メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
羊飼い達 - 忠実な養い人達への特別な現れ(ルカ2:8-20)
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イエス様の誕生を祝いに来たのは、博士たちの他に、もう一組あった。羊飼い達と羊達である。
博士(マゴス)たちは、異邦人でありながら、キリストのおとずれをイスラエルの誰よりも早く察知し、自ら贈物を携え、遠くから旅して来たのに対し、羊飼い達はベツレヘム(意味:パンの家)近辺に住んでいたが、主のお生まれは知らなかった。しかし、主の御使達によって、直接的にメシヤのおとずれを告げられるという栄誉にあずかる事が出来た。今回、そのような栄誉に与る事の出来た彼らの性質を見て行きたい。
羊飼いの仕事は、羊達が十分に食べる事ができるよう牧草地や水のほとりへと導き、野獣が現れた時には、杖やむち、石投げ等を用いて追い払う事である。羊は近視眼で、愚かで、養うのに忍耐と手間がかかる。
そんな面倒臭い羊の面倒なんか見たくないからか、イエス様がお生まれになる時代は、羊を飼う職業よりも、商売人になったり、王宮で仕えたりと、より楽で華やかな職業へ、人々は流れて行ったのかもしれない。
当時のイスラエルでは、羊飼いは卑しい仕事とされ、住民登録にも呼ばれない程だった。
しかし、私達・教会は、まことの羊飼いであられるイエス様を中心とした、羊飼いと羊達の集団である。
羊飼いの祖先はアベルで、アブラハムも、その子たちも皆、牧者として生活して来た。モーセもダビデも皆、羊飼いを経験して来た。そしてまことの羊飼いは、主キリストである。羊飼いは、神の民の性質とも言える。
羊飼いという「主の働き人」たる資格は、「イエス様を愛します」という告白にある。ペテロは主から「わたしを愛するか」と3度問われ、彼は「はい」と応える度に「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。(ヨハネ21章)
現代の教会も、まことの牧者であるイエス様に養われるべき羊たちを、養い、育て、訓戒するべきなのだ。
主のお生まれを告げ知らされる栄誉に与ったのは、羊飼いである。彼らにメシヤのおとずれが告げ知らされた時は、夜、人々が眠る時間であり、その時、彼らは目を覚まして、羊たちを見守っていた。(8節)
クリスマスのイメージといえば、やはり夜であり、闇世の中で光を輝かせる性質が、クリスマスにはある。
同じように、キリストがやがて来られる時も、夜のような闇の時代であり、その中でメシヤのおとずれにあずかれる人とは、霊的にいつも目を覚まし、養うべき羊達を、汚いなどと言って厭う事無く忠実に養い、食事時にはきちんと食事を与える、思慮深く、いつも心ぞなえしている人である。(マタイ24:42-51)
主は、羊飼い達に「恐れるな」と言われた。そして、全ての民に与えられる大きな喜びを「あなたがたに」伝える、と言われ(10節) また、救い主が「あなたがたのために」お生まれになった、とも告げられた。
救い主の恩恵に真っ先にあずかれるのは、羊飼い達であり、彼らに与えられるしるしとは、「幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある」事。きょう、私達のためにお生まれになった救い主、キリストは、なんと粗末な布にくるまれ、馬のエサ箱に入れられ寝かされているという。ユダヤ人の王であられる尊いお方であるはずのキリストは、何ととぼしく、何と低く、卑しくなられただろう。そのお陰で、卑しく貧しい私達でも、救い主のおとずれを祝い、喜び、そこに集う事が出来るようになったのだ。
『するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』(13−14節)
この賛美は、なんと荘厳で、美しいハーモニーの内に歌われたであろうか。この賛美は、何万もの聴衆が集う世界最大の劇場のような所でこそ相応しいと思うものだが、これに同席できた者は、僅かな羊飼い達と、羊達だけだった。なんともったいない、と思うかもしれないが、それが主の方法である。
主は、主の恵みを受け取るべき人には、これ以上無いと思える程のゴージャスな恵みを与えてくださるが、それは限られた聖徒達へ密かに与えられるものであり、そうでない者には、決してあずかれないのだ。
羊飼い達は、このお告げを受けた時、急いで見に行った。彼らは博士達のような捧げ物は持っていなかったが、「御声に聞き従い、すぐに行動する」という、雄羊の脂肪にも勝るいけにえを捧げた。(1サム15:22)
私達は王になりたがったり、王宮のような華やかな晴れ舞台でラクに活躍したい所があるが、主はむしろ、羊飼いのように、養いを必要としている羊の面倒を、労苦を厭わず率先して行う人にこそ、現れてくださる。
この暗闇の時代、御言葉のパンの家で、主の羊達を忠実に養い、誰にも味わう事の出来ない素晴らしい救いのおとずれと、栄光の賛美に与る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
東方の博士達 - 礼拝者への宇宙規模の贈り物(マタイ2:1-12)
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全世界を救いへと導く、天地を創られた神の御子が地上に来られたのは、一介の貧しい夫婦の元、それも、馬小屋の馬槽の中に、赤ちゃんとして宿られた。バプテスマのヨハネのように公ではなく、密やかにであったため、そのお生まれはユダヤでは誰も知らなかったが、それは、東方の博士達は知っていた。
東方の「博士」はギリシャ語ではマゴス、まじないをする人や占星術者であり、救いから程遠い汚れた者とされる者だったが、彼らはメシヤのお生まれを真っ先に悟り、はるばる旅して礼拝しに来た。
