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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

 主日礼拝

「黙示録」から「啓示録」へ(啓示録1:1-3)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 
 先週のコーエンジャパンでは啓示録(黙示録)を学んだ。啓示録というと、よく分からない、怖い、恐れ多い、といったイメージがあったかもしれない。なぜ啓示録が怖い、難しい書物のようになってしまったか。
 「啓示録」のギリシア語Αποκαλυψις(アポカルプシス)は元々、啓示、開示、公示の意味で、イエス・キリストより、ヨハネに示された啓示によって、天国が、終わりの時代が、教会への指示が開示された、というのに、これを「黙示」と訳し、意味が秘められたもの、隠されたもの、と解釈してしまったのだ。
 それでこの内容を読む時、何かぼんやりした影のように思い、ある人はああ解釈し、別の人はこう解釈して、異端がいいように利用し、人を惑わして来た。しかし啓示録はヘブライ思考(神中心・御言葉中心)に立つなら決して怖い・難しい書ではない。むしろ幸いに満ちた書である事を講義に参加した人は体験した。
 書いてある。『この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて(ヘ:シェマー)、その中に書かれていることを守る(ヘ:シャマール)者達とは、幸い(ヘ:バラク)である。時が近づいているからである。』(啓示録1:3)
 啓示録を秘められた書として開かなかった人達は、啓示録がもたらす「幸い(バラク)」の外にいた。しかし私達は今こそ、この預言の言葉を宣言し、聞き、行い、暗唱(食べる)して祝福にあずかるべきである。
 
 3節の状況、すなわち、預言の言葉を朗読する人と、それを聞いて守り行うべき人々がいる状況とは、教会での礼拝の場面である。啓示録の内容は、まずイエス・キリストから使徒ヨハネへ示され、それを手紙の形式で、七つの教会の「使い達(アンゲロス:牧会者)」へ送り、それを受けた牧会者は、教会の会衆の前でその一章から二十二章まで全部を宣言し、それを聞いた聖徒たちは、その内容にアーメンして、それぞれの生活の現場に帰って行った。聖徒たちは再び主日に集う日までの6日間、書かれていた内容をずっと心に留め、それを行い続けていた。そうしている内に、聖徒たちは啓示録の内容を覚え、やがては「交読」の形となって行った。啓示録の中には「アーメン」という応答が何度かあるが、それがその痕跡である。
 御言葉を宣言し、それにアーメンで応答する時、一人一人に聖霊ご自身が働き、それぞれに必要な養いをして下さる。そのような「聖霊牧会」があったから、激しい迫害の時代でも福音は莫大に広がり続けた。
 
 御言葉を宣言し、それにアーメンで応答し、それを守り行い続ける。それが本来の信仰生活である。このようにする人が「幸い(バラク)」と1:3に書かれてある。これは、申命記28章の祝福の法則と同じである。
 『もしあなたが、あなたの神、主の声に「よく聞き従い」、わたしが、きょう命じるすべての戒めを「守り」「行う」ならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。』(申命記28:1)
 祝福のための3つの動詞が、「聞く(シャマー)」「守る(シャマール)」「行う(アサ)」である。シャマールは、茨など棘のついた生け垣で囲う、という意味が転じて「守る」という意味になった。御言葉を聞き、それをシャマール(巡らす)すると、御言葉が世とサタンから守る。その防護壁が無い人は、世の有毒な情報や心を傷つける人間の言葉、サタンの誘惑や攻撃が、そのまま「ぐさっと」刺さってしまう。しかし思いと心を御言葉の垣根を巡らしているなら安全である。「行う」のアシャーは「する」の他、「つくる」、「(実を)結ぶ」の意味があり、天地創造の創世記1章では7回も使われている。御言葉は、「行う」事によって実が結ばれるのだ。
 
 啓示録10章に、御使いがヨハネに巻物を「食べなさい」と渡してヨハネが食べる場面がある。御言葉を食べるとは、暗唱(テフィリン)する事である。御言葉を一日三百回、声に出して宣言して「食べる」なら、御言葉の城壁がめぐらされ、世のどのような否定的な言葉からも守られる。そして啓示録をテフィリンするなら、多くの民族、国民、国語、王たちについて預言する、と書かれてある(10:10-11)。だからキム先生は、啓示録をテフィリンするように言っているのだ。テフィリン無しで世やサタンと戦おうとしても、銃の撃ち方を知らない人にいきなり銃を持たされるようなものである。宣言し、守り行う者こそ幸いなのだ。
 啓示録の最後は、主の「すぐ来る」という言葉と、聖徒たちの応答で終わっている。『これらのことをあかしする方が仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。(原文は最後に「アーメン」がある)』(22:20-21) 宗教改革以来、御言葉暗唱と、御言葉宣言と、応答とが軽んじられてしまっているが、今こそ、初代教会に息吹いていた暗唱と宣言に立ち返り、聖霊牧会の力ある養いを受ける皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「負ける思考パターンからの脱出方法(民数記13:25-14:11)」
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 今年新たに頂いた約束、すなわち、自分が建てなかった大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、自分が植えたのでない畑を得る約束(申命記6:10-11)を得るための条件と、注意すべき事を学んでいる。今回も、それを得られる人・得られない人の思考パターンを、民数記から学びたい。

 

 主が用意して下さった祝福の地を逃してしまう人の思考パターンが、民数記13:3114:4に幾つかある。

祝福を逃してしまう思考パターン・その1は、先週も学んだ通り、目の前の敵や状況を見る時、共におられる主を度外視して、ただ自分と相手を比較する事である(13:31)思考パターン・その2は、主が備えて下さった莫大な良い祝福に目を向けず、できない言い訳を考え、それを誇張し、悪くいいふらす事である(32)思考パターンその3は、目の前の問題を巨大化し、自分を「いなご」などと縮小化する事である(33)

