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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

ベタニヤの兄弟姉妹 - 永遠の記念の宴会(ヨハネ12:1-8)
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イエス様はエルサレムからさほど遠くないベタニヤのマルタ・マリヤ・ラザロの家に好んで出入りしていた。
エルサレムでは、パリサイ人や律法学者などを相手にする、対決的な働きが多かったのに対し、きっとベタニヤの家は、イエス様にとっては安心してくつろげる場所だったのだろう。
イエス様によみがえらせてもらったラザロの話を前回少し見たが、それ以降、彼らはそれ以降、前にも増してイエス様を純粋に愛し、より真心と愛を込めた「宴会」を、王なるイエス様に設けるようになった。
マルタはかつて、イエス様の足元で御言葉に聞き入っているマリヤを指して自分の手伝いをするようイエス様に指図して逆にたしなめられたが、ラザロをよみがえらせて頂き、イエス様こそ全ての全てであり、彼のなさる事は何もかもが素晴らしいと知って、彼女は、そのもてなしの賜物をより純粋に発揮するようになった。
ラザロも、死んでいた所を蘇らせていただき、今、イエス様と、仲の良い兄弟姉妹達と、食事を共にして、死から救われたいのちを喜び噛み締めつつ、宴会を楽しんでいた。
そして、いつもイエス様の足元で御言葉に聞き入っていたマリヤは、高価なナルドの香油を彼に捧げた。

死から救い出して下さった。いのちの喜びを教えて下さった。よみがえりであり、いのちであられるこのお方の、何もかもが素晴らしい。しかし、そのイエス様が言うには、もうすぐ人々から捨てられ、十字架につけられてしまうという。彼女はだから、葬りのために、自分が取っておいたものの中で一番高価なナルドの香油を自分には一滴も残さず、捧げ尽くし、主が働き歩んできた「足」に塗って、女の冠である髪でぬぐった。
尊くてやまないイエス様には、持てるものを注ぎ尽くしても、足りない。それが成熟した信仰者の姿である。
彼女の、主への尊敬と愛、信仰を、そのナルドに混ぜて注ぎ尽くしたその香りは、主の御前にいっそう高価で尊くなり、その香りは家全体に満ち、天に登り、そして、永遠の記念として全世界に広がった。
それはまさしく、主に捧げられる最高の宴会であり、私達も、尊くてやまないイエス様に愛と尊敬を混ぜ、持てる最高のものを捧げる時、それはナルドの香りとなって天に立ち昇り、永遠の記念として残るのだ。

しかし、主に宴会を捧げる時、敵もまた、そこに”いる”事を、私達は今年学んでいる。
イエス様を裏切るイスカリオテ・ユダが、しゃしゃり出て来て言った。 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」 彼が言った事は尤もらしく聞こえるが、彼は貧しい人を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物をいつも横領し、その三百デナリも、自分のものにしたかったのだ。
主ではなく、聖徒の礼拝や交わりを見て、分析し、値定めし、口出しするような者は、要注意だ。
このような者はイエス様が主ではなく、イエス様にひっついて活躍する自分が主人公であり、もしイエス様が自分の思い通りに動かないとするなら、平気でイエス様を銀貨30枚に替えて売り飛ばすのだ。

この、香り高いベタニヤの宴会をかき乱したユダの下心も、あさましい動機も、当然イエス様は知っていた。
永遠の記念となる聖なる宴会にドロを塗った事に、怒りを露わにしてもいいとも思えるが、そんな事をしたら、マリヤ達のせっかくの尊い奉仕にドロを塗ってしまう事となり、悪魔サタンの思うツボである。
イエス様は、平和のおもむきでユダに諭した。「わたしはいつも共にいるわけではない」(8節)
確かにこの時、ユダも同席しているが、ユダやハマンなどの敵がいつまでも宴会に同席する訳ではない。
彼らが、聖徒の催した宴会の聖なる空気に触れられ、悔い改め、邪悪で汚れた性質を捨て去るなら、新しく造り変えられた者として、いのちを得る。主はそれを望まれる故に、敢えて彼らの同席を許される。
しかしあくまで自分の行いを改めず、相変わらず宴会を汚す役に徹するなら、その者はやがて追い出されて行く。それは私達がどうこうする事ではなく、主がなさる事であり、私達はただ、ベタニヤの兄弟姉妹のように、主の喜びとなる最高の宴会を設けるのみである。ユダのような浅ましい人間が、聖なる香り高い礼拝や奉仕に、汚物を塗るような事は、確かにあるが、私達はそれに対し、怒りや悪で報いてはいけない。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。・・・悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17,21)
自分を裏切る者を前にしても怒らず、悪で悪に報いなかったイエス様の品性を私達も身につけ、敵の面前で幸いな宴会を主から設けていただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

サレプタのやもめ - 死をも超えた宴会(1列王17:17-24)
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前回、最後のパンを預言者エリヤに渡したサレプタのやもめの行ないを見た。
困難の時代、主は、信仰者エリヤ一人だけを養う事で完結するのでなく、やもめの信仰をも用い、それぞれ分に応じた信仰が、この一同を養った。故に神の国の事柄は、主と、信仰者「たち」との共同作業であり、それによって主の共同体全体が潤い、主の恵みと栄光が満ち満ちて行き、喜びが溢れるものなのだ。
困難の時代でも一同の粉と油は尽きる事なく、長い間彼らを養ったが、”主の宴会”はそれに終わらない。

