メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
主日礼拝
悪魔サタンの実情と、対抗する方法(ルカ10:17-20)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Go to the ant, you sluggard (Proverbs 6:1-11) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
私達が主の祝福を豊かに享受し、自由に生きるには、真理を知る必要がある。イエス様がどれ程素晴らしいお方で、彼にあって私達キリスト者がどれ程、素晴らしい地位を得ているか、知る必要がある、と同時に、私達は敵であるサタンの実情を知り、攻撃してくる方法と、それに対抗する術を、知らなくてはならない。
本当に多くのクリスチャンが、この者に惑わされ、あと少しでゴールという所を、邪魔されて、振り出しに戻されてしまった、という事が多いからだ。今回、どう悪魔サタンに対抗して勝利すべきか、コツを掴みたい。
よく 映画やドラマでは、神と悪魔との力関係が、あたかも対等か、あるいは悪魔のほうが上であるかのように描かれていたり、また、超自然的な悪が、自由気ままに、人間を残酷な形へと陥れる、といった描写があったりするが、全くウソである。悪魔サタンは、私達の主イエス・キリストと、キリストにある私達に比べれば、お話にならない程、格下である。サタンや悪魔、堕天使、悪霊、その他、全てキリストに敵対する敵たちは、やがて、みんなまとめて硫黄の燃え盛る炎の池に投げ込まれる事が、黙示録に書いてある。もし私達が、悪魔サタンや悪霊に会ったなら、信仰を交ぜた御言葉を宣言するべきだ。『彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:10) この真理に、悪魔サタンは震えおののくのだ。 さらに、1ヨハネ5:18に書いてある。
『全て神から生れた者は罪を犯さない事を、私達は知っている。神から生れた方が彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるような事はない。』 悪い者が手を触れられないよう、「霊的バリヤ」で守られている人とは、「神の種」が宿っている人である(同3:9)。御言葉という神の種(マタイ13章)を宿している人は、イエス様がその人を、悪魔サタンや悪霊から守っておられ、また、罪を犯さないよう、守っておられるのだ。
以上のように、権威的上下関係では圧倒的に、私達キリスト者が「上」、悪魔サタンは、遥かに「下」、なのに、どうしてキリスト者は時々、悪魔サタンのほうが力を持っているかのように錯覚したり、また、キリスト者が率先して平和を壊したり、汚れた言動を吐き散らしたりと、「キリスト者」ならぬ「サタン者」のように用いられてしまう事があるのか。その訳は、「偽りの父」である悪魔の偽りに惑わされ、踊らされてしまった場合である。
悪魔は、「誘惑者」である。経験が無いだろうか? ある、重要なタイミングで、普段は到底考えつかないような汚れた思いや情欲に突如襲われ、邪魔され、重要な場面で失敗してしまった事が。あるいは人間関係や物事を破壊させるような思いに捕われ、そういう言動を実際にしてしまって、せっかくゴール間近だったのに、振り出しに戻ってしまうような事が。それらは、私達由来ではない。そのような衝動を起こさせた者こそ、偽りの父であり、人殺しのサタンである。ゴキブリは、私達を部屋の外に放り投げる腕力や権威は無い。はずなのに、どういうわけか、ある人は、部屋にゴキブリが出ると、部屋から閉め出され、ゴキブリが部屋でくつろぐ、といった事態が起きる。それは、その人のゴキブリに対する行き過ぎた恐怖という「偽りの思い込み」があるからだ。悪魔サタンも、ゴキブリと同じで、キリストにある私達を恐れ、触れる事はできない。
けれども彼らは、人の思いの中に、サタン由来の汚らわしい「思い」や「偽り」を吹き込む事ができる。
それに踊らされてしまう時、キリスト者も、サタンの道具として、まんまと用いられてしまうのだ。騙されてはならない。霊的な戦いの場は「思い」の中にある。対抗手段が2コリント10:4-6に記されている。すなわち、全てキリストに逆らう「思い」や「所存」をキリストにあって逮捕し、服従させ、その服従が完全になる時、その者共を処罰する準備が出来るのだ。この、「キリストへの服従」こそ、要塞をも破るほどに力のある武器なのだ。
だから私達キリスト者は、御言葉の真理にしっかりと立ち、真理の御言葉を信仰を交ぜて宣言するべきだ。 「真理はあなた方を自由にする」と書かれてある通り、私達は、真理を知れば知るほど、自由になって行く。
私達がテフィリンし、思いと知性の中を「御言葉の真理」で充満させて行くなら、悪魔サタンから、恐れおののかれる者となる。のみならず、祝福の法則を身に着けて、何をしても栄える者となるのだ。
積極的に、主から与えられた権威を行使し、悪魔サタン、悪霊、病など、あらゆるサタン由来のものを、主イエスキリストの名によって縛り、踏みつけ、追い出し、すべて人を縛っている恐れや絶望感、病、貧困、その他、全てサタンに属するものを打ち砕き、光の領域を奪い返し、真理の自由の中でのびのび生き、主の復讐の日、主の恵みの年を発動させる皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
向きを変えて出発せよ(申命記1:7-8)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: The Nature of Satan and How to Deal with Him (Luke 10:17-20) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
2月となった。今月のカレンダー聖句は、申命記1:8である。7節から見ると、『向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き…大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなた方の手に渡している。行け。その地を所有せよ。』 申命記は、出エジプトした民が、荒野での40年の放浪を経て、いよいよ約束の地を目前とした時、死期を目前に迎えたモーセによる、最後の説教である。その説教の最初は、40年前、出エジプトしてホレブに滞在していた時の話から始まる。彼らは出エジプトして1年間、神の民としての契約と礼拝規定が定められ、礼拝所である幕屋も建設され、12部族の編成も終わり、いよいよ、約束の地へと出発する準備が整えられていた、まさにその時のモーセの言葉が、今回の御言葉である。
