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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

愛によって働くしるし(ガラテヤ5:6)
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今回の韓国出張では一週間、Great Faith Churchにて交流させて頂いた。御言葉から右にも左にも離れず、ただ真理に留まる事を徹底して教え、また主イエスが確かに生きて働かれておられる事のあかしとしてのしるし、預言や執り成しの祈りのわざを組織的に訓練し、実践し、それを見て信じた人々が集まり、急成長している教会だ。一週間足らずの滞在で、MERSの影響のため多くのスケジュールがキャンセルとなったものの、得たものは実に多かった。その得て来たものを、分かち合って行きたい。
御言葉は、「ただ」伝えるだけでは不十分である。もちろん、混じりの無い御言葉のみによって養われる事は一番の理想形だが、御言葉は固い食物で、良い物と悪い物とを経験によって見分ける感覚を訓練された人達が消化できるものである。(ヘブル5:12-14)
そのため、霊において弱く幼い人にはどうしても、柔らかい食物が必要だ。(1コリント3:2)
そんな彼らへの養いは、「しるし」である。イエス様は、自分が話しているのは自分からではなく御父が語っておられる事を信じなさい、もし信じられないなら”わざ”によって信じなさいと言われた。(ヨハネ14:10-11)
昨今のキリスト教界では、「わざ」「しるし」を求め、それをもって人々を驚かせ、自分の所に引き込もうとし、それで多くの選民が惑わされて来たため、辟易している所は多分にあったが、聖徒達に「しるし」はもう懲り懲り、と思わせるのもまた、サタンの巧妙な策略だ。
御言葉に伴い、しるしもついて行く事は、聖書に記されている。『弟子達は出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かな事をお示しになった。』(マコ16:20)
御言葉を聞いて、それを信じ、造り変えられる、という人は、確かに存在するが、少ない。しかし「しるし」によって信仰に入る人は、御言葉だけで信じる人よりは、多い。ただし、今まで天声で教えて来たように、しるしだけを求め、御言葉なるキリストを求めないとするなら、その人の信仰はすぐに廃れてしまう。
それ故、私達は福音を伝えるにあたり、御言葉を伝える事のみならず、その内にキリストがおられる事を証するための「しるし」も求める必要があり、それがバランス良くできるよう、学びや訓練が必要である。

Great Faith Churchでは、我々の教会と同じように、御言葉にとどまる事、頑としてそこを離れない事を強調して教えていたが、預言、執り成しの祈りについても、組織的に教え、訓練していた。異言は不信者のためのしるしで本人の徳を高めるが、預言は、信者のための「しるし」で、教会の徳を高める。(1コリント14:22)
そして、それら全てを通して一貫して教えていた事は、預言や癒やしなど「しるし」の根幹に源流として流れるべきは「愛」である、という事ある。(1コリント13章)
最も大切なものは、御言葉の詰め込みでも、知識を蓄える事でも、大々的な預言でもない。「愛」である。
「愛がない人」が、いくら預言しても、癒しをしても、身を切った捧げ物をしても、御言葉の深い奥義をひけらかしても、それはただのやかましい、壊れたシンバルである。私達は壊れたシンバルを演じていないだろうか。預言などの訓練以前に、私達が最も求めるべきは、まず、愛の人となる事だ。
神は、愛である。愛は神のご性質であるため、愛の無い人は、決して神を伝えられない。
しるしは、確かに大事であるが、愛なきしるしは、むなしく、廃れるものだ。実際、愛のないしるしは、廃れた。
だから私達は、行ないにおいても、振る舞いにおいても、神をあらわし表現するために、愛を求めるべきだ。

人はいろいろな不足に嘆く。金銀が、力が、認められる事が、不足している、と。しかし私たちは何より、自分の中に、愛が不足している事こそ、嘆くべきだ。神は全てを満たして余り余らせるお方であり、はじめから何もかも整えようと、愛をもって天で待っておられるのだが、愛が無いとするなら、それを与えられない。
愛なき力は暴力であり、愛なき金銀の満たしも暴力だ。ノアの洪水以前、ネフィリムという力ある有名な者が台頭したが、その世は、ただ神を悲しませる、はなはだ邪悪な世であり、洪水で滅び去るべきものだった。
預言とは何か。それは、愛の神が、愛を持って私達に与えてくださったメッセージである。だから「愛する」事こそ必要なのだ。愛の心が芽生える時、その相手の徳を高める預言のことばが、すなわち、神の言葉を預かって流し出すべきメッセージを、主から見せられる。
福音が伝えられるには、しるしも必要である。そして、しるしは、愛が無ければ何の役にも立たない。
どうか、愛によって歩む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

