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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

聖霊に満たされた人のありさま(使徒2章)
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週報/メッセージ(説教)概要

五旬節の日、弟子達は主が約束しておられた通り、聖霊に満たされ、他国の言葉(異なる舌)が与えられた。
聖霊充満された人、すなわち、聖霊の支配に服しその支配が行き届いた人には、どのような特徴が現れるだろう。そして私達は何を目指すべきだろう。聖霊充満されたペテロの言葉と行動から、それを学びたい。

この日、天からの激しい風のような響きと、弟子達が他国の言葉で「神の大きなみわざ」を語るのを聞いて集まって来た多くの人々は、驚き惑い、「一体これは何を”セロー(意味する、したいと思う)”のだろう」と言っていたが、ある人々はあざ笑い、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と(繰り返し)言っていた。
そこでペテロは立って(押し出されて)説教を開始するのだが、彼の説教は、御言葉に裏付けられ、人々の心を刺し、悔い改めと救いへ導くものだった。ペテロはまず、彼らが知りたがっていたこの「しるし」について説明する(14-21節)。「今は朝だから、彼らは酒に酔っているものではない・・・」。ペテロは悪意ある人のあざけりに対しては、この一言で終わらせ、この不思議は、預言者ヨエルの書の成就である事を語った。

続く22-35節は「ナザレ人イエス」についてであり、イエス様こそが説教の中心かつ大部分を占めている。
聖霊はイエス・キリストを証しする霊であり、罪について、義について、裁きについて世にその過ちを認めさせる。だから、イエス無き説教、御言葉なき説教、聖霊の「押し出され」無き説教は、力が無い。
「ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示された」(22節) この事は既に全イスラエルが知っている事だったが、彼らの中で広まっている事は、イエス様はよみがえられたのではなく、弟子達が遺体を盗んだ、という偽の情報だった。しかし、彼がよみがえる事、死に縛られていない御方である事は、前もって聖書に書かれてある通りだと、ペテロは、詩篇16篇を引用してあかししている。(25-28節)
もう一つ、彼が引用した聖書は詩篇110篇である。ダビデはキリストの復活を予め知ったため、彼の主キリストについて『彼は黄泉に捨ておかれる事がなく、またその肉体が朽ち果てる事もない』と言った。
『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。』(32-33節) イエスこそ神と預言者に認証された救い主メシヤである事を、彼は聖書から証したが、では、その事は今の私達に何か関係あるのだろうか?大ありである!
『だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。』(36節)
イエス様を十字架につけたのは、誰だろう? 実際に手を降したのはローマ兵であり、それを指揮したのはイスラエルの指導者達だ。この、五旬節の日に集まった彼らが手を降したりした訳ではない。ここは私達も知らなければならない。罪なき神の御子キリストを十字架につけたのは、まごうことなき、私達全人類だと。
私達も、それを伝えなくてはならない。すなわち、ナザレ人イエスについて。彼は私達の罪のために十字架で死なれ、そしてよみがえられられ、神の右に上げられ、聖霊を与えて下さる事を。
人々はこれを聞いて心刺されたが、心を刺して終わりではない。ちゃんと救いの道を示さなくてはならない。
「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(38節)

こうしてこの日、三千人が仲間に加えられた。何と大胆に、立派になったペテロであろう。五十日前、人々の前でイエス様を「知らない」と誓った人物とは到底思えない。主が予め言っていた通り、聖霊に縛られ導かれるなら、本人の思いのままではなく聖霊に導かれるまま進まされるのである。(ヨハネ21:18)
救われた彼らは、使徒達の教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り、全ての物を共有にしていた。
心を一つにして毎日礼拝する所に集い、賛美し、一同の心に恐れが生じて、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれ、全ての民に好意を持たれ、主もまた、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
これが、初代の教会(エクレシア)である。聖霊に満たされる事なしには、この事は有り得なかった。
私達もまさに聖霊を求めるべきだ。聖霊に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!

聖霊充満とは(使徒2:1-4)
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 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)、すなわち主イエスを信じて約束を待ち望んでいた弟子達が聖霊に満たされた日であり、この日を境に、彼らは大胆に力強く変えられ、死をも恐れない強力な働き人となった。
キリスト者の生活と働きの根源は、聖霊である。キリスト者は、イエスが主であるとした時、既に聖霊を受けている(1コリ12:3)。弟子達も、復活の主から息を吹きかけられた時、聖霊を受けたが、聖霊に満たされてはいなかったし、聖霊に満たされるというのが、よく分からなかった。そこで彼らは、主から約束された指示に従い、聖霊を受ける事を待ち望みつつ、共に一つ所に集まり、心合わせ、祈りに専念していた。
聖霊に満たされる事が、よく分からないだろうか。今日、ペンテコステでの出来事を原語的に詳しく見る事によって、「聖霊充満」とはいかなる事か、また、どうすれば聖霊に満たされるかを学びたい。

