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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

メルキゼデク – 永遠の祭司(創世記14:14-24)
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今回はメルキゼデクという人物について見て行きたいが、彼はとても特異的な存在である。
メルキゼデクが登場するのは創世記14章のみで、突如アブラムに現れ、彼を祝福し、それ以降は姿を現さないが、その名は詩篇に1回、ヘブル書に8回、永遠の大祭司として登場する。

メルキゼデクが現れた創世記14章には、アブラムの第二の信仰の試練と、そして大勝利が記されている。
シヌアル(現・イラク周辺諸国)の4人の王達が集結し、現・イスラエル周辺諸国の5人の王達に戦いを挑んで、勝つのだが、その時、ソドムの中に住んでいたアブラムの甥のロトも、捕らえられてしまった。
それを聞いたアブラムは、彼の家で生まれたしもべ318人を率いて、その4人の王達に戦いを挑んだ。
今回彼は、エジプトで得た奴隷には一切頼らず、ただ自分の家で生まれたしもべだけの、信仰の小数精鋭部隊をもって相対して、見事勝利し、ロトを救い出したばかりでなく、多くの分捕り物も得たのだ。
かつて、第一の試練である飢饉が彼に襲った時、彼はエジプトに下り、愛する妻サライがパロの元に連れて行かれても、ただ指を咥えて見ているだけだったが、今回のアブラムは、信仰によって進み出た。
アブラムは、神が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」と言われたからには、この王達の方が呪われていると信じ、神が「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と約束されたからには、自分は戦死せず、生きて、勝利し、そして必ず子孫を残す、と、信じた事だろう。
彼が相対した王達は、各国を打ち破り、略奪しながら下ってきたのだから、相当の気勢・軍勢であったろう。
それを、わずか318人で戦って勝利し、かなりの距離を追跡して多くの分捕りをしたのは、人間業ではなく、主のわざである。エジプトでの時、彼は自分の力を見て失敗したが、今回彼は自分を見ず、主の約束に信頼したため、主はその信仰に応じ、勝利を得させたのだ。メルキゼデクが彼に現れたのは、その時である。

メルキゼデクはサレムの王である。14章には今回の戦争に関わった王達の名や地名が沢山出て来るが、メルキゼデクも、サレムも、どこにも無い名であり、14章に登場する王達はその場限りの脇役だが、メルキゼデクは、詩篇でダビデが記し、ヘブル書の記者が詳細に記している。
いと高き神の祭司として突如現れ、アブラムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げた彼は一体何者だろうか。
「その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。」(ヘブル7:2-4)
義の王、平和の王であり、いと高き神の祭司として、信仰の父祖アブラハムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げたお方。父もなく母もなく、系図もなく、また、生涯の初めも命の終わりも無いお方。
彼は永遠の祭司であり、キリストの性質そのものである。彼こそ受肉前のキリストではないだろうか。
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってアブラムを出迎えたが、それは単なる食料の差し入れではない。
パンはイエスの裂かれた体、ぶどう酒はイエスの流された血潮を意味する。イエス様は、信仰をもって御前に近づく私達にも、裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、その流された血潮の印によって定められた滅びは過ぎ越し、罪は清められ、その裂かれた体によって、真の聖所に入る事が出来るのだ。

勝利したアブラムを迎えた王が、もう一人いる。それは、主の御前に非常に罪深い、ソドムの町の王である。
ソドムの王は「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と持ちかけたが、アブラムは、いと高き神にかけてそれを辞退し、ソドムのものは一切、靴紐一本さえ取らない事を宣言した。
世の富、ことさら、ソドムのような神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。私達は、ただメルキゼデクからいただくパンとぶどう酒を、すなわち、イエスキリストの御体と血潮のみを望むべきである。
アブラムは、世の力に頼らず主の約束のみに頼って戦い、勝利し、世の報酬は一切求めずに、ただメルキゼデクのパンとぶどう酒のみを受けた。そして彼はいと高き祭司に祝福され、十分の一を捧げた。
同じように私達も、御言葉の約束を信頼して進み出て戦うならば、主は勝利を与えて下さり、キリストご自身の裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、そして祝福して下さるのである。

ロト - 祝福のおこぼれにあずかっていた人(創世記13章)
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今回は、アブラムの甥であるロトという人物について見て行きたい。
ロトの父であり、アブラムの兄弟であるハランは、他の兄弟に先んじて息子・娘たちを生み、そして早くしてカルデヤのウルで死んだ。ロトの祖父であり、アブラムの父であるテラがカナンを目指すためにウルを出た時には、ロトもアブラムと共に同行し、テラがカランに留まってカナンへの歩みをやめてしまった時には、ロトはテラの元を離れて、アブラムと共にカナンの地へと行った。
カナンに到着した時には、彼もアブラムと共に礼拝したであろうし、共に主の御名によって祈ったろう。
アブラムのような主の召命はロトには無かったが、アブラムと行動を共にした結果、ロトも祝福を受けたのだ。
たとえ祝福を受ける器ではなくとも、ちゃっかりと祝福にあずかれる人がいる。それは、ロトのように、主に祝福されている人について行って、共に交わり、共に主の御名を呼び、共に礼拝する事である。

