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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

人を恐れて罠にかかったダビデ(1サムエル記27:1-28:2)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ダビデはイスラエルでは最も偉大な王であり、神からも「わたしのしもべダビデ」と愛された王である。
今回は、彼が王になる前に犯した失敗から、私達も陥りやすい罠について学び、次回、その失敗からいかに立ち直って前よりも優れた者になるべきか、そして、主はいかに真実なお方であるかを見たい。

ダビデがサウル王の部下として活躍していた時、彼があまりに有能で、神からも人からも愛されていたので、それを妬み恐れたサウル王は、ダビデを殺そうと、彼をつけ狙うのだが、神はことごとくダビデを守られた。
神はダビデに、二度もサウルを殺すチャンスを与えられたが、ダビデは二度とも、主に選ばれた王サウルを殺す事は拒否し、むしろ「憐れみ」「赦し」という、神の前に高貴なわざで、サウルの横暴に勝利した。
その勝利の直後、ダビデは彼らしくない失敗を犯す。彼は思い巡らす。このままではサウルに殺されてしまうから、イスラエルを離れ、敵国ペリシテに逃れよう、そうするなら、自分達は生き長らえるだろう、と。
この決断は、主に伺った形跡は無い。動機はただ将来への不安・恐れである。それで彼は、礼拝する所のあるイスラエルを離れ、弱肉強食の地・ペリシテへ逃れて行った。今風に言えば、将来を不安するあまり、収入は良いけれどいわゆる「汚れた」仕事へ身を投じ、礼拝から離れた生活に入って行くようなものだろう。
ダビデは勇士であり、統率力も人望も実績もある。どこに転職しても、そこそこ上りつめる自信はあっただろうが、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人への「要求」は、どんどん過酷になって行く。

こうしてダビデとその部下600人、そして彼らの妻子全部は、ペリシテの王アキシュの元に身を寄せた。
サウルはそれを聞いて、もはやダビデを追う事を止めた。彼の当初の目論みは「成功」しただろうが、主に頼らない地、弱肉強食の世界で生活し続けるには、その世界の”実績”を上げ続けなくてはならない。
悪徳業者には騙し・脅しなど、暴力的な性質が「価値」であり、それを訓練して行くように、ダビデはペリシテ王に気に入られようとした時点で、その方面の「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまった。
ダビデはそこで「略奪」を”なりわい”とするのだが、彼は表向き、イスラエルの町々を襲っているように見せかけ、実の所、異邦の町を襲って、神の民イスラエルに手をかける事は、かろうじて避けた。
しかし、それを通すためには、女子供さえ皆殺しにし、口を封じていたのだ。偽りと、殺しの生活である。
『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(12節) ダビデは確かにペリシテ王の信頼を得たかもしれない。
しかしひと度、「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と思わせてしまったなら、その方面のプロとして見られてしまい、その方面の要求はさらに過酷になって行き、ついには、最も望ましくない事を要求されてしまう。

ある日、ダビデはアキシュから「一緒にイスラエルと戦おう」と持ちかけられ、彼はそれを”快諾”してしまう。
それでダビデは一層アキシュの歓心を得、生涯、護衛長として雇おう、という確約も得た。周りからは、僅か一年数ヶ月での大昇進だ、となるだろうが、彼はは果たしてその”終身雇用”の保証を喜べただろうか。
彼の妻になったばかりのアビガイルは、ダビデは必ずイスラエルの王になると確信していたが、彼女はこんなダビデをどう思っただろうか。とてつもない嵐が、彼の心に吹き荒れていたのではなかろうか。
自分はなんという生き方へと嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻子や部下たちを導いてしまったのだろう、こんな事なら、サウルに追われながらでも、神様との健全な関係の内に、信仰者として恥じない生活を、神の民としての誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
そしてその大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。
『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)
神から離れ、世に取り入ろうとするクリスチャンは、必ずダビデのこの葛藤に陥る。しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
それはもちろん、簡単にではないだろう。痛みを伴った、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒すという事はされない。次回、主がいかに憐れみをもって導いて下さり、そしてダビデがいかに信仰にあって立ち直り、以前よりもさらに強固になったのかを見て行きたい。

