メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
神から来たのか、悪魔から来たのかの見極め方(ヤコブ3:13-18)
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週報/メッセージ(説教)概要
主にあって正しく歩みたいと願う人は、時に分からなくなる事がある。今の自分は果たして主の前に正しいのか正しくないのか、目の前に置かれたこの道は主から来たものなのか、それ以外から来たのか、また、この起きている出来事は拒絶すべき事なのか受け入れるべき事なのか。今回、その見極め方を学びたい。
今目の前に置かれたこの道、この思いは、果たして主から、上から来たものなのか。それとも自分の肉あるいは悪魔から来たものなのか、その見極めをしたい時は、次の御言葉を基準にすると良い。
『上からの知恵は、第一に清く(ハギノス:純粋さ、聖さ)、次に平和(エレニコス:平安・平和溢れる)、寛容(エピアケィス:優しい、親切な)、温順(ユパイセイス:温順な、従順な)であり、憐れみと良い実とに満ち、かたより見ず(アディアクリトス:えこひいきが無い)、偽りがない。』(ヤコブ3:17)
神から来るもの、上から来るものはまず、純粋である。すなわち表裏が無く、シンプルで、清いものだ。
また、平安が溢れるものである。その道に行くなら困難が待ち受けていると容易に想像できるとしても、主の平安があるなら、大丈夫だ。また、上から来る思いは、寛容であり、優しく親切であり、憐れみであり、そのような良い実を豊かに結ばせるものだ。そして、えこひいきが無く、偽りの無いものだ。
もし、行こうとしている道筋の動機に妬みや党派心があるなら、すなわち、神ではなく人を見たり、人と比べたり、人に媚びる要素があるなら、そのような知恵は上からのものでなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものであり、その先には、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある。(ヤコブ3:14-16)
主の御前に正しく歩む道は、「肉」の支配に導かれて歩むのではなく、御霊の支配下に導かれて歩む道であり、その道筋には、御霊の良い実(ガラテヤ5:22-23)が豊かに結んで行くものである。すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を。御霊によって歩む人は、どんな過酷な状況下でも、これらの良い実を着実に実らせる。それも、意識的にでなく、無理してでもなく、自然に。
御霊の対極にある「肉」とは、神を除外し霊を除外した人間生来の肉体的・魂的な力や欲望、考え方などで、肉に従って歩む人はどんなに頑張っても、「愛もどき」「喜びもどき」などを作る事しかできない。
次のリストは、私達の中から拒絶し、排除すべき「肉の行い」のリストである。『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである。・・・このようなことを行う(プラッソ)者は、神の国をつぐ事がない。』(ガラテヤ5:19-21)
ここの「行う」と訳されたギリシア語プラッソには、実行する、強要する、やって行く等の意味があり、ここでは現在形能動態が使われている。すなわち、これら肉の行いを「意図的に、自主的に、好きこのんで、行い続ける」ような者は、神の国をつぐ事がないのだ。しかしもし、本当はこれら肉の行いを止めたいのに止められないという場合は、どうしたらいいか。それは、自分の「肉の」力でやめようと努力しても、無理である。
髪の毛を上方に引っ張っても宙に浮く事はできない。それは法則だからだ。同じように、肉に従って歩んでしまうという「法則」に対抗するためには、「いのちの御霊の法則」に乗る事である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この世には重力の法則があり、それに縛られている限り、人は地上から離れる事はできない。しかしライト兄弟が飛行の法則を発見し、飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るようになったのと同じように、キリストがいのちの御霊の法則を開放した故、私達はキリストに乗って(信じて)、罪から離れる事が出来るのだ。
主は、私達が肉によって無力になって神の基準を全うできなくなっている所から救って下さるために、ご自分の御子を肉体を持った人としてお遣わしになり、肉において、罪を処罰された。(ローマ8:1-3)
この御子なるイエス様に、助けを求めるのだ。「イエス様、私は肉の行いを止められません。でも、御子なるイエス様が十字架上で肉を処罰された事を感謝します。あなたが十字架上で為された事を、私はイエス様を信じる信仰によって私にも成ったと信じ、感謝します」と宣言し、キリストの十字架上での「肉の処罰」を、自分自身にも適用するなら、助け主・聖霊様が与えられ、聖霊の支配下で肉の行いを抹殺して下さるのだ。
今の自分、これからの自分を御言葉によって見極め、御前できよく、正しい道に歩み、豊かな実りを結ばせて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
偶像(アイドル)に夢中になってはならない(レビ記26章)
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週報/メッセージ(説教)概要
先週、主が発せられる動詞には宣言型と命令形がある事を学んだ。主の宣言型動詞は100%成就し、生きていて、今も全宇宙の秩序が成り立っているが、唯一、人間には特別に「命令形動詞」が与えられた。
人が主の命令型動詞に服従するなら、宣言された通りの祝福が与えられ、逆らうなら、呪いが待っている。
祝福と呪いの分岐点はシンプルで、主の御言葉に聞き従い守り行うなら祝福が、聞き従わず守り行わないなら呪いが待っている(申命記28章)。今回、この祝福と呪いの大本を、レビ記26章から学びたい。
レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる事だ。祝福と呪いの大本は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像を造ってはならない」である。
