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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝
エッサイの根から流れ出て来る聖霊の油(イザヤ11:1-5)
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成田エクレシア礼拝 音声

週報/メッセージ(説教)概要

 私達も乙女マリヤのように、聖霊によってイエス様を内に宿し、そして彼が私達の内で素晴らしい働きをして下さる事を、この待降節の時、学んでいる。エッサイの根から出た新芽・イエス様に接ぎ木された私達へと流れてくる聖霊の油は、どのような作用を及ぼし、広がって行くのかを、今回もイザヤ書から学びたい。

イエス様はナザレ人と呼ばれているが、エッサイの「根株」と訳されたヘブライ語「ネツァル」は、切り倒された切株から出てきた新芽を意味する。それは太い根が吸い上げる養分を一身に受け、元を上回る大木へ成長して行く力を内在している。ダビデ王家は、代を下るごとに悪くなって行ったが、エッサイの根株から出たネツァル・イエス様の王国はそれとは違い、純粋で清い枝が、前を遥かに凌ぐ勢いで広がって行く。
現代の私達もそこに接ぎ木され、その豊かな恩恵にあずかって、愛、喜び、平安に溢れる、新しいいのちがみなぎって行く。大祭司キリストに注がれた聖霊の油が、その頭から肢体へと流れていくごとくに、彼に接ぎ木されてその交わりへと入った私達にも、流れ滴って来るのだ。(詩篇133篇)
キリスト者が悪霊や病を追い出すのも祝福するのも、「イエスの名によって」だが、それはイエス様の御名を信じる私達に、彼に注がれた聖霊の油が流れ滴って来るからで、決してキリスト抜きにできる事ではない。
イエス様に接ぎ木された人は、知恵と悟りの霊、思慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が流れて来る(2節)。そして、主を恐れる事を喜びとし、目や耳で判断せず主の霊によって物事を見抜くため、人間関係や、ビジネスにおいて、正しい判断が出来るようになり、人生の道で誤る事が無くなって行く。(3節)
そして「口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(4節)とある通り、主を軽んじる者、好んで悪辣な事をする者、いのちと秩序を阻害するような「悪魔のわざ」に対しては、私達も主イエス・キリストの御名によってむちを打ち、御霊による御言葉の剣でそのわざを抹殺できる。また、主イエスの名による祈りによって、国や世界情勢を動かし、荒れる天候や大地に平安をもたらす事が出来るのだ。

もしこの恩恵に預かりたいのなら、エッサイの根株から出た新芽・イエス様に繋がらなくてはならない。
世の中では、超能力的なパワーが与えられて好き放題に出来る事を夢見させる映画やアニメが流行っているが、聖霊由来のパワーを、それと同じに勘違いしてはならない。私達の生き方は、それらと真逆である。
主の霊が授けられるのは「主のしもべ」に対してである(イザヤ42:1)。イエス様は、本質的には王の王、圧倒的な支配者であるが、生き方は御父の言葉に100%従順する「しもべ」だった。私達も同様に、本質は王であり、祭司であるが、生き方は、主の御言葉に100%従う「しもべ」として生きるべきなのだ。
主の霊と主のことばは、「そむきの罪を悔い改める者」の所に来る(イザヤ59:20-21)。もし悔い改めずに罪を犯し続けるなら、前回学んだ通り、バッサリ刈り取られ、火に投げ込まれてしまう。しかし御言葉に背く事をやめ、悔い改めて、主の霊と主の言葉に生きる人には、イザヤ60章以降の幸いが与えられる。
イザヤ60:1-3には、主に照らされ、主の光を国々に届ける者の役割と性質が書いてある。私達が主に接ぎ木されて「世の光」となったら、国々が、王たちが、光となった私達に照らされ歩むようになる。
もはや私達が世や王達を追いかける必要はなくなり、逆に、彼らの方が、私達を追いかけて来るようになる。
イザヤ61章には、イエス様が会堂で引用した通り、イエス様のご性質が記されている。(ルカ4:18-19)
それはイエス様に接ぎ木された私達にも、聖霊の油が流れ込んで来る故、ここに記されている権威が与えられ、その働きをするようになって行く。私達もイエス様のように、貧しい者に福音を宣べ伝え、心痛む人々を癒し、捕われ人に釈放を告げ、主の恵みの年と、主の報復の日とを告げ、全て悲しむ者を慰め、主の民の中の悲しむ者に喜びを与え、灰に代えて冠を与え、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、賛美の衣を与えさせる働きをするようになる。(イザヤ61:1-3)
荒れた所を再建する者となり、私達の羊や畑の面倒は他国人が見るようになり、「主の祭司」ととなえられ、神に仕える者と呼ばれ、国々の力を食い尽くし、その富を誇る者とされる。また、以前の恥に代えて二倍のもの所有し、とこしえの喜びが私達のものとなる(同4-7節)。人々が私達の祝福された様を見るに、「まことに主に祝福された子孫だ」と誰もが認め、そうして主に栄光が捧げられるのである。(同8-9節)
私達は主を信じた時、エッサイの根株へと接ぎ木され、そこから流れ来る豊かないのちに満たされた。
このエッサイの根株がさらに広がっていくために、大いに用いられて行く皆さんでありますように!

