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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

祝福の法則を体得しているユダヤ人の秘訣(ネヘミヤ8:5-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今週はコーエン日本ラーニングセンターの学びが行われる。それに先立ち、本日はヘブライ思考はいかに確立して行ったのか、またユダヤ人は主に対し、御言葉に対し、いかに本気で取り組むようになったのか、そして、ユダヤ民族はなぜニ千年の離散を経ても一つになる事が出来たのか。その秘訣をを学びたい。

『エズラは全ての民の前にその書を開いた。彼は全ての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。』(ネヘミヤ8:5-6) この節に秘訣が隠されている。
エズラ(עזרה :エホバが助ける)は、大祭司アロンの16代子孫の大祭司で、『モーセの律法に「精通した学者(「ソヘルマヘル סופר מהיר:巧みな書記(詩45:1)」』(エズラ7:6)であった。マヘル(書記官)は、聖書を全部丸暗記している。彼は頭に聖書を全部入れていたため、それを起こし、神学校をつくった。
バビロン捕囚から帰還した民は、神の言葉の書をエズラが開いた時、第一に「起立」した。起立という行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立は少々の体力を使う行動だが、御言葉を「聞く」においても「朗読する」においても、「反応する」においても、「身体を使う」のが、ユダヤ式である。
御言葉は主イエス様ご自身であり、その御方に敬意を表すなら、相応の祝福と恵みを頂く事が出来る。
身体を使う2つ目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「手を挙げ」「アーメンする」事である。アーメンאמן とは「それは真実です、真理です」「信じます」「そのようになりますように!」という同意の表明である。
キリスト教では口でアーメンを唱えるが、ユダヤでは起立し、両手を上げ「アーメン、アーメン」と同意する。
それによって口と耳が開き、心が開き、そして天が開いて、同席している人にも聖霊の働きが移って行く。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。具体的には、正座したままひれ伏し、手の指先から腰まで真っ直ぐの姿勢で、膝の間に顔をうずめる。完全なる主に対する服従の姿勢である。
こうして彼らは「主を誉めたたえ」「手を揚げてアーメン、アーメン」し、そして「地に平伏して主を誉めたたえた」。ユダヤ人はこのように、主ご自身であられる御言葉に対し、身体全体を用いて敬意を表す事によって、御言葉なる主が、脳に、身体に、そして魂に、霊に刻み込まれ、霊魂体の全てが活性化されるのだ。

彼らがエズラの御言葉を学んで分かったのは、自分達は御言葉教育を受けておらず、御言葉を知らない、御言葉を守り行わなかった、それでこうなったのだ、と。そこで彼らは、神の言語・ヘブライ語の御言葉を子々孫々へ伝授し、体質化しようとして始めたのが、ヘブライ語の御言葉暗唱(テフィリン)教育である。
人は何か事が起きた時、それに対する考えや解釈、とっさに出る反応や対処は、幼児体験や記憶、刻まれて来た言葉に基づく。もしその人の記憶が、否定的・消極的な「ことば」で満たされていたなら、事が起きた時、消極的・否定的な考えや反応しか出ない。しかしもし、その人の中が、超・積極的な、いのちに溢れた神の言葉で満たされていたら、どうだろう。ユダヤ人は、母の胎にいる時からその教育を受けて来たのだ。
私達異邦人は、元々御言葉がない環境に生まれ、何が神に喜ばれ、創造者の御胸にかなった生き方は何か、成功法則も失敗法則も何も知らずに育った。ほしいままに御言葉に反した生き方をしようとしては呪われ、傷つき、わけも分からず、ぶつかりながら生きて来たが、そんな私達でも、御言葉暗唱して、心と記憶と唇を「御言葉」で満たすなら、主に喜ばれる、いのちの溢れた生き方が体質化されて行くわけである。
私達は意思をもって自分なりに考え、判断し、評価する。しかし世界は御言葉によって創造され、万物は御言葉法則によって成り立っている。ヘレニズム思考(ギリシア思考)に毒された私達異邦人は、その御言葉さえ評価・判断・批判の対象にしてしまうが、ユダヤ人は、その万物の法則たる御言葉が思考の根幹にあり、御言葉を通して、物事を判断し、対処し、行動するのだから、異邦人は彼らにかなうはずがないのだ。
ユダヤ人は御言葉暗唱と、子供への徹底した伝授ゆえに、世界のどこに散らされても成功し、そして2千年もの離散を経ても信仰と民族は根強く存続した。それに対しキリスト教は、伝道は熱心にしても、子供への御言葉伝授をしてこなかった故に、全世界各地で信仰復興が起きては消え、起きては消えを繰り返した。 世界5大宗教は、キリスト教以外、暗唱している。ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、これらには、いのちは無いが、暗唱する故に存続している。しかし、キリスト教だけは暗唱しない故に、ただ栄枯盛衰を繰り返すだけだった。今、私達も、使徒時代に生きていたヘブライ思考に戻り、御言葉暗唱をすべき時だ。

聖書に「ごめんなさい」という言葉が無い理由(イザヤ59章)
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 病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれないような、何か天が塞がれてしまっているような、あるいは、ただ主から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合の解決の示唆として、イザヤ59章を開きたい。
イザヤ書は、57章から59章の中盤までの内容は、主の側からの、人の側にある罪の指摘と叱責が記されているが、59章の後半以降、62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。この59章に、呪いが祝福へと変わるターニングポイントの「鍵」があるのだ。

