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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

神の似姿の回復(創世記1:26-28)
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週報/メッセージ(説教)概要

天声教会設立の節目である今年に入り、設立当初与えられたビジョン「礼拝の再建」について学んでいる。
人は元々、神である主を、「礼拝」する存在だった。なぜなら人は元々、神の形に創られているからである。
だから、神と人との「関係」の回復、すなわち、礼拝の回復は、本来、全人類が取り組むべき課題だ。
礼拝とは、私達のからだ(ソーマ:思い・意志・感情、肉体も含めた全部)を聖なる生きた捧げものとして「捧げる(原意:傍に立つ=差し出す)」事であり、それこそロジコスな(理に適った)礼拝である。(ロマ12:1)
そして、父なる神は、真の礼拝者たちが霊と真理によって礼拝する事を、求めておられる。(ヨハネ4:23)

『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。』(創世記1:26)
神は元々、人を神に「似る:ツェレム:影、像(属:男)」ように、神の「かたち:デムース:似ている、類似した(属:女)」に、創造された。人は神の像であり、似姿である。だから、人が神の「像」(偶像)を別個に造るとするなら、それは、自分自身が「神の像」である事、「神の似姿」である事を、破棄する事であり、大きな罪だ。
宇宙がどんなに広いと言えど、また、地球にどんなに多い種類の生物が生きているとしても、神の像、神に似た者として造られたのは、私達人間だ。しかし私達はいかに、その本来の姿から離れてしまっているだろう。その、本来の「人間性」を建て直すべく、神は降りてこられ、その建て直しに入られたのだ。
人は神のかたちとして創られたからには、神のように、「自由意志」が与えられた。そして、海の魚も、天の鳥も、地の家畜も、そして全地を「治めるように」、と。また、全ての地の上を這っているものを。(原語順)

そして神は祝福して、命令して言われた。「産めよ、また増えよ、また満ちよ、地に。」(28節、原語順)
神の祝福であり、神の命令の第一は、産んで増える事、また、満ちる事。だから、地は、神の似姿である人間によって満ちて行かなくてはならない。神は人を、第6日に創られたが、同じ日に、獣や地を這うものも創られた。人は、神の言葉を捨ててしまうなら、いとも簡単に、獣や這う者に似た者に成り下がってしまう。
『そしてそれを「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、また「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」』(28節、原語順) つまりここは、足の下にある者が、調子に乗って、あたながたよりも上に上がって来たり、あなた方を支配して来ないようにしなさい、という意味である。天のもの・地のもの、地を這うもの全て、あなたが自由意志をもって従わせなさい、そうでないと、その者達は逆に従わせようとして襲ってくるから、と。
残念な事に、人は、3章で、蛇(サタン)の言葉に従い、神の言葉に背いてしまった。
故に人は、サタンに支配されるものとなってしまった。だから、全て神の言葉を知らない人、神の言葉に従わない人は、自動的にサタンに支配された者となり、罪と死の呪いの下にある者となってしまっている。
しかし、主イエス・キリストが、十字架に至るまでの完全な従順によってサタンに勝利した故に、彼に繋がる人は、神の子とされ、世に対し、サタンに対して勝利者となり、地を正統に支配するべき者とされたのだ。

私達は、神の言葉に服し、地を踏み、その地を支配すべきである。主は御言葉に従ったアブラハムに、東西南北を歩きなさい、と命じられた。その踏み歩いた地を、あなたに与える、と。ヨシュアにも命じられた。
あなたがたが足の裏で踏む所は、モーセに約束したように、あなたがたに与える、と。
私達も、神の子とされたからには、踏んで支配するべきである。キリストを信じる信仰により、神の姿形である事を取り戻した「神の子」は、もはや、海のもの、天のもの、地のもの、地を這うもの、サタンとそれに属する者達を、支配するべきであって、支配されるべきではない。
私達が支配するのは、地の「全ての」ものだ。例えば、キリスト者がお金に平服し、お金がキリスト者支配する、それは本来ではない。それはお金に支配されお金に頭が上がらない、神の似姿から離れた、惨めな生き方だ。キリスト者は神に服従する者であり、結果、お金の側から平服され、お金が従われて来る者だ。
主は私達に、正しい関係の回復を求めておられる。すなわち、私達の全てを主なる御言葉に「捧げる(原意:傍に立つ=差し出す)」事によって、神との正しい関係を回復し、そして真の礼拝者たちが産んで、増えて、地を満たし、地を従える事を。神に従い、神の子として、地の全ての物事を足の下にし、正しく支配する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

御言葉により再建される能力と品性(詩篇19:7-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今年に入って以来、当教会設立のビジョンである「礼拝の再建」についてネヘミヤ記から特に学んでいるが、今回は久しぶりに、テフィリンやユダヤ式教育、すなわち、御言葉教育がどんなに優れているか、御言葉が人に入るなら、いかに人となりが改善され、人生の再建にいかに有用であるか、を今一度確認したい。