アブラム達はエジプトに行って、信仰的には失敗を経験したが、金銀や家畜は非常に多くなって戻った。
このエジプトで得た多くの富は、実は、後にロトにとって罠となり、また、アブラムにとっても罠となってしまう。
とにかくカナンに帰った彼らは、初心に返り、当初、祭壇を築いて礼拝した場所へ戻って、改めて主の御名を呼んで礼拝した。アブラムは今回の失敗で、ますます謙虚に、柔和な者となったようである(後述)。
ロトも、アブラムに勝るとも劣らない物持ちとなったが、互いの持ち物が増えるにつれ、それぞれの家畜を飼う者たちの間に争いが起きはじめた。このような場合、互いが自分の権利を主張し喧嘩別れになる事が多いが、アブラムは身内同士で争いが起こるくらいなら、いっそ離れたほうが良いと考え、ロトに提言する。
「あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう。」(9節)
彼らのいるパレスチナ地方は水が貴重であるため、水のある所を所有できるかどうかは死活問題であった。
本来、目上であるアブラムの方が、目下であるロトに「あなたがあちらに行け」と指示できるはずなのに、彼は一切主張せず、自己義を押し通さず、文句を言わず、自分の事は全てを祝福して下さる主に委ねた。
柔和な者は幸いである、その人は地を受け継ぐ(マタイ5:5)という御言葉の通り、結局、地を相続する者は、最終的にはアブラムのような柔和な人、平和の人なのだ。

『ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた・・・ ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。』(創世記13:10-13)
ロトが住む所を選んだ基準は、主の約束よりも自分の「目」の判断を重要視し、主の御旨がそこにあるかどうか、霊的に清いかどうかよりも、そこが物質的に潤っているかどうか、栄えているかどうかであった。
それに対し、アブラムは、主が「この地を子孫に与える」と約束しておられた地を、離れなかった。
こうしてロトはアブラムと別れたが、実は、アブラムと分かれる直前が、ロトにとって祝福のピークであった。
後の彼は、霊的にも、財産的にも、どんどん落ちぶれて行ってしまう。
当初のロトのように、主に祝福されている人と共に行動し、共に礼拝し、共に主の御名を呼び求めるなら、確かに祝福のおこぼれにあずかれるが、後のロトのように、世の栄えに目を向け、主の約束よりも自分の好む事を優先させ、主の交わりから離れてしまうと、とたんに、人生の奈落を転げ落ちて行く。

故郷を出て、異郷の地を放浪していたアブラムは、ついに最後の血縁・ロトと別れた。長らく一緒に行動して来たロトと別れたアブラムは、どれほど悲しく心細かった事だろう。しかし、ロトと別れた直後、アブラムに主が現れ、よりバージョンアップしより具体化した祝福の約束が与えられた。(14-18節)
そこでアブラムは、ヘブロンへと天幕を移し、そこで主のために祭壇を築いて礼拝した。
ロトがいなくなった事は、確かに悲しい事だったかもしれない。しかしそれは、アブラムにとって、実は幸いだった。争いの元が無くなり、また、主の約束よりも世の享楽や自分の好む事を優先させる者がいなくなったため、その礼拝はより純化し、より御声が具体的に、より深く聞けるようになったからだ。
主の約束を堅く握りしめ、祝福の交わりから離れず、より高度な祝福にあずかる皆さんでありますように!

サライ - 主人に服従した王族の母(創世記12:10-20)
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今回は、アブラムの妻・サライ(後のサラ)について見て行きたい。
サライは、アブラムの10歳年下の異母兄妹であり、かつ、アブラムとは夫婦の関係である。
アブラムが身の危険を感じる程美しい女性で、名前の意味は王女、高貴な女性で、父のテラは彼女にお姫様のような子になって欲しいとある種の願いを込めてつけたのだろう。しかし彼女は不妊の女だった。

『さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。』(創世記12:10) アブラムにとって最初の信仰の試練は、ききんである。
お金や食料が尽きるのは、聖書の中でもよく見るが、そのような時は大抵、信仰が試されている。
アブラムはこの時、大いに祝福して下さると約束して下さった主に頼るのではなく、周りを見渡し、エジプトに食料があると見定め、安直にそちらへ行ってしまった。しかも、エジプトに入る時、彼はサライに言う。
「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。」(創12:11-12) 
彼のこの言葉から、彼は約束して下さった主よりも、エジプト人やパロのほうを恐れている事がわかる。
一度、主から目をそらし、自分の「不足」に目を向けると、恐れ、不安になる。すると、主にではなく世に頼ろうとするようになり、世に頼ろうとする時、罪と妥協して、ますます主から離れてしまうパターンに陥る。
『どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで「無事であり(彼らは自分に良くしてくれ)」わたしの命はあなたによって助かるでしょう。』(創世記12:13) 
アブラムは、自分達は「夫婦」ではなく「兄妹」だと言うように指示し、そうして彼女がパロに召し入られるなら、自分達は良い待遇が受けられるだろう、という、確信犯的な皮算用さえ見える。
夫婦のどちらかが犠牲になって生活の保証を得る。それは現代もよく見る事で、キリスト者にも同じ誘惑に陥る人は多いが、主がアブラムとサライにして下さった約束は、彼らの間に生まれる子が、おびただしく増えていくものであって、サライがパロの妾の一人になるなど、主の約束の中には一切無いはずである。
彼女は、この非道いように見えるアブラムに指示に、従った。もしかしたら彼女も、アブラムと同意見だったからかもしれないが、とにかく彼女は、無言の振る舞いによって、夫に仕える信仰の持ち主だった。
なにしろ彼女は65歳の時、主がアブラムをどこに導くかも分からないのに、住み慣れた生活の場を放棄して彼と一緒について行ったのだ。『たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。』(1ペテロ3:5-6)
彼女はこの時はまだ未熟だが、彼女のこの「主人に従う」性質こそが、王族の家系の母となる性質である。
エジプトに入った時、果たしてアブラムが言った通りの事になった。エジプト人は、サライの美しいのを見てパロに推薦し、彼女はパロに召し入れられてしまい、そしてアブラムは家畜や奴隷を得た。
アブラムは財産が増えて、自分の思い図った通りに成功した、と思っただろうか?
確かに衣食住の心配は無くなったかもしれないが、彼が正常な信仰者であるなら、主の約束から大分離れてしまった自分達の有り様に、平安が乱されていたのではないだろうか。皆さんも、同じ葛藤に陥っていないだろうか。このように、人の考え出したベストは決して「最善」ではなく、どこかに虚しさや苦々しさがついて回る。しかし主は、そのような人間の失敗さえも「最善」へと導く事の出来るお方である。

「ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。」(17節)
そこで主の直接介入である。主はアブラムの、そしてサライの祈りを聞かれたのだろう。
人は、身勝手な不従順の結果、苦々しさ、災いに陥る事はあるが、主は「それみろ自業自得だ」と言ってほったらかす事はなく、悔い改めの祈りを聞かれる。
18節を見ると、この災いの原因は、アブラムの妻・サライをめとった故だと、パロははっきり認知していた事がわかる。パロはアブラムの背後にいる主を恐れ、サライを無事に返し、全ての所有物と共に送り出した。
アブラムは自分を弱々しいと思ったかもしれないが、彼の背後には、エジプトさえ恐れる主がおられる。
そして、私達が信じる主は、同じ万軍の主であり、私達も主を信じるなら、信仰によるアブラハムの子孫であり、そうであるからには、世の側が、主イエスの故に、私達を恐れるのだ。

アブラム - 主と共に歩む人(創世記12:1-9)
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アブラム、後のアブラハムは、聖書の中の最重要人物の一人であり、彼は、肉においてはイスラエル民族・アラブ民族の父であり、霊的には、信仰によって救われる全ての人の父であり、信仰の父と呼ばれている。
アブラムの名は「父が高められる」という意味であり、後の名、アブラハムは「多くの国民の父」の意味である。
今回から、アブラムと、彼をとりまく周囲の人物とに焦点を当てて見て行きたい。

『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』(創世記12:1-2)
主は、アブラムを「祝福」すると仰せられた。この1-3節に、祝福という言葉が5回も出てくる。
祝福には条件がある。すなわち、まず父の家を「出る(ハーラフ)」事、そして、主が示す地へと行く事だ。
この「(ハーラフ:歩む、歩き回る)」という語は今回の箇所(1-9節)だけで5回用いられている。(1,4,5,9節)
アブラム、すなわちアブラハムの人生について回る重要なキーワードは、「祝福」と「ハーラフ」である。