59章は、1-3節の主語は「あなたがた」であり、あなたがたの罪や不正が、神との隔ての壁を構築し、祈りを主に聞けなくさせている事が指摘されている。続く4-8節の主語は「彼ら」であり、その「彼ら」は悪魔の申し子のような性質で、その意図する所はただただ悪であり、好んで人々を虐げ、血を流すような者達である。
「彼ら」が好き放題に神の民を虐げるのだが、祈っても主が全く聞いて下さらない理由は既に1-3節にある。
そして、9-15節の主語は、「私たち」に変わり、9-11節では自分達の悲惨を嘆く呻きがある。自分の悲惨を嘆く「演歌」を幾ら並べ立てたり申し立てても、何も変わらない。肝心なのは次に続く節である。
12-15節に、「我々」の中に罪があって主に背いて来た事の告白がある。『我々のとがは、あなたの前に多く、罪は、我々を訴えて、あかしをなし、とがは、我々と共にあり、不義は、我々がこれを知る。』(12節)
イザヤ書の後半は、この「我々に罪がある事を認め、告白した事」で、大きなターニングポイントを迎える。
16節以降、主語は「主」に変わり、悲しみ嘆く主の民を救おうと、主ご自身が動き出し、主の民を苦しめる「彼ら」に報復し、戦われるために、主みずからが武装される様が記されている。

塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵が、自分自分の罪の告白と悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。なぜ、「ごめんなさい」という、良き日本人として生きていく上で欠かせない重要な言葉が聖書の中に無いのか。それは聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉だからである。ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。またネヘミヤやダニエルも、自分達が主の前で、何と何と何の罪を犯して来たか、かなり詳細かつ具体的に告白している。
ある悪霊に憑かれた息子を持つ父親は、今まで何もかも人任せにしていたが、イエス様から不信仰を指摘され、悔い改めた時、イエス様は「言うことも聞くこともさせない悪霊」を追い出した。(マルコ9:23-25)
だから、自分が主に何をしたのかを明確に告白する事、そして、そこから1ミリでも離れる決心と努力をし続ける事が聖書的な正しい謝罪であり、それをしないと、罪の追求と呪いがひたすら憑き纏ってしまうのだ。
もし私達が罪を言い表さず、罪の「楽しみ」を手放す事を惜しんでそこから離れないなら、いかに病や悪霊、貧乏に「出て行け」と言っても、全然効き目は無い。なにしろ、本人自身が、その取っ掛かりとする「ネタ」を握りしめ続けている訳だから。しかし、自分の罪を主に言い表す時、病や悪霊は、取っ掛かりを失う。
サルスベリという木がある。その木はツルツルして、サルに取っ掛かりとなるものが無いので登れない、という木であるが、自分の罪を主に言い表し、悔い改めるなら、「病スベリ」「悪霊スベリ」「貧乏スベリ」となるのだ。「主イエスの名によってサタンよ去れ」という祈りより遥かに効果的なのが、告白と悔い改めである。

『主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。』(20)
主が「贖い主」として現れてくださるのは、とがを離れる者、悔い改める者のところに、と書いてある。
結局、罪を告白した時、主みずから助けるために動いて下さり、その結果、イザヤ60章以降の祝福がある。
しかし、自分の罪を口で言い表さず、改めようとしない人にはいつまでも、罪から、サタンから、そして主から追求され責められる事がつきまとう。日々、罪から一ミリでも離れる努力をし、罪や病、貧乏、悪霊に掴まれる所なく、祝福と幸いの日々を歩み、ますます働き人として整えられていく皆様でありますように!

私達が目指すべき目標の地(申命記34:1-7)
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 一昨日の未明、私の祖母の林アイコが100歳と5ヶ月で天に召された。昨日、親類一同と天声の十数名の少数で、ささやかな葬儀を行ったが、それは、私が体験したどの葬儀よりも美しく荘厳で、清らかで、そして静かな喜びに満ちていた。祖母の顔は明らかに、真の故郷に迎え入れられ、満ち足りている表情だった。
私達が目指すべき故郷は一体どこにあるのか。今回、モーセが主にとり上げられる場面から見ていきたい。

モーセが生涯を終える直前、イスラエルがいよいよ約束の地カナンを目前にした時、彼は全イスラエルに向けて最後の説教をし、それぞれに相応しい祝福をした。それが終わると彼は、主があらかじめ「そこで死ぬ」と告げられていたピスガの山を登りはじめる。彼は120歳ではあるものの、目はかすまず、気力は衰えていなかった。皆に見つめられながら登っていく彼の足取りは、しっかりしていただろう。
山頂からは、イスラエルが継ぐべき土地が、北から南に至るまで、ヨルダン川から地中海に至るまでが全部見えるが、主は言われる。あなたはそこへは、入れない、と。そしてモーセは、そこで死んだ。(4-5節)
ここで疑問が起こる。皆はあそこに入れるのに、どうして一番の功労者のモーセだけ入れないのだろうか。
私達も、思う時があるかもしれない。あの人この人は、あの幸せの中に入っている、どうして私だけが入れないのか。そして、主から「あなたはそこに入って行くことはできない」と言われる時、本当に切なさを覚える。
モーセが最後、ピスガ山を登る時、どんな心境だったのだろうか。ああ、これで人生が終わってしまう、あれができないまま、これをしないままなのに、と思っただろうか?そうではないと思われる。その根拠は・・・。

