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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

世と時代に対し城壁を築く(ネヘミヤ2:17-20)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 ネヘミヤはバビロン捕囚後、長い間がれきの山だったエルサレム城壁をたった52日で再建し、また人々に、主は何を喜び、何を嫌われるかを教えて霊的な城壁も再建した。今、世はまさに「城壁再建」が必要だ。
今、コロナゆえにマスクや外出自粛という「城壁」は張っていても、肝心の「霊的城壁」をおろそかにし、世の有害な情報や享楽が入り放題、しかし将来の不安や心配には、何の対策もできないでいる人々も多い。
 神の民イスラエルがあの時代、勝てなかったのは、世に流れる退廃的情報にあけっぴろげで、何の城壁も張らなかったからだ。今回ネヘミヤ記から正しく城壁を張って自分達を守り、世に勝利する術を学びたい。
 
 主の民がバビロン捕囚から帰還した当時、エルサレム城壁の再建は、誰もやらなかった。誰かがやってくれるだろう、と思って誰もやらず、少しやる気を起こしてみても、やる気をくじく敵が来て、再建させなかった。
それで敵から良いようにふんだくられ、そしりを受け続けていた。ネヘミヤはその現状を聞くと、泣いて断食して祈り、王に懇願し、再建を願い求めると、王は快諾し、彼を遣わした。ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」。すなわち、助け主であり慰め主である聖霊と同じである。聖霊は、私達のために深くうめき、執り成す。
 城壁が崩れ、境界線がはっきりしていないと、誰をどこまで受け入れて良いか分からず、大切な財産や時間、エネルギーを奪われ続けたり、そしりを受け続けたりしてしまう。聖霊は教えてくれる。何が罪で、何が義で、何がさばきを招くものか。また何をすべきで何を止めるべきか、どこまで良くて、どこから悪いかを。
 ネヘミヤは到着すると、早速、破壊されている所をくまなく探りまわった(2:9-16)。聖霊も同じように、私達の内側をくまなく探り、傷ついた道のあるかないかを調べ、掃き清めながら、失われている価値を探す。
もし、その人が悔い改めて、価値あるものとなったなら、主は御使いと共に大いに喜ばれる。(ルカ15:8-10)
 ネヘミヤは、『さあ、我々は再び世のはずかしめをうける事のないように、エルサレムの城壁を築こう』と言った(17節)。人々はネヘミヤの言葉で、希望を持つ事ができた。なぜならネヘミヤは、再建については王のお墨付きをいただいており、また、神の御手が彼に恵みを下さった事を、皆に知らせたからだ(18節)。
 私達の人生が再建される事は、私達の王の王、主イエス様のお墨付きであり、主の御手の恵みをいただいている。主は言われた。もし御言葉があなた方の中にとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい、と。
 人々は、ネヘミヤの言葉に希望をもって、再建に取り組んで行くが、それを面白がらない人が出てくる。
 
 『ところがホロニ人サンバラテ、アンモン人奴隷トビヤおよびアラビヤ人ガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
 なぜ彼らは、再建されて良くなる事を邪魔するのか。それは彼らは今まで、城壁が無かったからこそ自由に出入りし、搾取し、こきつかって、うまい汁を吸っていたからだ。だから彼らは、再建のわざを「王に対する反逆」と、あたかも後ろめたい事、悪い事かのような気をさせるのだ。彼らはさらに、再建をしている人を巧妙に仲違いさせ、悪く印象づけ、もうだめだ、いくら努力しても報われない、と、再建をあきらめさせる。
それは、悪魔サタンの策略である。しかし私達は、主が見捨てていないなら、自分や相手に失望したり、諦めたりしてはならない。諦めさせようとする悪魔の策略に対しては、ネヘミヤのように宣言すべきである。
 『わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。』(20節)
 そう、私達は神の民であり、神が私達を成功させて下さるのであり、それだから、神の僕である私達は、再建にとりかかっているのだ。私達の貴重な人生、貴重な時間、貴重なエネルギーを盗んで再建を妨げている者達に対しては、お前たちは何のわけまえも、権利も、記念も無い!と、宣言するのだ。
 今まで、悪い者に、良いように言われ、信じ込まされ、奪われ続けて来たとしても、聖霊が来るなら、聖霊が私達に言うべき言葉を備え、力と勇気と大胆さを備えて下さる。そして、思い出させてくださる。イエス・キリストはどなたであり、何を語られたのかを。私達は、イエス様に救われ、聖霊の息を吹きかけられ、神の子とされ、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされ、地の塩、世の光として召し出された事を。
 世の声は、混沌や絶望を仕掛け、奴隷生活を仕掛けてくる。その者達には、「天の神が私達を成功させて下さる!その神のしもべである私達は、再建にとりかかっているのだ!」と宣言し、城壁をしっかり築き上げ、この時代を治めていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

正しいひきこもり生活の過ごし方(ガラテヤ5:13-26)

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週報/メッセージ(説教)概要

 

 現在、コロナウイルスのために、今まで普通にしていた事業や学校生活が出来ず、先が見えない状況だ。
そんな中にあっても私達キリスト者には、主イエス・キリストと御言葉にあって希望がある。私達はこの時期、与えられた時間をどのように有効活用して、時代の有力者へ飛躍して行けるか、ガラテヤ書から学びたい。
 