主に守られ養われていたはずの一同だが、やもめの息子は病気になって、それが元で死んでしまった。
『彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:18)
彼女は、災いが起きた原因を、誰か他の人や世情から見出そうとするのではなく、自分の内から見出そうという性質があった。そのように自分の罪や弱さを認める人は、救いから遠くはない。
主が私達に現れたのは、罪を思い知らせて、愛する人を取り上げ死なせるためではないはずであり、日毎主に養われてはいても、望ましくない死が訪れる事はある。主に養われ、救われたはずなのに、なぜそのような死が来るのか。『イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」』(ヨハネ11:4)

エリヤは祈った。『「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(21-22節) エリヤは、長らく雨が降らない事を預言した後、その通りなるよう祈り、また、後に雨が降ると預言した後も、言葉どおり成るよう祈ったようだ。(ヤコブ5:13-20)
主から預かった言葉を発したなら、それでそのまま終わり、ではなく、エリヤのようにそれについて祈るべきである。そして親しい人に災いが下ったり、あるいは罪に陥ったなら、それも真心から祈るべきだ。
神の国は、聖徒と神との対話の内に成って行くものである。主にあきらめて対話しない姿勢、主との交わりを断絶してしまうような姿勢は、滅びる者に共通する性質である。御言葉(ロゴス)に自身の信仰や感情、呻きを混ぜて発するなら、それは実体となり、人にいのちを与え、神の栄光が現れて行くのだ。

『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。・・・「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました。」』(22-24節)
義人の信仰による祈りは、病む人を回復させ、主はその人を立たせて下さり、またその人が罪を犯していたならその罪は赦される。(ヤコブ5:15) エリヤは私達と同じような人である。しかし彼が雨が降らないように祈ると三年六か月の間雨が降らず、また祈ると雨を降らせ、地はその実を実らせた。(同17-18)
だから、心折れる事なく、いつも祈るべきである。それにしても、なぜこれらの事が起きたのだろう。主はエリヤの世話をしたやもめの子を死なせずにおく事も当然できたはずだが、なぜそのようにされたのだろうか。
イエス様は、彼の愛されたラザロが病気である事を聞いても、敢えて2日留まり、ラザロの所に到着した時には、もう死んで4日経過していた。イエス様はなぜすぐに行かなかったのだろう。
それは「死ぬより大事」な事を人々に教えるためである。病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事がある。その大事な事とは、イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる事だ。イエス様こそ、生死を超えたいのちの君である事だ。
もしイエス様が、エリヤが、インスタントに癒していたなら、その大事な事を人々は知らないままだっただろう。
やもめはこの事を通して、主の言葉が真実である事を知ったし、ラザロをよみがえらせてもらった人々もイエス様こそいのちの君である事を知った。主を恐れ愛する人には、死をも超えた宴会が待っているのだ。
パウロもペテロも、祈ったら死人がよみがえったが、誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こり、この人には起きないのか、とった議論は、実は無意味である。
いのちは主のものであり、人がいつまで生き、いつ死ぬかは、いのちの君でイエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。

サレプタのやもめ - 最後の粉と油による宴会(1列王17:8-15)
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私達の王であられる主イエスのために宴会を設けるなら、主が私達に敵の前で宴を設けさせ、敵の前で油を注いで下さる事が、最近特に語られている。今回は、預言者エリヤを養ったやもめから学びたい。
時は北イスラエル最悪の王・アハブの時代、彼はシドン出身の妻・イゼベルに言われるままにイスラエルに偶像礼拝を導入し、主を怒らせていたため、主は人々をご自身に立ち返らせようと、預言者エリヤを遣わし、ここ数年、彼の言葉がなければ、2,3年は雨も露も降らない事を告げた。(1列王記17:1)
実際、エリヤが預言した通り、その後一切雨が降らず、厳しい飢饉となったが、アハブ王はこの力ある神・主に立ち返る事をせず、かえってエリヤを逆恨みし、彼を探し出して捕らえるよう人々に厳命した。
エリヤは主の導きによってケリテ川のほとりに住み、そこの水と、からすが朝夕運んでくるパンと肉によって養われていたが、いよいよ川の水も枯れた時、再び主の言葉が降る。 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう。」(1列王記17:9)

彼女はシドンの一地方に、幼い息子と二人で住んでいたが、飢饉はそこにも及び、もはや彼女の持ち物は、ひと握りの粉とわずかな油だけとなって、それをもって自分と息子のために最後の食卓を整えようと、薪を集めていた所を、預言者エリヤに呼び止められる。水を少し持って来て、飲ませてください、と。
彼女は、人生最後にも思えるその仕事の手を止め、彼のために水を持って来ようとした時、さらに言われる。
「手に一口のパンを持ってきてください。」 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。
主の導きは不思議である。神がエリヤを養わせよ、と命じた女の全財産は、かめに一握りの粉と、びんに少しの油だけ。しかもこの女は、主から「預言者エリヤを養え」と命じられた記憶や自覚は、どうやら無さそうである。しかし彼女には、「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と告白する信仰は、あった。
イエス様は「預言者は自分の郷里では敬われない」事の例として、このエリヤとやもめの箇所を引用されたが(ルカ4:26)、つまり、当時のイスラエルには主の預言者を敬う者は何処にもいなかった、という事なのだ。
主はあまねく全地を見渡し、心が主と一つとなっている人を探され、用いられる。(2歴代誌16:9)
また、イエス様は何度も「わたしはあなたを知っている」と言っている。(黙示録2-3章だけで7回)
彼女は自覚していようといまいと、普段から主を敬う心を主から認められており、預言者を養う素地も出来ていたため、彼女が意識している・いないに関わらず、エリヤを養うよう主から「命じられていた」のだ。
主は言われる。わたしはあなたを知っている、あなたの心も、行いも、そしてこれから為すべき働きも、と。

