メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
アブラム、そしてアブラハムへ(創世記17章)
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前回、アブラムとサライは、世の手段や肉のやりくりによって主の約束の未成就分を果たそうとする過ちを犯し、そうしてイシュマエルが生まれてからの13年は、聖書は何の記録も無く、霊的空白の年月が流れた。
人が肉の力で何かしようとするなら、人の肉が力尽きるまで、神は沈黙されるのだ。
肉のやりくりによって、何かを為し続ける限り、主からの語りかけも霊的前進も無く、ただ、気力・体力の隆盛と衰退の繰り返しの、無味な時間が過ぎていく。その間、一見無駄とも思える事の繰り返しの時期に見えるが、永遠の観点から見れば、「肉に対して絶望する」という大きな意味のある時期である。
イスラエル民族にも荒野の四十年を通らせたように、神は度々、人の肉の力を一切削ぎ落とすため、膨大な時間を用いられるが、アブラムも、子を産むという事に対しては、全く絶望的になった九十九歳になったその時、神は、エルシャダイ、すなわち「全能の神」として現れた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。」(創世記17:1)
以前学んだように、ここの「歩みなさい(ハーラフ)」の要求は、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられている。
いよいよアブラムの肉は力尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事であった。私達も、自ら主体的に、自覚的に、自発的に主と共に歩もうとする時、主の御前に「全き者」となり、全く新しい人生、新しい名が与えられる。
「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。」(5節)
アブラム(אַבְרָם)の名に、ハーラフの「ハ(הָ)」が付与され、アブラハム(אַבְרָהָם )となり、サライ(שָׂרַי)も、語尾が「ハ(ה)」に変換され、サラ(שָׂרָה)となった。私達も、自分の名に、すなわち自分のアイデンティティに、「主と共に歩む事(ハーラフ)」を加えるなら、全く新しく、まったき者へと、造り変えられるのである。
そして主は、人の側が守るべき「契約のしるし」をも与えられた。それは、割礼である。(9-14節)
契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めて契約は有効化されるが、このサインに相当するものが割礼であり、「割礼を受けない者は民から断たれる」と言われた程、神の民には必須のものである。
割礼は、男性器の包皮を切り取る行為である。男は支配し治める者であるが、その男性のシンボルたる部位の「肉を切り捨てる」事が、神の民のしるしとされるのは、実に象徴的だ。
キリストにあってアブラハムの子孫とされたからには、男も女も、どの国民も、「割礼」は避けて通れない。
もっとも、私達が受けるべき割礼は、御言葉の剣による心の割礼で(ローマ2:28)、十字架によって自分の肉を殺す事であり、神から独立して歩む”男の性質”はそぎ落とし、神と共にハーラフする者となる事だ。
その先には、主と共に歩む事の祝福が待っている。肉において私達を責め立てていた債務証書は全て無効化され、真にアブラハムの子孫としての祝福にあずかるようになる。もし、相変わらず世に属しているなら、相変わらず、不利な債務証書を世からつきつけられ、世の手順に従って歩まなければならない。
主はサライにもサラという新しい名を与え、彼女は国々の母、もろもろの民の王の母となると約束されたが、アブラハムにとって、この約束は、思わず笑ってしまう程、突拍子も無い内容だった。(17節)
彼は、イシュマエルが長らえるようにと言ったが、主は明確に言われ、イシュマエルの事かと思った。
「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。」
アブラハムは最初、笑った。神様、もうそこまでしなくていい、という、無気力の笑いである。しかし神は、有り得なさ過ぎて笑ってしまう程の事であろうとも、成してしまう程、エルシャダイ(全能なるお方)であり、たとい人がどんなに御胸を破壊する行動をしても、それを上回る真実で、人の不真実を上塗りして下さるのだ。
最初は聞いて信じきれず笑ってしまったアブラハムだが、彼は信じた。その証拠に、早速割礼を実行した。
それも自分自身だけでなく、息子のイシュマエルをはじめ、家の奴隷や僕など、少なくとも300人以上の男性に対し、その日の内に、割礼を受けさせたのだ。かなりの度胸のいる事を、その日の内に実行したのだ。
こうして、割礼によって肉をそぎ落としたアブラハムには、全能なる主の御力が働く土壌が整えられた。
同様に私達も、神から離れて何事かをなそうとする自分の「肉」を十字架につけ、神と共に歩む備えをするなら、無気力に笑うしか無かった私達の人生にも、全能なる主の力が働く土壌が整えられるのだ。
ハガル - サライの女奴隷(創世記16:1-16)
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前回の箇所で、主はアブラムの子孫を、空の星のように数多くすると仰せられ、燃える炉として現れてその約束の確かな事を示されたが、それでも、すぐに子が与えられる、というわけではなかった。
主ははっきりと「あなたから生まれる子がこの地を継ぐ」と仰せられたのに、中々子が与えられない。
サライはその事に焦りを感じたのか、女奴隷を自分の身代わりとして主人に子を産ませ、それを正妻の子としようという”当時の風習”を用いて、神の未だ成就されていない約束を「こじつけ」的に補完しようと提案した。アブラムは、サライのその提案に、乗ってしまった。
神の言葉に身勝手な解釈を施し、それを夫に薦めて、夫の方は、神より妻の声を優先させてしまう。
ここにアダムとエバの失敗と同じパターンを見る。このパターンは、後々、苦い根が長くつきまとうものだ。
