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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

ジェホバ・ニシ:主はわが旗 (詩篇23:4)
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週報/メッセージ(説教)概要

 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇には代表的な主の8つの御名のご性質が練り込められている。今回は詩篇23:4に込められた御名「ジェホバ・ニシ」について見たい。なお、主の御名「ジェホバ」を「アドナイ」「ヤーウェ」と訳す事もあるが、いずれも同じ意味である。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4)
この言葉は、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。ジェホバ・ニシという主の御名が登場するのは、出エジプト記17:15である。そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時である。
アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。
わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄でできたものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。モーセは、祈りの重要性をよく認識していたのだ。
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11) 背後で祝福の手を上げて祈るその手が、戦いを左右した。祝福の手を挙げる事は、どれほど重要だろう。
アロンとフルはその重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えたので、彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
ヨシュアは丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来ただろう。後にヨシュアが指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、ずっと槍をその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュ8:26)。また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めてしまった。(10:12)
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。

『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。
ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8) 『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)
主こそ、羊飼いである。私達が死の陰の谷を歩く事があっても、主のむちとつえが導くなら、恐れる事は無い。あの方は私達を宴の席へと伴われ、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛だから。(雅歌2:4)
モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。このように、それぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く皆さんでありますように!

羊飼いキリストに養われ、羊飼いになって行く私達(ヨハネ21:15-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

 イエス様の弟子達は、イエス様の復活後も、何度も不信仰な言動を繰り返した。復活の主と出会った女達の言葉を信じなかったし、トマスも、自分は絶対に信じない、イエス様が刺し貫かれた釘のところに指を入れてみなければ、とまで言った。そんな頑なな彼らに、イエス様は直接現れ、「平安あれ(シャローム)」と言って聖霊の息をふきかけて下さった。トマスにも「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それでもなお、今まで通りして来た自分へと後退してしまうペテロやトマス達だった。主のしもべは、御旨でない事を続けるなら、ただ「虚しい奇跡」しか起きない。イエス様から召し出された働きとは逆方向に行き続けるなら、何も獲れず、ただ虚しく、飢え渇き、疲れ果てるだけだ、という事を徹底的に思い知る他ない。
しかし御言葉に素直に従う時、豊かな、実りある奇跡が起きる。彼らが主の言葉通り行うと大漁を得た。
イエス様は、彼らが少しでも従順を示した「ごほうび」として、炭火焼きのパンと魚を用意し、待っておられた。
『彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。』 イエス様は、バックスライドしようとしたペテロに、「わたしを愛する(アガパオー)か?」と聞かれたが、ペテロは、アガパオー(完全に愛し尽くす愛)では答えられなかった。
私達には完全な愛は、元々、無かったのだ。そこでペテロは答える。『主よ、そうです。わたしがあなたを「愛する:フィレオー(好きである、慕っている)」ことは、あなたがご存じです。』ペテロは、自分には完全に愛し尽くす愛は無い、相応しい者ではない、それでもあなたを慕っています、好きです、と答えたのだ。
イエス様は言われる。『わたしの小羊を養いなさい。』 イエス様の羊を養う上で、強靭な意志や失敗しなかった事の積み重ねよりも、遥かに重要なp事がある。それは、イエス様を慕う心、イエス様が好きだ、という心であり、その心を持ち続けて行くなら、知らず知らずのうちに、そうしたものが身について行くのだ。
『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(フィレオー)か』 ペテロはイエス様が3度目、アガパオーではなくフィレオーで聞いて来られた事で、心が刺された。イエス様に従い切れなかった自分。そんな自分に、イエス様の側から降りてきて下さった。大人が子供の目線に降りて来るように。

イエス様の羊を養う事を「牧会」という。ダビデは牧会の極意を詩篇23篇3節に凝縮した。『主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。』牧会とは、たましいを生き返らせる事だ。
世において挫折し、涙し、問題の渦中にあり、重い荷を負っている人々を、イエス様のように、同じ目線に降って来て、忍耐深く何度も面倒を見(care)、癒やす(cure)働きだ。牧会はラテン語で、CURAと言う。
CURAは、CURE + CARE、C=C+C である。これが牧会の極意であると、カン・シンゴン博士は言っていた。
牧会とは、まず魂を生き返らせる事。しかし、癒やしたらそこで終わりではない。最後まで面倒を見るのだ。イエス様は弟子達に徹底して「牧会」を示された。頑として信じる事のできないトマス、何度も後退してしまうペテロ、彼らに傷んだ葦を折る事なく、くすぶる灯芯を消す事のない柔和さをもって、何度も、何度も現れ、そしてイエス様を慕う心が起こされた時、「わたしの羊を養いなさい」と、牧会者の召命を与えられた。
いつまでも「羊」であってはならない。イエス様に癒され、養われたなら、今度は自分が同じ事をする番だ。
『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』
イエス様の羊が、どんなに小さくても、たとえ1匹であっても、羊を養う人は、自分の帯は脱ぎ捨て、聖霊の帯に縛られ、聖霊が促される所へと導かれて行くものである。パウロは聖霊に縛られて進んで行った。
ペテロも最後、ローマで迫害されている聖徒達を励ますために自らローマへ進み出て、捕らえられて怯えている聖徒達を励ましながら、逆十字架刑で殉教した。ペテロは最初から大使徒だったのではない。どうしてそこまでの大使徒になれたのか。それは、彼がイエス様を慕っていたから。ただそれだけだ。
彼は失敗する度に、イエス様に探しだされ、肩に背負われ、戻され、ケアされ、癒されて来た。私達もイエス様に従って行き、養われ続けるなら、やがて彼の羊を飼う者となり、その毎日を繰り返して行く内に、使徒ペテロのようになって行く。イエス様こそ、まことの羊飼い。ジェホバ・ロフェ、彼は癒やし主。「あなたは、わたしに従ってきなさい」。主のこの言葉に従って、イエス様の道に歩んでいく皆さんでありますように!

