メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
マリヤとザカリヤに示された人類全体への救い(ルカ1:57-79)
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ルカ1章は、御使いがザカリヤに現れ彼の子供の誕生を予告する場面(A)に始まり、そして彼に子供が生まれる場面(A')に終わるが、その間に、マリヤに関する記事(B)がサンドイッチされ挟まっている。
サンドイッチ構造で一番注目すべきは、AとA'で挟まれている中身の「B」、すなわち、マリヤの記事であり、そしてマリヤの記事の中心は、前回見たとおり、彼女を通して生まれて来る男の子・イエスである。
サンドイッチのパンの部分(AとA')は、中身(B)を強調するためであるが、その「パンの部分」に注目する事によって、主がマリヤに宿らせたみどり子・イエス様は、どんな性質と役割があるのかを学ぶ事が出来る。
今回、ザカリヤの記事から、主はどのような意図をもってイエス様をこの世に送られたのかを学びたい。
ザカリヤとエリザベツの夫婦は、主の御前に正しく歩んでいたが、子に恵まれないまま老齢に達してしまった。ある日、日毎の香を捧げる役にザカリヤが選ばれ、多くの人々が外で祈っている中、彼が香を捧げるために聖所に入ると、なんと、聖所には御使いが立っていた。恐怖に襲われた彼に、御使いは言う。
「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節) 男の子が生まれる事は、この夫婦にとって長年の念願であった。
主は、御旨を成就するために、敢えて、用いる人の力と願望が尽き果てるまで待つ事がある。
マリヤやハンナのように、自分が大切に握りしめていた願望を、主の前に手放して、主に捧げる時、 主はそれを用いて大きな事に用い、そして多くの人々を救いへと導く手がかりを得られる。神はザカリヤに授ける子の名を「ヨハネ」と指示されたが、その名には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。先々週見た通り、ベレシートの初めに示された神の「おみやげ」は、十字架につけられた御子キリストである。
神がヨハネに計画していた事は、実に、イスラエルの多くの子らを主に立ち返らせ、父の心を子に向けさせ、そうして整えられた民を、「神の贈りもの」であるキリストの元へと導く事なのだ。(16-17)
ところがザカリヤは、御使いに答えた。「どうしてそんな事が、わたし(ギリシア語:エゴ)にわかるでしょうか。わたし(エゴ)は老人ですし、妻も年をとっています」(18節) マリヤは一切エゴを発言しなかったが、ザカリヤは、主の言葉に「エゴの納得」を求め、「エゴの立場表明」した。主から与えられた言葉にエゴを主張する者の口に与えられるしるしは、「閉ざされる事」である。彼は御言葉が成就するまで、話が出来なかった。
しかしその間、主の御言葉通り、妻エリザベツはみごもり、お腹の子もすくすくと成長して行く。そしていよいよ、念願の子が誕生した時、彼は自分(エゴ)の名をその子につけず、神から示されていた通り「ヨハネ」の名をその子につけた。その時、彼の口のもつれはほどけ、その唇の最初の言葉で主に賛美を捧げた。
もはや彼は、自分の願望を突き通すのではなく、主の御言葉とご計画を優先する人となり、自分の願望が叶えられる事に遥かに勝る喜びを得る者、すなわち、主を誉めたたえ、主の喜びを味わう者となった。
「主なるイスラエルの神は誉むべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、私達のために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。」(ルカ1:68-69) 彼が喜び称えたのは、神がその民を顧み、あがない(買い戻し)、救って下さるからだ。彼はこの賛歌の中で「救い」を特に強調している。すなわち、主は救いの角をダビデの家に建て(69)、敵の手から救い出し(71,74)、罪の赦しによる救いの知識を与えられる(77)、と。
このように、彼が喜んだのは、老齢でやっと子が誕生したという個人的願望が成就したからではない。彼はイスラエルの民の救いを、そして、いにしえの日にアブラハムに約束された救いの成就をこそ、喜んだのだ。
ルカ1章というクリスマスメッセージの中心部分を見る時、どうしてもマリヤやザカリヤなど「人間」がどう感じたか、という所に目が行きがちで、マリヤやザカリヤなど「人」の願望成就(ひいては私達の願望成就)について語られやすいが、主がこの全ての事を起こされた理由は、個人的願望の成就のためではなく、神の人類全体に対する救済、すなわち、主の恵みと憐れみ、救いを全人類へと示すためだ。
事実、御使いの言葉は主の「恵み」が強調され(28-38)、マリヤは賛美の中で繰り返し主の「憐れみ」を讃え(46-55)、ザカリヤは主の「救い」を繰り返し強調している(67-79)。このアドベントゥスの時期、すなわち主のご到来を待ち望むこの時期、主の救いが全人類に及ぶ事を祈り求める皆さんでありますように!
