メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
邪悪で汚れた事に「いいね」をする者達の中で(ローマ1:21-32)
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神を神としてあがめず感謝もしない者達は、ますます邪悪で汚れた性質を帯びて行くが、そのような者達から被害を受けつつ、本当は清く生きたいのに、汚れた習慣・価値観で育ってしまった故、それが分からず、邪悪な汚れた自分を苦しんでいる人達の叫びを、神は聞いておられる。神はそんな彼らに、使者を遣わし、神に立ち返る人々は、栄光の御国へ引き入れて下さる事を、前回、遊女ラハブから学んだ。
彼女以外のその町の者達は、あくまで真の神に敵対し、城門を閉ざし、徹底抗戦の構えを見せたが、今回、そのように頑固に神を受け入れない者達に対し神はどうするか、そして彼らはどうなるのかを学びたい。
エリコの住人のように、唯一なる神を神とせず感謝しない者、神の栄光を、滅ぶべき被造物へと取り替えるような者達へ、神が定められたのは、三つの「パラディドミー:引き渡す、放置する」(24,26,28節)だった。
パラディドミー。それは福音書の中で、特にイエス様が十字架へ「引き渡」される場面において頻繁に登場する。パリサイ人やピラト、そしてイスカリオテのユダは、イエス様を十字架へと「引き渡した」が、彼らのように、不朽の神の御子・キリストを、十字架へとパラディドミーする者に、神は、三つのパラディドミーをする。
?24節で、神はそのような者達を、その心の欲望のまま汚れへと「引き渡され」、そのため彼らは互いにその体をはずかしめるようになった事が記されている。神を神と認めない、キリストを救い主として受け入れない、それならどうぞ心の情欲の通りに生きなさい、と、獣以下の汚れへところげ回り落ちるよう放置したのだ。
?26節で、神は彼らを恥ずべき情欲に「引き渡され」、女は女同士・男は男同士で恥ずべき欲望に従って生きるようにし、それを恥ずかしいと思わないようになった。「そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」(27節) 当然の報い。それは古来から常にあり、ノアの時代には洪水が、ソドムとゴモラには火の刑罰が、それ以降も、諸々の性病の恐ろしい症状という形で、神は明白な「当然の報い」を報復された。
?28節では、彼らが神を知ろうとしたがらないため、良くない思いへと「引き渡され」、してはならない事をするようになった、と記されてある。その結果、彼らは22項目の「死に値する」罪を犯すようになる。(多くの訳では21項目だが、原典は31節に「アスポンドス:執念深く和解不能な者」を含めた22項目である)
『彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、「執念深く和解不能な者(多くの訳で省略)」、無慈悲な者となっている。こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを「行う(パラッソゥシン)」者どもを「是認(スンニュドクシン)」さえしている。』(29-32節)
この「パラッソゥシン」は現在形能動態複数形、すなわち、そのような事を積極的に行っている人が、複数で声を大に「いいね」と互いに持ち上げ合い、組織化・勢力化し、社会現象化する状態である。
「スニュドクシン」とは、「スン(一緒に) + ユードケオ(いいね、魅力的だね、素晴らしいね)」が合わさった言葉で、あの22項目の邪悪で不潔な価値観に対し、「すごくいいね」「素晴らしいね」「ロマンスだね」などと組織的に言い合って、勢力化し、社会現象化させている状態だ。
まさに現在、暴力的で、不潔で、非自然な事が「いいね」ともてはやされる時代で、その汚れた価値観が勢いを持ち、時の権力者がその価値観で世を上塗りさせようとする勢いだが、それはギリシア・ローマ時代や、ノア以前の時代にも蔓延っていたのであり、古来から、神はそのような者達に明確な裁きを降して来た。
何がきっかけで、そうなってしまうのか。それは、頑なに神の御言葉を拒否し続ける事によって、である。
かつてエジプトは、イスラエル民族からの恩を、仇で返し続ける事を何百年も続けた故、神はパロの心を頑なにし、エジプトに災いが降される事によって、神の栄光を現す道具として用いられたのである。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを再び十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。
今、邪悪な事・汚れた事が「いいね」と持ち上げられる時代の中、きよい者・聖なる者として燦然と輝き、ラハブのように、この時代の中で苦しんでいる人を、一人でも多く救い出す皆さんでありますように!