神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
アダム系図の中で、エノクとノアの二人は「神と共に歩んだ(ハーラフ)」と記されており(創世記5:22-24, 6:9)、アダム系図の中で、特に際立った信仰の持ち主であるこの二人に、共通した性質である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、アブラムに「アブラハム」という新しい名が与えられる時も、主は「ハーラフ」を命じている。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」(創世記17:1)
アブラムが身勝手に自分の考え・自分の力で奴隷女ハガルとの間に子供イシュマエルをもうけた後、13年もの間、霊的空白期間が続いてしまったが(創世記16:16-17:1)、いよいよアブラムの肉の力が尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事だった。
ここの「歩み」なさいという要求には、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられているわけである。
私達も、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に、主と共に歩もうとする事こそ、重要である。
「あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」私達も、自発的に主と共に歩むなら、「全き者」となる。
その「全き者」とは、道徳基準における完全さの事ではない。私達は罪があり、義において完全な者など、一人もいないが、アブラハムのように、ただ信仰によって、神と共に歩む事によってのみ、「全き者」となる事が出来るのである。頑張って良い子になるよりも、神と共に歩む事こそ、主が望んでおられる事なのだ。
『だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。・・・このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。・・・律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:7-11)

『アブラムは主が言われたように「いで立った」。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを「出た」時七十五歳であった。アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとして「いで立ち」、カナンの地にきた。』(4-5節、「」内がハーラフ。)
アブラムの信仰のはじめの歩みは、神と共に「歩む」事の連続だった。失敗も当然あったが、彼は神と共に歩む道から離れなかった。それに対し、彼の父テラは、共に歩む事を途中で止めてしまった。
「テラは・・・カナンの地へ「行こうと(ハーラフ)」カルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。」(創世記11:31) 神と共に歩む事を止めてしまうと、その人にとっての「永遠の時」はそこでストップしてしまう。しかし、神と共に歩むなら、その人は永遠に生きるのだ。(黙示録21:3)
アブラハムのように主と共に歩み、主の前に全き者となり、主と共に永遠に生きる皆さんでありますように!

テラ - 歩みを途中で止めてしまった者(創世記11:27-32)
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セムの子孫達、すなわち、神をおそれ敬うべき一族は、神の前に罪深いハムの子孫達が治める地、シヌアルの地に定住し、そこで彼らは結託してバベルの塔を築こうとしたが、神によって言葉が混乱させられ、その野望は見事に砕かれ、それで人々は全地へ散って行った事を前回見た。
さらに代が下り、セムから数えて9代目の子孫、テラの歴史が、11章27節から32節の5節の内に記されている。テラは、聖書の中で最重要人物の一人 であるアブラム(後のアブラハム)の父である。
今回は、聖書上の歴史がわずか5節で終わってしまった、このテラについて見て行きたい。

『テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。』(創世記11:31)
カルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝や不品行が盛んな町で、ヨシュアは次にように言っている。
『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていた』(ヨシュア記24:2)
テラは元々、他の神々に仕えていたが、その罪深い地を出て、カナンに向かっていった。主は「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主」(15:7)と言っているので、もしかしたら、アブラムが主から示しを受けて、父テラと妻と甥のロトを連れ出したのかもしれない。
ところがテラは、どういう訳か、目的地であるカナンまでは行かず、途中のハランで足を止めてしまい、そこに定住し、結局そのハランで骨を埋める事となった。(創世記11:32)
どういう訳でテラがそこに住み着いたのか分からないが、神の御心は、セムの子孫はカナンへ行くべし、というものだった事が、聖書の後の歴史を見るとわかる。

『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。』(創世記12:1-2)
私達も、神様から行けと命じられた時は、行くべきである。
いかに親や子が、家族が、そこに留まろうとも。そこが不品行と偶像礼拝に満ちているなら、なおさらである。
もちろん、さっさと家族を捨ててしまえという事ではない。明確な主からの召命が無い限りは、家族の元に留まって、家族の救いのため労するべきである。アブラムも、75歳まで父の元に留まった。
しかし、どうしても家族が主の御言葉に従わないなら、やがて主から「離れなさい」と言われる「時」が来る。
テラはカナンという目標があったのに、ハランで歩みを止めてしまい、結局そこで死んだ。それで、テラの歴史は、聖書ではたった5節で終わってしまった。
ずっと後のイスラエルの民も、カナンへ行きなさいと言われたのに、行きたくないとか、エジプトに帰りたいとか言い続け、やがて時が来てしまい、彼らは約束の地を見る事なく、荒野で死ぬ事となってしまった。