サライは「たぶん」と言った。世では皆もやっているからと、軽く考え、それがいかに主の力を無視する行為か、また、実際ハガルが身ごもった時、自分がどんな惨めになるか、あまり考えていなかったかもしれない。
実際、女奴隷ハガルは、すぐに身ごもった。そしてハガルは、女主人であるサライを見下げるようになった。
サライは、女として、若さや子を宿す力など多くの面で、ハガルに劣っている事が、浮き彫りにされてしまい、ますます惨めになってしまった。彼女は、世の解決法に従って行動してしまった結果、世の価値基準に従って嘲られ、世の側から見下げられてしまったのだ。
自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)が見事、結ばれてしまったのだ。
御国の子らが、御国の方法を退け、世の方法・肉の方法に服従するなら、やがてはそれによって見下げられ嘲られてしまうものだ。世の子らは、世の事については、光の子らよりも抜けめがないからだ。(ルカ16:8)
サライは言った。『わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。』(5節)
サライが考案して勧めておきながら、アブラムのせいにするのは不当と思うかもしれないが、確かに彼にも責任がある。妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきたなら、主人たる者は、御言葉を根拠に妻をたしなめなくてはならないし、また、女奴隷が正妻を押しのけるような「管理不行き届き」は、容認すべきでない。
『 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。』(6節)
アブラムが受胎を聞いた時は、彼には喜びだったかもしれない。しかし、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間であり、結局、人間由来の思いつきは、そこにいる全ての人に、苦々しい思いをさせるだけなのだ。
ハガルは、シュル(エジプト方面)へ逃げていく途上、主の使いに見つけられ、声をかけられる。
「”サライの女奴隷ハガル”よ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いは、ハガルに「サライの女奴隷」と呼び、彼女の本来の立ち位置を思い起こさせたのだろう。
彼女は「”私の女主人サライ”のところから逃げている所です」と、身をわきまえた、正しい答えをした。
主の使いは、あなたの女主人の元に帰り身を低くしなさいと諭し、そればかりでなく「あなたの子孫は大いにふやす」と、祝福の約束まで与えられた。柔和な者、身を低くしへりくだる者は、地を相続する。
私達も、立つべき立ち位置はどこか、本来仕えるべきお方は誰かを、正しく受け入れ、告白するなら、祝福をいただける。しかし、アダムやカインのように、自分のよかれを主張し、他人を訴えるなら、呪われてしまう。
主は、生まれて来る子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう命じられた。
そしてハガルは、主を、「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼んだ。
荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり、本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
戻った時、彼女は、この荒野での出来事を、アブラム達に報告しただろう。そして夫婦ともども、「エル・ロイ(神は見ておられる)」「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞き、自分の身勝手を恥じ入っただろう。
結局の所、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きておられる方、見ておられ、聞いておられるお方であると、ハガルを通して教えられたのだ。
肉的なやりくりに頼らず、ただ主に信頼し、過ち無く歩む皆さんでありますように!
アブラムの子孫 - 地の砂から天の星々へ(創世記15:1-6)
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ソドム地方に攻め入ってきた4人の強力な王達を信仰によって撃退し、甥のロトを救い出したアブラムは、ソドムの王からの褒美は一切辞退し、永遠の祭司メルキゼデクからパンとぶどう酒をもって祝福を受けた。
そんなアブラムに再び主が現れ、祝福の約束はさらに具体化しバージョンアップする。「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」(創世記15:1)
主はまず、恐れるな、と言われた。そして、ご自身を「盾」であると。盾は敵の攻撃を防ぐものであり、アブラムを4人の王から守り、勝利させて下さった主は、主の民を攻撃するあらゆるものから、彼らを守って下さる。
続く日本語聖書の言葉は「あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」であるが、原文のニュアンスは違う。
KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「わたしがあなたの盾、そしてあはたへの飛び抜けて素晴らしい報酬だ。」と言っておられるのだ。
主を信じたなら、その報いとして、莫大な富や栄誉を得られる、などとというレベルの話ではない。
”主ご自身が莫大な報い”であり、それは、世のいかなる栄光や富よりも、はるかに勝る報酬なのである。
エジプトのパロや4人の王の生殺与奪の権を持ち、アブラムに多くを与えるも与えないも、全てを自在に支配しておられる主、天地を創られた主、そのお方が、私達・キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける”相続”でもある。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)それは何と素晴らしい事であろうか!
