メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
起きよ光を放て(イザヤ60:1-3)
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『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。』(イザヤ60:1)
古い年が終わり、新しい年へと改まった。新しい歩みをして行くのに相応しい時である。
主は言われる。「起きよ」「光を放て」と。 聖徒はいつまでも横たわっていたり、埋もれているわけにはいかない。起きて、暗闇の世に光を放っていくべきだ。主は言われた。「あなたがたは、世の光である。・・・あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)
「起きて光を放つ」とはすなわち、それぞれの「枡の下」から出て、「燭台の上」という持ち場へ着き、良い行いをして世界の中で輝き、人々がそれを見て、神である主をあがめる事だ。
私達が為す「良い行い」とは、私達が「これが良い行いだろう」と考え編み出してする類のものではない。
私達は元々、罪の中に死んでいた者達であって、主の御心に適った「良い行い」を知らない者、頑張ってあがけば、あがく程に罪を撒き散らすような者であったが、主は大きな憐れみと恵みによって救って下さり、キリスト・イエスにあって共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さり、神の手による作品として新しく創り出された。そんな私達に、良い行いをもあらかじめ主が備えて下さったのである。(エペソ2:1-10)
それ故、主が新たに私達を創られたままに、主が備えられた良い行いを為して行けば良いのである。
具体的に主が備えられた良い行いとは、御言葉に書いてある通りである。食物や着物を主から豊かに与えられている人は、持たない人に分けてあげ、役職が与えられた人は、人を脅したりだまし取ったりせず、自分の給与で満足する事(ルカ3:10-14)。また、妻は夫を敬って服し、夫は妻を命よりも大切にして守り、子は何事につけ両親に従い、主に置かれた立ち位置の正統な権威関係を守る事だ。(コロサイ3:18-21)
バプテスマのヨハネは、悔い改めて正しく歩むよう、人々に叫んだが、そのように、悔い改めの涙を流し、改めて生きようとする人には、主の通られる道が整えられ、世を照らすまことの光が来て下さり、主の光を輝かせるようになるのである。主は、砕かれたたましい、悔いた心の人に、やさしく声をかけて下さる。
当教会では大晦日の夜、長い祈りをもって過ごし、今までの罪を告白して悔い改め、主イエス様が十字架上で為して下さった素晴らしい贖いに涙しつつ年を終え、新年の最初の時は、初物として主に捧げた。
悔い改めの涙を流した聖徒達の顔はとても美しく、主がこの聖徒達を大切に愛し喜んでおられる様を見た。
「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。」(雅歌2:10-12)
主は、ひたすら主の御前にひれ伏す「冬」の季節と、悔い改めの涙を流す「雨」の季節を通って来た聖徒に、「もうその季節は終わったよ、さあ、出ておいて」と呼びかけられる。
「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(14節) 主は「はと」と呼びかけて下さっている。
鳩はその鳴き声から、うめく鳥と言われているが、悔い改めうめく聖徒に主は優しく呼びかけて下さるのだ。
さらに主は、あなたの顔を見せ、あなたの声を聞かせなさい、と言われる。悔い改めた私達は、起きて、光を放つ準備が整えられているのだ。すなわち神の前に出て、賛美の歌声を響かせ、人の前に出て、主の栄光を輝かせるのだ。そしてさらに、この光を放つ状態、実りを実らせる状態をキープする必要がある。
「われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」(15節) 小狐は、花ざかりの時に来て荒らし、実を実らせないようにする。その目的は、ただ荒らし、実らせない事だ。私達は「小狐」を、かわいいねと言って変にちやほやしたり、あなどったりしてはならない。
花婿が「ぶどう園を荒す小狐を捕えよ」と言っているように、小狐は捕らえる責任が、私達の側にあるのだ。
悔い改めを嫌がらせる狐、正しい行いや、正しい権威関係を妨げる狐、主の光を放つ事を妨げる狐は、どんなに小さくても捕らえて火に投げ込み、主に対しては豊かに花を咲かせ、実りを実らせるべきだ。
このように妨げ無く、世に対して光を放ち、国民や王達を照らしていく皆さんでありますように!
赤ちゃんとなられた御言葉であるキリストに会えた人達(ルカ2:1-38)
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12月24日が過ぎると、世間はクリスマスの音楽や飾りが取り払われ、代わりに正月に向けての飾りがつけられ、今までの1、2ヶ月の間、クリスマス一色だった町の雰囲気が一気に変わり、クリスマスとは一体何だったのだろうかという、一種の虚しさが漂うこの時期であるが、私達は敢えてこの時期、クリスマス(クライスト+ミサ:キリストの礼拝)に目を留め、主イエスキリストがこの世に来られた事の、喜びと感謝を表したい。
『彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。』(ルカ2:6-7)
イエス様がお生まれになった時期は、ちょうど皇帝の住民登録せよという勅令が出た時で、普段は過疎状態のベツレヘムも、人がいっぱい押し寄せる”混雑期”と重なり、宿屋は既に彼らが泊まる部屋が無かった。
イエス様は馬小屋で生まれたというイメージが強いが、聖書には馬小屋で生まれたとは書かれておらず、ただ「飼葉おけ」というキーワードが出てくるだけである。馬は戦争に使う貴重な動物なので、ベツレヘムにはいなかったと考えられており、むしろ、牛やロバ等の家畜が、その飼葉桶から食べていた可能性が高い。
平和の動物が食べる食べ物の器に宿って下さったキリストは、私達の口に入る食物となって下さったのだ。
また当時、ユダヤでは家畜を岩山の斜面の洞窟で飼っており、イエスが生まれたのは洞窟のなかであった可能性が高いそうだ。なお、飼い葉桶と訳された語「ファテネー」は、日本でイメージする飼葉桶のような木箱ではなく、箱型の枠台や、岩の床に掘った溝のようなものである。
想像して欲しい。洞窟の中に、細長い布切れにくるまれ、岩の床に寝かされている、物言わぬ子。まさに埋葬されたキリストの姿と重なる。キリストの埋葬の時、イエスの母マリヤと、アリマタヤの”ヨセフ”が遺体に布を巻いたが、キリストの誕生の場面、キリストを岩窟に寝かし、布にくるんだのも”マリヤ”と”ヨセフ”である。
御使いは羊飼い達に、「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある幼子」が「あなた方のためのしるし」であると言ったが、その幼子の有様はまさに葬られたキリスト、私達にとっても「救い主」のしるしである。