ヒゼキヤ - 命が延長されない方が良かった善王(2歴代誌29-32章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 預言書であるイザヤ書の中間に、ヒゼキヤ王の時代に起きた出来事が唐突に挿入されている。この出来事は、列王記にも歴代誌にも記されているが、それはこの出来事が、ユダ王国がバビロンに滅ぼされる原因となった重要な出来事だからだろう。今回、その中心人物であるヒゼキヤ王について見て行きたい。
ヒゼキヤ王については、2歴代誌29-32章に詳細に記されており、彼は良い王として記録されている。
彼の父アハズ王は至る所に偶像を建て、主の宮も偶像で汚し、封鎖した故に神の怒りを買い、国はだいぶ弱体化してしまった。ヒゼキヤは25歳で王になったその第一年一月、主の宮を開いて清め、祭司やレビ人を激励し、勇気を出して主の奉仕に当たるよう命じて、礼拝と賛美を回復させた。(29章)
また、南ユダだけでなくイスラエル全土におふれを出し、心から主に立ち帰って、久しく途絶えていた過ぎ越し祭に参加するよう呼びかけた。北イスラエルのほとんどはそれをあざけり笑ったが、呼びかけに応じて集う人々もあった。主から離れた時代が久しく続いたため、祭司や働き人はわずかで、祭りのための知識も準備も不完全であったのに、主は、そんな彼らを執り成すヒゼキヤの祈りに答えられた。
主は祭司の祝福に答えられ、礼拝に参加した人々には大きな喜びがあった。(30章)
人々は霊的に奮い立ち、各所にある偶像を打ち壊した。また、ヒゼキヤは、それまで途絶えていた日ごと・週ごと・月ごとの礼拝を回復させた。その結果、主の豊かな祝福が臨んだ。 『民が主の宮に供え物を携えて来ることを始めてからこのかた、われわれは飽きるほど食べたが、たくさん残りました。主がその民を恵まれたからです。それでわれわれは、このように多くの残った物をもっているのです。』(2歴代誌31:10)
そのような時、大国アッシリヤが攻めて来た。アッシリヤは各国を制圧し、北イスラエル王国も打ち破り、首都エルサレムは、十八万五千もの軍隊によって取り囲まれてしまった。将軍ラブシャケは自分達がいかに強く降伏する事がいかに得策か、ユダヤの言葉で人々に聞こえるように叫びさえした。(イザヤ36章)
『そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って、天に呼ばわったので、主はひとりのみ使をつかわして、アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが、その神の家にはいった時、その子のひとりが、つるぎをもって彼をその所で殺した。・・・そこで多くの人々はささげ物をエルサレムに携えてきて主にささげ、また宝物をユダの王ヒゼキヤに贈った。この後ヒゼキヤは万国の民に尊ばれた。』(2歴代誌32:20-23)
ヒゼキヤ王の信仰も、主に貫いた従順と忍耐も、主の御前にとても高貴なものである。しかしこの絶頂の時、彼は病にかかり、預言者イザヤから、もうじき死ぬから身辺整理せよ、と宣告される。なぜあの素晴らしい人が?という事はあるが、主は全てのいのちを計っておられ、主の為される事は時に適って最善なのだ。
人は弱くいつでも主に喜ばれる歩みをするとは限らない。実は、命が延長されない方が良い事もあるのだ。

ヒゼキヤ王が主に祈った結果、その祈りは答えられ、彼は15年命が引き伸ばされる事を、しるしをもって示された。そのしるしはなんと、太陽が逆行するしるしであった。(2列王記20:11)
『ヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず、その心が高ぶった』(2歴代誌32:25) 彼はせっかく主からもらった15年の命を、悪い事に用いてしまった。彼が癒やされた事や、大いなるしるしが起きた事で、バビロンから使節が来たのだが、それに気をよくし、宝物倉も武器倉も全てを彼らに見せたのだ。
しかし、これが元となって、彼が見せた全ては将来全てバビロンに奪われてしまうばかりでなく、彼の子達もそこで宦官にされてしまう事さえイザヤは預言した。『ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。』
彼のこの言葉からは、自分のいのちと保身にしか関心が無い事がわかる。彼は当初、とても高貴な信仰の働きをしたのに、こんなにも卑しい心に成り下がってしまった様を見るのは、とても残念な事だ。
私達はこの事をよくよく気をつけるべきである。当初は素晴らしい信仰と忍耐によって高貴な働きをし、多くの奇跡が起きても、豊かに有名になるにつれて傲慢になり、悪い事に用いられてしまった例は、沢山ある。
心を尽くして主に信頼して歩むなら、確かに祝福され、勝利し、奇跡も起き、病の癒しもあるだろう。成功して有名になるだろう。しかしその時こそ強敵が必ず現れる事を忘れてはならない。その敵は自分自身の「傲慢」である。多くの王達や牧師達の中に、それに負けてしまった人達も多くいる。私達は主のために生き、死ぬなら主のために死ぬ者である事を忘れず、生きるにも死ぬにも主の栄光を現す者でありたい。

わたしは主である(イザヤ41:1-20)
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 先週もコーヘン博士課程で学ぶため韓国に行って来た。今回は特にイザヤ書とレビ記から学んで来た。
主は毎回、素晴らしい御言葉の奥義を与えて下さっておられるが、今回は御言葉においても実体においても、主から「押入れ、ゆすり入れ」しての祝福が与えられた。まことに主は、主を愛し、御言葉に従って歩む人を特別扱いし、あらゆる良きものを与えようとして取り囲み、これもあれもあげようと待っておられるのだ。

天声では毎回、御言葉を自分自身に当てはめ、自分の名前を代入して宣言しているが、それは聖書の勝手な乱用ではなく、御心に適った事である。聖書は新旧約の合計66巻、すなわち、「旧契約」と「新契約」から成り立つ「契約」の書である。旧約聖書は、神がアブラハムの子孫、すなわちイスラエル民族に対して結ばれた契約であるが、彼らはそれをないがしろにし、破ってしまった。
そこで、神の救いは、イエス・キリストを通して全人類へと及ぶ「新契約」として制定され、こうして、全人類が救われるべき対象となり、イエス・キリストを信じる者には誰でも救いが与えられるようになった。
では、旧約聖書は私達と関係が無いのか?『もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:29) キリストにあってアブラハムの子孫、であるからには、旧約は私達に大いに関係がある。トラー(モーセ五書)には248の「しなさい」と、365の「するな」の、合計613の命令がある。これは命令形の動詞で、神の命令形動詞には従順が要求される。
もし命令に不従順なら、何もおきないのではない。呪いが足音を立ててやって来るのだ。しかし従順するなら、奇跡が起きる。救いは確かに福音書に示されているが、その人生が祝福されるか呪われるかは、100%、命令に従うか、従わないかにかかっている。クリスチャンはこれをしっかり把握しなくてはならない。世の人と違って、従順するなら誰より祝福され、しないなら誰より呪われてしまう。それは、特別だからだ。

