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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

母が子供に対して出来る最高の事(出エジプト記2:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は母の日である。母はうめきつつ、いのちを産み、はぐくみ育て、日々労を負っている。現代は、子を健全に育てるのに困難な時代と言える。子供を誘惑するものが多い中、いかに子を健全に守り育てて行くべきか。本日、男の赤ちゃんが生まれたらナイル川に投げ込まなくてはならないという過酷な時代の中、子を守り、立派な指導者モーセの母となったヨケベデから学び、私達もこの時代、いかにゲームやインターネットなど子を飲み込もうとする危険な「ナイル川」から守り、健全に育てあげるべきか、その術を得たい。

『さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。』(2:1) 時代が悪く絶望的だと、人は結婚や子を産む事を躊躇し、少子化が進むものだが、ユダヤ人達はそれでも新たな家庭を築いて、増えて行く。
『女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。』(2節) 赤ちゃんは、神様から預けられたいのちである。母はそのいのちの輝きを見て、身勝手な世の王の要求を飲んだりして奪ってはならない、と、かくまった。母とは、子のため、いのちのため、うめきつつ守るものである。
ちょうど箴言31章の、マサの王レムエルの母が、子供に「何を言おうか」と、悩みに悩んだように。
この母の有様は、聖霊の私達に対する有様に良く似ている。創世記1章2節において、創造後の地球が闇の混沌状態にあった時、神の「霊(女性名詞)」は、水の上を「舞いかけて(女性動詞)」いた。それはちょうど、めんどりがひなを翼でかばっているのと同じ状態である。聖霊は母のようにうめきつつ執り成すのだ。
イスラエルでは赤ちゃんが生まれたら、ハトラーという、御言葉が刺繍された布でくるむ。女性は子供を宿したと知った瞬間から、ハトラーの刺繍を始める。お腹の子に向かい、トラー(御言葉)をテフィリンしながら。
彼女達は子が胎内で形作られる時から御言葉で覆い、生まれた後も御言葉の包みの中で守ってあげようとする。まさに創世記1:2の状態だ。母が子供に対してできる最高の事は、御言葉によって守る事なのだ。

ヨケベデは子をなんとかして守ろうとしたが、『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかご(英: ark)を取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(3節) この「かご(ark)」は、ノアの「方舟(ark)」と同じ言葉であり、「契約の箱」も、arkである。
彼女がこの小さな方舟に、瀝青と樹脂を塗って、その中に子を入れたのは、ちょうどノアが方舟をつくって瀝青を塗り、その中にいのち達を入れ、新しい時代へといのちを継がせたのと同じである。
契約の箱という”アーク”の中には、契約の石の板と、アロンの杖と、マナの壺が入っている(ヘブル9:4)。
律法の石版は、神の指で記された御言葉であり、アロンの杖は、植物としては死んだ杖が生き返ってアーモンドの花と実がふいた復活の象徴であり、祭司の証拠である。マナは、神が直接的に命をやしなって下さった証拠物である。私達も、残酷な時代では、子を御言葉に委ね、復活を信じ、いのちの養いの望みをかけるため、子をアークに入れるのだ。現代、私達が入れるべきアークとは何か。それは、ユダヤ人がしているように、自分自身の口の御言葉宣言により、あるいは子供自身の口から御言葉を宣言させる事によって、子を御言葉で囲う事である。母親が子供にしてあげられる最上の事は、御言葉で囲ってあげる事だ。

彼女は子供をアークにかくまって、あとは全てを神様に委ねた。親がいのちのために出来る限りの事をし、自分の力ではどうにもならない所まで来たなら、子供をアークに入れ、あとは全部、神様に委ねる時である。
神はその子をパロの娘の所へ導き、彼女の心にその子を憐れむ心を与え、そうして、合法的に、しかも報酬つきで、母は自分の乳でその子を養えるようになった。
主は、神様から託されたいのちを守ろうと努力する人には、限りなくフォローして下さるのだ。
当時、多くの赤ちゃん達が、時代がそうだからといって、ナイルへ沈められて行った。どのような時代でも、いのちは主のものであり、主は御心のままに、男女の所へ新しいいのちを送り、そのいのちを養うために必要な物も、力も、全て備えて下さる。そして、いのちを大切にする人をさらに祝福し、徹底して守られる。
私達は子供を、時代がそうだからと言って、ナイルに沈めてはいけない。子供にゲームやスマホを与えていれば大人しくなる、ラクだと、と思って放置していたら、子供はどんどん仮想世界へと沈んでしまう。
私達はむしろ子供を真理の御言葉で囲い、神様と私達とのいのちの交わりをし、そうして主ご自身から全て必要な養いをいただき、家庭が喜びと笑いで、そしていのちで満ち溢れて行く皆さんでありますように!

主を敬う人を守り、安全に導いて下さる主(創世記31:1-18)
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週報/メッセージ(説教)概要 

世の中には、過酷な要求をしたり騙し取ったり、契約をころころと自分の有利に変える雇い主も多い。前回登場したラバンはまさにそういう雇用主だったが、主はその下で働かされているヤコブを顧みて下さった。
主は、悪者の道に歩まず、誠実に生きる人にこそ目を留め、祝福し、そのような悪環境から救い出し、さらに優れた所へと導いて下さる。前回の続きからの箇所を見るとそれがよく分かるので、今回も見ていきたい。