幼子キリストは、私達の身代わりとなって死ぬために、この世に来られた。彼の”身代わりの死”によって、私達が代わりに生かされるため。その彼をこそ、私達もほめたたえ、礼拝するのである。
「屠られた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい」(黙5:12)
この、布にくるまって岩窟に寝かされたキリストを訪ねて来たのは、東方の博士たちと、羊飼いたちだった。
主は実に、仕切りの無いお方である。その主がお生まれになった所は、何の仕切りも無く、誰でも、どんな身分の人でも、どんな国の人でも、訪ねて来る事が出来る。
博士たちはとても高貴な身分であった、と言われているが、そんな彼らが主にまみえる幸いにあずかれたのは、彼らは「天を見上げ」て主のしるしを見逃さなかったからであり、生まれたばかりの赤ちゃんを前にしても、ひれ伏して拝む「へりくだった姿勢」と、また、尊いものを「捧げる姿勢」があったからだ。
羊飼いたちが、天の御使い達のお告げを受けて、主の栄光の美しい輝きと、賛美の歌声にあずかれたのは、彼らは羊を、すなわち、誰も面倒を見たくないような愚かで汚い羊を育み、守り、養っていたからだ。
彼らが養っている羊達は、人の食用に、あるいは衣服に用いられ、そして、主に捧げる礼拝に用いられる。
羊飼いは人口調査の対象にはならず、一人の人として認められていなかったようだが、それでも弱く愚かな、そして主に捧げられるべき羊達を、暗闇の中でも誠実に番をしていた。そんな彼らに御使い達が現れ、救い主の誕生を知らされたように、私達も今、闇の時代において、人の世に役に立ち、主に捧げられるべき羊達を養うなら、主は輝かしいおとずれで御旨を告げて下さる。
正統なユダヤ人の中で、幼子イエス様と出会う恵みに与れたのは、イスラエルが慰められ救われるのを待ち望んでいた人達に対してだった。シメオン(「聞く(シャマー)」が名前の意味)は、正しい信仰深い人で主に聞く心のある人であった故に、聖霊の導きによって、イエス様を腕に抱く特権に与れた。
またアンナは、ただ主にだけ望みを置いて宮を離れず、夜も昼も断食と祈りとをもって神に仕えていた。
このような人々が、小さく赤ちゃんとなられた神の子イエス様に、相まみえる特権にあずかれたのだ。
赤ちゃんとなられた、御言葉なるイエス様を、ヨセフとマリヤのように私達もしっかり抱いて離さず、守りぬき、暗闇の世において光の内に導かれていく皆さんでありますように、イエス様の名によって祝福します!
時の初まりから用意されていたキリストのおとずれ(ルカ1:67-79)
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アドベントもいよいよ第4週となり、4つの火が灯った。アドベントにろうそくを灯すのは、永遠の昔から神によって定められていた「世を照らすまことの光であられるキリスト」を覚えるためだ。今回、神がどれほどの熱心をもって人類を救おうと、そのご計画を立てておられたのか、ヨハネの父ザカリヤの賛歌から見てみたい。
「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。」(ルカ1:68-69) バプテスマのヨハネの父、祭司ザカリヤは、息子ヨハネが生まれた時、御使いによって閉ざされていた口が開き、聖霊に満たされ、主を喜びたたえた。
この有名な賛歌は「ベネディクトゥス(ラテン語で「祝福があるように」の意)」と言われているが、彼が喜び称えたのは、老齢でやっと子が誕生したからではない。この賛歌の主人公は、神と、救い主キリストである。
なぜ彼は喜び称えたか。それは、神は、その民を「顧み(見舞う、よく探す)」、「あがない(買い戻し)」をして下さったからである。主がその民を顧みて、買い戻しをして下さる事は、遥か昔から預言されていた。
『古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。』(70-71) この「古くから(apo aionos)」は「今まで続いている一連の”時”の、一番始まりから」を意味し、主は人類を憎む敵から救い出す事を、時の初まりから、ご計画されていた。まことに神は、天地の造られる前から、私達をキリストにあって選び、御前にきよく傷の無い者となるように、愛をもって、あらかじめ定めておられたのである。(エペソ1:3-5)
私達を憎む敵は、サタンであり、サタンは私達が愛されている事を歯ぎしりして憎み、神から離れさせようと、エデンの園でそそのかし、人類に罪と死を導入させてしまった。
主は、人に罪と死が導入されてしまって以来、人類を贖い出すため、遥か昔から手を打っておられた。
キリストの降誕が、一番最初に預言された箇所はどこか、ご存知だろうか。アダムとエバによって罪と死が人類に導入されたのは創世記3章6節であるが、そこから10節も数えぬ「創世記3章15節」からである。
エバが蛇にそそのかされ、禁じられていた実を食べてしまった時、神が蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と言われた、その所だ。
人類の贖いのために重要なキーパーソンが、賛歌の中で登場する「僕ダビデ」と「父祖アブラハム」である。
主は、人類全体はアブラハムの子孫によって祝福に入る事を約束され(創世記15:1-6)、アブラハムの子孫・イスラエル民族へと託した律法によって、神の基準を明示し、さらに降って、僕ダビデから永遠に続く一つの家、一つの王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、こうして主は、時代から時代へと、世代から世代へと通して語り継げ、贖いの計画を整え、満を持して、ダビデの末からキリストが生まれたのだ。
『幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、罪のゆるしによる救を/その民に知らせるのであるから。』(76-77) ゼカリヤは、老年にしてやっと得た自分の息子に自分の名をつけ自分の思い通りに育てたいとは思わず、主に示された通り「ヨハネ」と名付け、遠大なる主のご計画に従い、彼が主の道を整える事に用いられる事を喜んでいる。 その彼の役割は、悔い改めによって主の道を整え、アダム以来問題であった罪のゆるしによる救いを告げ知らせる事である。
『これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう。』(78-79)
イザヤも告げている。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・ひとりのみどりごがわれわれのために生れた・・・そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め・・・万軍の主の熱心がこれをなされる。」(イザ9:2-7)
クリスマスというと、夜、暗闇の中に光がぴかぴかと光るイメージがある。時の初めもまた、暗闇であった。
しかし主が「光よあれ」と言って光を創造し、無味な混沌から、命が輝く秩序へと、創り変えられて行った。
キリストこそ世を贖うまことの光であり、このお方が暗闇の世界にプレゼントされた日を祝うのが、クリスマスである。このクリスマスが救いの喜びに溢れる皆さんでありますように、イエス様の名によって祝福します!