 パウロは言う。与えられた自由は肉の働く機会とせず、愛をもって互に仕え合いなさいと。(ガラテヤ5:13)
愛をもって仕え合う相手は、まず、家の中の目の前にいる夫や妻、子供、親である。『律法の全体は「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(14節) 彼らが健やかになるよう仕え、時に戒め、共にいのちの喜びを増し加えて行くのだ。もし互いにかみ合ったり食い合ったりしているなら、互いに滅ぼされてしまう(15節)。もし家族が噛み合う相手なら、この時勢どれほど辛いだろう。
 さらにパウロは言う。『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』(16節) 生まれつきの人間は「肉(サルクス)」の存在である。「肉」とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行うもので、そこには、罪の棘が刺さっており、罪に傾く性質がある。
 このようなご時勢、世の中では、持て余した時間を、映画や動画、漫画やゲームなどに投じる人が多い。
それらはインターネットから、幾らでも観たり遊んだり出来るが、それらは御霊ではなく肉を刺激するものが多い。事実、人気と言われる番組やゲームは、19-21節に記されている性質を「売り」にしている事が多い。
『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの』(19-21節) 人には罪のとげが刺さっているため、どうしても不品行や好色、魔術や魔法、妬みや憤り、戦闘意欲を駆り立てる系統のテーマや話題に、惹き込まれる性質があるからだ。
 「偶像」を表すヘブライ語の一つに、「エリィル」がある。エリィルは偶像の他に「空しいもの」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味が無い、空しいものを現す。仮想世界の映像やゲームは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴え、夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを費やさせ、神の似姿である人の尊い霊性と人生の時間を奪っていく。まさにエリィルだ。それらの映像や物語という「偶像」に浸り切っていると、神が創造してもいない魔物や架空の能力、架空の恐怖や架空の快楽を夢想するようになる。
 それは「肉」にとっては非常に心地よく、どんどん霊的な感覚や健全性や、真理の感覚がすたれて行くのみならず、肉体的・精神的にも不健全になり、社会性や、コミュニケーション力、思考力、生きる意欲がどんどん萎えて行く。そして、現実世界の、目の前の愛し仕えるべき家族や伴侶が、つまらなくてうっとおしい存在となり、罵声を浴びせたり、攻撃したりするようになってしまう。サウル王がまさにそうだった。
 サウル王は、健全な主の言葉に耳を傾けず、気分に流されるまま、「妬み」「怒り」「殺意」など悪霊好みの言葉をいつも思い巡らしたため、悪霊に憑かれ、常に刃物を持ち歩くようになり、自分の思い通りに行かないと、ダビデであろうとヨナタンであろうと槍を投げつけていた。それで自分の身を滅ぼしてしまった。
 私達の「思い」は、常時、何かの「言葉」が電光掲示板のように流れている。その思い巡らす言葉の内容を、管理し、支配すべきだ。なぜなら私達は、内外に流れる「ことば」に影響を受けながら「人となり」が形成されて行くからだ。こうした思いが思考パターン化してしまった「要塞」は、普通なら到底太刀打ちできない。
 
 もし、そうした「要塞」が構築されてしまった場合、それを打ち破る効果的な武器がある。その武器とはキリストへの服従である。自分の理屈や計算を破り、神の知恵に逆らって立つあらゆる高慢を打ち壊し、全てのはかりごとや所存をイエスの名によって「逮捕」し、キリストに服従させ、その服従が完全になった時、要塞をも破る大砲の玉が込められ、全て不従順なものが処罰される準備が整うのである。(2コリント10:3-6)
 ただ、服従には骨が折れる。一番ラクな方法は、御言葉をそのまま暗記し体質化する「テフィリン」である。
 御霊の剣である神の言葉が入り、体質化すると、肉への攻撃も防御も全自動となる。御心にかなった健全な方法を選択し行う事と、罪と滅びの性質を避ける事が、思考パターン化・行動パターン化するからだ。
そうなると、22節以降に記されている御霊の実(愛、喜び、平安など)を結んで行くのも、自動化される。
だからこの時期こそ、テフィリンをして、将来に向けて知恵と洞察力と人間力、霊性を磨いて行くべきだ。
 肉に興じて、ラクな”時間つぶし”をしている人が多い中、家族に愛をもって仕え、御霊に従って歩み、時の有力者を目指して、ぐんぐん成長する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
主の民は、主の御名にふさわしく生きよ(黙示録3:8-11)
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週報/メッセージ(説教)概要

 現在、コロナウイルス感染症緊急事態宣言が、全国都道府県にも拡大され、平和に生きてきた私達は、今まで体験した事の無い時代に突入している。今、全世界が、特に政府や指導者が、試されている。
この時代を私達キリスト者は、いかに無事に乗り切って行くべきか。その秘訣は、主の御名にある。
 
 主は「忠実また真実」と呼ばれる方であり、その名は「神のことば」と呼ばれ、その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれている(黙示録19:11-16)。もしこの時期、忠実さ・真実さを捨て去って、嘘で塗り固めたり、事実とは違ったふりをしたり、現実的でないロマンを押しつけたり、怠慢や不真実な対応で乗り切ろうとするなら、コロナは無慈悲なまでに襲いかかって来る。これは誰に対しても同じである。
 主は言われる。たとえ小さな力しかなくても、忍耐してわたしの言葉を守り、わたしの名を否まないなら、地上に住む者達を試みるために、全世界に来ている試練の時に、あなたを守ろう、と。(黙示録3:8-10)
 主の民は、主の御名にふさわしく生きるべきであり、そこに留まるために、忠実と忍耐が求められている。
 