アブラムは主に答えた。自分にはまだ子供がいない、たとえ自分に多くのものが与えられても、このままでは全部、家で生まれた僕のものになるだけだ、と。主はそれに対し、「あなたの身から出る者が」あなたの跡を継がなければならない、と、明確に言われた。あなたにはこれから必ず、子が与えられる、と。
『そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 』(創世記15:5)
アブラムは、闇に塗られた夜空に、数え切れないほどの星々が、ちりばめられた宝のように輝いているのを、仰ぎ見た。暗闇の空に輝く星々。大きな星もあれば小さな星もあり、色とりどりの星が無数にきらめいている。
自分に与えられる子は、このようである! アブラムは、主の言葉を信じた。信じて、喜び踊った事だろう。
もう死んだも同然のような自分に、これから子が与えられ、その子孫は夜空の星々のようになる。それを信じて喜び踊る。それは信仰無き者には理解出来ない喜びである。そして主は、これを彼の義と認められた。
主の言葉を信じる事。それこそ、不義なる人が、義とされる、唯一の手段である。私達もイエスを死人の中からよみがえらせて下さったお方を信じる信仰によって、義とされるのだ。(ローマ4:16-25)
さて、アブラムは以前、最後の血縁であるロトと別れた直後にも、子孫が「地のちりのように」多く与えられると約束が与えられたが、それが今回、「空の星のように」へとバージョンアップしている。
自分の生来の生き方、地に属する生き方を離れるなら、その人もその子孫も、確かに地において栄え、増えて行く。しかし、主の約束を信じ、さらに進み出て勝利する人、ソドムのような汚れた富は一切断る人には、まことの大祭司メルキゼデクからのパンとぶどう酒が待っており、その子孫は、地において栄えるばかりか、より優れた「天に属する子孫」となり、その子孫は、漆黒に塗られた暗闇の時代においても、光となって輝き渡るのだ。そしてまた、アブラムに約束された「子孫」には、さらなる意味がある。
アブラムに与えられると約束された”子孫”は単数形であり、この「単数形の子孫」は、キリストの事である。(ガラテヤ3:16) エバも、ノアも、そしてアブラムも、ダビデも、神が約束されたこの「単数形の子孫」、すなわち、蛇の頭を砕くキリストを望み、信じ、希望を託したのだ。(創世記3:15、9:9、15:5、2サムエル12:2)
旧約の偉人達は、その「子孫」をまだ見ていなくても、はるか未来に仰ぎ見、信じて義と認められ、また私達も同様に、キリストを見ていなくても信じており、栄えに満ちた喜びに満ち満ちている。(1ペテロ1:8)
現代を生きる私達も、この単数形の子孫であるキリストを宿し、この暗闇の世代の中において、キリストのいのちを灯す世の光として輝いている。アブラムが空を見上げた時、その星の中に、現代を生きる私達も見えたのではないだろうか。この闇の時代にあって、光の子としてますます輝き、光の子孫をさらに生んで増やして行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
メルキゼデク – 永遠の祭司(創世記14:14-24)
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今回はメルキゼデクという人物について見て行きたいが、彼はとても特異的な存在である。
メルキゼデクが登場するのは創世記14章のみで、突如アブラムに現れ、彼を祝福し、それ以降は姿を現さないが、その名は詩篇に1回、ヘブル書に8回、永遠の大祭司として登場する。
メルキゼデクが現れた創世記14章には、アブラムの第二の信仰の試練と、そして大勝利が記されている。
シヌアル(現・イラク周辺諸国)の4人の王達が集結し、現・イスラエル周辺諸国の5人の王達に戦いを挑んで、勝つのだが、その時、ソドムの中に住んでいたアブラムの甥のロトも、捕らえられてしまった。
それを聞いたアブラムは、彼の家で生まれたしもべ318人を率いて、その4人の王達に戦いを挑んだ。
今回彼は、エジプトで得た奴隷には一切頼らず、ただ自分の家で生まれたしもべだけの、信仰の小数精鋭部隊をもって相対して、見事勝利し、ロトを救い出したばかりでなく、多くの分捕り物も得たのだ。
かつて、第一の試練である飢饉が彼に襲った時、彼はエジプトに下り、愛する妻サライがパロの元に連れて行かれても、ただ指を咥えて見ているだけだったが、今回のアブラムは、信仰によって進み出た。
アブラムは、神が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」と言われたからには、この王達の方が呪われていると信じ、神が「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と約束されたからには、自分は戦死せず、生きて、勝利し、そして必ず子孫を残す、と、信じた事だろう。
彼が相対した王達は、各国を打ち破り、略奪しながら下ってきたのだから、相当の気勢・軍勢であったろう。
それを、わずか318人で戦って勝利し、かなりの距離を追跡して多くの分捕りをしたのは、人間業ではなく、主のわざである。エジプトでの時、彼は自分の力を見て失敗したが、今回彼は自分を見ず、主の約束に信頼したため、主はその信仰に応じ、勝利を得させたのだ。メルキゼデクが彼に現れたのは、その時である。
メルキゼデクはサレムの王である。14章には今回の戦争に関わった王達の名や地名が沢山出て来るが、メルキゼデクも、サレムも、どこにも無い名であり、14章に登場する王達はその場限りの脇役だが、メルキゼデクは、詩篇でダビデが記し、ヘブル書の記者が詳細に記している。
いと高き神の祭司として突如現れ、アブラムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げた彼は一体何者だろうか。
「その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。」(ヘブル7:2-4)
義の王、平和の王であり、いと高き神の祭司として、信仰の父祖アブラハムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げたお方。父もなく母もなく、系図もなく、また、生涯の初めも命の終わりも無いお方。
彼は永遠の祭司であり、キリストの性質そのものである。彼こそ受肉前のキリストではないだろうか。
