メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
主日礼拝
時を支配する者となれ(エステル記3-4章)
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English Service: Be the ruler of the time (Esther 3-4) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年は主の恵みの年、主の復讐の日というビジョンが与えられた。主の恵みの年、主の復讐の日を始めた良い例は、エステル記に記されているが、それを理解するためにモーセの時代へ遡らなくてはならない。
イスラエルの民が、エジプトから約束の地へ旅していた途中、アマレクが襲ってきた。彼らはイスラエルの中の、疲れ、弱っていた人達を狙い撃ちに来た。アマレクの性質を一言で言うなら「弱い者いじめ」である。
主は、そのような者の記憶を、天の下から消し去らなければならない、と命じられた(申命記25:17-19)。
それができるようになった「主の時」は、サウル王の時代に訪れた。主は、彼にそれを命じたが、彼はアマレクの王アガクを惜しみ、実行しなかった。それで彼は、災いの根を後々に残してしまう(1サムエル15章)。
主の時に、主に言われた通りに実行しないなら、後の自分や後の子孫が被る災いを、大きくしてしまうのだ。
時代が降ってエステルの時代、サウルが根絶しなかったアガグの子孫と言われているハマンは、権力を得て、イスラエル民族を皆殺しにしようと企む。彼は、ユダヤ人モルデカイが彼に敬礼しない、という理由で、非常に憤り、モルデカイを殺すだけでは飽き足らず、彼の民・ユダヤ人をも絶滅しようと執念を燃やし、必要経費として、銀1万タラント(1タラントは30〜40キログラム)を出す、とまで言った。ハマンには恐らく、経済的に祝福されているユダヤ人の財産を没収して、私服を肥やそう、という意図も、あったかもしれない。
この時は、ユダヤ人にとっては滅亡のカウントダウンの時間に見えたかもしれないが、人の目に見える時間と、見えない時間がある。私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この世の強者が支配しているが、神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために御言葉を下さる。私達は、その「時間マスター」になるべきである。主のタイミングで主の御旨を実行する時、主の大いなるわざを、その時代にもたらす、「歴史の主人公」となれるが、それを実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すのみならず、後々の自分や子々孫々へ、大きな災いを残してしまう事になる。
今、私達に与えられている時間を、世が仕組んだ時間としてではなく、主が仕組んだ時間として悟り、管理するべきだ。私達・神の民が、時間を管理し損ねると、その、管理しなかった分の解決すべき問題の山が、管理しなかった人間関係や、勉強時間が、その他もろもろが、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
神の時間を自覚せず、自分流の時間をそのまま生きるなら、時間という鞭に追われる「奴隷状態」となってしまうのだ。私達はどうやって自分の人生やこの歴史に、神の時間をスタートさせる「主人公」となれるのか。それは、神の時を見極め、その仕事を「やります」と従順し、神から託された地位や力を用いる時にである。
モルテガイは、ハマンが定めたユダヤ人虐殺の法令を聞いた時、王妃エステルに、王の前に出て直訴するように言った。しかしエステルは、自分は王から30日も召されていない、もし召されないままで行くなら、自分は殺されるかもしれない、と返事した。そこでモルテガイは言った。『あなたがもし、「このような時」に黙っているならば、他の所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、「このような時のため」でなかったと誰が知りましょう」。』(エステル4:14) そう、エステルは、「このような時」のために、神の摂理によって、王妃という地位が与えられていたのだ。主が彼女を通して働き、神の民を救うのみならず、神の民を世界的に偉大にさせる、という、神の「見えない時」を実現させるために。 私達も、神の摂理によって地位が与えられている。
それは一見、つまらない地位に見えるかもしれないし、あるいは逆に、どうしてこんなに高い地位と成功が与えられたのか、分からないかもしれない。しかしそれは、神の時の歯車が噛み合って、御心が実行に移されるために、神が入念に準備しておられたからだ。 それにもかかわらず、与えられている地位や富に安住し、主が「その時」のために整えられておられた使命を全うするのを拒むなら、モルデカイが言った通り、本人も、本人自身の家も、滅びてしまう。神は全ての人に、時と機会を備える(伝道者の書9:11)。神の定めた「時」と「機会」に乗り、その使命を果たす人が、主の御旨を遂行する事に用いられ、勝ち取って行くのだ。
エステルが、自分がたとえ死ぬとしても、王の元に行きます、と引き受けた時、ペルシャの歴史が「主の恵みの年」へと変化した。主は、エステルが命がけで御旨を遂行しようとした決心を受け取り、神の民に栄誉を与える方向へと、歴史に手を加え始める。 与えられた地位を用いて主の御旨を行う決心をし、主の恵みの年、主の復讐の日を開始して行く皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主の恵みの年、主の復讐の日(イザヤ61章)
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English Service: The acceptable year of the Lord(Luk4:18-21) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年初めに、ルカ4:16-21とイザヤ61章の御言葉が与えられ、「主の恵みの年、主の復讐の日」を実現させる年というビジョンが与えられた。「恵み(デクトス)」とは「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」という意味で、すなわち、主から最高に歓迎される年である。 そして「復讐」とは、ルカ4:18にある通り、貧しさや奴隷状態、傷、盲目状態、虐げられてきた日々に対する復讐である。 エジプトを脱出した民は400年も奴隷として搾取されて来たが、彼らは主にあって、きっちり分捕り返した上で脱出した。同じように私達も、悪魔サタンに分捕られて来た分は、キッチリとイエス様にあって搾り取った上で(最低でも倍返し:イザヤ61:7)、以前の状態から脱出し、この年を、「主の恵みの年」として塗り替え行くのだ。
