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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主はわたしの羊飼い - ジェホバ・ロイ(詩篇23:1)
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 ある人達は、聖書を歴史の資料として見、ある人は架空の神話として見ている。私達は、聖書をどのように見なすだろう。もし、歴史の資料や架空の神話として見るなら、聖書は現代の私達と何の関係も無い。
今、神は生きておられ、実際的に今の私達と交わり、そして私達は、この神によって永遠の御国へと伴われる。それは、科学的な裏付けによって納得するものではなく、自身の信仰によって獲得するものである。
聖書を読む時、その時の時代背景やその状況(Then and there)を調べる事は、確かに重要である。しかしそのままでは、聖書を客観的に、自分とのつながり無しに見ているに過ぎない。私達はさらに、御言葉は今、ここで(Now and here)、自分に、何を語っておられるのか。今の私たちに適用させる事こそ必要である。
ユダヤ人達は賛美や祈りを通して、神と密接な交わりを持っており、その賛美や祈りを5巻150篇にまとめたものが「詩篇」(テヒリーム)である。詩篇は五巻に分かれており、それぞれがモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に対応している。すなわち、第一巻1−41篇は「創造と人間」の事柄が記されており、第二巻42−72篇には「解放と贖い」が、第三巻73−89篇には「聖所と礼拝」が、第四巻には「さまよいと苦難」が、そして第五巻107−150篇には「律法と祝福」について記されている。
詩篇は無意味に集められた詩集ではない。世界中に散らばった詩を、千年の年月をかけて集め、モーセ五書と合うように編纂し、これを用いて、礼拝でも日常でも賛美と祈りを通して神と交わっているのだ。
私達も、イエス・キリストを信じる信仰によって神の民とされたからには、彼らのように、御言葉は真実であるという信仰をもって宣言し、祈りと賛美によって神と交わるのだ。

詩篇は、様々な時代・様々な人の詩が集められているが、その多くは、ダビデの作である。ダビデは偉大な信仰者であったが、諸々の罪も犯した。それでも彼が神に愛されたのは、彼自身いつも主と交わり、罪を指摘されたらすぐに悔い改め、喜びの時には大いに主を賛美する、その「信仰告白」の故である。
口で自分の信仰を告白する事、それは、救いを引き出すために必須の手続きである。(ローマ10:10)
神は全部をご存知で、全知全能ならば、わたしに必要なものを全部、そのままくれればいいのに、と考える人はいるが、その考えでは、神から何も引き出す事は出来ない。預金口座から引き出すにはハンコが必要なように、私達の側の信仰告白こそ、主から全能の救いを引き出すために必要な私達のハンコなのだ。
ダビデの作った詩篇23篇の中には、「主はどのようなお方であるのか」という、彼自身の信仰告白が、詰まりに詰まっている。聖書全体には、主の呼び名が81種類も登場する(ジェホバ・ジレ、ジェホバ・シャンマ等)が、その81を集約して代表する「8種類の呼び名」が、詩篇23篇の1−5節の中に隠されている。
詩篇23篇でダビデが真っ先に告白した内容は、「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)であって、わたしには乏しいことがない。」(詩篇23篇1節) である。ジェホバ・ロイ。「ロイ」には、導いて下さる、保護して下さる、祝福して下さる、一緒に伴われる(インマヌエル)の意味が含まれている。
ダビデは、彼自身が歩んできた道のりを振り返り、その歩みの中で、ずっと一緒に歩んで下さった主の足跡を見て、主はどんなお方であったのか、その思い想いを練り込めて、この詩篇23篇に凝縮し収めたのだ。
繰り返すが、聖書は私達と関わりのない書物ではなく、今、日常の一瞬一瞬において密接に関わりのある、神のことばである。神は遠い神ではなく近い神であり、私達を永遠の救いへと導くために、いつも共に歩き、守り導いて下さる、愛なる神、憐れみ深い神、恵み深く、赦しに富みたもう神である。

主は、私達の羊飼い。羊は、羊飼いが先頭に立つまで動かない。羊に力あるかないかも、個性があるか無いかも関係なく、ただ、羊飼いが先頭になった時に羊はその後をついていき、羊飼いは、羊たちを緑の牧場へと導いて憩わせ、水のほとりへと導いて潤してくれる。ダビデはこの神との密接な関わりを宣言するために、主を「羊飼い」という名で呼び、自分を、その羊とした。
主の御名(ベッシェム・ヤウェ)を呼ぶ時、力が発生する。主は、ご自分の「名」を呼ぶ人に関わりを持ってくださる。ダビデは主を「羊飼い」と宣言し、主の「導いて下さる」というご性質を、いつも引き出していたのだ。
羊飼いなる主。私達がどんな状況にあろうとも、私達もジェホバ・ロイの名を信仰をもって宣言する時、主が「私の」羊飼いとして、緑の牧場へと、憩いの水のほとりへと導いて下さる。信仰をもって主の御名を呼び、主の力をいつでも引き出す皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

「ですから」あなたがたの労苦が無駄になることはない(1コリント15:58)
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 先週のコーエン大学日本公開セミナーは沢山の恵みの内に終った。今回は、コーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も忙しい間を縫って来られ、水曜夜の集会ではメッセージもされた。カン先生は今まで多大な労苦と責任を負って来られたが、彼が今に至るまで支えとなって来た言葉が、本日の御言葉である。
『だから(ὥστε(ホステー)、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦(κόπος:コポス)がむだになることはない…。』(1コリント15:58)