いのちの木・いのちの水で初まり、終わる(黙示録22:1-5)
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いのちの君・イエス様を信じる時、腹の奥底からいのちの水が泉のように湧き上がり、根源的な渇きは癒され、潤され、周囲へと溢れ流れ出して周りをも潤す。前回に続いて、今回は、黙示録からそれを見たい。
聖書の最後の書・黙示録の最終章にも、同じく、水晶のように輝くいのちの水が流れる様が記されている。
その両岸には「いのちの木」があり、十二種の実を毎月結び、その葉は諸国民をいやす。(黙示録22:1-2)
エゼキエル書では、川は神殿の聖所から流れ出ていたが、黙示録では神と小羊の御座から流れ出ている。
私達は今、キリストにあって、潤っている。あたかも砂漠を旅してきた人が、水を得て潤うように。
この潤いの水は、天の御座から流れて来ている。はるばる天の御座から、この地上へと流れ、そして今、キリストに直結している一人ひとりに届き、キリスト者を潤しているのだ。今、皆さんは潤っているだろうか。
キリストにあって潤いを感じているとするなら、それは天の御座、イエス様と直結している証拠だ。

聖書が、初めも終わりも、いのちの木・いのちを潤す川で始まり、終わっているのは、主は最初から人をそこに居らせるために創られ、それを失ってしまった人類を、そこへと戻す事を大きな目的としているからだ。
人がいのちの木を、楽園を失ったのは、いのちそのものである主の言葉に、背いたからだった。
人は、水の無い砂漠では生きられないように、霊を潤すキリスト無くしては、永遠のいのちを生きられない。
いのちの木から食べず、善悪を知る木から食べた人は、際限なき善悪判断なる「砂漠」をさまよった末、死んでしまう。それに陥ってしまった人を、主は、捨て去ったりあきらめたりせず、救うための行動を起こされる。
すなわち、まず人類に何が神の基準であるかを教え(モーセ五書)、人類はそれに達し得ない事を徹底的に体験させ(歴史書)、そんな人類を救うお方を示し(預言書)、ついには、その御方・キリストへと導くのだ。
人を救うため神が取られた方法は、神の御子が身代わりとなって十字架上で苦しみ、死なれ、復活する事。
この、キリストを信じる人に、いのちの木への道が開かれ、永遠の楽園への道が開かれる。
信仰は聞く事から始まり、聞く事は、キリストについての御言葉による。つまり救いは、アダムとエバが失敗した事の逆、すなわち、聖書に記されている御言葉の通りに守り行う事によってであり、御言葉に交わり、親しむ事によって、人は清められ、新しく 造り変えられて行くのだ。
人を永遠のいのちへと導く人とは、御言葉を伝え、そこに記されている事を守り行わせる人である。
そのような人になるためには、まず、御言葉で腹ごしらえしなくてはならない。
エゼキエルも、黙示録を記したヨハネも、共通して、主から巻物(御言葉)を食べさせられ、その甘さも苦さも味わったように(エゼキエル書3章、黙示録10:9)、私達も御言葉を食べ、その味を知らなくてはならない。

エゼキエルは御言葉で腹ごしらえをした後、鉄面皮で頑なな集団に使わされるが、主は、恐れる事はない、と言われる。『見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石(ダイヤモンド)のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。』(エゼキエル3:8-9)
額は、その人の”人となり”が記される所で、神を礼拝し御顔を仰ぎ見る人には、神の印が押され(黙示録22:4)、獣を拝む者には、獣の刻印が押される。(同13章) 主を仰ぎ見る人は、決して恐れる事は無い。
エゼキエルが遣わされた先は、頑なで鉄面皮の民、火打石のような額の民だったが、主はエゼキエルの額をそれよりもさらに固い、ダイヤモンドの額とされたからだ。ダイヤモンドは、火打石を粉々に砕く。
私達も、いかに相手がコワモテで頑なでも、御言葉で腹ごしらえするなら、恐れる事は無いのだ。
そのためにこそ私達も、聖書の御言葉を食べ、その甘さも苦さも味わい尽くし、腹ごしらえするべきだ。
御言葉を味わえば味わう程、いのちの泉が湧き、敵に対しては、ダイヤモンドのようになれる。

今、世は悲惨と涙で、死の悲しみと絶望で、あふれている。主は人をそこから救い出すために、福音宣教を、人に委ねられた。そして全世界に福音の御言葉が届けられる時、主の救いと正当なさばきが成就する。
その一旦を担うため、私達は主の御座から流れるいのちの水で癒され、潤され、力づけられ、召された。
はびこっている死や悲惨、絶望が、いかに火打石のようであっても、ダイヤモンドのような喜びと希望といのちに塗り替える者として用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

いのちの水が川々となって(エゼキエル47:1-12)
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聖霊が臨む時、私達は力を受ける。聖霊は、いのちの君なるお方・キリストをあらわし、表現し、証する霊であり、それが私達の内に宿る時、キリストのいのちが、腹の奥底から、泉のようにこんこんと湧き上がる。
それによって根源的な霊の渇きは癒され、潤され、いのちの水は周囲へと溢れ 流れ出し、周りも潤すものだ。主は、泉が溢れ潤す如く「いのちの君」であり、それは旧約でも、新約でも、永遠の天国でも、同じだ。
前回、新約・ヨハネの福音書からその事を学んだが、今回は旧約・エゼキエル書から学びたい。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。(エゼキエル書40章)
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)  この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。
40章以降、この、人のものならぬ測りざおを用い、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行くのだが、その内、色々な示しや預言が与えられて行く。
そうして神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。(47章)