弟子達が大胆に力強く変えられる、その境となった日、起きた事は、次の事だった。
『五旬節(ペンテコステー)の日がきて、皆の者が一緒に(ホモスダモン:心一つに)集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音(エイコス:騒音、ニュース)が天から起ってきて、一同が(ずっと)座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった(カスィゾー:座す、位につく)。すると、一同は聖霊に満たされ(プレソー:吹きこまれる、感化する、充満する)、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉(ヘテロス グロッサ:異なった 舌)で語り出した。』(使徒2:1-5)
つまり、この日起きた事を詳細に見るなら、主の復活から「7週+1=50日」が満了した時、イエス様の指示に従い約束を望む「志ある」聖徒達が心一つにし、一つ所に集まっていると、天から(持ち運ばれている)激しい風のような響き(ニュース)」が、彼らがずっと座っていた家の全体を満たした、という事だ。
そして彼らに、火のような、分けられた数々の舌が現れ、それが一人ひとりの上に座した(位についた)。
すると彼らは、聖霊に吹きこまれ(英influence: 感化され、突き動かされ)、その霊が、彼らに(次々と)語らせて下さるままに異なる舌(言語)で、(大声で/大胆に)言明し出した。
つまり、キリストの弟子達が力強く大胆に変えられた根源、「聖霊充満」とは、聖霊様が、その人の支配の王座に座し、聖霊に支配され突き動かされる事を言い、その人は聖霊様から見せられ、思わせられ、語らせるまま行動するものであり、それは以前生きていた時の考え方や言葉・行動とは全く異なったものとなる。
「聖霊充満」は、何かを強く念じたり眉間に力を込めたりして成るものではない。聖霊様は三位一体なる神の一つの位格であり、その、人格あるお方へと自分の支配権を明け渡す事によって、彼の支配がその人の隅々まで行き届き(充満し)、彼に感化され、突き動かされ、導かれるままを話し、行動している様を言う。
だから、自分の思い込みや「よかれ」を頑なに握りしめている内は、決して聖霊様の支配下には入れない。

聖霊に満たされるためには、かの時代の弟子達のように、自らを準備する必要がある。
まずは、主イエス様の十字架と復活を信じ、体験し、「7という完全数」が7に満了するまで、主の指示に従い、聖徒達と心を一つにして、主の御約束が成る事を期待し積極的に祈り求める事である。
そして、天的な激しい音(ニュース)によって、それまでずっと座していた家(オイコス:居住地)が揺さぶられた時、すなわち、聖霊が激しく心揺さぶっているのを感じたなら、それを拒否せず、その支配の御手に委ねる事である。間違った霊に委ねてはならない。聖霊様は、イエス様を証し、栄光化する霊である。
聖霊様はどういう御方か。それは、次の良き実を実らせる御方であって、悲しみや絶望、暗い不安を募らせるような御方ではない。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」である。
聖霊様に突き動かされている人は、不品行や好色、偶像礼拝、争い、怒り、憤り、党派心、分裂、嫉妬といった「肉の行い」を忌み嫌い、以はそれを好んでいたとしても、出来なくなって行く。(ガラテヤ5:19-23)
聖霊様に支配されている人は、唇が変えられ、人間的な汚れた言葉を言わなくなって行く。だから、聖霊に満たされているかどうかを見分けるには、口から発せられる言葉と、その実を見れば、判別できる。

人の歩む道は、二つに一つである。御霊に従って生きるか、それとも肉に従って生きるか。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である。自らを聖霊に支配されるに相応しく整え、聖霊様に支配され、感化され、突き動かされるままにイエス様を大胆に証する、力強い働き人である皆さんでありますように!

子が死んでも守って王の心を動かした一人の母(2サムエル21:1-14)
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 今日は母の日である。母は、赤ちゃんを身ごもると、10月と10日その子と命を共有し、新しい命を世へと送り出す。産んだ後もその子を徹底的に愛し、守り、慈しむ。今回、リツパという一人の母を見ていきたい。
リツパは、イスラエルの初代王・サウルのそばめであり、二人の子を産んだ。サウル王は主の御言葉に従わず、諸々の身勝手な振る舞いを止めなかった故に呪われた最後を遂げた。そのサウルの死後、彼の将軍だったアブネルが実権を握り、アブネルは彼女と「寝る」事によって、威勢を内外にアピールした。
サウル王家という、主に不従順な家に入ったが故に、不幸な運命を辿った彼女だったが、それでも彼女の二人の子は、彼女には慰めであったろう。しかし、そのささやかな慰めも奪われてしまう時が来る。

『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」』(2サム21:1)
ギブオン人とは、本来聖絶されるはずのカナン人だったが、イスラエルを”だます”形で和平の誓いを引き出させた人達であった。彼らは神の家のために奉仕をして行く内に、以前の滅ぼされるべき性質は捨て去り、主を愛する心が芽生えて行ったのだが、サウルは勝手な熱心によって彼らを殺し、追い払おうとした。
それにしても、なぜサウルの代にではなく、ダビデの代に災いが起きたのか。もしかすると、サウルが始めたギブオン人への弾圧は、時代と共に陰湿化し、差別と偏見が強化され、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって主に叫びが届いたからかもしれない。ダビデ王はなぜ、ギブオン人の「イスラエルを呪いたい心境」を恐れ、気にしたか。それは、主はイスラエルにではなく、ギブオン人に軍配を上げたからだ。
現代も、不純な動機から教会に入ってくる人達はいるが、以前はどうあれ、主のため教会のために奉仕していく内、ギブオン人のように主を愛するようになり、救われる人も多い。主は、彼らの祈りを聞かれる。
ギブオン人はサウルを「我々を滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人」と言った。主を愛する人にとって、主を礼拝する所から閉めだされる以上の苦痛は無い。彼らが主に訴える時、主は、神の家全部を飢饉に陥れても、彼らの訴えを聞かれる。ギブオン人は、この問題は金銭や仕返し等の問題ではなく「主の問題」であるとし、主のために、張本人の子孫七人を晒し者にする事を促した。
主との約束を軽んじ、手前勝手な熱心を振りかざして聖徒達を弾圧する者は、自身と子孫に災いが及ぶ。