信仰と恵みが出会うとき体験するキリストの奇跡(ルカ1:26-56)
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『御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」』(28節)
イエス・キリストの母マリヤに対する受胎告知の場面は、有名である。「アヴェ・マリア」はラテン語で「おめでとうマリア」だが、この「おめでとう」はギリシア語では「カイロー」、挨拶言葉であり、元々は「喜ぶ」「嬉しがる」「良くなる」の意味の動詞である。そしてこの動詞の女性名詞が「カリス」、すなわち「恵み」である。
「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵み(カリス)を受けたのです。」(30節)
この「恵み」は、ヘブライ語ハナン、元々の意味は、「曲げる」「かがむ」で、すなわち、上位にある者が下位に降りて来て一方的に示す好意、慈愛、憐れみのわざを言う。恵みは、上から下に降りてくるものである。
マリヤは主からの一方的な好意をいただいて、聖霊によってイエス・キリストを宿して産んだ。彼女のような幸いを頂ける人は、どういう人だろう。このような恵みは、運命的・宿命的に選ばれて受けるものではなく、おのおのの意志と選択、そして行動によって、誰でも、神様から頂くものである。
マリヤは「ほんとうに私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)と御使いに答えた。またエリザベツは、マリヤを次のように評価して言った。「主によって語られた事は必ず実現すると信じきった(ピステウオー)人は、何と幸いな事でしょう」(45節)
つまり、マリヤのように、主からの特別なご好意に預かれる人とは、主の御言葉どおりを信じ、この身・この人生に成りますように、と宣言する人、また、主が語られた事は必ず実現すると信じきる人である。
主が語られた事(御言葉)を「信じる」人に、主の恵み(カリス)は降りて来て、そして奇跡が起きるのだ。
「信じる」はギリシア語はピスティス、ヘブライ語はエムナーであり、エムナーは「アーメン」という動詞の女性名詞である。エムナーが聖書で最初に出てくるのは出エジプト記17:12、イスラエルが戦う時にモーセが背後で祈りの手を上げ、アロンとフルがモーセの祈りの手が「上がっているように支えた」場面である。
エムナーには「上昇する」という概念があり、すなわち信仰は、天に向かって、立ち上るものである。
そしてエムナーの動詞「アーメン」には、元々「サポートする、確認する、忠実である」の意味がある。
聖書に一番最初にアーメンが出てくる場面は、創世記15:6であり、『アブラムは主を「信じた(アーメン)」。主はこれを彼の義と認められた。』とある。この主の御言葉にアーメンする事こそ、主に喜ばれ、義と認められる性質だ。 たとえ御言葉の内容が、いかに信じ難い事であったとしても。
「信じる」には「連合する(to unite)」、「結合する(to band)」の意味もあり、主とたばねられ、連合し、一つになる事である。もし祈りや賛美、献金が信仰によって束ねられるなら、それは天に登って行くが、信仰が結び付けられていないなら、いかに多くの祈りや賛美、献金を捧げても、何にもならない。
以上のように、下から登って行く私達の「信仰」と、神から降りてくる「恵み」とが出会う時、「奇跡」が起きる。
「奇跡」のヘブライ語は、オット(אוֹת: 右からアレフ、ヴァヴ、タウ)であるが、先週見たように、アレフには「神」の意味、ヴァヴは「釘」、タウは「十字架」の意味があった。すなわち神が十字架につけらる奇跡である。
十字架、それは自我の死ぬ所、すなわち、自分のしたい事や考えを下ろし、死に明け渡す場所である。
マリヤのように、自分の思いや考えは下ろし、ただ「あなたのおことばどおりこの身になりますように」という信仰を持つ時、イエス・キリストというお方を、聖霊によってみごもる(宿す)奇跡が与えられる。
マリヤは信じる事により、人によらず、聖霊によって、超自然的にイエス・キリストのいのちを宿した。
聖霊によるのでなければ、誰もイエスを主とはできない。しかし聖霊の促しによって御言葉を受け入れ、信じた人々は、キリストを宿し、神の子になれるという、驚くべき、超自然的な「奇跡」が、私達に起こる。
私達もマリヤのように、聖霊によってキリストのいのちを宿す事が出来るのだ。それは、マリヤが「お言葉どおりこの身になりますように」と言って御言葉を受け入れたように、御言葉(ロゴス)を信仰によって受け入れ、私達の心の内に混ぜ込む事によってである。(ヨハネ1:12)
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。」(ルカ1:46-49) このマリヤと同じ喜びを体験する皆さんでありますように!
聖書の最初に隠された、世に贈られるひとり子キリスト(イザヤ9:6-7)
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アドベント(待降節)第二週目、救い主のご到来(アドベントゥス)のために心備えをするこの時である。
預言者イザヤも、預言した。重要なひとりのみどりごが全人類のために与えられる事を。キリストは、ほふり場に引かれて行く小羊のように口を開かず、打たれ、砕かれる事を。そして、彼が罪過のいけにえとなる事によって、主の御心は成し遂げられ、彼は多くの人々の救いとなる事を。(イザヤ書53章)
実は、それらの事も聖書の一番はじめの言葉「בראשׁית(ベレシート:はじめに)」のヘブライ語6文字の中に隠されている。今回も、「ベレシート」に組み込まれた意味を「DNA解析」して掘り起こして行きたい。
「ベレシート(בראשׁית)」は、右からベート、レーシュ、アレフ、シン、ユッド、タヴの順に書くが、ヘブライ語アルファベットには一語一語意味がある。ベレシートを構成するそれぞれの語の意味は次の通りである。
「ベート(ב)」:テント、家、体、家族、中に、真っ最中/ど真ん中。 「レーシュ(ר)」:頭、一人の人、最も高い、最も重要な、チーフ。 「アレフ(א)」:雄牛、優しい、力、飼いならされた/従順な、リーダー、アドナイ、教える。 「シン(שׁ)」:歯、象牙、山頂/とがった、貪り食う、焼き尽くす、破壊する、何か尖ったもの、エルシャダイ(全能の神)。 「ユッド(י)」:手、働き、為した事、終えた仕事。 「タヴ(ת)」:マーク、しるし、xまたは十字、所有権、封を閉じる、契約/捺印、2つを一つにする、最後。 これらをつなげると、次のようになる。
「家、家庭のかしら。最も重要な、一人のチーフ。従順な、力ある、優しい。全能の神、焼き尽くされ、破壊され。仕事を成し遂げた、手。十字架、しるし、契約、二つのものを一つにし、捺印した。」
これはまさにイエス・キリストのご性質と十字架による贖い、そして新契約を正確に表しているではないか!