人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。
そして、流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。
水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。

『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節) 水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。
『川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。』(12節) 毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

聖霊を受ける時(ヨハネ7:37-39)
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本日は聖霊降誕日、約束の聖霊が弟子達に注がれ、大胆に造り替えられた事を記念する日である。
聖霊はイエス・キリストをあかしする霊であり、聖霊が私達に臨む時、力を受ける。
なぜならイエスキリストを受け入れた時、根本的な渇きは癒され、潤され、その「キリストをあかしする霊」は、泉のように腹の奥底からこんこんと湧き上がり、その溢れたものが、さらに周りへ流れだして行くからだ。

『イエスは立って叫んで言われた、「誰でもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」』(ヨハネ7:37)
人は、世の何者も潤す事の出来ない渇きがある。イエス様抜きで生きていた時、何かおかしい、何かが不足している、今生きている現実より、もっと真実な世界があるのではないか、と求めていたのではなかろうか。
世の楽しみで暫く渇きを紛らわそうとしても、それは一夜限りの祭のように、終わりには、虚しさだけが残る。
イエス様抜きで生きていくなら、必ず渇く。人はなぜ死ぬ存在となったか。それはエデンの園において、御言葉なるお方、いのちの源なるお方に背き、離れ、自分の善悪判断で生きるようになったからだ。
以来、人は木から切り離された枝のように、そのまま放置するならやがて干からび死ぬ者となってしまった。
故に、人が生きるようになるためには、再び、このいのちの源なるお方に、接合される他は無い。
イエス様こそまことの葡萄の木であり、私達は枝である(ヨハネ15章)。このお方に繋がっていない人には、いのちの水は流れて来ず、実を結べないまま、やがて枯れ、永遠の火に投げ込まれてしまう。

イエス様は、祭りの終わりに、大声で叫んで言われる。「渇く者はわたしの所に来て飲むがよい」と。
「イエス様から飲む」とは、イエス様を信じる事。すなわち彼はいのちの君であり私達を死から救う事のできるお方であると信じ、彼に助けを求め、決して渇く事のない水を、わたしにも下さい、と、願う事である。
『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。』(ヨハネ7:38-39)
イエス様を信じる人は、腹の奥底から、生ける水が湧き上がり、溢れ、イエス様を伝えずにおれなくなる。
その最たる例が、同じヨハネ4章に記されている、サマリヤの女だ。
彼女はかつて、5人の男と結婚してことごとく失敗し、6人目の男と同棲している”負の実績”故、人と出会う事を避けるため、わざわざ正午の最も暑い時間を選び、水を汲みに行き来する毎日を送っていた。
いつまで続くとも知れぬ日々の中、いつものように井戸に来ると、イエス様があの井戸のそばで待っていた。
イエス様は言われる。『わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。』(ヨハネ4:14)
彼女も、ひどく渇いていた。過去、失敗して来た自分自身に、毎日人目を憚って暑い日差しの中、汲みに来なければならない毎日に。今一緒にいる男との将来への不安に。そこで彼女はイエスに言った。
「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。」
彼女のこの言葉が、彼女の永遠の転機となった。彼女はイエス様に助けを求め、イエス様から飲んだのだ。

イエス様は彼女の問題の本質に、直球を投げる。「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」
私達の問題の本質も、真の夫・キリストがいない事。真の夫でない者を次から次へと取り替えつつ、恥と失敗の負けパターンを繰り返している事だ。異性、結婚、金銀、仕事など、「偽の夫」を求めれば求める程、渇いて行く。求めれば求める程、ますます渇き、その過程で失敗や恥という”負の実績”も積み上げて行く。
もはやそのような的外れの失敗パターンは、イエス様の足元に置き去り、真の夫・イエス様に求めるべきだ。

彼女がイエス様から飲んだ時、イエス様のいのちが、彼女の腹の奥底から溢れて来た。それは湧き上がって留め置けず、今までの水がめはイエス様の足元に置き捨て、人々にイエス様を伝えに走って行った。
それはキリストを証する霊、聖霊によってであり、彼女は内から湧いて来る水を周りへと流し出し、もはや渇く事がなくなった。人の祭りの虚しい盛り上がりや笑い、掛け声は渇くもので、今まで徹底的に渇かされた。
今、祭りを終えるこの時、イエス様の前に進み出て「あなたが与えて下さる水を飲ませてください」と願い求め、生ける水を得て、川々となって流れ出て、自分ばかりでなく、周りをも潤す皆さんでありますように!