主日礼拝
エッサイの根株から出た新芽(イザヤ11章)
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 待降節第二週の今日は、預言者イザヤによるメシヤ到来の預言を見たい。イザヤは、救い主がこの世に来られる時の有様と、彼がもたらす物事の素晴らしさについて、イエス様が来る700年も前に預言していた。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
エッサイはダビデの父で、彼から出た新芽は、やがてダビデ王家という「大木」となった。しかしダビデの子ソロモンから続く王家は、高慢になり、罪を重ねて悔い改めなかったため、バビロンを通して伐採された。
しかしダビデの子・ナタンから出た「新芽」の子孫に処女マリヤが出て、彼女から救い主キリストが生まれた。
このエッサイの根株から出た若枝、すなわちイエス・キリストの上に、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が留まり、それはイエス様に接ぎ木された聖徒達へと流れて行く。(2節)
彼の統治は、失敗が一切無く、さばきも、間違いが無い。このイエス様に繋がり、神の霊が留まった人には、主を恐れる事が楽しみとなり、見える所や聞く所によって判断せず、正しく判断するようになる(3節)。
世の王には欠けがあり、失敗がある。それは人の中には、自分の目でよしとした所に従って動く「善悪判断」の性質があるからで、気に入った人をえこひいきしたり、気に食わない人を勝手に罪定めしたりする所があるが、主はそのようなお方ではない。「主を恐れる事」こそ、失敗の無い判断と統治の始まりなのだ。

そしてこのお方・イエス様は『正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息(ルアッハ)をもって悪しき者を殺す。』(4節)
正しくさばくものが4つあり、それは、主の正義と、主の公平と、主の口のむちと、そのくちびるの息である。
イエス様の御口からは御言葉という”むち”が出、また息(ルアッハ:霊、聖霊)によって全世界の人々を裁く。
私達も、主の御言葉によって「鞭打たれる」時があり、その時、自分が犯してしまった罪を悲しむが、それで悔い改めるなら、救いと安息を得る。しかし、もし主の御口の鞭を受けても悔い改る事がなく、罪を犯し続けるなら、やがてアッシリアやバビロンのような厳しい鞭が来て、その高慢は、強制的に切り倒されてしまう。

主の御口から流れ出る御言葉と、主を知る事の霊が行き巡る所は、どんな世界へと変わって行くか。そこは、どんな猛獣も動物も、互いが互いを害さず、皆、同じ食物を食べ、平和に共存するようになる。(6-9節)
生き物の「食」が変わるのは、尋常な事ではない。ライオンがどんなに頑張った所で、他を襲って食い物にする本能は、変えられない。しかし、主の御口から流れて来る御言葉と、主の霊によって支配されるなら、いかにライオンのような、熊のような、ヘビのような者であったとしても、そうした獣的な「食い方」は出来なくなり、互いに敵対できなくなって、平和に共存し、同じ食物すなわち「御言葉」を共に食べるようになるのだ。
夫婦や家族などの人間関係で、相手の気に食わない性質や言動を見つけたなら、攻め、追求し、引き裂き、食らいついていた性質も、主を知る知識が覆って主の霊に満たされ支配されるなら、無くなるのだ。
『彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。』(9節) 
エッサイの根株から出た若枝・キリストの統治が広がっていくと、主は、その御手を翼のように広げ、各地に散っている残りの民を覆って買い戻される。そしてエッサイの根は、旗印となって高く掲げられ、全世界に散らされた神の民イスラエルは、エッサイの根を求め、集まって来るようになる(10-12節)。イスラエルの中の敵対関係は解消され(13節)、彼らを長らく虐げていた国々はかすめ奪われるようになる(14-15節)。

イエス・キリストというエッサイの根が伸びていく所には、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされ、正しく物事を判断できるようになり、どんなに獣のような人であっても、平和な人へと造り変えられる。エッサイの根が伸びて行くと、散り散りにされている主の民は集められて来る。
主を恐れ敬うなら、主の霊が、私達に留まる。しかし主の言葉を受けても全く変わらず、ただ自分の望みを為し得たいと主張し続けるなら、切り倒す斧が待っている。私達はこの所を、主の民が集う「聖なる山」とし、海が水で満ちているかのように、この日本という地を、御言葉教育によって主を知る知識で覆い、主の民を集めて行く働きの一端を担って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
マリヤのようにキリストを宿らせる人とは(ヨハネ1:1-14)
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 本日より、待降節(アドベント)に入る。クリスマスというと、イエス様の誕生日というイメージがあるが、イエス様は、乙女マリヤから生まれた時が存在の最初ではない。御言葉なるキリストは、初めからおられ(ヨハネ1:1)、父なる神のふところにおられ(18節)、その彼が、乙女マリヤの胎を通して赤ちゃんとしてこの世に降りて来られたのである。待降節とは漢字の通り、イエス様が私達へ降りて来られるのを待ち望む期間なのだ。
待降節で良く語られる乙女マリヤは、イエス様を懐妊した事で特別視されているが、ご存知だろうか、私達もキリストを宿す事ができるのである。キリストが喜んで宿る人とはどういう人か。本日はそれを学びたい。

『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体(サルクス)となり、わたしたちのうちに宿った。』(ヨハネ1:12-14) 
イエス様の言葉が私達に宿る時、私達もマリヤのように、キリストを宿しているのである。肉(サルクス)とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行う部位で、そこには、罪の棘が刺さっていて罪に傾く性質があるが、御言葉であられるイエス様を信じ、受け入れた人は、彼がその人の中に幕屋を張って、宿られる。
だから、御言葉を内に存在させればさせる程、肉の中の罪に傾く性質は、イエス様が除去して下さるのだ。
主は私達に、御言葉を心に存在させるよう命じられた。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞で、大祭司アロンの末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは、その言葉を「存在させ、溢れさせる」意味だ、と言った。
神様の言葉が人の内に「存在」している時、通常はおとなしくしているが、イエス様が「取り扱いたい」と願っておられる人が目の前に来た時や、その状況に接した時、内に存在しておられる御言葉が、激情と力と共に溢れ出て、そこを治める。だから御言葉を豊かにハヤーしている人のメッセージは、力があるのだ。

