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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

再建を邪魔する者への対処方法(ネヘミヤ4章)
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 今年に入り、天声教会設立当初にビジョンとして与えられたハガイ書から礼拝の再建について学んでおり、礼拝が再建された後は、ガードするための城壁の再建するべき事を、ネヘミヤ記から学んでいる。
ネヘミヤ達は、わずか52日で城壁を完成させたが、きょう、今年が始まって52日目である。私達の再建はどれ程進んでいるだろう。一日二日で終わらせられないような事でも、やってみれば意外とすぐに終わるのに、山積みの問題を見ると、やる気を失わせられてしまう。エルサレムはそうして何十年も防護壁が崩れ放題、きつねが出入りし放題だったが、私達は主にあって建て直しを進めるなら、すぐ建て直される。
今回のネヘミヤ4章を見ると、再建のわざは、何の妨げも無くとんとん拍子に進むわけではない事が分かる。
人がより健やかに、より主に向き合うようになる事を、歯ぎしりして嫌がる敵、すなわちサタンがいるからだ。
サタンに同意する人もまた、人が健全になるのを邪魔する事には、エネルギーを惜しまないものだ。
礼拝の再建、人生の再建をしようと取りかかった時、それを邪魔する者が現れる事は、しっかり想定しておき、それが現れた時には、いかに対処すべきかを、このネヘミヤ4章から学びたい。

『サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。・・・「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか。自分で再興しようとするのか。犠牲をささげようとするのか。』(1-2)
彼らはちょうど、人が働く気を起こし行動し出した所の気持ちをくじく。
私達も、自分の崩れてしまった人生や性格を建て直そうとする時、礼拝を再建しようと働き出す時、敵は非常に憤慨してあざけり、1日ではとても片付けられないような、瓦礫のような有様にフォーカスさせて、やる気を失せさせたり(2節)、あるいは、せっかく頑張っても、たった一匹のきつねが来ただけで、何もかも台無しにされてしまうかのように思わせ(3節)、働かなくても良いという「なまけ心」を巧妙に引き起こさせる。
敵の気落ちさせる口撃が来た時、ネヘミヤは祈って主に直訴した(4-5節)。私達も敵の攻撃の第一陣、すなわち、言葉で失意させる矢が飛んできたなら、それは自分で受けずに、そのまま主に持って行って訴え祈るたしなみを身につけたなら、それで城壁は半分まで修復したも同然だ(6節)。

そうして再建が進んで行くと、敵はさらに怒りを燃やして、邪魔しに来る(8-9節)。そればかりでなく、身内からもマイナス感情に囚われて「できない」という言葉をかけてくる(10節)。私達も、健やかになる事や人生が建て直される事、礼拝が再建される事で「できない」という言葉が発される時、我に返るべきだ。
そのような時、ネヘミヤは家族ごとにそれぞれ武器を持たせて言う。「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい。」(14)
神の家の再建は、自分だけの戦いでなく、兄弟姉妹と共同の戦いである。御言葉の剣を握りしめ、恐れている心の人を助け合い、支えあって、将来のため、息子、娘たちのために戦うのだ。
私達の側が共に力をあわせて、徹底抗戦する様を敵が見る時、敵は、そのたくらみを止めるのだ。(15節)

敵が妨害を止めたからと言って、ガードを解いてはならない。ネヘミヤ達はその日以来、半分の人は工事につかせ、半分は武装させ、片手で工事し片手に武器を執った(16-17節)。
また、角笛を吹く人、すなわち、常に見張って、もしもの時には警告を吹き鳴らす人を置いた。(18節)
そのように、敵が退けられたと見える時でも、城壁が完成するまではガードを解いてはならない。
ネヘミヤ達が城壁の破れの大きい所に、武装した人を配置させたように、私達も、自分の中で、攻め込まれ易い弱い所がある事は、正直に認め、そこが建て直されるまでは、いつでも角笛を吹き鳴らして助けを求められる体制を、兄弟姉妹の間で整えるのだ。これを続けていくなら、立て直しはもっと進んでいく。
私達も御言葉の剣を常に帯びて仕事をする気概が大事である。武器を片手に、道具を片手に工事をするなら、仕事がはかどらないと思うかもしれないが、逆である。敵は、私達が剣を帯びている様を見るなら、攻撃を仕掛けられないもので、敵に邪魔される事なく、嘲られず、かえって仕事がはかどるのだ。
私達も、御言葉の剣をいつも口から手放さず、昼も夜もそれを口ずさむなら、水路の傍に植わった木のように、何をしても栄えるのだ。気落ちさせようとする敵に決して屈しず、御言葉によって互いに建て上げ合い、再建を進めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

チームワークとしての再建のわざ(ネヘミヤ3章)
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天声教会の節目にあたる今年に入り、教会設立当初にハガイ書から与えられたビジョンである「礼拝の再建」を中心に学んで来た。神殿の再建が始まって以降、主は祝福を返して下さる事を約束されたが、ハガイの時代、神殿のあるエルサレムの都の城壁は、ネヘミヤの時代まで、破壊されたままだった。
城壁が崩されたまま、という事は、敵は出入りし放題、邪魔され放題、分捕られ放題である。
ネヘミヤはその状態を憂いて悲しみ、主に祈った結果、主は彼の祈りを聞かれ、彼が仕えていたペルシア王を動かし、彼をエルサレムの総督に任命して、城壁を再建する者として遣わされた事を、前々回見た。
私達も立て直す事を決心するなら、もはやそれが阻害されないようにするため、「城壁」を再建する必要がある。今回、再建を始めたネヘミヤ達がどのように仕事を進めて行ったのかを、ネヘミヤ記3章から学び、私達もどのように再建を進めて行くべきかの指針を得たい。