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってアブラムを出迎えたが、それは単なる食料の差し入れではない。
パンはイエスの裂かれた体、ぶどう酒はイエスの流された血潮を意味する。イエス様は、信仰をもって御前に近づく私達にも、裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、その流された血潮の印によって定められた滅びは過ぎ越し、罪は清められ、その裂かれた体によって、真の聖所に入る事が出来るのだ。
勝利したアブラムを迎えた王が、もう一人いる。それは、主の御前に非常に罪深い、ソドムの町の王である。
ソドムの王は「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と持ちかけたが、アブラムは、いと高き神にかけてそれを辞退し、ソドムのものは一切、靴紐一本さえ取らない事を宣言した。
世の富、ことさら、ソドムのような神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。私達は、ただメルキゼデクからいただくパンとぶどう酒を、すなわち、イエスキリストの御体と血潮のみを望むべきである。
アブラムは、世の力に頼らず主の約束のみに頼って戦い、勝利し、世の報酬は一切求めずに、ただメルキゼデクのパンとぶどう酒のみを受けた。そして彼はいと高き祭司に祝福され、十分の一を捧げた。
同じように私達も、御言葉の約束を信頼して進み出て戦うならば、主は勝利を与えて下さり、キリストご自身の裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、そして祝福して下さるのである。
ロト - 祝福のおこぼれにあずかっていた人(創世記13章)
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今回は、アブラムの甥であるロトという人物について見て行きたい。
ロトの父であり、アブラムの兄弟であるハランは、他の兄弟に先んじて息子・娘たちを生み、そして早くしてカルデヤのウルで死んだ。ロトの祖父であり、アブラムの父であるテラがカナンを目指すためにウルを出た時には、ロトもアブラムと共に同行し、テラがカランに留まってカナンへの歩みをやめてしまった時には、ロトはテラの元を離れて、アブラムと共にカナンの地へと行った。
カナンに到着した時には、彼もアブラムと共に礼拝したであろうし、共に主の御名によって祈ったろう。
アブラムのような主の召命はロトには無かったが、アブラムと行動を共にした結果、ロトも祝福を受けたのだ。
たとえ祝福を受ける器ではなくとも、ちゃっかりと祝福にあずかれる人がいる。それは、ロトのように、主に祝福されている人について行って、共に交わり、共に主の御名を呼び、共に礼拝する事である。
アブラム達はエジプトに行って、信仰的には失敗を経験したが、金銀や家畜は非常に多くなって戻った。
このエジプトで得た多くの富は、実は、後にロトにとって罠となり、また、アブラムにとっても罠となってしまう。
とにかくカナンに帰った彼らは、初心に返り、当初、祭壇を築いて礼拝した場所へ戻って、改めて主の御名を呼んで礼拝した。アブラムは今回の失敗で、ますます謙虚に、柔和な者となったようである(後述)。
ロトも、アブラムに勝るとも劣らない物持ちとなったが、互いの持ち物が増えるにつれ、それぞれの家畜を飼う者たちの間に争いが起きはじめた。このような場合、互いが自分の権利を主張し喧嘩別れになる事が多いが、アブラムは身内同士で争いが起こるくらいなら、いっそ離れたほうが良いと考え、ロトに提言する。
「あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう。」(9節)
彼らのいるパレスチナ地方は水が貴重であるため、水のある所を所有できるかどうかは死活問題であった。
本来、目上であるアブラムの方が、目下であるロトに「あなたがあちらに行け」と指示できるはずなのに、彼は一切主張せず、自己義を押し通さず、文句を言わず、自分の事は全てを祝福して下さる主に委ねた。
柔和な者は幸いである、その人は地を受け継ぐ(マタイ5:5)という御言葉の通り、結局、地を相続する者は、最終的にはアブラムのような柔和な人、平和の人なのだ。
『ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた・・・ ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。』(創世記13:10-13)
ロトが住む所を選んだ基準は、主の約束よりも自分の「目」の判断を重要視し、主の御旨がそこにあるかどうか、霊的に清いかどうかよりも、そこが物質的に潤っているかどうか、栄えているかどうかであった。
それに対し、アブラムは、主が「この地を子孫に与える」と約束しておられた地を、離れなかった。
こうしてロトはアブラムと別れたが、実は、アブラムと分かれる直前が、ロトにとって祝福のピークであった。
後の彼は、霊的にも、財産的にも、どんどん落ちぶれて行ってしまう。
当初のロトのように、主に祝福されている人と共に行動し、共に礼拝し、共に主の御名を呼び求めるなら、確かに祝福のおこぼれにあずかれるが、後のロトのように、世の栄えに目を向け、主の約束よりも自分の好む事を優先させ、主の交わりから離れてしまうと、とたんに、人生の奈落を転げ落ちて行く。
故郷を出て、異郷の地を放浪していたアブラムは、ついに最後の血縁・ロトと別れた。長らく一緒に行動して来たロトと別れたアブラムは、どれほど悲しく心細かった事だろう。しかし、ロトと別れた直後、アブラムに主が現れ、よりバージョンアップしより具体化した祝福の約束が与えられた。(14-18節)
そこでアブラムは、ヘブロンへと天幕を移し、そこで主のために祭壇を築いて礼拝した。
ロトがいなくなった事は、確かに悲しい事だったかもしれない。しかしそれは、アブラムにとって、実は幸いだった。争いの元が無くなり、また、主の約束よりも世の享楽や自分の好む事を優先させる者がいなくなったため、その礼拝はより純化し、より御声が具体的に、より深く聞けるようになったからだ。
主の約束を堅く握りしめ、祝福の交わりから離れず、より高度な祝福にあずかる皆さんでありますように!