『さてヤコブはラバンの子らが、「ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を獲たのだ」と言っているのを聞いた。』(創世記31:1) 実際は逆で、ヤコブに報酬として約束したぶち毛やまだら毛の羊ややぎを、ラバンは息子達に渡して3日の道のりの向こうへ移送してしまい、ヤコブはそれを、文句も言わず、少ない残りを飼った。
ヤコブには不利だったが、ラバンは騙しでのし上がる者、ヤコブは全てを支配しておられる神に依り頼む者。軍配は当然、ヤコブに上がる。神はヤコブのものを増やし、ラバン達のものは減って行った。しかし彼らは不都合な事は自動的に人のせいにし、自分達がした悪事を悔い改めず、ヤコブの神を恐れる事もせず、嘘を思い込んで言いふらし、敵対心を露わにして行く。
その時、主はヤコブに現れた。「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいる」と(3節)。そこでヤコブは、ラバンの娘である妻達に伝える。あなたの父の、自分に対する顔つきは変わってしまった。それでも「わたしの父の神はわたしと共におられる。」と(5節)。主は弁護して下さるのだ。
7-9節を読むと、ラバンは何度も報酬を変えていた事が分かる。元々の約束はぶち毛とまだら毛のものが報酬だったが、勝手にそれをぶち毛のもの限定に変更し、自分は儲かってヤコブを貧しくさせようと企んだが、ラバンの口から「ぶち毛のものが報酬だ」と言ったとたん、いのちを支配しておられる主は、ぶち毛をどんどん生まれさせ、それを見たラバンが、やっぱり、まだら毛が報酬だ、と言ったら、今度は主は、まだら毛のものばかりを生まれさせた。
以上のように、いのちも、物も支配しておられる主は、主に忠実に従う神の民が、いかなる領域でビジネスをするにしても、その手のわざを祝福し、悪人の手に陥る事はさせない。
ラバン達は彼が祝福されているのを見てなおヤコブの神に立ち返らず、妬んで罵るが、主は保護される。

『すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。』(12節) 主は、主の民の悩みをつぶさに見、また追い使う者ゆえに叫ぶ叫びを聞き、その苦しみを知っておられる。(出3:7)
ヤコブは14年間、結婚するために猛烈に働いて何も持っていなかったが、わずか6年で、雇用主であるラバンを追い抜いた。不利な条件で始まり、しかも報酬を何度も変えられたにもかかわらず、である。
主はさらに言われる。『わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』(13節) 
ベテル。そこはヤコブにとっての信仰の原点である。その時ヤコブは、兄エサウに命を狙われていたため、杖一本だけで家を飛び出し、その途上、ベテルで石の枕をして一晩寝た。そこで、夢を見た。天から地に架けられたはしごを御使い達が登り降りしており、主は彼に現れて言われた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15) それ以降、ヤコブは確かに守られ、祝福されて来た。

こうしてヤコブは帰る決心をし、ラバンの娘である妻達も賛成だった。彼女達は父から「よそ者(ノクリィ:異邦者、姦通の女)」と見なされ、しかも、花嫁のために蓄えるべきお金も、父に使い果たされてしまったのだ。
こうしてヤコブと妻達は一大決心し、大勢となった子供達や家畜たちを連れて、ラバンの家から脱出する。
その大移動は、危険が伴うであろう事は明らかであり、ヤコブも、自分を殺そうとしていた兄エサウとの確執がどうなっているかを知らない。しかし、確かな主の言葉があり、御旨である事が明らかなのだから、いかにその旅の先が危険なように見えても、進みゆくべきである。これは私達の場合も一緒だ。
ただ主の言葉だけを頼りに出て行く。ヤコブにベテルで現れた主は、その20年間、主が約束して下さった通り、ずっと真実に導き続けて来られた。そして、これからもそうだと信じて、彼らは出て行く。この主は、今も変わらず、信じる私達を、導き続けて下さる。恐れる事なく主と共に歩み行く皆さんでありますように!

ベエル・シェバを獲得するために メッセンジャー:小林師
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※ 本日、成田礼拝からの移動中の道路混雑により、一部礼拝のメッセージは急遽、小林師によるメッセージに変更させて頂きました。

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搾取がはびこる世界でも栄えさせて下さる主(創世記30:25-43) メッセンジャー:林師
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週報/メッセージ(説教)概要


世の人々は、いかに富を我が物として囲い込もうかという、「あれも、これも、わたしのもの」という欲求で動いている所がある。このような「わたしのものメンタリティ」は、サタン由来である。ヤコブがイスラエルに名前が変わる前、彼は兄エサウを逃れ、一時期メソポタミヤのラバンの所に身を寄せていたが、ラバンはまさにそういう人だ。『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘達はわたしの娘、子ども達はわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものは皆わたしのものです』(創世記31:43) イエス様を信じて神の子となった私達は、いかに、このメンタリティに満ちている世から守られ、栄えて行くか。ヤコブから学びたい。