こうしてサウルの子孫の内、七人が引き出される事になり、リツパの二人の息子たちも、そこに入っていた。
『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。』(10節)
彼女は息子達が殺された日以来、神が天の雨を降らせる時まで、その場を離れず、猛禽や獣から息子達の遺体を守り続けた。そこまで徹底した愛、子が死体となって晒されてもなお守ろうとする「母の愛」以上の愛は、人には無い。子がぐれて、悪くなり、誰もがその子を「死んだ」かのように見捨てても、それでもその子をあきらめず守り、執り成す。母とはそういうものである。しかし、それよりももっとすごい愛が存在する。
主は、たとえ女達が、その子を忘れようとも、決して私達・神の民を忘れる事は無い。(イザヤ49:15-16)
今、私達を言いようもない深いうめきによって、執り成しておられる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊は、いつまでも、どこまでも私達を探り、追い迫る。たとえ私達が罪にまみれ、誰からも「死んだ」ように扱われ見捨てられても、なお深く憐れみ、弁護し、御前にきよく立てるまで、あきらめずに執り成す。

リツパのこの行動は、ダビデ王の心を動かし、サウルとその子の骨を、父の墓に葬るようにさせた。人々は、さらし者にされた人達の骨も集め、ついに神は、イスラエルの祈りに心を動かされるに至った。
彼女が若い時に産んだ子達は、父の罪の故に犠牲にされてしまった。しかし彼女がその遺体を守り続けた行動により、神はなだめられ、ギブオン人もなだめられ、遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ごしの雨が降り注いだ。その雨はイスラエル全体を潤し、パンをもたらしたのだ。
身勝手な正義の振り回しは、自身と子孫を呪いへと導く。しかし愛は多くの罪を覆い、人々を建て上げる。
今、聖霊様は、死んだような私達をも深いうめきと共に執り成し、主の御前で弁護し、恵みの雨を降り注がせようと、待っておられる。この母の日、私達は母の愛を覚え、主の愛を覚え、聖霊様を覚える時としたい。

わたしの霊があなたがたの間で働いている(ハガイ2:4-9)
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 2006年4月末、この横浜・弥生町の物件が与えられ、この会堂において「天声教会」として礼拝が始まり、今年4月でいよいよ10年目を迎えた。そこで今一度、設立当初に与えられたハガイ書の御言葉から学びたい。主の家の建て上げにおいても、礼拝の再建においても、主の霊が働かれる事が記されている。
『主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。』(ハガイ2:4-5)
勇気を出す事の根拠、そして働く事の根拠は、「わたしの霊が、あなた方の内に宿っている」事であり、聖霊抜きの、人間の考え・力・勇気の振り絞りによる働きは、やがて破綻してしまう事は既に学んでいる通りだ。
主はまた、昔、エジプトを出た時に約束された御言葉は、今なお有効である事を、思い起こさせている。
その時主は、主はイスラエルの人々の内に住んで彼らの神となって下さる事を、そして、主こそ彼らを奴隷の家・エジプトから導き出された神、主である事を知る、と言われた。そして「わたしは彼らの神、主である」という主の御名の”証印”によって、約束は確かであると”捺印”された。(出エジプト記29:46-47、20:2)

しかしエジプトを出た民の内、約束の地に入れた成人は、僅か二人であった事もまた、心に留めるべきである。約束の地、主の安息に入るために必要な事は、約束された事を信じ続ける事と、従順な事だ。
70人の長老達にも、モーセに注がれたのと同じ主の霊が注がれ、預言したが、それは一度きりで終わってしまった(民数記11:25)。その時ヨシュアは、招集に来なかった二人にも主の霊が注がれた事にねたみを起こしたが、モーセは「主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられる事は、願わしい事だ」と言った。今、主の民皆が預言者となり、主の霊が与えられる時代であるが、守るべきは主への従順である。
結局、この70人の長老も、カナンの強そうな人達や街々に恐れをなし、約束の地への歩みは止めてエジプトに帰ろう、と言う側に回ってしまい、与えられた主の霊をでモーセを支えるのではなく、反逆する側となり、結局、最後まで信仰と従順を貫き通したヨシュアとカレブだけが、約束の地に入る事が出来た。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)

ハガイの時代、主の言葉に心奮い立たせられ、実際に山に登り、木を切って主の宮を建てるための行動を起こした人々、御言葉に従順し、主の御言葉によって礎を建てた人達にこそ、主は全地を揺り動かし、全世界の財宝が入って来て、栄光を主の家に満たす、という約束を与えられた。(6-7節)
銀は主のもの、金も主のものである。だから私達は、金銀を求める以前に、全ての祝福の源であり、完全な愛で我らを愛し、ひとり子さえ惜しまずに渡された主をこそ、慕い求めるべきなのだ。
「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」、「わたしはこの所に繁栄を与える」と、万軍の主は言われた(9節)。なんと、これから後の「主の家」の栄光は、あの豪華絢爛な、金銀宝石を豪勢に用いたソロモンの神殿の栄光より大きいのだ。ソロモンが建てた豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿より粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろうか。
結局大事なのは、建築物としての建物ではなく、私達礼拝者という「主の宮」の、主を慕い求める心である。
あの山でもなく神殿でもなく、真の礼拝者たちが「霊:御霊」と「真理:御言葉」によって礼拝する礼拝こそ御父に喜ばれる礼拝、求められる礼拝である(ヨハネ4:23)。今、私達はイエス・キリストを通し、霊において、真理において、モーセの時代、ソロモンの時代よりもさらに優れた栄光を、主はそこに置いて下さるのだ。

天声の物件が与えられ10年目。新しい領域へと入りつつある。私達キリスト者は日々「新しくされ続け中」であり、リフォーム中である(エペソ4:17-24)。信仰生活をして行くならば、慣れ親しんだ所にいつまでも留まるという事はなく、主が道を示してくださるなら、いつでもその地へと恐れず、従順し、そして期待と楽しみに胸をふくらませながら進んで行けば良いのだ。行く先は見えないかもしれないが、主が行くように言われたその先に待っているのは、必ず祝福である。その栄光を勝ち取って行く皆さんでありますように!