そうなるためには、ルカ4:21の、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」という宣言は、自分に成就したもの、として、受け入れる必要があった。貧しく、奴隷で、傷を受け、盲目で、虐げられた日々は、もうイエス様が十字架の上で「完了」させて下さった、という真理を信じ、受け入れ、その前提で歩んで行くなら、主の恵みの年・復讐の日が始動し、実体化されていくのだ。 こうして「恵みの年」が始まると、私達はどのような働き人となるのか。それはイザヤ61:3以降に記されている。
すなわち、シオン(神の民)の悲しむ者達に、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる働き(3a)、すなわち、神の民に慰めをもたらす働きである。
『彼らは義の樫の木と唱えられ、主がその栄光を表すために植えられた者と唱えられる。』(3b) 樫の木と訳された語「アイル」は「力」「強さ」「長」をあらわす。つまりその人は、強く垣根を超えていく枝となるのだ。
その人は、昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する(4節)。
この国はかつて、福音が伝来した時は大いに広がり、信者が爆発的に増えて行ったが、当時の権力に迫害され、散らされてしまった。そのような、昔の廃墟を立て直し、復興させる働きを、今、起こすのだ。
『外国人は立ってあなた方の群れを飼い、異邦人はあなた方の畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。しかし、あなた方は主の祭司(コーエン)と唱えられ、我々の神の役者と呼ばれ、諸々の国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。』(5-6節)。コーエンというヘブライ語は、祭司長、あるいは人々の長を意味する。私達が「コーエン」となって、神と人との間に立って取りなし、御言葉を教え、人々はそんな私達を補助するのだ。
そして主の復讐の日が始まる故に、『先に受けた恥にかえて二倍の賜物を受け、辱めにかえてその嗣業を得て楽しむ。それ故、あなた方はその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。』(7節)。
これは、とても素晴らしい祝福だが、このような祝福が与えられたからと言って、欲を出したり、高慢になったりしないように、今からよく気をつけるべきである。イスラエルの王達の多くは、若い内は純粋に主に従った故に、祝福され、富と力を得るのだが、それによって高慢になり、罪を犯して、祝福が去ってしまった、というパターンばかりだった。私達はその例にならわないよう、祝福された将来の自分がそうならないよう、今からよくよくシュミレーションするべきである。次のように注意されているからだ。『主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。』(8節)
このようにするなら、子々孫々が、主にあって栄光の次世代に、栄光のリーダーへとなって行く。『彼らの子孫は、諸々の国の中で知られ、彼らの子らは、諸々の民の中に知られる。全てこれを見る者は、これが主の祝福された民である事を認める。』(9節) 私達には、このビジョンが与えられている。御言葉教育をする幼稚園や学校を建て、テフィリン教育を施し、そうして若者たちを、ユダヤ人以上の天才に育て上げ、次世代のリーダーとし、国々が主の栄光を見て、イエス・キリストの福音の傘下を歩むようにして行く・・・。それが今、コーエン大学で養われた働き人達を中心に、世界中で起きている、テフィリンのムーブメントである。
主は、人のいないのを、うめいておられる。とりなす人や、主のうめきを察知して主の働きをする人がいないのを。私達は、神と人との間に立つ「コーエン」となって、人々のために取りなし、また、この時代に神の国を建て上げていく働き人となって、主の恵みの年を実現していくのだ。そのようなビジョンをもって、主のために意欲的に働く人に、主は、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださる(10節)。今年、全ての国に、主の義と、賛美を芽生えさせる働きをはじめ、主の恵みの年々、主の復讐の日々を開始して行く皆さまでありますように!
主日礼拝
神様が最もお喜びになる年とするために(ルカ4:16-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
主の恵み(デクトス)の年を告げる…。今回の御言葉は、2022年開始と同時に行われた新年礼拝で示された御言葉である。「恵み」と訳されたデクトスの意味は、聖書によく登場する「恵み(カリス:優しさ、思いやり)」とは違った意味で、「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」、といった意味がある。つまりデクトスの年とは、「神様が最もお喜びになる年」、「最も適切な年」という意味だ。神様が最もお喜びになる年を、告げ知らせる事…。それが、イエス様の役割であり、油注がれた主の働き人の役割でもある。なぜなら、今回の引用元の聖句であるイザヤ61:3には、「彼らは」義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれる、と書いてある。「彼ら」、と、複数形で書かれてあるからには、その役割をするのは、イエス様お一人の専売特許ではなく、聖霊の油が注がれた私達も、デクトスの年、恵みの年を告げる働き人となって行く、という事だ。
デクトスの年、つまり神様が最もお喜びになる年とは、どういう年か。その内訳が18節に書いてある。
「1,貧しい人々に福音を伝える」、「2,捕われ人には赦免を告げ知らせる」、「3,心の傷める者を癒やす(多くの訳で省かれているが原典に存在)。」、「4,盲人に目の開かれる事を告げる」、「5,虐げられている人々を自由にする」。これらを、私達が為す時、主の最も喜ばれる年、受け入れられる年になる。
主は、願っておられる。私達が、たましいに幸いを得ているように、全ての点でも幸いを得、また健康であるように、と。だからまず私達自身が、1,福音によって富んだ者となり、2,捕われ状態が赦免され、3,心の傷が癒やされ、4,霊的盲目状態から解放され、5,虐げられている状態から自由になる必要がある。
そうなるためには、イエス様が十字架上で宣言された言葉、「完了した」を適用するのだ(ヨハネ19:30)。
私達は、イエス様が十字架で「完了した」を宣言された時、一緒に「死んだ」のであり、真理の上では、罪の借金も、呪われるべき負債も、全て「支払い済み」「完了済み」となった。そう「仕分け」するべきである。
『このように、あなた方自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である事を、「認む(ロギゾマイ:仕分けする)」べきである。』(ローマ6:11) 私達はその真理を宣言するのだ。
1,貧しさは完了し、イエス様にあって、富んだ自分が始まった! 2,捕われ状態は完了し、赦免を受けた!
3,心の傷は完了し、癒やされ、健やかになった! 4,見えなかった状態は完了し、見えるようになった!