御言葉がどれ程素晴らしいものであるか、まさしく以下の詩篇に記されている通りである。
『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。』(詩篇19:7-9)
主の言葉とはそのようなものであり、人に主の言葉が入るなら、その人はより完全なものへと変えられ、魂は生きかえり、無学な者も賢くなる。また、心は喜びに溢れ、眼も明るくなる。主を恐れる道を歩むなら、決して間違える事が無いばかりか、どんどん清らかになって行く。まさしく、良い事づくしである。
そもそも、なぜ神の似姿として創られた人間の成り立ちは、破壊され崩されてしまったのか。
それは、人が主の言葉から離れ、蛇(サタン)の言葉を信じ、それに従い、騙されるままに「善悪の知識の木」から取って食べてしまったからだ。 このエデンの園の失敗以来、人は神から離れ、自分で善悪判断し、サタンの言葉と混じってしまった故に、妬み、怒り、騙し合い、殺しあったりするようになってしまった。
信仰(サンスクリット語:ビヒド)の元々の意味は、「連合する、結ぶ」の意味があり、人はどの言葉と結び合うかによってその人となりが決定して行く。誰かが何気なく口から出た良くない言葉を、ぐるぐると思い巡らすなら、必ず病んでしまうように、私達はどの言葉と混じり合うべきか、それによくよく気をつけたほうが良い。

だからこそ主は、サタンによって壊されてしまった本来の人間性を回復するために、次のように命じられたのだ。『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。』(申命記6:6)
ユダヤのハカダ(反復)教育の本質は、この申命記6:6にある。彼らは徹底的に御言葉を反復して心の板刻みつけている。それによって、人に本来与えられていた能力や性質の回復が、進んで行くのだ。
聖書を暗唱する時、性格と品性、脳の3つが開発される。ある人はIQ124の人が164になり、性格も素晴らしくなった。聖書暗唱によって、どんなに曲がった人でも変えられるのだ。
なぜなら、神の言葉がその人に入り、混じり、そうして神の子としての品性が戻って行くからだ。

ユダヤ人の伝統的な教育法に「ハブルタ」というものがある。それは二人がペアになって、ある主題について会話し合う事だ。互いに議論し合う事で、相手の言葉を聞いて理解する能力、会話し意思疎通する能力、人を説得する理論を、向上させるのだ。これらをユダヤ人達は、小さい頃から学んでいるのだ。
人が効果的に物事を覚え、学習するために、有効な方法を、NTL国際訓練研究所が研究した。
それによると、人は講義を「聞く」だけでは、5%しか覚えない。だから100%覚えるには20回聞かなくてならない訳である。しかし「読む」なら、10%覚える。また、目、耳を用いる視聴覚教育は、20%覚えるようだ。
また、ある課題について講壇に出て講義をしたり、集団議論をするなら、50%記憶するようである。
もっと有効なのは、教えられた通りに、実際に自分が実践してみる事である。これは75%覚えるそうである。
そしてハブルタ教育、すなわち、二人が向かい合って、同じ主題を説明し合うなら、90%覚えるそうである。

確かにユダヤ人の教育法は優れているが、完全ではない。なぜなら彼らにはイエス・キリストを信じる信仰が無く、また彼らが心に刻みつけているのは旧約聖書のみで、福音も、救いも、永遠の命も無いからだ。
御言葉教育を、単に頭脳や能力を開発する事に目的を置くなら「有害な天才」を生み出してしまう危険性があり、本人自身を破滅へと導いてしまうものだ。あのソロモンのように。彼は誰よりも頭が良く、金や名誉、女を誰より多く手に入れたが、信仰が破綻してしまった故に、人生の終わりは全てが虚しくなってしまった。
だから教育の本質は、天才や金持ちを生み出す事ではなく、神を恐れ敬う信仰のしっかりした、神の子を育て上げる事である。神は元々、罪なき神の似姿である人に対し、産んで増えて地に満ちていく祝福を与えられた。御言葉によって教育し、教育され、神の子として産んで増えていく皆さんでありますように!

崩れてしまった生活をも再建したネヘミヤ(ネヘミヤ5章)
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天声教会設立の節目である今年に入り、設立当初与えられたビジョン「礼拝の再建」について学んでいる。
礼拝の再建はすなわち、人生の再建につながる事を、ハガイ書やネヘミヤ記から学んだが、再建を必要とするのは破壊されたものであり、破壊されてしまった原因は、祝福の道から逸れて破壊されるような事をし続けてしまったため、すなわち、主の御言葉に背き続け、自分勝手な滅びの道を歩み続けたからである。
イスラエルは御言葉から逸れて罪に罪を重ね、預言者が遣わされて戒められてもそれを軽んじ、身勝手な道を邁進し続けた。その結果、破壊され、バビロン捕囚の憂き目に遭ったのは、歴史的事実である。
しかし主の憐れみにより、70年を経た後エルサレムに帰る事を許され、ハガイの預言に力を得て神殿が再建され、ネヘミヤの指導によって、城壁も再建されつつあった。前回は再建を妨害する者が現れた場合の対処について4章から学んだが、5章では、さらに再建を続けるに困難な状況が、内部から沸き起こった。
その困難な状況が沸き起こったのは、それまで染み付いてしまった異邦の習慣や考え方が原因である。

再建も半ばまで進んだ時、イスラエルの人々から強い抗議の声が上がる。その内容は、子供たちが大勢いる家は食を得なくては生きて行けない事(2節)、また、ある人は、欠乏している状況でも税金を払わなくてはならず、それが原因で、家や畑の不動産を抵当に入れなくてはならなくなった。(3節)
さらに罪深い事に、ユダヤ人有力者は、貧しい同胞の人達を食い物にし、食料の見返りに、不動産や子供たちを奴隷として手に入れ、既に「娘が」奴隷とされてしまった人達もいた。貧しい人は、とことん、どうにもならない状況へと追いやられていたのだ。(5節) 同じ神の民を奴隷としたり、利子を取って貸したり、利益を得る目的で、命を繋ぐ食料を道具にする事は、明らかな律法違反だ。(レビ記25章、申命記15章)
前任の総督や有力者達は、民の負担を重くしていばりちらした(15節)が、人の弱みにつけ込んで不当に搾取する事は、滅びのために災いを積み上げる事だ。(ヤコブ5:4-5)