ヤコブは、ラバンの娘・ラケルとレアと結婚するために14年、タダ働きをさせられて来たが、その14年という契約期間は満了する時、ヤコブはもう妻子を連れて出ていっても良いはずなのに、ラバンはヤコブ達が出ていくのを渋った。『ラバンは彼に言った、「もし、あなたの心にかなうなら、とどまってください。わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました(ナハシュ)。』(27節) ラバンはナハシュ(まじない)によって、ヤコブが主エホバから祝福されているのを見たが、ナハシュは、発音が転じて「蛇(ナハァシュ:創世記3:1)」となる。蛇、すなわちサタンは、神と共に歩む神の子を利用し搾取しようとする。
ラバンがヤコブを引き止めたいのは、ヤコブの神・主を知りたいからでも、聖なる交わりに加わりたいからでもない。ヤコブが受ける主の祝福と富が欲しいからに他ならない。主に忠実なキリスト者は、その手の技は祝福されるし、謙虚で誠実で文句を言わない事が多いので、世の雇用者は、彼らを手放したくないのだ。
『「何をあなたにあげようか」。ヤコブは言った、「なにもわたしにくださるに及びません。』(創世記30:31)
ヤコブは、ラバンから何かを受け取ってしまったら、後で恩着せがましく執着され、逆に剥ぎ取られてしまう事を経験的に知っていた。私達も、ラバンのように貪欲で悪企みをするような人からは、何か報酬を望んではならない。ヤコブは彼に、非常に明確な条件の報酬を申し出る。すなわち、羊ややぎの中で、ぶち毛やまだら毛のものをわたしの報酬として下さい、もし自分の群れの中にそうでないものが混じっていたら、それは私が盗んだものとなるでしょう(31-33節)、と。ラバンはきっと日常的に難癖をつけていたのだろう。
ところがラバンはその日、ヤコブの報酬となる特徴を持った羊ややぎを、ラバンの子達に渡し、ヤコブとの間に三日の隔たりを設けた。ヤコブは、それでも平和に、文句も言わず、残りの群れを飼った。(35-36節)
このように、騙し上手な者が栄え、正直者が馬鹿を見る世界がメソポタミアであり、ラバンはその世界でうまく渡り合って富を築いたずる賢い者だった。そのようなサタンの流儀がはびこるのが、この世の有様でもある。果たしてヤコブは、そんな世界で生きて栄えて行けるのだろうか?実際生きて栄えたのである!
果たしてキリスト者は、このような世界で生きて栄え、富を増し加えて行けるのだろうか?行けるのである!
神の民に、搾取されっぱなし、やられっぱなしは無く、必ず全部ぶんどり返す時が来る。(出3:21-22)
その条件は、世に勝利した主イエスキリストを助けとし、彼と共に歩んでいる事、である。ヤコブは自分に残された家畜の飲む水槽に木を入れた。すると家畜達は産んで増えて行き、ラバンのものとは分離した。
『こうして弱いものはラバンのものとなり、強いものはヤコブのものとなったので、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。』(42-43節) 私達も仕事をする時、いのちをつなぐその水溜めに、キリストの十字架の木を入れ、世の者達と分離し、主と共に復活した者として生きるなら、世の者達の中にあって、ますます栄え、悪者達は、もみがらのようにますます衰えて行くのである。

ヤコブは当初、僅かな元手しか無く、不利な条件でのスタートであったが、わずか6年で資産はますます祝福され、ラバンの資産は先細りになっていった。ずる賢い世の権力者の、不当な圧迫の中でも勝利し祝福されるコツは十字架、すなわち、今までの自分に死ぬ事と、キリストのいのちにあって復活し、その新しい価値観、すなわち御言葉によって生きる、神と共に歩む事である。最初は搾取されているように見えても、十字架に望みを置いている限り、その人はやがて世から、サタンから多くを分捕り、持ち物も命もますます増えていくのである。 私達にとっていのちをつないでいる水溜とは何だろう。そこはいのちを生み出さないままだろうか。苦々しさを放っているだろうか(出エジプト記15:22-26)。あるいはそこに、大切なものを落としてしまっただろうか(2列王記6:1-7)。主は私達に一本の木、すなわち十字架の木を示され、そこに投げ込むなら、いのちを生み出すようになり、苦さは甘さへと変えられ、無くしていたものを得るのである。

主のために働く働き人が持っている徹底した保障(2列王記4章)
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 本日の箇所、第二列王記4章は、神の人エリシャを通して、主の奇跡が多く行われる。その一つ一つに共通している事は、主の働き人に対して、主は、徹底的に保証して下さるという事だ。労も多く、枕する所もなく働いている主のしもべ達に、主は、どのように報いて下さるかを本日見て行きたい。

1-7節では、預言者エリシャの元で学び、借金を負ってでも神の国に仕えていた働き人の家族に対する保障が記されている。この働き人は「主を敬う人」で、主の働きにいそしんでいたが、死んでしまった。残された妻と子供達は、借金を負った状態で、全財産は油のつぼ一つのみ。子供達は奴隷に売られようとしていた。果たして彼らは、主に捧げて、そのまま報いられず終わるのか?主はそんな事は、絶対にしない。
エリシャは彼女に言う。出来るだけ多くの人に声をかけ、器を借りて来なさい、そして戸を閉じて全ての器に油をついで行きなさい、と。彼女はとやかく言わず、預言者の言葉に望みをもって多くの器を借りてきた。
『油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。』(6-7節)
こうして主の働き人の家族は、負債を見事返したのみならず、妻も子供も生活の保証が全て与えられた。
主に仕える事は、どんな年金や保険に勝る保障があり、本人のみならず、その家族も守られるのだ。