エリヤは「まず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。」と言った。粉はもう一握りしか無いので、3人分のパンは作れないはず。
しかし、「主が雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という御言葉の約束は、ある。
人の計算ではあり得ない事であり、人情的に見ても非道い話だが、しかし彼女は主が言われた言葉に従い、自分と息子の分の粉をエリヤのため、いや、御言葉なる主に従うために調理し、非常にささやかな「宴会」を設けたのだ。最後の、一握りの粉とわずかな油。しかしそれは主の目には尊い宴会である。
「彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」 御言葉の根拠なく非常識で過酷な要求をする「預言者」には要注意だが、十字架の死を要求する御言葉に従って従順するなら、決して尽きる事の無い祝福が与えられるのだ。
世に吹き荒れている不況という飢饉の中でも、世界に訪れる苦難の時でも、主に守られ養われる者とは、主の御名を否まず、主の言葉を守った者である。力は僅かしか無くても全く関係ない。(黙示録3:8)
天声では2010年最後にこの箇所からメッセージをし、かの一年、このやもめのように主と主の働き人に捧げた聖徒達の粉と油は尽きず、さらに祝福されている様を、主に感謝したが、その粉と油は5年目の今も尽きないどころか、さらに祝福が増し加わり、さらに清められ、豊かにされている。主はまことに真実である。
油も粉も尽きる事なく、更に主の祝福を頂く皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

ヨシャパテ王 - 大きな敵の前の賛美というささやかな主の宴席(2歴代誌20:20-24)
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今年に入って以来、王なる主キリストのために宴会を整えよ、という事が示され、エステル記から学んでいたが、今回はヨシャパテ王から学びたい。彼は南ユダ王国の4代目の王、名の意味は「主は裁く」である。
彼は当初、主の目に適う政治を行った(2歴代誌17章)が、対立していた北イスラエル王国と和解を図ろうとする余り、主の目に悪を行っていたアハブ王の娘と自分の子を結婚させ、そしてアハブに唆され、アラムとの戦争に出て行った結果、アハブは戦死し、ヨシャパテも散々な目に遭って帰ってきた。(同18章)
私達も、主を畏れ敬わない人との和解を急ぐあまり、相手が主を軽んじたままなのに、連合したり、縁を結んだりしてしまい、彼らの争い事に片足を突っ込んだ結果、災いを身に招いてしまう事がある。
その時、主から預言者が遣わされ、主を憎む者と連合した故に、災いの警告を受けた。(同19章) 
主から注意を受けた時は、へりくだって従うべきである。彼の父アサ王は、彼に警告した預言者に怒りを発して足かせをかけた結果、彼は両足の病にかかり、その足の病が重くなって死んでしまった。

ヨシャパテは、預言による警告を受けた後、主の御胸に適った施政を行っていたが、いよいよ預言されていた災いが来る。エドムから、自軍の何十倍もの数の、おびただしい大軍が攻めてきたのだ。(同20章) 
彼は主に顔を向けて助けを求め、全国に断食をふれさせたので人々は共に集まり、主に助けを求めた。
彼がその集会で祈る祈りは、注目に値する。彼はまず「主がどういうお方であるか」を信仰によって告白する(6節)。主は天に座し全世界を統べ治めるお方であり、対抗できる者は無い事を宣言した。
次に、御言葉を盾にして祈った(7-9節)。彼の先祖アブラハムに永遠にこの地を与えて下さったという主の約束を持ち出し、アブラハムの子孫である自分達がそこから追い出されるのはおかしいと、告白した。
私達も御言葉を盾にとって祈るべきである。病の場合は、イザヤ53章や長血の女の祈り(マルコ5:28)を、貧しさに対しては2コリント9:8-11やピリピ4:19を、悪に対しては詩篇37編などを盾に取って祈るのだ。
その次に彼はやっと、現状を主に訴え、そして最後にようやく彼の願いを申し立てた。(10-12節)
『われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。』
王と民が心を合わせ祈った時、主は具体的な指示と、恐れなくて良い事を、預言者を通して語られた。
現在、私達は神様の御声を具体的に「聞く」という事は、あまり無いかもしれない。しかし、信仰をもって心を尽くして祈る結果、「神様は答えてくださった」と分かる瞬間が来て、言葉では言い表せないが与えられるものであり、キリスト者である皆さんも、何度か経験がある事だろう。
主に全てを明渡し、御心のままになさって下さいと祈るなら、平安と勝利の確信が主から与えられるのだ。

戦いの日、地平線を埋め尽くすような敵の大軍団を前に、イスラエル軍はどのような陣を張ったか。
なんと、その大軍と自軍との間に、全く武装をしていない、聖なる飾り物をつけた聖歌隊を配備したのだ。
戦術的には全くナンセンスな布陣である。地を覆うような敵軍を前に、この聖歌隊は、どれ程ちっぽけに見えただろう。しかしそれは、主の前に何よりも尊かった。彼らは進み出て賛美した。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」。イスラエルは、敵の前の賛美という、ささやかな宴席を、主の前に設けたのである。
すると主は、伏兵を備え敵を襲わせた。伏兵とは、思わぬ所に兵を配備し、敵の意表を突くものだが、主の助けは、私達の思いもしなかった隠れた所から現れ、私達と敵との間に立ちはだかって、戦って下さる。
その結果、敵は敵同士で戦い合い、互いに滅ぼし合い、一人残らず死体になって横たわった。(24節)
最も困難な時、最も忙しい時、最も資力が無い時に、なけなしの時間や体力、資力を用いて、主に栄光を捧げる時、それは主の前にがくわしい香りとなって立ち上り、主の喜ばれる宴席を設ける事になる。
その時、主は思わぬ所から助けを与えられ、敵であるサタンの前で、宴を設けて下さるのだ。
彼らは戦わずして勝利し、分捕りの時、分捕るための武具や高価な物があまりにも多く、3日もかかった。
そして4日目、イスラエルの民はこぞって主を褒め称えて喜び祝い、周りの国々は、主がイスラエルの敵と戦われた事を聞いて、神の恐れが彼らの上に臨み、そのようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。
主により頼むという事が、どんなに幸いであるかを知り、主の素晴らしさを味わい尽くす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