聖霊によってキリストを身ごもったマリヤは、私達の型である。彼女は聖霊によってキリストを宿したように、私達も聖霊によってイエス様を主と呼び(1コリント12:3)、そうしてイエス様が私達の内に宿られた。(14:20)
マリヤは、イエス様を身ごもった直後、エリサベツに会いに行ってあいさつしたが、エリサベツは、そのあいさつを聞くと、胎の子が喜びおどり、彼女も聖霊に満たされて、言った。 『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。…主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いな事でしょう。』(ルカ1:42-45)
御言葉であられるイエス様を信じ、イエス様を宿した人を「キリスト者」と呼ぶが、キリスト者の交わりは、このマリヤとエリサベツのような交わりである。私の内に主が宿り、相手にも主が宿っているなら、あいさつの一つで、共に主の存在の喜びで溢れるのだ。御言葉をハヤーしている人が発する言葉には、力がある。
現代のユダヤ人の挨拶は「シャローム」であるが、当時のユダヤは、ルツ記の挨拶を取り交わしていた。
『ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4) この、「主があなたがたと共におられますように」(インマヌエル)と、「主があなたを祝福されますように」(バラク)の挨拶を、呼び交わす事が、元々のユダヤ人の挨拶であったが、戦争や迫害を経ていく内に、短くなって、現代の「シャローム」になったという。
御言葉であられるイエス様を宿したマリヤが、エリサベツの家に入って、「主があなたがたと共におられますように」という言葉を発した時、その御言葉の込められた彼女のあらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、エリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、本来は「主があなたを祝福されますように」と返すのだが、彼女は声高く叫んだ。「あなたは女の中で祝福されたかた」「私の主の母が来た」、と。
主の言葉をハヤーさせた人、すなわちキリストを宿らせている人は、このようにいのちを喜ばせ、そして、そのような、御言葉をハヤーさせた集団の中には、生き生きとした喜びが満ちているのだ。
御言葉は、ただ暗記すれば良いというものではない。マリヤのように、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人こそ、祝福された人である。キリストの言葉を豊かに住まわせ、知恵をつくして互に教え、また訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、心から神をほめたたえ、感謝するこの一同でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝 

たましいを刈り入れる時が来た(ヨハネ 4:31-38)

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 今日は収穫感謝祭である。主は、私達が食べるようにと、大地の良き実りを与えて下さった。本日はそれを主に感謝する日である。土地が実らせる実りは、私達にとって喜びであるが、主が喜ばれる”実り”がある。
また、大地の実りを刈り入れる収穫があるように、天におけるまことの刈り入れと収穫がある。主が喜ばれる実りとは、私達人間が結ばせるものであり、そして天における収穫とは、人のたましいの収穫である。
 
 主の喜ばれる実り、主の食べる食物とは何か。
 
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34) 
 
 主が喜ばれる実りは、私達が御心を行い、そのわざを成す事である。主はさらに続けて、刈り入れの事を仰せられる。
 
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。』(35-36節)
 
 この時、イエス様は前もって、サマリヤの井戸で一人の女性と会い、彼女にイエス様の言葉という”種”を蒔いておいた。種付けられた彼女は、居ても立ってもいられなくなり、町へ出て行って人々にイエス様の事を伝え始めていた。彼女の口から出た御言葉の種は、その地方へと広まって行き、御言葉が種付けられた人々もまた居ても立っても居られなくなり、彼女の導きで、団体でイエス様の所に押し寄せて来る事になる。
 この事を指して、イエス様は、畑は色づき、刈り入れを待っている、と言われた。
古くから不信仰の町と言われていたサマリヤ、しかしメシヤを待ち望み、先祖ヤコブ由来の伝統を守っていたこの町に、イエス様が来られ、御言葉という種が蒔かれた事により、大いなる刈り入れが近づいている、と。
 
 人が思う刈り入れ時と、主の刈り入れ時とは違う。人は収穫までまだだろう、と思い込んでいても、私達は思い込みに従ってはならない。霊の目を開けて、見るべきである。刈り入れを待ち望んでいるたましい達に目を向けるべきだ。天の刈り入れで刈り取られるのは、人であり、人がイエス様を救い主として信じる時、たましいは収穫され、天国という倉に納められる。つまり、人それぞれが、主に捧げられるべき供え物なのだ。
 
 『そこで、『一人がまき、一人が刈る』ということわざが、ほんとうの事となる。わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。』(37-38節) 
 
 人々が救いを求めて飢え渇き、押し寄せて来る時こそ私達・主の弟子達の出番である。彼らにイエス様を伝えて、彼らが受け入れるなら、天の「刈り入れ」が成就する。
 
 天的な刈り取りシーズンが来ようとしている。いや、もう来ている。中国では一日に万単位の人々が救われ、それを脅威に感じた共産党が迫害にかかっている。アフリカは既に四方八方に教会が建っている。
 アマゾンも奥地に教会が既に1万箇所はあり、キム先生の弟子が、1000人の牧師を集めますので来て下さい、と言われても、1万人を1週間集めて寝起きさせる場所や経済がないから、今は行けない、という。
アメリカではユダヤ人600万人中、250万人が既にイエス様を信じている。ムスリムも、ユダヤ人も、イエス様に直接出会って救われる人が続々起こされており、先週も茨城の働きでイラン人2人が洗礼を受けた。
 
 私達は、働かなくてはならない。人々のたましいに救いへの飢え渇きが起こり、私達の元に来る時、彼らを、唯一満たして下さるイエス様のほうへと、一歩、背中を後押しして進ませるのだ。恐れてはならない。
 私達はそのためにこそ、遣わされたのだ。私達が労苦して種まいて育てたものを刈り取るのではない。主は、「わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」とまで言われた。私達はどうして、この救いのわざの「上げ膳据え膳」に、乗らないでおられようか。私達自身が、主の倉に納められるにふさわしい者となり、そして主の倉を、救いに飢え渇くたましい達でいっぱい満たして行くべきなのだ。
 
 今、日本だけが、不思議な現象が起きている。統計的に、殉教者が出た所は、必ず福音が栄えるはず、なのに、日本だけがその恩恵には「まだ」あずかっていない。日本は沢山の殉教者を出しているので、必ずこの国に、天的な刈り取りの時が来るはずだ。
 