ペニンナとハンナ - 小狐と鳩の性質(1サムエル記1:1-18)
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前回はハンナの性質を見たが、今回、同じ箇所からハンナだけでなくペニンナの性質も詳しく見てみたい。
『こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。』(7節) 一家が年に一度、主の宮に上って礼拝する度に、ペニンナは「主がハンナに子を与えて下さらない点」を突いて苛立たせ、共に主の前で喜び食べる事を邪魔させた。
当時、主への捧げものは動物のいけにえであったが、主は、捧げる「もの」より、礼拝者の心こそ見られる。
「礼拝」は英語では「サービス」と言うように、私達の側から主に「お捧げする」心こそ第一だ。

主は、捧げ物は「傷の無いまったきもの」を求められる。なのに、礼拝者の心をあえてかき乱し、傷つけ、礼拝者を「キズモノ」にするようなペニンナの行為は、花盛りのぶどう園を荒らす小狐のようなものだ。
『われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから。 』(雅歌2:15) この小狐は、ぶどうが実る時期ではなく、実になる前の、花ざかりの時に来て、荒らす。
花より実の方がおいしいであろうに、花をわざわざ荒らすのは、ただ荒らし、実らせない事が目的なのだ。
花婿が「ぶどう園を荒す小狐を捕えよ」と言っているように、小狐捕らえる責任は、私達の側にある。
私達の内に、この小狐の性質、ペニンナの性質が現れた時、それをしっかり捕らえなくてはならない。
ある兄弟姉妹を憎む余り、その人の礼拝さえ阻害しようとする心は、すぐキリストへと捕縛するべきだ。
また、私達の内に、御言葉に歩もうとする花や、主に喜ばれる性質の花が開花しようとした時、あるいは、最高の礼拝を捧げようとする花が、咲こうとするのを妨げる「小狐」には、よくよく注意すべきである。
悔い改めて生まれ変わる決心をしても、三日坊主になるような人は、この「小狐」を対処しないからだ。
この小狐を放置してしまうと、自分自身が主に喜ばれる実を結べないばかりか、礼拝の場で他の礼拝者の邪魔をしたり、交わりの場で他の兄弟姉妹の心を逆撫でするような事を無意識的にしてしまったりするのだ。
花婿主イエスが「小狐を捕らえておくれ」と言われているからには、私達はそれを捕まえ、主にあるぶどうの実が豊かに実るまで、しっかりと心のぶどう畑を、また、教会というぶどう畑を、ガードすべきだ。

ハンナの場合、心が掻き乱されても、しっかりガードし、ペニンナ達の礼拝を掻き乱すような事は、しなかった。彼女は、仕返ししたり、夫にぶちまけたりする事なく、ぐっと堪え、全部主に持っていった。
雅歌書で、花婿が「小狐を捕らえておくれ」と言う直前、花嫁にこう言っている。
『岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。』(雅歌2:14)
聖書では、鳩の「くくぅ」という鳴き声を、「呻く」声としている。(イザヤ38:14,59:11、ナホム2:7)
ハンナは、世の方法や、世の何者かに頼る事なく、まっしぐらに、主という岩へと飛んで行き、声にもならない呻きの祈りを主に捧げた。その顔は、祭司には酔っているかのように見えたかもしれないが、主の御前には愛らしく、美しいのだ。真の花婿であられる主は、鳩のどんな小さな呼び声も聞き漏らさず、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のように、飛び跳ねて来て下さるのだ。

ハンナはやはり、御国において、とても高貴な性質の持ち主である。
なぜなら彼女は、心の状況いかんによって、破壊的な言葉や態度で聖なる食卓を汚さず、そして最高の捧げ物である「砕かれたたましい、悔いた心を、主の前に捧げたからだ。(詩篇51:16-17)
そして彼女は、具体的に、女性にとっての最高の報酬・初めに生まれてくる子を、主に捧げる事を誓った。
もし彼女に子が生まれたなら、乳離れしたら主の宮へ預ける気でいたのだ。
おおよそ、赤ちゃんが乳離れし、立って歩き出し、言葉を覚え、かわいらしい仕草で物事を覚えて行く、その期間の子は、母親にとって、最も喜び楽しむ期間だろう。その最もおいしい期間を、主に捧げたのだ。
それ故主は、彼女が捧げたその子サムエルを尊く用い、イスラエルの歴史で重要なターニングポイントを果たす者、王達に油を注いで任職するキングメーカーとして用いられたのだ。
さらに主は、将来、ハンナにさらに子を産むようにされ、ペニンナよりも満ち足りるようにされた。
私達自身もハンナのように尊く捧げ、幸いな者とされますように、イエス様の名前によって祝福します!