男と女はいかに歩んで行くべきか(マタイ2:13-15)
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御使いが乙女マリヤに現れ、御心を示された場面は有名だが、マリヤがヨセフと結婚して以降、御使いはもっぱらヨセフにだけ現れて言葉を伝え、ヨセフはそれを妻に伝え、妻はそれに従う、という形となった。
マリヤとヨセフ両方には現れず、敢えて夫ヨセフだけに現れ、この一家全体を導いたのには、理由がある。
権威には順序があって、妻(女)のかしらは夫(男)であり、夫(男)のかしらはキリストなのだ。(1コリント11:3)
救い主メシヤを、幼少から成人に至るまでを任されたこの男女は、この権威関係を正しくキープし続けた。
それに引き換え、アダムとエバ夫婦はことごとく自分の「かしら」に逆らった故、人類に罪と死を導入した。
アドベントも第3週に入りクリスマスが近づく今、男女はいかに歩んで行くべきか、聖書から改めて学びたい。
神は自然界を創造した後、男を女より先に創られた。神は土を御手でこねて人を形づくり、その鼻に息吹(霊)を吹き入れ、こうして神の似姿である人が創られ、全被造物の支配は、彼に委ねられた。その全被造物の有様は極めて良かったが、神が唯一良くないと言われた事があった。それは「人がひとりでいること。」
人は、ひとりでいると欠けがあるもので、寄り添って生きるように創られている。
主は男に深い眠りを与え、あばら骨を一つ取ってそこをふさぎ、その骨を元に女を創られた。全てのものは土が元となって創られたが、唯一、人間の女だけは、男の骨を元として創られたのだ。女は男を元にして男のために造られた。それで男は、女のかしらである。これが、聖書が示す所である。(1コリ11:7-12)
しかし昨今、それに相逆らう価値観が沸き起こっている。男性も女性も平等な存在で、男性は支配せず、女性も積極的に独り立ちすべきだ、という考え方は、サタンに由来する。サタンは神の支配から独立し、神と他の存在との平等を主張し、自らを一個の独立した神のような存在になろうとした。本来、男も女も、かしらが必要である、というのが神の摂理だが、サタンの主張は真逆で、自分がかしらとなって支配しようとする。
だから、性差別を無くし男と男、女と女の性嗜好も許されるという考えは、サタン由来の忌み嫌うべきものだ。
神は元々、人を男と女とに創られ、そして人は元々、神と共に生きるように創られた。それで人は、聖書を知らなくても、生まれつきになぜか神を求め、男は女を求め、女は男を求めるようになっている。
互いが互いを必要とし、互いが互いを求め合う存在であるのは、神がそのように創られているからだ。
主はまず男を創られ、そのあばら骨の一つから女を創りあげられた。つまり女性が元々いた所は男性の脇腹である。だから女性は、男性の腕の下にかばわれている時、もっとも安心する。本来の居場所だからだ。
女性は男性の覆いに包まれ、保護の下にいる事を望む。それは正しい姿だ。雅歌書の花嫁は、花婿は彼女にはりんごの木のようで、その陰に座りたいと切に望み、彼女の上に翻る旗じるしは愛であると言った。
『どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。』(雅歌2:6)
ルツもボアズに、『どうぞあなたの衣(布団)の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方(ゴエル:買い戻しの権利のある親類)です。』と願った。(ルツ記3:9)
女性が男性の陰に宿る事が欲求であり必要であるように、人は全て、全能者の陰に宿る事が必要である。
私達はそのままでは欠けがある。だから、私達を絶やさぬよう、買い戻して下さる方・キリストが必要なのだ。
女性が男性を求めるように、男性も、主が創られた助け手である女性を求めるものである。元々一本の骨だったエバが、主の御手で整えられてから、アダムの所へ連れて来られた時、アダムは、はなはだ喜んだ。
イザヤ62章で主はイスラエルを「わたしの喜びは、彼女にある。」(ヘプシバ)と呼ばれ、「夫のある国」と呼ばれるだろう、と言っている。『花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:5)
花婿は花嫁を喜ぶものであり、未婚の男性が、その喜び・慰めである花嫁を得たいと求めるように、キリストも、花嫁である教会が整えられ、完成し、ご自身の御腕の中に迎え入れるのを、望んでおられる。
花嫁が迎え入れられるのを待ち望んでいるように、キリストも待っているのだ。花嫁が、整えられるのを。
私達は、整えられるための努力を、しているだろうか。イエス様に嫁ぐ花嫁修業をせず、ただ漠然と待っていないだろうか。主がいつ来ても良いように、ともし火と共に、油も用意しているだろうか。(マタイ25:1-13)
男女の性が乱れている今、男性は女性のために、女性は男性のために、そして、私達は全て、キリストのために自らを整え、相手にとって喜びとなる皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!