契約書を交わす時、必ず双方が自分の名を記し、サインまたは印鑑を押して、「これは確かである」というしるしを残す。神は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」と宣言し、あなた達を「贖い」、「神の民とし」、「あなた方は神を知り」、「素晴らしい地を所有する」という4点を「アニ・ヤーウェ」の元に宣言し、そして最後に再び「アニ・ヤーウェ」を宣言して、この約束は確かである、とした。(出エジプト記6:6-8) ユダヤ人達はこの「アニ・ヤーウェ」を、神ご自身の自己署名(サイン、または印鑑)であるとし、また、この一連の御言葉を、神の天国経営のマニフェストと語っている。
つまり、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」という言葉が出てくる時、そこに記されてある内容は、主が「ハンコ」を押した、重要かつ確かな内容であり、主の側が「契約を交わそう」と言っておられる場面である。
「さあ、あなたとこの御言葉をもって契約を結ぼう、既にわたしの側は「アニ・ヤーウェ」のサインをした、あとはあなたの側が、信仰をもって「アーメン」の捺印をし、この言葉の祝福を、ただ受けとる番だ」と。

イザヤ書41章も「アニ・ヤーウェ」が4回も出てくる重要な章である。「海沿いの国々、東の地」(1-2節)の「アブラハムの子孫よ」(8節) と呼びかけられている言葉は、まさしく、キリストにあって霊的アブラハムの子孫とされた、東の地、海沿いの地域に住む”私達”に呼びかけられている場面とすべきだ。
なぜなら、主の側が、アニ・ヤーウェの言葉をもって、私達に迫って来ておられるからだ。
私達は、その行く所で勝利をもって迎えられ、諸々の国々を征服し、諸々の王達を足下にし、足の踏んだ事のまだ無い道を安らかに過ぎて行くという、1-2節の言葉を感謝し、信仰のサインを記すべきである。
また9節からは、私達は主に連れ出され、「__は、わたしのしもべ。わたしは__を選んで、捨てなかった。」という言葉をそのまま信じ、自分のものとし、自分の名前を__に入れ、自分のものとすべきである。
「恐れるな。わたしは__とともにいる。たじろぐな。わたしが__の神だから。わたしは__を強め、__を助け、わたしの義の右の手で__を守る。」(10節) 本当に、主の側からの、しつこい程の促しである。
恐れるな、たじろぐな、わたし、エホバが、あなた__とともにいるのだ、わたしエホバが4回もアニ・ヤーウェのサインしただろう、あなたのために。 主の側がこれ程までに、信仰をもって契約せよ、せよ、と言っておられるからには、どうして私達はそれを感謝して受け取らない事があろうか。受け取らない事はどれほど失礼な事だろう。私達は、信じないで退く者ではなく、信じて進み行き、栄光を勝ち取るものでありたい。

モーセ - 一家の大黒柱の働き(出エジプト記17:8-16)
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 今日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。父の存在は一家の中で最も大きい。男性は家では大抵無口なので、あまり目立たないかもしれないが、父がいるというだけで、妻も子供も安心感を得ているものである。今回、かの有名な人物、モーセから、父親像を見たい。
モーセは父としてのイメージはあまり無いかもしれないが、彼がイスラエルに成した事はとても偉大である。
そんなモーセも、最初から偉大な性質の持ち主だったわけではなかった。主から召命を受けた時、彼はただの80歳の口下手な羊飼いだった。最初は、神様から言われた事を「できません」と何度も断って神様を怒らせたり、やっとパロの前に出ても怖気づいて神様から示された通りに正しく出来なかったりもした。
しかし、曲がりなりにも、神様から示された通りにしたら、それはことごとく驚くべき結果になった。彼はそうした一つ一つの小さな従順の積み重ねで、徐々に神様に信頼を置く事の確信を得ていく。そうしてついにはエジプトに決定的な災いが降され、全イスラエルはようやくエジプトを脱出する。主と歩むなら、実に有り得ない事の連続である。主に依り頼まず自分の力に頼って挫折し、そのまま歳を重ね、口下手な80歳になってしまっても、主に依り頼み始めたその時点で、その性質は徐々に変わって行くのである。

エジプトは戦車や騎兵で追って来た。しかしモーセが主から指示された通りに、杖を海に向けて差し伸べると、主は海を分けて、イスラエルを通れるようにし、エジプトに対しては海を閉じて滅ぼした。
この偉大な事が為されてからわずか3日後、民は、モーセに文句を言い出す。マラという所に来たのだが、その水は苦くて飲めなかったのだ。(出15:22-27) 父というものは、何年がかりの偉大な事業を成し遂げても、目の前にちょっと不足が生じると、たちまち家族から非難の矢が飛んで来てしまうものだ。家族の中でいつも一番心砕いて家族を導いているのに、どう頑張っても、必要なものが得られないという時がある。
その時、家全体を守らなくてはというプレッシャーのみならず、一番助けてもらいたい家族からも非難を受けて、窮地に陥る事もあるが、その時こそ、一家の長たる父は、主に叫ぶべきである。(出22:25)
モーセは主に叫んだ所、一本の木を主から示され、それを水に投げ入れてみると、その水は甘くなった。
こうして彼らは12の水の泉と70本のなつめやしの木がある「エリム(丈夫な木という意味)」へと辿り着いた。
私達の人生においても、苦労の末に辿り着いた所は、苦い所だった、という時こそ、主に祈って叫び、「キリストの十字架という木」を、そこに投げ込むのだ。そうすると、そこは甘い場所になるのだ!