5,虐げられ状態は、完了し、自由になった! これらを、十字架上で主イエスが完了したと「仕分け」し、その前提で生きて行くなら、それらは有効化され、実体化され、恵みの年が、効力を得て、始動するのである。
引用元のイザヤ61:2には、「主の恵みの年」に加えて、「神の復讐の日を告げ」る事が書いてある。復讐とは、何への復讐か。それは、1,貧しくさせられた事に対する復讐であり、2,捕われ状態だった日々に対して 3,心に傷を負わされた事に対して 4,盲目にさせられていた事に対して 5,虐げられてきた年月に対しての復讐で、つまり全て、悪魔サタンに対する報復である。 エジプトで430年も奴隷とされていたイスラエルの民が、きっちり430年分の報復として金銀宝石を要求して、それらを携えてエジプトから出たように、私達もきっちり、イエスの御名によってサタンから搾り取った上で、奴隷状態から脱出して行くのだ。
イエス様は言われた。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21) 英語KJVでは、This day is this scripture fulfilled in your ears. すなわち、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」となる。主のことばは「in your ears:耳の内側」で成就する。つまり、耳で聞いただけではだめで、耳のさらに内側、心の中に入り、御言葉を信仰によって自分自身と混ぜ合わせた時、成就する。
ところが、この良き知らせである福音を聞いても、実体化しない人は、確かにいる。事実、イエス様からこの「恵みの年」の宣言を聞いたナザレの人々は、それを信じなかったばかりか、イエス様を崖から突き落とそうとした。なぜだろう。それは、彼らが聞いた御言葉を、信仰によって結び付けなかったからだ。『彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。』(永井訳 ヘブル4:2)
聞いた御言葉を、信じて服従するなら、安息に入る。しかし、出エジプトした民の大部分のように、聞いても信じず、頑なに御声を退けるなら、安息に入れずに、滅んでしまう。 安息日の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る(ヘブル4:10)。信じて、神の安息に入り、主の恵みの年を成就させ、栄光の働き人となっていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主日礼拝
全ての面で豊かで健康であれという祝福の挨拶(3ヨハネの手紙2節)
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週報/メッセージ(説教)概要
新年おめでとうございます!御言葉を聞いて信じた皆様の生活に、主の恵みの年が実現しますように!
今年より、月初めのメッセージ箇所は、お配りしたカレンダー聖句のその月の箇所から養いをいただく事となった。今月の箇所は、第三ヨハネの手紙2節である。『愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべての事に恵まれ、また健やかであるようにと、わたしは祈っている。』
ヨハネは、1節の挨拶で「愛している(アガペートス)」、「親愛なる(アガパオー)」と、2回も「愛する」という言葉を用いた。2節も、「愛する者よ(アガペートス)」と呼びかけている。アガペーは無償の、完全な、捧げ尽くす「愛」で、昔日本に来た宣教師は、これに該当する日本語が中々見つからず、「ご大切」と訳した。
今年最初の主日である今日、私達は、聖徒同士の交わりの中に、また互いの挨拶の中で、真っ先に、「ご大切」を込めるべき事が示されている。裏表のない、相手を大切に思う愛で、互いに関わるべきだ。
そして今回の御言葉で、ヨハネが、愛する聖徒に「こうなってほしい」と願い、2回も用いた動詞は「ユーオドー」である。その意味は、「道が開ける」「順調である」「繁盛する」「成功する」で、もう一つ、彼が願った動詞は、「健康である(フギアイノー)」、意味は、「健康で、健全である」、「適切である」事だ。
ヨハネは、聖徒の「魂(プシュケー:思い、意思、感情)」がいつも満ち足りているのと同様に、あなたが全ての面においてもそうでありますように、と願ったが、クリスチャンが安定した信仰生活を送っていくなら、当然のように、「内面」は恵まれ繁栄して行く。しかし、「内面」が健やかでも、「外面」が不健全だったり、貧乏だったり、というのは、願わしくない状態で、キリスト者は、その状態を受け入れたままであってはならない。
もし私達が、何度も同じ罪を犯してしまったり、同じ失敗を何度も繰り返してしまう、といった「くせ」があるなら、「自分はそういうキャラだから」とか「衰えたから」などと言い訳したり、納得して受け入れてはならない。
そのような不健全な「くせ」は、叱りつけ、私達の中から追い出すべきである。
私達キリスト者は、不信仰や不従順など、御言葉に反する”死”がはびこる時、いのちの御言葉で上塗りしなくてはならない。また、そのような「くせ」を持った人が、強く主張したからといって、それに合わせてもいけない。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」のは、不信仰な者と共に信仰を捨てる事ではないし、臆病な者と一緒に臆病になる事でもない。もしヨシュアやカレブが、臆病な者が強く主張したからといって、一緒に臆病になっていたら、約束の地に入れなかった。私達はむしろ、真理で偽りを上書きし、健全な御言葉で不健全さを上書きし、神の無限な豊かさでもって貧乏を豊かさへ上書きして行くべきなのだ。
キリスト者は本来、何についても「ユーオドー」、すなわち道がひらけ、順調で、成功して、然るべきである。
なぜなら、圧政的に支配する悪を、神の民が支配権を奪還し、神の国を広げなくてはならないからだ。
この「ユーオドー」の内容は、新年礼拝の祝祷の後に捧げられた「ヤコブの祝福」という賛美と、まさに一致している。これは、ヤコブがヨセフに与えた祝福(創世記49:22-26)が元で、互いに祝福し合う賛美である。
「どうかあなたが、主の若枝のように垣根を越え、限界を超え、支配領域を広げていきますように。」
「どうか、御父の約束どおり、全ての面で押し入れ、揺すり入れして与えられ、満ち溢れますように。」