愛の帯で捕らえて下さるイエス様(ヨハネ21:1-14)
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 私達の主イエス様は、死に勝利し復活された。弟子達は、主が3日目によみがえる事を信じる事ができなかったし、忘れていてしまった。復活した後も、復活の主と出会った女達の言葉を信じなかった。そんな彼らにイエス様は直接現れ、「平安あれ(ヘ:シャローム)」と言って、聖霊の息をふきかけて下さった。
その上でもなお、後退してしまう弟子達の様子が本日の箇所に記されている。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。』
ペテロは漁に「行く」と言ったが、その原語は「フパゴー」、戻る、離脱する、retire、depart,等の意味もある。
彼はせっかくイエス様から聖霊を受け、働き人としての任命を受けたのに、そこから離れ、以前の仕事である「漁」に戻る、と、他の弟子達に告げ、そして他の弟子達も彼に追随したのだ。しかし、何も獲れない。
ペテロは漁師としての経験から「夜」に行ったのに、一匹も獲れなかった。プロが自分の経験と技量を駆使して、何も出来ないのもまた、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願う方向性で起きるとは限らない。自分が願った事の真逆方向に続く奇跡もある。
このような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは逆方向を願って進んで行く場合に、よく起きてしまうものだ。
それでもギブアップせず、なおも主の御旨でない方向に突き進んで行くなら、もっと何も獲れず、空腹で疲れて果てて行く泥沼にはまり込んでしまう。イエス様は、そんな泥沼の中で奮闘している者に、優しく現れて下さった。夜が明けた頃、イエス様は岸辺に立たれた。しかし弟子達はそれがイエス様だとわからない。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(5節)
原文では、ここのイエス様の問いかけは「**が無いのだろう?」と、「無い」事前提の問いをしている。
弟子達は「無い」と答えるしか無かった。それはそうだ。なにしろ、魚も湖も全主権をもって支配しておられるのはイエス様であり、彼の御旨でない「網投げ」に対しては100%何も獲れないという奇跡で答えられる。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(6節)
彼らは、お言葉どおり従ったら、逆転の奇跡が起きた。それもそうなのだ。主のしもべという者は、御旨でない事を続けるならただ「虚しい奇跡」しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きるのだ。
ヨハネは、そのイエス様のご性質を思い出し、『ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ(直訳:自らを海に投げた)。』(7節)
ペテロは、裸だった。せっかくイエス様が、人間をとる漁師という「使命の衣」を着させ、「聖霊の帯」で結びつけて下さったのに(20章)、それを脱ぎ捨て、「魚をとる漁師」という以前の自分に戻り、他の弟子達をも世の仕事に導き、世の苦労をさせ、裸で自分の意見に従わせ、ただ疲れ果てるだけで、何も取れない。
もし私達も、イエス様から与えられた聖霊の帯を自ら解いて裸で立ち振る舞っていたと気づいたなら、ペテロのように再び纏って、古い自分を水の中へと投げ込んで、イエス様のほうへと泳いで行くのみである。

『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」』(9-10) これがイエス様の麗しい性質である。
彼は、くすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、強制力によって人を支配するのでなく、愛、憐れみ、赦しによって、優雅に、美しく、柔和に、頑なな人の心を溶かし、群れの模範として行動して下さる。
このご性質が、ペテロを変えて行く。ペテロは生涯の最後、迫害されている聖徒達を励ますために、ローマの牢獄へと進み出て、捕らえられている聖徒達を励ましつつ、逆十字架刑で殉教したと言われている。
その殉教の直前に書かれたのが、ペテロの手紙である。彼は書いている。
『あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』(1ペテロ5:2-4) 以前は全く御言葉を信ぜず、従えず、幾度も失敗したペテロが、徹底的なキリストの愛によって造り変えられ、群れの模範となり、大使徒となった。
ペテロのようにイエス様の愛のご性質に浸し込まれ、ますます造り変えられて行く皆さんでありますように!

死を打ち破り、永遠に生きる、われらの主(マタイ28:1-15)
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 本日は復活祭、イエス様がよみがえられた事を喜び記念する日である。私達には死というものがあり、それに縛られているが、それは私達の主イエス様によって打ち破られる。イエス様が再び来られる時、最後の敵である死も滅ぼされる(1コリ15:26)。本日は死に勝利しよみがえられたイエス様の喜びを分かちたい。