 民衆は今まで、主がして下さった素晴らしいわざの数々を見ておきながら、一切学ぶ所が無かった。今までモーセが全部、信仰の指導をして、いざ、一人一人が信仰の行いを実践しなくてはならない段になった時、それを実践しなかった。パターンその4は、信仰の行いの報酬も、奇跡も、ただ受けっぱなしで、自分が実践するべき段になると、尻込みして、「それはわたしの仕事じゃありません」などと拒否する事である。

 パロのレンガ造りに明け暮れる日々から脱却して、主のための価値ある仕事へとシフトする時が来ている

これらの負けの思考パターン」から脱却する方法は、一体何か? 2コリント10:3-6に具体的な答えがある。

 

 それはまず、「逮捕」する事から始まる。逮捕する相手は、目の前の問題や敵を頭の中でぐるぐる巡らす「さまざまの思弁(ロギスモス:議論、理屈、自分の計算)だ。「この問題はイエス様も対処できないのでは」などと神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり(エパイロー:高慢、障害物)など、全ての「はかりごと(ナイマ:思い、所存)「とりこにして(アイクマロティゾー:捕らえて連行する)」キリストの言葉に服従するのだ。

 その服従が完成した時、敵が構築したあらゆる「城壁」は、打破される。事実、ヨシュア達がエリコの城壁を崩したのは、武力ではなく、主の御言葉への服従が「7」という完全数に満ちた時だった(ヨシュア記6)

 勝利者の行動パターンは、いつも、主と主の御言葉を思い巡らし、口ずさむ事である。(申命記6:4-9)

思いの中を、御言葉の柵をめぐらしてガードする時、世的な強さや栄光は色あせ、ただ主の力強さが現実を上回る、と確信できるようになるのだ。ヨシュアとカレブは、神がなして下さった素晴らしい御業の数々をいつも思い巡らしていた。先週学んだ「能動態のビーン(悟り)を持っていたのである。つまり彼らは、自分から積極的に主を知ろうと、主のわざを注視し、観察し、考慮し、より主を理解しようと、務めていたのだ。

 

 ヨシュアとカレブは、エジプトへ逆戻りしようと言い出した群衆に、叫んだ。これから入ろうとしている、主の約束の地は、素晴らしく良い地だった。私達が主の御心にかなうなら、主はあの地へと導き入れて下さる

ただ、主に背いてはならない。彼らを恐れてはならない。彼らの守りは取り去られており、私達には万軍の主がおられ、彼らは私達の「えじき」となるのだ、と。そんな彼らに民衆は、石を投げようとした。しかし主はヨシュア達に軍配を上げ、彼らを守り、逆に主は、約束の地を悪くいいふらした者達を打たれた。(14:7-38)

 ヨシュアとカレブは、主の約束の地を仰ぎみる信仰を、40年もキープし続けた。40年後、カレブは85歳になったが、40年前と変わらない信仰を宣言し、ヨシュアの祝福を受けると、たちまちにして巨人がはびこる山地を平定した。85歳が、巨人が守る城壁の町々を、いとも簡単に打破したのだ!(ヨシュア記14)

 

 そういうわけで、目の前にある問題や敵、城壁を見て、頭の中が「もうだめだ」という「議論」でぐるぐるし出した時、まずすべきは、主イエスの御名によってその「議論」を逮捕し、次に「能動態のビーン」をするのだ。

すなわち、主が為して下さった力あるわざを一つ一つ思い返し御言葉によって主を観察し、考慮し、今までの経験と御言葉とから、主を理解しようと務めるのだ。そして、主へのビーンと御言葉への従順が完全になった時、頭の中の要塞は打ち砕かれ、そして、目の前の現実の問題・敵の城壁も、実際に崩れ去るのだ。

 もし私達が、日頃から主と主の御言葉を口ずさみ、思い巡らす事(申命記6:4-9)をしているなら、祝福の法則に乗っかっている。今、私達は祝福の法則に乗り、たとえ目の前に敵や城壁が立ちはだかっても、主の言葉への服従と信仰によって打ち破る皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「主を知れば、百戦危うからず(詩篇49篇)」
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 今年新たに頂いた約束、すなわち、自分が建てなかった大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、自分が植えたのでない畑を得る約束(申命記6:10-11)について、その祝福を得るための条件と注意すべき事を学んでいる。今回、それを得るために必要なマインドセットを、詩篇49篇から学びたい。

 

 5-6節をみると、なぜ富んで豊かな人を恐れなければならないのか、と書いてあり、16節でも、人が富んだり栄誉が加わっても、恐れるな、と書いてある。お金持ちを前にすると、あるいは栄誉が増し加わった人を前にすると、なぜ「恐れ」という感覚が沸き起こってくるのか。それは、その人は「自分より強いのでは」という思いがあって、そして、彼らと対抗して生きなくてはならないと想定をする時、恐れが起きるのだ。

もし私達が富む事を目指し、栄誉が増し加わる事を目指しているなら、その恐れを対処しなくてはならない。

 7-8節には、彼らを恐れる必要はない、という理由が記されている。その理由とは、彼らは自分で自分を贖えないからだ。どんなに富んでいても、力を持っていても、それによって自分を救い出す事は出来ない。

それに引き換え、イエス様を救い主としている私達には、力強い「贖い主」がおられる(15節)。

 私達は既に、イエス様の血により買い戻されており、天国に受け入れられるだけでなく、この地上においても、悪しき者達から守られ、必要が満たされる、という保証を得ている。しかし、主の方法でない勝ち方、力に任せて分捕る仕方で世を渡り歩いている者達は、義人が叫んだ時、主によって倒され、朝には「直ぐな者(ヤーシャル:まっすぐな人)」が、その者達が建てた家を取り、その者の労苦の実を得るのだ(14)

 詩篇49篇の結論は、20にある。すなわち、人がどんな栄えていても、「悟り(ビーン)」がなければ、滅びうせる獣に等しい。この「悟り(ビーン)」の意味は「知覚する、認識する、理解する、観察する、注意を促す、区別する、考慮する」で、詩篇のこの箇所ではQal態(能動態)」が用いられている。つまり、神についてもっとよく知ろう、注意してよく見よう、理解しよう、という積極さがない人は、滅びうせる獣に等しい、のだ。