 主ジェホバの呼び名は、聖書全体では81種類も登場すると言われる(ジェホバ・ジレ、ジェホバ・シャンマ等)。それらを代表する8種類の呼び名が、実は、詩篇23篇に隠されている。
1,「主はわたしの牧者」(1節a) ヘブライ語では「ジェホバ・ロイ」、羊飼いである主の御名が表現されている。私達が主が羊飼いである事を否まず、あくまでそれを認めるなら、以下の特典が私達へついて来る。
2,「わたしには乏しいことがない」(1 節b)。ここには「ジェホバ・イルエ」という主の御名が隠されている。
この御名が登場するのは創世記22:14で、「主の山には備えあり」として有名であるが、正しくは「ジェホバ(主)+ラアー(見つめるの未完成形)」、「主は今なおずっと見つめ続けておられる」である。主は見つめておられる。主は確かに必要なものを備えて下さるが、それは人の欲する最善ではなく、「主の最善」である。
3,「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水際に伴われる」(2節)。ここには「ジェホバ・シャローム(主は平安)」という主の御名が隠されている。それが示されたのは、部族の中で最も小さく、弱く、臆病だったギデオンに対し、彼を大勇士にして下さった場面においてである(士師記6:24)。イエス様も、恐れ隠れている弟子達に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。
4,「主はわたしの魂をいきかえらせ」(3節) ここには「ジェホバ・ロフェ」すなわち「癒し主」という御名が隠されている。『あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプト人に下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたを癒やす者(ロフェ)である。』(出エジプト記15:25-26)
5,「み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」(3節) ここには、「ジェホバ・チヅケヌ(義なる主 エレミヤ23:6)」の御名が隠されている。主が人を立て直す順番は、最初に「たましいを生き返らせ」、次に「義の道に導かれる」であり、主が人を義とする理由は、ただ「主ご自身の御名のために」である。
6,「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(4節) ここに隠されている御名は「ジェホバ・ニシ」、「主はわが旗」(出エジプト記17:8-15)という意味である。その箇所では、モーセが手を上げて祈り、勝利をもたらした。同じように、私達が手を上げて祈る事は、主の旗を掲げる事なのである。
7,「あなたがわたしと共におられるからです」(4節) ここには「ジェホバ・シャンマ」、すなわち「共におられる主」(エゼキエル48:35)の御名が隠されている。イエス様は、インマヌエル(主が共におられる)であられる。
8,「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる」(5節) 
ここには「ジェホバ・メカディシケム(聖別する主 出エジプト記31:13)」という御名が込められている。主は、敵の面前で油を注いで聖別し、任職して下さる。そして主は、敵の面前で、宴会を設けてくださる。
 
 以上は、主のご性質を表す御名の、ほんの一部である。私達がこの時代、主の御名を否まず、忍耐して主の言葉を守るなら、既に来ている全世界の試練の時、主に守られ、主から栄誉を頂く事ができる。
この素晴らしい御名という冠を、誰にも奪われないようしっかりと持ち、勝利を得る者として、主の御名と、新しいエルサレムの名が書き記される皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
キリストの十字架と、死と、復活に参加せよ(1コリント15章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、イエス・キリストの復活を祝う日である。キリスト者にとって「復活」は、重要な救いの根拠であり、パウロも第一コリント15章にて福音の根幹である「復活」について詳説しているので、詳しく見たい。
 
 あの日、イエス様は十字架上で、確かに死なれた。大勢が見ている中、息を引き取り、槍で突かれると血と水が流れた。遺体となったイエス様は十字架から降ろされ、布で巻かれ、葬られた。墓は封印され番兵が守った。祭司長や律法学者達は勝ち誇り、弟子達は逃げ隠れした。イエス様は明らかに、死んだのだ。
 もしイエス様がよみがえられなかったとしたら…。イエス様を見殺しにした弟子たちは、イエス様が葬られて三日目、勇気を振り絞って番兵達を気絶させ、封印を解いて、重い石をころがし、イエス様の遺体を盗み出し、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。果たして、みすみす見殺しにしたような弟子達が、見殺しにした彼らの師匠を、命がけで「よみがえった」と吹聴するメリットは、どこにあるというのか。
 ところが、あらゆる敵にとって残念な事に、イエス様は確かに復活された!封印は破られ、入口を塞いでいた大岩は転がされ、番兵達は、御使いを見るなり死人のようになった。イエス様の遺体に香油を塗ろうと女達が来てみると、遺体は無く、御使いがいて、「ここにはおられません。よみがえられました」と言われた。
 
 イエス様は、私たちを愛するその愛の激しさのゆえに、激しい苦しみ・悲しみをものともせず、十字架の上で死んで、陰府に降られた。それは、私達を愛して、愛し抜いた故、私達の罪を一身に負い、私達の身代わりとなるためであった。そして彼が死人の中からよみがえって下さったのは、彼が眠った者の初穂となり、イエス様に続く私たちも、彼とともに全く新しく生まれ変わって、共に永遠に生きるためである。(20節)
死が一人の人を通して来たように、死者の復活も一人の人を通して来るのであり、また、アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるのである。(21-22節)
 最初の人アダムが罪を犯した時、アダムの腰にいた何億何千万という全人類も、共にその罪に参加した。
故に、人から生まれ出る人は全て、罪の責め苦を負わなくてはならない。しかし、イエス様が十字架で全人類の身代わりに罪を負って下さった事を信じ、この御方を「わたしの主」とするなら、その人は救われる。
信仰をあらわすヘブライ語エムナーの動詞「アーメン」には、「サポートする」「確認する」「忠実である」の意味がある。信仰とは、共に参加する事。相手と連合し、結束する事なのだ。
 だからキリストを信じた人は、キリストの、あの十字架刑に共に参加した者となり、共に陰府に降った者、共によみがえった者となるのだ! 「私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私達がもはや、罪の奴隷となる事がないためである。」(ローマ6:6)
 私達は時間に縛られ、過去に犯してしまった事はどうする事もできないが、信仰は時間を超越する。
アダムの腰にいた時に参加してしまった罪を、帳消しにするには、イエス様が十字架で成して下さった事を信仰じ、「参加する」事により、アダム系列とは全く別次元の、キリスト系列の者となるのだ。『もし私達が、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。』(ローマ6:5)
 