モーセが死んだ後、イスラエルの民は確かにヨルダン川を渡り、乳と蜜の流れる地を受け継いだ。しかしその2世代後、そこは呪いの地となってしまった。なぜなら彼らは、主の御言葉を軽んじ、背いたからだ。
さて、約束の地とは一体、どこにあるのだろう?神の国は一体どこにあるのだろう?
思っていないだろうか。自分はあの領域に入ったら、あの人のようになったら、神の国が成就するのだ、と。
しかし主は言われる。 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:20-21)
だからもし、結婚したら幸せになれる、と思って結婚しても、その人の中に神の国が構築されていないなら、結婚生活は苦々しい生活となるのだ。たとえあこがれの会社に入っても、あるいはあの地位を得ても、そのに神の国が構築されていないなら、すなわち、その人が神の支配を嫌がり、自分勝手なままなら、そこは乳と蜜が流れる地ではなく、呪いの地となってしまう。ちょうどイスラエルの民が、そうだったように。
だからまず、神の国を構築する事、すなわち、神の統治をそのまま受け入れる事こそ、必要である。

ヘブル書に記されている。モーセはキリストの故に受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考え、見えない方を見ているようにして、忍び通した事が。信仰の先輩たちは皆、地上では寄留者であると言い表し、天にあるふるさとを求め、神はそんな彼らのために、都を用意しておられたのだ、と。(ヘブル11:13-27)
モーセの時代に、キリストは人として来ていなかったが、モーセははっきりと、信仰の目で仰ぎ見ていた。
この真の指導者がやがて来られる、彼に聞け、と彼はイスラエルの民に指示したのだ。そう、キリストこそ本題である。カナンの地ではない、地上のあの地でも、あるいは富でも地位でも状態でもない、ただ望むべきは、私達の只中におられるキリストによって支配される事。それこそ、まことの神の国である。

モーセは主に言われた。「おまえはもはや足りている(rab)。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26) ここの「足りている(rab)」は、十分に満ちている、という意味である。
主は言われた。あなたは地上で為すべき事を十分に満たした、もう地上のカナンの地を求める必要はない、むしろ、天の故郷に帰りなさい、「人の子よ、帰れ」(詩篇90:3)と。
そして最後、彼は主の「言葉(peh:口づけ)」(申命記34:5)によって、ピスガの山で死んだ。
主は、御口から出る息によって人を生かし、御口によって息をとられる。だから、生きるにしても、死ぬにしても、何の恐れもないのだ。私たちが目指べきは、モーセも、信仰の先祖達もいる、あの天の御国である。
私達は生きる限り、そこへ心を結びつけ、やがてあの信仰の先輩たちが待つ天に上げられる者でありたい。

信仰とは(ローマ1:17)
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 信仰義認(人は信仰によってのみ救われる)という言葉は有名である。この言葉はちょうど500年前、カトリックの腐敗は、「行為義認(善行によって神は人を義とする)」に由来する、とルターは考え、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる、と、パウロ書簡から説いた事によって生まれた。しかし、この言葉ゆえに、救われた事に満足し、安住して、世の人と何ら変わらない罪深い生活を送っているクリスチャンが多くなってしまった。そもそも信仰とは何か。また、救われた私達はいかに歩むべきか。それを今日学びたい。

「信仰」という言葉は、新約では多く登場するが、旧約にはほとんど登場しない。この「信仰」という概念は、新約聖書が記される前、サンスクリット語の「Behid(ビヒド)」が元になった。ビヒドはBeとHidから構成され、Beには「to unite(連合する)」、Hidは「to band (結合する)」の意味がある。
すなわち信仰とは、「連合し」「バンドする」事が元来の意味である。そうであるからには、信仰には連合する相手、結合する相手が必要となる。すなわちクリスチャンとは、イエス様と連合し結合する者達である。
信仰の歩みは、常に、連合し結合する相手、すなわち「主人との関係」を意識し保ちながらの歩みである。
例えば、悔い改めとは、必ず信仰の「主人」を意識し、相手にふさわしくなかった自分・悪かった自分に気付いたなら、悔いて悲しみ、主人に帰る事で成立する。信仰なしの悔い改めは、有り得ないのだ。

イエス様を売り渡したイスカリオテのユダには、悔いる心はあった。銀貨を投げ返したからだ。しかしイエス様に帰る事をせず、首をつって死んだ。それは、イエス様を「主人」として結びつけていなかったからだ。
彼の場合、3年半の間も、心は「世」にバンドされ、イエス様とバンドするには至らなかった。そしてイエス様の十字架が近づくと、彼はサタンにバンドされ、イエス様を売り渡した。後に悔いた時も、その絆を断ち切る事をせず、どこにも居場所がなくなった時、自殺してまでイエス様にバンドする事を拒否したのだ。
人が見ると、ユダはイエス様の弟子達と同じ行動をするので、誰にも違いは分からなかった。しかしユダは3年半もイエス様や弟子達と、寝食を共にしておりながら、心でイエス様と連合しない事を続けたのだ。
それで弟子達は、3年半一緒だった彼について「自分の行くべきところへ行った」と言った。(使徒1:25)
結局、人は自分の連合先、すなわち、自分の心が結び付けられた「自分の行くべきところ」へと行く。
ユダのケースで分かるように、何年もキリスト者の交わりに居ながら・御言葉を聞きながらにして、イエス様と連合せず、世に、サタンに心を結びつけながらキリスト者の交わりに一緒にいる者も事実存在する。
そのような人は、早々にキリストを主人として連合するべきだ。なぜなら「自分の行くべきところへ行く」日がいつになるのかは、誰にも分からないし、いざ、二者択一が迫られた時、人は、心が結びつけられていた方を選びとる事になるからだ。私達はいつでも、天国という杭に自分をバンドし続けて行くべきである。

