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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝
主のご到来を待ち望む心構え(ルカ1:5-80)
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週報/メッセージ(説教)概要

 アドベント(待降節)が始まった。それは主の「ご到来(アドベントゥス)」を待ち望む期間である。この期間、どのような態度で、主の「ご到来」を待ち望むべきか。バプテスマのヨハネ、すなわち、荒野で叫ぶ者の声として人々をイエス・キリストへ導いた彼を生み出した彼の親、ザカリヤとエリサベツの夫婦から学びたい。
 
 イエス様のご降誕に先がけ、最初にしるしが現れたのが、ザカリヤとエリサベツの老夫婦である。この夫婦は、御前に正しい人であった。しかし彼らには、子がなかった。結婚した当初から、ずっと子が与えられるよう祈っていたが、与えられない。歳を取るにつれ、その祈りはますます切なるものとなって行っただろう。
彼らより、遥かにいいかげんに生きている人達には、どんどん子が生まれ成長して行くのに、彼らだけ与えられない。いよいよ産むのが難しい年齢に達しても、彼らは誰よりも御前にも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行い、祈っていた。そんなある日。聖所で香を捧げる役が、くじで、ザカリヤに当選した。
 皆が祈る中、その役を果たすために、彼が聖所に入った所、なんと、香壇の右に主の使いが立っているではないか。恐怖に襲われている彼に、御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
 長年祈り続けてきた「子が与えられる」。それは老夫婦の悲願であったが、神は、単に願望をかなえる以上の事を、ご計画されていた。その子は、御前に大いなる者となり、イスラエルの多くの子らを主に帰らせ、エリヤの霊と力をもって、御前に先立って行き、整えられた民を主に備える、というのだ。(14-17節)
 人は、子を産む事を願うが、単に産めば良い、というものではない。神から託された命を、いかに神の栄光をあらわす子として育てるかが大事である。主は、敢えてザカリヤ夫婦に、長年子を与えない事によって、彼らを祈らせ、御前に凛々しく立たせ、戒めと定めを落ち度無く行う事によって霊性を培い、長年そうする事によって、この夫婦を、バプテスマのヨハネの親として整えて行ったのだ。
 『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』(18節)
彼は、せっかくの喜ばしい主からの言葉を、そのまま信ぜず、自分が納得する事を求めてしまった。
そのような人に与えられるしるしは、「ものが言えなくなる」しるしである。いかに聖所の中で御使いと出会い、重要なお告げを頂くような奇跡を経験をしたとしても、不信仰な唇を継続するなら、逆に、良くないのだ。
 彼はある日、突然、口がきけなくなった。それ以降、夫婦生活では言葉を発せず、筆談だったが、かえって雑多な言葉を出す口が閉ざされた方が、遥かに良い結果をもたらすのだ。エリサベツは、身ごもった。
 
 「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(57節) ザカリヤにいよいよ念願の子が生まれた。
人々はその子に、父と同じ名をつけようとした(59節)。ザカリヤとしても、ようやく生まれた子に、自分自身の名をつけたかっただろう。しかし、主はあらかじめ「その子をヨハネと名づけなさい」と命じておられた。
 ザカリヤは、自分や他人の望みを手放し、ただ、主が命じられた通り、「その子の名はヨハネ」と公に示したその瞬間、彼の口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
 ザカリヤは、自分の子についての願望や思いを、特に、「自分が納得する事」を降ろし、100%、主の御旨が成るように、と求めた時、主の素晴らしさがハッキリ分かり、その口からは賛美が、また、主の言葉が出て来た。主の思いは、人のちっぽけな思いよりもはるかに高く、素晴らしい。それに引き換え、人が握りしめる願望は、なんと小さく永続しないものだろう。それを知る時、ただ主の御旨が成る事だけを求めるのだ。
 
 『さて幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。』(80節)
ヨハネもまた、主が定めた時に至るまで、自分の唇を閉じた。ヨハネ(イェホハナン)の名には、「主の恵み」「主の好意」という意味がある。悔い改めてバプテスマを受ける者に、主の恵み・主の好意が注がれるのだ。
 なお、ザカリヤ(ヘブライ語:ゼカルヤフ)は「主を覚える」の意味があり、エリサベツ(エリシャブア)は「誓いの神」の意味がある。すなわち、「主の誓い」に対し、「主を覚える」事を結婚させ、御前に誠実に歩み続ける者にこそ、主の好意が生まれるのだ。 主の御業が成されるまで、自分の納得・自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したい思いは手放し、ただ御言葉に従順して誠実に待ち望み、御業が成された時には、真っ先に主をほめたたえる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
いのちの言葉の種を蒔こう(箴言18:20-21)
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週報/メッセージ(説教)概要

 
 本日は収穫感謝祭、主が大地の実りを私達に与えて下さった事に感謝する日である。農夫は,収穫を得るために地を耕し、肥料をやり、時期にかなった時に種を蒔く。あとは、天が作物を育ててくれる。太陽光と雨が適切に供給され、雨風や虫におかされたりしなければ、時が来れば実がみのり、農夫は収穫にあずかれる。人は種をまき、水をそそぐ事はしても、結局、成長させて下さるのは、神である。(1コリント3:7)
 神の言葉にはいのちがあり、そのいのちは、人の光であり、そしてその言葉はキリストである。(ヨハネ1:4)
霊的には、神の言葉は種であり、その蒔かれる先の土地は、人である。神は、その御口(ペー)から言葉を発せられると、その通りにいのちが動き、物事が動き、実体化した。世界は、神の言葉によって創造された。
 この神の種が宿っている人は、神から生れた者であり、罪を犯し続ける事ができない。(1ヨハネ3:9)
 