モルデカイ - 死の法令は命の法令で塗り替えよ(エステル8章)
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ハマンは、自ら立てた木に架けられ、呪われた者となり、その代わりにモルデカイは栄誉を受け、ハマンの家もモルデカイのものとなった。ハマンに与えられていた支配の実印は、そのままモルデカイに渡された。
イエス様も私達の身代わりとなるため、父なる神様から、ハマンと同様の罪人とされ、木にかけられた。
そのお陰で、私達はイエス様の家と、イエス様の実印が渡され、神の子としてのあらゆる良き特権を得た。
ハマンは死に、モルデカイには支配の実印が渡され、ハマンの家も与えられたが、まだ一件落着ではない。
このままでは、ハマンが定めたユダヤ人殺害の日、12月13日に、モルデカイもユダヤ人も殺されてしまう。
そこでエステルは、この今だ有効なユダヤ人殺害命令を取り消してもらうために、再び王の前に出たが、王が彼らに言った事は、一度発布してしまった法は取り消せない、だから、ハマンが定めた法律に対抗する法律を定めて、王の名で実印を押し、それをこの国で有効化させなさい、というものだった。

メド・ペルシヤの法令は一度発令されてしまったらもう取り消し出来ないが、天の法令も、そうである。
人は、罪を犯したら必ず死ななければならない、という天の法令は、決して取り消す事ができない。
ハマンは最初、ユダヤ人を殺害し、富を分捕り、それを国庫に収めようとしたが、サタンも同じ目論見をした。
人は神に愛され、守られ、神と共に永遠に生きるはずが、サタンは人を妬んでそそのかし、人が生来持っていないもの、すなわち、外来性の罪の刺を、人に刺した。それで人は、したくない罪を犯すようになってしまった。『この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。』(ロマ7:17)
憐れみ深い主は、それに対抗する法令、すなわち、私達の罪の身代わりとなって木に架けられ死なれたイエスキリストを信じる信仰により、罪赦され、死を免れるという、いのちの御霊の法則を制定して下さった。
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』(ローマ8:1-2)
サタンはキリストによって既に頭を砕かれたが、それでも、サタンが人をそそのかし罪へ陥れたその効力は、今だに猛威を振るったままである。しかし、それに対するカウンターの法則に乗れば、罪と死に打ち勝つ事が出来る。それは、イエス・キリストを信じる信仰の法則によってである。
勝利の鍵は、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の法則に、乗る事であり、そこには自分の資質や能力、努力など、一切関係無い。飛行機に乗るなら、重力の法則を打ち負かして飛行して行くように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則を打ち負かして、死をいのちへと飲み込んで行くのである。主は、法則に束縛された私達に、人の資力によらぬ、法則による解放を与えて下さったのだ。

モルデカイは、ユダヤ人の敵に対しては残らず根絶やしにし、その家財を分捕る事も許す法令を発布した。(9-11節) その良き知らせが早馬によって世界中に告げ知らせられたが、同じように今、福音(エヴァンゲリオン:勝利の良き知らせ)が、世界中に届けられつつある。サタンに敵対して打ち破り、サタンの家財を大いに分捕って良しという勝利の良き知らせは今、全世界に告げ知らされ、私達はその使者となった。
しかし、法則をただ単に知っているだけでは、効力は発動されない。ハマンが定めた法令に対抗手段を講じず、そのまま置くなら、12月13日には滅ぼされてしまうように、日々迫り来る罪や死、病や困難に対し何の行動も起さなければ、やがて滅んでしまう。私達は日々迫り来る罪や死に対しては、イエス・キリストの名によって拒否し、イエスにつく者として勝利を宣言し、そして、信じた通りに、行動しなくてはならない。
サタンが定めた罪と死の法則を鵜呑みにしたままなら、いかに神の民といえ滅んでしまうが、キリストが定めたいのちの御霊の法則を適用し、その通り行動するなら、確かに救われ、勝利し分捕る事ができるのだ。

モルデカイは栄誉が与えられ、青白の王服と金の冠を身に帯びて、王の前から出てきた。(15節)
同じように私達も、王族の祭司の特権と栄冠が与えられ、王として統べ治めるのだ。(1ペテロ2:9)
だから今、私達は主イエス・キリストが定めて下さった、いのちの御霊の法則に、しっかり根ざすべきだ。
サタンは一度、罪と死を人類に導入し、人はそれに何ら対抗できなかったが、今や主イエス・キリストが勝利し、彼にあって堂々と対抗できるようになった。私達は彼にあって、必ず勝利し、分捕る事が出来る!
この法則に従って、勝利の内に歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エステル - 敵が滅びへ導かれた宴会(エステル7章)
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今年に入ってから、王なるキリストの花嫁として身を整えて御前に進み出、王のために宴会を設けるべき事が示され、それをエステル記から学んでいるが、いよいよ、エステルが王に用意した宴会の時が来る。
彼女は王に訴え出る時を、引き伸ばしたが、その晩、重要な二つの出来事が起きた事を、前回までの所で学んだ。それによってユダヤ人モルデカイは、紙一重の所で命拾いしたばかりでなく、一転して、大きな栄誉が与えられた。神の民を訴える者ハマンがそれをくやしがっている所に、エステルの宴会の時が来る。