母の日礼拝: 王達に油を注いだサムエルの母・ハンナ(1サムエル記1:1-18)
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本日は母の日である。今回、サムエルの母・ハンナを中心として、どのような人々がイスラエルの歴史を紡いで来たかを見て行きたい。「サムエル記」では、サムエルの活躍が記されているのは最初の8章のみで、あとはサウル王やダビデ王が主役として活躍しているため影が薄いが、サムエルこそ、サウルに油を注いでイスラエルの初代王とし、あの偉大なダビデ王にも任職の油を注いで王としたのだ。
彼は士師の最後であり、イスラエル全体を導く預言者としての最初であり、そして、王たちを任職するキングメーカーとして、とても重要な役割りを担った。その彼を生んだのが、ハンナである。
サムエルの誕生は、ハンナの言葉にならない、人に聞かれない密かな祈りに、由来する。
彼女のような、弱い立場の女性達の祈りによって、イスラエルの歴史を動かす重要な家系や人物が生み出される記事は、聖書に多い。イスラエル民族の母サラも、ルツも、バプテスマのヨハネの母エリサベツも、イエスの母マリヤも、皆立場が弱く、あるいは子が生まれる望みの無い女性だったが、彼女たちの祈りと信仰により神の大いなる力が働き、その子たちが、イスラエルの歴史を大きく動かした。(イザヤ54:1-5)
聖書に偉大な人物は多いが、その全ての背後に、母の祈りとうめきと、信仰による子育てがあったのだ。

『エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。・・・エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。』(1サムエル記1:1-2) 時代は士師記の荒んだ時代であるが、そんな時世でもこの一家は、主への礼拝を欠かさない健全な信仰の一家だった。
しかしこの年ごとの礼拝は、ハンナにとっては心痛い日だった。ペニンナには息子・娘達がいたので、彼女自身の分、さらに息子娘達の人数分の犠牲も与えられたが、ハンナには子がなく、ひとり分しか与えられなかった。そして”主がハンナの胎を閉じていた”点をついて、ペニンナはハンナをいじめていたからだ。
礼拝や奉仕、捧げ物について誰かを悩ませる事、ことに「主が与えてくださらない」点を突いて兄弟姉妹を悩ませるのは、悪い事だ。礼拝の場やクリスチャンの集いという場において、そういった類の悩みやいじめを受ける事があるが、それを人にではなく主に持っていくなら、主が顧みて下さり、幸いを得させてくださる。
ハンナはペニンナに何かで仕返しをする事も、言い返したりする事もなく、夫にぶちまける事もせず、ただ自分の中で押さえ、一人泣き、食事も取らずにいた。そして彼女はついに、この事を主に持っていく。
『万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生の間主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。』(11節)
彼女は悩みと憂いに満ちていたため、眉間に皺が寄り、目を赤く腫らし、苦しみに震えつつ、唇だけが動いていたのだろう、祭司はそんな彼女を「酔っ払っている」と勘違いしたが、主は何もかもご存知だった。
彼女が人知れず、声に出さずに誓った内容も、そしてそれを果たす気でいる事も、主はご存知だった。

彼女は今まで幾度も男の子が与えられるよう祈って来たであろうが、この祈りは、特別だった。
子が与えられるなら、その子を主に捧げます、という誓願をしたのだ。
悩み苦しむ時こそ、自分を手放して主に全てを捧げる時であり、それをするならサムエルを生み出すのだ。
ハンナは祭司からの「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」という言葉を、信じ受け止めた瞬間から、表情も行動も変わった。状況は変わっていないのに、あたかも目の前の問題が解消されたかのような平安に満たされる。私達キリスト者もそのような瞬間を経験する。
聖書に記されている内容を信じ、その内容どおり実行するなら、記されている良き事が現実に起こるのだ。
こうして、時の指導者・サムエルは、一人の不妊の女の、言葉にならない人知れぬ祈り、しかも、祭司さえ「酔っぱらい」と勘違いするような、呻きの祈りによって、生み出される事になる。

ハンナのように、主しか頼りどころがなく、主にのみ必死にすがる人の祈りを、主はよく聞かれる。
私達も心から主を信じて頼り、主に捧げる心をもって祈るなら、時の指導者を生み出す事さえ可能なのだ。
全てを主に委ね、主に捧げ、主に信頼して祈り、サムエルを生み出し、そして愛と御言葉の教育によって、彼らを健全に育てて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

人をとる漁師とは(ヨハネ21:1-14)
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主が復活された日、主は弟子達に「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われ、ほふられたその手とわき腹とを示された。その時いなかったトマスにも現れ、刺し貫かれた手と脇腹、赤く裂け骨まで見えているその傷跡を示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と御声をかけられた。
復活の主は、私達が見たり触ったりできる訳ではないが、いつも共におられ、私達の事を、いつも見て、聞いて、知っておられ、そして、私達が生活を送るあらゆる場面において、そのご性質を現される。
主がその後、弟子達にご自身を現されたのは、テベリヤの湖畔で、弟子達が漁に行った時だった。
この時、彼らは単に食べ物がなくなったから漁に出たのか、それとも、イエス様があまりにも現れないので、以前の世の仕事である「漁」に戻ったのかは分からない。ともかく彼らは、夜通し働いて、何もとれなかった。