ユダヤの王がお生まれになったとあれば、ユダヤの王宮に行けば出会えると思って王宮に入り、その王座に座っているヘロデ大王に尋ねたのだが、王とエルサレム中の人々は、博士達を驚かせる反応をした。
ユダヤの王宮にいた彼らはメシアがお生まれになった事を誰も知らないばかりか、それを聞いて真っ先に起こしたリアクションは、恐れと、惑いであり、待ちに待ったお方が来られる事の喜びや歓喜ではないのだ。
もし独裁国に新しい王が現れたとなると、その国民はきっと恐れ惑うだろう。それと同じで、自分が一番の王になっていたい者や、甘い汁を吸って来た取り巻きには、新しい王など、来て欲しくないのだ。
ヘロデ大王は、何百年も前に書かれた預言書から、キリストはベツレヘムでお生まれになると知った。
すると彼は密かに博士達を呼び、星の出現の時間をつきとめた。
なぜ密かに呼んだか。それは、キリストがいつお生まれになったのかを逆算して、殺すためだった。
何百年も前から預言されていた神のわざを知り、しるしも見て、それで主を恐れ敬うのではなく、短絡的に、抹殺しようとするのは、自分が王でいたいがためだ。そのような者は口先は「自分も行って拝む」と礼拝者であるが、内は殺人者である。今でもそのようなニセ礼拝者はいるが、全能なる主は黙っていない。
博士達は、何か解せない思いがあっただろう。行って拝むつもりなら、自分達のような異邦のマゴスに外注するのではなく、自ら祭司や学者の調査団を組織して行くのがスジであろうに、誰も行かないのだから。
ともかく博士達は送り出された。とりあえず、ユダヤのベツレヘム地方、という情報だけは入手できたが、その以外の情報は一切無し、助けもいっさい無しである。博士達はふたたび頼りを失ってしまった。
ところがなんと、東方で見たあの星が、彼らを導くのだ。彼らはその星を見て、この上もなく(メガス)喜んだ。
神は星の配置を定め、光のスピードを定め、博士達がこの時代のこの時メシアを礼拝するために出かける事を、何千年何万年前から既に知っておられ、星の配置をあらかじめそのように定めておられたのだ。
神はまことに人の知恵では計り知れない。私達は主のわざの仕組みを、物理などで理解する必要は無い。
ザカリヤは理解しようとして口を閉ざされたが、私達は主が真実で偉大なお方であり、イエス様を礼拝したいと願う礼拝者のためには、星さえも動かして都合つけてくださるお方だと喜ぶだけで良いのだ。
ヘロデ王の宮殿に留まった者は誰一人、この天文学的レベルの奇跡に預かることは出来ず、預かれたのはたった三人の礼拝者、イスラエルから疎外されたこの博士達だけだった。
博士達は星の導きに従って、示された家に入った。そこには、若き母マリヤと赤ちゃんイエス様がいたのを見て、赤ちゃんの前にひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を捧げた。
万物はこの御方よって成り、この、御方のために創られた、その御方は赤ちゃんの成りをして来られたのだ。
この三人の博士は王のような、とても高貴な身分であったと言われているが、そんな高貴な壮年男性達が、生まれたばかりの赤ちゃんを前にひれ伏して拝む。彼らはこの旅で受けた物は何もなく、ただ捧げたのだ。
ただ捧げに行き、手ぶらで帰る。礼拝とはそういうものである。礼拝は何か受けるにあらず、礼拝とは、捧げに行くことだ。博士達は、物理的には失ったが、しかし誰よりも素晴らしい体験がプレゼントされた。
全能の主、宇宙を創られた主が、なんとこの私達のために現れ、あらゆる便宜を図って下さり、イエス様の元へと導いてくださった。これ以上の喜びはあろうか。それは世の王達、権威者たちには分からない密かな喜びである。今、権威の世界は、闇の混沌が渦巻き、蹴落とし蹴落とされの、非常にどろどろした世界だが、そこに憧れる必要は無い。イエス様を求め、礼拝する事を求めるのならば、主はあらゆる便宜をはかり、宇宙規模の不思議を働かせて、礼拝へと導かれるのである。
博士達のように素晴らしい恵みと特権に預かる事ができますように、イエス様の名前によって祝福します!
ザカリヤ - 口を閉ざされるしるし(ルカ1:5-23)
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暗く荒んだヘロデ大王の時代、ザカリヤという名の祭司がいた。主のご降誕におけるしるしが、最初に現れたのは、彼であった。待降節の第二日、この人物について見て行きたい。
彼の妻はエリザベツで、この夫婦は御前に正しかったが、子に恵まれなかった。彼らは若い時から子を授かるように願って来たのに、歳を取っても叶えられず、その祈りはますます切なるものとなって行っただろう。
それでも彼らは、御前に、誰より凛と立ち、落ち度なく戒めを行っていたが、もう産むには難しい年齢に達してしまった。そんなある日の事、くじによって、ザカリヤに日毎の香を捧げる役が決まった。
大勢の人々が祈る中、役目を遂行する為に彼が聖所に入って行った所、なんと、香壇の右に御使いが立っていた。恐怖に襲われた彼に、御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
みどり子が生まれる事を久しく切望し、その祈りが切々と積まれた時、聖なる所の奥深くで、待望していた子の生まれる事が告げられる。それはメシヤのお生まれを象徴的に表している。
子が与えられる事は老夫婦の願いであったが、神は一夫婦の願いを叶える以上の事をご計画されていた。
ヨハネの名には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。神のそのご計画とは、人類全体が久しく待望し、人類全体に注がれる、神の深い恵みであり、慈しみであり、喜びである。