『かくて大祭司エリアシブは、その兄弟である祭司たちと共に立って羊の門を建て、これを聖別してその扉を設け、さらにこれを聖別して、ハンメアの望楼に及ぼし、またハナネルの望楼にまで及ぼした。』(1節)
ネヘミヤの呼びかけに最初に応答して仕事を始めたのは大祭司で、彼らが真っ先に再建したのは「羊の門」、すなわち神殿の間近に位置する所だ。最も優先的にガードすべきは、神殿、すなわち礼拝である。
再建を始める時、敵がほぼ邪魔しに来る事を、前々回学んだが、最も邪魔しようとするのは、礼拝である。
まずは、礼拝を邪魔するあらゆる思いや考え、習慣、あるいはそのような人を取り扱うべきである。
また、この章では合計10の城門があるが、門は出入りする所で、最も攻撃にさらされやすい所である。
神殿、すなわち礼拝の次にガードするべきは、門であり、私達がガードすべき「門」とは、耳、目、口である。
インターネットや人の噂話など、世から聞こえて来るもの、見えてくるものの出入りをしっかり管理するべきであり、人の言葉などにいちいち傷ついたり煩わされたりする事がもはや無いよう、イエスの血を塗って清め、傷つきやすい状態を、修復するのだ。
「人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。」(箴言12:14)とある通り、唇からは悪い言葉を出す事なく、昼も夜も、御言葉を口ずさむべきである。それをするなら、水路のそばに植わった木のように、時が来れば実がなり、しおれる事なく、何をしても栄える。(詩篇1篇)

ネヘミヤ3章は、誰々が何処を修理し、次に誰々が何処を修理した、という記述が続くが、再建のわざは、チームワークである。工事に関わった人達は色々な職種があり、祭司(1)、金細工人(8,31,32)、香料作り(8)、レビ人(17)、商人(31,32)、また、娘達と一緒に建て上げた父親もいた(12)。
力のあるなしに関わらず、実に多彩な人達がこれに当っている。主の働きの建て上げも、同じキリストを頭とする多彩な人達によるものであり、主は彼ら一人ひとりに、異なった賜物を与えられた。(1コリント12章)
彼らは工事については素人ではあったであろうが、エルサレムの城壁は、彼らによって築かれたように、この教会も、工事についてはほぼ素人の、色々な職種の人達と、その娘達による手弁当の工事によって、諸々のものが作られた。人は何かと、自分のプロフェッショナリティや、常識に基いて判断し、自分で限界を設けてしまう所があるが、主の仕事において重要な事は、自分の何かではなく、主からの召命である。
自分にこれこれの準備が整えられたら、これこれの学識や技術を身につけてからにしよう、と思いながら先延ばしにしていると、結局、何も出来ないまま、いたずらに時を過ごしてしまうという事が、ありがちである。
ちょうど、バビロン捕囚から帰還した民が、城壁を建て直しもしないまま、何十年も過ごしてしまったように。
私達は、自分の力や能力に頼って、主のわざを成せるものではない。全てを満たして下さるキリストに繋がってこそ、有益な実りを結ばせられるのだ。(ヨハネ15章) 『教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。』(エペソ1:23)
優れた人になろうとする努力も大事だが、それよりも大事な事は、すべてのものを、全てのものによって満たす御方、キリストにより頼み、彼に求め、聞き従う事である。それをするなら、私達には到底できないような、また、到底考えも及ばなかったような事を、彼にあって、為す事が出来るのだ。私達はキリストのからだ、であり、互いがそれぞれ器官である。私達のかしらであられるキリストに繋がり、互いに建て上げられ、成長し合って行く皆さんであり、そしてこの教会でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

天声とは(2ペテロ1:16-21)
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 天声キリスト教会設立のビジョンが与えらて15年目、この会堂での礼拝が始まって10年目、この教会にとって節目にあたる今年に入って以来、設立当初に与えられたビジョンについて見ているが、今回はこの教会の名前である「天声」とは、いかなる意味であるのか、について見ていきたい。

今までホームページに記して来た通り、天からの声とは、父なる神の御声、すなわち御言葉、それは「ことばは人となって私達の内に宿った」(ヨハネ1:14)という、御言葉なるキリストであり、三位一体の主である。
聖書には、天から声がした事の記事が幾つか示されているが、いずれの場合も、ある特別な人だけが聞くような、出処元の分からないものではなく、その声を聞いた誰もが「天」からのものとハッキリ分かる「神の声」であり、その内容はイエス・キリストこそ救い主であり、生ける神の御子である事を明示するものである。
例えば、イエス様がバプテスマを受けられた場面では「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)と言っている。 また、イエス様が弟子達の前で栄光の姿に変わった場面では、天の声は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」(同17:4)と言っている。だから私達は、その天の声に従い、御言葉なるキリストに「そのまま聞く」教会として今日まで歩み続けているのだ。