8-37節では、エリシャを神の人として敬い、色々と便宜を計ってくれた女に対する報いが記されている。
彼女の夫は歳を取っており、子がなかったのに、子が与えられた。しかし18節以降を見ると、どうして?と思えるような事が起きる。せっかく生まれた子が、死んでしまったのだ。前回のケースのように、このような事が起きる時は、より一層、主の栄光が表れ、より一層、幸せになるための祝福が隠されているのだ。
彼女は子供の死について、信仰の良くない人には一切口を開かず、説明もせず、ただ神の人へと直接持って行った。彼女はそういう人だから、報いを受ける。子は、彼の祈りによって生き返らせてもらった。
この一件を通し、彼女はより一層主の恵みを知り、後にはボーナスも得る事が出来た。(2列王記8:1-6)
38-44節には、ききんの中でも、また致命的なミスからも、主の働き人達は守られる様が記されている。
一人の働き人が貴重な食事を作る時、無知ゆえに毒のうりを入れてしまい、あわや主の働き人達の群れを全滅させる所だった。しかし主は、エリシャを通し、その重大なミスを、毒もろとも帳消しにしてくださった。
主は、働き人がききんの時でも飢えないように、また、無知ゆえのミスをもカヴァーして下さるのだ。
さらに42-44節では、 初穂のパンと大麦のパン二十個と、新穀一袋をもって、百人の働き人を満腹させ、有り余らせる奇跡が行われた。イエス様がわずかなパンで数千人を養った奇跡を与えられたのは、群衆は、イエス様を慕って集まったからだ。「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。」(マタイ15:32) 主は、食料も持たずに無計画に彼らが集まったとしても、彼らが主を慕って来たのであるなら、彼らを空腹のまま返す事をせず、「かわいそう」と心配してくださり、しっかりと彼らを満腹にし、さらには、主の働き人の分も、満杯にした。
もう一つ、6章も見たい。6章に来ると、働き人がさらに増加し、さらに広い所に移らなくてはならなかった。
そのために新しい地に行って、新しい建物を建てようとするのだが、そこで事件が起きる。『ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。』(5節) 斧を借りてでも主の働きを懸命にしたのに、斧の頭を落としてしまった。しかしエリシャは、水に浮くはずがない斧の頭を、枝を切り落として水に投げ込んで浮かせる奇跡を起こした。
主は、借り物を使ってでも主の働に仕える働き人に、恥ずかしい思いをさせないお方である。

以上のように主は、主のために働く人に保証を与えて下さる。私達は足りてない所が多々ある。主に従って行く点においても、御言葉について行こうとする点においても。しかし、天地に満ち満ちており、有りて余らせて下さる主は、御力をもって、私達・主のしもべ達を満ち足らせて下さる。無から有を生じさせる主が、無いいのちを生き返らせて下さり、無い富を得させて下さり、無い諸々を得る力が与えられ、栄光に満ち満ちた祝福を、主に従いつつ得て行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ハデスに勝利したサレプタの小さなコイノニア(1列王記17:17-24)
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 前回、神の国を第一とする(リションする)人には干ばつの時でも主が直接養って下さり、生活も保障される事を、サレプタのやもめから学んだ。彼女は預言者からの主の言葉通り、かめに残った最後の粉・最後の油を捧げた事で、干ばつの間、粉も油も尽きる事なく、本人自身も、息子も、そして預言者も、養われた。
確かに主を第一とする人は主から養われるが、かといって災いが全く起こらないかというと、そうではない。
『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えた』(1列王記17:17) エリヤを養っていたやもめの子が、死んだ。なぜ?と思う。いのちを生かすための奇跡が続いていたのに。私達にもこのような、分からない事が起きる。祝福されるはずの信仰生活を落ち度なく続けていた、と思っていたのに。どうしてこういう事が起きるのだろう。本日、その事を学びたい。

イエス様の時代にも、似た事が起きた。イエス様が愛しておられたラザロが病気であるとイエス様が聞いた時、主はすぐに行かず、敢えてその所に2日留まり、彼が死んでから、そこへ行かれた。(ヨハネ11章)
この行動は、弟子達やラザロの姉妹に、そして私達にも、不可解に思える。しかしイエス様は言われる。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(ヨハネ11:4) つまり、愛する人が死ぬ事を敢えて許し、そして蘇らせるという、この一連の過程を通して、人々は神の栄光を見、神の子が栄光を受け、主の言葉こそ真実である、と信じた。
これらの事が起きるのは、神が栄光を受け、そして、人々が信じるためである(ヨハネ11:15,26-27,45)。
彼女は聞く。『あなたは私の罪を思い出させるため…においでになったのですか。』(18節) 彼女が真っ先に思い当たったのは自分の罪だった。人はなぜ死ぬのか?書いてある。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23) 彼女は子の死を自分の罪の問題ととらえ、神の人に来た。このような人は救いから遠くない。
干ばつの中、尽きない粉と油に満足し、無意識に飲み食いしている恵みのさ中、生かされるのは結局、「肉」だけであり、そのまま満足して主に求めないようでは、霊は死んで行くという事を、彼女達は分かっていなかった。結局、最も大切なのは、神様への日ごとの感謝と信頼だ、という事を忘れてしまうなら、最も大切な子が死ぬ事により、死を孕んだ罪の問題へ心を向け、永遠の救いへ至る信仰に至らせて下さるのだ。
私達も、死を孕んだ罪の問題を解決して下さるイエス様に、日毎、助けて下さいと祈り続ける必要がある。

サレプタでは、霊の養いと肉の養いを互いに共有し助け合う、ちいさな「交わり(コイノニア)」があった。
エリヤは彼女に「子を私によこしなさい」と言って彼女のふところから子供を取った(19節)。彼女はずっと子をふところに握りしめていたが、問題をずっと握りしめたまま状況を悪くし、最悪になって、ようやく信仰者に渡す、という事はせず、すぐに信仰者に渡す事もまた、交わりの中で大事である。信仰による祈りは、病む人を回復させ、義人の祈りは働くと大きな力がある。また、罪の問題についても互いに祈り合いなさい、と書いてある(ヤコブ5:13-18)。私達も、いかに小さな交わりでも、罪について、死についての問題を、交わりの中で互いに告白し合い、祈り続けて行くなら、そこはハデスの門さえ勝つ事は出来ないのだ。