 畑は色づき、刈り入れを待つばかりになっている。準備は出来ているだろうか? 刈り入れの時が来た時、その大いなる働きに、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝


主が愛する者に与える信仰の訓練 (1サムエル記23:1-13)


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 先週の日本コーエンは、朝から夜までみっちりと学んだ1週間だった。1サムエル記から、またエリヤとエリシャの時代について1列王記から、そして、夜は聖書に基づいた東洋医学を学んだ。多岐に渡る恵みを頂いたが、今日特に分かち合いたいのは、主がダビデを偉大な王とならせた「主の訓練」についてである。
 サウルは王になるまで訓練を受けていなかったため、シェオル(地獄)になってしまったが、ダビデは油を注がれてから王になるまで10年以上の訓練を受け、偉大な王となった。私達も、訓練は受けるべきなのだ。
 
 彼はサウル王から命を狙われるようになってから、人が続々と集まって来た。といっても、集まって来たのは、問題を抱えている人(マツォク)、借金を負って逃げてきた人(ナシャ)、心傷ついて苦々しい人(ネフェシュ・マラ)だった。ただでさえ王に追い回されて、助けが必要なのに、問題を抱えた人ばかり集まって来た。
そんな彼らの面倒をみるために、日々、食料を調達し、また諸々のいざこざを解決しなくてはならない。
 
 私達は思うかもしれない。今すぐ目の前の困難が取り除かれてほしい、少しでも多くのお金が必要だ、少しでも能力ある人が来て、助けてほしい、と。しかし主の助けは、優れた物資や人を送る事ばかりではない。
 実は、この困難な状況で彼らの面倒を見る事が、主から送られた「助け」であり、同時に「訓練」だったのだ。
 
 そんなダビデの元に、さらに一報が届く。ケイラというイスラエルの町が、ペリシテに攻められている、と。
本来国を守るのはサウル王の仕事のはずだが、サウルはそっちのけで、無実のダビデを追い回している。
 ダビデは毎日、危険と窮乏にさらされ、やっとその日を生きているので、誰かを助けている場合ではない。
けれども、ほうっておけないのが、ダビデの王であるゆえんだ。彼は主に伺った。助けるべきでしょうか、と。
 主の答えは、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」であった(2節)。しかしダビデの部下は非常に常識的な意見をする。今は人の助けをしている場合ではない、むしろ自分達の身を案じるべきだ、と。
 
 私達は信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。主の御心は「行け」なのに、自分の状況を、常識的に判断したり、人から「行くな」と言われたりし、その狭間で揺れる事が。
 主の助けの方法は、世の方法とは全く違う。世は、親も学校も、神なしの生き方・思考パターンを教育し、自分の英知と力で問題を解決するよう教えるが、その思考からは、全能なる神が、全く除外されている。
この思考(ギリシア思考)で塗られた世は、神に伺おう、とか、祈りで解決しよう、とかが、全く理解できない。
 聖書は、神中心の生き方(ヘブライ思考)で歩む信仰者が、神の方法によって生きる術が記されている。
その方法は、世の考え方ではあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかし、神を信じ、従順して行く時、実体として勝利が、祝福がもたらされる。ここに、世を取るか、神の言葉を取るかが試される戦いがある。
 
 ダビデは、神の言葉と人間の声との狭間で揺れ動いた時、もう一度主に伺った。『主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(4-5節) 
 人の思いとしては「止めたほうがいい」と見える事でも、主の言葉どおりにした所、圧倒的に勝利し、敵の家畜や食料も分捕り、戦わない場合よりも、遥かに良い結果となった。
 こうして一気に物持ちになったダビデ達。ところがサウル王は、ダビデがケイラを救ったと聞いて、ダビデもろともケイラを滅ぼそうと、大軍を率いて向かって来た。それを聞いたダビデは、再び主に伺う。
 ダビデはこれ以降、「主に伺う」事が、彼の人生の基本路線となり、そして主に伺わず行動したら、必ず失敗した。
 主の答えは、サウルは来る、そしてケイラの住民は、無情にも、ダビデをサウルに渡す、というものだった。
 本来ケイラが襲われた時、救うべきは、サウルだったはずなのに、国王から追われているダビデが救った。
それなのにサウルは、国敵ペリシテは放置し、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町ケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしている。
 ダビデとしては、どうして自分は良い事をしているのに、報われず、サウルも、ケイラも、善を悪で返すのだろう、と思えた事だろう。しかし主は見ておられ、人も見ている。
 人はことごとくダビデがした良い事に、悪で返したが、主は常にダビデの味方であり盾であった。ダビデはこのような訓練をしっかり受けたからこそ、今も偉大な王と尊敬されているのだ。
 
 私達も、訓練を受けている時は悲しく思えるが、これによって訓練された人は、後には決して揺るがされない平安な義の実を結ばせるようになる(ヘブル12:1-11)。
 
 いつも失望せず耐え忍び、大いに用いられる皆さんでありますように!

