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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

ソロモンさえ病ませた「研究してはならぬもの」(伝道者の書7:21-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

箴言を記したソロモンは、人類の誰よりも優れた知恵を主から与えられた。しかし後に、彼は千人の妻と妾をめとり、彼女達にそそのかされ偶像礼拝をし、多くの罪を犯した故に、後の世代は悪に染まってしまった。
ソロモンは誰よりも優れた知恵を与えられた、筈なのに、自分は知者には遠く及ばなかったと23節で言っているが、その原因は25節にある。「わたしは、心を転じて、物を知り、事を探り、知恵と道理を求めようとし、また悪の愚かなこと、愚痴の狂気であることを知ろうとした。」 つまり彼は、物事の知恵と道理を求める際、良い事だけでなく、悪の愚かな事、人の狂気も知ろうとして、それらにじっと目を向け、研究したのだ。
ソロモンは、自然界の成り立ちや世の法則にも、造詣が深かった。植物や鉱石についてさえ深い知識があり、建築技術や裁判においても知恵深く、極めようともして行ったが、彼は「いらぬ事」までも深く探り極めてしまったのだ。その「いらぬ事」、私達がじっと見たり研究してならぬものは、「人の悪や愚かさ」だ。
彼は、人の愚かさを研究し、分類し、調べ見極めようとした結果、悪や愚かさに飲み込まれてしまったのだ。

彼が植物や自然を研究している内はまだ良かった。それらは主が創られたものであり、じっくり見るなら見る程癒されるものだが、罪深い人や愚かな人は、一緒に居れば居る程、調べれば調べる程、病むものだ。
もし私達が、ある人をターゲットにして、その愚かさをじっと見、分析分類し、レポートを作ろうとするなら、「人の愚かさ」に飲み込まれてしまう。相手がどんなに小さな子供であっても、あるいは、自分自身の弱さ愚かさをじっと見て研究しても、ますます意気消沈し、病んで行ってしまうものだ。
人の愚かさは、ウイルスと同じで、ずっと近くでまじまじと見続けているなら、それに感染してしまうのだ。
ソロモンは、偶像崇拝者の女とも積極的に結婚し、世の知恵、人の愚かさも全部、貪欲に吸収したが、酒の中毒者の気持ちを知るために、酒をがぶ飲みしたら無事ではいられないように、自分は知恵者だから、世をもっと知るために、良い事だけでなく罪や愚かさも少し嗜んでみよう、などとは思わないほうが良い。

では私達は、人の悪や愚かさに対し、どうすればよいだろう。
人は、よく接し、良く交わる相手に、染まるものである。競馬好きな人と接すればそうなるし、罵詈雑言が好きな人とよく一緒にいて、同調するなら、そうなってしまう。だから、誰と共に歩むか、よくよく注意すべきだ。
私達がじっと見、交わる相手は、主イエスにすべきである。
人の愚かさや悪をじっと見、そのペースに合わせるなら、ソロモンのようにどんどん汚れと悪に染まって行くが、まず私達自身が、御言葉の土台に立ち、主イエスにある神の民としての立ち位置にしっかり立つなら、悪や愚かさを持った人さえも、主と主の御言葉へと向ける事が出来、主にあって造り変えられて行くのだ。
エノク、ノア、アブラハムは、罪ある周囲の人々の中に住んでは居ても、彼らの愚かさや思想と一つにならなかった。むしろ主の御言葉を守り行い、主と共に歩み、そうして「全き者」(創世記17:1)となった。

私達も、弱い者である。何が良く、何がいけないのか、御言葉から分かってはいても、どうしても自分自身の中から、怒りや愚かさ、弱さが噴出してしまう事がある。そのような時、アダムとエバがしたように主から離れ、隠れようとしてはならない。いちじくの葉のような取り繕いをしても、一切解決にはならない。
ダビデやヨブ、エリヤがしたように、「主の前で」それらを吐き出すのだ。例えば、怒りが噴出してしまう時、「主よ、今わたしは、したくない怒りを発してしまいます。どうか憐れんで下さい。そして二度としなくても良いように、あなたの愛で満たし、聖なる性質を体得させて下さい」と、”祈りつつ怒る”のだ。そのように、何をするにしても主に対して為し、主と交わって行く内に、どんどん主の性質を身につけて行く事が出来る。

また前回も見たように、主の愛、憐れみ、赦しの内に浸しこまれ、主の愛の眼差し、愛の価値観で人を見る事が出来るように、祈るべきである。私達も主の完璧な愛に満たされ、潤されるなら平安が与えられ、愛を動機として接する事が出来るのなら、人を建て上げ、主の似姿へ造り変える事も、主にあって可能だ。
皆さんは、寛容になりたいだろうか。親切になりたいだろうか。怒らず、人のした悪を思わず、全てがまんし、信じ、期待し、忍耐する原動力が欲しいだろうか。愛こそ、その全ての原動力である。(1コリント13:4-6)
人からの汚れを受ける事なく、むしろ主の真実に染まって行き、キリストの似姿へとどんどん造り変えられていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

愛を伴った権威によって従わせる主(マタイ7:28-29)
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週報/メッセージ(説教)概要

『イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。』(マタイ7:28-29)
イエス様には権威があったが、律法学者には、権威は無かった。律法学者とは、律法をよく学び、蓄え、テフィリンされた人だが、人々をいのちへと導く事は出来ず、またイエス様ほどの権威も、無かった。
テフィリンされると、確かに頭脳がよくなる。律法学者も、かなり頭が良かったのであろうが、我々の印象として、律法学者といえばイエス様に逆らったり、あら探しをしたり、議論を仕掛けたりするような印象が強い。
いかにテフィリン教育されても、イエス様というお方と、その愛が伝わっていないなら、現在ユダヤ人のように、ただ頭が良く物質的に祝福されていても人々から嫌われ、叩かれやすいような人達になってしまう。
確かに私達は、子供がより頭が良くなる事を望むし、物質的に祝福された子になって欲しいと願うが、もし、子供が現代ユダヤ人のように、イエス様に逆らう方面で頭脳明晰になってしまうとするなら、恐ろしい事だ。
それを防ぐためには、子供達にまず、イエス様を教える事が先決である。
イエス様のご性質、すなわち、彼の愛を教え、彼が生きておられる事を教え、その御方を呼ぶ事を教え、その御方と出会い、会話し、交わり、共に歩む術を教えるのだ。
その為にはまず、私達自らがイエス様の愛を知り、味わい、体験しなくては、それを教えられない。
日々、賛美と祈りと御言葉によってイエス様と交わり、世と社会において、イエス様と共に歩むのだ。

律法学者の教え方は、命令と、懲らしめ、恐れによる指導であったのに対し、イエス様の教え方は、愛によって人の心を溶かし、自由にし、その自由意思で自ら仕える心を起こさせるものだ。
子供が御言葉の真理と、世における成功の枠組みを体得するために、命令と懲らしめ、恐れによる指導も、幾らかは有益であるが、それ「だけ」にしてしまうと、愛もイエス様も知らない「律法学者」が育ってしまう。
最も大切なものは、イエス様の愛である。「愛がない人」が、いくら預言しても、癒しをしても、身を切った捧げ物をしても、御言葉の深い奥義をひけらかしても、それはただのやかましい、壊れたシンバルだ。
私達は壊れたシンバルを演じていないだろうか。神は、愛である。愛は神のご性質であるため、愛の無い人は、決して神を伝えられない。 『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。』(1ヨハネ4:18)

人は、色々な不足に嘆く。金銀がない、認められる事がない、子供が従ってくれない、と。しかし私達は何より、自分の中に、愛が無い事こそ、嘆くべきだ。愛が無いと嘆き悲しむ心が与えられたら、自分の問題を知るようになる。何より問題なのは、私達が愛の人でない事、愛を知らないで育てられてしまった事だ。
親によって律法学者のように育てられてしまったような人が、愛の人になるには、愛なる主、イエス様と出会う事だ。パウロは以前、バリバリの律法学者で、自分が「よし」と思なら、神の教会さえも迫害していた。
しかし彼は、半ば強制的にイエス様と出会わされた事により、愛の人に造り変えられた。それも、日夜兄弟姉妹のために心砕いて祈り、同胞が救われるためならば、自分が呪われた者になってもいい、と言う程に。
私達がイエス様と出会うなら、パウロのように、強制的に愛の人にさせられてしまうのだ。そのために私達も、イエス様を求めるべきである。イエス様、私と会って下さい、と。解決手段は、主イエス様を「求める」事だ。
『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。』(エレミヤ29:12-14)

律法学者には、正しさはあったかもしれないが、愛や情けは無かった。しかしイエス様は、私達のためにいのちの犠牲を捧げて下さった事によって、愛と憐れみを示して下さった。それで私達は彼に従うのである。
『正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:7-8)
主の愛を求めて主の愛を知るようになり、その愛を伴った権威によって、子供たちを、周りをイエス様の元へと導いていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

この国のために祈り、子を産み、御言葉で教育せよ(エレミヤ29:5-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