「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。」
彼女達が墓に行った理由は、イエス様のよみがえりを真っ先に見たいからではなく、イエス様の遺体に防腐措置を施すためだった。祭司長達はイエス様が「よみがえる」と言っていた事を思い出し、番兵を遣わしたが、それは、生き返ったイエス様を再び殺すためではなく、遺体が盗まれないようにするためだった。
イエス様自身はあらかじめ、死とよみがえりを伝えていたけれど、誰一人、信じ続けた人はいなかった。イエス様は十字架上で息をひきとり、槍で突かれても何の反応もなく、完全に死体となって葬られたからだ。
しかし、である。安息日が終わった日曜日の明け方、大きな地震が起こり、主の使いが下って来て、墓を塞いでいた石をわきへころがし、その上に座った。『その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。』
この番兵達は、弟子達が「復活した」という”嘘”を広めないようにするために配置されたはずが、彼らは逆に、イエス様の”復活の真実”の目撃者となった。全て、逆効果になるのだ。イエス様に、いのちに、真理に敵対する全てのたくらみは。イエス様にあって、死はいのちに飲まれ、偽りは真理へ塗り替えられるのだ。
『この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。』 この「恐れるな」という言葉は、主を信じる私達にもかけてもらえる、希望の言葉である。番兵達は倒れて死人のようになったのに、彼女達はそうならなかったのは、彼女達が番兵より屈強だという事ではない。どんな屈強な者も、権威ある者も、栄光の主の前に立てる者はいない。ただ、主を愛し、慕い求める者達をこそ、主は愛し、好意を注ぎ、守られるのだ。
「もうここにはおられない。かねて言われた通りに、よみがえられたのである。」 イエス様は「死」に納まっているお方ではなく、死を打ち破り、永遠に生きるお方である。イエス様を信じる人も皆、死んでも生きるのだ。
御使いは彼女達に、弟子達にこの事を伝えなさい、と言った。弟子達はイエス様を見捨てて逃げてしまったが、主はそんな弱い彼らをも、全世界に、主の復活を証する証人として、召し出して下さるのだ。
彼女達は恐ろしくはあったけど喜んで行った。主の働き人は、恐ろしくはあっても喜ばしい大いなる体験をするものだ。信じられない程偉大なお方から、目を留められ、気にかけているためだ。
「すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われた」 今度はイエス様が直接、彼女達に現れて下さった。彼女達は、主が十字架を負ってゴルゴダの丘へ行く道も泣きながらついて来たし、イエス様が死んで、葬られて、もう希望が無いと思っても、それでも夜が明ける前からイエス様の所に来た。
そういう人こそ、主が直接会って下さり、声をかけて下さるのだ。主の好意を得られる人とは、主の言葉を100%信じ切れなくても、弱くても、それでも「主を慕う人」である。しかし、主が王である事を頑固に拒否し、自分が王であろうとし続ける者は、やがて、主が栄光の内に来られる時、山や岩に向かって「私たちの上に倒れて、かくまってくれ」と言うようになる。(ルカ23:30、黙6:16)

さて、番兵達は一切の出来事を祭司長達に話した。すると彼らは集まって協議をこらし、彼らに沢山の金を与え、 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。」と言った。
祭司長達は番兵達の言葉を、信じたのだ。そうでないなら、弟子達が女達の言葉を「戯れ言」と思って取り合わなかったように、兵士達の言葉を取り合わなかっただろう。しかし彼らは大金を積んで口を封じたのだ。
イエス様の十字架と復活が目の前の置かれる時、二通りの道が分かれる。イエス様の復活を、権威や金で揉み消そうとする側と、イエス様の復活を喜んで受け入れ、イエス様と共に永遠のいのちを受ける側と。
人がいかにイエス様の復活をもみ消そうとしても、また、いのちを抹殺しようとしても、いのちが勝利する。
私達は、主イエス様にあって、死は問題ではなくなる。なぜなら、私達の主イエス様が死に勝利したから。
そしてやがて、最後の敵である「死」は滅ぼされ、死とハデスとは永遠の火へ投げ込まれる。しかし、嘘や不正という「死」と同盟を結んで(イザヤ28:14-19)、王の王である主イエスを拒否する者は、やがて、その死もろとも永遠の火へと投げ込まれる。私達は復活の主を期待し待ち望みつつ、この世を歩む者でありたい。

十字架の主を運んで行くろば(マタイ21:1-11)
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 本日より始まる1週間は、主の十字架で苦まれた事を覚える「受難週(聖週間)」、本日はその起点の「しゅろの聖日(パームサンデー)」である。すなわちイエス様がろばに乗ってエルサレムに入り、人々は「ホーシアン・ナー(ああ救って下さい)」と叫びながらしゅろの葉を持って迎えた事を覚える日である。
 イエス様は、もうすぐご自身を十字架へと引き渡す都・エルサレムに入る重要な時、荷を運ぶ「ろば」を選ばれ、用いられた。しかもわざわざ二人の弟子を遣わして、これこれの所にろばが繋がれているから、引いてきなさい、もし何か言われたら「主がお入り用なのです」と答えなさい、そうしたら渡してくれるから、と。
主の働き人達も、このろばと同じ仕方で召し出される。私達は、主を知る前から、主からのご指名をいただいており、いざその時が来ると、主の使いが迎えに来て、世の主人へ繋がれている縄が解かれ、誰かが「どうしてほどくのか」と言うなら、「主がお入り用なのです」という言葉によって、放たれる事がゆるされる。
待っておられるイエス様の所へとエスコートされ、弟子が着るべき衣服をかぶせられ、そうしてイエス様を人々の前へと運んで行く働きに入る。主は、軍馬や戦争に用いる道具は絶やし、平和の支配を地の果てから果てまで行われる(ゼカリヤ9:10)。だからイエス様は闘う事を好む者は用いず、柔和な人を用いられる。
ろばに乗られるイエス様は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方。
万物は彼にあって造られ、天にあるもの地にあるもの、見えるもの見えないもの、王座も主権も支配も権威も全て彼によって造られた。万物は彼によって造られ、彼のために造られた(コロサイ1:15-18)。彼は万物より先に存在し、万物は彼にあって成り立っている。その偉大なお方が、柔和に、ろばに乗って私達の内に入って来られ、私達を用いられる。彼は途方も無い「へりくだり」を示された。それは途方も無い慰めである。

