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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

リベカ - 主に整えられていた導き(創24:10-27)
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アブラハムの老僕は、遥々千キロ旅をして、やっとアブラハムの故郷に着いたが、心は曇っていた。
見ず知らずの遠い土地の、一度も会った事もない男性に嫁ぎに来てくれるような女性を、アブラハムの血縁の信仰者の中から探し、連れて行くという、条件があまりに厳しすぎる、結婚相手探しの旅である。
もしその女性に断られ、敬愛する主人アブラハムの元に一人で帰らなくてはならないとしたら、主人とイサクはどれ程落胆するだろう。ともかく彼は、夕暮れ時、井戸の傍にらくだを臥させて待った。
当時、水汲みは女の仕事で、女達は涼しくなる夕暮れ時に水を汲みに来るからである。老僕はこのように、来るべき所まで旅し、知恵を駆使して、女性が集いそうな所で待つという所まで実行したが、それ以上の事は、自分の知恵や力ではどうしようも無い。そこで彼は、必死に祈る。「主人アブラハムの神、主よ、どうかきょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵みを施してください。」(12節)
私達も、主人イエス様の幸いのために知恵と力を尽くして仕え、為すべき事を為したら、後は祈るのみだ。

この僕は、イサクの結婚相手が具体的にわかるよう祈り求めた。『私が娘に「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。」と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそあなたがしもべイサクのために定めておられたのです。』(14節)
アブラハムは条件の厳しい頼み事を、僕に託したが、この僕が主に求めた事も、かなり条件が厳しい。
当時の井戸は竪穴で、水を汲むには、内周の階段を降りて行き、何キロにもなった水がめを持って登るという大変な労働であり、しかも、砂漠を旅したらくだは風呂桶ほどの量の水さえ平気で飲み干してしまう。
水をくみに来る女性は当然、見慣れぬ十頭のらくだが目に入るだろう。それを見ておきながら、らくだにも水を飲ませましょうと自ら申し出る女性がいるなら、よほど親切で、勤勉で、もてなしの豊かな女性である。
彼がその祈りを終わるか終わらないかの内に、ちょうど一人の美しい女性が水を汲みに来た。
老僕は彼女に駆け寄り、「あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と語りかけると、彼女は「わが主よ、お飲みください」と答えて、飲ませてくれたばかりでなく、「あなたのらくだもみな飲み終るまで、わたしは水をくみましょう」と自ら走って行き、全てのらくだにも水 を汲だ。彼が祈り終わらない内に来た女性が、彼が願った以上の事をあっけなく成してしまった。
しもべは最後までじっと見守っていた。私達も、祈ったなら主が成し遂げて下さるまで信じて見守るべきだ。
彼女はらくだ全部にも水を飲ませたが、御国の花嫁として最も肝心な事は、勤勉さや人の良さではない。アブラハムの血縁の者、すなわち、神を畏れる者である事だ。そこで彼は贈り物の品を取って彼女に聞く。
「あなたはだれの娘か、わたしに話してください。」彼女は答えた、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」これではっきりした。彼女こそ全て条件を満たした娘、イサクの嫁となるリベカである。
リベカは、普段から勤勉で、目上の旅人を迷わずにもてなす品性を持ち、らくだという”所有物”さえ疎かにしない「小さな事への忠実さ」を持っていた。それで主は彼女に、栄光の家系の母という、大きな任をまかされたのだ。私達も日々、小さい事にも忠実に仕え、自らを霊的に整えているなら、主はさらに大きな事を任せるために、素晴らしく整えられた結婚相手、あるいは整えられた連合先へと、導いて下さるのだ。

老僕は主を褒め讃え、その場でひざまづいて礼拝せざるを得なかった。私達も、物事は具体的に祈るべきであり、祈ったら焦らずじっと見守り、叶えられたなら真っ先に礼拝して、感謝と賛美を捧げるべきである。
今回は、出来過ぎた話に思える程、物事がとんとん拍子に進んだが、クリスチャンは何でもかんでもとんとん拍子に進むわけではないし、神様も、人の身勝手な願いを何でも叶えて下さるわけではない。
このしもべは、”主人アブラハム”のために、祈って、叶えられたように、私達も、主人であるキリストの御心が成就するようにと祈るなら、その祈りは良しとされ、物事はとんとん拍子に進むのだ。
今の時代、信仰者の結婚相手を見つける事に限らず、信仰の働き人を見つける事も難しいように見えるかもしれないが、主はちゃんと必要な伴侶を、バアルに膝を屈めない七千人を、備えておられるのである。
主はその民には、物事がうまく行くよう、神様が特別優遇パスを用意しておられるのだ。(詩篇4篇)
私達が心を尽くして主を愛し、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行うなら、私達は主の宝の民となり、世を歩く時も、あらゆる局面でも、主からの特別待遇をいつでも受けられるのだ。(申命記26:16-19)