サライ - 主人に服従した王族の母(創世記12:10-20)
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今回は、アブラムの妻・サライ(後のサラ)について見て行きたい。
サライは、アブラムの10歳年下の異母兄妹であり、かつ、アブラムとは夫婦の関係である。
アブラムが身の危険を感じる程美しい女性で、名前の意味は王女、高貴な女性で、父のテラは彼女にお姫様のような子になって欲しいとある種の願いを込めてつけたのだろう。しかし彼女は不妊の女だった。
『さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。』(創世記12:10) アブラムにとって最初の信仰の試練は、ききんである。
お金や食料が尽きるのは、聖書の中でもよく見るが、そのような時は大抵、信仰が試されている。
アブラムはこの時、大いに祝福して下さると約束して下さった主に頼るのではなく、周りを見渡し、エジプトに食料があると見定め、安直にそちらへ行ってしまった。しかも、エジプトに入る時、彼はサライに言う。
「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。」(創12:11-12)
彼のこの言葉から、彼は約束して下さった主よりも、エジプト人やパロのほうを恐れている事がわかる。
一度、主から目をそらし、自分の「不足」に目を向けると、恐れ、不安になる。すると、主にではなく世に頼ろうとするようになり、世に頼ろうとする時、罪と妥協して、ますます主から離れてしまうパターンに陥る。
『どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで「無事であり(彼らは自分に良くしてくれ)」わたしの命はあなたによって助かるでしょう。』(創世記12:13)
アブラムは、自分達は「夫婦」ではなく「兄妹」だと言うように指示し、そうして彼女がパロに召し入られるなら、自分達は良い待遇が受けられるだろう、という、確信犯的な皮算用さえ見える。
夫婦のどちらかが犠牲になって生活の保証を得る。それは現代もよく見る事で、キリスト者にも同じ誘惑に陥る人は多いが、主がアブラムとサライにして下さった約束は、彼らの間に生まれる子が、おびただしく増えていくものであって、サライがパロの妾の一人になるなど、主の約束の中には一切無いはずである。
彼女は、この非道いように見えるアブラムに指示に、従った。もしかしたら彼女も、アブラムと同意見だったからかもしれないが、とにかく彼女は、無言の振る舞いによって、夫に仕える信仰の持ち主だった。
なにしろ彼女は65歳の時、主がアブラムをどこに導くかも分からないのに、住み慣れた生活の場を放棄して彼と一緒について行ったのだ。『たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。』(1ペテロ3:5-6)
彼女はこの時はまだ未熟だが、彼女のこの「主人に従う」性質こそが、王族の家系の母となる性質である。
エジプトに入った時、果たしてアブラムが言った通りの事になった。エジプト人は、サライの美しいのを見てパロに推薦し、彼女はパロに召し入れられてしまい、そしてアブラムは家畜や奴隷を得た。
アブラムは財産が増えて、自分の思い図った通りに成功した、と思っただろうか?