『向きを変えて、出発せよ』(7節) 「向きを変える(パーナー)とは、準備する・移動するの意味で、「出発する(ナーサー)」は、「杭を抜く」事から、テントの杭を抜いて旅を始める、移動する事を意味する。
主はその時、エモリ人の山地に行け、と、言われた。そこは、戦いに長けた強力な先住民族がいたが、主は、「見よ、わたしはその地をあなた方の手に渡している」、それ故、「行け、所有せよ」と、言われた。(8節)
私達にも、約束の御言葉が、既に語られている。準備は出来ているだろうか。今まで留まっていたテントの杭を引っこ抜いて、神様が約束された祝福の領域へと、移動を始める準備は。いよいよ、約束されていた素晴らしい地へ、足を踏み入れようとしている、希望に満ちた瞬間、のはずだった…。実際は40年の放浪のスタートだった。主が語られた場所から、約束の地まで、11日しかかからないと記されている(2節)のに、一体何が、「11日」を「40年」にさせたのか。それは、彼らの恐怖や、できない・無理と思わせる奴隷根性、そして、共におられる全能の神が、あたかも、いないかのように見積もる「不信仰」こそ、そうさせたのだ。
その過ちに陥った次第が、9節以降に記されている。9節以降、モーセが民の長となるべき人を選別した次第が記されているが、そのリーダー選別の基準を、彼のしゅうと・イテロは、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」を選ぶようアドバイスした(出エジプト記18:17-22)。しかしモーセが選別した人は、神を畏れる人でもなく、誠実な人でも、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」だった(15節)。考えてほしい。「神を恐れない、けどデキる人」「不義を憎まない、けどデキる人」をリーダーに選んでしまったらどうなるか。結局彼らが、神の民を、信仰とは逆の方向へ「ミスリード」してしまったのだ。
私達は、教会や事業は、組織が大きくなって人が増えた時こそ、気をつけるべきである。初代教会は、人数が増えるにつれて、どのような人を上に立てたか。それは、御霊と知恵に満ちた、評判のよい人だった。
私達が神の国の仕事を成し遂げるためには、量や力や効率より、霊的純粋さこそ保つべきであり、いたずらに人が増える事よりも、むしろ、信仰を邪魔するような余計な人は来ないように祈った方が良いのだ。
イスラエルの民があの時、モーセから言われた事に対し、口をつぐんで何も言わずに、その通り行っていたなら、すんなり約束の地に入れた、はずだった。しかし彼らは、提案してしまった。まずその地を探らせて、どう攻略すべきかを熟考しよう、と(22節)。事前調査するのは、悪い事ではない。ただ、その調査結果を、自前で判断するか、主で判断するかによって、天と地の差となる。モーセは、調査させるのは良いと思った。
彼らは今まで、主の力強い御業を見てきたのだし、調査して、見て、どういう地か知ったなら、ぜひ行きましょう、と言うだろう、と、疑いもせずに思っていたのだ。しかし彼らの思考は、モーセと同じではなかった。
彼らは、主が今までして下さった事も、主がおられる事も、度外視し、自分と相手だけ比べて絶望したのだ。
主の言葉に、人の判断を混ぜてしまう事こそ、「11日」を「40年」に引き伸ばしてしまうコツであり、主が生きておられる事を度外視しして、自分の凝り固まった考え方を通す思考こそ、霊的にも、社会的にも、いつまでも「底辺」から脱却できず、荒野を放浪する人生となってしまうのだ。 それに引き換え、ヨシュアとカレブは、自分達の内におられる主と、相手とを見比べて、聖なる計算をしたので、絶対勝利する、と確信できた。
主は今月、向きを変えて出発せよ、わたしはその地をあなた方の手に渡している、行って、その地を所有せよ、という御言葉を与えて下さった。この言葉を信じて、ヨシュアやカレブのように、主を見つめ、今、目の前にある人・物・事と、主とを比較して、必ず主と共に勝利し、その地を獲得する、という確信と希望を得て、大胆に進み出て実体を勝ち得る皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
神の時間を起動する鍵 – 主の喜ばれる断食(エステル記4章)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Fasting that the Lord requires(Est4:16) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年は主の恵みの年、主の復讐の日、というビジョンが与えられ、それらを起動させるための鍵を、エステル記から学んでいる。王妃エステルは、ハマンの陰謀によって定められたユダヤ人虐殺の法令からユダヤ人を救うために、王に直訴しに行くようモルデカイに言われたが、躊躇した。なぜなら、王に呼び出されないまま御前に進み出るなら、死刑に処せられる、と定められていたからだ。それで彼女は、三日間断食をしてから王の前に出るから、皆も断食して、祈って下さい、と、モルデカイに要請した。この、いのちを賭けた断食が、神の民に、「主の恵みの年・主の復讐の日」をもたらす鍵となった。最も低かった地位は高められ、ハマンの家も、富も、地位も、そのまま神の民が受け継いだ。この「主に喜ばれる断食」とは一体何か。
目に見える時間と見えない時間がある。現実の「見える時間」は世の強者が支配しているが、神が計画しておられる「見えない時間」は、いつでも、神の民が栄え、健康で満ち足りるように願われている時間である。
神は、その「神の時間」を、現実の時間へ実体化させるために、いのちを張って主の御心を成し遂げようと、その「鍵を回す」人を探しておられる。その鍵を回せる人とは、自分の思いや願いを一切捨てて、ただ主の御心を100%求める、「主の喜ぶ断食」をした人である。イザヤ58章に、その断食が定義されている。
イザヤ58章を見ると、主が喜ばれる断食とは、ただ食べ物を断つような事ではない事が分かる。断食のヘブライ語ツォームは、「覆う(ツゥーム)」が元であり、すなわち、悪い言葉や、つまらないおしゃべりをしないよう口を「覆う」事、また、人にうしろ指を指してあげつらう事や、悪い習慣との結束、悪い人付き合いなどを断ち切り、虐げられ縛られている人々を自由の身とし、必要を覚えている人には、自分の持ち物で助け、肉親の世話をする事。つまり、悪い行動・言葉を出さないように自分を覆い、困っている人に対しては、憐れみの行いで覆う事。それこそ、主の喜ばれる断食である。それをするなら、主の光が曙のように差しいで、傷は速やかに癒やされ、報いられていなかった物事への報いが発動し、日の目を見るようになって行く。
エステル達は、その断食をした事によって、「神の時間」が起動する取っ掛かりをつくった。