パウロは言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは、「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
そういうわけで義人とは、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者である。
イエス様を信じた時、すなわち、イエス様に自ら結び付ける信仰を「所有」した時点は、スタート地点である。
宗教改革以来、信じた時点で救いが成就したかのような誤解が多くなってしまったが、それは単にスタート地点に立ったのみであり、この時点から、信仰を所有して歩む、長い歩みが始まる。それはエイス・ピスティン、信仰の目的地、すなわち、天国に至るまで、ずっと所有し握りしめ続けながら歩んで行くのである。
信じればすぐに聖化・栄化されるのではない。聖なる者になるための「もがき続け」が必要である。
エジプトを脱出すれば、すぐに約束の地に入ったのではない。荒野という過程を経なければならなかった。
自分は神の民だ、エジプトという奴隷の国から開放された、というだけで、聖化のもがきをしなかった多くの民は、荒野で死に絶えてしまった。「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2) しかしヨシュアとカレブは、ずっと約束の地に心を縛りつけていたため、彼らだけが約束の地に入り、そこを所有できた。私達もヨシュア達にならい、世とサタンという縛りから、自らほどき、天国という約束の地に心を縛りつけ、かの地に入るその時まで信仰の歩みをし続ける者でありたい。

人の思いを超えた神の最善なる介入(ローマ1:11-15)
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 ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる方法と、聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。今回、パウロがローマ書を記すきっかけとなった出来事と、背後で働く神のわざ、そして、私達は神が示される道にいかにに応じて行くべきかを見ていきたい。

『わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、「今まで妨げられてきた(εκωλυθενエコルセン)」。』(ローマ1:13)
パウロはずっとローマに行きたかったのに、妨げられていた。彼はなぜローマに行きたかったのか?
それは彼の宣教戦略が「都市宣教」だったからである。彼が宣教した都市(アテネ、コリント、エペソ、ピリピ等)は、その時代その地域の中心都市だった。そこが福音化されるなら、周辺に多大な影響を及ぼす。
ローマは当時の世界の中心であり、彼はそこを福音化し、彼自身の手で宣教センターを立てたかったのだが、どういうわけかパウロは、何度チャレンジしても、どうしても行く事が出来なかった。
「今なお妨げられている」のギリシア語「εκωλυθην(エコルセン)は、直接法アオリスト受動態が用いられており、幾度もチャレンジしたのに、鉄板のように妨げられ続け、今に至っている、という事を意味する。このように、自分がどうしてもある方向に行こうとしたのに、鉄板のように妨げられ続ける、という経験を私達もするが、神が敢えてそのようにしているからだ。ここで驚くかもしれない。パウロが世界の中心・ローマに福音を伝えに行くのは、御心でないのか?彼の戦略は理に適っているし、彼ほどの人がローマに行ったなら、どれほど多くの働きが出来るだろう?どう考えても「良い事」づくしなのに、どうして神はそれを阻むのか?
このような場合、今自分は神の意図に反した方向に動こうとしているのだと気づき、軌道修正すべきである。
このように、あからさまに神によって道を閉ざされる「神的受動態」により、神の御手の下で私達の人生は練られ、形造られて来たのであり、歴史が形造られて来たのだ。一つはっきりしている事は、もし神があの時、パウロをローマに簡単に行かせていたなら、ローマ人への手紙は存在せず、私達の聖書からは、ロマ書は抜けていた事だ。
そしてもう一つ、パウロが「行かなかった」事によって成った事がある。ローマ16章には、約50名ほどの人物の名前が記されており、そのメンバー一人一人に対してパウロは「よろしく」と挨拶を送っているが、このような素晴らしい働き人達が次々とローマ入りして教会を開拓し、彼らが教会を開拓する段階において、あるいは、教会を成長させる段階において、大きな労苦と共に犠牲を捧げ、素晴らしい信仰を、神と人との前に示し、そうして50人が、パウロ抜きでそれぞれが成長し、御業を為し、神に栄光を捧げていったのだ。

まずは16章1節、フィベという女性執事はパウロのみならず多くの人を援助し、そして彼女が多くの危険を冒してもパウロが書いたこの手紙をローマに、そして私達にも送り届けてくれた。その次に登場するのは、プリスキラとアクラ夫婦である。「彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである・・・。また、彼らの家の教会にも、よろしく。」(16:4-5) この夫婦の「家」の教会は、彼らの天幕づくりの工場であり、当時ローマ軍団に年間1000の天幕を献上する工場であったため、かなり大きかったという。
その彼らは、神の働きのためにその工場を神の国のために捧げ、さらにはパウロに「自分の首をさえ差し出した」とまで評されている。彼らは教職者ではなく「平信徒」であるが、へたな教職者よりも遥かに大きな働きをしたため、2000年ほどの歴史があるコリントの教会には、今なおパピアス、アクラ、プリスキラ、フィベのイコンがあり、現代も、彼らの働きを覚えて掲げられているという。
この富んだ夫婦が、神によってパウロと「出会わせられた(神的受動態)」事により、彼らが神の働きに参加するようになり、パウロも多くの宣教の助けを得て、そうして世界に福音が広められている。