確かに衣食住の心配は無くなったかもしれないが、彼が正常な信仰者であるなら、主の約束から大分離れてしまった自分達の有り様に、平安が乱されていたのではないだろうか。皆さんも、同じ葛藤に陥っていないだろうか。このように、人の考え出したベストは決して「最善」ではなく、どこかに虚しさや苦々しさがついて回る。しかし主は、そのような人間の失敗さえも「最善」へと導く事の出来るお方である。
「ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。」(17節)
そこで主の直接介入である。主はアブラムの、そしてサライの祈りを聞かれたのだろう。
人は、身勝手な不従順の結果、苦々しさ、災いに陥る事はあるが、主は「それみろ自業自得だ」と言ってほったらかす事はなく、悔い改めの祈りを聞かれる。
18節を見ると、この災いの原因は、アブラムの妻・サライをめとった故だと、パロははっきり認知していた事がわかる。パロはアブラムの背後にいる主を恐れ、サライを無事に返し、全ての所有物と共に送り出した。
アブラムは自分を弱々しいと思ったかもしれないが、彼の背後には、エジプトさえ恐れる主がおられる。
そして、私達が信じる主は、同じ万軍の主であり、私達も主を信じるなら、信仰によるアブラハムの子孫であり、そうであるからには、世の側が、主イエスの故に、私達を恐れるのだ。
アブラム - 主と共に歩む人(創世記12:1-9)
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アブラム、後のアブラハムは、聖書の中の最重要人物の一人であり、彼は、肉においてはイスラエル民族・アラブ民族の父であり、霊的には、信仰によって救われる全ての人の父であり、信仰の父と呼ばれている。
アブラムの名は「父が高められる」という意味であり、後の名、アブラハムは「多くの国民の父」の意味である。
今回から、アブラムと、彼をとりまく周囲の人物とに焦点を当てて見て行きたい。
『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』(創世記12:1-2)
主は、アブラムを「祝福」すると仰せられた。この1-3節に、祝福という言葉が5回も出てくる。
祝福には条件がある。すなわち、まず父の家を「出る(ハーラフ)」事、そして、主が示す地へと行く事だ。
この「(ハーラフ:歩む、歩き回る)」という語は今回の箇所(1-9節)だけで5回用いられている。(1,4,5,9節)
アブラム、すなわちアブラハムの人生について回る重要なキーワードは、「祝福」と「ハーラフ」である。
神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
アダム系図の中で、エノクとノアの二人は「神と共に歩んだ(ハーラフ)」と記されており(創世記5:22-24, 6:9)、アダム系図の中で、特に際立った信仰の持ち主であるこの二人に、共通した性質である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、アブラムに「アブラハム」という新しい名が与えられる時も、主は「ハーラフ」を命じている。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」(創世記17:1)
アブラムが身勝手に自分の考え・自分の力で奴隷女ハガルとの間に子供イシュマエルをもうけた後、13年もの間、霊的空白期間が続いてしまったが(創世記16:16-17:1)、いよいよアブラムの肉の力が尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事だった。
ここの「歩み」なさいという要求には、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられているわけである。
私達も、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に、主と共に歩もうとする事こそ、重要である。
「あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」私達も、自発的に主と共に歩むなら、「全き者」となる。
その「全き者」とは、道徳基準における完全さの事ではない。私達は罪があり、義において完全な者など、一人もいないが、アブラハムのように、ただ信仰によって、神と共に歩む事によってのみ、「全き者」となる事が出来るのである。頑張って良い子になるよりも、神と共に歩む事こそ、主が望んでおられる事なのだ。
『だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。・・・このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。・・・律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:7-11)
『アブラムは主が言われたように「いで立った」。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを「出た」時七十五歳であった。アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとして「いで立ち」、カナンの地にきた。』(4-5節、「」内がハーラフ。)
アブラムの信仰のはじめの歩みは、神と共に「歩む」事の連続だった。失敗も当然あったが、彼は神と共に歩む道から離れなかった。それに対し、彼の父テラは、共に歩む事を途中で止めてしまった。
「テラは・・・カナンの地へ「行こうと(ハーラフ)」カルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。」(創世記11:31) 神と共に歩む事を止めてしまうと、その人にとっての「永遠の時」はそこでストップしてしまう。しかし、神と共に歩むなら、その人は永遠に生きるのだ。(黙示録21:3)
アブラハムのように主と共に歩み、主の前に全き者となり、主と共に永遠に生きる皆さんでありますように!
テラ - 歩みを途中で止めてしまった者(創世記11:27-32)
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セムの子孫達、すなわち、神をおそれ敬うべき一族は、神の前に罪深いハムの子孫達が治める地、シヌアルの地に定住し、そこで彼らは結託してバベルの塔を築こうとしたが、神によって言葉が混乱させられ、その野望は見事に砕かれ、それで人々は全地へ散って行った事を前回見た。
さらに代が下り、セムから数えて9代目の子孫、テラの歴史が、11章27節から32節の5節の内に記されている。テラは、聖書の中で最重要人物の一人 であるアブラム(後のアブラハム)の父である。
今回は、聖書上の歴史がわずか5節で終わってしまった、このテラについて見て行きたい。
『テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。』(創世記11:31)
カルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝や不品行が盛んな町で、ヨシュアは次にように言っている。
『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていた』(ヨシュア記24:2)
テラは元々、他の神々に仕えていたが、その罪深い地を出て、カナンに向かっていった。主は「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主」(15:7)と言っているので、もしかしたら、アブラムが主から示しを受けて、父テラと妻と甥のロトを連れ出したのかもしれない。