 積極的に主というお方を知ろう、理解しよう、と追求した人は、他人が建てた素晴らしい町々や他人が植えた素晴らしい畑を得て行ったが、主を理解しようという積極性を持たず、目の前の現実を見てつぶやき、荒野で滅んで行った人達の事例が、民数記13-14章にある。主が約束して下さった素晴らしい地に入る直前、そこを探ってきた斥候達が、次の報告をもたらした。そこは素晴らしく潤っていて、まことに乳と蜜が流れる地であるが、そこにはアナク人という巨人や、アマレクという弱い者いじめに長けた者達、エブス人、エモリ人、カナン人という弱肉強食の世でのし上がって行った者達が、城壁を建てて住み着いている、と。

 『そのとき、カレブはモーセの前で、民を鎮めて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼と共にのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼる事はできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。(民数記13:30-32)

 攻めのぼって行けない、と判断した人達の理由は、「彼らはわたしたちよりも強い」だった。つまり、自他を比較して、不可能だと思ったのだ。ではカレブは一体どうして「必ず勝つ」と言えたのか? それは相手と自分達の神とを比較したからだ。私達も、我らの主イエス様と、目の前に立ちはだかる相手とを比較すべきだ。

そうすれば、彼らが建てた城壁の町々も、豊かな畑も、獲得できる。しかし、自分と他人を比較し、我らの主を全く度外視して、主を計算に入れない人は、何も手に入らないどころか、荒野で滅んでいくのである。

 私達が行って占領すべき所に、富んだ者・強い者が蔓延していて恐れがよぎる時、神をじっと見、観察し「ビーン」するのだ。その上で、相手と神とを比較する時、恐れはなくなり、カレブのように勝利を確信できる

 

 天の御国は、積極的に攻め取る者のものである。ヨシュアとカレブは、今まで主がして下さったその素晴らしい数々を、つぶさに観察し、学習し、熟知して、より頼んだ。このような主への積極的なビーンがあったため、素晴らしい町々を得たが、荒野で滅んで行った民にはそれが無かった。今まで主から多くの恵みを得てきたにもかかわらず、学ぶ所がなく、それどころか、目の前の敵をつぶさに見、観察してしまったのだ。

私達は詩篇49篇から学んだ。主に聞き従わない者達、富と権力で弱者を虐げる人達は、滅びうせる獣のごとくなり、彼らの富は、朝には神に対してまっすぐな人が受け継ぐ、と。カレブもそのように宣言した。

 今年、ますます神を調べ、その主が共に導いて下さる事の素晴らしさを確信し、積極的に攻めて行き、自分で労さなかった富と権威を得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「得る人・持って行かれてしまう人の法則(申命記6:10-11)」
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 前回、自分が建てたものでない大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、植えたのでない畑を得るという神の民への約束(申命記6:10-11)について、それを実際に得るための条件、および、実際にそれらを得た場合に気をつけるべき事を学んだ。得るための条件とは、直前の4-9節のシェマー本文、すなわち、自分の中に御言葉を溢れるまでに存在させ、昼も夜も御言葉について語り、子供によく教え込み、自分の手(行い)に結びつけ、家の柱に刻みつける事だった。そして、それらの祝福を得た時に気をつけるべき事が、12節以降の警告、すなわち、主を忘れたり、裏切ったり試みたりしてはならない事だった。

 これらの条件をクリアする人こそ、自分で労さなかった実を得るに値する人となるのだが、そのような人がいる一方で、自分が労して得た実や自分が投資した利益を、他人に持っていかれてしまう人もまた、同時にいるわけである。それは運ではなく、御言葉による一定の法則性がある。その法則性とは一体何か。

 

 「あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ」この申命記6:10-11で言う「あなた」とは、イスラエル人(神の民)であり、その町々を建てた人々とは、カナン人である。カナン人は何百年も前からずっとその地で実り豊かさを得ていたのだが、その特別な祝福を悪辣な事に用いて来たため、ついに主は、その国々をアブラハムの子孫達によって滅ぼさせ、そこを彼らに受け継がせるに至ったのだ。(創世記15:16)

 大きな富や力が委ねられた人には、それだけ大きな責任が伴う事を前回学んだが、それに値しない事を続けているなら、主はその者から取り上げ、別の、もっと主に忠実な人に、それを受け継がせてしまう

 

 サムエル記には、このような例がいくつもある。大祭司エリの息子のホフニとピネハスは、祭司としての務めをないがしろにし、祭司職の特権を乱用して、聖徒の捧げものを横取りし、神に仕える女性に手を出し、神を軽んじた結果、この一族は祭司職から絶たれてしまった。神と人との間に立つ、栄えある職務であるにもかかわらず、そこに安住し、肉欲のために特権を乱用したからだ。そこで主は、彼らに代わってイスラエルを霊的に指導する者として、サムエルという優れた指導者を立てられた。(1サムエル記2-7)

 サムエルは一生の間イスラエルをさばき、イスラエルが主への感謝と従順をやめさせないために、年ごとに各所を巡回し、霊的指導を続けた(7:15-17)。この働きは、派手さはないかもしれないが、このように人々の信仰を守るために巡回するという忠実な働きは、どんな戦いに勝利するより、はるかに偉大である。

 サウル王は、イスラエルの最初の王として任命されたのに、主の御言葉に二度も背き、神ではなく人を重んじたため(13-15)、主は彼から王権を除外された。彼は「王座」に固執し、新たに王として油を注いだダビデを殺そうと長年追い回した結果、とても悲惨な最後を遂げてしまい、それで王座は、ダビデという、より優れた人へと譲られて行ってしまった。『神はそのしもべダビデを選んで、羊のおりから取り、乳を与える雌羊の番をする所からつれて来て、その民ヤコブ、その嗣業イスラエルの牧者とされた。(詩篇78:70-71)