これはとても大切であり、十戒の第一・第二にもある程だ。もし自分と主との間に何かを置き、主よりもそちらを優先するなら、それが偶像だ。それはお金であったり、異性であったり、自分自身であったりする。
偶像は元々、無益・無駄なイメージ、英語ではアイドルである。現代、スマホから来る無益な映像やゲームも、まさにそれではなかろうか。それは魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」のだ。
夢中になるアイドル、それは最初は甘くても後には苦くなり、人から、社会から、主から見捨てられてしまう。
偶像によってまず壊れるのは、主との関係で、安息日を守る事、聖所を敬う事が、おろそかになって行く。
命令の順序は、第一に偶像の禁止、次に礼拝の尊守、その後に、主の命令を守り行う事だった。つまり順番として、もし偶像を作るなら、主との関係が壊れ、礼拝がおろそかになり、主の「しなさい、してはならない」が守れなくなって行く。だから偶像礼拝者に真っ先に現れる兆候は、約束を守れなくなる事である。
祝福の前提条件は「もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば」で、その人には主が豊かに雨を降らせ、豊かに実らせ、麦打ちは春から秋まで、秋の収穫は、種まきのシーズンまで続く程におびただしく穫れる。なぜなら、産まれて来る子もおびただしく増えるからだ。(4-13)
しかしもし御声に聞き従わず、守り行わず、主との契約を破るなら、来る呪いは段階的に厳しくなって行く。
まずは恐怖と病が降され、命がやせ細り、自分の労苦は他人に奪われる(14-16)。それでも立ち返らないなら、その罰は七倍重くなり、天は鉄のように雨を降らせず、地は青銅のように作物が出なくなり、力は無駄に費やされてしまう(19-20)。それでも聞かないなら、さらに七倍罰が重くなり、野獣がはびこって子供や家畜が奪われ、国が荒れ廃らされてしまう(21-22)。それでも聞かないならさらに罰は七倍重くなり、剣や疫病が国内に臨み、敵の手に渡されてしまう。また、食料が主に打たれ、ひもじくなってしまう(23-26)。
それでも聞かないなら、さらに罰は七倍重くなり、自分の子供を食べる程の深刻な食糧難となり、さらには、その地から追い出されて国々に散らされ、敵国にいるようになる。実際、そのような呪いを、イスラエルは全て味わい尽くしてしまった。なぜなら「主に聞き従わない事」を、し続けたからだ。主は代々預言者を通し、多くの不思議な事や奇跡を通して、警告して来たのを全部無視し、自分のアイドルを捨てなかったからだ。
イスラエル2500年の離散の根本と、ノアの洪水の根本は同じで、それは「異性」というアイドルだ。
イスラエルに偶像礼拝の元をつくってしまったのはソロモンであったが、彼は元々、主の御声に聞き従う人だった。しかし異性が彼の信仰を台無しにしてしまい、イスラエルに立派な神殿を建てたのに、多くの妻達に惑わされ、偶像の宮も建ててしまった。ダビデは罪を指摘されたら一度で悔い改めたが、ソロモンは二度戒めを受けたのに二度も蹴り、もはや戒めは与えられなくなった。彼は自分の好む女やアイドルを存分に耽り楽めたであろうが、その人生の最後は、全てが虚しいものとなってしまった。(伝道者の書)
彼がもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。
私達は盲目で、好き勝手な道を歩もうとしていても、主は災いという囲いで無理矢理祝福の道へと導いて下さる。主の道に歩む幸いは、押入れゆすり入れの祝福、災いもまた、踏んだり蹴ったりの「祝福」なのだ。
主の「創造(バラ)」の目的(創世記1:1)
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年のはじめより、主の新創造を喜び楽しむようにと、イザヤ65章から示されていた。今回はその「創造」の意味を探って行きたい。「創造」のヘブライ語は「バラ(ברא)」、聖書で最も最初に宣言される動詞である。
『はじめに(ベレシート)神は天と地とを「創造された(バラ)」。 』(創世記1:1) この「バラ」は「創造する」と訳されているが、「切り取る」という意味もある。つまり神は、時の概念の無い「永遠」から有限の「時」を切り出し、無限世界から、「宇宙」という有限世界を切り出して、人が住める秩序のある世界を創られたのだ。
創世記1:1のバラは、宣言型動詞である。神の宣言型動詞は必ず「そうなる」もので、「在り続ける」。
聖書にはもうひとつ、「命令型動詞」というものがあり、それは、人に対して発せられる命令で、人はそれに対しては従う事が要求される。それは、人の自由意志によって破られる事もあるが、もし破るなら、記されている通りの災いが起きてしまう。もし従順するなら、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)
天地創造以来、神のバラの宣言型動詞は生き続けており、維持され続けている。神が「光よあれ」と宣言されて出来た光は、今も存在している。また、神が海の水に対し「ここまでは来てもよい、しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」(ヨブ38:11)と宣言された事は、ずっと保たれて来た。
それは、主が人を生かすための恵みの故であったが、人が主の命令に背くなら、秩序は破壊されてしまう。
主のバラ(創造)は、ことごとく良いものだが、人が主の命令を破ってしまった故に、主の良き創造は破壊され、破った人間自身に、死と呪いがもたらされてしまった。しかし神は、憐れみ深い。聖書の大部分、すなわち創世記3章から黙示録までは、人が壊してしまった創造秩序の、神による回復の努力である。
現存している有限の宇宙は、やがて巻き去られなくなり、永遠・無限の新世界が主によって新創造される。すなわち、創世記では、はじめに(ベレシート)神は無限から有限な世界を切り出して「無」から「有」を創造し、しかし、人がその良き創造を台無しにしてしまったが、黙示録では、主がその世界を回復させ、不完全になった「有」を、一旦「無」へと帰し、永遠・無限・完全を新創造するという、壮大なキアズムなのだ。
神ははじめに、全宇宙や天体を創造し、空と海、大地を創り、動植物を創り、それら全ては神の宣言型動詞によって今も生き続け、動き、持続し続けている。しかし人は、自由意志によって神の命令に逆らい、死と呪いを招いてしまった。そこから救われるためには、神の御言葉に従順する事である。
『あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。』(レビ記18:5) 神の命令型動詞に従順する時、その人の中で再び神の「バラ」が起きる。
主は、罪と背きを重ねて、主に打たれ、砕かれ、悲しむ人に、唇の実を「バラ」される。(イザヤ57:15-19)
重大な罪を犯したダビデも、詩篇51篇で祈っている。『わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり(バラ)、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。・・・主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。・・・神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 』(詩篇51:8-10,15,17)
つまり、人が自分の身勝手によって、主の良き創造を破壊し、その喜び(エデン)から追放され、苦しみ悲しんでいる人は、砕かれた心従う心をもって主の前に出て悔い改める事によって、その人の中に主の新創造が働き、新しい清い心が、揺るがない新しい霊が、そして喜びの賛美が、主によって創造されるのだ。
祝福の新創造が与えられる条件は、主の命令型動詞への服従である。主は言われた。わたしが聖であるから、あなたがたも聖であれ、と。人は普通に生きているなら、徐々に、堕落へと落ちて行ってしまう。
ちょうど水の中では泳いでいないと、沈んで行ってしまうように。だから、聖となるために、もがくべきだ。
ダビデは、せっかく正しく歩んでいたのに、気を抜いて、忠実な部下の血を流し、その妻を奪うという罪を犯してしまった。しかし彼は、それを主から指摘された時、悔い改め、祈り、正しく在ろうと、もがいた。
もちろん彼は、犯した罪の支払いとして、多くの苦しみを経なくてはならなかったが、主は、彼から恵みを取り上げる事なく、彼の栄光の家系は、保たれた。主の命令形動詞は、私達の従順する行動と関係があり、その実である「新創造」は、御言葉に労苦して従い続ける事によって、結ばれる。主の命令に従い、ますます新創造が形造られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
自分の家を喜びの園とするために(創世記2:15-17)
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今年はじめに与えられた御言葉はイザヤ65章から、主は新しい創造をされる事、そして、主が創造されたものは喜びと楽しみ、笑いに満ちたものだという事だった。主は、人が喜ぶ事を望んでおられる故に、主は人を創られると、早速エデン(喜び)の園に置かれた。主はエデンを散歩(ハーラフ)し(3:8)、アダムとエバも主と共に歩み、そこには完全な秩序があり、彼らは何のわだかまりも無く、喜びの交わりをしていた。
主は御言葉によって全てのものを創造され、そして御言葉によって創造されたものは全て「良い」ものだ。
人が御言葉に従って歩む時、主の良き創造の中で大いに喜び楽しむ事ができる。
しかし御言葉に逆らうなら、それを続ける事はできない。御言葉に逆らう時、人は主の御顔から逃げ隠れし、主の御言葉による指摘に対し言い訳をしたり、人のせいにしたり、ついには神のせいにしたりしてしまい(3:8-13)、ついには、エデン(喜びから締め出されてしまう。主が人をエデンから追放した、と言うより、人が「喜びの源」すなわち御言葉を追放し、それ故、みずからエデン(喜び)を追放してしまったのだ。
私たちはどうしたら、主の創造の良き所、エデン(喜び)に留まり続けられるのか。それを本日学びたい。
エデンを「喜びの園」としてキープし続ける責任は、私達・人間の側にある。
『主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:15)
楽園は、何もしなくて良いバカンス地ではなく、「耕す」事、「守る」事の二つをしなくてはならない所である。
まず、「耕す」と訳された語「アバァド」は「従事する」「仕える」の意味があり、「耳」と関連ある言葉である。(出21:6)
喜びの園は、喜びを豊かに実らせ続けるために、主の御言葉を耳で聞き、それに従事するべき所である。
神はまことのぶどう園の農夫であり(ヨハネ15章)、枝の中で実を結ばないものは、剪定する(ヨハネ15:2)。
同様に私達も、御前で実を結ばない「わざ」や「考え方」などを、自分から断ち切り、実を結ぶものには、どんどん肥料を与え、「喜び」を豊かに実らせるように働くべきなのだ。
次に、「守る」のヘブライ語「シャマール」は、持続させガードする事である。すなわち、主の喜びを邪魔するいばらやあざみを刈り取り、ぶどう畑を荒らすきつねを追い出し、入って来ないようガードするのだ。
これを怠ると、次のようになる。『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面を覆い、その石垣はくずれていた。』(箴言24:30 -31)
私達は夫婦関係や親子関係、経済などが「喜びの園」となるためには、御言葉によって維持管理すべきであり、それを怠けるなら、いばらやあざみが生え、石垣は崩れ、荒らすきつねが自由に出入りし放題となり、大切な夫婦・親子関係が、経済が荒らされてしまう。だから、主が命じた通り「耕し」「守る」べきである。
また、主はエデンにおいて命じられた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ」(2:16-17)
喜びの園の中央には、「いのちの木」と、「善悪を知る木」があって、主は「善悪を知る木」から取って食べるな、と言われた。それと同じように、私達の家庭も、いのちを選んで食べるか、それとも善悪知識を選んで食べるか、という二者択一がいつも置かれていて、そして善悪を取って食べるなら、死をもたらしてしまう。
イエス様の言葉は霊であり、いのちである。(ヨハネ6:63) 私達が自分の家を、喜びの園としてキープし続けたいのなら、いつも、御言葉を取って食べ続け、自分の独善的善悪判断を捨て続けるべきなのだ。
アブラハムの妻サラは、主の御言葉に付け加えをしてしまい(16章)、喜びも希望も失ってしまった。
主が直接現れ、約束の御言葉を思い起こさせても、彼女は心の中で笑い(ツァハァク)、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみ(エデン)などありえようか」と言った(18:12)。
