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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

男と女はいかに歩んで行くべきか(マタイ2:13-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

御使いが乙女マリヤに現れ、御心を示された場面は有名だが、マリヤがヨセフと結婚して以降、御使いはもっぱらヨセフにだけ現れて言葉を伝え、ヨセフはそれを妻に伝え、妻はそれに従う、という形となった。
マリヤとヨセフ両方には現れず、敢えて夫ヨセフだけに現れ、この一家全体を導いたのには、理由がある。
権威には順序があって、妻(女)のかしらは夫(男)であり、夫(男)のかしらはキリストなのだ。(1コリント11:3)
救い主メシヤを、幼少から成人に至るまでを任されたこの男女は、この権威関係を正しくキープし続けた。
それに引き換え、アダムとエバ夫婦はことごとく自分の「かしら」に逆らった故、人類に罪と死を導入した。
アドベントも第3週に入りクリスマスが近づく今、男女はいかに歩んで行くべきか、聖書から改めて学びたい。

神は自然界を創造した後、男を女より先に創られた。神は土を御手でこねて人を形づくり、その鼻に息吹(霊)を吹き入れ、こうして神の似姿である人が創られ、全被造物の支配は、彼に委ねられた。その全被造物の有様は極めて良かったが、神が唯一良くないと言われた事があった。それは「人がひとりでいること。」
人は、ひとりでいると欠けがあるもので、寄り添って生きるように創られている。
主は男に深い眠りを与え、あばら骨を一つ取ってそこをふさぎ、その骨を元に女を創られた。全てのものは土が元となって創られたが、唯一、人間の女だけは、男の骨を元として創られたのだ。女は男を元にして男のために造られた。それで男は、女のかしらである。これが、聖書が示す所である。(1コリ11:7-12)
しかし昨今、それに相逆らう価値観が沸き起こっている。男性も女性も平等な存在で、男性は支配せず、女性も積極的に独り立ちすべきだ、という考え方は、サタンに由来する。サタンは神の支配から独立し、神と他の存在との平等を主張し、自らを一個の独立した神のような存在になろうとした。本来、男も女も、かしらが必要である、というのが神の摂理だが、サタンの主張は真逆で、自分がかしらとなって支配しようとする。
だから、性差別を無くし男と男、女と女の性嗜好も許されるという考えは、サタン由来の忌み嫌うべきものだ。
神は元々、人を男と女とに創られ、そして人は元々、神と共に生きるように創られた。それで人は、聖書を知らなくても、生まれつきになぜか神を求め、男は女を求め、女は男を求めるようになっている。
互いが互いを必要とし、互いが互いを求め合う存在であるのは、神がそのように創られているからだ。

主はまず男を創られ、そのあばら骨の一つから女を創りあげられた。つまり女性が元々いた所は男性の脇腹である。だから女性は、男性の腕の下にかばわれている時、もっとも安心する。本来の居場所だからだ。
女性は男性の覆いに包まれ、保護の下にいる事を望む。それは正しい姿だ。雅歌書の花嫁は、花婿は彼女にはりんごの木のようで、その陰に座りたいと切に望み、彼女の上に翻る旗じるしは愛であると言った。
『どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。』(雅歌2:6)
ルツもボアズに、『どうぞあなたの衣(布団)の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方(ゴエル:買い戻しの権利のある親類)です。』と願った。(ルツ記3:9)
女性が男性の陰に宿る事が欲求であり必要であるように、人は全て、全能者の陰に宿る事が必要である。
私達はそのままでは欠けがある。だから、私達を絶やさぬよう、買い戻して下さる方・キリストが必要なのだ。

女性が男性を求めるように、男性も、主が創られた助け手である女性を求めるものである。元々一本の骨だったエバが、主の御手で整えられてから、アダムの所へ連れて来られた時、アダムは、はなはだ喜んだ。
イザヤ62章で主はイスラエルを「わたしの喜びは、彼女にある。」(ヘプシバ)と呼ばれ、「夫のある国」と呼ばれるだろう、と言っている。『花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:5)
花婿は花嫁を喜ぶものであり、未婚の男性が、その喜び・慰めである花嫁を得たいと求めるように、キリストも、花嫁である教会が整えられ、完成し、ご自身の御腕の中に迎え入れるのを、望んでおられる。
花嫁が迎え入れられるのを待ち望んでいるように、キリストも待っているのだ。花嫁が、整えられるのを。
私達は、整えられるための努力を、しているだろうか。イエス様に嫁ぐ花嫁修業をせず、ただ漠然と待っていないだろうか。主がいつ来ても良いように、ともし火と共に、油も用意しているだろうか。(マタイ25:1-13)
男女の性が乱れている今、男性は女性のために、女性は男性のために、そして、私達は全て、キリストのために自らを整え、相手にとって喜びとなる皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

栄光のみどり児を委ねられた夫婦の成り立ち(マタイ1:18-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

クリスマスが近づくと、世間は華やいで来るが、クリスマスの主人公であるイエス様の誕生の次第と、それに関わった人達の成り立ちは、あまり華やいだものではなかった。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ…一瞬で口ずさんでしまえるこの一文の陰に、実はイエス様の母マリヤとその夫ヨセフの、想像を超えた試練と苦悩の思い出が、そして、信仰の高貴さと、信仰により勝利した栄光の思い出がつまっている。

乙女マリヤは、優しい信仰者の夫・ヨセフとの結婚が決まっていて、貧しいながらでも、ささやかな幸せを胸に膨らませながら、婚約の期間を過ごしていた。そんなある日、突然御使いが現れ、告げられる。
これからあなたは身篭り、男の子を生む。しかもその子は永遠に支配する王である、と。(ルカ1:26-38)
結婚を控えている微妙な時期に、子を身籠る事は、世間からの追求もさる事ながら、何より、愛するヨセフがどんな反応をするか、大いに懸念される所だ。律法に従えば、結婚前に姦淫を犯した女は石打、それを免れても、ヨセフに見放されるなら、姦淫の子持ちの女として再婚も叶わず苦しい人生が待っているだろう。
「神にとって不可能な事は何一つ無い…」彼女は、この僅かな御使いとのやり取りで、大胆な決心をする。
「お言葉どおり、この身に成りますように・・・。」 彼女は、自分の都合、自分の善悪は全て降ろし、ただ、神のことばを優先したのだ。結婚も、夫も、世間も、将来も、全部、主にゆだねて。夫ヨセフはどうだったか。