 人は元々、ちりにすぎなかったが、神の御口から息吹かれた「神の息」が入ったゆえ、神に似た者、神のかたちとなった(創世記1:26)。人は「神の息」がかかっている故、神に似た者であるが、もし神の言葉に反し、御言葉の秩序から外れてしまうなら、ただの「動くちり、蛇のエサ」に成り下がってしまう(創世記3章)。
 「神の息」に由来しない言葉は、人を徐々に死へ至らしめる。それが、良い言葉であれ、悪い言葉であれ。
「息」はヘブライ語でルアハ、霊とも訳せる。イエス様は言われた。『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』(ヨハネ6:63)
 だから、イエス様の言葉こそ霊であり、いのちであり、これが人を癒し、人を生かす。神の息(霊)なしの人、すなわち、肉にあって生きている人の息がかかった言葉は、何の役にも立たない。だから私達は、主を信じる信仰を混ぜた言葉を「種まき」すべきであって、それ抜きの言葉を乱発して、秩序を破壊すべきでない。
 サタンはこの時代、メディヤや映像を通し、「サタンの息」のかかった言葉を投げかけて来る。サタンは時に、御言葉さえ、サタンの息を混ぜて投げかける。その言葉は人を誘惑し、死へと至らしめる(マタイ4章)。
だから、言葉の内容に惑わされず、「どの息」がかかった言葉であるかを見分ける必要があり、それを見分けるのは、理屈ではなく、霊である。それをはねのける唯一の方法が、神の息で息吹かれた御言葉を宣言する事によって、である。イエス様は荒野でサタンの試みに遭われた時に、それを示して下さった。
 だから私達も、テフィリンによって御言葉を自分自身によくなじませておく必要がある。自分の思い・意思・感情を、御言葉で満たし、「防護柵」張っておくなら、世が、サタンが吹き込もうとしてくるマイナスの言葉を防ぎ、人の言葉にいちいち傷つけられる事がなくなる。世の言葉も、サタンの息がかかった言葉も、イエス様の息、すなわち、「御霊による御言葉の剣」によって打ち破るからだ。(エペソ6:17)
 
 私達も、イエス様のように御父に従順し、御言葉に信仰を混ぜて「種まき」して行くなら、その言葉は霊となり、いのちとなり、人を生かし、サタンを打ち砕く方向へと、成長して行くのだ。だから私達は、御言葉を信じる信仰を混ぜた言葉を至る所に「種まき」して行くべきであり、また、そのような交わりをするべきである。
 御言葉のある交わりには、いのちと繁栄がある。ダビデ王を出したボアズの家は、なぜ、飢饉の時代でも有力者になって行ったか。それは、彼らは単に穀物の種を蒔いていただけではなく、互いに祝福の言葉を蒔いていたからである。ナオミも、良い時も悪い時にも、祝福の言葉を蒔く人だった(ルツ1:8, 2:19-20)。
 家庭内、あるいは事業所内で、祝福の挨拶を蒔き合う事が、有力者となる重要なコツの一つである。
 逆に、文句や呪いの言葉を蒔き合う事は、廃れてしまう原因となってしまう。「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる」(箴言18:20) からだ。 『気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなた方は互に滅ぼされてしまうだろう。わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない。』(ガラテヤ5:15-16)
 
 神は私達を、神の似姿として創られた。それは、人が神のように、この世を、いのちの言葉を蒔いて、いのちを増やし、いのちで支配し、いのちを保つためである。この呪われてしまった被造物の呪いを唯一、打ち消すのは、信仰をもって御言葉を種まきする事によって、である。神の子として、神の言葉を種まきし、呪われ、破壊され、死で覆われてしまったこの世界を、いのちで吹き返し、再創造し、なぐさめをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
宇宙をいのちへと塗り変えて行く神のことば(ヨハネ1:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要
メッセージ概要

 
 先週は、コーエンジャパン講義にて、ヘブライ語に秘められた奥義の一部を学んだ。この世は神の言葉によって成り立っているが、その、神のことばである聖書の構成要素であるヘブライ語の、一つ一つの語に込められた意味と、言葉と言葉によって織りなされる意味の美しい秩序を見るに、またヘブライ語に込められた数字の組み合わせによって、はじき出された、一点一画の狂いも無い正確性を見るに、神は確か生きておられ、神は人に「自分は確かに生きて働いているのだ」「この世を創造したのだ」と、主張しておられるかのように感じる。神は私達に、御言葉を宣言し、神の子として、この世を正しく治めて欲しいのだ、という意図も感じる事ができる。今回もヘブライ語によって記された神のことばの不思議の一端を見ていきたい。
 
 神は、その御口(פהペー)から発せられた「ことば」をもって、全てを創造した。全被造物は、例外なく神のことばによって創造されており、神のことばによらずに出来たものは、宇宙に一つも無い(ヨハネ1:1-3)。
神のことばは今も天地に満ちており、それが、全ていのちあるものも、いのちの無いものも存続させている。
『人はパンだけでは生きず、人は主の口(פהペー)から出るすべてのことばによって生きる』(申命記8:3) 
 人は元々、土のちりであったが、神がその御手で土地のちりで人のかたちをつくり、その鼻に、神の御口(פ)からの「息(ה)」が息吹かれたゆえ、人は生きた者となった(創世記2:7)。人の組成は、酸素、水素、炭素、窒素、カルシウムの5つだけで約98%を占め、成分的にはまさに「ちり」に過ぎず、成分単体では数千円の存在であるが、人がなぜ、尊いのか。それは、神の御口から息吹かれた「神の息」が入ったからである。
 もし、人が神の息を軽んじ、神の言葉に反して生きるとしたら、それはただの「動くちり、蛇のエサ」に過ぎない。『主なる神はへびに言われた…おまえは腹で這い歩き、一生ちりを食べるであろう。』(創世記3:14)
 