この御言葉は、接続詞「ὥστε(ホステー:ですから、そういうわけで、therefore)」で始まる。これは、直前までの物事を束ね、「そういうわけで」こうなる、と、後に続ける言葉である。物事には原因と結果があり、その両者を「ホステー」が繋げる。今の私達は、良しにつけ悪しきにつけ過去に成した一つ一つの「原因」を積み上げた結果がある。そして、今私達が為す一つ一つの行いは、将来生み出される結果の「原因」となる。
だから、1コリント15章の最後の節の「ですから」は、1節から57節までを包括し、58節に繋げているのだ。
第一コリント15章といえば、復活と希望の章である。人は死んだら終わりではない。死んだ後、必ずよみがえらされ、そしてそれぞれのの行いに応じて審判を受ける。天国も、地獄も、確実に存在する。
パウロは、次の事を「最もたいせつな事」としている(3節)。すなわち、キリストは私達の罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられ、ケパに現れ、それから12弟子にもあらわれ、そして最後に、最も小さなこの自分にも現れて下さり、そして、神の恵みによって今のわたしになった(3-11)。これは私達にも同じである。
「ですから」、固く立って主のわざに励む必要がある。そして、その労は一つも無駄に落ちる事は無い。
主にあって労苦した事(コポス)は、決して無駄になる事は無い。キリストに敵対する世の諸々の事柄が、群れをなして、自分へと襲いかかって来た時。あの時流した汗や涙も、主にあって忍耐し続けた一瞬一瞬も、決して無駄に落ちる事は、無い。「ですから」今、目の前に置かれた善を行う事に、疲れてはならない。
たゆまないで働いているなら、時が来れば、必ず刈り取るようになるからだ(ガラテヤ6:7−9)。
「ですから」、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい、とパウロは続ける。海がどんな暗くても、灯台の光を目指し、進み続けるなら、必ず目的の港に入る事が出来るように、キリスト者にはそれぞれ、暗闇に輝く灯台のような、目指して行くべき御言葉が必要である。もし、そのキリスト者に、それを「見続ける力」があり、それに向かって「進んで行く事を止めない」なら、必ず主の栄光の領域へと到達して報われる。

「ここに、聖徒たちの忍耐(ヒュポモネー)と信仰とがある。」(黙示録13:10) この忍耐(ヒュポモネー)は、農夫が、「下に(ヒュポ)」+「ひざまづいて(モネー)」、蒔いた種の実りを待つものであり、「嫌々ながら」のような消極的な色合いは無く、むしろ希望をもって楽しみに待つような、積極的な色合いのある言葉である。
忍耐と希望は、必ずセットである。ヘブライ思考的には、「希望」には、未来を目の前の今へと引っ張る力のあるものとしている。だから、種を蒔いたら「5年後には、もしかしたら実がなるかなあ?」ではない。
蒔いたら、5年後には実がなって、喜んで刈り入れをし、おいしく味わって食べている事を、「今日のように見て待つ」のだ。時間を先取りし、引っ張てきて、今ここにあるかのように見えるから、期待して待てるのだ。
信仰とは、見えないことの「保証」である。未来に起きるか起きないか定かでないような、おぼろげな事柄ではなく、未来に確実にある事柄を、まだ見てはいないけれども今、手元に引っ張って来る事なのだ。
それは、預金通帳に何千億円も入っていると記帳されている事に似ている。もしそうなら、日々食べる事について心配する必要は無いし、ビルを購入する事にさえも、何の躊躇もいらない。同じように「御言葉」の明細を見るなら、私達は何を食べようか何を着ようかと心配する必要は一切ないはずであり、その富を引き出すために、「信仰」という印鑑を持って、「行い」という銀行へ足を運んで行くのみである。
世の銀行、世のマネーは、何百年後には破綻しているとしても、神の言葉は、永遠に破綻しないからだ。
原因には、必ず結果がつきまとう。それは、良しにつけ、悪しきにつけ。労苦(コポス)には必ず良い報酬が返って来るのと同じように、労苦の逆である「なまける事」にも、必ず悪い報酬が返って来る。
「ですから」主が与えて下さる莫大な報いが将来に待っている事を、あたかも今、それを受けているかのように望み見、喜んで、今日与えられている一つ一つの事を、気落ちする事なく、希望をもって成していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
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 明日よりコーエン大学日本公開セミナーが始まる。今回はコーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も教鞭を執られる。そこで今日、講義に先んじて、博士が繰り返し強調して来られた「ヘブルシンキング」と、ユダヤ的聖書へのアプローチ方法を学びたい。まず前提知識として知っておかなくてはならないのは、「ヘブライ思考」と、それと対極に位置する「ギリシア思考(ヘレニズム思考)」の概念と性質である。