ネヘミヤはそのような有力者を戒めた。『あなたがたのする事はよくない。あなたがたは、われわれの敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか。』(9節)
どんな時に敵のそしりを受けるか。それは大祭司アロンのように、人が大いに乱れているのに放っておく時(出32:25)、あるいはダビデのように、女性を食い物にして強制力でそれをもみ消す時だ。(2サム12:14)
ネヘミヤは、利息を取るのを止めさせ、田畑や家屋を返させ、そして祭司を呼んで、これらの事はもうしないと人々に誓わせた。人々はその通り、行った。(10-13節)
前任者達は、民の負担を重くし、重税を取り立て、いばりちらしたが、ネヘミヤは一切そのような事をしなかった。人々がネヘミヤに「抗議」できたのも、彼が主を恐れ、正統なさばきをする人だったからだろう。
彼が任期だった12年間、彼は総督の手当を受けなかった。人々の労役が重かったためだ。(14-18節)
彼は自分の食卓を多くの人達に開放し、自費で彼らを養い、そうして困難な状況の人達を救った。

イザヤ58章には、何をしても祝福されない人のパターンと、そこから脱却し祝福される秘訣が記してある。
ネヘミヤはまさしく、祝福されるパターンの人で、彼は悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられている人達を自由の身とし、飢えた人には食卓から分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人を着せ、主にある兄弟姉妹の世話をした。それをするなら、「光が暁のように現れ」「速やかに癒され」「あなたの義はあなたの前に行き」「主の栄光はあなたのしんがりとなる」という祝福の約束がある。(イザヤ58:6-9)
また、うしろ指をさす事や、つまらないおしゃべりを除き、飢えた人に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、「あなたの光は闇の中に輝き上り、真昼のようになる」「主は絶えず導き、焼けつく土地でも思いは満たされ、骨は強くされる」「潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」事の約束もある。
『あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。』(イザヤ58:12) ネヘミヤはまさに、代々、古代の礎を築き直して住める所とし、城壁を再建した者として、永遠の栄誉を受けた。
ネヘミヤのように、主に喜ばれる事をして、潤された泉のようになり、再建する者としての栄誉を得る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

再建を邪魔する者への対処方法(ネヘミヤ4章)
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 今年に入り、天声教会設立当初にビジョンとして与えられたハガイ書から礼拝の再建について学んでおり、礼拝が再建された後は、ガードするための城壁の再建するべき事を、ネヘミヤ記から学んでいる。
ネヘミヤ達は、わずか52日で城壁を完成させたが、きょう、今年が始まって52日目である。私達の再建はどれ程進んでいるだろう。一日二日で終わらせられないような事でも、やってみれば意外とすぐに終わるのに、山積みの問題を見ると、やる気を失わせられてしまう。エルサレムはそうして何十年も防護壁が崩れ放題、きつねが出入りし放題だったが、私達は主にあって建て直しを進めるなら、すぐ建て直される。
今回のネヘミヤ4章を見ると、再建のわざは、何の妨げも無くとんとん拍子に進むわけではない事が分かる。
人がより健やかに、より主に向き合うようになる事を、歯ぎしりして嫌がる敵、すなわちサタンがいるからだ。
サタンに同意する人もまた、人が健全になるのを邪魔する事には、エネルギーを惜しまないものだ。
礼拝の再建、人生の再建をしようと取りかかった時、それを邪魔する者が現れる事は、しっかり想定しておき、それが現れた時には、いかに対処すべきかを、このネヘミヤ4章から学びたい。

『サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。・・・「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか。自分で再興しようとするのか。犠牲をささげようとするのか。』(1-2)
彼らはちょうど、人が働く気を起こし行動し出した所の気持ちをくじく。
私達も、自分の崩れてしまった人生や性格を建て直そうとする時、礼拝を再建しようと働き出す時、敵は非常に憤慨してあざけり、1日ではとても片付けられないような、瓦礫のような有様にフォーカスさせて、やる気を失せさせたり(2節)、あるいは、せっかく頑張っても、たった一匹のきつねが来ただけで、何もかも台無しにされてしまうかのように思わせ(3節)、働かなくても良いという「なまけ心」を巧妙に引き起こさせる。
敵の気落ちさせる口撃が来た時、ネヘミヤは祈って主に直訴した(4-5節)。私達も敵の攻撃の第一陣、すなわち、言葉で失意させる矢が飛んできたなら、それは自分で受けずに、そのまま主に持って行って訴え祈るたしなみを身につけたなら、それで城壁は半分まで修復したも同然だ(6節)。

そうして再建が進んで行くと、敵はさらに怒りを燃やして、邪魔しに来る(8-9節)。そればかりでなく、身内からもマイナス感情に囚われて「できない」という言葉をかけてくる(10節)。私達も、健やかになる事や人生が建て直される事、礼拝が再建される事で「できない」という言葉が発される時、我に返るべきだ。
そのような時、ネヘミヤは家族ごとにそれぞれ武器を持たせて言う。「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい。」(14)
神の家の再建は、自分だけの戦いでなく、兄弟姉妹と共同の戦いである。御言葉の剣を握りしめ、恐れている心の人を助け合い、支えあって、将来のため、息子、娘たちのために戦うのだ。
私達の側が共に力をあわせて、徹底抗戦する様を敵が見る時、敵は、そのたくらみを止めるのだ。(15節)