その子は胎内にいる時から既に聖霊に満たされており、御前に大いなる者となって、イスラエルの民の多くを主立ち帰らせる。しかもその子は、エリヤの霊と力をもって御前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、そうして整えられた民を、主に備えるというのだ。(15-17節)
人は、人並みのささやかな幸せを求めがちだが、神を愛し恐れる人達に用意されているご計画は、途方もなく素晴らしいもの、にわかには信じ切れない次元のものである。(1コリント2:9)
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)
ザカリヤは乙女マリヤと違って「祭司」という公の立場にあり、そして彼自身、長年祈り求めて来た事が、やっと叶えられるというのに、「何によって」「わたしは」「知ることができるか」と、神の聖所で要求したのだ。
御言葉が与えられても「自分が」理解したがる人に与えられるしるしは、その口が閉ざされてしまう事である。
御言葉に従順できない人にとっての最善は、口をつぐむ事であり、それは周囲にとっても益である。
この、彼が口をつぐまされている時、彼の妻エリザベツは受胎した。
「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(57節)老夫婦に子が与えられるのは大きな慰めである。
人々は共に喜び、その子に父ザカリヤと同じ名をつけようとしたが、エリザベツは、そうではなくて「ヨハネ」にしなくてはならないと答え、人々を不思議がらせた。
その子は、ザカリヤの一後継者としてではなく、生まれる前から最も偉大な務めが与えられているのだ。
彼はその名の通り、神が贈られた最高の賜物・神様の恵みであるイエス様への道を、人々に整えさせる。そしてこのヨハネの名が人々に知られる毎に、神様の恵み深さ、賜物の素晴らしさが広まって行くだろう。
ザカリヤの口が開かれたのは、「その子の名はヨハネ」、と、主に命じられた通りに、公に示した時であり、口が開かれてから真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
ザカリヤ自身、やっと与えられた念願の子に、自分の名をつけたかったであろう。しかし、彼らが人間的な願望を手放し、口をつぐんで従順を学び、御言葉の通りを、神と人との前で行うその時、主の素晴らしさは公に明かされ、賛美の口は開け、人々は、神が確かにみわざを働かれるのだと知るのだ。
ザカリヤはかつて、自分が「理解」する事を御使いに要求し、それで口をつぐまされてしまったが、その「要求」を止め、言葉をつぐんだこの期間、彼はバプテスマのヨハネの父として訓練され、練られていたのだ。
ヨハネは成長すると霊は強くなったが、彼もまた、主が定めた時まで荒野におり、公に活動する事が許される日まで、口をつぐんだ。主の御言葉は、理解してから実行するものではなく、実行したなら、素晴らしさを理解する。その上で口をつぐむ事は、とても有益である。人間由来の唇は閉じ、御言葉に従順して主を待ち望む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ヘロデ大王 - 希望の星が輝き登る前の大きな闇(イザヤ9:1-7)
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本日より待降節が始まる。この時期、主イエスのご降誕にまつわる人物達を見て行きたい。
主のご降誕のしるしが現れたのは、ヘロデ大王が支配している時代だった。その時代のイスラエルは縄目に縛られたような暗い時代であった。今回は、このヘロデ大王に至るまでの時代背景を学びたい。
旧約聖書の最後が記されてから主イエス様がお生まれになるまでを「中間時代」と呼び、その間、主からの預言が一切無かったため、「空白の四百年」とも呼ばれている。バビロン捕囚後のイスラエルは主の憐れみを受け、ペルシヤ王クロスの勅令の元、イスラエル人はエルサレムに帰還し、神殿を建て、礼拝する事が許され、霊が奮い立たされた人達によって、礼拝が回復した。(エズラ1章)
ペルシャ支配下の200年程の時期は、比較的平和な時代であったが、アレクサンドロス大王がペルシア帝国を打ち破り(BC334)、ユダヤはその属州とされ、ギリシャ文化(ヘレニズム文化)を普及させられた。
しかし彼は32歳余の若さで病没し、その後4人の王が台頭した。これらの出来事は、実はダニエルがBC550頃に預言している。(ダニエル8:8-12) この4人の王は4本の角として示され、その内の一本は麗しの国(イスラエル)に向かって高ぶり、常供のささげ物は取り上げ、礼拝が汚される事も預言されている。
その礼拝を汚す「一本の角」はシリヤの王アンティオコス・エピファネス(BC175-164年)と思われる。
彼はエルサレムを占領すると、ユダヤを強制的にギリシヤ化しようとし、律法を焼き捨て、神殿はゼウス神を祭る所とし、豚や不浄な動物が捧げられ、娼婦が戯れる場とされた。彼の命令に背いた者は死刑に処せられ、多くの祭司やイスラエル人は、御言葉に背くよりは死を選んだ。(外典 1マカベヤ書1-6章)
そこで人々は祭司マッタティヤを指導者としてマカベアの反乱を起こした。エピファネスは彼らの反乱を抑える事が出来ず、ついにBC165年、エルサレムを取り戻し、3年中断されていた礼拝が再開できた。
これを記念する「宮きよめの祭(ハヌカーの祭)」(ヨハネ10:22)は、今日まで続いている。
この時代、マッタティアの息子たちが次々と指導者となり、ユダヤは独立国となって「ハスモン王朝」(BC142-63)が成立したが、その子孫達は兄弟同士の骨肉の争いをするようになり、漁夫の利を得たローマ帝国によって占領され(BC63年)、約80年間の短いユダヤ独立の時代は終った。ちなみにその反対勢力として、律法と多くの言い伝えを敬虔に守ろうとする「パリサイ派」が起こったのも、この時期とされている。