安全保障関連法が可決されてしまった。あんなに多くの日本国民が連日、ネットや色々なメディアを通じ、また実際に国会議事堂の面前で反対しているのを見ておきながら、また、憲法学者は104対2で「違憲」と答えたのに、その全てを見ておきながら、それらを踏みにじる形で、強引に可決させてしまった。
これで日本は、直接攻撃を受けていなくても武力行使が使える(集団的自衛権)ようになり、国際平和のために活動している他国軍隊の後方支援のため、承認されれば、いつでも自衛隊を派遣できるようになった。
確かに、安倍政権のあまりにも強引なやり方に、多くの日本国民は連日反対していたが、残念ながら、そのような政権を、選挙で選んでしまったのは、日本国民である。根底の「今の生活が続くならリーダーは別に誰でもいいや」という、政治への無関心が招いてしまった事だ。日本は侍う(さぶらふ:貴人のそばで待機し、その命令を待つ)民族性があるため、リーダーが決めた事に服従する点は徹底しているが、しかし致命的な欠点は、リーダーを誰に選ぶか、という点である。
今の日本の問題は、イザヤ書3章に如実に記されている。
『わたしはわらべ(ネエヤ:子供、(英)ベイビー)を立てて彼らの君とし、みどりご(タアウリ:気まぐれ、暴君、(英)ベイビー)に彼らを治めさせる。民は互に相しえたげ、人はおのおのその隣をしえたげ、若い者は老いたる者にむかって高ぶり、卑しい者は尊い者にむかって高ぶる。』(イザヤ3:4-5)
昔のイスラエルも、未熟な”ベイビー”がトップとなり、その配下の人々は大混乱状態に陥った。
そのようになってしまったのは、占いをする人や偶像崇拝する人など、余計な者も頼りにしてしまったからである(2-3節)。偶像礼拝をする人は、思考停止して判断が鈍くなり、また占いをする人は、悪しき霊に心を明け渡すため、常識ではあり得ないような、とんでもない判断をしてしまう。
このような混乱状態になると、「トップはあの”ベイビー”以外なら、誰でもいい」状態となってしまう。
『その時、人はその父の家で、兄弟をつかまえて言う、「あなたは外套を持っている、わたしたちのつかさびとになって、この荒れ跡をあなたの手で治めてください」と。』(6節)
このまま日本が偶像や占いに頼りにし続けるなら、また、主にそむく事(8節)や、ソドムのように性的な乱れをそのまま推し進める(9節)なら、「あなたは外套を持っているから」などと、どうでもいい理由でリーダーを立てようとするだろう。今まで日本はそうだったし、真理ではない事を続けるなら、これからもそうだろう。
さらに問題なのは、選挙に行っても、マニフェストを読んでも、投票するに足りる人を、候補者の中から見つけるのが難しい、という事だ。これら全ての状況下で、私達キリスト者はどうすべきか。

私達がなすべき事のまず第一は、この国のために執り成して祈る事である。主の義が為され、主の憐れみが注がれるように。破れ口に立って執り成し祈る人を主は探され(エゼ22:30)、その祈りに答えて下さる。いかに国の中に主の民が少なかろうとも、主は、その少数の祈りを聞かれる。
主はエリヤの祈りを聞かれ、主につく人がほとんどいなくなってしまったイスラエルに7千人を残し、信仰を回復させる器たちに油を注がせた。また、主はダニエルの祈りに答えられ、天使ミカエルを使わして時代を支配する霊的勢力を破壊して下さった。私たちの格闘は、肉弾戦ではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものであり(エペソ6:12)、その手段は祈りである。
次に私達がすべき事は、御言葉で教育する事だ。子供達を、また兄弟姉妹同士、互いに養育するのだ。
ユダヤ人はなぜ少数民族なのに、いつでも時代をリードする者となったか。それは、徹底した御言葉教育の賜物である。御言葉が入ると祝福され、その人の霊性だけでなく、頭脳も、肉体も活性化され、時代をリードして行く者となる。(ヨシュア1:8)
そしてさらに私達するべき事は、信仰の子孫を、産んで、増えて、地に満ちていく事である。
キリスト者同士で結婚し子供を産んで行く、あるいは、伝道して霊的な子々孫々を増やして行く事によって、暗闇の世を光の子供達で席巻して行くのである。『妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。』(エレミヤ29:5-8)
この国のために祈り、御言葉で教育し、増えて行く事で、この国を造り変えていく皆さんでありますように!

主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
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週報/メッセージ(説教)概要

『主がシオンの「繁栄(原文:囚われ人)」を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。 』(1節)
イスラエルは神を軽んじた故に、捕囚の憂き目に遭った。主が私達を荒野へと導くのは結局は幸いを与えるためである事を前回学んだが、私達の人生も、敢えて荒野を通らされたり、捕囚の憂き目に遭う事がある。
それは私達の罪が原因である事もあるが、主が敢えて私達を鍛えるために、そのようにされる事もある。
そこで強制的に主と主の言葉に向き合わされ、主でないものに頼る事がいかに愚かで、そして主の支配がいかに素晴らしいかを思い知らされ、結局永遠の幸いへと導くためだ。イスラエルに捕囚先から帰って良いと法令を発布したのは、ペルシヤのクロス王であるが、結局は「主が」した事だと1節にある。
主は素晴らしい事をして下さった!主は私達をも罪の捕縛から開放し、自由にして下さった。とても望めなかった事を、主は奇跡的にして下さった。こんな幸せ、こんな素晴らしい事を、自分は受け取ってもいいのだろうか。主を待ち望む人に備えられている喜びは、そんな「夢みる者」のような、うっとりした幸いなのだ。

『その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主(エホバ)は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。』(2節)
主に信頼し続けるなら、私達神の民は夢をみているかのような喜び笑いで満ち溢れ、そしてその有様を見た、神を知らない人々も「主は大いなる事をされた」と言って主の存在を信じ、主の栄光を褒め称える。
だから私達は普段から、神の民として、キリストを明かしして歩むべきだ。「自分は主にあって歩む者です」と普段から証しているなら主は喜んでと栄光をあらわし恵んで下さるが、そうでない人には現わされない。