イサクの嫁探しを託されたアブラハムの老僕(創24:1-10)
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アブラハムがイサクを捧げて以来、主はあらゆる面で彼らを祝福しておられた。イサクは成長し、嫁を迎えるべき歳になった。イサクが結婚した時は40歳だったが、彼はなぜ、その歳まで結婚しなかったのか。
それは、彼に「相応しい助け手」が見つからなかったからである。相応しい結婚相手とは、家柄でも資産でも、まして美しさでもない。主を敬う信仰がある事である。彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝や不品行がはびこり、イサクをそのカナンの女と結婚させるなど、アブラハムは断じて許さなかったが、サラは死んでしまったし、アブラハムも老い、イサクも40歳になろうとしている。そろそろ結婚相手を見つけなくてはならないが、周りはカナン人ばかり。セムの子孫の神を敬う女性は身近にいないし、訪ねにも来ないし、主の具体的な指示も、特に無い。そこで彼は、待ちの姿勢を止め、信仰による攻めの行動に出た。
私達には諸々の選択において、何でもかんでも、具体的な指示が主から与えられる訳ではない。
アブラハムには「あなたの子孫にこの地を与える」(7節)とは言われていたが、イサクにいつ、誰と結婚させよ、などと、具体的な指示まではなかった。将来像は御言葉によってはっきりしているのに、そこに進めず途中で留まってしまっている。そして主の具体的な示しは無い。そういう場合は、どうすべきだろうか。
サラはかつて、自分に中々子が生まれないのに焦り、自ら考案した世の方法を採用して、失敗した。
アブラハムは今回、与えられている約束の御言葉を軸にし、それを元に、今、どう動くべきかを逆算した。
物事が中々進まない時、静かに御言葉を思い起こし、今、主が自分に求めておられる事は何かを見極め、自主的に主と共に歩む(ハーラフする)事を選択し、行動を取る事を、主は望んでおられるのだ。

そこでアブラハムは、最年長の最も信頼の置ける僕を呼び寄せた。この僕は、かつてアブラハムの財産相続の候補だった、ダマスコのエリエゼルと思われる。エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味で、新約で言う「助け主」と同じ言葉であるが、彼はイサクの嫁探しにおいて、その名前の通りの事を為す事になる。
アブラハムは、手を腿の間に入れる「最も厳かな誓い」を彼にさせたのだが、誓いの内容は成功確率の極めて低いものであった。すなわち、彼の故郷カルデヤのウルに行き、親族の中からイサクに相応しい嫁を連れて来なさい、というのだ。もし皆さんが未婚女性だとしたら、千キロ程むこうの、一度も行った事のない国・一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか。
老僕は、イサクをそこに連れて行っても良いかを聞く。実際に面と向かって会っている男性となら、結婚する気も起きるかもしれない、と、考えたのであろうが、アブラハムの答えは、NOであった。(8節)
ロトがソドムやエジプトを見て、悪い価値観に染められてしまったように、イサクが異国の有り様に魅了され、今まで育んできた信仰生活から離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。
どんな人と結婚するかを、おろそかにしてはならない。ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして人類を滅びに招いてしまったし、ソロモン王やアハブ王、サムソンも、不信仰な妻によって惑わされ、その身に滅びを招いてしまった。

アブラハムは、約束が中々成就されないからというので、手近なカナンの女から選ぶ事は無く、またイサクをこの約束の地から離れさせる事も無く、人間的に見れば確率の最も低い方法、かつ、御心に最も近い方法を選び、この僕に行動させた。それは主への全き信頼があったからだ。
主は今までの人生を、ずっと導いて下さった。だから、イサクの嫁探しにおいても、主が御使いを使わして導いて下さるに違いない。そう信じたからこそ、しもべに堂々と指示する事が出来たのだ。
結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、そして主からの具体的な導きが無い時は、与えられている御言葉から逆算し、積極的に信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取るのだ。
今、進もうとしている道が、御心にかなっており、御言葉の裏付けもあるならば、どんなに確率が低いように見えても、主が為して下さると信じ、進んで良いのである。逆に、御言葉の裏付けが無い単なる世の方法であるならば、いかに成功確率が高いように見えても、一旦止めて、御言葉を思い巡らすべきである。
アブラハムのように主への信頼を積み上げ、主の確かなご性質を経験し、ますます信仰によって行動し祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

アブラハムとイサク - 自らを捧げる礼拝(創22:1-18)
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念願の子イサクもすくすくと成長して行き、楽しく順風満帆な生活を送っているかのようなアブラハムだったが、主はそんな彼に、最大の試練を与える。その試練とは、彼の愛している独り子イサクを捧げる事である。
神は、伊達や酔狂で「捧げよ」と命じているのではない。アブラハムがどれだけイサクを愛しているのかを知らない訳ではないし、神は、ひとり子を捧げるとはどんなに重く辛い事であるかを、知っておられる。
それでもアブラハムはイサクを捧げる必要があったのだ。それは、イサクも、それ以降生まれ出てくる子孫達も、神のものとされ、その子孫から救い主キリストをもたらし、全人類を彼にあって救うため(18節)である。
イエスキリストは救い主、神のひとり子である。神はそのひとり子を、世を救うための身代わりの犠牲とし、彼を救い主として信じる者には、罪の赦しと、神の子としての特権と、永遠の命が与えられるのだ。

『アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。』(創世記22:3) 彼は間髪入れず準備し、翌朝出発した。
彼には大勢の僕もいたが、連れて行ったのは二人の若者だけだった。アブラハムは若者たちにも、恐らくサラにも、「イサクをささげに行く」と具体的に言ってはいなかっただろう。主から示された事が、信仰の弱い人のつまづきになってしまうような場合は、全てを明らかにせず、隠しておいたほうが良い事もあるのだ。
そしてこの場面には、一切、アブラハムの感情表現が記されていない。イシュマエルを追い出すべき時は非常に悩んだ(創21:11)し、サラが死んだ時もアブラハムは嘆いて泣いた(創23:2)のに、この、彼の人生最大とも言える試練の時、聖書はなぜか、彼の心理描写を一切記述していない。
ただ彼は、二つの言葉を言っているのみである。その一つ目は、『あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます。』(創22:5)
彼と息子は礼拝して、また戻ってくる、と、彼は告白した。真の礼拝は、霊とまことによるもの、すなわち、「いのち(原意は「魂」。ギリシア語の”プシュケー”、すなわち思い・意志・感情)」を、主に捧げるものである。
アブラハムは、思い・意志・感情を捧げ尽くしたからこそ、心理描写は一切記される必要は無かったのだ。
彼の二つ目の言葉は「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」(創世記22:8)である。
アブラハムはただ、火と剣とを持ち、子にたきぎを背負わせて、主が示された山「モリヤ(主が備える地)」に登って行った。神は、犠牲の小羊を必ず備えて下さる。彼にはその「期待する信仰」があったのだ。
私達も礼拝において、霊(ニューマ)と魂(プシュケー)を切り分ける御言葉の剣(ヘブル4:12)と、自分の最も大事なものを焼きつくす火と、自分自身を燃やし尽くすたきぎを背負い、神は新しいいのちを備えて下さるという期待を持って、主の定められた所へ行く時、霊とまことによって捧げる礼拝の準備が整うのである。

