従って生きる人には、聖霊は決して分からない。このように、バプテスマを受けた人は、賜物として聖霊をいただくので、霊に導かれ、最善の道を歩んで行くようになる。
 3,天からの声を聞く: 洗礼を受けて霊が開かれて来ると、聖書を読む時、 あたかも天国が開け、神の言葉が自分に目がけて降りてくるような心地がする。そして、その、天からの言葉の最たる内容は、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」というものである。世は私達を拒絶しようとも、またたとえ親に見捨てられたような経験を持っていたとしても、天の父なる神から受け入れられ、喜ばれている実感を持つ。
この、絶対的な平安の土台に立って、新しい人生をやり直して行くのだ。そして洗礼を受けた人は、神に愛される「神の子」として、また、神に似た者・神にならう者となって行く。
 
 この新しい年、私達も初心に帰り、天国に繋がった者として、新しい出発をするべきである。神の子が世から従わされたり、世からリードされたりする事は、本質ではない。私達は神に愛され、神に受け入れられた「神の子」として、与えられている祝福の命令、すなわち、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)という、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令に従って歩む者達だ。世を統治する者として、また、悪しき者に対しては勝利者として進んで行く今年でありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
神と人とで共同で織りなしていく人生という織物(黙示録19:6-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 綾織物という織り物がある。違う種類の縦糸と横糸とを交差させ、色々な模様を浮き出す事ができる織り物だ。私達の人生は綾織物のようなもので、自分自身という糸を、周囲の人や、物、事と、そしてイエス様と交錯しつつ、人生の模様を織りなして行く。私達はこの2019年、何を織りなし、どんな模様が浮かび上がっただろうか。私達はどうすれば、この人生に、永遠の、素晴らしい紋様を織っていく事ができるだろう。
 
 聖書を見ると、信仰の先人たちの、永遠に残る素晴らしい人生の模様が記されているが、同時に、神の言葉に従順せず、あくまで自分勝手な道を貫いて、ついには滅んでしまった人達の模様も、記されている。
 人は不完全で、罪があり、やがて死ぬべき存在だが、主は完全で、聖く、永遠なるお方である。もし人が神の言葉に従い、自身の行いや思考を主の言葉へと織り込んで行くなら、その人は完全で、きよい、神の国へと、織り込まれて行く。神を知らない人は、罪を重ね、世界に悪い影響を及ぼして行くが、主は、人のした悪も、サタンがした全ての破壊のわざさえも、全てを逆転し、益として下さる事が、可能なお方である。
 12月、アドベントからクリスマスに至る時期、色々な人間模様を見て来た。マリヤが御使いの言葉に「おことばどおり、この身になりますように」と言って、自分自身に御言葉を織り込んだ事によって、キリストがこの世に来られるきっかけを、彼女は構築した。ザカリヤは最初、神の言葉を自分自身に織り込まず、自分の理解を求めた結果、彼には口がきけなくなるという「災い」のような体験をしたが、かえって多くの人々が神のわざを恐れ、神が栄光を受けられるという「益」へと変えられ、彼自身も最後には、主の栄光を称えた。
 このように人の人生は、主へと「織り込まれる」事によって、最悪から最善へと変えられて行く。そして後になって、主と共に織りなされた自分の人生を振り返って、その出来上がっている人生の絵柄を見る時、その美しさ、主の完璧さに、ただ圧倒され、感動するのである。 祭司が身につけるあや織りの帯は、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で作られる。(出エジプト記28:8) 私達も主に繋がるなら、人生に尊い糸が織り込まれ、最終的に、永遠の大祭司・キリストのからだへと、織り込まれて行くのだ。
 