汚れた世界の只中の小さな叫びを聞いて下さる主(ヨシュア記2章)
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週報/メッセージ(説教)概要
邪悪な事・汚れた事・人を虐げる事を、自ら好き好んで為し、何の良心の咎めが無い者達に、神の裁きが降る事がローマ人への手紙1章に啓示されていた。そのような者達は、不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に取り替え(ロマ1:23)、欲情に駆られて自分の体を互いに辱め、汚すままに任せられ(同24)、男女の自然な関係を不自然なものに取り換え、その乱行の当然の報いを受けた。(同26-27)
ローマ1章29-31節には、主が「死罪に値する」としている21項目が出てくるが、それらの事を自ら、好んで行い、また、それを行う者に心から同意する者達に対し、神の裁きが降ると記されている。(32節)
では、幼い時からそのような者達から被害を受けながら、自分も汚れた価値観・邪悪な習慣の中で育ってしまい、自分を変えられず、神に喜ばれるきよい価値観を知らないまま苦しんでいる人達はどうなるのか。
神は、そのような人達の叫び声も、もれなく聞いておられ(創世記4:10、19:13、ヤコブ5:4)、正しく扱われる。
今回、その一例として、そのような中から神によって見出され、救い出された遊女ラハブを見てみたい。
彼女は、弱肉強食のカナンの中、エリコという堅固な都市の、城壁の中に立て込まれた家に住んでいた。
その町の城壁に住んでる、という点では、セキュリティは保たれていたかもしれないが、彼女は遊女だった。
来る日も来る日も身売りをし、いくばくかの報酬を得ては家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
遊女になるのを夢みてなる女の子はいないし、自分の娘や姉、妹が遊女になって欲しいと思う者もいない。
なぜそうなってしまったか。それは、自分も家族も生きて行かなくてはならなかったからであり、身勝手な者達が効率よく欲望を発散させるシステムで、そのような事が汚れた事と思わさないで育ってしまったからだ。
ラハブは、変わりたくても変わらぬ日々の中、ある噂を聞いていた。力ある唯一の神と、その民について。
その民は、力ある神に守られ、神から与えられた律法は、道徳的に優れ、弱者に優しく、それを守り行って祝福された彼らは、川向こうの強力な二人の王を滅ぼし、さらに勢いと力を増しているという。
過酷な要求ばかりして来る者達から、また、まもなく滅ぼされてしまうこの世界から、できれば救われたい。
しかし、そんな自分の思いを誰かに伝える術はなく、ただ周りは過酷な要求をしてくるばかりだった。
しかし、全能なる神は、彼女の思いを知っていた。主は御目をもってあまねく全地を見渡し、その心が、ご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのだ。(2歴代誌16:9)
そんなある日、彼女の元に、二人の男が来た。彼らは今まで出会ったどんな男達とも違って、分別と秩序があり、何か任務についているようだったので、彼女は、彼らこそあの民の斥候だ、と直感した。そしてその二人の者達が来た事はすぐにエリコの王に知られる所となり、捕り手が彼女の家に来て、その扉を叩いた。
その時、彼女は意外な行動に出る。命の危険を冒して、その二人を、かくまったのだ。なぜリスクを犯してかくまったのか。それは、彼女の普段からの願いと信仰が、咄嗟に現れたからである。(ヘブル11:31)
彼女は、命の危険に晒されていた彼らに、逆に、命乞いをする。『あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられる・・・。どうか、私があなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、私の父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い・・・私達の命を救って、死を免れさせてください。』(2:11-13)
彼女は、普段から信仰があったからこそ、この二人が来た時、咄嗟にこの告白が出て、そして実際に、救われたのだ。彼女は彼らの指示通り、窓に赤い印をつけた。エリコが裁かれる日、7人の祭司が7つの角笛を吹き鳴らした時、代々築き上げて来た城壁は崩れ去ったが、その印の内側にいた者は、全員助かった。
そして彼女は、サルモンという素晴らしい夫を得、ボアズを産み、ダビデへと続く家で生きる幸いに入った。
ヨシュアの時代、7人の祭司が7つの角笛を吹き鳴らした時、代々築き上げて来た城壁が崩れ去ったように、この世も、7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての英知は崩れ去り、全ては、主キリストのものとなる。(黙示11:15) 世界の滅びが近づいているとぼんやり認知し、その滅びから救われたい、今の過酷な状況から救われたい、と思う者は多いが、主は全地をあまねく探しておられる。
救いに入ろうとする志のある人を。救われるためには、ラハブのように、イエス様こそ救い主であると信仰告白をし、イエスの血という赤い印をつけ、神の民として見合った行動が必要である。その行いによって栄光の家系に加えられ、永遠に生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
神に栄光と感謝を捧げない人の行き着く先(ローマ1:16-21)
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パウロはロマ書の最初で、クリスチャンが持つべき信仰の重要な定義づけをした。すなわち信仰(ピスティス)は「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
そういうわけで「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事で、信仰の目的地である天国に向かって歩み続けて行く状態にある人が「義人」であった。
パウロはその定義を宣言した直後、「神の怒り」がどのような人に降されるかを、細かく説明し始める。
どんな人に神の怒りが降されるか。21節に記されている。『神を知りながら神としてあがめず、感謝もしない人』で、彼らは「?かえって」その「?思い」は「?むなしくなり」、その「?無知な」心は「?暗くなった」。
?「かえって」のギリシア語はアッラ、「反して」の意味もある。神を知れば知る程、神をあがめ感謝する以外に無いはずなのに、それが全く沸き起こらず、逆にその人からは、主に対して失礼な態度しか出てこない。
?「思い」はディアロギスモス、ロギスモスは計算する(ロギア)または言葉(ロゴス)の意味があり、ディアは前置詞で「行ったり来たり」、すなわち「どっちつかず」で、彼らは、御言葉も、計算も、どっちつかずなのだ。
?「むなしくなり」はマタイオーすなわち「愚かになる」「悪辣になる」の意味の動詞の不定過去(アオリスト)受動態である。それはすなわち、その状態が化石化され、改善の余地が無くなってしまった状態である。
つまり、神を知りつつも神をあがめないでい続けるなら、また、神に良くしていただいているのに反し、感謝しない事を続けているなら、やがて考え方が愚かで悪辣となり、悪い事で匠に、狡猾になって行き、どんなに計算しても、どんなに考えても、悪い方へ向かうもので、改善の余地が無いまでになってしまうのだ。
また、?「無知な」はアスネトス、これは「スネトス(賢い、聡明な、理解力のある)の真逆」の性質である。
?「暗くなった」はスコティゾー、闇にする、見えなくするという意味もある動詞で、ここも不定過去受動態が用いられているので、目が暗い状態・闇の状態が、化石化され、改善の余地が無くなってしまったのだ。