「あなたは激しい嵐にも、主の力で勝つ事ができます。」「アルファでオメガなる主が、あならの盾・やぐらです。」「あなたは神の人、選ばれた神の民です。」「わたしはあなたのために、主に祈ります。行く手に幸あれと。」「あなたは神の者、愛らしい若枝です。御胸に従って豊かに花咲く、枝となりますように・・・。」
私達は、この賛美のように、互いのために、神の国を広げる道が、開かれ、成功し、順調に繁盛して行くよう、互いに祝福のあいさつをし合うべきである。聖徒の交わりの中ではもちろん、親子関係や、夫婦関係、職場の関係においても。ボアズがききんの時代、有力者として地位が上がって行ったのは、麦畑という「職場」で、祝福のあいさつを交わしていたからだ(ルツ記2:4)。祝福のあいさつをせず、立てあげる言葉ではなく破壊する言葉、分裂する言葉で、互いにあいさつしあっているなら、互いの間で滅ぼされてしまう。
今年、私達はますます愛(アガペー)をもって祝福のあいさつをし、貧乏や不健全さは、「ユーオドー(道を開く、順調である、繁盛する、成功する)」で上塗りし、内面のみならず、外面においても、あらゆる面においても健全で健康となって行くこの年の皆様でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
ヨセフの模範にならって(創世記50:15-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年最後の主日礼拝となった。今年も変わらずコロナの脅威が厳然として存在し、また最近は、ごく普通にしていた人が突然、無差別テロのような事件を起こす事も増えて、荒んだ時代が継続している。人の心に怒りや妬み、恐れなどの負の感情が鬱積して来ると、ある人は事件という形で、ある人は事件にはならない形で発散させ、その周りは荒んだ雰囲気となり、恐れや不安、絶望のサイクルを引き起こさせて行く。
ヨセフの兄たちは、妬み・憎しみに燃えて、弟ヨセフを奴隷として売るという「事件」を起こし、ポテファルの妻も、彼に無実の罪を着せて、彼を獄屋に入れてしまった。しかし、彼の主であり、私達の信頼する主は、人の闇や時代の闇がいかに深くても、それら全部をひっくり返して「益」に変えて下さる力強いお方である。
ヨセフは、悪に対して悪で報いず、かえって善をもって対応したゆえに、神は彼の為す事全てを成功させ、むしろ彼を、エジプトの総理大臣にされた。ヨセフは、その主から託された権威を、復讐する事に用いず、また莫大な富を自分のために用いず、むしろ、神様から与えられた「役割」を忠実に果たすためにそれらを用いて、神の民・イスラエルを大民族へと、そして国家へと成長させるための、土台づくりを整えた。
かつて、妬みに燃えてヨセフを売り飛ばした兄たちは、ずっと後悔や恐れに苛まれて生きてきた事が、今回の箇所から分かる。彼らは、父ヤコブが死んだ時、ヨセフに、父の遺言だと言って、ヨセフに赦しを願い出たが、ヨセフはそれを聞いて、泣いた。ヨセフはもう、とうの昔に、主から慰めをいただいて、兄達から受けた仕打ちも、主が忘れさせて下さっており、十分祝福され、癒やされた。なのに、兄達はずっと、17歳だった時のヨセフにしてしまった事を、ずっと後悔し、悩まされ続け、恐れ続けて来たのだと、知ったから。
そういうわけで、私達も、ヨセフの性質を身につけるべきであり、また、かの兄たちのように、瞬間的な妬みや怒りをぶちまけるような性質や行動を、捨て去るべきなのだ。私達も、主の前に日々、誠実を養って生きるなら、心の傷や、経済の傷などは、全て主が癒やし、忘れさせ、むしろ主が引き上げて下さるのだから。
私達は今年から、不正や悪を行う者に腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養ったヨセフの模範にならう宣言し続けて来たが、昨年の今頃と比べて前進はあっただろうか?続けてきた聖徒達には、大いにあった。
ヨセフは兄達に、やさしく語りかけた。『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(創世記50:20)
ハシャブは「織り込む、染み込む」の意味、レトバー(トーブ)は「パーフェクト、ビューティフル、グッド」である。私達の主は、人のした悪をさえ、パーフェクト、ビューティフル、グッドに変えて下さるのだ!だから私達も、ヨセフのような性質を身につけ、主に用いられる「器」となる必要がある。主はいつの時代も、人という「器」を通して、時代に介入されて来たからだ。今、私達に悪を企んで立ち向かって来るものが多い時代だ。
コロナという悪意、人の心を荒ませる悪意など。それは、時代(アイオーン)に働く、空中の権威を持つ支配者・サタンが仕掛けて来るもので(エペソ2:1-7)、その悪意に侵食されてしまった”犠牲者”が、諸々の事件を起こしている。 パウロは言っている。私達が格闘するべき相手は、血肉を持った人ではなく、主権、力、この暗闇の世界(アイオーン)の支配者達、また天にいる諸々の悪霊に対するものだ、と(エペソ6:12)。
そのために霊的な武具を身に着け、絶えず目をさまし、忍耐しつつ御霊によって祈りなさい、と命じている。
私達は日々、真理の宣言によってそれをしているなら、守られ、祈りが聞かれ、開かれないように見える道も、次々と開かれて行くのである。主は、願っておられる。主が時代に介入できる「器たち」の現れを。
私達は今年、大きな事に用いられた主の「器」を、幾人か学んできた。ヨセフ、ヨシュア、クロス王、ロックフェラーなど。彼ら全員に共通していた事は、主から示された御言葉をそのまま実行した事、また、主から託された大きな権力や富を、我がものとはせず、ただ神の国の拡大のために用いた事である。今、この荒んだ時代を変革するために、主が用いられる器とは、彼らのように、御言葉に従順な人であり、神から富や権力が託されても、それを私有化し占有せず、神の国の実現のために用いる、心の整えられた人である。
私達はますます、主に用いられるべき器を目指そう。たとえ世界に、悪事をたくらむ人がさらに多くなったとしても、それら全部を、トーブに変えさせて下さる主に用いられ、来る年も、神の国の拡大のために大いに活躍して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
メシヤのしるしを見極め、時を算出した東方の博士たち(マタイ2:1-12)