聖書の時代、天の声は、その場で聞いた人の誰もが、出処元が神である事がハッキリ分かったが、現在、神の言葉は「聖書」として、誰もが手にする事が出来、信じる・信じないは別として、出処元が神である事は、誰もが聞いている所だ。では、その天の声である御言葉に対し、私達はどのように接するべきなのか。
第二ペテロの手紙で、ペテロはイエス様が栄光の姿になられた場面を述懐し(1:16-18)、この天の声により、預言の言葉は一層、確実なものになった、と言った。「夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」と言っている。(同19-20)
私達は、聖書のことばは、分からない事だらけだ。もし聖書は全部分かる、などと言う人がいれば、ちょっと疑ったほうが良い。聖書の言葉は霊の書物であり、わからない人には、とことん分からない。
使徒パウロが、主からの召命を受ける場面では、パウロは、天からの声の内容は明確に理解できたのに、同行していた人達は、「声(フォネー:ノイズとも訳せる)」は聞こえても内容は理解できなかった。(使徒9:7)
福音も聖書の言葉も、ある人にとっては救いをもたらす神の力だが、ある人にはノイズに過ぎないのだ。
では、その分からない聖書と、どう付き合えば良いのだろう。どうすれば「わかる」のだろう。まず、聖書の言葉が分からない時に、「してはならない事」は、「自分勝手に解釈」する事だ。聖書の言葉は「心の中を照す」ものであり、その時まで「目を留めている」事が、御言葉への正しい作法である。(2ペテロ1:19)
御言葉が心を照らす時、不安だった心に、決して揺るがない平安が与えられ、心配だった将来に希望がもたらされる。例えば、聖書の「恐れるな」という言葉を聞いてもなお恐れがあるなら、光は照らされていない状態であり、その言葉を受けて、恐れが消えた、というなら、光が照らした、という事だ。
これは人の理屈や、たくみに考え出されたものでもない。ただ上から与えられ、照らされたもの、すなわち、聖霊によって運ばれて来たものである。『なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に「感じ(φερομενοι:運ばれ;担がれ)」、神によって語ったものだからである。 』(21節) つまり預言は、人の解釈や人の定めた一定法則に拠ってはならず、聖霊の促しによって読み解くものだと書いてある。
では聖霊とは何だろう。それは、イエスを証し(ヨハネ15:26)、イエスを栄光化する霊である。(同16:14)
霊の声を聞いて啓示を受けた、と言う人がいる場合、その霊をためすと良い。人となって来たイエス・キリストを告白する霊は神からのものであるが、イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではなく、それこそ反キリストの霊である(1ヨハネ4:1-3)。預言の霊は、イエスのあかしである。(黙示録19:10)
御言葉を開く時、旧約も、新約も、私達を救う主・イエス・キリスト、この御方を中心に据えて読む時、分からないものが見えて来る。律法も預言書も、全てイエスについて書かれてあるからだ。(ルカ24:25-44)
だから、この天声キリスト教会は、ホームページも、礼拝も、どこを切っても、御言葉とイエス様しか出てこないのであり、人間的ビジョンは一切見出だせないのだ。この天の声すなわち父なる神の御声、御言葉なるキリスト、聖霊によって導かれ歩み続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

長年出来なかった再建を開始するために(ネヘミヤ1-2章)
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天声教会設立のビジョンが与えらて15年、この会堂での礼拝が始まって10年目、当教会にとって節目にあたる今年、当初のビジョンに帰り、再建すべき礼拝とは何であるのかを、今年に入ってから学んでいる。
前回はハガイ書2章から、神殿の礎を据えた日、すなわち礼拝を中心とする生活を決心した日から後をよく考えよ、その日の前はどうだったか、それに比べ、その日以降はどうなったか、カレンダーに印をつけて比較せよ、という事を、示された。皆さんは、礼拝を中心とした日々をキープできているだろうか?
せっかく悔い改め、心を入れ替えて新しく生きようと決心しても、一日、二日経つ内に決心が薄れ、三日目で怠けてしまい、それ以降は怠け癖がついてしまって、1週間後には、完全に前の生活、前の生き方に戻ってしまっている、という事が、霊的生活では、ありがちである。
この「怠け癖」が身に沁みてしまっている人、思慮に欠けてしまっている人の畑は、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれている状態だ。(箴言24:30-31)
分かってはいても、染みこんでしまった怠け癖や思慮の無さから脱出する事は、困難である。そこで今回、長年出来なかった礼拝の再建を開始する術を、城壁を立て直す名人・ネヘミヤから学びたい。

ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」である。彼はハガイと同じく、バビロン捕囚後のイスラエル再建に貢献した。彼は元々、ペルシア王アルタシャスタに仕える献酌官だったが、エルサレム城壁が崩されたままである事を聞いた時、彼は憂いて泣き、主に憐れみを祈った。(ネヘミヤ1章) 彼が祈った所、主の憐れみを受け、王の許しと援助を得て総督となった。彼こそ、エルサレム城壁の再建を指揮し、建て直した人である。
彼が総督に任命されて帰国の許可を得たのは、紀元前445年と言われている。バビロン捕囚が終わったのは紀元前537年なので、捕囚が終わって後の92年、誰も城壁を建て直す人がいなかった、という事だ。
誰かがいつかしてくれるだろう、と誰もが思っていて、結局92年も、城壁は放ったらかしにされていた、という事だ。まさに次の状態である。『「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それ故、貧しさは盗びとのようにあなたに来、乏しさはつわもののように、あなたに来る。』(箴言24:33-34)
城壁とは、身を守る防護壁であり、自分の領域と外との境界線である。皆さんの人生の城壁はどうだろう。
人生の城壁が崩されてしまった人の特徴は一言、「受け身」であり、悪しき者が出入りし放題でも、なされるがまま、嘲られ、卑しめられ、ぶん取られても、それが悪い状態だと気づかず、むしろ自分はお人好しな、善良な人であるかのように勘違いしている人もある。主の尊い器が蹂躙されている状態は、全く良いものではない。まさに箴言24:30以降にある通り、いらくさやあざみに覆われ、石垣は崩されてしまった状態だ。
建て直しはまず、ネヘミヤのように、そのような状態を悲しみ、祈る感性を持つ所からである。