 ナバルは裕福であったが、頑迷で行状が悪く、多くの部下達は、言っても聞かない彼から離れて行った。

 ある時、彼はダビデ達からの恩を、仇で返した事が決定打となり、彼は主に打たれる事となってしまう。ダビデは、彼の悪辣さに怒り、一族全員を討とうとしたが、主は、ナバルの妻・アビガイルという、信仰の優れた、聡明で美しい女性をダビデに送ってその思いを留め、ダビデが王になる前の汚点となる事をしてしまうのを防いだ。ナバルは主に打たれ、彼の美しく聡明な妻アビガイルも、彼の富も、全部ダビデのものとなった

  ダビデに王としての任職の油が注がれたのは、まだ誰もかえりみない少年の時だったが、彼はいつも主を賛美し、弱い者を顧み、どんな背景を持っている人でも受け入れては、羊飼いとしてよく面倒をみた

 主は天からあまねく人々を見回し、主の働き人として相応しい人を探し求めておられ、見つけたなら、その人を特別に扱い、その人をあらゆる災いから守り、また敵でも味方でも「人」を送ってその人を鍛え、整える。

 もし、主から特別扱いを受ける者になりたい、と願うなら、シェマー本文にある通り、御言葉を溢れるまでに存在させる者になり、昼も夜も御言葉を語り、子供によく教え込み、御言葉を手に行いに結びつけ、自分の家を御言葉を土台に据える者、となるべきである。主は、主から与えられた役割に対し忠実な人には、さらに大きな事へとその人を委ね、導いて行く。神の国の忠実な経営者として、託されたタラントをさらに何倍にも増やしていく、良き忠実な主のしもべでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「大きな祝福を得る時に伴う大きな責任(申命記6:10-19)」
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  今年も昨年同様、「ベエル・シェバ」という安心して産んで増えて行ける広い地、敵が入ってこない地を獲得するようにとの御言葉をいただいたが、さらに進んだ祝福の御言葉が与えられたので、お分かちしたい。

 「あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かってあなたに与えると誓われた地にあなたを入らせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでない諸々の良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。(6:10-11)

 

 この約束は、ユダヤ人が最も大切にしている申命記6章の「シェマー本文」の命令に従った人に与えられる祝福の約束である。その命令の中身は、既にコーエンや天声で何度も取り上げられていて、イエス様も「最も大切な戒め」とまで言った、大切な命令である。すなわち、主の御言葉を心に留め(ハヤー:存在させ溢れさせる)、これを子供達によく教え(シャナン:研ぎ石などで鋭くする、コツコツ刺激を与える)、家にいる時も道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これについて語らなければならない(ダバル:論じ合う)(6-7)

 また、これを手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)、目の間にいつも置き(ハヤー)、家の入口の柱(メズーザー)と門とに書き記す事によって、我とわが家は、御言葉が土台の家であり、御言葉によって出入りする家、御言葉によって守られた家である、と、内外に表明するのだ。(8-9)

 以上の命令をクリヤした人が、自分が建てなかった大きな美しい町々を得、自分が建てなかった、良い物で満ちた家を得、自分が掘らなかった井戸を得、自分が植えたものでない畑と、その実りを得られる

 

 しかし、この誰もがうらやむ祝福は、抱き合わせで「警告」がついている事を、よく心に留めるべきだ。

 あなたは元々、エジプト(世)の奴隷状態だった。そこから、小羊の血の代価をもって買い戻され、救われた事を、忘れてはならない(12-13)。そして偶像礼拝に気をつけるべきである。すなわち、世の何者も、神以上に神としてはならない。そうでないと、主のねたみが燃え上がって滅ぼし尽くされてしまう(14-15)

 また「主を試みる事」をしてはならない(16)。イスラエルはマサで水が無かった時、主を試みたが、主はモーセに命じて、岩から水を出させた。主の御力と素晴らしさを見て、体験し、実際飲んで食べておきながら、それでも主に対して感謝する事も、何ら学ぶ所も無く、次は肉をくれ、と、さらに図に乗って主を試みた。

だから主は「怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った(ヘブル3:7-11)のである。

 神が私達に富や力を祝福として与えられるのは、私達の物欲・贅沢欲を満たすためではない

私達が気をつけて世の罪や悪に染まらず、王として、祭司として地上の人々を主へ導き、神の子として地上を正しく統治し神の国(神の支配)をもたらし全被造物に慰めを与えるという「大目的」のためである。

 

 『あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたは幸いを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。(申命記6:18-19)

 ここにあるように、私達が行うべきは、私達が考案した私達の「良かれ」ではない。主の「良かれ」である。

私達が自ら積極的に主に喜ばれる事が何か考え、先取りして行動するなら、さらに多く与えられるのだ。

 会社の経営者は、どうすれば事業が拡大し、顧客が喜び、社会のためになるかを主体的に考え行動するが、私達も、御国の事業に参加している意識を持ち、どうすれば御国が広がるかを主体的に考え、御言葉を調べ、その通り行動するなら、主はさらに多くをその人に任せるために、富や権威、職分を、御前で相応しくない用い方をしている人から取り上げて、その人へ与え、神の王国の経営を任せるようになって行く。

 大きな富を得たい、大きな力を得たい、と願う人は多いが、大きな富や力が委ねられた人には、それだけ大きな責任が伴う事を、忘れてはならない。単に贅沢欲を満足させたいという理由で、それらを求めたりはしていないだろうか。もし、自分が建てなかった町々を得、自分が建てなかった良い家を得、自分が掘らなかった井戸を得、自分が植えたものでない畑を得たなら、それを用いて、さらに神の国の拡大のために用いて行く準備は、整っているだろうか。神の国の忠実な経営者として、託されたタラントをさらに何倍にも増やしていく、良き忠実な主のしもべでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 ※ この日は、林/川合牧師がカンボジアへ出張する関係で、横浜天声キリスト教会では小林伝道師が、成田エクレシアでは林パスターが礼拝の担当をしました。そこで今回は、横浜の礼拝をYoutube動画で、成田エクレシア礼拝は文書でメッセージをお分かちします。