『主よ、どうか、われらの「繁栄(原文:囚われ人)」を、ネゲブの川のように回復してください。』(4節)
当時帰って来た捕囚の民は4万人程(エズラ記)、囚われ人はまだまだ残っていた。70年という歳月を捕囚先で過ごし、ある程度の生活が進んでいる。それをいきなり止め、イスラエルに戻るのは大変だろう。
だから祈るのだ。ネゲブの流れ(普段は水が無いが雨季には怒涛の流れになる)のように、捕囚先に残っている彼らを帰らせてください、と。私達も、今まさに捕囚と訓練の中にいる人達の為に、祈るべきだ。
捕囚先から解放され、戻ってきても、やるべき事は尚多く、問題も山積みの状態である。当時帰って来た人々も、エルサレムの城壁は崩されたままで、帰ってきた人々も、いつ以前の邪悪な生活に戻るか分からない霊的状態だった。そこを、ネヘミヤが城壁を再建し、エズラが霊的立て直しを実行した。私達自身、壊されてしまった心や体、家、経済の城壁を、助け主・慰め主なる聖霊が立て直して下さるよう、祈るのだ。

人々は戻って来ても、暫くの間、貧困にあえいでいた。種を蒔いても乏しい収穫にしかあずかれず、穴の空いた財布に入れるような状況だった事が、ハガイ書に記されている。なぜそうだったか。それは、真っ先に建てるべき神の宮をおろそかにしたまま、自分の生活のために奔走していたからだ。(ハガイ1:1-11)
イスラエルの民が戻った当初、確かに笑いで満たされ、国々も、大いなる事をされたと言って、主の栄光を誉めたたえた。しかし、それで終わりではない。肝心なのは、その後、何を優先して立て直すかである。
主の民は、主の国に帰ってきたからには、しっかり主を敬い、礼拝しつつ歩んで行くべきだが、主を礼拝すべき土台を建てずに奔走しても、種を蒔いてもあまり収穫は無く、穴の空いた袋に入れるような状況だ。
『あなたがたはこの日より後、・・・主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。・・・わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(ハガイ2:18-19)

『涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。』(5-6節) 喜びの刈り取りをするために、どこへ種を蒔くべきかが肝心だ。
私達は、世の事柄より、神の国の事柄のほうに優先して蒔くべきである。『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』(ガラテヤ6:8-9)
御霊に、御言葉に、主イエスに種をまき、天と地と海と陸とが揺り動かされ、祝福の雨そそがれて、豊かに刈り取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

奴隷の地と祝福の地との中間地帯・荒野(出エジプト記16:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

神の民イスラエルが、長い間、奴隷生活をしていたエジプトから出て1ヶ月ほど過ぎた時、彼らの口からつぶやきが出始めた。彼らは過去一年ほど、主のすばらしい御業と奇跡を、そしてエジプトに対して降された恐ろしいさばきを、幾つも見てきたはずなのに。ダイナミックな奇跡の日々とは打って変わり、水も食料も自分で調達できない荒野を毎日歩くという、心もとない、地味な日々がしばし続くと、つぶやいてしまう。
この事は、世から贖い出され、罪とサタンの奴隷状態から救われた私達キリスト者も、経験する所である。
救われた当初、世に属する罪深い生活から離れ、体験した事の無かった神様の素晴らしい恵みと奇跡にを経験し、救われた喜びに浸っていたのに、変哲も無い日々が続くと、すぐにつぶやきが出てしまう。

彼らのつぶやきの内容は、『われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。』(3節) だったが、果たして彼らはエジプトにいた時、肉鍋を囲んでパンに飽きたりていたのだろうか? 確かに多少なりとも食べていたかもしれない。
しかしその代わり、彼らは奴隷として束縛され、働いて得たものはすべて搾取され、虐げられ、しまいには、男子が生まれたらナイルに捨てなければならなかった程、希望も自由も無かった。この、エジプトにいた時の、唯一の生きがいと言えば、過酷な奴隷生活の合間に食べる「肉」だったのだろう。
現代風に言い換えれば、過酷な世を生き残って行くための奴隷的な日々の合間、わずかに与えられた休息の時に飲む酒やたばこ、放埒な遊びなどを、懐かしむようなものか。
しかし主は、イスラエルを、以前の奴隷状態から解放して自由にし、乳と蜜が流れる素晴らしい地で、主の基準の歩みをし、全世界を救いへと導くために、エジプトから脱出させたのだ。荒野は、その過渡期である。
この、「荒野での過渡期」こそ、生来染み付いてしまった滅びの性質である「罪の奴隷根性」を抜き去り、神の基準で歩むべき生活スタイルを身につける期間なのだ。どのようにしてそれらを抜き去って行くのか。

「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう。」(出エジプト記16:4-5)
この「マナ」は、現代の私達にとっては「御言葉」であり、「イエス・キリスト」である。(ヨハネ6:48-51)
主は、今まで神無しで生きる内に染み付いてしまった私達の古い体質や、罪とサタンに対する奴隷根性を抜き去るために、ただ御言葉のみ、イエス・キリストのみにしかすがれないような「荒野」の生活へと導く。
荒野での過程は、自分の時間・自分の好む方法を捨て去り、神の定めた時、神の方法に当てはめて、それを習慣とし、生活として身に付ける事である。