アブラハムはイサクを実際に縛り、刃物を取り、ほふって神に捧げようとしたその時、「アブラハム、アブラハム。」と呼び声があった。2度呼びかけている所に、主の慌てぶり(?)が垣間見られる。
主はアブラハムに、愛する子を刃物で殺させ、その子をご自身に捧げさせようと、思われたのだろうか?否、彼の心を試みたのである(12節)。そしてアブラハムは、イサクは自分の手で殺され、二度と戻って来ないと思っていたのだろうか?否!彼と息子は、生きて、また戻ってくる事を、彼は信じ告白していた。(5,8節)
彼は、神は死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:19)
そして主は、イサクの代りとして捧げるべき一頭の雄羊を備えられた。『それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』(14節)
神が私達に備えて下さる備えの羊は、まことの小羊キリストであり、神は私達の身代わりとして捧げられた。
神は私達にも、捧げる事を求められる。それは奪うためではなく、遥かに優れたものに置き換える為だ。
私達が大切に握り締めて来た思い、意志、感情の、一つ一つを、少しずつ主に手放して行く時、その手放して行った領域は、主のものとなり、私達が手放したものに遥かに勝る優れたものを備えて下さるのだ。
主はアブラハムに、ご自身をさして誓われた。すなわち、彼を大いに祝福し、子孫を天の星、浜べの砂のように増やし、その子孫は敵の門を打ち取り、全世界は、その子孫によって祝福される事を。
私達も、主の言葉に従って、自らの魂を降ろし、主に捧げるなら、主は、捧げたものをさらに優れたものによって置き換え、私達もアブラハムの子孫として与えられている約束と祝福に、あずからせて下さるのだ。

サラとハガル - 約束の子の母と肉の子の母(創21:1-21)
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いよいよ主は、百歳のアブラハムと九十歳のサラとに、約束しておられた子・イサクを与えられた。
主が「いのちを与える」と言われるなら、どんなに望み得ないように見える人にも、いのちが与えられ、いかに九十歳の女性であっても、子を生ませ、子に乳を与え、養う力さえ与えられるのである。
サラは言った「神はわたしを笑わせて下さった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう。」(6節)
この言葉から、彼女の穏やかな、充足した笑顔が伝わってくる。子を産まない女として、もはや手遅れの女として自分も主人も諦めていたのに、主が子を授けて下さった・・・それはどれほどの喜びであったろう。
神が約束して下さった事は、必ず実現すると信じて待ち、それが成就した時、その人は決して奪われる事の無い笑いで満たされ、揺るがされることのない平安に溢れ、そして敵は恥を見るのだ。

イサクが乳離れした時、奴隷女ハガルが生んだ子イシュマエルがイサクをからかっているのを、サラは見た。
イシュマエルは、それまで、アブラハムの子として中心人物のように見られていたのに、本妻サラからイサクが生まれた途端、一族郎党の注目は彼から離れ、イサクに移ってしまったためだろう。
サラはアブラハムに訴えた。「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」(創世記21:10) アブラハムにはイシュマエルも子である。
相当悩んだ。しかし残念ながら彼女の言う通り、肉による者は、主の約束の祝福を、共に相続はできない。
サラとハガルの二人は、肉の力に頼って生きる人と、神の約束に頼って生きる人をあらわしている。(ガラテヤ4:21-27) 人が御心を退けて、自分の良かれを優先して生み出したものは、残酷なまでに必ず衰退し、神に由来するものに置き換えられて行く。そして、それに執着するなら、苦しみもまた大きなものとなる。
また、”肉”によって生まれたイシュマエルが、“霊”によって生まれたイサクを迫害したのと同じように、世界は昔から、肉に属す者・悪魔サタンに属す者が、霊に属する者・神に属する者を迫害する構図にある。
今まさに世界は、イサクの子孫(イスラエル人)とイシュマエルの子孫(アラブ人)の対立によって振り回され、キリスト者は、イスラム教徒に激しく迫害されている。しかし、肉に属する者は、霊に属する者と一緒に天の相続には決して与れない。やがて切り離され、追い出されて行くのだ。(ガラテヤ4:30-31)