横浜天声キリスト教会主日礼拝「主の器をになう者の品性−あなたの隣人を愛しなさい(ルカ10:25-37)」
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成田エクレシア主日礼拝「思い巡らすことばを管理せよ(2コリント10:4-6)」

前回、サタンがダビデにイスラエルの兵力を数えさせようという思いを吹き込み、ダビデはそれに乗ってしまって、イスラエルに災いをもたらした所を見た(1歴21:1)。もし悪魔がキリスト者を操るとするなら、それは、キリスト者の中に生じた欲につけこんで「偽り」を信じこませる事によって、である。だから、私達の戦いの領域は「思い」の中にこそある。サタンは人の思いに偽りを吹き込んで、人を操るため、今回は特に、思い巡らす内容を管理する事の重要性と、思いの領域に投げかけて来るサタンの攻撃に対処する術を学びたい。
 
  私達の思いの中には常時、何かの「言葉」が電光掲示板のように流れているが、その思い巡らす言葉の内容を、管理し、支配すべきだ。なぜなら私達は、内外に流れる「ことば」に影響を受けながら「人となり」が形成されて行くからだ。サウル王は、健全な主の言葉に耳を傾けず、気分に流されるまま、「妬み」「怒り」「殺意」など、サタン好みの言葉をいつも思いの中に流し続け、それに浸し込まれていたため、どんどんサタンの性質を帯びるようになり、滅びの性質をどんどん身につけ、やがて、自分の身を滅ぼしてしまった。
 『サウルはギベアで、やりを手にもって・・・おり、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(2サム22:6)
 ここではサウルの人格の崩れ度合いが、かなり進行している。槍は人を殺める武器で、サタンなど敵に用いるべきなのに、部下を威圧するため、あるいは気に食わない者に投げつけるため、いつも手にしていた。
 『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。…わたしの子がわたしの僕をそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない。』(8節) 彼はすごい被害妄想に憑かれている。誰も心配してくれない、みんな自分に敵対している、と。信仰の逆・「疑い」をいつも抱き続ける人は、こうなってしまい、人が喜び笑う顔を見ると「自分が嘲られた」と思ってしまうものだ。
 サウルは既に、主から王位を退けられたのに、ずっと王座にしがみつき、主に油注がれたダビデを殺そうと付け狙って、いつも主に敵対していた。王座は、自分が座るものではなく、唯一イエス様が座るべき所だ。
もし人が「王座」を主に明け渡さないなら、「王座」に支配され、振り回され、ついに王座に滅ぼされてしまう。
 
 そういうわけで私達は、思いの中に常時流れている「ことば」を支配・管理すべきだ。人は罪の「とげ」がささっているため、どうしても、不品行や好色、魔術、憤り、党派心、妬みなどを燃え立たせる系の話に弱い。
しかしサウルのように、気分に任せるまま、それらを頭の電光掲示板に流し続けるなら、サタンに似た者、滅びの体質を身につけた者になってしまう。こうした思いが、思いの思考パターン化してしまった「要塞」は、肉に従って戦うとするなら、太刀打ちできない。しかし、その要塞を打ち破る効果てきめんな方法がある。
 『私達の戦いの武器は肉のものではなく、神の為には要塞をも破壊するほどの力あるものである。私達は様々な「議論(ロギスモス:理屈、自分の計算)」を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる「障害物(エパイロー:高慢)」を打ち壊し、全ての「思い(ナイマ:謀、所存)」をとりこにしてキリストに服従させ、そしてあなた方が完全に服従した時、全て不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリ10:3-6)
 すなわち、自分の中で握りしめようとする自分の理屈、計算、御言葉に逆らって立つあらゆる高慢、謀、所存を、全て「逮捕」し、キリストへと連行するのだ。そして私達自身は、キリスト(御言葉)に服従するのだ。
ダビデもよく、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と、自分に言い聞かせた。私達もたましいに言い聞かせ、その服従が完全になる時、全ての不従順を処罰する用意が整い、私達の中の要塞は破壊されるのだ。
 
 結局、全て人生をややこしくし、世界を不幸に陥れている原因は、エデンで食べてしまった「善悪判断」である。自分が王座に座っていたい、自分はこういう所存です、自分の立てた計算に従いなさい、などなど、自分が神のようになりたい欲求は、全て、死へとつながる。私達は御言葉といういのちの木をこそ捕えるべきだ。『知恵は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人は幸いである。』(箴言3:18)
 自分のたましいに言い聞かせる事は、確かに大事だが、いちいちそれをしていると、骨が折れる。
結局一番ラクな方法は、御言葉をそのまま暗記し、自動思考パターン化・行動パターン化させる「テフィリン」である。日本の部活や会社などでは、自分の理屈や所存を持っている人は「できない人」で、昇進しない。いち早くそれを捨て、場の空気に従う人が、ぐんぐん成長する。私達は人の奴隷ではなく天国民である故に、いち早く自分の所存を捨て、御言葉に従う者となり、神の子としてぐんぐん成長する者でありたい。

 

主日礼拝

主の目が絶えず注がれる礼拝者の地・モリヤ(1歴代誌21:1-22:1)

English Service

 

前回はベエル・シェバの箇所をキアズム構造解析し、サンドイッチ・キアズムの中心部分、すなわち、アブラハムがイサクを捧げる場面こそが重要である事を見た。その場面が私達に教える事は、主が奇跡的に与えて下さった人、モノ、事は、我が物として握りしめず、さらに主へと捧げて行くなら、主はそれを足がかりにこの世へどんどん介入できるようになり、その捧げものを主が用いて、この曲がった世を正す、だけでなく、その捧げた人には何倍もの祝福(それも、海の砂粒の数倍・空の星数倍!)を返して下さる事を学んだ。