「群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。」(8節)  
ホザナとは「ああ救って下さい」という意味である。群衆はイエス様が通られる道に、自分の衣服や、しゅろの枝を敷いたが、イエス様に「ああ救って下さい」と口先で言う人の全員が救われるという訳ではない。
実際この時、イエス様に「ああ救って下さい」と言っていた人のほとんどが1週間後、イエス様を「十字架につけろ」と言う側へ回ってしまい、イエス様が復活された後も、戻って来なかった人が大勢いた。
本当にイエス様に救われたいと願うなら、「悔い改め」をしなくてはならない。衣服を道に敷くような外見的な事よりもまず、荒野で叫ぶ者の声に従い、悔い改める事こそ、『主の道を用意』する事だ(ルカ3:1-18)。
荒野で叫ぶ者の声、すなわちバプテスマのヨハネは言った。悔い改めにふさわしい実を結べ、主は石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事が出来る、と。さらに言う。持っている人は、持っていない人に分け与え、特権や力づくによって不当に圧迫せず、正統な仕事を為し、与えられているもので満足しなさい、と。
だから、物や才能を持たない人に心を配らない事、特権や力づくによって、あるいは、横暴な言葉によって不当に人を苦しめ、悲しめ、搾取するような類のあらゆる事は、一切脱ぎ捨て、悔い改めるべきである。
多くの人は、お金や生活などの必要が満たされる事を「救い」と勘違いし、特権や力を駆使し、奪って手に入れようとするが、救いの根拠は、明確に、私達の神にあり、ほふられた小羊にある。(黙示録7:10)
エルサレムの人々が、しゅろの枝を手に持ってイエス様を迎えた場面は、黙示録7章を見れば、彼が天国に入城する時の事の予表である事が分かる。彼らはしゅろの枝を手に持ち、次のように賛美する。「救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる」(黙示録7:10) 彼らが手にしているしゅろの木はギリシャ語で「フォイニクス(不死鳥の語源)」、イスラエルでは永遠の命の木として知られ、天国にも生えている木である。
これは、主は死ぬが、すぐにまた復活する事を象徴している。救いの根拠、それは、天地を創られ、ろばを召し、ろばに乗られ、人々から十字架につけられ、死なれた方、そしてよみがえられた方、ただこのお方だ。

ろばは、イエス様を運んで行く。彼を十字架につける人々の元へ。人は皆、イエス様を十字架につけた。
そしてイエス様は、全人類の身代わりとなられた。このイエス様を信じて、救われる人もいれば、自分が王でありたいために、イエス様を十字架につけて葬り去りたい人もいる。いずれにせよ、私達・主の働き人は、ただ召し出されるままに召され、行かされる所へと行き、十字架の主を人々の元に運んで行けば良いのだ。

ユダヤ人のライフサイクルから学ぶ御言葉教育(エズラ7:8-10)
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 ユダヤ人に優れた人が多い理由は、ひとえに、御言葉暗唱教育(テフィリン教育)の故である。御言葉を宣言すればする程、その人には神のご性質が上書きされて行き、性格も品性も脳も開花されて行く。
テフィリン教育が始まった時代は、バビロン捕囚から帰還後、エズラの時代である。エズラは正統な大祭司の子孫、かつ書記官で、聖書を全部丸暗記していた。捕囚時は誰も聖書を持っては行けなかったが、彼は捕囚先のケバル川のほとりで聖書を編集し、神学大学をつくり、指導者を養成して行った。そのお陰で、聖書は今も存続している。バビロン捕囚は誰も予期していなかった。神の民である自分達が敵に負かされ、神殿が破壊され、散り散りにされてしまうとは。これは神をおろそかにするとこうなるという警告である。
彼らは考えた。なぜ国が滅び、神殿までも破壊されてしまったか。
彼らは悟った。自分達は御言葉を知らず、子供達に伝授して来なかったからだ、と。国は滅んでも民族は滅んではならない、だから子供達に御言葉をしっかり伝授し、暗唱させ、指導者を養成し、確固とした御言葉の土台を民族的に造り上げて行こう、という事でテフィリン教育がはじめられ、現代に至っている。
今回、現代ユダヤ人はどのようにして御言葉を子供たちに伝授しているのか、その方法を学びたい。