神に栄光を返さずにいる人は、自分で賢いと思ってはいても良心が退化してしまっており、知性が無く、愚かで、堕落した状態にずっと繋がり続け、闇に惹かれ続けて行き、やがて、大きな事故を起こしてしまう。
「栄光を返す」のヘブライ語は「カバド」で、良い意味で用いられる場合は「栄光を捧げる、あがめる、尊ぶ」の意味があり、悪い方で用いられる場合は「頑な・強情になる、(罪や災いが)重くなる」の意味になる。
サムエル記に登場する祭司エリは、主よりも自分の息子達のほうを重んじ(カバド)、主に捧げる捧げ物を軽んじた。彼の息子・ホフニとピネハスは、神の民が主に捧げるものを横取りし、自分の私腹を肥やしていた。
それで主は言われた。「わたしはわたしを尊ぶ(カバド)者を尊び(カバド)、蔑む者は軽んじる」と。(1サムエル記2:29-30) 後にエリは、神の箱が敵に奪われた事を聞いた時、あおむけに倒れ首を折って死んだ。
からだが重かった(カバァド)からである。(1サムエル記4:18) 神を神としてあがめず(カバドせず)、感謝もせず、自分の私腹を肥やす事にカバドを置くなら、やがて自分の罪の重さ(カバド)によって滅んでしまう。
彼の嫁はその時、子を産んだが、その子をイ・カボテ(栄光がない)と名付け、栄光は去った、と言った。
コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのままで固まるように、人も、日々摂り入れる言葉や口ずさむ言葉、心に巡らす考えや行動によって、その方面で固まって行く。
そうであるからには、私達は、神の言葉によって固められていくべきだ。いかにそれまでの習慣や悪意ある言葉などによって固くなってしまった心や考え方であっても、御言葉に浸され続けるなら、それは改善する。
神の言葉のほうが、人間の言葉よりも遥かに強く、この世も私達も、神の言葉によって創造されたからだ。
『わたしは福音(エウアンゲリオン:敵に勝利した良き知らせ)を恥としない。それはユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(ローマ1:16)
福音(エウアンゲリオン)は昔、戦争に勝利した際に伝令が伝える「勝利の良き知らせ」である。我らの王・イエス様は、悪魔サタンに勝利した!もう悪魔サタンの圧政に苦しむ事は無い!このイエス様を信じて勝利者の側に入りなさい!それが福音であり、どんな悪い状態になってしまっても、癒やされない人はない。
神の愛に浸され、御言葉に浸され、そうしてますます造り変えられ、癒され、ますます神に感謝し、栄光を捧げる「義人」の生き方で固められて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
信仰の歩みをし続けよう(ローマ1:17-21)
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ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる術、さらに聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。そこに至るまでの重要な鍵が、信仰である。
信仰の元々の意義は「連合する」「バンドする」事を以前学んだ。クリスチャンは御言葉なるキリストと連合し、結合する人達である。パウロは義人の定義を、次のものとした。『神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
「信仰に始まり信仰に至らせ(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。ここの原意は、信仰(ピスティス)は、「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
そういうわけで「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事だ。だから、イエス様を信じた瞬間がゴールなのではない。それはスタートであり、その時から信仰を所有しつつ、信仰の目的地である天国に向かって歩み続けて行く。その状態にある人が、義人なのだ。
パウロが義人の定義を宣言した直後、「神の怒り」について宣言した事は、注目に値する。『神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。』(18節)
義の反対・「不義」とは、神の言葉に逆らう事である。世界は神の言葉(御言葉)によって創造され、万物は、この神の御言葉によって維持・保全されている。崖から飛び出すなら、老若男女を問わず、重力の法則に従って落ちるように、「御言葉」の法則から飛び出すなら、老若男女を問わず、誰でも滅びてしまう。
重力の法則には人格も感情も無いが、全法則を創造された神は人格があり、感情も憐みもあるお方だ。
御言葉に対する信仰を所有しない・信仰の歩みをし続けない人は、自動的に「不義をもって真理をはばもうとする人」になってしまっている。神は、憐れみをもって御自身をその人にあらわされるが、それでも悔い改めないなら神の怒りが降され、それでも悔い改めない事を続けるなら、永遠のさばきが確定してしまう。
ちょうどエジプトを出たイスラエルの民が、神様の大いなる御業を沢山見たというのに、信仰の「所有」と「歩み」をせず、逆につぶやいて文句ばかり言い続け、ついに信じなかった人達が皆、荒野で倒れたように。
この世にあるものは全て、人格と感性のある神によって創られた。故に、宇宙の秩序正しさ、自然の美しさ、人体の不思議、細微な世界の巧妙さを、人は美しく感じるもので、神の栄光を見ている。(19-20節)
それでも『彼らは神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは空しくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。』(21-23節) これが神の裁きが近い人の特徴だ。
「感謝」と「知る」には、密接な関係がある。ヘブライ語の「感謝」はトダー、「知る」はヤーダーで、トダー(感謝)は、ヤーダーが元になっている。感謝とは、相手を知ってこそ出来るもので、神様を知っていればいる程、感謝が溢れ、賛美に力を入れるものである。神への感謝が沸かない人は、まず、神を知る必要がある。
御言葉を聞き、主の栄光を目にしておきながらなお神をあがめず、感謝せず、神を差し置いて好き勝手な事をし続ける人には、神の怒りが示され、それでも悔い改めないなら、さばきがどんどん近づいてしまう。
ちょうどヨシュアの時代、罪を暴く「くじ」の当選範囲が、罪を告白しないアカンに対しどんどん狭まって行き、ついには当選してしまったように。 『その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんび(トダー)し、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。』(ヨシュア7:19)
アカンは神のすばらしい栄光と御業を見ながら、心を神に結びつけず、信じず、むしろ世の富のほうに心を結びつけた結果、イスラエル全体に災いをもたらしてしまった。アカンはヨシュアが指摘しているように、主に栄光を帰す事をせず、また主をさんび(トダー)する事をせず、世の富に心を結びつけていたからだ。
彼は神に感謝(トダー)せず、知り(ヤダー)もせずにいたから、神の怒り・神の裁きが追いついてしまった。
人は皆、等しく御前に犯した罪の刈り取りをしなくてはならない。その前に、神に心を向け、神を知ろうとし、神が為して下さった素晴らしい御業をほめたたえ、感謝を捧げるべきである。神に感謝し、褒め称える事こそ、人の本分である。事実、天国では、永遠に神を褒め称える賛美が、恵みによって天国に入った人々の口から永遠に流れ続ける。信仰の歩みをし続け、ますます神を知り、神を賛美する皆さんでありますように!