ハガルとイシュマエルの母子は、パンと水の革袋だけを持たされ、家から追い出された。(14-16節)
彼女達は荒野をさまよい歩き、いよいよ水が尽きると、子が死ぬのを見ていられないと投げ出して離れ、声を上げて泣いた。一見、涙を誘う場面だが、彼女達は不必要な放浪をし、不必要な涙を流している。
ベエル・シェバ(七つの井戸の意)には、水も町もある地域なのに、彼女達はわざわざ「荒れ野」方面へ行き、水が無くなった時、すぐ傍に井戸があったのにそれも見逃し、子が死ぬのを見ていられないと悲嘆に暮れ、子を突き放し、離れた所で座って泣いていた。感情に飲まれ、自暴自棄になっていたのが分かる。
何より彼女は、最も大事な事を忘れていた。かつて彼女が高慢のゆえに追い出された時、主の使いが「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」(創16:10) と言われ、わざわざイシュマエル(神は聞かれる)という名前までつけ、この子は確かに祝福され増えていくと教えられたのに。
人は、負の感情に支配されてしまうと、御言葉が茨によって遮られ、自ら滅びへと向かってしまうものだ。
ハガルは、負の感情という茨で御言葉が塞がれ、自暴自棄になり、いらぬ苦労、いらぬ放浪、いらぬ涙を流したように、私達も、思い込みや感情によって御言葉を忘れ、いらぬ労を負ってしまうものだ。
しかし主は憐み深い。主は彼女の目を開き、約束を思い出させ、イシュマエルを生きながらえさせて下さったばかりでなく、彼を荒れ野で弓を射る強い者へと成長させて下さった。(創世記21:20)
しかしハガルは信仰のしっかりした人をイシュマエルの嫁にやるのではなく、エジプトから嫁をもらい、御言葉に頼って生きる生き方からどんどん離れ、自分の腕力や感情を鍛え、それに頼る生き方をして行った。

私達は、肉に属する者になってはならない。サラのように御言葉の約束を信じて待ち望むなら、必ず、永遠にしぼむことの無い笑いと平安が与えられるが、ハガルのように、御言葉に頼る事を止め、自らの血肉や感情を鍛え、それに頼って生きる生き方をして行くなら、たとえ一時は栄えても必ず衰退し、約束の祝福から切り離されてしまう。ハガルのようにではなく、サラのように信じて生きる皆さんでありますように!

アブラハムとサラ(創世記20章) - 約束の子を産む前に必要な表明
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多くの国民の父・母として整えられつつあるアブラハムとサラの間に、もうすぐ約束の子・イサクが生まれる。
その直前に、彼らは以前と同じ失敗を繰り返す。「アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(創世記20:2)
アブラハムは以前、エジプトに滞在した時にも、妻サラに自分はアブラハムの妹ですと言わせ、エジプトの王パロに召し入れられてしまった事があったが(創世記12章)、それと全く同じ失敗をしたのだ。
彼らは、あれから色々な訓練を主から受け、信仰的に成長し、また、偉大な信仰の結果を多く生み出して来たはずなのに、こんな初歩の時に犯したのと同じあやまちを繰り返したのは、どうした事だろうか。
アブラハムには確かに、当地の王・アビメレクに対する恐れはあった(11節)。しかしこの失敗は、無意識的・習慣的な所に原因があったようである。
実はアブラハムは、父の家を出た当初、およそ24年前、妻サラとの間に、ある約束を交わしていた。すなわち彼は、彼女に、どこへ行っても「兄です」と言うよう頼んでいたのだ。(創20:13) 私達も同じ失敗を繰り返してしまう所があるなら、無意識的な「行動」や「口ぐせ」、「思考パターン」に、原因を求めたほうが良い。

信仰が未熟な時期に交わした、はるか昔の約束。彼は父の家を離れて以来、未踏の地へ足を踏み入れ初対面の人と合う度に、自分を防御するために「兄妹です」と言うようになっていた。今回もいつものように無意識的に言ってしまったため、またしても、当地の王(アビメレク)の所へ連れて行かれてしまったのだ。
そしてその時、「実は夫婦です」と言って真実を打ち明ける事もせず、ただ連れて行かれるまま、なされるがままにしてしまった。自分が無意識的に言った事が、おおごとになり、心では同意したくなかったにしても、ひと度自分の口から出して、同意してしまったからには、望まぬ手続きがあれよあれよと進んで行ってしまうと、もう、後からそれを覆すのは容易ではないものだ。だから、最初の勇気が肝心である。
それでも主は、今回も憐れんで下さり、悪くないはずのアビメレクを脅して怖れさせ、悪いほうのアブラハム達を弁護し、そうして誰も罪を犯さないよう、保護して下さった。これらの事は一体、どういう事だろう。

次の21章では、アブラハムとサラにはいよいよ待望の子が生まれ、名実共に多くの父・国々の母となって行くのだが、その前に、主は、その偉大な信仰者に相応しからぬ口ぐせや習慣を取り扱われたのであろう。
アブラハムとサラは異母兄妹なので、確かに「兄妹」には違いないし、今までそう公言した事によって、何らかの利益があったかもしれない。(もっとも聖書を見る限り、その事は不利益しかもたらさなかったが。)
しかし、神様が彼らの間に「子を与える」と約束して下さった以上、すぐに「自分達は兄妹です」という口癖は止め、「自分達は夫婦です」と公言し、周囲にあかししておくべきだったのだ。
彼らが「夫婦」であると表明していて、その上で子が生まれるなら、「神様が私達夫婦に子を与えて下さった」と証して、神の栄光となる。しかし、一体どうして「兄妹」の間に子が生まれて、神の栄光となるだろうか。
神の栄光のために、彼らのアイデンティティは「兄妹」であってはならず、「夫婦」であるべきであったのだ。
私達も、どのアイデンティティを世に表明するかによって、祝福を受ける受けないが決まって来る。

世の中では、皆が当たり前のように許されているような事でも、神の民には許されない事がある。特に、神の国の重要な役割を担っていく働き人であるならある程、そうだ。
主は、主の愛する人を、これからもっと大きな事に用い、さらに大きな祝福を継ぐに相応しく整えようとする時、それまで無意識的に言ってしまっていた不信仰な口ぐせや偽り、不信仰な時に締結してしまった約束や固まってしまった習慣などを気づかせ、それを強制的に改めさせられる。
主に愛されていればいる程、そうである。なぜなら主は、子として扱っておられるからだ。(ヘブル12:5-11)
アブラハム達はその除かれるべき口癖や習慣が取り扱われ、もはや兄妹ではなく夫婦であると、周囲に表明するようになり、こうして神と人との前で夫婦として子を生み、堂々と証できる準備が整えられた。
主にあって、ますます大きな事に用いられ、大きな祝福にあずかるために、罪深い性質や不信仰な口ぐせ、習慣などが取り除かれ、清められ、そして、主からさらに良きものが与えられる素地がますます整えられる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