こういった混乱の中、ローマの権力を背景にして頭角を表して来たのが、イドマヤ人(エドム人)・ヘロデ大王(BC37-4)だった。彼の政治手腕、特に、保身・立身の感覚は天才的で、ローマやユダヤの権力抗争で様々な危機はあったものの、いつも的確に身をこなし、有利な地位を得て行った。
権力を得た彼は、特に建設事業に力を入れ、ユダヤ人の機嫌を取るために建造したエルサレム神殿は壮大で美麗を極めた。パリサイ人はヘロデに反発したが、神殿建設は評価し、彼らが記したユダヤ人の伝承・タルムードには「ヘロデの神殿を見るまでは美しいものを見たと言うなかれ」と記されている程である。
しかし彼は猜疑心が深く、自分の権力を脅かす者は愛妻であろうと息子であろうと殺害するような者である。
主の預言が途絶えて久しく、その間受けてきた他国からの虐げと、自国内部から沸き起こる罪の故に、イスラエルは疲弊し、こうして人々の心にダビデの末裔として来られるメシヤを待望する心が深まって行った。
次の賛美は、実にその心境を表しているだろう。「久しく待ちにし主よ、とく来たりて、み民のなわめを解き放ちたまえ。あしたの星なる主よ、とく来たりて、お暗きこの世にみ光をたまえ。ダビデの裔なる主よ、とく来たりて、平和の花咲く国をたてたまえ。主よ、主よ、み民を救わせたまえや。 」
東方の博士達が、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見た時、どれ程、心踊ったであろうか。
だから彼らは、遠い旅を厭わず、宝物を携え、礼拝に行くのだ。彼らはエルサレムのヘロデ大王の所に行った時、悪に染まった彼とその取り巻きしか見いだせず、メシヤは見つけられなかったが、神は主を慕う礼拝者のために、星を動かしてでも便宜を図り、そしてヘロデのような邪悪な者から回避させ守って下さる。
ダニエルに預言された暗き時代の後に、希望の星が現れたように、現代のこの暗き時代の後に、キリストは必ず再び来られる。待降節のこの時、主の現れを心して待ち望みたい。
エリエゼル - 花婿の元へと導く助け主(創世記24:56-67)
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アブラハムの老僕エリエゼルは、無事リベカの所へ導かれ、縁談も決まったが、使命はまだ終わっていなかった。『あくる朝彼らが起きた時、しもべは言った、「わたしを主人のもとに帰らせてください。」』(54節)
リベカの家族にしてみれば、この僕の行動は、何から何まで唐突すぎるように思えただろう。
ある日突然訪ね来て、リベカを嫁として下さいと申し出て、それを自分達が了承した事さえ規定外なのに、了承を得たその翌日には、もうリベカを連れて帰る、というのだから。
「娘は数日、少なくとも十日、私どもと共にいて、それから行かせましょう」と言ったのも、無理はない。
しかし、この老僕はやはり知恵深く、判断は正しかったのだ。
リベカが家での最後の日々を過ごす内、この唐突な申し出を受けるのはやはり不安だ、一度も見た事の無い国、会ったことの無い男性に嫁いで行くのは、やはりおかしい、といった思いが募ってしまうかもしれない。
彼女はその時、あまり実感が湧かなかったかもしれないが、これから彼女が入ろうとしている家は、祝福に満ちた永遠の栄光の家であり、彼女は国々の母となろうとしている。彼女が生来の家を出て、そこに嫁いで行くのは、遥かに素晴らしく、栄誉で、幸いな事なのだが、彼女自身、まだよく分かっていない。
私達もそうだ。主イエスにあって天の御国へと嫁いで行く事が、どれ程素晴らしく、栄誉に富んでいるのかを知らず、生来の場所で日常を送っている内に、聖なる「その気」が失せてしまうものだ。この老僕はそれを知っていたから、せっかちで想いやりが無いと思われる事を恐れず、速やかに連れて行こうとしたのだ。
聖霊もまた、人の目から見たら幾分せっかち過ぎるのでは、思いやりが無いのでは、と思えるような導き方をされる時もあるが、それでも、それに従うべきだ。何故なら、聖霊の導きは最善であり、完璧であり、私達の生来の家である”世”に対する”思いやり”は、永遠の莫大な栄誉を逃してしまう損失につながるからだ。
最終的な判断はリベカ本人に委ねられたが、リベカは即座に行く事を表明した。それで彼女はめでたく栄光の家系に加えられた。永遠の御国の事柄は、即断、即決、即行動こそ、成功の秘訣である。
アブラハムは割礼の契約が与えられた時も、イサクを捧げなさいと言われた時も、即決・即行動したのに対し、ロトは、滅びるべき町にだらだらと未練を残して、積み上げてきた財産を全て失ってしまい、ロトの妻は、滅び行くソドムの町をじっくり眺めたために、塩の柱となって、永遠にそこに留まる事になってしまった。
主の思いは、私達の願いや、私達の思う最善をはるかに超えて高い。(イザヤ55:6-9) 結局私達は、自分を降ろして御言葉に従い、御心を優先させる事こそ、最善と幸いを受ける最も近道なのだ。
こうしてエリエゼルは、リベカを連れて旅立ち、その旅路は安全で速やかだった。彼女が従順だったからだ。私達も、聖霊の導きに従順なら、人生の旅路は安全で、成長も速やかである。
エリエゼルとリベカが到着する時、イサクはちょうど野で黙想(原文「スアッハ」:瞑想する、祈る)をしていた。
彼が顔を上げると、らくだに乗った一隊が東方から近づいて来た。その中には、ひときわ美しい乙女がいて、顔や腕は金の飾り輪が飾られ、夕日の光を受け黄金色に輝いていた。イサクは見てどう思っただろう。
リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、野を歩いて迎えに来るあの方は誰ですか、と僕に尋ねると、あの方が私の主人ですと答えたので、リベカはベールを取り出してかぶった。(64-65節)
リベカが老僕に与えられた飾りで飾られ、花嫁とされ、花婿の所に導かれて行ったのと同じように、教会はキリストの花嫁であり、その飾りは、柔和で穏やかな霊という隠れた人柄であり(1ペテロ3:4)、従順であればある程、ますます整えられ、それが完成する時、花婿キリストと対面するのである。(黙示録21:2-4)