 「赦し」は、信じ、告白し、参加した人だけのものであって、イエス様が十字架にかかった時点で人類の誰も彼もが赦された訳ではない。イエス様が十字架にかかった時、わたしもそこに参加した!と、信仰告白し、そして信じて告白した事に見合った、「行い」という実体が、継続して実を結んでいるかが大事である。
 パウロも言う。『兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です…思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。』(31-34節) 
 だから、キリストに連合しキリストの死と復活に参加した信仰者は、信仰者らしく、昔の友だちや、昔の生き方、すなわち世と連合し、罪の交わりに参加した生き方から、離れ続けなくてはならない。『肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない…なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。』(50・53節)
 この4月、新しい学期が始まり、新しい年度が始まった。ますます、世の罪に参加するかのような行いや友人からは離れ、キリストの十字架の死と復活に参加した者として、ますます日々、朽ちない者、神の国を受け継ぐ者として創り変えられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
キリストのパッション(雅歌8:6-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、本日から受難週(パッション・ウィーク)が始まる。
イエス様の十字架の経験は、ありとあらゆるパッションが込められている。あまりに激しい苦しみ、あまりに深い悲しみ、そして断絶と死の向こうに待ち構えている、決して薄れない喜び。彼が十字架の道を進んだ最たる動機は、彼の、捧げ尽くした愛だった。罪と死の奴隷状態で苦しんでいる人々を、神の子の本来あるべき姿へと戻したい、救いたい。そして、主と共なる永遠の愛の交わりへと、導き入れたい。そのような動機によってイエス様は、十字架への道を進んで下さった。この受難週、主のパッションを味わって行きたい。
 
 イエス様が十字架につく前の晩、ゲツセマネで体験された感情は、「恐れ」ではなく、死ぬほどの「悲しみ」だった(マルコ15:34)。イエス様は、世が始まる前から御父と親密な愛の交わりをしておられた。しかし彼は、本来私達が受けるべき裁きを、身代わりになって受けるため、私達の代わりに御父から捨てられ、断絶され、呪われた。それは、血の汗を滴らせる程、計り知れない大きな悲しみだった。
 イエス様が十字架上で脇腹を槍で刺された時、すぐにそこから血と水がほとばしり出た事から、彼は、極度のストレスから心臓破裂で息を引き取り、その時に心臓に溜まった血液と水が流れ出た、と思われる。
 全人類の罪を一身に負い、御父から捨てられた事、また、十字架による肉体的苦痛は、どれほどのストレスだっただろう。『キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救う事のできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』(ヘブル5:7)
  これ程のパッション、情熱をもって、主は十字架にかかられたのだ。父なる神は、愛するひとり子を全人類の身代わりとし、十字架につけて死なせ、そうして、全人類を救う。全能の神はなぜこんなにも痛みが伴う「割りに合わない」方法を取られたのだろう。それは計り知れないが、ともかく、それほどの痛みや苦しみを支払ってでもかまわない程の大きな愛で、私たちを愛し、救いたいと願っておられた事は、真実である。
  神は無感覚・無感動の神ではない。情熱の神である。神も痛むし、悲しむし、涙を流す。しかし、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こして喜ぶお方である。神は私達のところに降りて来て、面と面を向かって相撲を取って、生々しく関わって下さる。神は私達を熱烈に愛し、もし、私達が別の神に「浮気」するなら、激情に駆られて妬むお方である。
 キリストは私達を救うため、天を押し曲げて降りて来られ、人となり、十字架の上で苦しみを受けた。彼を愛する人には、雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を慕い求めるような、甘い愛で迫ってくださる。
 
 ユダヤ人は過越祭の度に雅歌書を朗読するが、そこに書いてある。『わたしを刻みつけて下さい。あなたの心に、印章として。あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。』(雅歌8:6) ここに、花嫁の花婿に対する愛慕が記されているが、イエス様は十字架上で、その手・その足に、脇腹に、刻みつけて下さった。私達の身代わりとなって下さった、愛のしるしを。
 『私の愛する方は私に語られた、「起きなさい。わたしの愛する人、わたしのかわいい人。一緒に行こう。』(雅歌2:10 林直訳) ここの「語られた」は完了形だが、ヘブライ語の動詞は生きていて、過去から現在へ、未来へ飛び越えて来る。過去、幸せだったあの時、愛するあの方が言ってくれたあの言葉、その時の彼の姿、その言葉を聞いた瞬間に感じたしあわせな感覚が、今へとオーバーラップし、あの時の幸せな気持ちに浸る事が出来るように、聖書に書いてある言葉は、その幸せな気持ちが過去から今へとオーバーラップし、新約のイエス・キリストへと会う事が出来る。彼の言葉は、昔も、今も、未来も、ずっと生きているからだ。
 私達も、聖書を開く時、花婿であられるキリストが、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のように、時代と空間を飛び越え、十字架の激しい苦しみと悲しみを乗り越え、私達の所に希望をもたらす素晴らしい花婿として、すぐに飛んで来て下さる。あの時代も今も、昨日も今日も、そして未来も、変わらずに。
 主は今も変わらず語られる。「起きなさい。わたしの愛する人、わたしのかわいい人。一緒に行こう」と。
  私達は、このパッションの主に対し、無感動・無感謝であってはならない。生ぬるくあっては、ならない。
雅歌書の花嫁のように、私達も答えるべきである。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(韓国語:わたしはあなたに属し、あなたはわたしに属している)」(雅歌6:3) 十字架で死ぬ程の情熱をもって愛して下さったイエス様の愛に、情熱的に答え、愛し、愛されて行く皆さんでありますように!
 