サマリヤの女 - 生ける命の水を得るために(ヨハネ4:15)
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今回は、イエス様がサマリヤを通られた時、ヤコブの井戸で出会った一人の女について見て行きたい。
彼女は正午頃、井戸に水を汲みに来ていた。砂漠がちなパレスチナ地方で正午頃は、暑く過酷な時間で、誰も好き好んでそんな時間に出歩かないものだが、彼女がその時間に行き来したのには、事情があった。
彼女はかつて、5人の男と結婚してことごとく失敗し、今、6人目の男と同棲している。その”負の実績”故に、誰かと出会う事を避けるため、わざわざその時間に、同棲相手のために水を汲みに行っていたのだ。
いつまで続くとも知れぬ、そのような日々の中、彼女はいつも通り、昼の暑い時間に井戸に来たのだが、その日は、気まずい事に、一人のユダヤ人の男性が座っていた。しかしそれは、実は、イエス様だった。
彼は、彼女に声をかける。水を飲ませてください、と。それは意外な事だった。ユダヤ人とサマリヤ人は、選民と異邦人、尊い民と卑しい民、付き合いは無い筈なのに、彼のほうから、関係を求めて来たのだ。
イエス様は、救いからは程遠いような私達・異邦人にも、声をかけて下さる。飲ませてくれないか、と。

「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。(10節)
彼女は怪訝に思った。この男は汲む物は持たず、井戸は深い。どうやって汲むというのか。また彼は、イスラエル民族の父祖・ヤコブが自分達に与えてくれた水よりも優れた、「生ける水」を与えてくれる、という。
ヤコブの井戸は、水はもう湧き出さず、時折降る雨水を溜めるだけのものだったようであるが、人は、いかに大きな井戸を掘り、いかに多く貯めようと奔走するが、それは結局、壊れた水溜めである(エレミヤ2:13)。
この女が、結婚や安定、異性という「水」によって、渇きを癒やそうとしていたように、人は色々な「水」で渇きを癒やそうとするが、世の水は、飲めばまた渇くし、第一天から恵みの雨が降らなければ水は溜まらない。
イエス様は言われる。『しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。』(14節)
この女も、ひどく渇いていた。過去、失敗して来た自分自身に、人目を憚って暑い日差しの中、毎日汲みに来なければならない毎日に。今一緒にいる男との将来への不安に。そこで『女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。」』(15節)

主イエス様に助けを求める事こそ、全ての問題解決の糸口であり、イエス様に”飲ませる”事である。
イエス様が十字架上で「わたしは渇く」と言われた時、人は、酸いぶどう酒を飲ませた。主がそれを受けた時、「完了した」と言って息を引き取られた。(19:30) 私達も、自分の人生の酸いぶどう酒を、十字架のイエス様に飲ませる時、それは十字架上で完了し、私達には、復活のいのちの水がほとばしり出るのだ。
主は、彼女の問題の本質へと、直球を投げた。「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
イエス様が彼女の問題の本質を言い当てた(18節)ように、主は私達の問題の本質も、全てご存知である。
異性、結婚、金銀、仕事など世のものに潤いを求めて飲めば飲む程、人は渇いて行く。まことの泉なる主から目を反らし、あくまで世の「水」を求め続けるなら、渇きは癒やされず、ますます渇き、それを手に入れるため奔走する過程で、さらに失敗や恥、人への迷惑という”負の実績”も積み上げて行く。
しかし、それら全て負の実績をイエス様に持って行くなら、彼にあって神の栄光を現すものに大逆転する。

彼女は、水汲みをして来た水がめをそのままそこに置いて、町に行き人々に伝えに行った。自分の全てを言い当てたイエス様を。もはや彼女が過去に負った”負の遺産”はイエス様の栄光を現すネタへと変わり、世の何物も満たすことの出来なかった渇きは、主イエス様にあって癒されたのだった。
彼女は、キリストと呼ばれるメシヤがこられ、その方が私達に一切の事を知らせて下さる事を知り、普段から期待していた(25節)。だからこそ、主は、あの井戸の所に来て、彼女を待っていて下さったのだ。
私達も、イエス様に救いを求め、期待すべきである。自分の水がめからイエス様に飲ませ、その重い水がめはイエス様の足元へと下ろすべきである。その時、私達は救いの泉から喜びながら水を汲み、全て負の遺産は主の栄光を現すものと変えられ、世に出て行き、語り継げて行くのだ。(イザヤ12:3)

ロトの妻と娘たち(創世記19:23-38)
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ソドムが滅ぼされる前夜、町に残って滅びが確定してしまった者もいれば、主の憐れみ故に、何とか逃げ出した者もいた。ロトと共に何とか脱出した、ロトの妻と、彼の二人の娘について見て行きたい。
ロトがツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされた。
「ロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。 」(創世記19:26)  この「うしろを顧みた」の言葉は「後ろを向く+見る」で、「見る(nawbat)」の原意はスキャンする、すなわち注意し没頭して見る事の意味である。
彼女は、立ち止まったり振り向いたりしてはならないと命じられていたにもかかわらず、立ち止まって、町が滅んで行く様をじっくりと見入ったため、滅びが彼女に追いついてしまったのである。
彼女は、主が滅ぼすと定めた町の中にある家財や栄華、そこでの暮らし向きに、未練があったようである。
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の「命(プシュケ:思い、意思、感情)」を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:31-33)
私達は、滅ぼすべき罪深き思い、意志、感情は、後ろに投げ遣り、未練を残して振り返ってはならない。
ロトの妻は「脱出元」であるソドムに見入って、塩の柱となって取り残されてしまったように、出エジプトした民も、「脱出元」のエジプトを懐かしんだ結果、荒野で屍となって取り残されてしまった。同じように私達も、滅び行くべき「脱出元」に振り向いて目を留め続けるなら、そこに固められ、置いてけぼりにされてしまう。
私達は、『うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(ピリピ3:14-15)