主は彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出し、食料の心配を除いて下さったが、時に、外敵・アマレクが戦いを仕掛けて来た。彼らは疲れ弱っている人達を攻め打ったのだ。(申命記 25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9)
モーセはそれまで、困った事が起きる度に主に叫んでいたが、今回彼は「主は必ず助けて下さる」と積極的に信じ、彼の従者ヨシュアに戦うよう指示して、モーセ自身はあの杖を持って、丘の上に立った。
『モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、一人はこちら側、一人はあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。』(出エジプト記17:11-12)
ヨシュアは前線に出て戦っていたが、戦いの勝敗を切り分けたのは、モーセの執り成し祈りであった。
父は一家の長として、そして祭司として、家全体のために祝福し祈る者である。アブラハムもイサクもヤコブも、ダビデも、家族のために祈る祭司だった。そして、執り成し祈りという格闘を続けていると疲れも出てくる。
そんなモーセを助ける「手」となったのが、アロンとフルだった。一家の長が、家族のために働く時、そして執り成す時、疲れも出てくる。その時こそアロンとフルのような、助け手が必要である。助けが無い家、ただ文句ばかり言う家族しかない家は、一家の大黒柱が倒れ、全体が倒れてしまう。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立って取り成して祈る姿を見て、安心して戦えた。父の祈りと励ましによって、妻も子供も安心して出入り出来る。そして主は彼らの旗となって導き、その家を勝利へ導いて下さるのだ。普段から家族のために骨折っている父達を、その家族を、イエス様の名前によって祝福します!

エサウ - 一杯の煮物で祝福の権利を売った者(創世記25:23-34)
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 今回より、再び聖書の登場人物をテーマに見ていきたい。今回はアブラハムの子イサクの長男、エサウについてである。彼は、神に祝福された家系の長子としての祝福を受け継ぐはずだったのに、取り去られてしまった。また彼の子孫は、一時はエドム人として栄えたのに、今はもう滅んでしまっている。それに引き換え、彼の弟ヤコブは、後に神から「イスラエル」と名付けられ、今なおイスラエル民族は栄えている。
この違いは一体何だろう。どういう人が祝福を勝ち取り、どういう人は、祝福が取り去られてしまうのだろうか。

『エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となった。』(27節) 
創世記で「巧みな猟師」は、総じて、主の目には悪い者である。(10:9のニムロデ、21:20のイシュマエル)
彼らは、自分の力強さに頼り、思うままに好きな所へ出て行って、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにし、欲するままに力で周囲を支配する者であり、それは、神に喜ばれない歩み方である。
最近は、肉食系・草食系の仕分けで、草食系を蔑む雰囲気もあるが、主は、肉食系をこそ蔑まれるのだ。
「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」(27節) この「穏やか(タァム)」という語は、「正しい」「全き」「無垢」とも訳せる、義人ヨブの品性を表す語である。(ヨブ記1:1) 
彼はエサウと違って、好き勝手な所に出歩かず、父の天幕の周りで父の羊の群れをしっかり見守っていた。
父から任された羊をしっかり見守る事こそ、主に祝福される性質だ。主の働き人は、主から任された羊を放置し好き勝手する者になってはならず、しっかり羊達の面倒を見るべきだ。父イサクがエサウを愛したのは、彼が狩って来る獲物の肉を好んだからだが、リベカは、主の祝福の約束があったヤコブの方を愛した。
多くの人は、世の中をうまく渡り合って腕づくで食を確保できる狩人型人間になりたいと願い、その人が好かれるが、兎と亀の競争のように、後で追い抜されてしまう時が来る。主の祝福の約束がある者によって。

彼はある時、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで疲れ果てて帰ってきた。
その時、ヤコブはレンズ豆の煮物を煮ていた。『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(30-31節)
エサウとしては、いきなり突拍子もない事を要求されたように聞こえたかも知れない。しかしヤコブは、いつも「長子の特権」を狙っていたのだ。母の胎にいた時から兄のかかとを掴みながら出て来た程に、いつも、アブラハムの家系として祝福を受け継ぐ特権を自分のものにしようと、虎視眈々と狙っていたのだ。
しかし、生まれながらに長子として祝福を受け継げる者という座に安住していたエサウは、弟のそんな言葉はどうでも良く、ただ、目の前にあるその「赤いもの」が、今すぐ欲しかった。
『エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。・・・彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。』(32-34節)
彼は、まさかこれで本当に長子の権利が売られてしまったとは思っていなかったかも知れない。
しかし彼は確かに食べ、契約は成立してしまったのだ。結局彼は、長子の特権を軽んじていたのである。

神は、生まれながらに人を差別されるのだろうか?少なくとも私達はそう考える必要は一切無い。なぜならキリストを主として信じる者には全て、天の御父から永遠の祝福を受け継げる特権が与えられるのだから。
それは、エサウの長子の特権と同じで、天の御父から全ての祝福を受け継ぐ事のできる、全特権である。
キリストを主として信じるなら、私達も、その全特権にあずかれて、そこに差別も例外も無い。しかし信じないなら、エサウのように、自分の腕力で他を狩りながら生きて行く他はなく、その行き先は呪いと滅びである。
私達は、エサウのようにその特権を軽んじて売ってはならない。エサウの場合、祝福の権利と引換にしたものはレンズ豆の煮物で、イスカリオテのユダは銀貨30枚だったが、サタンは様々な形にそれを変えて私達に迫り、誘惑して来る。私達はそうした誘惑を断固、イエス・キリストの名によって拒否しなくてはならない。
ヤコブのように、与えられた領分において、与えられたいのちをしっかり養い育て、神の約束をいつも思い巡らし、祝福は貪欲に勝ち取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