アブラハムがイサクを捧げるように主が指定された地は、モリヤの地であったが、今回、このモリヤとベエル・シェバの2つが交錯する第一歴代誌21章から、主に捧げる事がいかに素晴らしい結果をもたらすか、逆に、与えられたものを我が物とする事がいかに損であるかを、今一度学んでいきたい。

『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエル・シェバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。』(1歴代誌21:1-2) サタンがイスラエルに災いを降す「とっかかり」となったのは、イスラエルの中に芽生えて来た罪であり、ダビデに芽生えてきた傲慢だった。

ヨアブはダビデを諌めたのに、ダビデは聞かず、イスラエルを数えさせた。果たして、合計157万という数字が出た。ダビデは、その具体的な数値を聞いて、罪を犯した事を悟った。なぜなら、数えていない内は「万軍の主」(イザヤ54:5)が彼の力だったのに、数えた瞬間から、彼の力は「157万の人間」に成り下がってしまったからだ。彼がこの事を犯したゆえに、エルサレムは3日間、主のつるぎに打たれる事になる。

彼は、自分が罪を犯したのだから、災いを彼らに向けないで、自分と自分の家に降して下さい、と執り成し祈った所、主は、エブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くようダビデに命じた。実はその場所は、過去と未来の礼拝者達をつなぐ、とても重要な場所である。そこはモリヤ山と言われる地、すなわち過去、彼らの先祖アブラハムがイサクを捧げた所であり、後にソロモンの手で神殿が建てられる所である。(2歴代誌3:1)

『その時オルナンは麦を打っていたが、ふり振り返って御使いを見たので、共にいた彼の四人の子は身を隠した。』(1歴代誌21:20)

御使いはオルナンの打ち場で災いをもたらしていたのに、オルナンは何の害も受けず、麦を打っていた。災いのまさに中心地にいたのに、なぜ全然無事だったのだろう。  災いの日に、真っ先に害を受ける人もいれば、逆に、災いの中心地にいても害が素通りして行く人もいる。 それは、全能の主を拠り所とする人(詩篇91篇)、また、忍耐して主の言葉を守る人である。(黙示録3:10) オルナンの性質は、まさにそうだった。彼はエブス人でありながら、(1)素晴らしい信仰者であり、(2)権威に忠実で、そして(3)躊躇なく自分のものを主に捧げる性質の持ち主だった。彼はダビデが来るのを見ると、すぐ地にひれ伏した。ダビデが彼に、この土地を十分な金額で買いたい、と申し出ると、オルナンは言った。

「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のために捧げます。わたしは皆これを捧げます」(21-23節)

オルナンは何から何まで捧げる、と、ダビデに申し出た。その言葉が発せられた瞬間、確かにその地はオルナンの手を離れ、主のものとなった。しかしダビデは、自分が費用をかけずに主に捧げるなどとんでもないと、50シェケルで打ち場と牛を買い(2サム 24:24)、後には600シェケルでモリヤ山全体を買い取った。

モリヤ(ラアー(見る)+主(ヤハ))は、主が絶えず目を留めておられる地、人が主に捧げるかどうかを見ておられ、捧げたなら、その人に豊かに加えて備えられる地である。主は「礼拝の地」に目を留めておられる。 主はそこで、イサクを捧げたアブラハムに対して備えられ、全財産を捧げたオルナンに対して備えられた。

こうしてダビデはその所で捧げ物を捧げると、主は天から火を下して答えられ、御使いは剣を鞘に収めた。

ダビデは、主から驚く程の祝福を受けたが、自分のステータスを数え、自分を誇ろうとした結果、災いが起きて、減らされてしまった。しかしオルナンは、躊躇なく自分のものを捧げたら、増し加えて与えられた。

私達は、主が祝福して下さってからは、自分のステータスはどれほどかを心配したりせず、誇ったりせず、はじめから「万軍の主」により頼んでいれば良いのだ。そして、与えられたものを自分のものと主張せず、いつでも主に捧げる心を持っているなら、どんなに困難な時代でも守られ、増し加えられ祝福されるのだ。 そのようにこの時代、大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

ベエル・シェバを得る人に欠かせない大事な事(創世記22:1-19)

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週報/メッセージ(説教)概要

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成田エクレシア礼拝 音声


 この新年が、信仰者にとって大いに祝福の年となりますよう、主イエスキリストの御名によって祝福します!

昨年に続き、今年も「ベエル・シェバ」を得て、そこで豊かな祝福を得る事が示されていた。ベエル・シェバとは、信仰の父アブラハムが井戸を掘り、ぎょうりゅうの木を植えて開拓した地で、敵が入り込んで来る事なく安心して産んで増て行ける地であるが、金曜の礼拝でさらに大事な事を発見したので、分かち合いたい。



年末の主日は創世記21:33から、アブラハムがぎょりゅうの木を植え、そこに礼拝の場を構築した箇所より、ベエル・シェバを得る方法・そこを管理する方法を学んだ。ベエル・シェバのキーワードが次に登場する所は22:19であるが、この、ベエル・シェバのキーワードでサンドイッチされた箇所に、全ての信仰者にとって最重要とも言える場面が挿入されている。すなわち、アブラハムが最愛の子イサクを捧げる場面である。

主は、アブラハムが100歳にしてようやく生まれた子、神が約束しておられた子を、「全焼のいけにえとしてわたしに捧げなさい」と言われた。神は「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのに、なぜ、そのイサクを殺すような事を、アブラハムに言われたのか。矛盾している、と思われがちだが、彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:17-19)

このテストを彼がクリヤした結果、神は「誓って」、アブラハムとその子孫の祝福を約束する(17-18節)。

神が誓われた祝福の内訳は、4つあり、まずは?「大いに祝福する(バラクの反復による強調)」事。

バラクの原意は「ひざをかがめる」で、神ご自身が、あたかも親が子にひざをついてあらゆる便宜を図るように、あらゆる便宜を図ってくださる事である。次に?「大いに子孫を増やす」事で、それも、天の星のよう、海辺の砂のように増し加えるのである。信仰の子達は、天の星のように輝き(ピリピ2:15)、肉の子も、海の砂のように大いに増えていくのだ。さらに、?子孫(単数形)は、敵の門を打ち取り、?地のもろもろの国民は、アブラハムの子孫(単数)によって、祝福を得るというのだ。これが、最愛の子イサクを捧げた事による祝福であり、こうして彼はその後、あらゆる面で祝福された(創世記24:1)。