人の目には、今自分がしている働きも出会いも「たまたまそうなった」と映るかもしれない。ルツとボアズは「たまたま」会ったが、その出会いがダビデを生み、後のイスラエルと世界の歴史を動かした。クレネ人シモンも、たまたまイエス様の十字架の場面に会ったが、その出会いが後にローマ教会牧会者を生み、そしてコンスタンティヌス大帝を生み、ローマ帝国がキリスト教国家に変わる基礎をつくった。人の人生と人の歴史の一つ一つに神は「神的受動態」によって介在し、人はそれで御旨を実行し歴史を紡いで行くのである。

父の日礼拝:逆説から見る父子の健全な関係(2サムエル13-18章)
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 ダビデ王は自分に反逆した彼の子アブシャロムが死んだ時、激しく悲しみ、自分が死ねばよかったのに、とまで言った。父は、不器用ながらも子を愛するものである。本日・父の日は、ダビデ王とアブシャロムの、ちぐはくな父子関係と、その悲しい結果から、親子関係の避けるべき事と健全な道を「逆説的に」学びたい。

発端となった事件は、アブシャロムの妹タマルが長兄アムノンによって暴行された事だった。彼女はその後、兄アブシャロムの家で寂しく住んだが、アムノンは責任を取らされたり懲らされたりされないままだった。
彼は王の長男という事で、何かしてしまっても大目に見られて来たようである。それが積み重なると、何をしても許されると思うようになり、妹に対する汚れた情欲さえ、制する事をしなくなってしまう。
ダビデも過去に「性的な罪」を犯した経験があるため、うまく戒められなかったかもしれないが、それならなおさら、経験者として強く戒めるべきだった。こうして問題が扱われないまま、2年の月日が過ぎていく。
アブシャロムは静かに復讐心を蓄え、ある日、事件を起こす。彼は周到な企てをもってアムノンを殺し、祖父の所へ逃げて行った。ダビデはそんなアブシャロムを、気にかけてはいたものの、放置してしまった。
父は確かに不器用な所もあるものだが、その放置した年月がさらに父の首根っこを掴んで行き、子供に対してさらに何も出来なくなり、そうしてさらに、その子と家庭全体を破滅的な方向へと導いて行く。
「放置」は積み重なると、良からぬものが沸々と育ち、やがて取り返しが付かない事になってしまう。『むちと戒めとは知恵を与える、わがまま(シャラーハ:放任する)にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴29:15)
将軍ヨアブは、この「放置状態」は良くないと感じ、一計を案じてダビデとアブシャロムを引き合わせようとしたが、どういうわけか、ダビデもヨアブもさらにアブシャロムを放置してしまう。親が子に明らかに戒めたり諭すべき時に、放置し続けるなら、子はどう出るか。子は親に、火をつける行為に出るのだ。(2サム14:30)
アブシャロムは言う。「今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください。 」(14:32) ここに息子・アブシャロムの本音と叫びがある。「放置」されるよりは罰されるほうがまだ楽なのだ。そうして、ようやく、父子の何年ぶりかの再会が実現するのだが、アブシャロムは父から、親らしい会話を何も引き出せなかった。妹がアムノンに陵辱されて感じて来た悔しさ、自分がしてしまった事の後ろめたさ、放置され続けた事の寂しさ、理解されない事の苦しさ・・・。
それを父に打ち明ける機会が無いまま再会は終わり、再び断絶されてしまった。アブシャロムはこれ以降、父ダビデに会う努力を一切しなくなり、その代わり、父ダビデに反逆しクーデターを起こす計画を入念に立て始める。子は、親への親密な交わりが絶望的だと分かると、ひたすら憎むべき相手として親を見るのだ。

ダビデは息子アブシャロムを愛していなかったのか?子を愛さない父はいない。ただ不器用だった故に息子を放置し、放置してしまった故に罪を犯させ、ついには、裁きが子に追いつき、失ってしまう事となる。
アブシャロムが父に反旗を翻した時、ダビデは何の抵抗もせず、逃げた。ダビデは圧倒的に不利でありながらも、息子アブシャロムには自分に免じて手心を加えてほしい、と、部下に願う。(2サムエル記18:5)
しかし戦いは、アブシャロムの呪われたような死、という形で決着がつく。ダビデは息子アブシャロムが無事かを案じ、無事であるという「吉報」が来るのは今か今か、と切望していた。あたかも放蕩息子の父が、息子が出て行った道を見ながら、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)
しかし、ダビデの「放蕩息子」は、二度と帰らなかった。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(2サム18:33)
この悲痛な叫びは、悔い改めないまま「裁き」に追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神の嘆きでもある。アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、放置され続けた故、名前とは全くそぐわない子となってしまい、ついに、父に反逆する罪への裁きが、追いついてしまった。
親子関係で最もしてはならないのが、「放置」である。親も子も一家総出で次の御言葉を守り行うべきだ。
『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(コロサイ3:18-21)
家族が固い愛の絆で結ばれ、主にある喜びと笑いがいつも絶えない皆さんの家庭でありますように!