聖霊に満たされるための心備え(使徒1:3-8)
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使徒行伝は、現代を生きる私達と同じキリスト者達、主の働き人達が行った「言行録」である。
弟子達は、福音書で見られたような弱く俗的で、すぐに間違いを犯すような有様とは真逆の、強く大胆で、きよく聖なる有様が記されている。そのようになった分岐点は、彼らが聖霊に満たされた時であった。
聖霊に満たされたキリスト者は、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる。
ペテロは以前は自分で自分を縛り、自分の好む所を歩き回っていたが、主が復活し、聖霊に満たされて以降、もはやそのように歩むのを止め、自ら聖霊の導かれるままに歩み、主のために生き、主のために死ぬようになった。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。生きるにしても死ぬにしても、主のもの。それが、主の働き人の本来の生き方である。(ローマ14:8) 主は、働き人に約束しておられる。
「聖霊があなたがたにくだる(エペルコマイ:圧倒的に臨む、迫り来る)時、あなたがたは力を受けて・・・さらに地のはて(エスカトス:最後の、末端の)まで、わたしの「ために(原意)」証人となるであろう」(使徒1:8) 
キリスト者は、二通りある。以前のペテロのように自分のために生き、自分の好む所へ行こうとする人、また、主のために生き、主の御霊に導かれるままを生き、主の栄光のために死ぬ人と。前者の人生は、自由のように見えていて実はそうではなく、失敗が多く、最後まで主に従い尽くせず、惨めさと恥ずかしさに行き着く。がしかし後者の人生は、力強く、充実し、主の栄光に満ち満ちている。だから私達キリスト者は、もはや、自分に生きる事は止め、主のために生きるために聖霊を求めるべきなのだ。弟子達は聖霊を受ける前、どのように整えられて行っただろう。私達も聖霊が臨むまで、どう整えるべきか、使徒行伝から学びたい。

『イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』(使徒1:3)
イエス様が復活されて後、天に昇られる日までの四十日間、すなわち、もはや弟子達と面と面を向かって交わる事ができなくなるときまでの尊い四十日、主が弟子達に現れた都度示された事は、「ご自身が確かに生きておられる事」と、「神の国(バシレイア トゥー セウー:神の(王としての)統治」についてであった。
これら2つの事は、私達キリスト者にとって、重要な備えである。もし主の働き、主のミニストリーにおいてこれら2つ、「イエス様が生きておられる事」、「神の統治」が無いとするなら、全く無意味だ。
私達は、きょうと言われているこの日、今まさに現実この瞬間に、イエス様が生きて、働いておられる事を、常に信じ意識しているだろうか? また、主の支配が、地のエスカトス、すなわち、私達の生活や仕事、ミニストリーの末端・極みに至るまで、行き届いている事を、切に求めているだろうか。
主の支配ではなく、その逆に、自分の支配が隅々まで行き届く事を、求めたりしていないだろうか。
聖霊に満たされる事を求めるなら、まず、ここを整える必要がある。

「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」
主は次に、命じられる。エルサレムという都、主の宮があり、主の民が礼拝に集うべき所から離れず、父なる神の約束を「待っている(ペリメノーの現能:期待して待つ)」事を。すなわち、主の礼拝、主の交わりから離れず、積極的な心で、すなわちボーッとではなく、期待する心持ちで、主の約束の成就を待ち望む事だ。
バプテスマは「浸し込む」事の意味である。死と復活を経たキリスト者は、いつまでも以前の自分を死に明け渡し続けるという段階にとどまらず、積極的に聖霊に浸しこまれる事を求めるべきだ。
「主よ、イスラエルのために国を復興(復元する、元通りする)なさるのは、この時なのですか」 弟子達は、四十日、神の支配に拠って歩むべき事を学び続けたはずなのに、相変わらず世の国の、以前の栄光の復元を期待した。あいにくイスラエルは、以前の栄光が帰るのではない。イスラエルはもはや一民族のものではなく、全世界がイエス様にあって一つとされ、神の民、霊的イスラエルとされる事が主のご計画である。
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と主が言われたように、私達は、これから主が何をなさるかを「理解」しようとするより、私達の思いを遥かに超えた主の圧倒的なわざに期待するべきだ。聖霊を待ち望むこの時期、私達は自分の自由にしたいという思いを御前に置き、ただ主の御言葉が成る事を積極的に期待しつつ、主の御国と御心を求めたい。