イサクは、母サラが産みの苦しみをした幕屋の奥の間へとリベカを導き、彼女を愛し、亡くなった母に代わる慰めを得た。キリストもまた、その妻である教会、すなわち、新しいエルサレムが整えられ、花嫁として自分の幕屋に迎える日を、心待ちに望んでいる。その時、花嫁である教会は、新しいエルサレムとして完成し、神の幕屋で花婿キリストと共に永遠に住み、全ての涙はすっかり拭い去られ、ゴージャスに飾られる。
透き通ったガラスのような金で飾られ、土台は全て色とりどりのの宝石であり、門は真珠でできているのだ。
私達にとって大事な事は、自前の何かではない。ただ主の血潮によって洗われ、清くされ、飾られる事。
そして、聖霊の導きに従順について行き、花嫁として整えられ、御心のままに飾られる事なのだ。
収穫感謝祭 どんな実りを結ばせるか(ガラテヤ5:16-23)
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本日は収穫感謝祭、主が与えて下さった実りを主に感謝し、喜び祝う日である。
店頭には、実に色々な作物が並んでいた。畑から採れたものの中には、とてもつやつやした美しい実りもあるが、そうでないものもある。おりに叶った時と場所に、それに見合った種類の種を蒔き、水をやり、よく手入れするなら、豊かな良いものが実を結び、適切な時に収穫するなら、良き収穫物が手に入る。
しかし、あさってな時と場所に、見合わない種を蒔いても、成長しないし、水やりや手入れを怠っても、良い実りは結ばない。また、適切な時期に収穫しないなら、せっかく結んだ良い実も、だめになってしまう。
そしてそもそも、種を蒔かないなら、何の実りも期待出来ない。今年皆さんは、どんな実りを結んだだろうか。
そして私達は、どうすれば、主に喜ばれる良い実を豊かに結ばせられるのだろうか。
私達が主に喜ばれる良い実を結ばせるためには、肉にではなく、霊に蒔く事である。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)
「肉」とは、神を除外した、人間の生来の考えや力、罪に傾く性質の全般を言い、肉体が死ねば滅びるが、「霊」とは、神を知覚し交わる事の出来るいのちであり、それは肉体が死んでも存続する永遠のものである。
生来の人は、霊という”いのち”は死んでいるが、キリストを信じた人はそれが息吹き、働くようになり出す。
キリスト者は日々、霊に従って歩むか、肉に従って歩むかという決断に迫られているが、その都度「霊を選択する」という「種まき」をし続けるなら、御霊が結ぶあらゆる良き実にあずかる事が出来る。
ローマ8:1を、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩むキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」となる。だから、「イエスは主です」と告白した人が未来永劫罪に定められることは無い、という事ではなく、肉に従う事を継続的に拒否し、日々御霊に従って歩む事を継続的に選ぶキリスト者は、罪に定められる事が無いのだ。
モーセも、申命記で繰り返し強調した事は、約束の地に入る事よりも、むしろそこに入った後のほうが重要で、主の命令に聞き、守り行う事をキープせよ、という事だった。そのような人は、御霊の実を結んでいく。
御霊の実には「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」がある。(ガラテヤ5:23)
これらの良き実は、肉の頑張りでは決して、逆立ちしても、結ぶ事は出来ない。しかし、霊に従って歩み続けるなら、その人はいのちの御霊の法則の支配下に入っており、坂道を自転車で下るがごとくラクにこれらの実を結んで行き、また現実社会においても、その人に対して祝福の良き産物が豊かに生じる。
しかし、肉に従って歩み続けるなら、その人の人生は茨とあざみを生じ、その行き着く先は、死である。
物事は、私達自身の頑張りによるのではない。私達の意思決定権という実印を、御霊に渡すか、それとも肉に渡すか、という事である。
実印を善い人に渡すなら、その人は知らない内に良いビジネスをして、資産を増やし、いつのまにかこちらの評判も、良くなっていくが、もし悪い人に渡すなら、知らない間に借金だらけになり、いつのまにか色々な人から憎まれるようになっているのと同じ様に、私達も「意志」という実印を、御霊に渡し続けているなら、知らない内に御霊が私達を造り変え、素行も、評判もどんどん良くなって行くが、いつも肉に渡し続けているなら、肉はいつも滅びへと導き、いつの間にか、素行も評判もどんどん悪くなって行く。
皆さんは今年、どのような実を自分自身に対し、また周りに対して結ばせたであろうか。
もし振り返って見て、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの(ガラ5:20-21)が目立つなら、肉によって歩んでいたという事であり、御霊の歩みへと矯正すべきであるし、そのような人から支配されてはならず、むしろ御霊にあって戒め支配するべきだ。
もし振り返って見て、 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の良き実が結んだ、という自覚があるなら、その御霊による歩みをキープし、また、そのような人がいたら見習うべきである。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことはない。』(ガラ5:16-18)
御霊によって歩み、人生が愛と喜びと平安によって満ち溢れ、その性質がますます寛容に、親切に、善意に溢れ、誠実な人、柔和な人、自制心のある人として、ますます尊敬されていく皆さんでありますように!