神様から「これをしなさい」「ここに行きなさい」と、道が示されているのに、それをしないまま、生まれながらの罪深い所や、自分の好む所に留まり続けるなら、次の道は、神様から決して示されない。
神様が右へ行けと言われ、右へ行くなら、はじめて、次の道が示される。それが神様の導き方である。
人がどうしても左が好きで、右に行かないなら、神様はその次は決して示されない。しかも人は、左の次へ行きたいのに、神様は中々、次の道を開いて下さらない、と、文句を言うものである。
しかし御心が右であるなら、その人が方向転換して右に行かない限り、次の道は決して示されないのだ。
主の御言葉は「足のともし火」とある通り、御言葉は先々を照らす強い光ではなく、足元を照らすだけの光である。人はその光の弱さを見て、心細い思いがするかもしれないが、むしろ、それで充分である。
なぜなら人は、主のご計画の遠い将来まで見てしまったら、その道は嫌だと言うのが関の山だからだ。
もしアブラムに、予め、子供ができるのは25年後で、その子は捧げなければならず、しかも生きている間に相続できるのは、マクペラの洞穴だけだ、と言われていたなら、彼も父の家を出ないでいたかもしれない。
御言葉のともし火にただ導かれ、その一歩一歩を信仰によって進み、その都度、導きを頂いて、着実に祝福の人生を歩んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ニムロデ − 神に敵対する狩猟者(創世記11:1-9)
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洪水以降、聖書はセムの家系を中心に展開されて行く。ノアの長子・セムの子孫から、全人類の霊的長子であるイスラエル民族が生まれ、さらに、全て信じて救われる者達の長子・イエスキリストが現れるのだ。
そのセムの系図の間に、人類にとって重要なバベルの塔の事件が挿入されている。
この事件の故に、人の言葉は混乱させられ、一処に集まろうとしていた人は、全地へと散って行った。
このバベルの事件の立役者は、ハムの孫・ニムロデ(名前の意味:反逆者)である。
『このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。』(創世記10:8-10)
聖書では、他の生物を思うままに狩って食する狩猟者は、良い者ではない。イシュマエルも、エサウも、狩猟者だった。しかもニムロデは、主の「前に(パウニム: 敵対して)」、力ある狩猟者だった。
彼の性質は、力で人々の上に登りつめ、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにする狩猟者であり、主の前に敵対的に立つ者であった。彼が建造しようとしたバベルの塔は、どのようなものであったか。

セムの子孫達は、東の高原地帯を定住地としていた。(創10:30) しかし彼らは東のほうから移動して来て、ハムの子孫達が住んでいるシヌアルの地に定住した。シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、すなわち後のバビロン、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国のものを奪って来(ダニエル1:2)、罪悪が安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
『彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。』(創世記11:3-4)
神に従う一族が、自分の所を出て、神に敵対する者達の力や知恵に魅了され、思想を一致させ、結託してしまうと、良くない事が起きる。ちょうど洪水前に、神の子達が人の女の美しさに魅了されて結婚したように、また、ロトがソドムやゴモラの地方にいざなわれて行ったように。
彼らは「全地に散らされる事を免れよう」としたが、それは「地に満ちよ」というノアへの祝福に反する。
また、神を脇に置いて「名を上げよう」という欲求は、まさにサタンの欲求である。サタンは、真に高められるべき神を差し置いて、自らが高い所に座をしめようとした結果、地に投げ落とされた。(イザヤ14:12-15)
人は高い建造物を作りたがるが、その背後には、自らが高くなりたいという高慢の他、洪水などの神の罰に対抗したい、という思いもあるのだろう。
かつて不従順のために洪水が起こった、だから神に従順しよう、という発想にはならず、だから高い建造物を造って対抗しよう、という発想になるのは、神に従順するのが嫌な者の思考パターンである。

『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事も「とどめ得ない(バウツァー:restain、抑制が効かない)」であろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。』(創世記11:5-7)
人が思いと心を一致させ、何事かに突き進む時、抑制が効かなくなる。
特に、欲望に従って突き進む、あるいは神に敵対して進む結果、人は、滅びを刈り取ってしまう。ちょうど、ノアの時のように。人は再びその過ちを繰り返そうとしたのだ。神はそれを防ごうとされたのだ。
神を離れて高ぶろうと結託する結果、もたらされるものは、混乱(バラル=バベルの語源)である。
人が、ニムロデのように力づくで他を支配し、神の座につこうと高慢になる時、そこには混乱があり、一人の人間の元に一団となって神に敵対するなら、神が直接介入し、その者どもを滅ぼされる。(黙示録20章)
神は混乱の神ではなく、平和の神である。(1コリント14:33) 人が神に服従し、神の栄光を伝えようとする時、聖霊が働いて下さり、言葉の混乱はなくなる。ペンテコステの時まさにそれが起きた。(使徒2章)
私達が一つとなる事ができるのは、ただキリスト・イエスによるのみである。(コロサイ3:9-11)
人の力づくによってではなく、主義主張やイデオロギーによるのでもなく、ただイエスというお方にあって一つとなる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!