栄光のみどり児を委ねられた夫婦の成り立ち(マタイ1:18-25)
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クリスマスが近づくと、世間は華やいで来るが、クリスマスの主人公であるイエス様の誕生の次第と、それに関わった人達の成り立ちは、あまり華やいだものではなかった。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ…一瞬で口ずさんでしまえるこの一文の陰に、実はイエス様の母マリヤとその夫ヨセフの、想像を超えた試練と苦悩の思い出が、そして、信仰の高貴さと、信仰により勝利した栄光の思い出がつまっている。
乙女マリヤは、優しい信仰者の夫・ヨセフとの結婚が決まっていて、貧しいながらでも、ささやかな幸せを胸に膨らませながら、婚約の期間を過ごしていた。そんなある日、突然御使いが現れ、告げられる。
これからあなたは身篭り、男の子を生む。しかもその子は永遠に支配する王である、と。(ルカ1:26-38)
結婚を控えている微妙な時期に、子を身籠る事は、世間からの追求もさる事ながら、何より、愛するヨセフがどんな反応をするか、大いに懸念される所だ。律法に従えば、結婚前に姦淫を犯した女は石打、それを免れても、ヨセフに見放されるなら、姦淫の子持ちの女として再婚も叶わず苦しい人生が待っているだろう。
「神にとって不可能な事は何一つ無い…」彼女は、この僅かな御使いとのやり取りで、大胆な決心をする。
「お言葉どおり、この身に成りますように・・・。」 彼女は、自分の都合、自分の善悪は全て降ろし、ただ、神のことばを優先したのだ。結婚も、夫も、世間も、将来も、全部、主にゆだねて。夫ヨセフはどうだったか。
婚約者マリヤは、自分の知らぬ間に身篭っている。男性なら、非常に怒り、悩み、落ち込む所である。
ねたみに駆られて、石打の求刑も出来ただろうし、払った花嫁代を全額返済してもらい、公に離縁して、別の女性との結婚を一からやり直す事もできたろう。しかし、彼が選んだのは、ひそかな離縁だった。
ヨセフは、彼女を愛した故に苦しんだが、真実であろうとした。それで、ひそかな離縁を選択したのだ。
そうこう思い悩んでいる所に、御使いが現れる。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1:20-21)
ヨセフもまた、主の御言葉に従った。ユダヤ社会から冷ややかに「結婚前に身篭った夫婦」と後ろ指をさされる一生を恐れず、この、自分の血が流れていない特別な子を、守り、養い、育てようと、決心したのだ。
彼ら夫婦はこのような性質、すなわち自分の善悪判断、将来の心配は一切降ろし、ただ主の御言葉に従う性質だったからこそ、救い主キリストの育ての親となる栄誉を勝ち取り、人類全体に救い主を導入したのだ。
それに対しアダムとエバ夫婦は、御言葉ではなく自分の感覚を優先し、子々孫々に呪いを残してしまった。
妻は、主でも夫でもなく、蛇(サタン)の言う事に耳を傾け、従う。さらには夫を操って過ちに陥れる。夫も自分の過ちを棚に上げ、妻のせいにして突き放す。これが、いさかいと争いに満ちた呪いの生き方である。
主にある夫婦のスタンダードは、次のものである。
『妻たる者(ギュネー:成人女性)よ、(自身の)夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。』(コロ3:18) 夫婦への命令は、新約に3箇所出てくるが、いずれも「妻」に対する命令から初まり(エペソ5章,コロサイ3章, 1ペテロ3章)、いずれも「夫(アネア:成人男性、将来の夫)」に従いなさい、という点が、夫より先に命じられている。従うとはフーポタッソー、軍隊用語で、自分を下位に置く、服従させる事だ。
これは女性差別以前の話で、主が創造の初め以来定められた権威の順序であり、従うなら幸いを得る。
では、男性は得なのか?得というより、男性のほうが責任重大である。エバの失敗に対し主はアダムを責められ、サラの失敗に対し主はアブラハムを責められた。『夫たる者よ、妻を「愛し(アガパオー:命よりも大切にし)」なさい。「つらくあたって(ピクラノー:苦々しい思いにさせて)」はいけない。』(コロサイ3:19)
男性は、女性を愛する事、それも、自分の命より大切にする事が、命じられている。女性は男性の保護下にあってこそ、安心できるものであり、男性は、女性に敬われてこそ、力を得るものである。
このようにしない夫婦は、アダムとエバのように、自分自身に、そして子々孫々に呪いをもたらしてしまう。
しかし、マリヤとヨセフのように、主の言葉に従順し、夫は妻を責めたりせず守り、妻は夫がたとえ「今晩エジプトに逃げよう」と言ってもそれに従順する程であるなら、より多く任され、尊い命を任されるようになる。
マリヤとヨセフのように、素晴らしい男女となり、素晴らしい結婚生活が出来る皆さんでありますように!