 

主日礼拝
テフィリン - 神の民とは(出エジプト記13:1-10)
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 神の民は、エジプトで430年もの間、奴隷状態だったが、神がエジプトに10の災いを降して彼らを解放したのが、出エジプト記12章までの箇所だった。その次の13章で、神は重要な命令をされた。それが、テフィリンの命令である。ユダヤ人は今も、御言葉の入った箱を手に結びつけ、目の間に記念として置いている。その「紐付きの箱」が「テフィリン」と言われるものである。本日、この「テフィリン」について学びたい。
テフィリンの箱の中は、4つの部屋に区切られていて、それぞれの部屋には、御言葉が記された小さな羊皮紙が入っている。その内の最初の箇所が、この出エジプト記13:1-10の箇所である。『その日、あなたの子に告げて言いなさい、「これはわたしがエジプトから出る時に、主がわたしになされた事のためである」。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(13:8-9)
テフィリンの4つの御言葉に共通している命令が、「これを手につけてしるしとし、目の間に置いて記念とする」「子ども達によく教え込む」事である。敬虔なユダヤ人は、朝明けの祈りと共にテフィリンを手と額に結びつけ、日没までそれを身につけている。このように、御言葉を自分自身に縛り付け、昼も夜もそれを口ずさみ、思い巡らし、行い、子供を教育する。この「御言葉を体質化」する一連の教育がテフィリン教育である。
彼らがテフィリンの箱に入れた4つの箇所は、何について記されているのか?それは、神の民とはいかなる者であるかを示す重要な箇所であり、私達神の民のアイデンティティでもある。一つ一つを見ていきたい。

1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここは、神の民とは「贖われた者達」である事を示している。
ユダヤ人は、自分達は神によって特別に救われた者である、という意識を強く持っている。事実「ヘブル人(エブリー)」の元々の意味は、「川を渡って来た者達」「境を超えて来た者達」の意味である。私達も、キリストにあって贖われた者達、水のバプテスマを通って、世を乗り超えて来た者達、買い戻された者達である。
2番目の箇所は、出エジプト記13:11-16であり、ここは、神の民は「捧げる者達」あるいは「捧げられた者達」である事を示している。神によって贖われた。だから、自分達・神の民は主に礼拝を「捧げ」、与えられたものの初物や十分の一を捧げる事を子供に教えている(14-15節)。ユダヤ人達は、赤ちゃんの時から徹底して捧げる「くせ」がついている故に、神が彼らに押入れ揺すり入れして与えられるのだ。(ルカ6:38)
3番目の箇所は、申命記6:4-9で、神の民は「神に従順し、服従して歩む民」である事を示している。
『イスラエルよ聞け(シェマー イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』(6:4) これはユダヤ人にとって最も大事な戒めで、イエス様も「最も大切な命令」だと言った。そして6-8節の中には「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛する」(5節)ための、具体的方法が4つ伝授されている。
1つ目は心に「刻みなさい(ハヤー:存在を表すBE動詞)」(6節)で、すなわち神の言葉を心に存在させ、その御言葉の存在が、溢れ出るようにせよ、という事である。2つ目は「子どもたちによく教え込み(シャナン:刻む)なさい」、3番目の言葉は『これについて「語らなければならない(ダバル:話す)」』である。ユダヤ人は、互いに議論して分かち合う「ハブルタ(友達という意味)」の教育法で、御言葉について互いに議論し合うくせがついている。4番目が「手に結びつけ」「額に結びつけなさい」という「テフィリン」の命令である。
4番目の箇所は、申命記11:13-21で、ここは、上記3つを守り行った神の民が、その結果受けるべき大きな祝福の約束が記されている。『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(13-15節)
主は創世当初、人を、そのように祝福された存在として創造した。生んで増えて、地を支配するように、何不足なく満ち足りて生きるように、と。創世当初、人には罪がなく、神の御言葉に100%従順する存在だったので、エデンにおいて当然のごとく祝福を享受していたが、人が善悪を知り、各自の善悪判断で動いて神の御胸に逆らい始めたため、その祝福は途絶え、エデンの外で労苦して生きねばならなくなってしまった。
神の創造の本分から外れた、本来的でない歩みをする人で満ちてしまったのが「世」である。私達はキリストの贖いによって神の民とされ、神に捧げられた者となり、神の言葉に従順し、そして本来受けるべき祝福を受け、世の人々とは格段に違う、世と罪とは分離した「神の民」として生きる皆さんでありますように!

主日礼拝
祝福に入るための3つの動詞(申命記28:1)
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 出エジプト記は、神の民が、神の敵である不当な者達の下で奴隷状態となっている所を、主が救い出して下さる記述であった。主は圧倒的な力でエジプトを打ち、神の民を脱出させて下さった内容を、先週見たが、脱出したらそれでハッピーエンドかというと、そうではない。むしろ、もっと長い旅路のスタートなのだ。
私達は、エジプトやパロなど、「目に見える敵」に対する勝利や解放が達成したら、これでもう大丈夫、あとは好きにやって良い、と思ってはならない。エジプトを脱出しても、神が約束した地に入れたのは、わずかだった。むしろ私達の中に身についている、滅びに至らせる奴隷根性や、貧乏ぐせ、縮こまった考え方、恐怖してしまう思考パターンから「脱出(エクソダス)」してこそ真の解放であり、祝福のパターンに入るのだ。
神の国から離れた所(エジプト、世)で身につけてしまった奴隷根性といった「滅びぐせ」を拭い去るために、主が用意された所が「荒野」である。荒野はヘブライ語で「מדבר(ミッドバル)」、「דבר(ダバル:言葉)」に場所を表す前置詞「מ(メム)」がついて、この言葉となった。だからヘブライ語的には、荒野は「言葉」が場所取りをする所で、この荒野での40年の行程を記したのが、民数記(ベミッドバル:「荒野にて」)である。
民数記は、まことにダバル(言葉)と密接に関わる書である。民数記10章までは、人間ダバルは一切無く、ただ神のダバルのみで、何の事件も起きていないのに対し、11章以降、神のダバルを人間ダバルで押しのける人々が打たれたり死んだりする事件が起こり始める。災いに遭う人は、例外なく、神の言葉を退けて人間言葉を主張した人々だ。結局人は、どの言葉を場所取りさせるかによって、生か死かを決定する。
主が約束して下さった地に至る途上、私達が身につけてしまった奴隷根性などの「滅びぐせ」を抜き取るために、主が用意された場所がミッドバル(荒野)で、そこは、御言葉を聞いて従う場所である。そこは、御言葉を「聞いて」「従う」なら、生きる。しかし、神の言葉ではなく「人間言葉」を聞いて従うなら、死ぬ。
今回の韓国コーエンでは、カン先生からは申命記を、キム先生からはマタイ福音書を学んだが、マタイ福音書全体をあらわすのは、申命記28章で、特に、以下の1節が重要な箇所である、という事だった。
『もしあなたが、あなたの神、主の声に「よく聞き従い」、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを「守り」「行う」ならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。』(申命記28:1)
申命記28章は、祝福と呪いの宣言章であるが、祝福の最たる条件が、以下の三つのとても重要な動詞、「聞く(שָׁמַע シャマー)」「守る(שָׁמַר シャマール)」「行う( עָשָׂהアサ)」から成り立っている。