エステルが断食によって身も心も整え、王の前に出た時、彼女は、死刑を免れたばかりでなく、王の好意を得、「王国の半分でもやる」とさえ言われた。しかし、断食で願い事が叶った、と言って、すぐ調子に乗ってはいけない。それより、もっと重要な成果がある。彼女は、気品と美しさに満ちたおもむきで、「もしも王様がよろしければ、わたしの設ける宴会に”ハマンと一緒に”お越し下さい」と言った。ハマンは、彼女にとって、絶対に宴会に呼びたくない人であった、にもかかわらず、彼女は、王の楽しみとなる事を第一とし、ぜひハマンもご一緒に、と誘ったのだ。実際この時、王はエステルと30日もご無沙汰で、むしろ王は、ハマンと親しくしており、王の思考は俗的な考え方に充満していた。まだ聖なる訴えをする時機ではなかったのだ。
主に喜ばれる断食の成果は、単に、願い求めていた事が叶えられる事だけではない。主の御心を躊躇なく行う、聖なる美しい性質を身にまとえる事である。どんなに憎たらしい、腹立たしい人を前にしても、嫌な顔をあらわにしたり、王を懸念させるような言葉を一切漏らさず、聖なる美しさと品性が、微動だにしない。
それこそ、真の美しさであり、正しい断食の成果である。顔にすぐに出る人は、このような断食をすべきだ。
もう一つ、何より重要な成果は、エステルが「わたしがもうける宴会」へと、王とハマンの両方を招き、彼女が断食によって聖別した、聖なる時間・聖なる空間へと、彼らを招き入れた事である。そこに誘い込んだ事によって、霊的に、白いものは白、黒いものは黒へと、はっきり浮き彫りにされて行く。こうして王の前に、エステルの清く美しい人格と、それとは対照に、ハマンの悪い人格が、王の前に浮きぼりにされて行くのだ。
汚れた相手には、怒りや罵詈雑言といった、汚れた方法で立ち向かってはならない。闇に染まってはならない。むしろ、自分の中から、そうした汚れた態度や言葉が出てくる事を「覆う(ツゥーム)」という、主に喜ばれる断食をする事によって、聖別された自分を整え、そうして聖なる時間の「領域展開」を仕掛けるのだ。
『そうすれば、あなたの光が暁のように現れ出て、あなたは、すみやかに癒やされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。』(イザヤ58:8)
主の喜ばれる断食を普段から身につけ、闇と悪によって凝り固まって頑として開かなかった鍵を回し、日常に、この歴史に、主の光をもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
時を支配する者となれ(エステル記3-4章)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Be the ruler of the time (Esther 3-4) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年は主の恵みの年、主の復讐の日というビジョンが与えられた。主の恵みの年、主の復讐の日を始めた良い例は、エステル記に記されているが、それを理解するためにモーセの時代へ遡らなくてはならない。
イスラエルの民が、エジプトから約束の地へ旅していた途中、アマレクが襲ってきた。彼らはイスラエルの中の、疲れ、弱っていた人達を狙い撃ちに来た。アマレクの性質を一言で言うなら「弱い者いじめ」である。
主は、そのような者の記憶を、天の下から消し去らなければならない、と命じられた(申命記25:17-19)。
それができるようになった「主の時」は、サウル王の時代に訪れた。主は、彼にそれを命じたが、彼はアマレクの王アガクを惜しみ、実行しなかった。それで彼は、災いの根を後々に残してしまう(1サムエル15章)。
主の時に、主に言われた通りに実行しないなら、後の自分や後の子孫が被る災いを、大きくしてしまうのだ。
時代が降ってエステルの時代、サウルが根絶しなかったアガグの子孫と言われているハマンは、権力を得て、イスラエル民族を皆殺しにしようと企む。彼は、ユダヤ人モルデカイが彼に敬礼しない、という理由で、非常に憤り、モルデカイを殺すだけでは飽き足らず、彼の民・ユダヤ人をも絶滅しようと執念を燃やし、必要経費として、銀1万タラント(1タラントは30〜40キログラム)を出す、とまで言った。ハマンには恐らく、経済的に祝福されているユダヤ人の財産を没収して、私服を肥やそう、という意図も、あったかもしれない。
この時は、ユダヤ人にとっては滅亡のカウントダウンの時間に見えたかもしれないが、人の目に見える時間と、見えない時間がある。私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この世の強者が支配しているが、神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために御言葉を下さる。私達は、その「時間マスター」になるべきである。主のタイミングで主の御旨を実行する時、主の大いなるわざを、その時代にもたらす、「歴史の主人公」となれるが、それを実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すのみならず、後々の自分や子々孫々へ、大きな災いを残してしまう事になる。
今、私達に与えられている時間を、世が仕組んだ時間としてではなく、主が仕組んだ時間として悟り、管理するべきだ。私達・神の民が、時間を管理し損ねると、その、管理しなかった分の解決すべき問題の山が、管理しなかった人間関係や、勉強時間が、その他もろもろが、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
神の時間を自覚せず、自分流の時間をそのまま生きるなら、時間という鞭に追われる「奴隷状態」となってしまうのだ。私達はどうやって自分の人生やこの歴史に、神の時間をスタートさせる「主人公」となれるのか。それは、神の時を見極め、その仕事を「やります」と従順し、神から託された地位や力を用いる時にである。
モルテガイは、ハマンが定めたユダヤ人虐殺の法令を聞いた時、王妃エステルに、王の前に出て直訴するように言った。しかしエステルは、自分は王から30日も召されていない、もし召されないままで行くなら、自分は殺されるかもしれない、と返事した。そこでモルテガイは言った。『あなたがもし、「このような時」に黙っているならば、他の所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、「このような時のため」でなかったと誰が知りましょう」。』(エステル4:14) そう、エステルは、「このような時」のために、神の摂理によって、王妃という地位が与えられていたのだ。主が彼女を通して働き、神の民を救うのみならず、神の民を世界的に偉大にさせる、という、神の「見えない時」を実現させるために。 私達も、神の摂理によって地位が与えられている。