王は、エステルの願いごとは何かと、二度聞いたが、その都度、先延ばしにされ、じらされていた。
エステルとしても早く伝えたかったであろう。しかし、時機を得ていなかったか、あるいは単に勇気が無かったか、申し述べる事を先延ばしにしていた。その、彼女が口をつぐむべき時と、語るべき時とを用意して下さったのは、主である。モルデカイが栄誉を受けた事をエステルも聞いて、勇気を得た事だろう。
主は満を期して伝えるべき時を備えて下さったのだ。そしてエステルはその時、言葉を慎重に選んでいる。
「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもし良しとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。」(3節)

王は、願い事をすぐにも言わず、宴会でもてなしてくれたエステルを快く思い、彼女の願い事は何だろう、王国の半分も与えてやっても良い、という気でいた。しかし彼女の願いは、浅はかな「モノねだり」ではなく、なんと、わたしの命を救い、わたしの民族を救って下さい、という、切実極まるものだった。
私達は、願いの内容が切実で必死であればある程、無礼講が許される、と思いがちな所がある。
わたし、こんなに必死なの、切実なの、だから思い量ってよ、と。そうして、出てはならない時や場面にずかずかと入り込み、自分の切実な訴えを高々と挙げ、かえって、大いにひんしゅくを買うような事もある。
しかし彼女は、自分のいのち、自分の民族全体のいのちを救って欲しい、という、切実すぎる内容の願いさえ、「もし王様のおゆるしが得られれば」と、控えめに願い出た。王としては、こんなにも慎ましく、美しく、願い事は何かと言われても、なかなか明かさなかったエステルを、どれ程、いとおしく思っただろう。

王は、そんな事を企んでいる者は誰で、何処にいるのか、と、真っ先に聞いた。エステルを苦しめた相手に怒りを燃やしたからだ。彼女は聞かれたので、初めてその相手を言う。その相手は、この悪いハマンだと。
彼女は何度か王とハマンと顔を合わせていた。にもかかわらず、この時初めてそれを明かしたのは驚きだが、私達も、彼女のようなつつましさを身に着けるなら、王の御前に聞かれ、守られ、栄えるのだ。

ハマンはエステルに命乞いするため、彼女の「長いす(mittah:ベッド、カウチ)」に乗って伏したが、ちょうどその時、王が入って来て、その光景を見た王は烈火のごとく怒り、ハマンの顔は覆われて死刑が確定した。
ハマンの願い方は、エステルとは真逆で、全く時と場所をわきまえておらず、配慮が無かったのだ。
もし妻のベッドに入って伏している男を見かけたら、王でなくても、排除したいと思うものだが、ハマンはそういった思い量りが、欠如していたのだ。わきまえや配慮に欠けていると、災いを身に招くものである。
彼は普段から、むしゃくしゃすると誰彼かまわず呼んでぶちまけたり、そして王に対してさえ、普通の人は寝ている深夜に入り込んで来て、人を訴えようとしたりした。つまり、普段の高慢が彼を滅びに導いたのだ。
結局ハマンは、モルデカイを吊るすために用意した木に自ら架けられ、自分が掘った墓穴に自らが入った。
聖書の至る所に、悪人に対して憤らぬように、主が必ず報いて下さるから、と書いてある。(詩篇37編、他)

私達が主のために用意する宴会にも、ハマンのような、訴える者は存在する。その者が調子に乗って栄えているように見えても、必ず主は「訴える者は誰か」と言う時が来る。その時に、その者を主に言えば良い。
主はエステルの口に、黙るべき時と、語るべき時を授けられ、悪者のたくらみから、最高のタイミングで救われた。主は必ず、悪から救い出して下さる。そしてその主のなさることは、実に時に適って美しい。
主の時を見抜き、エステルやモルデカイのように救いと栄誉を得、主に信頼して歩む民はどんなに幸いであるかを、世に示して行く皆さんであリますように!イエス様のお名前によって祝福します!

モルデカイ - 滞っていた報いが返って来る時(エステル6章)
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私達が王なるキリストを喜ばせるために「宴会」をもうける時、すなわち、キリストの花嫁としてのアイデンティティを身に帯び、「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」という、主の喜ばれる「ごちそう」を用意して備えるなら、主はどのようにしてくださるのか。引き続きエステル記から続けて学びたい。
エステルは願い事を申し上るのをさらに一日ひき延ばした事によって、その晩、二つの出来事が起こる。
その一つは前回見たが、もう一つは、王がその晩眠れず、年代記を読みなおした事だった。

その年代記の中から、モルデカイがかつて為した功績が発見され、その事で彼にはまだ何の昇進も栄誉も与えられていなかった事も分かった。せっかく良い事をしたのに、すぐに報いられず、忘れ去られてしまったのは、その時は災いに思えたかもしれない。しかし主のなさる事は、時に適って美しいのだ。
ハマンがモルデカイを吊るし上げようと上奏しに来るそのまさに直前、王は発見した。王はモルデカイに、どのような栄誉を与えようかと思案しているタイミングでハマンが来たので、丁度良いとばかりに相談する。
「王が栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか。」 ハマンは自惚れ、てっきり自分に栄誉が与えられると思い、自分がされて欲しい事を申し述べた。彼は王服を着て、王の馬に乗りたかったのだが、あいにく、王が栄誉与えようとしたのは、モルデカイで、その通り違わずに彼に実行せよ、との命令が下された。
あわやの所で形勢は逆転した。ハマンはモルデカイ一人の存在で全てが台無しになってしまう程憎く殺したかったのだが、王は彼の手でモルデカイに栄誉を与えさせ、こうして彼の頭に積んだ炭火を爆発させた。
主の民と、その敵の関係も、同じ事が起こる。敵は、主の民を訴え、罪定めし、木に吊して殺したいのだが、王なるキリストは主の民を弁護し、滅びから救い出し、敵の手を用いて逆に栄誉を与えられるのである。
もはや彼の当初の願い、モルデカイを木にかけて殺そうなどとは、上奏できなくなってしまった。