ユダヤ人の御言葉教育は、母の胎にいる時から既に始まっている。胎教という概念が最近もてはやされ、一定の効果がある事は分かっているが、ユダヤでは昔から既に存在している。母は胎に宿った子に、午前、午後、夜と、合計3時間以上、聖書の朗読を胎の子に聞かせる。こうして胎児は、御言葉を宣言する穏やかな母胎で育まれ、生まれる前から、御言葉に対する耳が開かれている。ひるがえって異邦人達は、胎に宿った子を、夫婦の争いや、テレビの音声、両親の不摂生に晒しながら過ごすのは、何と違った事だろう。
生まれてから2歳までの教育を、ハトラー(חתלּה)教育という。
ハトラーとは赤ちゃんを包む布で、御言葉が刺繍されている。最近はハトラーは市販されているが、昔は母が身ごもった時から、生まれてくる子のために祈りを込めつつ刺繍の一折り一折りをして行った。両親は2歳まで御言葉の産着に包み、この赤ちゃんが世からサタンから守られるようにと祈る。
イエス様も生まれた時、この布にくるまれていたし(ルカ2:7、12)、また、世界が胎内から生まれ出た時も、実は主の御言葉によって、くるまれていたのだ。『わたしが地の基をすえた時・・・海の水が流れいで、胎内からわき出たとき・・・わたしは雲をもって衣とし、黒雲をもってむつき(ハトラー)とし』(ヨブ38:4-9)
イエス様さえ、世界でさえ、生まれた時には御言葉で包まれていた。この教育はどれ程大事であろう。
3歳から4歳までの教育を、アレフ(א)タウ(ת)教育、合わせて「エット(את)教育」という。アレフはヘブライ語アルファベットの最初の、タウは、最後の言葉であり、すなわち、ヘブライ語アルファベット教育である。
母親は子供のために、ヘブライ語アルファベットの形をしたクッキーを作って、「これがアレフですよ」「これがベートですよ」と教え、「この文字は何ですか?」とクイズを出し、正解したらごほうびに食べさせる。
子供が飽きてくると、今度はごほうびに蜂蜜を塗ったものを与え、また、ドーナッツやチョコレートを作るなどの工夫をし、子供が飽きないようにさせる。ダンキンドーナツやハーゲンダッツは、ユダヤ人のお母さんが子供教育のために発明したものが元であり、神様は御言葉教育で工夫する親に祝福を与えて下さるのだ。
そして4-13歳の間は、テフィリン教育をする。すなわち、創世記から申命記までのモーセ五書のおよそ6000節を暗唱できるようにさせ、13歳になる時、バルミツバーというユダヤの成人式で公衆の前で御言葉を暗唱させ、これを成功させると、親は責任を果たした、とされる。
14-18歳は、タルムード教育に入る。タルムードは先祖伝来の教えを集めた口伝集で、その内容は、法律や社会慣習、経済など、様々な分野において、生きる上で有益な百科事典である。
彼らは22歳頃には結婚する。早く子供を産み、早く御言葉暗唱させるために、遺伝子が一番整えられている時期に結婚し、子が胎に宿った時から、胎児に御言葉教育を施す、というサイクルを繰り返して行く。
異邦人の場合は、男女が何となく好きになって、何となく一緒になって、何となく子供が生まれて来るが、ユダヤ人は逆である。御言葉のために、御言葉に従って結婚し、子供を産むのである。御言葉はまことにいのちである。御言葉が口から宣言された瞬間、いのちが花咲くが、離れた瞬間から死が進行して行く。
ユダヤ人は御言葉を軽んじてバビロン捕囚の憂き目に遭い、テフィリン教育が生まれた。私達クリスチャンも、御言葉を暗唱し、子に伝授し、福音を広め、栄えた者となって行くべきである。

踏み歩いた所を自分のものとするために(創世記13:10-18)
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 聖書には「約束の地」という言葉はよく出てくる。私たちイエス様を信じる者達が受け継ぐ「約束の地」は天国だが、イスラエルの民がエジプトという奴隷の地を出てから約束の地に入るまでに荒野を通らなくてはならなかったように、私たちもそこに入るまでに、この地上という「荒野」を通って行かなくてはならない。
「民数記(ベ・ミッドバル:荒れ野に)」を読むと、どうやら荒野(ミッドバル)で落伍して約束の地を踏む事ができない人も出てくるようである。約束の地に入れるか入れないかは、ひとえにどの言葉(ダバル)を選択し信じるかにかかっている。すなわち人間言葉か、それとも御言葉か。荒野で人を生かすのは御言葉であって、人間言葉は人を殺す。今回、どんな人が約束の地に踏み入り、どんな人が入れないかを見ていきたい。

本日の箇所は、神がアブラハムに、このカナンの土地を永久に与える、という約束をされた箇所である。
「約束の地」に入るためには、まず御言葉ありき、神の「約束」ありきである。私たちは何かと、ビジョンを思い描いて、自分の判断で「あそこはいい所だ」「あそこに行こう」と行動しがちであるが、それはロトの方法であって、私達の信仰の先祖アブラハムの方法ではない。彼は、ソドムとゴモラという主の御前にはなはだ罪深い町さえ、「よく潤っている」という理由で、「主の園のよう」と判断して、行ってしまった。(10-11節)
ロトはソドムに住処を移したがために、後には、アブラハムと一緒に築いた莫大な財を失い、娘達もソドムの汚れた価値観に染まってしまった。アブラハムがロトと決別したように、私達も、自分の中にあるロトの思考、ただ見た目だけでソドムさえ「主の園」に見てしまうような見方と決別しなければ、約束の地は入れない。
アブラハムが「その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」(17節) と、主から約束が与えられたのは、ロトと別れた直後だった。それで彼は住居をヘブロンに移し、そこに礼拝する所を据え、その後も、天幕生活を続けた。彼は天の故郷を仰ぎ見たので、どんなに祝福されて富が増し加わっても、地上においでは自分の墓の土地しか購入しなかった。私達も、天国こそ真の故郷であり、地上における祝福にじっと目を据えて留まるのではなく、天を見据え、「いかに死ぬか」の準備をする方が良いのだ。