なんと、聖書の最初の最初から、既にキリストの十字架による贖いの契約が、既に表わされていたのだ。
キリストが全宇宙という「家」のかしらであり、最も重要なチーフである事を先週見た。彼は力ある神の御姿であられるのに心優しくへりくだっており、誰でも彼の所に来て、重荷を降ろす事ができる(マタイ11:28-30)。彼は、御父の言葉に100%従順し、実に十字架の死に至るまで従われた。(ピリピ2:6-8) しかし、彼を砕いて痛める事は父なる神の御心であり、それによって彼は多くの人を義とし仕事を成し遂げた。(イザヤ53章) 彼こそ私達の平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、両者を一つのからだとして十字架によって神と和解させ、このキリストにあって組み合わされ、神の建物となる。(エペソ2:13-22)
まさに、次のように書かれてある通りである。『わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。』(イザヤ46:10)
また、ベレシートの最初二文字バル(בר)は「息子」の意味があり、次の三文字目アレフ(א)は「従順」の意味があった。そして最後の三文字「シット(שׁי ת)」には、「とげ、迫害、死」の意味がある。
בראשׁית (ベレシート) = בר (バル:息子) +א (従順) +שׁי ת (とげ、迫害、死)
つまり、息子(キリスト)の、とげのついた茨の冠と、十字架の死に至る従順も、ベレシートの中にある。
また、4,5文字目の二語「シャイ(שׁי)」は、「おみやげ、贈り物、プレゼント」という意味があり、そして最後の文字タヴ(ת)は「十字架」の意味がある。すなわち息子(キリスト)の十字架こそ、私達への贈り物である。
בראשׁית (ベレシート) = בר (バル:息子) +א (従順) +שׁי (シャイ:贈り物) +ת (十字架)
神のひとり子キリストこそ、全人類に対するプレゼントであり、彼は神に打たれ、彼の死に至るまでの従順によって、私たち人類に、救いがもたらされた。そして彼の、十字架の死に至るまでの従順のゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を、彼に賜わった。まさに次のように書かれてある通りである。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。』(イザヤ9:6)
クリスマスでは、よくキリスト教会で宣言されるこの預言の言葉。それは世の始め(ベレシート)から既に定められていた事である。創造をはるかに超えた神の偉大なご計画と、そして人を救おうとされた深い愛を覚えつつ、このアドベントの時を過ごす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ベレシートの中に組み込まれていた神の家と、頭なる御子(ミカ5:2)
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教会暦では今週よりアドベント(待降節)が始まる。イエス・キリストがこの世に来られた事を祝うクリスマスを前に、救い主のご到来(アドベントゥス)のために心備えをするシーズンである。イエス様がベツレヘムでお生まれになる事は、預言者ミカによってあらかじめ預言されていた。
『ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたの内から、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出る事は、昔から、永遠の昔からの定めである。』(ミカ5:2)
神は永遠の昔から、世界の基の置かれる前から、この宇宙という大きな「家」の中で、キリストというまことの花婿と、その妻であるキリスト者が共に住まうようにと、愛をもってあらかじめ定めておられた。(エペソ1:4)
まさしく「はじめ(ベレシート)」からである。実は、聖書の一番はじめの言葉、ベレシートの中に、既にその意味が隠されているのだ。今回、この「ベレシート(בראשׁית)」というヘブライ語6文字の中に組み込まれた意味の一つ一つを明かして行き、ベレシートというヘブライ語の「DNA解析」をして行きたい。
ベレシートに秘められている意味の一つは、「家(בית)」である。
בראשׁית (ベレシート) = בית(ベイト:家) + ראשׁ (ロシュ:頭、支配者)
ベイトには家、家庭の他、神殿の意味もあり、今日で言うところの「教会」である。はじめに神は、天(複数形)と地とを創造された。その諸天とは「大空」と「宇宙」、そのさらに上にある「天国」であり、その3つの天を全てひっくるめ、大きな「家」として創造され、そしてその支配者(ロシュ)として君臨しておられる。
ちなみに「宇宙」という漢字は「大きな家」としての意味があり、ヘブル思考を反映している。漢字は太古から存在した言語で、聖書の内容とよく一致する語が沢山あるが(香港のチェ先生は、論文で聖書を背景にした漢字の単語を200挙げている)、元々一つだった言語がバベルの事件で分解した後に、ノアから語り継がれた先祖達が、漢字に意味付けをして行ったのだろう。
宇宙は大きな家である。神は大家庭である教会を構築するために宇宙を創られ、神の御子なるイエス・キリストを、ベツレヘム(「ベイト(家)」+「レヘム(パン)」)に出生するように、永遠の昔から定めておられた。
ベレシートに秘められている意味のもう一つは、「バル(בר):息子」である。
בראשׁית (ベレシート) = בר(バル:息子) + אשׁית (シット:(私は)置く)
神は、はじめのはじめから、息子(御子キリスト)を、かしらとして置かれていた。『御子は、見えない神のかたちであって、全ての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これら一切のものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。』(コロサイ1:15-18)
ベレシートに秘められている意味のもう一つは、「バラ(ברא):創造」である。
בראשׁית (ベレシート) = ברא(バラ:創造) + שׁית (シット:置く)
ベレシートから最初の字「ベット(ב)」を除いた「ראשׁית(ロシット)」は、「はじまる」の意味の他に、「建てる、作る」という意味もある。すなわち、この宇宙という「大きな家」を神がはじめられ、御子キリストを”かしら”とし、完全な秩序をもって建てられた。そして神が特に御心に留められる「教会という大家庭」は、御子キリストをかしらとしてこそ、完全な秩序が保たれるのである。
預言者ミカは、ベツレヘム(パンの家)・エフラテ(実り多き地)から、イスラエルを支配する者が生まれる事を預言し、それは、太古よりの定めであると預言した。イスラエル(イスラ+エル)、それは「神と相撲を取る者」、「神のように支配する者」であり、すなわち信仰によって神と共に歩む私達こそ霊的イスラエルである。
ベツレヘム・エフラテのように最も小さい者であっても、メシヤがお生まれになる事が大昔から定められていたように、私達も、どんなに最も小さい者であっても、信仰により全宇宙の主人であるイエス様が出生し、実り多きパンの家となる事が出来るのである。このイエス様にあって豊かにされる皆さんでありますように!