イザヤ61章に記されている通り、主は、主の民で悲しむ者には喜びの油を与え、灰に代えて冠を、憂いに代えて賛美の衣を与え(同3節)、低くされている者を高く引き上げ、報われずにいた者には、報いられていなかった期間分を、倍にして報いられる。(7節)
なぜなら主は、公義を愛する主であり、不法な略奪を憎むからだ。主は誠実を尽くして報いられる。(8節)
『彼らの子孫は諸々の国の中で知られ、彼らの子らは諸々の民の中に知られる。全てこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める。 わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。』(9-10節) この通りにモルデカイは王服を着せられ、頭には王冠が与えられた。
主に依り頼んでいる人が、たとえ灰や荒布をまとっていても、主は卑しめられている民をいつまでも放って置く事はしない。モルデカイがハマンの手によって王冠、王服が与えられ、栄誉の伝令で告げ広められたように、私達も、敵の面前で油注がれ、宴を設けられ、敵が蓄えた栄誉や富を、そのまま引き渡されるのだ。
悪者は自分のために富を蓄えるが、実はそれは、御心に叶う人に渡すための積み立てなのだ。(伝2:26)
モルデカイは、神の民としてのプライドを貫き通し、ハマンが権力を乱用して民族虐殺を企てられた時でも、それに屈しなかったから、このような栄誉が与えられたのだ。私達もそれにならい、神の民としてのプライドをいつも持ち、悪をもって悪に報いず、いつも善をもって悪に打ち勝つものでいたい。

ハマンは悔しがった。ゼレシュや知者達は、モルデカイがユダヤ人なら勝てないと言ったが(13節)、彼らは知っていたのだろう。神の民は、神に誠実に仕えている限り、向かう所敵なしである事を。
この地上で、強くて安定している人とは、権力者や金持ちではなく、主に望みを置き、昼も夜も主を呼び求めている人である。だから私達は、権力者や金持ち以上に、日夜主を呼び求めている孤児や寡婦のほうを恐れるべきである。なぜなら彼女達は、全地を創られた主以外に、頼る所・訴えどころが無いからだ。
モルデカイ達ユダヤ人も、主にのみ望みを置いて、求めていた。だから痛快なまでに形勢逆転し、ハマンは坂道を転げ落ちるような様に落ちぶれて行く。私達も、神様の民として誠実を尽くしているなら、たとえ今低くされていても、必ず主が顧みてくださり、ちょうど良い時に引き上げてくださる。喜びの時も、悩みの時も、主に信頼して歩み、必要な時には助けを得て、地上で栄えていく皆さんでありますように!

エステル - 言葉をつぐむべき時と言うべき時(エステル5:6-14)
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今年最初のメッセージとして、私達の礼拝や日常の場が王なるキリストの喜ばれる「宴会」となるために、それに相応しく、身支度を整える事、すなわち、キリストの花嫁というアイデンティティをしっかり身にまとい、「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」という、主の喜ばれる「ごちそう」を用意して備えるべき事を、学んだ。そのようにするなら、どんな結果が待っているのか。エステル記から続けて学びたい。

エステルは、ハマンのユダヤ人虐殺の企てからイスラエルを救うために、多くの人々に祈られつつ、命がけで王の前に進み出た。王はそんな彼女に金の笏を伸べ、願い事は何でも叶えるとまで言った。
しかし彼女の願いは意外にも、王のために宴会を設けるのでハマンと一緒に来て下さい、というものだった。
王はその宴会の席上で、再び「願い事は何か、王国の半分でも叶えられる」と彼女に問いかけるのだが、エステルは、大事な願いごとを言う事なく、またしても、「自分の願いは、明日再び宴会を設けますので、そこにハマンと一緒に来て下さい、その時、おっしゃった通りにします」と言った。
彼女はイスラエルの存亡に関わる大事な申し立てをしようとしているのであり、その成否は、彼女の立ち居振る舞いにかかっていた。だから、軽々しく言動する事を控えたのだろう。

言葉には、言うべき時と、言ってはならぬ時とがある。人は何かと、言いたい事が言えなかった時は、それをぐるぐると思い巡らし、その「思い巡らし」を熟成させた挙句、相応しくない時に、とんちんかんな言葉を発して恥をかき、そして、それが何度も続くなら、変人扱いされ、誰にも相手にされなくなってしまうものだ。
エステルは、またもあのハマンが調子づいて何も言えなかった、訴えたい重要な事を伝える時機を逃してしまった、と、焦りはあったかもしれない。しかし私達は、主が言うべき時を備えて下さるのを、待つべきだ。
実際、一日先延ばしになったおかげで、その夜、とても大事な二つの出来事が起こる。それは、イスラエルを訴える者・ハマンが決定的に失脚するため、また、モルデカイが大昇進するために必要な出来事だった。