アブラハムの子孫達が、実際にその土地を自分のものとしたのは、さらに数百年後の時代になる。
アブラハムが住んだヘブロンを勝ち得たのは、ユダ族のカレブであった。彼がその土地を偵察部隊としてはじめて足の裏で踏んだのは、彼が40歳の時だった。その時彼は先祖アブラハムゆかりの地に強烈な憧れを抱き、ぜひあの山地を獲たい、と願ったのだが、そこを獲るまでには、さらに45年を経なければならなかった。なぜそんなにも長くかかってしまったか。それは、ロトの価値観を持つ者達の故であった。
偵察にはイスラエル12部族代表の12人が行ったが、ヨシュアとカレブは、そこはとても素晴らしい地だ、主が共におられるなら必ず勝てる、ぜひ進み行こう、という意見だったのに、それ以外の者達は、そこを悪く言いふらした。そこは強大な大勢の者達が城壁の町々を守っている、あそこは自分達を食い尽くす地だ、彼らに比べれば自分達はいなごのようだった、と。(民数記13章)。
ここに、約束の地に入っていける者と、そうではない者とが分かれる。一方は神の約束を信じ、神が共におられるなら、必ずあの地を我がものにする事が出来る、と判断する者。他方は、神を度外視し、ただ相手と自分の力強さや知恵深さ、経験や装備を見比べて判断する。このように、共にいます神を眼中に入れずに、目に見えるもの・数値化されたもので比較し、判断し行動する人は、神の約束の地に入って行けない。
神の言葉を、自分の頑張りや能力で完成させようとする人がいるが、逆である。神の言葉が、人を完全にするのだ。人の頑張りや知恵、能力で神の国の事柄を完成させて行こうとしても、絶対に無理が生じる。
ヨシュアはどのようにして、何世紀にもわたる知恵と力の結集である城塞都市エリコを7日で陥落させたか。
それは100%、主の指示通りに従って行動したからである。それも、6日間は人々の口を閉じさせ、ただ祭司の吹き鳴らすラッパの音だけを響かせて、その城の周りを、足の裏で踏んで回っただけだった。
そして七日目、七人の祭司が七つのラッパを吹き鳴らし、主の民が鬨の声をあげた時、何世代にも渡って築き上げて来た城壁は崩壊し、いともあっさりと勝利できたのだ。そこにはアナク人や筋肉隆々の強者がいたかもしれないが、人間の言葉(ダバル)を閉ざし、神の言葉に従ったからこそ、どんなに経験が無い、弱い人でも、いともあっさりと、ものに出来たのである。沸々と湧き上がって来る人の言葉は閉ざし、ただ御言葉を信じて進み、勝利し、支配する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

支配者であれ(創世記1:26-31)
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 神は元々、人を、神に「似る(ツェレム:影、像)」ように、神の「かたち(デムース:似ている、類似した)」に、創造した。そして海、空、地の全ての生き物を支配するように(創世記1:26)。宇宙広しと言えど、地球にどんなたくさんの種類の生物がいると言えど、神の像、神に似た者として造られたのは、私達人間だけだ。
人は「神のかたち」故に、神のように自由に選択し行動する性質が与えられた。それも、神を裏切る自由さえも。それで人はそれを用いて、神を裏切り、聖なる神とは似ても似つかぬ者に成り下がってしまった。
しかし神は、そんな私たちを簡単に切って捨てるような事はせず、むしろ、私たちを愛し、私たちを神の子と呼ばれるようにするために、どれ程大切な代償を支払って下さか。神は、ひとり子をお与えになった程に私たちを愛された。それは御子を信じる人が一人も滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。
神が本来人に与えて下さった素晴らしい特権を回復するためには、神との「親子関係」を回復する事である。神は、神との親子関係を回復する道を、人に対して開いて下さった。
神の子とは、どういう人か。それはイエス様を自ら受け入れた人、すなわち彼の名を「自分から好んで信じ続ける人々(現在形能動態)」(ヨハネ1:12)であり、自分をきよく保つために汚れから出て行って自らを分離する人であり(2コリント6:14-18)、そして、聖霊に導かれている人である(ローマ8:14,ガラテヤ4:6)。

神の子には、次の命令が与えられた。「生めよ(パラー)、ふえよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)、地を従わせよ(カバッシュ)。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(ラダー)」(創世記1:28)
ここに幾つかの命令がある。まずは「生めよ(パラー)」、この言葉が派生してエジプトの王の称号「パロ」が出た。エジプト人は産んで増えて行く事を願って、「パロ」を王の称号にした。しかしそのパロが恐れる程に、神は、「神の子」を生んで増やし、地に満たして下さる。
次に「増えよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)」も、命令型動詞である。命が増え広がって行く事が主の命令であるからには、産む事を躊躇したり、間引きしたりするのは主の御旨に反するのだ。
また、「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」、これは「本質」を貫きなさい、という命令である。
私達・神の子たちが、世から従わされたり、世からリードされたりする事は、神の本質ではないのだ。
神は私たちに、地の生き物も、海の生き物も、空の生き物も足の下で征服(カバッシュ)せよ!足の下に支配(ラダー)せよ!と命令された。これを、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令、と言う。
神の子として尊厳を持ち、貴族的に、優雅に統治し支配する。このロードシップに信仰の先人達は歩んだ。
主と共に歩んだアブラハムに対し、世の王であるパロは恐れ、アビメレクも彼に平伏して「契約を結ぼう」と媚びて来た。イサクに対しても、最初はアビメレクは食ってかかって来たが、彼が柔和に、平和に主と共に歩み、それで何をしても栄えるので、彼は「あなたには神がいる」と言って恐れ、自ら契約を結びに来た。
ヤコブも、当時世界最強の王・パロを、祝福した。霊的に上の立場だからだ。このように、神の子としてロードシップに、キングシップに歩むなら、世の王たちが恐れをなし、宝物や贈り物を携えて平伏しに来るのだ。