長年崩されていた石垣を建て直そうとする時、大体、それを邪魔する者が現れる。(ネヘミヤ2:10)
それは、城壁が崩されたままの方が、分捕り放題出来て、都合良しとする「外部の敵」であり、あるいは内部の、特に現状のままのほうが善良であるかのように意見し反対する人である。なぜ彼らが反対するか。
それは、建て直しをしてしまったら今までそれをしなかった自分の怠慢さが浮き彫りにされてしまうからだ。
だからネヘミヤは事を起こす時まで、ごく一部の人を除いて誰にも公開せず、密かに行動した。(11-16節) 
そうして全てを裏で整えてから、皆に再建に取り掛かる事をあかし、また、王の後ろ盾もある事もその時明かし、皆を奮い立たせたため、誰からも反対を受けずに、皆で仕事に取り掛かる事が出来た。
『ところがホロニびとサンバラテ、アンモンびと奴隷トビヤおよびアラビヤびとガシムがこれを聞いて、我々をあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
外部の敵は、あたかも、再建が悪い事であるかのように言う。あたかも自分達が違反しているかのように。
しかしその時、神の国の価値観に立つべきだ。神の国の価値観は、いのちの建て上げを良しとし、礼拝の建て上げを良しとする。それに反する事の方が、永遠なる御方に背く事なのだ。ネヘミヤは御国の価値観に立って、堂々と言った。「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない。」(ネヘミヤ2:20)
私達も彼のように、いのちのために、礼拝のために、天の神である主を後ろ盾につけて、宣言するのだ。
そしてもはや、長年留まっていた荒れ放題の様から脱却し、人生と礼拝の再建を開始するべきだ。

直接イエス様に触れ、聖められよ(ハガイ書2:10-19)
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天声設立のビジョンが与えられて15年、現会堂が与えられて10年目の節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、ハガイ書から見ている。
前回の箇所の預言がなされて3ヶ月後、神殿の礎が据えられた。その日再び主の言葉がハガイに臨んだ。
「人がその衣服のすそで聖なる肉を運んで行き、そのすそがもし・・・どんな食物にでもさわったなら、それらは聖なるものとなるか』と」。祭司たちは「ならない」と答えた。」(12節) レビ記6章に解答がある。
罪のためのいけにえを主の御前でほふる時、それを捧げる祭司は、それを幕屋の庭の聖なる所で食べなくてはならないのだが、「すべてその肉に触れる者は聖となる」(同27節)と記されている。
つまり、罪のためのいけにえの肉に直接あずかる人が聖となるのであって、それを運んだ衣のすそに触れた人も聖となるのか、と言うと、「否」である。聖とされるのは、真の罪のいけにえとなって下さったイエス様へ直接触れる人であって、イエス様にあずかった「人」に触れても、何もならない。教会の催しや人に何年も関わっていたとしても、その人自身がイエス様に直接関わっていないなら、全然清められない訳である。

「ハガイはまた言った、「もし、死体によって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」。祭司たちは「汚れる」と答えた。」(13節) この問の答えは、民数記19章に記されている。全て人の死体に触れる人は、所定の通りに清めの水で洗われない限り、汚れており、その人に触れる人も夕方まで汚れる。
「汚れ」は、伝搬するものである。イエス様は特に、人の口から出てくるものが、人を汚す、と言われた。
「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがす」。」(マコ7:20-23)
すなわち、世の口論や、貪欲に由来する言葉、愚痴や噂話などに浸されるなら、思いが汚されるのであり、イエス様の御言葉の清めにあずからなくてはならない。「汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。」と、先の民数記19章に記されており、主はそのような汚れた人が捧げる捧げものは忌み嫌い、その者達の聖会は耐えられない、と言われる。(イザヤ1:13)

主はハガイを通して、主の宮をおろそかにしたままの状態は、まさにそうだった、と言われた。
実際、主の宮の礎が据えられる前は、収穫は、期待の半分以下だった。(ハガイ2:14-16)
イエス様に直接行かず、世の言葉の中で右往左往し、汚れたまま御言葉で清めないでいるなら、期待の収穫は望めない。しかし主は、主の宮の土台石を据えたこの日の後の事を、心に留めよ、と言われる。
『種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(18-19節)
ユダヤ暦のこの時期は、太陽暦の12月に当たる。種はもう納屋には無く、蒔いた種も、実を結ばないまま冬に突入してしまった。状況としては絶望であるが、主は、はっきりと言われた。主の宮の礎を据えた今日から、後のことを考えよ、と。この日から、あなた方に恵みを与える、と、自信をもってはっきり言われた。