敵が妨害を止めたからと言って、ガードを解いてはならない。ネヘミヤ達はその日以来、半分の人は工事につかせ、半分は武装させ、片手で工事し片手に武器を執った(16-17節)。
また、角笛を吹く人、すなわち、常に見張って、もしもの時には警告を吹き鳴らす人を置いた。(18節)
そのように、敵が退けられたと見える時でも、城壁が完成するまではガードを解いてはならない。
ネヘミヤ達が城壁の破れの大きい所に、武装した人を配置させたように、私達も、自分の中で、攻め込まれ易い弱い所がある事は、正直に認め、そこが建て直されるまでは、いつでも角笛を吹き鳴らして助けを求められる体制を、兄弟姉妹の間で整えるのだ。これを続けていくなら、立て直しはもっと進んでいく。
私達も御言葉の剣を常に帯びて仕事をする気概が大事である。武器を片手に、道具を片手に工事をするなら、仕事がはかどらないと思うかもしれないが、逆である。敵は、私達が剣を帯びている様を見るなら、攻撃を仕掛けられないもので、敵に邪魔される事なく、嘲られず、かえって仕事がはかどるのだ。
私達も、御言葉の剣をいつも口から手放さず、昼も夜もそれを口ずさむなら、水路の傍に植わった木のように、何をしても栄えるのだ。気落ちさせようとする敵に決して屈しず、御言葉によって互いに建て上げ合い、再建を進めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

チームワークとしての再建のわざ(ネヘミヤ3章)
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天声教会の節目にあたる今年に入り、教会設立当初にハガイ書から与えられたビジョンである「礼拝の再建」を中心に学んで来た。神殿の再建が始まって以降、主は祝福を返して下さる事を約束されたが、ハガイの時代、神殿のあるエルサレムの都の城壁は、ネヘミヤの時代まで、破壊されたままだった。
城壁が崩されたまま、という事は、敵は出入りし放題、邪魔され放題、分捕られ放題である。
ネヘミヤはその状態を憂いて悲しみ、主に祈った結果、主は彼の祈りを聞かれ、彼が仕えていたペルシア王を動かし、彼をエルサレムの総督に任命して、城壁を再建する者として遣わされた事を、前々回見た。
私達も立て直す事を決心するなら、もはやそれが阻害されないようにするため、「城壁」を再建する必要がある。今回、再建を始めたネヘミヤ達がどのように仕事を進めて行ったのかを、ネヘミヤ記3章から学び、私達もどのように再建を進めて行くべきかの指針を得たい。

『かくて大祭司エリアシブは、その兄弟である祭司たちと共に立って羊の門を建て、これを聖別してその扉を設け、さらにこれを聖別して、ハンメアの望楼に及ぼし、またハナネルの望楼にまで及ぼした。』(1節)
ネヘミヤの呼びかけに最初に応答して仕事を始めたのは大祭司で、彼らが真っ先に再建したのは「羊の門」、すなわち神殿の間近に位置する所だ。最も優先的にガードすべきは、神殿、すなわち礼拝である。
再建を始める時、敵がほぼ邪魔しに来る事を、前々回学んだが、最も邪魔しようとするのは、礼拝である。
まずは、礼拝を邪魔するあらゆる思いや考え、習慣、あるいはそのような人を取り扱うべきである。
また、この章では合計10の城門があるが、門は出入りする所で、最も攻撃にさらされやすい所である。
神殿、すなわち礼拝の次にガードするべきは、門であり、私達がガードすべき「門」とは、耳、目、口である。
インターネットや人の噂話など、世から聞こえて来るもの、見えてくるものの出入りをしっかり管理するべきであり、人の言葉などにいちいち傷ついたり煩わされたりする事がもはや無いよう、イエスの血を塗って清め、傷つきやすい状態を、修復するのだ。
「人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。」(箴言12:14)とある通り、唇からは悪い言葉を出す事なく、昼も夜も、御言葉を口ずさむべきである。それをするなら、水路のそばに植わった木のように、時が来れば実がなり、しおれる事なく、何をしても栄える。(詩篇1篇)