人は思う。荒野など最短距離で踏破させて、そのまますぐに約束の地に入れてくれれば良いのに、と。
しかし主は、分相応でない大きな事を、訓練も無しにいきなり預けるような事は、なさらない。
車の教習では、ハンドルを握ったことのない初心者に、いきなり公道を走らせるような事はしない。
同じように、主も私達に一つ一つの教習を与え、祝福の地を受け継いで、世界を救いへと導くという「大きな運転」ができるようになるまで、荒野という教習所で、訓練を与えておられるのだ。
パンが降るのは、安息日を除けば、日毎である。主は信仰の初心者に、何年分もの必要を一気に与える事はほぼしない。先ずは日毎、御言葉に従順し、日毎主からの恵みを拾う事を、地道にじっくり体験させる。
人は思う。もしパンが一週間降らなかったらどうしよう、餓死してしまったらどうしよう、と。しかし御言葉は言う。パンは毎日与えられる、だから、それを集めよ、と。そうして日ごと、主の御言葉は必ず成って行く様を人が見、御言葉は確かで真実だと経験を積み重ねて行く。そのために荒野の期間が設けられているのだ。
そのような地道な日々は、欲しい者がインスタントにポンと与えられる事を願う人には、耐え難いかもしれないが、主はそのような人の疼く願望を萎えさせ剥ぎ取るために「日毎のパンを拾わせる」事から始められる。
中には、疼く願望を何十年も手放さず、いつまでも荒野の過程を卒業できないままの人もいる。
荒野の過程は、入った当初はつらい日々かもしれないが、日々、主の御言葉に自分自身を適合させて行くなら、これほど楽で素晴らしい生き方は無い事に気づいて行く。荒野の道のりは距離にすれば2週間で踏破できる距離である。御言葉に従順し、すぐに荒野を卒業できる皆さんでありますように!

石女から宝石のような世代へ(イザヤ54章)
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『子を産まなかった石女(うまずめ)よ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。』(イザヤ54:1)
なぜ主は、子を産まない女に「喜べ」と言われるのだろう。聖書は、不妊の女や、生まれる望みのない女に奇跡的に子を与え、その子が時代を変えるようになる記述が多いが、それは、母をうめかせ、祈りへと導き、その祈りとうめきによって御前に飾られた子を、御言葉と信仰によって育て、そして時代を変えるためだ。
主は、ハンナに子を産ませなかった。彼女が「声にならない程のうめきの祈り」を生むまでは。(1サム1章)
主は、その暗黒の時代にサムエルを生み落とすために、ハンナを選び、彼女に声にもならない心からの祈りを引き出すために、石女にしたのであろう。それ程までに、「祈り」と「捧げる心」は重要なのだ。
彼女がこの祈りをした時、生まれてくる子は、主に捧げられ、それによって主は、その子をご自分の御旨どおり用いる「きっかけ」を得、こうして時代の指導者でありキングメーカーであるサムエルが生み出された。
「あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たす」(3節)と記されている通りである。

子を産まない女、夫のない女は、世間からの恥がつきものだが、主は、主にすがる人々に言われる。
『恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。』(4-5節) すなわち、主にすがる全ての人には、主ご自身が夫となり、その子にとって、主が父となり、もはや恥じる事も、はずかしめを受ける事もなくなるのだ。

この女が捨てられて悲しんでいた(6-7節)のは、昔、主から離れて好き勝手に生きていたためかもしれない。あるいはハンナのように、時代を変える子を生むための祈りを引き出すためかもしれない。
最初から主に祈り主に捧げる生活をして苦しみや悲しみを経験しないのがベストだが、たとえその中でも主に捧げ祈るなら、主はやがて悲しむ妻を引き寄せるように慰め、大きな憐れみをもって集められる。
主はノアの時代、前の邪悪なもの達は全て水で洗い流し、その後、二度とそのような裁きはしないと、虹をもって契約されたが、私達も、主イエスにあって新しく生まれ変わり、古い性質を全て洗い流したのであるなら、主の憐れみと慈しみは、二度と奪われる事は無い。たとえ山は移り丘は動いても。(8-10節)

不妊の女「うまずめ」。漢字では石の女と書くが、たとえ私達が石のようであっても、ハンナのように心から主にうめき、主を呼び求めて祈るなら、炭が圧縮されてダイヤモンドとなるように、石は宝石へと変えられる。
『苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者(女)よ、見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、サファイヤであなたの基をおき、めのうであなたの尖塔を造り、紅玉であなたの門を造り、あなたの城壁を尽く宝石で造る。あなたの子らはみな主に教をうけ、あなたの子らは大いに栄える。』(11-13節)
不妊の女、石の女、いのちを生み出す事のできなかった女は、ハンナのごとき祈りによって、宝石へと変えられ、宝石へと造り変えられた女は、子をテフィリンし、その子は世を造り変えて行く「宝石」へと育って行く。
たとえ自分の胎で産んだ子でなくても、主の教育によってその子を育てて行くなら、その子は主の前に宝石のような飾りとなる。 『その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。』(イザヤ49:21)