 

主日礼拝
全てを癒やし、いのちの水で満たして下さるキリスト(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 人は、エデンの園で善悪を知る知識の木から食べて以来、神から離れた「善悪判断」という破綻した”ものさし”で物事を判断し、狂わせ、破綻するしか無かった。昨今人類を脅かしているコロナウイルスも、また生活の中のあらゆる労苦や痛み、死は、全てこれが原因である。しかしその全てを治すお方がおられる。
 
 初めに、「ことば」がおられた。「ことば」は、神と共におられた。「ことば」は、神であられた。(ヨハネ1:1)
この人格あることばは、ギリシア語でロゴス、ロジック(論理)の語源で決して変わらない客観的真実である。
 この、決して変わらない真実なる「ことば」。彼が宇宙の全存在を創造された。この御方によらずにできたものは何一つ存在しない。この、全世界を創造されたロゴスであられるお方、それはイエス・キリストである。
 このお方こそ、全て存在するものを存続させ、全てのいのちの源なるお方、死んでしまったいのちを再びいのちで息吹くお方、一切の闇を圧倒的な光によって塗り替えるお方である。『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。』(4-5節)
 この、ロゴスであられるイエス・キリスト、すなわち、全存在の源であり、全て生命あるものの生命の根源であり、人の光であられるお方の、不変のいのちのことば(ロジック)によって測り直されるなら、全て、本質から外れたゆがみは解消され、あらゆる傷は癒やされ、死はいのちへと飲み込まれて行く。。。
 
 『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) このように、イエス様を信じ続けている人は、「血筋」の束縛、「肉の欲」の束縛、「人の(意)欲」の束縛から解放されて行く。それらは全て、人間の善悪判断による、本質を外した”ものさし”によるもので、もはや、それらに左右されなくなって来るのだ。
 世の人は「血筋」を重んじる。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、そうした「血筋」の束縛から開放される。また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、望まない命が「できてしまった」という事は多々あるが、自分はそういった「人の欲望の産物だ」という空しさもなくなる。また「人の意欲」の束縛、すなわち、親や誰か他人の政略的な操作によって今の自分は存在するのだ、といった空しさからも解放される。信じた人は、ただ、神の完全な愛によって、神の子として愛される存在として、今もこれからも永遠に存在するのだ、と確信し、解放され、全く自由を味わうのだ。
 
 太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人から共感を得た。全存在の源である「有る」お方を持たない人が、サタンの言葉に惑わされるなら、そんな言葉に同意してしまう。神の敵・サタンが、人を破壊させる最たる言葉は、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならない、である。それを全くもって打ち消す、超・積極的なことばが、全存在の根拠であられるキリストの言葉である。
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無い。
 イエス様は、人が存在する前から、人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人がご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる覚悟で人を救おうと、なんと、永遠の昔から愛をもって定めておられたのだ。その意図の中で、人は創造されたのだ。(エペソ1:3-6)
 この御方のことばを豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。
 
 イエス・キリストというが加えられた測りで測り直して行くなら、狂っていた全ては直って行き、いのちの水が湧き出て、死に満ちていた所は、いのちに満ちた所となり、そのいのちにおびきよせられて来る。
 その完成形が、天国の、水晶のように光るいのちの川である。この川は神と小羊との御座から出て、その両岸にはいのちの木があり、毎月、十二種の実を結び、その葉は諸国民をいやす。(啓示録22章)
 今、世界は死がはびこり、エデン以来受けてきた労苦や痛みにあえいでいる。そんな中、私たちは全く積極的なことば、いのちの源であり、人の光であられるイエス・キリスト、すなわち御言葉を、豊かに住まわせ、死をいのちへと、闇を光へと飲み込んで行き、いのちの水の川を豊かに流しだして、周りをいのちで満たして行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
 

主日礼拝
エリヤのように次世代を起こす働き人となるために(1列王記19章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 預言者エリヤは、不法と偶像崇拝に満ちたイスラエルの信仰復興のために大いに働き、時代を変える王や預言者を任命した。今の時代、エリヤの働きが必要である。今回は列王記より、エリヤの恵みを得たい。
 
 エリヤは、国と時代が不信仰に傾く中、熱心に主に仕え、アハブ王お抱えのバアルの預言者450人と対決し、祈りによって天から火を降し、3年半も閉ざされていた天から、再び雨が降るようになった。人々はこぞって「主こそ神です」と叫び、その時代の信仰が、一気に回復したかのように見えた。しかし、たった一人の女、アハブの妻、イゼベルの一言によって、彼が長年して来た労苦は、一瞬でひっくり返されてしまう。
 『イゼベルは使者をエリヤに遣わして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々の一人の命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰して下さるように」。』(2節)
 イゼベルは非常に効果的に、偉大な預言者の心を挫く事に成功した。エリヤはそれを聞くと、逃げ、大いに意気消沈し、「主よ、もはや充分です。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(4節) と願うまでになってしまった。主はイゼベルや、彼女の勢いに押されて信仰をさっさと捨ててしまった者達はすぐに取り扱う事はせず、ただ気落ちした主のしもべに速やかに助けの手を延べられる。
 