婚約者マリヤは、自分の知らぬ間に身篭っている。男性なら、非常に怒り、悩み、落ち込む所である。
ねたみに駆られて、石打の求刑も出来ただろうし、払った花嫁代を全額返済してもらい、公に離縁して、別の女性との結婚を一からやり直す事もできたろう。しかし、彼が選んだのは、ひそかな離縁だった。
ヨセフは、彼女を愛した故に苦しんだが、真実であろうとした。それで、ひそかな離縁を選択したのだ。
そうこう思い悩んでいる所に、御使いが現れる。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1:20-21)
ヨセフもまた、主の御言葉に従った。ユダヤ社会から冷ややかに「結婚前に身篭った夫婦」と後ろ指をさされる一生を恐れず、この、自分の血が流れていない特別な子を、守り、養い、育てようと、決心したのだ。

彼ら夫婦はこのような性質、すなわち自分の善悪判断、将来の心配は一切降ろし、ただ主の御言葉に従う性質だったからこそ、救い主キリストの育ての親となる栄誉を勝ち取り、人類全体に救い主を導入したのだ。
それに対しアダムとエバ夫婦は、御言葉ではなく自分の感覚を優先し、子々孫々に呪いを残してしまった。
妻は、主でも夫でもなく、蛇(サタン)の言う事に耳を傾け、従う。さらには夫を操って過ちに陥れる。夫も自分の過ちを棚に上げ、妻のせいにして突き放す。これが、いさかいと争いに満ちた呪いの生き方である。
主にある夫婦のスタンダードは、次のものである。
『妻たる者(ギュネー:成人女性)よ、(自身の)夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。』(コロ3:18) 夫婦への命令は、新約に3箇所出てくるが、いずれも「妻」に対する命令から初まり(エペソ5章,コロサイ3章, 1ペテロ3章)、いずれも「夫(アネア:成人男性、将来の夫)」に従いなさい、という点が、夫より先に命じられている。従うとはフーポタッソー、軍隊用語で、自分を下位に置く、服従させる事だ。
これは女性差別以前の話で、主が創造の初め以来定められた権威の順序であり、従うなら幸いを得る。
では、男性は得なのか?得というより、男性のほうが責任重大である。エバの失敗に対し主はアダムを責められ、サラの失敗に対し主はアブラハムを責められた。『夫たる者よ、妻を「愛し(アガパオー:命よりも大切にし)」なさい。「つらくあたって(ピクラノー:苦々しい思いにさせて)」はいけない。』(コロサイ3:19) 
男性は、女性を愛する事、それも、自分の命より大切にする事が、命じられている。女性は男性の保護下にあってこそ、安心できるものであり、男性は、女性に敬われてこそ、力を得るものである。
このようにしない夫婦は、アダムとエバのように、自分自身に、そして子々孫々に呪いをもたらしてしまう。
しかし、マリヤとヨセフのように、主の言葉に従順し、夫は妻を責めたりせず守り、妻は夫がたとえ「今晩エジプトに逃げよう」と言ってもそれに従順する程であるなら、より多く任され、尊い命を任されるようになる。
マリヤとヨセフのように、素晴らしい男女となり、素晴らしい結婚生活が出来る皆さんでありますように!

神の霊の現れと性質(イザヤ40:3-5)
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本日より、待降節(アドベント)に入る。現代、アドベントというと、クリスマスまでのカウントダウンのようなイメージもあるが、元々の意味は、主の「到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事であり、やがて来るべき再臨の主の「到来」を待ち望む事もまた、アドベントの時に覚え祈るべき事である。
私達はいか主の到来を待ち望むべきか。荒野で呼ばわる者の声は、叫ぶ。「主の道を整えよ」と。
主が通られ、私達の内に来られるために、険しい山谷のような性質が、平野のようにならされる必要がある。
今、まことの花婿キリストの到来を前にして、私達キリスト者はキリストの花嫁としてバージンロードを整えるような日々であるが、この「整え」は自分だけで出来るものではない。神の霊の力添えによって可能である。
私達は、この神の霊(聖霊、御霊に同じ)のどんな働きによって整えられていくのか、今回、神の霊の7種類の現れを学び、私達はどのような面において特に助けが必要で、求めるべきなのかを、学んで行きたい。