ネヘミヤ3章は、誰々が何処を修理し、次に誰々が何処を修理した、という記述が続くが、再建のわざは、チームワークである。工事に関わった人達は色々な職種があり、祭司(1)、金細工人(8,31,32)、香料作り(8)、レビ人(17)、商人(31,32)、また、娘達と一緒に建て上げた父親もいた(12)。
力のあるなしに関わらず、実に多彩な人達がこれに当っている。主の働きの建て上げも、同じキリストを頭とする多彩な人達によるものであり、主は彼ら一人ひとりに、異なった賜物を与えられた。(1コリント12章)
彼らは工事については素人ではあったであろうが、エルサレムの城壁は、彼らによって築かれたように、この教会も、工事についてはほぼ素人の、色々な職種の人達と、その娘達による手弁当の工事によって、諸々のものが作られた。人は何かと、自分のプロフェッショナリティや、常識に基いて判断し、自分で限界を設けてしまう所があるが、主の仕事において重要な事は、自分の何かではなく、主からの召命である。
自分にこれこれの準備が整えられたら、これこれの学識や技術を身につけてからにしよう、と思いながら先延ばしにしていると、結局、何も出来ないまま、いたずらに時を過ごしてしまうという事が、ありがちである。
ちょうど、バビロン捕囚から帰還した民が、城壁を建て直しもしないまま、何十年も過ごしてしまったように。
私達は、自分の力や能力に頼って、主のわざを成せるものではない。全てを満たして下さるキリストに繋がってこそ、有益な実りを結ばせられるのだ。(ヨハネ15章) 『教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。』(エペソ1:23)
優れた人になろうとする努力も大事だが、それよりも大事な事は、すべてのものを、全てのものによって満たす御方、キリストにより頼み、彼に求め、聞き従う事である。それをするなら、私達には到底できないような、また、到底考えも及ばなかったような事を、彼にあって、為す事が出来るのだ。私達はキリストのからだ、であり、互いがそれぞれ器官である。私達のかしらであられるキリストに繋がり、互いに建て上げられ、成長し合って行く皆さんであり、そしてこの教会でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

天声とは(2ペテロ1:16-21)
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 天声キリスト教会設立のビジョンが与えらて15年目、この会堂での礼拝が始まって10年目、この教会にとって節目にあたる今年に入って以来、設立当初に与えられたビジョンについて見ているが、今回はこの教会の名前である「天声」とは、いかなる意味であるのか、について見ていきたい。

今までホームページに記して来た通り、天からの声とは、父なる神の御声、すなわち御言葉、それは「ことばは人となって私達の内に宿った」(ヨハネ1:14)という、御言葉なるキリストであり、三位一体の主である。
聖書には、天から声がした事の記事が幾つか示されているが、いずれの場合も、ある特別な人だけが聞くような、出処元の分からないものではなく、その声を聞いた誰もが「天」からのものとハッキリ分かる「神の声」であり、その内容はイエス・キリストこそ救い主であり、生ける神の御子である事を明示するものである。
例えば、イエス様がバプテスマを受けられた場面では「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)と言っている。 また、イエス様が弟子達の前で栄光の姿に変わった場面では、天の声は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」(同17:4)と言っている。だから私達は、その天の声に従い、御言葉なるキリストに「そのまま聞く」教会として今日まで歩み続けているのだ。

聖書の時代、天の声は、その場で聞いた人の誰もが、出処元が神である事がハッキリ分かったが、現在、神の言葉は「聖書」として、誰もが手にする事が出来、信じる・信じないは別として、出処元が神である事は、誰もが聞いている所だ。では、その天の声である御言葉に対し、私達はどのように接するべきなのか。
第二ペテロの手紙で、ペテロはイエス様が栄光の姿になられた場面を述懐し(1:16-18)、この天の声により、預言の言葉は一層、確実なものになった、と言った。「夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」と言っている。(同19-20)
私達は、聖書のことばは、分からない事だらけだ。もし聖書は全部分かる、などと言う人がいれば、ちょっと疑ったほうが良い。聖書の言葉は霊の書物であり、わからない人には、とことん分からない。
使徒パウロが、主からの召命を受ける場面では、パウロは、天からの声の内容は明確に理解できたのに、同行していた人達は、「声(フォネー:ノイズとも訳せる)」は聞こえても内容は理解できなかった。(使徒9:7)
福音も聖書の言葉も、ある人にとっては救いをもたらす神の力だが、ある人にはノイズに過ぎないのだ。
では、その分からない聖書と、どう付き合えば良いのだろう。どうすれば「わかる」のだろう。まず、聖書の言葉が分からない時に、「してはならない事」は、「自分勝手に解釈」する事だ。聖書の言葉は「心の中を照す」ものであり、その時まで「目を留めている」事が、御言葉への正しい作法である。(2ペテロ1:19)
御言葉が心を照らす時、不安だった心に、決して揺るがない平安が与えられ、心配だった将来に希望がもたらされる。例えば、聖書の「恐れるな」という言葉を聞いてもなお恐れがあるなら、光は照らされていない状態であり、その言葉を受けて、恐れが消えた、というなら、光が照らした、という事だ。
これは人の理屈や、たくみに考え出されたものでもない。ただ上から与えられ、照らされたもの、すなわち、聖霊によって運ばれて来たものである。『なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に「感じ(φερομενοι:運ばれ;担がれ)」、神によって語ったものだからである。 』(21節) つまり預言は、人の解釈や人の定めた一定法則に拠ってはならず、聖霊の促しによって読み解くものだと書いてある。
では聖霊とは何だろう。それは、イエスを証し(ヨハネ15:26)、イエスを栄光化する霊である。(同16:14)
霊の声を聞いて啓示を受けた、と言う人がいる場合、その霊をためすと良い。人となって来たイエス・キリストを告白する霊は神からのものであるが、イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではなく、それこそ反キリストの霊である(1ヨハネ4:1-3)。預言の霊は、イエスのあかしである。(黙示録19:10)
御言葉を開く時、旧約も、新約も、私達を救う主・イエス・キリスト、この御方を中心に据えて読む時、分からないものが見えて来る。律法も預言書も、全てイエスについて書かれてあるからだ。(ルカ24:25-44)
だから、この天声キリスト教会は、ホームページも、礼拝も、どこを切っても、御言葉とイエス様しか出てこないのであり、人間的ビジョンは一切見出だせないのだ。この天の声すなわち父なる神の御声、御言葉なるキリスト、聖霊によって導かれ歩み続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