大地が喜んで実りを結ばせるために(創世記1:24-31)
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本日は収穫感謝祭、主があらゆる良き産物を実らせ、私たちに与えて下さった事を感謝する日である。
人は、大地の実りに喜び沸き立つが、実は全被造物は、キリストにある人々のために創られたのであり、神はその事を、世界の創られる前から既にご計画しておられた。(マタイ25:34、ヨハネ17:24、黙示録13:8)
「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ1:3-5)
神はまさに、人が居住すべき環境を整えるために六日間を通して、全世界という大舞台を整えた。この創造の六日間は、第一日は第四日に、第二日は第五日に、第三日は第六日に対応するという「キアズム・パートナー」の関係にある。すなわち、神はまず光と闇を切り分け、天に光と闇を司る「光るもの」を設けられ(第一日・四日目)、また、大空と海とを切り分けて、空と海に生きる生き物を創られた(第二日・五日目)。
そして第三日、神は海と陸とを切り分ける事と、地の上に青草や種をもつ草や種のある実を結ぶ果樹を生えさせる事とを、行った(9−13節)。果実が分化し、増え広がる命令である。主がそのように命じられたとたん、大地からはあらゆる種類の、色とりどりな木や草を生えさせ、良き果実を実らせた。それは、第六日に創られる地上の生物達と、そして神の似姿である「人」の食料として与えられるためである。
神は第二日には「良し」を言われなかったが、その代わり、第三日には「良し」を二回言われた。
そして、第六日、神は地上を生きる生き物を創造し、また、神の似姿、神のかたちとしての「人」を創造された。『神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(28節)
そして神は、第三日に生えさせた大地の実りを、食物として彼らに与えられた。『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。』(29−30節)
そして神は、神の似姿としての「人」と、全生物のために、自ら進んで祝福し、いのちが増え広がる事を応援し、その全てのいのちの営みの有様をご覧になられた結果、「はなはだ良い」と評価された。(31節)
今、世界が「はなはだ良い」状態からかけ離れているのは、人が、創造者である主の御言葉に反し、主から離れ、好き勝手に歩んでいる故だ。今、全被造物はうめきつつ、「神の子」たちの現れを待ち望んでいる。
主が「良い」と認め祝福して下さる人とは、創造者なる主の言葉を守り行い、主と共に歩む「神の子」である。
罪が入る前の人類に、主は「生めよ、増えよ」の祝福を与えたが、それと同じ祝福を受けたのがノアであり、アブラハムである。彼らに共通する事は、創造者の言葉を信じて守り行ない、主と共に歩んだ事だ。
彼らのように、父なる神様の御言葉に従って歩み、神の霊に導かれて歩む「神の子」こそ、祝福を受けるに相応しい。神は、彼らのような神の子たち繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を望んでおられ、そればかりでなく、動物達も、大地も、全被造物も、それをうめきつつ望んでいる。(ローマ8:19,22) そして、御言葉に従順しない人には、土地はいばらやあざみを生えさせ、彼らは土地を耕して労苦して地の産物を得なくてはならない(3:17-19)。しかし御言葉に従順する人には、大地は喜びつつ作物を生じさせるのだ。
人類に罪が入る前、神は人に、全種類の実は、「善悪を知る知識の木」以外は好きなように食べて良いと言われた。御言葉に従っている間、人は一切、不足に憂う事や不安が無く、ただ神が下さった自由の中に生きていた。主に命じられる通りに行っている限りは、呪われるべきものは全く無いのだ。
全被造物は、人のために創られ、そして人は、キリストのために創られたのだ。全被造物は、人がキリストにあって贖われる事を切望し、慰められる事を求めている。もし私達が御言葉に従い、神と共に歩むなら「神の子」であり、大地も全被造物も私達を喜んで受け入れ、良いものを生えさせるが、創造主に逆らって歩むなら、地は呪われ、いばらやあざみを生えさせる。御言葉に従い、神の子として全被造物から歓迎され、キリストに喜ばれる者として歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
神を証しする宇宙の天体 (創世記1:14)
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先週、合衆国大統領選において、ドナルド・トランプ氏が次期大統領に就任する事が決まった。天声でトランプ氏が大統領になるようにと具体的に祈り出したのは9月初めからだったが、それは、彼の対立候補・ヒラリー氏の掲げる政策が、神が定めた創世記1章の祝福、すなわち、「男と女とが、産んで、増えて地に満ちて行く事」に真っ向から反するものであり、対してトランプ氏は、 妊娠中絶・同性愛に対して真っ向から反対し、さらには彼は、合衆国は建国当初のキリスト教精神に戻らなければ未来はない、と言っていた。
彼の言動には確かに色々な問題があったものの、そのような彼の未熟さは取り除かれ、彼の神様に対する誠実さによって今後の合衆国が運営されて行くようにと、祈っていたが、神様は憐みを注いで下さった。
メディアも世界も皆、ヒラリー氏が当選する、と定めていたのに、合衆国民は、トランプ氏を選んだのだ。
これで合衆国は、罪を増し加えて行く事が抑えられ、聖書に基づく価値観が推し進められていく道が開かれた。これからも、主の支配が、主のいのちの統治が、正しく全世界に増し加わって行くよう祈りたい。
この宇宙の事、地球の事、天地自然の事、そして、人の営みには、「時」があり、シーズンがある。