神の霊のまず第一は、「恵みの霊」(ヘブル10:29)である。「恵み(カリス)」には元々、「優しさ、思いやり、親切、恵み、恩恵、愛顧」などの意味があり、特にキリストの救いの無償である事を強調する語である。
聖霊により、カリスが各々に授けられると「賜物(カリスマ)」となって、各々に御霊の固有な現れが起きる。
主は、優しく思いやりに溢れた恵みの霊により、無償の愛と恩恵と、賜物とを恵んで下さり、生来の悪い性質から聖なる者へと贖い出して下さった。この、恵みの御霊をあなどるとするなら、重い刑罰が待っている。
2つ目は、「いのちの霊」(ローマ8:2)である。私達はキリストにあって歩み続けるなら、いのちの霊の法則が発動され、罪と死の法則から解放されている。(ローマ8:1-2) この霊の働きによって罪と死から解放され、泉のようにこんこんと湧き上がるいのちが川となって流れだし、死の海さえも、いのちに溢れて行く。
3つ目は、「神の子とする霊」(ローマ8:14-16)である。 私達は以前は神の子らしくなく歩んでいた。
罪を犯し、父から勘当され切り離されたかのような歩みをしていたが、神の子とする霊は、私達がキリストにあって神の子であると証し、この霊によって私達も、神を「お父さん(アバ、父)」と親しく呼ぶ事が出来る。
子であるなら、キリストと共に共同相続人であり、計り知れない富が、子とする霊によって与えられた。
4つ目は、「きよくする霊」(詩篇51:10)である。 ダビデは栄光と富と力が満ちた時、姦淫と殺人の汚れた思いに満たされ、そこを主に指摘された時、祈った。自分に清い心をつくり、揺るがない霊を新しくして下さい、と。私達も俗悪な思いに満たされ、聖なる歩みが頓挫してしまった時や、習慣的な罪を止められない時等は、ダビデのように、きよい心をつくり、揺るがない霊を自分の中に新しくして下さい、と祈るべきだ。
5つ目は、「執り成しの霊」(ゼカリヤ12:10)である。この霊が注がれると、国や人、事柄について心が張り裂けるような思いに駆られ、「あの人(国、事)を憐れんで下さい」と、何時間でも、何十時間でも、執り成しの祈りをするようになる。これは祭司として、長たる者として必要な霊であり、与えられるよう祈る必要がある。
また、祈りが出来ない人、人や事について思いが沸かない人も、この霊が与えられるように祈るべきだ。
6つ目は、「真理の霊」(ヨハネ14:17)である。これは、真理を理解し、識別する事のできる霊である。
世の人は、真理の御霊が無いため、主を知らないし、御言葉も理解できない。しかしイエス様を信じた人はこれを持っており、求めれば求める程、真理への造詣が深くなる。この霊に満たされた人は、御言葉の深い奥義に感動し、さらに満たされている人は、聖書の一節一節の中に、あたかも宇宙がまるまる入っているのではないかと思うくらいに感動する。これは、御言葉を伝える人は追求して行くべき霊である。
7つ目は、「栄光の霊」(1ペテロ4:14)である。 この霊に満たされた人は、人を見ず、状況を見ず、働きの労苦も見ない。圧倒的な天の栄光の素晴らしさを見るので、労苦も迫害も物ともせず、ただ主のために働き、主のために死ぬ事が、その人の唯一の願いとなる。ステパノは、御座に座しておられる栄光の主を見、栄光の霊に満たされ、彼に石を投げる人々を執り成しながら、御使いのような表情で殉教して行った。

霊にあって歩むなら、肉の行いをしなくなって行く。だから、肉のわざを我慢するより、御霊に満たされ御霊によって歩む事を求める方が遥かに有益だ。この神の霊によってこそ、私達の内側のでこぼこは平らにされ、御前に聖い花嫁として整えられて行く。神の霊に満たされ、主に恵みが増し加えられ、いのちに溢れ、神の子とされ、きよくせられ、執り成し祈り、ますます真理が開かれ、栄光の働き人となって行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

悪霊の性質と対処方法(エペソ6:10-18)
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暫く悪魔・サタンなど、「敵」についての学びをしているが、今回はその中で「悪霊」について学びたい。
一般の人は、悪霊について、何も対抗できない超自然的力であるかのように恐れるが、キリスト者は恐れる事は無い。既に学んだ通り、悪しき者はキリストによって砕かれ、キリスト者より権威的に「格下」だからだ。
ただ、その者共が投げかけてくる偽りを信じこまされたり、あるいは自由意志を用いて敢えて「同意」してしまう時、その者どもが居座る足場を渡してしまったり、あるいは支配されてしまったり、という事はある。
悪霊は、単体で働く事もあるが、特徴として、人に憑くものである事が、聖書に記されている。
偶像礼拝や不実な事が盛んに行われている所で悪霊の働きは顕著であり、空しいもの、悪い事に心を向けたり執着したりする人に、悪霊は好んで入る。だから偶像礼拝をする人によく入っている。悪霊に憑かれた人の特徴は、ぼーっとしていたり、目があちこちに浮動したり、臭かったりする。真理が理解できず、場が読めなかったり、失礼であったり、恥知らずであったり、権威を侮ったり否定したり、秩序を壊したりする。
神によって生まれた方(キリスト)の囲いに入っている人は、悪しき者は触れる事は出来ない(1ヨハ5:18)が、ひと度キリストを信じ悪霊が追い出された人でも、その囲いを離れ、神の武具(救いの兜や義の胸当て、信仰の大盾など:エペソ6章)を身に着けず、依然として罪を犯し続けるなら、前よりもっと悪い状態になる。
救われた後、心を救いや義や信仰で満たさず、空き家状態にし、敢えて罪を犯し続けるなら、それは悪霊が好む飾り(コスメオー)となり、もっと質の悪い悪霊どもに入り込まれてしまうからだ。(マタイ12:38-45)