しかし主は、恵みによって、サラの喜びを失ってしまった心に手(ユッド)を加え、聞けない耳・信じられない心を剪定し、彼女にイサク(イツァハァク = ツァハァク + ユッド)を回復させて下さった。
アダムは、エデンの園をしっかり管理し続け、一定の時を経た後に、主は伴侶を、家庭を与えられた。
結婚生活も家庭も、御言葉によって維持管理できる人が、豊かな喜びの実を結ばせる所である。
もしそこに、手前勝手な善悪判断を持ち込むなら、そこはたちまち責任のなすりつけ合いの場、いさかいの場となり、主の御前にやましくなり、主の臨在を恐れ隠れなくてはならない。家庭というエデンを御言葉で管理し、喜びの実りを豊かに結ばせる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
決して奪われない喜びを創造して下さる主(創世記18:9-15)
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年明けの瞬間から始まった天声の礼拝において、イザヤ65章から示された事は、主が新しく創造して下さる「新創造」を、いついつまでも喜び楽しめ、という事だった。主の御手が働かれる所には、喜び、楽しみ、笑いがある。主の御心は、私達がいつも主にあって喜ぶ事だ。(ヨハネ15:11, 17:13, 1テサロニケ5:16)
主は、人を創られると早速、創られた人をエデン(意味:喜び)の園に置かれた。人は本来、主の創造の源である御言葉の中に留まるべきだが、御言葉に背くなら、喜びの園から追放されてしまう。しかし御言葉に留まるなら、主の御言葉による新創造が働き、喜びが帰って来る。今回の箇所は、主が3人の人の姿をとってアブラハムに現れ、喜びを失ってしまった妻・サラに働き、彼女に喜びを返して下さる場面である。
アブラムが99歳の時、主は彼に現れ、アブラムにはアブラハム、妻サライにはサラという新しい名前を与え、またサラには男の子が生まれる事を約束し、その名を「イサク(意味:彼は笑う)」としなさい、と言われた。
その事があってから、まだそんなに日が経っていない時、主は3人の旅人の姿で彼らに現れる。
『そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。』(創世記18:10)
彼らは明らかに只者ではないが、サラはこの不思議な出来事を見ても、まだ心が塞がれていた。
『それでサラは心の中で笑って(ツァハァク:嘲笑、苦笑)言っ た、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみ(エデン)などありえようか」。』(12節) 彼女の心を塞いでいたものは、自分には子が生まれないという、何十年もずっと積み立てて来てしまった現実だった。子が生まれる事を、何十年も望みながらも、ずっと叶えられずに過ごし、年老いて、ついに女の道も途絶えてしまった現実。
その現実をなんとか受け止め、強がって、世間で流行っていた方法に従い、女奴隷にアブラハムの子を生ませてみても、かえってもっと惨めで悔しい思いをするだけだった。だから今更、こんな不思議な人達に「子が生まれる」と言われても、わたしに何の楽しみ(エデン)があろうか、と、心でつぶやくしかなかった。
ところが心にその言葉が浮かんだとたん、彼女は心に巡らしていた「現実」から「真実」に引きずり出される。
『主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑った(ツァハァク)のか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。』(13-15節)
サラはとてつもなく驚いただろう。恐れただろう。しかしそれは幸いである。絶望と倦怠感に淀み切っていた心に、主が御手を触れ、「真実」によってそれを粉々に砕き、新しい創造を与えられるのだから。
そして実際に来年、100歳のアブラハム、90歳のサラの間に、息子イサクが生まれたのだ。
主はなぜ「笑い」にこだわられたのか。ヘブライ語で見ると、主の意図が浮かび上がってくる。
「ツァハァク」(צְ (ツァディ)+חָ (ヘット)+ק (クフ))の意味は「笑い(嘲笑、冷笑など)」だが、その最初に「יִ (ユッド)」が加わるとイツァハァク、すなわちイサクとなる。文字ユッドの意味は「手、働き」であった。
サラは最初、心なしの笑いをした。ため息混じりの苦笑しか出て来なかったが、そこに主の手が加わった。
人の笑いや嘲笑に、主の御手が加わると、主の新しい創造が生まれ、死んだも同様のアブラハムとサラの間にイサクが、すなわち、決して失われない真の笑いが生まれ、そしてその子孫は、星の数のようになる。
なお、ゲマトリア(ヘブライ語の数字変換)から見ると、ツァディは90、ヘットは8、クフは100であるが、100と90は、イサクが生まれた時のアブラハムとサラの歳だ。そして8は、割礼の日の数字である。主は、アブラハムに割礼の契約を与え、サラも、硬い肉的な思い込みに切り込みを入れられ、そうしてイサクが生まれた。
「サラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。」(21:6)
私達も、どんなに無気力な笑いや冷笑しか出てこなくても、そこに主の御手が働く時、人のわざでは到底有り得ない「いのち」が創造される。そして主が働く時、私達は決して奪われない喜びと笑いに満ち溢れる。
今、日本のインターネット上は、冷笑、苦笑、望みを失った笑いに満ちている。この国を真の喜びで満たす事が出来るお方は、ただ、主イエス様だけである。主によって決して奪われない喜びと笑いに満たされ、そうしてこの国に真の喜びを届けて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
日々、新しく造り変えられていく事を目指して(イザヤ65:17-25)
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新年おめでとうございます!古いものを過ぎ去らせ、新しくしてくださる主を誉めたたえます。
主を喜ぶ人を、主は喜んでくださり、特に、初物を捧げる人を主は喜ばれ、その人には、さらに増し加えて与えて下さいます。世の中には、新年最初のこの時間を、レジャーやイベントに興じる人々は多いですが、そんな中、誰よりも先んじて主に捧げた皆様を、主が、誰より先んじる祝福を与えて下さいますように!