エリエゼル - 天からの縁談話を携え来る助け主(創24:34-53)
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主はアブラハムの老僕の旅を守られ、彼とアブラハムが求めた通りの、ぴったりの娘の所へと導かれた。
この老僕は、15章に登場したダマスコのエリエゼルと思われるが、エリエゼルの名は「助け主」「慰め主」の意味があり、聖霊を意味するギリシア語の「パラクレートス」に相当する。彼のこのイサクの嫁探しの旅は、現代、私達に働かれる聖霊の働きと、とても一致しているので、今回、その視点から見ていきたい。
彼は、リベカの父ベトエルの家に招かれ、食事が並べられた時、食事に手をつける前に要件を伝えようとする。その要件とは、つまるとこと縁談話なのだが、それは、世の縁談話とは全く異なったものであった。
彼はまず、自分は、主人アブラハムに仕える僕である事を紹介する。
主人は大いに富んでおり、通常ではあり得ない仕方でひとり子を授かり、彼に全ての富と権威を相続させた事、そして、主人は彼のために花嫁を求めており、その花嫁たる条件は、堕落したカナンの娘ではなく、アブラハムの家系の信仰者から探す、という事を伝えた。(33-38節)
聖霊も、同じように、キリストの花嫁候補である私達の所に遣わされ、私達に偉大なる神と、神のひとり子イエスキリストを紹介される。聖霊は、あかしする。御子キリストは、人間わざではあり得ない仕方で生まれ、父なる神はこの御子に全ての権威と富を相続させた事、そして、キリストは花嫁を求めており、その花嫁たる条件は、堕落した世の人間ではなく、信仰によって救われた「アブラハムの子孫」であるべき事を。
しもべは、心配した。『もしその女がわたしについてこない時はどういたしましょうか』(39節)
聖霊も、うめきをもって心配する。その人が、せっかくのキリストとの縁談話を、断ってしまわないか、と。
アブラハムは「その女があなたについて来ることを好まないなら、あなたはこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」(8節)と言ったが、聖霊は、人にキリストとの縁談話をもちかけても、強制はしない。もしその人が断るようなら、残念ながらその人の所に決してキリストが訪れる事は無い。
「あなたがたが、もしわたしの主人にいつくしみと、まことを尽そうと思われるなら、そうとわたしにお話しください。そうでなければ、そうでないとお話しください。それによってわたしは右か左に決めましょう。」(49節)
ラケルがこの僕について行って、栄光の花婿に嫁いで行くかどうか、決断が迫られたように、私達も、聖霊の導きに従ってキリストの元へ嫁ぐかどうか、決断を迫られる。それは全く私達の自由意志に任されている。
なんと、世の縁談話とはかけ離れたやり取りであろうか。普通、縁談なら「おたくのお嬢さんを下さい」と頭を下げるものだが、このしもべはそうした事は一切無い。自分は神の一族から使わされた者、そして神の御心はこうで、神はこのように導いて来られ、今ここに来て、話をしております。さて、あなたはどうしますか?
天からもたらされる縁談話はそのようなもので、人に媚びる事は一切無く、ただ決断を迫るものである。
『ラバンとベトエルは答えて言った、「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください。」』(50-51節) 彼らは「良し悪し」を論ずる事なく、主のご意思に従うと告白した。
もし彼らが拒んでいたならば、リベカはイサクと結婚する事なく、リベカは全人類を救いへ導く王族の家系に嫁ぐ事も、莫大な栄誉と財産を継ぐ事も、無かった。同様に私達も、主のご意志を拒否し、自分由来の善し悪しを論じて、遣わされた聖霊を拒否するなら、自ら栄光への道を閉ざしてしまい、天の王族の家系へ嫁ぐ事も、莫大な栄誉と財産を継ぐ事も無い。それは、途方もなくもったいない事である。
「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を贈った。」(52-53節)
栄光の家系への縁談が成立したなら、本人にも、家族にも、さらなる贈り物が与えられる。
天の縁談話を受け入れた私達への贈り物は、聖霊ご自身であり、それは御国を受け継ぐための手付金である。(エペソ1:14) そして、家族への贈り物とは、救いである。(使徒16:31)
私達は常に、御霊に従って歩むか、肉に従って歩むかの決断に迫られているが、都度、御霊を選んで、天の花嫁として磨きがかけられていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
リベカ - 主に整えられていた導き(創24:10-27)
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アブラハムの老僕は、遥々千キロ旅をして、やっとアブラハムの故郷に着いたが、心は曇っていた。
見ず知らずの遠い土地の、一度も会った事もない男性に嫁ぎに来てくれるような女性を、アブラハムの血縁の信仰者の中から探し、連れて行くという、条件があまりに厳しすぎる、結婚相手探しの旅である。
もしその女性に断られ、敬愛する主人アブラハムの元に一人で帰らなくてはならないとしたら、主人とイサクはどれ程落胆するだろう。ともかく彼は、夕暮れ時、井戸の傍にらくだを臥させて待った。
当時、水汲みは女の仕事で、女達は涼しくなる夕暮れ時に水を汲みに来るからである。老僕はこのように、来るべき所まで旅し、知恵を駆使して、女性が集いそうな所で待つという所まで実行したが、それ以上の事は、自分の知恵や力ではどうしようも無い。そこで彼は、必死に祈る。「主人アブラハムの神、主よ、どうかきょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵みを施してください。」(12節)
私達も、主人イエス様の幸いのために知恵と力を尽くして仕え、為すべき事を為したら、後は祈るのみだ。
この僕は、イサクの結婚相手が具体的にわかるよう祈り求めた。『私が娘に「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。」と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそあなたがしもべイサクのために定めておられたのです。』(14節)
アブラハムは条件の厳しい頼み事を、僕に託したが、この僕が主に求めた事も、かなり条件が厳しい。
当時の井戸は竪穴で、水を汲むには、内周の階段を降りて行き、何キロにもなった水がめを持って登るという大変な労働であり、しかも、砂漠を旅したらくだは風呂桶ほどの量の水さえ平気で飲み干してしまう。