ユダヤ人は代々「ヘブライ思考」で生き、聖書もヘブライ思考に基いて読まれて来たが、聖書執筆時代以降のキリスト教会は「ギリシア思考」によって歩み、福音に混ぜ物がされ、分裂の歴史を辿ってしまった。
ヘブライ思考の一番の特徴は、「神中心」である。対し、ギリシア思考は「人間中心」である。ユダヤ人は神を価値の最高位に位置づけ、自分を神の御言葉へと合わせて生きるが、対してギリシア思考では、人が構築した論理や科学を土台とし、あるいは神とキリストを除外した宗教や、無神論や汎神論を台頭させた。
第二のヘブライ思考の特徴は「関係中心」であり、神との関係・親子関係・共同体との関係を重視する。
ユダヤでは、「父と子」という深い関係が、神に、親に、共同体に対してある。対しギリシア思考は「個人主義」であり、親子関係・社会関係は崩壊し、孤立、引き籠もりが起こり、人を破壊行為や自殺へ追い込む。
第三のヘブライ思考の特徴は「直感的思考」だが、対してギリシア思考は「理知的・論理的思考」で「納得」を求める。ギリシア思考が聖書を理知的に分類し、分析して考察した結果、キリスト教会は幾つも分裂したが、対してユダヤ人は2500年も離散していたのに、1948年に帰還すると、いとも簡単に一致できた。それは彼らは聖書に自分の解釈を交えず、ただ繰り返し読んで、暗記し、直感的に体得していたからだ。
第四のヘブライ思考の特徴は「動的思考」である。ヘブライ語は動詞中心の原語である。ヘブライ語動詞は、基本的に三つの文字からなる「語根」で成っており、その語根の前後に他の語を付与する事によって、様々な意味へと変化する。ユダヤ人は、御言葉は生きているものとして動的に解釈し、同じ御言葉でも朝ごとに新しいが、対してギリシヤ思考は「静的思考」で、対象を分析・分類し、標本箱の中へ磔にして納めたら、もう動かさない。一つの御言葉に「これこれの解釈」と決め付けたなら、それ以外を排斥するのだ。
第五のヘブライ思考の特徴は「意味中心」である。ヘブライ語は人の名前にも地名にも、そして一字一句にさえ、全てに意味がある。それは昨年12月にベレシートを学んだ時によく味わった。文字と文字が組み合わさて意味が生まれ、個々の意味に配置された神の秩序の完全さに人は感動し、喜びを覚えるのである。ギリシア思考は一見、意味を追求しているように見えても、行き着く先は「無意味」である。

以上、5つの組み合わせを、カン博士は「ヘブライ思考のエバディング(embodying:具現、体現)」と呼んでいる。そして、ヘブルシンキングによる聖書へのアプローチは、3つの核によって成り立つ。
一つ目は「統全(wholeness)」と言う。これは全体を一つとして見る事である。つまり、聖書を開く時にはまず全体を見る。一語一語を細かく分析せず、分からなくても、まず最後までそのまま読むのだ。
二つ目の核は「統合(unity)」、すなわち異なる幾つかの断片を一つに集め調和させる事である。聖書は律法や預言、詩歌など異なる断片の集合だが、一つ一つを別者としてではなく調和したものとして捉える。
そして三つ目の核が「統摂(consilience)」で、それは、複数の個々は互いに溶け合い、第三の新しいものを生み出す事(シナジー)である。「統合」は個々が調和していても互いに別者だったが、「統摂」は、個々はもはや無くなり、別の新創造が生まれるのだ。元々、consilienceの原意は、異なる二つのものが互いに手を取り合って境界線を飛び越え、新しい領域に着地する「ジャンピング・トゥゲザー」の意味である。
以上のように、聖書全体を行ったり来たりして部分部分を集め、互いを融合し、自分自身に融合させる事によって、全く新しいいのちが生まれるのである。例えば「贖い」という言葉は、聖書の一箇所だけ見ても分からないが、創世記やレビ記、ルツ記など、あちらこちらを行ったり来たりする内に、神の意図が感覚的に分かって来て、自分自身の人生に組み込まれた「贖い」を感じ、感動し、自分のものとなって行くのだ。
『あなたがたの「からだ(ソーマ:霊・魂・肢体の全集合体)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1) 自分を主張するのでなく、自分自身の全てを生きた供え物として御言葉へ混ぜあわせる事、これが私たちの為すべき礼拝である。
ギリシア思考は捨て、ただ御言葉を自分と混ぜあわせ、真理の喜びが沸き起こる皆さんでありますように!

神から来たのか、悪魔から来たのかの見極め方(ヤコブ3:13-18)
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 主にあって正しく歩みたいと願う人は、時に分からなくなる事がある。今の自分は果たして主の前に正しいのか正しくないのか、目の前に置かれたこの道は主から来たものなのか、それ以外から来たのか、また、この起きている出来事は拒絶すべき事なのか受け入れるべき事なのか。今回、その見極め方を学びたい。

今目の前に置かれたこの道、この思いは、果たして主から、上から来たものなのか。それとも自分の肉あるいは悪魔から来たものなのか、その見極めをしたい時は、次の御言葉を基準にすると良い。
『上からの知恵は、第一に清く(ハギノス:純粋さ、聖さ)、次に平和(エレニコス:平安・平和溢れる)、寛容(エピアケィス:優しい、親切な)、温順(ユパイセイス:温順な、従順な)であり、憐れみと良い実とに満ち、かたより見ず(アディアクリトス:えこひいきが無い)、偽りがない。』(ヤコブ3:17)
神から来るもの、上から来るものはまず、純粋である。すなわち表裏が無く、シンプルで、清いものだ。
また、平安が溢れるものである。その道に行くなら困難が待ち受けていると容易に想像できるとしても、主の平安があるなら、大丈夫だ。また、上から来る思いは、寛容であり、優しく親切であり、憐れみであり、そのような良い実を豊かに結ばせるものだ。そして、えこひいきが無く、偽りの無いものだ。
もし、行こうとしている道筋の動機に妬みや党派心があるなら、すなわち、神ではなく人を見たり、人と比べたり、人に媚びる要素があるなら、そのような知恵は上からのものでなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものであり、その先には、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある。(ヤコブ3:14-16)

主の御前に正しく歩む道は、「肉」の支配に導かれて歩むのではなく、御霊の支配下に導かれて歩む道であり、その道筋には、御霊の良い実(ガラテヤ5:22-23)が豊かに結んで行くものである。すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を。御霊によって歩む人は、どんな過酷な状況下でも、これらの良い実を着実に実らせる。それも、意識的にでなく、無理してでもなく、自然に。
御霊の対極にある「肉」とは、神を除外し霊を除外した人間生来の肉体的・魂的な力や欲望、考え方などで、肉に従って歩む人はどんなに頑張っても、「愛もどき」「喜びもどき」などを作る事しかできない。