エリヤは三度祈って、ようやく祈りが聞かれ、子供の命が戻った。雨が降るように祈った時も、7度祈って、ようやく小さな雲が現れた。あのエリヤが、なぜ一度の祈りで答えられないのか。もし私達がたった一度の宣言や、たった一度の祈りで何でも聞かれるなら、主にしがみついて行こうとする心がどんどん薄くなり、傲慢になってしまうだろう。だから、主が与えて下さる時まで求め続け、探し続け、叩き続ける必要がある。
このように、「なぜ」と思える問題が起きる事も、あるいは、必要が備えられるにしても「日々」「僅か」である事も、それで主への感謝をすぐ忘れやすい私達が、生涯、日ごと、主に祈り頼み続けて生きて行けるのだ。
彼女は息子が生き返らされて、知った事が二つある。エリヤが神の人である事と、彼の口にある主の言葉は真実である事だ(24節)。こうしてエリヤの言葉はますます権威を帯び、彼が仕える神は、栄光を受けた。
私達もエリヤのように、神の言葉を伝える時、神の子としての栄光が与えられ、私達が神の言葉を語る時、人々は心して耳を傾けるのだ。こうして、預言者と彼を支える信仰者のやもめという、サレプタの小さなコイノニアで、彼らは干ばつの時代を乗り切って行った。私達も今、ここにコイノニアがある。この交わりを尊く保ち、互いに祈り合い、励まし合い、罪と死の問題を解決して行く皆さんでありますように!

「リション(ראשׁון)」法則(1列王記17:8-16)
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 私の人生、何故か真っ直ぐには進まないで、いつもでこぼこ道を進んでいるようで、疲れる。というような事は無いだろうか。物事には優先順位があり、その優先順位の最初(ファースト)を間違えると、あたかも、最初のボタンをかけ間違えて着てしまった服のように、非常にちぐはぐになってしまう。ファーストを正しく行うなら、続くセカンド、サードは全てうまく行く。今回、人生の「ファースト」をどう据えるべきか、学びたい。

「ファースト」「まず」を、ヘブライ語では「リション(ראשׁון)」という。神の国の事を「リション」にすれば、あとは神様が全部、責任取って下さり、そうすれば人が切望する「食べもの」「着るもの」などの”第二、第三”は、加えて与えられる(マタイ6:33)。世の中、神の国を第一とする神の民は、「上」になるように出来ているが、神の民が、”第二、第三”にすべきを、第一に据えてしまうなら、世の中では「下」とならざるを得ない。
神の民・イスラエルが不従順であった時代、神は預言者エリヤを通して警告を与えた。「わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もない」。(1列王記17:1) 神の民全体が、リションを外した時代ゆえ、預言者もそのとばっちりを受けていたが、彼は主から養いを受ける。「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」(9節) 
そのやもめは、異邦の地シドンに住んでいたが、神を恐れ敬う女だった。しかし彼女も時代の罪のとばっちりを受け、彼女はもう最後のわずかな食料が残るのみで、それがなくなると、彼女も息子も死のうとしていた。その、最後の料理をするために、薪拾いをしている最中、彼女は偉大な預言者から声をかけられる。
「「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。」(10-11節) 彼女はどう見ても人を養う能力も資力も無い。なぜ預言者を養うはずのやもめが、こんなにも貧しく追いつめられていたのか。なぜエリヤが遣わされた先は、イスラエルの誰かにではなく、シドンのこのやもめなのか。
その時代、イスラエルにも沢山やもめはいたが、預言者の言葉どおり主にリションする人は、イスラエルの中に一人もいなかった、という事である(ルカ4:24-26)。それで主はエリヤを、彼女の食料が尽きる直前に到着するよう、彼女の元へ遣わされたのだ。主を敬う人への助けは、間に合わないという事は、決して無い。
主は、サレプタのやもめ女に命じてあなたを養わせよう、とエリヤに言ったが、どうも彼女は、主から命じられたような感じではない。それどころか、彼女にはその能力も持ち物も無い。どういう事だろう。
主は、当人に意識があっても無くても、当人に資力や力があっても無くても、その人の内に、主に対する「リション」があるかないかを見られ、その人に応じた志(ミニストリー)を起こさせ「命じる」のだ。(ピリピ2:13)
その時、本人の能力や持ち物、時間、お金の有る無しは、一切関係無い。ただ「リション」があるか無いかが主の目に重要であり、その人は、起こされた志と使命感に突き動かされ、必要な物は全て主から与えられ、その人の「リション」を主が用いて時代を動かして行くのである。アブラハムのように、ハンナのように。

『エリヤは彼女に言った、「恐れるには及ばない。行って、あなたが言った通りにしなさい。しかし「まず(リション)」、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。』(13-14節) ある人はここから、エリヤを「人でなし」と評価する。万一、エリヤが食べて、そのままやもめと子供が死ぬなら、酷い話である。世の独裁者は、皆、そうする。
しかし主は「備え主」であり、主の言葉は「なくなって終わり」ではない。信仰ある人は、「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という主の言葉に、大きな希望を見出す。
希望の根拠は「イスラエルの神、主の言葉」であり、この言葉を非道いと取るか、それとも希望に取るかは、その人の信仰次第である。彼女はエリヤを通した主の言葉に、リションの行いで答えた結果、主の真実と奇跡が現れた。主の真実と奇跡を見るためには、単純に、主の御言葉どおりに実行する事である。
こうして彼女は、主の言葉どおりに、粉も油も本当に尽きず、自分も子供も、預言者も、それによって養われた。私達も、ファーストを主に据えるなら、主は私達を、不信仰な時代の罪のとばっちりから守り、全ての必要が満たされるのみならず、私達を、時代の「ファーストクラス」へと乗せ、歴史を変える役割を与えて下さるのだ。主へのリションを示し、時代を変える事に用いられて行くみなさんでありますように!