それは一見、つまらない地位に見えるかもしれないし、あるいは逆に、どうしてこんなに高い地位と成功が与えられたのか、分からないかもしれない。しかしそれは、神の時の歯車が噛み合って、御心が実行に移されるために、神が入念に準備しておられたからだ。 それにもかかわらず、与えられている地位や富に安住し、主が「その時」のために整えられておられた使命を全うするのを拒むなら、モルデカイが言った通り、本人も、本人自身の家も、滅びてしまう。神は全ての人に、時と機会を備える(伝道者の書9:11)。神の定めた「時」と「機会」に乗り、その使命を果たす人が、主の御旨を遂行する事に用いられ、勝ち取って行くのだ。
エステルが、自分がたとえ死ぬとしても、王の元に行きます、と引き受けた時、ペルシャの歴史が「主の恵みの年」へと変化した。主は、エステルが命がけで御旨を遂行しようとした決心を受け取り、神の民に栄誉を与える方向へと、歴史に手を加え始める。 与えられた地位を用いて主の御旨を行う決心をし、主の恵みの年、主の復讐の日を開始して行く皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主の恵みの年、主の復讐の日(イザヤ61章)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: The acceptable year of the Lord(Luk4:18-21) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年初めに、ルカ4:16-21とイザヤ61章の御言葉が与えられ、「主の恵みの年、主の復讐の日」を実現させる年というビジョンが与えられた。「恵み(デクトス)」とは「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」という意味で、すなわち、主から最高に歓迎される年である。 そして「復讐」とは、ルカ4:18にある通り、貧しさや奴隷状態、傷、盲目状態、虐げられてきた日々に対する復讐である。 エジプトを脱出した民は400年も奴隷として搾取されて来たが、彼らは主にあって、きっちり分捕り返した上で脱出した。同じように私達も、悪魔サタンに分捕られて来た分は、キッチリとイエス様にあって搾り取った上で(最低でも倍返し:イザヤ61:7)、以前の状態から脱出し、この年を、「主の恵みの年」として塗り替え行くのだ。
そうなるためには、ルカ4:21の、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」という宣言は、自分に成就したもの、として、受け入れる必要があった。貧しく、奴隷で、傷を受け、盲目で、虐げられた日々は、もうイエス様が十字架の上で「完了」させて下さった、という真理を信じ、受け入れ、その前提で歩んで行くなら、主の恵みの年・復讐の日が始動し、実体化されていくのだ。 こうして「恵みの年」が始まると、私達はどのような働き人となるのか。それはイザヤ61:3以降に記されている。
すなわち、シオン(神の民)の悲しむ者達に、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる働き(3a)、すなわち、神の民に慰めをもたらす働きである。
『彼らは義の樫の木と唱えられ、主がその栄光を表すために植えられた者と唱えられる。』(3b) 樫の木と訳された語「アイル」は「力」「強さ」「長」をあらわす。つまりその人は、強く垣根を超えていく枝となるのだ。
その人は、昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する(4節)。
この国はかつて、福音が伝来した時は大いに広がり、信者が爆発的に増えて行ったが、当時の権力に迫害され、散らされてしまった。そのような、昔の廃墟を立て直し、復興させる働きを、今、起こすのだ。
『外国人は立ってあなた方の群れを飼い、異邦人はあなた方の畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。しかし、あなた方は主の祭司(コーエン)と唱えられ、我々の神の役者と呼ばれ、諸々の国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。』(5-6節)。コーエンというヘブライ語は、祭司長、あるいは人々の長を意味する。私達が「コーエン」となって、神と人との間に立って取りなし、御言葉を教え、人々はそんな私達を補助するのだ。
そして主の復讐の日が始まる故に、『先に受けた恥にかえて二倍の賜物を受け、辱めにかえてその嗣業を得て楽しむ。それ故、あなた方はその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。』(7節)。
これは、とても素晴らしい祝福だが、このような祝福が与えられたからと言って、欲を出したり、高慢になったりしないように、今からよく気をつけるべきである。イスラエルの王達の多くは、若い内は純粋に主に従った故に、祝福され、富と力を得るのだが、それによって高慢になり、罪を犯して、祝福が去ってしまった、というパターンばかりだった。私達はその例にならわないよう、祝福された将来の自分がそうならないよう、今からよくよくシュミレーションするべきである。次のように注意されているからだ。『主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。』(8節)
このようにするなら、子々孫々が、主にあって栄光の次世代に、栄光のリーダーへとなって行く。『彼らの子孫は、諸々の国の中で知られ、彼らの子らは、諸々の民の中に知られる。全てこれを見る者は、これが主の祝福された民である事を認める。』(9節) 私達には、このビジョンが与えられている。御言葉教育をする幼稚園や学校を建て、テフィリン教育を施し、そうして若者たちを、ユダヤ人以上の天才に育て上げ、次世代のリーダーとし、国々が主の栄光を見て、イエス・キリストの福音の傘下を歩むようにして行く・・・。それが今、コーエン大学で養われた働き人達を中心に、世界中で起きている、テフィリンのムーブメントである。
主は、人のいないのを、うめいておられる。とりなす人や、主のうめきを察知して主の働きをする人がいないのを。私達は、神と人との間に立つ「コーエン」となって、人々のために取りなし、また、この時代に神の国を建て上げていく働き人となって、主の恵みの年を実現していくのだ。そのようなビジョンをもって、主のために意欲的に働く人に、主は、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださる(10節)。今年、全ての国に、主の義と、賛美を芽生えさせる働きをはじめ、主の恵みの年々、主の復讐の日々を開始して行く皆さまでありますように!