長年出来なかった再建を開始するために(ネヘミヤ1-2章)
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週報/メッセージ(説教)概要

天声教会設立のビジョンが与えらて15年、この会堂での礼拝が始まって10年目、当教会にとって節目にあたる今年、当初のビジョンに帰り、再建すべき礼拝とは何であるのかを、今年に入ってから学んでいる。
前回はハガイ書2章から、神殿の礎を据えた日、すなわち礼拝を中心とする生活を決心した日から後をよく考えよ、その日の前はどうだったか、それに比べ、その日以降はどうなったか、カレンダーに印をつけて比較せよ、という事を、示された。皆さんは、礼拝を中心とした日々をキープできているだろうか?
せっかく悔い改め、心を入れ替えて新しく生きようと決心しても、一日、二日経つ内に決心が薄れ、三日目で怠けてしまい、それ以降は怠け癖がついてしまって、1週間後には、完全に前の生活、前の生き方に戻ってしまっている、という事が、霊的生活では、ありがちである。
この「怠け癖」が身に沁みてしまっている人、思慮に欠けてしまっている人の畑は、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれている状態だ。(箴言24:30-31)
分かってはいても、染みこんでしまった怠け癖や思慮の無さから脱出する事は、困難である。そこで今回、長年出来なかった礼拝の再建を開始する術を、城壁を立て直す名人・ネヘミヤから学びたい。

ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」である。彼はハガイと同じく、バビロン捕囚後のイスラエル再建に貢献した。彼は元々、ペルシア王アルタシャスタに仕える献酌官だったが、エルサレム城壁が崩されたままである事を聞いた時、彼は憂いて泣き、主に憐れみを祈った。(ネヘミヤ1章) 彼が祈った所、主の憐れみを受け、王の許しと援助を得て総督となった。彼こそ、エルサレム城壁の再建を指揮し、建て直した人である。
彼が総督に任命されて帰国の許可を得たのは、紀元前445年と言われている。バビロン捕囚が終わったのは紀元前537年なので、捕囚が終わって後の92年、誰も城壁を建て直す人がいなかった、という事だ。
誰かがいつかしてくれるだろう、と誰もが思っていて、結局92年も、城壁は放ったらかしにされていた、という事だ。まさに次の状態である。『「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それ故、貧しさは盗びとのようにあなたに来、乏しさはつわもののように、あなたに来る。』(箴言24:33-34)
城壁とは、身を守る防護壁であり、自分の領域と外との境界線である。皆さんの人生の城壁はどうだろう。
人生の城壁が崩されてしまった人の特徴は一言、「受け身」であり、悪しき者が出入りし放題でも、なされるがまま、嘲られ、卑しめられ、ぶん取られても、それが悪い状態だと気づかず、むしろ自分はお人好しな、善良な人であるかのように勘違いしている人もある。主の尊い器が蹂躙されている状態は、全く良いものではない。まさに箴言24:30以降にある通り、いらくさやあざみに覆われ、石垣は崩されてしまった状態だ。
建て直しはまず、ネヘミヤのように、そのような状態を悲しみ、祈る感性を持つ所からである。

長年崩されていた石垣を建て直そうとする時、大体、それを邪魔する者が現れる。(ネヘミヤ2:10)
それは、城壁が崩されたままの方が、分捕り放題出来て、都合良しとする「外部の敵」であり、あるいは内部の、特に現状のままのほうが善良であるかのように意見し反対する人である。なぜ彼らが反対するか。
それは、建て直しをしてしまったら今までそれをしなかった自分の怠慢さが浮き彫りにされてしまうからだ。
だからネヘミヤは事を起こす時まで、ごく一部の人を除いて誰にも公開せず、密かに行動した。(11-16節) 
そうして全てを裏で整えてから、皆に再建に取り掛かる事をあかし、また、王の後ろ盾もある事もその時明かし、皆を奮い立たせたため、誰からも反対を受けずに、皆で仕事に取り掛かる事が出来た。
『ところがホロニびとサンバラテ、アンモンびと奴隷トビヤおよびアラビヤびとガシムがこれを聞いて、我々をあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
外部の敵は、あたかも、再建が悪い事であるかのように言う。あたかも自分達が違反しているかのように。
しかしその時、神の国の価値観に立つべきだ。神の国の価値観は、いのちの建て上げを良しとし、礼拝の建て上げを良しとする。それに反する事の方が、永遠なる御方に背く事なのだ。ネヘミヤは御国の価値観に立って、堂々と言った。「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない。」(ネヘミヤ2:20)
私達も彼のように、いのちのために、礼拝のために、天の神である主を後ろ盾につけて、宣言するのだ。
そしてもはや、長年留まっていた荒れ放題の様から脱却し、人生と礼拝の再建を開始するべきだ。