「ロトはゾアルを出て上り、二人の娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼は二人の娘と共に、ほら穴の中に住んだ。」(創世記19:30) 罪深き低地の町々に懲りたロトは、今度は世俗から離れ生活するのが良いと思ったのか、娘二人を世から引き離し、家族のみで暮らした。
子供は育つにつれ、当然、生殖本能が芽生えてくる。それを強制的に世から隔絶させる結果、何が起こったか。彼女達は、父親に酒を飲ませて眠らせ、父と寝て、子孫を残す、という行動に出てしまった。
信仰者が御言葉に基を置かず、「自分の良かれ」で判断して、安易に世と隔絶し、ただ強制的に「異性と引き合わせない」事で子供達を守ろうとするなら、ロトの娘達のように、性の対象としてはならないものを、性の対象とし、歪んだ性へのあこがれが育ってしまう。そしてその営みには、愛も、合意も、喜びも無く、ただの機能的な、あるいは、快楽を追求するのみの行為へと、成り下がってしまう。
大切な事は、世から引き離す事ではなく、キリストへ繋げる事である。そしてキリスト者は、自分のよかれによってではなく、御言葉によって子育てするべきなのだ。『若い人はどうしておのが道を清く保つ事ができるでしょうか。御言葉に従って、それを守るより他にありません。』(詩篇119:9) 
エペソ五章には、妻たる者・夫たる者のあり方が記されてある。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。」(31節) つまり、ロトの方法とは逆で、まずは親から自立するのだ。
親に頼らずに自活して生きる「自立」と同時に、霊的な自立をこそ、目指すべきである。
すなわち、肉の親からの世的な思想から離れ、霊の夫であるキリストへと繋がり、自ら御言葉に聞き、記されている事を守り行うよう努力し、また聖霊に導かれて歩む術を身に着ける事を目指すのだ。

『姉娘は子を産み、その名をモアブ(父親より)と名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。妹もまた子を産んで、その名をベニアンミ(私の肉親の子)と名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。』
父によってみごもる事に、夫婦の喜びは無いし、神の民が聞いても世の人が聞いても、恥でしかない。
しかし、いかにそのようにして生まれた子であろうと、どんな血筋の人であろうと、全能者である主の御翼の陰に助けを求める人に、主は恵みを施される。事実、全能者の翼に助けを求めたルツは、モアブの娘だ。
キリストを信じた者は、全く新しく生まれ「た」のであり、以前のものは全て過ぎ去っ「た」のだ。
自分がいかに、血統的に恥ずかしい血筋であろうと、また、どんな呪いに結ばれていようとも、キリストを信じる者は、以前の自分は死んだ者、神によって新しく生まれた者なのだ。(ヨハネ1:12-13)
ロトのように、見える所に流されて右往左往する信仰ではなく、アブラハムのように、しっかりと御言葉に根を下ろした信仰生活を送る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

ソドム滅亡前夜のロト周辺の人間模様(創世記19:12-22)
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主は、ソドムの悪行を訴える叫びがその通りかどうかを確認するため、御使い達を人の姿で遣わしたが、この町は、狂気の沙汰とも言える悪行でもって彼らを迎え、もはや、彼らには弁解の余地は無くなった。
そこで御使い達は、この町で唯一、かろうじての義人の心を保っていたロトに言う。自分達は実はこの町を滅ぼす為に主から遣わされている、ついては近親の人がいるなら連れ出して逃げるように、と。

主がこの場所を滅ぼされる事は、確定した。そして残された時は、少ない。
ロトはその事を聞くと、まずは、婿たちの所に行って告げた。『「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」。しかしそれはむこたちには戯むれごとに思えた。』(創世記19:14)
夜、もう休もうとしている所を、突然訪問され、主の裁きが降るから今すぐ逃げなさい、と言われても、冗談のように思うのは当然かもしれない。しかし、主の時は盗人のように来る事をイエス様は予め警告している。
その日その時はいつかは誰にも分からないが、必ずその「いつか」が来る事は、日頃から伝えるべきだ。
ロトは、普段から義について説いて来たであろうが、それを普段から聞き流していたような者達は、いざ本当に裁きの日が来た時、どんな真剣な表情で警告をしても、戯れ事のように思い、決して動かない。
この世の裁きの日も同じである。最後の時、最後の警告をしても、それを冗談のように思う者は多いのだ。
そうなった場合、残念ながら彼らはあきらめ、一緒に滅ぼされないように、彼らから離れなくてはならないが、そのような時がまだ来ていない今、私達は福音を、御言葉を、義を、のべ伝え続けるべきだ。