 最近のゲームや漫画、ホラー映画などでは、人がいとも簡単に死んだり、邪悪な者によって人が無残な形で殺されるシーンも出てくる。人には神の息、神の尊厳が宿っているため、神は無意味に聖徒を邪悪な者の手に渡される事は無いし、まして、映像でよく見るような、神が創造してもいない存在や、力が、気まぐれに多くの尊厳ある命を奪うような事は有り得ない。しかし現代、サタンが人の尊厳を貶めるために、そのようなイマジネーションをクリエイター達に吹き込んで、人々はそのような映像によって、漠然とした恐怖や、自己無価値感に悩まされ、人の価値や、自分の人生の意義を見いだせなくなっている。
 このような、偽りのビジョンと不安感を吹き飛ばす、打ってつけの方法が、真理の御言葉、いのちの言葉、闇をぬぐい去るいのちの言葉を宣言し、テフィリンする事によってである。御言葉は人のいのちの光であり、闇は光に打ち勝てない、と書いてある。私達の中に入った御言葉は、防護柵となって、世が吹き込もうとしてくるマイナスの言葉が、思いの中に入ってくるのを防ぎ、人の言葉にいちいち傷つけられる事がなくなる。
 私達がキリストに従順で、善にはさとく、悪にうとくなるなら、平和の神は速やかに私達の足でサタンを踏み砕いて下さるのだ。(ローマ16:19-20)
 
 神は唯一、人を、神の似姿として創られた。人が他の被造物と違う点は、自由にことばを操る点である。
私達は、言葉を発して空気を震え動かし、宇宙をゆり動かす事によって、世界の諸々の事象に変化を加える事が出来る。アダムとエバは、神の言葉に逆らい、神から離れた自分勝手な善悪判断を、くちびるから発するようになり、自分自身は呪われ、そして全被造物は呪われてしまった。(ローマ8:22)
 この呪いを、唯一打ち消すのは、世界を創造された神のことばを信じ、口から発する事によって、である。
被造物は、神の子たちのあらわれを待ち望んでいる、と書いてある。神の口のことばを、信仰を混ぜて宣言する事によって、呪われ、破壊され、死で覆われてしまったこの世界を、いのちで吹き返し、再創造し、なぐさめをもたらすのだ。御言葉によらない人の言葉は、力が無く、単なる単語並べにすぎない。しかし神の口から宣言された御言葉には、再創造する奇跡の力がある。私達の口から発した言葉が力となって奇跡を起こす方法は、神の口から発せられた御言葉を、一点一画も変えず、信仰をもって宣言するのだ。
神の口(פה:ペー)を私達の口に再現できるなら、私達も創造の力を持つのだ!神の言葉がその口にあり、この世を統治し、良き再創造をして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
ヘブライ語 - 神のことばを構成するDNA(マタイ5:17-19)
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週報/メッセージ(説教)概要

 
 今週はジャパンコーエンの学びの週である。いつもは聖書の一つの書をピックアップして、その書をヘブライ思考で学んでいるが、今回は異例にも、ヘブライ語アルファベット22文字に込められた意味を学ぶ。
 ヘブライ語は、一般言語として現実にユダヤ人の間で用いられているが、他の言語と違い、単語の組み合わせにも、そして一点一画にも、霊的意味が込められた「神の言語」である。またヘブライ語は、神が人を創造し、エデンに置いて以来、バベルの塔の時に言語が混乱してしまうまで、全人類が一つの言葉で話していた、原初の言語である。今週の講義に先立ち、その神秘的な性質の一端を、少し見て行きたい。
 
エデン以来使われていた言語はヘブライ語である、という根拠は、アダムがエデンで会話した言葉にある。
『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男(אִישׁイシュ)から取ったものだから、これを女(אִשָּׁהイシャー)と名づけよう』(創世記2:23) 日本語で読むと、「男」から取ったらなぜ「女」と名付けられるのか、根拠が分からないが、この時話されていた言語がヘブライ語であるなら、音声的「語呂合わせ」となる事がなんとなく分かるが、そればかりではない。ヘブライ語に込められた意味も探って行くと、アダムが「女(אִשָּׁהイシャー)」という名を選んで付けた所に、霊的な意味も込められている事が分かって来る。
 男(イシュאישׁ)と、女(אִשָּׁהイシャー)。男(אישׁ)からユッド「י」を取ると、אשׁ(エシュ:火)となり、また女性(אִשָּׁה)からヘー「ה」を取っても、אשׁ(エシュ:火)となる。男と女から「יה」が抜けると、火となってしまう…。その「יה」はヤハと言い、主ジェホバ(יהוה)の略である(イザヤ12:2,26:4)。つまり男と女は、神でる主を抜きにすると、「火」と化してしまうのだ。このような「高度な語呂合わせ」は、ヘブライ語以外では不可能である。
 また、主・ジェホバのヘブライ語יהוהは、それぞれの文字の意味を順に並べると、「手、見よ、釘、見よ」となり、つまり主の御名の中には、イエス・キリストの十字架の福音が込められていた事が分かる。
 
 また、ヘブライ語は、それぞれの文字に「数字」としての意味も含まれている。最初の語アレフאは数字の「1」の意味があるが、母音が変わってエレフになると、「1000」になる。『その最も小さい者は氏族(エレフאֶלֶף:千)となり、その最も弱い者は強い国となる』(イザヤ60:22) つまり、いかに最弱な者であっても、神がタッチしてくださるなら千倍になるのだ。 『あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日(אֶלֶף)にもまさる(טוֹבトーブ: パーフェクト、ビューティフル、グッド)のです』(詩篇84:10) 主の庭の外でどんな千日を過ごしたとしても不完全であるが、主と共に主の庭にいる一日は、パーフェクト、ビューティフル、グッドなのだ。
 主に立ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば力を得る。しかしそれをしないで、自分の思った方法を採用するなら、いかに神の民と言えど、敵のたった一人の威嚇によって千(エレフאֶלֶף)が散り散りに逃げる事になってしまう(イザヤ30:15-17)。神なしには一、しかし、神が共にいるなら、千なのだ。
 