御国から派遣された大使であるキリスト者達(使徒4:5-31)
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 聖霊に満たされた人、すなわち、聖霊様がその人の支配の王座に座され、このお方に支配され突き動かされている人は、力強く大胆なイエスの証人となる事を、ここ数ヶ月、詳細に見て来た。
今回、あの弱かった弟子達が、どれ程大胆になったか、その最たる出来事を見る事ができる。
神殿で大胆にイエス様を証ししていたペテロ達を捕らえ留置したイスラエルの長達は、翌日、さらに錚々たる者達を招集する。5-6節の面々は、市長達や学者達、国会議員レベルの人達のようなものだ。
そして彼らはペテロとヨハネ、すなわち、無名無学な元漁師の二人を、この錚々たる面々の前に引き立し、尋問する。「あなたがたは、一体、なんの権威、また、誰の名によって、このことをしたのか」(7節)
普通なら震え上がって、ただ赦しを乞う所だろう。彼らもそれを狙っていたかもしれないが、ペテロ達はそうではなかった。『その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人達、ならびに長老たちよ…』(8節)

ペテロはここでもメッセージを始めるが、その言わんとする事は、前回・前々回とほぼ一緒である。
すなわち、十字架上で死んで、復活し、父なる神から権威が与えられた、あのナザレ人イエスについて。
『この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。』(10節)
もしイエスがよみがえって”いない”としたなら…これ程ナンセンスな主張は無いだろう。しかしイエス様は実際に復活し、その御名には救いの権威が与えられ、信じる人には証拠としての奇跡が行われたのだ。
ペテロはさらに、尋問とは関係の無い、むしろ彼らの神経を逆撫でしかねない「真理」を言う。
「この人による以外に救はない。私達を救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」(12節) 彼らは尋問されながらにして、救われる為に必要な、最も重要な真理を語ったのだ。

彼らは弟子達の大胆さと、また、彼らが無学な人であったと知って、ますます驚き、また、実際に癒やされた人が目の前に立っていては、返す言葉が無かった。そこで彼らを退場させ、内々で議論する。
この事は否定しようが無い。しかしこれ以上、この名によって語ってはならないと言って、おどそう、と。
『そこで二人を呼び入れて、イエスの名によって語る事も説く事も、一切相成らぬと言い渡した。』(18節)
どんな奇跡やしるしが起きたとしても、頑として聞き入れない人は、いる。彼らは自分の過ちを、頑として認めたがらず、また、自分が支配者である事の座を、頑として手放したくないからだ。
人には、二つの道しかない。すなわち、全能なる神から促されるままイエス様を自分の救い主として受け入れ、自分の全ての支配権を彼に明け渡すか。それとも、頑としてそれを譲らず、自分で握り締め続けるか。
受け入れる人には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられるが、後者には、永遠の罪の刑罰が与えられる。
『ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。』(19節) ペテロとヨハネは、人の間で最高権威と呼ばれるような人々に囲まれ尋問されているようでいて、実はその彼らに、御国から派遣された大使として、彼らにも必要な「救い」のメッセージを語り、そればかりでなく、頑として受け入れない彼らを、神の御前で訴えたのだ。

『釈放された二人は、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。』(23-24節) 聖徒達は、国家からマークされてどうしよう、と縮こまったのではなく、逆に心を一つにし、天地を創られ国家さえ存続させておられる主に、熱心に祈った。
私達・聖徒達を脅かす者達よりも、私達の主の方が強く、「上」なるお方である。だから私達も祈るべきである。この脅かしをご覧になり、もっと大胆に、もっと力強く御言葉を語らせ、キリストを証させて下さいと。
彼らが祈ると、あのペンテコステのような不思議な事が起きた。「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(31節)
キリストの復活の福音を邪魔する者は、確かに出てくる。しかし、その相手がたとえ国家であったとしても、決してひるむ事のない大胆さと、誰にも論破できないしるしや知恵もまた、与えられるのだ。聖霊様に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

信じる人に働くイエスの御名の爆発的な力(使徒3:1-4:4)
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週報/メッセージ(説教)概要

 弟子達は、聖霊様のご支配に満たされて以降、力強く大胆にイエス・キリストを証するようになり、多くの人々をキリストにある救いへと、永遠の命へと導いて来た。今回も、聖霊様のご支配に満たされた人はどのような事を為し、人々にどのような影響を与えるのか、使徒行伝から学びたい。