聖書には、色々な種類の悪霊が登場する。
邪悪な霊(evil spirit ルカ7:21)は、人を邪悪にする。良い事が行われている場を乱したり反対したり、調和を破壊したり、清いもの・聖なるものを汚したい衝動に駆られ、人を怒らせるツボを、巧妙に突いて来る。
また、汚れた霊(unclean spirit マルコ5章)は、人を汚なくする。心も体を洗わず臭っても平気であったり、汚物にまみれても平気であったりする。この霊に憑かれるなら、心も体も汚くなる。
また、偽りの霊、惑わす霊(foul spirit 1テモテ4:1、1ヨハネ4:6)は、偽りを言って人を混乱させ、真理から遠ざける。人は誰しも嘘をつくが、習慣的に嘘をつくと、この霊は好んでその人に入り、嘘が悪賢く、巧妙になって行き、最終的には虚言癖となって、誰にも相手にされなくなる。
また、ものを言えなくする霊(Dumb spirit マルコ9:17) は、言葉を伝えられなくする。確かに口の利かない人はいるが、この霊はことさら、御言葉や祈りなどの「真理」を言えなくさせる。真理を伝えなくてはならないここぞという時、悪霊追い出しの祈りをしなくてはならない時に、言葉を出させなくする。
趣味の事や物の金額や人の悪口はすらすら出てくるのに、御言葉や祈りとなると、頭が真っ白になるのだ。
これは、良い事にも黙っている人や、真理について「わたしにはできません」を言い続ける人が、陥り易い。
耳しいの霊(deaf spirit)は、ものを言えなくする霊とセットで(マルコ9:25)、真理を「聞かせない」ようにする。
実際に耳が聞こえない人はいるが、この霊はことさら、御言葉や祈りなどの「真理」を聞けなくさせる。
例えば、御言葉が語られている時だけ、強烈に眠気が襲い、眠ってしまう人は、まさにそれである。
確かに疲れていたり、一時的に注意が散漫になって聞けなくなる時はあるが、それを敢えて習慣的にしてしまうと、その霊に好まれ、霊に引っぱられてしまう。
また、聖書には「よく知っている霊」(占い・口寄せの霊:familiar spirit 1サムエル記28章)が出てくる。
占い師や口寄せは、普通人が知らない事を言い当てるが、それは、自ら進んでこのような悪霊と契約し接合したからであり、心身に変調を来してしまう。なお、彼らはキリスト者を恐れ、言い当てられなくなる。
また、惑わす霊(seducing spirit 1テモテ4:1) は人を惑わし、特に信仰者に働いて世のもの、お金や地位へと惑わし、真理から信仰から離れ去せてしまう。世のものをじっと見ると、惑わしの霊がついてしまう。

先にも書いた通り、これらの霊から守られるには、キリストの救いの囲いに入り続ける事であり、エペソ6章の霊的な防具で武装する事、すなわち、真理で、義で、平安で、信仰によって自分自身を満たす事である。
そして、攻撃する場合は、御霊の与える剣である神のことばを、信仰を混ぜつつ宣言する事である。
一切の悪しき者どもから守られ、信仰を混ぜた御言葉によって追い出し、神の御霊に満たされて平安と勝利の内に歩み続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

収穫感謝礼拝 肉に蒔く人と霊に蒔く人の子孫比較(ガラテヤ6:7-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

本日、収穫感謝祭は、主が与えて下さった大地の実りを感謝し、主を喜び祝う日である。
主は実に、色々な種類の実りを結ぶ木や草を創って下さり、それぞれには独特の性質や味、効能がある。
おりに叶った時期と場所に、見合った種類の種を蒔き、水をやり、よく手入れするなら、豊かな、良い実を結び、適切な時に収穫するなら、良き収穫物が手に入るが、あさってな時と場所に、見合わない種を蒔いても、また、水やりや手入れを怠っても、良い実りは結ばない。そして、適切な時期に収穫しないなら、せっかく結んだ良い実も、だめになってしまう。
私達は「神の畑」である、と聖書に書いてある。(1コリント3:9) 農夫たちは畑という限られた領域の中で、いかに有用な実を多く結ばせるかを考え、種を蒔き、水をやり、実ば結ぶまで日々努力し骨折っているのと同様に、私達も、この人生という限られた時間・領域・能力の中で、いかに有用な実りを結ばせるべきか、そのために、どこに何の種を蒔いてほねおるべきかをよく考え、そして実をむすぶまで努力べきである。

「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)
「肉」とは、神を除外した人間生来の考えや力、罪に傾く性質全般で、肉体が死ねば滅びる。
「霊」とは、神を知覚し交わる事の出来るいのちであり、それは肉体が死んでも存続する永遠のものである。
私達は肉に蒔くか、霊に蒔くか、そのいずれかに蒔いたものの実りは、自分自身が食べる事になる。
そればかりではない。私達が蒔いた種の実りは、周りの人達や、そして自分の子々孫々も食べる事になる。
何気なく蒔いた種が、実は後々の歴史に、雪だるま式に大きな影響を及ぼすものである。
今回、肉に蒔くか、それとも霊に蒔くか、その違いによっていかに大きな違いを後世に生み出したか、二人の人物の歩んだ人生と、その後の子孫達の有様から見て行きたい。

アメリカ・ニューヨークの社会学者が、父親が子どもと後の世代にどのような影響を及ぼすかを調査するために、二人の人物を選び、その子孫達がどうなって行ったかを追跡調査した。
調査対象に選んだのは、18世紀に生きた「マックス・デューク」、もう一人は「ジョナサン・エドワーズ」である。
マックスは、オランダからの移民で、大酒飲みの乱暴者で、妻ともども人生に主義主張のない人物だった。
もう一人、ジョナサンのほうはイギリスからの移民で、牧師で神学者であり、彼は同じ信仰を持った女性・サラと結婚し、二人は力を合わせ信仰生活を営んで行った。彼らはそれぞれの人生を歩み、子孫を生んで、それぞれの人生を全うした。年月が経って、彼らの8代目の子孫を調査した所、実に興味深い結果が出た。
マックス・デュークスの子孫は、計、1240人になった。彼らを調査すると、住所不定者が310名、窃盗常習者が63名、受刑者が130名、乳児死亡した子が300名、先天的異常者が400名、そして貧窮者が30名いたという事である。
一方、牧師として信仰生活を送ったジョナサンの子孫は、マックスの子孫とは全く異なっていた。
彼の子孫を男子に限って調査した所、8代で730人の男子がいた。マックスに比べるなら少ないかもしれないが、その内、大学総長になった人が16名、医者になった人が60名、大学教授が160名、裁判官が30名、軍人が76名、牧師・宣教師になった人は、300名、文学者になった人は60名、連邦議会の議員になった人が3名、弁護士になった人が110名、そして副大統領になった人が一人、という事である。

主は言われる。『わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:5-6)
マックスの子孫は、いかに多くなっても、彼らが主に憎まれる歩みをするなら、その呪いが子に、三、四代に及んでしまう。しかしジョナサンのように、御言葉に歩み信仰に歩むなら、子孫は祝福されるのだ。
人は、「神の畑」である。人の目では、どうしてもその人一代の人生しか見られないが、主は、人が何に種を蒔き、その子、孫、ひ孫へと、枝分かれ分化して行く様を見ておられる。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)ジョナサンのように、御霊に蒔き、子供たちを信仰と御言葉で教育し、子々孫々栄えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