明日14日は、月が地球に最も接近する「スーパームーン」であるが、過去の歴史においても世界が大きく動く時は日食や月食、惑星直列などの「天のしるし」が現れる事が多かった。古来より、このような「天のしるし」と、異変・政変が起きる事の法則性を元に、占星術や占いじみた色々なものが発展して来たが、元々、太陽や月、日、星などの天の星々は、主が生きておられる事を証するためのものである事が書かれてある。
『天の大空に「光(マ・オール)」があって昼と夜とを分け、「しるし(オト)」のため、「季節(モエド)」のため、「日(ヨム)」のため、「年(シャナー)」のためになり、天の大空にあって地を照らす光となれ』(創世記1:14)
主は、昼と夜を区別するために、天に「光体(マ・オール)」を創られた。主は第一日目に、光そのもの(オール)を創られ、宇宙は光と闇とで分けられた。人は、星や銀河など宇宙から来る可視光から宇宙を観測・分析できるが、天体現象は、そうした「見えるもの」だけでは説明がつかない。宇宙空間の物体が無い所は、実は何も存在しない所ではなく、「銀河を留めて置くほど強力な引力を持つ、見えない闇の何か」が満ちていなくては説明つかないという。それは「ダークマター」と呼ばれているが、未だ解明されていない。
それは目で見る事は出来ないが、そこに存在する事は知っているという点から「風」に例えられているという。ともかく宇宙は、神が分けた光と闇で充満しており、その光も闇も、共に、宇宙を保全しているのだ。
神は光の「発光体(マオール)」を、すなわち太陽、月、星々を創られ、それらに4つの役割を与えられた。
その一つ目の役割は、「しるし(オト)」であり、これは「象徴」「しるし」、英語では「sign」と訳される。
二つ目は「季節(モエド)」、季節と訳されているが、込められている意味は「証」「約束」「証人」、すなわち、約束された出会い、約束された日、約束された時間、約束された場所など、「祭(まつり)」をあらわす。
すなわち月や日、星は、主の「証人」であり、主はそれら天体の「光るもの」を、無造作には創られず、主はイスラエルの民に、日、週、月、年ごとの祭りを行って主を覚える事を命じられた。(レビ記23章)
三つめは「日(ハ・ヨム)」、「日」と訳される事が多いが、24時間の日の他に、年、一定の期間をあらわす。
「ヨム」という単語は、13節以前に4回使われたが、この14節、天体の光るものが創られてから初めて冠詞「ハ」がつけられた。すなわち、この14節で、はじめて一日24時間という概念が生まれた、という事である。
「ヨム」は「熱」の意味が元となっている。私たちが生きる地上が光に、熱に覆われているのは、私たちを保護して下さるためだ。先の「ダークマター」の性質の一つとして、熱を発さない、という天があるが、神は冷たい闇から温かい光を取り出し(3節)、それによって地上を囲い、保ち、保全しておられるのだ。
四つ目は「年(シャナー)」、英語で「Year」、地球は太陽の周囲を、365日と5時間48分46秒で周る。
それが一年であり、だから4年に一度、うるう年がある。神の秩序は、天地が創造されて以来、狂った事は無い。ただヨシュアとイザヤの祈りを聞かれた時以外は。なぜなら太陽、月、星は、主を証するものだから。
このように主は太陽や月などの「光るものを「しるし」として、主を「証」するものとして、そして主を覚えるものとして定められた。アブラハムは夜空を見上げ、自分の子が星々のようになる事を信じ喜んだ。今、この暗闇の世を、光の子として輝かせる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主権をもって秩序を創造された神 (創世記1:1)
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先週もまた、コーエン大学博士課程で、ヘブル思考による聖書解釈を学ぶために韓国に行って来た。
毎回、聖書の一つの書物をターゲットに(例えば、イザヤ書なら66章全部、レビ記なら27章まで全部)を5日間で学ぶという、非常に内容の濃い授業を受けてきたが、今回はなんと、「創世記1:1」だけで一日を費やし、「1章」だけで4日も費やし、そして全5日で学んだのはわずか1〜5章のみという、異例の講義だった。
それ程、創世記1章には、重要な意味が詰め込まれているのだ。今回はそれを少し分かち合いたい。
創世記1:1は、次の言葉で始まる。 בראשׁית ברא(ベレシート バラー) ベレシートは「はじめに」、バラーは「創造した」と訳されている。この二単語は、ヘブル語的には単語の繰り返しであり、繰り返し部分に下線を引くと、בראשׁית ברא、つまり「バラー」が繰り返されている。バラーは単に「創造する」と訳されているが、そこには「神は秩序を創った」事の意味が込められている。神は、「秩序」を繰り返して強調される。
創世記には、「信じなさい」という言葉は、一つも無い。ただ、神が宣言されたのみであり、信じる事は、言うまでもない大前提である。神の言葉、神の秩序を「本当にそう?」と疑問を投げかけて来たり、あれやこれやと批評を混ぜ込んで来たりするものは、全てサタンに由来する事は、3章に表れている。
ギリシャ思考は、分類し、批評し、多方面から分析するが、それはサタン由来である。神の言葉は、信じて宣言するものであって、探ったり議論するものではない。多くの人が、まず、自分の頭で理解しようとし、その理解したものを人にあげようとして多くの失敗をして来た。伝道とは頭で理解したものを説明するものではなく、まず信じ、信じた結果、豊かになったいのちと神の恵みを、そのまま流し出す事なのだ。
「バラー」は、秩序を創ったのみならず、その秩序を維持、保全、経営、進行する事も含まれている。
この、保持された秩序こそ、何より重要である。世界の法則の秩序が崩壊する時は、全宇宙が崩壊する時であり、私達一人一人も、もし、心臓や脳の秩序が少しでも崩壊するなら、深刻に大騒ぎする。