魚を水の中から引き上げる「漁」は、福音宣教に似ている。死という水の中でうごめいている人のいのちを、御言葉の網によって捕らえ、死の中から引き上げる。イエス様を伝える事は、まさに「人間をとる漁」である。
しかし、いかに神の子達が首を揃えて集っても、イエス様抜きで、闇の中を一晩中もがいて「世の漁」をしても、何もとれない。しかし、義の太陽であるイエス様が現れ、その御言葉に従う時、そんな闇雲の虚しい努力は終わりを告げ、安息と喜びの内に、大漁を得る事ができる。
『夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(ヨハネ21:4-6)
彼らは、イエス様だとは分からない時に、お言葉に従順し、従順した時、圧倒的な結果が待っていた。
ゆえに大事な事は、イエス様を「知識で知る」以前に、主の言葉を「聞いて実行する」事である。
自然界は、イエス様に服従する。天地は主の御言葉に服すのだが、どういう訳か、人だけが従順でない。
しかし、私達がイエス様の言葉に服従し、その圧倒的な結果を見る時、はじめてイエス様を知るのである。

人間をとる漁師とは、イエス様の言葉に従順し、イエス様が「ここ」と言われた所に、イエス様が示された御言葉の網をおろすだけであって、一晩中「闇雲」に運任せで網を降ろすものではない。パウロも、およそ千キロ以上、霊的収穫も特に無いまま、さまよった末、ようやく御心はアジアではなくマケドニアにある事が分かり、それに従順した結果、ヨーロッパで最初のキリスト教会がピリピに建てられた。(使徒16:6-15)
御胸に従順しないで、ただ自分の好む「大漁」を目指して闇雲に走るなら、網に雑魚が入ってきても、毒魚が入ってきても両手放しで喜んでしまうという、恐ろしい事になってしまう。私達がイエス様のお言葉に従うなら、良質の魚が、自ら御言葉の網の中に入ってくる。だから、人間をとる漁師とは、自分のやりたい事を降ろし、「あなたのお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」の連続なのだ。
実際ペテロは、この言葉のゆえに、人間をとる漁師となった。

『イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。』(7節) 御言葉に従順し、圧倒的な御業を見る時、それは「主であった」と知る。そればかりでなく、主は、闇雲に苦労した末に従順した私達に、ごちそうを用意して待っておられる。『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。』(8-9節)
こうしてイエス様が用意して下さった魚に、主に示されて私達のとった魚も加えられ、宴会が始まるのだ。
『シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。』(11節) かつてペテロが召命される時に彼が降ろした網は、破れてしまった(ルカ5:6 KJV)。しかし今回、こんなにも大漁であったのに、網は破れなかった。
イエス様が十字架で勝利し、復活以降の網は、決して破れない。イエス様に一度捕らえられたなら、決して離れる事なく、見捨てられる事なく、世の終わりまでいつも共にあるのだ。
この主の御言葉の網、愛の網に捕らえられ、さらに多くのいのち達を、死という水の中から引き上げ、救い出し、主の働き人として働く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

キリストの働きと喜び(ヨハネ17:13-23)
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先週主日からの韓国での働きは、祝福の内に終える事ができた。主は、あらゆる面で便宜を図り、働きの場を備えて下さった。1週間の日程の内、訪問した教会や神学校や施設、また、牧師や聖徒との交わり会などの面会の場は、合わせるとおよそ16回、その内、3つの場で御言葉の奉仕をさせて頂いた。
訪問して分かった事は、真理はひとつであり、韓国も日本も全世界も、主はただ一人、イエス様のみであり、この、同じ主と主の御言葉に集まる集い(エクレシア)の目的も、伝えるべき内容も、またひとつである事だ。
主は十字架にかかられる直前、私達エクレシアのために、祈られた。
『今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。』(ヨハネ17:13) イエス様は、イエス様ご自身が味わっている喜びを、私達にも味わってもらいたいと、世において御言葉を語られ教えられた。私達が御言葉を通して得られる第一は、喜びであり、御言葉が私達に入るなら、世の何物にも勝る平安が得られ、その平安と喜びは、迫害も死もサタンも決して奪う事が出来ない。事実、信仰の先人達は、主を見上げつつ喜んで殉教して行った。

『わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。』(14節) 私達がイエス様を信じ、御言葉の真理によって聖別される時、私達は世のものではなくなり、天のものとなる。そして、世がイエス様を憎んだように、世は私達聖徒をも憎む。
だから、私達が御言葉によってでなく、世に属する者として歩むなら必ず敗北する。なぜなら世からも天からも敵対され、敵が2倍になるからであり、世の誰よ惨々たる有り様となるのだ。しかし、キリストにあって天に国籍を持つ者として歩むなら、必ず勝利する。なぜなら私達の内にいます主は、世に打ち勝ったからだ。
また、一国の大使には諸々の特別な待遇が図られるように、私達も、キリストにあって天国の大使として働くなら、権限においても、経済においても、あらゆる面において、諸々の優遇措置が取られる。
この優遇措置は、キリスト者達を単に気持よくさせるためではない。神の国をこの世にて拡大させ、悪魔、サタン、あらゆる死によって奴隷化されている魂を、いのちによって征服し返すためだ。(コロサイ2:15)
だから主は、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」(15節)と祈られた。キリストを信じたら、罪も汚れも一切無くなってすぐさま天国に行ける訳ではないのは、私達は世にあって、為すべきつとめがあるからだ。だからイエス様は祈られたのだ。
世にあっては艱難がある。しかし世に対して勝利するコツは、真理の御言葉であり(17節)、真理の御言葉が私達に入る時、私達も天国から遣わされる使者となり、キリストと共に勝利するのだ。