 書記官が代々、ヘブライ語で手書きで写されて来た聖書は、手書きならではの特徴もそのまま伝授されて来た。ある字がわざと大きく、または小さくされていたり、一見すると写し間違えや文法ミスに見えるような「謎の記載」も、所々にある。しかし主は、そこに大きな意味を隠しておられる。例えば、敢えて逆さまに記された文字と文字の間に、新約のキリストの復活と聖徒達の復活が隠されていたり、あるいは、ヘブライ語の法則を破って記されている箇所に、処女から生まれたひとりのみどり子の繁栄が示されていたり…。
 これはほんの一端で、今週の講義では多くのヘブライ語の神秘を学ぶ事が出来るだろう。まさに『天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされる』(マタイ5:18) である。
 ヘブライ大学で22年勉強したキム先生の友人が、言ったそうだ。ヘブライ語は神の言語であり、霊的言語であり、天国の言語だ、と。実際、神の言葉・聖書が記されているヘブライ語は、調べれば調べるほど、いのちのDNAが、宇宙の法則と組成が、そして、神の息遣いが組み込まれている、と、実感して来る。
 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1) 私達は聖書を、世にあまたある本の一つとして扱ってはならない。天地を創造し、いのちを創造し、そして全宇宙の法則以上の根源的な言葉として重んじ、そして、御言葉を「神ご自身」として敬いつつ、私達のうちに摂り入れるべきである。
 

 

主日礼拝
救いの働きの根幹 : 聖霊とまぼろしと福音(使徒16:6-10)
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週報/メッセージ(説教)概要

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 先々週、韓国コーエンにて、総長のポール・カン先生から、救いの働きについての重要な概念を学んだ。
 鍵はやはり、聖霊である。カン先生は言う。韓国のキリスト教はなぜ衰退してしまったのか。それは、韓国の教会は最近、繁栄神学にのめりこみ、本質を忘れてしまったからだと。また、日本はなぜ優れた神学者が多いのに、リバイバルが起きないのか。それは、学問はしっかりしているものの、聖霊が無いからだ、と。
 パウロは言った。『わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。』(1テサロニケ1:5) パウロはテサロニケでは、わずか3週間しか宣教できなかったのに、そこの聖徒たちは、パウロが不在にもかかわらず、マケドニヤとアカヤの聖徒達の模範と呼ばれるまでに霊的成長を遂げ。それは、パウロの力と聖霊と強い確信に満ちた宣教に他ならない。
 
 礼拝において、また悪しき者との戦いにおいて、御言葉と聖霊のどちらが先であるべきか。それは、聖霊である。イエス様は「霊とまこと(真理)」による礼拝者を父は求めておられる、と言われた(ヨハネ4:23)。パウロも悪魔と戦うための武器は「御霊の与える御言葉の剣」と言った(エペソ6:17)。いずれも御霊が先である。
 宣教とは、国境や言語、文化を超えて、異なった地に福音を伝えに行く事であるが、そのコンセプト(定義)を、パウロは3つの単語であらわした。すなわち、1,聖霊、2,まぼろし、3,福音、である。その根拠となる御言葉が、今回の、使徒16:6-10におけるパウロの宣教の箇所である。
 『それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。』(6-8節) ルステラからトロアスまでの道のりは、千キロ以上。車や飛行機が無い当時の、千キロの伝道旅行は、どれほど労が多かっただろう。
 パウロ達が行く先々で、聖霊は、ことごとく御言葉を語る事を禁じられた。人は思う。御言葉を伝える事は、至上の良い事だ、自分は至上の良い事をしているのに、なぜ結果が得られないのか、と。しかしそのような時こそ、私達は自分の善悪判断を投げ捨て、聖霊が導かれる事に従順すべきである。御霊が禁じられる時、どんなに「良い事」を頑張っても、実りは一切無い。パウロ達は行く先々で、神がかり的なストップをされ続け、主に祈り求めた結果、見せられたのが、うめき懇願しているマケドニア人の「まぼろし」だった。
 『ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願(パラカレオー)するのであった。』(9節)
 どうか、こちらに渡って来てください。海を超え、境界を超え、私達を助けに来て下さい。私達の罪から、訴えて来るサタンから、悲惨に満ちたこの世から、そして、地獄の滅びから、私達を救い出してください…。
 私達は、闇雲に自分が良いと思った事をしてしまいがちだ。しかし一切をご存知であられる主は、世界の片隅にある人のうめき、懇願をご存知であり、それを「まぼろし」として見せて下さる。
 パウロがあんなに伝道に熱心だったのは、何ゆえか。なぜ、鞭打ちされても、石打ちにされても、海の難、盗賊の難に遭っても、なお伝道旅行に出かけて行ったのか。彼は言っている。わたしは全ての人に返さなくてはならない負債を負っている、と(ローマ1:14)。この、イエス様の深い憐れみ、聖霊の深いうめき、そして、救いを届けるという「借金返済」を、何とかして、しなくては、という熱心が、彼を突き動かしていたのだ。
 パウロは、アジア宣教を聖霊によって止められ続け、不毛な働きに疲れた時、自分の思いを全て主に明け渡しただろう。その時、主は、まぼろしを見せて下さった。私達も、自分の「よかれ」や、善悪判断は粉々に割って、そして主の御旨を求めるべきである。その時、その人がきよければ、主はまぼろしを見せてくださり、主はその人に、ご自身のうめき、憐れみ、ご計画を示し、そしてその人は、突き動かされて出て行く。
 
 あの、パウロに懇願したマケドニア人は、その後どうなっただろう。パウロ達がマケドニア入りして、最初に宣教した地・ピリピに、「ルデヤの家」という、ヨーロッパ最初の「教会」が建った。以降、ヨーロッパはキリスト教が最も栄え、そして世界中に宣教師を送り出す地として、霊的にも文明的にも大いに発展して行った。
 聖霊を求め、まぼろしを求めるべきである。「国を超え、ことばを超え、私達を助けに来てください」、というまぼろしを得て、聖霊のうめきを共にし、イエス様のはらわたがちぎれるような憐れみを共に溢れさせつつ、いのちの働きに進み行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
未来が開けている今なすべき事(申命記1:8)
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週報/メッセージ(説教)概要