「男性と女性」という点から見る聖書(創世記1:1-5)
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 ヘブライ言語はヨーロッパ言語のように、名詞や動詞に「性」の概念がある。創世記1:1-2の名詞や動詞を「性」という面から見ると、神と被造物との間が、男女の人格的なやりとりであるかのように見えてくる。
『はじめ(女)に神(男)は天(男)と地(女)とを創造(男)された。地(女)は形なく(男)、虚しく(男)なってしまい、闇(男)が淵(女)の面(男)にあり、神(男)の霊が水の面(男)を覆って(男)いた。』(創世記1:1-2)
このように「性」という面にスポットライトを当てると、この箇所は、ある男女が織りなすストーリーに見えてくる。
すなわち、ある男性が、ある女性を見初め、一つの家庭を構築しようとした。けれども女性は、別の男に破壊され、虚しくされ、闇の淵に落とされてしまった。それでもかの男性は、女性を覆っていた…というような。

聖書はまさに、そういう内容だ。人は本来、神と共に歩み、神の愛の交わりの中で、幸せに永遠に生きていくはずだったが、人はサタンにそそのかされ、神を裏切って虚しくなり、死の淵に落ち込んで、「呪い」と「滅び」という借金地獄に陥ってしまった。聖書の一つ一つの出来事の裏に、多くのうめきと悲しみがある。
裏切られてしまった「神(男性)」の側のうめき悲しみと、裏切ってしまった「人(女性)」の側のうめきが。
全被造物(女性)は、うめいている。全能の神(男性)によって、贖われる事を求めて。(ロマ8:19-23)
それで神は全ての人に「贖い(買い戻し)」の衣を広げ、今なお一人一人を贖い出そうとし続けておられる。
買い戻されて覆われる事こそ、全被造物の切実な願いである。ちょうどルツが、自分を買い戻す責任のある男性、ボアズに願い出たように。『わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ガアル:家を絶やさない責任のある者)」です。』(ルツ3:9)

主はホセア書を通しても、裏切った女(イスラエル)に対するうめきを表現し、同時に「贖い」を宣言しておられる。主は預言者ホセアに、「姦淫の女をめとれ」と命じ、ホセアはその通りに実行するのだが、その女は、姦淫するために出て行ってしまった。夫に愛され、夫の子を産んでいるというのに。そこで主は言われる。
『「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこで私は銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。私は彼女に言った、「あなたは長く私の所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。私もまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
律法に照らすなら死刑のはずの、姦淫で裏切った女に、やさしく声をかけ、買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。これはまさに、イエス様と私達の関係と全く同じだ。
ホセアとイエス様の名前は共に「救い」という意味であり、ホセアは全人類を買い戻すイエス様の雛形だ。
私達の主イエス様は、罪に裏切ってしまった私達人間にやさしく声をかけ、本来私達が受けるべき罪の刑罰を、十字架の上で、身代わりに受け、「神の子の命」という大きな代価をもって買い戻して下さった。
虚しくなってしまった全被造物を買い戻される、唯一のキーパーソンは、まことの光なるイエス様である。

創世記1:2において、虚しくなってしまった地(女)を、神は覆っておられたが、ある時、神は宣言される。
『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を「見て」、「良し(トブ)」とされた。神はその光とやみとを分けられた。』(創世記1:3) 神はそれまで闇だった世界に光を宣言し、光を見て「よし」とされた。
神は創造のわざを進めて行かれる度に、それを見て「よし」と言われる。主の目に「よしとされる」事こそ、私達の目標だ。神が「ことば」によって創造された全ての御業は、全て「よし」である。いかに滅びの運命を背負ってしまっている人間でも、神と共に歩み、御言葉の通りに行って行くなら「よし」になって行くのだ。
神のご性質は光であって、闇ではない。神の御業は秩序であって、混沌ではない。神は人間と全被造物の秩序を回復させ、人が健全に住めるよう、丁寧に再構築して行く、というのが、全聖書の内容である。
そして聖書の最後・黙示録は、まことの花婿であるキリストと、その花嫁・教会との結婚で締めくくられ、神と人とが永遠に共に生きる事で終わっている。永遠のいのちは存在するし、永遠のさばきも存在する。
私達は、永遠のいのちに入るために、そして今生きているこの人生を、秩序と神の「よし」で満たすために、私達を命がけで愛して下さったイエス・キリストを愛し、彼の御言葉どおりに生きて行くべきだ。それこそ真に理に適った、永遠に至る充実した人生なのだから。その人生を歩んでいく皆さんでありますように!

召し出された人達を建て上げ成長させていく聖霊(使徒2:37-47)
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 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、教会すなわち召し出された人達に、聖霊が降り、力を得た日である。
この日以前の弟子達は、大した働きが出来なかったが、この日以降、強力な力に満たされ、福音が全世界へ爆発的に広がって行った。聖霊を受ける事は、私達主の弟子達にとって決して欠かせない条件である。
教会は聖霊の働きによって始められ、そして聖霊は今日も働いておられる。今回、私達・教会が何によって建て上げられ、いかに聖霊に満たされ、福音を爆発的に広められるのかを、初代教会から学びたい。