 キリストは、天から地上へと向けられた梯子として、私達へ降りて来て、乙女マリヤより生まれ、人となって私達の間に住まわれた。この、天から地へと差し伸べられた”縦糸”と、私達・人間という”横糸”とが交差する究極の点が、十字架である。こうして十字架という木を、私達の苦い人生の中に投げ入れ、私達の人生へと織り込んでいくなら、今までの苦い人生はことごとく甘く造り変えられるのだ。(出エジプト記15:22-27)
 私達キリスト者の人生は、神とのコラボレーションにより、永遠の美しい綾織物を織っていくようなもので、聖徒たちの正しい行いが、永遠の王の中の王・キリストへと嫁ぐ際の花嫁衣装となって行く。(黙示録19:8)
 私達が日毎、主キリストと交わり、あらかじめ用意されていた良い行いを為して行く都度、永遠に残る織物の一縫い一縫いが、織りなされて行く。そして礼拝こそが、神と最も親密に交わる機会である。
 真の礼拝とは何か。パウロは言う。『あなた方の「からだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
 すなわち、全身全霊をもって、自らを神の言葉へと織り込んで行く。それによって神は、その人の人生に働く機会を得るのである。神はどういうわけか、神の国の建てあげは、神ご自身お一人では進めず、人の同意の上で、コラボレーションして建てあげていくようにしておられる。乙女マリヤのように、人が神の言葉にアーメンし、その通り実行すると、そこに神が働く機会を得て、神の国が築き上げられていくのだ。
 しかしもし、神の御言葉と自分を混ぜ合わせないなら、その人は神の国の歴史から抹消されてしまう。
 マタイ1章の系図では、旧約には「いた」はずの王が記録から抹消されていて、また、系図には本来載らないはずの異邦人の女が、なぜか系図に記されている。系図から抹消された王は、神の言葉に服従しなかった王であり、系図に載せられた女は、神の言葉に忠実で従順だったからである。神の国の記録とは、そういうものだ。神と一切関わりがなかった人は、いのちの書に名が記されないまま、永遠の滅びへ至る。
 
 今年一年、どんな紋様の織物を織ってきただろうか。どれほど真に礼拝を捧げて来ただろうか。どれほど、神とのコラボレーションをして来ただろうか。私達は来年も主の言葉に従順し、主から恵みが与えられ、そうして永遠の織物を主と共に織って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
素晴らしい喜びの知らせが直接与えられる人とは(ルカ2:8-20)
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週報/メッセージ(説教)概要

 キリストのご到来は、バプテスマのヨハネの時とは違い、ひそかに、人々にはあまり知られない形で来た。
赤ちゃんとして来られたイエス様のご降誕の現場に居合わせ、そのイエス様に礼拝を捧げるという「幸い」にあずかれた人達が、羊飼いと、羊達であった。しかも彼らは特別に、御使いから直接、その知らせを受けた。そのような栄誉にあずかる事ができる性質とは、一体何だろう。
彼らは夜、人々が眠っている時でも目を覚まし、羊たちを見守っていた(ルカ2:8)。彼らは羊と生活を共にし、野宿を続けているので不潔な出で立ちをしていた。それで人として数えられず、住民登録に呼ばれず、神殿での礼拝にも参加できなかった。なぜそんな彼らに、御使い達が現れたのか。
御使いは、主を恐れる人々に仕えるために遣わされる霊であり(ヘブル1:14)、主を恐れる者の周りに陣を張って守ってくれる存在である(詩篇34:7)。実は、彼らの性質が、御使いを引き寄せる性質だったのだ。