キリストの十字架と復活に私達が参加する方法(ローマ6:5-11)
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 本日は復活祭、イエス様がよみがえられた事を記念する日である。人は思う。イエスというお方が2000年前に十字架上で死んで復活した事が、現代の自分とどんな関係があるのだろうか、また、イエス様の死と復活は今の私達に何の関係があるのか、と。本日、よみがえりの主と私達との関係を、論理的に学びたい。

私達がやがて死ぬ事、それは誰も否定しようがない。それは、はじめの人アダムの御言葉への不従順により、罪と死の呪いが私達を含む全被造物に導入されてしまったからだ。私達は思う、それは不条理だと。
私達はアダムの時代、生まれていなかったし、アダムの罪に参加した記憶は無い。しかしヘブル7章で、メルキゼデク(イエスキリスト)はレビ系の祭司よりも優れた祭司であると説明しているのだが、その理由は、アブラハムがメルキゼデクに十分の一の捧げものを捧げた時、アブラハムの「腰にいた」レビもまたその時同時に捧げた、と書いてある。そうであるからには、私達も含め、全人類はアダムの「腰にいた」時、アダムと一緒に罪を犯したのだ。私達は必ず死ぬ以上、私達全てには、神に逆らう罪があり、処罰を受ける対象者である事には変わりない。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23a)と書いてある通りである。
実に不条理である。私達は生まれながらの状態では、自身の過ちと罪の中で死んでおり、この世を支配するサタンの支配下で、過ちと罪を犯しながら人生を歩む、生まれながらの御怒りを受けるべき者で、罪の債務証書が、私達を責め立てているのだ。しかし主は、そんな不条理の中でもがき苦しむ私達のために、罪が無いのに身代わりに罪の処罰を受けるという、究極の不条理によって私達を救って下さったのだ。
イエス様は十字架の時、私達を訴える罪という「債務証書」を、流された血によって帳消しにし(コロサイ2:14)、決して届かなかった「永遠の命」を、ご自分のいのちという代金で、支払い済みにして下さった。
これは既に行われた真理であるが、この「救い」は、人類の誰も彼もが自動的に適用されるものではない。「信仰」により、イエス・キリストを「私の主」とする人にのみ、それが適用されるのだ。そのわけは、こうである。

パウロはガラテヤ2章で「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っているが、果たしてパウロは、イエス様の十字架の場面に一緒につけられただろうか?いない。私達はどうか。その時代、私達はそもそも生まれていない。ではどうしてキリストの十字架と関係する事ができるのか。それは、信仰によってである。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
すなわち、信仰とは「組する事」「参加する事」とも言える。つまりパウロは、イエス様を信じた時、信仰によってイエス様の十字架に組し、参加したのであり、それは私達イエス様を信じる人も全員、一緒なのだ!
「私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私達がもはや、罪の奴隷となる事がないためである。」(ローマ6:6) パウロは言っている。私達がアダムの腰にいた時、アダムと共に罪に「参加」し、罪に支配され死ぬようになった「古き人」は、キリストの十字架に、信仰によって「参加」する事により、キリストと共に十字架につけられた、と。パウロは、古い自分を十字架に釘付けた、と言っている。私達も、同じ事ができるのである!信仰により、キリストの十字架に参加する事によって!
以上は、キム・ヒョンジョン博士が論文に書いた「参加神学(コイノニアセオロジー)」に基づく内容である。

私達は時間に縛られ、過去に犯してしまった事は、どうする事もできない。過去は変えられないが、しかし信仰は時間を超越し、アダムの時代という”大過去”に犯してしまった罪について、イエス様が十字架でして下さった事に、信仰によって参加する事によって、帳消しにする事が可能なのである。『もし私達が、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。』(ローマ6:5)
神は時間を超越しておられるお方であるが、私達が唯一、時間をどうにか出来るのは、「信仰」のみである。
だから赦しは、イエス様が十字架にかかった時、そこに自分も参加した、と、告白した人だけのものである。
だから告白は大事であり、キリストの御業に「参加する」事が、とても大事である。信仰には、行いという実体が伴っているべきであり、口先だけで行いが無いのでは、参加したとは言えない。今日、十字架の御元において、行いという実体と共にキリストの十字架に参加し、その復活に参加する皆さんでありますように!

この地上において追求すべき事とは(マルコ10:32-45)
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 本日は「しゅろの聖日」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が「しゅろの葉」を取って「ホサナ(ああ救い給え)」と叫びながら歓迎した事を記念する日であるが、その日を起点として始まる週は、イエス様の受難を覚える「受難週」、その金曜はイエス様の十字架を覚える「受難日」としている。
イエス様は、いよいよこれから十字架にかかろうとエルサレムへ向かう時、弟子達にはっきりと十字架の苦難と死とよみがえりを伝えた。それなのに、弟子のヤコブとヨハネは、まことに時宜をわきまえな願いをする。
「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と。(マルコ10:32-37)
『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。』(38節)
弟子達は何故にイエス様について行ったか。イエス様を救い主だと思ったからだが、彼らにとって「救い」は何だったか。当時、ローマ帝国の圧制から救われ、イエス様が力強い指導となってイスラエルを再興してくれる事を、人々も弟子達も期待していた(使徒1:6)。ある人はイエス様を、パンをいつでも提供してくれる王として期待し(ヨハネ6:14-15)、別の人は病気や悪霊を追い出してくれる人として期待した。多くの人達は、自分がこうなったら「救われた状態である」と勝手な願望を膨らませる。「救いはお金にある」「救いは権力にある」「救いは美貌にある」等など。しかし、それを満足させて下さるお方としてイエス様に期待する人は、イエス様に「受難」を負わせる者になってしまうのに、1週間もかからないのだ。