礼拝の建て直しと清めは個人個人のものであり、教会に頼りっぱなし、働き人に頼りっぱなしのものでない。
もし「汚れ」の自覚があるのなら、あるいは期待した収穫が望めない状況であるなら、長血の女が自分からイエス様の所に行き、信仰をもって手を伸ばしてイエス様の衣のふさに触れたように、自分からイエス様に進み行って、信仰をもってイエス様に手を伸ばすべきである。(マルコ5:25-34)
彼女は12年も長血を患い、律法上汚れた者として、12年も礼拝に参加できず、人から触れられず苦しんで来たが、多くの医者にかかって全財産を費しても、何のかいもないばかりか、ただ悪くなる一方であった。
ところが唯一、罪汚れをキャンセルさせて下さる御方、イエス様に手を伸ばし、彼女は全てが癒やされた。
お金も、世の言葉も、世の知恵も、罪に対し、汚れに対し、大地や経済の実りに対し、何の力も持たない。
実りも、金銀も、癒しも、天地に満ちているものも、全て主のものである。この主に、自ら個人的に進み行き、手を伸ばし、関わりを持ってこそ、全ての回復につながるのだ。私達が主を礼拝する土台を据えるなら、今日から後の事を考えよ、と言われる。礼拝の土台を据え、全ての面で豊かにされる皆さんでありますように!

主の宮の栄光とは(ハガイ書2:3-9)
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ハガイ書から天声教会の設立のビジョンが与えられたのは15年前の2001年だった。そして今のこの会堂が与えられ、礼拝が始まったのは、10年前の2006年だった。ちょうど節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに立ち返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、聖書から見ていきたい。

『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。』(ハガイ2:3) 
この「以前の栄光に輝く主の家」とは、ソロモンの時に建てられた神殿である。その神殿は豪華絢爛で、神殿の内面は全て、純金で覆われ、量り切れない程の青銅が用いられ、器物も全て豪奢なものだった。
しかしそれらは全て異邦人によって荒らされ、破壊され、金銀も器類も全てバビロンに奪われてしまった。
そうして70年を経て後、神殿は再び立て直されて行くのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、後の有様を見て大声で泣いた。以前のような栄光はなくなってしまったと。(エズラ3:12)
しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)

神殿の栄光とは、一体何だろう。教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
彼は言う。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。
だから、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり、人を多く動員して事業を拡大する事に心血を注ぐ事よりも、ダビデのように心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛する事へと心血を注ぐべきなのだ。

「勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。」(4-5節) これは、主を愛し、主を敬い、主のからだを建て上げるために山に登り、木を運んで働く働き人たちに対する言葉である(1:8)。 主は彼らに対し「恐れるな」「勇気を出して働け」と言われる。
なぜなら、共にいて、働いて下さるお方は、万軍の主であり、彼の霊が私達の内に宿って下さるからだ。
主イエス様は、彼の命令を抱いて守る人と共にいて栄光を現す、と言われた。『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」』(ヨハ14:20-21) 

主はいま一度、天と地と、海と陸とを揺り動かし、全ての国々を揺り動かして、全ての国々の宝物をこの宮にもたらし、この宮を栄光で満たす、と言われる。なぜなら、『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。』(ハガイ2:6-9) 金は主のものであり、銀も主のものであり、主はそれらのもので豊かに満たす事は、簡単におできになる。だから外見的な豪華絢爛さよりも、何より、主を愛し求めるべきだ。
しかし私達は、金銀が欲しいから主を愛するのではない。金銀に遥かに勝るいのちを主は投げ打ってまで愛して下さったからであり、主は私達に、罪のゆるしと、永遠のいのちと、神の御前に大胆に出る事が出来る愛の関係を回復させて下さった。この御方の栄光で満ちる事をこそ、私達は仰ぎ求めるべきなのだ。
主の栄光を豊かにあらわすために用いられていく皆さんであり、教会でありますように!

本来あるべき「礼拝」の再建(ハガイ書1章)
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横浜天声キリスト教会が礼拝を始めたのは、2006年からだった。当初は建物は無く、開拓メンバーが場所を間借りして礼拝を行ていたが、その年の4月末に現会堂が与えられ、5月連休からほぼ手作りと手弁当による工事を始め、6月18日、工事が完了し、翌19日にこの会堂で初の正式な礼拝が捧げられた。
当初は日本人は一人もおらず、大人九名と子供三人、韓国教会のメッセージテープによる礼拝であった。
今年、この会堂での礼拝が始まって10周年に当たるが、天声教会設立のビジョンが与えられたのは、もっと遡る事、2001年であった。2001年1月10日、開拓者・川合働き人にハガイ書の御言葉が与えられた。
ハガイ書は主に、神殿を再建しなさいという主の命令であるので、与えられた当初は教会を再建する事と思って祈っていたが、御心を求めて行く内、再建するのは教会よりもむしろ「礼拝」であると分かって来た。
すなわち、教団や教派などに見られるような「既存のキリスト教会システム」の仕組みの支配下にある「既存の教会」を、もう一つ新しく建築するという事ではなく、本来あるべき「礼拝」の再建である。
それが分かったのが2006年の事であった。こうして、既存のしきたりや既定の概念から離れ、ただ「天」からの「声」のみを聞いて歩む、「天声教会」の模索と建設が、そして礼拝の歩みが始まったのだ。この会堂が発足して10年目を迎えたこの時、このビジョンに戻り、再建するべき「礼拝」とはいかなるもので、どのように歩んで行くべきか、そして礼拝を建て上げて行くなら、どこへ行き着くのかを、暫く見ていきたい。