 エリヤは全てを放り出し、木の下で眠っていた。そんな彼に主が送られたのは、彼が願った「死」ではなく、焼いたパンと水だった(5-6節)。イエス様も弟子達に、同じようにされた。弱さ故にあやまちを犯した傷心の弟子達に、主は現れ、自ら焼いて調理して下さった魚とパンを差し出された。(ヨハネ21:9-13)
 主はそのようなお方である。そのような直接の特別な養いは、主のために労して働く働き人の特権である。
 『主の使は再びきて彼に触って言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(7-8節) エリヤには、まだまだ多くの成すべき「主の使命」があった。
 たとえ傷つき、疲れ、倒れてしまっても、主はその人に焼いたパンを下さり、それをいただく人は、どんな険しく長い道のりも進み行く事が出来、人にはとうて出来ない「主のわざ」をするようになって行く。
 私たちも疲れ果ててしまった時、祈るべきである。主よ、エリヤに下さった焼いたパンを下さい。不法な者を沈黙させなければなりません。救わなければならない人が多くあります。私が空腹で貧しいまま、どうして働けるでしょう。この時代この国で戦っておられる勇士たちを力づけ、栄光の働き人を力づけてください、と。
 
 そしてエリヤは神の山ホレブに到着し、主の御前にひとり立つ。主に激しく訴えるために。彼は主の前に出て、自分の思いを全て投げ出し、一対一で交わった。激しく。そして親密に。
彼は主と激しく交わって行く内に、徐々に癒やされ、ついに彼は働きに戻る事が出来るようになる。
それ以降、彼は、もはや独りで戦うのではなく、主のために戦う次世代を建て上げる働きに入っていく。
 彼はその後、彼の後継者であるエリシャを得る。主は、ダマスコのハザエルに油を注いで王とせよ、と命じられたが、ハザエルを王としたのはエリヤではなく、後継者のエリシャだった。さらにその後、エリシャの「預言者のともがらの一人」が、ニムシの子エフーに油を注いだ(2列王記9章)。「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは「預言者学校の生徒」と訳されている(2列王記2:3-5)。エリヤはかつて、預言者は全員殺され、自分しかいなくなった、と思ったが、彼は後に預言者学校を立ち上げ、多くの若手預言者たちを育成して行った。これが、主から直接の養いをいただき、主と一対一で親密に交わった者の力である。
 
 この時代、あまりに不法がはびこっており、主の働き人は、心が折られてしまいそうな事柄は沢山あるが、それら全ての中にあっても、エリヤのように、主から直接のパンをいただき、また、主と一対一で親密に交わるなら、主は必要な人と、モノと、ミニストリーを与えて下さる。 先月、天声メンバーは、テフィリン・インターナショナル・アカデミー(TIA)を立ち上げた。テフィリンによって御言葉の子を育てて行く、現代版預言者学校である。この時代、エリヤの霊の二倍三倍が与えられ、新たな次世代にテフィリンという油を注いで王とし、預言者とし、勇士する働きをし、バアルに膝をかがめていない七千人共々、不法と偶像礼拝に満ちた日本を、主の福音で塗り変えて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
乳と蜜の流れる地に入るための査定:ダバル(民数記13:27-14:38)
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週報/メッセージ(説教)概要

 『彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。』(民数記13:27) イスラエルに行ってみると、そこはまさに乳と蜜の流れる地だと感じた。その地のくだものは、太陽と水にふんだんに育まれ、刺すようなみずみずしさで溢れていた。南のベエル・シェバやエルサレムは砂漠の気候なのに、水が湧き上がり、北のガリラヤ湖周辺は非常に潤って緑豊かで、さらに北端のダンの地、ヘルモン山周辺では豊かな水の流れが出ていた。
四国ほどの面積の中に春夏秋冬があり、砂漠も潤った地もあった。まさに山と谷の地、天の雨で潤っている地、主の目がいつも注がれている地であった。そしてそこは、同時に、人をテストする地でもあった。
主は、乳と蜜の流れる地に入る人を、テストされる。果たしてそこの良きものを享受するに値するかどうかを。
  本日の書、「民数記」の原語はベミッドバルבמדבר、「荒野にて」という意味である。「ダバルדבר(ことば)」に場所を表す前置詞「メムמ」がつくと「ミットバルמדבר(荒野)」、さらに前置詞ベイトב(〜にて)がつくと、「荒野にて」の意味となる。民数記の内容は、エジプト(世)から約束の地(神の国)へ行く途上の中間地帯、荒野(ミットバル)にて、神がテストし、約束の地に入るに値する人と、そうでない人とを振り分けた記録でもある。神はまず、御言葉という「大正解」を教えられる。そして、目の前に起きる事象や出来事に対し、人がどのダバル(ことば)を選択し、発したかによって、採点された。私達も同じように、この「世」という荒野にて、目の前に起きる諸々の事象に対し、どのダバルを選択して行くかによって、採点される。
 そこは乳と蜜が流れる地であったが、『その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。』(13:28-29) 主は、強靭な原住民をテスト材料に用いられた。ついこの間までエジプトで隷属して生きてきたイスラエルの民には、到底勝ち目の無い相手である。
 『その時、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼と共にのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。』(民数記13:30-31)
 カレブとヨシュアは「必ず勝つ」と、他の10人は「攻めのぼる事は出来ない」と、ダバル(言葉)を発した。
自分達の力では到底勝ち目の無い相手なのに、ヨシュアとカレブは、なぜ「必ず勝てる」と判断したのか。
それは神の命令は元々「行け」であり、そして自分達と共に行かれる神は、その者達より遥かに強いからだ。
 他の十人は、主の命令と主の力をキレイさっぱり忘れたかのように、自分と彼らとを比較し、主が示された地を「悪く」言いふらした。そこは自分たちを滅ぼす地だ、そこに住む者達は強大で、それに対し、自分達はいなごのように思われた、と(13:32-33)。人々は、そのダバルに感染され、次々に不平・不満を言い出す。
『何故、主は私達をこの地に連れてきて、剣に倒れさせ、また私達の妻子をえじきとされるのであろうか。』(14:3) 主の言葉を捨て、人由来の弱音や不平、文句を言った人達は、そのダバルどおりにその身に災いが起き、荒野にて滅びた。ただ神のダバルを握りしめ、御言葉を発した人達だけが約束の地を受け継いだ。
  言葉(ダバル)。それは感染力を持つ。ダバルの母音が変わってデーベルという発音になると、ペストのように広まる「疫病」の意味になる。詩篇91篇に書いてある。主に対し「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と宣言する人を、主は狩人のわなから、恐ろしい「疫病(デーベル)」から、救い出される、と。
民数記にて、多くの人を滅びに導いてしまった人間の言葉(ダバル)には感染力があり、それがデーベル(疫病)へと実体化し、彼らを滅ぼした。それを消毒し、いのちへと導く特効薬は、神のダバルである。
 今回、私たちも試された。2/22以降、イスラエルでは日本人・韓国人はコロナを持っているかのような”ダバル”が蔓延し、私達はホテルの隅に隔離され、以降の行程が断念された。軍に拘束される危険性もあったため空港に逃れたが、あちらこちらに追い返された。しかし私達は誰も、絶望の言葉や、「どうして私達をここに連れて来たのか」と文句を言わなかった。私達の一人が38度の熱があると診断され、全身防護服の検疫官に連れて行かれ、一緒にいた私達も隔離を言い渡された時も、また、用意された航空券が購入できない程の高値であった時も、ただ神のダバルを宣言し、祈り続けた結果、主は、とても素晴らしい待遇で手配して下さり、私達は全員揃って、無事、日本に帰る事が出来た。主は、試される。私達が、この世という「荒野にて」、どのダバルに場所取りするかを。それによって、約束の地に入れるか入れないかが決まる。
デーベルに侵される事なく、神のダバルを宣言し、いのちに溢れた地を受け継ぐ皆さんでありますように!
 