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
ここに、初代教会が健全であった根拠が記されている。健全に建て上げられていくための第一条件は、まず、使徒たちの教えを堅く守る事である。使徒たちの教えとは、よく考え出された人間由来の考えや教えではなく「御言葉」であり、使徒達は御言葉を主から取り次いでいたのだ。教会とは、神の御言葉が宣言されるべき所であり、御言葉と聖霊によって生まれ変わった、聖なる共同体である。
聖徒は、働き人によって宣言される御言葉によって建て上げられていくものだ。人が普段の食べ物によって成長して行くように、キリスト者も、普段摂り入れる御言葉によって養われ、変えられ、成長していく。
御言葉を蓄え、固く立っているなら、どんな困難が来ても決して壊れず揺れ動かない。真理の御言葉は、ダイヤモンドよりも硬く、宇宙よりも永遠だからだ。また、御言葉は種のようなもので、生きており、それを人という土壌に植えるなら、必ずいのちが生え、正しく育てるなら、豊かに実を結ぶものである。(マルコ4:14)
聖霊の働きの中で最も重要な働きは、人を御言葉によって新しく造り替え、成熟させて行く事だ。そして御言葉と共に働く聖霊の力は、あらゆる暗闇の力を打ち破る唯一の攻撃の武器であるとエペソ6:17に記されている。御言葉と共に働く聖霊の力が強くなればなるほどに、いのちはどんどん増えて行くのだ。
「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」(使徒6:7) この「非常にふえて行った(πληθύνω)」とは、魚の腹にぎっしり詰まった卵のように増殖する意味で、そのように聖徒の数は数多く増えて行くのだ。
正しく御言葉が入り、その信仰が成長するなら、いのちが莫大に増えていくのだ。

次に「共に交わり、パンを裂き」とある。教会とは、キリストを救い主として生まれ変わった、新しい命達である。赤ちゃんは産まれた時、自動的に家族の構成員となって、父母や祖父母、兄弟姉妹がこぞって彼の面倒を見るように、キリスト者も、イエス様を信じた瞬間、キリストにある御国の家族の構成員の一人となる。
御国の家族となったキリスト者は、共に御言葉のパンと、同じいのちを味わって行くものである。私達はそれを味わってこそ健全な歩みができるのだ。その為には、教会の集まりに「集まっている」事が必要である。
そのきよい交わりの中にいるなら、自然に健全な御言葉に親しみを覚えるようになり、成長して行くのだ。

次に、「祈りをしていた」と書いてある。初代教会の聖徒たちは、祈りの力を体験していた。祈りは神との会話であり、私達が神の御言葉によって祈るなら、神はそれに答えて下さる。『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。・・・彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』(使徒4:29)
彼らは祈り求めると、聖霊に満たされ、大胆に御言葉を伝え出した。初代教会の聖徒たちは、自分自身の必要を満たして下さいとか、人生が有意義になるために力をください、と祈ったのではない、神の御言葉を伝え、福音を伝えるために、力をください、と祈ったのだ。祈りは働きの難題に打ち勝つ神の武器である。
私達は御旨の成る事を祈り、そして御言葉の交わりをするなら、主から力を頂き、それは武器となっていく。

そうして初代教会は、神が与えて下さった伝道の使命を忠実に果たして行く。世の中では、人を集めるために労力やお金を払うものだが、御国は、こちらが労したり媚びたりして人を集めるのではない。こちらが真理によって養われ、魅力ある者になるなら、人々のほうから自然と集まってくる。そうするなら、厳格に律法を重んじていた祭司さえ、キリスト者になったのだ。
どうか皆さんという教会が、御言葉と祈りによって聖とされ、成熟したものとなって成長して行きますように!
 

主エホバの栄光を全地に満たすために(エゼキエル40:1-5)
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 この日本という国は、世界的には富んだ国、力ある国として認知されているかもしれないが、福音という面では、全く貧しい弱小国である。1549年、フランシスコ・ザビエルによって初めてこの地に福音が入り、当時は多くの人々が福音を受け入れたが、時の指導者達は、主キリストにある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの血を流し、その後も、多くの罪を国の内外に対して犯し続けて来た。
そして未だに、この国が大規模に福音を受け入れたという歴史は無い。ちょうど、エゼキエル書37章のように、はるか昔に殺された人達の枯れ果てた骨々が、谷を埋め尽くしていたような状況である。果たして、はるか昔に殺されて干からびてしまった骨々は、生き返る事が出来るだろうか?主こそ、ご存知である!
主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言った。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(37:4)
彼が干からびた骨に対し、主から命じられたとおりの御言葉を宣言すると、大きな変化が起きたように、私達も、御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。たとえ相手が、干からびた骨のような人でも。
散り散りになってしまっていた骨と骨が組み合わされ、筋が通り、肉が生じ、主の息吹にいぶかれて、大軍団となったように(37:10)、主はそれと同じ事をなさるお方であり、私達はそるなるよう宣言する事が出来る。
神は、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められた。だから、それをするのは、私達である。
どのようにしてそれを行うべきか。続くエゼキエル書に、そのヒントがある。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
その時代はすなわち、ソロモンが建てたあの豪華絢爛な神殿が、バビロンによって破壊され尽くした後である。神殿が破壊されてしまったのは、イスラエルが代々犯して来た罪の故であり、そしてその罪のはびこりの原因は、御言葉の伝授が、すなわち、子供たちへのテフィリン教育が為されていなかったためだった。
しかし、バビロンによって神殿が破壊されてしまって14年の後、エゼキエルは主にとらえられ、非常に高い山の上に、人の手によらない神殿と都が建っている幻を見せられた。
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い古した測りに、一手幅、加えられたものだ。
つまり、まことの神殿であるキリストを測る際は、人が使い古して来た基準や常識という測りで測ってはならない。まことの神殿をは、十字架のキリストの手が加えられた神の御言葉によってこそ、測るべきなのだ。