大いなるお門違い者、サタン(ゼカリヤ3:1-5)
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悪魔(ディアボロス)は、元々、訴える者・告発・誹謗中傷する者である事を既に学んだが、悪魔のこの訴える性質と、それに対する主の配慮ついて、象徴的に描かれている場面が、ゼカリヤ3章に記されている。
『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。』(ゼカリヤ3:1) 大祭司ヨシュアは、イスラエルがバビロン捕囚から帰ってきた時の大祭司で、罪ゆえに落ちぶれてしまったイスラエルを、これから再建しようとしている時の中心メンバーの一人である。

ゼカリヤの幻の中でヨシュアがサタンに訴えられているが、実際的に、バビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民は神殿を再建している時、雑多な宗教を信じるサマリヤ人達に妬まれ、訴えられ、再建がストップしていた時期があった。(エズラ記4章) 彼らが時の王に訴えるために書いた訴状内容は、イスラエルの民は王に反逆するためにこの事をしている、実際、この町は反逆して来た歴史があり、この町が滅ぼされたのはそのためだ、調べればすぐに分かる、というものだった。(15節)
残念ながら歴史を紐解くと、イスラエルが反逆して来たのは、事実である。預言者エレミヤは、バビロンには手向かわずに、素直に連行されるよう預言したのに、時の王・エホヤキムも、その次のゼデキヤもそれを聞かず、バビロンに反逆し、結果、エルサレムの都は破壊し尽くされてしまった。(2列王記24章)
過去の悪い行いのゆえに、訴えられる口実を受けても、仕方がない、という事はある。謂れなき罪、ではなく、謂れある罪を持ちだされ、尊い礼拝やミニストリーの立直しが邪魔されたり中止してしまったりする事が。
そのような時は、ただ主の前にへりくだって悔い改め、御言葉を開いて導きを求めながら、主の御旨が明らかにされるまで忍耐するしかない。そして、主のゴーサインが出たなら、恐れなく御旨どおり行うべきである。
当時のイスラエルも、預言者ゼカリヤ達を通して「恐れる事なく神殿を再建せよ」という主の御旨が示された時、彼らは時の権力者や妨害者を恐れる事なく再建を始めた。結果、彼らは逆に時の権力者たちに支持され、神殿再建の費用礼拝のための経費も国庫から捻出され、反対者達は恥を見た。(エズラ記5-6章)

ゼカリヤに与えられた幻の中で、大祭司ヨシュアはサタンに訴えられていた。祭司は神と人との間に立っていけにえを捧げ、罪の清めをや執り成しを祈ったりする聖なる職であるが、彼は、よごれた服を着ていた。
人は誰でも、罪のとげが刺さっており、罪を犯しながら生きざるを得ない。それは大祭司も牧師も人間である限り同じであり、そしてもし、何かしらの罪の行いをするなら、訴える者に告発されても仕方がない。
そこで私達は全て、罪の身代わりとなって死んだ小羊キリストの血によって清められ、そのキリストにあって神の御前に立つ事が出来るのだが、ここで一つ、理にかなっていない事を指摘して置かなくてはならない。
なんで神の敵であるサタンが、大祭司ヨシュアを神に訴えようとして、ヨシュアの右に立っているのだろうか。
私達は罪を犯すゆえ、神に訴えられても仕方は無い。しかし、サタンが私達の右に立つような謂れも、サタンに訴えられるような謂れも、無い。主は、人ではなくサタンを訴えて下さる。主の御前にのこのこ出て行って、人をさばいたり、嘲ったり、中傷したりする者に対し、主は、おまえを咎めている!と。(ゼカリヤ3:2)

そもそもの話である。元々罪が無かった人間をそそのかし、人類全体に罪を導入するきっかけを作ったのは、誰だったか?母の胎に宿った時から罪ある者と定めされなくてはならない不条理を人間に導入したのも、神と人との間に立って執り成す祭司が汚れた服を着て御前に立つよう仕向けたのも、誰だったか?
そう、サタンこそ訴えられるべきである。人ではなくサタンを訴えた主は、非常に理に適っておられるのだ。
私達は自分の犯して来た罪や汚さを見て、自分はだめだ、と考えがちだが、本来主は、人を全く罪なく創られた。そこをサタンが壊してしまった。だから神様は、人を贖い救い出すご計画を立てられたのだ。
なぜ神様は、ひとり子イエス様の命を投げ出してまで、人を救おうとされたのか。
それは、神はひとり子をお与えになる程の価値ある存在として、人を創造されたからである。
どういうわけか、ひとり子の命を投げ出すまでの価値ある者として、神は人を、見なしている!
サタンは、大いなるお門違いを要求して来た。本来訴えられるべき加害者のサタンが逆に訴え、被害者であるほうの人間が逆に訴えられている。だから私達は、サタンを、イエス様の名によって訴えるべきだ。
御言葉の真理によって勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

十字架を嫌々ながらでも負う事でもたらされる祝福(マタイ27:32)
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この度も、コーヘン神学大学から多くの有益な学びを得た。今、主にある働き人達が世界でいかに福音を伝え、主ご自身がいかに世界各地で働かれておられるか、同時に、悪魔がいかに最後の悪あがきをしているかを知ることが出来た。そして、ヘブル思考による聖書の直接的学びからは、特に「行いを伴った信仰」の重要性を、マタイの福音書やハバクク書、ヤコブ書から学んだ。ルター達の宗教改革以来の500年、教会は信仰義認を全面的に出し、行いを伴った信仰と、それによる祝福を、ないがしろにして来た。
この、「信仰だけで救われる」という教えの無力さに行き詰まりを覚えているクリスチャンは多く、また、行いを軽んじて来たヨーロッパ教会の凋落ぶりも、激しくなって来ている。今回コーヘンで学んだ行いの信仰」の中から、特に、クレネ人シモンの行い、それも、嫌々ながらであっても十字架を負う事の祝福を学びたい。

『彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を「無理に:アンガレオー(徴用する、強制的に使役する。蛇足:韓国語でアンガレヨは「行きたくない」)」負わせた。 』(マタイ27:32)
イエス様は、ゴルゴダの丘の十字架刑場まで、最後まで十字架を負って行く事ができず倒れてしまった。彼は前の晩から、ピラトの前で、釘や石が仕込まれた鞭を打たれ、既に大量の血を流していたからである。
そこを、たまたま通りがかったクレネ人シモンが、ローマ兵の目にとまり、徴用(アンガレオー)されたわけである。彼は、田舎から出てきた(マルコ15:21)、黒人(使徒13:1)であったため、強靭そうに目えたのだろう。
シモンは突然、罪人の死刑道具である十字架を負わされ、彼の妻も、息子・アレキサンデルとルポスも、父そして夫が突然、このような事になってしまったのを見て、どうなるのかと泣きながらついて行った。
しかし、シモンの嫌々ながらのこの徴用(アンガレオー)は、彼と彼の家族に、多くの祝福をもたらした。

彼としては、誰とも知れない死刑囚の十字架を突然、無理矢理負わされ、とんだとばっちりだ、私は違います、一緒に行きたくない、と思ったかもしれない。しかし、この十字架を負っていたイエスという人と同行する内に、この人の趣きは、死刑に当たるような人ではない事に、むしろ、彼の聖なる品性に、気づいて行く。
彼には、大勢の女達が泣きながらついて来ている。イエス様の弟子達は一人残らず逃げてしまった為、無力な女だけが残って、十字架の後を従って来ていたのだ。そんな彼女達は、シモンに声をかけたであろう。
「本当に、ありがとう。」「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。」「でも、力が無いので出来なかった。」「イエス様の十字架を一緒に負ってくれて、本当にありがとう。」
ゴルゴダの刑場に至った時、シモンは十字架を降ろした。もはや即刻、家族と家に帰っても良かったはずだったが、彼も、彼の家族も、イエス様の十字架上の成り行きに釘付けになり、最後まで見守った。
群衆の罵声の中、彼らはイエス様の十字架上の7つの言葉を聞き、そして、彼が息を引き取った時に起こった色々な天と地のしるし(マタイ27:51-54)を見た。その時、百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言ったが、この時、シモンも、彼の家族も全員、イエス様を信じるようになった。
そしてイエス様の復活以降、彼らは家には帰らず、弟子達と共に120人の集い(使徒1:15)の中でペンテコステを迎え、共に聖霊を受けた。それから彼らは、主と共に生きようと決心し、家に帰って全ての財産を整理して、主のために生きよう、と、パウロと一緒にアンテオケに行く。使徒13:1を見ると、ニゲル(黒人)と呼ばれるシモンが、アンテオケ教会の指導的立場として、礼拝を導いている様が記されており、そして、シモンの息子・アレキサンデルは、クレネの牧会者になり、後の、使徒パウロの後任者になったそうである。
シモンがあの十字架を負ってから30年後、シモンの妻と子のルポスは、ローマ教会の指導者となっている。
シモンの妻は、パウロから「お母さん」とも呼ばれるようになった。 ロマ書16章13節で、パウロは記している。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」パウロに「母」と言わしめるからには、彼女はどれ程、パウロを祈り、パウロの応援者として霊肉共に支えて来た事だろう。
さらには、歴史家ヨセフスによると、彼の11代目の孫は、ローマ帝国においてキリスト教を自由にした、コンスタンティヌス皇帝であるとされている。これが、無理矢理に十字架を背負わされた祝福である。
今、嫌々ながらでも主の仕事をしている時、この内容を思い出すべきだ。たとえ強制的にであっても、後にはこんなにも大きな栄光があるのだ、と。シモンのように、今背負っている十字架によって、自分自身や家族に、子や孫に、大きな恵みをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

汚れた思いを吹き込んでくる根源を攻撃する方法(2コリント10:4-6)
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前回、悪魔サタンはどのような存在であるかを学んだ。暫く、この悪魔やサタンなどの敵について学びたい。
悪魔(ディアボロス)は、訴える者、告発し、誹謗中傷する者で、サタンは「敵」であるが、私達キリスト者と、これに類する者共とは権威的上下関係にあり、私達のほうが圧倒的に格上、悪魔サタンは格下である。
もし悪魔がキリスト者を操るとするなら、それは「偽り」をキリスト者に信じこませる事によってである。
だから、私達の戦いの領域は、自分の「思い」の中にこそある。サタンは、思いの中に偽りを吹き込んで、人を操るが、今回特に、この「思い」の領域に仕掛けて来るサタンの攻撃に対抗する方法を学びたい。

思いの中に悪魔が踏み込む足場を作ってしまった人に、悪魔はそこを足がかりとして火矢を飛ばして来る。
サタンは、ダビデにイスラエルの兵力を数えさせようという思いを吹き込み、ダビデはそれに乗ってしまってイスラエルに災いをもたらした(1歴21:1)。これはダビデの「高慢」にサタンが足場を得たケースである。
マリリン・モンローは、人々の注意をひきたいという願望が悪魔につけこまれ、礼拝で賛美が流れる度に、着ているものをみんな脱ぎ捨て、礼拝中、神と人とに裸を見せたい、という衝動に駆られたそうである。
彼女は、受け入れられる、という事が無かったため、白日夢によって自分を元気づけていたと回顧している。
つまり、普段から「思い」の中で悪魔と会話していた、という事だ。だから、寂しさを紛らわすために独り言が多かったり、誰もいないのに会話したり、突然笑い出したりするような「くせ」がある人は、注意した方がいい。
空中には邪悪な者がおり(エペソ2:2)、独り言を言うと、空中にいる者がそれを聞いていて、寂しさなら寂しさの霊を、怒りなら怒りの霊を、淫乱なら淫乱の霊を引き寄せ、そのような邪悪な色(思い)に染められた霊と交わり、一つとなり、支配されてしまう足がかりを作ってしまうからだ。
彼女の場合、恐らく「人々の注意を引きたい」という願望を、夢(霊)と会話する内に告白してしまい、そこに悪魔が足がかりを得、聖なるものを汚す形で発散させたい衝動を吹き入れられ、彼女はそれを自分由来と思って、ますます、自分は聖なる者に対抗する淫らな者だ、と自己認識を強化して行ったのだろう。
騙されてはならない。汚れた思いは、自分に由来するものではなく、悪しき者の由来である。