ふさわしくない者に三度声をかけ立たせて下さる主(ヨハネ21:15-19)
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 弟子達は、弱く愚かだった。主であるイエス様の受難の時は裏切り、復活した後も、主から聖霊の息を息吹かれて「遣わします」と言われたのに出て行かず、元の仕事である漁師に戻ろうとした。主はそんな弟子達を怒ったり責めたりせず、かえって炭火焼きのパンと魚で迎え、愛によって身も心もほぐして下さった。
弟子達は主から聖霊の息吹を息吹かれ任命されたのに、なぜ、魚を捕る漁師に敢えて戻ろうとしたのか。
ペテロがイエス様と出会った最初に言った言葉にヒントがあるかもしれない。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」(ルカ5:8) 本当は心から主が好きで、主からも、その働きからも離れたくないのに、そして主から「これをしなさい」と命じられたのに、敢えて身を引いてしまうなら、その理由は大体、「自分は到底足りていない、主に相応しくない」という思いがある故だろう。
人間社会では「します」と言って出来なかったり、まして裏切ってしまった場合、責められたり断絶されたりして傷つき、ますます引き篭ってしまうが、ペテロは相当自分に失望し、傷ついていただろう。
イエス様は好きだ、ついて行きたい、3年半の間一緒にいて、本当に充実していたし、楽しかった。
けれどイエス様と一緒にいる内に、到底イエス様に相応しい自分ではない、こんな弱く裏切ってしまった自分は足りていないのではないか、自分はここにいないほうがいいのではないか、いたら迷惑なのかな…。
そのような思いがもしかすると彼にあって、主の働きからフェードアウトしようとしていたのかもしれない。
主は、そんなペテロの心を、そして、そのような私達の心をも、主は全てを知っておられ、取り扱って下さる。
弟子達が主から炭火焼きのパンと魚を頂いて、食べ、心もお腹もほぐれた所で、主はペテロに言われた。
「わたしをアガパオー(完全に愛し尽して)しているか?」 ペテロはイエス様に、自分は「フィレオー(好きである、親愛の情を持っている)している事を、あなたはご存じ(オイダー)です」と、答える外に無かった。
主よ、あなたはご存知です。あの鶏が鳴いた夜明けの晩、死ぬまでイエス様について行くつもりだった、躓かないつもりだった。けれども結局、あなたを知らないと言って躓いてしまった。自分で覚悟した通りには出来なかった。その躓いてしまった悲しみも、受けてしまった傷も、イエス様あなたは全部ご存知です…。
そんなペテロに、イエス様は『わたしの「小羊たち」を「食べさせ(ボスコー)』なさい」と言われた。
イエス様はここで、「いや、アガパオーしなさい」とも「死ぬまでついて来なさい」とも言われなかった。
イエス様は二度目、「わたしをアガパオーしているか?」と、再び訊ねられた。ペテロは先と同様に答え、イエス様は『わたしの「羊たち」を「牧し(ポイマイノー:食べさせ、養い、治める)」なさい』と言われた。
すなわち、一度目の時よりも、さらに「主の羊達」にたいする深い養いが要求されている。
主は、三度目、ペテロに言われた。「わたしをフィレオーしているか?」。ペテロは、主が三度目、「完全に愛し尽くしているか」ではなく、「親愛の情を持っていいるか」と聞かれたので、心を痛めた。
主が自分の側へと降りて来て下さったのだ。完全に主を愛し切れない、従い尽くせない自分のレベルへと。
『主よ、あなたは全てを「ご存じ(オイダー:主観的に知っている)」です。わたしがあなたを愛していることは、「おわかりになって(ギノスコー:経験して知っている)」います。』 ペテロは、あなたはわたしを知っている、という点を、ただただ強調した。従えない弱さがある自分、裏切ってしまった自分、再びその可能性がある自分、そんな足りていない自分を悲しく思っている、けれども、それでもあなたは慕っている、という事を。
主は一貫して「わたしの羊」について指示されている。『わたしの「羊」を食べさせボスコー)なさい。主が求めておられる事は、自分の過去の成り立ちや、弱さや、愛の無さはさておき、主の羊達を養う事なのだ。
そして言われる。『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。・・・こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』
働き人がもし、自分で自分を縛り、自分が描いたビジョンに生きるとするなら、それはまだ若造だという事であり、成熟した働き人は、聖霊に縛られ、自分が思っているのではない所へと導かれて行くものだ。
人がもし自分を見、自分の力で生きるなら、必ず失望する。しかし主に依り頼むなら、決して失望はしない。
主は働き人がたとえ二度倒れても、三度、立たせてくださる。 「さあ、私達は主に帰ろう。主は私達をかき裂かれたが、また癒し、私達を打たれたが、また包んでくださるからだ。主は二日の後、私達を生かし、三日目に私達を立たせられる。私達は御前で生きる。私達は主を知ろう、切に主を知ることを求めよう。主は朝の光のように必ず現れ出で、冬の雨のように私達に臨み、春の雨のように地を潤される。」(ホセア6:1-3)

炭火焼きのパンと魚を用意して待っておられた主(ヨハネ21:9-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 主イエスの弟子達が最初に聖霊を受けた日は、ペンテコステの日ではなく、主が復活された日であった。
その日、主は弟子達に現れ、ご自身の息を吹きかけられ「聖霊を受けなさい」と言われたが、それと同時に、「あなた方を遣わします」とも言われた事を、私達キリスト者はよく知るべきだ。
私達は、福音によって死の海の中から引き揚げられ、救われた。主が私達に望んでおられる事は、救われた所で安穏としている事ではなく、今なお「世」という死の海の中でもがき苦しみつつ、死に向かって歩んでいる人々の所へと遣わされ、彼らを死からいのちへと引き揚げる「人間をとる漁師」となる事である。
復活の朝、主は弟子達に聖霊を授け、「遣わします」と言われたというのに、弟子達は世に出て行かず、テベリヤ湖へと向かい、魚を捕りに出かけた。人は幻やビジョンが無いなら、勝手な事をし出すものである。
しかし、主は憐れみ深い御方である。弱く、愚かな、そして何度言われても何度も間違いを犯してしまう私達を見捨てる事なく、叱る事なく、忍耐深く愛によって私達の凝り固まった心を溶かし、整えて下さる。
主は、弟子達に現れたように、私達にもにそっと現れ、彼の言葉に聞き従う人には、人間の力や知恵では到底及ばないような圧倒的な良きわざを現され、それによって私達は「主がおられた」と知るのである。

「彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。」
主は本来、圧倒的に聖であり、圧倒的に正しく力ある御方であるゆえ、人は、そのままの主と相対してしまうなら死ぬ以外には無い。しかし主はそんな弱い主の弟子達のレベルに合わせ、降りて来て下さる。
主は炭火をおこしてパンと魚を調理しつつ、弟子達が湖から上がって来るのを待っておられた。
弟子達は、主の命じられた方向とは逆の、空しい働きに出ていたのに、彼らを一切責めたり諭したりする事なく、そのように待っておられた。弟子達はこの炭火焼きのパンと魚に、どれ程ホッとさせられただろう。
『イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。・・・イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。・・・イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。』(21:10-13)
主は、彼らが主の指示どおりにして捕れた魚を、持って来させ、それをも用いて、調理し、主ご自身、みずから来てパンをとり、彼らに与え、魚も同じようにされた。これが、私達の主、私達の王である。
このように主は、まず、あせる私達の心を落ち着かせ、温かい愛の食事をもって、満腹させて下さる。
彼らは、153(ヘカトン・ペンテコンタ・トリオーン)の大きな(メガス)魚を獲ったが、これによってどれほどの日々、養われただろう。 「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と言われた主は、主の働き人を、ひもじいままにはさせず、その働きにおいて、大いに富ませて下さる御方だ。
私達は主の働きをする際、「遠慮という妙な美徳」を見せて、本当は食べたくて仕方ないのに、我慢して食べないような、あるいは、何者かに騙されて、妙な「くつこ」をかけられたりしていないだろうか。そのような「くつこ」は取り除くべきであり、また、聖霊の光に照らされ、除くべきくつこが分かるように、祈るべきである。
弟子達が働かなくてはならない時、そのために必要なものを一切与えず、彼らがはらぺこのまま、ひもじいままで送り出すような主人は、果たして良い主人だろうか。主はそのような事はしない。「主の御声に聞き従った」弟子達には、大いなる事をされ、全ての必要を満たしあまり余らせるのが主のやり方である。しかし御声に聞かず、御旨ではない自分で考えた所に闇雲に網を降ろすのは、ただひもじい思いをするだけだ。

弟子達は、主の御声に聞き従い、御旨通りに網を降ろして、153匹の大きな魚を獲ったが、この153という数を、ヘブライ文字の数 (ヘブライ語アルファベットにはそれぞれに対応する数字が当てられている) に当てはめると、「神の子達(ベンハーエローヒム:創世記6:2)」の数と一致する。
イエス様が復活された後の網、聖霊を受けた弟子達が神の子達を捕るための網は、決して破れないのだ。
ペテロ達が最初にイエス様から召命を受けた時の網は、破れた。(ルカ5:6、KJV:their net brake.)。
聖霊によって投げない網は破れ、聖霊によって捕えない魚は、破れ口から出たり入ったり、教会から出たり入ったりしてしまうが、イエス様が復活された後の網、すなわち、聖霊によって投網する網は、決して破れず、神の子を捕らえて。離さない。私達はもはや、神の子が教会から出たり入ったり、行ったり来たりしないために、復活の主の御声に聞き従い、聖霊による網を投ずるべきだ。復活の主の御声に聞き従い、聖霊により、偉大な(メガス)の神の子たちを捕獲して行く皆さんでありますように!

主に召し出されても、何をして良いのか分からない時(ヨハネ21:1-8)
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週報/メッセージ(説教)概要

 復活祭の後、およそ7週間後の聖霊降誕日までの間を、教会の暦は「復活祭期」「主の復活の第*週」と呼んでいるが、この期間、私達は聖霊に満たされる事を祈り求める時としたい。
弟子達は、いつ、聖霊を受けたか。それは実は、ペンテコステの日ではなく、イエス様の復活の日である。
『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』(20:21-22) イエス様はこの時、「あなた方を遣わす」と言われ、そして、息を吹きかけた。
聖霊を受ける理由は、「遣わされるため」である。私達はイエス様の御元で座って聞き入って居たいかもしれない。しかしそこを立って、世へと出て行き、イエス様を伝える者となるべきだ。世に働きは多いからだ。
しかし弟子達は、復活の主からせっかく聖霊の息吹を吹きかけられても、以前と全く変わっていなかった。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「私達も一緒に行こう」と言った。」(3節)
シモンがここで言った「行く(フパゴー)」には、「徐々に退いて離れて行く、去って行く」の意味がある。
つまり彼らは、せっかくイエス様から「遣わされる」ために聖霊の息吹を吹きかけられたのに、弟子としての働きは徐々に退き、元々していた漁へ戻って行こう、と表明したのだ。私達もそういう所があるかもしれない。
イエス様を信じ、イエス様から「あなたを遣わします」と、聖霊の息を吹きかけられたのに、特に変わり映えが無く、むしろ今までいつも目の前で先頭に立ってリードしてくれていた指導者や、牧師がいなくなったら何も出来ず、何も思い浮かばず、手をこまねいて、以前の状態に戻ろうとしてしまうのは、ありがちである。
しかし私達は既に、イエス様を主と告白する事によって、聖霊の息吹は受けている。(1コリント12:3)
世から引き抜かれ、神の国の者とされている。というのに、今まで頼りにして来たものが目の前からいなくなってしまって、何が出来るだろう、と思う働き人は多い。しかし主を信じて行くなら、大きな働きをするのだ。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。』(14:12)
実際、弟子達はペンテコステ以降、イエス様のわざをなし、とても偉大なわざをして行った。
そこに至るまでは、まだ、色々なステップを踏んでいかなくてはならなかったが。