主日礼拝
神様が最もお喜びになる年とするために(ルカ4:16-21)
第一礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
主の恵み(デクトス)の年を告げる…。今回の御言葉は、2022年開始と同時に行われた新年礼拝で示された御言葉である。「恵み」と訳されたデクトスの意味は、聖書によく登場する「恵み(カリス:優しさ、思いやり)」とは違った意味で、「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」、といった意味がある。つまりデクトスの年とは、「神様が最もお喜びになる年」、「最も適切な年」という意味だ。神様が最もお喜びになる年を、告げ知らせる事…。それが、イエス様の役割であり、油注がれた主の働き人の役割でもある。なぜなら、今回の引用元の聖句であるイザヤ61:3には、「彼らは」義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれる、と書いてある。「彼ら」、と、複数形で書かれてあるからには、その役割をするのは、イエス様お一人の専売特許ではなく、聖霊の油が注がれた私達も、デクトスの年、恵みの年を告げる働き人となって行く、という事だ。
デクトスの年、つまり神様が最もお喜びになる年とは、どういう年か。その内訳が18節に書いてある。
「1,貧しい人々に福音を伝える」、「2,捕われ人には赦免を告げ知らせる」、「3,心の傷める者を癒やす(多くの訳で省かれているが原典に存在)。」、「4,盲人に目の開かれる事を告げる」、「5,虐げられている人々を自由にする」。これらを、私達が為す時、主の最も喜ばれる年、受け入れられる年になる。
主は、願っておられる。私達が、たましいに幸いを得ているように、全ての点でも幸いを得、また健康であるように、と。だからまず私達自身が、1,福音によって富んだ者となり、2,捕われ状態が赦免され、3,心の傷が癒やされ、4,霊的盲目状態から解放され、5,虐げられている状態から自由になる必要がある。
そうなるためには、イエス様が十字架上で宣言された言葉、「完了した」を適用するのだ(ヨハネ19:30)。
私達は、イエス様が十字架で「完了した」を宣言された時、一緒に「死んだ」のであり、真理の上では、罪の借金も、呪われるべき負債も、全て「支払い済み」「完了済み」となった。そう「仕分け」するべきである。
『このように、あなた方自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である事を、「認む(ロギゾマイ:仕分けする)」べきである。』(ローマ6:11) 私達はその真理を宣言するのだ。
1,貧しさは完了し、イエス様にあって、富んだ自分が始まった! 2,捕われ状態は完了し、赦免を受けた!
3,心の傷は完了し、癒やされ、健やかになった! 4,見えなかった状態は完了し、見えるようになった!
5,虐げられ状態は、完了し、自由になった! これらを、十字架上で主イエスが完了したと「仕分け」し、その前提で生きて行くなら、それらは有効化され、実体化され、恵みの年が、効力を得て、始動するのである。
引用元のイザヤ61:2には、「主の恵みの年」に加えて、「神の復讐の日を告げ」る事が書いてある。復讐とは、何への復讐か。それは、1,貧しくさせられた事に対する復讐であり、2,捕われ状態だった日々に対して 3,心に傷を負わされた事に対して 4,盲目にさせられていた事に対して 5,虐げられてきた年月に対しての復讐で、つまり全て、悪魔サタンに対する報復である。 エジプトで430年も奴隷とされていたイスラエルの民が、きっちり430年分の報復として金銀宝石を要求して、それらを携えてエジプトから出たように、私達もきっちり、イエスの御名によってサタンから搾り取った上で、奴隷状態から脱出して行くのだ。
イエス様は言われた。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21) 英語KJVでは、This day is this scripture fulfilled in your ears. すなわち、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」となる。主のことばは「in your ears:耳の内側」で成就する。つまり、耳で聞いただけではだめで、耳のさらに内側、心の中に入り、御言葉を信仰によって自分自身と混ぜ合わせた時、成就する。
ところが、この良き知らせである福音を聞いても、実体化しない人は、確かにいる。事実、イエス様からこの「恵みの年」の宣言を聞いたナザレの人々は、それを信じなかったばかりか、イエス様を崖から突き落とそうとした。なぜだろう。それは、彼らが聞いた御言葉を、信仰によって結び付けなかったからだ。『彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。』(永井訳 ヘブル4:2)
聞いた御言葉を、信じて服従するなら、安息に入る。しかし、出エジプトした民の大部分のように、聞いても信じず、頑なに御声を退けるなら、安息に入れずに、滅んでしまう。 安息日の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る(ヘブル4:10)。信じて、神の安息に入り、主の恵みの年を成就させ、栄光の働き人となっていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主日礼拝
全ての面で豊かで健康であれという祝福の挨拶(3ヨハネの手紙2節)
第一礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
新年おめでとうございます!御言葉を聞いて信じた皆様の生活に、主の恵みの年が実現しますように!