思いの中に汚れ事を吹き込んで来る悪魔に対抗する方法がある。『私達は様々な「議論(新共同訳:「理屈(イマジネーション)」 )を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる「障害物(新共同訳:高慢)」を打ちこわし、すべての「思い(新共同訳:思惑(考え))」を「とりこ(逮捕)」にしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリ10:4-6)
つまり、この「思い」の中に仕掛けてくる議論、理屈、イマジネーション、あらゆる障害物や高慢が来た時は、それを「逮捕」してキリストの所に持って行き、そして、私達自身はキリスト(御言葉)に服従する事だ。
この服従が完全になる時、全ての不従順な者が処罰される用意が、整うのである。
すなわち勝利の方法とは、私達自身を御言葉なるキリストに服従させ、御言葉の前に身を委ねる事である。
『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(ヘブル4:12)

敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく、目に見えないサタンである。
サタンは、物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人はわけも分からずに、攻撃されたのでやり返す・・・といった、本質から逸れた空回りの内紛を、私達兄弟姉妹の間に起こさせる。空中の権威も、暗闇の支配も、悪の諸霊も見る事はできないが、私達が戦うべき相手は血肉(人間)ではなく、これら、見えない闇の存在なのだ。(エペソ6:12)
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、あるいは自分自身のせいにするのでもなく、攻撃の大元である物陰から矢を射掛けて来た悪しき者を、御言葉のサーチライトで照らし、御言葉の剣によって攻撃するべきである。
攻撃の矢を防ぐ事ができるのが、救いのかぶとや義の胸当て、信仰の大盾であるが、ただ、防いで耐えるだけでは能が無い。御言葉の剣を取り、囚われている自分を、兄弟姉妹を解放し、勝利の道を歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

サタン - 偽りの言葉巧みな二等兵(ルカ10:17-20)
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私達は、主イエス・キリストがいかに素晴らしいお方であり、彼にあって、いかに素晴らしい救いの立ち位置を得ているかを知る必要があるのと同じように、敵であるサタンの事も知らなくてはならない。
今回、悪魔やサタンの本質と、私達とサタンの立場、そして、いかにして対抗し勝利して行くかを学びたい。

悪魔(ディアボロス)の元々の意味は「(偽りを)訴える者、告発・誹謗中傷する者」である。
その筆頭が、天から投げ落とされた堕天使ルシファー(イザヤ14:12-15)、悪魔ともサタン(サタナス:敵)とも呼ばれる、あの古い蛇(黙示録20:2)で、その配下に堕天使たち(黙12:9,2ペテロ2:4)や、悪霊達がいる。
よく、神と悪魔との力関係は対等、あるいは悪魔のほうが上であるかのような、偽りが流布されているが、それは全く偽りであり、権威は神が全く上、悪魔は全く下である。これはイエス様を主とした私達も同様である。

キリストにある私達は、何者であるか。私達はキリストイエスにあって、共によみがえらせられ、共に天上で座につかせられた者達であり(エペソ2:6)、悪しき者は触れる事が出来ない。(1ヨハ5:18)
対して、悪魔サタンや悪霊どもの立場は、既に主によって断罪され、キリスト(と私達)の足の下に踏みにじられ、永遠の地獄の業火が確定済みとされた者どもであり、時折、神である主に命じられて、聖徒たちを訓練するために雑用を言い渡される事もある。(ゼカリヤ3章、ロマ16:20、黙示録20:10、ヨブ1章)
つまり、私達キリスト者と、悪魔サタンや悪霊達とは、権威的上下関係にあり、私達のほうが圧倒的に格上、悪魔サタンは格下、主が大将で私達はその将校、悪魔サタンは一等兵、悪霊どもは二等兵のようなものだ。

では何故、私達キリスト者は、あたかも悪魔サタンのほうに力があるかのように、いいように支配されてしまう事があるのか。それは「偽り」を吹きこまされる故だ。悪魔の本質は「偽りの父」である。(ヨハネ8:44)
女性は、ゴキブリを簡単に踏み潰し追い出す力があるのに、なぜか、女性のほうが部屋から閉め出され、部屋をゴキブリに占拠されてしまう。なぜこの現象が起きるか。それは、女性の中のゴキブリに対する「過度の恐れ」や「偽りの思い込み」が原因である。これと同じ事がキリスト者と悪魔サタンの間に起きているのだ。
悪魔サタンは、人間の思いの中に、悪魔の思いを吹き込む事が出来る。(1歴代誌21:1、ヨハネ13:2)
到底考えつかないような汚れた思いや、自己嫌悪に陥らせるようないやらしい思い、それは全て、悪魔が思いの中に吹き込むものである。霊的な戦いの場は「思い」の中にあり、「思い」を健全に保つために、「全ての”思い”をとりこにしてキリストに服従させ」(2コリ10:5)、御言葉の剣で切り分ける(ヘブル4:12)のである。