羊飼いの仕事は、羊達を守り養う事である。羊は弱く、身を守る術が無く、近視眼で、迷子になりやすい。
自分で食べ物を見つける事が出来ないので、羊飼いは、彼らを牧草地や水のほとりへ導いて行く。彼らはどこでも汚物を垂れ流し、自分の毛につけたまま歩くので、臭い。強情で、時には怒って羊飼いに体当たりして来る。学習能力が弱いので、同じ失敗を何度も繰り返す。また悪い獣に狙われ易いので、羊を狙って来る悪い獣を、杖や鞭、石投げで追い払う。そんな面倒臭い仕事など、ほとんどの人はしたくないためか、その時代、人々は商売人になったり、王宮で仕えたり、より楽で華やかな職業へと就いて行った。
しかし羊飼いは、聖書ではとても重要な職業である。信仰の父祖達は、人生の大半を羊飼いとしてその生活を費やしていた。アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、彼らは皆、そうして来たのだ。
主もまたペテロに命じられた。わたしを愛するなら、わたしの羊を飼いなさい、と。(ヨハネ21章)
羊は弱く、愚かかもしれない。しかし、主への捧げものになる事の出来る、数少ない動物である。
羊は、ひずめが分かれており、反芻(咀嚼)するので、きよい動物とされている(レビ記11章)。ひずめは、自身と世との間に境界を引いて一線を画するもので、主はその性質を、きよい性質の一つとされた。
また、反芻するとは、食物をよくハムハムと噛む事で、主はそれもきよい性質の一つとされた。私達も、まことの食物である御言葉を、折を見ては取り出しハムハムするなら、きよい者として、主への捧げ物となる。

主のお生まれを告知された羊飼い達は、どういう性質だったか。彼らは「ダビデの町」で救い主がお生まれになったと聞くと、ミカ書の言葉を思い出し、「ベツレヘムに行こう」と判断した程、?御言葉に精通していた。その点で彼らは、ヘロデ王や博士達より御言葉に精通していた。彼らは、羊飼いとして低く見られてはいても、?普段から御言葉を摂り入れ、主に示されたならすぐに行動する性質だったのだ(15-16節)。
彼らは博士達のような捧げ物は所持していなかったが、?「御声に聞き従い、すぐに行動する」という、雄羊の脂肪にも勝るいけにえを捧げたのだ。(1サムエル記15:22)
そして彼らは、?主から伝えられた事を、そのまま正確に伝える性質だった。『この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた(ディアグノリゾー:正確に報告する、徹底的に知らせる)。』(17節)
赤ちゃんイエス様と出会う事ができた彼らは、見聞きした事が全て、神のことばどおりだったため、大いに喜び、神をあがめ、賛美しながら帰って行った(20節)。彼らは?主を喜び、賛美する性質だったのだ。

以上のように、主が内密に、そしてきらびやかに、喜びの知らせを与えられる性質とは、夜の時代でも霊的に目を覚まし、弱くて愚かな羊たちを誠実に養っている羊飼いの性質であり、普段から御言葉を摂り入れ、御言葉に精通し、主に示されたらすぐそのまま行動し、主から伝えられた言葉を正確に伝え、そして、主のわざを喜び賛美する性質である。また、羊のように、世と自分とを分離し、御言葉を常にハムハムしているなら、いかに羊のようにドジで、愚かでも、主からは「きよい者」として、主への捧げものとなる。
私達もこの暗闇の時代、彼らのような性質を持って行動しているなら、主は密かに、そして大いなる輝きとともに、御旨を伝えて下さり、滅多に出会えるものではない特別な姿のイエス様へと導いてくださる。それは、王宮のような所で華やかに生活したい人にはあずかり知れない、限られた聖徒達へ密かに与えられる喜びである。誰にも味わう事の出来ない、素晴らしい喜びにあずかるこのクリスマスでありますように!

主日礼拝
預言されていた真の王の性質(イザヤ9:1-7)
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 この待降節第三週は、キリストはどのようなお方として現れるのかを、第五の福音書とも呼ばれているイザヤ書から見たい。イザヤはやがて現れるメシヤがどのようなお方であるのか、700年前に啓示を受けていた。
 
 『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子が我々に与えられた・・・そのまつりごとと平和とは「増し加わって(לםרבה レマルベー)」限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。』(イザヤ9:6-7) 有名なメシヤ預言であるが、原典の巻物は「増し加わって」の所が法則を破った形で記されている。ここの二番目の語メム(ם)は、通常形の開いたメム(מ)で記されなければならないのに、敢えて語末形の閉じたメム(ם)で代々記されて来た。
 なぜイザヤはそのように記したのか、ラビ達には代々ミステリーだった。ただラビ達は、開いたメムは開かれた胎を、閉じたメムは、閉じられた胎と理解している。イザヤはなぜ「法則破りのメム」を用いつつ、「主権と平和は増し加わる」と書いたのか。それは神は、処女という「閉じた胎」に、聖霊によってみごもらせ、そのみどりごの主権と平和は、法則破りの形で増し加わって行く、という事を啓示しているのではないだろうか。
 