エステルはハマンに対し心中穏やかではなかった筈だ。しかし怒りや訴えはまだ言う時ではないとし、あくまで王妃として優雅に、しとやかに王とハマンに接し、宴会へ誘った。それでハマンは上機嫌になった。
そしてその帰り、ハマンはまたもモルデカイと会う。モルデカイが彼を見ても敬礼せず、少しも恐れていない様を見て、憤りに満たされた。彼は、王の権威を自由に行使できる程、昇進しており、輝かしい富を持ち、子供も多く、沢山祝福されているのに、たった一人、モルデカイの故に、その全てがかすんでしまった。
私達も、主から多くの幸いを頂いているというのに、たった一人の言動によって、それら全てがかすんでしまい、怒りで居ても立ってもいられない事もあるが、それは、ハマンに似た、滅ぼされるべき性質である。
私達もモルデカイのように、義を行って動じないなら、彼の存在そのものが、悪人には滅びの元となり、いかに悪人が子宝や昇進に恵まれ、幸いが100あっても、義人の1の義の行いに飲み込まれてしまうのだ。
彼の妻ゼレシュや友人たちは、22mの柱を立て、その上にモルデカイをかけさせる事を、王に進言してみてはと勧め、ハマンはそれを大いに気に入る。
それでハマンは、早速、この事を進言しに、王の所へ出て行く。普通の人が寝ている、深夜だと言うのに。
悪者は憎しみを露わにし、憎い相手の滅びを思い立ったら時をわきまえずにそれをしに訴えに行くものだ。

以上が、ハマンが貶められ、モルデカイが引き上げられるために重要な、一つ目の出来事である。
この出来事だけで見るなら、モルデカイがますます危機に陥り、ハマンはますます栄えているかのように見える。しかし実は、それが主による重要な布石だったのである。
詩篇73編にある通り、一見、悪人はいつまでも栄え、弱い人達はいつまでも虐げられているかのように見えるが、私達が悪人の所業を思い巡らす事を止め、神の聖所に入る時(同17節)、彼らの最後を悟る。
人間の悪のはびこりや悪人の所業を思いめぐらす時、苦痛で、主の御前で獣のようになってしまう(22節)。
しかし、神の聖所に入り、心をただ主に向ける時、世の何にも勝る神の平安に満たされ、主のご計画を知る事が出来るのだ。ハマンのように悪を思い巡らす事を止め、エステルやモルデカイのように善をもって悪に打ち勝ち、悪人の地位に取って代わる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

エステル - 王の喜びのために宴会を整えよ(エステル5:1-5)
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イスラエル民族が訴えられ、民族が皆殺しにされてしまうかもしれない危機の時、王妃エステルは、王に直訴するために、イスラエル全民族から断食して祈られ、そして彼女自身も、三日三晩の断食と祈りをして整えて、王妃の衣装を身に帯びて、王の御前に出た。通常なら、王の許し無く御前に出るなら、死刑であるのに、彼女は王の好意を受けて、笏が差し伸べられた。
多くの人々に祈られ、命がけで王の前に出たのは、イスラエルの救いを訴えるためだった筈なのに、彼女が王の好意を得、「何でも願い求めよ」とまで言われて、真っ先に願った事は、王のために宴会を設けるので来て下さい、という事だった。しかも、あのイスラエルを訴える者・ハマンも一緒に。(エステル5:3-4)
彼女が最も優先させた事は、願いをくどくど訴える事ではなく、イスラエルの救いという大義名分でもなく、まして、自分達を訴える者を訴え返す事でもなかった。ただ、王の喜びとなる事だった。

今年最初の主日にあたり、どのように歩むべきかを求めた所、エステルのように、王なるキリストの御前に出るに相応しく、まずはキリストの花嫁としての衣装をしっかり身にまとい、そして、王なるキリストの喜びとなる宴会を彼のために設けよ、という事だった。
昨年は、一人ひとりの御言葉の領域が格段に広がった一年であり、ノアにオリーブの若枝を届けたの鳩のように、色々な地域へと御言葉というオリーブを届けるべく、羽ばたいて行った一年であった。
御言葉(ロゴス)に信仰を混ぜ、宣言したことばは「いのち」となり、そのいのちが進み入る所では、死がいのちへと塗りつぶされて行く事を多く見たが、今年は、それをさらに成熟させて行く年であろう。
主は、御言葉に留まるなら何でも欲しいものを求めなさい、と、確かに言われた。(ヨハネ15:7)
私達は欲しいものを求めなさいと言われたなら、何かと、あれを下さい、敵を退けて下さい、などと求めがちだが、ここはエステルに習い、まずは私達の側が、王なるキリストの喜びとなる事を求めるべきである。

エステルは最初、王妃の衣装を身に帯びたように、私達も「キリストの花嫁」という正確なアイデンティティをまず身に帯びる所から始めるのである。その花嫁衣装とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙19:8)
私達は日々、キリストと共に歩んで行く事によってのみ、「正しい行い」を積み立てる事が出来、その一歩一歩が「花嫁衣装」を、一織り一織り紡いで行くことになる。
エステルが王の好意を得、王妃とされたのは、女達の監督官・ヘガイのアドバイスに従い、彼が勧めたものの他は、何一つ求めなかったからであり、それによって彼女は全ての人から好意を受けた。(エス2:15)
私達も日々、聖霊の導きとアドバイスに従い、ただキリストの好まれる飾りを身に帯びるのだ。
その飾りとは、「柔和で穏やかな霊という隠れた人柄」であり、これこそ御前に価値あるものだ。(1ペテ3:4)
エステルは三十日間、王に呼び出されていなかった所を行ったが、私達も、主から忘れられてしまっているように感じる時、正しい行いを身にまとい、柔和で穏やかな霊を飾りとして身に帯びる所から始めるのだ。