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The Oriental Wise Men who discerned the signs of the Messiah and calculated the time (Mat2:1-12) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドベント第4週目となった。イエス様が赤ちゃんとなって来られた当時、救い主のご到来を心待ちにしていた人々は、残念ながら、とても「少数」だった。むしろ当時の人々は、救い主など、来てもらっては困る状態だった。実際当時、イスラエルを支配していたヘロデ王は、救い主を示す星が現れた事を聞いた時、恐れ惑い、エルサレム中の人も王と同様であった(マタイ2:3 )。
キリストがお生まれになった時、この赤ちゃんこそ万民の救い主である、と、シメオンやアンナを通して告げ広められたのに、その赤ちゃんも両親も、人々から厚遇される事は無かった。シメオンが言ったように「イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また反対を受けるしるし」なのだ(ルカ2:34)。
しかし、少数ながらでも、救い主が来て、エルサレムが贖われるのを待ち望んでいた人たちは、確かにいた(2:38)。しかも、イスラエルから東へ遠く離れた異邦の地にも存在した。それが、東方の博士たちである。
「博士」の原文は「マゴス」、ペルシャ系の占星術の祭司で、しかも高位の祭司であったと考えられている。
異教の占星術師…。それはイスラエルでは最も忌み嫌われるはずの人達であった。しかし彼らは、前回の栄光の系図に加えられたあの女達のように、まことの神と、救い主メシヤを、強烈に憧れていた。それで彼らは、救い主メシヤのお生まれ示す星が上がったのを見て、エルサレムへの遠い旅路をやって来たのだ。
それにしても彼らは、どうしてそれが「メシヤの星」だと断定できたのだろう。よほど確信が無ければ、忙しい中、危険を冒して、メシヤへ捧げる高価な捧げものを携え行ったりはしない。それがメシヤの星だと確信できたのは、彼らは御言葉を熱心に調べ、メシヤの来られる時期と前兆について綿密に調べていたからである。メシヤが来られる時、一つの星が出現するという預言は、旧約・民数記に1節だけ登場する。(24:17)
メシヤが来る時、しるしとなる程の星が出現する事を、彼らは、数多ある御言葉の中から見逃さなかった。
それにしても、ひときわ輝く星など、歴史の中でいくらでもあったはずなのに、どうして”この星”がメシヤの星だと特定できたのか。それは彼らは、メシヤの来られる時間(タイム)も、御言葉の中から手がかりを掴んでいて、そのご到来はもう間近だと算出していたからだ、と、推測できる。その算出の手がかりは、博士達の国・ペルシアにかつていた、ユダヤ人の偉大な預言者・ダニエルが書き残していた。
ダニエルが残した文献によると、彼は、メシヤ到来の時期とその役割について、天使ガブリエルから示されたという。ダニエル書9:20-27によると、メシヤに油が注がれる時は、エルサレム再建の命令が出てから七週プラス六十二週。しかしその後、メシヤは絶たれ、町と聖所は破壊されるが、最後には、荒らす憎むべき者に絶滅が降りかかる…。その「時」は、歴史上で正確に成就して行く…。ペルシャのアルタクセルクセス王の第20年(BC455年)、ネヘミヤが王にエルサレム再建の願いをして、聞き届けられた(ネヘミヤ2:1)。
その時点で、メシヤ到来のカウントダウンが動き出す。それから、7+62=69週目、すなわち483日目。この「日数」を「年数」に変換し足し算すると、メシヤに油が注がれる時は、AD28年。それはまさに、イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた時期、すなわち、メシヤに聖霊の油が注がれた時期である。
博士たちは、律法や預言者の残した巻物をつぶさに調べ、研究し、さらに御言葉から「時」を計算し、もう今、メシヤがお生まれになっていてもおかしくはない時期だ、と悟り、心を備え、天を見上げていたのだ。
博士達はヘロデ王に言った。私達はメシヤを「拝みに(プロスクネーオ)」参りました、と。プロスクネーオは「プロス(前に)」+「クオン(犬)」、犬が喜んで主人の手をしきりに舐める様子から、ひれ伏す、拝む、礼拝する、の意味となった。彼らは、喜んでひれ伏す心をもって、宝物を用意し、東方からはるばる来たのだ。
主は、そのような志をもって礼拝に来る、この異邦の博士たちに、無事にメシヤの元にたどり着けるよう、星に彼らを先導させ、宇宙を動かして、彼らを導いたのだ。それを見た彼らは、この上ない喜びで、喜んだ。
心を尽くして主を呼び求め、聖書を調べ、時をはかって準備し、たとえ遠くでも、また忙しくても、捧げものを携えてメシヤを探し求める者に対し、主は、宇宙を動かしてでも導き、メシヤと出会わせて下さるのだ。
イエス・キリストの系図に、本来入るはずもない異邦の女達が系図に入り、異邦の占星術師たちも、誠実と熱心によって、メシヤと出会う幸いを得た。今、この時代、マタイ24章の記述からすると、主の来られるタイムは、間近に近づいている事が分かる。私達も今、博士たちのように、心を尽くして主を求め、御言葉を調べ、主から宇宙規模の導きをいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
積極的に主を待ち望む信仰の家に来て下さる主(マタイ1:1-17)
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English Service: Who is the happiest person in the world?(Luke1:26-45) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
主イエスキリストのご降誕を待ち望むアドベント第三週目となった。救い主キリストは、赤ちゃんとなってこの世に来られたが、それを記す福音書のはじめに、イエスキリストの系図が記されている。系図は「家」を明かすもので、この系図を調べると、イエス様はどういう家柄を通してこの世に来られたのか知る事が出来る。
そのイエス・キリストに至るまでの系図に刻まれた一人一人を見ると、神は実に、信仰を持つ人々を通して歴史に介入して来られた事を知る事ができる。私達はこの時代、いかに生きるべきか、系図から学びたい。