 この来たるべきみどり子、ダビデの王座に座す王は、世の王達とは全く違った法則破りの王となっていく。
この王は、通常の世の王と、どう違うか。世の王は、人々の上に立って権力をふるい支配するが、神の国の王たる者はそうであってはならない、と イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 主が立てたダビデ王も、そうだった。彼がサウル王に追われている時、彼の元には、困窮した人、負債を負っている人、心に苦さを覚えている人達が来た(1サムエル記22:2)。このダビデ王でなければ養えない、この王でなかったら保護されない、この王がなかったら、慰めを受けられない、そういう、一寸先が見えない人達がダビデの元に集まって来た。よりによって、サウルに命を狙われ、優れた人材を欲している時に。
 しかしそれが、ダビデを「真の王」にするための、主のトレーニングだった。たとえ苦しい状況の中にあったとしても、そんな彼らを、嫌がらずに受け入れ、彼らと共に、諸々の歩みを一緒に味わっていく。それはまさに羊飼いの性質である。アブラハムもモーセも、信仰の先人たちは皆、一様に羊飼いを経験したのだ。
羊飼いとして、弱くおろかないのちを養う者の姿勢こそ、主が求める真の王の姿であり、そして真の王・真の羊飼いであるイエス・キリストの性質である。ダビデは、そのように集った600人を受け入れ、共にサウルから逃れつつ、共に訓練を受け、そしてダビデが王になった時、彼らは優れた勇士になっていた。
 対してサウル王は、世の王と同様、自分の元に優れた有能な人々をはべらせ、王権を堅固なものにした。
一見すると、ダビデの群れは、サウルの軍団にたちまちやられてしまうかのように見えるが、実質、ダビデの群れはいつでもサウルの軍団の一歩先を行っていた。主にとっては、ダビデのような羊飼いの群れを、サウルのような者から守るのは、当然の事だった。主は私達にも、まず羊飼いである事を求めておられ、そして羊たちを養うのに十分な力を与えてくださる。私達もこの時代、ダビデのように、御前でへりくだった者となり、そしてゴリヤテのような敵・サタンに対しては凛々しく立ち向かって勝ち得る者となるべきである。
 
 このダビデの王座に座す王・メシヤなるイエスこそ、王の中の王である。イザヤは幻の中で、闇を完璧に吹き飛ばす偉大な光としてメシヤを見、それはガリラヤから輝き上る、と記した(イザヤ9:1-2)。ガリラヤはちょうど、イエス様が福音宣教を始められた所である。そこには、病を負い、悪霊に虐げられ、苦さを覚えている「闇の中を歩んでいた人達」があふれた所であったが、そこにイエス・キリストという大きな光が照った。
 キリストに照らされ、キリストに歩む人達はやがて増えて行き、彼らの喜びを増し加えられ、豊かな刈り入れを喜ぶように、または分捕り物を分けるときに楽しむように、御前で喜ぶ(3節)。そして、彼らの重荷も、肩のむちも、虐げる者の杖も、粉々に砕かれ、互いが互いを傷つけ、血を流し、戦いながら生きて来た今までの歩みも、火のえじきとして終わらせて下さる(5節)。それが、処女から生まれる「ひとりのみどりご」である。
 このアドベントの時、ダビデのように、主の前につつましく、しかし敵に対しては凛々しく立つ羊飼いとして、真の王の性質を身につけて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
神と人とが一つになるための条件:アーメン(ルカ1:26-56)
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 マリヤは『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』と信仰告白した(ルカ1:37-38)。主のご到来を待ち望むこの時、私達はどのような態度で待ち望むべきか。今回はマリヤから学びたい。
 