直接イエス様に触れ、聖められよ(ハガイ書2:10-19)
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天声設立のビジョンが与えられて15年、現会堂が与えられて10年目の節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、ハガイ書から見ている。
前回の箇所の預言がなされて3ヶ月後、神殿の礎が据えられた。その日再び主の言葉がハガイに臨んだ。
「人がその衣服のすそで聖なる肉を運んで行き、そのすそがもし・・・どんな食物にでもさわったなら、それらは聖なるものとなるか』と」。祭司たちは「ならない」と答えた。」(12節) レビ記6章に解答がある。
罪のためのいけにえを主の御前でほふる時、それを捧げる祭司は、それを幕屋の庭の聖なる所で食べなくてはならないのだが、「すべてその肉に触れる者は聖となる」(同27節)と記されている。
つまり、罪のためのいけにえの肉に直接あずかる人が聖となるのであって、それを運んだ衣のすそに触れた人も聖となるのか、と言うと、「否」である。聖とされるのは、真の罪のいけにえとなって下さったイエス様へ直接触れる人であって、イエス様にあずかった「人」に触れても、何もならない。教会の催しや人に何年も関わっていたとしても、その人自身がイエス様に直接関わっていないなら、全然清められない訳である。

「ハガイはまた言った、「もし、死体によって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」。祭司たちは「汚れる」と答えた。」(13節) この問の答えは、民数記19章に記されている。全て人の死体に触れる人は、所定の通りに清めの水で洗われない限り、汚れており、その人に触れる人も夕方まで汚れる。
「汚れ」は、伝搬するものである。イエス様は特に、人の口から出てくるものが、人を汚す、と言われた。
「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがす」。」(マコ7:20-23)
すなわち、世の口論や、貪欲に由来する言葉、愚痴や噂話などに浸されるなら、思いが汚されるのであり、イエス様の御言葉の清めにあずからなくてはならない。「汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。」と、先の民数記19章に記されており、主はそのような汚れた人が捧げる捧げものは忌み嫌い、その者達の聖会は耐えられない、と言われる。(イザヤ1:13)

主はハガイを通して、主の宮をおろそかにしたままの状態は、まさにそうだった、と言われた。
実際、主の宮の礎が据えられる前は、収穫は、期待の半分以下だった。(ハガイ2:14-16)
イエス様に直接行かず、世の言葉の中で右往左往し、汚れたまま御言葉で清めないでいるなら、期待の収穫は望めない。しかし主は、主の宮の土台石を据えたこの日の後の事を、心に留めよ、と言われる。
『種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(18-19節)
ユダヤ暦のこの時期は、太陽暦の12月に当たる。種はもう納屋には無く、蒔いた種も、実を結ばないまま冬に突入してしまった。状況としては絶望であるが、主は、はっきりと言われた。主の宮の礎を据えた今日から、後のことを考えよ、と。この日から、あなた方に恵みを与える、と、自信をもってはっきり言われた。

礼拝の建て直しと清めは個人個人のものであり、教会に頼りっぱなし、働き人に頼りっぱなしのものでない。
もし「汚れ」の自覚があるのなら、あるいは期待した収穫が望めない状況であるなら、長血の女が自分からイエス様の所に行き、信仰をもって手を伸ばしてイエス様の衣のふさに触れたように、自分からイエス様に進み行って、信仰をもってイエス様に手を伸ばすべきである。(マルコ5:25-34)
彼女は12年も長血を患い、律法上汚れた者として、12年も礼拝に参加できず、人から触れられず苦しんで来たが、多くの医者にかかって全財産を費しても、何のかいもないばかりか、ただ悪くなる一方であった。
ところが唯一、罪汚れをキャンセルさせて下さる御方、イエス様に手を伸ばし、彼女は全てが癒やされた。
お金も、世の言葉も、世の知恵も、罪に対し、汚れに対し、大地や経済の実りに対し、何の力も持たない。
実りも、金銀も、癒しも、天地に満ちているものも、全て主のものである。この主に、自ら個人的に進み行き、手を伸ばし、関わりを持ってこそ、全ての回復につながるのだ。私達が主を礼拝する土台を据えるなら、今日から後の事を考えよ、と言われる。礼拝の土台を据え、全ての面で豊かにされる皆さんでありますように!

主の宮の栄光とは(ハガイ書2:3-9)
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ハガイ書から天声教会の設立のビジョンが与えられたのは15年前の2001年だった。そして今のこの会堂が与えられ、礼拝が始まったのは、10年前の2006年だった。ちょうど節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに立ち返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、聖書から見ていきたい。

『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。』(ハガイ2:3) 
この「以前の栄光に輝く主の家」とは、ソロモンの時に建てられた神殿である。その神殿は豪華絢爛で、神殿の内面は全て、純金で覆われ、量り切れない程の青銅が用いられ、器物も全て豪奢なものだった。
しかしそれらは全て異邦人によって荒らされ、破壊され、金銀も器類も全てバビロンに奪われてしまった。
そうして70年を経て後、神殿は再び立て直されて行くのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、後の有様を見て大声で泣いた。以前のような栄光はなくなってしまったと。(エズラ3:12)
しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)

神殿の栄光とは、一体何だろう。教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
彼は言う。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。
だから、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり、人を多く動員して事業を拡大する事に心血を注ぐ事よりも、ダビデのように心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛する事へと心血を注ぐべきなのだ。

「勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。」(4-5節) これは、主を愛し、主を敬い、主のからだを建て上げるために山に登り、木を運んで働く働き人たちに対する言葉である(1:8)。 主は彼らに対し「恐れるな」「勇気を出して働け」と言われる。
なぜなら、共にいて、働いて下さるお方は、万軍の主であり、彼の霊が私達の内に宿って下さるからだ。
主イエス様は、彼の命令を抱いて守る人と共にいて栄光を現す、と言われた。『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」』(ヨハ14:20-21) 