神の霊の現れと性質(イザヤ40:3-5)
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本日より、待降節(アドベント)に入る。現代、アドベントというと、クリスマスまでのカウントダウンのようなイメージもあるが、元々の意味は、主の「到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事であり、やがて来るべき再臨の主の「到来」を待ち望む事もまた、アドベントの時に覚え祈るべき事である。
私達はいか主の到来を待ち望むべきか。荒野で呼ばわる者の声は、叫ぶ。「主の道を整えよ」と。
主が通られ、私達の内に来られるために、険しい山谷のような性質が、平野のようにならされる必要がある。
今、まことの花婿キリストの到来を前にして、私達キリスト者はキリストの花嫁としてバージンロードを整えるような日々であるが、この「整え」は自分だけで出来るものではない。神の霊の力添えによって可能である。
私達は、この神の霊(聖霊、御霊に同じ)のどんな働きによって整えられていくのか、今回、神の霊の7種類の現れを学び、私達はどのような面において特に助けが必要で、求めるべきなのかを、学んで行きたい。
神の霊のまず第一は、「恵みの霊」(ヘブル10:29)である。「恵み(カリス)」には元々、「優しさ、思いやり、親切、恵み、恩恵、愛顧」などの意味があり、特にキリストの救いの無償である事を強調する語である。
聖霊により、カリスが各々に授けられると「賜物(カリスマ)」となって、各々に御霊の固有な現れが起きる。
主は、優しく思いやりに溢れた恵みの霊により、無償の愛と恩恵と、賜物とを恵んで下さり、生来の悪い性質から聖なる者へと贖い出して下さった。この、恵みの御霊をあなどるとするなら、重い刑罰が待っている。
2つ目は、「いのちの霊」(ローマ8:2)である。私達はキリストにあって歩み続けるなら、いのちの霊の法則が発動され、罪と死の法則から解放されている。(ローマ8:1-2) この霊の働きによって罪と死から解放され、泉のようにこんこんと湧き上がるいのちが川となって流れだし、死の海さえも、いのちに溢れて行く。
3つ目は、「神の子とする霊」(ローマ8:14-16)である。 私達は以前は神の子らしくなく歩んでいた。
罪を犯し、父から勘当され切り離されたかのような歩みをしていたが、神の子とする霊は、私達がキリストにあって神の子であると証し、この霊によって私達も、神を「お父さん(アバ、父)」と親しく呼ぶ事が出来る。
子であるなら、キリストと共に共同相続人であり、計り知れない富が、子とする霊によって与えられた。
4つ目は、「きよくする霊」(詩篇51:10)である。 ダビデは栄光と富と力が満ちた時、姦淫と殺人の汚れた思いに満たされ、そこを主に指摘された時、祈った。自分に清い心をつくり、揺るがない霊を新しくして下さい、と。私達も俗悪な思いに満たされ、聖なる歩みが頓挫してしまった時や、習慣的な罪を止められない時等は、ダビデのように、きよい心をつくり、揺るがない霊を自分の中に新しくして下さい、と祈るべきだ。
5つ目は、「執り成しの霊」(ゼカリヤ12:10)である。この霊が注がれると、国や人、事柄について心が張り裂けるような思いに駆られ、「あの人(国、事)を憐れんで下さい」と、何時間でも、何十時間でも、執り成しの祈りをするようになる。これは祭司として、長たる者として必要な霊であり、与えられるよう祈る必要がある。
また、祈りが出来ない人、人や事について思いが沸かない人も、この霊が与えられるように祈るべきだ。
6つ目は、「真理の霊」(ヨハネ14:17)である。これは、真理を理解し、識別する事のできる霊である。
世の人は、真理の御霊が無いため、主を知らないし、御言葉も理解できない。しかしイエス様を信じた人はこれを持っており、求めれば求める程、真理への造詣が深くなる。この霊に満たされた人は、御言葉の深い奥義に感動し、さらに満たされている人は、聖書の一節一節の中に、あたかも宇宙がまるまる入っているのではないかと思うくらいに感動する。これは、御言葉を伝える人は追求して行くべき霊である。
7つ目は、「栄光の霊」(1ペテロ4:14)である。 この霊に満たされた人は、人を見ず、状況を見ず、働きの労苦も見ない。圧倒的な天の栄光の素晴らしさを見るので、労苦も迫害も物ともせず、ただ主のために働き、主のために死ぬ事が、その人の唯一の願いとなる。ステパノは、御座に座しておられる栄光の主を見、栄光の霊に満たされ、彼に石を投げる人々を執り成しながら、御使いのような表情で殉教して行った。
霊にあって歩むなら、肉の行いをしなくなって行く。だから、肉のわざを我慢するより、御霊に満たされ御霊によって歩む事を求める方が遥かに有益だ。この神の霊によってこそ、私達の内側のでこぼこは平らにされ、御前に聖い花嫁として整えられて行く。神の霊に満たされ、主に恵みが増し加えられ、いのちに溢れ、神の子とされ、きよくせられ、執り成し祈り、ますます真理が開かれ、栄光の働き人となって行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
悪霊の性質と対処方法(エペソ6:10-18)
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週報/メッセージ(説教)概要
暫く悪魔・サタンなど、「敵」についての学びをしているが、今回はその中で「悪霊」について学びたい。
一般の人は、悪霊について、何も対抗できない超自然的力であるかのように恐れるが、キリスト者は恐れる事は無い。既に学んだ通り、悪しき者はキリストによって砕かれ、キリスト者より権威的に「格下」だからだ。
ただ、その者共が投げかけてくる偽りを信じこまされたり、あるいは自由意志を用いて敢えて「同意」してしまう時、その者どもが居座る足場を渡してしまったり、あるいは支配されてしまったり、という事はある。
悪霊は、単体で働く事もあるが、特徴として、人に憑くものである事が、聖書に記されている。