石女ハンナはやがて、宝石のような喜びの賛歌を主に捧げる。イエス様を産んだマリヤの賛歌のような、素晴らしい主への賛美を。私達も彼女達のように、時代を変える世代を産み、宝石のような子達を主に捧げるためには、主にうめきつつ祈る必要がある。この時代のために、この国のために。
ハンナの時代も、マリヤの時代も、暗闇の時代だったが、彼らは宝石のように輝いた。この暗闇の時代、彼女達のように宝石のように御前に輝く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

不信仰なわたしをお助けください(マルコ9:14-29)
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テフィリン教育を真っ先に取り入れ実践しているトォビッ教会の先生や働き人に、テフィリン教育で大切な事は何かと尋ねた所、子供たちに御言葉を暗唱させる事は確かに大事だが、それ以前に、まず親が真理の御言葉によって教育されている事こそ大事だ、と言う事だった。
子供を教育するには、まずは父と母が、子供に提供できる正しい「教えと訓戒」を取り入れる所からである。
今日は、主にあって子育てする親は、どのように問題を克服し、どのように変えられるべきかを学びたい。

『さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。』(マルコ9:14) イエス様が山から降りて来られた時、イエス様の弟子達が一人の悪霊につかれた子供を癒やせなかった事で、律法学者と議論し、群集に囲まれている場面に出会った。
『イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。』
イエス様が嘆かれた真っ先の事は「不信仰」だ。後で分かるが、この子の父親は主の全能である事を信じていなかったし、弟子達にも、祈りが無かった。彼らは、子供の良くない様や悪霊の力は見ていても、主に対する信仰も、祈るというたしなみも無く、ただ議論をしていたのだ。
イエス様は言われる。「その子をわたしに連れて来なさい」と。
『霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。』(マルコ9:22-23)
イエス様はまっすぐ父親に向かった。この、父親の今までの心意気こそが問題だと、見抜いたからだ。
自分自身とイエス様の関係を抜きにして、人に任せっぱなしの状態では、何も起きない。子供の問題、病や悪霊の問題、経済や健康の問題などを主の弟子達や教会に「できるものなら」と丸投げし、それで解決されないなら議論したり人のせいにして、そうして本人自身の信仰は全く放ったらかしにされているからだ。

トォビッ教会でも、テフィリンと出会う前から子供教育に力を入れ、色々な試みをして来たが、やはり壁となったのは「親の信仰」の問題だったという。子供を教会の幼稚園に預かって御言葉に沿った教育をすると、確かに子供達は良い方に変わるのだが、ある子は、家に帰ると悪い状態に戻ってしまい、その悪い状態で戻って来た子が、他の子達にも悪い影響を与え、全体的に悪い方に平均化されてしまうのだ。
そこで親子同時教育をするために、親と子を毎日教会に集め「共同育児」の試みもしたが、今度は教会が色々やってくれるから、教会に任せておけばいい、という雰囲気になってしまった。そこで親の御言葉で教育する事に重点を置き、教会に頻繁に集わせず、自分の子は自分の家でしっかり面倒見るようにさせた。
そうした試行錯誤の中、テフィリンに出会ったという。私達は、この教会の貴重な経験に学ぶべきだ。

『その子の父親はすぐ(KJV:涙と共に)叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』
父は悟った。子供が助けられる以前に、不信仰な自分こそ、何より先ず助けられる必要があったのだ、と。
私達も、涙と共に、主に心から叫ぶべきである。親として、長として足りていない自分を救って下さい、自分からイエス様と関係を持たずに来て、何もかも誰かに丸投げにしていた、不信仰な私をお救い下さい、と。
イエス様に「救って下さい」と叫ぶ時、諸々の問題が解決する下地が整えられる。

『すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。』 本当に良くなる直前、悪霊やサタンは最後の打撃を与え、最悪の状態になったと絶望させるが、イエス様が手を取って起こしてやったように、私達も手を差し伸べるなら起きるのだ。
マタイの並行箇所(17:21)や、KJVでは、この類は「祈りと断食」が必要だと記している。
自分の好む事を止め(断食)、それと引き換えに、ただ神様に向き合う「祈り」に入る事。それが必要だ。
まずは自分自身が御言葉によって整えられ、自分から主に向き合い、自分で祈り、そうして問題を主と主の言葉に持っていくなら、主の素晴らしい栄光を見るのだ。

いのちと死の二者択一とは(ガラテヤ3:9-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

私達の毎日は選択の連続であり、その都度、罪と死の法則は降ろし、いのちの御霊の法則を選び続けるなら、パウロのように永遠において充実した歩みができる事を前回学んだが、「いのち」と「死」の選択についてもう少し詳しく見てみたい。
『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(創世記2:15)
主は、私達を住むべき領域に置き、そこを耕し守り、管理するようにと、私達をその場所に置かれている。
私達は主が置いて下さった場をしっかり耕し守り管理するべきで、正しくそれをするならそこはエデンという喜びの楽園となるのだが、主が置かれた生活ステージには、無視できない「二種類の木」がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類、誰もが必ず通る「二者択一」がある。それは、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。これは人類創造以来、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の選択は、まさに「いのちか、善悪判断か」であり、「善悪判断」こそ、選択してはならぬ「死に至る選択」である。
善悪を知る事とは、すなわち、神のようになる事である(創世記3:5,22)。人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)
神の命令を”敢えて”超え、神から独立した善悪判断をする道は、死へと導かれてしまう道である。