神は、ケチなお方ではない。一度捧げたら、本人の手元には何も残らないまま、というような事は、決してなさらない。天地の全てのものは、神のもので、神は太っ腹にじゃんじゃん与える事の出来るお方である。



聖書全体は、神の全人類・全被造物を救うための計画書でもある。全人類は元来、神の似姿として、神に祝福(バラク)され、生んで増えて地に満ち、地を支配しつつ、神と共に永遠を生きるものだった。しかし、敵であるサタンがそれを台無しにしてしまった。そこで神は、一人の人アブラハムを召し出し、彼が信仰によって、その子を捧げるようにし、そして、捧げられた子よって、この世に救いをもたらす土台を得たのだ。

人が神に何かを捧げるなら、神は、その捧げものを通して、この世界に介入し、御業を働かせる「取っ掛かり」を得られる。その実例として、少年がわずかなお弁当をイエス様に捧げた結果、イエス様はそのお弁当を通して5千人以上を満腹させたし、ハンナは、自分に生まれてくる子を捧げた結果、その子は偉大な預言者・キングメーカーである、サムエルとなった。さらにハンナは祝福され、多くの子達も与えられた。

アブラハムの場合も、彼がイサクを捧げた事により、神はイサクから生まれる子孫を通して、全人類・全被造物を贖う「とっかかり」を得たのだ。それでアブラハムの子孫(単数形)を通し、全人類は贖われ救われる。

この単数形の子孫が、イエス・キリストである。彼こそ、アブラハム対する約束の通り、全人類の敵・サタンの門を打ち破り(?)、囚われている人々を開放させ、全民族・全国民は彼によって祝福される(?)。信仰者は夜空の星々のように輝き(?)、アブラハムの霊的子孫であるキリスト者は、大いに祝福されるのだ。(?)

「ベエル・シェバ」は、サンドイッチ型キアズム構造の「パン」にあたり、イサクを捧げる出来事が「中身」として挟まっている。この構造で大事なのは「中身」であり、すなわち、ベエル・シェバを得る人にとって決して欠かせない事は「主に捧げる事」である。いかに自分にとって最愛のものであっても、また、たとえ神様がようやく与えて下さった、最も大事なものであっても、それは、主に捧げられたものとすべきだ、という事である。

それをするなら、主はその「捧げもの」に機会を得、世に介入し、御業を為し、暗闇の世界をひっくり返して祝福に輝く世界へ造り変える事が出来る、のみならず、その捧げた本人自身も、大いに祝福されるのだ。

この新年、ベエル・シェバをわがものとし、与えられた全ては、主に捧げ、そうして、主の御業をこの世に運び込み、自身も大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝


ベエル・シェバは私達・神の民のもの(創世記21:33)

English Service

 
 
 天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、礼拝によって新たな年を初める。
2018年が明けた最初の礼拝ではベエル・シェバの言葉が与えられ、天声のカレンダーにその言葉が記された。
 
 ベエル・シェバとは、私達の信仰の父・アブラハムが開墾してしばらく定住した地で(創世記21章)、
水を豊かに汲み上げられる地、敵が入り込んで来ない安心して生んで増えて行ける広い土地である。
 
 今年、まさにベエル・シェバのような安心できるような広く良い所有が与えられた聖徒が横浜に、成田に、静岡に出た。今年を納めるにあたり、ベエル・シェバを得る方法を今一度おさらいし、いかにそこへ入り、いかにそこを保って行くべきかを復習したい。
 
 ベエル・シェバは最初、アブラハムが開墾して井戸を掘ったが、アビメレクのしもべ達が奪ってしまった。
しかし、アブラハムにイサクが生まれた後、何をしても栄える彼を、アビメレクは恐れ、不可侵条約を結びに来た。その時アブラハムはベエル・シェバを返すよう抗議し、見事、奪い返した。(創世記21章)
 アブラハムがもしこの時抗議していなかったなら、黙認的に奪われたままだった。今年まだベエル・シェバを得ていない、奪われっぱなしのままだ、と心当たりあるなら、その相手に抗議を発するべきである。
 
 奪い返した時、『アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木(אֵשֶׁל:エシェル)を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。』(創21:33) このぎょうりゅうの木・エシェルは、水が無い所でも深くから水を汲み上げる。イスラエルが再建国された時、砂漠地帯だったベエル・シェバを、先祖アブラハムにならってこの木を植えた所、緑化に成功し、今や、ネゲヴ沙漠最大の都市となって『ネゲヴの首都』とも呼ばれている。
 
 このエシェルの木は、詩篇1:1にある「幸い(エシェルאֶשֶׁר)」から派生した語で、イスラエル12部族のアシェル族はこのエシェルの木を旗とし、アシェル部族も、エシェルの木も、共に「祝福」の意味を持っている。
アシェル部族は、兄弟の中で愛され、守られ、妬まれないという最高の祝福を得た。(申命記33:24-25)
 
 このように、ベエル・シェバは、信仰の父アブラハムが正統な手続きを経て入手し、潤いある地へと開墾し、永遠の神・主の御名を呼んだ地である。そのような所を得るよう求め、そして得たなら、主の御名を呼び求め、手放してはならず、豊かに祝福を流し続けるよう、管理し続ける必要がある。神がエデンに人を置いた時、そこを管理させ、そうしてエデンから川が流れて全地を潤していったように。(創世記2:4-17)