今年より、月初めのメッセージ箇所は、お配りしたカレンダー聖句のその月の箇所から養いをいただく事となった。今月の箇所は、第三ヨハネの手紙2節である。『愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべての事に恵まれ、また健やかであるようにと、わたしは祈っている。』
ヨハネは、1節の挨拶で「愛している(アガペートス)」、「親愛なる(アガパオー)」と、2回も「愛する」という言葉を用いた。2節も、「愛する者よ(アガペートス)」と呼びかけている。アガペーは無償の、完全な、捧げ尽くす「愛」で、昔日本に来た宣教師は、これに該当する日本語が中々見つからず、「ご大切」と訳した。
今年最初の主日である今日、私達は、聖徒同士の交わりの中に、また互いの挨拶の中で、真っ先に、「ご大切」を込めるべき事が示されている。裏表のない、相手を大切に思う愛で、互いに関わるべきだ。
そして今回の御言葉で、ヨハネが、愛する聖徒に「こうなってほしい」と願い、2回も用いた動詞は「ユーオドー」である。その意味は、「道が開ける」「順調である」「繁盛する」「成功する」で、もう一つ、彼が願った動詞は、「健康である(フギアイノー)」、意味は、「健康で、健全である」、「適切である」事だ。
ヨハネは、聖徒の「魂(プシュケー:思い、意思、感情)」がいつも満ち足りているのと同様に、あなたが全ての面においてもそうでありますように、と願ったが、クリスチャンが安定した信仰生活を送っていくなら、当然のように、「内面」は恵まれ繁栄して行く。しかし、「内面」が健やかでも、「外面」が不健全だったり、貧乏だったり、というのは、願わしくない状態で、キリスト者は、その状態を受け入れたままであってはならない。
もし私達が、何度も同じ罪を犯してしまったり、同じ失敗を何度も繰り返してしまう、といった「くせ」があるなら、「自分はそういうキャラだから」とか「衰えたから」などと言い訳したり、納得して受け入れてはならない。
そのような不健全な「くせ」は、叱りつけ、私達の中から追い出すべきである。
私達キリスト者は、不信仰や不従順など、御言葉に反する”死”がはびこる時、いのちの御言葉で上塗りしなくてはならない。また、そのような「くせ」を持った人が、強く主張したからといって、それに合わせてもいけない。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」のは、不信仰な者と共に信仰を捨てる事ではないし、臆病な者と一緒に臆病になる事でもない。もしヨシュアやカレブが、臆病な者が強く主張したからといって、一緒に臆病になっていたら、約束の地に入れなかった。私達はむしろ、真理で偽りを上書きし、健全な御言葉で不健全さを上書きし、神の無限な豊かさでもって貧乏を豊かさへ上書きして行くべきなのだ。
キリスト者は本来、何についても「ユーオドー」、すなわち道がひらけ、順調で、成功して、然るべきである。
なぜなら、圧政的に支配する悪を、神の民が支配権を奪還し、神の国を広げなくてはならないからだ。
この「ユーオドー」の内容は、新年礼拝の祝祷の後に捧げられた「ヤコブの祝福」という賛美と、まさに一致している。これは、ヤコブがヨセフに与えた祝福(創世記49:22-26)が元で、互いに祝福し合う賛美である。
「どうかあなたが、主の若枝のように垣根を越え、限界を超え、支配領域を広げていきますように。」
「どうか、御父の約束どおり、全ての面で押し入れ、揺すり入れして与えられ、満ち溢れますように。」
「あなたは激しい嵐にも、主の力で勝つ事ができます。」「アルファでオメガなる主が、あならの盾・やぐらです。」「あなたは神の人、選ばれた神の民です。」「わたしはあなたのために、主に祈ります。行く手に幸あれと。」「あなたは神の者、愛らしい若枝です。御胸に従って豊かに花咲く、枝となりますように・・・。」
私達は、この賛美のように、互いのために、神の国を広げる道が、開かれ、成功し、順調に繁盛して行くよう、互いに祝福のあいさつをし合うべきである。聖徒の交わりの中ではもちろん、親子関係や、夫婦関係、職場の関係においても。ボアズがききんの時代、有力者として地位が上がって行ったのは、麦畑という「職場」で、祝福のあいさつを交わしていたからだ(ルツ記2:4)。祝福のあいさつをせず、立てあげる言葉ではなく破壊する言葉、分裂する言葉で、互いにあいさつしあっているなら、互いの間で滅ぼされてしまう。
今年、私達はますます愛(アガペー)をもって祝福のあいさつをし、貧乏や不健全さは、「ユーオドー(道を開く、順調である、繁盛する、成功する)」で上塗りし、内面のみならず、外面においても、あらゆる面においても健全で健康となって行くこの年の皆様でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
ヨセフの模範にならって(創世記50:15-21)
第一礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年最後の主日礼拝となった。今年も変わらずコロナの脅威が厳然として存在し、また最近は、ごく普通にしていた人が突然、無差別テロのような事件を起こす事も増えて、荒んだ時代が継続している。人の心に怒りや妬み、恐れなどの負の感情が鬱積して来ると、ある人は事件という形で、ある人は事件にはならない形で発散させ、その周りは荒んだ雰囲気となり、恐れや不安、絶望のサイクルを引き起こさせて行く。
ヨセフの兄たちは、妬み・憎しみに燃えて、弟ヨセフを奴隷として売るという「事件」を起こし、ポテファルの妻も、彼に無実の罪を着せて、彼を獄屋に入れてしまった。しかし、彼の主であり、私達の信頼する主は、人の闇や時代の闇がいかに深くても、それら全部をひっくり返して「益」に変えて下さる力強いお方である。
ヨセフは、悪に対して悪で報いず、かえって善をもって対応したゆえに、神は彼の為す事全てを成功させ、むしろ彼を、エジプトの総理大臣にされた。ヨセフは、その主から託された権威を、復讐する事に用いず、また莫大な富を自分のために用いず、むしろ、神様から与えられた「役割」を忠実に果たすためにそれらを用いて、神の民・イスラエルを大民族へと、そして国家へと成長させるための、土台づくりを整えた。
かつて、妬みに燃えてヨセフを売り飛ばした兄たちは、ずっと後悔や恐れに苛まれて生きてきた事が、今回の箇所から分かる。彼らは、父ヤコブが死んだ時、ヨセフに、父の遺言だと言って、ヨセフに赦しを願い出たが、ヨセフはそれを聞いて、泣いた。ヨセフはもう、とうの昔に、主から慰めをいただいて、兄達から受けた仕打ちも、主が忘れさせて下さっており、十分祝福され、癒やされた。なのに、兄達はずっと、17歳だった時のヨセフにしてしまった事を、ずっと後悔し、悩まされ続け、恐れ続けて来たのだと、知ったから。