この命令に背を向けるなら、世の者たちも自然界も、食ってかかるようになる。私たちは、神の子として歩み続けるべきである。イエス様の「名」を「自ら信じ続けている」だろうか。自らをきよく保っているだろうか。
汚れから出て分離する努力を止めていないだろうか。御霊に歩んでいるだろうか。
それらを怠って神を軽んじ続けるなら、世の側が調子に乗り、リードされ、従わせられてしまう。アブラハムの子孫達さえ、主を軽んじ続けたために敵が調子づいて「ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。」と言われ、背中を地面のように、歩道のようにして、敵が踏んで乗り越えて行くのにまかせた。(イザヤ51:23)

神の言葉に服従し、地を踏み、地を支配するのが、神の子の本分である。主は御言葉に従ったアブラハムに、またヨシュアに、命じられた。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与える、と。
私達もイエス様にあって神の子とされたからには、踏んで、支配するべきである。キリストを信じ、神と親子関係を保ち続ける「神の子達」は、地の全てのものも、サタンとそれに属する者達を足の下で支配するべきであって、支配されるべきではない。神の子としての座をキープし続け、支配する皆さんでありますように!

いこいの水のほとりに伴われる主 - ジェホバ・シャローム(詩篇23:2)
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 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデの作った詩篇23篇の中には、それらの代表的な8つのご性質が、練り込められている。今回は2節「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」の中に込められた「ジェホバ・シャローム」の主の名を掘り起こしたい。なお、国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」あるいは「ヤーウェ」になったりしているが、いずれも意味は同じである。

この詩篇23篇2節に練り込められた御名「ジェホバ・シャローム」が登場する場面は、主がギデオンを召し出された場面である。どういう時に主は彼に現れたか。それは、彼がミデヤン人という敵に見つからないように、酒ぶねの中に隠れながら麦を打っている場面である(士師記6章)。そんな臆病な、部族の中で最も小さく、最も弱い者に、主は現れて言われた。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6:24)
この時点、ギデオンは未来が見えていない。彼自身も、彼の父も、部族の人々も、まさかギデオンが大勇士になるとは思ってなかったが、主の目には、将来の彼の大勇士である様が、見えていた。なぜなら彼には、主に従順する性質があったからだ。彼は、主から言われた事を、そのまま実行する人だった。
普通、常識ある人間は、10万以上の敵にたった300人で立ち向かう事はしないが、ギデオンは、主がしなさいと言われたので、した。主が「人が多いから減らしなさい」と言われたら、相応しくない1万や2万をばっさり切ったし、たった300人になっても、10万以上の敵に立ち向かって行った。そのような性質だから、彼は用いられたのであり、この、主に言われたとおりに実行する性質こそ「大勇士」の性質である。

ギデオンは、どういう場面でジェホバ・シャロームを宣言したのだろう。彼が酒ぶねの中で、恐れながら麦を打っている時、主の使いが彼に現れたが、彼は、主の使いと面と面を向かって話していたというのに、実感せずにいた。しかし彼が、相手が本当に主の使いであったと分かった時、死ぬのではないかと恐れた。
しかし『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安(ジェホバ・シャローム)」と名づけた。』(士師記6:23-24)
私達も、主の力強く全く聖であられる有様を知った時、ひるがえって、自分が昨日犯したあの罪、今日犯したこの罪も全部、主がその目でじっと見つめておられた、と知るなら、ギデオンのように絶望するしかない。
ダビデも、主の目の前で他人の妻を奪い、その夫を謀殺するような罪を犯した、にもかかわらず、「あなたは死なない」と言われた。なぜか?それは彼が自分の罪を認め、告白し、罪の報復を受け入れたからだ。
「主は言われた、「悪い者には平安(シャローム)がない」と。」(イザヤ48:22) しかしもし私達が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての悪から、私達をきよめて下さる。

ユダヤ人は「シャローム」を、挨拶の言葉として使っている。このシャロームの中に込められている最たる願いは「トーブ(良し)」である。主がこの世界を6日に分けて創造された時、一日一日に「良し」(トーブ)と宣言された。そして、人間を創られた第6日目には「はなはだ良し」と評価され、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と、人間を祝福された。(創世記1章)
この「トーブ」の中には「1,パーフェクト(完全)」「2,ビューティーフル(美しい)」「3,グッド(良い)」の意味が込められており、これら3つを束ねて「シャローム」という。つまり、ユダヤ人がシャロームの挨拶を交わす時、完全でありますように、美しい者であるように、良い者でありますように、という願いを込めているのだ。
ユダヤ人であるパウロも、その書簡の中で頻繁に「平安があなた方にあるように」という挨拶をしている。
イエス様も、恐れて隠れている弟子達の中に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。『弟子達は、主を見て喜んだ。イエス様はもう一度、「平安があなたがたにあるように。」と言われ、彼らに息を吹きかけて、言われた。「聖霊を受けなさい。」』(ヨハネ20:19-22)
弟子達が主を見て喜んだのは、イエス様がその手とわきを示されたからだ。イエス様が私たちの代わりに十字架上で打たれ、罰を受け、死なれた。そして、よみがえられた。これぞ完全なシャロームの根源である。
イエス様こそ、まことの羊飼いであり、備え主であり、そして平和の主である。このシャロームの主であるイエス様が、緑の牧場といこいの水へ導き、生活において、仕事において、いのちの営みにおいてトーブを宣言され、その御言葉どおりに、皆さんの上に成りますように。イエス様のお名前によって祝福します!