 
 天声のカレンダーの8月の御言葉は、申命記1:8であった。『見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた(ナタティ:与えた)。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。』 この希望に溢れた御言葉は、どのように語られ、私達に何を教えるか。8月に入った今、この御言葉から恵みを得たい。
 
 この言葉はいつ、どこで与えられたか。『われわれの神、主はホレブにおいて、我々に言われた』(6a節) 
主がホレブでイスラエルに言われた時。それは、荒野の40年の「前」、ヨシュアもカレブも若かりし頃、出エジプトした60万人の男子が、荒野で死に絶える前、彼らがまだ健在だった時である。ホレブからカデシュ・バルネアまで、11日で行ける距離(2節)で、その時、約束の地にはすぐにでも入れる希望があった。
 その、約束の地のいよいよ一歩手前であるカデシュ・バルネアに来た時、モーセは、「主はこの地をあなたの手に渡した、上れ、占領せよ、恐れてはならない、おののいてはならない」と言った(21節)。
もう後は、ただ主から言われた通り、信じて行けば良かった、のに、彼らは余計な事をしてしまった。
 モーセは部族ごとに「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々」を千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とした(13節)。彼のしゅうと・イテロの助言は、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」から人選しなさい(出18:21)、だったのに、モーセは、神を畏れる人でなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々」を長とした。そこが過ちの始まりだった。
 
 彼らは、神の「行け」というシンプルな命令を、脇に置き、人間中心の提案を別途立てた。『我々は人を先に遣わしてその地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを復命させましょう。』(22節)
 世の中では、見えない御言葉への信仰で動くよりも、経験と調査を重視し易く、また、人選する時も、神を恐れ不正を憎む誠実な人よりも、経験豊富で多少不正を犯してでも”成果を上げる人”を選びやすい。
 世では、それが通常であっても、神の国の長たる者は、まず、神を恐れる者でなければならない。なぜなら神の国の事柄は、人間的な力や量、効率よりも、全能の神に従う事こそ、最優先すべきものだからだ。
 結局、彼らの提案を受けて行った「事前調査」の結果は、人々を恐れさせ、御言葉からさらに離れさせ、人間中心の提案が大勢を占めるようになり、モーセ達は石打ちにしてエジプトへ帰ろう、と言い出した。
 主は怒って、誓って言われた。『この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。』(34-36節)
 
 主に聞き従わない事、イコール、滅びの道であるが、その根源は、御言葉を無視し自分で善悪判断する思考である。結局、約束の地に入れた人は誰だったか?『あなた方が、かすめられるであろうと言ったあなたがたのおさなごたち、およびその日にまだ”善悪”をわきまえないあなたがたの子供たちが、そこに入るであろう。わたしはそれを彼らに与える。彼らはそれを所有とするであろう。』(39節) 主イエス様も言われた。悔い改めて「子どものように」信じない限り、決して天の御国には入れない、と(マタイ18:3)。
 荒野で滅びる事が確定してしまった者達と、アダムとエバとに共通している事。それは、御言葉を無視し、自分の善悪判断で行動した事、その結果、死と呪いを刈り取り、主が用意された良き地から吐き出されてしまった事だ。『こうしてあなた方は、あなた方が留まった期間だけの長い間カデシュに留まった。』(46節)
 私達は、自分の経験や感覚よりも、常に御言葉の約束を優先して頼って生きるべきであり、常に、御言葉による計測飛行をしているかどうか、感覚による目視飛行をしていないかどうかに、注意する必要がある。
目で見える現実が、感覚が頭をもたげる時こそ、テフィリンによって御言葉に寄りすがるべきだ。
 
 8月に入り、この言葉の成就が、特に積極的に攻め取ろうとする聖徒達・働き人達に、間近に迫っている。
約束の地をいよいよ前にした時、人間中心の思考が頭をもたげる時、不信仰な人達による思考がもたげる時こそ、御言葉に寄りすがって行くべきである。そのためにはテフィリンで御言葉を自分になじませる事が有効だ。未来がまだ開けている今、ますます御言葉にあって大胆に進みゆく皆さんでありますように!

主日礼拝
最高の歌とは(雅歌1:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要

 雅歌(シール・ハ・シーリーム)の原意は、「歌たちの中の歌」。その、数ある歌たちの中でも最高の歌・雅歌の内容は、花婿と花嫁が呼び交わす愛の掛け合いだ。真理が示す最高の歌の内容とは、花婿と花嫁の愛の呼び交わし…。それ故、聖書を知らない人々が創る歌も、無意識的に、大半が男女の愛の歌となる。
 高音・低音の強弱の組み合わせの一連の流れである「メロディ」は、ある種の感情を呼び覚ます。
動物や昆虫は、鳴く事で、すなわち、メロディを発する事で、求愛や警告などの表現をするが、彼らは実は、主に向かってメロディをあげているのだ。『烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのは誰か。』(ヨブ記38:41) 詩篇148篇をみると、海の巨獣も、淵も、火も、雹も、雪も、煙も、御言葉を行なう嵐も、御使いも、日も、月も、天の天も、主を褒め称えよ(הָלַלハラル)、と命じている。ハラルは「ほめたたえる、自慢する」意味、すなわち「ハレルヤ」は「主をほめたたえる、主を自慢する」事である。
 