善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事(創世記3:7)、こうしてある意味、人は神のようになった。その”神のようになった”彼らが、最初に気づいた事は、自分達は実は裸であった事だ。
そして、彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、人は力や知識を向上させ、技術を発展させ、自活して生きるようになったが、その生き方こそ、アダム以来の「呪いの生き方」の本性である。
あれをして良いのか悪いのか、あそこに行っていいのか悪いのか、それをひっきりなしに伺いたがる人がいるが、そのように「善悪を知る木の下で支配される生き方」そのものこそ、呪いの生き方だったわけである。

律法は善悪の集大成であり、律法の行いの内にある人は、全て、呪いの中にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
それは、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が私達にも及び、私達も信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じる人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのだ。(ヨハネ14:26)

今、私達が選ぶべき「いのちの木」は十字架であり、「いのちの実」は、まことの食物・イエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
キリストは十字架上で自分の一切の善悪判断を捨てられ、ただ、御父のみこころに委ねられた。
今私達も彼のように自分の全てを降ろし御心に委ねるべきであり、その委ねるべき御心とは御言葉である。
『知恵(御言葉)は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人は幸いである。』(箴言3:18)
だから、御言葉をしっかりたくわえ捉える人、そこに記されている事を心に留めている人ほど、命の実をたくさん得ており、それを守り行う人ほど、いのちの実をたくさん食べているわけである。
「自分は今何を考え、何を感じ、何を判断しているのか」を採用し続けるなら、死へと導かれてしまう。
御言葉には何と書かれてあるか、そちらを採用し、自分の善悪判断を下ろすなら、命を得るのである。
もはや「神のような開かれた目」で、善悪判断する生き方は止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、ますます命を得て行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

パウロのような凛々しい働き人になるために(ローマ7:14-8:11)
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週報/メッセージ(説教)概要

今回の韓国では、テフィリンをいち早く取り入れて子供たちを教育しているトォビッ教会の修養会に参加させて頂き、そこの素晴らしい聖徒達と交わりつつ、礼拝や賛美、祈りの時間を共に過ごし、体験してきた。
修養会では、使徒行伝の全部、すなわち、1章から28章の全てを、一日3回合計9時間の講義を通してみっちり学び、各講義の後は、学んだ内容を自分自身に適用するための祈り会を教会全体で行っていた。
使徒行伝の初代教会の働き人達は、聖霊によって変えられ、迫害する人々の前で凛々しく大胆に立ってイエス・キリストの福音を全世界へと伝えて行ったと同時に、罪や誘惑の問題に対し、真剣に取り組んで行った。今回、特にこの罪や誘惑の問題への対処についての示唆を頂いたので、分かち合いたい。

使徒行伝で特筆すべき人物は、やはり使徒パウロだろう。私達キリスト者は、彼の超人的な働きと、強く凛々しく大胆なあり方に憧れる。彼の強さの秘密は一体どこにあり、どうすれば彼のようになれるのだろう。
私達も彼のようになりたいと願っているのに、自分を見るならば、弱く罪深い所ばかりが目立ってしまう。
為すべき良い事は分かっているのに、それができず、かえって、したくない悪を行なってしまう。この葛藤からどうすれば開放されるのか。実はパウロもずっと同じこの悩みをし、ずっと同じ戦いをして来たのだ。
彼も同じ葛藤をしている事を、ローマ人への手紙(7:14-15)にて綴っている。この手紙が書かれたのは彼の初心の時ではない。第3次伝道旅行の時、すなわち信仰者としても働き人としても誰よりベテランの域に差し掛かった頃に、書かれたものだ。私達がまさに抱えている葛藤を、彼もずっと抱え戦っていたのだ。
彼はどうやって、この問題と対処して行ったのかを見る前に、まず知って置かなくてはならない原理がある。
「そこで、この事(罪)をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(7:17)
ここから、「罪≠私」という原理を見出る。私達が対処すべき「罪」は、「自分」とは別物であり、打ち叩くべきは、罪を犯す「自分」ではなく、自分に罪を犯させる「罪」である。どう対処したら良いのだろう。