礼拝をおろそかにすると、どんな生活が待っているか。ハガイ書はそこから始まる。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。』 ハガイ書は、主の宮が荒れ果てている状況と、それに引き換え、人々は自分の家を快適に建てあげる事に奔走している様を指摘し、「よく考えよ」と言われる。多く蒔いても取り入れは少なく、飲み食いしても満たされず、着ても温まらず、お金を稼いでも穴の空いた財布に入れるようなものではなかったのか、と。
人は多くを望んでも、得たものは少なかった。主がそれらを吹き払ったからだ。なぜ主は吹き払われるか。
「これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。」(9-10節)
「わたしの家」「主の宮」は、礼拝する所である。もし私達の内の「宮」がおろそかにされているなら、すなわち、礼拝の心が破綻し、主への恐れ敬いが無いなら、穴の空いた財布に入れるような生活なのだ。
聖書で「礼拝」と訳されている語は複数あり、ヘブライ語のシャーハーは「平服する、おじぎする(ギリシア語:ゴニュペテオー)」、シャーラスは「仕える」、アーバドゥは「奉仕する(ギリシア語:ラトゥレイア)」である。
神である主を第一にし、主の御前に身を低くし、主に仕え、主のわざをする。それが礼拝である。
主が第一であるはずの所を、自分を第一にし、主の前に低くなるべきなのに自分を高め、主に仕えるべきなのに、世と自分に仕える。それは「本末転倒」の生き方であり、物事はどんどん悪くなって行くのだ。

「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」
具体的な行動から始めよ、と主は言われる。礼拝は、「主のため」という動機を心に握りつつ、床から身を起こし、足を踏み出すその一歩から始まる。どんなに立派な宮を建て、どんなに立派な教団に属しても、礼拝者の心がおろそかだと、何にもならない。ソロモンは、贅を凝らした神殿を建築したのに、後の時代、異邦人に破壊され汚されてしまった。主は、礼拝をする「人」の心こそ重んじられ、人に宿られるからだ。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリ3:16)
この教会は、栄光の「礼拝」を回復するように、というビジョンの元に建てられた。すなわち、主イエスを宿した「働き人」という「生きた神殿」を建て上げ、輩出して行くための教会として、使命が与えられている。
それは、自分の家のために奔走するのではなく、キリストのからだを建て上げるために主の山に登り、木を運んで働く人達である。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」
実際に今、天声はそのような働き人達が増え、自分の家よりもこの宮にいる事を愛し、主と交わり、主を思い、主のために働く働き人が不在となった日は、ここ数年、一日たりとも無い。そのような教会は、日本に他にあるだろうか。今、この国の霊的状況は暗澹としており、真に「礼拝」を建て上げる働きを必要としている。
そのために豊かに用いられていく皆さんであり、この教会でありますように!

起きよ光を放て(イザヤ60:1-3)
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『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。』(イザヤ60:1)
古い年が終わり、新しい年へと改まった。新しい歩みをして行くのに相応しい時である。
主は言われる。「起きよ」「光を放て」と。 聖徒はいつまでも横たわっていたり、埋もれているわけにはいかない。起きて、暗闇の世に光を放っていくべきだ。主は言われた。「あなたがたは、世の光である。・・・あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)
「起きて光を放つ」とはすなわち、それぞれの「枡の下」から出て、「燭台の上」という持ち場へ着き、良い行いをして世界の中で輝き、人々がそれを見て、神である主をあがめる事だ。

私達が為す「良い行い」とは、私達が「これが良い行いだろう」と考え編み出してする類のものではない。
私達は元々、罪の中に死んでいた者達であって、主の御心に適った「良い行い」を知らない者、頑張ってあがけば、あがく程に罪を撒き散らすような者であったが、主は大きな憐れみと恵みによって救って下さり、キリスト・イエスにあって共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さり、神の手による作品として新しく創り出された。そんな私達に、良い行いをもあらかじめ主が備えて下さったのである。(エペソ2:1-10)
それ故、主が新たに私達を創られたままに、主が備えられた良い行いを為して行けば良いのである。
具体的に主が備えられた良い行いとは、御言葉に書いてある通りである。食物や着物を主から豊かに与えられている人は、持たない人に分けてあげ、役職が与えられた人は、人を脅したりだまし取ったりせず、自分の給与で満足する事(ルカ3:10-14)。また、妻は夫を敬って服し、夫は妻を命よりも大切にして守り、子は何事につけ両親に従い、主に置かれた立ち位置の正統な権威関係を守る事だ。(コロサイ3:18-21)
バプテスマのヨハネは、悔い改めて正しく歩むよう、人々に叫んだが、そのように、悔い改めの涙を流し、改めて生きようとする人には、主の通られる道が整えられ、世を照らすまことの光が来て下さり、主の光を輝かせるようになるのである。主は、砕かれたたましい、悔いた心の人に、やさしく声をかけて下さる。