 全地は、主に向かって、喜びの声をあげる(詩篇100:1)。私達が住んでいる地の基が据えられた当初、宇宙は歌で満ちていた。『わたしが地の基を定めたとき、…そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子達はみな喜び叫んだ。』(ヨブ記38:4-7) この「明けの星々」の中に、反逆前のサタンもいた。『暁の子、明けの明星(הֵילֵלヘイレル)よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。』(イザヤ14:12) ヘイレルは、ハラルのように「賛美する者」の意味がある。サタンは、元々、神を賛美する天使の長で、全き者の典型、美の極みだったが(エゼキエル28:12)、「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。」(同17節)
 「歌」は本来、主をハラルするものなのに、サタンは歌を、自分をハラルする道具とした故に、投げ落とされた。自分をハラルするために歌手になりたがる人が多いが、それはヘイレル(サタン)の道である。
 
 人が歌う歌の中で、最も優れている歌は、まことの花婿であられるキリストへ花嫁として捧げる愛の歌、すなわち賛美である。被造物はメロディを発して主をほめたたえるが、意思と言葉をもって、主をほめたたえる事が出来る、唯一の存在は、人間だけだ。だから主は、私達が愛の歌を主に歌う事を求めておられる。
 『どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり』(雅歌1:2) この「口づけ(ナーカシュ)」は、結びつける、(武器などを)装着する意味である。私たちはキリストの花嫁として、キリストを装着して一体化したい、と思うのは、自然である。彼の愛は、ぶどう酒よりはるかに優れた心地良さだ。彼を愛する心をもって、「イエス様」と呼ぶたびに、彼の麗しさ、甘さが、香り高い香油のように、喜ばしさを伴って、心に満ち満ちていく。全てキリストにある者は、その感覚を共有できるはずだ。
 『あなたのあとについて、行かせ8てください。わたしたちは急いでまいりましょう。』(雅歌1:4a) ここに、私達とキリストとの正しい位置関係が記されている。私たちはイエス様のあとを従って行くものであり、決してその逆ではない。うるわしい主が行くなら、私達は離れず、急いでついていく。そして、彼が願われる事を私達は行い、彼が望まない事を、私達はしない。それが花嫁たる私達の正しい歩みであり、その歩みをするなら、イエス様は私たちを「奥の間」へとエスコートし、そこで親密な愛の交わりへと導いて下さる。
 
 『王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。』(1:4b) ここの「楽しみ」と訳されたヘブライ語ギール(あるいはグル)は、元の意味は「くるくる回る」、つまり嬉しさのあまりに、踊り回る事で、また「喜び」と訳されたヘブライ語サマハ(ク)は、顔がぱーっと輝く様をあらわしている。ちょうど子犬が、大好きな主人に会った時にぴょんぴょん飛び跳ね、くるくる回って喜び叫ぶような感じである。私達キリスト者が、キリストにエスコートされ、奥の間の交わりへと導かれて行く時、そのような感覚である。
 私達にとって奥の間は、どこか。そこは神を礼拝する神聖な所だ。神殿や幕屋には、至聖所と呼ばれる「奥の間」があり、そこは絶対的に聖なる場所で、罪ある人は決して入れない。しかしイエス様は、十字架の上でご自身のからだを裂いて、奥の間へ、すなわち天国への道を開いて下さって、私達をエスコートして下さった。私達はイエス様の愛の十字架により、主との親密な交わりをする奥の間へと導かれて行くゆえ、喜び(サマハ)、楽しみ(ギール)つつ、永遠に彼に愛の歌を捧げるのである。

主日礼拝
変わらぬ愛をもって戸の外に立つ花婿(雅歌5:2-8)
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 雅歌書は、男性と女性が互いに呼び交わす形で記されている愛の歌で、男女が恋愛関係から結婚へと至り、初々しい新婚生活から成熟した夫婦へと至るまでの道のりが生き生きと描かれている。これを単なる恋愛本として見るのではなく、キリストの花嫁である私達と、キリストというまことの花婿との関係として見る時、私達に豊かな示唆を示してくれる。今回、この書から、キリストの愛と、私達が陥りやすい罠とを見てみたい。
 
 『私は眠っていましたが、心はさめて(ウゥル)いました。』(2節) ウゥルは、目覚める、掻き立てる、立ち上がる等の意味がある。彼女は夜、何かに心掻き立てられた状態だった。そこに夫が帰って来て戸を叩いた。
 『わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。』ところが彼女の返事は、つれない。『わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。』(3節)
 夫は前章までのところで、彼女の上から下までを事細やかに褒めそやしてくれたが、彼女はつけあがったのだろうか。夫はわたしいつも褒めて、優しく何でもしてくれる、だから、床に入ったわたしの足を汚すのなら、いつまでもドアの外にいて、と。しかし夫としては、衣服を再び着るとか、足を洗う以上の手間をかけ、夜露に濡れて仕事から帰って来たわけである。彼女は何と薄情な、面倒くさがり屋だろう、と思うだろうか。 
 私達は、ここから戒めをいただくべきである。キリストの花嫁である私達は、主人であるイエス様に対し、このような態度を取っていないだろうか?イエス様が扉を叩いておられるのに、面倒くさい、あるいは彼は優しいから、赦して下さるのは当然だから、いつまでも開けない、と言うような態度を取っていないだろうか。
 
 彼女は、夫の手だけが戸の穴に差し入れられ、かんぬきを外そうと、手をこまねいているのを見た。その時、ようやく彼女の心が騒ぎ、戸を開けに行った。彼が触れたそのかんぬきには、没薬が滴っていた。
 花婿はせっかく彼女に、腐らせない愛を保とうと、没薬の山に上ってから(4:6)彼女の元に来たのに、彼女は実につまらない理由で彼を締め出し、ようやく身を起こして、開けた時には、彼は何かの言葉を妻に言って去って行ってしまった。その言葉で彼女は気を失った、とあるが、彼はどんな言葉をかけたのだろう。
 怒り、罵倒の言葉だろうか?それとも逆に、愛に満ちた言葉だろうか?イエス様は、愛の言葉をかけてくださる故に、私達は自分の罪深さ、至らなさを悲しみ、悔い改めるのである。そのかんぬきは、ついさっきまで、彼がなんとか入ろうとして触れた、愛の没薬が香っている。彼女は思っただろう。自分はなんとつまらない理由で、彼の愛を踏みにじっただろう、と。
 没薬は、腐らせない作用があり、黄金、乳香に続く、キリストの性質である。キリストの受難はpassionと言うが、彼は十字架の場面で、ありとあらゆる痛み、悲しみ、苦しみを経験し、そうして愛を示された。実に情熱的に、感情的に、そして実際的に、十字架という決して腐らない、究極の愛を私達に示して下さった。
イエス様は、罪に閉じこもっている私達を救い、愛の関係へと導くため、十字架という没薬をまとい、戸の外側から「あけておくれ」と戸を叩いて下さる。もし締め出したままにするなら、とんでもない事になってしまう。
 