主日礼拝
災いの日を喜びの日に変えるために(エステル9-10章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 年明け以降、エステル記から恵みを頂いている。本日、その最後である。ユダヤ人の敵ハマンは、ユダヤ人を滅ぼす日を12月13日と定め、さらにモルテガイも木にかけて殺害しようと企んだ。
 しかし、時間と空間の主権を支配しておられる主は、主に助けを求める神の民を、敵の思いのままにさせる事をしない。主は紙一重の差で、モルテガイに大きな栄誉を与え、またハマンの全ての悪行を暴き、彼がモルテガイを吊るそうとして立てた木に、彼自身がそのまま架けられた。こうしてモルテガイは、彼が建てていなかったハマンの家を譲り受け、また、ハマンが得ていた地位と権威も、ごっそりそのまま受け継いだ。
 ハマンは死んだが、彼が制定した「ユダヤ人を滅ぼせ」というメド・ペルシヤの法令は、一度発布されたら、取り消す事はできない。そこでモルデカイは、その法令に勝利する法令を、すなわち、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらむ者は、逆に滅ぼしても良い、という法令を、王から与えられた権限を行使して制定した。
 こうして、その法令に則って行動する人には、いのちの救いと、敵の財産を没収する特権が与えられた。
しかしもし、この王の権限を行使せず、敵が勝手に制定した「死の法令」を放置したままなら、滅んでいた。
 
 天の法令も、メド・ペルシヤの法令と同様、一度発布されたら取り消せない。敵であるサタンは、人をそそのかし、人を罪に陥れ、罪と死の法則を招いた。罪を犯した人は、必ず死ななければならないが、天の王であられる神は、それに勝利する法令を発布された。すなわち神は、御子イエス・キリストを、全人類の身代わりに十字架に架け、そして彼を信じる信仰によって、罪は帳消しにされ、滅びを免れ、神の子としての特権が与えられ、サタンから大いにぶんどって良いという「いのちの御霊の法則」(ローマ8:1)が制定された。
 この、王から与えられた特権を行使するなら、人は救われるだけでなく、サタンから良いように分捕られ続けて来たものを、逆に、大いに分捕り返して良いのだ。しかし、この特権を行使しないなら、その人は死の法則によって滅ぼされてしまう。サタンが人を陥れた「罪と死の法則」は、取り消されていないからだ。
 
 さて運命の12月13日、ユダヤ人達は、モルテガイが定めた新たな法令に、固く立ったゆえに、ユダヤ人の敵は、逆にユダヤ人によって滅ぼされた。その報告がもたらされた王は、エステルに言った。
 『「さてあなたの求める事は何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞き届けられる。」エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。』(エステル記9:12-13)
 あの優美なエステルが、そんな事を願い出たのか、と、驚かれるかもしれない。しかし、神に敵対し、人のいのちを踏みにじるようなサタンの仕業は、私たちは躊躇せず、徹底的に滅ぼし、見せしめにするべきだ。
 そもそも、エステルが願ったこの願い、すなわち、神の民に敵対する者の根絶は、はるか昔、サウル王の時代に、成されるべきだった。サウル王はアマレク人を根絶するよう、主から命じられていたが、彼はアマレクの王アガクを根絶する事を惜しみ、それで災いの根を残す事になってしまった。(1サムエル15章)
 アマレクの性質を一言で言うなら「弱い者いじめ」で、弱い者を狙い撃ちするのは、サタンの性質である。
アマレクは、エジプトから出てきた会衆の、後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにし、また、ダビデと部下達が戦争で留守中、天幕に留まっていた女子供と財産を狙い、奪って行った。
 アガグ人ハマンは、このアマレクのアガグの子孫であると言われている。ハマンは、権力を握ったとたん、イスラエル民族を皆殺しにしようと企んだ。もしサウルの時代、サウルが主から仰せられた通り根絶していれば、アマレク人の末裔・アガク人・ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。
 私たちも、私たち自身の中にある、自分を滅ぼしかねない性質は、徹底して滅ぼし尽くすべきである。
そして、弱い者いじめをして圧政しようとする性質には、断固、立ち向かうべきである。王はエステルに、「何をしてほしいのか、求めなさい」と言った。天の王である主も、私達に「求める」事を願っておられる。
 私達は、救うべき人を救うべきであり、滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くすべきである。それをしないなら、災いの根っこが育って手がつけられなくなってしまう。私たちは見分ける知恵を求め、遂行するべきだ。
 エステル記10章は、アハシュエロス王の勢力がモルテガイの力にあずかっている事を暗示している。
エステルやモルテガイのように、聖なるプライドを持ち、王の王・イエス・キリストの喜びとなる事を行い、その時代に大いに用いられ、栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
闇の中で病が忍び寄る時の過ごし方(詩篇91篇)
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週報/メッセージ(説教)概要