系図は、信仰の父祖・アブラハムから始まっている。彼が75歳になった時、神は彼に「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われ、アブラハムはそれに従った。神に呼び出された時、自分の生来の生き方を離れ、神のことばに導かれる生き方へと入る…。これこそ、私達の救い主、イエス・キリストの栄光の系図への参加方法であり、そして、私達個人の救いと、贖いの歴史の始まりなのだ。
このマタイの系図の特徴的な所は、本来なら入れるはずもない異邦の女達も、系図に加えられており、また、本来なら系図に「いる」はずなのに、名前が除外されてしまった人達もいる点である。本来なら系図に入るはずが無いのに加えられた女性に共通している性質は、神の民に入ろうという情熱と信仰がある事で、除外されてしまった人達に共通しているのも、やはり「信仰」の無さで、主の言葉を軽んじていた点である。
ユダの時代、アブラハム以来の信仰の継承が絶えそうになった時、その血筋を何としても絶やすまいとしたタマル(3節)は、遊女の格好までしてユダとの間に子をもうけた。しかし子を残す営みを侮った異邦の女の子供達は、絶えてしまった。 ラハブ(5節a)は本来、滅ぼされるべきカナンの女だったのに、神の民にあこがれていた。天から彼女の志を見ておられた神は、二人の斥候を彼女の家に遣わし、その内の一人が、後に夫になるサルモンだった。彼女はイスラエルの神こそ神であると告白し、命がけで彼らを守った故に、彼女とその家族は救われ、栄光の家系へと加えられた。 ルツ(5節b)も本来、イスラエルに入れるはずもないモアブの女だったが、彼女もイスラエルの神にあこがれを持って、神の民へと「割り込んで」来た。ルツ記最後の「ペレツの系図」の意味は、「割って入る者の歴史」「裂け目から侵入して来た一族」であった。
以上のように、何としても神の国に入りたいと願って割り込む事こそ、私達・信仰者の本質である。主は全人類一人一人の思いを読んでおられ、その心が主と全く一つになっている人に、救いを現して下さるのだ。
系図から除外されてしまった人達は、主の言葉に逆らって主を捨てた者達であるが、系図に載っている王達の中には、除外されてしまった者達より、はるかに性質の悪い王達の名もある。そのような王達が続いた後、バビロン捕囚となり、それ以降、王権は剥奪されてしまった。小悪党は、名前さえ連ねてもらえず、大悪党は、「呪いの代名詞」として記録されてしまったのだ。しかし、たとえどんな「大悪党」の子孫であったとしても、主に聞き従う世代以降は、イエス・キリストを生み出す家系に戻してもらえる所に、主の恵みがある。
『アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である』(17節) 「十四」はヘブライ語ゲマトリアではダビデの数字で、ダビデの名の意味は「愛された者」である。つまり主は、アブラハムからダビデの時代も、主に反逆し続けた王達の時代も、バビロン捕囚の暗黒の時代も、主の民をずっと愛し続けておられたのだ。
系図の中の何人かは、名前しかわからず、どんな人生を経験し、どんな時代のドラマを生きたのかも分からない。しかし彼らは、それぞれの時代、信仰によって結婚し、信仰によって子を産み、信仰の子育てをし、そうして子から孫へと信仰を継承して来た。どんな時代であっても、信仰を継承する事こそ最も偉大な事である。信仰の先人達のように、積極的に主に求め、信仰によって生きる家にこそ、主は訪れて下さるのだ。
主は今まで、主を待ち望む者たちや、主の御旨を行う者達を通して、歴史に介入し、歴史が動いてきた。
そして、主を待ち望む家系の末裔に、イエス様は来て下さった。今、私達は、信仰が無い人々の中、地震や疫病など、諸々の艱難の時代の中を生かされている。しかし、この時代の中でも、信仰の先人たちのように、信仰によって生きるなら、主は来て下さる。 彼らにならい、聖なるプライドを持ち続け、邪悪なこの世代に対して聖さと高貴さをもって勝利し、私達も、あの栄光の系図、『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図』に連なって、「〇〇は、信仰によって2021年を高貴にふるまった」と、天の書物に書き記され、栄光の冠を勝ち取っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:26-38)
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週報/メッセージ(説教)概要
キリストのご降誕を待ち望むアドベント(待降節)第二週目となった。エデンの園で蛇(サタン)にそそのかされ、罪と死の呪いに捕われ、エデンから追い出されてしまった人類は、サタンを砕く「女の子孫」、すなわち、全被造物を贖い救うメシヤのご到来を待ち望む「アドベント」に入り、そしておよそ2000年前、救い主イエス・キリストが、赤ちゃんとなってこの世に来られた。その次第がルカによる福音書1章に記されている。
その次第は、何の変哲も無い日常の中に、突如、現れた。ガリラヤのナザレという町で、マリヤという女性が結婚を間近に控えて暮らしていたある日、突如、主の使いガブリエルが彼女に現れ、途方もない「用事」を持ってきた。それは、全被造物が待ち望んでいた救い主の母になる、という用事だった(ルカ1:26-28)。
その知らせが来た時のマリヤは、「婚約期間」という微妙な時期だった。結婚相手がいない時期ではなく、また、結婚した後でもない。赤ちゃんを宿すには最悪のタイミングだった。 もしマリヤのこの状況から、起こりうる「最悪」を考えるなら、ヨセフとの婚約は覆され、姦淫の罪を着せられて、石打になる危険もあった。
Aという事象が起きた時、まだ起きていない最悪の事態Bをすぐに想定してそれを言い出す人もいるが、もし御言葉が、そしてイエス様が「Aが起きたら、Zとなって行く」と言うなら、最悪の事態Bという恐れは、思考から締め出し、御言葉なるイエス様が言われたZを信じて進んで行く事が、私達の分である。
御使いは言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆う。神にとって、不可能なことは、一つも無い!そう、信じる私達を、その御手で包んでおられる主にとって、不可能は何一つ無い!