『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。』(20節) 現在、遠く東の国に住んでいる私達にも福音が伝えられたのは、この、キリストに執り成された十二弟子から始まり、多くの信仰の先人たちが、福音を伝え広めたからだ。
キリストは、弟子達のためだけでなく、彼らを通して信じた私達のためにも、執り成された。私達もその務めを担わなくてはならない。『父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。』(21節)
もし人がキリストの御言葉に留まり、キリストの内にいる時、その人は、世のどんな国籍であっても皆、ひとつである。キリストは世を創られ、また万物はこのお方にあって成っており、そのキリストが、私達の内におられる。一体、何を恐る事があろうか。
今回の韓国訪問で、喜び幸いは確かに多くあったが、それは韓国や日本といった「世の国」に、「神の国」を拡大させるという、「主の喜び」であり、単に「楽しかったね」で終わるものでは、断じてない。
主の御心は、天の支配をこの地に拡大させる事であり、その働きはどんどん前進して行く。もし世の喜び楽しみを満たす事が目的で教会に集うような、御言葉も御国も心に留めない人はどんどん置いて行かれるが、御言葉と御国を求める聖徒は、どんどん恵みと喜びが増し加えられて行くだろう。
主人の喜びを一緒に与れる人は、主人から預けられたタラントが僅かであっても、忠実にそれを活用した人だった。御国の働きを増し加え、主イエスキリストの喜びに、ますますあずかる皆さんでありますように!

ご自身がほふられた事を示される主(ヨハネ20:24-29)
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イエス様が復活された日、すなわち週の初めの日(主日)の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れ、戸に鍵をかけて閉じこもっていたが、そこにイエス様が来て「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われ、次に、手とわき腹とをお見せになった。主は、主日に、聖徒達の集まっている所に、入って来て下さる。
この時、トマスだけが集いから離れていて、そこにいなかったが、彼が帰って来た時、弟子たちや婦人達は興奮ぎみに、トマスに恵みを分かち合っただろう。イエス様は確かに生きておられ、私達に現れて下さった、「シャローム」と言って息を吹きかけて下さった、その手とわきには、痛々しい傷跡があった、と。

『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(25節)
トマスは、10人の弟子や婦人達が、よってたかってウソをついて、からかっていた、などと、本気で思っていたわけではなかっただろう。ただ、もし自分が集いに参加していなかった間に、他の兄弟姉妹に主がはっきり現れ、すばらしい事をなされたとしたなら、強烈な「置いてけぼり感」にとらわれるのではなかろうか。
その時にしか味わえない恵みは、確かにある。止むに止まれぬ用事により、あるいは、霊的怠けにより、それを逃すなら、その恵みは兄弟姉妹の分かち合いから頂くしか無いが、主は、もう二度と現れて下さらない訳ではない。たとえ「自分は絶対に信じない」と、すねて、頑なになってしまっても、それでも主日に主の集いに集うなら、主は現れ、シャロームと言って祝福して下さり、その手と脇腹を示して下さる。

『さて八日の後(当日も数えて八日後、つまり次の主日)、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(同26-27節)
もし、イエス様が、肉体を持った人として、目の前に現れ、その、刺し貫かれた手と脇腹、肉が赤く裂け、骨まで見えているような、その傷跡を示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と、やさしい御声で話しかけられたら、皆さんはどうするだろうか。トマスは、ただ、言う他なかった。「私の主、私の神。」と。

主はトマスが「信じない」と言ったその時、その場にいなかったはずなのに、主はなぜか、トマスの言った言葉を知っており、覚えていた。そう、主は私達の不信仰で頑なな時も、主に対して失礼な、主を再び突き刺してしまうような言葉を放つ時、主はそこにいて、聞いておられるのだ。
逆に見るなら、私たちが、主がいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、実は、ちゃんと共におられ、聞いておられ、その時に感じた寂しさ、置いてけぼり感も、全て知り、覚えておられるのだ。
私たちの神、私たちの主は、頑なで信じないトマスのような私達のために、まさに十字架で傷を負われた。
私達はイエス様の生々しい傷跡を見たわけではなく、ただ聞いているだけなので、トマスのように「じゃ、その釘跡に指を差し入れてみよう」などと、主に失礼な事を口走ってしまうかもしれない。
主はそんな私達に、「いいよ、それで信じるなら、あなたの指をここに入れなさい」と、傷跡を示される。
私達は、主のその御苦しみの傷を、リアルに知り、理解する時、キリストの苦しみのその痛そうな様、その生々しい様を感じ取る時、本当に心の底から「私の主、私の神。」と言うことが出来るようになる。