 雅歌書では、彼は去ってしまい、今度は彼女が夜露に濡れ、足を汚して、彼を求めに行かなくてはならなくなった。さらには夜回りから打たれ、傷つけられ、はぎ取られてしまった(6-7節)。こうして彼女は悟った。
自分はとんでもないことをしてしまったのだ、と。私達も、主人であられるイエス様の庇護がないと、ただ、剥ぎ取られるだけの存在なのだ。放蕩息子のように。彼女は傷を受けたが、それによって自分は「愛に病んでいる」事に気づき、一層、愛が深まった。私達も、愛する夫であられるイエス様が、とても優しい、大切にしてくれる、という事に甘んじ、高慢になってしまうと、このように、痛い思いをさせられてしまう。しかし、それによって、私達もキリストの愛を一層知るようになるのだ。
 私達がつまらない事でイエス様を締め出してしまうような時、イエス様は戸の外に立って、扉をたたく。
彼の変わらぬ愛の没薬に濡れた手で、堅く閉ざした心のかんぬきを、開けようと。もし戸を開けるなら、彼は入ってきて、共に食事をし、宴が始まる(啓示録3:20)。しかし、あまりにイエス様を戸の外に締め出し続けるなら、やがて、間に合わなくなってしまう時が来る。イエス様との関係も、また世における夫婦の関係も、さらに麗しく、成熟したものになっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
祝福の実体を得るために必要なもの:信仰(ヘブル11:1-6)
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 クリスチャン生活をする上で最も欠かせないものが、信仰である。今回は信仰について学びたい。
 ヘブル書11:1に「信仰とは」何であるかが書いてある。『信仰(ピスティス)とは、望んでいる事がら(エルピゾー)を確信し(フポスタシス)、まだ見ていない事実を確認すること(エレグコス)である。』
 ここの「望んでいる事がら」と訳された語は、エルピゾーの受動態分詞、フポスタシスとは「実質」「実体」「裏付けのあるもの」の事である。だから、ここを字義通り訳と、「信仰とは、(信仰者たちから)望まれている事がら(例:癒やし、必要の満たし、解放など)の、実体である」。すなわち、癒やしや、必要の満たし、解放など、人から「あってほしいな」と願われる事柄(エルピゾーの受動態)の実体化は、信仰によって、である。
 裏を返せば、信仰が無い人は、いくら望んでも手に入らない、という事だ。聖書は「信仰をもって、こうすれば、こうなった」という事例の集大成であり、私達も聖書の記述を信じ、期待して行動するなら、そうなるのだ! 世の人は、目に見える証拠や実証を求めるが、聖書は「信じるなら得る」という法則である。『昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。』(2節) 『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない』(6節)
 
 イスラエル12部族中、最も多く土地を勝ち得たのは、ユダ族だった。ヨシュア記15章には、ユダ族が勝ち得た町々・村々のリストが、延々、63節に至るまで記されており、読むのも一苦労だが、それだけユダ族は、「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与える」「あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもない」という、主の約束の御言葉を信じ、積極的に戦って行った結果、分捕ったリストを読み上げるのが大変な程に勝ち得て来たわけである。
私達も、聖書に記されている約束の言葉を信じて行動し、ユダ族のように実体として勝ち取って行くべきだ。
 
 これと真逆を行ったのが、ダン族である。彼らもくじによって相続地を割り当てられたのに(ヨシュア記19:40-46)、彼らはヨシュアが生きている間に得た相続地を、原住民によって追い出されてしまった。相続地を原住民によって追い出された部族は、イスラエル部族の中で彼らだけである。(士師記1章)
 それは、他人の信仰によって地を得ても、追い出すべきものをいつまでも追い出さず、信仰に立って動こうとしない「霊的怠慢」の結果だった。彼らはライシという所を偵察し、そこに攻め上ろう、と言ったが、その理由は、その地の人々は弱そうで、孤立しており、たやすく攻め落せそうだったからだ。(士師記18:8-10) 
 彼らはその時、取って付けたように「神はそれをあなたがたの手に賜わる」とも言ったが、そこは主がくじによって割り当てた地ではなかった。かつてヨシュアとカレブは、敵が巨体であろうと、城壁を持っていようと、「主が共におられるのだから、必ず攻め落とせる」と、信仰によって攻撃を仕掛け、実際に攻め落とした。
 しかしダン族の考えは、全く逆だった。その地は、御言葉の約束外の、相続地としては示されていない地だったのに、相手が弱かったので楽勝し、そこに自分たちの部族名「ダン」という名をつけて、定住した。
 しかし彼らは、そこに行く途中にあった家から、偶像やテラフィムと、その家の雇われ祭司(実は祭司ではなくレビ人)を強奪し、自分たちの祭司に仕立て上げ、偶像礼拝の体制を整えて、定住する事にした。
 『ダンの人々は刻んだ像を自分達のために安置し、、、国が捕囚となる日にまで及んだ。』(士師記18:30)
 彼らは、士師の時代が終わった後、他の部族が正当な信仰に戻っても、ダン族だけはシロやエルサレムに礼拝に行かず、イスラエル最北端の地で不当な礼拝をし続けていたのだろう。啓示録には、神の印が押されるイスラエル十二部族が出てくるが、そこからは、ダン族は、外されてしまっている。(黙示録7:4-8)
 結局、「主が与えてくださった」という約束の御言葉を信じず、主から「しなさい」と言われた事をいつまでもせず、目で見て勝てる相手と戦って、御旨でない地を手に入れ、神の方法にかなわない自己流の礼拝を続けて行くなら、神が忌み嫌われる偶像礼拝へと落ち込み、ついには、祝福から外されてしまうのだ。
 