わたしはとぼしい事がありません - ジェホバ・イルエ(詩篇23:1)
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 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇の中には、その中でも代表的な8つのご性質が練り込められている。前回は1節の「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)」を見たが、今回は「わたしは乏しい事がありません」という言葉に込められた2つ目の御名「ジェホバ・イルエ」の意味を探って行きたい。なお国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」または「ヤーウェ」に、「イルエ」が「エレ」または「ジレ」等になっているが、いずれも、呼び名や発音が違うだけで、意味は同じである。

この詩篇23篇1節に練り込められた御名「ジェホバ・イルエ」が登場する場面は、アブラハムがイサクを捧げる場面である(創世記22章)。彼がイサクを捧げようとしたその時、主が制止した。彼の主に対する従順が、行いによって証明されたのだ。それで主は、イサクに代わる犠牲として、角をやぶにひっかけた羊を備え、アブラハムは羊を身代わりに捧げた。そこでアブラハムは、そこをジェホバ・イルエと名付けた。
この「ジェホバ・イルエ」は「主の山には備えあり」という意味として有名だが、正しい意味は、別にある。
この言葉を分解すると「ジェホバ(主)+ラアー(見つめる)」、「ラアー」は未完成形であるので、ここの原意は「主は今なおずっと見つめ続けておられる」である。(KJV: In the mount of the LORD it shall be seen.)
主は、今なお見続けておられる。アブラハムがジェホバ・イルエと名付けたモリヤの山には、後の時代、ソロモン神殿が建って、バビロン捕囚の時に破壊されたが、主は今なお、そこを見つめ続け、待っておられる。
アブラハムの子孫達が、茨の冠を頭にひっかけたまことの小羊キリストを身代わりの犠牲として捧げるのを。

主は見続けておられ、備えて下さる。だから、わたしには乏しい事が無い、と、ダビデは信仰告白した。
主は確かに、全て必要なものを備えて下さるが、それは、人の欲するものを何でも、という意味ではない。
主が備えてくださるものは「主の最善」である。だからもし、人が欲するものの方向が、主の最善と真逆の方向なら、主は、その人のやる事なす事何もかもうまくいかなくさせる事もある。ペテロがそうだった。
ペテロはイエス様が復活された後、聖霊の息吹を吹きかけられ、「わたしもあなたがたを遣わします」と召命されたのに、漁師に戻って生活して行こうとした。しかも他の弟子達をも伴って。しかし、そうは問屋が卸さない。彼は湖に出かけて行くのだが、その夜は何もとれなかった(ヨハネ21章)。その内、仲間も疲れと苛立ちが沸き起こって来る。なんで何も獲れないのか、なんで貧しいままで、疲れてばかりいるのだ、と。
例えば株で、上がると思って買っても下がり、下がると思って売っても上がり、損失ばかりのような時は、「ジェホバ・イルエ」なる主が見つめておられる、その眼差しに気づくべきだ、というサインなのだ。
良くない事をするとすぐにバレてしまう人は、主に愛されている人であり、バレないで成功する人は、サタンから愛されている人である。どうして他の皆は成功しているのに自分だけこんなに思った通りに行かないのか、果たして呪われているのだろうか、と思うのはお門違いで、むしろ、祝福されているのだ。なぜならその人は、主から片時も離れず見つめられ、守られ、愛され、主の最善へ導かれているのだから。
主は、備えて下さるお方だ。自分の願った通り何もかもうまく行くという「備え」をされる事も、確かにあるが、やる事なす事全部うまく行かず、ことごとく失敗する、という「備え」をされる事もあるのを、忘れてはならない。
それはその人を、全能であられる主に目を向けさせ、「主の最善」だけを求めるようにさせるためである。

イエス様は言われた。子たちよ、食べるものは、無いだろう?と。イエス様は、無い事を前提に聞かれた。
それはそうだ。御旨でない所に網を投げても、主がその道に歩ませないように、主が散らすのだから。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(ヨハネ21:6)
結局人は、自分で稼ぐ事も、また、稼いだものを自分で引き揚げる事さえ、主の主権なしに出来ないのだ。
主はペテロに教えられた。あなたは湖の魚に向かって網を投げるのではなく、人を捕らえる「福音」という網を、人の耳に投じるべきだ、と。主はペテロを、じっと見つめておられたように、私達をもじっと見つめておられる。私達に必要な「最善」を、主は備えて下さる。私達はただ、主が備えて下さる道に歩み、備えて下さるものをいただく以外には何もなく、それで「わたしは乏しい事がありません」と宣言できるのだ。
主が備えて下さる最善に頼って生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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