水をくみに来る女性は当然、見慣れぬ十頭のらくだが目に入るだろう。それを見ておきながら、らくだにも水を飲ませましょうと自ら申し出る女性がいるなら、よほど親切で、勤勉で、もてなしの豊かな女性である。
彼がその祈りを終わるか終わらないかの内に、ちょうど一人の美しい女性が水を汲みに来た。
老僕は彼女に駆け寄り、「あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と語りかけると、彼女は「わが主よ、お飲みください」と答えて、飲ませてくれたばかりでなく、「あなたのらくだもみな飲み終るまで、わたしは水をくみましょう」と自ら走って行き、全てのらくだにも水 を汲だ。彼が祈り終わらない内に来た女性が、彼が願った以上の事をあっけなく成してしまった。
しもべは最後までじっと見守っていた。私達も、祈ったなら主が成し遂げて下さるまで信じて見守るべきだ。
彼女はらくだ全部にも水を飲ませたが、御国の花嫁として最も肝心な事は、勤勉さや人の良さではない。アブラハムの血縁の者、すなわち、神を畏れる者である事だ。そこで彼は贈り物の品を取って彼女に聞く。
「あなたはだれの娘か、わたしに話してください。」彼女は答えた、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」これではっきりした。彼女こそ全て条件を満たした娘、イサクの嫁となるリベカである。
リベカは、普段から勤勉で、目上の旅人を迷わずにもてなす品性を持ち、らくだという”所有物”さえ疎かにしない「小さな事への忠実さ」を持っていた。それで主は彼女に、栄光の家系の母という、大きな任をまかされたのだ。私達も日々、小さい事にも忠実に仕え、自らを霊的に整えているなら、主はさらに大きな事を任せるために、素晴らしく整えられた結婚相手、あるいは整えられた連合先へと、導いて下さるのだ。
老僕は主を褒め讃え、その場でひざまづいて礼拝せざるを得なかった。私達も、物事は具体的に祈るべきであり、祈ったら焦らずじっと見守り、叶えられたなら真っ先に礼拝して、感謝と賛美を捧げるべきである。
今回は、出来過ぎた話に思える程、物事がとんとん拍子に進んだが、クリスチャンは何でもかんでもとんとん拍子に進むわけではないし、神様も、人の身勝手な願いを何でも叶えて下さるわけではない。
このしもべは、”主人アブラハム”のために、祈って、叶えられたように、私達も、主人であるキリストの御心が成就するようにと祈るなら、その祈りは良しとされ、物事はとんとん拍子に進むのだ。
今の時代、信仰者の結婚相手を見つける事に限らず、信仰の働き人を見つける事も難しいように見えるかもしれないが、主はちゃんと必要な伴侶を、バアルに膝を屈めない七千人を、備えておられるのである。
主はその民には、物事がうまく行くよう、神様が特別優遇パスを用意しておられるのだ。(詩篇4篇)
私達が心を尽くして主を愛し、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行うなら、私達は主の宝の民となり、世を歩く時も、あらゆる局面でも、主からの特別待遇をいつでも受けられるのだ。(申命記26:16-19)
イサクの嫁探しを託されたアブラハムの老僕(創24:1-10)
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アブラハムがイサクを捧げて以来、主はあらゆる面で彼らを祝福しておられた。イサクは成長し、嫁を迎えるべき歳になった。イサクが結婚した時は40歳だったが、彼はなぜ、その歳まで結婚しなかったのか。
それは、彼に「相応しい助け手」が見つからなかったからである。相応しい結婚相手とは、家柄でも資産でも、まして美しさでもない。主を敬う信仰がある事である。彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝や不品行がはびこり、イサクをそのカナンの女と結婚させるなど、アブラハムは断じて許さなかったが、サラは死んでしまったし、アブラハムも老い、イサクも40歳になろうとしている。そろそろ結婚相手を見つけなくてはならないが、周りはカナン人ばかり。セムの子孫の神を敬う女性は身近にいないし、訪ねにも来ないし、主の具体的な指示も、特に無い。そこで彼は、待ちの姿勢を止め、信仰による攻めの行動に出た。
私達には諸々の選択において、何でもかんでも、具体的な指示が主から与えられる訳ではない。
アブラハムには「あなたの子孫にこの地を与える」(7節)とは言われていたが、イサクにいつ、誰と結婚させよ、などと、具体的な指示まではなかった。将来像は御言葉によってはっきりしているのに、そこに進めず途中で留まってしまっている。そして主の具体的な示しは無い。そういう場合は、どうすべきだろうか。
サラはかつて、自分に中々子が生まれないのに焦り、自ら考案した世の方法を採用して、失敗した。
アブラハムは今回、与えられている約束の御言葉を軸にし、それを元に、今、どう動くべきかを逆算した。
物事が中々進まない時、静かに御言葉を思い起こし、今、主が自分に求めておられる事は何かを見極め、自主的に主と共に歩む(ハーラフする)事を選択し、行動を取る事を、主は望んでおられるのだ。
そこでアブラハムは、最年長の最も信頼の置ける僕を呼び寄せた。この僕は、かつてアブラハムの財産相続の候補だった、ダマスコのエリエゼルと思われる。エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味で、新約で言う「助け主」と同じ言葉であるが、彼はイサクの嫁探しにおいて、その名前の通りの事を為す事になる。
アブラハムは、手を腿の間に入れる「最も厳かな誓い」を彼にさせたのだが、誓いの内容は成功確率の極めて低いものであった。すなわち、彼の故郷カルデヤのウルに行き、親族の中からイサクに相応しい嫁を連れて来なさい、というのだ。もし皆さんが未婚女性だとしたら、千キロ程むこうの、一度も行った事のない国・一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか。
老僕は、イサクをそこに連れて行っても良いかを聞く。実際に面と向かって会っている男性となら、結婚する気も起きるかもしれない、と、考えたのであろうが、アブラハムの答えは、NOであった。(8節)
ロトがソドムやエジプトを見て、悪い価値観に染められてしまったように、イサクが異国の有り様に魅了され、今まで育んできた信仰生活から離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。