 天の御国は、積極的に襲う者達によって、奪われていくものである。『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)
目で見て勝てる相手と戦って、勝てない相手とは戦わないような不信仰は捨てて、御言葉の祝福を信じ、積極的に求め、信仰によって多くを勝ち取り、勝ち取った良き地のリストは読み上げるだけでも一苦労であったユダ族のように栄えて行くみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
今も啓示録を通して生きて語られる主(啓示録2:1-7)第一礼拝 Youtube動画
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週報/メッセージ(説教)概要

 黙示録の原語はアポカルプシス、啓示、公示の意味で、啓示録と言うのが正しい。この書の言葉を宣言する人・聞いて守り行う人は幸いであると書いてある。主の時が近い今、私達はこの書から恵みを受けたい。

 原初の教会は、主イエスを信じる人々が主日、一つ所に集い、メッセンジャーはこの書をそのまま宣言し、聖徒達はそれに耳を傾けてアーメンするという、非常にシンプルな礼拝で、いわゆる「説教」は無かった。

 聖書をそのまま宣言し、聖霊から直接養いを受けるという「聖霊牧会」が生き生きと息吹いていたが、現代の私達は、日本語に翻訳された聖書をそのまま読んでも、当時のような恵みを受けるのは難しい。

日本語はギリシヤ語と違って冠詞が無く、時制や単数・複数の指定もあいまいで、また「アルファとオメガ」「ニコライ派」などの当時特有のキーワードも説明無しにはわからない。だから現代のメッセンジャーは、ヘブライ思考に基づき、原語から本来的な意味や時代的ニュアンスを掘り起こし、メッセージする必要がある。

 

 ヨハネは主日、御霊の内に7つの金の燭台を見せられ、その真ん中を歩まれるお方が7つの星を握っておられた。主は、7つの星は7つの教会の御使(アンゲロス)、7つの燭台は7つの教会である、と直接解き明かして下さった(1:20)。「アンゲロス」は元々、便りを届ける者、メッセンジャーなので、啓示録という手紙の最初の受信者は「各教会のメッセンジャー」、二次受信者は「各教会の聖徒たち」である。

 そして最後の受信者は「耳のあるもの」全員である。2-3章で「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と、7度も繰り返されているからだ。そうであるからには、私達もこの啓示録から、それぞれ置かれた環境や信仰、状況に応じた賞賛や叱責、勧めや、報いの約束を、御霊から直接いただくものである。

 

 『エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。「右の手に七つの星を「持つ(ホ・クラトーン)」者、七つの金の燭台の間を歩く(ペリパテオー)者が、次のように言われる。』(啓示録2:1) この「ホ・クラトーン」の「ホ」は冠詞で、「クラトーン」は、ぎゅっと握りしめる意味の動詞である。通常、動詞に冠詞はつけないが、ヨハネはわざわざ「ぎゅっと握りしめている」という動詞に冠詞を付けた。それは、強く強調したかったからだ。

 「星」とは、教会のメッセンジャーや牧会者達の事、燭台は、エクレシア達(教会)の事である、と、主は既に解き明かして下さった。つまり主は、どの時代のメッセンジャーも、主の働き人達も、牧者達も、世の終わりまで、情熱をもって、ぎゅっと握って離さない!と、ヨハネは強調したのだ。また、「歩く(ペリパテオー)」は、ゆっくりじっくり歩き回る、生きる、過ごす、といった意味がある。つまり主は、牧会者を握りしめ、7つの金の燭台の只中、すなわち主にあるエクレシア達の”ただ中”で、聖徒達と共に歩み、共に生きて下さるお方だ。 その御方は、『あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている(エイドー:感覚的・主観的・感情的な面において「知っている」)』(2:2-3) と言われる。主はエクレシアの間を行きめぐり、働き人達の心の奥底、内に隠れた心の動機の機微も知っており、また、働き人が労苦し忍耐した時に流した涙も、全て知っておられる。

 『使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。』(2節) 

しかしエペソ教会への叱責として、初めの愛から離れてしまった、という事が語られた。そしてもし、悔い改めて初めの愛に立ち返らなければ、燭台(教会)を取りのけてしまう、とも警告された(4-5節)。

 エペソ教会は当初、テモテの指導の元で成長し、やがては、建物が200m×500mの、馬が内部を通れる程となり、中央には、水のバプテスマに使っていたと思われる約5mもの洗礼槽もあった。しかしギリシア思考によって御言葉を変質してしまい、AD431年、エフェソス公会議において、マリヤ神聖宣言がなされ、マリヤを聖母とし、神の妻として、マリヤ祈祷が始まってしまった。彼らは、御言葉中心の「はじめの愛」には帰らず、その100年後、教会は地震によって破壊されて以来、再建される事は無かった。主はまさに、「初めの愛を捨ててしまった」主の働き人達に、「悔い改めて、初めのわざを行いなさい」と警告しておられる。

 『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(2:7b)

ここで主は、楽園にあるいのちの木への回復を、約束しておられる。私達は勝利者となるために、はじめの愛に即した行いを続け、もし主からの叱責を受けたとしたなら、速やかに主の言葉に従順するべきだ。

 『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録2:7a) 私達は、初代教会のように、ヘブライ思考に基づき、御言葉から直接的に御霊の養いを受け、最初の愛・最初の行いをキープし、その幸いにあずかるべきである。そのような皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

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