次のリストは、私達の中から拒絶し、排除すべき「肉の行い」のリストである。『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである。・・・このようなことを行う(プラッソ)者は、神の国をつぐ事がない。』(ガラテヤ5:19-21)
ここの「行う」と訳されたギリシア語プラッソには、実行する、強要する、やって行く等の意味があり、ここでは現在形能動態が使われている。すなわち、これら肉の行いを「意図的に、自主的に、好きこのんで、行い続ける」ような者は、神の国をつぐ事がないのだ。しかしもし、本当はこれら肉の行いを止めたいのに止められないという場合は、どうしたらいいか。それは、自分の「肉の」力でやめようと努力しても、無理である。
髪の毛を上方に引っ張っても宙に浮く事はできない。それは法則だからだ。同じように、肉に従って歩んでしまうという「法則」に対抗するためには、「いのちの御霊の法則」に乗る事である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この世には重力の法則があり、それに縛られている限り、人は地上から離れる事はできない。しかしライト兄弟が飛行の法則を発見し、飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るようになったのと同じように、キリストがいのちの御霊の法則を開放した故、私達はキリストに乗って(信じて)、罪から離れる事が出来るのだ。
主は、私達が肉によって無力になって神の基準を全うできなくなっている所から救って下さるために、ご自分の御子を肉体を持った人としてお遣わしになり、肉において、罪を処罰された。(ローマ8:1-3)
この御子なるイエス様に、助けを求めるのだ。「イエス様、私は肉の行いを止められません。でも、御子なるイエス様が十字架上で肉を処罰された事を感謝します。あなたが十字架上で為された事を、私はイエス様を信じる信仰によって私にも成ったと信じ、感謝します」と宣言し、キリストの十字架上での「肉の処罰」を、自分自身にも適用するなら、助け主・聖霊様が与えられ、聖霊の支配下で肉の行いを抹殺して下さるのだ。
今の自分、これからの自分を御言葉によって見極め、御前できよく、正しい道に歩み、豊かな実りを結ばせて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

偶像(アイドル)に夢中になってはならない(レビ記26章)
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 先週、主が発せられる動詞には宣言型と命令形がある事を学んだ。主の宣言型動詞は100%成就し、生きていて、今も全宇宙の秩序が成り立っているが、唯一、人間には特別に「命令形動詞」が与えられた。
人が主の命令型動詞に服従するなら、宣言された通りの祝福が与えられ、逆らうなら、呪いが待っている。
祝福と呪いの分岐点はシンプルで、主の御言葉に聞き従い守り行うなら祝福が、聞き従わず守り行わないなら呪いが待っている(申命記28章)。今回、この祝福と呪いの大本を、レビ記26章から学びたい。
レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる事だ。祝福と呪いの大本は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像を造ってはならない」である。
これはとても大切であり、十戒の第一・第二にもある程だ。もし自分と主との間に何かを置き、主よりもそちらを優先するなら、それが偶像だ。それはお金であったり、異性であったり、自分自身であったりする。
偶像は元々、無益・無駄なイメージ、英語ではアイドルである。現代、スマホから来る無益な映像やゲームも、まさにそれではなかろうか。それは魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」のだ。
夢中になるアイドル、それは最初は甘くても後には苦くなり、人から、社会から、主から見捨てられてしまう。
偶像によってまず壊れるのは、主との関係で、安息日を守る事、聖所を敬う事が、おろそかになって行く。
命令の順序は、第一に偶像の禁止、次に礼拝の尊守、その後に、主の命令を守り行う事だった。つまり順番として、もし偶像を作るなら、主との関係が壊れ、礼拝がおろそかになり、主の「しなさい、してはならない」が守れなくなって行く。だから偶像礼拝者に真っ先に現れる兆候は、約束を守れなくなる事である。

祝福の前提条件は「もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば」で、その人には主が豊かに雨を降らせ、豊かに実らせ、麦打ちは春から秋まで、秋の収穫は、種まきのシーズンまで続く程におびただしく穫れる。なぜなら、産まれて来る子もおびただしく増えるからだ。(4-13)
しかしもし御声に聞き従わず、守り行わず、主との契約を破るなら、来る呪いは段階的に厳しくなって行く。
まずは恐怖と病が降され、命がやせ細り、自分の労苦は他人に奪われる(14-16)。それでも立ち返らないなら、その罰は七倍重くなり、天は鉄のように雨を降らせず、地は青銅のように作物が出なくなり、力は無駄に費やされてしまう(19-20)。それでも聞かないなら、さらに七倍罰が重くなり、野獣がはびこって子供や家畜が奪われ、国が荒れ廃らされてしまう(21-22)。それでも聞かないならさらに罰は七倍重くなり、剣や疫病が国内に臨み、敵の手に渡されてしまう。また、食料が主に打たれ、ひもじくなってしまう(23-26)。
それでも聞かないなら、さらに罰は七倍重くなり、自分の子供を食べる程の深刻な食糧難となり、さらには、その地から追い出されて国々に散らされ、敵国にいるようになる。実際、そのような呪いを、イスラエルは全て味わい尽くしてしまった。なぜなら「主に聞き従わない事」を、し続けたからだ。主は代々預言者を通し、多くの不思議な事や奇跡を通して、警告して来たのを全部無視し、自分のアイドルを捨てなかったからだ。
イスラエル2500年の離散の根本と、ノアの洪水の根本は同じで、それは「異性」というアイドルだ。
イスラエルに偶像礼拝の元をつくってしまったのはソロモンであったが、彼は元々、主の御声に聞き従う人だった。しかし異性が彼の信仰を台無しにしてしまい、イスラエルに立派な神殿を建てたのに、多くの妻達に惑わされ、偶像の宮も建ててしまった。ダビデは罪を指摘されたら一度で悔い改めたが、ソロモンは二度戒めを受けたのに二度も蹴り、もはや戒めは与えられなくなった。彼は自分の好む女やアイドルを存分に耽り楽めたであろうが、その人生の最後は、全てが虚しいものとなってしまった。(伝道者の書)
彼がもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。
私達は盲目で、好き勝手な道を歩もうとしていても、主は災いという囲いで無理矢理祝福の道へと導いて下さる。主の道に歩む幸いは、押入れゆすり入れの祝福、災いもまた、踏んだり蹴ったりの「祝福」なのだ。