ロトの説得虚しく、婿達は滅びが確定した町から出ないまま、夜明けが近づき、滅びの時は刻一刻と迫ってきた。御使いたちはロトに「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされる。」と通告したが、それでもロトは、ぐずぐずとためらっていた。
そこで彼らは、ロトとその妻、二人の娘の手を取り、町の外へと避難させた。それは主のあわれみである。
それは、主がアブラハムの執り成しを聞いておられたからだ。(29節) 執り成し祈られている人は、ここぞという時、その人一人では自ら救い得ない程に信仰が弱っていようとも、主が手を取って救って下さるのだ。
彼らがロト達を町外れへ連れ出した時、主は言われた。逃げて自分の命を救いなさい、後ろを振り返って見てはならない、低地はどこも立ち止まらず山に逃げなさい、と。町と一緒に焼き尽くされないように、と。
ロトは、その段においても、 「わが主よ、どうか、そうさせないでください。」と願い出た。(18節)
確かに、彼の精神状態では、そのまま逃げ切れなかった可能性は大きい。彼にはためらいがあった。
住み慣れた所、使い慣れた家財道具、面倒を見てきた家畜、蓄えた財産や築き上げた地位など、様々な努力の結晶に、もし強烈な愛着を注いでいたなら、それをたった一晩で手放す事は、不可能である。
だから私達は、普段から、罪に属するような滅び行くものに愛着を持たず、天の事に愛着をもつべきだ。
ロトは、山まで逃れるのは到底無理だから、その代わり、あの小さな町に逃れるようにして下さい、と願い出、聞き届けられた。御使いは「あなたがそこに着くまでは、わたしは何事もすることができません」と言った。
この、もうボロボロではあってもかろうじて「義人」を保っているような人でさえ、彼が安全な所に逃げるまで、主は御使いに何もさせないのだ。主は、義人も毒麦と一緒に引っこ抜かれるといけないから、敢えて全てが育ち切るまで、待たれるお方である。(マタイ13:24-30)
主は確かに憐れみ深いが、自動的に何もかもしてくれるのではない。私達の側にも従順すべき分がある。
主はロトとその家族の手を取って町の外までは導いて下さったが、彼らを翼に乗せて安全な所へひとっ飛びさせて下さったわけではなかった。同様に人の側にも従順するべき分があり、その時、人は自分自身の足を使い、汗を流し、振り向いたり留まったりせず、滅ぼされるべき場から、離れて行かなければならない。
服従しなかったロトの家族の、ある人達は、ソドムの町と一緒に滅んでしまった。

ソドムでは、滅ぼされる前夜、このように、滅びの側に残った人と、憐れみによってかろうじて助けられた人とに分かれた。ソドムに滅亡の時が来たように、この世もやがて滅ぼされるべき時が来る。その時、ソドムの中の混乱に巻き込まれたロトのようではなく、元々、主が約束された安全な山地に留まってむしろロトのために執り成し祈ったアブラハムのような皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ロト - 異常な価値観に染まった”義人”(創世記19:1-11)
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前回、主は3人の旅人の姿でアブラハムとサラに現れ、彼らはイサクを生み出す者として信仰が整えられたが、主はさらに、これから為そうとしておられる事を、アブラハムに明かされた。すなわち、ソドムとゴモラの大きな罪は、御前に届いており、その町が滅ぼされるに値するかを、これから見に行く、というものだった。
アブラハムは、主と交渉した。その町に、正しい人がいたとしても、その町を滅ぼされるのでしょうか、主は公義を行われるお方ですから、そのような事はありませんよね、と。主は彼の交渉に応え、滅ぼすまいと約束された。アブラハムは最初、50人から始めたが、最後には、たとえ正しい人が10人しかいないとしても、主はその町を滅ぼす事はしない、という所までこぎつけた。彼はこのようにして、主に執り成した。
私達も、信仰者の集いから離れてしまっている兄弟姉妹のために、執り成すべきである。
信仰が萎えてしまっている兄弟姉妹を執り成す祈りは、彼らをここぞという時に守る大きな力となるからだ。

さて、二人の御使いがソドムに着いた時、ロトが門のところに座っていた。
町の門は裁判や商取引などが行われる所で、彼が門の所に座っていたという事は、彼はソドムの町でも有力な地位にあった、という事だろう。ソドムの王も住人も皆、かつてはロトの叔父・アブラハムによって救われたので、ロトはきっと、叔父アブラハムの七光りでそのような良い地位に就いたのだろう。あんな目に遭ってもまだ懲りず、ソドムは邪悪な行いを改めず、ロトもまた、その町の栄華に浸って離れなかったのだ。
ロトは義人としてソドムの町の放縦な行いを悩みつつ生活していた(2ペテロ2:7)。しかし、その邪悪な町から抜け出さずに、町の有力者にまで上りつめていた。ここに、神の基準を知りつつも、世の栄えにも目が眩んで、世の基準からも抜け出せないでいる「ダブルスタンダードのクリスチャン」の葛藤を、写し見る事が出来る。また、そのような歩みをしているクリスチャンの受ける分と、行く末も、知る事が出来る。
結論を言うと、そのような人は結局全てを失ってしまい、ただ命だけをやっと救うのみとなる。(2コリ3:9-15)
ロトが彼らを見た時、アブラハム同様、彼らを客人として丁重にもてなそうと、自分の家に泊まるようしきりに勧めた。ロトは二人をもてなしていたが、彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んでわめきたてた。「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう。」(創世記19:4-5)
ソドムの住人は、ハムの末裔である。ハムは、父ノアの天幕にずかずかと入り、父が酔って裸で寝ている様を見入り、性的な秘密を楽しみ、出ていって皆を連れて来て、皆でその”楽しみ”を共有しようとしたが、その汚れた性質が、もっと悪い方へとバージョンアップしている。ノアは、そのような事をしたハムの子孫を呪ったが、同じように、主に遣わされた者を辱めようとする者達は呪われ、その行き着く所は、滅びである。