イエス様の名前によって父なる神に祈る(ヨハネ16:23-27)
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人は「願う」「求める」という事をする。人にはそれぞれ欲しいものがあり、必要なものがあるからだ。しかし、その動機と相手は必ずしも正しいとは限らず、たとえ願っている事が叶えられたからと言って、本人や周囲が必ずしも祝福されるわけでもない。間違えた動機・間違えた相手に祈り求めるなら、かえって、呪われた結果になってしまう。私達は誰に対し、どのような事を願い求めるのが良いのかを、本日探って行きたい。
人はよく「神様」に願い祈る。ではその「神様」とは、一体誰だろう。この世に「神々」と言われるものはあるにしても、私達には、唯一なる天の神がおられるのみである。(1コリント8:5-6) 多くの人々は偶像に願い求め、供え物を捧げているが、偶像は、何か崇高な神ではなく、何か意味のあるのでもない。
実は、偶像に祈り、願い求め、犠牲を供えるのは、悪霊達に願い求め、供えているのだ。(同10:19-20)
悪霊に願って、何かが叶えられたとするなら、それは所詮、闇からのものであり、必ず呪われた結果となる。
私達が祈るべき相手、それは全てを創造された、父なるまことの神である。その神は元々、私達を創造する前から、御前できよく、傷のない者にしようと、キリストにあってあらかじめ定めておられた。すなわち神の似姿として、キリストの花嫁として、神と「父子関係」となるように創造された。(創世記1章、エペソ1:3-5)
ところが人は、父なる神から離れ、自分勝手に歩んで行った。神から離れた人の願う事は、身勝手で破壊的で、自堕落なものである。それで世界は、誰か力ある者達の、欲しいままの欲望の圧政下にあるのだ。
人の本来あるべき姿は、まことの神と「父と子」の関係を保ち続ける事である。父子関係は愛の関係であり、子は、父の言葉に服するものである。父に服している子が「お父さん」と呼ぶなら、父は答えざるを得ない。
しかし一体、罪のある欠けだらけの人間が、どうしてこの聖なる神と、父子関係を結ぶ事が出来るのだろう。
人が神の子になる・・・そのような途方も無いように思える手続きと認可は、万物を創造し、かつ成り立たせておられるお方の権威によって、すなわち、神のひとり子、イエス・キリストの御名によってこそ、実現する。
『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた…』(ヨハネ1:12)
彼、それは、神のひとり子・イエスキリストである。天地万物の源であられる彼の名、それこそ全てに勝る権威ある名である。神のひとり子・イエス様が御父に祈った祈りは、必ず聞き届けられた。(ヨハネ11:41-15)
私達も、このイエス様の御名を信じる事によって、神様と親密な「父子の関係」に入り、そうしてイエス様の名前によって祈るなら、その祈りは何でも聞き届けられる。(ヨハネ14:14、16: 23-26)
『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(ヨハネ15:7-8) 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(同15:16)
聖書では、神様が「父」なるお方であると、何度も何度も繰り返されている。だから、私達が何かを願い、祈り求める相手は、全てを所有し支配しておられる神様であり、この神様と「イエス様の御名によって」父子関係を結んだ上で、求めるのが、祈り求める事の正しい手順である。イエス様が「こう祈りなさい」と言って示された「主の祈り」は、「天にましますわれらの父よ」という呼びかけから始まる。求める相手は、父なのだ。
確かに子供は親に何でも求めるものであるが、全てが全て、願った通りにかなえられるものではない。
イエス様もゲツセマネで、「父よ、この杯を過ぎ去らせて下さい」と願ったが、それでも「あなたの御心の通りになさって下さい」と祈った。父子関係は「愛の関係」であると同時に、子は、父の言葉に服すものである。
確かに私達は、イエス様にあって何でも祈り願う事は出来るが、最終決定権は父なる神にあり、彼のなさる事は全て最善である事を認める時、全能の神と親密な関係にある事の、絶大な平安の中に憩うのである。
だから主の祈りでは、「御国(神の支配)を来たらせたまえ」と、神の統治が全てに及ぶ事を求めるのであり、「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈る事で、自分の願いより、御父の御心が優先的に成就するように、と祈るのだ。天地を創造し、全てを見通し、私達の全てを知っておられる神様の御心が成る。それこそ私達も計り知れない最善が、自分の人生に、家庭に、仕事に、そして世界に成就する秘訣である。
イエス様の御名によって、神様と親密な父子関係に入り、全てにおいて平安となる皆さんでありますように!