『見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。先の事は覚えられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。』(17-19)
主は確かに新天新地を創造されますが、イエス様を信じる私達は現在、その前味わいとして、日々、新しくされています。それはイエス様を信じる信仰と、それに基づいた歩みに基づくものですが、主はそんな私たちに「わたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。」と言われます。(18節)
「楽しみ喜べ」。命令として言われたからには、私たちは一切遠慮する事なく、主が与えて下さる新創造を、ただ、心の底から喜べば良いのです。
今、私たちは確かに主が創造された世界の中に生きてはいますが、アダムとエバは、その主が創造されたあらゆる良きものを、台無しにしてしまいました。主の言葉に逆らい、自分勝手な行動をしたからです。
彼ら以来、全被造物は破壊され、汚染され、その呪いと悲しみ・うめきの中にあります。全被造物は、神の子達の現れを待ち望んでいます。イエス様を信じて神の子とされた者達のあらわれを。(ローマ8章)
私たちは新創造、すなわち神の子に変えられる事を、実際的な希望として、望んで生きていくべきです。
私たちが全く新しく変えられ、その新創造の中で喜びを得るために支払うべきものがあります。それは、信仰です。祝福と慰め、癒し、力、勝利は、それを主に支払った人達にこそ与えられる特権です。
イエス様を自分の主とする人は、確かに救われ、新しく造り変えられ、喜びと開放感を感じるようになります。
しかし肝心な事は、それをキープし続け、イエス様と共に歩み続けていく事です。
信仰の先人たち、アブラハムやノア、エノクは皆、「神と共に歩み続けた人達」です。彼ら自身が誰よりも強かったり正しかったりしたからではありません。彼らが「主と共に歩んだ」からこそ、彼らは主の民とされ、義人として数えられたのです。私たちはキリストと共に歩み、日々救われ、義とされ、究極的には、キリストの姿形に変えられる事が目標です。 『しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。』(ピリピ3:20-21)
私たちは最終的には栄光の姿、永遠のものに変えられる、という点にこそ希望を持たなくてはなりません。
栄光の体に変えられたの自分の姿を、しっかり見れない所に、失望の原因があるからです。
イエス様に従って歩む歩みの中では、確かに、問題の解決や必要の満たし、勝利や癒しはあるでしょう。
ただ単に、願い事を叶えたいというのであれば、そういう「神々」と呼ばれるものは、世の中沢山あります。
しかし、全てを最善へと導き、最終的には神の御子の栄光の姿形へと変えて下さる神は、唯一、イエス様だけです。ですから、諸々の問題が一時的に解決された事を喜ぶだけでなく、問題が起きたなら、キリストへと向き、御言葉から解決を頂き、キリストの姿へと一歩前進した事をしっかり認知し、それをバネにして、さらにさらにキリストの似姿へと変えられて行く、というサイクルに入る事が必要です。
問題が起きた、それが解決した、また問題が起きた、それが解決した、の連続だけでは、ただ平行線をたどるだけで、進歩がありません。もし主が問題を与えて下さったなら、イエス様を見上げ、御言葉を元に解決して行こうとするなら、その過程で信仰と忍耐と御言葉が自分自身に混ぜられ、その都度、キリストの似姿に変えられて行き、より問題に捕われにくい、より完全に近づいた者とされ、そうしてどんどんキリストに近づいていくのです。
この2017年、皆さんの身に、実生活に、さらに新創造が体現され、さらにキリストに似た者とされ、神である主に喜ばれる者とされていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
この上もない大きな喜びを頂くために(マタイ2:1-12)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日はクリスマス、救い主キリストがこの世にご降誕された事を覚え、祝う日である。世間はきらびやかに輝き、親しい人同士でも、商業でも、大いに盛り上がっているが、それらはつかの間の喜びで、すぐに消えてしまう。実際、12月25日を過ぎると、あのお祭り騒ぎは一体何だったのか、と、虚しさを覚える人は多い。
ご存知だろうか。決して奪い去られない喜びがある事を。その喜びの根源は、クリスマスの主人公・キリストである。キリストに会うなら、その心は喜びに満たされ、その喜びを取り去る者は何も無い。(ヨハネ16:22)
最初のクリスマスの時、世の何にも勝る大きな喜びを得た博士達から、その喜びを受けるコツを学びたい。
キリストがご降誕された当時、東方の博士達がエルサレムの宮廷を訪ねて来た。『「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました」。ヘロデ王はこの事を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。』(2-3節)
預言されていた真の王が来る。それは多くのユダヤ人が待ち望んでいた事、のはずだったが、いざ、その王がお生まれになった事を聞くと、恐れや不安というリアクションが返って来た。彼らは結局、表向きは御言葉を敬ってはいても、実際は、きらびやかな自分の宮廷の中で、自分が王であり続けたいのだ。
いかに自分で自分をきらびやかに飾っても、神の大きな喜びには、あずかれない。当時、その喜びにあずかれた人は、宮廷には誰もいなかった。あずかれたのは、ただ異邦の博士たちだけだった。
博士たちは、ユダヤ人の王がお生まれになった事のしるし(星)を見て、 東方の遠くから旅をして来た。
その目的は、その方を「拝むため」。彼らはこの時、御言葉は知らないで来た。ただ天のしるしを見て、全世界を治める王がご到来した事を、それとなく知り、旅支度を整えて、贈り物を携えて、遠くから来たのだ。
神は、天から「求める心」「敬う心」「捧げる心」を持つ人をご覧になり、特別に扱われる。
彼らがエルサレム宮廷に行くと、ミカ書の御言葉が与えられ、行くべき場所はベツレヘムだと教えられた。