主の「創造(バラ)」の目的(創世記1:1)
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年のはじめより、主の新創造を喜び楽しむようにと、イザヤ65章から示されていた。今回はその「創造」の意味を探って行きたい。「創造」のヘブライ語は「バラ(ברא)」、聖書で最も最初に宣言される動詞である。
『はじめに(ベレシート)神は天と地とを「創造された(バラ)」。 』(創世記1:1) この「バラ」は「創造する」と訳されているが、「切り取る」という意味もある。つまり神は、時の概念の無い「永遠」から有限の「時」を切り出し、無限世界から、「宇宙」という有限世界を切り出して、人が住める秩序のある世界を創られたのだ。
創世記1:1のバラは、宣言型動詞である。神の宣言型動詞は必ず「そうなる」もので、「在り続ける」。
聖書にはもうひとつ、「命令型動詞」というものがあり、それは、人に対して発せられる命令で、人はそれに対しては従う事が要求される。それは、人の自由意志によって破られる事もあるが、もし破るなら、記されている通りの災いが起きてしまう。もし従順するなら、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)

天地創造以来、神のバラの宣言型動詞は生き続けており、維持され続けている。神が「光よあれ」と宣言されて出来た光は、今も存在している。また、神が海の水に対し「ここまでは来てもよい、しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」(ヨブ38:11)と宣言された事は、ずっと保たれて来た。
それは、主が人を生かすための恵みの故であったが、人が主の命令に背くなら、秩序は破壊されてしまう。
主のバラ(創造)は、ことごとく良いものだが、人が主の命令を破ってしまった故に、主の良き創造は破壊され、破った人間自身に、死と呪いがもたらされてしまった。しかし神は、憐れみ深い。聖書の大部分、すなわち創世記3章から黙示録までは、人が壊してしまった創造秩序の、神による回復の努力である。
現存している有限の宇宙は、やがて巻き去られなくなり、永遠・無限の新世界が主によって新創造される。すなわち、創世記では、はじめに(ベレシート)神は無限から有限な世界を切り出して「無」から「有」を創造し、しかし、人がその良き創造を台無しにしてしまったが、黙示録では、主がその世界を回復させ、不完全になった「有」を、一旦「無」へと帰し、永遠・無限・完全を新創造するという、壮大なキアズムなのだ。
神ははじめに、全宇宙や天体を創造し、空と海、大地を創り、動植物を創り、それら全ては神の宣言型動詞によって今も生き続け、動き、持続し続けている。しかし人は、自由意志によって神の命令に逆らい、死と呪いを招いてしまった。そこから救われるためには、神の御言葉に従順する事である。
『あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。』(レビ記18:5) 神の命令型動詞に従順する時、その人の中で再び神の「バラ」が起きる。
主は、罪と背きを重ねて、主に打たれ、砕かれ、悲しむ人に、唇の実を「バラ」される。(イザヤ57:15-19)
重大な罪を犯したダビデも、詩篇51篇で祈っている。『わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり(バラ)、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。・・・主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。・・・神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 』(詩篇51:8-10,15,17)
つまり、人が自分の身勝手によって、主の良き創造を破壊し、その喜び(エデン)から追放され、苦しみ悲しんでいる人は、砕かれた心従う心をもって主の前に出て悔い改める事によって、その人の中に主の新創造が働き、新しい清い心が、揺るがない新しい霊が、そして喜びの賛美が、主によって創造されるのだ。

祝福の新創造が与えられる条件は、主の命令型動詞への服従である。主は言われた。わたしが聖であるから、あなたがたも聖であれ、と。人は普通に生きているなら、徐々に、堕落へと落ちて行ってしまう。
ちょうど水の中では泳いでいないと、沈んで行ってしまうように。だから、聖となるために、もがくべきだ。
ダビデは、せっかく正しく歩んでいたのに、気を抜いて、忠実な部下の血を流し、その妻を奪うという罪を犯してしまった。しかし彼は、それを主から指摘された時、悔い改め、祈り、正しく在ろうと、もがいた。
もちろん彼は、犯した罪の支払いとして、多くの苦しみを経なくてはならなかったが、主は、彼から恵みを取り上げる事なく、彼の栄光の家系は、保たれた。主の命令形動詞は、私達の従順する行動と関係があり、その実である「新創造」は、御言葉に労苦して従い続ける事によって、結ばれる。主の命令に従い、ますます新創造が形造られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