セム・ハム・ヤペテ - 晒す者と覆う者(創世記9:18-29)
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洪水以前の罪深い人々は滅び去り、神の御前に正しいノアの家族から、人類は新たに増え広がって行ったが、早速、罪の性質が現れ始めた。今回はそのノアの3人の息子に焦点を当てて見てみたい。
『ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。』酒に酔う事は、長たる者のする事ではない。さばきを曲げるかもしれないからであり(箴言31:4-5)、酔って聖所に入るなら、死んでしまう危険があるからだ。(レビ10:9)
『カナンの父ハムは父の裸を「見て(ラアー)」、外にいるふたりの兄弟に告げた。』(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語「 ラゥアゥ 」は、じっくり見る、楽しみつつ見る等の意味がある。
父は一家の長であり、一家を祝福する祭司の立場である事を前回学んだが、ハムは、その父の天幕にずかずか入って行き、父が酔って裸で寝ている様を見つけると、それをじっくり見、楽んだばかりでなく、その光景を、兄弟たちと一緒に見て楽しむために誘ったのだ。
セムとヤペテは確かにそこに来たが、それはハムと一緒に父の裸を見るためではなく、覆うためだった。
ハムは、普段から父を敬わず、隙あらば弱みを握ってやろうと思っていたのだろう、父の恥を見た時、待ってましたとばかりに、そのような行動に至ったわけである。それに対しセムとヤペテは、普段から父を一家の長として敬い、祝福を祈り執り成していたからこそ、とっさの時に、その行動を起こしたのだろう。

『彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、/その兄弟たちに仕える」』(25節)
事実、カナンの子たちは、ノアが呪った通りの歴史となった。
エブス人やエモリ人、ソドムやゴモラ等、カナンの子孫たちは、不品行や同性愛、魔術や偶像礼拝など、神の前に悪を重ねたため、神はセムの子孫であるユダヤ人を通して滅ぼされる対象となってしまった。
また、ハムは黒色人種の祖先であると言われているが、歴史を見るに、まさにノアの呪い通りになっている。
ここから私達が学ぶべきは、父、あるいは祝福を授ける立場の人の、プライベートへ踏み込んで、露わな様をじっくりと見て楽しんだり、周りの兄弟たちに言いふらし、一緒に来て見るように招いたりするような者は、子々孫々とも呪われ、奴隷とされてしまう、という事である。
もちろん、父が呪ったからと言って(あるいは祝福したからと言って)宿命的にその通りになるわけではなく、本人自身が祝福に相応しい行動をとるなら祝福され、呪われるに相応しい行動をとるなら呪われるものだ。
ただ、はっきりしている事は、他人の裸や秘密や性的なスキャンダルが大好きで、それを探し、見つけ、他に共有しようとする者、そういう情報で盛り上がる者達の集いは、ソドムやゴモラのように不品行と暴虐に満ちて行き、呪いに相応しいものとされ、やがては、炎の裁きによって永遠の滅びへと至ってしまうのだ。

『セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。』(創世記9:23) 
敬うべき父が裸をあらわにしていたなら、目を向けず、かえって覆ってあげる人こそ、祝福される人である。
「セムの神、主はほむべきかな、/カナンはそのしもべとなれ。」(26節) 事実この祝福のとおり、セムの子孫からはアブラハムが出て、イスラエル民族となり、カナン人を滅ぼし、全人類の救い主イエスが出た。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(27節)
ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、「セムの天幕に住まわせ」の預言はまさに実現した。

兄弟姉妹が裸なのを見て着せてやるなら、それは主に対してそうした事であり、着せないであざ笑うなら、それも主に対してした事である。(マタイ25:31-46)
キリストの体の中で、かっこうの悪いと見られる器官があるなら、かっこうの良い器官がそれを覆い、そうしてキリストのからだ全体が調和を保ち、共に建て上げられていくのである。(1コリント12:22-27)
主にある兄弟姉妹のプライベートに入って、裸なのを見て楽しみ、あざ笑い、言いふらすハムのような者は、奴隷となり、呪いを産み、滅びを刈り取る者である。ハムのような者ではなく、セムやヤペテのように、兄弟姉妹の恥を覆い、憐れみ、祝福を受け継ぐ性質の皆さんでありますように。

父の日礼拝 – 聖書における父親像(エペソ6:1-4)
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本日は父の日である。そこで今日は、聖書の中では父は本来、どのような存在であるのかを学びたい。
父は一家の長である。なぜなら聖書には、子は父母を敬う事が命じられており(出20:12)、夫は妻の頭であると定められているからである。(エペソ5:23) それ故、父は、家族の長として、家族を霊的に正しく治める義務が、主から与えられており、家族もそれをわきまえて、父に接するべきなのだ。

聖書の中で、父親は、主の教育と訓戒によって子供を育てる事が命じられている。
『父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。』(エペソ6:4)
近年、日本では「友達親子」の風潮により、親子は上下関係より、友人のようなフラットな関係が良いという価値観が蔓延していたが、その結果、親の権威が失墜してしまった。年頃の女の子が、公の場で、平気で「おやじキモい」などと言っているのは、海外の人が聞けば驚き呆れるし、一昔前ではあり得ない事だ。
模範とすべき父親像が不在のまま、誤ったガイドラインで親の世代も子の世代も育ってしまった結果である。
この「主の薫陶と訓戒」は、御言葉というガイドラインに添って行うものであり、御言葉を知れば知るほど、主の教育は正しく行う事が出来、一家の長たる確信と権威が増し加わって行く。
父の最たる模範は、父なる神であり、ガイドラインは御言葉だ。それを自覚する一家は、祝福される。