主は、ご自身が「ほふられた」事を、ありありと全世界に示される。天の御座にいます方の手にある巻物の封印を解くのに相応しい方は、唯一、「ほふられたと見える小羊」であり、聖徒達もこの「ほふられたお方」を賛美する。なぜなら聖徒達は、主がほふられた事によって自分は贖われた事を知っているからだ。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9-10)
ヨハネがこの幻を示されたのは、主日である。(黙示録1:10) 私達も主日に兄弟姉妹達と共に御前に集い、主のみ体が裂かれた事、ほふられた事をありありと示していただき、心底から主を礼拝する者でありたい。

主が祭司へと託した祝福の意味(民数記6:22-27)
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前回のイースター礼拝では、戸を閉ざして恐れている弟子達の所に、復活の主が現れ、「安かれ」と言われた事、そしてこ、の言葉に込められた色々な祝福の意味を学んだが、今回、ユダヤ教でもキリスト教でも用いられている民数記6章の有名な祝祷、「主があなたを祝福し・・・」の言葉を学びたい。
そもそも、「祝福」という言葉は聖書でも教会でも頻繁に用いられるが、一体「祝福」とは何だろう。
祝福のヘブライ語「バーラフ」は元々「ひざをつく」の意味で、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、誉め称える」の意味がある。この言葉が最初に登場するのは聖書の最初の書、最初の章からだ。
『神は彼らを”祝福(バーラフ)”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」』(創世記1:28) 主は、人類がこの世に誕生した始まりから、人が産んで増えて、地を治めるように、と、「ひざをついて」便宜をはかって下さったのだ。ちょうど、親が子供の目線に合わせるために、膝をついて、よく食べなさい、健康になりなさいと願う、あの愛の眼差しで。
神に似た、神の子としての人と、また、全被造物のために、主、自らが膝をついて便宜を図り、いのちが増え広がる事を主が応援した結果、それをご覧になられた主は「はなはだ良し」と評価された。(創世記1:31)
今、世界が「はなはだ良い」状態からかけ離れているのは、人が、創造者である主の御言葉に反し、主から離れ、好き勝手に歩んでいる故だ。今、全被造物はうめきつつ、「神の子」たちの現れを待ち望んでいる。
主が祝福して(膝をついて)下さる人とは、創造者なる主の言葉を守り行い、主と共に歩む「神の子」である。
罪が入る前の人類に、主は「生めよ、増えよ」の祝福を与えたが、それと同じ祝福を受けたのがノアであり、アブラハムである。彼らに共通する事は、創造者の言葉を信じて守り行ない、主と共に歩んだ事だ。
彼らのように、父なる神様の御言葉に従って歩み、神の霊に導かれて歩む「神の子」こそ、祝福を受けるに相応しく、彼らのような神の子たち繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を、主は望んでおられる。

主は、御言葉に従順したアブラハムの子孫・イスラエルを神の民とし、祭司を立て、彼らに御言葉を委ねた。
主が大祭司に「こう祝福せよ」と命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福(バーラフ)し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』。このシャーマルには「守る」の他、見張る、気をつける、の意味がある。
自分のかわいい子供なら、泣いても笑っても、夜通し見守っていても、いつまでも飽きないものである。
そのように、どうか主があなたに膝をつき、その愛の眼差しと見守りをもって、昼も夜もいつもあなたに注いでいて下さるように。そうしてあなたが神の子として、創世当初の「はなはだ良かった」状態へと、ますますなって行きますように。それがこの第一の祈りである。
第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』。
この「恵む(ハーナン)」の言葉は、憐れむ、情けをかけるという意味で「具体的な行動を伴った同情」である。
それは新約のギリシヤ語「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているような様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
この祝福は、主が、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみをもって、あなたに情けをかけ、その慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
そして第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け(ナサー)、あなたに平安(シャローム)を賜わるように』である。先週も見たように、この「向け(ナサー)」には、「上げる」「支持する」等の応援的な意味があり、そして「シャローム」は、平和を意味する挨拶言葉で、実に広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
すなわち、主がその御顔をあなた向け、あなたを応援し、あなたが平安で、健やかで、安全であり、知恵と力と栄光と富に満ち、あらゆる悪や敵から守られ、それらに勝利し、そして、あらゆる面で満ち足り、繁栄し、産んで増えて地に満ちて、満足するように、という、実に多様な願いを込めた祈りである。
主は、神の似姿である神の子を、祝福したかったのだ。それも、世界の始まる前から、キリストの内に選び、御前できよく傷なき者として定めておられ、時至ってイスラエルの民に律法という御言葉を託し、神と人との仲保者である祭司に、この祝福の言葉をもって、人々を執り成すように、と、定められたのだ。
どうか、主が膝をついて皆さんを守られ、主が、はらわたのちぎれるような憐れみの表情を皆さんに照らし、恵まれますように。まどろむ事も、眠る事も無い主が、皆さんを応援し、シャロームを与えられますように!

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