偶像礼拝や不実な事が盛んに行われている所で悪霊の働きは顕著であり、空しいもの、悪い事に心を向けたり執着したりする人に、悪霊は好んで入る。だから偶像礼拝をする人によく入っている。悪霊に憑かれた人の特徴は、ぼーっとしていたり、目があちこちに浮動したり、臭かったりする。真理が理解できず、場が読めなかったり、失礼であったり、恥知らずであったり、権威を侮ったり否定したり、秩序を壊したりする。
神によって生まれた方(キリスト)の囲いに入っている人は、悪しき者は触れる事は出来ない(1ヨハ5:18)が、ひと度キリストを信じ悪霊が追い出された人でも、その囲いを離れ、神の武具(救いの兜や義の胸当て、信仰の大盾など:エペソ6章)を身に着けず、依然として罪を犯し続けるなら、前よりもっと悪い状態になる。
救われた後、心を救いや義や信仰で満たさず、空き家状態にし、敢えて罪を犯し続けるなら、それは悪霊が好む飾り(コスメオー)となり、もっと質の悪い悪霊どもに入り込まれてしまうからだ。(マタイ12:38-45)
聖書には、色々な種類の悪霊が登場する。
邪悪な霊(evil spirit ルカ7:21)は、人を邪悪にする。良い事が行われている場を乱したり反対したり、調和を破壊したり、清いもの・聖なるものを汚したい衝動に駆られ、人を怒らせるツボを、巧妙に突いて来る。
また、汚れた霊(unclean spirit マルコ5章)は、人を汚なくする。心も体を洗わず臭っても平気であったり、汚物にまみれても平気であったりする。この霊に憑かれるなら、心も体も汚くなる。
また、偽りの霊、惑わす霊(foul spirit 1テモテ4:1、1ヨハネ4:6)は、偽りを言って人を混乱させ、真理から遠ざける。人は誰しも嘘をつくが、習慣的に嘘をつくと、この霊は好んでその人に入り、嘘が悪賢く、巧妙になって行き、最終的には虚言癖となって、誰にも相手にされなくなる。
また、ものを言えなくする霊(Dumb spirit マルコ9:17) は、言葉を伝えられなくする。確かに口の利かない人はいるが、この霊はことさら、御言葉や祈りなどの「真理」を言えなくさせる。真理を伝えなくてはならないここぞという時、悪霊追い出しの祈りをしなくてはならない時に、言葉を出させなくする。
趣味の事や物の金額や人の悪口はすらすら出てくるのに、御言葉や祈りとなると、頭が真っ白になるのだ。
これは、良い事にも黙っている人や、真理について「わたしにはできません」を言い続ける人が、陥り易い。
耳しいの霊(deaf spirit)は、ものを言えなくする霊とセットで(マルコ9:25)、真理を「聞かせない」ようにする。
実際に耳が聞こえない人はいるが、この霊はことさら、御言葉や祈りなどの「真理」を聞けなくさせる。
例えば、御言葉が語られている時だけ、強烈に眠気が襲い、眠ってしまう人は、まさにそれである。
確かに疲れていたり、一時的に注意が散漫になって聞けなくなる時はあるが、それを敢えて習慣的にしてしまうと、その霊に好まれ、霊に引っぱられてしまう。
また、聖書には「よく知っている霊」(占い・口寄せの霊:familiar spirit 1サムエル記28章)が出てくる。
占い師や口寄せは、普通人が知らない事を言い当てるが、それは、自ら進んでこのような悪霊と契約し接合したからであり、心身に変調を来してしまう。なお、彼らはキリスト者を恐れ、言い当てられなくなる。
また、惑わす霊(seducing spirit 1テモテ4:1) は人を惑わし、特に信仰者に働いて世のもの、お金や地位へと惑わし、真理から信仰から離れ去せてしまう。世のものをじっと見ると、惑わしの霊がついてしまう。
先にも書いた通り、これらの霊から守られるには、キリストの救いの囲いに入り続ける事であり、エペソ6章の霊的な防具で武装する事、すなわち、真理で、義で、平安で、信仰によって自分自身を満たす事である。
そして、攻撃する場合は、御霊の与える剣である神のことばを、信仰を混ぜつつ宣言する事である。
一切の悪しき者どもから守られ、信仰を混ぜた御言葉によって追い出し、神の御霊に満たされて平安と勝利の内に歩み続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
収穫感謝礼拝 肉に蒔く人と霊に蒔く人の子孫比較(ガラテヤ6:7-9)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日、収穫感謝祭は、主が与えて下さった大地の実りを感謝し、主を喜び祝う日である。
主は実に、色々な種類の実りを結ぶ木や草を創って下さり、それぞれには独特の性質や味、効能がある。
おりに叶った時期と場所に、見合った種類の種を蒔き、水をやり、よく手入れするなら、豊かな、良い実を結び、適切な時に収穫するなら、良き収穫物が手に入るが、あさってな時と場所に、見合わない種を蒔いても、また、水やりや手入れを怠っても、良い実りは結ばない。そして、適切な時期に収穫しないなら、せっかく結んだ良い実も、だめになってしまう。
私達は「神の畑」である、と聖書に書いてある。(1コリント3:9) 農夫たちは畑という限られた領域の中で、いかに有用な実を多く結ばせるかを考え、種を蒔き、水をやり、実ば結ぶまで日々努力し骨折っているのと同様に、私達も、この人生という限られた時間・領域・能力の中で、いかに有用な実りを結ばせるべきか、そのために、どこに何の種を蒔いてほねおるべきかをよく考え、そして実をむすぶまで努力べきである。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)
「肉」とは、神を除外した人間生来の考えや力、罪に傾く性質全般で、肉体が死ねば滅びる。
「霊」とは、神を知覚し交わる事の出来るいのちであり、それは肉体が死んでも存続する永遠のものである。
私達は肉に蒔くか、霊に蒔くか、そのいずれかに蒔いたものの実りは、自分自身が食べる事になる。
そればかりではない。私達が蒔いた種の実りは、周りの人達や、そして自分の子々孫々も食べる事になる。
何気なく蒔いた種が、実は後々の歴史に、雪だるま式に大きな影響を及ぼすものである。
今回、肉に蒔くか、それとも霊に蒔くか、その違いによっていかに大きな違いを後世に生み出したか、二人の人物の歩んだ人生と、その後の子孫達の有様から見て行きたい。
アメリカ・ニューヨークの社会学者が、父親が子どもと後の世代にどのような影響を及ぼすかを調査するために、二人の人物を選び、その子孫達がどうなって行ったかを追跡調査した。