どんな人と結婚するかを、おろそかにしてはならない。ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして人類を滅びに招いてしまったし、ソロモン王やアハブ王、サムソンも、不信仰な妻によって惑わされ、その身に滅びを招いてしまった。
アブラハムは、約束が中々成就されないからというので、手近なカナンの女から選ぶ事は無く、またイサクをこの約束の地から離れさせる事も無く、人間的に見れば確率の最も低い方法、かつ、御心に最も近い方法を選び、この僕に行動させた。それは主への全き信頼があったからだ。
主は今までの人生を、ずっと導いて下さった。だから、イサクの嫁探しにおいても、主が御使いを使わして導いて下さるに違いない。そう信じたからこそ、しもべに堂々と指示する事が出来たのだ。
結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、そして主からの具体的な導きが無い時は、与えられている御言葉から逆算し、積極的に信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取るのだ。
今、進もうとしている道が、御心にかなっており、御言葉の裏付けもあるならば、どんなに確率が低いように見えても、主が為して下さると信じ、進んで良いのである。逆に、御言葉の裏付けが無い単なる世の方法であるならば、いかに成功確率が高いように見えても、一旦止めて、御言葉を思い巡らすべきである。
アブラハムのように主への信頼を積み上げ、主の確かなご性質を経験し、ますます信仰によって行動し祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
アブラハムとイサク - 自らを捧げる礼拝(創22:1-18)
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念願の子イサクもすくすくと成長して行き、楽しく順風満帆な生活を送っているかのようなアブラハムだったが、主はそんな彼に、最大の試練を与える。その試練とは、彼の愛している独り子イサクを捧げる事である。
神は、伊達や酔狂で「捧げよ」と命じているのではない。アブラハムがどれだけイサクを愛しているのかを知らない訳ではないし、神は、ひとり子を捧げるとはどんなに重く辛い事であるかを、知っておられる。
それでもアブラハムはイサクを捧げる必要があったのだ。それは、イサクも、それ以降生まれ出てくる子孫達も、神のものとされ、その子孫から救い主キリストをもたらし、全人類を彼にあって救うため(18節)である。
イエスキリストは救い主、神のひとり子である。神はそのひとり子を、世を救うための身代わりの犠牲とし、彼を救い主として信じる者には、罪の赦しと、神の子としての特権と、永遠の命が与えられるのだ。
『アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。』(創世記22:3) 彼は間髪入れず準備し、翌朝出発した。
彼には大勢の僕もいたが、連れて行ったのは二人の若者だけだった。アブラハムは若者たちにも、恐らくサラにも、「イサクをささげに行く」と具体的に言ってはいなかっただろう。主から示された事が、信仰の弱い人のつまづきになってしまうような場合は、全てを明らかにせず、隠しておいたほうが良い事もあるのだ。
そしてこの場面には、一切、アブラハムの感情表現が記されていない。イシュマエルを追い出すべき時は非常に悩んだ(創21:11)し、サラが死んだ時もアブラハムは嘆いて泣いた(創23:2)のに、この、彼の人生最大とも言える試練の時、聖書はなぜか、彼の心理描写を一切記述していない。
ただ彼は、二つの言葉を言っているのみである。その一つ目は、『あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます。』(創22:5)
彼と息子は礼拝して、また戻ってくる、と、彼は告白した。真の礼拝は、霊とまことによるもの、すなわち、「いのち(原意は「魂」。ギリシア語の”プシュケー”、すなわち思い・意志・感情)」を、主に捧げるものである。
アブラハムは、思い・意志・感情を捧げ尽くしたからこそ、心理描写は一切記される必要は無かったのだ。
彼の二つ目の言葉は「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」(創世記22:8)である。
アブラハムはただ、火と剣とを持ち、子にたきぎを背負わせて、主が示された山「モリヤ(主が備える地)」に登って行った。神は、犠牲の小羊を必ず備えて下さる。彼にはその「期待する信仰」があったのだ。
私達も礼拝において、霊(ニューマ)と魂(プシュケー)を切り分ける御言葉の剣(ヘブル4:12)と、自分の最も大事なものを焼きつくす火と、自分自身を燃やし尽くすたきぎを背負い、神は新しいいのちを備えて下さるという期待を持って、主の定められた所へ行く時、霊とまことによって捧げる礼拝の準備が整うのである。
アブラハムはイサクを実際に縛り、刃物を取り、ほふって神に捧げようとしたその時、「アブラハム、アブラハム。」と呼び声があった。2度呼びかけている所に、主の慌てぶり(?)が垣間見られる。
主はアブラハムに、愛する子を刃物で殺させ、その子をご自身に捧げさせようと、思われたのだろうか?否、彼の心を試みたのである(12節)。そしてアブラハムは、イサクは自分の手で殺され、二度と戻って来ないと思っていたのだろうか?否!彼と息子は、生きて、また戻ってくる事を、彼は信じ告白していた。(5,8節)
彼は、神は死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:19)
そして主は、イサクの代りとして捧げるべき一頭の雄羊を備えられた。『それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』(14節)
神が私達に備えて下さる備えの羊は、まことの小羊キリストであり、神は私達の身代わりとして捧げられた。
神は私達にも、捧げる事を求められる。それは奪うためではなく、遥かに優れたものに置き換える為だ。
私達が大切に握り締めて来た思い、意志、感情の、一つ一つを、少しずつ主に手放して行く時、その手放して行った領域は、主のものとなり、私達が手放したものに遥かに勝る優れたものを備えて下さるのだ。
主はアブラハムに、ご自身をさして誓われた。すなわち、彼を大いに祝福し、子孫を天の星、浜べの砂のように増やし、その子孫は敵の門を打ち取り、全世界は、その子孫によって祝福される事を。
私達も、主の言葉に従って、自らの魂を降ろし、主に捧げるなら、主は、捧げたものをさらに優れたものによって置き換え、私達もアブラハムの子孫として与えられている約束と祝福に、あずからせて下さるのだ。