宮廷の者は御言葉を知っても誰も行かなかったが、博士たちは行った。結果、神の直接的な導きを受ける。
『見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。』(9-10節) 神はなんと、天体を動かして博士たちをキリストの元へと導いて下さったのだ。彼らは甚だ大きな喜びで喜んだ。(NKJV:rejoiced with exceedingly great joy)
私達はどのようにしたら博士たちのように神からの特別待遇を受け、はなはだ大きな喜びを得られるか。
それは、彼らのように、救い主キリストを求める心、敬う心、捧げる心を持って、行動する事である。
彼らはまず、天のしるし(サイン)を見、御言葉を求めてエルサレムへ行く行動に出た。そこで御言葉からベツレヘムであると聞くと、それに従って行った。結果、主ご自身が天を動かし、直接的な導きを得た。
私達も同じである。この時代のしるしを見極め、救い主のご到来が近いと悟ったなら、彼を求め、御言葉に聞き、それに従うなら、神は天を押し曲げて降りて来られ、私達は甚だ大きな喜びを喜ぶのだ。
マタイの福音書はイエス・キリストの系図で始まるが、系図の中には、本来神の民でない者なのに神の民に加えられた者がおり、また、本来神の民であるのに、除外されてしまった者達も、紙面の裏に隠れている。
神の民に入る鍵、また、神の民から除外されてしまう鍵は、「主を求める心」があるか、無いかである。
系図は14代で区切られているが、14はダビデ(דוד)の数字であり、ダビデの意味は「愛された者」である。
バビロン捕囚のような時代に生きていたとしても、預言が断たれてしまった時代であっても、そして、どんな血筋であったとしても、主を求める心を持つ人は、その14代(愛される者ダビデ)の家に、加えられるのだ。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。(ルカ2:11)」 普通、「ダビデの町」と言えば、エルサレムを意味するはずだが、羊飼い達は「ベツレヘムへ行こう(15節)」と言った。羊飼いという卑しい立場でありながら、彼らは預言者ミカの言葉を覚えており、ベツレヘム(パンの家)へ行って、見事、イエス様に辿りついたのだ。主を求める心を持つ人は、全て「主に愛される者(ダビデ)」であり、その人達(ダビデの町)のために、救い主はお生まれになったのだ。
クリスマス、というのに、誰もキリストを求めないような時代の中、博士たちや羊飼いのようにイエス様を求め、神様から素晴らしい特別待遇を味わい、何者も奪えない喜びにあずかる皆さんでありますように!
マリヤとザカリヤに示された人類全体への救い(ルカ1:57-79)
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ルカ1章は、御使いがザカリヤに現れ彼の子供の誕生を予告する場面(A)に始まり、そして彼に子供が生まれる場面(A')に終わるが、その間に、マリヤに関する記事(B)がサンドイッチされ挟まっている。
サンドイッチ構造で一番注目すべきは、AとA'で挟まれている中身の「B」、すなわち、マリヤの記事であり、そしてマリヤの記事の中心は、前回見たとおり、彼女を通して生まれて来る男の子・イエスである。
サンドイッチのパンの部分(AとA')は、中身(B)を強調するためであるが、その「パンの部分」に注目する事によって、主がマリヤに宿らせたみどり子・イエス様は、どんな性質と役割があるのかを学ぶ事が出来る。
今回、ザカリヤの記事から、主はどのような意図をもってイエス様をこの世に送られたのかを学びたい。
ザカリヤとエリザベツの夫婦は、主の御前に正しく歩んでいたが、子に恵まれないまま老齢に達してしまった。ある日、日毎の香を捧げる役にザカリヤが選ばれ、多くの人々が外で祈っている中、彼が香を捧げるために聖所に入ると、なんと、聖所には御使いが立っていた。恐怖に襲われた彼に、御使いは言う。
「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節) 男の子が生まれる事は、この夫婦にとって長年の念願であった。
主は、御旨を成就するために、敢えて、用いる人の力と願望が尽き果てるまで待つ事がある。
マリヤやハンナのように、自分が大切に握りしめていた願望を、主の前に手放して、主に捧げる時、 主はそれを用いて大きな事に用い、そして多くの人々を救いへと導く手がかりを得られる。神はザカリヤに授ける子の名を「ヨハネ」と指示されたが、その名には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。先々週見た通り、ベレシートの初めに示された神の「おみやげ」は、十字架につけられた御子キリストである。
神がヨハネに計画していた事は、実に、イスラエルの多くの子らを主に立ち返らせ、父の心を子に向けさせ、そうして整えられた民を、「神の贈りもの」であるキリストの元へと導く事なのだ。(16-17)
ところがザカリヤは、御使いに答えた。「どうしてそんな事が、わたし(ギリシア語:エゴ)にわかるでしょうか。わたし(エゴ)は老人ですし、妻も年をとっています」(18節) マリヤは一切エゴを発言しなかったが、ザカリヤは、主の言葉に「エゴの納得」を求め、「エゴの立場表明」した。主から与えられた言葉にエゴを主張する者の口に与えられるしるしは、「閉ざされる事」である。彼は御言葉が成就するまで、話が出来なかった。
しかしその間、主の御言葉通り、妻エリザベツはみごもり、お腹の子もすくすくと成長して行く。そしていよいよ、念願の子が誕生した時、彼は自分(エゴ)の名をその子につけず、神から示されていた通り「ヨハネ」の名をその子につけた。その時、彼の口のもつれはほどけ、その唇の最初の言葉で主に賛美を捧げた。
もはや彼は、自分の願望を突き通すのではなく、主の御言葉とご計画を優先する人となり、自分の願望が叶えられる事に遥かに勝る喜びを得る者、すなわち、主を誉めたたえ、主の喜びを味わう者となった。