救いは地上の何かには無いし、永遠に住まうべき場所も地上には無い。しかし多くの人々は地上において「場所取り」をしようと、やっきになっている。お金持ちという場所、権威という場所、人気者という場所など。
その数限られた「場所」に執着する故に、多くの奪い合い、殺し合いが行われてきたのが、世界史である。
キリスト者がそうした「場所取り」をし出すと、必ず失敗する。実際、聖書の多くの人物が、神様から与えられた特別な「役割」を正しく行使する事を止め、「場所取り」に専念するようになってしまった途端、神の主権が断たれてしまった例が、数多くある。大祭司エリの息子のホフニとピネハスは、祭司としての務めをないがしろにし、祭司職という「場所」を乱用して、聖徒の捧げものを横取りし、神に仕える女性に手を出し、神を軽んじた結果、この一族は祭司職という「場所」から絶たれて一族は滅んだ。(1サムエル記2-4章)
また、サウル王は、イスラエルで最初の王として主から任命されたのに、王としての役割を正当に果たさなかったため神から王権が除外されたにもかかわらず、王座という「場所」に固執し、新たに王として任職されたダビデを殺そうと長年追い回した結果、とても悲惨な最後を遂げてしまった。(1サムエル記15-31章)

私達はイエス様を主とし、彼に依り頼んでいるなら、王族とされた祭司であり、神の驚くべきみわざを伝える「役割」が与えられている。『この主のみもとにきて、あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえを、捧げなさい。…あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:5-9)
王も、祭司も、神と人との間に立って「なかだち」をする役割が与えられた者達である。世の人は「場所」を求めるが、私達キリスト者は、場所を求める者ではない。キリスト者が追求すべきは「役割」であり、役割をよく果たす人にこそ、神は時に応じた「場所」与えて下さるのだ。
もし王である事、祭司である事に安住し、既得権を乱用して「場所」求めをするなら、役割も場所も神から取り上げられてしまう。イスカリオテのユダは弟子という既得権を乱用した結果、取り上げられてしまった。
キリストは、この地上では、王座に座る事ではなく、自らのからだを十字架に捧げる「贖いのつとめ」を果たすために来られた。だから天に上げられ、永遠の王座に着かれた。私達も同じである。信仰の先人達はこの地上に場所を求めなかった。彼らはむしろ、天に永遠の場所を求めるために、地上では旅人・寄留者として過ごし、それぞれ神から与えられた「役割」に忠実に従ったのである。(ヘブル11:13-16)
結局、私達が地上において追求すべきは、場所ではなく、役割であり、使命であり、つとめである。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:10) 私達もこの告白にしっかりと立ち、あの天国で、あのしゅろの枝を手に持った大勢の群衆と共に、永遠に主をほめたたえる「永遠のしゅろの日」に入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

人知をはるかに超えたキリストの情熱的な愛(雅歌8:6-7)
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 イエス様はあなたを愛している。よく聞く言葉であるが、どれほど、どのように愛しておられるのだろう。男女の愛が歌われる書・雅歌書から、”真の男女関係”である「キリストと私達」の愛の関係を見ていきたい。
『わたしを刻みつけてください。あなたの心(labe:心臓)に、印章として。あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。』(雅歌8:6 新共同訳)
ここには女性の男性に対する願望が記されている。女性が男性の心臓に、彼の左腕でしっかり結びつけられたい、と願うのは自然だが、実はイエス様は、十字架の上で彼女が願った通りを全ての人に対し、して下さったのだ。女性は「わたしを刻みつけて下さい」と願っているが、主はその手に、足に、脇腹に、私達の身代わりに負って下さった傷を刻みつけて下さった。イエス様は、私達がまだ罪人であった時から、命がけのpassion(受難)をもって私達を救おうとし、十字架という実体を伴った行動によって、愛を表して下さったのだ。(ローマ5:8) 友のためにではなく、敵対していた罪人のために死んで下さる…それは、罪によって死んでいた私達が、彼にあって生きるため。神の愛はまさに人知を遥かに超えている。(エペソ3:16-21)

イエス様の受難は英語ではpassionというが、十字架の場面で、イエス様はありとあらゆる痛み、悲しみ、苦しみを経験され、そうして愛を示された。実に情熱的に、感情的に、そして実際的に。
十字架の場面で、人々はイエス様をあざけり、鞭を打ち、刺の冠を被せ、笑いものにした。そして言った。
もし神の御子なら、今すぐ十字架から降りて来い、メシヤならその圧倒的な力で自分を救え、と。人は思う。    
これだけばかにされ、傷つけられていて、もしメシヤとして自分を救う力があるなら、すぐにでも十字架から降りてその者共を滅ぼしてしまうのが当然だ。それをしないという事は、そのパワーが無いのだ、だから、彼はメシヤではない、と当然のように思う。しかしあいにく、神の愛は人知を遥かに超えている、と書いてある。
彼は、全被造物を創られ、万物は彼に在って成り立っている(コロサイ1:15-17)。罵る彼らをたちまち滅ぼす力も、権威も持っていながら、敢えて抵抗せず、わざと自分を十字架の苦しみへ明け渡したのだ!
一体、何のために?! それは、私達を愛するゆえに。救うために。十字架につけろと叫び罵る彼らを愛し、彼ら(すなわち私達)が罪の中で滅んで欲しくないと願う故、身代わりとなって十字架の罰を受けたのだ。
イエス様が十字架につけられたのは、ちょうど過越祭の時期であるが、ユダヤ人は過越祭の時、雅歌書を朗読する。イエス様は激しい情熱をもって私達を封印のように腕に、心臓に刻みつけて下さったのだ。

イエス様は神であられるのに、人となって降りて来られた。それは罪と死とサタンの呪いから、あの十字架の上で私達を奪い返し、私達をあのお方の手の中へ、脇腹へ、心臓の中へと、封印のようにしっかりと刻みつけ、かくまうために。神の愛は優しく、そして激しく激情的で、強いのだ。
そしてその愛の強さは、死よりも、さばきよりも強い。『愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。』(雅歌8:7) かつてノアの時代、全世界は甚だ罪深かったゆえに洪水によって裁かれたが、神の愛と憐れみは、裁きに対して勝ち誇る。イエス様を信じてその愛の覆いの中に入った私達には、裁きはもう届かない。神の愛は、どんな財産をもってしても買う事は出来ない。ただ信仰によるのでなければ。
そして、このキリストの愛は、死よりも、よみよりも強い。『・・・わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:31-39)