弟子達は、その夜、何も獲れなかった。ひと度、主から聖霊を息吹かれ、任職を受けたなら、以前していた世の事どもに戻ろうとしても、何も獲れないし、また、世に留まり続けてもひたすら虚しく、何の実りも無いのだ。その時、イエス様は岸辺に立たれたのに、弟子達には、それがイエス様だとは分からなかった。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(21:5)
イエス様は、分からないから聞いたのではない。任職と聖霊を受けたのだから、人間をとる漁師に出るべきはずなのに、今までの世の魚を取ろうとするのだから、収穫が虚しいのは当然だろう、と確認したのだ。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(21:6)
イエス様の御旨でない所に闇雲に網を投げても、ひたすら虚しいのだ。伝道であれ、奉仕であれ、御旨でない所に「ここだ」と思って投げても、同じく虚しいのである。しかし、イエス様の御声に従順し、彼が指示される所に網を降ろすなら、人の能力や経験を遥かに超えた、何日分もの養いを得る事が出来る。
そして、それをして下さったのは、人ではなく主であると知り、主はそのような御方であると改めて確認するのだ。ヨハネは「余りある必要を満たされる」というイエス様のご性質を思い出し、「あれは主だ」と叫んだ。
前の仕事・前の状態に戻ろうと言った張本人のペテロは、主であると聞き、衣で裸を覆い海にとびこんだ。
私達も、ペテロのように、イエス様だと気づいたなら、イエス様に敬意を表し、すぐ飛び込んで戻るべきだ。

私達は、イエス様を信じて以降、彼の素晴らしさ、御言葉の甘さを味わっていながら、伝えていなかったり、恐れて戸を閉ざして閉じこもっていたり、前の状態に戻ろうとしたりしていないだろうか。ぬくぬくと現状の心地よさに留まっていないだろうか。もしそうだとするなら、もはやそこを離れて働きに出られるよう、聖霊充満を求めるべきだ。キリストの復活と新しいいのちに生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!

キリストが復活された事の幸い(マタイ28:1-15)
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 本日は復活祭(イースター)、私達の主イエス様が復活された事を記念する日である。
イエス様はひと度、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネや母マリヤ、ローマ兵や百人隊長、その他、多くの人達の目前で息を引き取り、槍で突かれると、血と水が流れた。死後硬直しつつある遺体は降ろされ、岩窟の墓に葬られ、その入り口は大きな石で塞がれ、封印され、兵士が番をした。弟子達は皆、イエス様がよみがえるとはつゆ思わず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様は完全に、復活された!女達がイエス様の遺体に防腐処置しようと墓に行った時、ローマの封印は破られており、入口を塞いていた大きな石は脇にやられ、見張っていた兵士達は、死人のようになっていた。そして墓の中に遺体は無く、ただ体を巻いていた布が置き去りにされていたのみだった。
ローマは当時の最高権威であるが、いかに人が最高権威をもってしても、復活のいのちは、妨げられない。
よみがえられたイエス様は、十字架までついて行った女達に真先にあらわれ、弟子達にも現れ、また多くの人々の前に現れて、彼らの前で天に昇られた。イエス様は今も生きておられ私達の内に働いておられる。

イエス様を十字架につけ、一度は死なせる事に成功した祭司長・長老達は、兵士達の報告を聞くと、集まって協議し、兵士達に沢山の金を掴ませ『弟子達が夜中にきて、寝ている間に彼を盗んだ』と言わせた。
それが今日もユダヤ人の間に広まっているが、もし、イエス様がよみがえられなかったとしたら、どうなのか。
イエス様を見殺しにした弟子達は勇気を振り絞って出て来て、墓を守るローマ兵を気絶させ、封印を解き、重い石をころがし、イエス様の遺体を奪って、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。
また、大祭司一族や議員など、大勢の有力者を前に、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によって、彼は癒された」と、誰もが驚く大胆さと知恵で、イエス様があたかも生きているかのように主張した、というのだろうか。(使徒4章)
そんな事は、決して有り得ない。そもそも、主を一度見殺しにして見捨ててしまったような弟子達が、もう死んでしまった主を「よみがえった」と言って命がけで吹聴するメリットなど、一体どこにあるというのか。
あらゆるキリストの敵対者・反対者には残念な事だが、キリストは実際に復活し、多くの人に現れて、その莫大な復活のいのちの力を体験した人や、罪深い人生から全く変わってしまった人は、大勢いる。
キリスト教は当初、ユダヤ教ナザレ派という、元漁師や取税人、遊女といった社会的弱者から構成される、お金も知恵もまとまりもない、弱小集団だったのに、ヘロデ王や皇帝ネロなど、世界に冠たるローマ帝国の迫害をものともせず、むしろ飲み込んでしまい、後には、帝国そのものをキリスト教国へとしてしまった。