全ての闇を払拭する「有りて有られるお方」の御言葉(ヨハネ1:1-14)
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神は、永遠の昔から永遠の未来で「存在」されるお方、そして私達を存在させ、存続させるお方である。
それ故、信じる私達は「自分は愛なる神に存在させられている」と自信を持ち、そう主張する事ができる。
だから、永遠の御言葉であられるお方イエス様を、私達の内に住まわせるための御言葉を暗唱する事(テフィリン)こそ、人格において、精神において、あらゆる面において安定する秘訣である事を、先週学んだ。
ヨハネ1章からも、御言葉であられるキリストがいかに素晴らしいお方であるかを、見る事が出来る。御言葉なるお方は、永遠のはじめから神とともにおられた(1-2節)。それがキリストのアイデンティティ宣言である。
全てのものは、彼によって創造された(3節)。私達が100年ほどの一生の間に目にするもの、触れる全てのもので、彼によらずして出来たものは一つもない。このお方こそ、有りて有られるお方であり、私達が目で見、手でさわれるお方、そして、死に陥った私達を、命をかけて救う、愛なるお方として、私達に現れた。
彼が、愛の意図をもって計られたタイミングにより、今、こうして私達は愛され、生かされている。息を引き取る時さえ彼の愛のタイミングの中で計られており、その息(霊)は、全能なるイエス様のところに帰って行く。
このお方を信じる人は、自分は神の子であるという、盤石の、安定した生き方が出来るが、彼を認めない人は、自分は偶然に進化した者、脳の電気信号で動く偶然の産物として、自力で生きなくてはならない。
太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人の共感を得たが、全存在の源・「有る」お方を持たない人がサタンの言葉に惑わされるなら、そのように考えてしまう。神の敵・サタンが人を破壊させる言葉の、最たるものは、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならないである。
それを打ち消すのは唯一、全存在の根拠なるお方・キリストの言葉である。 『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』(4-5節)
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無いのだ。
イエス様は、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が、ご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる、という事までして人を救おうという愛の意図を、なんと、永遠の昔から持ちながらにして、人を創造されたのだ。(エペソ1:3-6)
『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) つまり、イエス様を信じている人は、血筋や外見、能力や社会ステータスに左右されなくなる。世の人は血筋を重んじるだろう。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、彼らは、そうした「血筋」の束縛から開放される。
また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、彼らが望まぬ命が「できてしまった」、と言う事は多々あるが、自分はそういった人の欲望の産物だという空しさもなくなる。また「人の意欲にもよらず」とある通り、親や誰か人の政略的な操作によって自分は存在する、という空しさもなくなる。
信じた人は、ただ神によって、神の子として完全なる愛に愛される存在として生まれた、と確信するのだ。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(14節) 書かれてある通り、肉体となって来られた「言」であられるお方は、神のひとり子であり、御父の栄光に満ちておられ、恵と真理に満ちておられるのだ。
御言葉なるお方を、私達という肉に住まわせる事がここで命じられている。『キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい…キリストの言葉をあなた方の内に豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。』(コロ3:15)
結局、今、わたしがここに存在している理由は、わたしを存在させて下さっているお方、「有る」というお方に由来し、ここに有る。その御方は、天地創造され、わたしが知り得ない全てを、知っておられる。
この御方を豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。このお方は「言」であられ、私達が目で見、耳で聞き、手で触れる「聖書の御言葉」として、今、ここに現れておられる。御言葉暗唱(テフィリン)によってこのお方を豊かに住まわせ、あらゆる自分のあやふやさ、自分の中にある闇を払拭し、神の子として大胆に、豊かに歩んでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
全能者の「存在」を私達の中に在らせるために(申命記6:6-8)
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神は人を、神のかたちに創造された。ところが今、人は神を離れ、各々自分勝手な善悪判断をしつつ、罪と肉欲に従って生きている。神である主の最終目標は、人を本来あるべき「神のかたち」「神の子」へと回復する事であり、私達もそれを目指すべきだ。どうすればそれが回復するのか。それを今日見ていきたい。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
ここの神の「イェヒエ」はハヤーの一人称単数未完了形で、ヘブライ語の未完了形は、動作が未だ終わっておらず、ずっと続いて行く事である。すなわち神の「ある」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
神は、ご自身で存在されるお方であり、そして、私達を存在させるお方。イエス様もまた、ご自身を幾度も「わたしは有る(ギ:エゴ・エイミー)」と言われ、人を活かす者・いのちを有らせる者としてご自身を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
イエス様はもとから世におられ、世はイエス様によって創られたのに、世はこのお方を知らなかった。