神は、秩序を宣言した故に、その「宣言」が今も働き、一人一人の体や、全宇宙の運行が為される。
毎日、瞬間瞬間、何気なく生きているようでも、実は神の秩序すなわち恵みの連続だ。どうして心臓は百年も休まずに動き続けるのか、寝ている間に止まったりしないだろうか、などと心配する人は、ほぼいない。
もし、「心臓を動かし続ける」という神の主権、命令、恵みを疑い、次の瞬間に心臓が止まってしまうのでは、と心配する人がいるなら、その人生は、ずっと心配と重荷を持ち続けなくてはならない。秩序が崩壊されているのだ。いかに多くの人が、サタンに惑わされ、要らぬ心配をして、人生の多くを台無しにしているだろう。
神の「恵み」とは、「秩序の回復」を意味する。神は元々、世界を完全な秩序の元に創造されたので、「回復」する必要は、無かった。しかし今時点、人は、恵みと回復を必要としている。なぜなら、世界も人も、呪われた状態となってしまったからだ。はじめに神は、完全な秩序を創られたが、そこに割り込んで来る者がいた。それが、サタンである。サタンは、神と私たちとの関係に入り込み、人間関係に入り込み、歴史に介入して秩序を崩壊させるのが仕事であり、そこには、何の躊躇も憐れみも無い。
サタンがある瞬間、ふっと入って来て、その場を支配すると、それまで平安だった心が一瞬でかき乱され、平穏だった関係が、突然壊される。どんなに光の天使のような成りでも、羊のような外見でも、それが来たとたんに、温度が下がり、思いや考えがイガイガしくなるのは、サタンが働いた時である。
ベレシート バラー。それは神が全宇宙を創造し、見えない秩序を定められた事であり、そしてそれを維持、保全、経営、進行しておられる事である。その秩序が崩れると、私達は何も出来ない無力な存在となる。
この神の秩序、神の主権を、背後で壊すのがサタンであり、しかもサタンは、人間を通して、神の秩序を破壊させる。神は元々、この世界を治めるようにと、人を創られた。神の言葉を信じ、その通り行うなら、創造のわざが起き、秩序が保たれ、全ての事は「良し」とされて行くが、サタンの思惑に従って神の主権を疑い、御言葉に逆らうなら、破壊と死が働いてしまう。神の宣言された言葉どおり生き、この破壊されてしまった世界に、福音という秩序を回復する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
思い巡らすことばを管理しなかったサウル(1サムエル記22:6-23)
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私達の思いの中には、常時、何かの「言葉」が流れているものであるが、その思い巡らす言葉の内容はいつも管理すべきだ。なぜなら私達は内外に流れる「ことば」に浸し込まれ、その内容に影響を受け、「人となり」が構築されて行くからである。サウルは、健全な主の言葉から耳を背け、その代わり、内からこみ上げて来る「妬み」「怒り」「殺意」などのサタンの好む言葉をいつも思い巡らしていたため、彼はどんどんサタンの性質を帯びるようになり、ついには取り返しのつかない、してはならない事をするようになってしまう。今回は、言葉の管理をしなかったサウルが何をしてしまったかを見て、私達も戒めを受けたい。
『サウルはギベアで、やりを手にもって・・・おり、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(6節)
サウルの人格の崩れ度合いは、さらに進行している。槍は人を殺める武器であり、敵に対して用いるべきなのに彼はいつも手にしている。部下を威圧するためか、気に食わない者に槍を投げつけるためであろう。
聖書を「サウル」「槍」で検索すると、彼が敵に槍を投げた記述は一切無く、ただダビデ、ヨナタンに投げ、あとは部下達を前にいつも持っているだけだ。そして最後は、彼に敵が追い迫って死ぬ間際、彼は槍にもたれていた。(2サムエル記1:6) イエス様が「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と言われた通りである。
自分の敵サタンには槍を投げず、自分を助け養ってくれた人には槍を投げるような者であってはならない。
『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。…わたしの子がわたしの僕をそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない。』(8) 彼はすごい被害妄想に憑かれており、誰も心配しない、みんな自分に敵対している、と思っている。信仰の逆、「疑い」をいつも抱き続ける人はそうなってしまい、人が喜び笑う顔を見ただけでも、自分が嘲られたと思ってしまうものだ。
主に敵対しているのは、むしろサウルの方である。彼は既に主から王位を退けられたのに、ずっと王位にしがみつき、むしろ、油注がれた王・ダビデを殺そうと付け狙っている。もし人がおとなしく自分の「王座」から降りて、主に明け渡さないなら、逆に「王座」に支配され、振り回され、やがて「王座」に滅ぼされてしまう。
そこに、例外は無い。王座は人が座るものではなく、唯一、主イエス様が座すべき所であるからだ。
ベニヤミン人の部下達は何も言えなかったが、ただ一人、エドム人ドエグがサウルに応える。
『わたしはエッサイの子がノブにいるアヒトブの子アヒメレクの所にきたのを見ました。アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。そこで王は人をつかわし…みな王の所にきた。』(9-11) ドエグは、一杯の食物で尊いものを売り渡した、エサウの子孫である。
彼は、地位や名誉という一杯の食物ほしさに、神の祭司を告げ口する。
『サウルは彼に言った、「どうしてあなたはエッサイの子と共にはかってわたしに敵し、彼にパンと剣を与え、彼のために神に問い、きょうのように彼をわたしに逆らって立たせ、道で待ち伏せさせるのか」。』(13)