「主なるイスラエルの神は誉むべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、私達のために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。」(ルカ1:68-69) 彼が喜び称えたのは、神がその民を顧み、あがない(買い戻し)、救って下さるからだ。彼はこの賛歌の中で「救い」を特に強調している。すなわち、主は救いの角をダビデの家に建て(69)、敵の手から救い出し(71,74)、罪の赦しによる救いの知識を与えられる(77)、と。
このように、彼が喜んだのは、老齢でやっと子が誕生したという個人的願望が成就したからではない。彼はイスラエルの民の救いを、そして、いにしえの日にアブラハムに約束された救いの成就をこそ、喜んだのだ。
ルカ1章というクリスマスメッセージの中心部分を見る時、どうしてもマリヤやザカリヤなど「人間」がどう感じたか、という所に目が行きがちで、マリヤやザカリヤなど「人」の願望成就(ひいては私達の願望成就)について語られやすいが、主がこの全ての事を起こされた理由は、個人的願望の成就のためではなく、神の人類全体に対する救済、すなわち、主の恵みと憐れみ、救いを全人類へと示すためだ。
事実、御使いの言葉は主の「恵み」が強調され(28-38)、マリヤは賛美の中で繰り返し主の「憐れみ」を讃え(46-55)、ザカリヤは主の「救い」を繰り返し強調している(67-79)。このアドベントゥスの時期、すなわち主のご到来を待ち望むこの時期、主の救いが全人類に及ぶ事を祈り求める皆さんでありますように!
信仰と恵みが出会うとき体験するキリストの奇跡(ルカ1:26-56)
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『御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」』(28節)
イエス・キリストの母マリヤに対する受胎告知の場面は、有名である。「アヴェ・マリア」はラテン語で「おめでとうマリア」だが、この「おめでとう」はギリシア語では「カイロー」、挨拶言葉であり、元々は「喜ぶ」「嬉しがる」「良くなる」の意味の動詞である。そしてこの動詞の女性名詞が「カリス」、すなわち「恵み」である。
「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵み(カリス)を受けたのです。」(30節)
この「恵み」は、ヘブライ語ハナン、元々の意味は、「曲げる」「かがむ」で、すなわち、上位にある者が下位に降りて来て一方的に示す好意、慈愛、憐れみのわざを言う。恵みは、上から下に降りてくるものである。
マリヤは主からの一方的な好意をいただいて、聖霊によってイエス・キリストを宿して産んだ。彼女のような幸いを頂ける人は、どういう人だろう。このような恵みは、運命的・宿命的に選ばれて受けるものではなく、おのおのの意志と選択、そして行動によって、誰でも、神様から頂くものである。
マリヤは「ほんとうに私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)と御使いに答えた。またエリザベツは、マリヤを次のように評価して言った。「主によって語られた事は必ず実現すると信じきった(ピステウオー)人は、何と幸いな事でしょう」(45節)
つまり、マリヤのように、主からの特別なご好意に預かれる人とは、主の御言葉どおりを信じ、この身・この人生に成りますように、と宣言する人、また、主が語られた事は必ず実現すると信じきる人である。
主が語られた事(御言葉)を「信じる」人に、主の恵み(カリス)は降りて来て、そして奇跡が起きるのだ。
「信じる」はギリシア語はピスティス、ヘブライ語はエムナーであり、エムナーは「アーメン」という動詞の女性名詞である。エムナーが聖書で最初に出てくるのは出エジプト記17:12、イスラエルが戦う時にモーセが背後で祈りの手を上げ、アロンとフルがモーセの祈りの手が「上がっているように支えた」場面である。
エムナーには「上昇する」という概念があり、すなわち信仰は、天に向かって、立ち上るものである。
そしてエムナーの動詞「アーメン」には、元々「サポートする、確認する、忠実である」の意味がある。
聖書に一番最初にアーメンが出てくる場面は、創世記15:6であり、『アブラムは主を「信じた(アーメン)」。主はこれを彼の義と認められた。』とある。この主の御言葉にアーメンする事こそ、主に喜ばれ、義と認められる性質だ。 たとえ御言葉の内容が、いかに信じ難い事であったとしても。
「信じる」には「連合する(to unite)」、「結合する(to band)」の意味もあり、主とたばねられ、連合し、一つになる事である。もし祈りや賛美、献金が信仰によって束ねられるなら、それは天に登って行くが、信仰が結び付けられていないなら、いかに多くの祈りや賛美、献金を捧げても、何にもならない。
以上のように、下から登って行く私達の「信仰」と、神から降りてくる「恵み」とが出会う時、「奇跡」が起きる。
「奇跡」のヘブライ語は、オット(אוֹת: 右からアレフ、ヴァヴ、タウ)であるが、先週見たように、アレフには「神」の意味、ヴァヴは「釘」、タウは「十字架」の意味があった。すなわち神が十字架につけらる奇跡である。
十字架、それは自我の死ぬ所、すなわち、自分のしたい事や考えを下ろし、死に明け渡す場所である。
マリヤのように、自分の思いや考えは下ろし、ただ「あなたのおことばどおりこの身になりますように」という信仰を持つ時、イエス・キリストというお方を、聖霊によってみごもる(宿す)奇跡が与えられる。
マリヤは信じる事により、人によらず、聖霊によって、超自然的にイエス・キリストのいのちを宿した。
聖霊によるのでなければ、誰もイエスを主とはできない。しかし聖霊の促しによって御言葉を受け入れ、信じた人々は、キリストを宿し、神の子になれるという、驚くべき、超自然的な「奇跡」が、私達に起こる。
私達もマリヤのように、聖霊によってキリストのいのちを宿す事が出来るのだ。それは、マリヤが「お言葉どおりこの身になりますように」と言って御言葉を受け入れたように、御言葉(ロゴス)を信仰によって受け入れ、私達の心の内に混ぜ込む事によってである。(ヨハネ1:12)
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。」(ルカ1:46-49) このマリヤと同じ喜びを体験する皆さんでありますように!