ところがテラは、どういう訳か、目的地であるカナンまでは行かず、途中のハランで足を止めてしまい、そこに定住し、結局そのハランで骨を埋める事となった。(創世記11:32)
どういう訳でテラがそこに住み着いたのか分からないが、神の御心は、セムの子孫はカナンへ行くべし、というものだった事が、聖書の後の歴史を見るとわかる。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。』(創世記12:1-2)
私達も、神様から行けと命じられた時は、行くべきである。
いかに親や子が、家族が、そこに留まろうとも。そこが不品行と偶像礼拝に満ちているなら、なおさらである。
もちろん、さっさと家族を捨ててしまえという事ではない。明確な主からの召命が無い限りは、家族の元に留まって、家族の救いのため労するべきである。アブラムも、75歳まで父の元に留まった。
しかし、どうしても家族が主の御言葉に従わないなら、やがて主から「離れなさい」と言われる「時」が来る。
テラはカナンという目標があったのに、ハランで歩みを止めてしまい、結局そこで死んだ。それで、テラの歴史は、聖書ではたった5節で終わってしまった。
ずっと後のイスラエルの民も、カナンへ行きなさいと言われたのに、行きたくないとか、エジプトに帰りたいとか言い続け、やがて時が来てしまい、彼らは約束の地を見る事なく、荒野で死ぬ事となってしまった。
神様から「これをしなさい」「ここに行きなさい」と、道が示されているのに、それをしないまま、生まれながらの罪深い所や、自分の好む所に留まり続けるなら、次の道は、神様から決して示されない。
神様が右へ行けと言われ、右へ行くなら、はじめて、次の道が示される。それが神様の導き方である。
人がどうしても左が好きで、右に行かないなら、神様はその次は決して示されない。しかも人は、左の次へ行きたいのに、神様は中々、次の道を開いて下さらない、と、文句を言うものである。
しかし御心が右であるなら、その人が方向転換して右に行かない限り、次の道は決して示されないのだ。
主の御言葉は「足のともし火」とある通り、御言葉は先々を照らす強い光ではなく、足元を照らすだけの光である。人はその光の弱さを見て、心細い思いがするかもしれないが、むしろ、それで充分である。
なぜなら人は、主のご計画の遠い将来まで見てしまったら、その道は嫌だと言うのが関の山だからだ。
もしアブラムに、予め、子供ができるのは25年後で、その子は捧げなければならず、しかも生きている間に相続できるのは、マクペラの洞穴だけだ、と言われていたなら、彼も父の家を出ないでいたかもしれない。
御言葉のともし火にただ導かれ、その一歩一歩を信仰によって進み、その都度、導きを頂いて、着実に祝福の人生を歩んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ニムロデ − 神に敵対する狩猟者(創世記11:1-9)
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洪水以降、聖書はセムの家系を中心に展開されて行く。ノアの長子・セムの子孫から、全人類の霊的長子であるイスラエル民族が生まれ、さらに、全て信じて救われる者達の長子・イエスキリストが現れるのだ。
そのセムの系図の間に、人類にとって重要なバベルの塔の事件が挿入されている。
この事件の故に、人の言葉は混乱させられ、一処に集まろうとしていた人は、全地へと散って行った。
このバベルの事件の立役者は、ハムの孫・ニムロデ(名前の意味:反逆者)である。
『このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。』(創世記10:8-10)
聖書では、他の生物を思うままに狩って食する狩猟者は、良い者ではない。イシュマエルも、エサウも、狩猟者だった。しかもニムロデは、主の「前に(パウニム: 敵対して)」、力ある狩猟者だった。
彼の性質は、力で人々の上に登りつめ、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにする狩猟者であり、主の前に敵対的に立つ者であった。彼が建造しようとしたバベルの塔は、どのようなものであったか。
セムの子孫達は、東の高原地帯を定住地としていた。(創10:30) しかし彼らは東のほうから移動して来て、ハムの子孫達が住んでいるシヌアルの地に定住した。シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、すなわち後のバビロン、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国のものを奪って来(ダニエル1:2)、罪悪が安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
『彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。』(創世記11:3-4)
神に従う一族が、自分の所を出て、神に敵対する者達の力や知恵に魅了され、思想を一致させ、結託してしまうと、良くない事が起きる。ちょうど洪水前に、神の子達が人の女の美しさに魅了されて結婚したように、また、ロトがソドムやゴモラの地方にいざなわれて行ったように。
彼らは「全地に散らされる事を免れよう」としたが、それは「地に満ちよ」というノアへの祝福に反する。
また、神を脇に置いて「名を上げよう」という欲求は、まさにサタンの欲求である。サタンは、真に高められるべき神を差し置いて、自らが高い所に座をしめようとした結果、地に投げ落とされた。(イザヤ14:12-15)
人は高い建造物を作りたがるが、その背後には、自らが高くなりたいという高慢の他、洪水などの神の罰に対抗したい、という思いもあるのだろう。
かつて不従順のために洪水が起こった、だから神に従順しよう、という発想にはならず、だから高い建造物を造って対抗しよう、という発想になるのは、神に従順するのが嫌な者の思考パターンである。
『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事も「とどめ得ない(バウツァー:restain、抑制が効かない)」であろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。』(創世記11:5-7)
人が思いと心を一致させ、何事かに突き進む時、抑制が効かなくなる。
特に、欲望に従って突き進む、あるいは神に敵対して進む結果、人は、滅びを刈り取ってしまう。ちょうど、ノアの時のように。人は再びその過ちを繰り返そうとしたのだ。神はそれを防ごうとされたのだ。
神を離れて高ぶろうと結託する結果、もたらされるものは、混乱(バラル=バベルの語源)である。
人が、ニムロデのように力づくで他を支配し、神の座につこうと高慢になる時、そこには混乱があり、一人の人間の元に一団となって神に敵対するなら、神が直接介入し、その者どもを滅ぼされる。(黙示録20章)
神は混乱の神ではなく、平和の神である。(1コリント14:33) 人が神に服従し、神の栄光を伝えようとする時、聖霊が働いて下さり、言葉の混乱はなくなる。ペンテコステの時まさにそれが起きた。(使徒2章)
私達が一つとなる事ができるのは、ただキリスト・イエスによるのみである。(コロサイ3:9-11)
人の力づくによってではなく、主義主張やイデオロギーによるのでもなく、ただイエスというお方にあって一つとなる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!