復活祭は、キリスト教会では最も重要な祭りだ。『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。』(1コリント15:3-6)
今までの人類で、心肺・脳波停止などの「死」から蘇生した人は、沢山いるだろう。しかしイエス様の死と復活は、そのような”蘇生”とは、根本的に違う。人はたとえ蘇生したとしても、必ずまた死ぬ。罪の故である。
しかし、イエス様が一度死なれたのは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のため」、つまり、全て死の根源なる”罪”を処罰するための「死」であり、最後の敵である死も、滅ぼされる(同26節)ためである。
罪なき神の御子が、人の罪の結実たる「死」に、束縛されたままである事など、有り得ない。(使徒2:24)
死が有り得ないイエス様が、人間の死にわざわざ付き合って下さったのは、人として罪を負い、その罪を処罰するためだ。そのために彼は神の座をわざわざ降り、人となって、十字架につけられ、死に、そして復活された。それによって死に勝利され、罪に勝利され、私達を縛っている諸々の呪いから勝利されたのだ。
キリストの救いの方法は、死と復活だ。古い自分は一度、全く死んで、復活し、全く新しいいのちで生きるという「いのちの取り換え」だ。『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。・・・ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。』(ガラ6:14)
キリストの復活にあって、彼のために新しいいのちを生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!

聖なるお方の手の釘を見よ(ヨハネ19:19-22)
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 本日より始まる1週間は、教会暦における四旬節の最後、主の十字架の苦しみを覚える「受難週(聖週間)」であり、本日はその起点の「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々は「ホサナ」と叫びながらしゅろの葉を持って迎えた事を覚える日である。
最後の三日間は聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日と呼ばれ、木曜には主の晩餐を、金曜は主の十字架上での死を覚える日、そして次の主日は、キリスト者にとって最も重要な、主イエス・キリストの復活を記念する「復活祭」である。この一連の、主の十字架の死と復活は、全人類にとって最重要な出来事である。
神の御子・キリストが多くの人のために死ぬ事、それによって救いがもたらされる事は、預言者イザヤをはじめ、多くの預言者達を通して伝えられて来たが、主は、預言者達の口を通してだけではなく、実は、ご自身の「御名」を通しても、イエス・キリストこそメシヤであると、名前の中に意味を込めて伝え続けておられたのだ。主の御名には、どのような意味が隠されているのか?それは、ヘブライ語で見なくては分からない。

主の御名「エホバ」はヘブライ語では「יהוה」であるが(ヘブライ語は昔の日本語のように、右から左の方向で読む)、この4文字(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)は「神聖4文字」と呼ばれ、ユダヤ人は聖なる主の御名をみだりに口に出す事をしないが、ヘブライ語の文字には、それぞれ意味が込められている。
「ユッド」は「手」が関係する文字であり、「ヘー」は「見よ」という意味がある。また、「ヴァヴ」には「釘」の意味がある。すなわち主の御名、 ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーは「手を見よ、釘を見よ」という意味があるのだ!
主は実に、イエス様が十字架上で釘うたれる事を、主エホバの御名が人に知らされた時以来、ずっと、その御名を通して語り続けておられたのだ。つまり、何百年、何千年もの間、主の御名が宣言される度に、「あの手を見なさい、釘打たれたあの手を見なさい」と、ずっと宣言され続けて来たわけである。
さらに、イエス様の御名も、ヘブライ語で読むと、意味が浮かび上がってくる。
イエス様の御名、イェシュアは、ヘブライ語では「ישוע」(ユッド、シン、ヴァヴ、アイン)であるが、「ユッド」は「手」の意味、「シン」は「聖なる」、「ヴァヴ」は「釘」、「アイン」は「目」、の意味がある。これをつなげると、聖なる御方の手の釘を、その目ではっきり見なさい、という意味になるのではなかろうか。
父なる神様の御名も、御子イエスの御名も、あかしする。聖なる御方の手を、釘を、はっきり見なさい、と。
さらに、父なる神様は、イエス様が十字架につけられたあの場面でも、この御方こそが「手を見よ、釘を見よ」と言われて来た、あの御方である、この方を見よ、と示されている。どういう事か。
ポンテオ・ピラトは、イエス様が十字架につけられる時、罪状書きを十字架の上に掲げたが、彼はそこに「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いた。ユダヤ人達は「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言ったが、ピラトは「私の書いたことは私が書いたのです。」と答えた。
その罪状書きは、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語の3ヶ国語で書かれ、そして大勢のユダヤ人がこれを読んだが、その罪状書き「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」のヘブル語は、次の通りである。
ישוע הנצר ומלך היהדה この4単語のそれぞれの頭の文字を取り出すと、なんと「יהוה」(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)、つまり、エホバの御名がこの言葉の中から浮かび上がってくるのだ!
歴史を動かし、全被造物をイエスキリストへと集約し、イエスにあって全被造物を贖い、救い出される主は、ヘブライ語が読めないピラトさえも動かし、この罪状書きを書かせ、頑としてその内容を変えさせず、イエスこそ主であり王である事を示されたのだ。主はこのように、ユダヤ人に対し、彼らの言語で証されているのに、彼らは頑なに無視し続けているのは、残念な事である。
主はモーセに、自らを「わたしはある」と紹介された。すなわち主は、存在しておられる御方、宇宙万物全ての存在の根源であり、目的であらり、自存者であられる。その主が、あの聖なる御方の手を見よ、くぎ跡を見よ、この御方こそが、あなた方を救う主である、この御方に立ち返りなさい、と言っておられる。
主のくすしい御業を覚え、キリストこそ永遠の昔から認証された救い主である事を心に留めつつ、 キリストの受難と復活を覚える週を送る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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