エゼキエルは、この手幅が加えられたはかりを用いて、神殿を測って行くと、さらに次々と示しや預言が与えられて行く。そしてその後、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出ていた。
その水によってできた川は、測れば測るほど大きくなり、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行く。
この水が流れこむなら、死海でさえいのちが群がる所となり、そこの魚をとるために、漁師達が住んで、網を引く場所となる、と書いてある(47章)。
そしてその水はさらに流れて行って、やがては、水が海を覆うように全地に満ちる事になるだろう。
「海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。」(ハバクク2:14)

エホバの栄光を知る「知識」によって、全地は満たされる。地の果てに至るまで。それをするのは、人の教えに教えられた者ではない。十字架のキリストの手が加えられた御言葉によって養われた人こそ、神殿を正しく測ることができる。彼らこそ、正しい「はかり」を得た人であり、彼らによって、それが可能なのだ。
イエス様は言った。全世界に出ていきなさい、と。イエス様は既に、天においても地においても、いっさいの権威が既に与えられた。もし流し出さないで留まっているなら、水は良くならず、塩のまま残ってしまう、とも書いてある(エゼキエル47:11)。だから、イエス様の権威を身に帯びて、全世界に出ていき福音を伝えるべきだ。多くのいのちを、死から救い出すために。
どんどん、まことの神殿であるキリストを計って、どんどん流し出し、海が水で覆うように、主エホバの栄光を地の隅々にまで至らせる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

母の日礼拝 - 「あなたの父母を敬え」(エペソ6:1-4)
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 本日は母の日である。母は子供を身ごもると、10月と10日、その子と命を共有し、そして命を世へと送り出す。産んだ後もその子を徹底的に愛し、守り慈しむ。そのように日毎働いている母に感謝する日である。
母からの影響は絶大である。ユダヤの法では、母がユダヤ人であるなら、父が異邦人であっても、子はユダヤ人とみなされる。箴言に書いてある。
『わが子よ。あなたの父の「訓戒(מוּסָר ムーサー)」に聞き従え。あなたの母の「教え(תּוֹרָה トーラー)」を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。』(箴言1:8-9)
ここに父と母の、子に対しての役割が示されている。父が子与える訓戒「ムーサー」は、英語ではインストラクション、規律正しくなるよう教え、補正し、叱責したり、懲罰する事も意味する。それに対し、母が子に与える「トーラー」は英語でLaw、すなわち法規であり、律法であり、特にモーセ五書を言う。
ユダヤでは父からも母からも御言葉を暗記するテフィリン教育が為されるが、特に母からの影響は大きい。
以前学んだように、ユダヤ人のトーラー教育は、子が母の胎に宿った時から、既に始まっている。胎教という概念が最近もてはやされ、一定の効果がある事は分かっているが、ユダヤでは昔から既に存在している。
母は胎に宿った子に、午前・午後・夜の合計3時間以上、トーラーを胎の子に聞かせる。こうして胎児は、トーラーを宣言する穏やかな母胎で育まれ、生まれる前から、御言葉に対する耳が開かれているのだ。

聖書には、親子関係についての教えが色々な箇所にあるが、どこも一貫して、子は、父母を敬い従うようにと教えている。それを守るなら、祝福がある。この、聖書が教える親子関係の在り方をおさらいしたい。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。』(エペソ6:1)
ここで大事な事は「主にあって」両親に従う事だ(マタイ10:37)。権威には順序がある。親子関係で忘れてはならない事は、権威の第一は私達の主である事だ。もし両親が、主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心を持ちつつ、御言葉から諭すのだ。もし父母が、神を敬う、御言葉で教育する幸いな親なら、服従すべきである。そうするなら約束通り幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
律法においては、両親に逆らう事への罰は大きい。父母をのろう者は、死ななければならない、とまで言われている。(レビ記20:9、申命記21:18-21) なぜならイスラエルでは、父母は御言葉を子々孫々に伝える立場にあるため、子にとって、父母は神の預言者であり、神の権威を代理で行使する立場だからである。

『あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。この、最も身近な権威である父母に従うなら、目に見えない神との正しい関係も、容易に構築しやすい。しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が難しいなら、ましてや、この世の社会や、国家、そして目に見えない神に服す事は、どんなに難しいだろう。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」という祝福の約束が伴ったものである。
『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。』(申命記5:16)
『イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。』(同6:3) このように、父母に従い、御言葉に従う者には、素晴らしい土地で幸せに栄え、長寿を全う出来るという祝福が約束されている。
それに引き換え、父母のおしえに反した者達はどうだったか。サムソンは父母の忠告に聞かず、美しい異邦の女に夢中になり、異邦の神殿で異邦の民と共に下敷きになって死んだ。アブシャロムははどうだったか。彼は長年の周到な計画をもって父ダビデ王に反逆し、父の寝床に上って気勢を上げたが、その栄えはわずかだった。彼は父の部隊と戦っている時、髪が木に引っかかり、乗っている騾馬に置いて行かれて宙吊りになっている所を、寄ってたかって槍で刺し貫かれ、神と人との前に呪われた者とされてしまった。
今日は母の日、親を敬う事を行いで示す、祝福のチャンスの日である。父母を敬い、この地で素晴らしい土地を得、幸せに栄え、長寿を全うする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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