しかし彼を信じた人、すなわち彼の名を信じた人には、神の子とされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
イエス様ははじめから、人を活かす目的で、自らが死ぬ存在として人としてこの世にお生まれになった。
そのイエス様は、世を創造されたのみならず、愛ゆえに身代わりとなり、そして命吹き込むお方として「有られる」。イエス様は「御言葉」であられ、彼は、肉の幕屋を張って私達の内に宿られた。(ヨハネ1:1,14)
この、永遠から永遠の「ハヤー(ある)」なるお方を、私達はいかにすればハヤーさせられるか。その答えが、申命記6:6である。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』
ハヤーとは、存在をあらわすBE動詞である。ハヤー。それが主の名前であり、アイデンティティである。
私達が御言葉を暗唱(テフィリン)し、心に、思いに、知性に刻みこむ事によって、この神から離れ死に陥ってしまう私達の中に、全能者なるお方が、私達の内に「存在(ハヤー)」させる事が出来るのだ。その時、全能者であり、永遠から永遠に至るまで「存在(ハヤー)」されるお方のハヤーが、その人の中に起こる。
主はテフィリンを命じておられる。『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御胸は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。
クリスチャンはよく口にする。「イエス様は共におられます」と。しかしそう口にするものの、「本当かな」と揺らいでしまったり、あるいは全然実感なく機械的に「イエスサマハトモニオラレマス」と言っていないだろうか。
全世界を御言葉によって創造されたお方の「ハヤー」が無い人、すなわち、テフィリンしていない人は、その伝道には力は無く、また、何か不安な事が起きると、土台の無い家のように、心がぐらぐら揺らいでしまう。
しかし、その人の中に、御言葉の蓄えが増えれば増えるほどに、自分が存在(ハヤー)する根拠、生きる根拠、伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行くため、心も、人格も、ことばも、人生も、全て安定して行く。
御言葉の根拠が無い、自分に神の子としてのレベルが低いままであるなら、いくら祈っても、いくら主のミニストリーに励んでも、目が見えないまま闇雲に数を撃っているようなもので、たとえ祈りが「聞かれた」としても、数撃ってようやく当たったような、おこぼれの、憐れみ故の「聞かれ方」である。その生き方は、疲れる。
しかし、テフィリンして御言葉のハヤーがある人は、見えないけれど確実に「ハヤー」されるお方があるため、たとえ今、必要なものが目の前・現実に無いとしても、全能者のハヤーを根拠に、揺るがず、無駄な祈りを乱発せず、無駄な動きをせずに、本当に的を射た祈りと行動が出来、無駄をしないので、疲れない。
そういうわけで、私達はぜひとも、御言葉を蓄え、テフィリンするべきなのだ。自分で善悪判断する事を下ろし、御言葉なるキリストのハヤーを自分自身の内に構築し、全てに安定して行く皆さんでありますように!
どんな悪巧みの中にさえも最善を織り込ませる主(創世記50:15-21)
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天地創造から始まる創世記の終盤は、イスラエル民族の父祖ヤコブの子、ヨセフの歩みが詳細に記されている。彼はエジプトの宰相となって、父ヤコブと12人の家族を一つの国家へと成長させる重要な役割を主から任された。その全ての発端となった出来事が、彼がエジプトに奴隷として売られてしまう事件だった。
彼が父から寵愛を受けているのを、兄達は妬み、彼をエジプトへ奴隷として売るよう企んだのだ。
ヨセフは奴隷生活を経、牢の中の囚人も経たが、最終的に彼はエジプトの宰相にまで引き上げられた。
彼は正直で、柔和で、怒らず、つぶやかず、何事も神を第一にし、自分を低くする性質だったので、神に愛され、どんな人がどんな不当に扱おうと、彼は神の特別扱いを受け、結局彼がする事は全て祝福された。
それに対し兄達は、後悔と悲しさの日々を送り、一家全体は暗かった。主と共に歩んでいる人が、いかに不当な扱いを受けようとも、神がその人を癒やし、慰め、引き上げ、労苦を忘れさせてくださる。しかし怒りやねたみ、暴力など悪い力によって身を立てて来た人は、怯えながらの底辺生活を続けなくてはならない。
底辺生活を続けてきた兄達は、祝福されたヨセフと再会して以来、ずっと彼を恐れ続け、父ヤコブが死んだ時、自分達は殺されるかもしれない、と恐れた(15節)。ところがヨセフのほうは、とっくの昔に忘れていた。
兄が自分にした悪も、心の傷もトラウマも、苦労した日々さえも(41:51)。私達も、親しい誰かからひどい目に遭わされ、傷を受けるとしても、神と共に歩み続けるなら、神が私達を慰め、忘れさせ、栄えさせて下さる。
ヨセフは兄達に「わたしが神に代ることができましょうか」と言った(19節)。もしヨセフが兄達をずっと恨んでいて、父が死んだ機会に兄もその家族も殺してしまうとするなら…そのような人は世の中にごまんといて、世界史はその繰り返しだったが…、もしそのような矮小な器なら、神ははじめからヨセフを用いていない。
神のご計画は最初から、イスラエル家族をエジプトのゴシェンの地に移し、わずか70名の一家を「一国」へ成長させる事だった。この遠大なる計画を、どうして一人の人間の私怨ごときで覆す事が許されるだろう。
ところが多くの人は、自分の私怨や私利私欲ごときで、神様の遠大なるご計画を平気で覆そうとする。
だから神に用いられる器とは、ヨセフのように柔和で怒らず、自分の思いより御心を優先させる人なのだ。
『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(20節) ここが創世記の結論であり、全歴史の結論である。
ここのハシャブは「織り込む、染み込む」の意味で、トーブは「良し」という意味である。たとえ何者かが私達の人生に悪を企み、罪の奴隷や絶望の牢へ投げ込もうとも、神のトーブがそこに織り込まれ染み込まれる。
ヨセフの兄達が弟ヨセフを奴隷に売った事は、ひどい悪である。しかし神はその悪を用い、売った兄や、父さえエジプトのゴシェンの地で養い、一つの国家へと仕立てて行くという、絶大なトーブに変えてくださった。
神の名は「有りて在る」であり、創造の6日に6回トーブを宣言された方だ。いかにサタンの企みにより、奴隷にさせられても、そこにトーブを「在らせ」、織り込ませ、癒やし、忘れさせ、引き上げ、栄えさせて下さる。