主の御手に覆われるなら、不可能は可能となり、恐れに憑かれた人が思い描いた「最悪の事態」は、起こらず、むしろ、御言葉で約束された通り、いと高き神の力によって守られ、導かれ、主の栄光が現れるのだ。
マリヤは答えた。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38節) 彼女はこのように、主の言葉を「アーメン」して受け入れた故に、みごもり、彼女の中でイエス様がどんどん大きくなって行った。ひと度信仰告白し、お腹の赤ちゃんイエス様が大きくなって行ったら、もう途中下車はできない。
しかし彼女には、心配は一片も無く、むしろ自分は古今東西の女達の中で、一番の幸せ者、と感じていた。
なぜなら、いと高き神の御子キリストが、確かにおられる、と、腹の奥底に感じ、御霊に導かれて、全てが益とされていくからだ。私達信じる者も、皆そうである。『わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その「腹(コイリア:子宮、心、知情意の座)」から生ける水が川となって流れ出るであろう。』(ヨハネ7:38)
私達も、主の召命を受けた時、それに従うなら、私達は神様から与えられたタラントに合った、天職の中を生きるようになって行く。その人生は、聖なるモチベーションに導かれて形成されて行く世界で、やりがいと喜びに満ち、疲れず、たゆまず、歳をとっても鷲のように若々しく昇っていく。しかし、主の申し出を受け入れず、現状の生活や、自分の「思い描き」を手放さないで生きて行こうとするなら、アダム以来の、骨折りと苦しみが多く、「やらされ感」に満ちた労働で日々の糧を得て、ついには土に帰る人生となってしまう。
主が与え、相続させて下さる仕事は、「したくないけれど仕方無しにやらされる」ものではない。自分がその物事の主人公となり、能動的に動いて、何時間やっても疲れず、そして楽しいものだ。しかもその仕事は、永遠の神の国を建て上げて行く、誇り高い事業で、歴史をいのち溢れる方向へ導き、光の方向へと塗り変えて行くもので、決して朽ちることのない栄光の冠をいただくものである。それを得たいだろうか?それなら、マリヤのように「おことば通り、この身になりますように」と、自分の計画や心配を全て主に明け渡すのである。
そうするなら、私達もマリヤのように、「世界一の幸せ者」と心底、思えるようになっていく。主の言葉をアーメンして受け入れた人は、サタンを砕き全世界を救う主・イエス様を宿らせ、どんな物事からも守られて行く。
事実、マリヤとヨセフは、多くの危険をことごとく回避できた。それは、ことごとく主の導きに従ったからだ。
私達もマリヤの性質を身につけるべきである。その性質とは主に対して「そのとおりです」と受け入れる「従順」の性質であり、それこそマリヤのように天的な事業に用いられ、世界一の幸せ者となる性質である。
今、私達は、多くの子供達、若者達を、御言葉で教育するという、いのちの事業をしようとしている。準備はできているだろうか? 信仰の先輩にならい、主の御言葉への従順をもって、多くの尊い子供達、栄光の次世代達を、生んで育て上げて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
積極的に主を求める家系に来られたイエス様(ルツ記4:18-22)
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週報/メッセージ(説教)概要
いよいよアドベント(待降節)が始まった。待降節は、救い主イエス・キリストのご到来のために心を備え、待ち望むシーズンである。キリストのご降誕が一番最初に預言されたのは、いつか。アダムとエバが蛇すなわちサタンにそそのかされ、死と罪が入ってしまったのが創世記3章6節、そこから10節も数えぬ「創世記3章15節」において、主は、蛇を砕く「女の子孫」の到来を約束された。人はエデンから追放され、罪と死に悩むようになり、こうして全被造物は「女の子孫」、救い主の来る事を待ち望む「待降節」に入ったのだ。
その長い長い「アドベント」の後、およそ二千年前、イエス・キリストがこの世に、赤ちゃんとして来られた。
キリスト者は、イエス様を信じて救われたが、一度信じれば終わり、というものではない。私達の家庭や職場、生活に、「救い」を必要とする状況がどうしても起きる。その都度、「救い」が来る事を求めるべきである。
私達は、求めているだろうか。この、先が見えず、正義が行われていない闇のような現状に、「主よ、来て下さい」と、求めているだろうか?主は、その求める声がある所に、来て下さる。このアドベントの第一週、ルツ記の系図から、イエス・キリストがおとずれた王族の家系の性質を学び、その恵みを得ていきたい。
ルツ記は、死と悲しみの出来事で始まった。当時のイスラエルは、主の言葉に従う時代ではなく、自分の目に良いと見える事に従って歩み、荒んだ事件があちこちに起きた、暗黒の時代だった。異邦の女・ルツは、本来なら神の民に加えられるはずもなかったが、信仰を告白し、神の民の中へと入って来た。主は彼女を覚えておられ、また、信仰の家を紡いで来たボアズの家系も覚えておられた。主はルツを、ボアズの畑へ導き、そこでボアズと出会わせ、結婚させ、子供を産ませて、こうしてメシヤが来られる家系を育まれた。
ルツ記の最後には、ちょっとした系図が挿入されている。その最後は、あの偉大な王ダビデで終わるが、この系図は、不思議な点がある。本来ならペレツの父で族長のユダから始まるのが妥当なのに、なぜかペレツから始まっている。私達はルツ記から、またこの系図から、込められたメッセージを汲み取るべきである。
『ペレツの系図(トーレダー:家系、家族、歴史)は次の通りである。』(ルツ記4:18) ペレツの名前の意味は「割って入る・裂け目・侵入する」事。つまり、ルツ記の系図の意味は「割って入る者の歴史」、あるいは、「裂け目から侵入して来た一族」である。これがルツ記の内容であり、またキリストの裂かれた御身体によって救われ、その裂け目から、天国へと侵入して来た、私達クリスチャンの本質である。ペレツは元々、双子の「弟」として産まれる所だった。しかし兄が産まれる所に、割り込んで、先に産まれ出た。それで彼が長子の権利を得た。ルツ記の家系も、神の民も、何としても神の国に入りたい、と、願って割り込む者たちである。
続く名前と意味を列挙して行くと、ヘツロンは「柵で囲まれた庭」、ラムは「積極的に昇りつめる」、アミナダブは「自発的に喜んでする人々・民族」。ナフションは「綴る・熱心に観察する」。ルツの義父で遊女ラハブの夫であるサルモンは「衣・包む・(子音変化でシャローム:平和)」。そして、ルツが嫁いだボアズは「彼に内充する力」である。 親が子につける名前には、親の願望や人間性が現れる。また子供は、その名前によって人格に大きな影響を及ぼしていくため、これらの名前から、この一族の性質がある程度、推測できる。
彼らは、自ら積極的に主に求め、また力と権威を内包し、それを防護し、大切に育む性質があるのだろう。
この中の幾人かは名前しか分からず、どんな人生を経験し、また、どんなドラマの中で生きたのかは分からない。しかし、親達は、それぞれの時代を信仰によって子を産み、その生まれた子に「このようになってほしい」と、信仰によって名をつけ、信仰によって子育てし、信仰によって結婚し、信仰によって子を産み、そうして、子から孫へ信仰を継承して来た。実はその事こそ最も偉大な事で、私達も、そうするべきだ。
私達も彼らのように、自分から積極的に主に求め、信仰によって結婚し信仰によって子育てして行くなら、イエス・キリストの系図へと入って行くのであり、そのような人にイエス・キリストが訪れて下さるのだ。
さらに続く名前、オベデは「仕える・しもべ」、エッサイは「富・資産」、ダビデは「愛された者」の意味であり、まさに私達・神の民が持つはずの性質である。この、ルツの系図の名前に記された性質を、積極的に持っている人こそ、偉大な王が誕生する家系であり、イエス・キリストが訪れて下さる家系である。ルツのように、またその系図の人々のように、神の国を求め、探し、叩き、何としてでもそれを獲得しよう、という意欲を持ち、また、防護壁を張って力や富、権威を守り、そうしてキリストの訪れを待ち望む皆様でありますように!