セム・ハム・ヤペテ - 晒す者と覆う者(創世記9:18-29)
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洪水以前の罪深い人々は滅び去り、神の御前に正しいノアの家族から、人類は新たに増え広がって行ったが、早速、罪の性質が現れ始めた。今回はそのノアの3人の息子に焦点を当てて見てみたい。
『ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。』酒に酔う事は、長たる者のする事ではない。さばきを曲げるかもしれないからであり(箴言31:4-5)、酔って聖所に入るなら、死んでしまう危険があるからだ。(レビ10:9)
『カナンの父ハムは父の裸を「見て(ラアー)」、外にいるふたりの兄弟に告げた。』(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語「 ラゥアゥ 」は、じっくり見る、楽しみつつ見る等の意味がある。
父は一家の長であり、一家を祝福する祭司の立場である事を前回学んだが、ハムは、その父の天幕にずかずか入って行き、父が酔って裸で寝ている様を見つけると、それをじっくり見、楽んだばかりでなく、その光景を、兄弟たちと一緒に見て楽しむために誘ったのだ。
セムとヤペテは確かにそこに来たが、それはハムと一緒に父の裸を見るためではなく、覆うためだった。
ハムは、普段から父を敬わず、隙あらば弱みを握ってやろうと思っていたのだろう、父の恥を見た時、待ってましたとばかりに、そのような行動に至ったわけである。それに対しセムとヤペテは、普段から父を一家の長として敬い、祝福を祈り執り成していたからこそ、とっさの時に、その行動を起こしたのだろう。
『彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、/その兄弟たちに仕える」』(25節)
事実、カナンの子たちは、ノアが呪った通りの歴史となった。
エブス人やエモリ人、ソドムやゴモラ等、カナンの子孫たちは、不品行や同性愛、魔術や偶像礼拝など、神の前に悪を重ねたため、神はセムの子孫であるユダヤ人を通して滅ぼされる対象となってしまった。
また、ハムは黒色人種の祖先であると言われているが、歴史を見るに、まさにノアの呪い通りになっている。
ここから私達が学ぶべきは、父、あるいは祝福を授ける立場の人の、プライベートへ踏み込んで、露わな様をじっくりと見て楽しんだり、周りの兄弟たちに言いふらし、一緒に来て見るように招いたりするような者は、子々孫々とも呪われ、奴隷とされてしまう、という事である。
もちろん、父が呪ったからと言って(あるいは祝福したからと言って)宿命的にその通りになるわけではなく、本人自身が祝福に相応しい行動をとるなら祝福され、呪われるに相応しい行動をとるなら呪われるものだ。
ただ、はっきりしている事は、他人の裸や秘密や性的なスキャンダルが大好きで、それを探し、見つけ、他に共有しようとする者、そういう情報で盛り上がる者達の集いは、ソドムやゴモラのように不品行と暴虐に満ちて行き、呪いに相応しいものとされ、やがては、炎の裁きによって永遠の滅びへと至ってしまうのだ。
『セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。』(創世記9:23)
敬うべき父が裸をあらわにしていたなら、目を向けず、かえって覆ってあげる人こそ、祝福される人である。
「セムの神、主はほむべきかな、/カナンはそのしもべとなれ。」(26節) 事実この祝福のとおり、セムの子孫からはアブラハムが出て、イスラエル民族となり、カナン人を滅ぼし、全人類の救い主イエスが出た。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(27節)
ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、「セムの天幕に住まわせ」の預言はまさに実現した。
兄弟姉妹が裸なのを見て着せてやるなら、それは主に対してそうした事であり、着せないであざ笑うなら、それも主に対してした事である。(マタイ25:31-46)
キリストの体の中で、かっこうの悪いと見られる器官があるなら、かっこうの良い器官がそれを覆い、そうしてキリストのからだ全体が調和を保ち、共に建て上げられていくのである。(1コリント12:22-27)
主にある兄弟姉妹のプライベートに入って、裸なのを見て楽しみ、あざ笑い、言いふらすハムのような者は、奴隷となり、呪いを産み、滅びを刈り取る者である。ハムのような者ではなく、セムやヤペテのように、兄弟姉妹の恥を覆い、憐れみ、祝福を受け継ぐ性質の皆さんでありますように。