天の父なる神の愛は、センチメンタルな愛ではなく、ストロングな愛である。
近年の日本の家庭で、特に無くなっているのは、子にむちを加える事である。それは今や体罰という名のタブーとなっているが、聖書は明確に、子から愚かさを除くためには、むちを加えるように記されている。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
愛には痛みが伴う。その痛みを乗り越えた向こう側の、さらに優れたいのちを得るために、一時の痛みを辞さない愛を、父なる神は、ひとり子を与えて下さった愛によって示して下さった。
アブラハムもそうである。今の日本では、アブラハムはあまりいい父とは言えないかもしれない。なにしろ、一人息子のイサクを縛って、薪の上に載せ、刃を向けたのだから。しかし、そのひとり子の死を辞さないほどの御言葉への従順が、イサクのその後の人生に、この上ない祝福をもたらしたのだ。

また、祝福される家庭となるために、父親は何より主を恐れるべきであり、一家の中で祭司となるべきある。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、信仰の父祖達は、例外なく主を恐れ、一家を祝福する祭司であった。
大富豪であるヨブは、子供達の誕生日の祝いが一巡する度に、彼等を呼び寄せ聖別することにしていた。
『彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。』(ヨブ1:5) このように、いつも子を覚えて祝福する一家は、大富豪一家の特徴である。
また、ダビデも家族を祝福していた(2サムエル記6:20)が、妻の一人ミカルは、彼を心の中でさげすみ、軽んじたため、一生、子が無かった。(2サムエル記6:16-23)
また、ノアの息子・セム、ハム、ヤペテのうち、ハムは、恐れ敬うべき父の天幕に入って行き、そこで見つけた父の裸をじっくりと見、兄弟たちに言いふらし、来て一緒に見るよう招いたため、父から呪いを受けてしまった。それに対しセムとヤペテは、父の裸を見ないよう後ろ向きに歩いて裸を覆ったため、祝福を受けた。
以上のように、祝福をさずける立場である「父」を蔑んだり、軽んじたり、その秘密をあげつらって、他に言いふらすような者は、子々孫々呪われるが、父を敬う人は、子々孫々とも祝福される。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
子にとっては、父母を敬うことが幸福の秘訣であり、妻は夫に従う事が御心であり、父は、父なる神に見習い、御言葉のガイドラインに従って一家を正しく治める事。それが、その家が繁栄する秘訣である。

何のために聖霊を求めるのか(使徒1:8)
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本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。
聖霊が主のしもべにもはしためにも与えられる事は、旧約の預言者達によって預言されており(ヨエル2章)、それを求めるように、また、待ち望むようにと、イエス様も命じられた。(使徒1章、ルカ11:9-13)
聖霊を与えて下さい、聖霊充満を下さい、と求めるクリスチャンは多いが、そもそもなぜ聖霊を求めるべきなのか、いざ聖霊が与えられたら、どうすべきなのかを知らない人が多い。
そこで、私達は何の為に聖霊を求め、その力を何のために用いるべきなのかを、今日、学びたい。

「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)
力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、地の果てまでイエス様の証人となる事である。
聖霊に満たされた弟子達は、何を伝え、表現したのか。それは始終一貫して、イエス様の事である。
そもそも聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハ4:2-3)
また、誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)

皆さんは、何のために聖霊を求めているだろうか。
特殊能力が与えられて大活躍したいとか、人の上に立って偉くなりたいとか、エキサイティングでスリリングな人生送りたいとか、そういう動機で聖霊を求めていないだろうか。聖霊が与えられるのは、まさにイエス・キリストをあかしするためであり、イエス様が抜けながら聖霊を求めるのは、全くのお門違いである。
聖霊は、その人を栄光化するのではなく、イエス・キリストを栄光化する霊であり、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この「自分から語るのではなく、聞くままを話す」という特徴は、イエス様の特徴でもあり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、自分由来の事は一切語らず、ただ上から与えられるままに語り、行動する。
弟子達は、ペンテコステ前は自分から語って色々な失敗をした。しかし、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)