調査対象に選んだのは、18世紀に生きた「マックス・デューク」、もう一人は「ジョナサン・エドワーズ」である。
マックスは、オランダからの移民で、大酒飲みの乱暴者で、妻ともども人生に主義主張のない人物だった。
もう一人、ジョナサンのほうはイギリスからの移民で、牧師で神学者であり、彼は同じ信仰を持った女性・サラと結婚し、二人は力を合わせ信仰生活を営んで行った。彼らはそれぞれの人生を歩み、子孫を生んで、それぞれの人生を全うした。年月が経って、彼らの8代目の子孫を調査した所、実に興味深い結果が出た。
マックス・デュークスの子孫は、計、1240人になった。彼らを調査すると、住所不定者が310名、窃盗常習者が63名、受刑者が130名、乳児死亡した子が300名、先天的異常者が400名、そして貧窮者が30名いたという事である。
一方、牧師として信仰生活を送ったジョナサンの子孫は、マックスの子孫とは全く異なっていた。
彼の子孫を男子に限って調査した所、8代で730人の男子がいた。マックスに比べるなら少ないかもしれないが、その内、大学総長になった人が16名、医者になった人が60名、大学教授が160名、裁判官が30名、軍人が76名、牧師・宣教師になった人は、300名、文学者になった人は60名、連邦議会の議員になった人が3名、弁護士になった人が110名、そして副大統領になった人が一人、という事である。
主は言われる。『わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:5-6)
マックスの子孫は、いかに多くなっても、彼らが主に憎まれる歩みをするなら、その呪いが子に、三、四代に及んでしまう。しかしジョナサンのように、御言葉に歩み信仰に歩むなら、子孫は祝福されるのだ。
人は、「神の畑」である。人の目では、どうしてもその人一代の人生しか見られないが、主は、人が何に種を蒔き、その子、孫、ひ孫へと、枝分かれ分化して行く様を見ておられる。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)ジョナサンのように、御霊に蒔き、子供たちを信仰と御言葉で教育し、子々孫々栄えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
大いなるお門違い者、サタン(ゼカリヤ3:1-5)
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悪魔(ディアボロス)は、元々、訴える者・告発・誹謗中傷する者である事を既に学んだが、悪魔のこの訴える性質と、それに対する主の配慮ついて、象徴的に描かれている場面が、ゼカリヤ3章に記されている。
『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。』(ゼカリヤ3:1) 大祭司ヨシュアは、イスラエルがバビロン捕囚から帰ってきた時の大祭司で、罪ゆえに落ちぶれてしまったイスラエルを、これから再建しようとしている時の中心メンバーの一人である。
ゼカリヤの幻の中でヨシュアがサタンに訴えられているが、実際的に、バビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民は神殿を再建している時、雑多な宗教を信じるサマリヤ人達に妬まれ、訴えられ、再建がストップしていた時期があった。(エズラ記4章) 彼らが時の王に訴えるために書いた訴状内容は、イスラエルの民は王に反逆するためにこの事をしている、実際、この町は反逆して来た歴史があり、この町が滅ぼされたのはそのためだ、調べればすぐに分かる、というものだった。(15節)
残念ながら歴史を紐解くと、イスラエルが反逆して来たのは、事実である。預言者エレミヤは、バビロンには手向かわずに、素直に連行されるよう預言したのに、時の王・エホヤキムも、その次のゼデキヤもそれを聞かず、バビロンに反逆し、結果、エルサレムの都は破壊し尽くされてしまった。(2列王記24章)
過去の悪い行いのゆえに、訴えられる口実を受けても、仕方がない、という事はある。謂れなき罪、ではなく、謂れある罪を持ちだされ、尊い礼拝やミニストリーの立直しが邪魔されたり中止してしまったりする事が。
そのような時は、ただ主の前にへりくだって悔い改め、御言葉を開いて導きを求めながら、主の御旨が明らかにされるまで忍耐するしかない。そして、主のゴーサインが出たなら、恐れなく御旨どおり行うべきである。
当時のイスラエルも、預言者ゼカリヤ達を通して「恐れる事なく神殿を再建せよ」という主の御旨が示された時、彼らは時の権力者や妨害者を恐れる事なく再建を始めた。結果、彼らは逆に時の権力者たちに支持され、神殿再建の費用礼拝のための経費も国庫から捻出され、反対者達は恥を見た。(エズラ記5-6章)
ゼカリヤに与えられた幻の中で、大祭司ヨシュアはサタンに訴えられていた。祭司は神と人との間に立っていけにえを捧げ、罪の清めをや執り成しを祈ったりする聖なる職であるが、彼は、よごれた服を着ていた。
人は誰でも、罪のとげが刺さっており、罪を犯しながら生きざるを得ない。それは大祭司も牧師も人間である限り同じであり、そしてもし、何かしらの罪の行いをするなら、訴える者に告発されても仕方がない。
そこで私達は全て、罪の身代わりとなって死んだ小羊キリストの血によって清められ、そのキリストにあって神の御前に立つ事が出来るのだが、ここで一つ、理にかなっていない事を指摘して置かなくてはならない。
なんで神の敵であるサタンが、大祭司ヨシュアを神に訴えようとして、ヨシュアの右に立っているのだろうか。
私達は罪を犯すゆえ、神に訴えられても仕方は無い。しかし、サタンが私達の右に立つような謂れも、サタンに訴えられるような謂れも、無い。主は、人ではなくサタンを訴えて下さる。主の御前にのこのこ出て行って、人をさばいたり、嘲ったり、中傷したりする者に対し、主は、おまえを咎めている!と。(ゼカリヤ3:2)
そもそもの話である。元々罪が無かった人間をそそのかし、人類全体に罪を導入するきっかけを作ったのは、誰だったか?母の胎に宿った時から罪ある者と定めされなくてはならない不条理を人間に導入したのも、神と人との間に立って執り成す祭司が汚れた服を着て御前に立つよう仕向けたのも、誰だったか?