当教会では大晦日の夜、長い祈りをもって過ごし、今までの罪を告白して悔い改め、主イエス様が十字架上で為して下さった素晴らしい贖いに涙しつつ年を終え、新年の最初の時は、初物として主に捧げた。
悔い改めの涙を流した聖徒達の顔はとても美しく、主がこの聖徒達を大切に愛し喜んでおられる様を見た。
「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。」(雅歌2:10-12)
主は、ひたすら主の御前にひれ伏す「冬」の季節と、悔い改めの涙を流す「雨」の季節を通って来た聖徒に、「もうその季節は終わったよ、さあ、出ておいて」と呼びかけられる。
「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(14節) 主は「はと」と呼びかけて下さっている。

鳩はその鳴き声から、うめく鳥と言われているが、悔い改めうめく聖徒に主は優しく呼びかけて下さるのだ。
さらに主は、あなたの顔を見せ、あなたの声を聞かせなさい、と言われる。悔い改めた私達は、起きて、光を放つ準備が整えられているのだ。すなわち神の前に出て、賛美の歌声を響かせ、人の前に出て、主の栄光を輝かせるのだ。そしてさらに、この光を放つ状態、実りを実らせる状態をキープする必要がある。
「われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」(15節) 小狐は、花ざかりの時に来て荒らし、実を実らせないようにする。その目的は、ただ荒らし、実らせない事だ。私達は「小狐」を、かわいいねと言って変にちやほやしたり、あなどったりしてはならない。
花婿が「ぶどう園を荒す小狐を捕えよ」と言っているように、小狐は捕らえる責任が、私達の側にあるのだ。
悔い改めを嫌がらせる狐、正しい行いや、正しい権威関係を妨げる狐、主の光を放つ事を妨げる狐は、どんなに小さくても捕らえて火に投げ込み、主に対しては豊かに花を咲かせ、実りを実らせるべきだ。
このように妨げ無く、世に対して光を放ち、国民や王達を照らしていく皆さんでありますように!

赤ちゃんとなられた御言葉であるキリストに会えた人達(ルカ2:1-38)
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12月24日が過ぎると、世間はクリスマスの音楽や飾りが取り払われ、代わりに正月に向けての飾りがつけられ、今までの1、2ヶ月の間、クリスマス一色だった町の雰囲気が一気に変わり、クリスマスとは一体何だったのだろうかという、一種の虚しさが漂うこの時期であるが、私達は敢えてこの時期、クリスマス(クライスト+ミサ:キリストの礼拝)に目を留め、主イエスキリストがこの世に来られた事の、喜びと感謝を表したい。

『彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。』(ルカ2:6-7)
イエス様がお生まれになった時期は、ちょうど皇帝の住民登録せよという勅令が出た時で、普段は過疎状態のベツレヘムも、人がいっぱい押し寄せる”混雑期”と重なり、宿屋は既に彼らが泊まる部屋が無かった。
イエス様は馬小屋で生まれたというイメージが強いが、聖書には馬小屋で生まれたとは書かれておらず、ただ「飼葉おけ」というキーワードが出てくるだけである。馬は戦争に使う貴重な動物なので、ベツレヘムにはいなかったと考えられており、むしろ、牛やロバ等の家畜が、その飼葉桶から食べていた可能性が高い。
平和の動物が食べる食べ物の器に宿って下さったキリストは、私達の口に入る食物となって下さったのだ。
また当時、ユダヤでは家畜を岩山の斜面の洞窟で飼っており、イエスが生まれたのは洞窟のなかであった可能性が高いそうだ。なお、飼い葉桶と訳された語「ファテネー」は、日本でイメージする飼葉桶のような木箱ではなく、箱型の枠台や、岩の床に掘った溝のようなものである。
想像して欲しい。洞窟の中に、細長い布切れにくるまれ、岩の床に寝かされている、物言わぬ子。まさに埋葬されたキリストの姿と重なる。キリストの埋葬の時、イエスの母マリヤと、アリマタヤの”ヨセフ”が遺体に布を巻いたが、キリストの誕生の場面、キリストを岩窟に寝かし、布にくるんだのも”マリヤ”と”ヨセフ”である。
御使いは羊飼い達に、「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある幼子」が「あなた方のためのしるし」であると言ったが、その幼子の有様はまさに葬られたキリスト、私達にとっても「救い主」のしるしである。
幼子キリストは、私達の身代わりとなって死ぬために、この世に来られた。彼の”身代わりの死”によって、私達が代わりに生かされるため。その彼をこそ、私達もほめたたえ、礼拝するのである。
「屠られた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい」(黙5:12)