そういうわけで、私達も、ヨセフの性質を身につけるべきであり、また、かの兄たちのように、瞬間的な妬みや怒りをぶちまけるような性質や行動を、捨て去るべきなのだ。私達も、主の前に日々、誠実を養って生きるなら、心の傷や、経済の傷などは、全て主が癒やし、忘れさせ、むしろ主が引き上げて下さるのだから。
私達は今年から、不正や悪を行う者に腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養ったヨセフの模範にならう宣言し続けて来たが、昨年の今頃と比べて前進はあっただろうか?続けてきた聖徒達には、大いにあった。
ヨセフは兄達に、やさしく語りかけた。『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(創世記50:20)
ハシャブは「織り込む、染み込む」の意味、レトバー(トーブ)は「パーフェクト、ビューティフル、グッド」である。私達の主は、人のした悪をさえ、パーフェクト、ビューティフル、グッドに変えて下さるのだ!だから私達も、ヨセフのような性質を身につけ、主に用いられる「器」となる必要がある。主はいつの時代も、人という「器」を通して、時代に介入されて来たからだ。今、私達に悪を企んで立ち向かって来るものが多い時代だ。
コロナという悪意、人の心を荒ませる悪意など。それは、時代(アイオーン)に働く、空中の権威を持つ支配者・サタンが仕掛けて来るもので(エペソ2:1-7)、その悪意に侵食されてしまった”犠牲者”が、諸々の事件を起こしている。 パウロは言っている。私達が格闘するべき相手は、血肉を持った人ではなく、主権、力、この暗闇の世界(アイオーン)の支配者達、また天にいる諸々の悪霊に対するものだ、と(エペソ6:12)。
そのために霊的な武具を身に着け、絶えず目をさまし、忍耐しつつ御霊によって祈りなさい、と命じている。
私達は日々、真理の宣言によってそれをしているなら、守られ、祈りが聞かれ、開かれないように見える道も、次々と開かれて行くのである。主は、願っておられる。主が時代に介入できる「器たち」の現れを。
私達は今年、大きな事に用いられた主の「器」を、幾人か学んできた。ヨセフ、ヨシュア、クロス王、ロックフェラーなど。彼ら全員に共通していた事は、主から示された御言葉をそのまま実行した事、また、主から託された大きな権力や富を、我がものとはせず、ただ神の国の拡大のために用いた事である。今、この荒んだ時代を変革するために、主が用いられる器とは、彼らのように、御言葉に従順な人であり、神から富や権力が託されても、それを私有化し占有せず、神の国の実現のために用いる、心の整えられた人である。
私達はますます、主に用いられるべき器を目指そう。たとえ世界に、悪事をたくらむ人がさらに多くなったとしても、それら全部を、トーブに変えさせて下さる主に用いられ、来る年も、神の国の拡大のために大いに活躍して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
メシヤのしるしを見極め、時を算出した東方の博士たち(マタイ2:1-12)
第一礼拝 Youtube動画
English Service:
The Oriental Wise Men who discerned the signs of the Messiah and calculated the time (Mat2:1-12) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドベント第4週目となった。イエス様が赤ちゃんとなって来られた当時、救い主のご到来を心待ちにしていた人々は、残念ながら、とても「少数」だった。むしろ当時の人々は、救い主など、来てもらっては困る状態だった。実際当時、イスラエルを支配していたヘロデ王は、救い主を示す星が現れた事を聞いた時、恐れ惑い、エルサレム中の人も王と同様であった(マタイ2:3 )。
キリストがお生まれになった時、この赤ちゃんこそ万民の救い主である、と、シメオンやアンナを通して告げ広められたのに、その赤ちゃんも両親も、人々から厚遇される事は無かった。シメオンが言ったように「イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また反対を受けるしるし」なのだ(ルカ2:34)。
しかし、少数ながらでも、救い主が来て、エルサレムが贖われるのを待ち望んでいた人たちは、確かにいた(2:38)。しかも、イスラエルから東へ遠く離れた異邦の地にも存在した。それが、東方の博士たちである。
「博士」の原文は「マゴス」、ペルシャ系の占星術の祭司で、しかも高位の祭司であったと考えられている。
異教の占星術師…。それはイスラエルでは最も忌み嫌われるはずの人達であった。しかし彼らは、前回の栄光の系図に加えられたあの女達のように、まことの神と、救い主メシヤを、強烈に憧れていた。それで彼らは、救い主メシヤのお生まれ示す星が上がったのを見て、エルサレムへの遠い旅路をやって来たのだ。
それにしても彼らは、どうしてそれが「メシヤの星」だと断定できたのだろう。よほど確信が無ければ、忙しい中、危険を冒して、メシヤへ捧げる高価な捧げものを携え行ったりはしない。それがメシヤの星だと確信できたのは、彼らは御言葉を熱心に調べ、メシヤの来られる時期と前兆について綿密に調べていたからである。メシヤが来られる時、一つの星が出現するという預言は、旧約・民数記に1節だけ登場する。(24:17)
メシヤが来る時、しるしとなる程の星が出現する事を、彼らは、数多ある御言葉の中から見逃さなかった。
それにしても、ひときわ輝く星など、歴史の中でいくらでもあったはずなのに、どうして”この星”がメシヤの星だと特定できたのか。それは彼らは、メシヤの来られる時間(タイム)も、御言葉の中から手がかりを掴んでいて、そのご到来はもう間近だと算出していたからだ、と、推測できる。その算出の手がかりは、博士達の国・ペルシアにかつていた、ユダヤ人の偉大な預言者・ダニエルが書き残していた。
ダニエルが残した文献によると、彼は、メシヤ到来の時期とその役割について、天使ガブリエルから示されたという。ダニエル書9:20-27によると、メシヤに油が注がれる時は、エルサレム再建の命令が出てから七週プラス六十二週。しかしその後、メシヤは絶たれ、町と聖所は破壊されるが、最後には、荒らす憎むべき者に絶滅が降りかかる…。その「時」は、歴史上で正確に成就して行く…。ペルシャのアルタクセルクセス王の第20年(BC455年)、ネヘミヤが王にエルサレム再建の願いをして、聞き届けられた(ネヘミヤ2:1)。
その時点で、メシヤ到来のカウントダウンが動き出す。それから、7+62=69週目、すなわち483日目。この「日数」を「年数」に変換し足し算すると、メシヤに油が注がれる時は、AD28年。それはまさに、イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた時期、すなわち、メシヤに聖霊の油が注がれた時期である。