アヒメレクは唐突こんな事を言われ、暫く訳が分からなかっただろう。サウルのようにいつも被害妄想を巡らせている者は唐突に意味不明な事で人を責め、凍りつかせるものだが、それが絶対権力を持つ王であるならその国は悲惨である。サタンは歴史上、何度も王を被害妄想にさせ、多くの国々を悲惨に陥れて来た。
そもそも本来、イスラエルの王は祭司に物申す事はできないはずで、逆に王が祭司の御言葉に服従しなくてはならない。(申命記17:14-20、2歴代誌26:16-23) それなのにサウルは祭司も御言葉も、完全に自分の下に敷いてしまっている。彼は御言葉を退けた故に、王座から退けられた、とサムエルは言った。
祭司アヒメレクは、王の言葉には、事実を答え、極めてもっともな事を言ったが、『王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。』(16) こうしてサウルは祭司を抹殺し、自ら主に伺う道を断ってしまった。それでダビデは、逆に、主に伺う祭司を得る事になる。
人は、思い巡らす内容によって人格が形成される。サウルのように猜疑心・妬み・怒りを思い巡らしているなら、サタンに似た者となって行き、断絶してはならない人を断絶し、主への道をも自ら断ってしまう。
いつも健全な主の言葉を思い巡らし、昼も夜も口ずさみ、水のほとりに植えられた木のように、時が来れば豊かに実らせ、何をしても栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主の特別な訓練で養われるダビデ、と私達(1サムエル記22:1-5)
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ダビデはサウル王に追われ、妻の所にも預言者サムエルの所にも、親友ヨナタンの所にも居場所が無くなり、そして前回、主の宮の祭司にも、そして、汚れた者達さえも、頼りどころを見出す事は出来なかった。
主は、その愛する人を、敢えてそのように導き、ただ主とだけ向き合い、主をのみ頼るようにされる事がある。
アドラムのほら穴に逃げ込んで独りになったダビデは、人の間から頼りどころを探す事を100%止め、ただ100%、主こそ助けであると求めるに至った。彼はその時の祈りを、詩篇142篇に綴っている。彼は洞穴の中で声を出して主に呼ばわり、願い求め、彼の嘆きを注ぎ出し、悩みを露わにした。(詩篇142:1-2)
「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。」(詩篇142:4-5)
イスラエルを導く王となるダビデの「右」には、誰も人がのし上がってはならない。ただ万軍の主以外には。
人の間から頼りをことごとく失ってしまった彼は、ついに、主だけが避け所だと悟った。「わたしを獄から出し、御名に感謝させて下さい。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしの周りに集まるでしょう。」(詩篇142:7) ダビデがこの告白をした時、今度は、人々がダビデの所に集まって来る。
それまでダビデは、頼りとなる人を追いかけていたが、誰もいなくなり、ただ一人、主と向き合い、主のみを頼りとした時点が転換となって、今度は逆に、人々がダビデの傘下に入ろうと、彼を追いかけて来たのだ。
まずはダビデの家族が、そして、『しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは実に、キリストのご性質をよくあらわしている。キリストも当時の王や権威達からは迫害され、そして彼を慕い求めて来た人達も、当時、虐げられている人々や負債のある人々、苦い魂を持つ人達だった。
ダビデは今まで自分を救う事で手一杯だったのに、彼の所に虐げられている人、破産者、苦い魂を持った、一癖も二癖もありそうな人達が四百人も来て、面倒を見なくてはならなくなった。自分が誰かから助けられたいのに、なぜか、自分の所に助けを求めて人が集まって来るのか。実は、これが主の助けの方法なのだ。
人は、守るべき人、養うべき人を持つと、強く健全になる。そして、一癖も二癖もあるような人々を養い、彼らを正しく統率して行く経験は、一国の王となって行く上で、とても重要な訓練となって行く。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、真実ではない行動をして来たが、400人の長となった今、彼らの面前で、偽りの、恥ずかしい行動は、する訳には行かなくなり、真理に立つようになった。
『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデの家ゆかりの地であり、彼らの大おばあさん・ルツの故郷であるものの、ペリシテと同じく、異教の神を拝する異邦の国だった。しかしダビデは、もはや媚びる事も偽る事もせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、居させて下さい、と頼んで、それが許された。ペリシテの時と比べて、なんと堂々となった事だろう。主は正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。
こうしてダビデ達は、しばし、ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、命の安全が確保され、400人の長としてある程度の人生を送る事が出来るようになった、と思われたかもしれないが、それは御旨ではない。
『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5) 彼はすぐ預言者の主の言葉に従順し、危険ではあっても、主の御心の地、イスラエルの地へと帰った。彼は主からの特別な任職の油を受けたからには、普通の人として漫然と生きるべきではないのだ。私達キリスト者にも、主からの聖霊の油を注がれたからには、漫然と生きるものではなく、御言葉に聞き従い、神の国の働きに参加し、働かなくてはならない。