この、布にくるまって岩窟に寝かされたキリストを訪ねて来たのは、東方の博士たちと、羊飼いたちだった。
主は実に、仕切りの無いお方である。その主がお生まれになった所は、何の仕切りも無く、誰でも、どんな身分の人でも、どんな国の人でも、訪ねて来る事が出来る。
博士たちはとても高貴な身分であった、と言われているが、そんな彼らが主にまみえる幸いにあずかれたのは、彼らは「天を見上げ」て主のしるしを見逃さなかったからであり、生まれたばかりの赤ちゃんを前にしても、ひれ伏して拝む「へりくだった姿勢」と、また、尊いものを「捧げる姿勢」があったからだ。
羊飼いたちが、天の御使い達のお告げを受けて、主の栄光の美しい輝きと、賛美の歌声にあずかれたのは、彼らは羊を、すなわち、誰も面倒を見たくないような愚かで汚い羊を育み、守り、養っていたからだ。
彼らが養っている羊達は、人の食用に、あるいは衣服に用いられ、そして、主に捧げる礼拝に用いられる。
羊飼いは人口調査の対象にはならず、一人の人として認められていなかったようだが、それでも弱く愚かな、そして主に捧げられるべき羊達を、暗闇の中でも誠実に番をしていた。そんな彼らに御使い達が現れ、救い主の誕生を知らされたように、私達も今、闇の時代において、人の世に役に立ち、主に捧げられるべき羊達を養うなら、主は輝かしいおとずれで御旨を告げて下さる。
正統なユダヤ人の中で、幼子イエス様と出会う恵みに与れたのは、イスラエルが慰められ救われるのを待ち望んでいた人達に対してだった。シメオン(「聞く(シャマー)」が名前の意味)は、正しい信仰深い人で主に聞く心のある人であった故に、聖霊の導きによって、イエス様を腕に抱く特権に与れた。
またアンナは、ただ主にだけ望みを置いて宮を離れず、夜も昼も断食と祈りとをもって神に仕えていた。
このような人々が、小さく赤ちゃんとなられた神の子イエス様に、相まみえる特権にあずかれたのだ。
赤ちゃんとなられた、御言葉なるイエス様を、ヨセフとマリヤのように私達もしっかり抱いて離さず、守りぬき、暗闇の世において光の内に導かれていく皆さんでありますように、イエス様の名によって祝福します!

時の初まりから用意されていたキリストのおとずれ(ルカ1:67-79)
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アドベントもいよいよ第4週となり、4つの火が灯った。アドベントにろうそくを灯すのは、永遠の昔から神によって定められていた「世を照らすまことの光であられるキリスト」を覚えるためだ。今回、神がどれほどの熱心をもって人類を救おうと、そのご計画を立てておられたのか、ヨハネの父ザカリヤの賛歌から見てみたい。

「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。」(ルカ1:68-69) バプテスマのヨハネの父、祭司ザカリヤは、息子ヨハネが生まれた時、御使いによって閉ざされていた口が開き、聖霊に満たされ、主を喜びたたえた。
この有名な賛歌は「ベネディクトゥス(ラテン語で「祝福があるように」の意)」と言われているが、彼が喜び称えたのは、老齢でやっと子が誕生したからではない。この賛歌の主人公は、神と、救い主キリストである。
なぜ彼は喜び称えたか。それは、神は、その民を「顧み(見舞う、よく探す)」、「あがない(買い戻し)」をして下さったからである。主がその民を顧みて、買い戻しをして下さる事は、遥か昔から預言されていた。
『古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。』(70-71) この「古くから(apo aionos)」は「今まで続いている一連の”時”の、一番始まりから」を意味し、主は人類を憎む敵から救い出す事を、時の初まりから、ご計画されていた。まことに神は、天地の造られる前から、私達をキリストにあって選び、御前にきよく傷の無い者となるように、愛をもって、あらかじめ定めておられたのである。(エペソ1:3-5)

私達を憎む敵は、サタンであり、サタンは私達が愛されている事を歯ぎしりして憎み、神から離れさせようと、エデンの園でそそのかし、人類に罪と死を導入させてしまった。
主は、人に罪と死が導入されてしまって以来、人類を贖い出すため、遥か昔から手を打っておられた。
キリストの降誕が、一番最初に預言された箇所はどこか、ご存知だろうか。アダムとエバによって罪と死が人類に導入されたのは創世記3章6節であるが、そこから10節も数えぬ「創世記3章15節」からである。
エバが蛇にそそのかされ、禁じられていた実を食べてしまった時、神が蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と言われた、その所だ。
人類の贖いのために重要なキーパーソンが、賛歌の中で登場する「僕ダビデ」と「父祖アブラハム」である。
主は、人類全体はアブラハムの子孫によって祝福に入る事を約束され(創世記15:1-6)、アブラハムの子孫・イスラエル民族へと託した律法によって、神の基準を明示し、さらに降って、僕ダビデから永遠に続く一つの家、一つの王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、こうして主は、時代から時代へと、世代から世代へと通して語り継げ、贖いの計画を整え、満を持して、ダビデの末からキリストが生まれたのだ。

『幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、罪のゆるしによる救を/その民に知らせるのであるから。』(76-77) ゼカリヤは、老年にしてやっと得た自分の息子に自分の名をつけ自分の思い通りに育てたいとは思わず、主に示された通り「ヨハネ」と名付け、遠大なる主のご計画に従い、彼が主の道を整える事に用いられる事を喜んでいる。 その彼の役割は、悔い改めによって主の道を整え、アダム以来問題であった罪のゆるしによる救いを告げ知らせる事である。

『これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう。』(78-79)
イザヤも告げている。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・ひとりのみどりごがわれわれのために生れた・・・そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め・・・万軍の主の熱心がこれをなされる。」(イザ9:2-7)
クリスマスというと、夜、暗闇の中に光がぴかぴかと光るイメージがある。時の初めもまた、暗闇であった。
しかし主が「光よあれ」と言って光を創造し、無味な混沌から、命が輝く秩序へと、創り変えられて行った。
キリストこそ世を贖うまことの光であり、このお方が暗闇の世界にプレゼントされた日を祝うのが、クリスマスである。このクリスマスが救いの喜びに溢れる皆さんでありますように、イエス様の名によって祝福します!

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