ペテロもパウロも、どの弟子達も、迫害されつつも王や高官達に命がけで伝え、弁明した内容は、イエス様の誕生と生涯、イエス様の人格と品性、イエス様の十字架の死と復活、昇天、そして再臨についてだった。
聖霊が与えられるためには、まず、キリストの証人となる事の願いと情熱が必要である。
聖霊に満たされたいと願う人は、イエス様の誕生を、生涯を、イエス様の人格や品性を、イエス様の十字架を、死を、復活を、昇天を、そして再臨を、余すところなく伝えることができますように、地の果てにまで行けますように、迫害や死をも恐れずに、大胆にキリストの証をさせてください、と、祈るべきなのだ。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばして癒しをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。』(使4:29)
また、聖霊は聖なる霊である。自らをきよくする努力をしない者にどうして聖なる霊が宿って下さるだろうか。
『自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。』(ヘブル12:14)
そして、弟子達のように、聖徒達と共に集まり、神の都エルサレム(平和の土台)から離れず、共に熱心に祈って聖霊を求めるのである。それも、求め、探し、叩く気構えで、祈り続けるのだ。
『天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。』(ルカ11:13)
聖霊を求め、それも豊かに与えられ、迫害を恐れず地の果てにまで出て行き、主イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒し、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

ノア - 神をなだめ平和を実現した礼拝者(創世記8章)
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かつて、ノアとその家族を除く全人類は主の御前に甚だ悪くなり、主はノアの家族と、全生物のつがいとを取って、箱舟の中にかくまい、それ以外の全生物は、全て水によって滅ぼされた。
地球全体が大いなる死の水で覆われ、その上にぽつんと浮かぶノアの箱舟はとても心もとない存在である。
その中の狭い空間に閉じこもり、外の状況は全く見えず、箱舟の内壁しか見えない状況でただじっと待つ日々は、神様に見捨てられてしまったかのように思えたかもしれないが、神は、箱舟の中で息をひそめているノアと、生き物たち全てをしっかり心を留めておられ(8:1)、地のおもてに「風(ルアッハ:息吹、霊)」を吹き巡らせ、死の水を「引かせ(シャカク:中止する、なだめる、和らげる)」られた。
いかに全地に死の水が溢れていようとも、いかに傍らに万人が倒れようとも、神は、その御心に留めておられる全ての人は、陰府に捨ておかず、復活へと導いて下さるのだ。(詩91:7,16:10)

箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまったが、この日は、キリストが復活された日と同じ日である。同じようにノアと全生物も、いわば、死からの復活を経たのだ。『あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。』と書いてある通りである。(詩篇16:10)
ノアは、鳩が持ち帰ったオリーブの若枝によって、水が地から引いたのを知り、さらに、箱舟のおおいを取り除けて、地の面が乾いた事を知ったが、彼は自分の判断で出ることはせず、主が命じられるまでは忍耐して箱舟の中にとどまり、神の命令があってから、初めて箱舟を出た。
私達も、目で見る所によって判断してはならない。救いの箱舟の扉を閉めるのは主であり、その扉を開けるのも、主ご自身である。私達も、主の命じられる時を待つべきなのだ。

ノアが箱舟から出て、新天新地へ降り立った時、一番最初に行った事は、礼拝だった。『ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。』(20節)
彼のささげたこの礼拝は、その後の全生物にとって、とても重要な意味を持つものだった。『主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。』(21節)
彼は水という死を経、復活の後、神をなだめる全焼のいけにえによって神をなだめ、全生物を執り成した。
これは、キリストの予表である。キリストはご自分の血によってただ一度まことの聖所に入り、傷のないご自身を神に捧げ、その香りによって父なる神を完全に宥め、永遠の贖いを成し遂げた。(ヘブル9:11-15)

「神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」(9:1)
このノアへの祝福は、創世記1章の祝福に似ているが、違う所がある。1章では人の食べ物は草木だけだったのが、ノア以降は、生きて動いているものも、食物として許され、また、1章では、全生物にとって、人間は正当な支配者だったのに、ノア以降、全生物にとって、人は、恐れおののく対象となってしまった。
ノアが降り立った新世界は、洪水以前の世界と比べて、大いに違っていた事だろう。
「大空の上」の水という表現は消え、代わりに「雲」が登場するようになり、また、人の寿命はどんどん短くなり、生物にとっては、より過酷な世界となったのだろう。しかし主は、新しい希望の契約も定められた。
「わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。」(9:14-15)
ノアはこうして、信仰によって箱舟を造り、多くのいのちを救って新天新地へとながらえさせ、新しい地に降り立った時には、真っ先に礼拝し、なだめの供え物を捧げて神をなだめ、平和の契約を得た。
主は、虹を見られるたびに、平和の契約を思い起こされるが、私達は忘れてはならない。
当時の世界は水によって滅んだが、今の天地は火で滅ぼされるために取っておかれ、不信心な者達が裁かれ滅ぼされる日まで、そのままにしておかれる事を。(2ペテロ3:6-7)
だから私達も、ノアのように、全ての事を礼拝によって始め、キリストにあって人々を執り成し、祈り、神から遣わされた使節として、キリストにあって神と和解する福音を宣べ伝え、多くのいのちを新天新地へと生き長らえさせる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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