ダビデは任された400人を養う内に、彼自身、イスラエルの王としての特別な素養が養われて行く。女王蜂はロイヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデには、誰にも与えられない苦難と、養うべき400人という、主の特別なロイヤルゼリーが与えられた。私達キリスト者も、「王族の祭司」(1ペテロ2:9)として相応しくなるために、他には与えられない、主の特別な御言葉のロイヤルゼリーによって養われるのだ。
恥のどん底で御言葉を誉めたたえたダビデ(1サムエル記21章)
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人は、あまりに理不尽で過酷な状況が続くと、どんな信仰の強い人でも、つい、世的・肉的な手段に頼って、もっと悪い状況に陥ってしまう事もあるが、その中でも主に叫び求めるなら、主は必ず聞いて下さる。
主が敢えて過酷な状況へ導かれるのは、彼の奥深くにひそむ世的・肉的な事に頼る要素をいぶり出し、断ち切り、ただ主こそ真に頼れるお方である事を体験させるためである。今回も、ダビデから学びたい。
ダビデはサウルから追われ、家にも、サムエルの所にも、ヨナタンの所にも居場所が無くなってしまった。
頼り所がことごとく指の間から落ちてゆく彼の行った先は、主を礼拝する所、祭司アヒメレクの仕えている主の幕屋だった。彼は普段は、喜んで礼拝者達と共に礼拝しに来ていたものだが、今や彼は着の身着のまま追われ、疲れ、やつれた出で立ちで来た。祭司アヒメレクは彼に、恐る恐る、なぜ一人なのかを聞いた。
『王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。』(2)
ダビデは、うそを言った。それは自分の身を守るためであるが、結果的には、状況を悪くしてしまう。
ダビデは祭司に、創作した事情を説明して食料と武器を求め、それで彼は、主の前に捧げられていた聖なるパンと、ゴリヤテの剣とを得た。聖なる主の食物と、汚れた者の力の象徴。実に対照的な二つである。
ダビデはかつて、ゴリヤテからその剣を奪って首を切り離した。当時の彼は、ただ、信仰だけが武器だった。
当時彼は、剣や槍で立ち向かわず、ゴリヤテの剣よりも強い「御言葉の剣」で勝負し、勝利した。それなのに今回、彼は、ゴリヤテの剣を「それに勝るものはありません」と言って、受け取った。
彼は今、何のために主の宮に来たのだったのだろう。主に頼るはずが、武器と嘘に頼ってしまった。
彼は理不尽な状況続きで、主への信頼は弱っていた。彼の状況は、同情して余りあるが、聖なるパンを食べる人が聖なるお方に頼らず、汚れた者の力に頼りを置いてしまう時、正常な判断を失い、狂った算段をしてしまう。『ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。』(10)
彼はサウルから隠れるために、あるいは、もしやサウルに敵対する者からの保護を得られるかもしれないと、敵国ペリシテに行ったのだろうが、自分が討ち取ったゴリヤテの剣を持って、ゴリヤテの故郷・ガテに行くのは、狂気の沙汰である事さえ理解できない程、彼の思いの中は、恐れ・不安・心配で、眩まされていた。
ダビデはペリシテ人の地で「捕らえられ」てしまい(詩篇56編表題)、王アキシュの前に引き出された。
ペリシテ人達は王に言う。「これはあの国の王ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして『サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した』と言ったのは、この人の事ではありませんか」(11)
彼らはダビデを「王」と呼び、また彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っており、そして彼は、ゴリヤテの剣を身に帯びていた。ダビデが恐れるに十分だった。この絶望的状況の時、彼は心を主に向けた。
ダビデは、アキシュに捕らえられた時の心境を、詩篇56編で詠んでいる。この詩篇で、彼はただ主の憐れみを求め、自分の状況を告白し、御言葉を誉めたたえ、最後は、感謝で終わっている。この一連の祈りの中で、彼は救われる確信を得たのだ。彼は『人々の前でわざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門の扉を打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。』(13)
当時、男性のひげは権威の象徴であり、そこに対する侮辱は耐え難いものだった。ダビデのこの行動は功を奏し、王アキシュは、ダビデが「万を打った者」「イスラエルの王」の様子ではないのを見、彼を放した。
あの栄光あるダビデが屈辱的な、本当に気が違ってしまったかのような方法でかろうじて救われた。私達も、恐れと心配のあまり、世の方法に頼ろうとするなら、恥と、気違い沙汰と、屈辱の底を通らなくてはならない。
しかしダビデは、その中から救い出された時の大きな喜びを、詩篇34編で記している。「わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。わが魂は主によって誇る・・・。」(1-2) ダビデは、彼の誤った判断によって生み出された命の危機から、主の憐れみで救い出された事を、非常に喜んでいる。
彼は、詩篇56編で3度も「みことば」をほめたたえた。(4,10) 彼は、この一連の事によって、信仰が回復し、悟ったのだ。ゴリヤテの剣より、御言葉の剣のほうが遥かに頼りになり、そして信仰の道こそ正しいと。
私達も、恐れや不安によって命の危機に陥り、狂気の沙汰と恥のどん底をくぐる事はある。それでも主に立ち返るなら、主は救って下さり、以前に増して、主に用いられるに相応しい器へと造り変えられるのだ。