ある生まれつき足の萎えた男がいた。彼は毎日、宮の「美しの門」の入り口に運んでもらって、そこで施しを求める日々を送っていた。足萎えの人は美しの門から入って礼拝する事は禁じられている。来る日も来る日も、ただ宮の門まで運んでもらって、人々の施しを求めるだけ。そうして40歳を過ぎるまでに至った。
ある日、礼拝に来た二人の男達に、いつものように施しを求めた所、彼らはじっとこちらを見つめ、「私達を見なさい」と言う。今まで無かった言葉をかけられ、期待して彼らを見た。男は言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(6節) そして、右手を取って立たされたると、たちまち足とくるぶしが強くなり、歩き、おどり上がる事が出来るようになった。
彼は大きな喜びと共に、この二人 −使徒ペテロと使徒ヨハネ− と一緒に、一度もくぐった事の無かった「美しの門」から入り、宮の中に入って、誰よりも大声で神を誉めたたえ賛美しながら歩いた。
神を賛美しながら…癒やされたとたんに神への賛美が出てくる点こそ、彼の癒される素地であった。彼はイエスを知っており、信じており、弟子達の口を通して語られたその「イエスの名」によって癒やされたのだ。
40年、彼の足が萎えていた事、その40年の苦しんできた日々は、一転して、神の栄光を、イエスの栄光を現す日々と化した。主に望みを置く人は全てこうなる。「その時、足の不自由な人は鹿のように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、砂漠に川が流れるからである。」(イザ35:6)

多くの人々が驚き、集まって来た。なにしろ、宮に行く度に美しの門の所で何十年も必ず見て来た、あの、施しを求めていた足萎えの男が、足が丈夫になって宮に入り、踊り上がりながら賛美しているのだから。
ペテロは人々の有様を見て、メッセージする。「イスラエルの人達よ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜ私達を見つめているのか。」
彼が強くされ癒されたのは、ペテロ達の信仰や力ではない。あなたがたが十字架につけ、死なせ、しかしよみがえられた「イエスの名が、それを信じる信仰の故に、あなたがたのいま見て知っているこの人を強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前でこの通り完全に癒やしたのである。」(16節)
ペテロがメッセージで言わんとしている事は、前回と全く同じである。すなわちイエスというお方について。
神はこのイエスを、預言者を通し、また奇跡やしるしを通して、救い主として認証された。しかし「あなたがた」は彼を十字架につけ、殺した。しかし神はこのイエスを死者の中からよみがえらせた。自分達はその証人であり、そしてこのイエスの御名を信じる信仰によって、この、素晴らしきわざが起きたのだ、と。
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に(神に)立ちかえりなさい。」(19節)
これら一連の事こそペテロがいつも語っている事であり、私達も宣教において語るべき事柄である。

一方、この素晴らしい出来事を見て、歯ぎしりする者もいた。それは、神の御子イエス・キリストが生きていては困る人達、自分が王の座に座り続けていたい者達である。彼らは、ペテロとヨハネを捕らえ、留置した。
それでも今回のこの出来事で、多くの人々が信じ、男の数だけでも五千人になった。(4:1-4)
このように、主イエスの復活のいのちは爆発的な力を持っており、福音は聖霊充満の人を通して、すなわち聖霊様がその人の支配の王座に座し、聖霊様に支配され、突き動かされ、聖霊様から見せられ、思わせられ、語らせるまま行動する人たちを通して、力としるしをもって爆発的に広がって行くのである。
いかに自立出来ないまま40を過ぎてしまった人でも、自分の足で立って強く耐えらるよう癒され、長年の苦しみと恥を嘗めて来た日々は、一転して神の栄光を、イエス様の栄光を現す日々へと転換する。しかし、イエス様に望みを置かないなら、いつまでも人のやっかいになって、礼拝者から施しを求め続ける人生から離れられない。「彼に聞き従わない者は、みな民の中から滅ぼし去られる(23節)」と書いてあるからだ。
私達も、肉のわざと価値観で生きる事を捨て、聖霊様の支配下に服する事を日々選んで行くべきだ。聖霊様に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

聖霊に満たされた人のありさま(使徒2章)
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五旬節の日、弟子達は主が約束しておられた通り、聖霊に満たされ、他国の言葉(異なる舌)が与えられた。
聖霊充満された人、すなわち、聖霊の支配に服しその支配が行き届いた人には、どのような特徴が現れるだろう。そして私達は何を目指すべきだろう。聖霊充満されたペテロの言葉と行動から、それを学びたい。

この日、天からの激しい風のような響きと、弟子達が他国の言葉で「神の大きなみわざ」を語るのを聞いて集まって来た多くの人々は、驚き惑い、「一体これは何を”セロー(意味する、したいと思う)”のだろう」と言っていたが、ある人々はあざ笑い、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と(繰り返し)言っていた。
そこでペテロは立って(押し出されて)説教を開始するのだが、彼の説教は、御言葉に裏付けられ、人々の心を刺し、悔い改めと救いへ導くものだった。ペテロはまず、彼らが知りたがっていたこの「しるし」について説明する(14-21節)。「今は朝だから、彼らは酒に酔っているものではない・・・」。ペテロは悪意ある人のあざけりに対しては、この一言で終わらせ、この不思議は、預言者ヨエルの書の成就である事を語った。