1.「よく聞き」: この原文はシャマー(聞く)の2回繰り返しの強調「シャモア・ティ・シャマ」である。ヘブライ語は反復する事で強調の意を表す。神の民が祝福を受けるためには、真っ先に、神の言葉を「聞く」事だ。『信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。』(ローマ10:17)
2,「守る」: このヘブライ語シャマールは、茨など棘のついた生け垣で囲う、という意味が転じて「守る」という意味になった。御言葉を聞いたなら、その御言葉を巡らし囲う事によって、世とサタンから守るのである。
御言葉という防御が無い人は、世の有毒な情報や、心を傷つける悪意ある闇の言葉、そして、サタンの誘惑や攻撃が、そのまま入って来てしまう。しかし思いと心を御言葉で垣根を巡らしているなら安全である。
3,「行う」; アシャーは「する」の意味の他、「つくる」、「(実を)結ぶ」の意味があり、天地創造の創世記1章では、7回も使われている。私達に蒔かれた御言葉という種は、「行う」事によって、実が結ばれるのだ。
種まきのたとえにおいては、私達人間は土地であり、御言葉を聞いてそれを守り行う(アシャーする)人は100倍、最低でも30倍の実を結ぶが、聞いても守り行わない人は、道端、岩地、茨の地のような人である。
4つの土地の人は全員、神のことばを「聞いた」のであるが、それを行ったのは「良い地」の人だけであった。
『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) この御言葉で示されている通り、種まきのたとえで、唯一実を結ぶ人には、この祝福される三つの動詞「シャマー(聞く)、シャマール(守る)、アシャー(行う、結ぶ)」がある。
どんな岩地のような、茨のような人でも、聞いて、守り行うなら、最低30倍の実を結ばせる事ができる。私達は、約束の安息の地に入るまでの途上、荒野(ミッドバル)を通って行かなくてはならない。そこでは、ただ神のダバルを聞いて守り行っていくなら、速やかに入る事ができるが、もし人間言葉にまみれ、御言葉を守り行わないなら、入れない。御言葉のテフィリンで囲い、良い地に入っていくみなさんでありますように!

主日礼拝
否定される事への恐れを取り扱われる主(出エジプト記7章-12章)
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 主の民が、主の敵である不当な者達の下で奴隷となっているのを、主が救い出して下さる箇所が出エジプト記である。主は今の私達も「世」というエジプトから、「サタン」というパロから救い出して下さる。今回も、私達に奴隷を強いる者から、そして、私達自身が身につけてしまった奴隷根性や貧乏ぐせ、縮こまった考え方や、特に今回は、否定される事への恐怖からエクソダス(出エジプト)させて下さる主の導きを学びたい。

主は、恐れて弱気であったモーセを徐々に鍛えられた。彼がパロと対面し、主の言葉を伝える度に、主のわざは誠実に成され、しかしパロはなおも頑固になり、主の民を奴隷として虐げる事を止めず、主を認めない。それで次々と災いに遭って行く。反対に、モーセと神の民は、ますます主にあって自信を得て行く。
結局モーセは、パロとの交渉において9回もパロに断られる。普通、9回も拒否されれば、凹むところだが、この箇所を読んでいると、拒否された所で心のダメージはあまり無く、むしろ「ああ、また拒否した。本当に学習しない人だなあ、今度は主はどんな事を起こされるのだろう」と期待するようになって来る。
私達もそうである。奴隷状態だった時に身に着けてしまった、すぐ凹む心、「どうせ言っても無駄だ」「拒否されたくない」「だから、やらない」「勇気出してやってみた、けどやっぱり拒否された」「また傷が一つ増えた」「もう引き籠もろう」といった心のパターンも、主はその傷を癒やし、回復し、自信をつけさせ、大胆にさせて下さり、ついには、積極的に主の言葉を伝え、主のわざを積極的に為す者へと造り変えてくださる。
主に造り変えられるなら、相手がどんなに断ったとしても、心が傷つけられる事なく、むしろ、主はこの状況をどのように最善へ変えて下さるのだろう、という「期待」を持つようになって行く。モーセがそうだった。
第一の災いの場面においては、主は、モーセが直接対決する形にはせず、兄のアロンに命じる事によって災いを降らせ、怖がり屋のモーセでも、主のわざが出来るようにして下さった。第二の「かえるの災い」では、パロがモーセにかえるを取り除くよう、祈りの要請をするようになり、第三の災いでは、モーセに対抗する呪法師の口から「これは神の指です」と言わせるまでになった。第四・第五の災いは、モーセの言葉によって災いが降るようになり、そして主は、神の民とエジプトとを明確に区別しておられる事を示された。第六の災いでは、呪法師達にも腫物が現れ、彼らはもうモーセと張り合う事を止めた。
第七の「雹の災い」以降、モーセが杖を向ける事によって災いが降るようになって行く。しかも、モーセの警告を聞いて主の言葉を恐れたエジプトの家臣達は、彼らのしもべや家畜たちを避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者達は避難させず、甚大な被害を被った。第八の「いなごの災い」の予告場面では、家臣達のほうからパロに進言し、彼らに主に仕えさせて下さい、とお願いするまでになる。
第九の「闇の災い」の時には、パロは「行け。主に仕えよ。ただお前達の羊と牛は、留めておけ。幼子はお前達と一緒に行ってもよい。」と言ったが、モーセは大胆にも「あなた自身が私達の手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私達の神、主に捧げさせなければなりません。私達は家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。」と交渉をし、それが決裂しても、悠然と退出した。(10:24-29)
そして最後の災いの直前には、主は、エジプトにイスラエルに好意を持つようにされ、モーセもエジプトの民や家臣から非常に尊敬されるようになった。そして最後の災い、エジプトの全ての初子が死ぬ災いを宣言する時、モーセは怒りに燃えてパロの所から出ていき、パロは黙って見送るしか無かった。