 アブラハムの子・イサクは、ききんを理由にそこを離れ、アビメレクの所へ「下って」行ってしまった(26章)。
「下」は世であり、そこは一見、食料に事欠かず、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
 イサクは困難を「下」の方法で解決するために、世に「下った」結果、散々な目に遭う。妻を「妹です」と偽ったり、百倍の収穫を得ても妬まれ、井戸を埋められた挙句、追い出されたり、行った先で井戸を掘っても奪われ、さらに行った先で井戸を掘っても、奪われてしまった。それは彼は、主が定めた地ではない所に行ったからであり、御言葉によってではなく、目に見て良さそうな「世の方法」で解決を求めたからだ。
 
 主は人や状況を鞭として用いて、ベエル・シェバへと追い立てて行く事がある。たとえ成功してもすぐ奪われてしまったり、狭い所で敵だらけで、やられっぱなしで、いつも気を張っていなくてはならないなら、どこが本来居るべき「ベエル・シェバ」なのか、広く安心して産んで増えて行ける地を主に求めるべきである。

 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、そこには争いが無かったので、その名をレホボテ( 「広場」という意味)と名づけて言う。『いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。』(23節) 彼はようやく争いの無い井戸を掘る事が出来たが、すぐベエル・シェバへ「上る」。
 彼は「上」を見上げ、結局、信仰の父が井戸を掘った地、神の約束がある地こそ、自分が産んで増えて地に満ちていくべき所だと悟ったのだ。するとその夜、主がイサクに現れ、「恐れてはならない」「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、あなたの子孫を増す」と言われた。それで彼は、その所に礼拝場所を築き、天幕を張って井戸を掘り、住み込む準備を整えた。(24-25節)
 
 私達も主が「ここだ」と示される地、仕事、礼拝を求め、そして「ベエル・シェバ」を得たなら、そこで産んで増えて地に満ちていく準備を整えるのだ。ベエル・シェバは、私達・神の民のものである。ベエル・シェバをわがものとし、産んで増えていく皆さんでありますように! 
 
 イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
十字架にかかるために赤ちゃんとなって来られたイエス(ルカ2:1-14)
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成田エクレシア礼拝 音声
 

 あと数日でクリスマス、イエス様の誕生を祝う日となる。イエス様は万物を創られる前より、神の御子として存在しておられたが、なぜわざわざ人の赤ちゃんとして来られたのか。その「基本」を改めて思い返したい。

イエス様がお生まれになった時、ちょうど皇帝が住民登録をせよという勅令を出した時で、普段は人がいない田舎のベツレヘムも、この時は混雑状態となり、ヨセフとマリヤが泊まれる部屋は、無かった。マリヤ達は祈ったかもしれない。あなたが約束された尊い子がもう生まれそうです、宿をあけて下さい、と。しかしそのようにはならなかった。『彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。』(ルカ2:6-7)
父なる神様は当然、快適な所で御子を産まれさせる事は出来た。しかし敢えてそうはされなかった。
神の御子が、あたかも人の間から締め出されるかのようにして、飼葉おけ(餌箱)の中に布にくるまれ、宿られたのは、しるし(セメイオン)のためと書いてある。『あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるし(セメイオン)である」。』(12節)
セメイオンとは、神的な意味が付与された奇跡を意味する。ただの「奇跡」は、単に人がびっくりするだけで信仰には繋がらない。しかし「しるし(セメイオン)」は、人が神へと繋がる信仰を起こすものである。
では、この「布にくるまれた赤ちゃん」というしるしには、どのような神の意図があるのか。

当時のユダヤの野では、家畜は、岩山の洞窟などで飼っていた。だからイエス様がお生まれになったのは、岩の洞窟の中であった可能性が高い。「飼い葉桶」と訳された語「ファテネー」は、日本でイメージする木箱の飼葉桶ではなく、岩に穿った凹みに、家畜などの獣の餌を入れるものである。想像して欲しい。洞窟の中に、布でくるまれ、岩の床に寝かされている・・・その姿はまさに、埋葬されたイエス様の姿と重なる。
御使いは、羊飼い達に「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある幼子が、あなた方のためのしるし」と言ったが、その有様は、まさに死んで葬られるキリストのしるしであり、それは全ての人々・・・博士達のような異邦人でも、羊飼いのような卑しい人であったとしても、全ての人々の身代わりに死んで下さる「救いのしるし」であり、どんな獣のような人であっても、彼のいのちにあずかれるように、飼い葉桶へ宿られたのだ。

万物は御子キリストにあって創られ、彼にあって万物が成っているのに、彼は何故、この人間世界に、貧しい夫婦の赤ちゃんとして降りて来られ、岩窟に寝かされたのか。それはこの上ない愛が全うされるためだ。
『神はそのひとり子を賜わった程に、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16) 父なる神が御子を世に遣わされた理由、それは圧倒的な愛と憐れみ故である。神は人を愛し、一人も滅びる事を望んでおられないため、全人類(わたし)の罪を、独り子である彼に負わせ、処罰し、彼を信じる人が罪に定められる事がなく、永遠の天国で生きるためだ。
『神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私達を生きるようにして下さった。それによって、私達に対する神の愛が明らかにされたのである。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。』(1ヨハネ4:9-10)
私達・人間を救いたい、というその激情の愛がイエス様を動かし、栄光の神の御座を降りてあの貧しい所の赤ちゃんとなり、ご自身のいのちを投げ出させたのである。それで彼を信じる人は、アダム以来の死と呪いから開放され、神の子としての特権をいただき、永遠のいのちを得、永遠の天国に入る特権を得るのだ。

イエス様が赤ちゃんとなってこの世に来られたのは、愛のゆえ・・・そして十字架で死ぬため。その大きな愛が、見える形となって、赤ちゃんとしてこの世に結実した故に、御使い達は、大いに喜び、ほめ讃えた。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(14節)
彼の身代わりの死は、私達が代わりに生きるため。その救いにあずかった私達もほめ讃え、賛美するのだ。
「屠られた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい。」(黙5:12)
赤ちゃんとなって生まれたイエス様は、十字架への道を歩み出される。その小さな手の中に、全ての人の罪と呪いを、一手に握りしめて。この御方を喜び讃えつつ、クリスマスを迎える皆さんでありますように!

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