キリスト者が葛藤する仕組みと原理は、7章21−23節に記されている。この節で「原理」とか「律法」とか訳されている日本語は、皆、同じギリシヤ語「ノモス」という言葉で、全部「法則」という意味である。
これらの節の中から、3種類の法則を見出す。第一の法則は「神の法則」。しかし、からだの中に異なった法則があって、「心の法則」(第三の法則)に戦いを挑み、「罪の法則」(第二の法則)のとりこにしている。これが葛藤の原因であり、これら三つの法則のせめぎあいがある為に、したい善が出来ないのだ。
つまり事は、頑張りや人格や不屈の精神などの問題ではなく、どの法則に自分を委ねるか、の問題である。
パウロは24節で、自分はみじめだと叫んでいるのに、25節では喜びに溢れ感謝を叫んでいるのはなぜか?それは、みじめな人間の有り様に対する解決法を見出したからだ。そう、対処方法があるのだ!
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この第四の法則”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
全ての人は、重力の法則に縛られ、地上から離れられない。しかし飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗る事で、私達も罪から離れる事が出来るのだ。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?それは「継続的な選択」の問題であり、肉によらず聖霊によって歩み続ける「選択」を日々、し続ける事によって、である。
「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」(8:4)
命の御霊の法則に乗り続けるには、肉によらず、聖霊に従って歩む選択をし続ける事によって、である。
パウロには不屈の精神があったから頑張れたのではなく、「聖霊に従う選択」をし続けたから、全ての迫害や困難、問題に対処できる「御霊」の知恵と力が与えられ続け、主にあってそれらを乗り越えられたのだ。
私達はアダム以来、選択によって罪と死を取り入れてしまった。故に、選択によって、救われるのだ。
私達の死ぬべきこの体を、罪の支配や情欲に「委ねない」と選択し、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の体を義の武器として神に捧げる事を、意思で決定するのである。
もし私達が、パウロの不屈の強さを纏え、と言われるなら絶望しか無いが、日々、御霊を選択し続ける事によってパウロのようになれるのだ。御言葉によって正しく肉の道と霊の道を仕分けし、霊に従って歩む事を選択し続け、パウロのようにいのちに歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
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バビロン化が進んでいく昨今の世界の中において、私達キリスト者はますますきよい者として自らを保ち、御言葉に留まり、働き人としての分を果たさなくてはならない。前回、ダニエルとその3人の友人の有り様から学んだが、今回はモーセの召命の場面から、実際に「働き人」として遣わされて行く有り方を学びたい。

『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。』(出エジプト記3:10)
モーセが召命を受けたのは、80歳という高齢になってから、だった。40年前のモーセだったなら、二つ返事でOKしたかもしれない。しかし主は、人間的なヤル気が大きく気力にあふれている時は、必ずと言っていい程、ご自身のご用のために用いられることは、無い。主は、弱い者を、用いられる。
ギデオンもエレミヤも、自分が若い者だと言う時に召し出し特別なミッションに就かせられた。
80歳。十分な年齢である。これから何かするには、あまりに歳をとりすぎていたが、主が召したのはその時だ。『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。』(2コリント12:9) 何故、弱く小さい人に、主の働きが出来るのか。
「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわした”しるし”である。」(出3:12)
主が共にいる、これこそ、働き人に必須のしるしだ。御言葉は、主ご自身であり、生きておられる。
もし「私達の中に御言葉があり(主が共におり)」、その御言葉が内側でじっとしておれず、出たい出たい、口から発せられて、あの人の所に入って行きたい、と感じるとき、その御言葉を発するべき時である。
エレミヤは、自分の口からもしその御言葉が発せられたら、相手がどんな非道い反応をするか知っていても、発せずにいたなら、自分の中で火となって燃え上がり、焼かれるような思いがした程だ。(エレミヤ20:9)

続いてモーセは、もし自分が遣わされた場合、あなたの名を何と紹介すれば良いですか、と問うた時、『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。』(出3:14) 「I AM THAT I AM」すなわち、神は、「存在する」という名である。これが、私達が相手に伝えるべき主の名であり、アイデンティティである。
イエス様は、「わたし(イエス様)は、在る」事を認めない人は、罪のうちに死ぬ、と言っている。(ヨハネ8:24)
わたしは有る、ギリシア語ではエゴ・エイミーと言うが、人類全ての人には2つの選択肢がある。
自分のエゴを貫き通して、罪の内に死ぬか。それとも自分のエゴを降ろし、イエス様の「エゴ・エイミー」を認めて永遠の幸いといのちを得るか。私達が主を伝える時、必ず主が在るお方である事、そのお方を受け入れるべき事を伝えなくてはならない。神は、いつでも、どこでも「有る」お方。仕事場でも家でも、そして今この時でも。この「在るお方」が「共におられる」というしるしを拠り所とし、私達は遣わされていくのである。

「わたしがあなたを遣わす」「わたしはあなたと共にいる」と主が言われたのに、モーセはまだまだ不安だった。(出エジプト記4:1) そこで神は証拠としてのしるしを与えられる。その真っ先に与えられたしるしは、杖を蛇に変えるしるしである。(4:2-4) 蛇といえば真っ先にサタンを思い出すが、なぜ「蛇」なのか。
神はサタンに活動許可を与えて放つ事も出来れば、サタンをもつかんで封じる権威もあるのだ。
私達にも、蛇をもつかむ権威が与えられている。(マルコ16:18) もし羊達を支配する道具である杖を放棄し地に放り投げてしまうなら、それは蛇となってサタンの野放し状態になってしまう。私達はしっかり羊を治める杖を握り、たとえそれが蛇であっても、掴んで羊の杖に戻し、罪を治めるべきなのだ。

『モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」』(出エジプト記4:10)。 モーセは、これだけしるしが見せられ、主が共におられる事を示されるに及んでも、なお、他の人を遣わして下さいと求めた。
 主がそこまで示して下さったのに、なお断るというのは、愚かさである。私達は主からどんなに素晴らしい御言葉を与えられ、しるしを見せられただろうか。それをじっくり味わい知ったなら、遣わされ行くべきだ。この日本と世界に遣わされ、造り変えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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