自分の家を喜びの園とするために(創世記2:15-17)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今年はじめに与えられた御言葉はイザヤ65章から、主は新しい創造をされる事、そして、主が創造されたものは喜びと楽しみ、笑いに満ちたものだという事だった。主は、人が喜ぶ事を望んでおられる故に、主は人を創られると、早速エデン(喜び)の園に置かれた。主はエデンを散歩(ハーラフ)し(3:8)、アダムとエバも主と共に歩み、そこには完全な秩序があり、彼らは何のわだかまりも無く、喜びの交わりをしていた。
主は御言葉によって全てのものを創造され、そして御言葉によって創造されたものは全て「良い」ものだ。
人が御言葉に従って歩む時、主の良き創造の中で大いに喜び楽しむ事ができる。
しかし御言葉に逆らうなら、それを続ける事はできない。御言葉に逆らう時、人は主の御顔から逃げ隠れし、主の御言葉による指摘に対し言い訳をしたり、人のせいにしたり、ついには神のせいにしたりしてしまい(3:8-13)、ついには、エデン(喜びから締め出されてしまう。主が人をエデンから追放した、と言うより、人が「喜びの源」すなわち御言葉を追放し、それ故、みずからエデン(喜び)を追放してしまったのだ。
私たちはどうしたら、主の創造の良き所、エデン(喜び)に留まり続けられるのか。それを本日学びたい。

エデンを「喜びの園」としてキープし続ける責任は、私達・人間の側にある。
『主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:15)
楽園は、何もしなくて良いバカンス地ではなく、「耕す」事、「守る」事の二つをしなくてはならない所である。
まず、「耕す」と訳された語「アバァド」は「従事する」「仕える」の意味があり、「耳」と関連ある言葉である。(出21:6)
喜びの園は、喜びを豊かに実らせ続けるために、主の御言葉を耳で聞き、それに従事するべき所である。
神はまことのぶどう園の農夫であり(ヨハネ15章)、枝の中で実を結ばないものは、剪定する(ヨハネ15:2)。
同様に私達も、御前で実を結ばない「わざ」や「考え方」などを、自分から断ち切り、実を結ぶものには、どんどん肥料を与え、「喜び」を豊かに実らせるように働くべきなのだ。
次に、「守る」のヘブライ語「シャマール」は、持続させガードする事である。すなわち、主の喜びを邪魔するいばらやあざみを刈り取り、ぶどう畑を荒らすきつねを追い出し、入って来ないようガードするのだ。
これを怠ると、次のようになる。『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面を覆い、その石垣はくずれていた。』(箴言24:30 -31)
私達は夫婦関係や親子関係、経済などが「喜びの園」となるためには、御言葉によって維持管理すべきであり、それを怠けるなら、いばらやあざみが生え、石垣は崩れ、荒らすきつねが自由に出入りし放題となり、大切な夫婦・親子関係が、経済が荒らされてしまう。だから、主が命じた通り「耕し」「守る」べきである。

また、主はエデンにおいて命じられた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ」(2:16-17)
喜びの園の中央には、「いのちの木」と、「善悪を知る木」があって、主は「善悪を知る木」から取って食べるな、と言われた。それと同じように、私達の家庭も、いのちを選んで食べるか、それとも善悪知識を選んで食べるか、という二者択一がいつも置かれていて、そして善悪を取って食べるなら、死をもたらしてしまう。
イエス様の言葉は霊であり、いのちである。(ヨハネ6:63) 私達が自分の家を、喜びの園としてキープし続けたいのなら、いつも、御言葉を取って食べ続け、自分の独善的善悪判断を捨て続けるべきなのだ。
アブラハムの妻サラは、主の御言葉に付け加えをしてしまい(16章)、喜びも希望も失ってしまった。
主が直接現れ、約束の御言葉を思い起こさせても、彼女は心の中で笑い(ツァハァク)、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみ(エデン)などありえようか」と言った(18:12)。
しかし主は、恵みによって、サラの喜びを失ってしまった心に手(ユッド)を加え、聞けない耳・信じられない心を剪定し、彼女にイサク(イツァハァク = ツァハァク + ユッド)を回復させて下さった。
アダムは、エデンの園をしっかり管理し続け、一定の時を経た後に、主は伴侶を、家庭を与えられた。
結婚生活も家庭も、御言葉によって維持管理できる人が、豊かな喜びの実を結ばせる所である。
もしそこに、手前勝手な善悪判断を持ち込むなら、そこはたちまち責任のなすりつけ合いの場、いさかいの場となり、主の御前にやましくなり、主の臨在を恐れ隠れなくてはならない。家庭というエデンを御言葉で管理し、喜びの実りを豊かに結ばせる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

決して奪われない喜びを創造して下さる主(創世記18:9-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 年明けの瞬間から始まった天声の礼拝において、イザヤ65章から示された事は、主が新しく創造して下さる「新創造」を、いついつまでも喜び楽しめ、という事だった。主の御手が働かれる所には、喜び、楽しみ、笑いがある。主の御心は、私達がいつも主にあって喜ぶ事だ。(ヨハネ15:11, 17:13, 1テサロニケ5:16)
主は、人を創られると早速、創られた人をエデン(意味:喜び)の園に置かれた。人は本来、主の創造の源である御言葉の中に留まるべきだが、御言葉に背くなら、喜びの園から追放されてしまう。しかし御言葉に留まるなら、主の御言葉による新創造が働き、喜びが帰って来る。今回の箇所は、主が3人の人の姿をとってアブラハムに現れ、喜びを失ってしまった妻・サラに働き、彼女に喜びを返して下さる場面である。