キリスト者は、キリストにあって「勝利者の側」「上側」であり、悪霊やサタンは「敗者の側」「下側」にある。
ゴキブリに女性を閉め出す力も権威も無いように、悪霊やサタンにも、私達を閉め出す力も権威も無い。
しかし奴らは、キリスト者に偽りを信じ込ませる事によって、キリスト者をあやつる事が出来るのだ。
キリスト者が悪魔サタンに支配されるとするなら、実に、吹きこまれた偽りに踊らされているのが本質なのだ。
キリスト者が、御言葉の真理にしっかりと立ち、信仰をもってそれを宣言する時、奴らは、光に照らされたゴキブリのごとく、すごすごと闇に逃げ去るしか無いのだ。「真理はあなた方を自由にする」と御言葉に記されている通り、私達は真理を知れば知るほど、自由になって行く。悪霊やサタンは、それを最も嫌がる。

世の色々な情報やイデオロギー、享楽や哲学などは、真理をくらまし、キリスト者から自由を奪ってしまう。
対抗方法は、まず、私達の内側は御言葉の真理で満たし、思いの中から偽りを追い払う事である。
そして真理の御言葉を知り、蓄え、その御言葉を信仰を持って宣言しつつ、イエスの御名によって踏みつけるのだ。『わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。』(ルカ10:19)
主は私達に、私達と悪魔との上下関係の真理を教え、悪魔サタンを踏みつける権威を与え、それを行使する「働き」を託された。だから私達は積極的にそれを用い、御言葉を宣言し、人を束縛する恐れや絶望感、病や貧困、全て暗闇に属し呪いの属するものは、主イエスの名によって踏み、破壊するべきである。
主にあって信仰を混ぜた権威ある御言葉を宣言し、大いにサタンを踏み砕く皆さんでありますように!

イサク - 主と交わり、主と共に歩む祝福の家系(創世記25:19-26)
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イサクは、祝福が約束されたアブラハムのひとり子である。アブラハムには、子孫が海の砂粒のように、空の星々のように数多くされる、と主から約束されており、イサクのリベカとの結婚についても、主の奇跡的な導きの元に為され、主が明らか共におられる、はずなのに、イサク夫婦には、肝心の子が生まれなかった。
結婚してから5年、10年経っても、15年経っても。主の約束では、子孫が空の星々のように増え広がる筈なのに、イサクが50代後半になっても生まれない。おかしい事である。
結婚20年目に、ようやく子が生まれるのだが、そのきっかけは、イサクが妻のために主に祈願したからだ。
神の民であるキリスト者には、将来と希望の計画が定められおり、この世でも、来るべき世においても、祝福が約束されている。しかし、主との交わりが全く無いなら、天からの祝福は全く滞ったままになってしまう。
天国は、神が人と共に住み、人は神の民となるという、神と人とが永遠に双方向に交わりを持ちつつ生きていく所である。だから、イエス様を信じ救われたなら、もうそれで終わりというものでは、決してない。
神の民とされた人は、主と積極的に交わって生きるべきであり、主と交わるとは、何かにつけ主に祈り、礼拝し、御言葉に書かれてある通りに歩んで行く事である。そのような主とのコミュニケーションを、人が取らなくなってしまったら、主は、人にとって望ましくない事を起こしてでも、コミュニケーションを回復させる。

イサクが主に祈った事によって、ようやく妻リベカは身ごもるのだが、双子の子が胎内で激しくぶつかり合ってしまう。祝福の家系である筈なのに、こんなに激しくぶつかり合う事では、一体どうなるのか。
彼女はすぐに、主の御心を求めに行った所、2つの国が胎内にあり、兄は弟に仕える、という事だった。
最初に出てきた子・エサウは野性的で強く、後に出てきた子は、兄のかかと(アケブ)を掴んで出てきたためヤコブと名付けられた。ヤコブは生まれた時点から、常々、長男の権利と祝福を掴もうと狙って来たが、引き換えエサウは、長男の座に安住し、主に祈る事も、求める事もせず、野の獣を追い回していた。
長男の座に安住し切って油断していたエサウは、やがて、弟ヤコブに長男の祝福を奪われてしまう。
エサウは、長男の権利を、一杯の食物と引き換えに弟に売ってしまう程、聖なる尊いものを、軽んじていた。
彼は後になって祝福を継ぎたいと願ったが拒絶された。『彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。 』(ヘブル12:17)
ここはKJVでは「for he found no place of repentance」すなわち、彼の心のスペースから、一切「悔い改め」という部分は見つけられなかった、という事だ。彼のように「主に求めない」「聖なるものを軽んじる」「悔い改めない」とするなら、祝福の家系から切り離され、別の者にその座を譲る事になってしまう。(ローマ11:22)

主は、愛する子を、敢えて懲らしめられる(ヘブル12:5-8)。それは、羊飼いが羊達を緑の牧場へと追うように、祝福がもっと植えられている地に行くよう、私達を追いやり、より高い祝福の次元へと登らせるためだ。
自分は祝福の子である、はずなのに、なぜか望ましくない事が起きているという時は、主の御心は何かを求める時である。イサクもリベカも、アブラハムも、望ましくない事が起きた時は、祈った。
『それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。』(ヘブル12:12)
手は主の働きをする部位であり、膝は、ひざまずいて祈るために用いる部位であるが、私達は御心を外した事をする時、やること為す事全て健やかではなくなり、手も足も疲れ弱ってしまう。仕事や人生において、実りなき徒労の日々を演じてしまったのは、祈る膝がなく、身勝手な手を動かし続けてしまった故である。
問題が起きた時、主のために働くべき手、祈るべき膝が萎えていないか、点検するべきだ。
『また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。』(ヘブル12:13) 信仰者の歩みは、道が真っ直ぐになってから歩み出すのではなく、まず私達の側が、主の通られる道を真っ直ぐにする所から、である。どのようにしてか。
荒野で叫ぶ者・バプテスマのヨハネは「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3:3)と叫んだが、彼が説いたように、悔い改める事、以前の自分に死ぬ事(バプテスマ)によって、主の道が整えられる。
天国は、バプテスマのヨハネの時以来、激しく襲われており、激しく襲う者たちが、それを奪い取っている(マタイ11:12)。エサウのように安住して主との交わりを止めたりせず、イサクやヤコブのように祈り、求め、祝福をどんどん奪って行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

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