このようにモーセは、主の御業を為す事に段々自信を持つようになって行き、最後は、エジプトの民からも尊敬され、そして彼らが出ていく時、ユダヤ人は大胆にエジプト人に金銀財宝をねだり、エジプト人は喜んで彼らに与えた。主はまことに、働き人を段々と力づけ、主の働きをする事に大胆にならせて下さる。
最初、モーセは、「やっても無駄だ」「もっと悪くなった」「もうやりたくない」といった思考パターンだったが、最後には「パロがあんなに拒否してくれたお蔭で、こんなに良くなった」と、むしろ拒否してくれて感謝しているのではないだろうか。それは「主の御業が多くなり、主が真実である事を私達が知るため」だ。(11:9)
私達も、御言葉を行う事ゆえに、夫や妻、子供、友人から拒否されるかもしれない。しかし御言葉を伝えるなら、あとは主が全てを「良し(トーブ)」へと導いて下さるのだ。たとえ拒否されたとしても、むしろ、主はどんな方法の最善へと導いて下さるのだろう、と、希望が湧いてくるのだ。そして私達は、どんどん貧乏根性や縮こまった考えから解放され、勇気づけられ、大胆になって行き、大いに用いられるようになって行く。

主日礼拝
御業を行う為に徐々に勇気を与えて下さる主(出エジプト記7:1-8:19)
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 主の民が、主の敵である不当な者達の下で奴隷状態になっている所を、主が開放させて下さる箇所が、出エジプト記である。主は現代の私達も、「世」というエジプトから、「サタン」というエジプトの王パロから、救い出して下さる。今回も、私達に奴隷を強いる者から、また、私達自身が、身につけてしまった奴隷根性や貧乏ぐせ、縮こまった考え、ケチケチ精神などからエクソダス(出エジプト)させて下さる主の導きを学びたい。

前回、モーセは弱さ故に主の言葉通り伝えられず、しるしも行えなかった。しかし主はパロの口を操作し、「しるしを行って見せよ」と言わせ、それで彼は主から命じられた通り、杖を蛇に変えるしるしをパロの前で行う事が出来た。まさに「主の上げ膳据え膳」によって、私達にも自信をつけさせて下さる主の恵みを見た。
ところで蛇といえばサタンを思い出すが、主のわざを示すしるしが、なぜ「蛇」なのか?主はサタンに活動許可を与える事も、尻尾をつかんで封じる事もできるのだが、それは私達・主に遣わされた働き人にも、与えられた権威である(マルコ16:18)。モーセが持っていたのは、羊飼いの杖であり、それは元来、羊を牧するためのものだが、それを手離して地に投げやると、蛇になる。私達が、羊達を正しく治める権威を行使せず、地に放り投げるなら、それは蛇となり、悪童達の野放し状態となって手がつけられなくなってしまうのだ。
子供達や部下達を、わがままな怠け状態に、罪をし放題の状態で放置し続けるなら、彼らの罪を満足させるための奴隷となって、家も組織も破綻し滅んでしまう。サタンを踏みつける事を躊躇したり、同調したり、見てみぬふりをして野放しにし続けるならは、蛇から良いようにされてしまうが、主は「蛇の尻尾を掴め」と言われる。そうであるからには、私達は主イエス・キリストの御名によって掴み、奴隷根性に勝利すべきだ。
パロはこれらを見たにもかかわらず、ますます心頑なになってしまうが、失敗ではない。さらなる主の御業を起こす引き金となるからだ。私達も主から示された通りに御言葉を発言し、しるしを行うべきである。それをしたなら、主が敵を「攻撃」してくださる。これ以降、主は、しもべモーセを通してエジプト攻撃へと転じる。

主がモーセを通して降される災いの内、最初の3つはモーセがアロンに命じる形で災いを降らせ、続く3つの災いはモーセが宣言すると起こり、その後の3つの災いは、モーセの手の杖で行わせている。
主はモーセに、御業を行う「自信」を徐々につけさせ、トレーニングしておられたのだ。私達にも同様である。
モーセはパロに警告を与える。主の民に礼拝をさせよ、さもないとナイルの川と水を打ち、血に変える、と。
しかしパロは警告を聞き入れない。それで主は、モーセがアロンに伸ばさせた杖を通して、ナイル川の水を血に変え、全エジプトの生活に支障が出る形で、災いが降された。ナイル川は、ヘブル人の男の子が投げ込まれ、殺され、その血が混じっている。主はそれに正しく報復をされたのだ(黙示録16:5-7)。
しかしパロは心を頑なにして、心に留めなかった。それは、第二の災い・かえるの災いが降るきっかけとなる。モーセは同様に警告を与えたが、パロは聞き入れず、それで、エジプト中かえるだらけになる。
かまども、かごもこね鉢も、寝台も。この災いで若干の進展がある。パロはモーセに、かえるを取り除くように、祈りの要請をしたのだ。パロは「あす」を指定し、モーセはその通りにすると約束した。モーセは帰ると、主に叫んで求めた(8:12)。かえるが時間指定で全滅するなど、人には不可能な事なので必死になったが、主に不可能は無い。モーセが約束した通り、主は翌日、かえるを死に絶えさせた。モーセはまた一つ経験し、主のわざを行う事で大胆になって行く。パロは災いの収束を見ると、感謝もせず、約束も守らず、心を頑なにしてイスラエルに礼拝させなかった。パロはこうして、エジプトに、さらなる災いを招いてしまう事となる。
『主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえをさし伸べて地のちりを打ち、それをエジプトの全国にわたって、ぶよとならせなさい』と」。』(8:16) 第三の災いは、ぶよの災いである。
モーセはアロンに地のちりを打たせると、それは人や動物にまとわりつく虫となってエジプト全土に満ちた。
この災いは、呪法師達にも真似出来ず、彼らは『これは神の指です』と言った。こうしてモーセは、ますます主の御業を為す事に自信を持つようになって行く。主はまことに、そのように働き人を力づけて下さる。
主は真実であり、主が為しなさい、と言われるなら、それは100%為すべきだ。奴隷状態から抜けだせない人とは、主から命じられた御言葉を実行しない人、攻撃すべき敵を攻撃しない人、権威に立たず今まで通り奴隷のままいる事である。私達は主が創世当初に命じられたように、主の御言葉に従って統治するべきなのだ。へびをも掴み、御言葉の剣を振りかざして敵を攻撃し、神の民を救う皆さんでありますように!