続く22-35節は「ナザレ人イエス」についてであり、イエス様こそが説教の中心かつ大部分を占めている。
聖霊はイエス・キリストを証しする霊であり、罪について、義について、裁きについて世にその過ちを認めさせる。だから、イエス無き説教、御言葉なき説教、聖霊の「押し出され」無き説教は、力が無い。
「ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示された」(22節) この事は既に全イスラエルが知っている事だったが、彼らの中で広まっている事は、イエス様はよみがえられたのではなく、弟子達が遺体を盗んだ、という偽の情報だった。しかし、彼がよみがえる事、死に縛られていない御方である事は、前もって聖書に書かれてある通りだと、ペテロは、詩篇16篇を引用してあかししている。(25-28節)
もう一つ、彼が引用した聖書は詩篇110篇である。ダビデはキリストの復活を予め知ったため、彼の主キリストについて『彼は黄泉に捨ておかれる事がなく、またその肉体が朽ち果てる事もない』と言った。
『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。』(32-33節) イエスこそ神と預言者に認証された救い主メシヤである事を、彼は聖書から証したが、では、その事は今の私達に何か関係あるのだろうか?大ありである!
『だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。』(36節)
イエス様を十字架につけたのは、誰だろう? 実際に手を降したのはローマ兵であり、それを指揮したのはイスラエルの指導者達だ。この、五旬節の日に集まった彼らが手を降したりした訳ではない。ここは私達も知らなければならない。罪なき神の御子キリストを十字架につけたのは、まごうことなき、私達全人類だと。
私達も、それを伝えなくてはならない。すなわち、ナザレ人イエスについて。彼は私達の罪のために十字架で死なれ、そしてよみがえられられ、神の右に上げられ、聖霊を与えて下さる事を。
人々はこれを聞いて心刺されたが、心を刺して終わりではない。ちゃんと救いの道を示さなくてはならない。
「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(38節)

こうしてこの日、三千人が仲間に加えられた。何と大胆に、立派になったペテロであろう。五十日前、人々の前でイエス様を「知らない」と誓った人物とは到底思えない。主が予め言っていた通り、聖霊に縛られ導かれるなら、本人の思いのままではなく聖霊に導かれるまま進まされるのである。(ヨハネ21:18)
救われた彼らは、使徒達の教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り、全ての物を共有にしていた。
心を一つにして毎日礼拝する所に集い、賛美し、一同の心に恐れが生じて、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれ、全ての民に好意を持たれ、主もまた、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
これが、初代の教会(エクレシア)である。聖霊に満たされる事なしには、この事は有り得なかった。
私達もまさに聖霊を求めるべきだ。聖霊に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!

聖霊充満とは(使徒2:1-4)
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 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)、すなわち主イエスを信じて約束を待ち望んでいた弟子達が聖霊に満たされた日であり、この日を境に、彼らは大胆に力強く変えられ、死をも恐れない強力な働き人となった。
キリスト者の生活と働きの根源は、聖霊である。キリスト者は、イエスが主であるとした時、既に聖霊を受けている(1コリ12:3)。弟子達も、復活の主から息を吹きかけられた時、聖霊を受けたが、聖霊に満たされてはいなかったし、聖霊に満たされるというのが、よく分からなかった。そこで彼らは、主から約束された指示に従い、聖霊を受ける事を待ち望みつつ、共に一つ所に集まり、心合わせ、祈りに専念していた。
聖霊に満たされる事が、よく分からないだろうか。今日、ペンテコステでの出来事を原語的に詳しく見る事によって、「聖霊充満」とはいかなる事か、また、どうすれば聖霊に満たされるかを学びたい。

弟子達が大胆に力強く変えられる、その境となった日、起きた事は、次の事だった。
『五旬節(ペンテコステー)の日がきて、皆の者が一緒に(ホモスダモン:心一つに)集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音(エイコス:騒音、ニュース)が天から起ってきて、一同が(ずっと)座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった(カスィゾー:座す、位につく)。すると、一同は聖霊に満たされ(プレソー:吹きこまれる、感化する、充満する)、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉(ヘテロス グロッサ:異なった 舌)で語り出した。』(使徒2:1-5)
つまり、この日起きた事を詳細に見るなら、主の復活から「7週+1=50日」が満了した時、イエス様の指示に従い約束を望む「志ある」聖徒達が心一つにし、一つ所に集まっていると、天から(持ち運ばれている)激しい風のような響き(ニュース)」が、彼らがずっと座っていた家の全体を満たした、という事だ。
そして彼らに、火のような、分けられた数々の舌が現れ、それが一人ひとりの上に座した(位についた)。
すると彼らは、聖霊に吹きこまれ(英influence: 感化され、突き動かされ)、その霊が、彼らに(次々と)語らせて下さるままに異なる舌(言語)で、(大声で/大胆に)言明し出した。
つまり、キリストの弟子達が力強く大胆に変えられた根源、「聖霊充満」とは、聖霊様が、その人の支配の王座に座し、聖霊に支配され突き動かされる事を言い、その人は聖霊様から見せられ、思わせられ、語らせるまま行動するものであり、それは以前生きていた時の考え方や言葉・行動とは全く異なったものとなる。
「聖霊充満」は、何かを強く念じたり眉間に力を込めたりして成るものではない。聖霊様は三位一体なる神の一つの位格であり、その、人格あるお方へと自分の支配権を明け渡す事によって、彼の支配がその人の隅々まで行き届き(充満し)、彼に感化され、突き動かされ、導かれるままを話し、行動している様を言う。
だから、自分の思い込みや「よかれ」を頑なに握りしめている内は、決して聖霊様の支配下には入れない。

聖霊に満たされるためには、かの時代の弟子達のように、自らを準備する必要がある。
まずは、主イエス様の十字架と復活を信じ、体験し、「7という完全数」が7に満了するまで、主の指示に従い、聖徒達と心を一つにして、主の御約束が成る事を期待し積極的に祈り求める事である。
そして、天的な激しい音(ニュース)によって、それまでずっと座していた家(オイコス:居住地)が揺さぶられた時、すなわち、聖霊が激しく心揺さぶっているのを感じたなら、それを拒否せず、その支配の御手に委ねる事である。間違った霊に委ねてはならない。聖霊様は、イエス様を証し、栄光化する霊である。
聖霊様はどういう御方か。それは、次の良き実を実らせる御方であって、悲しみや絶望、暗い不安を募らせるような御方ではない。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」である。
聖霊様に突き動かされている人は、不品行や好色、偶像礼拝、争い、怒り、憤り、党派心、分裂、嫉妬といった「肉の行い」を忌み嫌い、以はそれを好んでいたとしても、出来なくなって行く。(ガラテヤ5:19-23)
聖霊様に支配されている人は、唇が変えられ、人間的な汚れた言葉を言わなくなって行く。だから、聖霊に満たされているかどうかを見分けるには、口から発せられる言葉と、その実を見れば、判別できる。