 前回、ザカリヤは、主の言葉を信じず、「私は何によってそれを知ることができましょうか」と、自分が理解する事を求めたため、口が閉ざされてしまった。それに対しマリヤは、神のことばが「成るように」と言って、主の言葉を100%受け入れた。エリザベツはそんな彼女を評価する。『あなたは女の中で祝福されたかた・・・ 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう』(42-45節)
マリヤも言った。『今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう』(48節) 全世界・全時代で一番幸いな人とは、神のことばを100%受け入れる人、すなわち、神の言葉に「アーメン」する人である。
神の言葉に対するアーメンは、本人自身と神の言葉とを「ひとつ」に結びつける意思表明である。
 マリヤは主を賛美している。『主は、憐れみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けて下さいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえに憐れむと約束なさった通りに。』(54-55節)
 主が助けて下さる相手は、「イスラエル」である、とマリヤは言った。「イスラエル」の名の意味は、神と苦闘する、すなわち、神と粘り強く関わろうとする人である。全て神と必死で関わろうとする人は、イスラエルであり、また、主がとこしえに憐れむ、と約束された相手は、「アブラハムとその子孫」である。私達も、神に粘り強く関わろうとし、また信仰の父・アブラハムの「子孫」となるなら、神は私達に憐れみを注ぎ、助けて下さる。
 
 私達の信仰の父・アブラハムは、なぜ義とされたか。それは、神の約束に対しての「アーメン」によった。
「アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:6) ここのアーマンはアーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味もある。
また、この箇所では使役態が用いられているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」と訳せる。
 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自らを主へと信じさせ、自ら、主の言葉をサポートし、建てあげる事による。ダビデが『わがたましいよ、主をほめよ』と、たとえそのような気分でなくとも自分のたましいに言い聞かせ、主をほめたたえたように、自らを信じさせる事が、神に義と認められるのである。
 神の言葉は、にわかには信じ難い事ばかりである。そんな事は有り得ない、と思えるような事でも、自分の納得や理解は投げ捨て、神の言葉への「その通りです」を自分の中に建てあげ、自分自身を神の言葉と結びつけるなら、そのアーメンによって神の力のエンジンがかかり、絶対起こり得ない事が実際に起きる。
 しかし、ザカリヤのような、「わたしが理解できるよう証拠を見せてください、それなら信じます」と言うような心構えなら、前回見た通り、「口を閉ざされてしまうしるし」が与えられ、強制的に黙らされてしまうのだ。
 マリヤは彼女の讃歌の中で、主は、頭が自分の思いで凝り固まった者を追い散らされる、と歌っている。
 『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし・・・富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(51-53節) 主は、神の言葉を押しのけて、自分の思いを優先させ驕り高ぶっている者は、追い散らし、傲慢に富んでいる者は、何も与えないまま帰させる。
 
 期待しない、アーメンしないけど、祝福されている信仰者にはくっついて行って、利益を得ようとする者も、ちゃっかりと祝福を受ける。ロトは主とくっつく事はしないまま、祝福されているアブラムと行動を共にしてお金持ちになったが、結局、自分の目で見て良いと思う方に進んで行った。それで彼は、アブラハムと別れた後は、ただ落ちぶれるだけであったが、逆にアブラハムは、ロトと別れると直ちに祝福が増し加えられた。
 100歳のアブラハムに子が与えられたのは、100%神の力によった。マリヤがイエス様を身ごもったのも、100%神の力によった。いずれも、自身のアーメンの言葉によって神の力が働き、現実世界を動かしたのだ。
 聖書の一番最後は、聖徒による神の約束へのアーメンで締めくくられる(黙示録22:20-21)。創世記から黙示録までの、神の言葉の全てに対して「アーメン」があればこそ、聖書は、人を罪と死から救い、永遠のいのちを生きる神の力が発生するが、信仰者の側にアーメンが無いなら、ただの本に過ぎなくなってしまう。
 マリヤのように、アブラハムのように、神の約束に積極的にアーメンし、自分自身と神の言葉をひとつに結びつけ、神のわざの実体が現れる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

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