主の上げ膳・据え膳(出エジプト記5章)
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 聖書の中で、エジプトは神の民を奴隷にする「奴隷の家」と表現されている。そこから神が解放して下さった記述が出エジプト記であり、主は「わたしはあなた方を奴隷の家から贖い出した、あなたの神、主である」と何度も語られた。主は私達をも、「世」というエジプトから、そして「サタン」というエジプトの王パロから、救い出して下さる。今回も先週に続き、奴隷を強いる者および「奴隷根性」から脱出する術を学びたい。

モーセはかつてエジプトにひどい目に遭わされ、恐れていたが、神の言葉によって奮い立ってエジプトに戻り、パロと対峙する。『パロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭をさせなさい』と」。』(出エジプト記5:1) 日本では、横暴な支配者からの要求を最優先にさせられ、礼拝がままならない事が多いため、この種の真理を貫く戦いが頻繁に行われるかもしれないが、この種の戦いは、神の言葉を正確に宣言する所から始まる。モーセはまずそれに成功した。
『パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。』(2節) パロの答えは、実に想定内だった。ただし、こう言えばこう返ってくる、と想定して、諦めて何も伝えないのは、100%の敗北である。
兎にも角にも主の言葉を宣言する事が、勝利の第一歩である。モーセはこのパロの迫力に飲まれてしまう。
『彼らは言った、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか(「ナア」:お願いですから)、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」。』(3節) 神は果たして、礼拝が出来ずに悲しむ民を、疫病か剣をもって悩まされるだろうか?真逆である!4:22-23を見ると、神の子である彼らに礼拝させるのを拒むなら、神は「パロの長子を殺す」と言っておられた。モーセの言葉は、優しさでも謙遜でもなく「卑屈」であり、サタンは、卑屈な言葉に対して、もっと調子に乗って無理難題を吹きかけてくる。
御言葉をアタマで覚えていたとしても、いざ偉い人の前で、ここぞという時に宣言しようとすると、頭が真っ白になったり、せっかく蓄えた御言葉が出なかったり、あるいは、間違って言ってしまったりする事がある。
御言葉は本来、心の中に「存在(ハヤー)」させ、その存在があふれるばかりにさせなければいけないのに(申命記6:6)、それをしていない状態だと、このようになってしまうのだ。サタンは、御言葉の存在があやふやな状態の人には、調子に乗って、御言葉とは真逆の事を要求して来る。エバの時もまさにそうだった。
『エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」』(4節) パロはモーセの怖気づいた様に力を得、ますます神の民を虐げる。
パロはさらに調子づいて、そんな事を言うなら、もうレンガ造りの材料は与えないが、徹夜残業してでも元々のノルマは達成せよ、と突きつける。日本はまさにそういう霊が働いている。主日に礼拝に行く人を「なまけもの」と呼び、無私で働く事が美徳であるかのようにして、家庭を、いのちの営みを、貶める。
主にあって王であり、祭司であるキリスト者が、パロの「自分の労役につくがよい」という言葉に「はい」と言ってひれ伏し、王かつ祭司の務めを放棄してパロの労役に勤しむとするなら、何と本末転倒な事だろう。
しかし残念ながら、実に多くのキリスト者が、本来の務めを放棄し、パロが命じる苦役に奔走しているのだ。

モーセは長年、奴隷のような縛りを受けて気弱になり、口下手になってしまっていたため、最初の会合は、いわば「失敗」に終わったかもしれないが、主はそんな人間の弱さをちゃんとご存知で、フォローして下さる。
ちょうど、子供のたった一度の失敗をもって、親が子供を永遠に見放すなどという事は、あり得ないように。
モーセは、この最初のパロとの会合で、主の言葉どおりの「しるし」を行う事が出来なかったが、7章8-10節を見ると、主は、パロの口を通して「しるしを行って見せよ」と言わせ、杖をへびにするしるしを披露できた。
主は、私達の弱さ故に御言葉をその通り宣言できないとしても、しるしを行う機会を逃してしまったとしても、敵の思考や唇をも支配して、お膳立てし、私達に御言葉を語らせ、しるしを行わさせてくださるのだ!
 主が私達の弱さを知り、主の御言葉を伝え、御業を成そうとする者には、敵を支配してでも、私達が成功するまで、そう下さる。そうであるからには、何度でもチャレンジするべきである。最も良くないのは、主の「上げ膳据え膳」に乗らず、あきらめて何もしない事、元の奴隷に戻って、口を開かない事である。自信をもって御言葉を伝え、御業を為していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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