人の歩む道は、二つに一つである。御霊に従って生きるか、それとも肉に従って生きるか。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である。自らを聖霊に支配されるに相応しく整え、聖霊様に支配され、感化され、突き動かされるままにイエス様を大胆に証する、力強い働き人である皆さんでありますように!

子が死んでも守って王の心を動かした一人の母(2サムエル21:1-14)
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 今日は母の日である。母は、赤ちゃんを身ごもると、10月と10日その子と命を共有し、新しい命を世へと送り出す。産んだ後もその子を徹底的に愛し、守り、慈しむ。今回、リツパという一人の母を見ていきたい。
リツパは、イスラエルの初代王・サウルのそばめであり、二人の子を産んだ。サウル王は主の御言葉に従わず、諸々の身勝手な振る舞いを止めなかった故に呪われた最後を遂げた。そのサウルの死後、彼の将軍だったアブネルが実権を握り、アブネルは彼女と「寝る」事によって、威勢を内外にアピールした。
サウル王家という、主に不従順な家に入ったが故に、不幸な運命を辿った彼女だったが、それでも彼女の二人の子は、彼女には慰めであったろう。しかし、そのささやかな慰めも奪われてしまう時が来る。

『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」』(2サム21:1)
ギブオン人とは、本来聖絶されるはずのカナン人だったが、イスラエルを”だます”形で和平の誓いを引き出させた人達であった。彼らは神の家のために奉仕をして行く内に、以前の滅ぼされるべき性質は捨て去り、主を愛する心が芽生えて行ったのだが、サウルは勝手な熱心によって彼らを殺し、追い払おうとした。
それにしても、なぜサウルの代にではなく、ダビデの代に災いが起きたのか。もしかすると、サウルが始めたギブオン人への弾圧は、時代と共に陰湿化し、差別と偏見が強化され、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって主に叫びが届いたからかもしれない。ダビデ王はなぜ、ギブオン人の「イスラエルを呪いたい心境」を恐れ、気にしたか。それは、主はイスラエルにではなく、ギブオン人に軍配を上げたからだ。
現代も、不純な動機から教会に入ってくる人達はいるが、以前はどうあれ、主のため教会のために奉仕していく内、ギブオン人のように主を愛するようになり、救われる人も多い。主は、彼らの祈りを聞かれる。
ギブオン人はサウルを「我々を滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人」と言った。主を愛する人にとって、主を礼拝する所から閉めだされる以上の苦痛は無い。彼らが主に訴える時、主は、神の家全部を飢饉に陥れても、彼らの訴えを聞かれる。ギブオン人は、この問題は金銭や仕返し等の問題ではなく「主の問題」であるとし、主のために、張本人の子孫七人を晒し者にする事を促した。
主との約束を軽んじ、手前勝手な熱心を振りかざして聖徒達を弾圧する者は、自身と子孫に災いが及ぶ。

こうしてサウルの子孫の内、七人が引き出される事になり、リツパの二人の息子たちも、そこに入っていた。
『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。』(10節)
彼女は息子達が殺された日以来、神が天の雨を降らせる時まで、その場を離れず、猛禽や獣から息子達の遺体を守り続けた。そこまで徹底した愛、子が死体となって晒されてもなお守ろうとする「母の愛」以上の愛は、人には無い。子がぐれて、悪くなり、誰もがその子を「死んだ」かのように見捨てても、それでもその子をあきらめず守り、執り成す。母とはそういうものである。しかし、それよりももっとすごい愛が存在する。
主は、たとえ女達が、その子を忘れようとも、決して私達・神の民を忘れる事は無い。(イザヤ49:15-16)
今、私達を言いようもない深いうめきによって、執り成しておられる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊は、いつまでも、どこまでも私達を探り、追い迫る。たとえ私達が罪にまみれ、誰からも「死んだ」ように扱われ見捨てられても、なお深く憐れみ、弁護し、御前にきよく立てるまで、あきらめずに執り成す。

リツパのこの行動は、ダビデ王の心を動かし、サウルとその子の骨を、父の墓に葬るようにさせた。人々は、さらし者にされた人達の骨も集め、ついに神は、イスラエルの祈りに心を動かされるに至った。
彼女が若い時に産んだ子達は、父の罪の故に犠牲にされてしまった。しかし彼女がその遺体を守り続けた行動により、神はなだめられ、ギブオン人もなだめられ、遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ごしの雨が降り注いだ。その雨はイスラエル全体を潤し、パンをもたらしたのだ。
身勝手な正義の振り回しは、自身と子孫を呪いへと導く。しかし愛は多くの罪を覆い、人々を建て上げる。
今、聖霊様は、死んだような私達をも深いうめきと共に執り成し、主の御前で弁護し、恵みの雨を降り注がせようと、待っておられる。この母の日、私達は母の愛を覚え、主の愛を覚え、聖霊様を覚える時としたい。

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