主はいま一度、天と地と、海と陸とを揺り動かし、全ての国々を揺り動かして、全ての国々の宝物をこの宮にもたらし、この宮を栄光で満たす、と言われる。なぜなら、『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。』(ハガイ2:6-9) 金は主のものであり、銀も主のものであり、主はそれらのもので豊かに満たす事は、簡単におできになる。だから外見的な豪華絢爛さよりも、何より、主を愛し求めるべきだ。
しかし私達は、金銀が欲しいから主を愛するのではない。金銀に遥かに勝るいのちを主は投げ打ってまで愛して下さったからであり、主は私達に、罪のゆるしと、永遠のいのちと、神の御前に大胆に出る事が出来る愛の関係を回復させて下さった。この御方の栄光で満ちる事をこそ、私達は仰ぎ求めるべきなのだ。
主の栄光を豊かにあらわすために用いられていく皆さんであり、教会でありますように!

本来あるべき「礼拝」の再建(ハガイ書1章)
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横浜天声キリスト教会が礼拝を始めたのは、2006年からだった。当初は建物は無く、開拓メンバーが場所を間借りして礼拝を行ていたが、その年の4月末に現会堂が与えられ、5月連休からほぼ手作りと手弁当による工事を始め、6月18日、工事が完了し、翌19日にこの会堂で初の正式な礼拝が捧げられた。
当初は日本人は一人もおらず、大人九名と子供三人、韓国教会のメッセージテープによる礼拝であった。
今年、この会堂での礼拝が始まって10周年に当たるが、天声教会設立のビジョンが与えられたのは、もっと遡る事、2001年であった。2001年1月10日、開拓者・川合働き人にハガイ書の御言葉が与えられた。
ハガイ書は主に、神殿を再建しなさいという主の命令であるので、与えられた当初は教会を再建する事と思って祈っていたが、御心を求めて行く内、再建するのは教会よりもむしろ「礼拝」であると分かって来た。
すなわち、教団や教派などに見られるような「既存のキリスト教会システム」の仕組みの支配下にある「既存の教会」を、もう一つ新しく建築するという事ではなく、本来あるべき「礼拝」の再建である。
それが分かったのが2006年の事であった。こうして、既存のしきたりや既定の概念から離れ、ただ「天」からの「声」のみを聞いて歩む、「天声教会」の模索と建設が、そして礼拝の歩みが始まったのだ。この会堂が発足して10年目を迎えたこの時、このビジョンに戻り、再建するべき「礼拝」とはいかなるもので、どのように歩んで行くべきか、そして礼拝を建て上げて行くなら、どこへ行き着くのかを、暫く見ていきたい。

礼拝をおろそかにすると、どんな生活が待っているか。ハガイ書はそこから始まる。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。』 ハガイ書は、主の宮が荒れ果てている状況と、それに引き換え、人々は自分の家を快適に建てあげる事に奔走している様を指摘し、「よく考えよ」と言われる。多く蒔いても取り入れは少なく、飲み食いしても満たされず、着ても温まらず、お金を稼いでも穴の空いた財布に入れるようなものではなかったのか、と。
人は多くを望んでも、得たものは少なかった。主がそれらを吹き払ったからだ。なぜ主は吹き払われるか。
「これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。」(9-10節)
「わたしの家」「主の宮」は、礼拝する所である。もし私達の内の「宮」がおろそかにされているなら、すなわち、礼拝の心が破綻し、主への恐れ敬いが無いなら、穴の空いた財布に入れるような生活なのだ。
聖書で「礼拝」と訳されている語は複数あり、ヘブライ語のシャーハーは「平服する、おじぎする(ギリシア語:ゴニュペテオー)」、シャーラスは「仕える」、アーバドゥは「奉仕する(ギリシア語:ラトゥレイア)」である。
神である主を第一にし、主の御前に身を低くし、主に仕え、主のわざをする。それが礼拝である。
主が第一であるはずの所を、自分を第一にし、主の前に低くなるべきなのに自分を高め、主に仕えるべきなのに、世と自分に仕える。それは「本末転倒」の生き方であり、物事はどんどん悪くなって行くのだ。

「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」
具体的な行動から始めよ、と主は言われる。礼拝は、「主のため」という動機を心に握りつつ、床から身を起こし、足を踏み出すその一歩から始まる。どんなに立派な宮を建て、どんなに立派な教団に属しても、礼拝者の心がおろそかだと、何にもならない。ソロモンは、贅を凝らした神殿を建築したのに、後の時代、異邦人に破壊され汚されてしまった。主は、礼拝をする「人」の心こそ重んじられ、人に宿られるからだ。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリ3:16)
この教会は、栄光の「礼拝」を回復するように、というビジョンの元に建てられた。すなわち、主イエスを宿した「働き人」という「生きた神殿」を建て上げ、輩出して行くための教会として、使命が与えられている。
それは、自分の家のために奔走するのではなく、キリストのからだを建て上げるために主の山に登り、木を運んで働く人達である。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」
実際に今、天声はそのような働き人達が増え、自分の家よりもこの宮にいる事を愛し、主と交わり、主を思い、主のために働く働き人が不在となった日は、ここ数年、一日たりとも無い。そのような教会は、日本に他にあるだろうか。今、この国の霊的状況は暗澹としており、真に「礼拝」を建て上げる働きを必要としている。
そのために豊かに用いられていく皆さんであり、この教会でありますように!

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