トーブはヘブライ語のテット、ヴァヴ、ヴェートの三文字だが、最初のテットは蛇の意味、次のヴァヴは釘、最後のヴェートは家の意味がある。つまり、ヘビ(サタン)によって罪の奴隷に陥らされても、イエス様の十字架の釘によって永遠の家・天国に迎え入れられる、という意味が、このヘブライ語に込められているのだ。
つまり、トーブの単語そのものの中に、神は、神を愛する人達に働いて、万事を益とし、御子のかたちにしようと永遠の計画の中にあらかじめ定めおられた、という、ローマ8:28-29の意味が込められていたのだ。
ヨセフの兄は、ヨセフに悪い事を謀ったが、神は神と共に歩む彼を通してイスラエルの全家を救いへ導いた。同じように、神は、蛇(サタン)に妬まれ、陥れられ、罪と死の牢獄状態になってしまった人をも、イエス様の十字架を通して、永遠の神の家に花嫁として迎え入れられるという「トーブ」へと塗り替えられるのだ。
私達の中にも、ヨセフのあの頃のように、不当に牢に閉じ込められ奴隷のような状況を通らされる事があるかもしれない。先が見えず、いつまでこの状況が続くのか分からないかもそれないが、忘れてはならない。
神はその中にトーブを織り込み、染み込ませ、その状況さえも働かせて益とする事がおできになる事を。
悪を悪で返さず、平和で、正直で、神を第一に歩んできたヨセフが、癒され、傷も人のした悪も忘れさせられ、大いに祝福されたように、私達もこの時代、彼のように歩み、大いに用いられる者でありたい。
はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
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神は何故、人に、神を裏切る自由さえ与えたのか。こんな罪の苦しみを味わうくらいならいっそ与えなかったほうが良かったのに、と思う方もいるかもしれない。今回、神が人に自由を与えた理由を見ていきたい。
聖書には「はじめに」で始まる箇所は3箇所ある。聖書の最初・創世記1:1と、ヨハネによる福音書1:1、そして今回の、第一ヨハネの手紙1:1であるが、それぞれの「はじめ」は、違う意味を持っている。
神は時間・空間のある宇宙を創造する前から存在された。神の名は「わたしはある(エフエ・アシェル・エフエ)」、エフエは人格的存在を表すBE動詞「ハヤー」で、それが神のアイデンティティであり、名である。
その神が、悠久永遠へ、「時間」という切り身を入れた(バラ)瞬間が、創世記1:1の「はじめ(ベレシート)」である。それに対しヨハネ1:1の「はじめ(アロケー)」は、時が創られる前、永遠という「はじめ」である。ヨハネ1:1で「あった」と訳されている語は、人格的存在をあらわすギリシア語BE動詞「エイミー」で、正確には「おられた」である。第一ヨハネの「はじめ」も、時間が存在する前の「はじめ」であるが、この箇所は「はじめから存在されたお方・キリスト」のご性質で満ち満ちている。すなわち、はじめからおられたキリストは、私達が耳で聞き、目で見、手でさわれる「いのちのことば」、愛なるお方、罪を赦すお方として、私達に現れた。
イエス様は私達を「在らせる(ハヤー、エイミー)」お方であり、人も時間も「在る」前・ベレシートの前から、父なる神は、天のあらゆる霊的祝福で私達を祝福し、御前で清く傷の無き者と「在らせる」ように、キリストにあって選び、神の子という身分を授けようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-6)
父なる神は、世界の創られる前から、私達人間を、他のどんな被造物とも違う「自由意志を持った」「神の似姿」として「人」を創造しようと、念頭に置き、創世のわざを行われた。
キリストは、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられたのだ。先々週のコーエン講義で学んだ通り、創世記の「ベレシート(בראשׁית)」のヘブライ語の中には、「בית ベイト:家」があり、「בר バル:息子」があり、「בראバラ:創造」があり、「שי シャイ:贈り物」があり、「ת タウ:十字架」があり、「ברשיベロシュ:頭」があり、「שיתシット:いばら」があり、「ברית ベリット:誓い」があり、「אשתアシット:妻」がある。主はベレシートの前から、全てを見込んでおられたのだ。
このとてつもない神の愛とご計画は、親と赤ちゃんの関係から、なんとなく理解できるかもしれない。
親は普通、自分の似姿である赤ちゃんが胎に宿ったと知った瞬間、両手放しでその存在を喜び、親や友人達に喜びを言い広め、赤ちゃんのために色々な準備をする。赤ちゃんが宿るためのベビーベッドやベビーカーを買い、赤ちゃんが社会で生きるための諸々の手続きをする。同様に神様も、私達が存在する前から私達を喜び、大切にし、もろもろの法則を定め、人が宿るための壮大なベビーベッド・「宇宙」を創った。
親は飽きもせず赤ちゃんに笑顔を向け、あやしたり、愉快に感じるようベビーカーをゆらゆら揺らしたりする。
神様も、神の子である私達に御顔を向け、宇宙や地球をゆらゆら動かし、あらゆる良いものを周りに配置し、快適に生きられるようにしておられる。 赤ちゃんは、自分をあやしている親が、どんなに自分を愛し、大切に思い、より良く生きられるようにと働いて、あらゆる努力をしてくれているとは、つゆにも思わず、ただ受けているだけだが、神と人との関係もまた、同様である。ただ神は、スケールがあまりに大きいのである。
もし赤ちゃんが機嫌を損ねるなら、親は慌てて、機嫌を損ねる原因を除こうとする。もしわがままになって意図的に悪い事をするなら、心を痛めながらもお仕置きする。そして、いつも心配する。自分の手が届かない所で、危ない事はしまいか、と。神様も、同じである。神様は私達が最善の道に歩めるように、全てを整え、もし、悪の道・滅びの道に行こうとするなら、心を痛めつつもお仕置きする。そして、心配する。ご自身の手の届かない所で、自分を滅ぼすような事はしまいか、と。神は手が短くて救えないのではない。
人の側の反逆と罪が、神との隔ての壁となって、救いを届かなくさせてしまっているのだ。(イザヤ59章)
神は人の自由意志を尊重されるお方であり、人が神に助けを求めない以上、神は助けたくても助けられない。神を求めていないのに助けられているとしたら、それは一方的な恵みであり、一時的である。
その恵みの時に、神を愛し、神と共に歩もうと続けて行くなら、神はその人を愛し、神の子としてますます建て上げ、ついにはキリストの妻として迎えて下さる。それ程までに神は、人を特別扱いしておられるのだ。
神のこよなき愛と、そのご計画の深さがいかほどであるのか、さらに知る事ができる私達でありますように!