主日礼拝
世の収穫物が来てひれ伏したヨセフの収穫を得よ(創世記37:5-11)
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English Service:Hold on to the dream(Gen37:5-8) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
本日は収穫感謝祭、主が私達に与えて下さったあらゆる良き実りを感謝する日である。今回はヨセフの箇所からだが、実は彼の夢の解き明かしは収穫に関連したものが多い。本日、それらの夢から恵みを得たい。
最初にヨセフが見た夢は、ヨセフが収穫した束がまっすぐに立ち(ナーツァブ:確立する、安定する)、兄達の収穫物が周りに来てそれにひれ伏す(シャーハー:敬意を払う、身を投げ出す)、という内容であった。
皆さんは、自分の収穫物に、周りの収穫物が集まって来てひれ伏されたいだろうか?宣言するべきである。
彼の夢の内容は、実は私達が日頃宣言しているイザヤ45:14と共通している。詳しく訳すと次のようになる。
『それで主は言われる。エジプトの労苦の実と、エチオピアの商品(収入)、身丈の高いセバ人達が、あなたの所に渡って来て、あなたのものとなる。彼らは、鎖(足かせ)に縛られつつあなたの後ろを歩み、進んであなたにひれ伏し(シャーハー:敬意を払う、身を投げ出す)、嘆願(パーラル:祈る)して言う。「確かに(アフ:本当に、ただ**だけ)神はあなたの内におられ、その神以外に神は無く、他の神々は無である」』
ヨセフの夢の中で、兄達の収穫物がヨセフの収穫物にひれ伏したが、実に、その夢以上の事が実現した。
後に、ヨセフの手元にはエジプトの労苦の実が全部集まり、エチオピアの商品だけでなく、全世界の商品や儲けも、全て、ヨセフの収穫物と物々交換され、またセバ人だけでなく全世界の人々も、ヨセフの兄達も、ヨセフの後ろを歩み、彼にひれ伏し、「奴隷になります」と言って嘆願した。『パロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。』(41:39-40) だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
彼は、奴隷に売られても、恨み言をこぼさず、誠実を養い、いつも「神」を主語として人々と話し、主から見せられた夢は正直に宣言して人に伝えた。たとえ、人から邪険に思われるような内容であったとしても。
ヨセフが牢屋にいた時に解き明かした夢も、収穫に関するものだった(40章)。献酌官は、夢の中では王に捧げる杯を持っており、ぶどうが実ったらすぐ収穫して王に捧げた。彼は、収穫の良いものを王に捧げる志を常に持っていたから、しあわせを得たのだ。しかし調理官は、王のために調理された食べ物のかごを頭の上に乗せ、鳥についばまれても放置していた。すると実際、彼自身が木に吊るされ、鳥についばまれるままとなってしまった。私達も、収穫を得たなら、王なるキリストに、いつでも真っ先に捧げる志を持っているべきである。そうするなら、王の御そば近くで仕える幸いを得られるが、もし、最高の礼拝を捧げようという頭の思いや考えを、悪霊やサタンに貪らせたままなら、やがて私達自身が、ついばまれる者となってしまう。
その後のパロが見た夢には、これから世界的な7年の大収穫の年が来て、その後、非常に厳しい大飢饉の7年間が来る、という意味があった。ヨセフは、神様のなさろうとする謎と数字の秘密を解き、うまく対応して生き延びるだけでなく、世界一の大国にのしあがる術まで、しっかりアドバイスしたので、パロは言った。
神がそれをあなたに知らされたのであるなら、あなたのように神の霊が宿った知恵ある者は、他にいない。
あなたが私の家を治めてくれ、と。 ヨセフのように、いつも神を証し、誠実を養い、主から示された事を正直に伝えるなら、あらゆる秘密を解き明かし、これから起こる事が示されるだけではない。来るべき艱難を、どううまく乗り超えられるか、その方法が示され、誰もが痩せ衰えて行く艱難の時代、逆に、他を出し抜いて断とつトップになれる知恵さえ与えられる。そして、世の王達の方から「支配して下さい」と言って来るのだ。
彼は、大いなる収穫の時期、誰もが掃いて捨てていた収穫物をひとつも漏らさず、ひたすら溜め込んだ。
その後に大飢饉となって、食物の価格が大暴騰した時、その収穫物をもって、全世界の富をかき集めた。
それを用いて、神の民イスラエルが大いに産んで増えていくための肥沃な地、ゴシェンの地を用意した。
今、天声・エクレシアは、現代のヨセフとなって、御言葉が息吹かれた栄光の次世代教育をするためのシステムづくりを目指している。私達は、主が見せて下さった「夢」を、日々宣言しているだろうか。ヨセフにならって日々、誠実を養っているだろうか。今、その宣言という「蒔いた種」を収穫すべき時が近づいている。
収穫感謝祭の今日、私達に与えられた夢の宣言という「蒔いた種」が、どれほど実ったかを思い返そう。
それぞれの仕事や事業、ミニストリーが豊かに祝福され、その収穫の束に対して、世の収穫がこぞってひれ伏しに来る幸いを得ていく、これからの皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