そう、サタンこそ訴えられるべきである。人ではなくサタンを訴えた主は、非常に理に適っておられるのだ。
私達は自分の犯して来た罪や汚さを見て、自分はだめだ、と考えがちだが、本来主は、人を全く罪なく創られた。そこをサタンが壊してしまった。だから神様は、人を贖い救い出すご計画を立てられたのだ。
なぜ神様は、ひとり子イエス様の命を投げ出してまで、人を救おうとされたのか。
それは、神はひとり子をお与えになる程の価値ある存在として、人を創造されたからである。
どういうわけか、ひとり子の命を投げ出すまでの価値ある者として、神は人を、見なしている!
サタンは、大いなるお門違いを要求して来た。本来訴えられるべき加害者のサタンが逆に訴え、被害者であるほうの人間が逆に訴えられている。だから私達は、サタンを、イエス様の名によって訴えるべきだ。
御言葉の真理によって勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
十字架を嫌々ながらでも負う事でもたらされる祝福(マタイ27:32)
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この度も、コーヘン神学大学から多くの有益な学びを得た。今、主にある働き人達が世界でいかに福音を伝え、主ご自身がいかに世界各地で働かれておられるか、同時に、悪魔がいかに最後の悪あがきをしているかを知ることが出来た。そして、ヘブル思考による聖書の直接的学びからは、特に「行いを伴った信仰」の重要性を、マタイの福音書やハバクク書、ヤコブ書から学んだ。ルター達の宗教改革以来の500年、教会は信仰義認を全面的に出し、行いを伴った信仰と、それによる祝福を、ないがしろにして来た。
この、「信仰だけで救われる」という教えの無力さに行き詰まりを覚えているクリスチャンは多く、また、行いを軽んじて来たヨーロッパ教会の凋落ぶりも、激しくなって来ている。今回コーヘンで学んだ行いの信仰」の中から、特に、クレネ人シモンの行い、それも、嫌々ながらであっても十字架を負う事の祝福を学びたい。
『彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を「無理に:アンガレオー(徴用する、強制的に使役する。蛇足:韓国語でアンガレヨは「行きたくない」)」負わせた。 』(マタイ27:32)
イエス様は、ゴルゴダの丘の十字架刑場まで、最後まで十字架を負って行く事ができず倒れてしまった。彼は前の晩から、ピラトの前で、釘や石が仕込まれた鞭を打たれ、既に大量の血を流していたからである。
そこを、たまたま通りがかったクレネ人シモンが、ローマ兵の目にとまり、徴用(アンガレオー)されたわけである。彼は、田舎から出てきた(マルコ15:21)、黒人(使徒13:1)であったため、強靭そうに目えたのだろう。
シモンは突然、罪人の死刑道具である十字架を負わされ、彼の妻も、息子・アレキサンデルとルポスも、父そして夫が突然、このような事になってしまったのを見て、どうなるのかと泣きながらついて行った。
しかし、シモンの嫌々ながらのこの徴用(アンガレオー)は、彼と彼の家族に、多くの祝福をもたらした。
彼としては、誰とも知れない死刑囚の十字架を突然、無理矢理負わされ、とんだとばっちりだ、私は違います、一緒に行きたくない、と思ったかもしれない。しかし、この十字架を負っていたイエスという人と同行する内に、この人の趣きは、死刑に当たるような人ではない事に、むしろ、彼の聖なる品性に、気づいて行く。
彼には、大勢の女達が泣きながらついて来ている。イエス様の弟子達は一人残らず逃げてしまった為、無力な女だけが残って、十字架の後を従って来ていたのだ。そんな彼女達は、シモンに声をかけたであろう。
「本当に、ありがとう。」「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。」「でも、力が無いので出来なかった。」「イエス様の十字架を一緒に負ってくれて、本当にありがとう。」
ゴルゴダの刑場に至った時、シモンは十字架を降ろした。もはや即刻、家族と家に帰っても良かったはずだったが、彼も、彼の家族も、イエス様の十字架上の成り行きに釘付けになり、最後まで見守った。
群衆の罵声の中、彼らはイエス様の十字架上の7つの言葉を聞き、そして、彼が息を引き取った時に起こった色々な天と地のしるし(マタイ27:51-54)を見た。その時、百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言ったが、この時、シモンも、彼の家族も全員、イエス様を信じるようになった。
そしてイエス様の復活以降、彼らは家には帰らず、弟子達と共に120人の集い(使徒1:15)の中でペンテコステを迎え、共に聖霊を受けた。それから彼らは、主と共に生きようと決心し、家に帰って全ての財産を整理して、主のために生きよう、と、パウロと一緒にアンテオケに行く。使徒13:1を見ると、ニゲル(黒人)と呼ばれるシモンが、アンテオケ教会の指導的立場として、礼拝を導いている様が記されており、そして、シモンの息子・アレキサンデルは、クレネの牧会者になり、後の、使徒パウロの後任者になったそうである。
シモンがあの十字架を負ってから30年後、シモンの妻と子のルポスは、ローマ教会の指導者となっている。
シモンの妻は、パウロから「お母さん」とも呼ばれるようになった。 ロマ書16章13節で、パウロは記している。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」パウロに「母」と言わしめるからには、彼女はどれ程、パウロを祈り、パウロの応援者として霊肉共に支えて来た事だろう。
さらには、歴史家ヨセフスによると、彼の11代目の孫は、ローマ帝国においてキリスト教を自由にした、コンスタンティヌス皇帝であるとされている。これが、無理矢理に十字架を背負わされた祝福である。
今、嫌々ながらでも主の仕事をしている時、この内容を思い出すべきだ。たとえ強制的にであっても、後にはこんなにも大きな栄光があるのだ、と。シモンのように、今背負っている十字架によって、自分自身や家族に、子や孫に、大きな恵みをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!