博士たちは、律法や預言者の残した巻物をつぶさに調べ、研究し、さらに御言葉から「時」を計算し、もう今、メシヤがお生まれになっていてもおかしくはない時期だ、と悟り、心を備え、天を見上げていたのだ。
博士達はヘロデ王に言った。私達はメシヤを「拝みに(プロスクネーオ)」参りました、と。プロスクネーオは「プロス(前に)」+「クオン(犬)」、犬が喜んで主人の手をしきりに舐める様子から、ひれ伏す、拝む、礼拝する、の意味となった。彼らは、喜んでひれ伏す心をもって、宝物を用意し、東方からはるばる来たのだ。
主は、そのような志をもって礼拝に来る、この異邦の博士たちに、無事にメシヤの元にたどり着けるよう、星に彼らを先導させ、宇宙を動かして、彼らを導いたのだ。それを見た彼らは、この上ない喜びで、喜んだ。
心を尽くして主を呼び求め、聖書を調べ、時をはかって準備し、たとえ遠くでも、また忙しくても、捧げものを携えてメシヤを探し求める者に対し、主は、宇宙を動かしてでも導き、メシヤと出会わせて下さるのだ。
イエス・キリストの系図に、本来入るはずもない異邦の女達が系図に入り、異邦の占星術師たちも、誠実と熱心によって、メシヤと出会う幸いを得た。今、この時代、マタイ24章の記述からすると、主の来られるタイムは、間近に近づいている事が分かる。私達も今、博士たちのように、心を尽くして主を求め、御言葉を調べ、主から宇宙規模の導きをいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
積極的に主を待ち望む信仰の家に来て下さる主(マタイ1:1-17)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Who is the happiest person in the world?(Luke1:26-45) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
主イエスキリストのご降誕を待ち望むアドベント第三週目となった。救い主キリストは、赤ちゃんとなってこの世に来られたが、それを記す福音書のはじめに、イエスキリストの系図が記されている。系図は「家」を明かすもので、この系図を調べると、イエス様はどういう家柄を通してこの世に来られたのか知る事が出来る。
そのイエス・キリストに至るまでの系図に刻まれた一人一人を見ると、神は実に、信仰を持つ人々を通して歴史に介入して来られた事を知る事ができる。私達はこの時代、いかに生きるべきか、系図から学びたい。
系図は、信仰の父祖・アブラハムから始まっている。彼が75歳になった時、神は彼に「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われ、アブラハムはそれに従った。神に呼び出された時、自分の生来の生き方を離れ、神のことばに導かれる生き方へと入る…。これこそ、私達の救い主、イエス・キリストの栄光の系図への参加方法であり、そして、私達個人の救いと、贖いの歴史の始まりなのだ。
このマタイの系図の特徴的な所は、本来なら入れるはずもない異邦の女達も、系図に加えられており、また、本来なら系図に「いる」はずなのに、名前が除外されてしまった人達もいる点である。本来なら系図に入るはずが無いのに加えられた女性に共通している性質は、神の民に入ろうという情熱と信仰がある事で、除外されてしまった人達に共通しているのも、やはり「信仰」の無さで、主の言葉を軽んじていた点である。
ユダの時代、アブラハム以来の信仰の継承が絶えそうになった時、その血筋を何としても絶やすまいとしたタマル(3節)は、遊女の格好までしてユダとの間に子をもうけた。しかし子を残す営みを侮った異邦の女の子供達は、絶えてしまった。 ラハブ(5節a)は本来、滅ぼされるべきカナンの女だったのに、神の民にあこがれていた。天から彼女の志を見ておられた神は、二人の斥候を彼女の家に遣わし、その内の一人が、後に夫になるサルモンだった。彼女はイスラエルの神こそ神であると告白し、命がけで彼らを守った故に、彼女とその家族は救われ、栄光の家系へと加えられた。 ルツ(5節b)も本来、イスラエルに入れるはずもないモアブの女だったが、彼女もイスラエルの神にあこがれを持って、神の民へと「割り込んで」来た。ルツ記最後の「ペレツの系図」の意味は、「割って入る者の歴史」「裂け目から侵入して来た一族」であった。
以上のように、何としても神の国に入りたいと願って割り込む事こそ、私達・信仰者の本質である。主は全人類一人一人の思いを読んでおられ、その心が主と全く一つになっている人に、救いを現して下さるのだ。
系図から除外されてしまった人達は、主の言葉に逆らって主を捨てた者達であるが、系図に載っている王達の中には、除外されてしまった者達より、はるかに性質の悪い王達の名もある。そのような王達が続いた後、バビロン捕囚となり、それ以降、王権は剥奪されてしまった。小悪党は、名前さえ連ねてもらえず、大悪党は、「呪いの代名詞」として記録されてしまったのだ。しかし、たとえどんな「大悪党」の子孫であったとしても、主に聞き従う世代以降は、イエス・キリストを生み出す家系に戻してもらえる所に、主の恵みがある。
『アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である』(17節) 「十四」はヘブライ語ゲマトリアではダビデの数字で、ダビデの名の意味は「愛された者」である。つまり主は、アブラハムからダビデの時代も、主に反逆し続けた王達の時代も、バビロン捕囚の暗黒の時代も、主の民をずっと愛し続けておられたのだ。
系図の中の何人かは、名前しかわからず、どんな人生を経験し、どんな時代のドラマを生きたのかも分からない。しかし彼らは、それぞれの時代、信仰によって結婚し、信仰によって子を産み、信仰の子育てをし、そうして子から孫へと信仰を継承して来た。どんな時代であっても、信仰を継承する事こそ最も偉大な事である。信仰の先人達のように、積極的に主に求め、信仰によって生きる家にこそ、主は訪れて下さるのだ。
主は今まで、主を待ち望む者たちや、主の御旨を行う者達を通して、歴史に介入し、歴史が動いてきた。
そして、主を待ち望む家系の末裔に、イエス様は来て下さった。今、私達は、信仰が無い人々の中、地震や疫病など、諸々の艱難の時代の中を生かされている。しかし、この時代の中でも、信仰の先人たちのように、信仰によって生きるなら、主は来て下さる。 彼らにならい、聖なるプライドを持ち続け、邪悪なこの世代に対して聖さと高貴さをもって勝利し、私達も、あの栄光の系図、『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図』に連なって、「〇〇は、信仰によって2021年を高貴にふるまった」と、天の書物に書き記され、栄光の冠を勝ち取っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!