アブラムが99歳の時、主は彼に現れ、アブラムにはアブラハム、妻サライにはサラという新しい名前を与え、またサラには男の子が生まれる事を約束し、その名を「イサク(意味:彼は笑う)」としなさい、と言われた。
その事があってから、まだそんなに日が経っていない時、主は3人の旅人の姿で彼らに現れる。
『そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。』(創世記18:10)
彼らは明らかに只者ではないが、サラはこの不思議な出来事を見ても、まだ心が塞がれていた。
『それでサラは心の中で笑って(ツァハァク:嘲笑、苦笑)言っ た、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみ(エデン)などありえようか」。』(12節) 彼女の心を塞いでいたものは、自分には子が生まれないという、何十年もずっと積み立てて来てしまった現実だった。子が生まれる事を、何十年も望みながらも、ずっと叶えられずに過ごし、年老いて、ついに女の道も途絶えてしまった現実。
その現実をなんとか受け止め、強がって、世間で流行っていた方法に従い、女奴隷にアブラハムの子を生ませてみても、かえってもっと惨めで悔しい思いをするだけだった。だから今更、こんな不思議な人達に「子が生まれる」と言われても、わたしに何の楽しみ(エデン)があろうか、と、心でつぶやくしかなかった。
ところが心にその言葉が浮かんだとたん、彼女は心に巡らしていた「現実」から「真実」に引きずり出される。
『主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑った(ツァハァク)のか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。』(13-15節)
サラはとてつもなく驚いただろう。恐れただろう。しかしそれは幸いである。絶望と倦怠感に淀み切っていた心に、主が御手を触れ、「真実」によってそれを粉々に砕き、新しい創造を与えられるのだから。
そして実際に来年、100歳のアブラハム、90歳のサラの間に、息子イサクが生まれたのだ。

主はなぜ「笑い」にこだわられたのか。ヘブライ語で見ると、主の意図が浮かび上がってくる。
「ツァハァク」(צְ (ツァディ)+חָ (ヘット)+ק (クフ))の意味は「笑い(嘲笑、冷笑など)」だが、その最初に「יִ (ユッド)」が加わるとイツァハァク、すなわちイサクとなる。文字ユッドの意味は「手、働き」であった。
サラは最初、心なしの笑いをした。ため息混じりの苦笑しか出て来なかったが、そこに主の手が加わった。
人の笑いや嘲笑に、主の御手が加わると、主の新しい創造が生まれ、死んだも同様のアブラハムとサラの間にイサクが、すなわち、決して失われない真の笑いが生まれ、そしてその子孫は、星の数のようになる。
なお、ゲマトリア(ヘブライ語の数字変換)から見ると、ツァディは90、ヘットは8、クフは100であるが、100と90は、イサクが生まれた時のアブラハムとサラの歳だ。そして8は、割礼の日の数字である。主は、アブラハムに割礼の契約を与え、サラも、硬い肉的な思い込みに切り込みを入れられ、そうしてイサクが生まれた。
「サラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。」(21:6)
私達も、どんなに無気力な笑いや冷笑しか出てこなくても、そこに主の御手が働く時、人のわざでは到底有り得ない「いのち」が創造される。そして主が働く時、私達は決して奪われない喜びと笑いに満ち溢れる。
今、日本のインターネット上は、冷笑、苦笑、望みを失った笑いに満ちている。この国を真の喜びで満たす事が出来るお方は、ただ、主イエス様だけである。主によって決して奪われない喜びと笑いに満たされ、そうしてこの国に真の喜びを届けて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

日々、新しく造り変えられていく事を目指して(イザヤ65:17-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

 新年おめでとうございます!古いものを過ぎ去らせ、新しくしてくださる主を誉めたたえます。
主を喜ぶ人を、主は喜んでくださり、特に、初物を捧げる人を主は喜ばれ、その人には、さらに増し加えて与えて下さいます。世の中には、新年最初のこの時間を、レジャーやイベントに興じる人々は多いですが、そんな中、誰よりも先んじて主に捧げた皆様を、主が、誰より先んじる祝福を与えて下さいますように!

『見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。先の事は覚えられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。』(17-19)
主は確かに新天新地を創造されますが、イエス様を信じる私達は現在、その前味わいとして、日々、新しくされています。それはイエス様を信じる信仰と、それに基づいた歩みに基づくものですが、主はそんな私たちに「わたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。」と言われます。(18節)
「楽しみ喜べ」。命令として言われたからには、私たちは一切遠慮する事なく、主が与えて下さる新創造を、ただ、心の底から喜べば良いのです。
今、私たちは確かに主が創造された世界の中に生きてはいますが、アダムとエバは、その主が創造されたあらゆる良きものを、台無しにしてしまいました。主の言葉に逆らい、自分勝手な行動をしたからです。
彼ら以来、全被造物は破壊され、汚染され、その呪いと悲しみ・うめきの中にあります。全被造物は、神の子達の現れを待ち望んでいます。イエス様を信じて神の子とされた者達のあらわれを。(ローマ8章)

私たちは新創造、すなわち神の子に変えられる事を、実際的な希望として、望んで生きていくべきです。
私たちが全く新しく変えられ、その新創造の中で喜びを得るために支払うべきものがあります。それは、信仰です。祝福と慰め、癒し、力、勝利は、それを主に支払った人達にこそ与えられる特権です。
イエス様を自分の主とする人は、確かに救われ、新しく造り変えられ、喜びと開放感を感じるようになります。
しかし肝心な事は、それをキープし続け、イエス様と共に歩み続けていく事です。
信仰の先人たち、アブラハムやノア、エノクは皆、「神と共に歩み続けた人達」です。彼ら自身が誰よりも強かったり正しかったりしたからではありません。彼らが「主と共に歩んだ」からこそ、彼らは主の民とされ、義人として数えられたのです。私たちはキリストと共に歩み、日々救われ、義とされ、究極的には、キリストの姿形に変えられる事が目標です。 『しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。』(ピリピ3:20-21)