今、中国武漢に端を発するコロナウイルスで全世界が恐怖に包まれている。ウイルスは目に見えないし、今回のウイルスは潜伏期間が長いので、一体誰が感染しているのか、もしかしたら自分も?と、死の恐怖が闇の中から忍び寄っているような恐ろしさがある。店からも、マスクや消毒液は売り切れている状況だ。
 この時期、私達キリスト者は、いかに過ごして行くべきか。今日、あらゆる災いから守られるコツを得たい。
 
 結論から言うと、最も有効な防護方法は、詩篇91篇を、各自、信仰を混ぜて宣言し、いと高き神に身を避ける事である。マスクは売り切れるし、ウイルスはマスクの隙間からも入って来るが、信仰の大盾は売り切れる事が無く、迫りくるウイルスも、悪霊が放つ火の矢も、無効化させられる。毒を受けても害を受けず、むしろ病人に手を置けば、病人は癒やされるのが、信じる者に与えられるしるしである。(マルコ16:18)
 詩篇91篇には、とても強力な保証が書いてある。いと高き方の隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は、闇の中を歩き回る疫病も、真昼に襲う滅びをも、千人の人が右手に、万人の人が傍らに倒れる時さえ、災いが襲うことはない。 第2次世界大戦下、イギリスのウイットルゼイ大佐は、この詩篇91篇を部下全員に暗唱(テフィリン)させ、毎日祈らせた結果、銃弾が飛び交う戦場で5年間、一人の死者も出さなかった。
 主は、その御翼の陰を避け所とし助けを求めに来る人には、御翼を広げ、その人を覆ってくださる。神の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も恐れることはない、と書いてある。
 
 人は、蔓延する疫病は、無差別に誰も彼もに襲いかかる、と思いがちだが、主は無差別なお方ではない。出エジプト記や民数記などを見ると、災いや病が起きる時、必ず人の側に、主に対する罪があり、また、病や災いで真っ先にやられた人は、主が立てられた指導者モーセに逆らったり、文句を言ったり、主の御言葉に逆らった人達だった。病がはびこる時、そこに込められた主のメッセージに、耳を傾けるべきである。
 コーエンの中国宣教をした方からの報告によると、武漢は2019年、教会迫害が最もひどく、48の地下教会を強制的に閉鎖させた地域で、中国宗教規制政策の模範地指定までされた。年末には、ほぼ全てのキリスト教宣教師が追放されており、中国全体のどの地域より、キリスト教弾圧がひどかったという。
 しかしこの度のウイルス騒ぎでは、宗教規制を実行する部門の最高位だったその人が、真っ先にウイルスで死んだという。「あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。」(詩篇91:8)
 主は、好きこのんで人々に災いを下されるお方ではないし、災いは誰にも彼にも降されるわけではない。
主に忠実な人は、災禍のたとえ中心地にいても、無事である。
 イスラエルが罪を犯し、サタンがダビデをそそのかして民の数を数えさせた時、イスラエル全土で、7万人もの人々が疫病で倒れた時、御使いがエブス人・オルナンの打ち場に立ち、抜き身の剣をエルサレムの上に差し伸べていた(1歴代誌21章)。その災いの中心地である打ち場にいたオルナンは、何の害も受けず、その傍らで麦打ちしていた。そこに主君・ダビデ王が来た時、彼はすぐに出て来て、ひれ伏した。
 オルナンは、普段から仕事に、また主が立てられた権威に忠実であったばかりではない。彼はいつでも、主に全てを捧げる心備えががあった(22節)。 このように忠実で、主を愛する人を、主は助けて下さる。
 『彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。』(詩篇91:14)
 また、人々を救うために働き、執り成し祈る人にも、主は守りの保証を与えて下さる。モーセの時代、人々が主に逆らった故に疫病が起こり、人々がばたばた倒れて行く中、大祭司アロンは祭壇から火を取り、死んだ人達と生きている人達の間に走って行って祈りの香を焚いた時、疫病が止んだ(民数記16:41-50)。
この時、アロンは生きている人と死んだ人の間に立ったのに、彼は病とは無縁だった。
 
 私達は、まことのほふられた小羊であるキリストの十字架の血潮の元に、避けどころを求めるべきである。
オルナンのように、与えられた仕事と権威に忠実で、いつも主を愛し、主に捧げる心を持ち、そしてアロンのように、苦しんでいる人達のために祭司としてとりなし祈り、この事によって主への悔い改めが沸き起こり、主への栄光が捧げられる形で、収束に向かう事を祈りつつ、この時期を過ごす皆さんでありますように!
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