『王はわたしをそのへや(奥の間)に連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。』(雅歌1:4) 愛する男女は、奥の部屋で愛の交歓をするものだが、キリストは十字架の上で、封じられていた奥の間へ通じる覆いを、破棄して下さった。
イエス様が息を引き取られた時、神殿の幕が真っ二つに裂け、それまで封じられていた最も聖なる場所への道が開かれ、天国への道が、イエス様の裂かれた御体を通して開通したのだ。そうまでして主は、私達にあらゆる良きものを提供して下さった。そうであるからには、私達も主の愛に対して熱心であるべきである。
キリストの人知を超えた十字架の愛の広さ、長さ、高さ、深さをますます理解できる皆さんでありますように!

真のシンデレラストーリーを目指して(ルカ14:15-24)
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 前回、イエス様に水をぶどう酒に変えていただいて主の栄光を現す方法をヨハネ2章から学んだ。イエス様に何かをして頂きたいなら、まずイエス様と自分を「主人としもべ」の関係にし、また自分に出来る限りの「きよめ」の水くみを果たすのだ。そうして水は極上のぶどう酒へと変わり、極上の喜びに与る事ができる。
ところが多くのクリスチャンはその喜びを味わえていない。今回その原因を「大宴会のたとえ」から学びたい。

イエス様はルカ14章の「大宴会のたとえ」で、神の国の宴会に入れない人はどういう人か話された。宴会には大勢の人が招かれていたが、彼らはその時間になると、主人の僕たちの招きを一様に断ってしまう。
最初に断った人の口実は、「畑を買ったので見に行くから、宴会には参加出来ない」、というものだった。
畑。それは生活に必要なものを産出する「仕事場」である。しかし、神様から離れて自分の手で土を耕しても、いばらやあざみがその人に向かって生え出て、一生、額に汗しながら食物を得なくてはならない。
そしてついには塵に還らなくてはならない。(創世記3:17-19) 主の宴会を祝うべき時に、世の仕事を優先させる人は、実入りは少なく、神の国の素晴らしい食卓にあずかることは出来ないのだ。
二番目に宴会を断った人の口実は、「牛を五くびき買ったので、それを調べに行くから」だった。
牛は、トラクターのように畑仕事を楽にできるし、乳も出るし、肉を食べる事もできる。牛は「生活」に潤いや便宜をもたらしてくれるが、神の宴会を後回しにして生活を潤そうとするなら、結局は労多くして益少ない。
『あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。』(ハガイ1:9)
三番目に断った人の口実は「妻をめとったから」というものだった。礼拝や神の国の事よりも、夫や妻を第一にする。一見すると、あまり悪い事のように見えないかもしれないが、その夫婦はどうなってしまうか。
人類最初の夫婦・アダムとエバを見れば分かる。アダムは、神の声より、妻の声のほうに聞き従った結果、呪われ、妻のせいにし、汗水を流して土を耕さなくてはならなくなってしまい、ついには死ぬ存在となった。
結局、仕事も生活も結婚でも、神様が招いて下さる宴会を退けて、自分の目と判断に頼って「上等な畑」「上等な牛」「上等な結婚」と思って得ても、主を優先順位的に低く見積もるなら、それらは一転して、上等な「苦労」をもたらす畑や、牛、結婚となってしまうのだ。主が「よし」としていないものは、みなそうである。
私達はそのようにして、主の宴会を、極上のぶどう酒を、ロスしてしまわないよう、気をつけるべきである。

主は最初の奇跡を結婚という場で行い、僕(ディアコノス)が汲んだ水を、極上のぶどう酒に変える事によって、ご自身の栄光を現された。聖書はアダムとエバの結婚で始まり、聖書の終わりは、まことの花婿キリストと、花嫁である教会との結婚によって終わる。それ程、主は、結婚を尊ばれた。私達は、天におけるまことの結婚に入るまで、地上では「僕(ディアコノス)」として、イエス様の言われる事を何でも行うべきだ。
この「僕」と訳されるディアコノスは、ディア(くぐる)+コニス(塵、灰)、すなわち、灰をかぶるように仕える者だが、実は、世界中の女性が憧れるシンデレラは「cinder(灰)」が元であり、和名は「灰かぶり姫」である。
シンデレラは過酷な継母の元で、灰をかぶる程に強制的に働かされていたが、王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る、という物語であるが、地上で神のために働く全ての「僕」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。
やがて教会は、キリストにめとられる日が来る。それに向かい、花嫁として、御言葉のともしびをともし、聖霊の油を蓄え、めとられる時を待つ者である(マタイ25:1-13)。その日至るまで、主人はイエス様であると告白し、灰かぶり娘となってただ主に仕えて行く日々を紡いで行くのであれば、灰まみれであった衣は、主が光り輝くきよい麻布へと変えて下さる(黙示録19:8)。その時、主によって目の涙を全く拭い取られ、嘆き悲しむ日々は終わり、もはや苦しみや叫びの無い、永遠の御国の宴会へと入るのである。
だからこの地上において、畑を買ったから、牛を買ったから、結婚したから、王の宴会に行けない、と言っては決してならない。私達はただ、最上なるお方に天で迎え入れるその日を期待を持って目指し、神の国とその義を第一に求め続け、この地上においても、主が備えて下さる最高のぶどう酒をいただきつつ、歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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