聖書の最初に隠された、世に贈られるひとり子キリスト(イザヤ9:6-7)
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アドベント(待降節)第二週目、救い主のご到来(アドベントゥス)のために心備えをするこの時である。
預言者イザヤも、預言した。重要なひとりのみどりごが全人類のために与えられる事を。キリストは、ほふり場に引かれて行く小羊のように口を開かず、打たれ、砕かれる事を。そして、彼が罪過のいけにえとなる事によって、主の御心は成し遂げられ、彼は多くの人々の救いとなる事を。(イザヤ書53章)
実は、それらの事も聖書の一番はじめの言葉「בראשׁית(ベレシート:はじめに)」のヘブライ語6文字の中に隠されている。今回も、「ベレシート」に組み込まれた意味を「DNA解析」して掘り起こして行きたい。
「ベレシート(בראשׁית)」は、右からベート、レーシュ、アレフ、シン、ユッド、タヴの順に書くが、ヘブライ語アルファベットには一語一語意味がある。ベレシートを構成するそれぞれの語の意味は次の通りである。
「ベート(ב)」:テント、家、体、家族、中に、真っ最中/ど真ん中。 「レーシュ(ר)」:頭、一人の人、最も高い、最も重要な、チーフ。 「アレフ(א)」:雄牛、優しい、力、飼いならされた/従順な、リーダー、アドナイ、教える。 「シン(שׁ)」:歯、象牙、山頂/とがった、貪り食う、焼き尽くす、破壊する、何か尖ったもの、エルシャダイ(全能の神)。 「ユッド(י)」:手、働き、為した事、終えた仕事。 「タヴ(ת)」:マーク、しるし、xまたは十字、所有権、封を閉じる、契約/捺印、2つを一つにする、最後。 これらをつなげると、次のようになる。
「家、家庭のかしら。最も重要な、一人のチーフ。従順な、力ある、優しい。全能の神、焼き尽くされ、破壊され。仕事を成し遂げた、手。十字架、しるし、契約、二つのものを一つにし、捺印した。」
これはまさにイエス・キリストのご性質と十字架による贖い、そして新契約を正確に表しているではないか!
なんと、聖書の最初の最初から、既にキリストの十字架による贖いの契約が、既に表わされていたのだ。
キリストが全宇宙という「家」のかしらであり、最も重要なチーフである事を先週見た。彼は力ある神の御姿であられるのに心優しくへりくだっており、誰でも彼の所に来て、重荷を降ろす事ができる(マタイ11:28-30)。彼は、御父の言葉に100%従順し、実に十字架の死に至るまで従われた。(ピリピ2:6-8) しかし、彼を砕いて痛める事は父なる神の御心であり、それによって彼は多くの人を義とし仕事を成し遂げた。(イザヤ53章) 彼こそ私達の平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、両者を一つのからだとして十字架によって神と和解させ、このキリストにあって組み合わされ、神の建物となる。(エペソ2:13-22)
まさに、次のように書かれてある通りである。『わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。』(イザヤ46:10)
また、ベレシートの最初二文字バル(בר)は「息子」の意味があり、次の三文字目アレフ(א)は「従順」の意味があった。そして最後の三文字「シット(שׁי ת)」には、「とげ、迫害、死」の意味がある。
בראשׁית (ベレシート) = בר (バル:息子) +א (従順) +שׁי ת (とげ、迫害、死)
つまり、息子(キリスト)の、とげのついた茨の冠と、十字架の死に至る従順も、ベレシートの中にある。
また、4,5文字目の二語「シャイ(שׁי)」は、「おみやげ、贈り物、プレゼント」という意味があり、そして最後の文字タヴ(ת)は「十字架」の意味がある。すなわち息子(キリスト)の十字架こそ、私達への贈り物である。
בראשׁית (ベレシート) = בר (バル:息子) +א (従順) +שׁי (シャイ:贈り物) +ת (十字架)
神のひとり子キリストこそ、全人類に対するプレゼントであり、彼は神に打たれ、彼の死に至るまでの従順によって、私たち人類に、救いがもたらされた。そして彼の、十字架の死に至るまでの従順のゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を、彼に賜わった。まさに次のように書かれてある通りである。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。』(イザヤ9:6)
クリスマスでは、よくキリスト教会で宣言されるこの預言の言葉。それは世の始め(ベレシート)から既に定められていた事である。創造をはるかに超えた神の偉大なご計画と、そして人を救おうとされた深い愛を覚えつつ、このアドベントの時を過ごす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