ロトは、町の男達をなだめるために、信じがたい提案をした。なんと、自分が大切に育てた未婚の娘二人を、好きなようにして下さい、その代わりに、客人には手を出さないで下さい、というのだ。
人は、居着いている所の風習に染まるものである。狂気の時代、狂気の場所に住んでいると、普通の人には狂気に見えるような事さえ、普通に思えて来てしまうものである。実際、今日の日本は、このソドムに似たような考えが社会通念としてまかり通って来ている事に気づいているだろうか。
皆さんは、性的不品行が平気で横行している事のみならず、世間の面目や会社の立場を保つために、妻や夫を、息子や娘を犠牲にする事が、普通にまかり通っている事に、異常さを感じているだろうか。
私達は、命に敵対する世の価値観が迫って来る時は、御言葉を示し、妥協する事なく戦うべきである。
そうでないと、塩気のない塩のように外に投げ出され、世からも、神からも踏みつけられてしまうだけである。
それ以前に、ロトはさっさとそんな町からは離れ、アブラハムと交わりが持てる所に住んでいれば良かったものを、それをせず、多少罪に汚れていても、楽しそうな栄えている都市に住み着いて、神の交わりから離れ続けていたから、そんな異常な価値観となってしまい、苦汁を舐め続ける生活に陥ってしまったのだ。
主はそんなロトを、助けて下さった。ひとえに、信仰者アブラハムの執り成しがあったからである。
聖徒の交わりから離れてしまっていると気づいたなら、また世の汚れた価値観に染まってしまったと知ったなら、すぐに戻るべきである。ダブルスタンダードの価値観は捨て去り、御言葉にしっかりと留まって世に妥協せず、キリストにあって戦い、勝利する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

サライ、そしてサラへ(創世記18:1-15)
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前回主がアブラハムに現れてからさほど時間が経っていない頃、主は、三人の旅人に身をやつしてアブラハムの所を訪れた。アブラハムは旅人姿の彼らを見ると、もてなすために走り出て迎え、豪勢な接待をした。
その地方ではそうする事が美徳であり、それによって、その人やその家の品格が知れるものであった。
私達も、世で”美徳”と言われるものを、ないがしろにしてはならないし(ピリピ4:8)、主は、幻や奇跡といった「非日常」にしか現れないと思ったら大間違いである。むしろ、主は日常の内に、盗人のように思いがけず現れる(ヘブル13:2)。実際、アブラハムは知らずに主をもてなし、主からの養いを受けた。

アブラハムが彼らに給仕している時、彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
見ず知らずの旅人のはずなのに、「サラ」という、主に与えられたばかりの名を呼んで来たので、彼は驚いただろう。そして、次の言葉は、もっと驚くものだった。「来年の春(直訳:命の時)、わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう。」(10節)
サラは、彼らのやり取りを、後ろの天幕の入り口で、つまり、彼らの背中側から隠れて聞いていた。
この時点、サラは既に89歳で、生理はもう止まっていた。ハガルによって生まれたイシュマエルもすくすく育ち、それにひきかえ自分は老いて、子を産む事についてはもはやあきらめ、何もかも置いてけぼりにされたような、卑屈な信仰になっていたのだろう。だからこそ、このただならぬ客人の言葉を聞いても、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」と心で言い、力なく笑ったのだ。
しかしその時、彼らは言った。『「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春(直訳:命の時)、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。』(13-15節)

主は、信じて歩もうとする聖徒には、「命の時」を備え、帰って来て下さる。その時、人がいかに諦め果てていようとも、いかに絶望していようとも、主が約束して下さったなら、必ず命と喜びと、笑いとを与えて下さる。
「あなたの妻サライは、名前をサライ(Sarai)ではなく、サラ(Sarah)と呼びなさい。・・・わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記17:15-16)
サライも、サラも、両方「王女」という意味ではあるが、前回見たように、名前の最後に「ハーラフ(歩む)」の「ハ」が付けられ、彼女は「ただの王女」から、「主と共に歩む王女」というアイデンティティが付された。
しかしながら、彼女は「主と共に歩む王女」とは程遠い心境で、年寄りで見向きもされない、もう何も望めない、みじめな者と自己認識していたために、あの客人達の只ならぬ言葉にも、思わず笑ってしまう程だった。だからこそ主は、わざわざ旅人の姿で現れ、彼女を多くの国民の母として、王女として相応しい信仰者へと整えるためにサラを名指しし、ひと度約束された事を再度、彼女にも直接言われたのではなかろうか。
こうして彼女は否応もなく信じ、もはや、年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力が取り戻され、そればかりでなく、他国の王から召し入れられてしまう程の美貌まで取り戻し(20章)、約束どおり、彼女から多くの子孫が生まれるようになるのである。(ヘブル11:11-12)

12-15節の間には「笑い」というキーワードが、4回も出てくる。一年後に彼女が産むべき子は「イサク(彼は笑う)」という名前で、彼女はイサクの名を呼ぶ度に、この時の出来事を思い起こした事だろう。
イサクを生み出す一年前までは、老いて希望も無く、自嘲の笑いしか無かったのに、主は来て、むなしい年寄り女から、主と共に歩む王女へと、信仰を整えて下さり、腹の奥底からの笑いを与えて下さった、と。
世の女性が憧れる「王女」は、「サライ」のように、歳を経ると何の喜びも無くなってしまう。
しかし「主と共に歩む王女・サラ」は、いかに八十九歳であろうとも、若く力ある女さえも主にあって出し抜き、自嘲し卑下した笑いを、命の喜びに満ち満ちた腹の底からの笑いへと、造り変えられ、いかに「自分は笑わない」と否定的であろうとも、主は「いや、あなたは笑う」と、肯定して下さるのだ。
主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように若くされ、翼をかって上ることができるのだ。(イザヤ40:31)
サラのように、卑屈な信仰から主と共に歩む王女の信仰へと造り変えられていく皆さんでありますように!

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