私たちは最終的には栄光の姿、永遠のものに変えられる、という点にこそ希望を持たなくてはなりません。
栄光の体に変えられたの自分の姿を、しっかり見れない所に、失望の原因があるからです。
イエス様に従って歩む歩みの中では、確かに、問題の解決や必要の満たし、勝利や癒しはあるでしょう。
ただ単に、願い事を叶えたいというのであれば、そういう「神々」と呼ばれるものは、世の中沢山あります。
しかし、全てを最善へと導き、最終的には神の御子の栄光の姿形へと変えて下さる神は、唯一、イエス様だけです。ですから、諸々の問題が一時的に解決された事を喜ぶだけでなく、問題が起きたなら、キリストへと向き、御言葉から解決を頂き、キリストの姿へと一歩前進した事をしっかり認知し、それをバネにして、さらにさらにキリストの似姿へと変えられて行く、というサイクルに入る事が必要です。
問題が起きた、それが解決した、また問題が起きた、それが解決した、の連続だけでは、ただ平行線をたどるだけで、進歩がありません。もし主が問題を与えて下さったなら、イエス様を見上げ、御言葉を元に解決して行こうとするなら、その過程で信仰と忍耐と御言葉が自分自身に混ぜられ、その都度、キリストの似姿に変えられて行き、より問題に捕われにくい、より完全に近づいた者とされ、そうしてどんどんキリストに近づいていくのです。
この2017年、皆さんの身に、実生活に、さらに新創造が体現され、さらにキリストに似た者とされ、神である主に喜ばれる者とされていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

この上もない大きな喜びを頂くために(マタイ2:1-12)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日はクリスマス、救い主キリストがこの世にご降誕された事を覚え、祝う日である。世間はきらびやかに輝き、親しい人同士でも、商業でも、大いに盛り上がっているが、それらはつかの間の喜びで、すぐに消えてしまう。実際、12月25日を過ぎると、あのお祭り騒ぎは一体何だったのか、と、虚しさを覚える人は多い。
ご存知だろうか。決して奪い去られない喜びがある事を。その喜びの根源は、クリスマスの主人公・キリストである。キリストに会うなら、その心は喜びに満たされ、その喜びを取り去る者は何も無い。(ヨハネ16:22)
最初のクリスマスの時、世の何にも勝る大きな喜びを得た博士達から、その喜びを受けるコツを学びたい。

キリストがご降誕された当時、東方の博士達がエルサレムの宮廷を訪ねて来た。『「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました」。ヘロデ王はこの事を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。』(2-3節)
預言されていた真の王が来る。それは多くのユダヤ人が待ち望んでいた事、のはずだったが、いざ、その王がお生まれになった事を聞くと、恐れや不安というリアクションが返って来た。彼らは結局、表向きは御言葉を敬ってはいても、実際は、きらびやかな自分の宮廷の中で、自分が王であり続けたいのだ。
いかに自分で自分をきらびやかに飾っても、神の大きな喜びには、あずかれない。当時、その喜びにあずかれた人は、宮廷には誰もいなかった。あずかれたのは、ただ異邦の博士たちだけだった。
博士たちは、ユダヤ人の王がお生まれになった事のしるし(星)を見て、 東方の遠くから旅をして来た。
その目的は、その方を「拝むため」。彼らはこの時、御言葉は知らないで来た。ただ天のしるしを見て、全世界を治める王がご到来した事を、それとなく知り、旅支度を整えて、贈り物を携えて、遠くから来たのだ。
神は、天から「求める心」「敬う心」「捧げる心」を持つ人をご覧になり、特別に扱われる。
彼らがエルサレム宮廷に行くと、ミカ書の御言葉が与えられ、行くべき場所はベツレヘムだと教えられた。
宮廷の者は御言葉を知っても誰も行かなかったが、博士たちは行った。結果、神の直接的な導きを受ける。
『見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。』(9-10節) 神はなんと、天体を動かして博士たちをキリストの元へと導いて下さったのだ。彼らは甚だ大きな喜びで喜んだ。(NKJV:rejoiced with exceedingly great joy)
私達はどのようにしたら博士たちのように神からの特別待遇を受け、はなはだ大きな喜びを得られるか。
それは、彼らのように、救い主キリストを求める心、敬う心、捧げる心を持って、行動する事である。
彼らはまず、天のしるし(サイン)を見、御言葉を求めてエルサレムへ行く行動に出た。そこで御言葉からベツレヘムであると聞くと、それに従って行った。結果、主ご自身が天を動かし、直接的な導きを得た。
私達も同じである。この時代のしるしを見極め、救い主のご到来が近いと悟ったなら、彼を求め、御言葉に聞き、それに従うなら、神は天を押し曲げて降りて来られ、私達は甚だ大きな喜びを喜ぶのだ。

マタイの福音書はイエス・キリストの系図で始まるが、系図の中には、本来神の民でない者なのに神の民に加えられた者がおり、また、本来神の民であるのに、除外されてしまった者達も、紙面の裏に隠れている。
神の民に入る鍵、また、神の民から除外されてしまう鍵は、「主を求める心」があるか、無いかである。
系図は14代で区切られているが、14はダビデ(דוד)の数字であり、ダビデの意味は「愛された者」である。
バビロン捕囚のような時代に生きていたとしても、預言が断たれてしまった時代であっても、そして、どんな血筋であったとしても、主を求める心を持つ人は、その14代(愛される者ダビデ)の家に、加えられるのだ。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。(ルカ2:11)」 普通、「ダビデの町」と言えば、エルサレムを意味するはずだが、羊飼い達は「ベツレヘムへ行こう(15節)」と言った。羊飼いという卑しい立場でありながら、彼らは預言者ミカの言葉を覚えており、ベツレヘム(パンの家)へ行って、見事、イエス様に辿りついたのだ。主を求める心を持つ人は、全て「主に愛される者(ダビデ)」であり、その人達(ダビデの町)のために、救い主はお生まれになったのだ。
クリスマス、というのに、誰もキリストを求めないような時代の中、博士たちや羊飼いのようにイエス様を求め、神様から素晴らしい特別待遇を味わい、何者も奪えない喜びにあずかる皆さんでありますように!

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