そうして王の喜びとなる宴席を用意するのだが、主の喜ばれるごちそうは、御父の御心を行いその御業を成し遂げる事である。(ヨハ4:34)主は、主の御声に聞き従う事ほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれない。御声に聞き従う事、耳を傾ける事こそ、何にも勝る主のごちそうである。(1サム15:22)
主はベタニアの家に好んで行かれたが、主が好まれたのは、マリヤの「御元に座って話に聞き入る事」であって、マルタの忙しい給仕ではなかった(ルカ10:41)。また、主がザアカイの宴席で最も喜ばれたのは、彼が悔い改め、財産の半分を貧しい人達に施し、だまし取った物を四倍にして返す告白をした時だった。
私達という教会を、主をお招きするための「宴会場」とするためには、「主の御声に聞く」という食物を用意し、「悔い改め」、「主の御心を行う」というごちそうを用意する事である。そのようにするなら、主がベタニアの家を好まれ、ザアカイの家に泊まる事に決められたように、主は好んでその教会の「宴会」に来て下さる。
エステルがハマンも宴会に招いたように、その宴会には、私達を訴える者も、同席しているかもしれない。
しかしそのようなハマンを気にしてはならず、ただ王なるキリストに喜んでいただく事を求めるなら、主は荒野に、そして、敵の前で宴を設けて下さる。(イザヤ25:6、詩篇23:5)
主の好まれる宴を設け、そうして主から、荒野で、そして敵の前で宴を設けられる一年でありますように!

鳩 - 御言葉を口に咥え全地へ羽ばたく性質(創世記8:11)
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今日は、今年最後の主日礼拝となる。今年最初の主日礼拝で示されたのは、意外にも「鳩」についてだったが、一年を振り返るに、まさに、創世記に登場する「鳩」の性質を体現した一年だった。
ノアの洪水の時、全地は裁きの水によって覆われ、圧倒的な死と絶望の上に浮かんでいた箱舟に、希望の光を届けたのは、鳩だった。鳩は、そのくちばしに、オリーブの若枝を咥え、箱舟のノアの所に戻ってきた事によって、平和と希望が、いのちが、少しずつ戻ってきた事を、箱舟の皆に伝えたのだ。

この天声は今年、横浜という垣根を超え、茨城や静岡、埼玉にある教会や家庭、施設など、色々な地の色々な聖徒たちへ、御言葉というオリーブの若枝を届ける機会が多かった。
私達がくわえて届けるべきオリーブの若枝とは、御言葉である。御言葉を、信仰を混ぜて宣言するなら、それはいのちとなり、いのちとなった御言葉が進む所・入る所には、いのちが増し加わり、その所の人が、いかに死で覆われていようとも、いのちに飲み込まれ、いかに闇に覆われていようとも、光が広がって行く。
御言葉は、まさに生きていて、力があり、それを蓄える人、反芻する人は、ますます力を得、造り変えられ、清められる。これによって良く養われた人は、ますますいのちを届ける鳩として用いられて行く。

今年はまた、聖徒たち一人ひとりの御言葉の領域が、格段に広がった一年であった。
一人ひとりが、信仰を混ぜて御言葉を宣言する事によって、ある人は病を追い出し、ある人は悪霊を追い出し、求めていた道が示され、死をいのちで飲み込んで行った。
毎年クリスマスイブ礼拝では、聖徒達一人ひとりに御言葉宣言をしていただいているが、今年は、宣言した御言葉の中に各々の信仰がじっくりと練りこまれ、いのちが熟成し、去年以上に芳醇な香りを放っていた。
この一年、御言葉をしっかり口に咥えた人、すなわち御言葉を覚え、それをよく噛み締め味わった人は、例外なく、いのちが増し加わってガラリと変わった。
しかし、御言葉というオリーブをくわえない人、すなわち、御言葉を覚えようとも、味わおうとしない人は、変えられる事は無く、清められる事も無く、いのちを届ける働き人として用いられる事も、一切無い。
ノアは最初、カラスを働き手として解き放ったが、カラスはノアが望んだようには動かず、放たれたのを良い事に、気ままに箱舟の周辺を行ったり戻ったりを繰り返すだけで、主人であるノアの腕中には戻らなかった。
キリスト者と言われている人の中にも、カラスのように、気ままに教会と世を行ったり来たりを繰り返し、主イエスの御腕の中に戻らず、教会にも、主イエスに対しても、何の益をもたらさないような人もいる。
時には、外で見つけた屍肉をついばんでは、それを箱舟の中に持ち帰って、箱舟を汚すような事さえする。
御言葉のオリーブを咥えさせてもすぐ吐き出し、屍肉を持って来るような者は、どんどん追い出されて行く。
この天声は日ごと、御言葉と、御言葉なるお方・イエスキリストを、いつも宣言して来た。それ故、御言葉の養いを受けようとしない人、御言葉を咥えない人、世と箱舟をただ行き来するカラスのような性質の人は、どんどん天声には居られなくなって行く。御言葉は光であり、偽りを暴き、闇を拭い去り、汚れを清めていくため、偽りを愛する人、闇の中に隠れていたい人、汚れを好む人には、不都合だからだ。
だから天声は、今まで御言葉に留まり主イエスキリストを宣言して来た事を、ますます、するべきだ。

この一年、広がって行った働きもあれば、閉ざされて行った働きもあった。
御言葉の種を蒔いても、それを根付かせず、いのちを実らせないような土地からは、主は、その種蒔く働き人をそこから取り上げ、別の、もっと豊かに実を結ぶ地へと、導かれる。もったいないからだ。
それ故、私達自身が吐き出されないために、常に御言葉にとどまり、また御言葉を蒔く働き人であるべきだ。
この天声は、設立当初から、働き人を養成する教会としてのビジョンが与えられている。
光を愛する人、偽りや闇を捨て去りたい人、御言葉のとりこになった人たちは、ますます天声に居たくなり、どんどん造り変えられ、成長して行くだろう。だから気を引き締め、ますます御言葉に留まるべきである。
御言葉を口から話さず、それをよく咀嚼し、味わい、それによって命が養われ、そして、私達の主人であるイエス様の御心のままに、平和の鳩として福音をくちばしに咥え、死とのろいに満ちた全地へとはばたいて届けに行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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