「量」の信仰から「質」の信仰へ転換するために(ヘブル11:24-29)
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先週はコーエン大学日本ラーニングセンターの学びの週であった。「大学の講義」であるのに、参加された方々は皆、喜びに溢れ、癒され、解放された。諸々の攻撃もあったが講義には何の影響も無く、むしろ私達はサタンが嫌がる事をしているのだ、しかしサタンは、キリストにある私達には何ら手出しが出来ず、むしろ、このコーエンの学びはますます日本に必要であり、それがもたらす祝福は大きいと再認識させられた。
イエス様を信じ、救われた事には、大きな喜びがある。そして救われた時以降、信仰生活が始まるのだが、この地上で信仰生活をして行く時、喜びだけとは限らず、イエス様を信じている故の様々な困難や迫害など忍耐や苦しみもあるが、その向こうには、計り知れない報いと栄光があるのだという事を今日学びたい。
ヘブル11章には信仰の偉人達が名を連ねている箇所であるが、モーセは少し特別である。
モーセは、80歳の時に主からの召命を受け、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放し、神が約束された土地に至るまで荒野の中を導き、荒野の中では神と人との間で契約を結び、神が人の側に要求された基準・「律法」が授けられた。彼はユダヤ人として生まれたが、40歳まで、エジプトの王子として育てられた。
しかし『信仰によって、モーセは、成人(μέγας)した時、パロの娘の子と言われることを拒み』(ヘブル11:24)
ここで「成人」と訳されたギリシア語「μέγας(メガス)」は「大きい、巨大な」の意味があり、そして数字の百万の意味もある。だからここは、「信仰によってモーセは100万倍に成長した時・・・」とも訳せる。
最近、スマホやパソコンの普及でメガやテラというギリシア語数字単位もよく耳にするが、いずれも聖書に登場する言葉で、メガ(百万)は人間が数えられるぎりぎりの数字であるが、テラス(τέρας 1兆)は一生をかけても数え切れない、という事で、どうにも説明がつかない異常な、途方もない、驚異の出来事を意味する。
人の信仰は、成長するが、限界がある。その限界がメガスであり、それ以上のテラスは、神の領域、神のみが可能な奇跡である。「あなた方は、しるしと奇跡(τέρας)とを見ない限り、決して信じない」(ヨハネ4:48)
モーセは「信仰によって」100万倍の成長をした故、彼は神に用いられる器として、神に目を留められた。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
人の信仰は、神の元へと登って行く。その時、恵みが天から降りてきて、二つが出会う時、奇跡が起きる。
ツロの女は、イエス様から小犬と呼ばれても「その通りです(アーメン)、しかし小犬でもパン屑には与ります」と言った故、イエス様から「メガス」の信仰だと褒められ、娘の癒しという「奇跡(テラス)」を引き出した。
イエス様を信じる信仰は、最初は「ご利益信仰」かもしれない。神様は**してくれるから、信じます、と。
しかしそのままでは、信仰ゆえの困難や迫害が起きると、手のひらを返したように信仰を捨てかねない。そこで、信仰の「質」が変わる必要がある。たとえ困難や迫害があったとしても忍耐し、信仰を捨てないように。
モーセは、『罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストの故に受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と「考えた(ἡγέομαι:ヘゲノマイ: 支配する、導く、判断する)」。それは、彼が報いを望み見ていたからである。』(ヘブル11:25-26) まさに質が変えられた信仰である。
そのような信仰を主は喜び、用いられる。どうすれば私達も、そのような質の変えられた信仰を持てるだろう。
それは第一に、モーセのように、罪のはかない歓楽よりも、キリストの故に受けるそしりのほうが、世の宝にまさる富であると判断(ヘゲノマイ)し、自ら支配し、導くのである。第二に、「報いを望み見る」事である。
信仰の行いには、必ず主が報いて下さる、と信じているだろうか。信仰でも、世の仕事でも、報われるという望みを持たない人は、本当は嫌だけど怒られるのも嫌だから仕方なしにする、という、非常に「楽しくない」生き方をしている。永遠にしぼまない、世の宝にまさる富が手に入る事を望みつつ、歩むべきである。
主は、種まきのたとえの中で言っている。『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) すなわち、御言葉を受けたなら、それを正しい良い心で、しっかり守り、耐え忍ぶ事である。100倍の実りに預かれる人は、聞いて、すぐに従順する人である。忍耐とは悲痛な顔をして我慢する事ではなく、目の前にその希望を楽しく望み見て、それを目指して歩むものである。この喜びに満ちた信仰生活を送って行く皆さんでありますように!